• 2007.10.16

    エッセイ087:五十嵐立青 「アメリカ滞在記(その1)」

    2007年1月29日から2月10日の2週間の日程で、財団法人日本国際交流センター、国際交流基金、米国青年政治指導者会議(American Council of Young Political Leaders:ACYPL)共催による「日米青年政治指導者交流プログラム」の第20回訪米団の一員として渡米する機会に恵まれた。ここでは、プログラム中に出会った「アメリカ」と「アメリカ人」を描写してみたい。   ①ホワイトハウス前の反戦老女と民主主義   ホワイトハウス前には、30年近く住み込んで反戦を訴えている老齢の女性がいた。日本の新聞を片手に彼女の活動が日本でも紹介されたことを訪米団に訴えていた。ロシア系アメリカ人の観光ガイドは「ここは民主主義の国アメリカだから、彼女は何十年間もホワイトハウス前の一等地で反戦の主張をすることが許される」と誇らしげに語る。米国の民主主義を説明する観光スポットとして利用されているとも捉えられる彼女は確かにアメリカ国民であるが、アメリカの積極主義に明確に反対をしていることは疑いないだろう。   ②職域の流動性   その老女が抗議を続ける眼前にそびえる白塗り建築物の内側では、米国の様々な政策決定が政治家と政策スタッフによって行われている。大統領が変わることで大統領府の主要スタッフが事務部分を除いて全て入れ替わる。ホワイトハウスの人事担当者は、共和党政権でレーガンとブッシュ(第41代)に仕え、民主党のクリントンが就任した際にホワイトハウスを離れ、ブッシュ(第43代)の就任と共に呼び戻されたと話していた。徹底したリサーチを行うことで有能な人材を確保する。ホワイトハウスの政策スタッフの背景はみな違っていたが、多くは民間会社での経験、あるいは自らビジネスを起こし成功を収めているし、人事担当官はNPOなどのより広いキャリアからも人材を求めていることを主張していた。国家の中枢をなす組織において、このような人材の流動性が示されることは、米国社会に職域への固定観念が存在しないことの象徴であり、公と私を含めた移動も容易に行われることを意味する。   ③デューク大学の公と私   公と私の垣根の低さは、大学にも見て取れる。デューク大学は、研究補助金以外は政府から一切補助金を受け取らない私立大学である。その私立大学の学是は、「ノースカロライナに優秀な人材を輩出し地域に貢献すること」であった。米国の医療従事者の育成システムは日本と違い、メディカルスクールに入るためには通常の学部卒の資格が条件となる。医学部長によれば、18、9歳の少年少女は、自分が医師になりたいかどうかなど本質においては分からないというのである。ロースクールにおいても同じ制度が採用されている。このことは逆の見方をすれば、社会的責任のある立場につく人間であるほど、未来を自らの意思と選択によって獲得する必要があり、それを社会に還元することを求められているとも言える。社会的責任とは既に公共との接点であるが、その責任を果たすためには自己を確立していることが絶対条件となるのであろう。   ④移民としてのキシモト=ヨリコ市長のアイデンティティ   それでは、自分を確立するとはどういうことであろうか。日本で生まれて、幼少の頃米国に移住したパロ・アルト市のキシモト市長は、初の「日本で生まれた」米国自治体の市長である。パロ・アルト市では市議の互選で市長が選ばれるが、市議選の投票のうち7割近くの得票を得たキシモト氏が市長になるのは必然であった。選挙戦略としてキシモト市長の周囲からは「米国名を持つ夫の苗字を使うべき」と言われたが、本人は自分の日本人の名前を使い続けることにこだわったとのことだった。日本人が決して多くない街で、それは有利になることではなかったのであろうか。日本名を通じて有権者に伝わったものはその意思であったのか、あるいは有権者は名前よりも政策によって投票したのか、それを知る由はないが、一つ確実なのは、有権者はキシモト=ヨリコという一人の「アメリカ人」の存在を受け入れたことである。キシモト市長と話をしている間、自分が誰を代表しているのか、自分は誰なのか、というアイデンティティは、常に明確なメッセージとして伝わり続けた。   ⑤ACYPL卒業生の使命と帰属意識   アイデンティティという意味では、滞在中各地でプログラムの日程調整を行ってくれたACYPLのコーディネータの経歴は様々であったが、自分が何者であるか、という点を明確に主張することは同様であった。現在の仕事への使命感は持っていても、それが所属する組織への忠誠心とは直結するものではなく、組織は自分を守ってくれる存在ともならない。どのような積み重ねを行ってきて今の自分があるか、について謙虚さを示しながらも話をすることにためらいを持たない。とりわけ、自分のキャリアで特化してきた部分、あるいは自分の専門分野については、通常の会話においても強調されることが多かった。専門性とは、人種的バックグラウンドと同様程度までに、あるいはそれ以上にアイデンティティを形成しているように感じられた。   ⑥個人の専門性と組織としての効率   専門性は、行政の現場においても大きな意味を持っていた。サンフランシスコ市では、日本を良く知る市長室国際貿易・通商担当ディレクターが対応し、米国の行政制度が日本といかに違うかという視点から説明してくれた。米国ではシティ・マネジャー制度を採る市、市長・議会制を採る市など多様である。その中で共通しているのは、行政官の持つ専門性である。彼自身が国際貿易を担当し続けて市長室のディレクターとして4代の市長に仕えているとこのことであったが、米国では日本のように定期的な部署の異動はない、と強調していた。都市計画関係の企業で働いていた人間が市役所で働くことになって財政部にまわることはない。工学を学んで来た学生が採用されて、法務部に行くこともない。2年、3年で部署が異動することは米国の感覚で言えば極めて非効率的・非合理的なことである。このような仕組みに、専門性を持つ人間が一人前の市民としての評価を受け、上昇していく社会構造の一部が見て取れる。   ⑦市民となり得ない個人   その一方で、個人主義・自己責任の枠から漏れた人々にとっては、厳しい社会であることも事実である。ノースカロラナイでのコミュニティクリニックに関する説明で話されたように「DVの彼(夫ではない)を持つ薬物中毒でエイズのシングルマザーの子ども」が病気にかかっても、母親にとってその子の治療の優先順位は極めて低く、社会から断絶された状況が続く。そのような境遇に置かれている個人にとっては、スタートラインに立つことも困難である。   結果として競争のチャンスも与えられず、社会から阻害されている人々や、移民として米国に来ながらも適応できない人々がどのような困窮の立場にあるか、と言う話は各州・各自治体で聞いた。日本で格差社会と言えば、労働者の賃金格差から来る家計の圧迫の議論が中心であり、明日の生活のあてがないホームレスや生活保護世帯が中心とはならない。米国には、比較にならない格差が存在している。訪米団として接したメンバーは、その上流にいたことは間違いなく、いわゆる市民社会を形成している側であった。「市民」の言葉に包摂された階層が都市部の合理的な判断可能な裕福層であった19世紀半ばのヨーロッパにおけるように、その「市民」(定義の仕方によっては、現在の米国のほうがより狭い定義になる可能性もある)の枠から外れれば、やはり境遇は当時のヨーロッパと相違ないかもしれない。    ⑧市民となり得ない個人を救う市民   そのような人々を救う活動もある。デューク大学の医学部においては、貧困層の初期治療をボランティアで積極的に行っている。当然弱者を守るという理念があるが、安易な理想論のみが存在しているのではない。現実に、早い段階で地域クリニックにおいて医療サービスを適切に提供することで、救急患者を拒否できず忙殺される大学病院に時間を生み出し、本来果たすべき高度医療を維持する。そのような役割分担を目指した活動が行われている。弱者を守るという医療従事者としての心構えがあり、それが同時に大学病院にも地域にも貢献することになる仕組みがある。 (つづく) -------------------------------------------------------------------- <五十嵐 立青(いがらし たつお)☆ Tatsuo Igarashi> つくば市議会議員。1978年生まれ。筑波大学国際総合学類を卒業後、University College Londonで公共政策修士号取得。2004年より筑波大学に戻り、国際政治経済学博士号取得。アカデミアの理念と現場のリアリティをつなぐ活動を展開中。 --------------------------------------------------------------------
  • 2007.10.12

    エッセイ086:ボルジギン・フスレ「日本語を通してみた日本文化(その2)」

    日本に来る前、わたしは、日本語は、外来語が多くて、覚えやすいと思っていた。また、あるスピーチで、外来語の大量輸入、ローマ字まで容易に日本語に取り入れていることと、外来語でもない、新語(和語)の出現は、日本人の進取の精神と、現代社会における日本人の新しい生活感情、価値観をあらわしていると述べた。しかし、日本に来て、外来語は想像したより遥かに多いことにびっくりした。これほど増え続けている外来語、新語は、わたしのような愚かなものにとっては、覚えるのが追いつかないのだ。   日本に来た1998年には、「だっちゅーの」ということばが、日本中を席巻し、当該年度の流行語大賞に選ばれた。当時、わたしは同じゼミの日本人の大学院生に「だっちゅーの」の意味を聞いたのだが、みんな「わからない」と答えた。大学の教授に聞いても、答えは同じだった。辞書を調べてみると、この語についての説明は見当たらなかった。やっとバイト先で答える人があらわれた。20代のTさんは「“だっちゅーの”は、“そうですよ”の意味です」と説明してくれたが、50代のGさんは「違う、違う、“だっちゅーの”は“いいですよ”の意味だ」と異なる意見を言い出し、二人が言い争った。いずれもそれほど説得力がなかったが、聞いていて面白かった。そし て、翌1999年に入ってまもなく、「だっちゅーの」ということばは、世のなかから、静かに消えてしまった。   流行語の意味もわからず、流行して、またすぐ世のなかから消えるのに、「流行語大賞」に選ばれるなんて、理解できなかった。そんなある日、バイト先で、みんなが仕事を終えようとしたとき、厳しい上司がやってきて、ある仕事に手がつけられていないことに気づいて、「なんでそれをまだやっていないのだ」とたいへん怒った。職場は一瞬静まり、緊張した雰囲気になった。その時、あるおばさんがひとしきりギャグを飛ばし、両腕で胸をはさんで、ポーズしながら、「だっちゅーの」と言ったので、みんな大笑いした。上司も笑って、やさしい声で「速くやろう」と言いながら、先頭にたって仕事を始めた。このことばがなかったら、上司に叱られるところだったが、 おばさんの「だっちゅーの」の一言が、心を和ませてくれ、みんな楽しく働いて、時間通りに仕事を終えることができた。人々が「だっちゅーの」ということばを忘れかけようとしていたところ、おばさんが上手にこのことばを使った。「馬鹿、馬鹿」などと汚いことばを連発する日本のテレビの司会者やタレントに欠けているのは、まさにこのような機知とユーモアだろう。   その後の、毎年の「流行語、新語大賞」に選ばれたことばは、それぞれ特徴があるのだが、わたしにとってもっとも印象に残ったのは、2005年の「想定外(内)」ということばだった。2006年には「美しい日本」ということばが、入賞だと思ったが、叶わなかった。ふさわしくないのか、恥ずかしいのか、あるいは別の原因なのかわからないが、わたしは伝統的な日本語の美しさを求めたいのだ。日本人はずっと季節感に敏感で、自然を愛することを誇ってきた。豊かな自然の姿を表現する季語がたくさんある。日本語の美しさはただ古典的な俳句や和歌、諺のなかにだけとどめておくべきではなく、新しい形式で、現代日本語にあらわれるべきだとわたしは思っている。   随意に流行語を忘れてしまうことと、柔軟に外来語を受け入れることは、日本人の「新しいものを好み、古いものを嫌う」という面を反映しているのかどうかはっきりは言えないが、「鋭意進取」と「古い考え方にこだわる」という特徴が同時に日本の社会に存在していることは事実だ。しかしながら、外来語や外国人を積極的に受け入れているとしても、国際化を一層進めていくためには、異なる価値観を受け入れる包容力のある社会をめざさなければいけないのではないかと思う。   最後にここで、わたしが日本に来たとき、大先輩のSさんのわたしへのアドバイスをとりあげたい。すでに日本に帰化しているSさんは当時まだ大学院生だった。彼女は、日本の政治家、活動家、投資家とも仲がよく、留学生のなかでの有名人だと言われていた。「日本でうまく、生き残りたいなら、ふたつの秘訣を覚えてください」と、当初、Sさんはわたしに意味深長に言った。「一番目は相手を誉めること。自分の友達であり、ライバルであっても、まず誉めなさい。人を誉めるのはお金がかからない。相手がどんなに小人であれ、馬鹿であれ、自分にとってどんなに敵であれ、嫌いであれ、気にせず、美しいことばを惜しまず、相手を誉めてください」。   この話を聞いて、わたしはびっくりした。「常に“嘘をつく”という意味ですか?」と聞いたら、「そんな露骨に言わないで。とにかく相手を誉めることは大事なんです」とSさんは笑いながら、続けてつぎのように2番目の秘訣を語った。   「第二に、日本に来て、頑張らなければならないけど、どんなことをしても、日本人と競争しないことを覚えてください。一位は日本人に任せて、自分はいくら頑張っても、せいぜい二位まで頑張ってください。二位だったら、あなたは魚が水を得たように、順風満帆になります。しかし、一旦、一位になると、きっと追い詰められ、集まって攻撃され、寸歩も進みがたく、窮地に陥ることになるでしょう」。 「しかし、日本は競争社会であって、頑張らないと淘汰されてしまいませんか」とわたしが聞くと、 「頑張らないということではなく、頑張るのはもちろん頑張るんですよ。でも、一位になったら、生き残ることができない。二位だったら、みんながあなたを助けてくれるでしょう。だから、すべての人を超えて、一位になることは絶対にさけなさい」とSさんはたいへんまじめに言った。   わたしの性格が短気で、何をしても腕を鳴らし、勝ち誇るという性格を知っているから、Sさんにそのように言われたのかもしれないと思ったが、とくに気にしなかった。しかし、日本で生活して10年経って、Sさんの苦言は道理のある優れたことばだということがわかった。   たしかに、日本では、心ならずも相手を誉めるのが普通のことだ。例えば、買い物する際、お客さんが商品にいくらうるさくても、店員がいつも微笑んで対応しなければならない。顔が笑っていても、心は笑っていない。知り合いや、近所の人々と会うと、なんだかかんだか、些細なことでも誉められる。また、「君、頭がいいね」と言われた際、誉められたというより、皮肉を言われたと感じることが多いように思う。   Sさんが言った2点目はことばと関係がなさそうだが、実際、日本では、「一番になりたい」と言う人が極めて少ない。一位になっても「自分は一番」と言ってはいけない。そう言ったら、高慢に見られるし、さらに嫌がられてしまうのだ。例えば、相撲で連勝した日本人の力士がアナウンサーにインタビューを受けて、「目の前に優勝も見えてきたが、優勝するという気持ちは?」と聞かれた際、「そんなことは考えたことがない」と謙遜して答えるのが普通である。しかし、それは大嘘であることは明らかだろう。力士として、誰でも優勝したいし、優勝を目指すのは当然なことではないか。優勝を目指さない者は優秀な力士にはなれない。しかし、日本では、謙遜して答えるのが、品格があるようにみえる。   「日本の文化を理解してくれ」と言う日本人は少なくない。確かに、日本の文化は学ぶところが多いが、わたしにとっては、「相手は小人であっても誉める」「心ならずも人を誉める」のは、どうしても受け入れがたいことである。   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ☆BORJIGIN Husel> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------  
  • 2007.10.10

    エッセイ085:ボルジギン・フスレ「日本語を通してみた日本文化(その1)」

    このテーマを書いて、自分も笑った。テーマが大きいだけではなく、わたしの専攻は言語学ではないので、日本語もそれほどうまくない。「釈迦に説法」と知っていながら、わたしはあえてこれをテーマにする。素人だから、笑われてもかまわない。   日本に来る前、専門家たちによって書かれた日本の文化についての本を読んだとき、「日本人は曖昧な民族で、日本文化は曖昧な文化だ」ということばをよく目にした。しかし、どこが曖昧なのかがよくわからなかった。日本に来て、本格的に日本人と付き合い始めてから、だんだん「日本文化の曖昧な」ところがわかるようになった。それは、最初、日本人とコミュニケーションをとるときに使う言葉自体を通して、強く感じたのである。   来日当初、わたしは池袋のある会社でアルバイトをした。会社は職員に朝食を無料で提供することがわかっていたので、わたしは一日目、何も食べずに出勤した。食堂で、みんなに挨拶した際、「フスレさん、朝食はどうですか」とわたしのパートナー、60代のYさんに聞かれた。「はい。いいです」とわたしは答えた。着替えてから食堂にもどって、朝食を食べようとテーブルの前に座ったら、Yさんはテーブルの上のパンや玉子などをすべて片付けてしまっていた。おかしいな、パンを食べたいのに、どうして片付けてしまったのだろうか、もしかして自分は着替えで時間かかりすぎたのかと不思議に思った。しかし、時計をみると、働く時間までまだ15分ぐらいの余裕があった。結局、朝食をとらず、空腹のままで働いて、昼休みまで我慢した。それ以降、わたしは、いつも家で食事をしてから出勤するようになった。   のちに、わたしはここでの「いいです」は「否定」の意味だということに気づいた。日本に来る前、わたしは「いいです」ということばを習ったことがあるのだが、「先に食べてもいいですか」「いいです。どうぞ」のような使い方だった。すなわち、「認め、許可、よい」として理解していた。「いいです」は「否定」「いらない」という意味もあるとは思いもよらなかった。日本人は、子供のときから慣用として固定してしまった言い方だから、「不思議」と思わないが、はじめて日本に来たわたしには、曖昧で、理解しがたかった。簡単なことばだが、使う場面により、意味がまったく異なる。   同じような例は、日本語の挨拶のなかにも存在する。家の近くに住んでいるおばあさんとあう時、彼女はいつも常套句の「ごめんください」という挨拶から、話が始まるのである。しかし、話し終えて別れる際、彼女もいつも「ごめんください」と言う。これは矛盾じゃないかと思って、辞書を調べてみたら、「ごめんください」は、訪問、辞去、断り、あやまるときなどの表現だ。   日本語を使えば使うほど、その奥深さがわかる。だから、「日本語は曖昧ではなく、あまりにも明晰すぎる」と主張する人もいるのだ。実は、よく考えると、どこの国の文化にも矛盾の面がある。日本の文化を理解するには、日本語が上達する必要があるのだ。日本での生活に慣れるにしたがって、日本人は話をするとき、言葉遣いには慎重で、婉曲な表現を使うのが好きであり、ことばには含蓄があるということがわかった。これは、日本人からすれば、美徳とも言えるのだが、外国人には、それは曖昧で、複雑すぎると思われる。   冒頭のバイトの話に戻ろう。その会社で働き始めたら、さらにさまざまなトラブルがおきた。はじめて、ある機械を操作した際、Yさんが、わたしに「グリーンしてください」という指示をだした。「グリーン」ということばを聴いて、ちょっと戸惑ったが、すぐ「グリーン」は緑色を指しているとわかった。しかし、機械のスイッチを見たら、赤、青、白色のスイッチしかなかった。「緑色のスイッチはどこにあるんですか?」とわたしが尋ねると、「真中、真中のスイッチが見えないの?」とYさんは声を荒らげた。「真中のスイッチは青色だよ」と、色盲ではないわたしは確信して言った。「そう、それだよ。それを押して」とYさんがやってきて、自らその青色のスイッチを押した。青色なのに、なぜ「ブルー」ではなく、「グリーン」というのかが、わからなかった。逆に、日常生活で、緑色の信号なのに、日本人はみんな「グリーン信号」と言わず、「青信号」と言う。わけがわからない。   色に関する表現と言うと、たくさんの事を思い出す。約7年前、わたしが別の会社で働いていた時、その会社は内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入することをきめた。サンプルを取り寄せたとき、社員たちが教えてくれた色の中には、オフホワイト、シアン、ラベンダーのほか、水色、狐色、ネズミ色などもあった。水色は「薄い青色」なのか、「薄い緑色」なのか、あるいは「白でもない、青でもない、透明な色」なのかがわからなかったため、ある社員に聞いた。その社員は「空を想像すれば、わかる」と答えた。知恵に満ちた答えだが、日本では「澄み切った青空」とよく言うので、その色はやはり水の色と違うのではないかと思ったわたしは、さらにネズミ色はどんな色なのかとその社員に聞いた。彼の説明によると、ネズミ色はどうやら「灰色っぽい色」だった。「しかし、うちの故郷のネズミは灰色のものもいれば、淡い褐色や普通の褐色のものも少なくない」とわたしが言うと、「君のふるさとのネズミは特別だ。国際的には、ネズミの色は灰色だ」と教えてくれた。   「なるほど、よく勉強になった」とわたしは「納得」しながら、「日本ではゴキブリが多いから、“ゴキブリ色”はないですか」と聞いた。その社員が「“ゴキブリ色”って、気持ち悪いじゃない。そんな日本語はないよ」と答えた。しかし、わたしが「ネズミ色」ということばを聞いても、「気持ちが悪い」と感じるのだ。   とは言え、仕事は仕事だ。わたしは一生懸命、辞書やインターネットなどを利用して、何とか彼らが作成した文書を翻訳した。ところが、内モンゴルのカシミヤ会社の担当は、わたしが送った文書の中の色についての説明をみて、なかなかわからなかった。幸い、相手はすぐ、カシミヤで作った、実物の色見本を送ってきた。そこには、百数十種類の色見本があって、それぞれ番号がついていて、発注するのに極めて便利だった。   のちに、仕事になれるにつれて、わたしは日本語では、色に関する表現は非常に微妙であり、可能な限り、自然のものの色で、色を表示する習慣があるのがわかった。例のネズミ色には、実際、「梅鼠(うめねずみ)色」「茶鼠(ちゃねずみ)色」「藍鼠(あいねずみ)色」「錆鼠(さびねずみ)色」「利休鼠(りきゅうねずみ)色」などがあって、それぞれの色の微妙な差を区別している。「ネズミ色」より、「梅鼠色」などのほうが、わかりやすいのだ。色をここまで細かく分類しているけれど、今の人々は、どれほどそれぞれを区別できるのか、わたしは疑っている。   ここで述べたことは皮相なものにすぎないとわかるのだが、ある意味では、皮相なものこそ本質をあらわしているのではないかとわたしは思っている。(つづく)   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------
  • 2007.10.05

    エッセイ084:韓 京子「都羅山駅」

    韓国は今、ある女性の学歴偽造(詐称)問題の話でもちきりです。ごく最近はマスコミもちょっと行きすぎじゃないと思われる部分が大きくなっているように思われます。日本でも耐震強度偽造問題で姉歯元建築士がかつらだ(髪も偽造していたと)ということがより話題になることもありましたが、本末転倒になり本題を忘れかねない状況になっているともいえます。   彼女は韓国の高校を卒業した後、ソウル大学に進学し、アメリカに留学。カンザス大学で洋画、版画を学び、エール大学で美術史の博士号取得(韓国初)したということのほとんどが詐称でありながら、権力層の後援、擁護によって 数々の有名美術館の主席学芸員から大学助教授、有名美術館の学芸研究室長などを歴任し、有名な光州ビエンナーレの最年少芸術監督に成り上がることができたらしいということです。実力より学歴重視社会であることも問題ですが、まだまだこんなことが可能だという社会に苛立ちを覚えます。   今日は美術つながりになってしまいますが、美術にはまったく無関心だった私にとって美術を通して世の中を見るということを学ぶきっかけを作ってくれた先生についてお話します。母校の大学を定年退職された西洋画の先生ですが、パフォーマーでもあるちょっとユニークな方です。お名前からしてユニークで「イ・バン」。漢字で李蕃なのですが、苗字だけ漢字で下の名前は必ずハングルで表記します。蕃は韓国が植民地だった頃付けられた名前(しげる)をそのまま残したそうです。この字には野蛮な、未開なという意味もあるとかで……。   この先生が韓国と北朝鮮間を連結する鉄道の韓国側の最北端駅である「都羅山」駅の壁画(といっても壁に貼られたアクリルペインティングの絵画って感じですが)の制作を任せられていたらしいのです。それを見に行こうとお誘いがあり、学校の関係者と行ってきました。都羅山とは、新羅の最後の王、敬順王が高麗に降伏した後、新羅の都慶州を偲んで涙を流したことが地名の由来だといいます。折しも七年ぶりの南北首脳会談が開かれ、韓国からの代表団が空路ではなく陸路を選択したためこの駅を経由しています。また、メディアの特設スタジオも置かれているなど、今ちょっと話題の地でもあります。南北民間人統制区域内にあるため、途中にある関門で武装した軍人さんが車内(スクールバス)に入ってきて住民票を確認したり、人数の点検をしたりしていました。ここから北は「統一村」って呼ばれる、納税も、徴兵も免除される特殊な地域らしいです。恥ずかしいことにこの村の存在をはじめて知りました。   この先生はもともと、「DMZ(demilitarized zone、韓国と北朝鮮間の軍事境界線周囲に設置されている非武装中立地帯)芸術文化運動」の旗手として活動していて、DMZ内の自然保全運動や、分断された祖国のことに真摯に取り組んでいます。 しかし、あいにくにも最近は特に若い世代では祖国統一の問題を深刻に捉えていないように思えます。都羅山駅は、「南北出入事務局」(「出入国」ではなく)があったり、武装した軍人さんの点検を受けたりと、南北分断の断面を見ることができる場所ではあるのですが、銃すらおもちゃのように見えてしまうような平和、平穏な世の中となってしまったのでしょうか。帰りのバスの中で南北統一について聞かれたほとんどの学生が特に興味を示していないという現状に、先生はもどかしさも感じつつ理解もしているように見えました。   駅構内の壁画自体は、駅がメタリックな感じなのと、絵に託された内容が重くてあまり素敵とは思えませんでした。(先生、ごめんなさい)その他、林を開拓したアジトのような自宅のある安城市(今は韓国の有名な文化人・芸術家の住居が多く、芸術村化しつつある)の貯水池の壁、水門も壁画にしてしまったり、自然をキャンバスにしてしまう、いたずらっ子のような先生です。   今年は久々に展示会が開かれます。「人が描けなくなっちゃって」と何年も作業場に閉じこもり「人」と向き合ったそうです。その結果が、ソウルの芸術タウン、大学路にあるアルコ美術館にて代表作家招待展<Arco- Choice イバン The Eco-echo-body>という企画で10月から一ヶ月間展示されます。都羅山駅は観光コースでもありますので、ご興味のある方はあわせてどうぞ。     ----------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員 -----------------------------------------  
  • 2007.10.03

    エッセイ083:梁 蘊嫻 「いつも笑えるように」

    この夏、アジア21世紀奨学財団の「森林文化と伝説の世界・熊野」というワークショップに参加した。この旅は私の人生の中でかけがえのない思い出になった。旅で出会ったさまざまな人々や物事を少しずつ言葉にできるように努力してゆきたいと考えている。   一週間にわたるワークショップでは二泊三日のホームステイが企画されているが、今回はホームステイでの出来事を皆さんと分かち合いたい。私がお世話になったのは栗須家であった。ホームステイの最終日に、私はお母さんと一緒に栗須家の神様・天御院(せんぎょいん)神社を掃除に行った。お母さんは外出の支度をしながら、この神社の由来を教えてくれた。   昔、天御院さまが高地から遠くを眺めたら、洪水が村のほうへ向かっているのが見えたので、すぐさま村の人々に知らせた。そのおかげで全員無事に避難でき、今の地域へ移り住んだ。人々は天御院に感謝の念を捧げるために、小さな神社を建てて交代でお祭りをしていたが、いつの間にか栗須家が月に一回お参りに行くことになった。   神社は山中にあるが、私たちは車で10分ほど走って山道になるところから徒歩で向かう。小道に沿って、杖で草むらをかきわけて攻撃的な野生動物がいないことを確認しながら山の奥へ入った。途中、お母さんは供え物にするために山中に生えている榊の葉を切り取り、さらにしばらく進んで目的地に到着。すると、神壇の前に誰かがすでに榊とお酒を供えてくれていた。土地の神を尊崇する気持ちは地元の人々の間で自ずと生じるのだろう。互いに見知らぬ人が神社を通じて心の交流ができたような気がして、私は思わず微笑んだ。   お母さんは丁寧に神壇を掃除し始めた。神壇をきれいにした後、榊、米、水、菓子、果物、そして生卵を供える。生卵をささげるのは天御院が蛇だからだ。蝋燭を点したら、火が踊っているように勢いが強かった。私がお参りに来たから天御院さまは喜ばれているとお母さんは言った。私もなんとなく神様に気に入られたような気がした。   私たちは敬虔な心で拝んだ。私は天御院に学業成就の願をかけたが、お母さんはここへお参りに来るたび、自分も家族も毎日笑えることを祈ると言った。「いつも笑えるように」とは、なんと素朴な願いだろう。それにも実はいろいろな意味が込められている。いつも笑えるというのは家族全員が健康でいること、危険な目に遭わないこと、生活すべてが順調であることを意味する。実にありとあらゆる方面に行き渡ったお願いなのである。   祈願した後、生卵を竜神へ届けるため、殻を割って中身を河に流すという儀式を行なった。河に流れていく黄身を眺めているうち、竜神のところへちゃんと届くようにと真剣に願っていた自分に気づいた。   家に帰ってもお母さんの言葉をよく思い出した。自分が月に一回お参りに行かないと、なんとなく不安な気持ちになる。そしてお父さんは無神論者だけど、天御院にだけは必ずお参りしなければならないと言っている。お母さんの言葉を聞いて、無宗教の人であっても、人間は土地の神様にもっとも依存していることをつくづく実感した。それはキリスト教や仏教のような体系的で深遠な教義を持つ信仰とは異なり、人間が普遍的に抱いている自然に対する尊崇の心であろう。   土地の神様といえば、台湾で代表的なのは「土地公」である。名前どおり土地のお爺さんという意味である。土地公は正式には「福徳正神」といい、常に土地婆(女房)とセットになっている。土地公廟はどこに行っても見かけることができ、人々の生活に密着している。土地公廟は魔除けとしてお墓のそばや、田の畦にひっそりと立っていたりする。人間が入れるほどの大きさもなく、土地公・土地婆像がちょうど安置できるような社である。見た目こそ目立たないが、土地の人々にとっては重要な存在である。   土地公廟のことで亡き父親のことを思い出した。十年前私が日本への留学が決まったときに、父親は家族全員を集めて近所の土地公廟にお参りに行った。当初、私は父親の挙動を不審に思っていた。まず、父親は特に宗教心が強いわけではなかったから神様にお願いをすることが不思議だった。そして、町内にあるもっとも有名な廟は、建立されて百年以上の由緒を持つ関帝廟であるにもかかわらず、地味な土地公廟に参詣したことも不可解だった。今にして思うと、土地の神様が一番よく私を見守ってくれると父は信じていたのであった。   考えてみれば、日本と台湾は土地の神に対する考えがよく似ているところがあることに気づいた。そして、親心もまったく同じだ。当時、何を土地公に祈ったかを父に聞きそびれたが、きっと嫻妹が日本でいつも笑えるようにと願ってくれたのだろう。   ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんけん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、今年度提出予定。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 -------------------------------  
  • 2007.09.28

    エッセイ082:葉 文昌 「オリンピックよりも盛り上がる四年に一度の台湾総統選挙」

    台湾ではあと半年足らずで四年に一度の総統選挙が始まる。この時期にもなると、総統候補に纏わる記事が毎日紙面を賑わすようになり、更に毎週末のスタジアムは政治集会の民衆で溢れ、耳をつんざくほどのラッパ音と歓声がどよめく。支持候補は藍(国民党の色)か緑(民進党の色)か?スポーツで盛り上がる機会があまりない台湾人にとってこれはオリンピックよりも盛り上がる四年に一度の全民挙げての一大イベントなのだ。   普段から話題や趣味の多様性が乏しいこともあってか、選挙が来れば話題という話題は政治一色となる。学食で食事していればどこからか中年の男が現れて支持候補者の褒め話と対立候補の悪口を言ってくるし、タクシーに乗れば、運転手からも同じ目に遭う。(客との言い争いが発展して「降りろ。お前なんか、車に乗せるもんか」となることも度々あると運転手から聞いた。) また、親類、友人、隣人同士でも支持政党に対する言い争いでわだかまりが生じる。台湾の国会議員は国会の殿堂で乱闘をするが、あのような議員がいられるのはそのような国民がいるからである。民衆を台湾では有権者と言うよりもフーリガンとしたほうがしっくりくるかもしれない。   ここまで読むと皆さんは、「台湾の民主主義は茶番劇だ」と思うかもしれない。確かにこれだけでは茶番劇だ。しかし台湾の民主主義による政権交代は、いい面も多くもたらした。一番大きいのは金権との癒着が少なくなったことだろうか。近年では予算を不正使用した政治家、粉飾経理やインサイダー取引の疑いの財閥トップ等が相次ぎ家宅捜査を受け、起訴されている。これまでは政治家や財閥にメスが入るのはあまり考えられなかったので社会にとって大きな進歩である。更に言えば候補者が国民にとってより等身大になったことである。民主化されていなかった数十年前の台湾においては、蒋介石等の独裁者は情報操作によって神格化されていた。ネガティブな情報は抹消され、国民は言いたいことが言えないので、指導者には問題が反映されずに社会の各階層で歪みが蓄積される。これでは社会の健全な発展は難しい。民主化後、台湾の指導者は等身大になったことで、誰でも問題点を言うことができるようになった。   以上、台湾の民主主義を紹介した。台湾は中華の辺境から始まって、スペイン人、ポルトガル人、中国人、日本人に300年程統治され、50年もの独裁政治を経てやっと民権を手に入れた。茶番劇は多いが、たかが10年の民主である、大目に見て頂きたい。また今後、自然の成り行きとして、国際社会への復帰を望むであろう。それで地域の緊張は強まるかもしれないが、民主主義が先進諸国の共通価値観である以上、台湾の民衆の意向は最大限尊重して頂きたいものだ。   --------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 ---------------------------  
  • 2007.09.22

    第2回SGRAチャイナフォーラム「黄土高原緑化協力の15年」報告

    講演:高見邦雄(緑の地球ネットワーク) 「黄土高原緑化協力の15年:無理解と失敗から相互理解と信頼へ」 中国における第2回SGRAフォーラムは、2007年9月14日(金)に北京大学生命科学学院報告庁にて、9月17日(月)に新彊大学図書館二楼報告庁にて開催されました。昨年10月、「若者の未来と日本語」というフォーラムを、中国で初めて、北京大学の同じ会場で開催しましたが、今回からは、NPOやNGO等の市民活動を紹介するフォーラムを中国で開催することにしました。今年は、まず、中国で緑化協力の活動をしている日本のNPO法人「緑の地球ネットワーク」事務局長の高見邦雄さんに講演をお願いしました。朝日新聞で見つけた高見さんの文章がとても面白かったので、是非お話を伺いたいと思ったのがきっかけですが、その後、SGRA会員の中村まり子さんにご紹介いただき、このように北京とウルムチで実現できたのは、大変嬉しく思います。また、日本語学習者ではない中国の学生さんたちにも聞いていただくために、北京大学日本言語文化学部を通じて最高水準の同時通訳をお願いしました。   緑の地球ネットワーク(GEN)は1992年以来、山西省大同市の農村で緑化協力を継続しています。大同市は北京の西300kmほどのところにあり、北京の水源、風砂の吹き出し口でもあります。そこでは深刻な沙漠化と水危機が進行しています。高見さんはパワーポイントで写真をたくさん見せながら1)沙漠化防止のための植林、2)小学校での果樹園作り、3)自然林の保護という大同で展開する事業を紹介してくださいました。また、非常に厳しい自然条件の上、歴史問題をかかえた大同で活動することの難しさを話してくださいました。初期は失敗つづきでしたが、その後、日本側の専門家や中国のベテラン技術者の参加をえて、だんだんと軌道に乗ってきたということです。また、日本側も中国側も失敗と苦労を通じ、お互いを理解し、信頼しあうようになり、いまでは「国際協力の貴重な成功例」とまで評価されるようになっています。高見さんのお話は、参加者を引き込み「3時間があっという間にたってしまった」というコメントをいただいたほどでした。   その他にも、「黄土高原の厳しさを再認識、日本を再認識できた」「民間協力の実態を知った。一般の日本人の友好的な心がわかった。緑化に関する国際協力の大切さを知った」「高原の水不足の実態を知った。水を節約しなかったことを恥ずかしく思う。今までそのような土地があることすら知らなかった。今後何かしてあげたい」「環境問題はどんどん深刻化している。フォーラムを通じてハイレベルの教育者たちが努力されていることを知り、希望が見えた」などの感想が寄せられており、参加した北京大学と新彊大学の学生さんに対して、大きなインパクトを与えたと思います。   北京では、珍しい大雨にもかかわらず、協賛をいただきました国際交流基金北京事務所の小島寛之副所長はじめ、中国で植林活動をされているJICAのみなさん、GEN大同事務所所長、渥美財団理事長、そして北京大学の学生さん等、100名を越える参加者が集まりました。また、ウルムチでは、新彊大学化学学院長をはじめ、教員の皆さん、そして大勢の学生さんが集まり、300用意した同時通訳用のヘッドセットが足りなくなりました。ふたつのフォーラムを実現してくださったお二人のSGRA会員、北京大学の孫建軍さんと、新彊大学のアブリズさんに感謝いたします。(今西淳子)   ○「土地の行政を超えた協力はあり得ない」と講師の高見さんは言いました。せっかくはるばる外国から協力に来たのに、現地の人々の心だけでなく、行政の「心」も捕まえなければならないという心労は並大抵のものではなかったでしょう。村民と寝食をともにし、心と心のふれ合いができても、いわゆる政府の幹部の妨害に会っては、堪らないものです。初期の失敗はこのような「無理解」から来たものが多かったかもしれません。行政との付き合いは、中国人ですら難しいのに、外国人の高見さんの努力に頭が下がります。   「賢い順に消えていく」日本のパートナー。事の始まりは簡単なものだったようですが、持続の難しさを語る高見さんは、実は持続の大切さを教えてくださいました。事を成功させるには、困難に向かって、一歩一歩、続けなければなりません。言葉の勉強はさることながら、人生そのものに生かしたいものです。北京会場には、多くの日本語学科の学生が来ていました。日本語そのもの、或いは小説、ドラマ、アニメ、ゲームのような日本文化にしか触れていない学生にとって、高見さんの講演、高見さんの行動は異様なものだったかもしれません。日ごろほとんど接する機会がないからです。でも、質疑応答の時に出た質問から見れば、彼らの心に相当な衝撃を与えたように思えます。「大同から脱出した人をどうすれば大同に呼び戻せるのか」という質問は、実は自分に言い聞かしているように思えました。少し離れたところから見ることによって、改めて自己を認識できるという意識の芽生えにつながるといいと思います。(孫 建軍)   ○今回のフォーラムを通して感じたことは多いですが、それを読み易い文章にすることは理科系の研究ばかりやっている私にとって難しすぎます。3日間同行させて頂き、講師の高見さんは、植物を研究する大学教授のように思えました。緑化は自然環境を取り戻すための唯一の手段です。高見さんが15年間続けて来た緑化運動の貴重な経験は元々乾燥地域で、砂漠化が段々酷くなっている新疆ウイグル自冶区に取っても宝ものであると強く感じました。   フォーラムが開くまでは、会場がいっぱいになるか、最後までどのぐらい人が残るかなど色々心配していました。今日、院生から受け取った参加者名簿を見てびっくりしました。なんと391名のサイン!そのなかには新疆大学化学学院、資源環境学院、人文学院、新聞学院、生命学院、物理学院などの教官と学生、日本人留学生、新疆教育学院で研修している高校の先生などがいました。この講演を通して、若い学生が中日両国の民間人の相互理解、国際交流と国際協力に深い関心を持っていることがわかりました。   高見さんの講演は、新疆大学の学生にとって、非常に強い印象を与えたと感じました。フォーラムの後で学生や教官たちが講演内容も通訳も素晴らしかったと私に語ってくれました。今回のフォーラムは新疆大学の歴史では初めて同時通訳で行われたフォーラムとなりました。またSGRAフォーラムでも参加者が一番多いフォーラムになりました。またこの交流活動を続けていくことを願っています(疲れますが)。(アブリズ) ふたつのフォーラムの写真はここからご覧ください   新彊日報の記事はここからご覧ください   「黄土高原だより」に掲載された高見さんのトルファン旅行記はここからご覧ください  
  • 2007.09.22

    エッセイ081:キン・マウン・トウエ 「豊かとは?」

    8月は、ミャンマーの雨季です。毎日一回は雨が降ります。大雨の時はドライブが大変ですが、曇りならば楽しいドライブシーズンとなります。私も旅行が好きなので、8月下旬に仕事も兼ねて、家族も一緒に、実家のあるマンダレーとその周辺へ車で行ってきました。ちょうど曇りだったので、16時間のドライブは楽しいものでした。ただし、ガソリンが値上がりしたばかりだったので、ちょっと大変でした。   前回のSGRAエッセイ「中国(雲南省)とミャンマーの貿易関係」でも、マンダレーのことについて書きましたが、今回は別の角度から考察します。仕事のためにマンダレーで二日滞在した後、マンダレーから約70キロ離れたピンウーリンへ行きました。この町は、ミャンマーの別荘地であり、イギリス植民地時代には、植民地イギリス政府の別荘地にもなっていたところです。その時のメイ将軍の名前を記念にしてメイミョ(メイ町)と呼ばれていましたが、現在は、ビルマ王朝時代の村の名前からピンウーリン(平らなピンウー村)となっています。気候が素晴らしく、山の中なので緑がたくさんあり、風も新鮮です。メイ将軍は、イギリスの気候と似ていると思ったそうです。日本の軽井沢のようなところです。   実家の別荘があるので二日間滞在しながら、仕事に関係のある作物に関する調査を行いました。この町は、海抜3538フイート(1100m)のシャン高原にある町なので、たくさんの種類の野菜や果物や花が作られています。ミャンマーのコーヒーの栽培地でもあります。さまざまな作物が、この町やその周辺からミャンマー全国へ出荷されます。新鮮な野菜や果物が多いため、食の豊かな町です。   1915年、イギリスの林野研究者である Mr. Alex Rogersは、ミャンマーの豊かな森からとれるチーク材の研究と他の目的で植物園を作る計画をはじめ、1917年にMrs. Charlotte Wheeler Cuffe の管理で150エーカーある植物園が完成しました。この植物園は、1942年には240エーカーまで拡張しました。この町へ来て、ミャンマーの新鮮な風、豊かな時間、豊かな農作物を海外へ売り出す計画を思いついたようです。   現在、ミャンマー軍のいくつかの大学がこの町にあります。さらに、政府のトップレベルの人たちの別荘地にもなっているため、町作りに力を入れています。植物園の中に、湖や動物園を作り、さまざまな花を栽培し、ミャンマーで一番の公園になるよう改良を行い、National Gardenになっています。観光客がとても多く、皆が楽しめる公園になっています。このように表から見ると、この観光客たち、この町、この国は豊かで幸せそうに見えるかもしれませんが...   現在、世界の石油の値段が急騰しています。ミャンマーでも最近値上がりしました。国内の物価も騰がりました。他の国と比べたらまだ安いかもしれませんが、国民の一般の収入と比較したら、多くの人びとが大変な生活をしなければなりません。毎日の生活さえ困る人がたくさん出てくるでしょう。それを我慢できるかどうかが問題です。   ミャンマーは、広い海と長い海岸があるので海産物がたくさん捕れます。広い面積の森があるので、チーク材含め森の資源がたくさんあります。多くの山があるので鉱山資源もあります。世界一のルビー、翡翠、サファヤなど、宝石が豊かな国と呼ばれるほどあります。確かに、この国は豊かです。   しかし、「豊か」ということは、何でしょうか?   お金の豊かさ、心の豊かさ、時間の豊かさ、資源の豊かさ…   ミャンマーの普通の人々が思っている「豊かさ」や「幸せ」は、何でしょうか?     ピンウーリンの写真は、下記URLより後藤修身氏の写真館にてご覧ください。     ------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>   ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 -------------------------  
  • 2007.09.14

    エッセイ084:太田美行 「インドの落語とマンゴープリン」

    景気が良くなってきていると言われているせいだろうか、働き手の不在と共にまた外国人労働者の問題がメディアで取り上げられるようになった。5月15日の読売新聞(夕刊)では、「外国人短期就労の解禁案 法相『研修』を廃止、新制度」との見出しをトップであげた。8年位前にもこうした問題は色々な方面から取り上げられ、私自身もSGRAのメンバーを含む元留学生の方にシンポジウムに参加して戴いたり、国会議員を対象とした政策ディスカッションの企画・実行に携わった。   こうした問題が取り上げられ議論されるのは、将来の国の姿を考える上では本来喜ばしいことだが、景気が良くなれば「働き手としての外国人労働者」が、そして景気が悪くなれば「犯罪者としての外国人」が報道されることが多いように思う。もちろん景気が悪くなれば犯罪も増えるし、これまでの日本にはあまり見られない犯罪が増えることで目新しく、ニュースにはなるのだろうが、メディアによる世論の作り方自体に意図的なものが感じられるのは私だけだろうか。   そうは言うものの、約10年前と今とで大きく異なる点もある。それは今まで以上に外国籍住民の存在が当たり前になってきたこと、そして日本生まれの2世が社会人になっていることではないか。コンビニや飲食店で働いている姿は本当によく見かける。それに限らず企業や学校でも以前とは比べ物にならないほど増えている。2006年に日本国内で就職した外国人留学生が過去最多の8272人になったと法務省入国管理局は発表した。また日本生まれについては、もはや説明するまでもないほど。有名な日本ハムのダルビッシュ選手、またお正月の箱根駅伝にもフィリピン人とのダブルの選手が出場したりと賑やかだ。   先日新宿の紀伊国屋書店の前を歩いていると面白い光景に出会った。香港人と思しき観光客グループが地図を片手にワイワイやっている向こうから、一見して日本在住とわかる西洋人の男性が歩いてくる。その横を自転車を押しながら、韓国人の女子大生風の2人連れが韓国語でおしゃべりをしながら通り過ぎる。それを見ながらつくづくと日本の光景が「変わった」と思った。しかもこうした光景が新宿だけではなく多くの場で見られるのだから。   これだけ変わってきてはいるのに最近政府が外国人政策、あるいは留学生政策に関して明確な方針を挙げたということはあまり聞かない。せいぜい短期就労の解禁案や看護師の問題、観光基本法の改定(観光立国推進基本法)くらいだ。もっと本腰を入れて議論して欲しいと思う。千葉に住む友人には、上海人の隣人がいる。「将来はオーストラリアに移住したいので、子供には今から英語を勉強させています」と言っているそうだ。私の伯父が長年おつきあいしていた元ベトナム難民の方は博士号取得後、日本で就職を希望していたが当時適わず、結局オーストラリアへ移住し大学教授になっているという。やる気のある優秀な人を居つかせない社会は日本人にとっても魅力のある社会なのだろうか。このテーマは日本の今後を考える上で非常に大きな意味を持つはずだ。もしかすると政府も、日本の数十年先のあるべき姿を考えることができないから議論がされないのかとすら思う。   観光立国推進基本法といえば、ビジット・ジャパンキャンペーンのあのロゴをよく見かける。「21世紀は観光の世紀だ」と学生時代の講義で聞いたが(当時は20世紀)、観光は非常に大きな可能性を持つし、また影響力を持っているビジネスだ。安部首相は、インドとの関係強化が経済上、安全保障政策上も重要との観点から円借款を400億円行うことを決め、日本とインドの交流人口を2010年には30万人、2015年には50万人にする目標に、査証手続きの簡素化をするそうだ。その一環で文化・芸能分野での交流として、和太鼓、雅楽、落語などの伝統芸能の公演をニューデリーで行うことを決めた。なぜまたもや伝統芸能なのだろう。インドで落語!?   伝統芸能の素晴らしさと影響力は否定しないが、今のインドの人たちが知りたい、あるいは触れたい日本の姿なのだろうか?マンガだけが日本の現代文化の伝道師とは思わないが、もう少し柔らかい発想で考えて欲しい。(私自身は落語好きだが)今流行の作家の翻訳を増やしてもいいだろうし、テレビやラジオの放送枠を買い取って日本キャンペーンの仕掛けを作っても良いだろう。それこそ韓流ではないが、日本のドラマを流しても良いのではないか。先週シンガポールに行った時、韓国への旅行を呼びかけるキャンペーンCMを見た。正に韓流スターのオンパレードといった趣のもの、それから今の韓国を前面に出したものの2つで、韓流スター出演の方を見て韓国への理解が深まるかは謎だが、意気込みとユーモアは感じられた。それに引き換え日本のキャンペーンは・・・。「本当に日本をアピールする気があるの?」と腹を立てていたところに面白い記事を発見した。   「熱帯フルーツ輸入急増 若い女性に人気 参入希望国も続々」(読売新聞8月14日夕刊)海外旅行で熱帯フルーツを味わった若い女性がブームに火をつけたのが発端となり、今では世代や性別に関係なく人気があるというものだ。2006年の輸入額が約49億円、パパイアは12億円と大きな市場となっている。「マンゴープリン」だけを見ても、2006年の市場規模が25億円、去年のインド産マンゴーの輸入量9トンが今年は52トンと約6倍にまで拡大している。これに目をつけて商社が害虫の処理技術に関しての技術支援に乗り出し、輸出解禁を求めている国が12カ国にもなっているという。   旅行業界や雑誌などによる後押しがあったとしても、国策による堅苦しい文化交流よりもっと素直な発見と喜びがブームに繋がった例はないか。10年以上前、香港に旅行した友人がマンゴープリンがどれだけおいしいものか、わざわざはがきを送ってくれたことを思い出す。韓流ブームも、「いい年をしたおばさんがみっともない」など批判は色々あったが、あれほどの人が韓国語を学び始めて韓国に旅行した例がこれまでにあっただろうか。ブームが一時的なものにせよ、そこで得られたプラスの面を次の展開や、真の理解につなげる役割を担う人が必要だろう。それは国の場合もあるかもしれない。でもできることならその役割は自由な個人やSGRAに参加する意欲のある皆さんが積極的に行ってほしいと勝手に思っている。   ----------------------------- 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 -----------------------------
  • 2007.09.12

    エッセイ079:オリガ・ホメンコ 「ワレンティナ」

    大学の三年生の時だった。彼女がそのときに何歳だったかよく覚えていない。三十歳くらいだったと思う。彼女は礼儀正しい可愛い女性で、自分のおかあさんが大好きだった。ほとんど毎週末、おかあさんが住んでいた田舎に、都会のお土産が入ったかばんを両手に持って帰っていた。その中には必ずパンが入っていた。なぜならおかあさんが住んでいた遠い田舎の町には、おいしいパンを売っている店がなかったから。それで、ほとんどの週末に都会のおいしいパンをおかあさんに持っていった。   その村はなぜか「何もない村」という名前だった。17世紀にコザックたちがそこに住もうと決めたとき、そこは何もない野原だったので、「何もない村」と名づけた。野原はきれいな草花がいっぱいだったのだから、「かみつれ村」とか「矢車菊の村」とでも名づけられたのに・・・   マリアおばあさんの家はドライフルーツで香っていた。毎夏、庭でとれたりんごやなしからドライフルーツを作っていたから。窓際にあった柏の茶色の椅子の涼しい香りもしていた。私が子供のころ、この家に初めて入ったときから、その香りに満たされていた。昔の家の香り。マリアおばあさんは私の祖母で、ワレンティナは私のはとこだった。   ワレンティナは微笑みがきれいで、美しい声の女性だった。そして貴族的なきれいな名前で、きっと素敵な将来が訪れるに違いないと思われていた。彼女はこの小さい「何もない村」で生まれ育ち、キエフの出版関係の大学を出て仕事を始めて都会に住み着いた。だが田舎にほとんど毎週末帰っていた。彼女の友達は同じ学校を出て同じ出版社の仕事をしていたが、そのうち若い男の人と一緒に田舎に帰るようになって、それから結婚して、子供も生まれて、家族と一緒に里帰りするようになったのだけど、彼女はいつも一人だった。   ワレンティナは友達の結婚式や誕生日会にもほとんど一人で出席していた。知り合いに「誰かを紹介しましょうか」といわれたとき、彼女ははにかんで微笑んだだけだった。彼女の知り合いの男性は「背が低い」か、「面白くない」か、「性格合わない」人ばかりだった。選べる男がいないという事情だった。   彼女の父親には一度も会ったことがない。だが、マリアおばあさんにご主人の話を聞くと「はい、結婚したことはありますよ。でも、もういいんだ。もう<それ>は経験したのだから」と答えた。子供の私にとってそんな言い方は不思議に思えた。私の両親の「結婚」は結構いいものだったので、マリアおばあさんは違うことを経験したと、そのときは思うしかなかった。   ワレンティナは私の家によく遊びにきていたが、私が大学三年生のある日、急に病気になり、仕事もやめなければならなかった。彼女が入院していた病院は放射線治療で一番良い病院だった。病院の正面には、かわったモザイクの絵があった。放射線の機器を手にした男性が驚いた目でその光を眺めている。ソ連時代の絵だが、当時、「人間は自然を支配した」という考えがはやっていた。つまり、人間の手によって、放射線を支配し、治療に使うという意味の絵だった。その絵に描かれている男性は、すごく驚いているように私には見えた。彼はまだ「自然を支配した」ということを心の中で信じていない目をしていた。   彼女はその病院で亡くなった。白血病だった。   最後に見舞いに行った時、家族は「何でこんなに若い人が死ななければならないのか」という怒りと悲しみの気持ちでいっぱいだった。だが彼女は皆に向かって「泣かないでください。死ぬことなんか怖くない。みんなのことを大好きだから」とかぼそい声で語った。彼女は大変な病気に苦しんでいたのに、勇ましい心の女性だった。だが突然部屋に入ってきた若い看護婦は「ワレンティナ!泣き虫!泣くのをやめなさい。注射ですよ」とがみがみ言った。あまりに乱暴な態度だったので、この短い白衣とハイヒールの若い看護婦を殴りたいと思ったほどだった。   亡くなる前にワレンテイィナはひとつのお願いをした。葬儀のときに好きなひとからもらったネクレスを首につけること。それで彼女に好きな人がいたとわかった。誰も彼を知らなかった。葬儀の時、古い習慣に基づいて、一度も結婚してない女性はウェディングドレスやベールを着て棺にいれられた。そして首には小さい赤いビーズのネクレスをしていた。きれいだった。   ワレンティナは、小さい「何もない村」の墓に埋められた。聞いた話によれば、彼女がもう病院から戻れないとわかったときに、彼女の家の鍵をもっていた女友達が、彼女の家から多くのものを持っていってしまった。服、アクセサリー、シーツまでとったらしい。マリアおばあさんはワレンティナの家に何があったかよくわからなかったし、娘の急死で動転していたので、そんなことどうでもよかった。   誰もはっきり言わなかったが、チェルノブイリの事故があった1986年の夏には、「何もない村」には帰らないほうがよかったといううわさが流れた。風がチェルノブイリから「何もない村」を通って、ベラルーシに吹いていたから。だが彼女はママが好きでほとんど毎週土曜日に帰っていた。それが原因だったと誰も言わなかったが、その夏だけは村にいなければよかったといううわさがあった・・・   ワレンティナはきれいで心の優しい人だった。「何もない村」の小さい墓にもう15年以上眠っているにもかかわらず、人に思い出されることがある。彼女の家の鍵をあずかっていたあの「単純な」女友達は元気で子供や孫もいるようだ。今でもあのシーツで眠って素敵な夢をみているかもしれない。彼女たちはとても単純な人ですから。そして彼女たちの子供や孫はマリアおばあさんの隣の庭で騒いでいる。   マリアおばあさんはもう80歳を超えて、ドライフルーツの香りのするあの小さな家に一人暮らしている。   ------------------------------------ オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------