SGRAエッセイ

  • 2022.03.31

    エッセイ701:楽曲「日本留学断想」

    帰国まで1週間しかない。4年余りの留学生活をいかにまとめたらよいのか実に難しい。記憶ほど曖昧なものはない。時の流れにつれて常に変わっていく。過去の真実を求めようとすれば、曖昧な記憶に頼るよりもむしろ当時の記録を振り返った方が確実かもしれない。   日本語の訓練として、来日からずっと随想のようなものを書き続けてきた。4年間の留学生活の縮図として、3つを選んでみる。 ------------------------   ◇2017.09.27(来日から2週間)   雨が降りそう。いや、もう降っているかもしれない。風に揺られて、部屋のガラスが一日中カラカラと響き続けていた。しかしそれでも、空気がなおよどんでいるままで、暑さは少しも減っていない。   加藤周一の本があまりにも分かりにくい。気分転換として、一旦本を置いて魚屋さんに向かった。本当にいい店だ。決して安くはないが、ものは新鮮でしかも種類が豊か。今月はもうお金に余裕がない。残りの数日をうまく過ごすために、あまり贅沢してはいけないはずだが、結局誘惑に負けて、たくさんの食材を買った。後日のために、この初めての「爆買」の内容を書き留めておく。   真鯛の頭、赤エビ、カニコロッケ、大アサリ、白貝、ムール貝、秋鮭、シシャモ、イワシの唐揚げ。   冷蔵庫にはまだ前日に買ったアサリ、手羽先、甘エビ、豚ステーキが残っている。これで楽しい1週間が過ごせそうだ。食生活の豊かさに対し、勉強の方は全く進んでいない。入学試験まで4カ月しかない。早く軌道に乗らないと。   ◇2018.03.02(博士課程入学1カ月前)   本日分の翻訳が終わった(『溝口健二著作集』の翻訳をしていた)。溝口を訳し始めてからもう1カ月以上経ったのに、全然上達していない。このペースでは原稿の締切に間に合わない。明日から翻訳の時間を増やさないと。   『枕草子』の写本を読み終えた。どれだけの時間をかかったのかもう分からない。くずし字とは言え、遅すぎる。「新潮古典」の注釈も届いた。やはりもう1回読み直した方がいい。   ところで、今日は本当に天気がよかった。雲ひとつなく、日差しがぽかぽかでいい気分だった。散歩にうってつけな天気だけど、未完成なことがたくさん残っているので、気楽に出かけるわけにはいかない。すべてが終わったら湖と山に行きたい。   ◇2019.02.12   学問の意味は何だろう。損得を問わずに真理を求めること自体が意味のあることだけど、学者たちの努力によってそれを一般人の生活に役立たせることも重要だろう。人々に影響を及ぼすためには、文章の論理性よりもむしろ感性的な働きかけがより有効だ。そのために、論理性の面では少し弱いかもしれないが、鈴木大拙は日本人の精神や世界を構成する全てのものを「霊性」の一点をもって説明しようとした。さらに彼は「霊性」を「大地性」という感性的な表現と結びつけて、ますますその感化力を上げた。あの時代の論著にはこうしたものが多かったような気がする。実際鈴木氏はこの論を通して仏教、特に禅宗の魅力をとても効果的に欧米に伝えた。目的が達成した以上、正確性や論理性はもう二次的なものでしかない。このようなことは、鈴木氏ほどの学者はもうとっくに分かっていたはずだ。こうして見れば、主観的(感性的)な学問もそれなりの意味があるのだろう。 ------------------------   買い物、勉強、思考、季節の景物を楽しむ。こうしているうちに4年間はあっと言う間に過ぎ去った。今日になっても、さまざまなことに対する試行錯誤は依然として続いているが、この充実した4年間のおかげで、未来の研究や生活に自信を持つようになった。日本からもうすぐ離れる現時点の願いといえば、ただひとつ。今回の別れは終わりではなく、もうひとつの始まりとなるように。     英語版はこちら     <楽曲(がく・きょく)YUE Qu> 2021年度渥美奨学生。早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文学専攻(博士)、北京師範大学文学研究科比較文学と世界文学専攻(修士)、南京師範大学文学部国家文系センター専攻(学士)。2022年9月より北京師範大学文学院専任講師。     2022年3月31日配信  
  • 2022.03.23

    エッセイ700:ボルジギン・フスレ「元寇防塁探訪」

    私は元寇防塁の調査のため、2021年12月24日から29日にかけて福岡に行ってきた。   モンゴル帝国の第5代ハーン、大元ウルス第1代皇帝フビライ・ハーンが高麗を征服後、日本に「通好」を求めて5回にわたって使者を派遣したが、鎌倉幕府に拒否された。そのため、 高麗軍なども含むモンゴル帝国の軍隊が1274(文永11)年と1281(弘安4)年に2度も日本に侵攻した。鎌倉幕府はモンゴル帝国の軍隊の侵攻に備えて、九州各地の御家人に命じ、西の今津から東の香椎まで博多湾の海岸沿い約20キロにわたる石塁を築かせた。遺跡の一部は今もこれらの地域に残されており、いわば「元寇防塁」である。   福岡に着いた翌12月25日、私はまず早良区西新の元寇防塁を調査しに行った。12月25日といえばクリスマス。福岡の街のどこでもクリスマスの雰囲気に包まれている。西新駅を出た際、元寇防塁の場所を確認するため駅員に尋ねた。駅員は元寇防塁についてあまり知らなかったが、非常に熱心な方で、「“ゲンコウボウルイ”って建物ですか、遺跡ですか」と私に聞いた。「遺跡ですよ。“蒙古襲来”の時に造ったもの」。   元寇防塁が分からなかったら、蒙古襲来は分かると思い、日本の教科書に取り上げられている「蒙古襲来」という表現を使った。「あー、そうか」とその方は改札口の駅員室に入って、ほかの2名の駅員にも確認した後、地図を持ってきて「1番出口を出て、サザエさん通りに沿って最初の十字路を左に曲がって…」と行き方を詳しく説明してくれた。どうやら、元寇防塁はあまり知られていないが、「サザエさん通り」といったら誰もが知っているようだ。実は、1番出口の案内板には「西新3、6、7丁目元寇防塁跡」「サザエさん発案の地記念碑(サザエさん通り)」とも書かれている。   西新6、7丁目の元寇防塁の一つは西南学院大学1号館の館内にある。しかし、私がその1号館に着いた時、館内の元寇防塁の見学は月曜日から金曜日までの9:00~17:00に限られていることをはじめて知った。看板に書かれている。この日は土曜日であり、しかも大学は冬休みに入っていたのか、1号館の前でどうにか中に入ろうと数分間ウロウロしても、一人も見かけなかった。1号館を後にして、大学体育館南側の元寇防塁を訪れた。   まず目に入ったのは元寇神社であった。隣に建てられた記念標柱には「史蹟 元寇防塁 昭和6年10月建設」と刻まれている。その横に発掘された防塁が展示されている。南側にはさらに3本の木が植えられ、それぞれに「良子女王殿下御手植公孫樹」、「久邇宮殿下御手植樟」、「開院宮春仁王殿下 梨本宮守正王宮殿下奉臨記念樹」と刻まれている。後で資料を調べて知ったのだが、この元寇神社では毎年10月20日の祭典が慣例行事になっているそうである。   元寇防塁は1931(昭和6)年に日本政府に国の遺跡として指定された。この昭和初期の元寇防塁に対する発掘・復元の運動と次に述べる明治時代の元寇記念碑建設運動は、その時代の日本の大陸進出という政策と密接な関係があったのはまちがいない。   その後、西区にある生の松原(いきのまつばら)の元寇防塁を訪ねた。下山門駅を降りて、駅員に元寇防塁の場所について確認した。駅員は同地域の元寇防塁のことをよく知っており、地図で行き方を詳しく説明してくれた。道中、「生の松原元寇防塁」と書かれている看板(福岡市教育委員会が建てたものも含む)が複数あったので助かった。生の松原の森のなかには、元寇防塁の記念標柱が建てられており、「史蹟 元寇防塁 文部大臣指定 史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ 昭和6年3月建設」と刻まれている。また、海岸沿いには高さ2メートルほどの防塁が積みあげられ、その真ん中の位置、防塁から数メートルほど離れたところには「蒙古襲来絵詞」の一部が複刻された展示板が建てられている。防塁は復元されたものではあるが、迫力があって思いを馳せると興味は尽きない。   12月26日、私は元寇史料館に行った。東公園の一角の2階建ての建物である。1階はラーメン屋と焼き鳥屋などになっており、史料館なるものは実際2階のみ。同史料館には専任の職員がおらず、隣の売店の方が兼務されているそうである。史料館を見学するのには、事前に電話で予約しなければならない。実際、私は1カ月前(11月)から何度も電話をかけたが、なかなか繋がらず、2週間前のある日、やっと連絡が取れた。史料館に着いた時、入り口は施錠されており「予約の方は売店へお知らせください」という手書きの紙が貼られている。私は売店に行って説明した。その方が予約者の名簿らしいものを確認して、名前が確かに書かれていると言い、鍵を持って史料館のドアを開けてくれた。「撮影は禁止、見学時間は30分以内」という説明を受けて入館料を支払い、見学した。   元寇史料館の奥の展示室には、モンゴル軍の鎧兜、鐙、壺、弓のほかに、「蒙古襲来絵詞」の一部も展示されている。2階に入ったところの「広い」(奥の展示室よりは広い)フロアも展示室になっている。しかし、ここはなんと日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日蓮宗史などのコーナーで構成されている。史料館で購入した本によると、同館は1904(明治37)年に元寇記念館として設立、のちに東公園内の日蓮聖人銅像護持教会の敷地に移築され、1986(昭和61)年に元寇史料館として再オープンしたそうである。   史料館の隣に高さ10.55メートル、重さ74.25トンの日蓮聖人銅像が聳え立っている。1888(明治21)年、日本では元寇記念碑建設運動が起こった。1887(明治20)年に作成された元寇記念碑建立を呼び掛けるポスターによると、当初は、北条時宗の騎馬像をモチーフにした像の建立が計画されていたそうである。結局、17年間かけて1904年に完成したのはこの日蓮聖人銅像である。1904年といえば日露戦争に突入した年である。長い歳月を経て、人びとは百年余り前に日本全国で盛り上げられた元寇記念碑建設運動にはほとんど関心を持っていない。元寇史料館といっても、2階に展示されたものはわずかではあるが非常に貴重な「元寇」の史料と、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦のものが混じったもので、1階はラーメン屋と焼き鳥屋などになっており、いわばどっちつかずのものになっている。なんと皮肉だろう。   福岡にいる間、私は長垂海浜公園、中央区地行の元寇防塁などをも調査した。しかし、鷹島などの史蹟は調査できなかった。次回、鷹島と松浦市の史蹟を調査することを楽しみにしている。   調査した史跡の写真   英語版はこちら     <ボルジギン・フスレ BORJIGIN_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)、『21世紀のグローバリズムからみたチンギス・ハーン』(風響社、2022年)他。     2022年3月24日配信    
  • 2022.03.10

    エッセイ699:尹在彦「修業の6年間、社会人としての2度目の決意」

    私は博士課程の研究において、人と会うことを最小限にするテーマと手法を選んだ。日本に来る前の5年間の仕事で、人と会うことの大変さを実感していたからだ。韓国内外の様々な人からもらった名刺を数えてみたら、平均して1日に一人は会っていた。意味のあった時間もあれば、どんな人だったか思い浮かばない名刺もある。会うまではどんな時間になるか、予想のつかないこともあった。しかも、インタビューの話を検証すること自体が仕事になることもあった。そのため、人の話に基づいた研究はなるべく避けたかった。このような経験を踏まえ、博士課程では文献を中心とした日本研究を行うことに決めた。   その結果なのか、何とか博士論文を書き上げることができた。コロナ禍の中での論文執筆はまさに「自分との闘い」で、悪戦苦闘の連続ではあったが、それでも「必ず提出する」という執念の方が勝ったと思う。2月の口頭試問の際には面接官の先生から散々厳しい指摘をいただいた。認めざるを得ない指摘がほとんどで、現在は博論の修正を考えている。ただし、博論はあくまで出発点であり、完成品ではない。本当の研究生活はこれからだ。   合計6年間、日本で大学院生として過ごした時間は良かったのか、悪かったのか。私は基本的に物事を批判的に捉える人間なので、正直「生の日本を見てしまった」と言わざるを得ない。近年は日韓関係が悪化の一途をたどる中で居心地の悪さも感じ、特にこの1年はコロナ対応における日本社会の強い同調圧力も実感した。コロナ禍により普段は潜んでいる日本社会の様々な側面がさらけ出されたと思う。日本研究者としては課題が一つ増えたような気がする。   韓国社会においては「マジョリティー」でかつそれなりの「メインストリーム」の道を歩んできた私にとって、6年間の「マイノリティー」としての経験は非常に良かった。韓国でも常にマイノリティーの問題に関心を持っていたつもりではあるが、やはり自分が同様の立場に置かれない限り限界がある。特に様々な財団にお世話になったため、同じ立場の外国人同士の交流ができたことはマイノリティーとして色々と考えさせられる契機となった。   「日本とは何か」「日本をどう見るべきか」というのは、私の研究人生を貫く問いである。答えが見えてくるかと思えば、また遠ざかる。この繰り返しではあるが、少なくとも6年前と比べ知識の量だけは増えた気もする。研究生活の中では専ら「学問をやる」ことを意識し、なるべく「ジャーナリズム」的な発信は抑えてきた。これからは「学問とジャーナリストの両立」を真剣に考えていくつもりである。正直、大学院生という身分は息苦しい面が少なからずあり、社会人大学生が少数の日本では特にそう感じた。早く抜け出したいという気持ちは常に強かった。   最後に仕事で痛感したことを一つ言わせてもらいたい。人とはどこで、どのような形でまた会うかわからないということである。当然のことのように聞こえるが、以前会った人に偶然再び会い、それが様々な縁につながったという経験を何度もした。「人に対して悪いことをしてはならない」という教訓でもあるだろうが、刹那の人間関係だとしても、どこかでまた何かの繋がりがあるかもしれない。めぐり合わせというべきだろうか。コロナ禍中の1年間、渥美財団の奨学生の中で一度も対面していない人も少なからずいるが、縁があれば近いうちにどこかで会えると思う。6年間の修行が終わり、再び社会人へ戻ろうとしている今、肝に銘じたいことである。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 一橋大学法学研究科特任講師。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年、同大学院博士後期課程修了(法学博士)。延世大学卒業後、新聞記者(韓国、毎日経済新聞社)を経て2015年以後、一橋大学院へ正規留学。専門は東アジアの政治外交及びメディア・ジャーナリズム。現在、韓国のファクトチェック専門メディア、NEWSTOFの客員ファクトチェッカーとして定期的に解説記事(主に日本について)を投稿中。     2022年3月3日配信
  • 2022.02.24

    エッセイ698:ヴィクター・シーシキン「博士課程から学んだこと」

    私は製品に関する何百ものアイデアとそれらを実現するための大きな情熱、そして「どのアイデアに焦点を当てる価値があるのか?」という問いを持って日本に来ました。博士課程に進学したことで、私は進みたい方向を自由に選択できるし、それが斬新であったり挑戦的であったりすれば、興味のあることを何でも選択できるようになりました。自由は多くの可能な方向性をもたらし、同時に大きな不確実性を与えます。これからの3年間をどのような方向性で過ごせばいいのかと考えました。   博士課程のテーマを見つける最も簡単な方法は、これまでやってきた研究と「新しい研究室」を組み合わせることです。博士課程のテーマが挑戦的で斬新なものになる可能性が最も大きくなるはずです。そこで、最初の1年半はその方向に進みました。   しかし、多くの博士課程の学生が経験する問いに直面しました。それは「これを本当に必要としている人はいるのか?」、「誰のためにやっているのか?」との自問です。結局、自問自答から得た答えは私を満足させませんでした。この技術を知っている人や会社はほとんどなく、実際にその製品を使用したいと思う人は更に少ないことも知っていました。数年前は業界で働いていたのでお客様のニーズに応える仕事に慣れていたため、ニーズがないかもしれない技術開発の仕事を続けることが難しくなりました。   自分がやっていることに疑問を持っていることに気づいたのは、前期学位審査と博士論文が始まるまであと1年半という一番大変な時期でした。自分の研究が役に立つことを本気で信じられないまま残りの時間を送れば、つらい思いをしたり、やる気がなくなったりすることは分かっています。もうこれ以上自分をだますことができませんでした。「自分でさえ自信がないことについて、どうやって博士論文を書くことができるのか。その時にはきっと自分自身にも答えられない質問を審査員や他の人から受けるだろう」と考えました。   長い博士課程を続けていくためにも、困難な時や挫折を乗り越える力を身につけるためにも、自分がやっていることを心から信じていかねばならないと思います。そのため「何=誰のためにこれをやっているのか?本当に役に立つのか?」の問いに対して自分自身に正直な答えを出さねばなりません。   その答えを探し始めているうちに新たな課題に気づきました。ロシアの会社に勤めていたときに聞いた顧客の不満を思い出したのです。東京の工業展示会を訪れ、私の技術の潜在的なユーザーと話をして、彼らの問題を確認することができました。そして、この問題点を明らかにするために、私の研究分野にある会社の最高経営責任者(CEO)と話をしました。その後、ビッグデータ分析ツールを使って自分の研究分野の技術開発動向を把握しました。また、国際会議に参加し、最大の学会のトップや技術スカウトたちと話をして、その技術の未来を理解しました。さらに日本政府がどのような研究分野を支援しているのかを知るため政治的意思決定を研究したり、政策研究大学院大学(GRIPS)で政府のデータを分析したりしました。   そこで得た結論は、お客様にとって一番の問題は製品の価格であるということです。多くのお客様がセンサーの性能ではなく、価格に不満を持っていることが分かりました。このセンシング技術を気に入っているものの、買う余裕がないという潜在的顧客がたくさんいます。そこで、この技術を手頃な価格にすることに力を入れて、特にセンサーシステムにある最も高価な部分をフォトニックチップ上に作るというアイデアを思いつきました。   今、私は光ファイバーセンシング技術をまだ手に入れることができないお客様のために働いているのだと自分を納得させることができます。製品を安くすれば、彼らはそれを手に入れて使ってくれると確信しています。   新しい方向に向いて取り組んだ1年目は失敗ばかりでした。何もうまくいきませんでしたし、チップのデザイン、製造プロセス、テストのセットアップ、どこが間違っているのかも分からなかったのです。しかし、私は落ち込んだことは一度もありませんでした。失敗するたびに次はうまくいくと思っていました。自分の研究が役に立つと心から信じられることは多くのインスピレーションや、やる気とあらゆる失敗に耐える力を与えてくれました。   博士課程から学んだことは長期的なプロジェクトを進めていくために、自分がやっていることを心から信じることが大切だということです。論理的に理解するだけではなく、感情的なつながりも必要です。そうすると元気になったり、励まされたり、人を励ましたりすることに役に立ちます。   この原則は日常生活の多くの状況にも当てはまります。 1)新しい言語を学ぶ時、自分にとっては必要なものだと信じる必要があります。私が英語を話せるようになったのは、ロシア語を理解する人がいない米国に6カ月も滞在していたからです。 2)太ることが怖いという理由で、何年も毎日運動を続けてきました。 3)早起きは効率が良いことは誰でも知っていますが、それを知っているだけでは十分ではありません。やりたい気持ちを心から信じる必要があります。自分の場合は日の出を見るのが好きだということに気づいてから、早起きを始めました。   これからも自分のやっていることに対して「なぜ?」という問いに対する正直な答えを探し続けていくことが、大きな力を与えてくれると思います。     英語版はこちら     <シーシキン・ヴィクター Victor SHISHKIN> 東京大学大学院新領域創成科学研究科海洋技術環境学専攻特任研究員。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年東京大学大学院博士後期課程修了。卒業後も洞察力のあるデータ生成のためのセンシングシステムの開発に取り組んでいます。     2022年2月24日配信  
  • 2022.02.17

    エッセイ697:李受眞「研究者と教育者としての課題」

    博士課程に在籍していた3年間は、学会活動と論文投稿に力を入れながら「研究者と教育者としての課題」について考えさせられた。特別支援教育に関する領域では研究者としてのみ活躍されている方は少なく、大学教員でありながら研究者として活躍することが多い。その中で、将来教員になることを目指している大学生を対象とした「特別支援教育」に関する科目を非常勤講師として教えることになった。   これまで一度も人に教えたいと思ったことがなく、このような気持ちで臨んでいいのかと葛藤しながら授業を引き受けた。しかし、受講生からの「より良い教員になるためにこの科目を受講する」「様々なニーズのある児童に対応するためにこの科目を受講したい」というコメントなどを読み、新しい知識を得て将来の教育現場においても生かそうとする学生らの姿を見るうちに、「この人たちが現場の先生になってから困らないよう特別支援教育に関する知識を教えたい」という気持ちが芽生えてきた。教育者の立場になってみることで、今後の教育者としてのあり方について探求することができた。これからは教育者として試行錯誤しながらも学生を指導していきたい。   ところで、研究者であり教育者であるという立場は実際に大学の一教員として勤めてみると、どちらかに偏りやすい。教員としての仕事は授業や大学業務に専念しながら、その合間に論文執筆や学会発表などの研究活動もやらなければならない。今は授業準備や会議等に追われる毎日で一体いつ頃研究活動ができるかの目処もつかないため、いつまでもこの状況が続くのではないかふと不安になったりもする。めまぐるしい毎日を過ごす中で、自分が教育者として、そして研究者としての初心を失わないように教育活動も研究活動もしていきたいと思う。   加えて研究者としての課題はフィールドが教育現場となるため、現場で活躍している先生とのコミュニケーションの取り方である。その中で、研究者と教育者としての課題に関するテーマのワークショップを受ける機会があった。ここでは研究者であるのか教育者であるのか、自分の立場について改めて考えさせられる機会が設けられた。参加者には小学校や特別支援学校など様々な教育現場で活躍されている先生方や大学院の学生らがいた。現場にいる教育者の立場では、単なる研究成果を求めるのではなく、現場における子どものニーズと将来を見据えた課題も含めて進んでほしいと望まれていることが分かった。私は知的障害特別支援学校におけるキャリア教育について研究を行いながらも、教育現場と研究者の現況と課題についてはあまり意識していなかったため、話をうかがうことができたのは大きな収穫だった。   教育者としての自分には、将来教員になることを目指している学生にとっての研究者と教育者とのコミュニケーションのギャップを減らすことができるのではないかとも考えた。話を聞いている中で研究する立場においても教育する立場においても、それぞれが児童生徒のことを考えて行動しているということに変わりはないことが伝わってきた。しかし研究者の中には児童生徒をデータとして見てしまう人もいる。倫理教育の重要性について実感した。   特に臨床心理学は人を対象とした研究であるため、人権が何よりも尊重される。常に責任のある研究活動(RCR)教育についての意識があるか自分に問いかけながら、責任のある研究活動のためにできること、良い研究のための到達点を考え直している。現在行っている研究の対象者は軽度知的障害者であり、インフォームド・コンセプトに偏っていた既存の研究倫理に加え、「Well-being(よく生きる)」を意識した研究活動を行う必要性を感じている。その中でも、特に強調されている「Meaningful_life(他者への貢献)」を肝に銘じ、知的障害者とその支援者や保護者がより豊かな生活を送るために貢献できる研究を行いたいと思っている。     英語版はこちら     <李受眞(イ・スジン)LEE Sujin> 浜松学院大学現代コミュニケーション学部子どもコミュニケーション学科助教。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年東京学芸大学大学院博士後期課程修了(教育学博士)。東京学芸大学において非常勤講師、特別支援教育現職研修システムの開発プロジェクトの専門研究員、特別支援教育・教育臨床サポートセンターの特命講師を経て、2021年4月より現職。日本学校心理士・公認心理師。     2022年2月17日配信
  • 2022.02.10

    エッセイ696:尹在彦「有効期限切れの『ゼロ・コロナ』政策」 

    コロナ禍の本格的な始まりから2年が経とうとしている。ちょうど2年前のこの時期、筆者は旧正月を迎え、タイと韓国で過ごしていた。タイで中国発のニュース(未確認の感染症が拡散中)に触れつつも、他人事にしか見られなかった。しかし、タイから韓国へ入国してからは潮目がやや変わっていた。武漢から入国した韓国人の感染者が次々と判明される一方で、政府は現地に輸送機を送り込んだ。「おそらくもうすぐ落ち着くだろう」と見て、筆者は同時期に仁川空港から日本へ発った。これが2年も続くとは夢にも思わなかった。   その間、世界は「コロナ前」には戻れずにいる。何年か先と考えられていた技術的かつ文化的な変化は早く訪れた。そこから見えてきた教訓も少なくない。特に国ごとに異なっているコロナ対策は、その国々の特徴を表していると同時に、これからの方向性も示してくれる。こういった状況を踏まえ、本稿ではオミクロン株の流行を受け、「ゼロ・コロナ政策はもはや有効ではない」ということを述べたい。   この2年間、全人類は世界各地で多岐にわたるコロナ対策を目の当たりにしてきた。ロックダウンという移動制限・隔離を中心とした国々もあれば、強制措置よりも市民の自発性に頼った国もある。制限を最小限にしつつもIT技術・個人情報を積極的に活用した国もあった。そうした中で、社会科学においてはコロナ対策をめぐり「民主主義VS権威主義」という図式が議論の対象になった。要するに、「感染症拡大を抑え込めるのは権威主義体制の方」という議論だ。実際に少なからぬ欧米諸国では移動制限という一種の人権侵害が相次ぎ、マスクやワクチンが過度に政治化している。一部では強制接種やマスク義務化のような措置さえ取られている。民主主義の後退ともとられる事象である。   「武漢封鎖」で世界に衝撃を与えた中国がそれ以降、地域的封鎖と大量検査のいわゆる「中国モデル(中国以外では不可能に近いためモデルにはなり得ていないが)」で「普通の生活」に戻ったことも大きい。米中関係の悪化の中であらわになった米国内のコロナ対応の問題点も影響した。米製薬会社(ファイザー社、モデルナ社)が新たな手法でワクチンを開発したとはいえ、国内的には依然として接種率が伸び悩んでいる(2回目が60%台、1月末現在)。米政府の途上国支援もなかなか進んでいない。感染者や死者の数からみると、明らかに欧米諸国は「敗者」に近いだろう。   しかし、こういった状況はオミクロン株の拡散により変わりつつある。これまでの「内向きの閉鎖的な政策」がもはや意味をなさなくなっているのだ。それは、オミクロン株の感染力が類例ないほど高いことと重症化率が低いことに起因している。そのため、オミクロン株の感染拡大を先んじて経験している欧米諸国では生活基盤を支える「エッセンシャルワーカー」に対し最小限の隔離を求め始めている。厳しい水際政策が批判されている日本ですら隔離機関が「7日間」に短縮された(ちなみに、日本ではなぜか感染拡大期なのに今でも入国者に対する施設隔離が続いている。これも日本特有の方向転換の遅さの一面だろう)。コロナを封じ込めることを既に諦めていた韓国でも2月以降、同様に短縮される予定だ。もはや「ゼロ・コロナではオミクロン株に太刀打ちできない」という世界的なコンセンサスが形成されつつある。   全般的に入院患者が増えたとはいえ以前のピーク時のレベルではないという事実も、慎重な中での方針転換の理由とされる。イギリス政府がその先頭に立っており、ワクチン2回接種者に対しては入国時検査を求めないことを始め、感染者・濃厚接触者に対する隔離措置も緩めていく方針だ。新しい変異の可能性も懸念されてはいるが、恐らく方向性としては大方の国がこのようにせざるを得ないだろう。   こうした中で、再び注目されるのが春節(旧正月)と冬季五輪を迎えた中国の対応だ。米有名調査会社、ユーラシア・グループ(Eurasia Group)は1月、「2022年の世界10大リスク(Top Risks 2022)」というタイトルのレポートを発表した。同レポートには興味深い内容が含まれている。中国の「ゼロ・コロナ政策」が持続可能でない点(「No Zero Corona」)が強調されているのだ。これがグローバル経済に対して最も大きなリスクとして挙げられている。   同社は多くの国でファイザーやモデルナの「mRNAワクチン」が普及しており、それがオミクロン株の危険性を引き下げていると指摘する。一方で、中国では同種のワクチンが使用されておらずゼロ・コロナ政策が続いてきたため、免疫力が低い可能性が高い(ただし、この点に関してはまだ科学的根拠は不十分のようにも考えられる)。   ところが、オミクロン株は、これまでの政策では封じ込めることがほぼ不可能に見える。その結果、同社は中国政府が政策転換を強いられるだろうと見込む。要するに、これまで信じられないほど成功を収めてきた中国だが、オミクロン株が政策の抜け穴をつき、逆説的にも中国現地人の低い免疫力が裏目に出るということだ。また、今後の政治日程を勘案すると、これまでの成功体験が政治指導者の方向転換を阻む足かせになり、ロックダウンの繰り返しにつながる可能性もあるとされる。   こういった状況下では、中国が一翼を担っているグローバル・サプライチェーンの乱れにより生じる悪影響も懸念される。その「前触れ」は実際に中国各地で既に目撃されている。西安では武漢以来最も長い33日間も封鎖が続き、食料品流通や医療体制にも問題が起きた。サムスン電子や米マイクロンの半導体工場も操業中止に追い込まれた。天津でも同様の措置でトヨタ工場が打撃を受けている。北京冬季五輪の開催地である北京市豊台区では感染者が次々と確認されている。オミクロン株を完全に抑え込んでいないにもかかわらず、春節(旧正月)を機に中国内では移動が活発になっている。一部の地方政府からは再び移動自粛が再び求められている状況だ。感染力がより高い「ステルス・オミクロン(PCR検査で他の変異と区別が困難な特徴を持つとされる)」も確認されており、ゼロ・コロナ政策は正念場を迎えている。   コロナ禍以降、様々な「政策モデル」の可能性が試されてきたが、次々と失敗(敗北)してきている。韓国しかり、日本しかり、オーストラリアしかり(ただしこの国々が他国に比べ死者が少ないのは事実である)で、次は中国がそれを経験する可能性が高まっている。結局は「どの形でコロナと共存するか」が課題であり、コロナそのものを封じ込めることは極めて困難になっている。これは人間が依然として自然を前にしては謙虚にならざるを得ないという、「当然の教訓」なのかもしれない。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 一橋大学法学研究科特任講師。2020年度渥美国際交流財団奨学生。2021年、同大学院博士後期課程修了(法学博士)。延世大学卒業後、新聞記者(韓国、毎日経済新聞社)を経て2015年以後、一橋大学院へ正規留学。専門は東アジアの政治外交及びメディア・ジャーナリズム。現在、韓国のファクトチェック専門メディア、NEWSTOFの客員ファクトチェッカーとして定期的に解説記事(主に日本について)を投稿中。     2022年2月10日配信  
  • 2022.02.03

    エッセイ695:謝志海「格差の連鎖を断ち切る」

    今、世界でまん延する格差。とにかくバラエティに富んだ格差がある。所得格差、教育格差、地域格差、そしてワクチン格差なるものまで。どの格差も一見して、今すぐその差を縮めるべきだ!と目を覆いたくなるが、さらに悪いことにこれらの格差は連鎖すると言われている。   特にひどい格差の連鎖は、所得と教育ではないだろうか。所得に格差があると塾などで教育を受ける機会が減少し、受験に不利な立場に追いやられ、レベルの高い大学へ進学できる可能性が低くなる。ひいては給料の高い安定した企業に就職できなかったり、社会人のスタートから正規雇用がかなわなかったりして、次の世代へも高度な教育機会を与えられないという負の連鎖のことだ。この負の連鎖が何世代も続いてしまったらと考えると恐ろしい。しかし、これは日本に限らず中国や韓国でも問題視されている。教育格差における日中韓の共通点は塾をはじめとする受験産業が盛んなことと、大学入学にあたっての入学試験を避けられないという2点だ。   ただし、大学入学試験の部分だけを切り取ると、日本の受験生のプレッシャーはまだマシな方で、中国では全員が「高考(ガオカオ)」というたった一つの試験を受け、その結果だけで進学先が決まってしまう。韓国はみんながトップ中のトップの名門大学に入りたがる。しかし、その数はたった数校。それら数校の卒業生しか給料の良い財閥系の企業には就職できないことをみんな知っているからだ。そう、誰もが格差の下の方には位置したくないのに競争は年々激化し、格差は広がるばかりである。   従って教育格差を受けている者、すなわち今の若い世代の格差疲れは察するに余りある。2021年に初めてNetflixで配信された韓国ドラマ「イカゲーム」はまさに格差社会がテーマで、韓国のみならず日本やアメリカでも大人気となっている。受験戦争がテーマではないが、まさに韓国の格差社会の底辺にいる人たちが主役で、賞金目当てに命がけで子どものゲームに挑戦し、そのゲームの脱落者は死を意味する。このドラマの人気の背景は過酷なゲームシーンだけでなく、ゲーム挑戦者である主要キャラクターそれぞれが抱える闇、階級の低い立場になってしまった過程をじっくり時間をかけて描写したことが視聴者の心をつかんだのだろうと言われている。   このような格差社会への共感に激しく問いかけるストーリー作りについて韓国は得意なようで、「イカゲーム」より前、まだ記憶に新しい映画「パラサイト半地下の家族」(2019)は裕福な家族と生活に困窮した家族のみで繰り広げられる物語で、中間層が一切出てこないことにより、ぞっとするぐらいストレートに韓国の格差社会を浮き彫りにした。この先も手法を変えつつ格差社会をテーマとした作品は生み出され、ヒットしてしまうのかもしれない。   話を中国に移そう。中国では、最近「寝そべり族」という言葉がはやっている。この流行語の背景にも激しい格差社会が横たわっている。競争に疲れた若者を中心に、どうせいくら頑張っても格差が縮まらず、上に行けないのなら、いっそ頑張らないことにする、というのが寝そべり族だ。政府は格差社会を根本からただすため「共同富裕」というスローガンを掲げ、過熱する受験産業にとうとうメスを入れた。   2021年7月に中国政府はなんと「学習塾禁止令」を発表、小中学生の学習負担を減らし、学習塾は営利企業としての営業を認めない政策を打ち出した。学習塾は一般家庭の家計を圧迫し、少子化の深刻化にもつながる問題だからだ。例えば北京や上海等の大都市では1カ月の塾代だけで日本円で10万円もかかるケースも少なくない。大げさではなく本当だ。塾に通えない学生は、当然名門大学に入れるチャンスは少ない。さらに北京大学等の名門大学に合格できる学生は、農村部出身の学生の割合が年々低くなっていることも問題であり、受験産業はやはり大きな都市で盛んなことが浮き彫りとなっている。また、農村部と都市部の地域格差はもとより、都市部内でも所得格差が広がっていることも深刻で、学習塾禁止令だけで教育格差が縮まるかどうかは分からない。   日中韓、どれを見ても所得と教育の格差の連鎖は断ち切ることだ。インフレも進む中、所得の格差はそう簡単に収まりそうにない。ならば教育の方から正していくしかない。まずは学校教育以外にも塾などに多大なお金を積まなければならない受験戦争の緩和と、どの大学に入っても社会の上を目指せる機会を作ることだと思う。特に中国と韓国は大学入試でその先の人生が決まってしまうようなシステムから変えていくべきだ。日本は大学の数が多いことと、大学それぞれが特徴ある学部やカリキュラム作りで個性を出し始めていて、ランキング(偏差値)に偏重し過ぎていないところは中国と韓国が見習う点だと思う。   では日本の格差の是正はどうすれば良いかというと、高校生に対しても民間奨学金の種類を増やし、また奨学金を得る情報を分かりやすくすることだろう。このエッセイ執筆中に偶然お店で見かけたポスターは、ある大手企業の財団の支給型奨学金制度だった。なんと中学生から奨学金を支給している。金額的にも塾の月謝はまかなえる額だ。「うちは奨学金なんて無理」と諦めずに探せば、何かしらのチャンスに出会えるかもしれない。また貧困率が高い傾向にあるひとり親家庭の補償を厚くすることは民間企業だけに頼らず、政府や市町村の助けがますます必要となってくる。これは生活困窮家庭にお金をたくさん配れと言いたいのではなく、街なかの空きスペースを市町村が借り上げ、自習室として無料開放するだけでも十分助けになると思う。全ての高校生に教育機会を増やし、受験機会を平等に近づけていくことが格差の底上げにつながると思うのだ。   英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2022年2月3日配信    
  • 2022.01.23

    エッセイ694:李貞善「記憶の地、国連墓地が遺すもの」

    こんにちは、先生。 私は韓国放送公社(KBS)プロデューサーのMと申します。当放送局では国連記念公園建設70周年を迎え、国連記念公園の意味に光を当てて、朝鮮戦争に参戦した国連軍兵士を振り返る特集ドキュメンタリーを制作しています。最近、国連記念公園が世界遺産に登録される可能性についての先生の論文を拝見してご連絡いたしました。(中略) 可能であれば、国連記念公園の変遷と意味、評価についてインタビューをお願いできますでしょうか?国連記念公園のY局長のお話では、先生は論文の最終作業中とのこと。お忙しいところ誠に恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。   2021年夏、博士論文の執筆と将来の計画で頭がいっぱいになっていたある日、私に一通のEメールが届いた。得体の知れない力に引かれ、私はすんなりとメールの依頼を承諾した。これを以て、約4カ月にわたる短いながら運命的な道のりが始まった。私が学術顧問(監修)として参加したKBS釜山の特集ドキュメンタリー「記憶の地、国連墓地」との出会いだった。   後で分かったことだが、このドキュメンタリーは別のタイトルを持っていた。最初のタイトルは「忘れられた戦争、その後」。一見平凡に聞こえるこのドキュメンタリーの方向性を転じさせ、番組を貫く基本概念として「記憶」を提示したのは、私のささやかな貢献の一つである。執筆中の博論のタイトルが「記憶の場としての国連記念公園:戦争墓地の文化遺産化」であることを勘案すれば、タイトル間の密接な関連性がうかがえる。   学術顧問に委嘱された私は、8月から9月にかけてZOOMを用いて本格的なアドバイスを行った。担当のプロデューサーが国連記念公園に関する拙論を読んだ後、質問や気になる点をまとめて事前に送ってくる。ZOOMミーティングを通してそれに答えるとともに、必要に応じて補足資料となる歴史文書や写真を提供した。私が提供した1950年代の映像をKBSが原作者に問い合わせて使用許諾を得ただけでなく、著作権を購入したこともあった。   ドキュメンタリーは、朝鮮戦争が勃発して以来71年が経った今日も行われている戦没者遺骸の発掘と、韓国政府国防部遺骸鑑識団による個人識別の話から始まる。主人公の国連墓地に眠っている奉安者(国連軍兵士)のみならず、その奉安者を取り巻く多様な人物が登場して物語を紡いでいく。   戦争のさなかであった1951年、戦場に残された戦友(戦没者)たちの遺体を収集して国連墓地に埋葬した元国連軍兵士(James Grundy氏、90歳)、国際追悼式「ターン・トゥワード・プサン(釜山の方を向け)」の提案者であるカナダの元国連軍兵士(Vincent Courtenay氏、87歳)、英国の元国連軍兵士(Brian Hough氏、88歳)、20歳の若さで戦没したこの公園の奉安者(Michael Hockridge氏)、彼の生前の友達、朝鮮戦争での武功でヴィクトリア十字章(Victoria Cross、英国および英連邦の軍人に授与される最高の戦功章)を授与されたWilliam Speakman氏の遺族、等々。同時に、未だ名前を取り戻すことのできなかった無名勇士や数多い行方不明者など、戦争という巨大な暴力の装置に巻き込まれた名しらずの存在にも光を当てる。   ZOOMを通してアドバイスをしていた時、プロデューサーが私に「物語が(それを伝える)人を訪ねていくでしょう」と語ったことがあった。   この言葉が意味するのは、結局「必ず巡り合うものなら、この世の中で会える運命」ということなのだろう。博士課程を始める時に、博論テーマの探索でずいぶん頭を抱え込んでいた時期がふと頭をよぎった。「記憶の地、国連墓地」に宿っている数々の物語が、それを伝える語り部として自分を訪ねてきた今の状況と絶妙に重なるように思われた。その意味で、名前を取り戻して国連記念公園に眠っている奉安者たちや、まだ名前を取り戻すことのできなかった人たち、このドキュメンタリーのプロデューサー、そして渥美国際交流財団の奨学生たちは、もしかすると私がこの人生で会う運命であったかもしれない。   国連墓地が伝える話は、決して今・こことかけ離れた過去の戦争に限定されない。むしろ私たちは記憶の地であり、忘却の地でもある国連墓地という死者の居場所をめぐって、生と死、戦争と平和といった二項対立的な諸境界を行き来しつつ行われてきた戦没者及び存命の元兵士の身体と向き合う。これを以て、過去のイデオロギー対立がもたらした死の居所・戦争の痕跡は、21世紀地球社会を生きる私たちが目指すべき姿を提示してくれる。このような省察こそがドキュメンタリー「記憶の地、国連墓地」が生きた遺産として戦後世代に遺すレガシーなのではないか。   「記憶の地、国連墓地」(写真集)   YouTubeのリンク「記憶の地、国連墓地」(予告編)   英語版はこちら     <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、UNESCO関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。     2022年1月27日配信
  • 2022.01.13

    エッセイ693:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2021年秋」

    2021年8、9月、私は1年7ヶ月ぶりにモンゴル国に行ってきた。   新型コロナウイルス感染拡大の影響で、モンゴル国は2020年2月中旬より外国人の中国からの入国を禁止し、同月末にはモンゴルと日本、韓国などの国との便の運航が停止した。その後、モンゴル国外務省、保健省は外国人の入国に関する規定を何度も変えた。一方、日本のマスコミにも報道されたように、何度も延期された待望の新ウランバートル国際空港が2021年7月4日に開港し、成田国際空港・日本空港ビルデング・JALUX・三菱商事といった日本企業連合とモンゴル政府の「新ウランバートル国際空港合同会社」による運営が始まった。それにともなって、長さ32キロあまり、6車線(片側3車線)の新空港とウランバートル市内を結ぶ高速道路も開通した。日本――モンゴル間の便が昨年後半に再開されたが、新ウランバートル国際空港の開港により、両国間をつなぐ航空便が増えた。   私は、大韓航空の便で8月25日に成田空港を出発し、当日仁川空港で一泊して、翌26日に新ウランバートル国際空港に着いた。成田空港での審査は非常に厳しく、ワクチン接種証明書、PCR陰性証明書の提示を3回、モンゴルでの最初の7日間の宿泊予約証明書の提示を2回、求められた。また、何回も検温された。仁川空港での乗り継ぎは意外にも何の書類も求められず、何の質問もされずに、すぐ手続きを済ませた。ウランバートル空港に着いたら、「厳しい」というより、待つ時間が長かった。検温、入国手続き、健康に関する質問書の提出、PCR検査、荷物の受け取りという流れだったが、2時間近くかかった。   新空港を出て、高速道路は渋滞がなく(そもそも空港の便数が少なく、新空港――ウランバートル高速道路の利用者が少なかった)、30分でウランバートル市内に入った。しかし、そこからは交通渋滞で、ホテルに着くのに1時間以上もかかった。街では、多くの人がマスクを着けているだけで、それ以外は、2年前のウランバートルと何も変わっていない。   「どういう風にしてモンゴルに行ったのか教えていただきたい」とか、「モンゴルに行きたいと思っていますが、いろいろハードルが高そうで…」とか、私がウランバートルについたと知った日本の知人から、日本での出国、韓国での乗り継ぎ、モンゴル入国に関するさまざまな質問が相次いだ。それを答えるのに毎日深夜までメールのやり取りをして、それは1週間ほどもつづいた。   9月4日、昭和女子大学国際文化研究所と公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会、モンゴル国立大学社会科学学部アジア研究学科の共同主催、渥美国際交流財団、昭和女子大学、モンゴルの歴史と文化研究会、「バルガの遺産」協会の後援で、第14回ウランバートル国際シンポジウム「日本・モンゴル関係の百年――歴史、現状と展望」がモンゴル国立大学2号館4階多目的室で対面とオンライン併用の形で開催された。90名ほどの研究者、学生等が参加した。   2021年は、モンゴル国建国110周年、モンゴル革命百周年、そしてモンゴル民主化40周年、さらに日本のモンゴルに対する政府援助資金協力再開40周年にあたる。百年の日モ交流の成果を振り返り、同時に東アジア各国の国際関係の現状や課題を総括するに当たって、日本・モンゴル関係を基軸に据えることは独自の意義がある。日本、モンゴル、中国等の代表的な研究者を招き、新たに発見された歴史記録や学界の最新の研究成果を踏まえて、歴史の恩讐を乗り越えた日本とモンゴルの友好関係の経験から得られる知見を発見し、その検討を行った。   開会式では、モンゴル国立大学社会科学学部アジア研究科Sh.エグシグ(Sh. Egshig)科長が開会の辞を述べ、渥美国際交流財団関口グローバル研究会今西淳子代表、モンゴル国立大学社会科学学部D. ザヤバータル(D. Zayabaatar)部長が祝辞を述べた。その後、前在モンゴル日本大使清水武則氏、モンゴル科学アカデミー会員・前在キューバモンゴル大使Ts.バトバヤル(Ts.Batbayar)氏、東京外国語大学二木博史名誉教授、ウランバートル大学D.ツェデブ(D.Tsedev)教授、大谷大学松川節教授、モンゴル国立大学J.オランゴア(J.Urangua)教授、日本・モンゴル友好協会窪田新一理事長、モンゴル科学アカデミー歴史と人類学研究所B.ポンサルドラム(B.Punsaldulam)首席研究員など、日本、モンゴル、中国の研究者16名(共同発表も含む)により報告がおこなわれた。オンラインではあるが、今西さんが久しぶりにウランバートル国際シンポジウムに参加されたことは、たいへん注目され、歓迎された。   同シンポジウムについては、モンゴルの『ソヨンボ』などの新聞で報道された。日本では、『日本モンゴル学会紀要』第52号などで同シンポジウムについて紹介される予定である。   シンポジウムを終えて、9月9日から20日にかけて、私は「“チンギス・ハーンの長城”に関する国際共同研究基盤の創成」という研究プロジェクトで、ドルノド県で「チンギス・ハーンの長城」に関する現地調査をおこなった。J.オランゴア教授、モンゴル国立大学社会科学学部考古学学科U.エルデネバト(U.Erdenebat)教授、Ch.アマルトゥブシン(Ch.Amartuvshin)教授、「バルガの遺産」協会Ts.トゥメン(Ts.Tumen)会長などが同調査に参加した。その調査では予想以上の大きな成果をおさめた。その詳細は、別稿にゆずりたい。   モンゴルでのPCR検査の情報の提供など、今回のモンゴル出張において、在モンゴル日本大使館伊藤頼子書記官にはたいへんお世話になった。ここで記して感謝申し上げたい。   シンポジウムと調査旅行の写真   英語版はこちら   <ボルジギン・フスレ BORJIGIN Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)他。       2022年1月13日配信  
  • 2022.01.06

    エッセイ692:于寧「笹本さんと日中友好」

    先日、論文を書いている時に一本の電話がかかってきた。小諸市日中友好協会の笹本さんだった。最近は論文の執筆で忙しくて、しばらく連絡を取っていなかった。笹本さんはその日に映画のイベントがあって、中国映画史を専門にしている私のことを思い出したから、連絡してくれたようだ。   出会ったのはまだ大学生の時だった。小諸市日中友好協会は母校の南京大学との親交が深く、南京大学で「中国藤村文学賞」を主催するほか、日本文化に対する理解を深めるために南京大学の学生を対象にホームステイ招待活動も行ってきた。自分が初めて日本に来たのも小諸市でのホームステイで、笹本さんはホストファミリーのお父さんだった。   笹本さんご夫婦と一緒に過ごしたのは一週間にもならなかったが、私の人生に大きな影響を与えたものになった。家族の一員として受け入れてもらい、日本人の日常生活に溶け込んだ貴重な文化体験ができた。浴衣を着て市民祭りで踊ったり、山頂にある地元の有名な温泉や観光名所の懐古園などに案内してもらったり、お母さんが畑で栽培した野菜の収穫を手伝ったりして、小諸の豊かな自然と文化を肌で感じ、教科書だけでは伝わらない日本文化の魅力を感じ取った。この経験は後に自分の日本への留学という決断にもつながったのだ。   小諸に滞在する間にいろいろ新鮮な体験をしたが、一番印象に残ったのは何よりも笹本さんの日中友好に対する情熱だった。笹本家に着いた初日に、笹本さんは日中国交正常化の歴史に関する書籍を私に贈り、隣国同士として再び戦争を起こさないように仲良く付き合っていこうと熱く語り、日本語を専攻する自分に日中友好の架け橋になってほしいという期待を示した。その会話から、笹本さんがワイン醸造の会社に勤めていたが、退職後に日中友好事業に専念するようになったことが分かった。そのきっかけについて聞かなかったが、中学校まで中国の瀋陽市(当時は奉天)にいたと話してくれたから、幼少期を中国で過ごしたことと、日中戦争を経験したことに関連しているだろうと推測できた。笹本さんの一人の民間人として、民間での交流活動を通じて両国民の相互理解と友好関係を深めようとする姿に強く感銘を受け、帰国後に南京で行われた日中交流活動に積極的に参加するようになった。   帰国後は笹本さんと文通をしていたが、日本留学が決まったことに大変喜んでくれた。日本で受験勉強をしていた時には、小諸からリンゴを送ってくれて、受験を励ましてくれた。入学式には私の家族として、わざわざ小諸から出席してくれた。数年前までは瀋陽の中学時代の同級生たちが東京で同窓会を開催していたが、それに参加する度に私と会っていた。小諸に招待したり、東京で開催された「中国映画週間」に誘ったりして、コロナになる前はほぼ毎年会ってくれていた。その間も訪中団を引率して中国での交流活動を行ったり、中国の大学生を日本に招待したりして、日中友好事業も継続していた。笹本さんは私との親交だけでなく、日中友好のためにその努力する姿も私の留学生活の大きな励みになった。   2015年に、戦時中に国策で中国東北部に送り出された「満蒙開拓団」が敗戦後に置き去りにされたことで生まれた中国残留日本人孤児の問題を取り上げた映画『山本慈昭 望郷の鐘~満蒙開拓団の落日』(監督:山田火砂子、2015年)を見て、笹本さんが全身全霊で行ってきた日中友好事業に対する理解を深めることができた。映画の主人公である山本慈昭さんは笹本さんと同じく長野県出身で、敗戦の3か月前に開拓団を引率して中国東北部に送り込まれたという。映画を通じて最も多くの開拓民が送り出された長野県の当時の歴史を知ったことで、小諸でのホームステイや笹本さんとの親交の意義に対して異なる認識ができた。   また映画のエンディングロールに表示された後援に、全国の日中友好協会がリストされ、その数の多さに驚いた。日本各地、特に農業地域にこれほどの日中友好協会が存在していることは知らなかった。各地における多くの日中友好協会の設立は戦時中に行われた「満蒙開拓団」派遣という負の遺産に立ち向き合うことに関連しているだろう。笹本さんが瀋陽に渡った経緯や中国東北部からの引き揚げなど、彼個人の経験は映画で描かれたものと異なるかもしれないが、戦争の経験者として当時の歴史に向き合おうとする姿勢から日中友好事業に身を捧げる原動力が生まれたといえよう。   コロナになってから笹本さんと会うのが難しくなり、彼の日中交流活動にも大きな支障が出ている。今年は南京大学創立120周年記念で、ちょうど「中国藤村文学賞」の授賞式も予定されているが、中国に行けるかどうかは未知であるという心配を電話で明かしてくれた。それ以外もいろいろ困難がある。今年で91 歳になる笹本さんはまだ現役で頑張っているが、小諸市日中友好協会の会員に若い世代の人が少ないことを懸念しているようだ。   コロナの影響で今までの交流が難しくなったのは事実で、後継者も大きな問題になるだろうが、異なる領域で様々な形の日中交流は中断なく行われ続けている。例えば、渥美国際交流財団は「日本・中国・韓国における国史たちの対話」や「チャイナ・フォーラム」などの学術イベントを主催することを通じて、東アジアにおける相互理解を深めようとしてきた。このような学術交流は研究者を目指している自分に方向性を示してくれた。自分の研究に可能性を感じ取っており、これからは日中映画交流に関する研究や実践を通じて、日中両国民における相互理解を促進することを試みたい。笹本さんの期待に応えられるような形で。     英語版はこちら     <于寧(う・ねい)YU Ning> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。中国出身。南京大学日本語学科学士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士前期課程修了。研究テーマ「中国インディペンデント・クィア映像文化」「中国本土におけるクィア運動の歴史」。     2022年1月6日配信