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2011.03.09
(第10回日韓アジア未来フォーラム報告)
一年ほど前の2010年2月9日、韓国の慶州で「東アジアにおける公演文化の発生と現在:その普遍性と独自性」というテーマで第9回日韓アジア未来フォーラムが開催された。今年の2月は、その続編として日本の慶州とも言うべき奈良で奈良時代の仏教文化の日中韓三国流伝について検討する運びとなった。第10回フォーラムの正式なタイトルは「1300年前の東アジア地域交流」であった。
昨年度の慶州フォーラムで奈良から空輸してきた一升瓶の「春鹿」が目の前で消えてしまう大事件があったのは記憶に新しい。今回のフォーラムは、武蔵野美術大学の陸戴和さんのご案内で興福寺及び国宝館を見学することから始まったが、目玉は今西酒造「春鹿」の酒蔵見学及び利き酒だったのかもしれない。これできっと遺恨を散ずることに成功したのではないかと思う。もちろん、三日連続の日本の素晴らしい仏教文化や世界遺産の見学も貴重な経験だったが(個人的には三日でこんなにたくさんの仏さんに出会ったのはこれまでもなかったし、これからもないだろうと思う。)、「春鹿」でちゃんとけじめをつけることができたのもよかった。
フォーラム当日、私の予想からしては「満員御礼」に近いレベルの聴衆に驚いたし、講演内容の整合性にも感動を覚えた。いま考えてみると、本当に形式、内容、そして番外の三拍子が揃った素晴らしいフォーラムが出来たと思う。今回のフォーラムで、私はとりわけ文化交流やその解釈においてはエスノセントリズム(ethnocentrism、自民族中心主義、自文化中心主義)が付きまとうものなのかという問題について考えてみた。
奈良という地名の由来については朝鮮半島起源説があり、韓国人の間では結構受けがいいようだ。韓国語で「なら」と発音される言葉は日本語の「国」を意味する。韓国語の「なら」が日本に渡って当て字され、奈良となったというわけだ。百済(くだら)の日本語読みについても同様の文脈で説明することができる。大きいという意味の韓国語である「クン」が「なら」の前に付くと大きい国を意味するが、「くんなら」から「くだら」へと自然に読み方が変わったというのだ。当時の日本にとって百済は大きい国であったわけだ。この類のものは決して少なくない。
韓国で地域によっては奈良漬(ならづけ)という言葉が今でも通じる。日本とまったく同じことを指しているのだが、日本帝国時代の名残といって言葉の使用には慎重さを要する。日韓交流の歴史的な経緯を考えると、「なら」という言葉に込められている二重の含意はそれほど驚きに値しないものなのかもしれない。
昨年奈良を中心に開催された一連の平城京遷都1300年の祝賀イベントからも覗えるように、奈良時代には唐の都長安を中心とした東アジア文化圏が形成されていた。名古屋大学の胡潔さんの発表によると、仏教・律令・漢字などがこの文化交流圏の共通基盤をなしており、国家間の外交を担う「遣隋使」、「遣唐使」、「渤海使」、「新羅使」などの使者、唐の文化を学ぶために派遣された学生・学問僧達が中国、朝鮮半島、日本の間を行き来し、外交や文化の伝播の役割を果たしていた。既に1300年前からこの地域には素晴らしい文化交流があったのだ。
このあたりで韓国伝統文化学校の金尚泰さんによる仏教文化に関する興味深い発表を紹介しよう。古代東アジア地域における双搭式伽藍配置の背景としては護国伽藍や密教関連の伽藍が挙げられるが、このような空間構成の原理は日本の双搭伽藍においてもその関連性を見出すことができるという内容である。7世紀から8世紀の東アジア地域では仏教が盛行し、寺院では、二つの塔を金堂の前に配置する「双搭式伽藍配置」が流行したという。しかし、中国では、このような形式の伽藍配置として現存している事例はまだ確認されていない。韓国の場合は、多くの寺院がこのような配置を継承しており、奈良(西の京)の薬師寺の伽藍配置のモデルとなったという。
統一新羅時代の朝鮮半島で花を咲かせた双搭伽藍が中国とは別の独自なルートで日本に影響を及ぼしたということが指摘されているわけだ。ややもすれば1300年前の仏教をめぐる素晴らしい交流文化がエスノセントリズムに染められかねないところでもあった。金尚泰さんは最後まで中庸を守りきったと思われるが、エスノセントリズムの甘い誘惑から自由にいられる韓国人はどのぐらいいるだろうか。
以上の話は、仏教文化には門外漢である一韓国人として、あくまでも韓国を愛し、真の日韓交流を求める立場からの自己批判でもある。ところが、いうまでもなく、エスノセントリズムは韓国人の専有物ではあるまい。異文化交流には常に自文化中心主義の落とし穴が隠されている。日韓アジア未来フォーラムは、これまでそうだったように、これからもエスノセントリズムという共通の敵と戦いながら東アジア地域交流を積極的に進めていく場になってほしい。
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<金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee>
ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。
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フォーラムのプログラム等はここからご覧ください。
フォーラムの写真は下記よりご覧ください。
金ミンスク撮影
金 香海撮影
葉 文昌撮影
2011年3月9日配信
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2010.11.03
2010年10月16日(土)午後2時30分より、東京国際フォーラムガラス棟会議室において、「ポスト社会主義時代における宗教の復興」というタイトルで、第39回SGRAフォーラムが開催された。本フォーラムの開催はSGRA「現代社会と宗教」研究チームが担当した。「ポスト社会主義」と「宗教」という、多くの人々にとって馴染みの薄いテーマで、どれほど関心を呼び起こせるかという不安が少しあったが、講演者とパネリストの他50名を超える参加を得、現代社会における宗教に対する強い関心がうかがえた。
今西淳子SGRA代表の開会挨拶後、カバ加藤メレキさん(筑波大学大学院・SGRA研究員)の司会進行で、四つの発表が行われた。最初に、エリック シッケタンツ(東京大学死生学研究室・SGRA研究員)が問題提起と背景説明として、「ポスト社会主義」という概念を説明した後、ポスト社会主義と宗教というテーマの直接的背景となっているカール・マルクスの宗教批判と社会主義時代における宗教政策を概観的に紹介した。そして、ポスト社会主義諸国における宗教復興を社会主義時代との連続/非連続という二分法の観点から捉える必要性を指摘し、脱私事化、ナショナリズムとの関連、市場化等、ポスト社会主義諸国における宗教復興に関して注目されている主な要点を説明した。
続いて、井上まどか研究員(清泉女子大学キリスト教文化研究所)が「ロシア連邦におけるキリスト教の興隆」というタイトルで、1980年代後半の宗教復興から現在まで、ロシアにおけるキリスト教の発展と国家の宗教に対する政策についての発表を行った。井上さんはロシアの宗教復興を大きく二つの時期に分け、90年代半ばまでの第一期においては、外来宗教教団活動の自由化と資本主義化への過程に対する不満を特徴として取り上げた。そして、現在まで続いている第二期の特徴は、ロシア正教(キリスト教)、イスラーム、仏教とユダヤ教から構成される「伝統宗教」と国家との連携が顕著になったことだと言及した。第一期において、宗教の「市場化」現象が見られたのに対し、第二期では連邦統治のためのイデオロギー模索など、国家と宗教の関係があらわになった。最後に、社会主義時代との連続と非連続の問題に言及し、国家による宗教の管理など、宗教政策において社会主義時代との連続が見られるが、価値教育や伝統宗教をめぐる書物と機会の増大という新しい現象に見られるような大きな相違もあると指摘した。
次に、ティムール・ダダバエフ准教授(筑波大学人文社会科学研究科)が「中央アジアにおけるイスラームの復活」について発表し、社会主義時代の中央アジアにおける宗教の位置づけを紹介した後、社会主義終焉後のイスラームの変容と役割について報告した。氏は、ソ連時代でも、各家庭における日常的なイスラームの実践は比較的自由に行うことができたことを強調した。続いて、今日の中央アジアにおけるイスラーム原理主義と過激派の背景、そしてそれに対する国家の対応を紹介した。グローバルな原理主義運動との関係を指摘し、いくつかの過激派や原理主義の組織と活動を紹介した後、その支持基盤、拡大要因と拡大方法に言及した。社会主義体制崩壊後に生じた経済状況の悪化が生み出した不満はこれらの運動の重要な支持基盤の一つだと指摘し、中央アジア諸国における民主化の不十分さと政府の人権侵害も原因として取り上げられた。国家の対応としては、過激派に対して「正しい」イスラームを唱え、日常イスラームを支持し、イスラーム大学などの宗教教育施設を設立するという政策が見られる。日常のイスラームはソ連時代から継続されているため、ソ連後の中央アジアにおける宗教の復興の特徴は政治的なイスラームの復活にあると指摘した。
最後の発表者、ミラ・ゾンターク准教授(立教大学文学部・SGRA研究員)は「中国のキリスト教:土着化の諸段階とキリスト教の社会的機能」という発表を行った。中国におけるキリスト教の歴史を概観的した後、主に中国基督教協会や三自愛国運動委員会など、国家の管理下で形成されたキリスト教組織と国家管理の枠組外において存在している非公認の地方召会を中心に現在の状況を紹介した。キリスト教に対する迫害件数の増加を指摘した一方、中国政府内におけるキリスト教への注目やキリスト教信者の膨大な増加を指摘した。また「Boss Christians」、つまり私営企業を持っているキリスト教徒という現象にも言及した。この「Boss Christians」の多くは女性であり、その思想的背景にはカルバン主義的職業倫理が見られ、近年の興味深い現象である。また、2013年に韓国のプサンで開催される世界キリスト教協議会(WCC)に中国代表団が参加する予定であることを紹介し、今後の中国のキリスト教の発展を注目する必要性を強調した。
パネルディスカションは、島薗進教授(東京大学宗教学研究室・SGRA顧問)が司会を担当した。まず陳継東准教授(武蔵野大学人間関係学部)が1979年の改革開放期以来の中国における宗教政策の変更についての説明を行ない、中国仏教の現状を紹介した。改革開放期以来、中国政府の宗教に対する態度は緩和したと言えるが、国家が依然として宗教を管理し、国家統一と愛国心高揚の政策の中へ取り込んでいるという、1990年代以降の宗教政策の変化が指摘された。
その後、フロアからの質問にもとづいた議論が行われた。各発表についての質問の他、特に社会主義国家とそうでない国家における宗教統制の比較とポスト社会主義概念自体が大きな論点として出された。時間の制約により、この議論は午後6時10分前に嶋津忠廣SGRA運営委員長の閉会挨拶によって終わらざるを得なかったが、その後の懇親会において再び賑やかに続けられた。
以前の発展論と近代化論の主張に反して、現代社会において宗教はさらに大きな影響力を持っている。社会主義という経験を持つ国は多く、その文化的背景が多様なため、一括して取り扱うことは困難であるが、本フォーラムにおいて今日の世界における宗教情勢の重要な側面を多く取り上げることができた。しかし、「ポスト社会主義」という枠組み自体がさまざまな問題点を含んでいることを痛感して、このテーマはさらなる議論を必要とすることも感じた。
最後に、各発表者とパネリストを始め、本フォーラムの参加者の皆さんに感謝の気持ちを表したい。近い内に本研究フォーラムの成果をまとめたSGRAレポートを刊行する予定である。
*郭栄珠さんが撮影した当日の写真は、下記URLからご覧ください。
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<エリック シッケタンツ ☆ Erik Schicketanz>
1974年、ドイツ(プフォルツハイム)生まれ。2001年、ロンドン大学東洋アフリカ学院(日本学)修士。2006年、東京大学人文社会系研究科(宗教学宗教史学)修士。同年、東京大学人文社会系研究科宗教学宗教史学博士過程入学。現在、東京大学人文社会系研究科・特任研究員。趣味は、旅行と映画・音楽鑑賞。
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2010年11月3日配信
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2010.11.03
2010年9月15日、第5回SGRAチャイナ・フォーラムin北京が、北京外国語大学日本学研究センター3階多功能ホールで開催された。今回のテーマは「中国の環境問題と日中民間協力:北京の水問題を中心に」で、SGRA、北京外国語大学日本語学科、NPO法人緑の地球ネットワーク、日本国際交流基金北京日本文化センターの関係者が出席し、大学生および社会人が70名近く参加した。
開会挨拶で、北京外国語大学日本語学科長の于日平教授は、SGRAと日本語学科とのチャイナ・フォーラムの共同開催は日中民間協力の一環で、学生の環境問題への関心を高めるよいチャンスだとアピールし、日本語学科の歴史について紹介した。
次に、緑の地球ネットワークの高見邦雄事務局長が「大同からみる北京の後ろ姿」をテーマに、植林現場で取った写真を示しながら、基調講演を行った。国交正常化前年の1971年にご自身の訪中の歴史をスタートした高見氏は、1992年から山西省の大同を拠点に活動を展開し、合計3200名あまりの日本人ボランティアを現地に送り込み、大同の環境保全に尽力する一方、多くの日本人にも水の大切さを身をもって体感させた。さらに、北京の水源地の一つである大同で、首都の用水を保障するために水の使用が厳しく制限されていることを明らかにし、フロアを震撼させた。講演後、司会者を務めた筆者がSGRA研究員として感謝の意を表し、日本語学科を代表して学生着用の夏の制服を記念に贈呈した。
今までと異なり、今回のフォーラムではパネルディスカッションを設け、中国人民大学外国語学院の張昌玉助教授と苗東連合企画デザインコンサルティング会社の汪敏高級エンジニアをパネリストとして招いた。汪氏は「水:北京の発展を左右する鍵」をテーマに、北京の水環境の歴史と現状を紹介し、水こそ北京近代化のボトルネットだと主張し、北京の水環境の改善を提言した。一方、張先生は食事などの身近なことに着目し、肉の消費はとりもなおさず牛や豚が消耗した植物と水の消費でもあると力説し、人間が直接に植物を摂取する、いわゆるベジタリアニズムを訴えた。
質疑応答は、SGRA会員で北京語言大学の朴貞姫教授が進行役を担当し、高見氏も加わり、3名のパネリストはフロアの方々と熱烈な討論を行った。最後にSGRA今西淳子代表が閉会挨拶をし、SGRAチャイナ・フォーラムの趣旨を伝え、今後日中間の更なる民間協力を呼びかけ、来年北京での再会を約束した。
閉会後、関係者一行は口先だけでなく早速行動に移り、ベジタリアンの張先生の引率で精進料理を堪能した。草を食わない(大豆でできた)牛肉ステーキと水の中で成長するが泳げない(海草でできた)魚料理を楽しんだ。
*石井慶子さんが撮影した北京フォーラムの写真をご覧ください。
*第5回SGRAチャイナ・フォーラム(フフホト、北京)報告の中国語版は、SGRA in Chineseサイトよりご覧ください。
*中国国際放送局日本語部のホームページでも紹介されました。
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<宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang>
中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。北京外国語大学日本語学部専任講師。SGRA会員。
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2010年11月3日配信
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2010.10.20
第5回SGRAチャイナ・フォーラムinフフホト「パネルディスカッション:中国の環境問題と日中民間協力―地下資源開発を中心に」は、2010年9月13日(月)に、中国・内モンゴル大学で開催されました。緑の地球ネットワーク(GEN)と内モンゴル大学モンゴル学研究センターが協力し、国際交流基金北京日本文化センターが協賛した同フォーラムには、内モンゴル大学、内モンゴル農業大学、内モンゴル師範大学、内モンゴル財経学院、フフホト民族学院などの教師や生徒と、内モンゴル自治区農牧庁、内モンゴル図書館、NGO内モンゴル草原環境保護促進会などからの関係者約150人が参加しました。SGRA研究員のネメフジャルガルが司会を務め、内モンゴル大学副学長・モンゴル学研究センター主任のチメドドルジ教授が開会の挨拶をしました。チメドドルジ教授は、チャイナ・フォーラムを内モンゴル大学で開催したSGRAに謝意を表した後、内モンゴルの草原地帯における地下資源開発による環境破壊の実態および内モンゴルでの調査研究の進捗状況を紹介し、環境保護分野における海外の学者や民間人との協力の重要性を訴えました。
パネルディスカッションでは3人の報告が行われました。まず、緑の地球ネットワークの高見邦雄事務局長が『「得ること」と「失うこと」』というテーマで報告を行いました。高見さんは、1992年から山西省大同市の農村で緑化活動を実施してきた経験に基づき、山西省を中心に中国が直面している環境問題、特に土壌侵食、水資源の枯渇と汚染、地下資源の乱開発による環境破壊などを紹介し、「生産はすなわち消費です。得ることは失うことです。人は新たに手に入れたもの、快適なもの、便利なものは、すぐ認識します。その反面、その背後で失われているもの、なくなっているものを認識することはありません。」と指摘し、環境破壊の代価を負う「下流の人、未来の人」のために環境保護に力を入れなければならないと強調しました。
次に、内モンゴル大学民族学と社会学学院のオンドロナ副教授が『地下資源開発と内モンゴルの草原環境問題の現状分析』という報告をしました。オンドロナ先生は、地下資源開発の政策的背景を紹介した後、内モンゴル草原地帯における豊富な調査に基づき、写真やビデオを利用して、草原地帯における地下資源開発による環境破壊の現状を紹介しました。そして、政府と企業側が環境への配慮と現地住民の利益保護のために責任を負うべきであると指摘しました。
最後の報告者は滋賀県立大学のボルジギン・ブレンサイン准教授でした。ブレンサイン先生は、『黄金の仔馬がどこに消えたのか―資源開発と少数民族の存在』というテーマで、モンゴル各地で伝承されている黄金の仔馬の伝説を紹介して、開発に対するモンゴル人の伝統認識を分析し、モンゴル人の観念の中では、生態資源と地下資源は同一視された有機システムになっていると指摘しました。そして、開発利用という「正義」の裏に隠れている「遊牧時代遅れ論」や国営という「正義」の裏の社会的弱者の利益無視を批判しました。
報告後、三人の報告者と参加者による討論が行われました。パネル報告をめぐって学者、大学生、NGO関係者などからいろいろな質問や指摘があり、参加者たちが皆、地下資源開発と環境問題、日中民間協力問題に対して高い関心を持っているのが明らかになりました。また、高見さんの長年にわたる緑化活動への努力は学生諸君に大きな感動をもたらしたようでした。最後に今西淳子SGRA代表が閉会の挨拶をしました。今西代表はSGRAの趣旨や活動などを紹介し、今回のフォーラムが大成功を収めたことに対して、関係者各位に謝意を表しました。フォーラム終了後、懇親会の会場に移動し、皆杯を交えながら熱烈な討論を続けました。
フフホトの写真(撮影:中村まり子、石井慶子)
内モンゴル大学モンゴル学研究センターホームページのSGRAフォーラム報告(中文)
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<ネメフジャルガル☆ Nemekhjargal >
経済学専攻。中国内モンゴル自治区出身。1995年黒竜江大学卒業、フフホト市役所勤務を経て2002年日本留学。2009年3月亜細亜大学より経済学博士号を取得。同年より内モンゴル大学モンゴル学研究センター社会経済研究室講師。
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2010年10月20日配信
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2010.07.14
2010年7月3日(土)、東京商工会議所蓼科フォーラムにて、第38回SGRAフォーラム「Better City, Better Life:東アジアにおける都市・建築のエネルギー事情とライフスタイル」が盛大に開催された。今回は北九州市立大学が主催、渥美国際交流奨学財団関口グローバル研究会(SGRA)が共催という形で、日本学術振興会若手研究者交流支援事業の一環として、また東京商工会議所のご協力を得て実現した。
午前10時、フォーラムは、今西淳子代表と北九州市立大学の黒木荘一郎教授の挨拶から始まった。その後、SGRA環境とエネルギー研究チームのチーフで、北九州市立大学教授の高偉俊氏と国際人間環境研究所の木村建一先生が次のような問題提起をした。
巨大な経済圏を形成しつつある東アジアでは、国民生活の質が向上しエネルギーの使用が増大している。この地域の国々の間の格差はいまだに大きいが、エネルギー・環境の危機意識は共通している。人口問題、水・エネルギー問題、気候変動問題、都市化問題など、今後解決していかなければならない極めて重要なグローバルな課題が目の前に山積みされている。これらを解決していくのに、欧米発の新技術に頼るだけでなく、アジアに伝わる民衆の知恵を使って新しい展開ができるのではないか。
その後、東アジアの7ヶ国・地域の研究者が、それぞれの国や地域の環境とエネルギー事情及び開発に関する研究成果を発表した。
【インドネシア】Mochamad Donny Koerniawan(バンドン大学)「熱帯地域における都市の持続性とエネルギー研究:持続性と省エネにおける低所得層の為の高層ビル開発の影響」
【フィリピン】Max Maquito(フィリピン・アジア太平洋大学)「メガ都市マニラにおける環境的に持続可能な交通への挑戦」
【ベトナム】Pham Van Quan(ハノイ建築大学)「ベトナムの都市における省エネ対策」
【台湾】葉 文昌(島根大学)「台湾の省エネ意識と交通事情」
【タイ】Supreedee Rittironk(タマサート大学)「タイにおける必須エネルギーの代替案」
【韓国】郭 栄珠(土木研究所)「エネルギー環境の視点からみた韓国の都市における1日の日常生活及びその変化」
【中国】王 剣宏(日本工営中央研究所)「エンジニアの視点から見る地球温暖化及び都市インフラ建設について」
各国・地域からの発表の後、北九州大学の福田展淳教授のあざやかな進行に従って、パネルディスカッションが行われ、参加した世界各国からの留学生を含めて熱い議論となった。
東アジア各国の経済発展と都市化による環境汚染・交通渋滞等の問題は解決できるのか?経済発展が進むと生活の便利さを求めてより多くのエネルギーを使うことになるが、果たしてそれは必要なことなのか。そもそも、個人差が非常に大きい幸福を測る指数とは何か?これらは、実際、結論を簡単には見つけることの難しい地球・人類の未来への課題である。
しかし、このフォーラム自体が、国境という枠組みを超える地球環境問題に対して、当該分野における若手研究者の交流を通して国際的な協力体制が要請されているという背景で行われたものである。エネルギー・環境の危機意識に関して、参加した8ヶ国の代表研究者の答えはほぼ同じであったことが印象的だった。省エネや資源対策に関して、政府だけではなく国民一人一人が責任を持って対応し、一歩一歩着実に進んでいけば、特にこのフォーラムのように東アジア各国の優秀な若手研究者のリーダーシップがあれば、地球環境を救うことができるだろう。
午後6時、嶋津忠廣運営委員長の閉会の辞をもって、本会は無事に終了した。フォーラムの後、渥美国際交流奨学財団主催の懇親会が開かれた。渥美伊都子理事長が、各国から来たフォーラム参加者へ歓迎の辞を述べ、一緒に乾杯した。皆さんは美味しい料理を食べながら、一日の長い討論の疲れをもう忘れたように、フォーラムの話題を続けて議論していた。
(文責:王 剣宏、郭 栄珠)
当日の写真は下記URLよりご覧いただけます。
郭栄珠、マティアス撮影 運営委員撮影
2010年7月14日配信
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2010.03.17
~おかげさまでSGRAは10周年を迎えました~
2010年2月26日(金)小雨模様の東京の赤坂の鹿島KIビルで、渥美国際交流奨学財団創立15周年・SGRA(関口グローバル研究会)創立10周年の記念祝賀会が開催された。5年前の祝賀会と比べて一層盛大な会であったが、多くの「狸」の渥美財団(渥美理事長や今西常務理事)に対する感謝の気持ちを十分に実現できたと思う。
狸とは渥美財団の奨学生のことで、財団設立者渥美健夫氏が生前よく狸を描いていたことに因んでラクーン会という同窓会が組織されたため、その構成員は狸(あるいはRaccoon)と呼ばれている。ラクーン会のメンバー全員はSGRAの会員であるが、SGRAは開かれたネットワークであるから、そのメンバーは狸に限らない。尚、以下の狸年齢とは、渥美奨学生になった時から現在までの年数であるが、それは同時にSGRA会員歴を意味している。
祝賀会のプログラムは以下の通り。
◎第一部(司会:于暁飛)
開会挨拶 渥美伊都子理事長
来賓祝辞 畑村洋太郎選考委員長、明石康評議員
渥美財団15年・SGRA10年の歩みと展望 今西淳子常務理事(SGRA代表)
元奨学生の近況紹介(台北・ボストン・ソウルとのインターネットライブ中継)
和太鼓演奏
◎第二部 懇親会(司会:江蘇蘇、シム・チュンキャット)
今西代表が一年前の渥美財団理事会に提出した企画書がきっかけとなり、「AISF15★SGRA10」と名づけたプロジェクトが立ち上げられた。昨年夏のSGRA軽井沢フォーラムの時に、実行委員会の結成が提案され、秋になって正式に立ちあがった。6tanuki3というメーリング・リストが作られ、オンラインで頻繁に(多い時には1日20件くらい)、オフラインでも数回、実行委員会が開催された。「6」というのは実行委員の人数である(第二部の司会者たちの言葉で、狸年齢も加えると)エリック・シッケタンツ(1歳)、王剣宏(3歳)、シム・チュンキャット(4歳)、江蘇蘇(5歳)、全振煥(9歳)、そして僕マックス・マキト(15歳)。「3」というのは実行委員会を支えてくれたSGRAの石井慶子運営委員、嶋津忠廣運営委員長、今西代表である。
さて、実行委員のエリックは末っ子にもかかわらず、欧州梟の手配から当日のお手伝い人員募集やBGMまでたくさんの仕事をやりこなした。狸がまだ健在である筑波付近に住んでいる王は関口で行われた委員会までの長い道のりを何回も足を運んだ。バリトンの声とユーモアに溢れているシムは、委員会の財布を管理した唯一雌狸の蘇蘇と組んで、第二部の司会を務めた。財団やSGRAの良き支援者である鹿島の恩恵を受けている実行委員長の全は、今西代表と連携しながら、会場の設営準備、第一部のインターネットのライブ中継、第二部の鏡開き、ケーキやプレセントなど祝賀会の楽しいプログラムを仕切った。老狸の僕は皆に詳細な準備を任せながら、アンケート中間報告を中心に、パワーポイントの担当者として、これからの渥美財団とSGRAの将来を考える貴重な機会となる発表を準備した。
その他に、実行委員会と今西代表の呼びかけに応じてくれた狸もたくさんいて心強かった。当日の受付や会場案内にはベック(1歳)、ホサム(1歳)孫貞阿(1歳)、金英順(1歳)、梁明玉(6歳)、張桂娥(7歳)、マリア エレナ・ティシ(7歳)、インターネットライブには葉文昌(11歳)、ナリン・ウィーラシンハ(4歳)、撮影には郭栄珠(1歳)、馮凱(2歳)、陸載和(2歳)、看板や鏡開きには李済宇(6歳)、演台設営にはリンチン(1歳)、イェ・チョウ・トウ(1歳)、ルィン・ユ・テイ(9歳)が参加した。皆、研究や仕事で忙しい中、早くから駆けつけてお手伝いいただき、大きな力になった。この人たちを含め、51人もの狸が、祝賀会に駆けつけた。さらに、世界中の狸からこの祝賀会のために支援金が寄せられたことにも心から感謝したい。その他、SGRA賛助会員・特別会員、留学生支援団体、鹿島をはじめとする賛助企業などに参加していただき、また、たくさんの方々にご支援・ご協力いただきましたが、全ての方に御礼を述べきれなくてすみません。
「狸からの感謝」というテーマに加えて、この祝賀会で実感できたもう一つのテーマは「世界の狸」の存在だと思う。5年前には不可能だったインターネットライブを通して、台北の陳姿菁(8歳)と詹彩鳳(3歳)(+後ろで手を振っていたシステム担当の院生)、ボストンから眠そうな林泉忠(10歳)とケビン・ウォン(5歳)(ボストンは午前3時半だった)、「15」という字の飾りのついたチョコレートケーキを用意してくれたソウルの南基正(14歳)、韓京子(5歳)、李垠庚(3歳)からの挨拶があり、地球がいかに小さくなったかを感じさせた。さらには、梟(飾り物)が、(嶋津運営委員長に言わせれば)イタリア、ドイツ、中国、台湾、韓国、スリランカから飛んできた。そして、世界の狸を対象にしたアンケートにより、SGRAの7つの研究チームや4つの海外拠点活動にすでに時間とエネルギーを貸してくれているSGRA研究員に加えて、98狸が何らかの形でSGRAの活動に参加したい、23の新しい研究テーマで、新しく19カ国・地域でもSGRAの活動を展開させたいという世界中の狸からのラブコールが寄せられた。
第一部の締めくくりは、ミラ・ゾンターク(6歳)とお嬢さんのゆきこちゃん、studio邦楽アカデミー和太鼓大元組の皆さんの演奏だった。司会の于暁飛(8歳)が言ったように、太鼓の音が心の響きのようにカッコイイー演奏だった。
明石康先生はご祝辞の中で、「国際交流は『相手と同じである』というよりも『相手と違う』という前提に立ったほうがいい。『やっぱり同じだな』という発見は『やっぱり違う』よりも嬉しく感じる。違いがあってもそれを尊重することが重要だ」とおっしゃったが、さすが、国連の「一国一票」という原理の良き理解者である。
僕は、今回の発表でも使った10年前にSGRAを立ち上げた時の次のような言葉を思い出した。「日出ずる国の道を学ぶため、私達は世界のあらゆる地域から江戸川のほとり大名の領地が残る関口の森にやってきました。この地より私達は世界に向かって発信します。多様性の中の調和を求めて。」
畑村洋太郎選考委員長は、「選考委員を始めたのは今西さんと子どもの幼稚園が一緒という縁だった。途中で一時疲れて辞めようと思ったこともあったが、学問の最高府の研究に接する機会を逃すことになると気付き、また、やっているうちに面白さを感じ、お邪魔でなければずっと続けたい」とご挨拶されたが、世界の狸が同感できる言葉である。
今西代表も発表の中で、「今後、さらにメンバーを増やし、新しいテーマや新しい海外拠点へ輪を広げていきたい。周辺にあるものこそ、コミュニティーの資源ですから」と訴えかけた。
上述のように、今回の記念事業の一環として行ったアンケートにより、世界各地の狸たちが、SGRAの活動に関心を持っており、協力する意思があることが確認できた。この狸たちを含めたSGRA地球市民のひとりひとりが、それぞれの置かれているところでイニシアティブをとれば、自ずとSGRAのグローバルコミュニティーへの道が切り開けていくであろう。そのようなイニシアティブをサポートするために、近いうちにアンケート調査の第二弾を実施する予定である。SGRAの皆さんと一緒に、次への一歩を踏み出したいと思う。
渥美財団やSGRAの未来に関してなんだかワクワクする気持ちが湧いてくる。
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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・実行委員(撮影班)が撮影した当日の写真は下記URLからご覧いただけます。
祝賀会アルバム1
祝賀会アルバム2
・トーマスさんが撮影した当日の写真はここからご覧いただけます。
ID:
[email protected]
PW: Lovely tanuki
2010年3月17日配信
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2010.03.10
2010年2月9日(火)、韓国の古都慶州(キョンジュ)で「東アジアにおける芸能の発生と現在」をテーマに第9回日韓アジア未来フォーラムが開催された。日韓アジア未来フォーラムにおいて、芸能、特に伝統芸能がテーマとしてとりあげられたのは初めてであった。伝統芸能は、過去に留まっているものではなく、歴史を貫いて今でも生きているものが多い。例えば、日本の能や歌舞伎や浄瑠璃、韓国の仮面劇やパンソリなどがそうである。今回は、このように時代を越えて今に伝わる東アジア芸能を中心に、それらの普遍性と独自性を探り、その展開と現在的意義について考察することにした。さらに、「東アジア地域協力の歴史性や方向性について考える時、伝統文化の視点から提示できるものは何であろうか」という問いについて考えてみる機会を設けたのであった。
フォーラムでは今西淳子(いまにし・じゅんこ)SGRA代表と韓国未来人力研究院の宋復(ソン・ボク)理事長の挨拶に続き、4人のスピーカーによる基調講演と研究発表が行われた。まず、韓国ソウル大学の全京秀(ジョン・ギョンス)氏が「文化論の不変と特殊」と題した基調講演で、東アジアという地域の概念について説いた後、伝統と近代、東アジアの世界化などについて幅広い見識を述べた。次に韓国高麗大学の全耕旭(ジョン・ギョンウク)氏は、「東アジア公演文化の普遍性と各国の独自性」と題した発表で、東アジア共通の文化遺産である仏教・儒学・漢字などは、韓日中の各国においてそれぞれの国の風土と習合しながら独特の文化として形成されたことを指摘し、それは伝統芸能の世界でも同じであることを説いた。特に、シルクロードを経由して中国・韓国・日本に伝わった散楽が東アジアの仮面劇のルーツであることを、古墳壁画や多様な文献資料をあげながら追求した。
つづいて、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターの藤田隆則(ふじた・たかのり)氏は、「音楽と芸能における『伝統』『古典』観:伝統楽器の練習方法の日韓比較から」と題し、音楽と芸能における「伝統」や「古典」観について伝統楽器の練習方法の韓日比較という視点から発表した。氏は、アジアの音楽や芸能には、親や師に似ていることを個性よりも大切にする考え方が強かったが、日本では近代に入って、家元制度を通じて、そこに突出した高い価値が与えられてきたことを指摘した。さらに、能管の実演を入れて日本の伝統楽器の練習方法を紹介し、韓国における音楽・芸能の「伝統」「古典」観との違いを明らかにするための素材提供を試みた。最後に、跡見学園女子大学の横山太郎氏は、「芸能が劇場に収まるとき」と題した発表で、東アジアにおける非劇場型の芸能の多くが、近代化(西洋化)のプロセスを経て劇場で上演されるようになったことを指摘した上、この劇場への適合のあり方に、共通の構造があるのではないかということを説いた。特に、日本を代表する伝統芸能である能の事例分析を通じて東アジア芸能の近代化を考える共通の視点を提示した。
パネル討論には、全北大学の林慶澤(イム・ギョンテク)、檀国大学の韓京子(ハン・ギョンジャ)両氏が加わり、質疑応答の形で行われた。発表の時には時間の制約で触れられなかった事項を質問の形でうまく引き出してくれたので、より詳しい説明が聞けた。フロアーから寄せられた意見や質問に対して、タイムリミットで十分な意見交換ができなかったのはとても残念だった。
今回のフォーラムは、研究発表だけでなく、慶州の旅行も兼ねて行われた。SGRA研究員であり仏教美術専門家である陸載和氏に頼りながらたくさんの勉強ができ、有意義な時間が過ごせた。
慶州旅行については、張桂娥さんの報告をご参照ください。フォーラムの写真もそこからご覧になれます。
張 桂娥 「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その1)」
張 桂娥 「新羅千年の都~雨の慶州を巡る冬の旅~(その2)」
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<金賢旭(キム・ヒョンウク) ☆ Kim Hyeonwook>
韓国檀国大学日語日文科卒業。東京大学大学院総合文科研究科(表彰文化論コース)より修士・博士。専門は能楽・韓日比較文化。著書に『翁の生成―中世の神々と渡来文化』(思文閣出版、2008)。仁荷大学非常勤講師。
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2010年3月10日配信
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2009.12.17
2009年12月5日、東京国際フォーラムガラス棟710号室にて第37回目のSGRAフォーラムが開催されました。今回のフォーラムのテーマは「エリート教育は国に『希望』をもたらすか:東アジアのエリート教育の現状と課題」であり、「東アジアの人材育成」チームが担当しました。世界各国における人材競争が激しさを増す中、「エリート教育」に関する今回のフォーラムは多くの方の関心を呼び、62名の参加者を得た盛会となりました。
今回のフォーラムでは、羅仁淑さん(国士舘大学政経学部非常勤講師)が進行役を務めました。今西淳子SGRA代表の開会の挨拶に続き、3人のSGRA研究員による研究発表が行われました。
まず、シンガポール出身のSIM CHOON KIATさん(東京大学大学院教育学研究科研究員・日本学術振興会外国人特別研究員)が、「エリート教育:自由主義の日本VS.育成主義のシンガポール」というテーマで報告を行いました。日本とシンガポールのエリート教育の現状を紹介した後、両国の超名門高校で行った調査に基づいて、自由放任式の日本エリート教育と育成主義のシンガポールのエリート教育の特徴と限界について具体的に考察しました。特に、「国や社会のリーダーになりたい」、「将来社会の役に立つと思う」、「社会的弱者を助けたい」などの質問項目に現れた「エリート意識」において、育成主義のシンガポールのエリート学校の生徒が高い支持率を示していることに注目し、日本のエリート教育の問題点を指摘しました。
次に、金範洙(東京学芸大学特任教授・韓国国立公州大学校客員教授)さんは「韓国のエリート高等教育の現場を行く―グローバル時代のエリート教育を考える―」と題した報告で、国際社会でも話題になる韓国の大学進学のための受験競争を背景に、平準化政策からエリート教育への転換の経緯を紹介しました。特に李明博新政権の誕生後、教育の自律性が重視され、特殊目的高等学校、英才学校、自立学校、特性化高等学校、自立型私立高等学校、自律型私立高等学校など多様なエリート高校が誕生した韓国エリート教育の現状を豊富な資料とともに概観しました。と同時に、激変する教育環境の中で、東アジアの状況を踏まえての国際連携の可能性をも提起しました。
最後に、本稿の筆者である張建(東京大学大学院教育学研究科)が、市場化のなかの中国エリート教育」と題した報告を行いました。この報告では、中国の「重点学校」をエリート教育機関と位置付け、その形が歴史的に三つの段階を経て現在にまで発展してきたと説明しました。また、中国の教育市場化による「重点学校」の運営原理の変化を取り上げ、その問題点を分析した後、報告者が実施した高校生を対象とした質問紙調査のデータを用いて、エリート教育と社会階層との関係、重点高校選抜の公平性問題、エリート教育と非エリート教育との関係などの側面から、中国のエリート教育が直面する問題を詳細に分析しました。
フォーラム全体の総括は、玄田有史(東京大学社会科学研究所教授)先生によって行われました。玄田先生は、希望学という視点から、「エリート」の意味の歴史的な変容やエリートと社会・国家との関係についてお話しをされました。また、政治エリートに必要な資質としての「愛嬌」・「運強さ」、絶望の対義としての「ユーモア」など、エリート教育について興味深い問題提起をなされました。玄田先生ご自身の講演が、非常にユーモアに溢れており、会場が大きく沸いていました。
パネルディスカッションでは、3名のフォーラム参加者と玄田先生が、それぞれ「儒教文化とエリート教育」、「軍隊エリートの育成問題」さらには「運とエリート」について、フロアからの質問を受けました。発表者はそれぞれの出身国の状況や自分の考えについてコメントし、会場は盛り上がりを見せました。
今回のフォーラムは、三名の報告者がすべて渥美国際交流奨学財団の元奨学生であり、なおかつSGRA研究員であることが大きな特徴でした。このことは、渥美財団の長期にわたる人材育成への努力の成果を示していると考えられます。フォーラムの最後に、SGRA運営委員長の嶋津忠廣さんが、渥美財団のこのような実績に触れつつ閉会の辞を述べられました。本フォーラムの内容に関しては、詳しくは来年の春に発行予定のSGRAレポートをご覧くさい。
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<張建(ちょう・けん)☆Zhang Jian>
中国山東省済南市出身。1999年来日。東京大学大学院教育学研究科博士課程に在籍。中国の後期中等教育と社会階層をテーマとした博士学位申請論文を本年9月に提出。SGRA研究員。
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● フォーラムの写真
馮凱撮影
足立撮影
■ 本フォーラムについて、SGRA会員で元駐日欧州委員会代表部の高橋甫さんから、大変興味深いコメントをいただきましたのでご紹介します。
○ テーマ設定、配布資料の内容等から、私の印象を若干のべさせていただきます。
今回のフォーラムテーマ「エリート教育は国に希望をもたらすか:東アジアのエリート教育の現状と課題」は大変興味深いテーマと思いました。 こうした内容のテーマのフォーラムが出来るのも(それも日本語で)SGRAの人的ネットワークならでは、ということと思います。と同時に、日本ではいかに隣国あるいはアジア諸国の事情に疎いか、また知るチャンスが限定されているかを認識いたしました。 それなりに教育に関心がある私でも、中国と韓国(そしてシンガポール)の教育制度に関する知識がゼロに等しかったわけですので。
テーマのサブタイトルにある「東アジアのエリート教育の現状と課題」とある以上、「エリート教育が「国」に希望をもたらすか」だけでなく、「エリート教育が東アジアに希望をもたらすか」の議論はあったのでしょうか。 東アジアの将来を考えた場合、とりわけ東アジア共同体構想を前進させるには、次世代を念頭に入れた対応が関係諸国に求められる筈です。 教育分野での対応のそのうちの一つでしょうし、東アジアのリーダーを担う人材を育てるためにも国レベルそして地域レベルでの「東アジアに希望をももたらすエリート教育」も必要となってくると思います。 韓国に関するプレゼンの一貫として「東アジア教員養成国際コンソーシアム」の結成についての説明がありました。 東アジアの将来にとって、こうした動きは大切な一歩になると思います。 同コンソーシアムの目的と事業として、留学、研修、共同研究、教員育成といったように「東アジア地域の教育の発展」が目的としていますが、是非とも教育の発展の目標の一つとして、「東アジア共同体構築に向けた人材の育成」も掲げて欲しいものです。
ご参考までに、以下、欧州統合を人材育成面からサポートしている教育機関を挙げて見ました。
European Schools
European University
College of Bruges
European University Institute
勿論、これまで欧州統合に実際に係わった指導者、実務者は加盟国の教育機関で教育を受けたエリートで占められていたわけですが、統合半世紀を超え、上記の教育機関で教育を受けた世代が、EU諸機関に勤務するケースが増えてきたことも事実となっています。
2009年12月17日配信
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2009.10.07
ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年を記念して、2009年7月3、4日にウランバートルで開催したシンポジウムについては、前回のかわらばんで報告いたしましたが、基調講演をお願いした一橋大学名誉教授の田中克彦先生が、現在編集中の論文集のためにシンポジウムを総括してくださいましたので、先生のご承諾を得てご紹介いたします。尚、田中先生は、本年6月に出版された岩波新書「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」で、新史料に基づくモンゴル人研究者による業績を含めた最近の研究成果をわかりやすく纏めていらっしゃいますので、是非ご一読ください。
■ 田中克彦「2009年ウランバートル・シンポジウムを終えて」
モンゴルとソ連は、その堅固な友好の同盟関係を強調するために、しばしばハルハ河戦勝記念日を祝っていたと思われる。それを知ったのは、たまたま戦勝30周年にあたる1969年、ウランバートルを訪問したときである。記念行事のためにモンゴルを訪れていたらしいソ連軍将兵が「ハルハ河30年」と書いた記念バッヂを胸につけて街を散策しているのを見かけて話し合い、そのことを知ったのである。
その時私は、かれらの敵対者であった日本も、そのような催しに加わって、不戦を誓いあうべきではないかと考えて、雑誌『世界』に一文を寄せた(「ノモンハンとハルハ河のあいだ」)。それは3年後にモンゴル語に翻訳されて、モンゴルでひろく読まれた。
私のこの一文の影響のせいか否か、明らかではないが、それから20年たった、すなわちハルハ河50周年にあたる1989年6月、モンゴルは日本からも研究発表者を招いてウランバートルでモ・ソ・日の三者からなる「ハルハ河50周年シンポジウム」を開催した。これがきっかけとなり、それから2か月たった8月、今度はモスクワに、モンゴル、日本から代表を招いて円卓会議が開かれた。主催はソ連国防省軍事史研究所で、日本からの出席は私だけだった。
その席で、次回は日本が行うべきだと多くの参加者たちが要求したので、私は「何とか努力しましょう」と半ば約束させられてしまった。
この約束は1991年に実現した。NHK、朝日新聞社をはじめ、ジャーナリズムやいくつかの企業から資金が寄せられたおかげである。シンポジウムで発表されたロシア語とモンゴル語の論文はすべて翻訳され、さらに一般参加者からの発言、討論も含めて、『ノモンハン・ハルハ河戦争』として1992年原書房から刊行された。
この東京シンポジウムには特に指摘しておかねばならない価値があった。というのは、モンゴルの固有の領土の一部が、日本に占領されたまま停戦協定が結ばれてしまったために、モンゴル領として回復されず、今日の中国領に残ってしまった。このことを、1936年にモンゴル、ソ連との間で締結された、相互援助条約の不履行であるという指摘をモンゴル代表が行ったのである。つまりモンゴル側からソビエト連邦に対する不服のあることが明らかにされたのである。これは会場を日本で準備して得られた大きな成果であった。モンゴル代表は、日本では、比較的自由にふるまえたからだと思う。
その後、年々ハルハ河戦争についてシンポジウムが行われたが、今回、日、ロ、モ三国の間に行われた70周年シンポジウムは、1991年の結果をさらに展開させた点で注目すべき催しであった。
以下に、寄せられた9か国40本の発表論文の分析にもとづき、そこに示された注目すべき関心をいくつかの項目にまとめる。
1. ノモンハン戦争の原因と目的に関して
この戦争をはじめたのは日本側であるというのが全般的な共通認識である。日本では現地の関東軍が東京の大本営の制止を受け入れず独走したとの議論がひろく知られ、一般認識となっているが、ソ連(ロシア)、モンゴルではそうではない、1927年に当時の首相田中義一が天皇に上奏した、大規模な侵略計画にもとづいて開始されたのがノモンハン戦争だという説がいまなお一貫して維持されている。ロシアの学会ではこの上奏文なるものが偽文書だということが徐々に理解されてきたが、今回、依然として、そこからノモンハン戦争の原因が説き起こされているのは注目すべきことだ。
日本の研究者は、今回のシンポジウムまで、こんな議論がくりかえされているのかとあきれているが、こういう誤った前提が解消されるには、あと10年、つまり80周年のシンポジウムまでかかるであろう。
2. ノモンハン戦争は避けられたはずだとする説
1935年、ノモンハン戦争の前哨をなす、ハルハ廟における満洲国軍とモンゴル軍の衝突以来、双方はこうした紛争が大きく発展するのを阻止するため、それぞれが代表を派遣して、マンチューリで会談を行うことになった。この会談は、満、モ双方がそれぞれの支配者である、日本とソ連の支配から脱して、独立統合への道を模索する密談を含むものとして、日、ソ双方が会談を妨害、阻止した。日、ソは、満、モの代表それぞれを逮捕処刑した。しかし、もしこのような妨害が行われなければ、マンチューリの会談は成功して、戦争に至らずにすんだかもしれないという趣旨のものだ。1991年の東京シンポジウムではじめて発表されたこの考え方を、今回のシンポジウムで受けついで発表したのが、私、田中である。
3. 国境認識にかかわる地図の研究
ソ連は、1932年に、ハルハ河が満、モ国境線をなすという、日本側と同様の認識をもっていた。しかし、1934年までの間にノモンハン・ブルド・オボーを国境線とするという認識に変わった。この問題は国境衝突事件としてのこの戦争を研究する上で出発点となるほどの重要性がある。しかし、勝者としてのロシアには国境線については議論の余地がないものとしてあまり関心がないのに対し、日本代表にはまだ議論し足りない不満が残った。
4. 国際関係からみたノモンハン戦への関心
すなわち、日本はなぜ停戦を急だか、また、41年には、ドイツ軍がモスクワに迫っていたときを利用して、なぜ日本はドイツの同盟国でありながら、ソ連に攻撃を加えず、想像を絶した真珠湾攻撃に踏みきったのか。あの時、もし日本がドイツに呼応してソ連を攻撃していたら、ソ連は崩壊していたかもしれないというような問題提起である。日本では考えられないこのような仮定はアメリカ、イギリスなどの参加者から出された。
また、アメリカからはもう一人の気鋭の研究者が、ノモンハン戦争を朝鮮戦争と対比して見せた。同じ民族がかれらを分断した国境の双方から敵対したという点に注目した、このような巨視的な見方は、欧米の研究者にしてはじめて得られるものであろう。
5. 日本の国内事情にも関心が持たれるようになった
1989年のモスクワ円卓会議で、私は辻政信参謀個人の性格が戦闘の開始そのものにも、関東軍の行動の上にも大きな影響を及ぼしたことを述べたけれども、ソ連は全く関心をもたなかった。天皇を頂点とする規律正しい帝国日本では、一個人がそのような独走を演ずる余地は全くなく、関東軍の動きを、一貫した侵略計画の不動の方針に従ったものとする理解の域を出なかった。しかし今回2009年のウランバートルでは、停戦協定を結んだ東郷大使の回想録を読んで、その人柄を知り、東郷が停戦にこぎつけた功績をたたえる発表が行われた。これは日本側の立場を内部にたち入って明らかにしようと試みたものであって、研究がよりこまやかになり、大きく進展するきざしを見せるものとして注目すべきであろう。
6.ノモンハン戦争の背後には満洲国とモンゴル人民共和国の国境によって分断されたモンゴル諸族の統一運動があったことを重視する視点は、最近のモンゴル人の著作には至るところ示されているけれども、それをまとめてとりあげる試みはなかった。しかし、田中の提出したこの観点に積極的に賛意を示す人は少なく、と言って反論する人もいなかった。ロシアの人たちには不快に感じられたはずである。しかし、これは将来忘れられない論点になるである。
以上、今回のシンポジウムの成果を、1989、1991年の状況と比べるならば、長足の進歩があったと称賛しなくてはならない。そして、歩みは遅いけれども、国際的なシンポジウムが開かれる度に、確実に発展があり、それはハルハ河戦争のみならず、モンゴル、ロシア、日本相互の間の国際理解に大きく寄与したことが実感される。
半世紀にわたってこの経過を見つづけてきた者には、なお80周年のシンポジウムが行われる必要があり、そこではさらに大きな一歩が進められるであろうと期待される。
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2009年10月7日配信
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2009.09.30
ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年を記念して、2009年7月3、4日の2日間、モンゴル国家文書管理総局、関口グローバル研究会(SGRA)、モンゴル科学アカデミー歴史研究所が共催、在モンゴル日本大使館、アメリカ大使館、ロシア大使館が後援、東京外国語大学、モンゴル国立大学歴史研究院、モンゴル国防省国防科学研究所軍事史研究センター、モンゴル科学アカデミー国際研究所、モンゴル・日本人材開発センターが協力、日本国際交流基金、霞山会、渥美国際交流奨学財団、守屋留学生交流協会、アメリカのアラタニ財団、韓国の未来人力研究院、及びモンゴル国のモンゴル・テレコム(Telecom Mongolia)、ロシア財団NGO(Russian Foundation NGO)、モンゴル・アーカイブズと歴史研究者連合会“On tsag”(“On tsag” association of Mongolian Archivists and Historians)、“Tsom” Consultingの協賛で、国際シンポジウム「世界史のなかのノモンハン事件(ハルハ河会戦)――過去を知り、未来を語る――」が、モンゴル国首都ウランバートルで開催された。
7月3日、のどかで、あたたかい日だった。午前9時、モンゴル・日本センターの多目的室で盛大な開会式をおこない、モンゴル国会議員、法務内務大臣 Ts. ニャムドルジ(Ts. Nyamdorj)氏、モンゴル科学アカデミー総裁 B. チャドラー(B. Chadraa)氏、関口グローバル研究会代表今西淳子氏が挨拶と祝辞を述べた。Ts. ニャムドルジ大臣の挨拶では、戦略的な視点から、ハルハ河戦争を評価し、研究者たちと率直に話しあって、今後の世界平和と国際的な相互理解を促進したいという意を伝えた。英語で挨拶した今西さんは、同シンポジウム実現までの経緯、ウルズィーバータル局長との付き合い、田中克彦先生、ゴールドマンさんとの出会いなどを簡潔に述べ、参加者に感謝しながら、この戦争をめぐる研究の更なる発展を展望した。続いて、モンゴル科学アカデミー歴史研究所長 Ch. ダシダワー教授、ロシア連邦科学アカデミー会員、シベリア支部ブリヤート支局長 B. V. バザロフ(B. V. Bazarov)教授、一橋大学田中克彦名誉教授、そして、アメリカのユーラシア・東ヨーロッパ評議会の S. D. ゴールドマン(Stuart D. Goldman)博士が基調報告をおこなった。在モンゴル日本大使 城所卓雄閣下、ロシア公使、アメリカ大使館の代表が開会式に出席し、在モンゴルアメリカ大使 M. C. ミントン(Mark C. Minton)閣下も途中から参加した。休憩の忙しいひと時を裂いて、今西さんがミントン大使に挨拶し、私も大使に紹介され、一緒に記念写真をとった。ミントン大使は穏やかで、とてもやさしいという印象だった。日本語が流暢で、びっくりした。たずねてみたら、在日本アメリカ大使館で長年勤務したことがあったのだ。
昼には、参加者たちがモンゴルの国会議事堂の前で記念写真を撮ってから、アルタイというバイキングの焼肉店で食事をした。
午後は、東京外国語大学 二木博史教授、岡田和行教授、愛知大学法学部ジョン・ハミルトン(John Hamilton)教授、内モンゴル大学 チョイラルジャブ(Choiraljav)教授、モンゴル国外務省 Ts. バトバヤル(Ts. Batbayar)局長、モンゴル科学アカデミー会員、国立大学 J. ボルドバータル(J. Boldbaatar)教授、文化芸術大学学長 D. ツェデブ(D. Tsedev)教授、国防科学研究所長 B. シャグダル(B. Shagdar)少将、文書総局 ウルズィーバータル局長、ロシア連邦科学アカデミー極東研究所長 S. G. ルジャニン(S. G. Luzyanin)教授等10人がそれぞれの分野を代表して、大会報告をおこなった。
夕方、モンゴル国大統領官邸のイフ=テンゲル(Ih Tenger)迎賓館で歓迎宴会をおこなった。ちょうど雨が降り始めて、今西さんが、昨年のシンポジウムの招待宴会での挨拶の続きとして、たくみに雨を話題に祝辞を述べて、参加者からの拍手喝采を受けた。ウルズィーバータル局長が「今年はもう雨が降らないでしょう。明後日、草原に行くとき、必ず晴れたいい天気になる」と自信満々で返事をした。宴会中、モンゴルの伝統の歌や馬頭琴の演奏が披露された。在モンゴル日本大使館 藁谷栄参事官が招待に応じて出席し、今後のSGRAのモンゴルプロジェクトについて、いろいろ助言してくださった。
翌日の7月4日午前、モンゴル・日本センターの多目的室、ゼミナー室1・2で、「ノモンハン事件(ハルハ河会戦)の真実: 多元的記憶と多国間アーカイブズの比較の視点から」「ノモンハン事件に対する理解の国際比較と現状」「ノモンハン事件に関する報道、文学、映画、音楽、美術」の三つの分科会をおこなった。シャグダル(B. Shagdar)少将、二木博史教授、ツェデブ学長、ルジャニン所長、ボラグ教授等が各分科会の議長をつとめた。
夕方、在モンゴル日本大使館公邸で、日本大使館とSGRA共同で招待宴会をおこなった。各国の研究者60名あまりが集まって、城所卓雄大使が英語で挨拶を述べた。研究者たちが乾杯しながら歓談し、意見交換をした。城所大使はやさしく、参加者の要求めに応じて、それぞれと記念写真を撮った。これまで、モンゴル国で、世界モンゴル学会など国際シンポジウムをおこなった際、日本大使館は日本の研究者を招待したことがあるが、各国の研究者を一緒に招待したのは、今回がはじめてだったそうで、たいへん有意義なことだと、日本の研究者だけではなく、海外の参加者からも好評だった。
シンポジウムはモンゴル語、英語、日本語、ロシア語の同時通訳がつき、効果的だった。2日間の会議中、モンゴル、日本、アメリカ、ロシア、イギリス、中国、韓国などの研究者が40本の論文(共同発表もふくむ)を発表し、ウランバートルにある各大学、研究機関の研究者、台湾国立政治大学民族学部藍美華教授、東京大学、東京外国語大学の研究者、留学生、中国社会科学院の訪問学者など180人ほどが参加した。会議の影響は大きく、モンゴルのモンツァメ国営通信社、『Udrin sonin(日報)』、UBSなど10数社が報道した。シンポジウムの発表の詳細については、別稿にゆずりたい。
これまで、ノモンハン戦争について、日本、モンゴル、ロシアが数回シンポジウムをおこなってきたが、いずれも各国各自の主催であった。ノモンハン事件をテーマに、日本とモンゴル国の諸団体が共同主催し、同事件に関わった国の研究者だけでなく、世界各国の研究者が集まって、国際学術シンポジウムを開催したことは、今回が初めてであった。田中克彦先生の言葉を借りると、「ノモンハンが軍事にとどまらず、多面的な文脈の中で明らかにされること」が、今回のシンポジウムのもっとも重要なところであった(田中克彦「ノモンハン戦争とは何だったのか、奪われた民族統合の夢」『朝日新聞』、2009年6月25日夕刊)。
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<ボルジギン・フスレ☆ Husel Borjigin>
博士(学術)、東京大学大学院総合文化研究科日本学術振興会外国人特別研究員。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。今西淳子、Ulziibaatar Demberelと共著『北東アジアの新しい秩序を探る:国際シンポジウム“アーカイブズ・歴史・文学・メディアからみたグローバル化のなかの世界秩序――北東アジア社会を中心に――“論文集』(風響社、2009年)。
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★準備段階から、シンポジウム後のチョイバルサン旅行記までを含んだ12ページの報告書
★モンゴルシンポジウムとその前後の旅行の写真
フスレ撮影 石井撮影
★SGRAかわらばんで報告していただいた関連エッセイは下記よりご覧ください。
■ ボルジギン・フスレ「ハルハ河戦争(ノモンハン事件)は、モンゴルと日本の矛盾によっておこったのではなかった」
その1 その2
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2009年9月30日配信