SGRAイベントの報告

南 基正「第41回SGRAフォーラム in 蓼科『東アジア共同体の現状と展望』」報告

2011年7月2日、第41回目のSGRAフォーラムが「東アジア共同体の現状と展望」をテーマに長野県の東商蓼科フォーラムで開催された。SGRA「東アジアの安全保障と世界平和」研究チームが企画・開催するフォーラムとしては、2003年2月の第10回フォーラム「21世紀の世界安全保障と東アジア」、2005年7月の第16回フォーラム「東アジア軍事同盟の過去・現在・未来」、2008年7月の第32回フォーラム「オリンピックと東アジアの平和繁栄」 に次いで4回目である。

今回のフォーラムの目標は、ASEANと日中韓など、東アジアの諸国が提唱している様々な東アジア共同体論を引き出し、その共通項をまとめ、そのような構想が政策や制度として定着するためにはどのような課題に取り組むべきかについて東南アジア、日本、韓国、中国、香港、台湾、モンゴル、北朝鮮などの視点から点検することにあった。当初の企画意図は簡単な発想から出た。「SGRAには丁度いいばらつきで東アジアの国々からの研究者が集まっている。彼らは自国の事情をよく理解しつつも、留学を含め海外での研究歴が長く、その間多様な出身国の研究者と交わったことがあるから、隣の国々の事情をもよく考えて、物事を発想し伝えることができる。このような研究者が集まっていること自体が、この地域で何か新しいものを形にしていく基盤となるだろう。それを表に引き出してみよう。」このフォーラムはそのような発想から企画された。

開会の辞で今西淳子常務理事は、アジアのなかに共同体のような形で平和の枠組みを構築することは、祖父である鹿島守之助・元鹿島建設会長の遺志であったと語った。改めてSGRAフォーラムで東アジア共同体を論じることの意義が大きく感じられた。

フォーラムは長くこの問題に携わり発言してきた2名の講演者の基調講演から始まった。まず、恒川惠一・政策研究大学院大学副学長が「東アジア共同体形成における『非伝統的安全保障』」という題目で講演を行った。恒川教授は、一般に共同体の条件として「分業の成立」と「不戦への合意」の二点があることを踏まえ、東アジアの地域において依然として影響力のあるアメリカのヘゲモニーと戦争よりは現状維持がいいという認識の拡大によって時間を稼ぎながら、経済の地域統合と機能的協力を重ねていくことで、上の二点を実質のものにし、共同体に近いものへとアジアの現実を変えていく、という具体的方法論を提唱された。その際に重要なことがこの地域において非伝統的安全保障における協力を推進していくことであると強調された。

続いて、第二講演者の黒柳米司・大東文化大学法学部教授が「ASEANと東アジア共同体構想―何を・誰が・いかに?」というテーマで講演を行った。黒柳教授は、アジア太平洋地域に幾多の重層的対話メカニズムが出来上がっているなか、共同体構築への道程ではASEANが主役とならざるを得ない幾つかの合理的な理由があり、これを認めることが重要であると主張された。その大きな理由は、ASEANの国々が地域平和を達成してきた実績があることに加え、周囲に脅威を与えない小国であるがゆえにリーダーシップが委ねられるという、逆説的現実にあった。したがって、ASEANが内部結束を深め、外部からの支持を獲得することの成否に東アジア共同体の成否がかかっている、というのがその結論であった。

休憩を挟み、韓国・中国・台湾/香港・モンゴル・北朝鮮の順に、それぞれの立場で見つめる東アジア共同体構想について発表があった。

朴栄濬・韓国国防大学校副教授は韓国の東アジア共同体構想を歴史的に辿る内容で報告を行った。朴副教授によれば、李承晩・朴正熙の両大統領が推進したアジア太平洋の多国間協力の枠組みが北朝鮮の脅威に対する安全保障として構想されたのに対して、金大中・盧武鉉の両大統領が追及した東アジア共同体は、北朝鮮を抱き込んで形成すべき民族共同体の外延として必要なものと認識されたところに違いがあった。このような差は今も受け継がれ、韓国社会においては進歩・保守を問わず、東アジア共同体に積極的な意見が多く見られる中、保守派が統一の過程で影響を及ぼす覇権国の登場を牽制する装置として東アジア共同体を論じる反面、進歩派は南北国家連合の環境作りとして東アジア共同体が語られている現状を指摘した。

劉傑・早稲田大学教授は、中国がいまだ東アジアの地域で共同体という概念で地域協力の枠組みを公式の文書で提起したことはないが、鳩山内閣が提唱した東アジア共同体構想は、「睦隣・安隣・富隣」を唱える中国の外交戦略と重なる部分もあり、東アジアの「一体化」に向けた議論は活発化していると、中国の現状を把握した。その上、中国は侵略された歴史があるため、どうしても主権へのこだわりが強く、「主権」と「国際協調」を同時に追求しながら、事案によっては二つの目標が衝突していると、中国の東アジア外交を分析した。なお、中国は「主権」を前面に出す外交でも、軍事力よりは強い文化力を背景にアジアを包み込む戦略をとることも考えられ、これが東アジア共同体へのもうひとつの道になりうるとの展望を提示した。

ここまでがいわゆる東アジア共同体作りにおいて「中心」といわれてきた国家からの研究者による講演と報告であった。夏のフォーラムでは恒例となった峠の釜飯で昼食をとり、午後の部では、「周辺」または「辺境」といわれてきた地域からの視点が加わった。

中国福建省出身で香港で育ち、日本で学び、現在は琉球大学で教えている林泉忠・准教授は台湾と香港の視点を介在させ、「中心国家」を中心に展開している東アジア共同体構想の閉鎖性を指摘し、脱「中心」主義と脱「主権」主義を志向することこそが、開かれ、かつ安定した共同体構想の不可欠な条件であると主張した。

次に内モンゴル出身のブレンサイン・滋賀県立大学准教授がモンゴルの立場から見える東アジア共同体構想について報告を行った。東アジアの「辺境中の辺境」であるモンゴルは、中国とロシアという大国に挟まれた緩衝地帯に位置し、早くから大国間の等距離外交で独立を守ってきた国であり、民主化以後には、安定した民主主義の上に、多極的かつ開かれた国家運営を行っている。豊富な資源に加え、そのような経験と志向を持つがゆえに、モンゴル国は東アジア共同体のもうひとつの構成員として注目すべき存在である、というのが主な主張であった。

最後に北朝鮮との国境地帯で中国の朝鮮族として生まれ育ち、北京で大学を卒業し、日本の大学院で学んだ後、韓国の釜山に位置する東西大学で教えている李成日・助教授の報告があった。報告では、中国との経済協力に新しい進展はあるものの、急速に進む東アジアの経済統合のなかで一人取り残されている状況、またARFを例外にするといかなる東アジアの地域協力機構にも加入していない現実など、北朝鮮を巡る厳しい現状に言及しつつも、「強盛国家」建設を目指す北朝鮮が、経済再建のためにも周辺環境の安定を望んでいると分析した。その上、地政学的に東アジアの中心に位置する北朝鮮を抜きにして、果たして東アジア共同体構想は現実として可能か、との問いを投げかけた。

ここまでの発表は李恩民・桜美林大学教授の司会の下で進行した。要領を得た司会ぶりでほぼ予定通りに会議は進み、いい流れを作っていただいた。そのお陰で、パネルディスカッションの時間が十分に確保できた。ここから私に司会の役が回ってきた。

パネルディスカッションは、平川均・名古屋大学教授の総括討論から始まった。平川教授は、まず、今回のフォーラムの意義として「『辺境』をいかに理解するか」という問題を中心課題にする必要があることを感じたと感想を述べられた。その次に、開会の辞で今西常務理事が、鹿島守之助のパン・アジアニズムに言及したことに触れ、日本が東南アジアをいかに位置づけるかの問題が、戦後日本の主流派のアジア政策と鹿島守之助のパン・アジア構想の重要な差異になっていたと指摘した。最後に、日本の東アジア共同体構想を語るうえでは、日本の構想の中で占める中国の位置を確認することが重要であると問題を提起された。

次に二人の元奨学生と二人の2011年度奨学生から感想が寄せられた。韓国出身の2000年度奨学生である鄭成春・韓国対外経済政策研究院・研究員は、東アジア共同体作りのドライバーズ・シートにASEANが座るべきだとの黒柳教授の報告に対して感想を述べ、日中の複雑な関係と立場を考慮すると韓国がもっと積極的に動く余地があるとの趣旨で発言した。フィリピン出身の1995年度奨学生であるF.マキト・アジア太平洋大学研究顧問は、ASEANのなかで大きくなりつつある中国の脅威への危機感を指摘し、そのような現状であるからこそ、東南アジア主導の共同体構想に賛成の立場を表明した。そのためにはASEANの国々が団結する必要があり、日本と中国は東南アジアの特定の国家に偏らず、公平な政策を採ることが要望されると訴えた。ベトナム出身で今年度奨学生のホー・ヴァン・ゴックさん(千葉大学)は、幼いときからこの地域に漢字文化圏があり、ベトナムがその文化共同体の一員であることを自覚していたと語り、経済開発に成功した日中韓は、先輩国家として、この地域の成長と安定のために役割を果たすべきであると注文した。台湾出身の謝恵貞さん(東京大学)は、林泉忠准教授の報告に触れ、内田樹の『日本辺境論』の視座に立てば日本も辺境であるとし、中心・辺境の境がなくなることが共同体形成の意義ではないかと問いかけた。また、劉傑教授への質問として、いずれ中国と台湾は協力体制を作っていくことになると思われるが、中国は台湾問題を「主権」の観点からアプローチせず、普遍的人権の問題で扱うべきであると訴えた。

最初に答弁に出た恒川教授が「本質をついている」と評価したように、フロアからのコメントと質問は、聴衆の集中力と理解力の高さを物語っていた。以後、午前の報告と同じ順番で基調講演者と発表者たちの追加発言と答弁が続けられた。しかし、徐々に答弁は教科書的な内容に丸く収まっていくような気がした。これでは、「辺境」の視覚を取り出し、「中心」のそれと交わらすことでようやく新しい問題提起がなされたのに、もったいない。そこで、最後の時間を使い、最後の質問をぶつけることにした。202Q(ニ・マル・ニ・キュウ)年に21カ国の署名をもって締結された蓼科条約をもって、東アジア共同体の成立が実現した、との仮想現実を作り出し、それについての感想をパネリストたちに要求した。

唐突の質問だったので、パネリストには考える時間が必要だった。丁度うまい具合に最後の質問がフロアから飛んできた。本年度奨学生で中国出身の李彦銘さん(慶応大学)からのコメント・質問であった。まずは、日本の共同体構想が明確に示されなかったことを指摘し、日本の核武装の可能性、中国の国民意識の急速な変化による中国指導部の政策と国民の意識のズレ、アジアにおけるナショナリズム克服の過程で日本の果たすべき役割など、報告とディスカッションで疎かにされた問題を提起した。

いずれも重要な問題提起であったが、終了の時刻がもう近づいてきており、これらの問題については深く議論できずに終わらなければならなかった。司会として進行に問題があったと認めざるを得ない。しかし、弁明の余地がないわけではない。「中心」と「辺境」の視座を交差させるという当初の趣旨を生かすため、パネリストの数が多くなり、その分、提起された問題も多岐になった。プレーヤーが多くなれば、それだけゲームは複雑になる。重層的なフレームワークの中で展開する東アジア共同体論議の難しさがそのまま今回のフォーラムに表れたような気がする。それでも、最後に何かを残したかった。その気持ちを最後の質問に込めた。

私の気持ちを理解していただいたのだろうか。パネリストの皆さんは、わずかに残った最後の答弁の時間を使い、私の唐突な質問に対して、機知を働かせた明快な文章の答弁をいただいた。その内容は、近刊のSGRAレポートを見ての楽しみにしていただきたい。

第41回SGRAフォーラムの写真は下記よりご覧いただけます。
マキト撮影   マティアス撮影

参考:蓼科旅行記

2011年7月27日配信