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2007.03.23
この時代にもなれば、ほとんどの人がカルチャーショックを受けたことがあると思う。公の場で平気でキスをする欧米人カップル、どこででも大声を出して喧嘩するアジア人(日本人を除く)、電車の中で眠くなくてもとりあえず目をつぶって下を向いている日本人。初めてこういった状況に出会った時の戸惑いや驚きも、時間が経てば空気のように感じる。そして上級者となればむしろそんな文化を自分で実践してしまう。キスをしているカップルがいたら目のやり場に困っていたのに今は自分たちでも駅の改札でしてみたり、彼女が文句を言いながらその場を立ち去るところを彼氏が後から追いかけたり、電車に乗っている時間が貴重だと思い一生懸命人間観察に励んでいた私も、周りが寝ていて観察の収穫がないからなのか、12時間睡眠した直後でも平気で眠りについてしまう。人間の順応性は素晴らしいと思う。
しかし、そんな私でも理解し難いこともある。まず、友達づきあいである。中国では仲良くなったら女の子は腕を組んだり、手をつないだりしてスキンシップを取って「友情表現」をする。そんな環境に慣れた私は日本人の友達の腕に触れただけで、「あ、ごめん」と謝られてしまう。Culture Shock!日本に来て一週間でこの日本文化を習得し、自分を抑制しながら生きてきたが、どうやら中国の血がいまだ濃く、今でも無意識に日本人の友達に接近して歩いたりしている。これに気づいたのも友達の一言のお蔭で、「すーすー、もう少し右を歩いて!私縁石に乗ってしまいそう」。どうも左側を歩いていた友達が接近してくる私をずっと少しずつ避けていたらしい。この文化の真の理由は分からないが、友達曰く、「レズに勘違いされるから」で、そのくせお泊りする時は同じベッドで寝るのをちっとも構う様子がない。理解不可能!
日本人は恥ずかしいと思うことが多い。大声を出した時、階段で躓いた時、女の子が電車で競馬新聞を読んでいる時。とにかくいっぱい。競馬新聞を読んで研究して馬券を買うのは立派な趣味だと思うのだが、「そういうのは一人で、家で、こっそりよ。親父くさいって思われるから恥ずかしい」というのが日本人の見解みたい。じゃあゴルフは一昔前まで親父さんたちのスポーツだったのに、今は宮里愛選手が大ヒットしているのはどう説明が付くのか。「それとこれは違うよー」。なにがどう違うのか中国人の私にはさっぱり分からない。
大声を出すと言えば、私は日本人の女の子がよく発する「きゃー」を尊敬している。この一言にいろんな意味や状況が込められている!ある日、後ろを歩いていた友達が急に「きゃー」と叫んだ。すごいトーンの高い声にびっくりして振り向いたら、友達が転んで地面に倒れている。慌てて助けつつ習得したのが、日本語の「きゃー」は非常事態の時に使うということ。そんなある日、横に並んで歩いていた友達が、また急に「きゃー」と叫びだしたので、転んでからじゃあ遅いと思い慌てて手を差し出したら、その子は前のほうに向かって走り出した。前のほうに知り合いがいたらしい・・・「きゃー、お久しぶりー」。その後レストランでご飯を食べていたらまた「きゃー」と言うので知り合いかと思いきや、「きゃー、おいしそう!」だそうである。まあ、「きゃー」も人によってはトーンが高かったり低かったり、声が大きかったり、小さかったり、「きゃー」が「わぁー」になったりもする。言葉を習い初めで、いろんなフレーズに敏感だった私にとっては最も悩ましいこの「きゃー」、今では聞こえても反応しなくなっている。野次馬な性格を持つ中国人は街中で「きゃー」が聞こえたら、きっと飛んでいって何事かを突き止めないと気がすまないのに、私はもう聞いて聞こえぬふりで歩き出す。そんな私を中国人の友達は無感情な人と言う・・・
高校生にもなれば日本人は両親と遊ぶのを嫌う。理由は「つまらない」とか、「親は口うるさい」とか、一番理解できないのが「親と遊んだら友達が一人もいないと思われるから」である。中国ではいくつになっても親とショッピングしたり、旅行したり、遊園地に行ったりする。家族だから一緒に過ごすのは当たり前。反抗期は生理上あるものの、日本人みたいに必要以上にひどくはない。親と全く口を聞かない、親の言うことを聞かない、しまいには、ぐれる。こんな理不尽なことまで「反抗期だから」とか「難しい年頃だから仕方ない」と親までが庇護する。これもまた本当に理解できない。そんな日本人に比べて私はむしろ反抗期がないように見え、そんな私を日本人もきっと理解できないと思う。(続く)
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江 蘇蘇(こう・すーすー ☆ Jiang Susu)
中国出身。留学する父親と一緒に来日。日本の高校から、横浜国立大学、大学院修士課程・博士課程を卒業。専門分野は電子工学。現在、(株)東芝セミコンダクター社勤務。SGRA研究員。
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(このエッセイは、筆者の承諾を得て、2005年度渥美国際交流奨学財団年報より再録しました)
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2007.03.22
私の日本の生活は7年目になりますが、ブルガリアの祝祭の中で、最も懐かしく思っているのはイースターです。イースターとは移動祭日、すなわち春分の日の後の満月の次の日曜日に行われる祭です。ご存知の通り、イエス・キリストの復活を祝う祭であり、「復活祭」とも呼ばれています。
ブルガリアのイースターと言いますと、最も特徴的なのはイースター・エッグ、いわゆるイースターの卵、とkozunakという甘いパンです。イースターではキリストの復活だけでなく、これと関連する新しい生命の誕生が祝われるため、新たな命の源泉である「卵」が最もふさわしいものだと思われてきたそうです。当初、この卵は十字架にはりつけにされたキリストの血を連想させる赤い色に染めることが一般的でした。しかし時と共にキリストの血というより、新たな生命の尊さ大切さや、春の到来の喜びの方が卵に多く刻みこまれるようになりました。現在では赤い卵だけではなく、黄色や青、ピンクなどの様々な色に染まった、華麗なものが多くあります。しかし最初に色をつける卵は必ず赤色でなければならないというしきたりが、いまなお残っています。卵の色染めは、必ずイースターが行われる同じ週の木曜日に行われます。私もイースターの時期に母と一緒に店で売られている卵専用の絵の具を使って、ゆで卵の殻に色を染めていました。他のブルガリア人もそうだと思いますが、この時には個性的で、きれいな卵を作ろうと必死になるものです。イースターの時に友達と卵を交換しますので、自分が作った卵が最もきれいで、人々の記憶に残るようなものにしたいと思う人が多いのです。
同じ週の木曜日にもう一つ作っておかなければならないものがkozunakです。Kozunakは大きなパンの形をしていて、表面には様々な模様がほどこされます。最も一般的なものは編んだもの、特に三つ編みの模様です。その味は日本のメロンパンの味によく似ていると思います。と言いますのも、kozunakにも少しお砂糖がかけられるからです。Kozunakの主な材料は卵、小麦粉、そしてお砂糖とバターです。作り方は一見簡単そうに見えますが、実はとても難しいです。作り方を少し間違えると、パンがふくらまなくなり、大きな生地のかたまりになります。よっぽど腕のいい人でないと、なかなか簡単に作ることはできません。私の祖母はkozunakの達人なのですが、残念ながら、私と母は失敗の連続でした。しかし嬉しいことにkozunakはパン屋さんでも買
えます。もちろん自家製のkozunakと比べものにはなりませんが。
イースターの時にKozunakを作る理由は、イースターの前の四旬節にあります。この時期には断食まではいきませんが、食事制限があります。具体的に言いますと、肉や、卵、チーズ、牛乳など動物の脂が入ったものは全て禁じられています。Kozunakは、この食事制限の時期が終わった後に食べるものです。昔の人々はこの食事制限を遵守していましたが、現代では多忙な日常生活のため、この四旬節を宗教的に行う人は少なくなりました。
ここでは私がKravenikという祖父の田舎で経験したイースターの祝い方を簡単に紹介したいと思います。土曜日の夕方、村の人々は教会に行く準備を始めます。イースターの頃に庭に咲くすずらんやすいせん、サクラソウなどの春の花で小さな花束を作り、家族全員でこれと一緒に卵やkozunakを教会に持っていき、教会にささげます。そのあと、ミサが始まります。神父がお祈りのことばを読み、聖歌隊は聖歌を歌います。これは深夜の12時まで続きます。12時にはキリストが復活する瞬間だとされているため、神父は喜びの祈りと聖歌を歌います。またみんながお互いに「キリストよみがえりたまえり」や「真によみがえりたまえり」というお祝いの挨拶をします。そして神父が大きなろうそくをたて、教会で集まっている人が列に並び、このろうそ
くから自分のろうそくに火を付けます。そのまま神父を先頭にして、皆が教会の周りで十字架を掲げて、行進をします。この時神父が十字架を持って、列の先頭に立ち、教会を3周回ります。私が子供の頃、教会の儀式の中で、この行進を最も楽しみにしていました。暗やみの中で、何十本ものろうそくの光がゆっくり行進するありさまは、子供の私にとって言葉ではつくしきれないほどきれいで不思議な光景でした。まるで別の世界にいるような感じでした。
これが終わりますと、みんながまた教会に戻り、ミサが朝まで続きます。そして最後に聖体礼儀が行われます。神父から一口サイズの大きさのパンとおおさじ一杯分の赤ワインをもらいますが、これらはイエスの肉と血とされているものです。そして人々は教会でもらった火の付いたろうそくを手に持って家に帰ります。このような儀式では、教会でもらった光と共に、教会に集まった人々と共有した愛や暖かさを家に持ち帰ることが祈願されているのです。
日曜日は四旬節の最後の日であるため、帰宅後40日間食べられなかった卵やkozunak、お肉料理などの豪華なごちそうをテーブルに並べます。お肉料理と言いますと、最も一般的なのは子羊の肉をお米と様々なハーブと一緒にオーブンで焼いたものです。そして家族全員が卵を手に持って、二人づつで卵をぶつけ合うという儀式が行われます。割れなかった卵の方が勝ちで、この卵を持った人がその年、家族の中で主導権を持つことになっています。最後まで割れなかった卵はイコンの前に置かれます。なぜなら次の年のイースターにこの卵を割って、その年の家族の運勢を占うからです。その卵が腐っていたら不運であり、何もなかったら好運とされます。
家族内ではこのようにイースターが祝われますが、イースターから一週間の間は、親戚や友達が遊びに来たり、彼らのところへ訪問したりします。このような時にも卵の交換や卵のぶつけ合いが行われます。
私の考えでは、イースターという祝祭は宗教的な祭のみではなく、民族的な信仰も絡み合っていると思います。農民であった昔の人々にとって、冬は死、春は復活を象徴していました。つまり、春の季節の到来によって、自然が命をとりもどすことはイエス・キリストの復活になぞらえられていたのです。更に、私にとってイースターは宗教的な祝祭である前に、生きる喜びや命の尊さを祝う祭です。従ってイースターがブルガリアの祝祭の中では最もすばらしい祭りであると思っており、私にとって最も好きな祭なのです。
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エレナ・パンチェワ(Elena Pantcheva)
2000年10月に千葉大学の研究生として来日。2003年3月に千葉大学文学研究科より修士。2006年9月に千葉大学社会文化科学研究科から「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」の研究で博士号を習得。ソフィア大学日本語学科の学部生の時からずっと日本語の擬声語・擬態語の研究を続けてきたが、4月より首都圏にある外資系のホテルに勤務することになり、新たな分野に挑戦する。
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2007.03.21
ご存知かもしれませんが、社会主義時代には宗教や、宗教と関係する祝祭は全て禁止されていました。当時、私はまだ子供だったため、はっきりとした記憶はありません。むしろ、私の母や父の世代の方がこの時代についてはもっと詳細にお話できると思います。私の母の話によりますと、イースターなどの時、教会に行くことはもちろん許されませんでした。私の母と父がまだ学生だった時には、イースターを祝ったかどうかということを学校の先生が厳しくチェックしていたそうです。例えば、イースターの卵の色染めをしたかどうかを調べるために生徒を列に並ばせ、手や指に色あとが付いているかどうかをチェックしていたそうです。この時、そのあとが見つかった者は退学させられたり、罰を受けなければならなかったそうです。更にその子の両親までも様々な形で罰を受けていたといいます。しかし、このような厳しい状況だったにも関わらず、多くのブルガリア人は家で近所の人にもきづかれないように、家族だけでひそかにイースターを祝っていたそうです。
私が子供だった頃は、状況が少し変わってきて、昔より緩やかになりました。都市では知り合いや警察が多いため、簡単に教会に行くことができませんでした。それでもイースターの卵を作ったり、友達同士でイースターの卵を交換したりすることはできました。ただし、これらのことは、たとえ許されていたとしても、まわりの人には決していいことと思われていませんでした。このような環境の中、私の家族はほぼ毎年、私の祖父の実家があるKravenikという村でイースターを過ごしていました。Kravenikには警察が少なく、両親の職場や子供の私たちの学校と関わりのある人もいなかったため、びくびくせず、もう少し伸びやかにイースターを過ごすことができる
と考えていました。前回のエッセイでご紹介したイースターの様子は、私がこの村で体験したことです。
体制転換以降、ブルガリア人はまた教会に戻り、イースターのような宗教的な祭を自由に祝うことができるようになりました。更にテレビなど、マスメディアが毎年生放送で放映することが一般的になり、にぎやかな祝祭になってきています。
ところで、Kravenikは人口約600人の小さな村です。この村は私の実家があるヴェリコ・タルノヴォという町から80キロ離れた、バルカン山脈のふもとにある自然が豊かな土地です。空気がきれいで森に囲まれているため、夏は涼しく過ごしやすく、町から遊びにくる人が大勢います。そのため結核などの療養に利用されていたところでもあります。(現在も使われているかもしれません。)村には川が流れ、地下には冷泉水があるため、様々な野菜や、梅、プラム、りんご、木苺、いちご、ぶどうなど、沢山の果物が育てられています。最近では、観光やヴァカンスのスポットにする企画もあるようです。現在、民家の形をしたホテルなども建設されています。これがいいことかどうかは私には分かりません。沢山の観光客にきていただきたいという気持ちがある一方、昔のKravenikの魅力を残しておいてくれればとも思っています。
家族でKravenikを訪れるのはイースターの時だけではありませんでした。子供の春休みや夏休みには、必ずKravenikで過ごしていました。一緒に育ったいとこと私にとってそこへ行くのは何よりの楽しみでした。Kravenikで過ごした夏休みはとても貴重な時間でした。他のヨーロッパの国と同じようにブルガリアでも夏になると仕事している人も子供もヴァカンスに出ます。皆が海に行ったり、山に行ったり、海外へ行ったりして、2週間から1ヶ月ぐらい休みを取ります。私の家族にとってこれはKravenikで皆が集まることでした。祖父、祖母、母、父、そして母の兄弟の家族を合わせて9人が同じ時期に休みを取って、暑い夏を涼しいKravenikで一緒に過ごしていました。子供だった私達にとって最高の夏休みでした。なぜならば、宿題をしていない時に外でいくらでも遊べたからです。私達と同じように町から来た子供や村に住んでいた子供が大勢集まって、一緒に川で泳いだり、森の中でいちごや黒いちごを採りに行ったり、馬に乗ったり、ヤギや羊と遊んだりして、村の周辺を自由に走り回っていました。夕方になると家に戻り、家族皆が炉端の近くに座りながら、夕食を取りました。炉辺の暖かさは家族の全員の心に広がっていたかのように笑い声がいつまでも近所に響いていました。夕食が終わると皆が家の大きなベランダに座り、ハーブティーなどを飲みながら、祖父が昔話や先祖の話を夜遅くまで語ってくれました。頭にこぼれ落ちそうなほど大きな星空の下で、月に照らされたベランダを眺めながら子供の私達は
何か不思議なことが起こりそうな気分で祖父の話を静かに聞いていました。毎年このように夏を過ごせることに対して感謝の気持ちで一杯でした。今でも「Kravenikで過ごした子供の頃の思い出は私達の一生の宝物だね」ということを、いとこといつも話しています。
今は日本と同様に、Kravenikも春に向かう頃だと思います。村中の庭にはすずらん、ヒヤシンス、すいせんやサクラソウが咲き、木の枝のつぼみがもう膨らんでいるところです。更にりんご、梅、プラム、桃、さくらんぼうなどの木は白やピンクなど目に優しい色に染まり、遠くから雲のように見えます。空気の中に漂ってくるこれらの花々の香りが春の登場を知らせようとしているように感じられます。様々な鳥の鳴き声が聞こえ、これらのコーラスは心に新しい希望をもたらしてくれます。村の人々もまた去年と同じようにイースターを通して、自然や命の復活を迎える準備に入っているのではないかと思います。このKravenikの風景やそこで過ごした思い出はブルガリアを離れている私にとって郷愁の念を呼び起こします。
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エレナ・パンチェワ(Elena Pantcheva)
2000年10月に千葉大学の研究生として来日。2003年3月に千葉大学文学研究科より修士。2006年9月に千葉大学社会文化科学研究科から「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」の研究で博士号を習得。ソフィア大学日本語学科の学部生の時からずっと日本語の擬声語・擬態語の研究を続けてきたが、4月より首都圏にある外資系のホテルに勤務することになり、新たな分野に挑戦する。
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2007.03.21
「日本人に対してどんなイメージを持っているか」と、日本に来てよく聞かれる。少年時代のわたしが持っていた日本人のイメージは『君よ憤怒の河を渉れ』『幸福の黄色いハンカチ』などの映画で知った高倉健だった。男としての剛直、堅忍不抜な姿は、親しく感じると同時に、尊敬の念が自然にわいてくる。のちに渥美清のシリーズ作『男はつらいよ』もふるさとで公開され、笑わせてもらっただけではなく、寅さんがもたらした、悲しさと同時に、ユーモアも豊かという日本人のイメージも持つようになった。大学に入って、第一外国語として、もちろん日本語を選択した。日本の歴史や文化と関連する科目も選択し、日本の小説もたくさん読んだ。現代日本社会の厳
しさも認識したが、高倉健像と寅さん像は変わらなかった。
1998年4月、わたしはやっと夢に見た日本に来ることができた。日本での生活の厳しさは覚悟していたので、これまでの留学生活はそれほど不便とは思わなかった。ただし、さまざまな日本人との出会いによって、高倉健像と寅さん像を持っていたわたしが幼稚であるということがよくわかった。日本の男は高倉健でもないし、寅さんでもない。
似たようなスーツ、似たようなネクタイをしめて、朝から夜まで働くサラリーマンたちは、職責を尽くすが、「本分」以外の仕事は他人事と見なし、助ける意識はほとんどない。そして、職場でも、職場以外の場所でも、毎日、決められた「用語」を繰り返す。街では、髪を黄色や緑、ピンク色に染めて、いろいろな髪型にしている男の姿もよく目にするが、彼らは髪の色と髪型以外、何の個性ももっていないし、他人のことに対して無関心という点では、ほかの日本人とあまり変わらない。さらに、テレビや新聞では、手術をして性転換したスターが結構注目される。一体男なのか? 女なのか? 分からないが、日本では大変人気があるそうだ。
日本の男たちはどうしたのだ? 健さんと寅さんはどこにいってしまったのか?
高倉健が演じた剛直は、人間の一種の美徳でもあるが、現実の日本社会では、自分の責任を人になすりつける人が少なくない。三年前、大学のスキー教室で経験したことはたいへん印象に残っている。留学生の日本理解、及び日本人学生と親睦を促進するという目的のスキー教室の最終日の懇親パーティーは、とてもにぎやかだった。三日間のスキー教室で、互いにあまり話しかけなかった留学生と日本人学生は、お酒を飲みながら、歌ったり、踊ったりした。各国の留学生たちは、相次いでコーチたちに感謝の言葉を言い、お酒をすすめた。同じテーブルに坐っていた日本人の男子学生Aさんは、女性のコーチと争ってカラオケを歌い、興奮のあまり、テーブルに登って、ビールやワイン、ウイスキーなどを豪飲し続けた。留学生たちは、もちろん、コーチにお酒をすすめると同時に、Aさんにもお酒をすすめた。みんな気も狂わんばかりに喜んだ。結局、コーチ二人とAさんらが酔っぱらって、戻したあげく、動かなくなり、会場で寝てしまった。
翌日の昼になって、スキー場を離れる際、Aさんはようやく酔いが覚めてきた。ホテルの前に全員集合した。「大丈夫ですか」と何人かの留学生がAさんに声をかけたら、彼は「全部あのモンゴルの女のせいだ。すごくすすめられて・・・・・・」と繰り返し言った。バスに乗ってからも何度も繰り返した。バスが大学に戻り、全員挨拶をし、それぞれ各自の家に帰るときなっても、Aさんはまだ「あのモンゴルの女……」と言い続けた。
日本人は控え目であるとよく言われているが、こうしたパーティーでは、決して控え目ではない。のみならず、自分を抑えることができず、酔っぱらいになったのに、それをほかの人のせいにするのは、男らしくない。そのモンゴルの女子留学生は、同じテーブルの人全員に対して、同じようにすすめたのであって、わざとAさんだけにお酒をすすめたわけではなかったのだ。わたしのふるさとでは、お客さんがパーティーでお酒を飲んで酔っぱらうのは普通であるが、誰もそれをほかの人にせいにしない。何か悪かったとしても、自分でやったことは自分で責任を負うのである。
同様な場面は、おととしの夏の北海道の旅にもあった。それはある財団が費用を負担し、各大学からの留学生10名と日本人学生2名を集め、北海道でおこなわれた国際フォーラムに派遣した時のことだ。会議が終わって、帰りのフェリーに乗るために港に向う途中、財団は、あるレストランで焼肉の食べ放題をご馳走してくれた。ほんとうかどうか分からないが、モンゴル人であるわたしの焼いた焼肉がおいしいと言われ、ほかのテーブルで食べていた人も、わたしのほうに集まって来た。結局、みんな腹いっぱい食べて、満足そうに車に乗って、再び港へ向かった。
しかし、車の中で、日本人の男子学生Kさんが急に「気持ちが悪い」「お腹が痛い」と言い出した。「どうしたんだ」と聞いたら、「全部フスレさんのせいだ。あんなにたくさん肉を食べさせたからだ」と、わたしのせいにした。そして、フェリーに乗っても彼はこの言葉を言い続けた。翌日、東京に帰りついた。そこで財団側が再び食事に招待してくれた。注文した際、Kさんは「肉はもういい。昨日、フスレさんがたくさん食べさせた。肉はもう思いだしたくない」と言った。やはり、わたしが悪いことになった。
これで終わったと思ったが、4ヵ月後、財団から送られてきた、北海道の旅の参加者が書いたエッセイ集を読んで、びっくりした。そこに掲載されたKさんの文章のなかには、次のように書かれている。「ある人の陰謀で、わたしはたくさんの焼肉を食べさせられ、お腹を壊した。(中略)わたしは2ヵ月間肉を食べないことにした」。また、わたしのせいだ。彼は自分の失敗の照れ隠しに、冗談めかしてそのように言ったのかもしれないが、わたしは悪者にされてとまどってしまった。
高倉健さんも、寅さんもよく北海道に行った。健さんが焼肉を食べるなら、黙々として、さっぱりしたものだろうと、ひそかに思う。寅さんの場合は? 独りで食べないだろう。おそらく誰かと一緒に食べながら、人生か、女性について語る。ちょっとうるさいかもしれない。仮に寅さんが動けないほど焼肉を食べたら、何を言うのだろう。それは楽しみだ。
このように、責任を人になすりつけることは、決して個別な現象ではない。昔はどうだったか分からないが、すくなくとも、最近の日本の政治家、実業家たちの言動を見ると、責任を人になすりつけることがよく見られる。耐震強度偽造問題や証券取引法違反など、多くの日本の政治家や実業家が関わっているが、関係者は皆自分に罪はないように詭弁を弄したり、責任を人になすりつけ、腕を振り上げて声高らかに相手を糾弾したりしてきた。昨日パートナーだったのに、今日は、敵になってしまうのは珍しくはない。内輪もめも、詭弁を弄すればするほど、醜くなる。公明正大さはまったくみられない。
高倉健さんの剛直の一方で、寅さんのユーモアにも魅了される。実際、彼らの魅力は、当時の活気に満ち満ちた社会を反映していたのであり、残念ながら、今の日本社会はそれを失ってしまったように思える。日本は、健さんの剛直さと寅さんのユーモアが共存していた、あの活気に満ち満ちた社会を取り戻してもらいたい。
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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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2007.03.08
UA&P・SGRA日本研究ネットワーク主催
第5回共有型成長セミナー
「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」
日時:2007年4月16日(月)午後2時~4:30
会場:フィリピン、マニラ市
アジア太平洋大学(UA&P)
■セミナーの内容
このセミナーは「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」というテーマを紹介し、このテーマについての研究を開始させることを目的とする。当セミナーは、UA&PとSGRAが共催する、フィリピンの経済特区に関する5回めのセミナーである。この共同研究の基本的な目標は、フィリピンの経済特区開発戦略を通して、日本が達成した「共有型成長」を、いかにフィリピンでも実現できるかを探求することである。製造業の経済特区に関する研究はほぼ終了し、IT特区に関する共同研究は始まったばかりである。当セミナーでは、第3の課題として観光産業特区に関する研究の土台を築くことが期待されている。尚、当セミナーは英語で行われ、通訳はつかない。
■プログラム
1. フィリピン経済特区と観光の概要
by Dr. Max Maquito
(Visiting Researcher, Sekiguchi GlobalResearch Association)
2. 観光と地域経済の展望
by Dr. Peter Lee U
(Dean, School of Economics, UA&P)
3. ローカル・コミュニティーに活気を与えるマイクロ・クレジットの役割
by Prof. Bien Nito
(Micro Credit Industry Analyst, School of Economics, UA&P)
4. 観光産業クラスターの観点からみるマイクロ・ファイナンス
by Prof. Stan Padojinog
(Toursim Industry Analyst, School of Economics, UA&P)
5. 質疑応答
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2007.03.06
1月28日朝、広州で宿泊していたホテルへSGRA会員の奇錦峰さんと胡炳群さんが迎えに来てくれました。内モンゴル出身の奇さんは、広州滞在がもう4年目で、広州中医薬大学で教えています。トヨタの系列会社に勤める胡さんは、名古屋と広州と大連を飛び回っていますが、今回は私の訪問にあわせて、奥さんとお嬢さんも一緒に広州に来てくれました。奥さんは仕事の関係で名古屋に居ることが多く、お嬢さんは普段貴州省のおじいちゃんとおばあちゃんと暮らしているけど、これからお正月のお休みなので名古屋に行くそうです。
まずは、奇さんの大学の研究室がある広州大学城へ。2004年9月より、広州にある大学の殆どが、こちらに主なキャンパスを移し、もともと農地だった面積17平方kmの川の中州が、あっという間に30万人の学生と教員と職員が住む大学都市になってしまったという、中国でしか実現できない大開発プロジェクトです。300億元(約4500億円)を超える巨額な資金が投入されたとのことです。そもそも広州に来るたびに、空港や高速道路や催事場などのインフラの素晴らしさには圧倒させられますが、私にとっては、ぴかぴかの建物よりももっと感心するのが植栽です。公園や街路樹はもとより高速道路の下まで草木が植えられています。大学城でも、計画が始まったらまず木を植えたのではないかと思うくらい、周囲はさまざまな木が植えられています。亜熱帯の気候ですから、数年たったら立派な森になるでしょう。しかも一歩「城」をでると、果樹園の緑が続き、道端で農民がスターフルーツやパパイヤの果実を売っていました。最近は、このような農家が経営するレストランが流行っているそうですが、奇さんの学生さんも下痢で大変だったというので、旅行者には無理そうです。
お正月休みの始まる日曜日だったので、キャンパスは閑散としていましたが、奇さんの研究室を見学しました。空き部屋はあるけど内装がまだなので、研究室は3名共同で使っているということでした。このビルは、建てられてからもう2年以上たっているのにこの調子です。日本ではもったいなくて考えられない建設工程ですが、中国に限らず、アジアに限らず、世界規模で見渡してみれば、そんなに驚くほど珍しいことではないように思います。工事が止まっている建設現場なんて結構ありますよね。ヨーロッパの都市でも数百年かけて完成した大聖堂などもよくありますし、できるところまで建てて再開できる条件が整うのを待つという感じです。尚、このように大学を郊外の一箇所、しかも川の中州に移したのは、学生が市内で反政府運動を起こすことを防ぎ、何か起こっても管理しやすくする目的があったと、香港の方に伺ったことがあります。
無理を言って、大学城のそばにある奇さんのマンションを見学させてもらいました。広州の住宅開発は「凄い」の一言に尽きます。たとえば、奇さんのマンションは、珠江のほとりにあり、塀に囲まれ警備員に守られた門からしか出入りできない広大な敷地に、数十棟の建物が立ち並び、共有部分には美しい亜熱帯の木々が植え込まれ、屋外プールも屋内プールもある高級マンションです。建物も、日本の団地とは大違いで、窓が大きく、エレベータを各階2軒だけが共有するような作りで、外壁はパステルカラーで塗られています。ここに限らず広州の高層マンションのデザインはとても綺麗ですが、このようなスタイルは香港の建築家が始めたようです。そして、このようなマンション群が、広州市内や郊外に本当にたくさんあり、しかも今もどんどん開発されています。ただし、香港人が投機買いしているので使っていない部屋も随分あるとのことです。
このような新興の住宅開発地区で気づくのは、制服をきた警備員の多さです。門では必ず人の出入りをチェックしていますし、訓練が行き届いているようで、私たちが通ると直立敬礼してくれます。しかも門番だけでなく、かなりの人数が巡回チェックしています。それだけコミュニティーの秩序を守ることを大切にしているとも言えますが、逆に、これだけ警備員を配備しないと、秩序が乱される危険があるとも言えそうです。警備員の多さは、外部からの侵入者の阻止だけでなく、住人がお互いに気持ちよく暮らすための対策のように思えます。
奇さんの部屋は、4LDKで150平米。奇さんは大学教授、奥様は歯医者さんです。右肩あがりの経済成長の中、現物を担保にローンができますから、夫婦とも専門職で共稼ぎをしたら、このようなマンションが買えるのです。たいていの人が10~15年のローンをして購入したものだそうです。ただし、厳密に言えば、中国では土地の所有権ではなく、70年とかの借地権です。でも、中国の方々は、そんな先のことはあまり気にしないみたいです。この開発区の一番高いマンションは、川沿いのデュープレックス(2階建て)ですが、3ベットルームで6千万円くらいでした。ここは広州市内からはかなり離れているのにですよ。奇さんのマンションの価値も、買った時と比べ、既にかなり上がったそうです。実は、私は、昨年、広州市内のマンションを訪ねる機会があったのですが、どこも同じような開発でした。夫婦共働きで、どちらかが外資系企業で働いているような家庭が多かったように思いますが、だいたい皆さん3LDK以上で、100平米以上のマンションでした。決して超富裕層ではない、豊かな中間層が急激に育っていると感じました。
中国は「平均」で語ってはいけないと言います。「中間層」といっても、中国の全人口の平均というわけではありません。広州は、中国で一番豊かな都市であり、政治の首都北京からも遠いので、人々がそれなりの財力をもってかなり自由に物事をとらえ行動している、と言う意味での「中間層」です。その人数は、中国の人口比の中ではわずかかもしれませんが、絶対数でいえば既に人口が数千万人の国の中間層の人数に達しているかもしれません。私は、子どものキャンプのNPO組織のプロモーションのために、2001年頃から毎年広州に通っていますが、最初はフォルクスワーゲンと三菱の自動車ばかりだったのが、あっと言う間にホンダとトヨタになりました。しかも、アコードは日本より大きいアメリカ仕様ですし、ランドクルーザーのよう高級車も少なくありません。次回は、中国の自動車の話をしたいと思います。(続く)
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今西淳子(いまにし・じゅんこ)
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より子供のキャンプのグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。
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2007.02.28
2007年2月17日(土)午後2時半より、東京国際フォーラムG棟610号室にて、SGRA「グロバール化と地球市民」研究チームが担当する第26回SGRAフォーラム「東アジアにおける日本思想史―私たちの出会いと将来」が開催された。この日は、ちょうど旧正月の除夜、日本でいう大晦日に当たるので、参加者を集めるのが大変だったが、42名が参加した。「日本思想史」がテーマのSGRAフォーラムは初めて。
フォーラムは、SGRA「グロバール化と地球市民」研究チームのメンバーである藍弘岳さん(東京大学大学院)の総合司会で始まった。SGRA研究会の今西代表による開会挨拶の後、日本思想史研究者である黒住真氏(東京大学総合文化研究科教授)が「日本思想史の<空白>を越えて」と題するゲスト・スピーチを行った。
黒住真氏は、まず「日本思想史」の定義を、「思想」、特に「倫理」思想史の角度から簡明に説明し、そして自分自身が精神医学・生命学から日本思想史、とくに日本思想史にある思想性・宗教性に関心を持つようになったきっかけを話した。さらに、黒住氏は自分の「日本思想史」との出会いについての紹介から、近代以来の「日本思想史」のあり方、近年の変化・傾向を話した。そこから、近代以来の、欧米中心主義的傾向と屈折した形でその裏がえしとなっている自国・自文化中心主義的傾向を紹介しつつ、そのような思想史の自国=東洋が実際は「空白」であることを説きつつ、それへの「問い」を発した。さらに、思想史研究の現場で活躍している中堅研究者の一員
として黒住氏は、1970年代ごろから20世紀末までの大きな思想史的背景・状況・問題の変化について分かり易く紹介した。これらの変化自体はいわば日本思想史研究としての現代日本思想(史)の言説そのものでもあろう。黒住氏は「空白」を克服するための多元性・複数性回復として思想史研究分野の70年代以来の変化を高度に評価しつつ、解体されすぎることによって生じた新たな「空白」にも注意深く注目した。さらに、黒住氏は、日本思想史における「空白」として「近代」において重要視されなかった日本独特の重要概念として「人間」「世間」「空気」などの概念を取り上げ、複数思想・宗教の習合としての日本思想の特徴を紹介した。同時に、黒住氏は、明治以後の倫理・道徳の国民国家化を倫理道徳の限界化=「空白」化として捉えた。最後に現在にだけでなく将来にもつながる日本思想史の可能性として、日本倫理思想史・宗教思想史と女性問題や環境問題、平和問題などとの対話の可能性を提示した。即ちそれは「空白」を乗り越えるための日本思想史の可能性でもある。
続いて、3名の方による研究報告が行われた。
最初に中国の東北師範大学歴史文化学院院長の韓東育氏が「東アジアにおける絡み合う思想史とその発見」という題の研究発表をした。韓氏は東京大学で学位を取得後帰国し、日本思想史・中国思想史を跨りながら研究してきた。今回は旧正月の休みを利用してわざわざフォーラムに参加するために来日したのである。韓氏は、自分と日本思想史の「出会い」を語るより、近代以来の「中国」と「日本思想史」との出会いについて語った。彼の紹介によれば、東アジアの思想史は本来相互に絡み合っているものであるが、近代まで中国側からはそれは無視されてきた。近年になって初めて、遅ればせながら、「発見」されたのである。そのような遅い「発見」はかつて「華夷秩
序」「朝貢システム」等によって形成された中国側の盲点によるものだと韓氏は指摘した。近代以降、東アジアの問題を解決する鍵は、表面的には、西ヨーロッパの「万国公法」「国民国家」等の原則にあったかのようであるが、しかし実際は、「盲点」=「縦=歴史」の問題を十分に解決しているとは言えない。開放的な視点でこのような「縦=歴史」の問題に直面し、「横=現実」の問題を適切に解決するようにと韓氏は東アジアの思想史の視点から説いた。そしてこのことは単なる地政の問題だけでなく、さらに、東アジアにおける絡み合う思想史の課題でもあると強調した。
次に中部大学人文学部助教授の趙寛子氏は、「『もののあわれ』を通じてみた『朝鮮』」という題の発表をした。趙氏は、中国への旅行をやめてわざわざ名古屋からフォーラムに参加してくれた。彼女は、最初は韓国現代文学を専攻したが、日本へ留学に来た初期に、本居宣長の思想を勉強した。現在、日韓のナショナリズムの研究などで活躍しているが、彼女が日本思想史を研究したきっかけは宣長とナショナリズム問題との関連に対する注目であった。宣長は、儒学を批判し、漢意によって汚れる以前の、古道における和(みやび、もののあわれ)を日本的なものとして提示していた。このような思想は、18世紀後半の町人・宣長が、日常の美的趣味として毎日、和歌を楽しんでいるなかで生まれた。ところが、似たような事情は前近代の朝鮮の文
化、芸術、文学にも見られる。宣長のように漢文を中心とする規範的な文化に抗し、「実情」(もののあわれ)を表現するような歌人の存在を、趙氏は朝鮮の文化・文学にも見出そうとした。美術や文学などの実例を挙げながら、同時代の朝鮮の平民文学・美術の多様性を紹介した。趙氏の発表は「儒教国としての朝鮮」という平面的な像を相対化しようとした試みである。
最後にSGRA研究員である林少陽氏が「越境の意味:私と日本思想史との出会いを手がかりに」という題目の発表をした。林氏は日本近代文学を専攻したが、かたわら中国の近代文学も研究してきた。彼自身の留学後における日本思想史との出会いを紹介し、そのような出会いによって、自分の研究分野にもたらした新しい可能性について紹介した。林氏の発表は主に批判的に近代的な人文社会科学の学的制度を捉え、そのような制度が西洋中心的と自国中心主義的なものを一体化する形でいろいろな知的可能性を閉鎖した、と紹介した。「近代」、近代的な「文学」「哲学」の概念を疑問視した発表でもある。
4人の講演と報告が終わった後、「グロバール化と地球市民」研究チームのメンバーである孫軍悦さん(東京大学大学院)が進行役を務め、パネルディスカッションが行われた。フロアからの質問に基づき活発な質疑応答が行われ、予定時間を20分ほどオーバーして、フォーラムは終了した。懇親会でも議論・交流が盛んであったことは印象的だった。
今回は、SGRA「グロバール化と地球市民」研究チームのチーフである高煕卓氏が急用で来られなかったが、高氏ははるばる韓国から色々な形で応援してくれた。若干準備時間が不足していたかもしれないし、タイミング的にも旧お正月のような時期と重なってしまった。今後これを避けるべきであろうが、ゲスト・スピーチの黒住真先生をはじめとする発表者の努力とSGRA研究会の今西代表や運営委員長の嶋津氏の強いサポートでフォーラムは無事に成功した。
「日本思想史」という、一見やや堅苦しいテーマであるが、黒住氏のゲスト・スビーチが残した「空白」を今後のフォーラムがいかに埋めてゆくべきなのか、大きな重みと可能性を感じている。いろいろなテーマそのものをSGRA「グロバール化と地球市民」研究チームに残してくれたような気がする。
(文責:SGRA「グロバール化と地球市民」研究チーム・サブチーフ 林少陽)
当日SGRA運営委員の足立憲彦さんと全振煥さんが写した写真は、ギャラリーをご覧ください。
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2007.02.24
第27回SGRAフォーラム in 秋葉原
「アジアの外来種問題~ひとの生活との関わりを考える~」
日 時:2007年5月27日(日)
14:30~17:30
その後懇親会
会 場:秋葉原UDX南6階コンファランス
*JR秋葉原駅「電気街」改札口をでて右へ。2階デッキを渡って2階入り口から入ってください。
主 催: 関口グローバル研究会 (SGRA:セグラ)
協 賛:(財)損保ジャパン環境財団
(財)渥美国際交流奨学財団
鹿島建設株式会社
協 力:(財)自然環境研究センター
フォーラムの趣旨:
SGRA「環境とエネルギー」研究チームが担当する6回めのフォーラム。
私たちのまわりには、飛行機や船によって持ち込まれたさまざまな生きものが「外来生物」として定着している。ブラックバスをはじめとする外来生物は、そこにもともといた「在来生物」に悪影響を及ぼすものとして大きな問題になっている。しかしながら、ありとあらゆるものが「外」からはいってきて定着し、在来生物を駆逐していくのは、人類の歴史が経験していることである。外来生物の何が問題なのか。グローバル化がますます進む中で、東南アジアや日本の事例をとりあげ、私たちがしなければならないことは何なのか一緒に考えたい。
プログラム:
詳細は:プログラム をご覧ください。
【基調講演】多紀保彦(自然環境研究センター理事長、長尾自然環境財団理事長、東京水産大学名誉教授)
「外来生物とどう付き合うか~ アジアの淡水魚を中心に ~」
【講 演1】加納光樹(自然環境研究センター研究員)
「外来生物問題への取り組み~いま日本の水辺で起きていること~」
【講 演2】プラチヤー(カセサート大学水産学部講師、SGRA研究員)
「インドシナの外来種問題~魚類を中心として、フィールドからの報告~」
【パネルディスカッション】進行:今西淳子(SGRA代表)
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2007.02.21
わたしが中国語教室で教え始めてもう12年になる。中国語を学ばれるのは、中国語を専攻する大学の学生さんたちではなく、また仕事関係で必要だからと勉強に来る人たちが中心でもない。定年退職後の第二の人生を歩んでいる方々、あるいは同年輩の女性の方々がほとんどである。最高齢の方は80歳代の後半である。このように高齢の方々ではあるが、みなさんそれぞれしっかりと目標を持って、懸命に中国語を勉強されている。
最初の頃、みなさんが何のために勉強されているのかさほど気にとめなかった。しかし、長い歳月のうちに、わたしはみなさんが実にいろいろ有意義な目標を持っていて、その実現に辛抱強く努力されているのに気づいた。例えば、15歳まで中国の上海に住んでいたので中国のことが懐かしく中国の人と中国語で文通したいと言う方もいれば、中国旅行はツアーではなく、各種手続きを自分で直接中国語を使って行い、一人で中国へ行きたいと言う方もいる。ツアーの旅行でも買物する時の交渉を中国語で直接にやりたいと願っている方もいる。今の日本には旅行会社が準備した周到なサービスがあると知りながらも、自らの中国語で中国人に接して交流したいというお気持ちにわたしは感激した。また、中には中国の古典や漢詩などを読むにしても、翻訳版ではなく原文で、しかも中国語の発音で朗読したいと打ち明けてくれる方もいる。世の中に翻訳版が氾濫するほど多い今日、原文を忠実に訳してくれた翻訳版が必ず見つかると思えるのに、敢えて原文で読みたいお気持ちとお志に対して尊敬する気持ちでいっぱいである。さらに、中華料理が好きで、自分の足で中国各地を回って、本場の中華料理を味わい、その作り方を勉強してきたいという努力家の方もいる。それぞれなんと立派な目標であろう。
このように、みなさん実に多彩で有意義な目標を持って中国語教室に通っている。そしてその実現のために忍耐強く努力されている。人生の充実した後半期または何十年も仕事をした後の定年退職後にあるみなさんは、本来ならばやっとゆっくり休める時期でもあるのに、敢えて自らに「勉強」を課してまだ人生のマラソンを走り続けることを選択しているのである。そして、12年間(わたしが教え始めて以降)も努力し続けてきたのである。これは決して誰もができる簡単なことではないと思う。
一方、今日の日本社会には、将来への目標を持たず、意欲がなく、終日、家にごろごろして閉じこもり、いい年をして親に養ってもらう若者が増えつつある。いわゆるニート問題である。わたしはかつて何人かの若い女性に、将来何になりたいか、何をしたいかと聞いたことがある。戻ってきた答えは金持ちの男に嫁いで食べさせてもらいたいということであった。また、ある放送局による渋谷街頭のインタビューを聞いて仰天したことがある。「毛澤東」を知っているかという質問に、「えっ、『けざわひがし』って誰?」と、派手に装っている若者が平気でげらげら笑いながら答えていた。さらに、電車の中では、優先席の前にお年寄りが立っていても席を譲らないで平気な若者もいれば、他人の迷惑も考えずに堂々と鏡と化粧品を出して、まるで自分の家でのように化粧している女の子もいる。片方では中国語教室のみなさんのように努力している高齢の方々がいることを思うと、わたしは叫びたくなる、「若者たちよ、もっと自分のおじいさんたちとおばあさんたちに学んで、何らかの目標を持ち努力することができないのか!」と。もちろん、日本のすべての若者がこうだと言っているわけではない。一生懸命に努力している若者は大勢いる。しかし、増えつつある一部のこのような種類の若者を見ると、日本のことが好きな一外国人にとっては、寂しく残念な気持ちになる。かつて映画「おしん」の主人公が与えてくれた辛抱強く努力する日本人の印象が、偏見であるかもしれないが、今の若者たちから少しずつ消えていくような気がする。
わたしは、中国語教室のみなさんの努力し続ける精神力と行動力にかつての日本人の精神がなお強く残っていることを感じる。中国語教室ではわたしが先生であるとはいうものの、本当はわたしは学生である。中国語教室のみなさんの、年齢に負けず自らの人生目標を持ち続け、尚且つ努力し続ける品位ある精神力と行動力が、わたしに多くの感動を与えてくれて、多くのことを考えさせてくれた。また、無言のうちにわたしに大きく影響を与えてくれて、わたしが日本の大学院で勉強や研究に努力し続ける心の支えとなってくれたのである。特に、辛い論文作成時を乗り越えることができたのも、みなさんのおかげである。このようなみなさんと12年間を共にすることができ、みなさんから多くのお教えをいただいたことを生涯の誇りに思っている。
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臧 俐 (ぞう・り ☆ Zang Li) 博士(教育学)。専門分野は教師教育・教育政策。中国四川外国語学院(大学)を卒業。四川外国語学院日本語学部で11年間専任講師を経て来日。千葉大学で修士(教育学)を経て、2006年に東京学芸大学より博士号を取得。
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2007.02.20
前回、私が勤めている大学の様子を述べたが、言い切れなかったことが多くあるので、今回も引き続き中国における大学教育の様子を紹介したい。
改革開放が実施されてからこの30年近くの間に、中国は市場経済を導入して高度成長を遂げてきた。その過程で、経済体制が激変し、最大の難関とされていた国有企業さえも市場原理に従って改革された。また、経済のみならず、社会のあらゆる側面が大きく変貌した。しかし、中国の教育体制には計画経済時代の面影が色濃く残されており、構造改革が立ち遅れているところが目立っている。本学のように、普段から上級管理部門の検査が多いのは大学だけではない。報道によると、昨年末に上海の中学校や高校さえも20数回の検査を受けたという。
中国の大学の運営体制や組織を見ると、計画経済体制や国有企業を思わせるところが少なくない。たとえば、大学には共産党の委員会、組織部(党の人事部)、共青団(共産主義青年団)委員会、婦人委員会などの政党関連の部門が設置されているほかに、外事処、監査処、武装部などの部門もある。一部の組織部門は有名無実化しているが、このような組織体制は改革以前とそれほど変わっていない。こうした組織が置かれている理由の一つは、政府の管理部門に対応しているからである。つまり、大学は政府に直接管理されているため、組織自体も似たようなものにしなければならないのだ。こうして、政府からの管理が行いやすくなり、検査も多くなる。
ここまで読むと、中国の教育体制が非常に遅れていると思われるのであろう。しかし、日本の大学に比べて、中国の教育システムには感心させるところも少なくない。最も異なる点の一つは、中国の大学では成果主義が徹底的に実施されていることだ。前回説明したとおり、本学では、学部教育のレベル評価を受けるため、われわれ教員に多くの事務的な仕事が求められた。私も以前行った2千人分のテスト資料を整理しなければならなかった。だが、それでも文句は言えない。なぜならば、その人数分に応じた給与をすでにもらったからである。
中国の大学では、教員の主な収入は業績によるもので、その業績は細かな得点制になっている。一つは教育に関するものであり、担当講座数、受講生の数等で評価され、もう一つは研究に関するもので、著書、論文の数によって評価される。業績の評価システムは複雑で不備なところも少なくないが、評価の結果はボーナスに反映されるから、結局各教員の総収入は年功序列とはあまり関係なく、個人の能力と努力に応じている。つまり、教えている学生の頭数が多ければ、または書いた論文の数が多ければ給料も多くなるということだ。
さらに、個人の業績はその職階にも関連している。基本給のほかに、助教授や教授の職階に応じて一定のボーナスが支給されるが、助教授や教授になるには一定の研究成果が必要となっており、年齢とは無関係である。また、助教授や教授は基本的に5年程度の契約制となっており、その5年間に業績が上がらなければクビにはならないものの、ボーナスが減給される。こうして、中国の大学では、私のような新米の先生が多く「稼げる」ことは可能であり、また私より若い先生がすでに教授へと昇進し、または多くの給料をもらっていることもよくある話である。
他方、教育の方法や学生の勉強意欲などについても、日中の格差は大きい。中国の大学生は勉強には非常に熱心で、また成績にこだわる傾向が強いので、真面目に教えないといけない。というのは、期末に学生が各教師の授業内容、方法と効果などに点数を付けるから、低い評価を受けると将来の昇進にも影響が出るからだ。私は日本で授業をしたことはなかったが、十数年の留学経験からいうと、中国の大学の先生は日本に比べてプレッシャーがより強いと思う。
そして、大学の風景についてもやはり日中両国が大きく異なる。中国の大学生は全員キャンパス内あるいは大学周辺の学生寮に住んでいるため、食堂や浴室のような生活施設が学内に多く設置されている。また、学生は殆どアルバイトをしていないので、日本に比べて学校内はいつも賑やかで活気が感じられる。本学のキャンパスは小さいので、夏になると、髪の毛が濡れている女子大生が洗面入浴道具を持って、スリッパで歩いている姿をよく見かける。
キャンパスの大半は学生に「占領」されているため、教員のほとんどは個人用の研究室がない状態である。若い先生だけではなく、偉い教授さえも個室がない。あるのは、各「係」(グループ)ごとに分けられた共用研究室のみ。研究は自宅ですればいいけれども、学生への指導はとても不便になる。この点についていえば、中国の大学には日本のようなゼミ制度がなく、学生に対する指導もそれほど多くない。ゼミがないことはとても残念である。日本での大学生活を振り返ってみると、やはりゼミの時間が一番多く学ぶ機会にあふれていたと思うのは私だけではないだろう。
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範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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