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2013.03.20
English Version
参加者87名。協賛企業3社(フィリピン大学建築学部トメルダン教授と建築家のギレス氏のおかげで)。さらに2日後、フィリピン大学経営学部のラゼリス博士のラジオ番組に、セミナーの参加者数人が出演してセミナーの成果をアピールした。フィリピン大学で開催された第15回日比共有型成長セミナーは、世界各地のSGRAグループが(東京の支援を受けずに)単独で開催しても大成功できることを示したと思う。
既に15回目となる共有型成長セミナー・シリーズであるが、今回初めて、開会式においてフィリピンの国旗掲揚と国歌斉唱を行った。実をいうと、本セミナーの準備のための運営委員会において、委員のそれぞれが太平洋戦争における自分の家族の経験を分かち合った後、全員が日本の国旗掲揚と国歌斉唱を行っても良いという決断をした。しかし、日本側の意見を尊重して、今回のセミナーでは、日本の国旗掲揚と国歌斉唱は実施しなかった。フィリピンと日本はこの共有型セミナーの開催団体が帰属するふたつの国であるので、次回セミナーでは、日本の国旗掲揚と国歌斉唱も予定されている。運営委員たちの熱い希望は、第二次世界大戦の恐怖を忘れることはないが、そこから一歩踏み出して、真の深い比日関係を築き上げていくことである。
第15回セミナーは、セミナー・シリーズの2本の柱となるテーマ「製造業とKKK」(第15回セミナーのテーマ)と「都会と農村の格差とKKK」(第14回セミナーのテーマ)を具体的に繋げる点において有意義であった。KKKとは効率・公平・環境という意味である。最初の繋がりは、午前中にモラカさんとウイさんが発表した「持続可能農業における輸入代替」である。これについて、メディナ博士とマキトは、2名の発表者と協力しながら、「Downstream Integrated Radicular Import-Substitution(DIRI;川下で統合された幼根的輸入代替)」モデルとして研究を開始している。
2番目の繋がりは、フィリピン大学建築学部が企画した午後のセッションで、社会企業家のビジネスチャンスと住宅の提供における竹の役割に焦点を当てたものである。2年前のセミナーで、フィリピンの建築における竹材の可能性について話し合ったことがあったが、当時は、このテーマの展開は困難であった。しかし、今回のセミナーで、竹材に関する知識や関心が幅広いことがわかり注目している。建築家のタン氏は竹に関するモノづくりがフィリピン職人の2600年の遺伝子であると指摘した。サルゼル氏は、この危機に迫られている伝統技術が科学的方法によりいかに保護され、改良できるかを話した。テソロ博士は竹の生物学などを紹介して、供給不足の推定を述べた。建築家のレガラ氏は、公営住宅の供給不足、非伝統的な市民住宅の建材(竹を含む)の規格を制定しなければならないと話した。オソリオ氏はベトナムの大型竹材工場の例を紹介したが、フィリピンの場合は「裏庭方式」を提案した。建築家のシ氏は、最も人気がある建材であるコンクリートについて、環境に優しい日本的な方法を紹介した。
3番目の繋がりは、「都会と農村の格差とKKK」というテーマで開催された第13~14回共有型成長セミナーで私が発表した「Giant Leap And Small Step(GLASS 飛躍小歩)効果」の再確認である。当初は、このGLASS効果はフィリピン国内の労働移動においての発見だったが、今回のセミナーで、GLASS効果がフィリピンの海外労働移動にも見られることが確認できたし、この効果の抑止により、フィリピン出稼ぎ者の送金が拡大することも判明した。フィリピン政府の海外フィリピン人委員会のベニレス氏とカルボ氏からのコメントをいただいた。
その他の発表は労働課題と深く関係するものばかりであった。セミナーの共同主催者がフィリピン大学の労働・産業関係学院であるから当然である。サレ学院長は基調講演で、IT産業はあまり雇用の効果がないという興味深い仮説を提示した。テオドシオ先生は労使関係における、相互信頼の低さを嘆き悲しんだ。ラセリズ博士はフィリピン企業の倫理を研究すべきだと強調した。平川先生と河合博士によるベトナム製造業の調査研究と、平川先生とマキトによるフィリピン製造業の調査研究についての発表もあった。ベトナムの研究は、ベトナムがいかに「中所得経済の罠(middle income trap)」を回避できるかを述べたが、フィリピンの研究はフィリピンがいかにそこから脱出できるかを論じた。
パラレルセッションがなかったので、参加者は、真の多分野の学際的で国際的なセミナーを享受できた。確かに、SGRA日比共有型成長セミナーにおいて、或いはフィリピン自体において、KKKが達成できるかどうかというのは、専門分野、社会構造(企業・政府・市民社会)、国家あるいはその中間にある、用心深く保護されている壁を破れるかどうかにかかっている。
第16回セミナーは、既に今年の8月開催の方向で検討されている。この話がより真剣に話されるのは、3月8~10日にバンコクで開催される第一回アジア未来会議(AFC)の後になる。第14回セミナーの発表者が、15人のフィリピン代表団として参加した。第16回目セミナーの運営委員会に参加ご希望の方は、SGRAフィリピン事務局(
[email protected] )にご連絡ください。
最後に、この場をお借りして、第15回セミナーの司会者のラゼリス博士、トメルダン氏、デアシス氏に対して特別に感謝の意を述べたい。今回、第1回アジア未来会議の準備で忙しいSGRAの今西淳子代表が欠席だったのは残念であった。
また、日比共有型成長セミナーと関連することを以下に報告したい。
第15回日比共有型セミナーに参加したメディナ博士とベルガラ神父は、2013年3月2日に東京大学(駒場キャンパス)で開催された国際シンポジウムで、「共同体資源に基づく環境に優しい農業:持続可能な発展と多様性のための戦略」というテーマで発表した。マキトはDIRIモデルを日本で紹介した。このシンポジウムにSGRAが参加できたのは、フィリピンの都会の貧困と持続可能な農業を研究されている東京大学の中西徹教授のおかげです。詳細はここをご覧ください。
第14回日比共有型成長セミナーでも発表された以下の2本の論文は、光栄にも、第1回アジア未来会議で優秀論文として選ばれた。
・"Community-Life School Model for Sustainable Agriculture Based Rural Development (農村開発中心の持続可能農業のためのコミュニティ生涯学習モデル)" by Rowena Baconguis and Jose Medina.
・"The Migration Link Between Urban and Rural Poor Communities: Looking at Giant Leaps and Small Steps(都会・農村コミュニティ間の移民リンク:飛躍と小歩の模索)" by Ferdinand Maquito
同時に、第14回日比共有型セミナーでも発表された次の論文が、第1回アジア未来会議で優秀発表賞として選ばれた。
・"Barangay Integrated Development Action in Kapangan Towards WASH (水衛生へ向けてカパンガンにおけるフィリピン社会の基本単位であるバランガイの統一開発)" Jane Toribio, Delfin Canuto, Roberto Kalaw
第15回日比共有型セミナーで発表された以下の論文は、ベトナムのアジア太平洋経済センター20周年と日越関係40周年記念の一行事としてハノイで開催された「労働移動と東アジアにおける社会経済発展」シンポジウムで発表された。
・"Patterns in Overseas Filipino Worker Flows: In Search for the Giant Leap And Small Step (GLASS) Effect (海外フィリピン労働流出におけるパターン:GLASS効果の探求)" by Ferdinand C. Maquito
このシンポジウムにSGRAが参加できたのは、フィリピンの専門家として私を招いてくださった早稲田大学のトラン・ヴァン・トウ教授のおかげです。ハノイのシンポジウムでは、フィリピンの出稼ぎ者をできるだけ帰らせて国内経済に役に立てるようにすべきだという私の提言に、トラン教授も同感であることを表明してくださいました。
第15回日比共有型成長セミナー関係の資料
第15回日比共有型成長セミナーの写真集は下記のリンクからご覧いただけます。 写真集1 写真集2 Facebook写真
アジア未来会議については、下記リンクをご覧ください。 第1回アジア未来会議報告
「マニラ・レポート2013年夏(第16 回日比共有型成長セミナー」はこちらからご覧いただけます。
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<Max Maquito マックス・マキト>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。
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2013年3月20日配信
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2013.03.06
(原文は中国語。『中国時報』(2013年2月14日付)、および中国のブログ「鳳凰網(ifeng.com)」に掲載。)
先月日本の与党である公明党の党首山口那津男氏の北京訪問が成功裏に収まり、中国の国家主席習近平氏が「快く」安倍総理大臣の親書を受け取ったことで、どん底に陥った中日関係は新たな転機を迎えたようであるが、中日関係の改善が模索される中、釣魚島(日本名「尖閣諸島」――訳者注)をめぐる情勢はまた危機一髪の厳しい状態へと一変している。
中国海軍軍艦による火器管制レーダー照射という日本の指摘に引き続き、中国海監船と軍機が再び釣魚島付近の海域内に進入すると同時に、中国福建省・浙江省一帯には戦車とミサイル部隊の動向も噂されている。この敏感な時期において、日本は米国と密接な関係を保っている。カリフォルニア州で米軍との大規模な離島奪還を想定した共同軍事訓練のほか、オバマ米大統領が訪米する予定の安倍総理大臣にどんな約束をするのかも注目の的となっている。
正直言えば、最近の中日両国間に見られる新たな争いは各段階において戦略的意図に基づくものだと思われる。安倍総理大臣の訪米を控え、双方とも勢いを付けて互いに迫ろうとする考えがあり、次の段階における両国の釣魚島問題をめぐる協議で自国により多い主導権を獲得しようとする狙いもある。日本が火器管制レーダー照射事件を公開するのは、中国からの「脅威」の更なるエスカレートを示して東シナ海問題の対応に関する米国による積極的支援を求めるためにほかならない。それに対し、中国が積極的姿勢を見せるのは、釣魚島の「協防」において軍事的協力を行う日米をけん制するためである。
現在、釣魚島をめぐる衝突はワシントンだけではそう簡単にコントロールできないレベルまで発展している。オバマ大統領が安倍総理大臣に更なる挑発的行為をやめさせることができても、日増しに深刻化する釣魚島危機を解決するには及ばないであろう。今までの五ヶ月間で中国が過去のような不利な地位から脱出し、釣魚島海域の「常態化」を実現したのは既成事実である。言い換えれば、いかにして艦船と航空機を釣魚島より12海里の域内から離脱させるように中国側を説得するかが釣魚島危機解決のカギとして、中日協議の焦点となっていくであろう。
問題は、現在日本が何を条件に中国側の譲歩と交換できるのかである。
北京は目下日本に「誤り是正」を断固要求し、「国有化」は、現状の変更と、中日両国の先輩指導者が合意に達した「紛争を棚上げする」との共通認識の破壊につながっていることを示しているが、安倍内閣に服従を迫るこの要求は極めて難しいものである。
いわゆる「尖閣諸島」の「国有化」はすでに去年の「9・11」に関連手続きを済ませたので、日本政府にとって、以前の状態に戻るのは技術的に実現不可能なだけではなく、面子にもかかわるのである。東京の実態把握から言えば、「国有化」は現状維持がもっとも有利である。
一方、「国有化撤回」を条件に、中国の艦船と航空機が12海里の域内に進入しない約束がとれれば、日本にとってもう一つの迂回路になるだろう。例えば、「尖閣諸島」の「国有」を「県有」に、すなわちその「所有権」を沖縄県(琉球)に移転させるか、「民有化」を再度取り入れることも考えられる。もちろん栗原家に戻すのではなく、ある「民間機構」に引き受けてもらうことである。
しかし、日本は交渉が始まるやすぐ中国側の「誤り是正」との主張に文句なく従うのではなく、「国有化」問題を避けて討議を行うことを希望するであろう。
北京訪問直前、山口那津男氏は中日ともに航空機も釣魚島の空域に進入しない意見を提出した。それに対して北京は一切返事をよこしていない。安倍総理大臣は「戦闘機を尖閣に飛ばすかどうかは 日本が自分で決める事」としている。しかし、釣魚島危機解決の視点から言えば、「両国とも自粛」との説は現段階で両国が比較的容易に到達できる妥協点と言えなくもない。
ただし、この具体的な意見はどちらがどんな方式で交渉に持ち出しても、また、最終的にお互いに納得がいく妥協点になったとしても、「領有権の問題はそもそも存在しない」との立場に拘れば、文書をもって正式的な共通認識に達するのは難しく、結局もう一つの「暗黙の了解」で終わる可能性が高い。
書面的証拠がないかぎり、どんな「暗黙の了解」も脆弱だということは言うまでもない。しかし、歴史を振り返ると、東洋諸国の外交上、互いに認められた効果的な「暗黙の了解」は数多くあることが分かる。釣魚島問題をめぐって周恩来氏と田中角栄氏が昔達成した「棚上げ」という暗黙の了解、そして日本が40年間守ってきた筆者の言う「三不原則」(軍力を置かない、島の資源を開発しない、海底資源を開発しない)もこんな暗黙の了解に基づいたものと言えよう。
中日間の「暗黙の了解」が空域に適用できれば、海域での適用に向かっての双方の努力も期待できるであろう。
現在の危機解決に向けて、中日間での新たな暗黙の了解の達成は無論多大な困難に直面するが、両国の相互信頼の再構築こそ当面の急務である。以前、鄧小平氏は釣魚島問題の解決方法は「もっと知恵がある次の世代」に見出してもらおうと指摘しているが、その解決方法をいかに見出すか、中日両国の新世代の指導者の知恵が試される時期である。
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<林 泉忠(リム・チュアンティオン) John Chuan-Tiong Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員。
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2013年3月6日配信
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2013.02.20
韓国の新しい大統領、朴 槿恵(パク・クネ)の就任式が2月25日、韓国国会議事堂の前で行われる。朴氏は2012年12月19日に行われた大統領選挙で、52%の得票で、48%を得た民主統合党の 文 在寅(ムン・ジェイン)候補に勝利した。
全国の総投票率は75.8%。近年韓国で行われた選挙の中でもっとも高い投票率を記録した(参考として、2012年4月11日の国会議員選挙の投票率は54.2%だった)。それほど、多くの人々がこの選挙に積極的に参加し、両候補が得た投票率を見ても分かるように激戦だった。選挙以前から予測された通り、この選挙は保守と進歩(右派-左派の概念とは違う)、既成世代と若い世代という「陣営」間の対立が先鋭に表れる場となった。選挙結果に関しては、すでに多くの分析が行われ、その中には反省と自責、内部分裂などが混じっていた。
進歩陣営と(多くの)若い世代は、予想しえなかった選挙結果に大いに失望した。勝利は当たり前だと思っていたので、彼らが受けたショックは以前の「敗北」より大きかっただろう。開票速報を見ながら泣き出したとか、選挙以来テレビニュースを見なかったと言っている人もいる。既成世代に対する怒りを隠さない人達もいる。彼らがショックから立ち直って、彼らが望んでいる社会のために立ち上がるまでにはもう少し時間が必要だろう。
しかし、選挙はもう去年の事。もうすぐ就任式を迎える。現実否定はやめ、これからは新しい大統領について考えてみる時である。
朴氏は韓国初の女性大統領だ。最近、世界各国では女性最高指導者の選出が増えているが、全体的にはまだ男性の方が圧倒的に多い。女性大統領はアメリカにもなかったし、歴代の日本総理の中にもない。中国の最高指導者の中にもなかったし、もちろん、北朝鮮にもなかった。歴史の中の女王の話はさて置いて、女性に参政権が与えられたことも実は昔々の話ではない。ニュージーランドで1893年、最初に参政権が女性に与えられ、アメリカでは1920年、イギリスでは1928年、日本は1945年、そして韓国は1948年に与えられた。韓国はとにかくダイナミックで早い。
一方では、朴氏は女性を代表する人ではないと言っている。彼女は典型的な保守男性、経済的な既得権層を代表しているということだ。一理はある。ところで、進歩的で、経済民主化を追求する女性は果たしてすべての女性を代表するのか。典型的な男性はどういう人で、典型的な女性は誰なのか。そう考えれば、女性-男性といった「性」自体に注目することはもう古い発想かも知れない。一人の人間として、韓国を代表する大統領に適するのかを検証したらいいのではないか。 朴氏をかばうつもりはない。 朴氏は女性という要素を前に出して選挙戦に挑み、実際に、ただその理由だけで多くの女性票を集めた。もうそのような戦略はやめよう。多分、二度と女性という理由だけで得票する状況はないと思う。 朴氏には、男性と女性、そしてどちらにも属しないかも知れない第3の性、年寄りと若者、社会的な強者と弱者が皆で幸せになる社会を作って欲しいと、要求しなければならない。
すでによく知られているように、朴氏は朴 正煕(パク・チョンヒ)元大統領の娘である。進歩陣営、歴史学界などで、朴氏を極端に反対する理由のひとつである。満州軍官学校と日本陸軍士学校を経て、関東軍として服務し(「親日」、親日という単語自体に否定的な意味はないが、韓国では日本帝国植民地の歴史がいつもその用語を規定するため、肯定的な意味を持てない。代替用語として、「知日」が使われる)、経済発展を名目に、独裁政権を維持しながら、民主化を要求する人達を弾圧した(「反民主」) 朴正煕を、進歩陣営・歴史学界が支持できるはずがない。反対側の先端では、朴正煕を経済発展と反共産主義の先導者として神格化している(嘘ではない。彼の出生地は聖域化されたと言っても過言ではない)。
しかし、朴氏は朴正煕ではない。娘と父親を同じ人だと錯覚、または罵倒してはいけない。独裁政権の延長でもない。朴正煕は1979年に死亡し、朴氏は2013年に大統領になる。韓国はその長い期間に、着実に民主主義の道を歩いて来た。韓国の現在の民主主義は独裁政権の復活を認容するほど甘くはないだろう。怖がる必要はない。
朴氏は父親の否定的な面をそのまま認め、彼がおかした間違いを反省し、二度と繰り返さないようにすべきである。そのような努力を通じて、朴氏を支持しなかった、認められなかった 48%をどれほど説得し、包容するのかが要であろう。
現在進行中の国務総理、憲法裁判所長の選任過程は、人事聴聞会における与論と野党側の反対で(勿論、候補者個人の道徳性問題を含め)難しくなっている。ここでも分かるように、48%の反感はまだ強い。2月7日現在の 朴氏の支持率は52%。自分が選挙で得た投票率と変わっていない。彼女を支持しなかった勢力を包容できなければ、5年間の政局運営は困難になるだろう。
しかし、一方で、父親を否定し、反対側を説得する作業が支持者の離脱を招く可能性もある。包容と離脱防止。朴氏はこのジレンマをどう克服するのだろうか。候補者の時は聞きよい話ばかり言ってもよかったが、大統領になると話が違う。そして、時代はもう父親のような方法では動かすことはできない。
これから5年後、2018年には私も40歳に近くになる。この時、朴 槿恵 大統領は果たして成功した大統領になっているのだろうか。一方で、果たしてその時の私の投票性向はどうだろうか、どのような大統領を欲しがっているだろうか、またこのようなエッセイを書けるだろうか。まだまだ分からない未来の話だが、国民の手で大統領を選ぶという原則だけは変わらないでしょう。
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<キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae>
韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。
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2013年2月20日配信
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2013.02.06
昨年の夏休みにアメリカのアマースト市(町)にあるマサチューセッツ大学を短期訪問する機会がありました。アマーストという町はニューヨークまでおよそ175マイル(1マイルは1609メートル)、ボストンまで90マイルのところに位置しています。2010年の国勢調査によると、人口が4万人に満たない「小さな」町です。広さは、27.8平方マイル(72.0km2、そのうち、土地は71.7km2、残りは水域)です。以下、アマーストを訪れて、自分で感じたこと、そして体験したことなどをいくつかの内容にわけて述べてみます。
1.大学
この町は「大学の町」として有名です。アマーストカレッジ、ハンプシャー カレッジ、マサチューセッツ大学(アマーストに3つのカレッジ)があります。周辺町のカレッジも含むと、5つのカレッジとなり、お互いによく連携しているそうです。毎年、この5つのカレッジは外国人研究者を歓迎するパーティーを共催しています。マサチューセッツ大学には2万8千人近くの学生がいて、そのうち、中国から来た留学生が最も多く、昨年度だけでも200人以上にのぼるそうです。アマーストカレッジの学生数は2千人程度ですが、大学の教育の良さは全米でも有名で、トップ5位以内に位置している私立大学であると言われています。この大学では少人数による教育を実施しており、学費も他の大学の2倍以上かかる、所謂「貴族」大学です。
大学が休みの間は、この町は非常に静かになりますが、大学が一旦始まると、若い人であふれるにぎやかな町になります。レストランもそれに従って収入の増減があるそうです。町には中華料理店や日本の「すし」屋もあります。両方とも評判がよいそうです。
2.「オープン」式の図書館
マサチューセッツ大学の図書館は入館証なしで誰でも入館することができます。さらにコンピューターの一部を市民にも開放し、自由に使うことができます。新学期が始まる(9月初めごろ)と、金曜日を除いて、大学の図書館は24時間開いています。図書館は高層ビル(周辺には他の高層ビルがない)で、23階に上がると、周辺の風景を一望できる(四方は透明なガラス)ため、風景を見るために人々が大勢訪れています。特に秋になると紅葉が綺麗です。一階のエレベータの入り口のそばやエレベータの中には、「23階に行けば景色がよく見えますよ」という写真付きの紙が貼られています。図書館は26階までありますが、23階以上は事務室になります。この図書館の高さは全米の大学図書館の中でもナンバーワンだそうです。
図書館には、院生たちの個室が多く設けられており、申請すれば、個室として一年間かそれ以上使うことができます。そして、一階には、食べ物や飲み物を売っている店があり、そこで休憩を取ったり、飲食したりすることができます。地下一階は学生の自習室で、そこで、プリンタ、コピー、スキャナーなどを使うことができます。留学生のための「ライテングセンター」も設けられています。留学生は週2回程度ネットを通じて予約することができ、そこで論文を直してもらえます。言うまでもなく、スタッフのスケジュールが空いていれば、当日の受け付けも可能です。
大学の身分証明書があれば、図書館の本を機械にタッチするだけで借りることができます。そして、入口にあるインフォメーションの窓口の机の上には、大学の図書館の名前を印字した鉛筆やボールペンなどが多数置かれており、必要な人は自由に取って使い「記念品」とすることもできます。
3.町のサービス
3.1.無料バス・学生運転手
市内を回るいくつかの路線バスには、誰でも無料で乗れます。主に学生を対象としていますが、市民も利用できます。43路線ぐらいのバスは料金がかかりますが、(夏、冬)休み時間以外には、学生証があれば、ただで乗れます。面白いことに、バスの前のところに自転車の置き場があって、そこに3台の自転車を同時に乗せることができます。さらに運転手(料金がかかる路線以外)はみんな学生です。これも学生にアルバイトを提供する学校側の配慮(交通会社との連携)と言われています。バスの中も「にぎやか」です。電話をかけたり、大声で話をしたりしています。最初はとてもびっくりしましたが、そのうちに「慣れて」きました。中国語の「入郷随俗」(郷に入っては郷に従え)という言葉を思いだしますね。
学校が始まると、バスが15分おきに朝早くから夜遅くまで運転しています。もちろん夜になると、本数が減ってきます。土日も同様に本数が減ります。休み期間には別の運転スケジュールが設けられています。特別な休日とかで運転しない時もあります。
3.2.WiFi
この町では、「無料」で自由にインタ―ネットに繋げることができ、外出している人にはとても便利です。もし、町に近いところに住めば、家にネットがなくてもよいので、家計も節約できます。これについてはニュースでも報じられており、アメリカの多くの都市で無料使用の試みを始めていると言われています。
3.3.休日の「ファーマーズ・マーケット」
休日や毎週水曜日になると、農民たちが自分で生産した無農薬農産品(野菜や果物、パン・ケーキ、その他)を「市場」に持ってきて販売し、町はとても賑やかになります。無農薬の野菜はふつうの売店のものよりは少し高めですが、それでも多くの人が集まって購入しています。その種類も多いです。
こちらの町は「田舎」であるためか、人々はゆったりとした生活を送っています。実際に体験してみて、日本とは異なる面がたくさんあるんだなあと感じました。
アマーストの写真
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<包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。現在東京外国語大学AA研研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。危機に瀕している言語、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。
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2013年2月6日配信
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2013.01.30
日本の島根に着任して初めて迎えた春、スーパーで地元産の干柿を買って食べた。もともと干柿は好きだったし、学生の頃もよく安い中国製の干柿を食べていた。この島根の干柿は1個300円と高かったが、それに感動したのが始まりだった。
それから一年たって秋が近づいて柿が出回り始めた頃、地元出身の学生に地元の人達が干柿を買う場所があるか聞いてみた。すると家では自分で作っていると言うのだ。それなら私にも作れるかもしれない、と言うことでネットで調査してみたら作り方がたくさん出てきた。 島根の干柿は西条柿という種類で、Mサイズ一袋約70個で2000円で売られている。一個30円の生柿が300円の干柿になるのだからすごい付加価値である。皮を剥き、紐で吊るし、熱湯に10秒浸けるか焼酎に浸けるかして殺菌してから外に吊るす。殺菌は両方とも試したができ具合に差はない。ベランダに干せば2週間程で渋が抜けて食べられるようになる。この時点では中が水っぽく、あんぽ柿のような状態である。ただしこの状態では保存が効かないので、市販のあんぽ柿は硫化物にくぐらせて保存できるようにしてある。しかし市販のものは1個200円でも、旨みや香りは自作のものには程遠い。
自作のは太陽光をたっぷり吸収して、転換された旨みが広がるので格別であった。市販品のはおそらく十分には天日に晒されていないのであろう。 山陰の11月は殆どが薄曇りで、その合間に陽が射し、にわか雨もよく降る。陽射しが強すぎては温度が上がってショウジョウバエが湧く。かといって日射しがなければ紫外線による旨みは出てこない。そして雨に濡れてしまえば雨が取り込んだカビの胞子で干し柿はカビる。だから干し柿に適した期間は短く、その上に不安定な気候状態の中で、条件が三拍子そろった時にだけ出来の良いものができると言える。去年はあんぽ柿の出来に満足していたら、その後雨にぬれて柿はカビた上にショウジョウバエが発生して失敗してしまった。即座に再チャレンジしてからは毎日欠かさず天気予報をチェックして、降水確率が高ければ部屋にしまい込んだ。部屋のふすまは全開して風を貫通させて乾燥を促す。その甲斐あってその回は綺麗な干柿ができた。
そして更に3度目。すでに12月に入っていた。この時期はほぼ毎日曇りで降水確率が50%を超えていたので、室内で影干しにした。失敗はしなかったものの柿は黒ずんでしまい、風味も乏しかった。去年はそれでおしまいとなった。 それからまた一年、私は2011年の経験を踏まえて更に多くの干柿を作ることにし、目標を500個とした。500個作るからには雨が降りそうだからと部屋に取り込むことはできない。そこでベランダに透明塩化ビ二ルシートを張ることにした。風を通すためにシートを適度な大きさに切って、風が吹けば開くようにした。これならば手間をかけずにほっとけば干柿ができる。
しかしここで一つの疑問が出てきた。地元では人によっては陰干しにすべきと言うのだ。そうだとしたら去年の私は間違って作っていたことになる。天日干しで十分に美味しいのができたので、そんな筈はないと思いつつも不安になってきた。そこでネットで調べたところ、天日干しと陰干しの両方の意見があった。しかし陰干しには十分な根拠が示されておらず、一方で天日干しについて、野菜は天日干しにすると紫外線で旨味成分が発生するのでおいしくなることがわかった。何事も他人の経験には頼らず自分でしっかり調べることが重要なのだ。
そこで今年もやはり天日干しとした。また窓と北側の部屋と南側の部屋を隔てる襖は昼間も夜も全開にして北から南へと風が貫通するようにした。 しかし12月になるとさすがに夜風が冷たく、布団は暖かくても顔が冷えれば目が覚めたので、夜だけは窓を閉めた。 長崎出張の折には八百屋で見かけた渋柿を20個持ち帰って干柿をつくってみた。しかし甘さがいまいちな上に肉がボソボソだった。それと比較して西条柿は甘い上に肉はもちもちしている。だから西条柿は干柿にとても適した柿である。この他にも富有柿の干柿も作製中で、どうできるかが楽しみである。
柿の皮剥き時間は一個当たり50秒、紐通しと消毒が8個当たり10分であるから、一個当たりの必要時間は2分ほどである。500個作るとなると1000分、即ち16時間かかる。私は2週間かけて200個を作り、その後友人2名の協力を経て更に200個を作った。そして更に50個追加したので合計450個は作った。目標まであと少しを残したものの、まずまずの成果と満足している。450個の干柿は協力者や友人に配る等して半分はなくなった。残りは毎日3個食べると日に日に減って行く。来年は1000個を目標にしてみたい。そして柿の木オーナーになる計画も立てている。
干し柿の写真
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<葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。
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2013年1月30日配信
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2013.01.17
12月8日、私は「原子力をめぐる文化表象」というシンポジウムに参加した。今回のシンポジウムは、長年にわたって原発や放射能をテーマに研究を続けてきた日本大学の宗形賢二教授、松岡直美教授、植竹大輔准教授、安元隆子教授による講演であった。
そもそも、原子力は私にとってはるか遠い存在であった。いや、それよりも無関心であったとの言い方がもっと適切かもしれない。中学校の歴史授業で習った1945年8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆は遠い昔のことであり、今の平和な世界ではあり得ないことだと思い込んでいた。
しかし、このような原子力に対する認識が覆されたのは、まさに3.11東日本大震災であった。その日、私はたまたま自宅で後輩たちと談笑中に大地震に襲われた。窓や家具がガタガタ音を立て、テレビ、冷蔵庫がだるまのように大きく前後に揺れた。書棚から何冊か本が落ちたのか、トーン、トトーンという音がした。日本に住んで長年経っているが、このような大地震に遭うのは初めてだった。しばらくして大きな揺れが落ち着き、「早く外に出よう!」と話しかけてきた後輩の一言で、慌てて外へ逃げ出した。家の前の広場にはすでに住民たちが集まり、ざわざわしていた。必死に電話をかける人、ラジオを聴いている人……みんなの顔には不安が漂っていた。その中に交って私たちもそれぞれ携帯を手に取るが、まったく電話がつながらなかった。不安が募るばかりだった。しかし、ぼーっとしている場合ではなかった。早速、私は車で片道30分のところにある、当時1歳の娘が通っている保育園に向かった。住民たちの緊張とはうらはらに、道路はいつもと変わらず、平然と車が流れていた。ただ、車窓から眺める空はなんとなく不気味な感じがした。
娘と息子を無事引き取り、家に着いてやっと安堵してテレビを付けた瞬間、わたしは唖然とした。大地震による想像を絶する津波の到来とともに一瞬にして消え去ってゆく村全体、全滅してしまった家屋、田んぼ……その信じられない光景に私は言葉を失った。家屋や車を丸ごとに呑みこんでゆく大津波は、まるでそれまでの鬱憤を晴らす悪魔のようだった。これは現実ではない、悪夢だ、いや、ハリウッド映画のワンシーンだ、と私は心の中でつぶやいた。が、確実にこれは夢でもなく、映画でもなく、現実であった。全身が震えた。心臓がバクバクした。涙が止まらなかった。大津波の残酷さはとうてい言葉では表せない悲惨そのものだった。
大津波で一晩中悲しみと恐怖に包まれた震災の翌日、世界に衝撃を走らせる出来事が起きた。福島第一原発の1号機と3号機で炉心熔解が発生し、水素爆発が起きたという。原子炉建屋が吹き飛ばされ、大量の放射性物質が漏洩した。「ふくしま」は、ただちに全世界にその名を知らされた。「広島原爆」、「長崎原爆」はもう歴史のできごとではなかった。舞台は変ったが、形は違うが、まったく同じ被害となり、歴史が再演されたのである。広島、長崎の被爆者とその子孫達が今まで背負ってきた精神的、肉体的苦痛を、66年経った今、同じく日本という国の福島の被爆者達が一生背負って生きていかなければならなくなるということは、いかにも皮肉なことである。
福島第一原発から半径20km圏内は今も尚立入禁止区域とされている。また、福島災害対策本部「平成23年度東北地方太平洋沖地震による被害状況速報(第736報)」によると、避難生活を余儀なくされている自主避難者は2012年10月1日時点で11,919名であり、県外への避難者は60,047名だという。事故当時の放射性物質の飛散により内部被爆、外部被爆をされた避難者数を合わせると、いかに被害が大きかったかが想像できる。福島原発事故の影響を受け、マスコミでは原子力発電所の増設計画や原子力発電所の再稼働などに対する議論を大きく取り上げた。
問題が起きてから慌てて行動する。これはいつものパターンだ。とは言え、なぜ地震国である日本が、過去にも大地震、大津波の歴史的教訓があったにもかかわらず、今回の原発事故を事前に防ぐことができなかったのか。この疑問が何度も脳裏をよぎった。これは私だけでなく、日本人を始め、世界の多くの人々の素直な疑問であるかもしれない。大震災から一年半あまり抱いていた疑問を、私は今回のシンポジウム、特に国際関係学部の安元隆子教授の「チェルノブィリ原発事故はいかに描かれたか」という講演を通して、やっと悟ることができた。
安元教授は、チェルノブィリ原発事故がいかに文学者や映画の中で描かれているかについて考察し、その中で、チェルノブィリを通して「福島」を予言した日本の詩人・若松丈太郎の視線について検討した。安元教授が提供した資料の中に次のような文章がある。
チェルノブィリ周辺住民が強いられている事態と同様の事態が私たちの生活域で起きうることであることと、そしてそれによって私たちの生活がどう変わらざるをえないかということとを想像することは、私たちが想像できる範囲を超えているだろうという趣旨のことを、先に私は書いた。(略)しかし、最悪の事態とは次のようなものも言うのではなかろうか。それは、父祖たちが何代にもわたって暮らしつづけ、自分もまた生れてこのかたなじんできた風土、習俗、共同体、家、所有する土地、所有するあらゆるものを、村ぐるみ、町ぐるみで置き去りにすることを強制され、そのために失職し、たとえば、10年間、あるいは20年間、あるいは特定できないそれ以上の長期間にわたって、自分のものでありながらそこで生活することはもとより、立ち入ることさえ許されず、強制移住させられた他郷で、収入のみちがないまま不如意をかこち、場合によっては一家離散のうきめを味わうはめになる。たぶん、その間に、ふとどきな者たちが警備の隙をついて空き家に侵入し家財を略奪しつくすであろう。このような事態が10万人、あるいは20万人の身にふりかかってその生活が破壊される。このことを私は最悪の事態と考えたいのである。
(1994年9月10日、『福島原発難民』所収)
この文章を読んで私は目を疑った。これは福島原発事故後に書いたものなのか。いや、そうではなかった。確実に事故発生より17年も前に書いたものであった。一瞬ぞっとした。彼が描いた光景は現実と怖いほどマッチしているのである。さらに、若松氏が書いた詩の中に次のような内容がある。
原子力発電所中心半径30kmゾーンは危険地帯とされ
11日目の5月6日から3日のあいだに9万2千人が
あわせて約15万人
人びとは100kmや150km先の農村にちりぢりに消えた
半径30kmゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町 冨岡町
楢葉町 浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村 小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約15万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
(1994年 『神隠しされた街』より)
これも福島原発事故の17年前に書いた詩であるが、チェルノブィリから福島を想像して描いた光景には、福島原発後の苛酷な現実がありありと映されているのである。
広島、長崎の原爆、チェルノブィリ原発事故の影響を受け、多くの被爆者、文学者、そして民間団体が原爆の恐ろしさ、残酷さを伝えてきたにもかかわらず、なぜ同じことが繰り返されるのであろう。私はやっと答えを見つけた。それは原爆に対する認識不足ではない。想定外の自然災害、人為的ミスでもない。それは若松氏が指摘したように、最悪事態に対する想像力の欠如であった。
若松氏の予言は福島に対する警告であった。しかし、その声は東電や日本政府には届かなかった。そこまで的中したのになぜ?と問い質したい気持ちがいっぱいだ。でもいまさらその責任を追及しても問題解決にはならないだろう。それよりもっと大事なのは、若松氏が描いたのは福島の現実そのものだけでなく、それは未来の日本、ひいては世界に向けての警鐘でもあることを認識してもらいたい。
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
(1994年 『神隠しされた街』より)
広島、長崎、チェルノブィリ、福島の被害はまだまだ終わっていない。いや、もっと進行している。しかし、人間の記憶力は流れる歳月とともに衰退し、当時の恐怖感は次第に薄くなり、いよいよ忘れ去ってゆくのである。そして、また新しい神隠しの街が増えていく。このような神隠しの街を増やさないために、今私たちにできることは、原子力を再認識し、広島、長崎、チェルノブィリ、福島の真実を知り、永遠に語り継ぐことではなかろうか。
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<韓玲姫(カン レイキ ☆ Lingji Han)>
中国吉林出身。延辺大学外国言語学及応用言語学修士号取得。現在筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程在籍。2012年度渥美奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。
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2013年1月16日配信
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2012.12.26
かなり心配しています。近頃、自分の日本語能力は大丈夫かと本当に自信を失いかけています。とりわけ、2012年12月に行われた衆議院議員選挙の際に、各政党が打ち出したキャッチコピーには理解困難なものが多くて戸惑いを禁じえませんでした。例えば、日本維新の会の『今こそ、維新を。』って、あの倒幕運動から始まった明治維新の維新ですよね。うん、日本の現状を見ればそれをやりたくなる気持ちもわかりますが、本当にちゃぶ台返しのようにもう一回日本のすべてをひっくり返すのですか、危なくないですか。つぎに、日本共産党の『提案し、行動する。』って、あの…ちょっと待ってください…今まで提案し、行動してこなかったというのですか!?仕事はちゃんとしましょうね。あと、日本民主党の『動かすのは、決断。』って、主語がないのでそれは誰の決断を指しているのかちょっとわかりませんが、まあ、結局国民が決断してあなた達を壊滅状態の所に動かしたみたいですけどね。そして、自由民主党の『日本を、取り戻す。』って、なるほど詳細を見ていくと「経済・教育・外交・安心を取り戻して、新しい日本をつくろう」という意味だそうで、いいですね、これはわかります。うん?でも「教育を取り戻す」って?よく見るとそのすぐ下には「危機的状況に陥った我が国の教育を立て直します」という説明がついていましたが、あれっ、日本の教育は危機的状況に陥っていましたっけ?教育社会学者でありながら、その危機的状況に気付かなかった僕は寝ぼけていたのでしょうか。
日本に「へえ~」その6:「PISA調査における日本の最新結果、すごいじゃん?」にも書いたように、2009年のPISA(OECD生徒の学習到達度調査)に参加した、いわゆる「ゆとり世代」と言われてきた当時の日本の高校1年生の学力はそれでも世界トップレベルだったのです。さらに、2012年12月12日付の朝日新聞と毎日新聞の1面トップで報道されたように、63ヶ国・地域が参加した2011年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)でも、調査対象であった日本の小学4年生と中学2年生の平均得点は、ともに数学と理科の両分野においてベスト5に入っていました。当然、日本の教育は完璧では決してありませんが(というか、日本の評論家がよく絶賛するフィンランドも含め、教育が完璧な国は存在しません)、2つの国際学力調査においてどちらも世界トップレベルの成績を収めた日本の教育がもし本当に「危機的状況に陥った」としたら、順位のより低い国々の立場はどうなるのでしょうか。まったく失礼な話です(笑)。危機感を煽るのも大概にして欲しいものです。
無論、教育は学力だけではありません。現に、教育再生に関する自民党の政権公約の中には世界トップレベル学力の育成のほかに(今でも世界トップレベルですから!)、6・3・3・4制および大学教育の見直し、幼児教育の無償化、教育委員会制度の改革や、教科書検定基準・近隣諸国条項の見直しやいじめ対策などもあって、中身は実に盛りだくさんです。紙幅の関係上、そのすべてに言及する余地はありませんが、とくに気になっている最後の二つについて簡単に私見を述べたいと思います。
まず、教科書検定基準の抜本的改善や近隣諸国条項の見直しについてですが、その狙いは、自民党の公約にも書いてあるように「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」、これまでの自虐史観的な教科書を駆逐することにあるのでしょう。無知を承知で素朴な疑問なのですが、今の日本の子供たちは本当に日本の伝統文化に誇りを持てていないのですか。そういう印象を僕は抱いていませんが、もしそうだとしても、それは自国の歴史の負の部分を強調しすぎた(とされる)教科書のせいなのでしょうか。実はそれ以前の問題として、負の部分どころか、あの戦争についてほとんど知らない日本の若者がなんと多いということが僕の率直な感想です。実際に大学の授業でも、当時の日本軍がシンガポールまで「進出」したことさえ知らなかったという大学生にたくさん会ってきました。そもそも、あの戦争についての教科書記述と日本の伝統文化への誇りとのつながりがいまいち見えてこない僕はバカでしょうか。なんか本当に心配になってきました。
つぎに、いじめ対策ですが、まあ無策よりはいいでしょう。ただ、別に悲観主義者というわけではありませんが(どちらかというとその逆ですが)、いじめは無くならないでしょう。しかも、今年8月に発表された文科省の学校基本調査によれば、2011年において日本の小中高校の生徒数はそれぞれ約676万人、355万人と336万人であり、なんと小中高生の人数だけでシンガポールやフィンランドの人口の2.5倍以上もいるではありませんか!これだけの遊び盛りの子供が学校という閉じられた環境でほぼ毎日学習生活を送らせられているわけですから、皆が皆おとなしくしているほうが反って不自然・不気味というものでしょう。時たま何かの事件が起きたりするのも無理はないのではないかと思います。言うまでもなく、いじめは許される行為ではありませんし、学校からいじめが無くなることに越したことはありません。ただ、殺人、強盗、放火、詐欺などの許されない犯罪行為が大人の社会から無くならないように、子供の社会である学校からいじめを完全に追放するのも至難の業といえましょう。学校現場では、保護者も含めてあれだけの人が集まってきますから、毎日いろいろなことが起きます。しかしながら、マスコミに報道されない限り、ほとんどの場合においてわれわれはそれらのことを知りようがありません。そして残念なことに、マスコミに大きく取り上げられるのが専ら最悪の事態に至った事故・事件ばかりですから、学校を見るわれわれの目はどうしても偏ってしまいがちになります。最近、いじめ自殺の報道が続けてなされていますが、その母集団が1300万人を超えるという事実を忘れてはなりません。視点を変えて見れば、いじめが最悪の事態を招く前に食い止め、それゆえマスコミにはまったく登場しない学校や教師もきっとたくさんいるはずです。繰り返し言いますが、僕は日本のいじめ問題を過小評価しようとしているつもりは毛頭ありません。然るに、いじめは日本に限った問題ではなく「いじめ問題国際シンポジウム」が定期的に開催されるほど各国が抱える共通の教育問題の1つでもあります。したがって、日本の教育だけが「危機的状況に陥った」わけではありません。そう思う僕はやはり楽観主義者でしょうか。
2012年の夏にわれわれSGRAが主催した「第44回SGRAフォーラムin蓼科『21世紀型学力を育むフューチャースクールの戦略と課題』」でも熱く議論され、またSGRAが2013年3月にバンコクで開催する第1回アジア未来会議でも僕の研究グループが同じテーマに挑みますが、情報通信手段の急激な進化の波と確実に広がるグローバル化の流れは、これまでの学校教育のあり方にも大きな変化を迫っており、従来とは異なる21世紀型の「学ぶ力」が強く求められています。そのような意味でも、「教育を取り戻す」のではなく、「新しい教育を創っていく」というような未来志向のメッセージが欲しかったなぁと思うのは僕だけでしょうか。
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<シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学と昭和女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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2012年12月26日配信
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2012.12.20
今西淳子さんのお誘いで、SGRAが主催するカフェに参加しました。その集まりは、「福島をもっと知ろう」というテーマで、 福島県飯館村で牛を飼い、米と野菜を作り、土から生まれる命を育てる「生業」を営んでいる菅野宗夫さんを囲み、彼の身に実際に起った様々な出来事に耳を傾けて、生の声を聴く会でした。そこには「福島」を知る為のスタディツアーに参加したSGRA会員の方々と、日本の大学で教壇に立っている会員の先生方の報告に触発された学生達が参加していました。「報道」として作られた情報ではなく、目の前にいる人の口から発せられる苦悩や訴えは、心に直接響きました。
2011年3月11日、東日本に大地震が起った日、私は上海にいました。日本のNHK国際放送の映像から見た、巨大津波に飲み込まれて行く漁港と市場、押し流される家々、自動車。遠く離れている日本の東北の東海岸で、現実に起っている映像をリアルタイムで観ていたときの驚愕を、今も鮮明に思いだします。此の時の、言葉がないテレビの実況放映は、その後に報道された現場からの「報道」よりも生々しく、強烈でした。巨大津波の映像は世界中の人々を震撼させたにちがいありません。世界の人達の目が、日本の東北地方の町や村に生き残った人達を見つめました。
日本から発信された様々なテレビ放送からの「情報」の一部を、中国のメデアが採り上げ、上海の地下鉄のプラットホームやバスの停留所、街角のモニターTVから、地震と津波で破壊された街や田畑の惨状と避難所に身を寄せて身内の安否を心配する人々の映像が、上海の街中に流されました。上海市民の殆どが毎日、強い関心をもって画面を見ていました。その時市民にとって最も印象的だったのが、被災地の住人達が、静かな表情でテレビのインタビューに応えていた時の「日本人」の表情です。惨事にも人間らしさを失わない日本人の「尊厳の高さ」に感じ入り、インターネットでは感嘆の念を表すメッセージが飛び交っていました。
福島の原子力発電所の爆発は、津波のニュースとは全く違い、「脅威」として受け止められました。放射能汚染が上海までやってくる、海水が汚染されて塩がなくなるという流言が、サイバースペースを飛び交いました。「福島」は放射能汚染の代名詞となり、直接の被害を受けた福島の住人の苦悩は殆ど伝えられていませんでした。爆発した原子力発電所が与える「脅威」そのものの方が、その脅威に晒されている住人達の苦悩よりも、遥かにニュースヴァリューがあるからでしょう。福島県飯館村の菅野さんの発言は、私にとって初めて、福島の住人の生の声を聞く機会でした。
壊れた原子力発電所から飛び散る放射能に、家族が一緒に住む家を、手塩をかけて育てて来た牛達を、そして何世代にも渡って耕し続けてきた田畑を、見捨てなくてはならない無念さを、私は初めて身をもって感じました。菅野さんのお話を拝聴し、私が最も感じいったのは、菅野さんが抱いている「土」への念いです。飯館村の豊かな自然の中で「土」に根ざした生活を営むことは、生きることであり、生きる喜びと感じました。飯館村をこの上なく美しいと憶う故郷の風景への愛が、私の心の奥にも生き生きと映りました。菅野さんだけではなく、被爆地域の多くの住民達が共有する想いである筈だと思います。
私は今、上海市の北を流れる長江の中の島、崇明島の将来のために何ができるかを考えています。崇明島は「生態島」と呼ばれています。中国の中央政府が、国家の環境改善対策と持続可能な発展のシンボルとして、過去十数年以上も押し寄せる経済開発の波を押さえてきました。「生態島」という旗のもとで、有効な対策が立てられないまま、開発から取り残されて来たことが幸いして、崇明島の広大な湿地帯は今、生態環境保全のための研究プロジェクトの機会を提供するところとして注目されるようになっています。此の島の東端と西端に広がる湿地には多種の野鳥が棲息し、アジア大陸の東岸を飛来する渡り鳥に休息の場を提供しています。崇明島が「生態島」として生き残れるためにすべきことは何か。これが私の課題です。
長江の汚染はニュースになりません。しかしその河口にある崇明島の水環境は近年著しく悪化し、湿地の生態系を脅かしています。野鳥が姿を消し、渡り鳥が来なくなる日が遠くないと心配です。このようなことにならないように、科学的データを蓄積し、分析して、効力のある警告ができるようにしなくてはなりません。その一方で、崇明島の地元で漁業、農業、牧畜業を営む人々が、水と土の汚染を問題とは考えず、自分たちも汚染をしていることを気に留めず、生きる為の生業を営んでいます。私の活動は、目には見えない脅威を共有し、持続可能な生態環境を育てるため、研究者と技術者が地元の人達と対話できる場をつくることを目的にしています。そのような「場」が、地方の行政を動かし、中央政府に届く声になることを夢見ています。どのような場合でも、顔と顔を合わせて話し合うのが、最良の成果を産むと信じています。
インターネットやマスメディアで得ることのできる情報は、そのままでは「知」として、思考の材料にはなりません。菅野さんは、ご自身の一家が四世代に渡って飯館村で農業と牛畜業を営んできた歴史を話してくださいました。彼の代になって、東京の銀座に安心できる美味しい食材を届けるようになり、新しい生活基盤をつくっていると語りました。そのお話の間で、何回も「自然の恵みに感謝しています。」と言っていました。原子力発電所の爆発によってその生活が断絶されたままになっている今、その感謝の言葉がより鮮明に「失われたもの」を浮き彫りにし、都会の消費者の意識を、生産者の心に結びつける力になるのではないかと、私は思いました。私がそう思ったのは、菅野さんが私の眼の前でお話ししてくださったからに違いありません。「福島をもっと知ろう」に参加したことは、マスメディアの波の中で虚像になってしまった「知」、「知ること」に意味を見つける機会になりました。
福島原発事故は、人類の貪欲な消費活動がもたらした自然破壊です。日本国民を始め、国際社会の多くの研究者や政治家や行政指導者達にも、深刻な社会問題としての危機感を触発しました。その一方で、飯館村の美しい原風景は、菅野さんの心の原風景であり続けると思います。この原風景が安全な美味しさを生み出す叡智となり、菅野さんと飯館村の村民達の共有財産になっていると信じます。アジアの諸国の人々にとっても、共有できる原風景は貴重な財産です。機会があればこの日の「集い」の感激を私は崇明島の関係者たちにも伝えたいと思います
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<朱暁雲☆Zhu Xiaoyun>
中国北京出身。1981年日本留学。日本大学理工学部建築学科卒業。東京芸術大学美術学部科建築科修士修了。現在中国発展研究院長江流域可持続発展研究中心研究員。上海崇明島低炭素街づくり計画をテーマに活動中。
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2012年12月20日配信
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2012.12.05
数ヶ月前にテレビのニュースでウクライナの有名な美術館の館長が交通事故で亡くなったと知り、強いショックを受けた。リビフ美術館の館長だったボリス・ヲズニツキ先生、86歳だった。最後まで自分で運転をしていて、あちこちに出かけていた。その日は暑い日だったが、運転中の交通事故で亡くなったのだろう。
去年、先生とお会いする機会があった。背が高くてスラッとした体で、エネルギーが溢れている方だった。ヲズニツキ先生は50年前から多くの美術品を収集し保存に努めていたが、ある彫刻家の作品に夢中になり、一生をかけてその人の作品を探し続けた。その彫刻家は、18世後半に西ウクライナで活躍したヨハン・ゲオルグ・ピンゼリで、「ウクライナのミケランジェロ」とも呼ばれている。ソ連時代には宗教が弾圧されていて、教会は破壊されたり、倉庫にされたりした。昔の教会にあったルネサンスやバロック時代の美術品は宗教と一緒に捨てられた。暖房用の薪にされないために、ヲズニツキ先生は、そのような美術品を守ろうとした。1960年代から90年代まで、ヲズニツキ先生が副館長だった美術館のトラックを使って、壊された教会から、また破壊させられた墓地から、昔の彫刻家が作った彫刻やイコンなど、数多くの美術品を救い、自分が働いていた美術館の倉庫に隠していた。美物館を管理する上司から「宗教関係の粗大ゴミはもう持って来るな」とも言われたが、彼は止めずに密かに持ち帰って隠した。
ピンゼリの作品は、その中でも特別で、先生は一生をかけて探した。この彫刻家がどこで生まれ、どこで亡くなったかさえも分からない。名前からすればおそらくウクライナ出身ではない。だが彼の偉大な作品は西ウクライナで作られた。彼は謎の人物であり、神話の人物でもあるのかもしれないと思われたこともあった。記録がないので、ドイツ、イタリア、ポーランド、あるいはチェコからの旅人とも思われていたかもしれない。
最近の研究によれば、彼はおそらく1740年代半ばに西ウクライナのリビフ市の美術を支援していた、風変わりなお金持ちのミコラ・ポトツキの所に招待されて、そこで制作をしていたと考えられている。謎の人物ではなく、本当に存在していた人間であるという記録がいくつか見つかったのだ。この時代に残っているものは、教会に残る出産、結婚、死亡の記録に限られる。先ずは、リビフ市の聖ユーラ教会の彫刻を作った時に、その制作費が支払われたという記録。それから1751年5月3日に、未亡人マリアンナ・ケイトワと結婚し、2人の息子、ベルナルド(1752年)とアントン(1759年)が生まれたという記録。しかしながら、次の記録は、マリアンナが1762年10月に「未亡人で再婚した」という記録である。これにより、ピンゼリは、彼の下の息子が生まれた1759年とマリアンナが再婚した1762年の間に死亡したということになる。
彼の人生についての記録はあまりに少ないが、作品はいくつか残っていて、今でも美術家に注目されている。なぜなら、同時代のヨーロッパのバロック時代の建築や彫刻には、まだ、ピンゼリの作品ほどドラマティックなものはなかった。そこが面白いところなのだ。彼は初めの頃は、石像を作っていた。しかし、木像の方が有名である。教会が破壊されても、残って有名になった作品はほぼ木からできたものである。300年もの長い年月を経ても変形しなかったのは、ひびが入りにくく、かつ柔軟性のある菩提樹を素材としているからである。彼の彫刻の特徴は衣装のダイナミズムやドラマ性である。衣がとても悲劇的に身体を覆っており、この像が教会で祈る信者の前にあったと想像すると、非常に印象的なものであったに違いない。彼の作品には、イエスキリスト、アブラハム、マリア、聖ヨアキム、聖アンナなど、聖書をもとにしたモチーフが多い。
ウクライナが独立するまで、その作品は全てリビフ美術館の倉庫で眠っていた。独立後にヲズニツキ先生はリビフ市にピンゼリ博物館を設立させた。そこに28点のピンゼリの作品が展示されている。この10年の間に、ピンゼリは注目を浴びるようになった。数年前リビフ州は「ピンゼリの年」を定め、この彫刻家の作品やその歴史について、いくつかの展覧会が開かれた。2010年、ウクライナの郵便局はピンゼリのマリアと天使の切手を発行した。中央銀行は5グリブナのピンゼリ記念コインを5千枚も発行した。また2人の作家が、彼の人生や作品をもとにした小説を書いた。さらに、数種類の画集や写真集も発行された。そして今、以前「粗大ゴミ」とも言われたピンゼリの作品のために、ルーブル美術館で特別展が開催されている。ヲズニツキ先生の努力が報われた最高の結果でもあるといえるだろう。残念なことに、先生はそれを自分の目で見ることができなかった。
しかしながら、これからも、先生が救った美術品が、世界中で多くの人々の目を喜ばせることになるだろう。
ピンゼリの作品 ルーブル美術館の展覧会
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<オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko>
キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活動中。2005年 藤井悦子さんと共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行。
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2012.11.28
2012年度の「渥美奨学生の集い」が2012年11月1日午後6時より、渥美国際交流財団ホールにて開催されました。31名の出席者を迎えた本年度の集いは、渥美伊都子理事長の開会の辞に続き、ゲストの元駐カナダ、パキスタン大使、在英特命全権公使の沼田貞昭様に「日英戦後和解(1994-1998)」という社会的に関心の高いテーマで大変貴重なご講演を頂きました。
本講演会は、沼田元大使の経験談を交え、第二次世界大戦後日本がいかに英国と和解に向けて取り組んできたかを主題とした、とても興味深い内容でした。沼田大使はまず、戦後処理について法的処理から謝罪、そして和解という三つの側面から概観した後、1991年から1994年まで外務副報道官として在任中、海部俊樹総理大臣のシンガポールでの演説(1991年5月)から、細川護熙総理大臣の所信表明演説(1993年8月)に至る間の、侵略行為や植民地支配などに対する総理大臣、官房長官の「反省」から「お詫び」への経緯について述べました。そのうえで、90年代になって英国との和解が主要争点となったのは、日本では、太平洋戦争の責任について未整理のままで、国内の「ベルリンの壁」を抱えたまま戦後50年を迎えたことと、アジアの問題としてとらえがちで、米英蘭等の元捕虜・民間人抑留者問題は大方の意識に上がらなかったとの解釈を示しました。
沼田大使はまた、1994年から1998年まで在英日本大使館に在任中、日本政府と民間の対応を中心に「恨みの噴出から和解」を成し遂げた事例を詳しく説明しました。対日戦勝50周年を迎え、1995年年頭より英メディアに対日批判が溢れ、英国政府はVE Dayに独伊の首脳を招いたのに、VJ Dayは英国国内及び英連邦中心の行事として日本の要人が招かれなかったことを挙げ、1945年に戦争が終わり帰国した際に「忘れられた軍隊」として英国国民から冷遇されたビルマ戦線の英国軍将兵の「恨みの噴出」を英国政府とメディアが受け止めたことを指摘しました。そして、8月15日に「村山談話」が発表され、それが英国人捕虜をも対象とした閣議決定に基づく日本政府の公式な謝罪となり、それが契機となって英メディアの対日批判が静まったと説明しました。また、和解に向けての対応は政府だけでなく、民間においても行われたことを強調しました。即ち、1990年に英国に「ビルマ作戦同志会」が設立され、日本全ビルマ作戦戦友団体連絡会議と相互訪問したことや、1997年2月に日英双方の有志・家族等36人がビルマで合同慰霊祭を行ったこと、さらに、サフォーク州の高校日本語教師であるMary Grace Browning女史と英国在住の日本人である恵子・ホームズ女史の和解活動等を挙げ、日英の和解の輪が政府だけでなく、民間、そして個人へと広がったことについて詳しく説明しました。一方で、沼田大使はBBCテレビ、ラジオ、民放テレビに積極的に出演して説明したことや、1997年10月5日にコベントリー大聖堂での英米日の和解の式典に参列したこと、そして、1998年1月9日の自らの離任レセプションに100人を超える元捕虜、和解関係団体代表、日英交流関係者が参加してくれたこと等を挙げ、自ら英国和解に関わったことについてお話をされました。
そして最後に、日英戦後和解は成功したのかについては、全体として良好な日英関係の中で位置付けられると指摘しました。
講演終了後、会場からは「戦後日英和解がなぜ90年代になって争点となったのか」、「日本の昭和史を見直す必要があるのでは」という意見と、地理的に遠い英国とも和解を果たしているので、尖閣諸島、竹島等の問題で緊張が高まっている隣国の中国、韓国ともねじれた関係が克服できるだろうとの感想が寄せられました。政府、民間、個人の努力により成し遂げられた「日英戦後和解」を通して、今後の日中、日韓の和解の行方を考えさせられる、とても有意義なご講演でした。
講演会終了後、引き続き同会場において親睦会が行われ、渥美国際交流財団評議員で日本プロテニス協会理事長の佐藤直子様の乾杯の発声により開宴されました。当日は中華料理を楽しみながら、ゲストと出席者達と様々な話題で盛り上がり、交流を深めました。
当日の発表資料
English Translation
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<韓玲姫(カン レイキ ☆ Lingji Han)>
中国吉林出身。延辺大学外国言語学及応用言語学修士号取得。現在筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程在籍。2012年度渥美財団奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。
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2012年11月28日配信