SGRAかわらばん

エッセイ377:デール・ソンヤ「『外国人』として」

先日、耳鼻科に行った。初めての診察で、登録等をし、症状を書類に書いた。私の番になったときに、名前が呼ばれて、診察室に入った。「日本語はもう完璧みたいですね」と言われて、すぐ診察が始まった。

 

その後、薬をもらうために隣の薬屋に行った。パートナーと一緒に行ったので、私の番を待ちながらおしゃべりをしていた、日本語で。ここでも、初めての客として登録をするための書類が必要だった。書類を渡すため、私の名前を呼んだ薬剤師が、「日本語大丈夫ですか」とすぐ聞いた。名前を見たからか、顔をみたからか、なんだろうね。隣に座っていたパートナーに日本語でしゃべっていたのに、なぜか日本語ができないと思っていた。

 

別の日、またパートナーと整体の体験に行ってみた。小さな施設で、整体師も一人しかいなかったので順番に整体を受けた。まずはパートナーだった。次は私。国籍や日本語の能力について何も聞かれず、「普通」に話してくれた整体師は、不思議と新鮮だった。とても嬉しかったので、パートナーにその感想を話した。「いや、私に聞いたよ。ソンヤが日本語できるかって」。その現実を聞いて、ちょっとがっかりした。

 

日本で、多くの日本人が、なぜか(見た目や名前で判断して)外国人は日本語ができない、と思い込んでいるようだ。人と初めて接する時に、ほとんどいつも「日本語できますか」と聞いてくる。もはや日本語ができないことを前提として話すようだ。私が日本に来たばかりのときなら、日本語がまだ分かりづらかった時だったら、そのような気遣いをされると嬉しかったかも知れないが、日本に来て4年目に入って、少し飽きてきた。

 

私の先生は、白人のアメリカ人で、20年近く日本に住んでいる。最近、二人で喫茶店で待ち合わせをして、英語で話していた。小さなお店で、トイレの場所が分かりにくかったので、先生は店員さんに場所を聞いた。少し複雑な場所だったので、私の先生は、「はい、はい」と言いながら聞いていた。私たち以外、お客さんがあと一人いた。先生がトイレの長い説明を聞いているのを見て、その人は私と目を合せてきた。「日本語、わかるかな」と笑いながら私に向かって言った。「もちろんですよ。日本語はぺらぺらです」と、私は、先生の代弁をした。どうせ、あの人は私の曖昧な見た目で「日本人」だと思ったのだろう。

 

ある人が、ある人を「日本人」じゃない、と判断する。その判断は、ほとんど見た目に基づいているのだろう。または、名前を見て判断するのだろう。その判断は、多くの場合一瞬で終わる。そして、「外国人」と判断されてしまったら、まさか日本語ができるとは思われないようだ。私は、たまに日本に生まれ育った日本人のハーフ(またはダブルやミックス等々、お好みでどうぞ)のことを考える。そういう人たちが、「日本人」じゃないと判断されてしまうことは、きっと辛いだろう。「ハーフ」は、親の国籍や育ちによって二つ(または三つ、四つ、それ以上)の文化を合わせ持つと言えるが、同時にそのいずれかの文化(または社会)から排除される可能性もある。見た目で判断するから、そういうことになるのだろう。私は、日本人のハーフではないが別の「アジア系」のハーフである。そのため、国籍が判断しにくい顔になっているようだ(そもそも顔で国籍を推測するってどういうことなんだろうね)。でも、その顔のおかげで、たまに「日本人」としてパスできる。そういうときは、なぜか嬉しく感じる。別に「日本人」になりたいわけでもないけどね。何よりも、「普通」にしゃべってくれることが嬉しい。

 

20年間近く日本にいる私の先生が、初めて出会う人に「日本語はわからないだろう」と判断されたのは、少し悲しい現実を目撃した感じだった。20年も日本にいても、どこまで日本語が上手になっても、見た目が「日本人」ではない限り私も同じ扱いをされるだろう。日本人が「外国人」を見下しているわけではないが、やはりもう少し(いや、少しだけではなく、もっともっと!)、日本語に関しては期待してほしい。でもそれだけではなくて、やはり単純に見た目や名前で、人を判断してほしくない。人の国籍や年齢や性別や身長や眼の色等を前提として、話してほしくない。みんなを自分と同じ「人」として、接してほしい、接したい。

 

———————————————-

<デール、ソンヤ Sonja Dale>

上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士課程満期退学。上智大学グローバル・スタディーズ研究科特別研究員。ウォリック大学哲学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士。2012年度渥美奨学生。

———————————————-

 

 

2013年6月26日配信