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エッセイ375:韓 玲姫「日本体験記―駆け込み乗車」

来日してすでに10年の歳月が流れた。思えば人生で最も輝く30代を、わたしは日本とともに過ごした。日本は、私に豊富な知識を与え、人間として生きる力を与えてくれた。さらに、私に2人の子供を授け、私を大人に成長させた。今、振り返ってみると、7年間の会社生活と3年間の研究生活は、いずれも私にとって新しい発見と学びの旅であり、その一つ一つが私の人生の宝物であった。

 

勿論、日本での体験はすべてが愉快というわけではない。入社間もない頃、中国の取引先との電話商談がうまくいかず、会社で唯一の中国人である私をわざわざ呼び出し、「おれは中国人が嫌い。だから中国と取引したくない。」と直属上司でもない人に、意味不明に八つ当りされたこと、「中国には信号があるの?」、「キム・ジョンイルって中国の首相?」などのような馬鹿げた質問に、「はあ?」と唖然としてしまったことも多々ある。しかし、そのようなことがあったからこそ、もっと日本人を理解したい、日本社会を知りたいという強い思いが芽生えたと思う。

 

そもそも、私が東京の生活に憧れ、会社に入社したのは、10年前のあることがきっかけだった。それは、初めて上京した時の出来事だ。閑静な筑波大学のキャンパスとはガラッと変わって、混雑した人込み、職場に向かって早足で急いでいるスーツ姿のサラリーマンやOL(オフィスで働く女性の意)、建ち並んでいる高層ビル群、これまで頭の中で想像していた都会の風景が目の前に現れた時の感動は、未だに鮮明に覚えている。田舎生れ田舎育ちの私にとって、東京という大都会はすべてが新鮮で、神秘的なものだった。その時、私はこの憧れの大都会で生き延びることをひそかに心に決めたのである。

 

1年後、再度来日した時、私は念願の東京OLの仲間入りを果たした。そして、電車に揺られて7年間の通勤の旅が始まったのである。日本の通勤といえば、満員電車と思われる人が多いが、私にとって一番印象に残るのは朝のラッシュ時の駆け込み乗車である。

 

上京して最初の4年間、私は千葉県市川市の南行徳に住み、その後は船橋市の船橋法典に引っ越した。会社まではそれぞれ地下鉄東西線、JR武蔵野線を利用したのである。東西線も武蔵野線もラッシュ時の乗車率がトップテンに入るぐらいで、私が乗っている区間はいつも混雑していた。

 

朝の通勤ラッシュの時間帯になると、ホームにいつも長い行列ができるのは珍しくないことだ。いよいよホームに電車が入ってくるが、電車の中はすでに人がぎゅうぎゅう詰めで、降りる人もほとんどいない。いつの間にか長い行列の人が我先に中へ乗り込んでゆく。小さいスペースしか空いていなかったのに、そんなに長い行列の人が全部入れるなんて信じられないが、確かにみんな乗っている。

 

「ドアが閉まります、ご注意ください。」、「駆け込み乗車はお止めください。」というアナウンスとともに、よく目にする光景がある。それは、必ずといっていいほど、閉まる扉に駆けこんでくる人がいることだ。半開きになったドアには片足しか入っていないが、それでも諦めず必死に押し寄せてくる。やっと体半分が入ったところで、男性の駅員が駆けつけてくる。「駆け込み乗車はお止めください。」、「もう満員なので降りてください。」と怒り出すのかと思うと、今度は駅員が必死に外から客を中に押し込めてあげる。そして、半開きになったドアを手動で締めると、かすかながらも安堵の表情を浮かべる。

 

実は、このような光景は中国でもよくあることだ。しかし、舞台が違う。それは、国営の電車や汽車ではなく、地方行きの個人請負バスである。個人経営なら、お金を稼ぐために一人でも多くの人を乗せたいだろうが、日本の場合は違うのではないか。私は、閉まる扉に駆け込む人に対しても、命が危ないことをする利用客を止めない駅員に対しても、疑問に思っていた。しかし、徐々に私は彼らが理解できるようになった。

 

毎朝、私はいつも15分前には会社に着くようにする。が、その時ほとんどの社員がすでに仕事を始めているのだ。定時前に着いても、みんなが仕事をしているところへ入っていくのは、何となく気まずい雰囲気がしてたまらない。私だけの思いかも知れないが、朝出社した時、席に座っている社員に向かって、「おはようございます。」と挨拶をするより、席に座って、「おはようございます。」と出社した人を迎えたほうが、精神的にもっと楽な気がする。これが決して理由にはならないが、遅刻は禁物という日本社会の秩序と、毎朝緊張が走る会社の雰囲気が、どうしても目の前の電車を逃したくないという思いを募らせた原因の一つであるのは違いない。

 

次の電車に乗って、3分、5分遅く出社するより、1分でも早く着きたいという気持ち、また、予定時刻より早く会社に着いた時のラッキーな気持は、日本の社会人にしか分からないことだろう。そして、その気持ちが分かるからこそ、駅員も駆け込んでくる客を乗車させたかったのだろう。必死に電車の中へ乗り込もうとする客、そして、後ろで客を必死に電車の中に押し込もうとする駅員、彼らはまったく他人であるが、彼らには以心伝心の原則が通じるのだ。その光景は、まるで同じゴールを目指し、バトンを渡して後押しする人生のリレーマラソンのようであり、心の温まる場面であった。

 

とはいっても、私にとって日本での社会生活の中で、仕事より朝の通勤のほうが確かにプレッシャーだった。そして、それがストレスとなり、挙げ句の果てに某日の朝、会社のエレベータから降りた途端、廊下で倒れ、大騒ぎになったことさえある。社会人として遅刻禁物というルールは当然守るべきであるが、もっと精神的にゆとりのある職場と気楽な社会環境が必要かもしれない。

 

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<韓玲姫(カン レイキ)Lingji Han>

中国吉林省出身。延辺大学日本語学部卒業後、延辺大学外国言語学及応用言語学研究科にて文学修士号取得。2013年3月筑波大学で学術博士号取得。現在浙江越秀外国語学院東方言語学院日本語学部講師。2012年度渥美財団奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。

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