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2025.02.14
                        
                        長い間一つの研究課題に取り組んでいると、もともとは知的興奮から選んだテーマでも、いつの間にか味気なくなってしまうという経験をしたことがある研究者は少なくないだろう。私も長年にわたって歴史研究に従事する過程で頭が疲れることがあり、その際に、失われつつあった「思考散歩」の楽しさを再び感じさせてくれたのは、一人の先輩との対話であった。そのなかでの話題に歴史(学)と「美」の関係があった。以下にそのときに湧いてきたとりとめのない考えを少しまとめてみたい。
 
まずは、歴史が美的判断の対象となり得るかどうかという問題である。そういった判定につながる観察の対象となり得る客観としての「歴史自体」のようなものはないであろう。歴史はむしろ人間の作ったストーリーであり、ストーリーテリングから切り離しては存在しない。確かに、単に過去のものとその変遷を「歴史」と定義すれば、人間がそれを物語ることを必要条件としない存在があるといえるかもしれない。しかし、それがひとたび「歴史」になると、その存在は消える。この一度消えた存在を復活させて現在共有できるのは、結局人間の物語る歴史である。歴史学もその一種に違いない。
 
では、ストーリーとしての歴史は美的判断の対象となり得るだろうか。私は、なり得ると思う。ただし、このストーリーとしての歴史の何を対象にするかにより、判断の性質が異なってくると考えられる。
 
例えば、(一)芸術としての歴史を対象とし、その「美」を判断する場合は純粋な美的判断に近いといえよう。歴史小説や詠史、歴史映画など、おそらくどのような歴史叙述でも、それなりに芸術的な観点から美的判断をくだすことが可能であろう。ただし、歴史学に関していえば、あくまで私見だが、多くの研究書は、客観性を高めようと努めているためか、言語用法がかなりテクニカルであり、そこに「美」を認めることは難しい。
 
他方、(二)歴史として語られるものを対象とする場合、美的判断が純粋ではなくなることがある。社会の激変に直面する人間が過去を美化する現象がその例として挙げられる。近代において産業化・資本主義化・都市化していく社会から失われてしまう過去の美風に憧れた人々にとっては、その客観、すなわち彼らの見た「歴史」は美しく見えたのであろう。デジタル化に伴ってまだ把握しきれない変化を受けている現代社会においても似たような傾向があるように思われる。しかし、この場合、憧れる過去の美風は単に「美しい」だけではなく、「善い」ものでもあり、理性を介し概念をつうじて理解されるようである。すなわち、それには社会・美風が何であるべきかというある目的の概念が含まれ、さらには「そういう美風のある社会に生きたい」「社会にそうあって欲しい」というような、ある種の関心が含まれているのである。
 
歴史学の文脈においてはどうか。歴史学者が過去の「美」を掘り出そうとすることもまれにあるかもしれないが、普段は研究対象とする人物や事象を批判的な目で見ている。私も自らの研究で過去の思想家が書いた文章を読んでいる際に、その美しい語句や一見して崇高な思想に対して美的感情を抱くことはあるが、その裏にあるさまざまな問題を分析していくにつれて、その美しさがだんだん?がれ落ちていく。その理由は、単に観察において対象を判定するのみならず、そこに何らかの道徳的観念が関与してくるからだと思う。歴史学の研究対象が人間と人間社会である以上、その対象をめぐる判断には、人間がどうあるべきかという目的の概念および人間にどうあって欲しいかという関心が含まれてくるのは当然である。美しいと判断しても、その場合の「美」は「善」と結びあっており、あえていえば「随伴的な美」である。歴史研究の一つの意義が過去から教訓を得ることにあるとすれば、この研究には現代社会をより善いもの、より美しいものにする可能性もあるのではないだろうか。
 
<ロバート・クラフト Robert KRAFT>
ドイツ出身。2010年から2018年までライプツィヒ大学(ドイツ)で日本学を専攻。学士課程と修士課程においてそれぞれ1年間千葉大学に短期留学。2019年に筑波大学の日本史学の博士課程に編入学。2024年に博士号(文学)を取得。
 
 
 
2025年2月13日配信
                     
                                        - 
						
2025.01.30
                        
                        「刮痧」(監督:鄭暁龍、2001年上映)という中国映画がある。「刮痧」とは専用の板で背中をこすって皮膚を充血させ、様々な症状を改善する伝統的な中医療法である。映画では、米国で暮らす中国人3世代家族の子育てを取り巻く異文化間の葛藤を描写している。主人公は人前でも息子を厳しくしつけるべきだという文化信念を持ち実践していた。そして、主人公の父親は、ある日熱が出ている5歳の孫に「刮痧」の治療法を行った。後に息子の背中にある大面積の傷を医者に発見され、深刻な虐待の証拠として警察に通告される。さらに日常的な体罰を行っていたことも米国人の知人に指摘され、一家は強制的に親子分離を要求されることになった。中国文化に根差した親子観念、育児様式と西洋の人権観念、社会制度との間の矛盾は、その後親権をめぐる主人公と児童福祉施設との裁判で露呈する。
 
そうした葛藤が日本社会でも現実になるのはおかしなことではない。私は7年間、日本と中国の児童虐待について研究している。儒家文化に根差した親子観念は類似していたが、社会制度の変化とともに、現在の日本と中国では「児童虐待」の扱いが異なってきている。中国では親による子どもへの体罰が一般的な事象であり、極端な暴行を加えない限り、「良い家庭教育の方法」として認められると言っても過言ではない。日本では2000年に『児童虐待防止法』が制定されて以来、児童虐待の範囲がどんどん拡大されており、身体的・心理的な暴力やネグレクトを含めた不適切な養育が虐待として非難されている。また、虐待の疑いがあることに気づいたら、保育士や教師、小児科医など子どもに身近に関わる人だけでなく全国民が通告する義務を課せられた。
 
一方、日本では家族形態が多文化・多民族化の様相を呈している。法務省によると2023年6月時点で日本に中長期滞在している中国人は82万人を超え、国別1位。中国にルーツを持つ未成年の子どもも最多だ。中国の伝統文化に触れながら育てられている子どもが非常に多いということである。しかし「児童虐待」への扱いや認識の差異は、家庭という閉鎖的空間において育児を通して具現化される。中国人親にとっては育児の壁となり、また、日本社会での児童虐待防止に支障をきたす。
 
知り合いの中国人母親による出来事がきっかけで、異文化の児童虐待防止の課題を垣間見ることができた。この母親は子どもをしつけようと思い、つい2歳の子どもに体罰的な行動を行った。隣人が泣き声を聞いたのか、保育園の先生が体の傷に気づいたのか、自宅で児童相談所と警察から事情調査を受けることになった。母親はとてもショックを受け、混乱して「自分の子どもを虐待するわけがないのに」と大泣きしながら訴えたという。
 
こうした事例は珍しくない。生活経験を投稿できる「小紅書」(RED)という中国の人気ソーシャルメディアのアプリがある。そこでは類似した経験を訴えた日本在住の中国人母親による投稿が多数見られる。「親として自分の子どもを厳しくしつけるのはダメですか?」「育児は他人と関係ないのに通告されるのはなぜ?」など、日本の「児童虐待」への扱いや制度に対して困惑を感じているようだ。彼女たちを責めるつもりはない。日本語を知らない者もおり、日本語を知っていても日本の児童虐待に関する情報を知ることは難しい。ただ「これまでの文化信念=ちゃんとしつけようと思ったのに」vs.「現代日本の法制度=虐待者として疑われ、調査された」の苦境に立っており、「どうしつけすれば良いのか?」に関する的確な援助を必要とする。この苦境が親の育児ストレスに繋がり、より深刻な虐待に至る可能性があるからだ。
 
日本の児童虐待の早期予防に関する主な取組みは、日本人の虐待リスクを基準に成り立ったものであり、虐待のリスクを踏まえながら、母子保健や啓発活動などを通して親を支援することが基本である。しかし子育て中の親の持つ文化背景がどんどん多様化する中、虐待の早期予防に向かうリスクアセスメントに画一的な判定を使用しているのは適切ではないと考える。不思議に思うのは、「児童虐待」という子どもの権利に関する緊急性の高い課題を抱えているのに、これだけたくさん日本で暮らしている中国人や外国人の親たちが、日本の福祉制度の情報を入手しにくいため援助を受けられないことや、文化背景を配慮した育児に関する的確な援助がめったに提供されていないことである。私は児童虐待予防の視点から在日中国人親の子育てを支援していけたらと考えている。
 
<何星雨(か・せいう)HE Xingyu>
中国・浙江省杭州市出身、2015年7月に来日。2023年度渥美財団奨学生。2024年3月に東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を修了し、博士号を取得。日中両国の児童虐待予防に関心を持っている。現在は子どもの権利と保育に関する研究を続けながら東京家政大学、文教大学、女子栄養大学の非常勤講師として務めている。
 
 
2025年1月30日配信
                     
                                        - 
						
2024.12.19
                        
                        今年3月に都内で開かれた「渥美国際交流財団創立30周年感謝の集い」で、「内なる国際化」という言葉を聞いた。国際と聞くと、日本では国外へ出て、さらに知見を深めることを意味することが多いが、「内なる国際化」は、日本国内での国際的な交わりに重きを置いた考え方だそうだ。
 
国内の大学院に進学してからというもの、英語論文の執筆や国際学会への参加が問われる時代にあることを、常日頃、意識させられてきた。それは、領域を問わず共有するところであろう。他方、国内へ目を向けてみると、多くの留学生や古今東西、さまざまな国籍の人々がいる。しかし、実際に、こうした交わりにおいて、特別「国際」という言葉があてられることは少ない。たしかに、あえて「内なる国際化」と語られなければならない状況が今の日本にあることは、その通りだと思った。
 
さて、私が志してきた社会学には「社会を物のように見る」という考え方がある。それは、まず社会学的な手法を確立するためのものもあり、他方で、文系にあるその科学性を問い返すときに使われてきた考え方である。
 
渥美国際交流財団(以下、渥美財団)には、いわゆる理系の院生がとても多い。私自身、渥美財団を通して理系の学生と交流する前は、「物を対象にした研究者」だと単純に思ってきた。しかし、出会った同期は、「ある作業ができるようになったロボットに、まるで意思がある」かのように話し、「友人を紹介するようにキノコの胞子について説明する」ような人たちだった。それは物を人のように扱う、もしくは人と物を相対化し、それぞれの問いを解き明かそうとする姿に思えた。
 
渥美財団での活動を通して、毎度さまざまな領域で、最終的には同じ方向にある課題を抱える研究者に声を掛けていただいた。留学生で、現在は静岡の大学で障がい者への特別支援教育について考え続けている方、数十年も前から、経済学の知見から福祉国家論を展開してきたという渥美財団卒業生、建築の視点から福祉の「場」づくりについて研究を進める方もいた。たった1年の出会いのなかでも、領域を横断したいくつものシンポジウムを立ち上げられそうな方々と交わり、まさに博士論文の執筆過程においてもその「射程」を大きくしてくれた。
 
日本ではまだまだ、国籍や言語の違いだけをとって「国際」と語りがちであるが、本当の「国際」の姿は、そんな大げさなことではなく、今の環境に身を置いたまま、個々の異なりに対して、“ちゃんと交わる”ことを通しても、さまざまな学びを得ることが可能であることを体得した。
 
思えば、私が約10年に渡り焦点を当ててきた、知的障がい者の家族の生活世界や、知的障がいのある方々の生き様も、長きにわたって既存の研究で描かれてきた「施設を出る」や「社会に出る」といった特別な営みではなく、今ある暮らしに埋め込まれたものであったように思う。博士課程を修了し、新天地での生活が始まるが、これまで通り懸命に、しかし、これからは肩の力を抜いて、ゆっくりと進んでいきたい。
 
<染谷莉奈子(そめや・りなこ)SOMEYA Rinako>
法政大学社会学部、日本学術振興会特別研究員PD。東京医療保健大学、慶應義塾大学の非常勤講師。知的障害者家族の“離れ難さ”をテーマに論文を執筆し2024年3月中央大学文学研究科社会学専攻博士号取得。研究を進める傍らスウェーデンへ留学、また知的障害を対象とした福祉職員としてグループホーム等にて勤務してきた。
 
 
 
2024年12月19日配信
                     
                                        - 
						
2024.12.12
                        
                        私の趣味は大学の提示板を見ることです。それは学部生時代からの習慣になっていました。「看板に頼る」習慣がいつか実を結ぶと信じていたからです。
 
学部2年生の時、モンゴル国立大学日本語学科の廊下にある看板を頻繁にチェックしていたところ、日本モンゴル開発センターで日本語スピーチコンテストが開かれると書いてありました。ぜひとも参加したいと思い、準備に入り、最終的にはステージでスピーチすることになった6人のうちの1人になりました。結果は第2位でした。第1位になれば、1週間日本へ交換生として招待されることになっていました。第2位は記念品です。少し残念に思いましたが、1カ月後に日本学科の先生から連絡があり、日本語能力試験の結果と成績などで評価し、教員たちの話し合いの結果、「奨学金付きで日本への1年間留学に推薦するので応募してみないか」という素敵なお誘いをいただきました。そして国際教養大学に1年間、交換留学生として留学しました。心の中では「第2位になって良かった」と思いました。
 
それから長い年月が経ち、2017年から東京外国語大学の研究生となり、その後は修士課程、博士課程に進みました。
 
1年半前の夏のある日、東京外国語大学の掲示版をチェックしたい気分になり、向かった結果、渥美国際交流財団の奨学生募集のポスターを見つけました。全部読み終わって「必ず合格する」と決意しました。書類の準備やスピーチの練習、きれいな日本語のスピーチを何時間も聞く練習など、よりよい自分づくりに時間をかけました。自分でできる準備は少し整えられたと思った後、たまたま日本の有名な武将である徳川家康が敬仰したという箱根神社の歴史を知り、次は自分のメンタル(精神面)を強くするためお参りに行きました。とても美しい自然に囲まれた夢のような場所です。日本の神様は外国人の願いを聞いてくださるのかなと少し不安でしたが、日本語でお願いすれば問題ないだろうと思いました。最終的に12月に合格通知を目にして、とてもうれしく、「やったー!」と言いたかったのですが、息子が寝ていたので、心の中で「よかった、やったー!」と叫びました。
 
4月になり奨学生リストを拝見して、自分の名前が名簿の2番目に記載されており、私には「2」という数字が合うんだなと実感するようになりました。言語学では複数とは「2つ」以上を指すと言われています。私の研究も複数であり、私の名前「オノン(Onon)」も複数である数字の名で、仏教の36桁の数字をOnonと言います。
 
息子との6年半に渡る日本での留学期間は人生の黄金時代だと思っています。私は勉強と研究に励み、息子は色々なことにチャレンジし様々なことを学び、小学校で「漢字博士賞」を頂いて、漢字を愛する、日本国を尊敬する少年になりました。
 
今後の課題としてはモンゴルの教育機関で活躍するとともに、日々の研究を基に学会発表などを通して海外の研究者と交流を深めていく予定です。モンゴルにおける言語学研究、日本語教育、高等教育学という3つの大きなカテゴリーを中心に活躍し、また深く続けて学んでいきたいと思っております。日本で得た知識や研究仲間、ネットワークを大切にして、次の20年、30年を有意義な時間にし、次世代の若手教員、研究員の育成にもいつか携わる側になると信じ、日々努力して参ります。渥美国際交流財団のメンバーになれたことも心から嬉しく思っており、優秀な研究者たちとネットワークを作る機会を与えてくださったことは感謝してもしきれないです。この絆を大切に思い、今後も全力で進んで参りたいと思います。
 
<エンフアムガラン・オノン Enkh-Amgalan_ONON>
2009年モンゴル国立大学言語文化学部日本学科を卒業、2020年東京外国語大学修士課程卒業、2020年東京外国語大学博士課程入学、2024年4月からモンゴル国立大学アジア学科非常勤講師を務める。
 
 
2024年12月12日配信
 
                     
                                        - 
						
2024.12.05
                        
                        中国で医学部を卒業し産婦人科医として働いていた時、臨床で解決できない症例に直面して、私たちができることはこれほど少ないのかという疑問を抱いた。最も印象的だったのは大学在学中に卵巣がんにかかってしまった20代の患者だった。従来の医療手段では彼女を救うことはできない。命を延ばすことができても生殖能力を失ってしまう。妊娠中に乳がんが検出された症例もあった。治療を受けると流産せざるをえない上に、治療を終えてもその後の妊娠は難しくなる。しかし、すぐに治療を受けなければ命に関わる可能性がある。中国社会では、子供は両親の絆の象徴と言われる。子供が生まれなければ夫婦関係を持続できないと考える人もいる。臨床医としての経験を積むにつれてこうした症例に多く直面し、ジレンマに陥った。そして、研究の力を借りれば問題を解決できるかもしれないと考えるようになった。人生において、そのような研究にチャレンジしないことはあり得ないと思い、日本にやってきた。
 
東京大学大学院医学系研究科生殖・発達・加齢医学専攻に入学し、研究生活を始めた。テーマは抗がん剤による卵巣毒性における細胞老化の役割である。抗がん剤治療を受けることで生殖機能に与える影響や、その解決策を探す。例えば、まだ子供を持っていない30歳の女性が乳がんを発症した場合、抗がん剤治療は生殖機能に壊滅的な影響を与え、母親になることが難しくなる可能性がある。同時に彼女は同世代の人よりも早く更年期を迎え、骨粗鬆症や脂質代謝異常などの健康問題にもより早く直面する。私たちの研究は、このような患者に薬を投与し、抗がん剤治療を受けながらも生殖細胞への影響をできる限り減少させ、生殖機能を保存することを目指している。
 
既存の論文によると、抗がん剤治療を受けた乳がん患者の約70%が5年以内に早発卵巣機能不全(早めの更年期)を経験している。私たちが研究を進めている治療法では、少なくとも10年から15年後までは、更年期を迎える時期を迎える可能性は高まらないことが期待される。動物実験で効果が証明されており、臨床試験に進んで、より広範囲に適用されることが望まれる。もう1つの例を挙げたい。血液がんを患った5歳の女児の場合は治癒の見込みがあり、少なくとも70歳まで生存する可能性があるが、現在の治療法では早発卵巣機能不全になる可能性が高い。将来的に子供を持つためには彼女に選択肢を残す必要がある。現在の治療法には卵巣冷凍保存があるが、何度も手術を受ける必要があり、身体的および経済的な負担がかかる。私たちの研究で使用した薬は経口摂取可能であり、現在の治療法より負担の軽減が期待される。一日も早く研究の成果を実用化し、人々の健康と幸福に貢献したい。
 
東京大学での4年間の経験を通じて科学的な研究における思考力が鍛えられ、問題を客観的に分析し、解決策を考え出す能力が身についたので、今後の研究活動において有益な役割を果たすことができると確信している。私の指導教官は、研究は大学院でのみ行うものではなく、一生を通じて続けるべきだとよく述べていた。この言葉は、私の将来の研究生活をより意義深いものにしていくだろう。
 
現在は日本の医師免許取得に向けて努力しており、日本でも産婦人科医として活躍したいと考えている。将来的には日本と中国で産婦人科医として働き、両国の医療技術を習得し、患者に有益な治療法を提供できるようになりたい。同時に研究活動も続けて成果を臨床現場に活かすことで、医療の進歩に貢献し、日本と中国の医療の架け橋となることを目指している。
 
<徐 子焮(じょ・こしん) XU_Zixin>
淄博市出身。東京大学附属病院女性診療科特任研究員。渥美国際交流財団2023年度奨学生。2018年に臨床医学産婦人科専攻修士号取得。2020年に東京大学医学系研究科生殖専攻博士課程に進学し、女性妊孕能の温存について研究し始める。2024年3月に博士号取得。
 
 
2024年12月5日配信
                     
                                        - 
						
2024.11.21
                        
                        2023年度渥美財団奨学生に採択された春のこと、前年度の奨学生による春季研究報告会に参加した際に感じた大きなショックは今でも忘れられない。文京区関口にある財団ホールでは、世界中から集まった優秀な研究者たちが日本語を共通言語とし、博士論文の成果を報告していた。
 
指導教授たちが次々と祝福の言葉を述べ、それに続いて国連事務次長を務められていた明石康先生など財団関係者からも次々と祝辞と研究への質問が繰り返された。90歳を超える明石先生が、大学院生たちの研究発表をノートに取りながら傾聴され、明晰なコメントをされる姿には感銘を超えて畏怖の念を抱いた。
 
新しい博士たちの誕生を祝福するたいへんおめでたい空間にいながら、大きなショックを受けた原因は、文系理系を問わず当たり前のように日本語が研究の共通言語としてその空間を支配していたためだ。私は当時、4年間留学していた米国から帰国して程なくだった。米国の大学では、そもそも日本語を理解する人がほとんどいないので英語を共通言語とするのは当たり前だし、それが「国際的」な研究をするための大前提であった。私もこのような研究者としての姿勢を内面化していたため、アジアを中心に世界各地から日本に留学生が集まり、高度でアカデミックな議論を展開している光景に、まるでパラレル・ワールドに迷い込んだかのような気持ちを引き起こされたのだ。
 
小説家の水村美苗が自らの経験をもとに書いた『私小説』に出てくる主人公はイエール大学仏文科博士課程に在籍する東洋人女性なのだが、米国の大学院でうじうじと悩みながらプライドも捨てられず悪態を吐きつつ日本を恋しがる姿があまりに愛おしく、私は米国で住んでいた小さなアパートで、夜ベッドに入る前にページをめぐりながらしくしく泣いたことがある。26歳のときに留学生として米国に渡った私は、幼少期から移り住んだ主人公とは若干異なる境遇ではあるのだが、私は米国の大学院で努力することが「世界」とつながるための扉だと信じていたため、渥美財団に今までに見たことがない小さくても別の「世界」が存在していたことに大きなカルチャーショックを受けた。
 
それからの渥美財団での交流は韮崎での宿泊ワークショップが助けとなったこともあり、奨学生同期とはすぐに仲を深めることができた。知的障がい者とその家族の生活支援を改善し浸透させるための研究、児童虐待をなくすことを目的とした中国と日本の比較研究、乳がんの抗がん剤治療を受けながらも生殖機能を保存する医療の開発を目指す研究など、同期の研究は誰もがその重要性を認めるであろう社会的に喫緊の課題を取り扱っていて、それぞれが立派な研究者になり、これからますます活躍することを願わずにはいられない。
 
このような出会いに恵まれたことにとても感謝している。一方で、「美術史」のなかで「日本写真史」を扱う私の研究は、一見その喫緊性が低いように思われたり、道楽的だと受け取られてしまうこともある。渥美財団で普段の自分の研究領域を超えた異分野の人たちと出会ったことによって、自身の研究の意義をより広い聴衆に理解してもらう必要性を考えるようになった。「歴史」を記す者として、あるいは「知識の生産者」としての責任と誇りをもった仕事が続けられるよう、これからの研究者人生を歩まなくてはならないという自覚を持つようになった。
 
米国での生活が水村美苗の『私小説』の世界を生きる日々であったとするなら、帰国してからの経験、特に渥美財団での時間は姜尚美が書いた『京都の中華』の世界を生きる経験だった。京都の中華は、花街の習慣も手伝い、独自の発展を遂げてきた。それは確かに本場中国の現状とは乖離があり、中国人が食べれば下手をすれば日本料理として認識されるようなダシのきいた薄味が特徴だ。著者は京中華を取材していくなかで、「本場や本物を追求するのは、素晴らしいこと。でも、それを追い求めると、「正解」がたったひとつになってしまう」と書き記している。人が移動する。人が移動すると文化や技術が越境する。それは食文化に限らず、私が研究を続けている写真表現やそれに伴う知識と思想にも言えることだ。人が移動し、モノが越境するとき、ためらいや、揺らぎ、時には衝突が起こりながらも、折り合いをつけ新しい何かが生まれていく。
 
渥美財団はまさに国を移動し専門領域を越境することで新しい知識が生まれる場所だ。このような空間に1年間身をおけたことに感謝するとともに、これからもささやかながら関わり続けられれば幸いである。
 
<久後香純(くご・かすみ)KUGO_Kasumi>
京都府出身。2010年早稲田大学文化構想学部入学、2014年早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース修士課程入学。国立近代美術館写真部門や東京都写真美術館でインターン、委託職員を勤めながら写真史の研究を始める。2018年からアメリカのニューヨーク州立ビンガムトン大学美術史コース博士課程に留学し、1960年代から70年代の日本写真史についての研究に取り組んだ。2024年度博士号取得予定。2025年度からは、日本学術振興会PD特別研究員として京都大学にて研究を続ける予定。
 
 
2024年11月21日配信
                     
                                        - 
						
2024.10.24
                        
                        ソウル中心部の光化門(グァンファムン)は今日も多くの人たちで賑わっている。おそらくその一部は大韓民国歴史博物館を訪れる来場客であろう。朝鮮王朝の歴史を物語る景福宮 (キョンボックン)と米大使館に隣接した歴史を学ぶ最適な場所で、2012年に開館されて以来、近現代の韓国歴史にちなんだ常設展と特別展を企画してきた。
 
7月27日から3カ月間にかけては特別な展示会が開催されている。タイトルは「あなたはまだここに」。朝鮮戦争で犠牲になった国連軍および民間人を記憶にとどめるために企画された。展示会は、大きく4つのセクションで区分される。「国連の名前で」、「1129日間の戦争」、「救護の手助け」、最後に「見知らぬ土地に刻まれた名前」。
 
初日の7月27日は、1953年に国連軍と共産軍の両側が朝鮮戦争の休戦協定を結んだ日となる。韓国政府はこの日を「国連軍参戦の日」に指定して、毎年国連軍の参戦勇士の貢献と犠牲を称えており、博物館側の公式説明には以下のように書かれている。
 
…戦争の残酷な瞬間を経験した多くの人々が、私たちの記憶の向こうに消えていきます。同族間の争いの悲劇で廃墟と化したこの地に、平和の花が咲くまで、実に多くの人々の努力と犠牲がありました。それぞれ違う国から来たが、一つになって戦った国連軍。戦争で苦しんだ軍人と民間人のために献身した人々。私たちが覚えている英雄より隠された英雄がはるかに多いという事実を私たちはもしかしたら忘れていたかもしれません…
(大韓民国歴史博物館のホームページ、特別展示会に関する説明)
 
70年前に起きた朝鮮戦争のことであるが、朝鮮半島の危機は依然として続けられている。最近北朝鮮が韓国内へ飛ばしたゴミ風船は、未完の戦争の生きた証であろう。朝鮮戦争勃発75周年を迎える2025年を控えて、韓国では各分野で戦争の教訓を改めて考察する動きがみられる。特別展示会「あなたはまだここに」も、まさにその一環として行われる活動である。
 
この展示会の最後のセクション「見知らぬ土地に刻まれた名前」に、私の研究論文が学術資料として引用されている。私が渥美奨学生であった2021年に韓国・釜山広域市の発行したジャーナル『港都釜山』に掲載された拙稿である。タイトルは「1951年国連墓地の戦没将兵献呈式―1950~1951年臨時国連墓地の統合から献呈式に至る過程の考察―」。国連墓地の設立70周年を記念して博士論文を完成していく中でその一部を投稿したものであった。研究を遂行しながら、求めていた史料をデジタル・アーカイブズから偶然に見つけた瞬間の興奮が今も脳裏に焼き付いている。
 
私が見つけたのは、国連墓地の設立直後の1951年4月6日に開かれた最初の献呈式(Dedication_Ceremony)の様相を表す史料であった。献呈式の記念式典では、緊迫感溢れる戦争の最中、李承晩(イ・スンマン)大統領を含め、マッカーサー(MacArthur)国連軍司令官の後任となったリッジウェイ(Ridgway)中将、多くの国連軍参戦国の要人が出席した。雨の中、決意に満ちた要人らの様子の厳かな気配にとらわれ、論文を書き終わった後のしばらくの間、私はその余韻に包まれていた。
 
その資料の一部が、大韓民国歴史博物館の特別展示会に掲載されている。私の研究を直接引用した史料は、国連墓地の象徴区域に表れている国連軍参戦国の配置図である。博物館側は、拙稿の分析内容をほぼそのまま展示物の説明文に採択して掲載した。担当キュレーターによると、拙稿を通して接した史料が今の国連記念公園の象徴区域をよく具現しているため、基礎データのエクセルファイルにて拙稿の内容を記録しておいたという。
 
論文を基にした形の学術監修ではあっても、自分の論文が国の知られざる歴史を伝える博物館の展示会の参考資料として用いられたことは、研究者として感無量である。他方で、3年前のKBSドキュメンタリー番組の学術監修の経験もあり、今後の使命や責任を考えるとさらに複雑な心境にもなる。結果的に展示物の説明文の下段と、展示場のクレジットタイトル、そして博物館のホームページに、自分の名前が記された。数年前に朝鮮戦争の国連軍戦没者、あの「見知らぬ土地に刻まれた名前」たちを想いながら書いた拙稿と私自身も、大韓民国歴史博物館という地に小さな足跡として刻まれた。
 
戦争は今なお世界各地で繰り返されている。ロシア・ウクライナ戦争や、イスラエルとヒズボラの紛争など、人間の尊厳を害する悲劇が相次いでいる。地球市民として我々は、苦難の時に人たちを救う英雄のみならず、名も知らなき全ての犠牲者――戦争捕虜、失郷民、拉致被害者、失踪者など――見知らぬ土地に刻まれた名前とともに、争乱の今を生きるあの無数な存在を記憶にとどめるべきであろう。展示会の閉幕を目の前にした今、そのタイトルが心の奥に響き渡り続ける。「あなたはまだここに」。
 
国連軍参戦の日記念特別展[あなたはまだここに]ホームページ(下段に拙稿表記)
 
SGRAエッセイ#710 李貞善「『あの時・あそこ』から『今・ここ』へ」
 
SGRAエッセイ#694 李貞善「記憶の地、国連墓地が遺すもの」
 
<李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun>
東京大学大学院人文社会系研究科附属次世代人文学開発センターの特任助教。2021年度渥美奨学生として2023年2月に東京大学で博士号取得。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2022年国際軍史事学会・新進研究者賞等、様々な研究賞受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスター取得後、公式講師としても活動。
 
 
2024年10月24日配信
                     
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2024.10.09
                        
                        私は仏教思想と仏教的な信仰に興味を持ったキリスト教文化の西洋人だ。「キリスト教思想と仏教思想」、「キリスト教的な信仰と仏教的な信仰」を両方とも自分の今の思想と精神性の大事な一部*だと思っている。
 
昔、日本の多くの仏教者とお話をした時、私はよく次の二点を述べていた。仏教思想と仏教的な信仰を理解し受け入れるためには、キリスト教文化の西洋人としての自分を超えなければならない(東洋的なものを西洋的なカテゴリーで理解しようとするのではなく、東洋的なカテゴリーで理解すべきだ;相手のことを相手のカテゴリーで理解すべきだ)、と。しかし、東アジアの仏教者側では何が待っているのだろうか。私のような人を迎えるための「心の準備」ができているのだろうか。私のように「自分を超える」という心構えができているのだろうか、と。
 
多くの相手は、私が言おうとしたところのポイントをあまり理解できなかった気がする。その時から何年もたった今、特に後段の「心構え」について詳しく述べたい。私はこれまで多少の無理をしてでも、よく異文化の相手に合わせてきた人だが、今回は純粋にキリスト教文化の西洋人として語りたい。
 
キリスト教文化の西洋人から見れば、キリスト教以外の宗教はまだ「自民族中心主義(エスノセントリズム)」に思える。
 
「自民族中心主義」とは、自分たちの育ってきたエスニック集団(族群)の言語と伝統文化や宗教などは基本的に自分たちのものだとか、自分たちにしか理解できないとか、万が一理解されてしまった場合、逆に嬉しくないとか、悔しいとか、大事なものを関係ない人たちに持っていかれてしまったとか、盗まれてしまったとかいう感覚のことだ。これは体験的な定義だ。文化人類学や社会心理学の世界では他にも定義が存在*している。
 
宗教の世界では、「自民族中心主義」の典型的な特徴はどのようなものなのか。私が触れた日本仏教の場合は次のような話になる。
 
特徴その一。世界のどこの人であろうと、日本語でお祈りしなければならない。日本の読み方でお経を唱えなければならない。本尊は仏像であれば、アジア人の顔をしている。文字曼荼羅(まんだら)であれば、漢字で書かれていて、何と書いてあるかすぐには分からない。バイリンガルと認められている私にとって、この点はむしろ好都合だが、そうでない外国人にとっては大変な壁だ。外国語で祈らなければならないことを受け入れられる人間は今の世界でもあまり多くない。
 
特徴その二。聖典(経典、宗祖の著作、後の歴代法主や学僧たちの注釈書)はすべて外国語に翻訳されているわけではなく、一部だけだ。多くの注釈書は翻訳されていないし、教団自体が翻訳させたくないと言っているケースすらある。理由は様々であろう。私が聞いているのは、「外国人には理解できないから混乱させてしまうかもしれない」というものだ。
 
特徴その三。海外でも教団のトップにはやはり日本人がいなければならず、外国人はあまりいない。その宗教が生まれ発展した人種の人しかその宗教のトップにはなれない。外国人がなるという可能性すらまだ考えづらい。
 
現代のキリスト教文化の西洋人には、これらはすべて自民族中心主義の典型的な特徴に思える。
 
このようなことを言っている者たちがいる(キリスト教文化の西洋人ではない者たちだ)。「自民族中心主義」とは西洋人たちが自己批判で考え出した概念で、西洋人でない者たちとは関係ない、と。西洋的な概念で、例えばアジア人の文化と歴史とは関係のないものだ、と。
 
私なら本能的にこう答えたくなる。人種の違いを乗り越えるということは、西洋的な概念だけなのだろうか。人種の違いを乗り越えるということは、平和的な人類に進んでいくための当然で自然なステップではないだろうか。
 
このようなことを言っている者たちもいる。我々の宗教も万人に開かれているよ、と。しかし、上記のような自民族中心主義的な特徴はそのまま残っている(その宗教が生まれ発展した人種の人たちと同じ言語で祈らなければならない、など)。
 
仏教文学関係の資料を日本人の研究者と同じやり方で日本語で研究してきた私は、日本の仏教者を名乗る一部の者たちに色々言われてきた。まだ仏教関係の難しいテキストを読めていなかった時は「あなたには難しいでしょう」と。読めるようになって研究上成果を出せるようになった時は急に変わって、このようなことを言われた:「日本的なものは日本人にまかせて、あなたは日本人たちがどのように日本的なものを研究しているか、それだけを研究してくれればいいんだ。イタリア語で。イタリアで」とか、「なんでこんなところに来るんだ?!あなたは他のところで違うこともできるはずなのに」とか、「日本的なものを日本人よりも理解できると言おうとしている。あなたはそう思われる」とか(意味について様々な解釈が可能であろう)。
 
私は博士号を取得するためにやっていただけで、西洋人として日本人の宗教者たちに何かを見せようなど、少しも思っていなかった。「西洋人」「日本人」という区別もしていなかった。区別していたというなら憧れていたからだ。一部の人にそのように思われていたと聞いた時は寝耳に水だった。
 
東アジアの仏教者たちが昔受けてしまったトラウマのようなものが関係しているかもしれない。19世紀末には、西洋人による現代的な仏教学研究が誕生する。「社会進化論」*と植民地主義の時代だ。この時代の、東アジアの仏教者に対する西洋の多くの学者の態度は次のようなものだったと言われる。仏教はインドで生まれた、と。元々インドヨーロッパ語族の人たちの宗教だ、と。つまり、我々西洋人の先祖たちの宗教だった、と。仏教はその後、インドから東アジアと東南アジアに移動し、これらの地域の異質な文化と混ざってしまい、変質した、と。よって、本当の仏教はインドの仏教だけだし、仏教の本当の本質はインドヨーロッパ語族の正当な継承者である我々西洋人たちにしか理解できないであろう*、と。東アジアの仏教者たちはこのような態度をとられて嫌な思いをされたであろう。ここは、その時代の西洋人たちが悪い。この歴史から考えれば、日本の仏教者を名乗る一部の者たちが私に言っていたことは理解できる。「なるほど、最初はそう思われるだろうな。仕方ないかもしれない」と。
 
私が日本で最初にお付き合いした方は、ご家族の信仰の関係で仏教者だった。今のキリスト教会は家庭事情があるのであればキリスト教以外の信仰も同時に持っていて良い。キリスト教を否定さえしなければパートナーの信仰も受け入れて、同時にやっていて良いということを許してくれる。他の宗教はどうか。
 
前ローマ法王ベネディクト16世はこのようなことまでおっしゃっていた。「東洋や、キリスト教以外の偉大な宗教に由来する本物の瞑想法の実践は、混乱している現代人にとって魅力的であり、祈る人が外的なストレスの中にあっても、内的な平安をもって神の前に立つことを助ける適切な手段となりうる」*と。
 
キリスト教以外にもこのような姿勢はあるのだろうか。東アジアの仏教者たちはキリスト教的な瞑想法の何かを取り入れようと考えたことがあるのだろうか。
 
キリスト教には他に、「聖霊降臨の神秘」という出来事がある。聖霊は十二人の使徒たちに下り、そうすると使徒たちは突然に世界の言語を色々と話せるようになる。聖霊は、世界の全ての言語で全ての人に福音を伝えてほしいと最初から考えておられるようだ。アラム語だけでなければならないことはない。へブライ語だけでも、ギリシャ語だけでも、ラテン語だけでなければならないこともない。これは最初から霊的な次元で決まっているはずで、使徒たちの言葉にも現れている。異邦人(外国人)とそうでない者とか、奴隷とそうでない者たちとか、もうそのような区別など存在しない*、と。
 
キリスト教の「脱民族中心主義」は最初から始まっているはずだが、歴史的に本格的に始まるのは、おそらく東西教会の分裂(11世紀)の時であろう。そこから東の教会(正教会)はラテン語と違う言語で色々とやり始める。正統派総主教ももちろん、ローマの人ではない。その次は宗教改革(16世紀)の時であろう。M.ルターは聖書をドイツ語に訳す。プロテスタント教会の誕生だ。ローマ教会では、まだラテン語以外の言語を使ってはだめだという時代だった。最後に、カトリックの世界では第2次バチカン公会議(1962年)の時代がやってくる。その時はカトリックの世界でも次のようになる。世界各国ではその国の言語でお祈りして良い。ラテン語でなくとも良くなる。ごミサや礼拝も、それぞれの国の言語で行ってもいい。聖書はもちろん、教父たちや聖人たちの著作も全て、世界の主な言語に翻訳される。今はアジア人やアフリカ人の枢機卿もいらっしゃるし、みな法王にもなれる。
 
このようにキリスト教の世界では「脱民族中心主義」は進んでいる。これこそ世界宗教であるための条件ではないか(私の中の「キリスト教文化の西洋人」の生の声だ)。
 
キリスト教以外の宗教も、世界宗教か海外での人間関係の拡大を目指すのであれば、キリスト教会の歴史上の様々な分裂と争い、自民族中心主義的な過ちの歴史から学び、似たような「脱民族中心主義」を成し遂げるように努力することをお勧めしたい。でないと、家庭事情や人間関係のような理由がなければ、現代のすべてのキリスト文化の西洋人にとって信仰として受け入れることがまだ難しいであろう。せっかく西洋の主な精神性では「脱民族中心主義」が進んでいるのに、再び異国の自民族中心主義的なものに魂のケアーを任せるのか。逆戻りではないか、と。
 
海外での人間関係の拡大や世界宗教を目指している各教団に告げたい。その目的を実現するということは、西洋も含め海外で何人もの信者を持てば良いだけの話ではない。現代のキリスト教文化の西洋人たちの感覚のことも慎重に考えていただきたい。そして、昔の西洋人たちと同じ過ちをしてほしくない。世界では、すぐには理解できない遠い言語で祈ろうとして、「自分はいったい何をやっているんだろう」と違和感を持ち続ける者たちもいる。「重要なテキストはまだすべて翻訳してくれているわけではないのか」、と不信感までいだく者たちもいる。「結局、その教団のトップにはその教団が生まれ発展した人種の人たちしか行けないのか」、と差別主義を疑う者たちすらいる。
私は、翻訳の点ではいつでも協力したい。
 
海外での布教と人間関係の拡大を考えている各教団のお役に立てればと願いつつ
 
Giglio(ジッリォ), Emanuele(エマヌエーレ) Davide(ダヴィデ)
東京、2024年9月28日
 
*注釈
 
注釈付き本文(PDF)
 
<エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ Emanuele_Davide_Giglio>
渥美国際交流財団2015年度奨学生。2007年にトリノ大学外国語学部・東洋言語学科を首席卒業。外国語学部の最優秀卒業生として産業同盟賞を受賞。2008年4月から2015年3月まで日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。2014年に日蓮宗外国人留学生奨学金を受給。仏教伝道協会2016年度奨学生。2019年6月に東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室の博士課程を修了し、哲学の博士号を取得。日本学術振興会外国人特別研究員。現在、身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。医科大学にて哲学講師・倫理学講師・国際コミュニケーション講師。工科大学にて日本語講師。NHKバイリンガルセンター所属。
                     
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2024.09.26
                        
                        新テクノロジーが出るたびに、世の中では是か非かの論争が起こる。携帯電話が普及した頃は電車内の通話問題、最近では歩きスマホ問題だ。
 
日本では車内の携帯通話は悪である。会話は良いのに、なぜ携帯はだめなのだろうか?2000年代の新聞で、会話は対話が聞こえるから不快にならないのに対し、通話は片方だけ聞こえるから不快に感じるのが禁ずる根拠という専門家の意見を見たのを覚えている。日本では車掌による懸命な肉声アナウンスによって、日本人の「マナー」は大変良くなった。最近でも私が路線バスで小声で着信通話していたら運転手に「車内での通話はお止めください」とアナウンスされたことからして、車内通話が悪であることは健在のようだ。人は環境に順応して聞きたくない音を無視することができるはずなので、本当にこれで良いのか?
 
車内通話禁止により生じたおかしな例として、2000年代に東京に行った時のエピソードを紹介する。女性が電車内で通話をしていた。声を抑えていたので気にならなかったが、向かい席のお酒片手の酩酊中年男二人組が通路越しに大声で、「電車の中では通話しちゃだめじゃないのか」と絡む。女性は無視してかたくなに通話し続けていたが、男たちの執拗な絡みにたまりかねて席を移動してしまった。心の中で酔っ払いに屈するなと応援していたので残念である。「あなた達の声と酒の方が迷惑だ」と言いかけたが、車内通話は明らかな悪なのだから女性の分が悪いことになるのだろう。
 
一方で台湾はどうか?録音による放送だったせいか、誰も気にせずに通話し放題で、マナーの悪さが目立っていた。当時の携帯の音質の悪さが、大声での通話に拍車をかけていた。しかしその後のスマホの飛躍的進化で、今では車内通話で迷惑に感じることはなくなった。普通の会話でも声を大きくすれば不快になる。「車内通話は悪」とまでする必要はあったのだろうか。新技術によって出たマナー問題を、技術やマナーが進化する前に規制すると、その規制は地縛霊のように居付いてしまう。
 
スマホにまつわるもう一つの困った規制は、シャッター音である。日本ではスマホで撮影する時は、シャッター音を出すよう規定されている。盗撮防止のために、技術の進化に逆らって音を出しているのである。日本と韓国以外では、スマホカメラは音が出ないのが常識。だから海外で静粛が求められる場面で写真を撮ると、「なんでスマホでわざわざ音出すの?」と周りから白目を向けられて恥ずかしい思いをする。さらに犯罪現場で犯人を撮影すれば事件に巻き込まれるリスクもある。アプリを入れたり、海外でスマホを買ったりすれば音は出ないが、生活している日本でシャッター音が出ないスマホを使えばやましいことをしていると思われるのでやりたくない。
 
ちなみに台湾の通勤電車MRTでは規制がないわけではなく、シンガポールに見習って飲食とガムは厳格に禁止されている。マナーは各人の良識にゆだねるべきなので窮屈に思ったが、90年代に台湾の満員通勤バスでの飲食で他人への迷惑と車内が不潔になっていたことからして、規制はやむを得ないと思う。車内飲食規制は、より普遍的だと思う。
 
続いて最近の「歩きスマホは悪」とみなされる風潮である。私の所属する組織では、キャンパス内で「歩きスマホ」する学生を見かけたら注意するよう通達がきた。理由は「危ないから」とのことである。「歩きスマホ」とは、歩きながら視覚メディアによる情報摂取である(「歩き情報摂取」と言おう)。「歩き情報摂取」の日本での大先輩は二宮金次郎で、今でも多くの小学校で薪を背負って歩きながら読書に没頭する彼の銅像が勉学のアイコンとして立っている。地図を見ながら歩く観光客も「歩き情報摂取」だ。「歩きスマホはいけない」と言っている人たちは観光地で紙地図は使わないのだろうか?二宮金次郎の銅像を見てクレームしたことがあるのだろうか?紙は良くてスマホはだめというのは、新テクノロジーに対する拒否反応だと思う。
 
学生の「歩きスマホ」に対する教員の注意の呼びかけには戸惑った。危険性は認識しているので私は「没入型情報摂取」はしないが、スマホで時間は見る、地図は見る、メッセージ着信があれば確認する、だから「歩きスマホは悪」とされては困るのだ。キャンパスで「歩きスマホは悪」になれば、一時期流行ったポケモンGoのような拡張現実もできなくなる。歩いてスマホをすれば年寄りから「いけないよ!」と注意が来るような窮屈なキャンパスに若者は集まるのだろうか?キャンパスでも歩道でも、子供でも障がい者でも安心安全に歩けることを目指すべきなので、「ながらスマホ」で歩行者がとがめられるのは本末転倒であり、「私はこれからも歩きスマホはします」宣言をさせてもらった。
 
ちなみにここ2-3年は「ながら自転車」も頻繁に見かけるようになった。私は若者の「ながら自転車」を見かければ、「他人にぶつけたら将来が大変だぞ」と注意している。他人に危害を加える可能性があるので、「歩きスマホ」とは次元が違う。これこそに注意を促すべきだろう。歩行者は他人に危害は加えないので、自己責任であるはずだ。
 
<葉文昌(よう・ぶんしょう)YEH Wenchang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年国立雲林科技大学助理教授、2002年台湾科技大学助理教授、2008年同副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科物理工学科准教授、2022年より教授。
 
 
2024年9月26日配信
                     
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2024.09.12
                        
                        YouTubeのアルゴリズムは、個々人を特定の情報空間に閉じ込めるという問題点(いわゆる「フィルターバブル」)があるが、個人的にはそれほど抵抗はない。その閉じられた空間が「意外と広い」ということもあるからだ。YouTubeの「おすすめ」に表示されるものは「再生回数稼ぎ」のための低レベルの動画ばかりではなく、知識の面で有益な情報も少なくない。最近は有名YouTuberではない人の動画も表示されたりする。アルゴリズムも批判を意識し、それなりに進化しているのだ。
 
2024年6月26、27日、日韓の交流サイト(SNS)で同時に話題になる出来事があった。K-POP女子アイドル「NewJeans(ニュージーンズ)」が日本で初めての公式イベントを東京ドームで開催し、そこで披露した一曲が大きな関心を集めた。1980年代に一世を風靡した松田聖子が歌った「青い珊瑚礁」(1980年)だ。44年前の名曲が、K-POPアイドルによりカバーされたことで、日韓両国のファンたちが熱く反応した。数多くの動画が既にYouTubeにアップロードされていた。
 
NewJeansは2022年7月にデビューした女子5人のアイドルグループ。韓国だけでなく多国籍メンバーで構成されており、「青い珊瑚礁」で注目されたのはベトナム系オーストラリア人のメンバー(ハニ)だった。男子アイドルBTSと同じ事務所(「HYBE」)の傘下に属しているが、「レトロ」「イージーリスニング」を標榜した点から若年層だけでなく、やや上の年代までファン層を広げている。
 
NewJeansの日本上陸を受け、YouTubeで関連する動画や反応を調べてみた。ファンたちがアップしたとみられる「直撮」(韓国アイドル界隈で使われる用語で、「ファンが現場で撮った動画」)の動画が多数見られた。そこでYouTubeのアルゴリズムが新たな動画の存在を教えてくれた。日本人女性たちが韓国のテレビ番組で「青い珊瑚礁」を歌う動画だ。再生回数は既に100万回に迫っており、かなり注目されていることが分かるが、私にはなじみのない番組だった。
 
タイトルは「韓日歌王戦」(日本版は「日韓歌王戦」)。日韓それぞれのオーディションを勝ち抜いた14人が両国の「古き良き時代の歌」を披露し、競い合う番組だ。審査員として松崎しげるなど両国の大物歌手が出演していた。
 
YouTubeには「韓日歌王戦」で歌われた多くの名曲がアップロードされていた。最初は意識していなかったが、段々とある変化もしくは事実に気付かされた。これまで韓国のテレビ番組で「日本の歌」が「日本語」で堂々と歌われたことがなかったということだ。MBNは「総合編成チャンネル」で、ケーブルチャンネルだが地上波テレビ局と編成の面で大差はない(ニュースやバラエティー番組が放映できる)。放送に関係する法律などで日本の歌が禁止されているわけではないが、これまでは「暗黙のルール」がそれを阻んできた。今回、その見えないタブーの一部が崩れた。私はかつて同テレビ局の系列会社(新聞社)で働いていたので内部を取材したことがあるが、政府の(暗黙の)了解は必要だった。
 
一説によると「韓日歌王戦」で歌われた「青い珊瑚礁」は、NewJeansのプロデューサー(もしくは所属事務所の代表)の選曲の参考になったという。原曲になかった振り付けがそのままNewJeansのコンサートで取り入れられたのが根拠だ。「韓日歌王戦」動画のコメント欄も興味深い。歌を純粋に楽しむコメントが多く、そこに国境は見られない。この番組は放送時間帯視聴率1位を記録した。単純に日本の歌が韓国のテレビ局で歌われた以上に有意義な結果を残したのだ。日本側の出演者の一人は歌唱力が韓国で大きな話題になり、長きにわたった無名歌手としての人生が報われたということで、日本のフジテレビで取り上げられた。
 
同番組の人気を受け、続編「韓日トップテンショー」も放映中だ。最近は日本での「韓流の先駆け」とも呼ばれた桂銀淑が舞台に立ちヒット曲を日本語で歌った。コメント欄には昔の彼女の歌声を覚えている日本のファンたちの反応も少なくない。韓国では近年、日本のいわゆる「シティ・ポップ」が再発見され「はまった」という人も増えている。
 
コロナ禍が立ちはだかった両国間の文化交流は再び活発化している。メディア界では合作プロジェクトが続々とスタートした。少なくとも文化では「タブーなき享受」が長らく続くことを願う。
 
<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師。2020年度渥美財団奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近はファクトチェック報道や、国際人権規範と制度化などに関心を持っている。
 
 
2024年9月12日配信