SGRAエッセイ

  • 2013.05.22

    エッセイ374:シム・チュンキャット「21世紀のアジアの教育を考える」

    (第1回アジア未来会議報告#5)   華麗な手さばきでiPhoneやiPadをいじる子どもを電車の中でよく見かけます。鮮やかだな~と感心する傍ら、彼らのこの優れた指技と能力を学校の現場で活かさなければ、もったいなすぎるといつも思います。今の子ども達を取り巻く成長環境が大人世代のそれとは大きく異なることは想像に難くありません。つながろうと思えば、見知らぬ人ともつながることができますし、調べようと思えば、わざわざ出かけなくても部屋の中で多くの情報を容易に入手することができます。その良し悪しはともかくとして、既成の観念と枠組みや従来の常識がおそらく今後も次々に打ち破られていく、そういう時代に移ったと認めなければなりません。そして、学校教育が子ども達の未来のための材料づくりを担う役割を果たすのであれば、なおさら変わらずにいられるわけがないと思って、2013年3月にバンコクで行われた第一回アジア未来会議では「21世紀に向けたアジアの教育の在り方を考える」というセッションを組みましたが、この僕の狙いと期待は見事に裏切られました。未来志向の教育を目指すその前に、現存する学校教育制度には問題が山積しており、その解決が先であることを僕は4名の発表者に教わったのです。同じセッションに分野や専門などを異にする研究者が集まるアジア未来会議であるからこそ、視点の違う立場からある共通のテーマについて議論することができました。ということで、2ヶ月程遅れましたが、僕が座長を勤めたセッションで行われた発表と主な議論の余韻を少しでも皆さんにお届けできればと思って、以下に簡単にまとめました。   まず、青山学院大学大学院の中西啓喜氏がシンガポールとの比較を通じて、日本における商業科高校の変化と課題を検討しました。同氏によれば、近年日本の商業科高校には社会階層上位層の子弟が入学しており、また就職指導よりも進学指導が実施されるようになってきた、という変化が見て取れるといいます。換言すれば、生徒の手に職をつけるという職業教育の本来の目的から離れ、日本の商業科高校の職業教育機関としての不明瞭さが増してきているということです。アジア各国で大学進学熱が高まるなか、職業教育の存在意義の再考および新たな役割の認識が求められている現実が浮き彫りになりました。   つぎに、東京大学大学院の李スルビ氏は、同じ学校の生徒でありながら、使われる教科書と教育内容によって歴史認識が大きく変わるという事例研究の結果を発表しました。李氏がフィールドワークを行った東京韓国学校において、日本の大学への進学を目指す「Jクラス」の生徒と、母国の韓国に帰国して進学を希望する「Kクラス」の生徒とでは、使用する歴史教科書の視点と内容が異なるため、日韓関係史に対する認識が進路によって大きな隔たりが生じていることが示されました。アジアにおける歴史認識の問題がクローズアップされている昨今、歴史という教科の学びと意義および教科書の在り方がいっそう問われていると李氏は問題提起をしました。また、李氏のこの興味深い発表はこのセッションでの優秀発表賞(Best Presentation Award)に選ばれました。   続いて、上越教育大学の堀健志氏は、最初の発表者である中西氏と同様に日本とシンガポールとの比較をもとに、学力面で下位に位置づけられる高校生に焦点を当てることによって、グローバル化の影響で何らかの不利と困難がもたらされた子どもへの対応について検討しました。堀氏によると、現代社会では自分の人生をどう生きるかを自ら決定することが求められる「個人化した状況」が生み出されているにもかかわらず、日本の下位校生徒の多くは、社会に出ることに対して不安を抱いており、自己有能感も低く、そのうえ今の学校生活から将来像を描くことができずにいます。社会や将来に対する若者の不安と不満が、過度にナショナリスティックな姿勢に結びついてしまわないためにも、そうしたネガティブな感情を抱かずにいられる状況を作り出すことが、本人たちの未来にとってもアジアの未来にとっても極めて有益であると訴えました。問題解決に向かう道の一つとして、同氏はシンガポールのように完成教育としての職業教育を若者に提供すること、また職業教育を受けたとしてそれが生かされる職を用意することが重要であると提案しました。なお、これらの知見をまとめた堀氏の大会論文は優秀論文賞に選ばれたことをここで記しておきます。   最後の発表者は、きれいな関西弁日本語を駆使するにもかかわらず、なぜか英語で発表をすることにした同志社大学のラフマン・シャフセインリ氏でした。シャフセインリ氏は、初等教育における平和教育の重要性を強調しつつも、その導入と実施がアゼルバイジャン、アルメニアおよびグルジアの三国からなる南コーカサス地方において困難を極めていることを明らかにしました。紛争が長く続いたこの地域において、学校教師の多くが実際に戦争を経験しており、若かった頃に憎むことをひたすら教わった教師達がいかに平和について教えるかが大きな課題となっていると報告しました。子ども達のための「寛容教育(Tolerance Education)」がつい4年前の2009年に始まったばかりのアゼルバイジャンは、同じく悲惨な戦争を経験し、その後平和憲法を守り続けてきた日本から多くのことを学べるはずであるとシャフセインリ氏は最後に提言しました。   以上で紹介した通り、また冒頭でも述べたように、僕が座長を務めたセッションにおける4つの発表内容は良い意味で多岐に及んでおり、未来の教育に向けての現在の課題が多く指摘されました。言うまでもなく、未来と現在は陸続きになっており、いま現在の教育問題への解決について議論することは、結局のところ未来に向けた教育を考えることにもつながるのだということを、バンコクで改めて気付かされた次第です。「未来」を照らすためには、やはり「現在」という鏡が必要不可欠なのですね。   ------------------------------- <Sim Choon Kiat (シム チュン キャット) 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------  
  • 2013.04.24

    エッセイ373:高橋 甫「日本にとっての北東アジア地域協力」

    (第1回アジア未来会議報告#4)   筆者は、3月8-10日バンコクで開かれた第1回アジア未来会議において、「地域協力の可能性--北東アジアの政治・経済・安全保障」をテーマとしたセッションの共同議長を務めた。この寄稿は、同セッションで発表された四つの報告に基づく討議のフォローアップとして掲題のテーマで筆者の考えをまとめたものである。   はじめに   国際的文脈での「地域協力」を「地理的に近い3カ国以上の国家が、あらかじめ合意された分野で継続的に協力を行う行為」と定義すると、北東アジアは、その種の地域協力のための制度的な枠組みが存在していない数少ない地域の一つとなる。欧州、北米、アフリカ、中南米、中東、東南アジア、南アジア、そして旧ソ連圏は政治、経済、関税同盟、安全保障と、政策領域や協力の濃淡の違いはあるが、いずれの地域でも制度的な協力の枠組は存在している。欧州では、EUという枠組で27もの国家が条約に基づき特定分野の国内制度を統一化した地域統合が進行しており、1967年に政府間協力機構として発足したASEANも、2015年には共同体に移行することに合意している。地域統合や地域協力の背景も地域によって異なるが、その主なものとして国際環境の変化、安全保障・危機管理上の要請、そして歴史的な理由の三つをあげることができよう。   グローバル化の進展等、一国を取り巻く国際環境の変化は、隣接する国家間の交流を拡大させる。そして、隣接諸国間の制度の違いがそうした交流の進展の障害として作用し始め、とりわけ企業や市民により認識され始める。また、国境を越えた問題が地域共通課題としての対処を要請するようになり、地域レベルで協働の必要性も政策当事者間で強く認識されるようになる。さらに、一国の経済政策もグローバル化や国内市場の成熟化への対応として、隣接する市場の発展や拡大を前提としたものに変質することとなる。日本にとっての「アジア内需」という新たな捉え方はその典型といえよう。こうしてみると、地域統合や地域協力は、グローバル化の進展と表裏一体といえる。そして、多国間貿易交渉の停滞も、二国間あるいは地域レベルの自由貿易協定の締結の動きを加速させている。   冷戦の終焉とともに、安全保障の焦点も、地域紛争、国際テロリズム、そして独裁国家による核の脅威に移ってきている。安全保障・危機管理において、地理的接近性はとりわけ重要な要素だ。同じ核開発の脅威であっても、日本にとってはイランによるものよりも北朝鮮によるものの方がより深刻な安全保障上の脅威であることはいうまでもない。地域経済統合や協力は、その地域の安全保障と平和構築の環境醸成に貢献し、また隣国からの平和への脅威に対する防波堤としての役割も担う。   これらに加え、隣接国は隣接国であるがゆえに紛争の危険にさらされ、また過去の遺産という問題を抱える場合が多いことも忘れてはならない。過去の遺産の二国間ベースでの克服の試みには、当事国の利害関係の衝突が直接的に発生する可能性が高くなる。そして歴史は、過去の遺産の克服には多国間の枠組みでの処理が重要な意味を持つことを示してきた。フランスとドイツ間の領土問題は、近隣4か国も参加した欧州石炭鉄鋼共同体の設立を通じて終止符が打たれた。東西ドイツ統一においても、EUという地域的な枠組の存在が統一ドイツへの脅威論を横に追いやり、歴史的な統一が実現された。北東アジアは、過去の遺産問題や領土問題が存在しているにも拘わらず、隣接諸国間で危機管理の対話やメカニズムの不在というきわめて危険な状況下にある。偶発事件が国民感情を刺激し、結果として、隣接諸国同士が戦争に追いやられた事例は枚挙にいとまがない。   1. 世界の趨勢と北東アジア   こうして見ると、北東アジアは地域協力を要請する三つの主要要件すべてを持ち合わせていることとなる。それでは、何故、北東アジアは世界の例外地域となっているのか。その背景の一つに、これまでの北東アジア地域協力に関する議論で再三陥る誤謬、つまり、議論の一般論化があるように思えてならない。地域協力や地域統合を論じるに当たり、前提として国家による地域統合、すなわち欧州統合プロセスをモデルとした地域統合を念頭に置いた議論だ。その結果、北東アジアは政治経済体制が異なり、依然として分断国家が存在し、経済規模と成熟度に格差がみられ、また文化的な同質性がないので、地域統合はもとより地域協力も困難ということとなる。   アジア未来会議において、統計データによる経済実態面での日本・中国・韓国間の経済・貿易の結び付きの深化が報告され、実態経済活動においては北東アジアで市場統合に向けた動きが加速しているにも拘わらず、制度面での地域協力・統合が進んでいないことが指摘された。地理的に接近した諸国間の制度化された協力関係を考察する際、協力の分野、深さ、主体に対して硬直的な捉え方をすると、具体的な成果を伴わない議論のための議論となりかねない。東アジア共同体構想はその一例といえなくもない。構想が壮大であればある程、既得権者の反発や抵抗を生み、政治的にもまた社会的な合意形成も困難となる。   2. 日本にとっての北東アジア地域協力   そうはいえ、成熟した民主主義国家、そして少子高齢化の進む日本にとっては、地域的な協力のための制度づくりは他の北東アジア諸国以上に緊急の課題といえる。北東アジアの地域協力を阻むと論じられてきた要因こそが、グローバル化の時代での成熟国家としての日本が地域協力を必要としている理由であることに目覚めるべきだ。安全保障、危機管理、自然災害への対応、環境保全、保健衛生、治安、漁業の安全操業、人の自由移動、交易、領土保全、そして将来の発展のための潜在市場の有効活用等、これらは全て近隣という地理的な要因が大きく介在する政策課題といえる。そして、近隣諸国間の共存共栄こそが地域協力の究極目的であることはいうまでもない。   日本にとっての中国、韓国を含んだ地域協力の遅れは、納税者である日本国民や企業が行政サービス上の不利益を被っていることを意味している。EU諸国の国民は欧州市民権を得ることにより、国家行政サービスに加え、地域という付加的な行政サービスを享受している。この付加的な国境を越えた行政サービスは、欧州大陸を舞台とした人の移動や居住の自由、EU加盟国間の資格の相互承認、就職機会の自由、そして安全保障面での安心に及ぶ。また企業にとっても、EUが提供する付加的な行政サービスの効果は、人口5億の統一市場、EU基準の事実上の国際基準化、EUが第三国との間で締結している自由貿易協定、経済連携協定に伴う国際市場での競争上の優位性といった具合に広範にわたっている。東南アジアの諸国民も2年後に国境を越えた新たな行政サービスを享受しようとしている。日本の産業空洞化の背景として、高い人件費、重い法人税等の理由が挙げられてきたが、こうした理由以外に、地域協力の制度的枠組の不在の結果、日本を舞台とした経済活動が国際競争上不利となっている事実があることも忘れてはならない。   そうした中、日本はTPP交渉、日・EU経済連携協定締結交渉、そして日中韓自由貿易協定交渉へ向けて舵を切った。これは確かに大きな政治決断といえるが、これら3つの大規模交渉が並行的に行われることが、それぞれの交渉の進展にどのような影響を与えるのかは明らかではない。交渉を担当する人材の確保の問題、それぞれの交渉内容の整合性確保の問題等、地域協力や経済連携協定の進展を必要としている日本の利害関係者の心配はつきない。   3. 現実的アプローチの重要性   こうした状況に対して、日本の利害関係者はどう対処すべきなのか。先ず、地域協力とは広い概念であり、選択肢も広いことに注目すべきだ。究極の形態としての国家主権の一部移譲を伴う統合、国家主権の移譲を伴わないが主権の制限を伴う制度化された政府間協力、そして制度化されない協力も有り得る。地域協力の分野についても同様である。理想論としての包括的地域協力もあれば、政策分野別かそれとも個別的なものも有り得るのだ。個々の利害関係者にとっては、地域協力は必ずしも包括的である必要はない。そして、地域協力の主体は決して国家や政府である必要もない。地方自治体でも 企業でも個人でも市民社会でも、地域協力の枠組み作りは可能なのである。スポーツ競技団体同士の近隣諸国との地域競技大会の開催や交流はその一例といえる。鳩山首相の提唱した「東アジア共同体」構想は、理念と現実が余りにも遊離された形で当事者間の信頼醸成のプロセスを経ないまま提言された。その結果、まともな議論や検討に付されないまま、葬り去られてしまった。「欧州統合には青写真はなかったこと、実際の統合は分野別漸進的であり、具体的実績をベースに次の統合段階に進んだ」という欧州統合の事例は北東アジアの地域協力にとって参考となりそうだ。   アジア未来会議では、北東アジアを逆さにして日本海と東シナ海を中心に据えた地図が披露された。そこに現れたのは、日本海と東シナ海を中心に存在するロシア極東であり、日本であり、朝鮮半島であり、中国であり、台湾であった。正しく北東アジア湾岸地帯の存在である。北東アジア諸国を新たな湾岸諸国と捉え、共通の海を面した国家間あるいは地方間、分野別あるいは個別的な協力関係の構築、そしてそれに伴う実績と信頼関係の構築が将来の北東アジア地域協力の現実的な第一歩と思える。そこで重要な政府の役割は、そうした地域、都市レベルのイニシアティブの邪魔をしないこと、そしてそうした協力の環境作りを行うことである。   自民党の教育再生実行本部は、国際社会で活躍する人材を育成するため、英語の検定試験TOEFLで一定以上の点数をとることを大学受験の条件とすることなどを盛り込んだ教育改革の提言をまとめ、本年3月末、安倍首相に提出した。これは日本の将来にとって重要な提言といえる。同時に、「国際社会で活躍する人材を育成するための英語」教育に加え、「地域協力という視点から北東アジアで活躍し得る人材を育成するための中国語と韓国語」教育や地域内相互理解のための教育上の環境整備も教育改革に含めるべきだ。事実、アジア未来会議では、北東アジアの地域協力との関連で、草の根レベルの交流、協力や相互理解、信頼醸成にとって語学の果たす役割の重要性が指摘された。   ------------------------------ <高橋甫(たかはし・はじめ)Hajime Takahashi>  SGRA渉外委員 1947年生れ、東京出身。1970年:慶応義塾大学法学部法律学科卒業。1975年:オーストラリア・シドニー大学法学部修士。1975年~2009年:駐日EU代表部勤務、調査役として経済、通商、政治等を担当。2007年~2012年:慶應義塾大学法学部非常勤講師(国際法)。2013年1月よりEUに関するコンサルタント会社であるEUTOP社(本社ミュンヘン)の東京上席顧問。これまでにEU労働法、EU共通外交安全保障政策、EU地域統合の変遷と手法に関して著述。 ------------------------------   2013年4月24日配信
  • 2013.04.17

    エッセイ372:オリガ・ホメンコ「ソ連時代とこどもの頃」

    「ソ連時代はどうでしたか?覚えていますか?」と最近よく聞かれる。たぶん大変な思いをしていたという答えを想定しているのだろう。しかし、一言で言えば私にとってソ連時代はこどもの頃だったので楽しい思い出が多い。政治に全く関係ない思い出。自分の国の政治体制が何か特別なものであるという意識は、ある時期までなかった。   それはブレジネフ書記長が亡くなった時のことだった。私はまだ小学生で10歳だった。共産党の一番偉い人が亡くなったので、テレビでは「白鳥の湖」のバレエや、哀しいクラシック音楽のコンサートばかり3 日間連続で放映していた。そして、身近な人が亡くなった時と同じように学校で追悼の時間があった。私は丁度その1年前に祖母を亡くしていたので、とても辛くて、「きっとブレジネフさんも誰かのおじいちゃんなので、家族は悲しんでいるでしょう」と悼んだのを覚えている。こどもたちは国のトップの人をそのような意識でとらえていたから、その点ではその存在は近かったかもしれない。   その3 日間は授業がなくて、学校ではブレジネフさんの著書を読んでいた。そのようなある日、友だちと2人で学校から帰る道で、指導者が亡くなったことが話題になった。普通は小学生の話に上がらないことなので、同級生が「ブレジネフさんが亡くなってもあまり悲しくない。よくない人だった。戦争中に指導をしていたスターリンもあまりいい人ではなかった。たくさんの人を死なせたから」と言った時、私はその言葉にとても驚いた。「えっ?指導者なのに?あり得ない。どうしてそう思うの?国の指導者なのに」と戸惑って聞き返すと、「両親がそう言っているから。家で。誰も聞いてないときに」との返事だった。私はとてもショックを受けた。ブレジネフもそうだが、博物館や学校のあちこちに写真を飾っているスターリンまで、まさか「よくない人」と思えなかった。歴史の授業では「戦争中には『愛国のために、スターリンのために』と叫びながら、自分の体に爆弾を巻いて戦車に体当たりして死んでいった若者がたくさんいた」とも教えられた。国民の多くがそれほどに指導者を尊敬していたと教えられた。歴史教科書からお祭りのポスターまで、スターリンは国民の「父」だと語っていたにもかかわらず、まさか、「国民を死に追いやった」という表現で友人が話すとは信じがたいことだった。   この出来事が起きたのは、1982年の、もうキエフの町の中の木々の葉も落ち、町全体がグレーの霧に包まれた11月のことで、寒い時だった。家に帰るとその同級生が言ったことについてしばらく考えた。「あり得ない」としか思えなかった。夜になって家に戻ってきた両親にその話を伝えると、彼らはお互いの顔を見交わすだけで何も応えなかった。こども心に「おかしい」と疑念が残った。わが家は特に反体制ではなかったが、こどもたちと政治的な話をすることはなかった。   その日からこの社会には、口に出せなくても様々な考えを持っている人がいると思うようになった。そして同級生の家族、またその家庭で話されていることが「何か少し違う」と思うようになった。その3 年後の夏に成績優秀なこどもたちが選抜されて1ヶ月間キャンプ生活をした。そこでは食事や遊び以外にいろんな講義があった。今で言う「合宿」に相当する。その講義には数学、歴史、絵画などの教科以外に「政治事情」もあった。その内容の大半は「アメリカはいかに怖い国か」だった。ある講義で、アメリカの国旗やアメリカのシンボルをTシャツにつけている人は、自分の国を裏切っていて愛国心がないという話題になった。私はハッと気付いた。その時たまたま、買ってもらって得意になってはいていたジーンズのポケットにアメリカの国旗が付いているのだ。「どうしようか」と慌てた。それで静かにTシャツの裾をズボンから取り出し、ジーンズの上にかけた。その旗が見えないように。私が裏切りものと思われないように。幸いに誰も気づかなかったので安心した。今から考えると、服は人間のアイデンティティの一部であり、服装だけで人間の思想性を判断するというのはちょっと単純すぎると思う。だがその当時、「外国」との関係は微妙であった。   両親は毎晩、テレビで9 時のニュースを見ていた。私は寝る前にテレビがある部屋の近くをうろうろして、ニュースを聞くようにした。国際ニュースが一番気になっていた。なぜなら、ある時期、よくアメリカの地図が映され、この国はソ連への核爆弾を準備していて、近々わが国に落とすだろうと伝えていたから。アメリカという国を全く知らないにも関わらず、こどもの私は毎晩不安になった。怖い国としか思えなかった。アナウンサーが伝える冷静で硬く笑みのない声を今でも覚えている。   15 年後、日本留学中にアメリカからの留学生数人と仲良くなった。最初はやはり昔形成された先入観をぬぐい去ることができず、友人ながら用心深く付き合い始めた。 「アメリカからきている人たちは、たぶん違う。注意しなければ」というふうに。共同の台所に行くと、彼らは朝食にピーナッツバターという不思議なものを食べている。また洗濯をするときに服とスニーカーを一緒に洗うという、とんでもないことをしている。また人生観について話すと「quality of life(生活の質)」という不思議な言葉をよく使っている。でもこのような違いを除けば他にはあまり違いがなくて「普通の若者」だった。ある日のこと京都の嵐山で一緒にバーベキューをしていた時、こどもの頃のアメリカの怖いイメージについて話すと、同年代のアメリカの女子学生が「私も。同じようなことを思っていた。毎日ニュースを見て、ソ連が爆弾を落とすのでは、と怖かった」と。とても不思議な気分だった。鏡の裏にいる人から同じことを言われたような気がした。そのときに初めてプロパガンダの意味をよく理解できた。   だがそれを知ったのはずいぶん先の話であった。こどもの頃は外国についてほとんど何も知らなかった。ただ本を読むのが大好きだった。その頃、父から誕生日に冒険小説の全集をプレゼントされた。外国作家中心の12冊の本。全部纏めて出版されたのではなく、出版されると家に届けられた。鮮やかなカバーの色は毎号違っていた。本棚に並べてみると虹のようだった。それを少しずつ読み、まだまだ外国へ行けなかった時代、しかもまだこどもだった自分は、頭の中であちこちに旅をしている夢をみた。ベッドに座って、本から目を離して窓の外を眺める、そこにはスペインの町、ロンドンの時計、モロッコの道、それからアフリカのジャングルが見えた。全部虚構の世界で、私にしか見えない世界。でもいつかそこに必ず行けると信じていた。どこからそんな確信をもったかよくわからないが、「直感」であり「信念」でもあった。我に返ると手にきれいな本があるだけ。当時、就寝前の短い時間、まるで「幻想」の世界に生きる夢見る少女だったかもしれない。   ブレジネフの死から6 年経つと、その話をした同級生は、自分はユダヤ人だと告白してイスラエルに亡命してしまった。ピオネール(共産圏の少年団)だった私たちはコムソモール(共産党の青年組織)に入ったが、その2年後にはコムソモールもなくなった。キエフ大学に入学すると、2年生の時に学生運動が始まり、大きな市民デモに発展して当時の首相は辞任させられた。その半年後にウクライナはソ連から独立した。そしてそれまで知らされなかった様々な歴史的事実が明るみに出るようになった。それでブレジネフやスターリンの人生、また1933年の「大飢餓」で亡くなった多くのウクライナ人のこと、殺されたたくさんのウクライナの作家や詩人のことを知るようになった。その時、ブレジネフが亡くなった時に同級生とした話やその時の信じられなかった気分が甦った。やはり、知っている人は知っていた。例えこどもの時代であっても。   ------------------------------------ <Olga Khomenko オリガ・ホメンコ  > キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活躍。2005 年には藤井悦子と共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行した。 ------------------------------------   2013年4月17日配信
  • 2013.04.12

    エッセイ371:洪ユン伸「ダルウィッシュ・ホサムさんの講演を聞いて」

    「シリアの料理は美味しいです。イタリアやスペイン料理のように。イタリア料理を 食べながら懐かしいと思う時もあります。オリーブオイルをたくさん使ったもので す。安定したら是非、皆さんも!・・・でも安定しないかもしれない・・・」   去る3月23日、「アラブの春とシリアにおける人道危機」をテーマに開かれた第3回 SGRAカフェは、シリア料理の話から始まった。   SGRAカフェは講演、質疑応答、懇親会を合わせた3時間に及ぶ「議論の場」である。 20人ほどの少人数であったが、日本、アメリカ、韓国、中国、トルコからの会員等が 集まり、シリアの情勢について議論した。講師のホサムさんは、シリア出身で、日本に留学して以来、ここ日本で祖国シリアに思いを寄せている研究者である。2010年に東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラムより博士号を取得、現在、アジア経済研究所中東研究グループ研究員を務めている。SGRA会員でもある。   「安定しないかもしれない・・」という言葉を何度も聞いたためであろうか。ホサムさんは時々笑いを取りながら、終始冷静を保ちつつ、静かに、しかしながらはっきりした口調で話しを進めたが、それがむしろ、私を不安にさせた。そして、報告書を書いている今、ホサムさんの冷静な声と、繰り返される言葉が持つ不安定さの間の「揺れ」のようなものこそ、多くのことを伝えていたように、私は思う。そこで、本報告 は、私が感じたこの「揺れ」を伝えるため、まず、シリア情勢をめぐるホサムさんの冷静な講演内容を伝えた上で、SGRAカフェならではの講演会後の議論の内容を含むものにしたい。   【「西洋の期待」を裏切った独裁者とその妻】   シリアは、地理的な重要性からエジプト、アッシリア、モンゴル、オスマントルコ、英国、フランスなどの帝国がその支配をめぐって抗争を続けてきた地域である。1946年フランスの委任統治終了後は25年近く軍事クーデターが繰り返された。1963年「単一のアラブ民族」を掲げたバース党によるクーデターが成功し、バース党政権が樹立される。その国防相を務めたハーフィズ・アル=アサドは、1970年クーデターを成功することにより、それまで繰り返されてきたクーデターに終止符を打ち、大統領にまで登り詰めた。独裁者ハーフィズ・アル=アサドの時代に、国家としてのシリアが形成されていった。   ハーフィズ・アル=アサドの次男こそ、現在のアサド大統領である。彼がイギリスに留学していたことや、留学中に出会った妻アスマー・アル=アフラスが、「中東のダイアナ」と呼ばれていたことは、日本でもよく知られている。SGRAカフェで、ホサムさんは、アサド一家の家族写真の説明から始め、シリアの歴史を紹介していった。   「西洋で教育を受けたから民主化するだろうと、『西洋人』は期待したようですね」と語るホサムさん。そもそも政治に関心もなく、イギリスに留学、眼科医としての道を選ぼうとした次男アサドは、後継者であった兄の急死により政治の道に入った。西洋で学んだ大統領の誕生であった。しかし、西洋育ちのアサドは、父より残酷な人権蹂躙の道を選んだ。それは2011年の民衆蜂起に対する弾圧に現れている。   【シリアにおける民衆蜂起・ダマスカス(Damascus)という都市】   民衆蜂起は、2011年3月にダマスカスに近い、シリア南部の都市ダラアー(Daraa)で起 こった。私が個人的に最も興味深かったのは、一体、何故、蜂起がここから起きたかという点にあった。ホサムさんの報告を聞いて初めて、ダラアーの蜂起には、民主主義への強い熱望だけではなく「文化」という要素も深く関わっていたことを知った。   「ダマスカスから少しだけ離れると、貧しい地域が広がっています。それに比べればダマスカスは金持ちの町で、政権に比較的好意的な人々が多い地域です。」シリアは中心と周辺で、経済格差や、地域性、教育の程度などが異なる。若者の失業率は中東のなかでも最も深刻な状況にある。研究者としてホサムさん自身も、経済的な不満から「アラブの春」の波がシリアにも押し寄せると予測していた。しかし、それがダラアーで起こり、あっという間にダマスカスに広まるとは思わなかったという。   事件は、「アラブの春」に触発されたダラアーの子どもたち(当時11歳から16歳まで)の落書きを政権が許さなかったことから始まる。警察は学校の壁に反政府的な落書きをした子どもたちを逮捕、爪を剥ぐなどの拷問を行う。釈放を求める母親たちに対して、「もう子どもは釈放できない。子どもをつくり直した方がよい。出来ないならつくってあげようか」などと言い返したという。ホサムさんによると、ダラアーは都市とはいえ、まだ部族的な文化や風習が根強い地域であるようだ。拘束された子どもたちの親たちは親戚同士であったり、近所の住民たちとも親族のようなコミュニティを形成したりしている。「新しい子どもをつくれ」などの侮辱的な言葉が導火線となり、一瞬にして部族的なダラアー社会全体の怒りに広がり、その抗議の波は全国に広がっていく。   かつてアサド大統領の父ハーフィズ・アル=アサドは、ハマーという地域で蜂起がおこると、部落全体を虐殺し葬り去ることによって政権の危機を免れた。1982年のことである。しかし、2011年のダラアーの子どもの落書きと親たちの反発から始まった抗議デモは、おさまらなかった。シリアでは葬式に死者の棺を担いで町を行進する風習があるが、ダラアーのデモで殺された人々の葬式行列は、政権反対デモ行進となった。葬式行列に警察が発砲し新たな死者が出ると、その怒りが火花となり、もっと大きな葬式の行列が出来る。こうして、葬式、発砲、行列が繰り返された。毎週金曜日の礼拝後に抗議デモが起こる。2011年に始まった抗議活動は、現在でも拡大していくばかりだ。   参考映像   1982年と違って、アサド政権のいうイスラム原理主義者たちの鎮圧のためにという名目も、宗派の間の紛争という建前も説得力を失った。ホサムさんはその原因を、第一 に、今度の蜂起は宗派との戦いとは言えないほど一般市民が抗議デモに参加していること、第二に、軍が情報を統制することもできなくなったこと、第三に、抗議の拡大により、今や、抗議が単なる政権交代の要求だけではなく、シリアにおける新たなアイデンティティの模索にまで広がっていることを挙げる。   特に、新たなアイデンティティの模索の兆しとして、抗議運動のために新たな「国旗」が提示されている現状を説明した。今までシリア政権が公式に掲げてきた国旗は、支配党バース党が定めたもので、赤・白・黒の水平三色の帯に、中央の白帯のところに2つの緑の星があるデザインである。しかし、抗議の行列に加わった人々が掲げた国旗は、かつてフランス委任統治から解放された時の国旗だ。緑、白、黒の帯にしたもので、中央の緑の星は消えている。その代わり、中央にはっきりと刻まれているのは、3つの鮮明な赤い星である。人々は、独裁政党・独裁大統領から「解放」され、自由なシリアを訴えている。(当日発表資料参考:スライド10~12)   2011年、「21世紀的」な革命のように見えた「アラブの春」の感動を覚えている私にとって、こうしたシリアの動きは、たとえ現在厳しい状況が続いていても、確実に「革命前夜」が訪れているかのようにも思えてくる。しかし、ホサムさんの言葉は、むしろ冷静だった。ホサムさんにとって困窮するシリアの情勢は、「人道危機」そのものであるからだ。   【人道危機と「100年後」のシリア】   現在、国民のライフラインはアサド政権自らの手で断絶されている。抗議運動が起こる地域は次々と孤立させられ、住民は周辺へ周辺へと国内・外を彷徨っている。アサド政権は「私か、破壊されたシリアか」を見せしめるかのように、町を破壊し続けており、病人はモスクや地下で手当てを受け、集団虐殺が続けられている。2013年1月だけで死者の数は5000人以上、これまでに8万人以上が亡くなったとされるが、政府軍の弾圧を恐れ、被害を登録していない数を合わせると、死者の数は2倍になる見込みだそうだ。冷凍倉庫には、もはや葬式すら出来ない状況のため、数千の死者が保管されている。     参考映像   国内には約200万人の人々が避難先を求め逃げまどっている。アサド政権の弾圧に抗するために立ちあがった人々は「自由シリア軍」と呼ばれているが、組織化された指導部をもつものではない。アサド政権を支援するシリア軍、民兵、治安部隊に加え、長年のアサド独裁政権と利害関係のある国々との外交関係が複雑に絡み、国連の支援も期待できない状況である。海外に逃げた人々は、トルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトに分散し「難民」となった。登録された海外への難民数は70万人に上る。国連によると、2013年末までにシリア難民は3倍に達する見込みで、人口の4分の1が難民になる危機にさらされているという。   「アラブの春の意味」「蜂起の特徴」「国際社会の介入」などについて様々な質問があったが、もっと心に残る質問は全ての講演が終わって、食事会に入った際、静かにホサムさんのそばに来て尋ねた渥美伊都子理事長の問いであった。   「ホサムさん、どうしても聞きたいことがあります。それであなたの家族はどうしていらっしゃるの?」 「弟はマレーシアに逃げるようにアドバイスして、まだ連絡が取れていた時期で、幸いマレーシアに。でも親戚の多くはまだ残されています。今日一緒に来たもう一人のシリア人の親戚はアサド政権の発砲で亡くなりました。別に蜂起に加担したわけではないです。町を無差別に攻撃しているからですね・・・。トルコ、レバノン、ヨルダン・・・逃げた人々は皆、難民収容所で毎日戦争の話を聞いています。今日は誰が死んだのか、何処が破壊されたのかなど。」   理事長と落ち着いて答えるホサムさんとの会話を隣で聞きながら、「アラブ」の春に感動した私が、シリアの現状や今出来る「人道支援」というものよりも、シリアの未来に「民主化されたシリア」を夢みたいという欲望が先立っていたことを認めざるを得なかった。私は、困難なシリアの今に「不安」を感じるよりも、「革命前夜」を想像することで冷静でいられるのではないか。冷静なのは、ホサムさんではなく、むし ろ、私/私たちではないか。それは、「冷静」というよりむしろ「無関心」という言葉が適しているかもしれない。しかしながら、「日本が出来ることはいっぱいありますよ」というホサムさんの高まった声に、どのように答えればよいのか、言葉が見つからなかった。   懇親会の議論の時に、「ホサムさん、今は困難でも100年後、こういう動きがあったことを誇らしく思う時期がくるかもしれません」と、「100年後のシリア」という話があった。「でも、その時にシリアは、昔、昔、シリアという国がありましたとなる可能性だってあるんですよ」。ホサムさんの声はやはり冷静であったが、ほとんど手を付けていない彼の皿に目が届くと、胸に迫るものがあった。   当日の発表資料(PPT)   当日の写真   ---------------------- <洪ユン伸(ホン・ユンシン) Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士修了後、同大学アジア太平 洋研究科「国際関係学」博士号取得(2012年4月)。学士から博士課程までの専攻 は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。 フェミニズム批評理論など。博士過程では「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄 戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに研究。現在青山学院大学非常 勤講師。編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』な ど。SGRA会員。 ----------------------   2013年4月12日配信
  • 2013.04.03

    エッセイ370:沼田貞明「アジアの戦後処理と歴史和解」

    筆者は、3月8-10日バンコクで開かれた第1回アジア未来会議において、アジアの戦後処理と歴史和解についてのワークショップの議長を務めた。   第二次世界大戦後日本が直面して来た「戦後処理」には、(1)法的処理(平和条約、戦争犯罪の処理、および補償)、(2)謝罪、(3)和解の3つの側面がある。また、日本政府対相手国政府、日本政府対相手国被害者(捕虜、強制連行者、慰安婦等)、日本企業対相手国被害者、日本国民対相手国国民と言った様々なレベルの問題が存在する。特に、小菅信子教授が「講和後あるいは平和の回復された後も旧敵国間にわだかまる感情的な摩擦や対立の解決」と定義する戦後和解は、人の心の内部に関わるだけに最も解決が困難である。   今回のワークショップで、李恩民桜美林大学教授は、鹿島建設(旧鹿島組)と中国人強制連行者との間の「花岡和解」を取り上げた。これは、企業側が法的責任は認めないが政治的道義的責任を認めて謝罪し、受難者全員へ補償金を支払う全体解決方式を取り、解決に当たり日本国内の市民活動が大きな役割を果たした等の点で、「日本型歴史和解」のモデルとなったと論じた。この裁判上の和解に至るまでの過程で、1989年から鹿島側が真剣に取り組んで中国人生存者との間で「自主交渉」を行い、1990年に「共同発表」まで漕ぎ着けたことは、その後10年の紆余曲折を経て裁判上の和解に至る布石として大きな意義を持った。   従軍「慰安婦」問題については、韓国などとの関係で、日本政府対相手国被害者、日本政府対相手国政府、日本国民対相手国国民の各レベルの問題が複雑に絡み合っている。岸俊光毎日新聞学芸部長は、村山内閣の下で被害者への償いを目指して1995年に発足し2007年まで事業を展開した「アジア女性基金」が、日本の国民と政府が責任を分かち合うとの対応を取ったことについて、政府補償を主張する人たちは「国の責任を免れるごまかし」と非難する一方、歴史の暗部を認めようとしない人たちは、「慰安婦」に対する国の関与を否定ないし過小評価するとの基本的対立があることを指摘した。さらに、日本ができることと、被害を受けた当事者が求めていることとの間に大きなギャップが存在する状況の下で、高齢となった被害者の救済と共に、韓国等の民族感情を傷つけた日本による植民地支配の問題にも向き合った解決策が必要なことを主張した。   太平洋戦争の末期、日本国内で唯一地上戦が行われ、県民の3分の1の人が亡くなり4人に1人が犠牲となったとされる沖縄には、多数の朝鮮人軍夫が連行され慰安婦も強制動員されていた。青山学院大学非常勤講師の洪ユン伸女史は、これら朝鮮人軍夫と慰安婦の体験を「調査」し、「記録」し、慰霊碑の建立等により犠牲を悼む「祈念」の営みが沖縄の住民の証言に基づいて行われた経緯を辿り、そこに、自らが「捨石」とされたと言う沖縄住民の「被害」の体験と朝鮮人の「被害」の体験が重なり合っていることを指摘した。このことは、すぐれて「心」の問題である戦後和解において、被害者に対する感情移入(empathy)が一つの重要な要素であることを示唆している。   1990年代後半に英国において自らボランティアとして英国人元捕虜との和解のために努力した小菅信子山梨学院大学教授は、戦時中の捕虜収容所における過酷な経験から日本との和解に至った元捕虜、民間人抑留者の心の軌跡と、それを記録し、史料化する歴史学者の役割について論じた。同教授は、個人の苦悩の体験や記憶に向き合おうとする時に、「日本国民」とか「英国国民」と言ったナショナリズムの緊縛から逃れることは困難であり、それを「同じ人間の内面にかかわるもの」、すなわち、人間ゆえの苦痛や苦悩の問題としてとらえるならば、ナショナリズムを多少なりとも拭い去ることができるだろうとしている。これは、小菅教授と同じ時期に在英大使館において日本国の代表として元捕虜などの「被害者」と向き合わざるを得なかった筆者として痛感していたことであった。日英和解に当たっては、日英両国の民間ボランティアが、国の裃を脱いだ心の触れ合いの触媒として重要な役割を果たした。   今回のワークショップは、日中韓等からの参加者が、未来を志向しつつ過去を見つめるとの問題意識を共有しつつ、それぞれの国の裃を脱いで率直に議論したことが特色であった。筆者としては、この問題が政府対政府にとどまらず、被害者の人たち、企業、民間ボランティア、市民団体等様々な当事者にかかわるものとして、色々なレベルでの地道な努力を通じる積み木細工のような対応を要することを改めて感じた。筆者自身は、1995年8月15日の村山総理大臣談話はこの積み木細工の重要な一部として 維持しつつ、未来に向かって何ができるかを考えていくべきであると思う。   ------------------------------ <沼田 貞昭(ぬまた さだあき) NUMATA Sadaaki> 東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。 1966年外務省入省。1994-1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998-2000年外務報道官。2000-2002年パキスタン大使。2005-2007年カナダ大使。2007-2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長 -------------------------------   2013年4月3日配信
  • 2013.03.27

    エッセイ369:董 炳月「『アジア』は身の周りに」

    北京からバンコクへ。渥美国際交流財団の主催するアジア未来会議に出席して、奇妙な感じがした。空間が変わっただけでなく、季節も変わった。北京空港で搭乗する時はまだ寒い早春であったが、バンコク空港を出たら熱い空気が頬を打った。早春から真夏に飛んだのだ。タイの首都「Bangkok」と言う地名は中国語で「曼谷」と書く。「曼谷」は「北京」と「東京」と同様に、まったく左右対称の漢字である。なんとなく、この三つの地名の間に奇妙な繋がりがあるように思われる。   3月10日、つまり会議の3 日目の午前中の総括的な懇談会の議題は「グローバル時代の日本研究の現状と課題」である。懇談会と言うが、円卓会議のかたちで行い、テーブルの周りにアジアの違う国家或いは地域から来た日本研究者13名が座っている。タイ、ベトナム、インド、台湾及び日本はそれぞれ1名、韓国は2名、中国大陸は5名、それから在日中国人学者が1名、である。このメンバー構成そのものが確実な「アジア」を現している。バンコクのセンタラグランドホテルのその会議室の中では、「アジア」は一種の「想像」ではなく、一種の「主張」でもなく、一つの事実である。   司会はソウル大学日本研究所の南基正副教授であり、問題提起は王敏教授である。王敏教授は在日中国人学者で、法政大学国際日本学研究所に属しているから、氏が日本研究の問題提起をすることは最も論理に適うことであろう。氏の発言は2011年3月11日の東日本大震災発生後のアジア諸国の民衆と日本被災者との連帯感に触れている。おそらく、このような自然災害から生まれた民間の連帯感は「アジア」の頑丈な基盤であり、そして「アジア」を乗り越えるものであろう。「民間」は紛争を引き起こしやすい「国家」や「民族」とは距離がある。王敏氏の問題提起の後、タイ、ベトナム、インド、韓国、台湾、中国の学者が、それぞれ自国・地域の日本研究の歴史と現状を紹介し、グローバル時代の日本研究について意見を述べた。明らかに、地理的、歴史的な理由で、中国大陸、台湾地区と韓国の日本研究は早くから始まり、そして広く行われている。何しろ、近代の東アジアにおいては、日本は最も早い時期から近代国家の建設を始め、そして成功した国である。近代「アジア思想」という言説の発祥の地であり、戦後の東南アジア経済のエンジンでもある。したがって、アジア諸国が日本を研究することによって自国の歩む道を模索し、民間の相互理解を深め、アジアの繁栄を促進することは重要なことである。   北京において、韓国およびインドの日本研究者と交流したことがあるので、これらの国からの学者の報告にはわりとなじみがある。ところが、タイやベトナムの学者と一緒に日本研究について交流するのは初めてなので、新鮮感もあり印象も特に深い。タイのワリントン女史もベトナムのグエン・ビック・ハー女史も上品な学者で、上手な日本語で発言するのだ。私にとってもっと面白いことは、タイ、ベトナム及びインドの日本研究においては、中国と日本とはときたま入り交じっている、ということである。   確かに、その円卓会議においては、「アジア」は一つの事実である。空間の共有、日本語の共用、課題の共有、そして似ている有色人種の顔によって、国籍さえも覆い隠された。まず「アジア」が存在しているから、「アジアの未来」に関する議論が初めて可能になるのだ。   円卓会議はそろそろ終わり、主催者の今西淳子女史が呼ばれて発言した。本来、司会の南基正教授は招待を受けてシンポジウムに参加したのだが、今西淳子女史を呼んでコメントをしてもらう時に、彼がホストになる。これは面白い「位置交換」である。「アジア」の成立にとっては、このような「位置交換」は重要なものだ。今西女史のスピーチは優しくて短かくて日常的なもので、内容の一つはランチの手配である。場所はホテル地下1階のベトナム料理店だと言い、「エレベーターはありません、すみません。降りる時には気をつけてください」と。日本的な細かい思いやりである。長らく東京で暮らしていた私にとってその細かい思いやりに懐かしい気がした。   私は長い間近代中日両国の歴史と文化を勉強してきた。北京には20年以上、東京にも8年ぐらい住んでいた。ところが、バンコクに身を置いて北京と東京を振りかえって見ると、「北京」も「東京」もそのイメージにいくらかの変化が起こっている。バンコクは私の「北京」を変え、私の「東京」をも変えたのである。もちろん私にとって喜ばしい変化である。この変化によってわりと客観的な「アジア」像を獲得したからである。グローバル時代の日本研究にとっては、研究者の「居る場所」が重要なのだ。「居る場所」の変化によって「他者」の眼差しが得られる。「他者」の眼差しは研究対象を相対化することができる。相対化は対象の価値を解消することではなく、逆に、研究の質を高め、普遍的な価値を獲得することができるのだ。   私にとっては、円卓会議が開かれたバンコクのその会議室は一つの「場所」として、もう一つの「日本」であり、現実の「アジア」でもあった。   ----------------------------------------------------- <董 炳月(とう・へいげつ) Dong Bingyue> 中日近代文化専攻。1987年北京大学大学院中国語中国文学学科修士号取得、中国現代文学館に勤め。1994年に日本留学、東京大学人文社会系研究科に在学。1998年に論文『新しき村から「大東亜戦争」へ―武者小路実篤と周作人との比較研究』で文学博士号取得。1999年から中国社会科学院に勤め、現在は同文学研究所研究員、同大学院文学学科教授。2006年度日本国際交流基金フェロー。著書は『「国民作家」の立場―近代日中文学関係研究』、『「同文」の近代転換―日本語借用語彙の中の思想と文学』など。 -----------------------------------------------------   2013年3月27日配信
  • 2013.03.20

    エッセイ368:マックス・マキト、ミカエル・トメルダン「マニラ・レポート2013年冬」

    English Version   参加者87名。協賛企業3社(フィリピン大学建築学部トメルダン教授と建築家のギレス氏のおかげで)。さらに2日後、フィリピン大学経営学部のラゼリス博士のラジオ番組に、セミナーの参加者数人が出演してセミナーの成果をアピールした。フィリピン大学で開催された第15回日比共有型成長セミナーは、世界各地のSGRAグループが(東京の支援を受けずに)単独で開催しても大成功できることを示したと思う。   既に15回目となる共有型成長セミナー・シリーズであるが、今回初めて、開会式においてフィリピンの国旗掲揚と国歌斉唱を行った。実をいうと、本セミナーの準備のための運営委員会において、委員のそれぞれが太平洋戦争における自分の家族の経験を分かち合った後、全員が日本の国旗掲揚と国歌斉唱を行っても良いという決断をした。しかし、日本側の意見を尊重して、今回のセミナーでは、日本の国旗掲揚と国歌斉唱は実施しなかった。フィリピンと日本はこの共有型セミナーの開催団体が帰属するふたつの国であるので、次回セミナーでは、日本の国旗掲揚と国歌斉唱も予定されている。運営委員たちの熱い希望は、第二次世界大戦の恐怖を忘れることはないが、そこから一歩踏み出して、真の深い比日関係を築き上げていくことである。   第15回セミナーは、セミナー・シリーズの2本の柱となるテーマ「製造業とKKK」(第15回セミナーのテーマ)と「都会と農村の格差とKKK」(第14回セミナーのテーマ)を具体的に繋げる点において有意義であった。KKKとは効率・公平・環境という意味である。最初の繋がりは、午前中にモラカさんとウイさんが発表した「持続可能農業における輸入代替」である。これについて、メディナ博士とマキトは、2名の発表者と協力しながら、「Downstream Integrated Radicular Import-Substitution(DIRI;川下で統合された幼根的輸入代替)」モデルとして研究を開始している。   2番目の繋がりは、フィリピン大学建築学部が企画した午後のセッションで、社会企業家のビジネスチャンスと住宅の提供における竹の役割に焦点を当てたものである。2年前のセミナーで、フィリピンの建築における竹材の可能性について話し合ったことがあったが、当時は、このテーマの展開は困難であった。しかし、今回のセミナーで、竹材に関する知識や関心が幅広いことがわかり注目している。建築家のタン氏は竹に関するモノづくりがフィリピン職人の2600年の遺伝子であると指摘した。サルゼル氏は、この危機に迫られている伝統技術が科学的方法によりいかに保護され、改良できるかを話した。テソロ博士は竹の生物学などを紹介して、供給不足の推定を述べた。建築家のレガラ氏は、公営住宅の供給不足、非伝統的な市民住宅の建材(竹を含む)の規格を制定しなければならないと話した。オソリオ氏はベトナムの大型竹材工場の例を紹介したが、フィリピンの場合は「裏庭方式」を提案した。建築家のシ氏は、最も人気がある建材であるコンクリートについて、環境に優しい日本的な方法を紹介した。   3番目の繋がりは、「都会と農村の格差とKKK」というテーマで開催された第13~14回共有型成長セミナーで私が発表した「Giant Leap And Small Step(GLASS 飛躍小歩)効果」の再確認である。当初は、このGLASS効果はフィリピン国内の労働移動においての発見だったが、今回のセミナーで、GLASS効果がフィリピンの海外労働移動にも見られることが確認できたし、この効果の抑止により、フィリピン出稼ぎ者の送金が拡大することも判明した。フィリピン政府の海外フィリピン人委員会のベニレス氏とカルボ氏からのコメントをいただいた。   その他の発表は労働課題と深く関係するものばかりであった。セミナーの共同主催者がフィリピン大学の労働・産業関係学院であるから当然である。サレ学院長は基調講演で、IT産業はあまり雇用の効果がないという興味深い仮説を提示した。テオドシオ先生は労使関係における、相互信頼の低さを嘆き悲しんだ。ラセリズ博士はフィリピン企業の倫理を研究すべきだと強調した。平川先生と河合博士によるベトナム製造業の調査研究と、平川先生とマキトによるフィリピン製造業の調査研究についての発表もあった。ベトナムの研究は、ベトナムがいかに「中所得経済の罠(middle income trap)」を回避できるかを述べたが、フィリピンの研究はフィリピンがいかにそこから脱出できるかを論じた。   パラレルセッションがなかったので、参加者は、真の多分野の学際的で国際的なセミナーを享受できた。確かに、SGRA日比共有型成長セミナーにおいて、或いはフィリピン自体において、KKKが達成できるかどうかというのは、専門分野、社会構造(企業・政府・市民社会)、国家あるいはその中間にある、用心深く保護されている壁を破れるかどうかにかかっている。   第16回セミナーは、既に今年の8月開催の方向で検討されている。この話がより真剣に話されるのは、3月8~10日にバンコクで開催される第一回アジア未来会議(AFC)の後になる。第14回セミナーの発表者が、15人のフィリピン代表団として参加した。第16回目セミナーの運営委員会に参加ご希望の方は、SGRAフィリピン事務局( [email protected] )にご連絡ください。   最後に、この場をお借りして、第15回セミナーの司会者のラゼリス博士、トメルダン氏、デアシス氏に対して特別に感謝の意を述べたい。今回、第1回アジア未来会議の準備で忙しいSGRAの今西淳子代表が欠席だったのは残念であった。   また、日比共有型成長セミナーと関連することを以下に報告したい。   第15回日比共有型セミナーに参加したメディナ博士とベルガラ神父は、2013年3月2日に東京大学(駒場キャンパス)で開催された国際シンポジウムで、「共同体資源に基づく環境に優しい農業:持続可能な発展と多様性のための戦略」というテーマで発表した。マキトはDIRIモデルを日本で紹介した。このシンポジウムにSGRAが参加できたのは、フィリピンの都会の貧困と持続可能な農業を研究されている東京大学の中西徹教授のおかげです。詳細はここをご覧ください。   第14回日比共有型成長セミナーでも発表された以下の2本の論文は、光栄にも、第1回アジア未来会議で優秀論文として選ばれた。   ・"Community-Life School Model for Sustainable Agriculture Based Rural Development (農村開発中心の持続可能農業のためのコミュニティ生涯学習モデル)" by Rowena Baconguis and Jose Medina.   ・"The Migration Link Between Urban and Rural Poor Communities: Looking at Giant Leaps and Small Steps(都会・農村コミュニティ間の移民リンク:飛躍と小歩の模索)" by Ferdinand Maquito   同時に、第14回日比共有型セミナーでも発表された次の論文が、第1回アジア未来会議で優秀発表賞として選ばれた。   ・"Barangay Integrated Development Action in Kapangan Towards WASH (水衛生へ向けてカパンガンにおけるフィリピン社会の基本単位であるバランガイの統一開発)" Jane Toribio, Delfin Canuto, Roberto Kalaw   第15回日比共有型セミナーで発表された以下の論文は、ベトナムのアジア太平洋経済センター20周年と日越関係40周年記念の一行事としてハノイで開催された「労働移動と東アジアにおける社会経済発展」シンポジウムで発表された。   ・"Patterns in Overseas Filipino Worker Flows: In Search for the Giant Leap And Small Step (GLASS) Effect (海外フィリピン労働流出におけるパターン:GLASS効果の探求)" by Ferdinand C. Maquito   このシンポジウムにSGRAが参加できたのは、フィリピンの専門家として私を招いてくださった早稲田大学のトラン・ヴァン・トウ教授のおかげです。ハノイのシンポジウムでは、フィリピンの出稼ぎ者をできるだけ帰らせて国内経済に役に立てるようにすべきだという私の提言に、トラン教授も同感であることを表明してくださいました。   第15回日比共有型成長セミナー関係の資料   第15回日比共有型成長セミナーの写真集は下記のリンクからご覧いただけます。 写真集1 写真集2 Facebook写真   アジア未来会議については、下記リンクをご覧ください。 第1回アジア未来会議報告     「マニラ・レポート2013年夏(第16 回日比共有型成長セミナー」はこちらからご覧いただけます。   -------------------------- <Max Maquito マックス・マキト> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------     2013年3月20日配信
  • 2013.03.06

    エッセイ367:林 泉忠「危機続く尖閣 日中の妥協点は?」

    (原文は中国語。『中国時報』(2013年2月14日付)、および中国のブログ「鳳凰網(ifeng.com)」に掲載。)   先月日本の与党である公明党の党首山口那津男氏の北京訪問が成功裏に収まり、中国の国家主席習近平氏が「快く」安倍総理大臣の親書を受け取ったことで、どん底に陥った中日関係は新たな転機を迎えたようであるが、中日関係の改善が模索される中、釣魚島(日本名「尖閣諸島」――訳者注)をめぐる情勢はまた危機一髪の厳しい状態へと一変している。   中国海軍軍艦による火器管制レーダー照射という日本の指摘に引き続き、中国海監船と軍機が再び釣魚島付近の海域内に進入すると同時に、中国福建省・浙江省一帯には戦車とミサイル部隊の動向も噂されている。この敏感な時期において、日本は米国と密接な関係を保っている。カリフォルニア州で米軍との大規模な離島奪還を想定した共同軍事訓練のほか、オバマ米大統領が訪米する予定の安倍総理大臣にどんな約束をするのかも注目の的となっている。   正直言えば、最近の中日両国間に見られる新たな争いは各段階において戦略的意図に基づくものだと思われる。安倍総理大臣の訪米を控え、双方とも勢いを付けて互いに迫ろうとする考えがあり、次の段階における両国の釣魚島問題をめぐる協議で自国により多い主導権を獲得しようとする狙いもある。日本が火器管制レーダー照射事件を公開するのは、中国からの「脅威」の更なるエスカレートを示して東シナ海問題の対応に関する米国による積極的支援を求めるためにほかならない。それに対し、中国が積極的姿勢を見せるのは、釣魚島の「協防」において軍事的協力を行う日米をけん制するためである。   現在、釣魚島をめぐる衝突はワシントンだけではそう簡単にコントロールできないレベルまで発展している。オバマ大統領が安倍総理大臣に更なる挑発的行為をやめさせることができても、日増しに深刻化する釣魚島危機を解決するには及ばないであろう。今までの五ヶ月間で中国が過去のような不利な地位から脱出し、釣魚島海域の「常態化」を実現したのは既成事実である。言い換えれば、いかにして艦船と航空機を釣魚島より12海里の域内から離脱させるように中国側を説得するかが釣魚島危機解決のカギとして、中日協議の焦点となっていくであろう。   問題は、現在日本が何を条件に中国側の譲歩と交換できるのかである。   北京は目下日本に「誤り是正」を断固要求し、「国有化」は、現状の変更と、中日両国の先輩指導者が合意に達した「紛争を棚上げする」との共通認識の破壊につながっていることを示しているが、安倍内閣に服従を迫るこの要求は極めて難しいものである。   いわゆる「尖閣諸島」の「国有化」はすでに去年の「9・11」に関連手続きを済ませたので、日本政府にとって、以前の状態に戻るのは技術的に実現不可能なだけではなく、面子にもかかわるのである。東京の実態把握から言えば、「国有化」は現状維持がもっとも有利である。   一方、「国有化撤回」を条件に、中国の艦船と航空機が12海里の域内に進入しない約束がとれれば、日本にとってもう一つの迂回路になるだろう。例えば、「尖閣諸島」の「国有」を「県有」に、すなわちその「所有権」を沖縄県(琉球)に移転させるか、「民有化」を再度取り入れることも考えられる。もちろん栗原家に戻すのではなく、ある「民間機構」に引き受けてもらうことである。   しかし、日本は交渉が始まるやすぐ中国側の「誤り是正」との主張に文句なく従うのではなく、「国有化」問題を避けて討議を行うことを希望するであろう。   北京訪問直前、山口那津男氏は中日ともに航空機も釣魚島の空域に進入しない意見を提出した。それに対して北京は一切返事をよこしていない。安倍総理大臣は「戦闘機を尖閣に飛ばすかどうかは 日本が自分で決める事」としている。しかし、釣魚島危機解決の視点から言えば、「両国とも自粛」との説は現段階で両国が比較的容易に到達できる妥協点と言えなくもない。   ただし、この具体的な意見はどちらがどんな方式で交渉に持ち出しても、また、最終的にお互いに納得がいく妥協点になったとしても、「領有権の問題はそもそも存在しない」との立場に拘れば、文書をもって正式的な共通認識に達するのは難しく、結局もう一つの「暗黙の了解」で終わる可能性が高い。   書面的証拠がないかぎり、どんな「暗黙の了解」も脆弱だということは言うまでもない。しかし、歴史を振り返ると、東洋諸国の外交上、互いに認められた効果的な「暗黙の了解」は数多くあることが分かる。釣魚島問題をめぐって周恩来氏と田中角栄氏が昔達成した「棚上げ」という暗黙の了解、そして日本が40年間守ってきた筆者の言う「三不原則」(軍力を置かない、島の資源を開発しない、海底資源を開発しない)もこんな暗黙の了解に基づいたものと言えよう。   中日間の「暗黙の了解」が空域に適用できれば、海域での適用に向かっての双方の努力も期待できるであろう。   現在の危機解決に向けて、中日間での新たな暗黙の了解の達成は無論多大な困難に直面するが、両国の相互信頼の再構築こそ当面の急務である。以前、鄧小平氏は釣魚島問題の解決方法は「もっと知恵がある次の世代」に見出してもらおうと指摘しているが、その解決方法をいかに見出すか、中日両国の新世代の指導者の知恵が試される時期である。   ------------------------------ <林 泉忠(リム・チュアンティオン)  John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員。 ----------------------------------     2013年3月6日配信
  • 2013.02.20

    エッセイ366:金キョンテ「韓国の新しい大統領」

    韓国の新しい大統領、朴 槿恵(パク・クネ)の就任式が2月25日、韓国国会議事堂の前で行われる。朴氏は2012年12月19日に行われた大統領選挙で、52%の得票で、48%を得た民主統合党の 文 在寅(ムン・ジェイン)候補に勝利した。   全国の総投票率は75.8%。近年韓国で行われた選挙の中でもっとも高い投票率を記録した(参考として、2012年4月11日の国会議員選挙の投票率は54.2%だった)。それほど、多くの人々がこの選挙に積極的に参加し、両候補が得た投票率を見ても分かるように激戦だった。選挙以前から予測された通り、この選挙は保守と進歩(右派-左派の概念とは違う)、既成世代と若い世代という「陣営」間の対立が先鋭に表れる場となった。選挙結果に関しては、すでに多くの分析が行われ、その中には反省と自責、内部分裂などが混じっていた。   進歩陣営と(多くの)若い世代は、予想しえなかった選挙結果に大いに失望した。勝利は当たり前だと思っていたので、彼らが受けたショックは以前の「敗北」より大きかっただろう。開票速報を見ながら泣き出したとか、選挙以来テレビニュースを見なかったと言っている人もいる。既成世代に対する怒りを隠さない人達もいる。彼らがショックから立ち直って、彼らが望んでいる社会のために立ち上がるまでにはもう少し時間が必要だろう。   しかし、選挙はもう去年の事。もうすぐ就任式を迎える。現実否定はやめ、これからは新しい大統領について考えてみる時である。   朴氏は韓国初の女性大統領だ。最近、世界各国では女性最高指導者の選出が増えているが、全体的にはまだ男性の方が圧倒的に多い。女性大統領はアメリカにもなかったし、歴代の日本総理の中にもない。中国の最高指導者の中にもなかったし、もちろん、北朝鮮にもなかった。歴史の中の女王の話はさて置いて、女性に参政権が与えられたことも実は昔々の話ではない。ニュージーランドで1893年、最初に参政権が女性に与えられ、アメリカでは1920年、イギリスでは1928年、日本は1945年、そして韓国は1948年に与えられた。韓国はとにかくダイナミックで早い。   一方では、朴氏は女性を代表する人ではないと言っている。彼女は典型的な保守男性、経済的な既得権層を代表しているということだ。一理はある。ところで、進歩的で、経済民主化を追求する女性は果たしてすべての女性を代表するのか。典型的な男性はどういう人で、典型的な女性は誰なのか。そう考えれば、女性-男性といった「性」自体に注目することはもう古い発想かも知れない。一人の人間として、韓国を代表する大統領に適するのかを検証したらいいのではないか。 朴氏をかばうつもりはない。 朴氏は女性という要素を前に出して選挙戦に挑み、実際に、ただその理由だけで多くの女性票を集めた。もうそのような戦略はやめよう。多分、二度と女性という理由だけで得票する状況はないと思う。 朴氏には、男性と女性、そしてどちらにも属しないかも知れない第3の性、年寄りと若者、社会的な強者と弱者が皆で幸せになる社会を作って欲しいと、要求しなければならない。   すでによく知られているように、朴氏は朴 正煕(パク・チョンヒ)元大統領の娘である。進歩陣営、歴史学界などで、朴氏を極端に反対する理由のひとつである。満州軍官学校と日本陸軍士学校を経て、関東軍として服務し(「親日」、親日という単語自体に否定的な意味はないが、韓国では日本帝国植民地の歴史がいつもその用語を規定するため、肯定的な意味を持てない。代替用語として、「知日」が使われる)、経済発展を名目に、独裁政権を維持しながら、民主化を要求する人達を弾圧した(「反民主」) 朴正煕を、進歩陣営・歴史学界が支持できるはずがない。反対側の先端では、朴正煕を経済発展と反共産主義の先導者として神格化している(嘘ではない。彼の出生地は聖域化されたと言っても過言ではない)。   しかし、朴氏は朴正煕ではない。娘と父親を同じ人だと錯覚、または罵倒してはいけない。独裁政権の延長でもない。朴正煕は1979年に死亡し、朴氏は2013年に大統領になる。韓国はその長い期間に、着実に民主主義の道を歩いて来た。韓国の現在の民主主義は独裁政権の復活を認容するほど甘くはないだろう。怖がる必要はない。   朴氏は父親の否定的な面をそのまま認め、彼がおかした間違いを反省し、二度と繰り返さないようにすべきである。そのような努力を通じて、朴氏を支持しなかった、認められなかった 48%をどれほど説得し、包容するのかが要であろう。    現在進行中の国務総理、憲法裁判所長の選任過程は、人事聴聞会における与論と野党側の反対で(勿論、候補者個人の道徳性問題を含め)難しくなっている。ここでも分かるように、48%の反感はまだ強い。2月7日現在の 朴氏の支持率は52%。自分が選挙で得た投票率と変わっていない。彼女を支持しなかった勢力を包容できなければ、5年間の政局運営は困難になるだろう。   しかし、一方で、父親を否定し、反対側を説得する作業が支持者の離脱を招く可能性もある。包容と離脱防止。朴氏はこのジレンマをどう克服するのだろうか。候補者の時は聞きよい話ばかり言ってもよかったが、大統領になると話が違う。そして、時代はもう父親のような方法では動かすことはできない。   これから5年後、2018年には私も40歳に近くになる。この時、朴 槿恵 大統領は果たして成功した大統領になっているのだろうか。一方で、果たしてその時の私の投票性向はどうだろうか、どのような大統領を欲しがっているだろうか、またこのようなエッセイを書けるだろうか。まだまだ分からない未来の話だが、国民の手で大統領を選ぶという原則だけは変わらないでしょう。   -------------------------------------- <キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------     2013年2月20日配信
  • 2013.02.06

    エッセイ365:包 聯群「大学の町マサチューセッツ州アマースト」

    昨年の夏休みにアメリカのアマースト市(町)にあるマサチューセッツ大学を短期訪問する機会がありました。アマーストという町はニューヨークまでおよそ175マイル(1マイルは1609メートル)、ボストンまで90マイルのところに位置しています。2010年の国勢調査によると、人口が4万人に満たない「小さな」町です。広さは、27.8平方マイル(72.0km2、そのうち、土地は71.7km2、残りは水域)です。以下、アマーストを訪れて、自分で感じたこと、そして体験したことなどをいくつかの内容にわけて述べてみます。   1.大学   この町は「大学の町」として有名です。アマーストカレッジ、ハンプシャー カレッジ、マサチューセッツ大学(アマーストに3つのカレッジ)があります。周辺町のカレッジも含むと、5つのカレッジとなり、お互いによく連携しているそうです。毎年、この5つのカレッジは外国人研究者を歓迎するパーティーを共催しています。マサチューセッツ大学には2万8千人近くの学生がいて、そのうち、中国から来た留学生が最も多く、昨年度だけでも200人以上にのぼるそうです。アマーストカレッジの学生数は2千人程度ですが、大学の教育の良さは全米でも有名で、トップ5位以内に位置している私立大学であると言われています。この大学では少人数による教育を実施しており、学費も他の大学の2倍以上かかる、所謂「貴族」大学です。   大学が休みの間は、この町は非常に静かになりますが、大学が一旦始まると、若い人であふれるにぎやかな町になります。レストランもそれに従って収入の増減があるそうです。町には中華料理店や日本の「すし」屋もあります。両方とも評判がよいそうです。   2.「オープン」式の図書館   マサチューセッツ大学の図書館は入館証なしで誰でも入館することができます。さらにコンピューターの一部を市民にも開放し、自由に使うことができます。新学期が始まる(9月初めごろ)と、金曜日を除いて、大学の図書館は24時間開いています。図書館は高層ビル(周辺には他の高層ビルがない)で、23階に上がると、周辺の風景を一望できる(四方は透明なガラス)ため、風景を見るために人々が大勢訪れています。特に秋になると紅葉が綺麗です。一階のエレベータの入り口のそばやエレベータの中には、「23階に行けば景色がよく見えますよ」という写真付きの紙が貼られています。図書館は26階までありますが、23階以上は事務室になります。この図書館の高さは全米の大学図書館の中でもナンバーワンだそうです。   図書館には、院生たちの個室が多く設けられており、申請すれば、個室として一年間かそれ以上使うことができます。そして、一階には、食べ物や飲み物を売っている店があり、そこで休憩を取ったり、飲食したりすることができます。地下一階は学生の自習室で、そこで、プリンタ、コピー、スキャナーなどを使うことができます。留学生のための「ライテングセンター」も設けられています。留学生は週2回程度ネットを通じて予約することができ、そこで論文を直してもらえます。言うまでもなく、スタッフのスケジュールが空いていれば、当日の受け付けも可能です。   大学の身分証明書があれば、図書館の本を機械にタッチするだけで借りることができます。そして、入口にあるインフォメーションの窓口の机の上には、大学の図書館の名前を印字した鉛筆やボールペンなどが多数置かれており、必要な人は自由に取って使い「記念品」とすることもできます。   3.町のサービス   3.1.無料バス・学生運転手   市内を回るいくつかの路線バスには、誰でも無料で乗れます。主に学生を対象としていますが、市民も利用できます。43路線ぐらいのバスは料金がかかりますが、(夏、冬)休み時間以外には、学生証があれば、ただで乗れます。面白いことに、バスの前のところに自転車の置き場があって、そこに3台の自転車を同時に乗せることができます。さらに運転手(料金がかかる路線以外)はみんな学生です。これも学生にアルバイトを提供する学校側の配慮(交通会社との連携)と言われています。バスの中も「にぎやか」です。電話をかけたり、大声で話をしたりしています。最初はとてもびっくりしましたが、そのうちに「慣れて」きました。中国語の「入郷随俗」(郷に入っては郷に従え)という言葉を思いだしますね。   学校が始まると、バスが15分おきに朝早くから夜遅くまで運転しています。もちろん夜になると、本数が減ってきます。土日も同様に本数が減ります。休み期間には別の運転スケジュールが設けられています。特別な休日とかで運転しない時もあります。   3.2.WiFi   この町では、「無料」で自由にインタ―ネットに繋げることができ、外出している人にはとても便利です。もし、町に近いところに住めば、家にネットがなくてもよいので、家計も節約できます。これについてはニュースでも報じられており、アメリカの多くの都市で無料使用の試みを始めていると言われています。   3.3.休日の「ファーマーズ・マーケット」   休日や毎週水曜日になると、農民たちが自分で生産した無農薬農産品(野菜や果物、パン・ケーキ、その他)を「市場」に持ってきて販売し、町はとても賑やかになります。無農薬の野菜はふつうの売店のものよりは少し高めですが、それでも多くの人が集まって購入しています。その種類も多いです。   こちらの町は「田舎」であるためか、人々はゆったりとした生活を送っています。実際に体験してみて、日本とは異なる面がたくさんあるんだなあと感じました。   アマーストの写真   ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。現在東京外国語大学AA研研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。危機に瀕している言語、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。 ------------------------------------     2013年2月6日配信