SGRAエッセイ

  • 2013.01.30

    エッセイ364:葉 文昌「島根で干柿500個作りに挑戦」

    日本の島根に着任して初めて迎えた春、スーパーで地元産の干柿を買って食べた。もともと干柿は好きだったし、学生の頃もよく安い中国製の干柿を食べていた。この島根の干柿は1個300円と高かったが、それに感動したのが始まりだった。   それから一年たって秋が近づいて柿が出回り始めた頃、地元出身の学生に地元の人達が干柿を買う場所があるか聞いてみた。すると家では自分で作っていると言うのだ。それなら私にも作れるかもしれない、と言うことでネットで調査してみたら作り方がたくさん出てきた。 島根の干柿は西条柿という種類で、Mサイズ一袋約70個で2000円で売られている。一個30円の生柿が300円の干柿になるのだからすごい付加価値である。皮を剥き、紐で吊るし、熱湯に10秒浸けるか焼酎に浸けるかして殺菌してから外に吊るす。殺菌は両方とも試したができ具合に差はない。ベランダに干せば2週間程で渋が抜けて食べられるようになる。この時点では中が水っぽく、あんぽ柿のような状態である。ただしこの状態では保存が効かないので、市販のあんぽ柿は硫化物にくぐらせて保存できるようにしてある。しかし市販のものは1個200円でも、旨みや香りは自作のものには程遠い。   自作のは太陽光をたっぷり吸収して、転換された旨みが広がるので格別であった。市販品のはおそらく十分には天日に晒されていないのであろう。 山陰の11月は殆どが薄曇りで、その合間に陽が射し、にわか雨もよく降る。陽射しが強すぎては温度が上がってショウジョウバエが湧く。かといって日射しがなければ紫外線による旨みは出てこない。そして雨に濡れてしまえば雨が取り込んだカビの胞子で干し柿はカビる。だから干し柿に適した期間は短く、その上に不安定な気候状態の中で、条件が三拍子そろった時にだけ出来の良いものができると言える。去年はあんぽ柿の出来に満足していたら、その後雨にぬれて柿はカビた上にショウジョウバエが発生して失敗してしまった。即座に再チャレンジしてからは毎日欠かさず天気予報をチェックして、降水確率が高ければ部屋にしまい込んだ。部屋のふすまは全開して風を貫通させて乾燥を促す。その甲斐あってその回は綺麗な干柿ができた。   そして更に3度目。すでに12月に入っていた。この時期はほぼ毎日曇りで降水確率が50%を超えていたので、室内で影干しにした。失敗はしなかったものの柿は黒ずんでしまい、風味も乏しかった。去年はそれでおしまいとなった。 それからまた一年、私は2011年の経験を踏まえて更に多くの干柿を作ることにし、目標を500個とした。500個作るからには雨が降りそうだからと部屋に取り込むことはできない。そこでベランダに透明塩化ビ二ルシートを張ることにした。風を通すためにシートを適度な大きさに切って、風が吹けば開くようにした。これならば手間をかけずにほっとけば干柿ができる。   しかしここで一つの疑問が出てきた。地元では人によっては陰干しにすべきと言うのだ。そうだとしたら去年の私は間違って作っていたことになる。天日干しで十分に美味しいのができたので、そんな筈はないと思いつつも不安になってきた。そこでネットで調べたところ、天日干しと陰干しの両方の意見があった。しかし陰干しには十分な根拠が示されておらず、一方で天日干しについて、野菜は天日干しにすると紫外線で旨味成分が発生するのでおいしくなることがわかった。何事も他人の経験には頼らず自分でしっかり調べることが重要なのだ。   そこで今年もやはり天日干しとした。また窓と北側の部屋と南側の部屋を隔てる襖は昼間も夜も全開にして北から南へと風が貫通するようにした。 しかし12月になるとさすがに夜風が冷たく、布団は暖かくても顔が冷えれば目が覚めたので、夜だけは窓を閉めた。 長崎出張の折には八百屋で見かけた渋柿を20個持ち帰って干柿をつくってみた。しかし甘さがいまいちな上に肉がボソボソだった。それと比較して西条柿は甘い上に肉はもちもちしている。だから西条柿は干柿にとても適した柿である。この他にも富有柿の干柿も作製中で、どうできるかが楽しみである。   柿の皮剥き時間は一個当たり50秒、紐通しと消毒が8個当たり10分であるから、一個当たりの必要時間は2分ほどである。500個作るとなると1000分、即ち16時間かかる。私は2週間かけて200個を作り、その後友人2名の協力を経て更に200個を作った。そして更に50個追加したので合計450個は作った。目標まであと少しを残したものの、まずまずの成果と満足している。450個の干柿は協力者や友人に配る等して半分はなくなった。残りは毎日3個食べると日に日に減って行く。来年は1000個を目標にしてみたい。そして柿の木オーナーになる計画も立てている。   干し柿の写真   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------   2013年1月30日配信
  • 2013.01.17

    エッセイ363:韓玲姫「福島原発事故の予言と警鐘」

    12月8日、私は「原子力をめぐる文化表象」というシンポジウムに参加した。今回のシンポジウムは、長年にわたって原発や放射能をテーマに研究を続けてきた日本大学の宗形賢二教授、松岡直美教授、植竹大輔准教授、安元隆子教授による講演であった。   そもそも、原子力は私にとってはるか遠い存在であった。いや、それよりも無関心であったとの言い方がもっと適切かもしれない。中学校の歴史授業で習った1945年8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆は遠い昔のことであり、今の平和な世界ではあり得ないことだと思い込んでいた。   しかし、このような原子力に対する認識が覆されたのは、まさに3.11東日本大震災であった。その日、私はたまたま自宅で後輩たちと談笑中に大地震に襲われた。窓や家具がガタガタ音を立て、テレビ、冷蔵庫がだるまのように大きく前後に揺れた。書棚から何冊か本が落ちたのか、トーン、トトーンという音がした。日本に住んで長年経っているが、このような大地震に遭うのは初めてだった。しばらくして大きな揺れが落ち着き、「早く外に出よう!」と話しかけてきた後輩の一言で、慌てて外へ逃げ出した。家の前の広場にはすでに住民たちが集まり、ざわざわしていた。必死に電話をかける人、ラジオを聴いている人……みんなの顔には不安が漂っていた。その中に交って私たちもそれぞれ携帯を手に取るが、まったく電話がつながらなかった。不安が募るばかりだった。しかし、ぼーっとしている場合ではなかった。早速、私は車で片道30分のところにある、当時1歳の娘が通っている保育園に向かった。住民たちの緊張とはうらはらに、道路はいつもと変わらず、平然と車が流れていた。ただ、車窓から眺める空はなんとなく不気味な感じがした。   娘と息子を無事引き取り、家に着いてやっと安堵してテレビを付けた瞬間、わたしは唖然とした。大地震による想像を絶する津波の到来とともに一瞬にして消え去ってゆく村全体、全滅してしまった家屋、田んぼ……その信じられない光景に私は言葉を失った。家屋や車を丸ごとに呑みこんでゆく大津波は、まるでそれまでの鬱憤を晴らす悪魔のようだった。これは現実ではない、悪夢だ、いや、ハリウッド映画のワンシーンだ、と私は心の中でつぶやいた。が、確実にこれは夢でもなく、映画でもなく、現実であった。全身が震えた。心臓がバクバクした。涙が止まらなかった。大津波の残酷さはとうてい言葉では表せない悲惨そのものだった。   大津波で一晩中悲しみと恐怖に包まれた震災の翌日、世界に衝撃を走らせる出来事が起きた。福島第一原発の1号機と3号機で炉心熔解が発生し、水素爆発が起きたという。原子炉建屋が吹き飛ばされ、大量の放射性物質が漏洩した。「ふくしま」は、ただちに全世界にその名を知らされた。「広島原爆」、「長崎原爆」はもう歴史のできごとではなかった。舞台は変ったが、形は違うが、まったく同じ被害となり、歴史が再演されたのである。広島、長崎の被爆者とその子孫達が今まで背負ってきた精神的、肉体的苦痛を、66年経った今、同じく日本という国の福島の被爆者達が一生背負って生きていかなければならなくなるということは、いかにも皮肉なことである。   福島第一原発から半径20km圏内は今も尚立入禁止区域とされている。また、福島災害対策本部「平成23年度東北地方太平洋沖地震による被害状況速報(第736報)」によると、避難生活を余儀なくされている自主避難者は2012年10月1日時点で11,919名であり、県外への避難者は60,047名だという。事故当時の放射性物質の飛散により内部被爆、外部被爆をされた避難者数を合わせると、いかに被害が大きかったかが想像できる。福島原発事故の影響を受け、マスコミでは原子力発電所の増設計画や原子力発電所の再稼働などに対する議論を大きく取り上げた。   問題が起きてから慌てて行動する。これはいつものパターンだ。とは言え、なぜ地震国である日本が、過去にも大地震、大津波の歴史的教訓があったにもかかわらず、今回の原発事故を事前に防ぐことができなかったのか。この疑問が何度も脳裏をよぎった。これは私だけでなく、日本人を始め、世界の多くの人々の素直な疑問であるかもしれない。大震災から一年半あまり抱いていた疑問を、私は今回のシンポジウム、特に国際関係学部の安元隆子教授の「チェルノブィリ原発事故はいかに描かれたか」という講演を通して、やっと悟ることができた。   安元教授は、チェルノブィリ原発事故がいかに文学者や映画の中で描かれているかについて考察し、その中で、チェルノブィリを通して「福島」を予言した日本の詩人・若松丈太郎の視線について検討した。安元教授が提供した資料の中に次のような文章がある。   チェルノブィリ周辺住民が強いられている事態と同様の事態が私たちの生活域で起きうることであることと、そしてそれによって私たちの生活がどう変わらざるをえないかということとを想像することは、私たちが想像できる範囲を超えているだろうという趣旨のことを、先に私は書いた。(略)しかし、最悪の事態とは次のようなものも言うのではなかろうか。それは、父祖たちが何代にもわたって暮らしつづけ、自分もまた生れてこのかたなじんできた風土、習俗、共同体、家、所有する土地、所有するあらゆるものを、村ぐるみ、町ぐるみで置き去りにすることを強制され、そのために失職し、たとえば、10年間、あるいは20年間、あるいは特定できないそれ以上の長期間にわたって、自分のものでありながらそこで生活することはもとより、立ち入ることさえ許されず、強制移住させられた他郷で、収入のみちがないまま不如意をかこち、場合によっては一家離散のうきめを味わうはめになる。たぶん、その間に、ふとどきな者たちが警備の隙をついて空き家に侵入し家財を略奪しつくすであろう。このような事態が10万人、あるいは20万人の身にふりかかってその生活が破壊される。このことを私は最悪の事態と考えたいのである。 (1994年9月10日、『福島原発難民』所収)   この文章を読んで私は目を疑った。これは福島原発事故後に書いたものなのか。いや、そうではなかった。確実に事故発生より17年も前に書いたものであった。一瞬ぞっとした。彼が描いた光景は現実と怖いほどマッチしているのである。さらに、若松氏が書いた詩の中に次のような内容がある。   原子力発電所中心半径30kmゾーンは危険地帯とされ 11日目の5月6日から3日のあいだに9万2千人が あわせて約15万人 人びとは100kmや150km先の農村にちりぢりに消えた 半径30kmゾーンといえば 東京電力福島原子力発電所を中心に据えると 双葉町 大熊町 冨岡町 楢葉町 浪江町 広野町 川内村 都路村 葛尾村 小高町 いわき市北部 そして私の住む原町市がふくまれる こちらもあわせて約15万人 私たちが消えるべき先はどこか 私たちはどこに姿を消せばいいのか (1994年 『神隠しされた街』より)   これも福島原発事故の17年前に書いた詩であるが、チェルノブィリから福島を想像して描いた光景には、福島原発後の苛酷な現実がありありと映されているのである。   広島、長崎の原爆、チェルノブィリ原発事故の影響を受け、多くの被爆者、文学者、そして民間団体が原爆の恐ろしさ、残酷さを伝えてきたにもかかわらず、なぜ同じことが繰り返されるのであろう。私はやっと答えを見つけた。それは原爆に対する認識不足ではない。想定外の自然災害、人為的ミスでもない。それは若松氏が指摘したように、最悪事態に対する想像力の欠如であった。  若松氏の予言は福島に対する警告であった。しかし、その声は東電や日本政府には届かなかった。そこまで的中したのになぜ?と問い質したい気持ちがいっぱいだ。でもいまさらその責任を追及しても問題解決にはならないだろう。それよりもっと大事なのは、若松氏が描いたのは福島の現実そのものだけでなく、それは未来の日本、ひいては世界に向けての警鐘でもあることを認識してもらいたい。   神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない 私たちの神隠しはきょうかもしれない (1994年 『神隠しされた街』より)   広島、長崎、チェルノブィリ、福島の被害はまだまだ終わっていない。いや、もっと進行している。しかし、人間の記憶力は流れる歳月とともに衰退し、当時の恐怖感は次第に薄くなり、いよいよ忘れ去ってゆくのである。そして、また新しい神隠しの街が増えていく。このような神隠しの街を増やさないために、今私たちにできることは、原子力を再認識し、広島、長崎、チェルノブィリ、福島の真実を知り、永遠に語り継ぐことではなかろうか。   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ ☆ Lingji Han)> 中国吉林出身。延辺大学外国言語学及応用言語学修士号取得。現在筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程在籍。2012年度渥美奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。 ---------------------------------------     2013年1月16日配信