SGRAの活動

  • 2023.11.16

    江永博「第10回日台アジア未来フォーラム『日台の酒造りと文化:日本酒と紹興酒』報告」

    2011年から始まった日台アジア未来フォーラム(JTAFF)は19年5月に国立台湾大学で実施された第9回までは連続して開催され、本来であれば20年5月に初めて日本で第10回が行なわれる予定であった。しかしながら、周知の通り日本では同年1月に最初の新型コロナウイルス感染者が確認され、イベントの中止・延期・自粛をはじめ、組織・機関も時短・利用制限による一時的閉館や立入禁止を余儀なくされた。その後は在宅勤務・オンライン授業・会議などの形式が活用されていった。オンラインの利便性・安全性のメリットにより現在でもハイブリッド方式が活用されているが、対面でなければ共有・体験できない場合がある。4年半ぶりに開催された本フォーラムは、その代表的な一例である。   前置きが長くなったが23年10月21日(土)に島根県のJR松江駅前施設「松江テルサ」で開催されたフォーラムがなぜ対面でないと真価を問うことが難しいかというと、『日台の酒造りと文化:日本酒と紹興酒』というテーマに尽きる。日本最古の歴史書『古事記』にも登場し日本酒発祥の地とされる島根県で、醸造酒をテーマに日台の関係者が相互理解を深めるために対面で開催することに大きな意味があった。   フォーラムは渥美財団今西常務理事の開会挨拶でスタートした。 最初は島根大学法文学部の要木純一先生の講演「近代山陰の酒と漢詩」。詩仙と称される李白の代表作の一つ「月下独酌」の冒頭「花間一壺酒 獨酌無相親 舉杯邀明月 對影成三人(後略)」(花間[かかん]一壺[いっこ]の酒、独り酌[く]んで相親しむもの無し、杯[さかずき]を挙[あ]げて名月を迎え、影に対して三人と成る(後略))からもうかがえるように、酒と作詩のような「知的創造」との付き合いは長い歴史を持つ。要木先生は明治36年(1903年)から戦後まで松江に存在していた「剪松吟社」の活動を通して、近代山陰地方に於ける事例を紹介した。明治30年代に入ると漢詩・漢学的教養はすでに衰退の兆しがあったため、剪松吟社は最初から漢詩・漢学的教養の振興を目標として、機関誌『剪松詩文』の発刊や詩人大会の開催を行い、一時的には全国的な漢詩復興運動の一拠点と見なされるほど、活発な活動を進めていた。   昭和に入ると高齢な指導者を相次いで失い、詩人の力量低下と相俟って活動は衰退に向かい、戦後自然消滅したが、今回取り上げたのは昭和5年(1930年)10月の『剪松詩文』に収録された「若槻克堂公歓迎雅集」。若槻克堂とは日本首席全権として同年のロンドン軍縮会議に参加した若槻礼次郎のことである。国内では一部反対の声もあったが、軍縮会議は難航の末合意されたため、松江に帰った若槻に対して剪松吟社は「錦衣帰郷」の歓迎雅集を行なった。そこでは柏梁体連句が詠まれ、その中に「詩酒応忘利名栄」「共仰高風挙杯迎」「一醉似忘衣錦栄」「誰是詩弟誰酒兄」「平和会裏闘酒兵」「柏梁詩成挙巨觥」「対月豪飲気如鯨」のような句が見られ、酒と漢詩・歓迎雅会との相乗効果が句の内容から見て取れる。最後は若槻により軍縮会議後の心境をうかがわせる「詩中天地自和平」で締められたが、午後7時から始まった歓迎雅集は三更(午後11時〜午前1時の間)まで盛り上がったという。   次の島根県産業技術センターの土佐典照先生の講演「島根県の日本酒について」は、「神様はお酒が好き」という島根と神話から展開された。島根県にある酒蔵30社および二つの酒造り職人集団を紹介した上で、日本酒の造り方についての詳細な説明があった。製造技術の基礎知識として環境と気象(気温・降水量)、水(硬度)、米(品種)とその処理(精米)、麹(生育・製造工程・品質)、酒母と酵母(製造操作)、仕込みと管理と搾りについて詳しく説明。普段何も考えずただ美味しくいただく日本酒の生産過程で、今まで「伝統」として引き継がれてきた酒造技術が更に科学的な技術を通して検証・進化されていくことに筆者は驚きを禁じ得なかった。   講演の後半では日本酒のラベルの見方、吟醸・大吟醸など特定名称の清酒の分類、甘辛度と濃淡度など「実用的」な知識のほか、島根の酒の味と食生活に於ける地域の特性に焦点が当てられた。日本列島沿いに北上する対馬暖流の恩恵もあって島根県で採れる日本海の漁業資源は豊富であり、その魚を活かした島根料理の代表として「へかやき」が取り上げられた。この甘辛い醤油で味付けられた魚のすき焼きに合うように、島根の酒も旨味重視の傾向が見られる。最後は魚料理に留まらず、今後は果実を使った和風料理にも合う香り高い吟醸酒に注目し、酒の新たな魅力の発見に力を注ぐという。   休憩時間には島根県の日本酒(生酛原酒)と台湾紹興酒・中国紹興酒・酒肴が供され、前半の講演を思い出しながら試飲・試食を楽しみ盛り上がった。   台湾煙酒株式会社埔里酒廠の江銘峻先生による最後の講演「台湾紹興酒のお話」は、台湾紹興酒の歴史から始まった。紹興酒は世界三大古酒の一つであり、中国大陸を起源とするが、いつ台湾に渡ったかについては定かではない。ただし、台湾総督府専売局時代にはすでに生産記録があった。戦後、1949年に蒋介石の指示により埔里で紹興酒の試醸造が始まり、50年代に入ると市場化に成功して世界30余国に輸出された。80年代には年間の最大生産量が230万ダースに達した。90年代以後は、国民の飲酒嗜好の変化により徐々に市場を失い、95年頃には紹興酒を使ったおこわ、煮物などの特色食品・料理が開発された。現在、製品の高度化に成功した「状元紅」・「女児紅」・20年以上の「陳年紹興酒」以外、台湾における紹興酒の主な用途は料理になった。   台湾紹興酒の歴史を把握した上で、「紹興酒の伝統的な醸造法」と「台湾紹興酒の作成工程」が紹介された。同じ紹興酒にも関わらず、伝統的な醸造法に対して、台湾紹興酒はどのように独自の進化を遂げたかが浮き彫りになった。さらに同じ醸造酒の日本酒と比較し、最後は「夏は常温か冷蔵」「冬は38〜42度ぐらいまで間接加熱したら、より香り高い」「味変(あじへん)には台湾梅干し・生姜・レモン、カクテルにはソーダ・コーラ・ジュース」など紹興酒のお勧めの飲み方や、「適量の飲用では血液循環と新陳代謝を促進し、体力を増強し、耐寒性を増す」と言った紹興酒の栄養価など「実用的」な情報を教えてくださった。   質疑応答では、「中国紹興酒・台湾紹興酒・日本酒における仕込みの段数の差」「紹興酒の伝統的な醸造過程でヤナギタデの粉を入れる理由は何か」などの質問があった。筆者にとって一番興味深かったのは、台湾紹興酒の市場占有率であった。台湾では2002年1月まで煙草・酒の生産・流通・販売は煙酒専売局に独占されていたが、専売制度が廃止されてから、台湾煙酒専売局は「台湾煙酒株式会社」に変わり、煙草・酒の生産・流通・販売も国営の専売事業ではなくなったにも関わらず、生産・流通・販売する紹興酒は、台湾市場全体の99%を占めている。換言すれば前述した「台湾では現在製品の高度化に成功したが、主な用途は料理に取って代わられた」紹興酒の現在の位置付けも、これからの方向性もこの会社の方針に左右される。これに対して、冒頭で紹介したように日本酒を醸造している蔵は島根県だけでも30社に及ぶ。環境・気象・水・米と製造過程などの差によって「薫・爽・醇・熟」など多様な風味が味わえる日本酒は、「ボディが醇厚」で基本的に「アミノ酸味がメイン」の紹興酒とは異なる道を歩んできた。どちらが正しいか断言できないが、今回のフォーラムを通して得られた経験は今後互いにいかなる道を歩むかを検討する際に参考になるだろう。   質疑応答後、隣の会議室で懇親会が行われ、今回のフォーラムのテーマでもある島根の日本酒と台湾紹興酒のほか、講演の中で言及された島根の魚も大きな舟盛で提供された。参加者一同おいしい料理をいただきながら7種類の日本酒と6種類の紹興酒を飲み比べ、対面でなければ共有・体験できない貴重な経験を積むことができた。約4年半ぶりに開催された日台アジア未来フォーラムは、日本各地および台湾からの参加者が50名ほど集まった。台湾での開催と比べ規模は多少小さくなったが、筆者にとって会得できたものは決して少なくなかった。日本酒発祥の地とされている島根県で『日台の酒造りと文化:日本酒と紹興酒』に参加できたことは、まさに「百聞は一見に如かず」「万巻の書を読み 千里の道を行く」の体現だと信じている。今後は基本的に今まで通り台湾で行われるであろうが、時には今回のように地域の特性を活かしたテーマと内容を選定・計画すれば予想外の収穫が得られるかもしれない。   当日の写真   <江永博(こう・えいはく)CHINAG Yung-Po> 2018年度渥美奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2020年10月から常勤嘱託として早稲田大学大学史資料センターに所属、『早稲田大学百五十年史』第一巻の編纂に携わった。2023年4月より助手として早稲田大学歴史館に所属、現在『早稲田大学百五十年史』第二巻の編纂業務に従事しながら、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。専門は日本近現代史、植民地期台湾史、大学沿革史編纂。     2023年11月16日配信  
  • 2023.11.09

    アキバリ・フーリエ「第19回SGRAカフェ「国境を超える『遠距離ケア』」報告」

    2023年10月14日(土)、「国境を超える『遠距離ケア』」をテーマに第19回SGRAカフェが開催されました。午後2時から約2時間にわたり、討論者による議論と参加者全員によるグループディスカッションが行われました。実際に財団に足を運んでくださった参加者とオンライン参加を合わせて約50名で開催され、非常に有意義な時間となりました。   5名の討論者は国籍や研究の専門分野が異なることもあり、さまざまな視点から課題について議論できました。司会と討論者であった私(アキバリ・フーリエ)以外に、長年にわたり日本の介護に関する研究を行っている張悦さん、そして2017年度の元渥美奨学生で、良き友人であり研究仲間でもある沈雨香さん(早稲田大学)、ファスベンダー・イザベルさん(関西外国語大学)、レティツィア・グアリーニさん(法政大学)が参加し、意見を交換しました。   私たちが生きている21世紀はグローバル化が進み、年齢や国籍を問わず世界中でキャリアを築く人々が増加しています。母国から離れて異なる地域で生活基盤を築くことで多くの成功を収める一方、通常直面することのない課題も出てきます。その中の一つが、母国に残る家族へのケアの問題です。   今回は、母国に残る家族への「ケア」を出発点として、育児や異国での自己ケアについてもディスカッションしました。ケア・コレクティブは『ケア宣言 相互依存の政治へ』(岡野八代・冨岡薫・武田宏子訳/解説、大月書店、2021年)の中でケアを「やりがいのあることと同時に、極度の疲労を伴う現実」と述べています。ケアには関心、不安、悲しみ、嘆き、困惑といったさまざまな感情が絡み合っており、現代社会において非常に重要なテーマであると同時に、忙しい現代社会ではどこかで見落とされがちな課題でもあると思います。   したがって本カフェでは「本日の議題」として3つの質問を討論者に投げかけました。そして、「国境を越えて日本で生活しながら、ケアについて感じてきた思いと経験」について議論し、今後の「日本における国境を超える遠距離ケアの実態と背後にある要因」を考えました。   まず、「ケア」とは何かについて議論が交わされました。討論者たちの発言から「家族へのケアと自己ケア」にはネガティブな側面がある一方で、いくつかの工夫をすればポジティブに変えることができるのではないかという意見が出されました。   張さんの考えは「個人の力だけでなく、皆さんと協力することによってより強力になる」です。例えば、日本では「包括ケアシステム」という言葉があります。多くの異なる健康関連サービスや専門家が連携し、総合的かつ包括的なケアを提供するアプローチを指しており、横断的な連携を強調しています。この視点から、在日外国人の遠距離ケアの問題を解決する一つの方法として、在日外国人自身も「多文化コミュニティの中での協力」を積極的に促進することを提案しました。   一方、イザベルさんは来日してから「ケア」という言葉が自分の中で徐々にネガティブな意味合いを帯びてきたと語り、その背後にはドイツの介護システムの充実があることを指摘しました。ドイツでは社会福祉システムや社会保険などが充実したサービスを提供しており、親の介護は子供の責任という考え方はあまり一般的ではないので、「ドイツの親のことよりも、日本でのケア(自分と夫の老後、日本の親のケアなど)の問題が非常に気になります」という言葉には在日外国人が直面する葛藤が見られました。   また、レティツィアさんもケアは単なる育児や介護といった活動だけでなく、そして「(核)家族」という個人の私的な領域に限らず、より多面的に考えるべきだと述べました。つまり、個人が家族の個人的な問題を解決するだけでなく、コミュニティによるケアや政策的なアプローチを含め、様々なレベルでケアの問題を考慮しながら解決策を模索する必要があるのではないか、と問いかけました。   沈さんと私は、韓国とイランには以前の風習が残っており、両親の介護は家族にとって重い負担であり、親を介護施設のような老人ホームに預けることは社会的にはまだタブーとされていることを実体験を通じて語りました。イランでは近年、少子化の問題や若者の海外移住(年間約6万5000人)が懸念されており、昔のように子供が親の面倒を見たり、両親に孫の世話をしてもらったりするということが期待できない状況にあり、家族の構造が変わりつつある時期に入っていると紹介しました。   その後、参加者全員が会場2つとオンライン3つの計5つのグループに分かれて本日のテーマについてディスカッションをしました。   グループワークに参加した方々の中には、もうじき自身が介護されるかもしれない立場になるという方もいらっしゃったため、「両親の視点」からも意見を聞くことができました。このテーマについて二つの世代が共に考えて語り合う場ができ、非常に興味深かったです。彼らは「健康の維持」と「独立して暮らせる環境の整備」を希望していました。また、あるグループの意見では「安心できるケア」というキーワードも挙がりました。どうしても日本に住む外国人という立場では、コミュニティの一員として認められたり、ケアを提供したり受け入れたりする一員として認識されたりすることが難しいことが多いため、実際に「安心できる」ケアが得られる可能性はかなり限られているかもしれません。   最後に、ケアという言葉が本来持つべき温かくポジティブな意味合いを実現するためには、一人だけの力ではなく、さまざまな知恵と協力が必要であることを学びました。そこには、一つの正解があるわけではありません。   「遠距離ケア」については、年明けに張さんと両親のケアについて話していた際、このテーマでより多くの人と語り合いたいと思ったことが発端となって、このような場を設けることができました。今後も「遠距離ケア」に関する議論を続け、一緒に語り合えるメンバーを増やしていきたいと思います。また今回、私の実母もたまたま来日していたため、イベントに参加してもらいました。両親とはなかなか面と向かって語り合う機会が得られないことから、このような場で話し合えたことは私にとっては深い意味があり、忘れられない思い出となりました。   当日の写真   <アキバリ・フーリエ AKIBARI,_Hourieh> イラン出身。千葉大学博士後期課程終了(2018年博士号取得)。千葉大学特別研究員、白百合女子大学国語国文学科非常勤講師。2017年度渥美奨学生。日本に在住している外国人、主にイラン人やアフガニスタン人難民の言語環境や言語問題の実態について社会学・言語学の立場から研究。多文化共生社会・異文化理解とコミュニケーションについて研究・教育活動。     2023年11月9日配信
  • 2023.11.07

    レポート第105号「20世紀前半、北東アジアに現れた 『緑のウクライナ』という特別な空間」

    SGRAレポート第105号   第71 回SGRA フォーラム 「20世紀前半、北東アジアに現れた『緑のウクライナ』という特別な空間」 2023年10月30日発行     <フォーラムの趣旨> ロシア帝国は中国とのネルチンスク条約、アイグン条約、北京条約によって極東の大きな領土を手に入れることができた。その極東の国境沿いの領土はあまりにも人口が少なかったため、定住者を増やすことが政治地理的な大きな課題となった。   ほぼ同時期の1861 年に農奴解放令が発布され、当時ロシア帝国に付属していたウクライナの農奴はやっと農地を手に入れたものの、配給された土地は非常に小さく不満を抱く人が多かった。そこでロシア帝国政府は「帝国の南側から極東に家族ごと移住すれば、かなり大きな農地をもらえる」と宣伝し、1870 年からロシア革命までに大勢のウクライナ人が極東に移り住んだ。   1918 年1月にキーウで独立共和国の宣言が行われた時、極東のウクライナ人は「緑のウクライナ」という国を作ろうとしていた。1922 年にソ連政権が極東に定着した時、その政権から逃れた100 万人のウクライナ人がハルビンなどに移り住み1945 年まで留まっていた。   本フォーラムでは、いろいろな民族が住み、さまざまな文化が存在し、新たなアイデアもたくさん生まれていた、20 世紀前半の極東アジアに存在した特別な空間について話し合った。   <もくじ> 【開会挨拶】 マグダレナ・コウオジェイ(東洋英和女学院大学)   【講演1】 『緑のウクライナ』という特別な空間  オリガ・ホメンコ(オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員) 【講演2】 マンチュリア(満洲)における民族の交錯 塚瀬 進(長野大学環境ツーリズム学部学部長)   【話題提供1】 中国東北地域における近代的な空間の形成: 東北蒙旗師範学校を事例に ナヒヤ(内蒙古大学蒙古学学院歴史系副教授) 【話題提供2】 『マンチュリア』に行こう! グロリア・ヤン ユー(九州大学人文科学研究院広人文学コース講師)   自由討論 司会/モデレーター: マグダレナ・コウオジェイ(東洋英和女学院大学准教授) 討論者: オリガ・ホメンコ(オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員) 塚瀬 進(長野大学環境ツーリズム学部学部長) ナヒヤ(内蒙古大学蒙古学学院歴史系副教授) グロリア・ヤン ユー(九州大学人文科学研究院広人文学コース講師)   講師略歴 あとがきにかえて
  • 2023.11.07

    レポート第104号「新たな脅威(エマージングリスク)・新たな安全保障(エマージングセキュリティ) ――これからの政策への挑戦」

    SGRAレポート第104号(日韓合冊)   第21回 日韓アジア未来フォーラム 「新たな脅威(エマージングリスク)・新たな安全保障(エマージングセキュリティ) ――これからの政策への挑戦」 2023年11月15日発行     <フォーラムの趣旨> 冷戦後の国際関係において非軍事的要素の重要性を背景にグローバルな経済対立、貧富格差の拡大、そして気候変動、先端技術の侵害、サイバー攻撃、パンデミックなどが新しい安全保障の範疇に含まれるようになってきた。伝統的な安全保障問題が地理的に近接した国家間で発生する事案抑止を前提とするのに対して、新たな安全保障上のリスクは突発的に発生し、急速に拡大し、さらにグローバルネットワークを通じて国境を超える。 多岐にわたり複雑に絡み合う新しい安全保障のパラダイムを的確に捉えるためには、より精緻で包括的な分析やアプローチが必要なのではないだろうか。   本フォーラムでは、韓国における「エマージングセキュリティ(新たな安全保障)」研究と日本における「経済安全保障」研究を事例として取り上げ、今日の安全保障論と政策開発の新たな争点と課題について考察した。   <もくじ> 【第1セッション】 [基調講演1]エマージングセキュリティ、新しい安全保障パラダイムの浮上 金 湘培(ソウル大学政治外交学部教授) [基調講演2]経済安全保障・技術安全保障の現在  鈴木一人(東京大学公共政策大学院教授)   【第2セッション】 [コメント1]基調講演を受けて 李 元徳(国民大学校社会科学大学教授) [コメント2]複合地政学への対応としての日韓協力 西野純也(慶應義塾大学法学部政治学科教授) [コメント3]韓国と日本の共通の挑戦 林 恩廷(国立公州大学国際学部副教授) [コメント4]安保、国家、リベラリズム 金 崇培(国立釜慶大学日本学専攻助教授)   【第3セッション】 自由討論/質疑応答 司 会: 金 雄熙(仁荷大学国際通商学部教授) 討論者: 金 湘培(ソウル大学政治外交学部教授) 鈴木一人(東京大学公共政策大学院教授) 李 元徳(国民大学校社会科学大学教授) 西野純也(慶應義塾大学法学部政治学科教授) 林 恩廷(国立公州大学国際学部副教授) 金 崇培(国立釜慶大学日本学専攻助教授)   総括・閉会挨拶 平川 均( 名古屋大学名誉教授/渥美国際交流財団理事、第21 回日韓アジア未来フォーラム実行委員長)   講師略歴  あとがきにかえて 
  • 2023.11.07

    レポート第103号「木造建築文化財の修復・保存について考える」

    SGRAレポート第103号日本語版 中国語版 韓国語版   第70回SGRAフォーラム 「木造建築文化財の修復・保存について考える」 2023年11月10日発行   <フォーラムの趣旨> 東アジアの諸国は共通した木造建築文化圏に属しており、西洋と異なる文化遺産の形態を持っています。第70回SGRAフォーラムでは、国宝金峯山寺(きんぷせんじ)二王門の保存修理工事を取り上げ、日本の修理技術者から現在進行中の文化財修理現場をライブ中継で紹介していただきます。続いて韓国・中国・ヨーロッパの専門家と市民の代表からコメントを頂いた上で、視聴者からの質問も取り上げながら、専門家と市民の方々との間に文化財の修復と保存について議論の場を設けます。   今回のフォーラムを通じて、木造建築文化財の修復方法と保存実態をありのままお伝えし、専門家と市民の方々との相互理解を推進したいと考えております。   今回のフォーラムを実現することを可能にしてくださった、金峯山寺と奈良県文化財保存事務所に心からお礼を申し上げます。   <もくじ> はじめに  総合司会:李 暉(奈良文化財研究所 アソシエイトフェロー/ SGRA) 開会挨拶  五條良知(金峯山修験本宗 総本山金峯山寺 管長)   【話題提供】 ライブ中継 国宝 金峯山寺二王門修復現場から  竹口泰生(奈良県文化財保存事務所金峯山寺出張所 主任)   【討論1】 [韓国専門家によるコメント] 韓国における文化遺産修理と部材保存  姜 璿慧(伝統建築修理技術振興財団 企画行政チームリーダー) 【討論2】 [中国専門家によるコメント] 古建築金峯山寺二王門の保存修理について  永 昕群(中国文化遺産研究院 研究館員) 【討論3】 [ヨーロッパ専門家によるコメント] 日本における木造建築遺産保存の特徴 ─ヨーロッパとの比較から─ アレハンドロ・マルティネス(京都工芸繊維大学 助教) 【討論4】 [市民によるコメント] 文化財修復保存に市民として期待していること 塩原フローニ・フリデリケ(BMW GROUP Japan / SGRA)   質疑応答  モデレーター:金 玟淑(京都大学防災研究所 民間等共同研究員/ SGRA) 回答者: 竹口泰生(奈良県文化財保存事務所金峯山寺出張所 主任) 姜 璿慧(伝統建築修理技術振興財団 企画行政チームリーダー) 永 昕群(中国文化遺産研究院 研究館員) アレハンドロ・マルティネス(京都工芸繊維大学 助教) 塩原フローニ・フリデリケ(BMW GROUP Japan / SGRA)   講師略歴 あとがきにかえて
  • 2023.10.24

    第17回SGRAチャイナフォーラム「東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生」へのお誘い

    下記の通りSGRAチャイナフォーラムをハイブリッド形式で開催いたします。会場でもオンラインでも参加ご希望の方は、事前に参加登録をお願いします。   テーマ:「東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生」 日時:2023年11月25日(土)午後3時~5時(北京時間)/午後4時~6時(東京時間) 会場:渥美財団ホール、北京大学会場、オンライン(Zoom Webinar)のハイブリッド形式         ※渥美財団ホール https://www.aisf.or.jp/jp/map.php         ※北京大学会場は北京大学学生に限定 言語:日中同時通訳 共同主催:渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)         北京大学日本文化研究所         清華東亜文化講座 後援:国際交流基金北京日本文化センター 協 賛:鹿島建設(中国)有限公司   ※参加申込(リンクをクリックして登録してください) (参加方法に関わらず参加用URLが届きます。会場参加の方は当日会場にお越しください。) お問い合わせ:SGRA事務局([email protected] +81-(0)3-3943-7612)     ■フォーラムの趣旨 今回は視野を東南アジアに広げる。日本における東南アジア美術史の第一人者である後小路雅弘先生(北九州市立美術館館長)を講師に迎え、いまだ東北アジア地域では紹介されることが少ない東南アジアにおける近代美術誕生の多様な様相について学ぶ。東南アジアの初期近代美術運動を通じて東北アジアとの関係や相互の影響について考える。   ■プログラム 総合司会 孫 建軍(北京大学日本言語文化学部/SGRA) 【開会挨拶】今西淳子(渥美国際交流財団/SGRA) 【挨拶】野田昭彦(国際交流基金北京日本研究センター)   【講演】後小路雅弘(北九州市立美術館館長) 「東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生」   【指定討論】 討論者:熊 燃(北京大学外国語学院)        堀川理沙(ナショナル・ギャラリー・シンガポール) 【自由討論】 モデレーター:林 少陽(澳門大学歴史学科/SGRA/清華東亜文化講座) 【閉会挨拶】趙 京華(清華東亜文化講座/北京第二外国語学院)     ■講演内容 【講演】後小路雅弘「東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生」   [講演要旨] 東南アジアにおける近代美術の萌芽的な動きは、そのほとんどの地域が欧米列強の植民地であった1930年代に見られる。その運動は、相互に連動したものではなかったが、植民地において19世紀末から盛んになったナショナリズムや民族自決の高まりといった国際的な共通性を背景に、ほぼ同じ時期に見られるようになった。   フィリピンでは、アメリカ留学から帰国したエダデスを中心に結成された「13人の現代人たち」が、オランダ領東インドではスジョヨノとプルサギ(インドネシア画家組合)がその主な担い手であった。シンガポールではフランス留学からの帰国者たちが華人美術研究会を結成、華僑子弟の教育のために設立された南洋美術専科学校とともに、近代美術運動を推進した。独立国であったタイでは、「お雇い外国人」のイタリア人彫刻家フェローチが国立美術学校を設立し、仏領インドシナでは、フランス人画家タルデューが美術学校を設立して美術教育に取り組んだ。両校の初期の卒業生たちがそれぞれの近代美術の担い手となった。   こうした萌芽的な運動は、1940年代の旧日本軍の侵攻と占領によって頓挫し、本格的な開花は各国が独立を果たす1950年代以降を待つことになる。   この初期の近代美術運動の担い手であったパイオニアたちは何を目指し、何を課題としたのか。20世紀前半、激動のアジア近代史の奔流の中で、彼らは何と戦ったのか、そしてその思いは─各国における共通性と相違に目を向けながら読み解く。   ※プログラムの詳細は、下記リンクをご参照ください。 日本語版 中国語版
  • 2023.09.28

    金キョンテ「第8回国史たちの対話『20世紀の戦争・植民地支配と和解はどのように語られてきたのか―教育・メディア・研究』レポート」

    8月8日、やや曇った空の下で第8回韓国・日本・中国における国史たちの対話の可能性「20世紀の戦争・植民地支配と和解はどのように語られてきたのか―教育・メディア・研究」が対面とオンラインで始まった。   早稲田大学に設けられた会場では一般参加者も席を埋め尽くした。初日は4つのセッションで構成され最初のセッションは村和明先生(東京大学)の司会で行われた。本格的な報告に先立ち、劉傑先生(早稲田大学)の開会挨拶と三谷博先生(東京大学名誉教授)の趣旨説明、発表討論及び参加者の自己紹介があった。劉傑先生は20世紀の戦争と植民地支配、和解が各国でこれまでどのように語られていたかについて過去に開催された「国史たちの対話」に基づき「冷静かつ落ち着いた議論を続けることができると期待している」とし、相手国の歴史認識に耳を傾ける機会になると強調した。   三谷先生は「未来のために」というキーワードをまず提示。国史たちの対話に関する企画が出た時から今回のテーマをどうしても試みたいと思っていたが、今になってようやく話せるようになったことを嬉しく思うと話された。続いて、このような大きな学術的な集いを立ち上げたきっかけについて説明してくださった。日本だけでなく、様々な国が歴史に関する対話を積み重ねていく中で、政府の対決政策により逆風が吹いたこともあったが、それでも歴史対話が再開されたということに意味があると話された。   第2から第4セッションは、それぞれ教育、メディア、研究をテーマにした3つの発表と相互討論で構成。2番目の「教育」セッションは南基正先生(ソウル大学)の司会で進行された。最初は金泰雄先生(ソウル大学)の「解放後における韓国人知識人層の脱植民地への議論と歴史叙述の構成の変化」だった。この発表では、韓国における解放(1945年8月15日の独立)後の歴史教科書の記述の変遷過程を説明しながら、韓国の国内外の政治と歴史教科書の内容との関係を緻密に追跡した。唐小兵先生(華東師範大学)は「歴史をめぐる記憶の戦争と著述の倫理―20世紀半ばの中国に関する『歴史の戦い』」と題して長春包囲戦に対する相反する記憶及び評価を紹介し、歴史と啓蒙との緊張関係という問題を提示した。   塩出浩之先生(京都大学)は「日本の歴史教育は戦争と植民地支配をどう伝えてきたか―教科書と教育現場から考える」と題して日本が戦後において教科書を制作する過程で経験した変化と変化のきっかけについて説明したが、特に教科書が教育現場でどのように認識され使用されたかについての部分や、現在進行形の課題(加害者と被害者としての両面性等)はこれまで聞くことができなかった内容であり、韓国と中国の研究者にとって大いに参考になった。   続く討論では、日本の教育現場で働いている教師の方々の課題を聞くことができた。新しい歴史総合科目をどのように教えるか、歴史教育において史料の重要性が非常に大きいにもかかわらず現場で集中的に扱うことが難しいという(受験等による)現状等が挙げられた。韓国と中国も似たような経験や課題があるという事実を共有することができた。記憶が啓蒙や共感のために(厳密な歴史的事実と異なるかもしれない方向で)使われる事例があり、個人の多様な記録のような(やはり歴史的事実とは異なる可能性があり得る)資料が注目されている問題も議論されたが、必ずしもそれを否定的に捉える必要はないとの意見が少なくなかった。これは今回の「対話」の主要な論点の一つだった。   第3セッションは「メディア」をテーマに李恩民先生(桜美林大学)が司会を担当した。江沛先生(南開大学)は「保身、愛国と屈服:ある偽満州国の『協力者』の心理状態に対する考察」で、中国における日中戦争は国家対国家の戦争として明確に記録されているが、果たして当時中国に住んでいた人々もそうだったのかという点について、ある人物の日記を通して考察した。当時の人々には生存が重要であり、様々な顔(反国と愛国)を持った人も存在していたということであった。歴史学者は弱者である民衆に目を向け、人間の尊厳を尊重すべきだと指摘した。   福間良明先生(立命館大学)は「戦後日本のメディア文化と『戦争の語り』の変容」で映画を中心にメディアが戦争を語る手法の変化の流れと時代的背景を同時に説明した。被害と加害、その両方の立場があり得るということへの葛藤を詳しく紹介し、このような葛藤が薄れている現在、そしてその中間の市民社会の間で歴史研究者がどのような役割を果たすべきかを考えなければならないという課題を投げかけた。   李基勳先生(延世大学)は「現代韓国メディアの植民地、戦争経験の形象化とその影響―映画、ドラマを中心に」というテーマで韓国の戦争映画を分析した。韓国において植民地と戦争は異なる経験であった。しかし、韓国が国民国家を形成する過程でそれらが一緒に語られることもあり、その過程で善と悪が二項対立する典型的なイメージが作られる様相、そして21世紀に近づき変化が発生する様相を映画を通じて示した。   第4セッションのテーマは「研究」。宋志勇先生(南開大学)の司会でこの日の最後のセッションが行われた。安岡健一先生(大阪大学)は「『わたし』の歴史、『わたしたち』の歴史―色川大吉の『自分史』論を手がかりに」で伝統的な歴史認識の「外部」にいる一般市民の歴史認識、そしてそれに関する歴史学の認識をテーマとした。「私の歴史」を書くことでステレオタイプの歴史に飲み込まれなかった物語が残ることもある。これをどのように生かすかを考えなければならず、これこそ歴史学が市民社会に貢献できる部分だという意見を提示した。   梁知恵先生(東北亜歴史財団)は「『発展』を越える、新しい歴史叙述の可能性:韓国における植民地期経済史研究の行方」と題して、まず韓国における植民地時代の経済史研究のいくつかの方向性(植民地収奪論、植民地近代化論、そして植民地近代性論)について説明した。21世紀に入り、既存の研究動向の速度が下がり、学術的な議論を越えた強烈な政治的攻撃が登場し危機に直面しているが、環境と生態のような批判的な代案が登場しているという事実に希望を示す研究だった。   陳紅民先生(浙江大学)は「民国期の中国人は『日本軍閥』という概念をどのように認識したか」で、用語に付与される歴史性について問題提起をしながら、「日本軍閥」という用語に注目した。我々が知っている歴史用語の意味と当時の意味は異なることもあり、時代、発言の主体、陣営によって異なる文脈で使われたりしたという事実を想起しなければならないと述べた。データベースの構築と活用、ビッグデータの活用等が活発化している現在の学界で、このような問題意識に基づいた研究が積極的に試みられるものと期待される。   最後のセッションの討論では主に(歴史学者ではなく)個人の歴史叙述に関する問題(歴史と個人史の衝突可能性)、個人の歴史叙述に対する歴史学者の介入の仕方等をめぐる3カ国の研究者たちの課題について議論が交わされた。意見が一致したわけではなかったが、個人の歴史、自分史の歴史叙述に対する肯定的な意見は興味深かった。   最後に劉傑先生が初日の論点をまとめてくださった。3カ国が現代に経験してきた歴史的文脈が異なるため、各国で戦後の歴史像を作る際に異なる部分が現れたということ、この異なる文脈に基づいた様々な模索が(肯定的な方向にも)進んでいるということ、しかしこの異なる歴史観の間の距離をどう縮めるかという問題が残っているということだった。そして歴史教育において、いわゆる東アジアの新しい歴史像をどのように作るかについて、かなり共通した部分(日本の歴史総合、韓国の東アジア史、中国上海での試み)が見られるという点も取り上げた。このような状況において歴史家はどのような役割を果たすべきか、今回の発表では政治と歴史、歴史と道徳、史料の問題が論点として登場したが、そのような問題意識に基づいた努力が維持できれば、歴史和解は可能だという展望が提示された。   8月9日は総合討論が行われた。議論を始める前に三谷先生のコメントがあった。「パブリック」をどのように歴史につなげるかについての課題を個人的な研究経験に照らして丁寧に聞かせてくださった。すなわち、研究テーマによっては史料が存在しないこともあり得るが、史料に限界がある状況で物語を作って良いかというジレンマに注意してほしいという要望だった。   討論は2つのセッションに分けて行われた。第5セッションは鄭淳一先生(高麗大学)が司会を務めた。このセッションでは「3カ国のそれぞれ異なる文脈の被害者の敍事について」「日本の50~70年代のメディア文化は現代の代案になり得るのか」「満州の『協力者』に対する解釈の平面性」(金憲柱先生(国立ハンバット大学))、「満州国で作った映画はどの国の映画として見るべきか」(袁慶豊先生(中国伝媒大学))、「個人の目で見た歴史に関する事例(イギリスの鉱山経営者ネイサン)と戦争と植民地支配の多元的理解の可能性」「韓国と日本が政治的に対立していた時期に開かれた日韓共同展示から見られた可能性」(吉井文美先生(国立歴史民俗博物館))、「抗日ドラマの生成ロジックと伝播方式、そして一般人への影響」(史博公先生(中国伝媒大学))等の指定討論者からの質疑があった。   新しい教科書に対する議論も活発に行われ、歴史総合の場合誰が教えるか等現場で直面する様々な課題が残っており、内容に対する批判もあるが、以前の問題を乗り越えながらも学生たちが日本の歴史を好きになるよう努力してきたという事例が紹介された。三谷先生は世界史と日本史を融合することによってグローバル化と隣国との関係を重視するという要素がカットされる等の限界があったため、今後はきちんとした指導要領を作るために努力しなければならないという点を補足説明した。   フロアからも有意義なコメントがあった。川崎剛氏(元朝日新聞)がマスコミに掲載される歴史的記事が若い記者によって作成されるため問題もあり得るとの事例を紹介した後、それが事実とはいえ、大手マスコミの記者こそ大学で教育を受けているので教育界の責任がないとは言い切れないこと、若い記者たちは近現代史の主要な事件を経験することができなかったため限界がないわけではない点等に言及した。そして若い記者たちは困難を経験しながら記事を作成するしかないが、今後「関東大震災100周年」等多様な記事が配信されるので、学界も共に努力してほしいという要請で発言を結んだ。これは今回の対話の論点とも合致するコメントだった。歴史研究者はプロフェッショナルとしての自らの素養を守りつつも、新しい時代において求められる役割も担うべきであり、そのため様々な「集団」と意思疎通できなければならないということだ。   第6セッションは彭浩先生(大阪公立大学)の司会で行われた。「石明楼日記の真実性について」(張暁剛先生(長春師範大学))、「生態史が国民国家単位の歴史を越えられるのか」「共同体内の悪の陳腐さに対する省察と残された宿題」「歴史教育は『なぜ』、『どのように』を越え『どこへ』という方向も提示しなければならない」「歴史学の未来に関する議論が必要であり、それは人間への尊重を込めたものでなければならない」(金ホ先生(ソウル大学))、「国家の歴史と地方(地域)の歴史との関係」「地方でプロフェッショナルな歴史学者を育成する基盤に関する問題」「修学旅行を例に挙げた地方の歴史(教育)と観光のジレンマ」(平山昇先生(神奈川大学))等の指定討論者による発言以外にも、「中国の学生たちの近代化に対する認識問題の原因」(市川智生先生(沖縄国際大学))と史料批判を教材化する必要性に対する現場の教師の方々からの要請もあった。   最後に、趙珖先生(高麗大学名誉教授)の閉会挨拶と今西淳子渥美国際交流財団常務理事の振り返りの時間が設けられた。趙珖先生は久しぶりに開催された対面会議で比較的十分な討論時間が確保されただけに、最近では最も満足できる会議になったと評価し、2025年の「第2次世界大戦終戦80周年」を控え、3カ国でそれぞれ「光復」、「勝戦」、「終戦」という異なる用語と概念で理解されているこの事件に対し、それぞれ歴史的評価が行われるだろうが、「国史たちの対話」が役割を果たすことを期待すると述べられた。今西常務理事はこれまでの「国史たちの対話」を振り返りながら、来年のタイでの再会を約束した。   3カ国の研究者たちは各国が直面している現状とその背景からもたらされる各国の課題を聞かせてくれた。3カ国は20世紀の激動する国際情勢の中で東アジアという同じ地域に存在しつつも異なる困難を経験した。研究者はそれをどのように評価し記録するかについて葛藤し、それも歴史の研究対象になってきた。自国の歴史に対する評価と解釈をめぐる議論は今なお続いており、「解決」されていない部分も多いことが今回分かった。しかし、希望も見出せた。葛藤と課題の中には共通するものもあれば、他国との関係の中で発生したものもあった。自国史での議論と悩みを共有することから3カ国の歴史対話を合理的かつ肯定的な方向へ導く糸口を見出すこともできるという期待が生まれた。   筆者は中学・高校の歴史教師を養成する歴史教育科に在職している。今回の対話は筆者本人にも大いに勉強になった。この経験を生かして生徒、教師と共に努力していきたい。今回の対話では日本の教育現場の方々と話を交わす機会もあった。研究者たちと同様、日本の教師の方々もやはり韓国の教師と似た悩みを抱えていた。研究者だけでなく韓国と日本、そして中国の教師と研究者たちが共に意思疎通する場がより多く用意されるよう努力しなければならない。   最も多く取り上げられた論点は、個人の歴史と歴史教育現場に対するものだった。これは急変する時代、来たる未来に歴史学が担うべき役割への課題が込められたものだった。反知性主義の蔓延、AIの発展、出生率の低下等、急変する時代に「もはや歴史学の役割は終わった」と嘆く歴史学者たちもいる。歴史学はどのような役割を果たすべきで、何ができるのだろうか。歴史学は従来の研究手法も維持しつつ、新しい時代の要求にも答えていかなければならない。   個人的には金ホ先生の提言が記憶に残る。「未来の歴史学は相互の侮辱を止め、『人間に対する尊重』を抱え込むべき」「仁義の持つ排他性を警戒し、不仁と不義に対する感覚を鍛え、過度な義と偏狭な仁を制御しよう」。私は最近見た映画と本を思い出した。有名な「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は互いを慰め合い、他人に親切に接しようというメッセージを伝え共感を呼んだ。『なぜ魚は存在しないのか』という本で、ルルー・ミラーは「価値のない生命はない。我々の人生は全て大切だ」と叫んでいる。時代が望んでいるのはひょっとしてこのような考え方ではないか。そしてそれは、歴史学の新しい役割の一つになり得るものではないか。   歴史学が長年築いてきた学問としての基本原則を守りながらも、多様な可能性、方法論に門戸を開くならば、対決して誰かに(歴史的対象であれ、現在の隣人であれ)勝たなければならないという義務感を振り払うことができれば、そして学問の親切さを広めれば、歴史学は新しい生命力を持つことができるのではないか。今回の対話を通じてこのような期待が膨らんだ。   当日の写真   アンケート集計結果   ■ 金キョンテ(キム・キョンテ)KIM Kyongtae 韓国浦項市生まれ。韓国史専攻。高麗大学韓国史学科博士課程中の 2010 年~2011 年、東京大学大学院日本文化研究専攻(日本史学)外国人研究生。2014 年高麗大学韓国史学科で博士号取得。韓国学中央研究院研究員、高麗大学人文力量強化事業団研究教授を経て、全南大学歴史敎育科助教授。戦争の破壊的な本性と戦争が荒らした土地にも必ず生まれ育つ平和の歴史に関心を持っている。主な著作:壬辰戦争期講和交渉研究(博士論文)、虚勢と妥協 -壬辰倭乱をめぐる三国の協商-(東北亜歴史財団、2019)       2023年9月28日配信
  • 2023.09.08

    第19回SGRAカフェ「国境を超える『遠距離ケア』」へのお誘い

    下記の通り第19回SGRAカフェを会場及びオンラインのハイブリット方式開催いたします。参加をご希望の方は、会場、オンラインの参加方法に関わらず事前に参加登録をお願いします。   テーマ:「国境を超える『遠距離ケア』」 日 時: 2023年10月14日(土)14:00~16:00 方 法: 会場及びZoomミーティング 言 語: 日本語 主 催: (公財)渥美国際交流財団関口グローバル研究会 [SGRA]  申 込: こちらよりお申し込みください   お問い合わせ:SGRA事務局([email protected] +81-(0)3-3943-7612)       ■ フォーラムの趣旨 社会がグローバル化する中で世界を移動する人々の数も急激に増加している。国連の 2013 年の調査によると世界人口の約 3.2%が移動人口に当たると言われている。日本に目を向けると、外国人移住者数も年々増加しており、滞在の長期化も進んでいる。出入国在留管理庁のデータによると、2022 年6月末の在留外国人数は296 万人で、前年末に比べ 20 万人(7.3%)も増加したことが分かった。   こうした変化の中、在日外国人移住者もまた新たな課題に直面している。在日外国人移住者は日本での生活基盤を自ら構築することはもちろん、母国に残る家族の健康、介護問題も考えざるをえない。こういった外国人ならではのライフワークバランスはキャリアにも影響する。またコロナ禍では、日本における外国人の(再)入国制限のため自由に日本と母国の間に行き来できず、帰国したくてもできなかった事例や、家族のために日本での生活を諦めて帰国を選択した者も見られる。   今回のカフェでは ・日本における国境を超える遠距離介護の実態と背景 ・海外における事例と取組み ・課題の改善策 の 3 点について参加者と一緒に考え、ディスカッションを通して継続的に成長するグローバル社会に有意な示唆を得る事を目的とする。     ■  プログラム 14:00        開会挨拶 14:05        ケア状況や遠距離ケア問題について紹介 14:55        質疑応答 15:10        ディスカッションの準備(グループ分けと課題の提起) 15:15        グループディスカッション 15:35        ディスカッション内容の報告 15:55        閉会挨拶   ※プログラムの詳細は、下記リンクをご参照ください。 プログラム詳細
  • 2023.07.27

    エッセイ743:葉文昌「日本酒と紹興酒について」

    2018年ごろだろうか、渥美財団関口グローバル研究会からこれまで台湾でやっていた日台フォーラムを島根でやってくれないかという打診が来た。自分の分野ならフォーラムをやっても良いかと思ったが、文系メンバーが圧倒的に多い関口グローバル研究会(SGRA)である。「文系にも分かるテーマで」という難題を突き付けられた。「文理融合」「文理相互理解」の印籠だ。でも思うのだが、理系人間は教養という名のもとに文系の言葉を理解することが求められるのに対して、多くの文系人間は理系の言葉を理解しようとしないし、しなくても許されているのはおかしくないか?   愚痴っても仕方がないので、どういうテーマなら私も参加者も楽しめるかを考えた。キーワードは「島根」と「台湾」、そしてSGRAからの注文として「文理融合」、さらに私も楽しめるテーマということで「ものづくり」とした。古代からのものづくりで島根県が誇るものとして「たたら製鉄」と「日本酒」がある。着任早々に地元のものづくりに敬意を表して司馬遼太郎の「砂鉄の道」を読んだことがあった。「日本酒」も親身に理解しようとしていた。この中で「酒」ならそれだけで文理融合できそうというわけで「酒」にした。では「台湾」の要素はどうするか?実は日本酒の近年の風潮に古酒がある。本来は鮮度が特徴の日本酒を数年間熟成させるのである。飲んでみたら紹興酒に似た要素があった。紹興酒を調べたら、紹興酒ももち米を主原料としていることがわかった。これでテーマを「日本酒と台湾紹興酒」とした。   かつて中国の文豪である李白や杜甫も、酒によって知的創造が盛んになったらしい。そして松江も江戸時代から漢詩創作が盛んだった。酒を多次元に捉えるため、さらに皆様の知的創造が盛んになることも願って、江戸時代から明治時代にかけての松江での漢詩創作についてお話できる講師もお招きした。   酒の成分はアルコールである。アルコールを作り出すには糖分を酵母で発酵させる必要がある。ワインの場合は、葡萄の糖分が酵母によってアルコールに変換される。一方で米は澱粉であって糖分は含まないので、酵母でアルコールを作り出すことはできない。そこで澱粉を糖分に変える方法が必要になる。唾液の酵素で糖化するのが昔から世界各地にあった口噛み酒である。もう一つの方法として麹菌で糖化する方式である。この方式が今の日本酒や紹興酒で使われている。澱粉と麹と酵母を混ぜて、糖化と発酵を平行に進行させるので、平行複発酵という。なぜ「複発酵」なのか?糖化も微生物の力を借りているので広義の発酵だからであろう。要するに日本酒も紹興酒も、米を平行複発酵で酒にしているのである。   日本酒の酒蔵はいくつか見学したことがあった。酒蔵のかなめは麹室である。それは檜部屋だった。なぜステンレスではなく木造なのか?木に生える常在菌をうまく生かして麹を作るそうだ。台湾の滷肉飯や日本の鰻屋の秘伝のたれと同じ思想だ。100年間洗ったことがない鍋。私は30歳までに「百年洗わない鍋はすごい、きっと美味しい」から目覚めた。一流のシェフが、神のサイコロに味をゆだねて良いはずがない。最先端の半導体工場でも、神が宿っているからと成膜室を洗わずに使い続けて良い半導体が作れるものか。これを酒飲みに披露すると大抵非難される。私は檜部屋や秘伝のたれを批判している訳ではない。伝統は大事だし、それで美味しいものを採算合って作れていれば変える必要はない。でもものづくりなら、神のサイコロにゆだねずに、1+2=3という風に、この菌とこの菌を混ぜてこう作ればこういう味になる、と神に頼らないで作ることを目指すのがロマンだろう。実は日本酒も、何人かの伝説的な先人によって、江戸時代の「きもと」から明治時代の「速醸」へ、それと戦後から泡なし酵母など幾度の革新があり、まさに合理化効率化の道を辿っていたのである。   一方で紹興酒はどうだろうか?フォーラム準備にあたって、台湾紹興酒を作っている台湾煙酒公司(元台湾煙酒公売局)の埔里酒廠で打ち合わせと見学をしてきた。日本酒の工程と非常に似ていた。同じ平行複発酵だから無理もない。しかし現代工場の麹室も檜部屋だったのは意外だった。「きもと」「酒母」「もろみ」、使う言葉は違うかもしれないが、説明すれば通じるものは多くあった。では日本酒と紹興酒の違いは何か?そして台湾紹興酒と中国紹興酒の違いは何か?特に台湾紹興酒は日本統治時代の日本酒を作っていた酒蔵を、戦後に中国から渡ってきた紹興酒職人によって紹興酒酒蔵に転換されたが、中国紹興酒との違いは何か?ここでは種明かしはせず、ぜひ会場に足を運んでいただき、味の違いを五感で感じながら、講師のお話を聞いて解き明かしていただきたい。     英語版はこちら     <葉文昌(よう・ぶんしょう)YEH Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、2008年同副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科物理工学科准教授、2022年より教授。     2023年7月27日配信      
  • 2023.07.20

    娜荷芽「第71回SGRAフォーラム報告:20世紀前半、北東アジアに現れた『緑のウクライナ』という特別な空間」

    2023年6月10日(土)日本時間午後2時より第71回SGRAフォーラム「20世紀前半、北東アジアに現れた『緑のウクライナ』という特別な空間」が開催された。コロナ禍以降初めて、登壇者全員が会場の渥美財団ホールに対面で参加。また、長野大学の塚瀬進先生以外、全員が元渥美奨学生という特筆すべきプログラムとなった。   開催にあたり司会のマグダレナ・コウオジェイ先生(東洋英和女学院大学)より、様々な民族や文化を内包して20世紀前半の北東アジアに出現した「緑のウクライナ」と呼ばれた特別な空間をテーマに取り上げた趣旨説明があった。その後、講演と話題提供が行われた。   最初はオリガ・ホメンコ先生(オックスフォード大学日産研究所)の講演「『緑のウクライナ』という特別な空間」。ロシア帝国は中国とのネルチンスク条約、アイグン条約、北京条約により極東の大きな領土を手に入れ、1861年の農奴解放令発布後、当時ロシア帝国に付属していたウクライナの「過剰」人口問題に対する方策として「極東に家族ごと移住すれば、巨大な農地がもらえる」と宣伝した。その結果、1870年からロシア革命までの間に大勢のウクライナ人が土地と自由な生活を求めて移り住んだ。1918年1月にキーウで独立共和国の宣言が行われた時、極東のウクライナ人は「緑のウクライナ」という国を作ろうとしていた。1920年代になるとソ連から逃れた100万人のウクライナ人がハルビンなどに移り住み、1945年まで留まっていた。講演ではウクライナ人がコミュニティを築き、協力しあって多様な活動を展開していた歴史を紹介した。   次は塚瀬進先生(長野大学)による「マンチュリアにおける民族の交錯」。「マンチュリア」はどのように形成され、変容したのか。そこに暮らした人々はどのように近代を迎え、現在に至ったのかを各時代の地図を用いて15世紀~17世紀半ばを萌芽期、17世紀~19世紀半ばを形成期、19世紀半ば以降を変容期と捉え、1949年の中華人民共和国建国までの歴史を考察し、国史と地域史の両方のまなざしによる歴史理解を追究した。   続いて娜荷芽(内蒙古大学)が「中国東北地域における近代的な空間の形成:東北蒙旗師範学校を事例に」を報告した。20世紀前半の瀋陽に創設された東北蒙旗師範学校を事例に、中華民国成立後の1912~1930年代の軍閥混戦期に、内モンゴルの有識者たちが各地方政権と取引を行わざるを得なかったこと、モンゴル人を主体とする文化及び教育団体は相互に連携し活発な活動を行なっていたこと、さらに漢語の著作や雑誌を通して漢族の有識者たちに自分の立場を訴えていたことなどについて考察した。   最後のグロリア・ヤンユー先生(九州大学)の報告「『マンチュリア』に行こう!」は視覚資料、小説、紀行文などを用いて20世紀前半の「マンチュリア」の生活空間の多様性を描き出し、この多様性に富む「越境する現場」空間の視覚表象は、日本帝国の拡張によって取捨され、単一化されつつあったことを説明した。講演と話題提供の90分間はあっという間に終わった。   自由討論は司会者が進行役となり、発表者4名が相互にコメントしあったり、会場からの質問に答えたりする形で進行した。会場の劉傑先生(早稲田大学)からの近代空間及び鉄道についての問題提起は、特に深く考えさせられた。松島芳彦様(共同通信社)、松谷基和先生(東北学院大学)、大野正美様(ネムロニュース)からも発表者へのコメントや質問があり活発な議論が展開した。総括で語られた塚瀬先生の「こうした議論の方向性は地域の歴史的要因の認識につながる」という話は興味深かった。会場とオンラインで参加してくださった皆様にもあらためて感謝を申し上げたい。   私にとってはコロナ後4年ぶりの日本で、雨中の東京を楽しんだ。十数年前の留学時代にお世話になった東京大学教務課国際交流支援チームの坪山様にもお会いでき、週末で賑わう人々の明るい笑顔に元気づけられた。世界中の人々が平和の中で安心して暮らしていけますように!   当日の写真   アンケート集計   <娜荷芽 ナヒヤ Naheya> 2012年東京大学大学院地域文化研究科にて博士号取得。2011年度渥美奨学生。中国内蒙古大学蒙古学学院歴史系教授、研究分野は中国近現代史、近現代モンゴル史、日中関係史。著書『二十世紀三四十年代内蒙古東部地区文教発展史』内蒙古人民出版社、2018年。訳著『民俗学上所見之蒙古』(鳥居きみこ著)きなん大学出版社、2018年など。     2023年7月20日配信