SGRAイベントへのお誘い
第11回日台アジア未来フォーラム「疫病と東アジアの医学知識――知の連鎖と比較」のご案内
下記の通り第11回日台アジア未来フォーラムを開催いたします。東アジア日本研究者協議会第8回国際学術大会内で開催するため、ご希望の方は同大会への参加申込(会場参加のみ)をお願い致します。
テーマ:「疫病と東アジアの医学知識――知の連鎖と比較」
日 時: 2024年11月10日(日)9:00~12:10(台湾時間)
会 場:淡江大学淡水キャンパス驚声大楼
言 語: 日本語
主 催: (公財)渥美国際交流財団関口グローバル研究会 [SGRA]
共 催:中央研究院史語所世界史研究室
協 力:東アジア日本研究者協議会 賛助:中鹿營造股份有限公司、他
申 込: 東アジア日本研究者協議会第8回国際学術大会HPよりお申し込みください
お問い合わせ:SGRA事務局([email protected])
■ 開催趣旨
2019年12月、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が中国の武漢市から流行し、多くの死者が出て全世界的なパンデミックを引き起こした。人と物の流れが遮断され、世界経済も甚大な打撃を受けた。この出来事によって、私たちは東アジアの歴史における疫病の流行と対処の仕方、また治療、予防の医学知識はどのように構築されていたか、さらに東アジアという地域の中で、どのように知の連鎖を引き起こして共有されたかということに、大きな関心を持つようになった。会議では中国、台湾、日本、韓国における疫病の歴史とその予防対策、またそれに関わる知識の構築と伝播を巡って議論をする。
■ プログラム
9:00 開会挨拶
〔 第1部 報告 〕
9:10~9:30
報告1 李尚仁(中央研究院歴史語言研究所)
「コロナから疫病史を考え直す――比較史研究はまだ可能であろうか」
コロナの大流行以降、このパンデミックに対する国々の対応策が異なっていることがメディアの報道とコメントの焦点になっていた。しかし、このような差異は今回のコロナの流行によって初めて発生したことではない。歴史的にみれば、実際たびたび起こっている。歴史学者のPeter Baldwin は、一連の疫病の歴史を比較する著作において、この問題について、全面的な検討をした。拙稿は彼の著作を回顧しながら、彼の研究の問題意識は実はErwin H. Ackerknecht の古典的な論文を誤読したことを指摘する。さらに、両者の比較研究の問題点と制約を検討することによって、英国と台湾のコロナに対する対応の差異を例として、これらの差異の歴史的な淵源を探求し、また疫病の比較史研究を振り返ろうと思う。
9:30~9:50
報告2 朴漢珉(東北亜歴史財)
「清日戦争以前朝鮮開港場の検疫規則」
本稿では、日清戦争勃発以前、朝鮮政府が「朝鮮通商口防備瘟疫暫設章程」を制定した後、開港場で検疫規則を運営する過程で現れた改正問題が何だったかを検討した。開港場は船舶を利用した人と物資の移動を一次的に管理し統制できる関門だった。開港場を中心に感染症予防のための防疫活動をどのように展開し、各国とどのように協力していくかが核心的な問題だった。特に検疫問題に対して利害関係が最も大きくかかっていた当事国は朝鮮と日本だった。両国は臨時検疫規則を制定し運営する過程で、数回にわたって議論しながら立場を調整していった。日本の元山領事と釜山領事は今後の改善が必要な事項を中心に意見を提示した。朝鮮の海関官員と居留地検疫委員の間の監督管理問題、検疫委員の人数拡大、入港後に船舶から発生した患者を避病院に移して治療する時にかかった経費をどのように処理するかなどがこれに該当する問題だった。仁川領事の林権助は朝鮮政府の検疫規則運営に対して不満と不信感を表わし、日本の利益に合うように検疫規則を新しく制定しなければならないと主張した。日本弁理公社の梶山鼎介は運営上の問題点を改善するために領事たちから意見を取りまとめ、建議事項に基づいて検疫規則改正案を用意した。しかし、検疫規則の改正は朝鮮をはじめ各国の外交官とも協議し、同意を得なければならない問題であった。したがって、朝鮮を相手にする検疫規則改正交渉が日本側の意図通り容易に行われないまま、日清戦争を迎えることになった。
9:50~10:10
報告3 松村紀明(帝京平成大学)
「幕末から明治初期の種痘について」
1874 年(明治 7 年)に発布された「医制」は、日本で初めて医療制度や衛生行政に関する各種規定を定め近代日本の医療制度の方向性を示したとされ、これ以後、「医制」の趣旨を実現する方向で各種法令が制定され医療の近代化が進められて行った。しかしながら明治政府は、江戸時代末期から既に各地で実施されていた天然痘に対する予防接種=種痘に対しては、「医制」に先行する形で、1870 年(明治 3 年)には「大学東校種痘館規則」(種痘館規則)、翌 1871 年
(明治 4 年)には「東校中ニ種痘局ヲ設ケ規則ヲ定ム」(種痘局規則)などを定め、種痘技術や痘苗、そして施術者である種痘医の管理を試みている。これまでは、日本における医療制度の近代化は、「医制」や上記の種痘法令などによる明治政府の中央集権的な施策を中心に進められてきたと考えられてきた。その内実について、特に明治 10 年代までの民間主導で種痘が行われた岡山県や種痘医が不足していた千葉県における種痘実施の実情を紹介しながら、再検討する。
10:10~10:30
報告4 町泉寿郎(二松学舎大学)
「感染症と東アジア伝統医学」
中国の医事制度はどちらかと言えば為政者に奉仕することに主眼があるため、発病を回避するための日頃の健康管理や予兆を知る診断が重視された。流行性感染症の治療は、為政者のための医療と言うよりどちらかと言えば民間人のための医療の性格が強い分野であるが、季節性の流行性感染症の実態を政事主体が把握するという発想は中国古代からあった。また、国家が一般人向けの薬剤頒布所を設けることは宋代から行われている。古代に遡る流行性感染症とその治療法としては、後漢の『傷寒論』が先ず想起される。本来『傷寒論』は「傷寒」というある特定の流行性感染症に特化した治療法であったものが、読み継がれていく中で「傷寒」をすべての発熱性の流行病に当てはめるようになった。これは『傷寒論』が東アジア伝統医学に大きな意義を占めたことを意味するものであるが、半面では『傷寒論』の原型をとらえることを困難にしている面がある。「運気論」は宋代以降に流行し、金元医学の理論化にも寄与した。日本では15~16 世紀にはよく読まれ、曲直瀬道三もこの理論に通暁し、17 世紀を通して浸透した。 18 世紀に入ると古学派・古方派の台頭とともに原典回帰傾向や陰陽五行論への不信感が強まり、「運気論」への関心は急速に低下する。そして、18 世紀後半からには清国からの温疫学説伝入や新しい伝染病の蔓延によって、再び病気と天地の運行の相関関係への関心が高まり、再び「運気論」に注意する医家もでてきた。伝染病の原因を「天地間一種厲気」とする考えは明治期に及び、細菌学の発達による病原菌発見まで続く。「公衆衛生」という西洋由来の発想を東アジア世界に当てはめると、18 世紀ごろまで下り(例えば、清・乾隆 14 年刊の『医宗金鑑』など)、洋学の影響をより具体的に検討する必要が生じる。一方で、公衆衛生に関する東アジア伝統医学の考え方としては「養生」=セルフケアの考え方が極めて古くから存在する。近代的な「公衆衛生」の考え方と、伝統的な「養生」の考え方をどこでどのように切り分けるのかは、東アジア伝統医学と「公衆衛生」を考えるうえでの論点となると思われる。
10:30~10:40 休憩
〔 第2部 指定討論 〕
10:40~10:50 討論1 市川智生(沖縄国際大学)
10:50~11:00 討論2 祝平一(中央研究院歴史語言研究所)
11:00~11:10 討論3 巫毓荃(中央研究院歴史語言研究所)
11:10~11:20 討論4 小曽戸洋(北里大学東洋医学総合研究所)
〔 第3部 自由討論 〕
11:20~12:00 自由討論
12:00 閉会挨拶
※プログラムの詳細は、下記リンクをご参照ください。