SGRAイベントの報告

郭立夫「第73回SGRAフォーラム「パレスチナの壁:『わたし』との関係とは?」報告」

2024年6月25日、第73回SGRAフォーラム「パレスチナの壁:『わたし』との関係とは?」が昭和女子大学でオンラインと対面のハイブリッド方式で開催されました。1月9日に開催されたSGRAカフェに続き、パレスチナ問題を取り上げたイベントは2回目です。ロシアによるウクライナ侵攻に続いて、イスラエルとパレスチナの衝突は長年保たれてきた世界平和を破壊する重大な出来事と見なされがちですが、私は「第二次世界大戦後の世界は平和である」というイメージ自体が誤りだと思います。パレスチナの住民を含む多くの人々が、常に戦争のリスクを抱えて不安の中で生活しています。

 

東アジアでも、冷戦によって台湾海峡や38度線を境とした緊張が消えることは一度もありませんでした。それにもかかわらず、第二次世界大戦や冷戦後、衝突の可能性が無視されるほど世界が平和であるというイメージは皮肉なほど強く存在します。「世界平和」というイメージが作り上げられてきたことを示しているのでしょう。このイメージは「衝突」や「戦争」を特定の地域や民族に結びつけ、「文明的かつ先進的で、民主的な」社会とは無縁なものとして描かれることで作られています。今回のフォーラムはまさにこのような文脈の中で、パレスチナで起きている問題は、「わたし」たちから遠く離れた「平和な民主世界」の外部にあるのではなく、常に「わたし」たちと関連していると訴えました。

 

フォーラムは、3つの報告と質疑応答で構成されました。明治大学特任講師のハディ・ハーニ氏が、パレスチナ問題を理解するための基礎知識を紹介。特にパレスチナ問題を取り上げる際には「誰がテロリストか」という問いかけがしばしば提起されるが、これがパレスチナで実際に起きている人権侵害や戦争暴力から議論の焦点をずらしてしまい、効果的でないと主張しました。

 

東京工業大学大学院生のウィアム・ヌマン氏は、ヨルダン川西岸やガザの植民地建築を事例に挙げ、建築がいかに政治的道具として抑圧や排除を強化するものになるかを論じました。公共空間は決して政治から離れたものではなく、排除や抑圧を強化する危険を常に抱えています。「わたし」たちと関連している例として、2021年の東京オリンピックを契機に渋谷区などで起きた街の高級化(gentrification)が、それまでの住人を排除することになり、ガザでの都市構造と同じ効果をもたらしていると解説しました。

 

最後に早稲田大学学部生の溝川貴己氏が、東京におけるパレスチナ解放運動の当事者として、東京での活動がどんなグループや運動と交差しているかを紹介しました。東京での活動が現地の多くの団体と実際に交差している様子は、フォーラムのテーマである「『わたし』との関係とは」を実例で示してくれました。

 

質疑応答では、発表者の3人が現場とオンラインからの質問に答えました。具体的には「パレスチナ(テロリスト)VSイスラエル(民主社会)」という二項対立の取り扱いや、日本人(特に大学生)がどのようにこれらの活動に関わるべきかというテーマが取り上げられました。

 

「テロリストVS民主社会」という二項対立について、発表者たちはパレスチナで起きている戦争暴力は単なる政治問題ではなく、正義の問題であるとの合意に達しました。特にヌマン氏は、正義の問題を政治問題として討論のテーマとすることに注意を喚起しました。言い換えれば、ヌマン氏は人権などの基本的な倫理的問題は、議論の余地がないものであるべきだと主張しました。

 

次に、日本の人々、特に大学生が政治的関心を失いつつある現状において、いかに多くの人々に運動に参加してもらうかという問題について、溝川氏は自身の経験を踏まえて、諦めずに活動を続けることの重要性を強調しました。政治的活動に頻繁に参加すると、「意識が高い」といったスティグマ(偏見や差別)を受ける危険があるものの、周囲に「意識が高い」人がいないと問題提起が困難になるため、継続的な参加が重要であると主張しました。

 

フォーラム後、パレスチナ活動家のアイダさんが手作りのパレスチナ料理を提供し、皆で一緒に食事しながら、さらに交流を深めました。

 

私は性的マイノリティを対象としたフェミニズム・クィア研究を専攻しており、フォーラムでも多くの感銘を受けました。この研究では「わたし(主体・主語)」というものがその理論を支える重要なツールです。この報告でもあえて自分の存在を消すことなく、「私は」から始まる文を書きました。その意味で、今回のテーマ「『わたし』との関係」も自明なものです。実際、クィア研究者のジュディス・バトラーも『戦争の枠組み』という本の中で、メディアがいかに「戦争/衝突」を文明社会の外部にあるものとして構築しながらも、テレビ画面を通してそれを視聴している人々に無限に近づけているかについて論じています。

 

さらに、イスラーム文化が同性愛を嫌悪するホモフォビックであるため、LGBTの権利を支持する民主国家がそれらの国に対して戦争を起こしても「正義」の一種であるという政治に対する批判もクィア・スタディーズの重要な柱の一つです。その意味で、溝川氏が報告したパレスチナ解放運動とクィア運動の連帯も不思議なものではありません。クィア運動は長年「人権」などの名義で行われてきましたが、それは近年強い揺り戻しを受けています。というのも、LGBTの人権を保護することが生まれ持った性別と性の認識が一致するシスジェンダー・異性愛者の人権を侵害するという議論が多く提起されるようになったからです。しかし、それは実際にはパレスチナ問題のように討論のテーマに扱われるべき「政治問題」ではなく、議論の余地がない「正義(Justice)」の問題であるという姿勢が重要なのではないかと思いました。

 

最後に、「壁」というメタファーについてお話しします。フォーラムではパレスチナ問題を議論する「壁」を、タブーと言論の自由への抑圧および物理的な分離の壁の象徴として扱っていますが、私はそれが実はさらに豊富な意味と政治性を秘めていると思います。「壁」の辺境という意味と「皮膚」との類似性を強調したいです。「壁」も「皮膚」も外部と内部を分離する機能および、外部から内部を守る機能の両方を備えています。そして両方ともある「主体(身体)」の辺境を示すものです。それはもちろん拒否や保護の姿勢を含みますが、接触、とりわけ接触することによる快楽(性的なものも含む)、あるいは包まれる安心感が存在する場所にもなります。壁/皮膚が存在することとは、痛みと快楽が同時に存在することを意味しています。これまでパレスチナ問題に対して議論できない、わからない「壁」を感じているということは、心の中のその壁に向き合えば、まさにその壁から接触/連帯が生じうる可能性があることを意味しています。

 

当日の写真

 

アンケート集計

 

<郭立夫(グオ・リフ)Guo Lifu>

2012年から北京LGBTセンターや北京クィア映画祭などの活動に参加し、2024年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻で博士号を取得し、現在筑波大学ヒューマンエンパワーメント推進局助教。専門領域はフェミニズム・クィアスタディーズ、地域研究。

研究論文に、「中国における包括的性教育の推進と反動:『珍愛生命:小学生性健康教育読本』を事例に」小浜正子、板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』(2022年)や「終わるエイズ、健康な中国:China AIDS Walkを事例に中国におけるゲイ・エイズ運動を再考する」『女性学』vol.28, 12-33(2020 年)など。