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2007.09.04
2004年の初夏のある日、「冬のソナタ」の虜になったかのように振舞う自分の母親の変貌ぶりを伝える、教え子のある女子大学生の話ではじめて私は日本での「韓流」ブームのことに気づき、深く考えさせられた。マス・メディアを通じてよく伝えられる、日本と韓国の間で繰り返されてきた「嫌韓」と「反日」といった従来の否定的な相関関係の側面から見て、一つのテレビ・ドラマをきっかけにして日本の人々の間で沸き起こった韓国人や韓国文化への関心の高まりは尋常なものではない。こうした社会現象は両国の人々における思想的基底の変化とそれに伴う相互関係における構造的変動の始まりを意味するものではないだろうか。
○原理との距離と他者との距離
私は近世東アジアにおける朱子学(新儒学)を中心とした思想的変化の推移に関心をもっているが、近代に始まったかのように思われがちな日韓両国の否定的な相関関係は、じつは両国の近世における思想的変動のなかでその芽が出来上がっていたことに注意する必要がある。
朝鮮王朝時代の朱子学はその王朝の建国理念で、しかも唯一の体制教学であった。そこでは官吏選抜システムとしての科挙制度の実施によって朱子学的教養は道徳面だけでなく政治・経済的特権と結びついていた。その分、18世紀後半になると、当時の全体人口の約80%がいわば支配的な身分(「両班」)として登録されていたほど、人々を引きつける力が強い。それだけに朱子学は宇宙秩序の道徳的な原理(「理」)に人々をよらしめ、いわば公務員倫理としての性格を強めていった。いかに私的欲望を抑制して公的使命感を高めるかがその最大の目標だったといえる。
だが、現実はそう簡単にはいかない。そこでは理想的な観念と実際との分裂といった偽善や欺瞞が起こりやすく、またそれへの恐怖から生じるドグマに陥りやすい。大雑把にいって、朝鮮思想史はその偽善や欺瞞に対して道徳的な原理との距離への問いをもって戦われた壮絶な思想闘争の歴史といえるかもしれない。
ところが、徳川日本では朱子学は朝鮮の科挙制度のような制度的装置にもとづいた体制教学でもなければ、仏教や神道的伝統が先行する思想世界のなかで独占的な地位が保証されたものでもなかった。またその分、その役割や担い手から見ても、朱子学は政治世界よりは都市庶民などの生活世界に近い存在であった。だが、その相対的に不利な条件のためにかえって、じつは朱子学はそれ自身の思想的発展だけでなく、先行の思想や宗教と交わりながら、多様な思想の豊かな展開の土壌になっていった。
一般にはあまり知られていないが、江戸時代において朱子学に志した多くの人は朝鮮朱子学の泰斗と呼ばれた李退渓系列の学風に大きく影響を受けていた。だが、やがてそこに孕まれていた原理主義への傾向と生活世界との不親和性に気づき、それを本格的に修正したり変容させたりする動きが民間の儒学者のなかで起こる。その思想運動の代表の一人である伊藤仁斎(1627-1705)が一方では朱子学に付きまといがちな他者の不在と自己中心的な独断や専横を批判しつつ、他方では他者への承認や寛容にもとづく対話的な社会形成の道を「公共」概念で表わしたのはその典型的な例である。民間でのこうした相対的に自由な思想的模索が東アジアの思想土壌のなかではじめて他者の発見につながっていたのである。
○超越者のあり方
ところが、必ずといって良いほど、物事には光と影の両面があるのが常である。他者の発見が朱子学修正のなかで生み出されていたために、民族的な自覚や危機意識と絡む場合には、その他者発見の可能性は薄まれ、かえって自己中心的な独断や専横の問題を民族的「外部」として記号化された朱子学に不法投棄してしまうようなことが起こる。先述の伊藤仁斎に強い影響を受けながらも、彼とは異なり、「漢意」の排除を通じて民族的純粋にもとづいた共同体形成の道を別の「公共」概念で打ち出した国学者の本居宣長(1730-1801)がその典型であった。
だが、本居宣長による民族的純粋への追求は応分の代償を伴う。朱子学においてその強い公的使命感を根底で支えていたのは、宇宙秩序の道徳的な原理として「理」であり、それが人においては「良心」とされるものであった。しかもその朱子学批判者の伊藤仁斎においても、他者への承認や寛容といった倫理的命令は超越者としての「天」に拠るものであった。ところが、本居宣長においては、その超越者としての「天」は神話に裏付けられた「天皇」にすりかえられ、「天」や「良心」に内包されていた普遍的可能性は民族的特殊性に閉じ込まれていった。
周知のように、日本近代における民族国家の建設とその後の帝国主義への過程は韓国の悲劇と連動した形で進行したが、そのなかで、加害者の嘲笑と被害者の怨恨にもとづいた「嫌韓」と「反日」といった否定的な相関関係と自民族への閉じこみといった方程式が固まっていったのである。
○日本と韓国の明るい未来に向けて
「冬のソナタ」から触発された日本での「韓流」ブームは、単に「韓国」という記号に収斂するものではなく、その人や文化に芽生え始めた普遍的な眼差しの発見とそれへの共感の表われだったのではないだろうか。その背後に、それまでの直截的で執着的な自己中心主義の韓国人像とは異なる、真の愛や尊敬は他者を視野に入れ自己を謙虚にしたうえでの配慮に目覚めた韓国人たちの発見が横たわっていた気がする。その意味でその社会的現象は両国ともに、民主主義と経済発展をその背景としながら、従来の両国をめぐる歴史的経緯に囚われぬ、同じ人類として共感できる普遍的なものへの素直な共感が両国の人々の間でも流れ始めたということを象徴しているかもしれない。「文化」を媒介にして多様で豊かに行われる民間交流は、今後のさらなる技術的発展とともに、両国の人々の間で真の隣人としての和解をもたらす重要なチャンネルになるに違いない。
☆この文章の英語版は、(財)国際経済交流財団発行の「Japan SPOTLIGHT」(http://www.jef.or.jp/jp/journal.html)最新号に掲載されます。
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<高 煕卓(こう ひたく)☆KO HEE-TAK>
2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。
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2007.09.01
3年ほど前より都内の某大学の生涯学習センターで韓国語講座の講師を務めている。講座に参加している受講生は20代から70代まで年齢分布の幅が広い。韓国語に興味を持つようになった理由もさまざまだ。好きな芸能人と話したい、韓国に行って韓国語の看板が読めるようになりたい、またある人は韓国人と結婚した娘の娘(孫娘)と話がしたいなどなど。理由はそれぞれ違ってもみんな韓国が大好きだ。昔は韓国人嫌いの人が多かったと思う。幸い私は経験してないが、韓国人だということで部屋を貸してもらえず大変だったと多くの友人から部屋探しの苦労話をこぼされたことがある。
いきなり話が変わるが、最近、韓国にお嫁に行く外国人女性が増えているらしい。母から聞いた話だが、日本人3姉妹が次々と韓国人と結婚しテレビでも面白半分それを紹介したそうだ。昔はその反対のパタンーが多かったと思う。
一昨年、外国人がよく行くソウルのイテウォンというところに大学院生時代にお世話になった某奨学財団関連の方のお買い物にお供したことがある。数年前、日本の友人と一緒に訪れて以来のことだった。代金を払おうとしたら「韓国ウォンはないですか?ウォンにしてください」と言われた。驚いた。数年前まではウォンはお金でないかのような語調で、日本円にしてくれないかとしつこく言われていたのに・・・。
いずれにしても韓国自体も韓国に対する外国人の印象も昔と変わった。一時帰国をするたび、韓国の変わりぶりには驚かされる。80年代後半、日本で大学を卒業した後、1年半ほどイギリスにいたことがある。大英帝国イギリスを頭に描きながら渡英したが、世界を席巻した大英帝国の姿はもはやそこにはなかった。マンチェスターやリバプールなど昔栄えた町ほどそうだった。活気が感じられなかった。まるで老紳士のようだった。当時の日本はというとそれは活気に満ち溢れ、この国に強く照らし続けている太陽が沈むことはないように思えた。最近、たまに韓国へ行くと猛烈な躍動感を感じる。健康で虹色の夢を見ている成人式を終えたばかりの若者のような。
韓国は1960年代朴正熙大統領時代から始まった計画経済政策により急速な経済発展を遂げた。10%以上の成長率を記録し、「ハンガンの奇跡」と言われるほどであった。とくに1988年ソウルオリンピック以降、IT産業、造船、半導体、電子、自動車、携帯電話などにおいては基幹産業として飛躍的な成長を遂げ先進国と肩を並べるようになった。造船では海外受注量において1位であった日本を追い抜いて世界一となり、半導体の分野では三星電子を筆頭とする韓国企業が世界シェアの一位を占めている。自動車分野においても世界中に販売網を構築し先進諸国と激しい競争を繰り広げている。全産業に通用するとは言えないものの韓国企業と韓国商品が世界市場で高く評価されていることは確かのようだ。政治的には金大中大統領の太陽政策(宥和政策)以後、敵対関係であった南北が協調関係に変わった。南北を縦断する道路と鉄道を繋ぐとか、経済的協力を拡大するとか、さらに統一に向けた具体的構想を練るとか、朝鮮半島にとって明るいニュースがちらほら聞こえてくる。性急な人々は民族の宿願「統一」が実現され、陸路で朝鮮半島発アジア、EU行きもまんざら夢ではないと目を輝かす。韓国語講座の受講生たちも韓国にお嫁に行く外国人女性たちもそんな韓国が好きになったかもしれない。
人間と同じく国にも乳幼児期、青少年期、成人初期、成人後期、老年期というライフサイクルがあると思う。人間のライフサイクルは老年期から逆方向へ戻ることはできないが、国はいくらでもそれができることが違うだけだろう。世界経済史が示しているように韓国が今の状態を長期的に維持できる保証はない。いつ韓国が沈み、またどの国が昇るのか興味津々だ。
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<羅 仁淑(ら・いんすく)☆La Insook>
博士(経済学)。SGRA研究員。
専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。
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2007.08.31
SGRAレポート第38号
第6回日韓アジア未来フォーラム in 葉山講演録
「親日・反日・克日:多様化する韓国の対日観」
2007年8月31日発行
総合司会: 金 雄熙(仁荷大学副教授、SGRA研究員)
【開会の辞】今西淳子(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)
【挨拶】李 鎮奎(未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授)
【発表1】金 範洙 キン・ボンス(東京学芸大学講師、SGRA研究員)
「近代における韓国人の日本留学と人的ネットワークの形成」
【発表2】趙 寛子 チョウ・クァンジャ(中部大学人文学部助教授)
「北朝鮮の戦時体制と韓国の歴史認識/論争」
【発表3】玄 大松 ヒョン・デソン(東京大学東洋文化研究所助教授)
「独島/竹島と反日」
【発表4】小針 進 こはり・すすむ(静岡県立大学国際関係学部助教授)
「韓流と日韓関係」
【フリーディスカッション】
進行:南 基正(国民大学助教授、SGRA研究員)
フォーラム参加者全員(未来財団日本研究チーム、SGRA研究員、ゲスト等、約25名)
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2007.08.21
1866年に日伊修好通商条約が締結された後の日伊関係については、1868年以降イタリアで出版されている『リヴィスタ・マリッティマ海事雑誌』(Rivista Marittima)に掲載された日本に関する海軍司令官報告書や諸論文などを読んでみると新しい発見ができる。
当時のイタリアでは、蚕糸業が蚕体の病気の蔓延により大きな被害を受けており、海外から良質の蚕種を輸入する必要に迫られていた。王国海軍が日本へ海洋遠征を開始した理由は、まさに日本から蚕種輸入を図るためであった。
しかし、伊太利亜王国海軍は条約に基づく開港地(神奈川、函館、長崎)以外にも、湾岸測量を行いつつ、入港可能な地点を探索していた。1872年にG.ロヴェーラ艦長率いる軍艦ヴェットル・ピサーニ号が日本に到着した。その軍艦のデ・ヴェッキ大将は下士官に水路学を教えながら、例えば脇浜の図面を制作している。図面制作を進めていたイタリア人は日本人たちから大いに歓迎され、乗組員たちは、その日本人たちに艦内見学までさせている。日本人たちの鋭い質問に圧倒されたと回想するロヴェーラ艦長は、下士官の淡路島・三原での訪問について興味深い指摘をしている。
「三原に住む日本人は外国人に多大な関心を示すところからみて、三原の住民は初めてヨーロッパ人に出会ったと推測される。イタリア人の士官が綿の商売で繁栄していた三原の目抜き通りを歩いたとき、前も後ろも日本人がついてきたが、全部で千人はいたであろう。三原を見学することを事前に町の人に連絡していたわけではなかったので、それら日本人は誰かに命じられて我々イタリア人を歓迎していたわけではなかった。」
更にまた、開港・開市でなかった「Yamada」という地名の付けられた場所について、ゴヴェルノーロ号のアッチンニ艦長による1873年の記録につぎのような記述があるり、伊太利亜王国海軍の士官、乗組員たちが、開港・開市以外の土地も訪れていたことがわかる。
「入り江には小さな日本の汽罐船があった。ポルチェッリ大尉と少尉の努力にもかかわらず、日本人と意思疎通できなかったため、その舟がそこで何をしていたのかはまったく分からなかった。その入り江については横浜で何人かの外国人の全権大使が話していた。しかし、小さな入り江なので大きな舟が入れない。さらにまた、海岸には小さな村しかなく、商売に適していないと思われる。そこからさらに6マイルほど離れた場所にある仙台市の方がある程度商業が発達しているため、面白いかもしれない。」
以上明治初期の伊太利亜王国海軍による海洋遠征にみる日本とイタリアとの《出会い》について若干みてきた。ここで参照した資料は、いずれもイタリア側から“テクスト”として記述された見聞録である。日本側において伊太利亜王国海軍についてどのように記述されたか文献資料を比較考量することも必要となってきている。
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<シルヴァーナ・デマイオ ☆ Silvana De Maio>
ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。
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2007.08.18
今年の四月から、二つの大学で非常勤講師として中国語を教えるようになった。これまで大学院で先輩たちに「若手」と目されていた私だったが、平成生まれの大学生の前では、日々自分の「古さ」を突きつけられていた。確かに、いまだに携帯を持たず、活字メディアに固執しているのだから、時代遅れといわれても仕方がない。しかし、私が感じたもっとも大きな「ジェネレーションギャップ」は決してファッションや趣味、話題といった外在的なものではなく、むしろ知覚・感覚の様式や物事を認識、思考する回路の違い、つまり文字通り「人間」そのものの違いである。
というのは、テレビやゲーム、パソコン、携帯に囲まれて育てられた世代の感覚様式は驚くほど視覚に頼っている。多くの学生が私に、話した内容を逐一黒板に書くように求め、耳だけでは追いつくことができない。他人の話を聞くのも苦手のようで、何人も同じ質問を繰り返すこともしばしばあった。集中できる時間が短く、時には小学生のように手を挙げてトイレに行ったり、前に座った人にちょっかいを出したりする。しかし、彼らは決して不真面目でもなければ、中国語が嫌いというわけでもない。男子学生でもきれいなノートを作り、絶えず辞書を調べている。問題はそこなのだ。私が不思議に思うのは、本来練習問題に出てくる言葉はすべて習ったものにもかかわらず、彼らはいつもそのつど振り出しに戻って遂字に(←?)辞書を調べる、ということだ。これは、単純に復習をしていないため、覚えていないと理解してもいいが、その学習スタイルはどこかパソコンに似ていないのだろうか。つまり、そのつど、パソコンを立ち上げ、必要な情報を検索するというスタイルだ。しかし、パソコンから見つかった情報は常にそのときそのときの必要性に応じて見つけ出されるもので、決して体系をなしていないのだから、彼らの頭に取り入れられた情報も散乱としていて、記憶するために必要な体系化という作業がなされていない。さらに、こうした、全体像が分からないまま、そのつどの需要にあわせて情報を取り出す今日の学生たちの物事を認識する方法は、断片化された情報を次から次へと更新していく「断片性」と「速報性」という「世論操作」の基本とほぼ同じ構造を持っていることも、決して見過ごせないだろう。
中国の若者たちも例外ではないはずだ。世界的にますます均質化された都市生活の中で培われた感性や知性と、中国の政治、経済、社会的状況という土壌とが、いかなるダイナミズムをなしているのかを考えない限り、いわゆる「愛国主義教育」による洗脳の魔術を誇大視し、インターネットに飛び交う情報の内容の虚実に目を奪われるだけでは、日中関係の未来が一向見えてこないのではないか。
このような疑問を持って、最近「反日」デモに関する過去の新聞をいろいろと読み漁った。1908年の第二辰丸事件、1915年の山東問題、1919年の五四運動、1920年代の旅大回収、五・三〇事件、山東出兵、済南事件、1930年代の万宝山事件、満州事変・・・・・・そして、2005年の「反日」デモ。こうして新聞報道や学者の議論を追っていくと、暴徒化した学生の暴力的行為、戦々兢々とする邦人の恐怖、反日愛国主義教育、メディアの煽動、政治家の権力闘争、山積する社会問題、くすぶる群衆の不満などなど、デモの様子についての描写もデモ発生の背景を分析する視点も驚くほど類似していることに気付く。もっとも、それぞれのデモが発生する特殊な歴史的背景を無視し安易に表層的な類似点を抜き出して比較するのは禁物である。だが、あらゆる「現状」に基づいた分析に確かに一つだけ変わっていない要素がある。それは、プロパガンダに洗脳され、政治家に利用され、メディアに煽動されやすい、かくも純真な怒れる青年たちの気質である! すなわち、人間だけは、変わらないものとされているのである。
ここで、息抜きに最近ツボにはまった笑い話をちょっと紹介しよう。「シンブルー・ライン」というイギリスのコメディ・ドラマのなかで、主人公のファウラ警部の同居者パトリシャは「指圧マッサージ」に夢中になって、足裏に頭や心臓や肝臓など身体のあらゆる部分に対応するツボがあって足ツボマッサージがどんなに身体にいいのかをこんこんと説いていたら、ファウラ警部はこう聞いた。「足のツボはどこだ?足が疲れた時どのツボを押せばいい?」そう、足裏には足のツボがないのだ!と同時に、足の疲れをほぐす時にいつも足全体をマッサージしているのだから、足裏にあるすべてのツボがまた足のツボでもあるのだ。
やや強引な展開になるが、政治学や歴史学や社会学、経済学など人文科学の個々の研究分野と人間との関係も、足裏にあるさまざまなツボと足に効くツボの関係と似てはいないか(私の発想のすべての源泉はこうした日常的なたわいのない経験であることをお許しいただきたい)。つまり、われわれはそれぞれの研究領域において、具体的な政治的、歴史的、社会的、経済的事象に気をとられるあまり、全ての人文科学は、根源的に人間に関する探究にほかならないという最も重要なことをつい忘れてしまうのではないだろうか。
歴史家リュシアン・フェーヴルが明確に定義している。「歴史とは人間を対象とする学問」だと。さらにこう言う。「生きるとは変化することにほかならない」。「科学」と冠するあらゆる学問において、それでも人間を一つの常数としてではなく、常に一つの変数として細心の注意を払いながら扱うべきだと主張する私はやはり「古い」人間なのだろうか。
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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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2007.08.15
「キャンパスは琵琶湖、テキストは人間」を理念としている私の大学のキャンパスはまさに琵琶湖の畔にあるので、このごろよく湖畔を散歩する。先日、わが大学よりもずっと湖畔にある滋賀県水産試験場のある研究者の方と立ち話をする機会があった。彼はこの水産試験場で淡水魚の養殖や生態に関する研究をしているようで、話は鮒寿司の作り方から琵琶湖の歴史や生態へと広がり、最近話題になっている外来種の問題にまで及んだ。
彼の話によると、琵琶湖の生態を脅かしている最大の外来種は「オオクチバス(俗にブラックバス若しくはラージマウスバス)」と呼ばれる北アメリカ原産の魚だそうだ。この種の魚は1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて発見され1970年代になって急速に全国に広がり始め、現在は全都道府県で確認されている。琵琶湖では1974年に初めて確認され、1980年代後半に増殖のピークを迎えた。ブラックバスは大型の動物食性の魚で、魚類・甲殻類だけでなく、昆虫や鳥の雛まで食べ、日本の元来の生態を維持してきた在来種の魚や生態系に対して大きな影響を与えている。琵琶湖では1984年以降、駆除事業が始まり現在も続いている。
ブラックバスと同じく北米原産の魚ブルーギルも多様な小動物から水草まで食べる雑食性で、とくに魚の卵を好んで食べるために、激増した水域では在来生物への大きな影響が懸念される。皮肉なことにブルーギルは1960年、当時の皇太子殿下の渡米の際に、みやげとして贈呈された個体が、各地へ分与され、1965年に西ノ湖で初めて記録され、1968年には琵琶湖で捕獲され、1970年代前半に湖全域に拡大した。1990年代に入って個体数を急増させているという。最近ではコクチバス(又はスモールマウスバス)と呼ばれるはやり北米原産の大型動物食性魚も猛威をふるっているようである。
ところが、日本の河川や湖には、獰猛で肉食性の北米原産だけではなく、近隣のアジアからも色々な外来種が日本に上陸していた。例えば、ハクレンやソウギョのように、明治-大正期から食料増産の目的で中国や台湾、朝鮮半島から持ち込まれた淡水魚がいるが、北米原産と違って非肉食であるうえ、日本在来種に対して劣勢に立たされ、現在その殆どが元来の遺伝的な特徴を失ってしまったという。またこうしたアジア原産の外来種は、日本在来種と同様に北米原産魚に対して劣勢に立たされていることも注目に値する。逆に、日本から北米に持ち込まれた鯉が大発生し、北米在来種に対して脅威となっているという話もしてくれた。
水産研究に素人である私がなぜこのような外来種問題に興味を持ったのか。それは、日本在来種が北米外来種に「劣勢」であるのに対して、アジア外来種には「優位」であるという、琵琶湖を舞台にした湖の中の「国際化」現象にヒントを得たからである。
叫ばれて久しき地上における国際化の実態はどうであろうか。福沢諭吉の「脱亜論」が1885年3月16日の『時事新報』に掲載されて以来、日本は欧米追随一辺倒でアジアを厄介者扱いしてきたが、それが今日の経済大国実現の原動力であったと大勢の日本人に信じられている。しかし、経済的に欧米を圧倒しながらもスポーツや文化などの面で欧米にコンプレックスを覚えてきたことに慣れてしまったため、近年のアジア諸国の経済発展を前に、本来ならアジアに対して「優勢」であったはずの部分までが見え隠れしている状況で、もしかして自信喪失に陥っているのではないか。それが一世紀以上「脱亜」した結果と思うと、実に理解し難いところである。あるフォーラムで某学識経験者が語った「日本はアジアとのつきあいの中であまり良い目に遭ったことがない」というニュアンスの言葉が記憶に残っているが、歴史的事実がそうだとしても「脱亜」し続けてどうやってアジアの台頭に対応するのか。福沢諭吉の時代と違って、現在のアジアはもはや「亡国」を待ち受けた「頼りにならない」アジアではなく、むしろ日本よりも活力に溢れたところとなっている。「脱亜論」を聖書にし続ける人々には、潜水服を着て琵琶湖に潜って、北米原産に食われながらもアジア原種を「同化」させてきた日本在来種の逞しい「国際化」の姿を観察することをお勧めしたい。
<ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain>
1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学
研究科より修士号、2001年博士号取得;日本学術振興会外国人特別研究員を経て、2006年より滋賀県立大学人間
文化学部准教授。SGRA会員。
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2007.08.15
「キャンパスは琵琶湖、テキストは人間」を理念としている私の大学のキャンパスはまさに琵琶湖の畔にあるので、このごろよく湖畔を散歩する。先日、わが大学よりもずっと湖畔にある滋賀県水産試験場のある研究者の方と立ち話をする機会があった。彼はこの水産試験場で淡水魚の養殖や生態に関する研究をしているようで、話は鮒寿司の作り方から琵琶湖の歴史や生態へと広がり、最近話題になっている外来種の問題にまで及んだ。
彼の話によると、琵琶湖の生態を脅かしている最大の外来種は「オオクチバス(俗にブラックバス若しくはラージマウスバス)」と呼ばれる北アメリカ原産の魚だそうだ。この種の魚は1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて発見され1970年代になって急速に全国に広がり始め、現在は全都道府県で確認されている。琵琶湖では1974年に初めて確認され、1980年代後半に増殖のピークを迎えた。ブラックバスは大型の動物食性の魚で、魚類・甲殻類だけでなく、昆虫や鳥の雛まで食べ、日本の元来の生態を維持してきた在来種の魚や生態系に対して大きな影響を与えている。琵琶湖では1984年以降、駆除事業が始まり現在も続いている。
ブラックバスと同じく北米原産の魚ブルーギルも多様な小動物から水草まで食べる雑食性で、とくに魚の卵を好んで食べるために、激増した水域では在来生物への大きな影響が懸念される。皮肉なことにブルーギルは1960年、当時の皇太子殿下の渡米の際に、みやげとして贈呈された個体が、各地へ分与され、1965年に西ノ湖で初めて記録され、1968年には琵琶湖で捕獲され、1970年代前半に湖全域に拡大した。1990年代に入って個体数を急増させているという。最近ではコクチバス(又はスモールマウスバス)と呼ばれるはやり北米原産の大型動物食性魚も猛威をふるっているようである。
ところが、日本の河川や湖には、獰猛で肉食性の北米原産だけではなく、近隣のアジアからも色々な外来種が日本に上陸していた。例えば、ハクレンやソウギョのように、明治-大正期から食料増産の目的で中国や台湾、朝鮮半島から持ち込まれた淡水魚がいるが、北米原産と違って非肉食であるうえ、日本在来種に対して劣勢に立たされ、現在その殆どが元来の遺伝的な特徴を失ってしまったという。またこうしたアジア原産の外来種は、日本在来種と同様に北米原産魚に対して劣勢に立たされていることも注目に値する。逆に、日本から北米に持ち込まれた鯉が大発生し、北米在来種に対して脅威となっているという話もしてくれた。
水産研究に素人である私がなぜこのような外来種問題に興味を持ったのか。それは、日本在来種が北米外来種に「劣勢」であるのに対して、アジア外来種には「優位」であるという、琵琶湖を舞台にした湖の中の「国際化」現象にヒントを得たからである。
叫ばれて久しき地上における国際化の実態はどうであろうか。福沢諭吉の「脱亜論」が1885年3月16日の『時事新報』に掲載されて以来、日本は欧米追随一辺倒でアジアを厄介者扱いしてきたが、それが今日の経済大国実現の原動力であったと大勢の日本人に信じられている。しかし、経済的に欧米を圧倒しながらもスポーツや文化などの面で欧米にコンプレックスを覚えてきたことに慣れてしまったため、近年のアジア諸国の経済発展を前に、本来ならアジアに対して「優勢」であったはずの部分までが見え隠れしている状況で、もしかして自信喪失に陥っているのではないか。それが一世紀以上「脱亜」した結果と思うと、実に理解し難いところである。あるフォーラムで某学識経験者が語った「日本はアジアとのつきあいの中であまり良い目に遭ったことがない」というニュアンスの言葉が記憶に残っているが、歴史的事実がそうだとしても「脱亜」し続けてどうやってアジアの台頭に対応するのか。福沢諭吉の時代と違って、現在のアジアはもはや「亡国」を待ち受けた「頼りにならない」アジアではなく、むしろ日本よりも活力に溢れたところとなっている。「脱亜論」を聖書にし続ける人々には、潜水服を着て琵琶湖に潜って、北米原産に食われながらもアジア原種を「同化」させてきた日本在来種の逞しい「国際化」の姿を観察することをお勧めしたい。
<ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain>
1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学
研究科より修士号、2001年博士号取得;日本学術振興会外国人特別研究員を経て、2006年より滋賀県立大学人間
文化学部准教授。SGRA会員。
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2007.08.11
アフガニスタンのイスラーム武装勢力であるターリバンに23名もの韓国人が人質にされるという未曾有の事件が発生しました。被害者のうち男性二人はすでに幽明界を異にしています。ターリバンという組織は、2001年に起きたバーミアン石仏の無謀な破壊で一般人にもなじみ深い名前ではないでしょうか。
事件発生から2週間以上もたっているのに、いまだに解決の糸口さえ見つかっていない今回の事件は、私にも二つの意味で格別な関心事となっています。その一つは、私の研究分野がまさにこのターリバンと深い関わりを持っているということです。俗にいう「イスラーム原理主義」とそれを広めようとする世界各地のムスリム組織を分析することが、私の博論テーマであり、帰国した現在も韓国の研究所で相変わらずそのテーマに取り組んでいます。
もう一つは、いまアフガニスタンのどこかで不安と恐怖に苛まれているはずの韓国人の人質たちがキリスト教の布教団体に属している人たちだからです。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私は幼い頃からキリスト教の牧師になることを夢見ていました。信心深いプロテスタントの家庭で育てられ、大学時代はほぼ毎日教会に通い、日本語で書かれたバイブルをいつも暗唱したりしていました。いまも叔父の一人はアフリカでキリスト教の宣教師をやっています。そのような私が今はイスラームの専門家を自称しているのですから、まあ、人間の運命はどう方向づけられるか分からないものです。
イスラームを信仰としてではなく、あくまでも研究対象としているとはいえ、私はいつの間にかアンティ・クリスチャンになってしまいました。ヨーロッパと中東、アメリカの歴史をひもとくと、そこには愛なる唯一神の名において流された血のなまぐささでいっぱいです。ある人は、それらを壮絶でロマンに満ちた英雄談もしくは聖なる戦争云々しますが、私にはただフラトリサイド(兄弟殺し)としか見えません。どこかで聞いたように思いますが、地球上で同種を大量に殺す動物は、人間をおいていないそうです。
以前プロテスタントの信者だった頃、私はキリスト教の布教を十字軍の出兵に準える賛美歌を聴いて違和感を覚えたことを思い出します 。戦闘的で独善に満ちたあの歌詞を声高々に歌いだす人たちのメンタリティーが不思議でなりませんでした。神の愛や真理を刀と槍に、信者を武装した戦士になぞらえながら戦意を燃やす人たちが、異教徒たちに包容と慈悲を施すのは不可能でしょう。
今回の事件を契機に、過剰でかつ競争的に行われる韓国のプロテスタント教会の海外宣教をめぐって、世論では激しい議論が展開しています。多くの人たちが、韓国のプロテスタント教会に自省と省察を促しています 。一方では、人質に取られた若者たちを同情し、彼らが何の縁故もない他国で政治と宗教の犠牲となることに公憤を覚えながらも、一方では、宗教イデオロギーの宣伝を前提におこなうクリスチャンたちの慈善行為を軽蔑する人は、意外に多かったのです。他人の信仰を捨てさせ、彼らの生き方を変えさせるために、彼らを治療し、食べ物を与え、教育を施すことが、果たして人道活動たり得るのか、という声がキリスト教内部からもあがっています。
しかし殺戮と狂気の歴史はキリスト教の専有物ではありません。イスラーム史の中にも同種殺しの例はいくらでもありますから。他の宗教はどうでしょうか。確信をもっていえるのは、あらゆる宗教が絶対的な何かのために、それが究極の真理であれ創造主の神であれ、殺人を容認しているということです。ある人は反論するでしょう。私たちの宗教は「平和」を意味します、と。しかし彼らのいう平和は彼らだけのために成立する平和なのです。他者の排除を前提にしない限り、宗教そのものが成り立つはずもないでしょう。「信じる」私たちと「信じない」彼らが存在しなかったら、すでに宗教というものはあり得ないのです。そこで私は思うようになりました。人間の作り出したあらゆる事物のなかでもっとも悲しいものは、宗教ではないか、と。最近耽読しているイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスの著作『神は妄想である──宗教との決別』(The God Delusion)は無神論にたいする私の認識に驚くほどの洞察を与えてくれました。これまでいろんな宗教を経験しつつ暫定的に不可知論者を自称していた私が、無神論者になる日が来るかも知れません。
この文章を書いている今、私は祈っています。残り21人の無事釈放を、です。しかしもう私の祈りを聞いていただく絶対者が存在するとしたら、それはイエスでもなく、アッラーでもなく、ブッダーでもありません。それは人類の良心であり、私自身であり、あなたなのです。そして神に祈らなくとも、いくらでも祈ることができることに私はやっと気づいたような気がします。
(2007年8月4日)
玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN
韓国外語大中央アジア研究所研究員
SGRA会員
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2007.08.08
7月の上海は梅雨の時期なので、雨が多いが、かなり蒸し暑い。ある日の昼間に、私はいつもどおり自宅の書斎で研究に熱中していたところ、パーンと突然の爆竹に驚かされた。その爆竹は、ビルの10階ほどの高さまで飛んできたのだから、目の前で聞こえたその音は非常に大きかった。中国では、新年、結婚や引越しなどのようにおめでたい事があるとき、爆竹を鳴らして、邪気や悪気を祓い財や福を呼び込むという慣習がある。関係者以外の人にとって、普段静かな住宅地で突然、何の予兆もない爆竹音に驚愕させられることは少なくない。その時、中国で生きるには、心臓が強くないと酷い目に遭うだろうといつも思う。
だが、その後も遠いところから何回かの爆竹音が聞こえたため、この日の出来事はちょっと不思議だと思った。なぜかいうと、雨天に爆竹を鳴らす人はあまりいないからだ。夜のニュースを見るとなるほどと事情がよくわかった。この日は7月7日であったため、雨にもかかわらず結婚するカップルが普段より多かったという。2007年7月7日というめったにない吉日だから、中国だけでなく、海外でも結婚ラッシュが続いたようだ。西洋では、「7」はラッキーセブンとして吉の数字だとされることが多い。カジノのスロットマシーンやブラックジャックでは、「777」は幸運の数字であるように、それが並ぶ日も当然縁起のよい日だとされる。
ところが、中国では最も縁起のよい数字は「7」ではなく「8」だ。それは、「8」の発音が發(ファー)という音に通じるので、「發財(お金が儲かる)」と言う意味で「8」が好まれるわけだ。逆に「4」は“死”の発音に結び付けられるから不吉の数字とされており、車のナンバーなどには避けられている。その点は日本においても同様であり、「4」が嫌われることは周知の通り。病院などの階数や部屋数に「4」を付けないのが一般的である。刑務所さえ、それを付けることを嫌うという。さらに、14と24はそれぞれ「重死(じゅうし)」「二重死(にじゅうし)」と同じ発音であるからタブー視されている。
また、日本では「9」も「苦」の連想があるので、「4」についで嫌われる。だが、中国では「9」が「久(長い)」などの意味で縁起のよい数字とされている。このように、中国人の数字の好き嫌いは日本人と随分違うし、その他の国とも異なっている。数字は本来世界に共通する「言葉」で象徴的な意味を持ってないはずであるが、それにまつわる迷信の意味を含まれると、国によって人々に歓迎される、されない数字と二分化してしまう。その理由は単なる語呂合わせであり、その他の科学的や合理的根拠は一切ないと誰もわかるが、数字に対する人間の「こだわり」には実に根深いものがある。
中国では八の数字は大変縁起ものだから、究極の数となっている。電話番号から住所、部屋番号、車のナンバーなどまで、なんでもそれを選ぶ傾向がある。それが個人の生活範囲を超えて、政府の行動にも捉えられる。来年の夏季オリンピックは北京で開催されることになっているが、開幕式の時間はなんと2008年8月8日午後8時であるから、魔法の数字だ。それ以上に縁起のよい時間帯はもうないだろう。
数字に深い感情色彩を付け加えることは可笑しいが、回りの皆さんがそれに従うと、信じないより信じたほうが心強くなるに違いない。だから時代が進歩しても、数字の迷信はまったく変わらない。その関連で妄想すると、4444年4月4日という日に、中国と日本は大変な社会的混乱が生じるだろうか。さらに、7777年7月7日、または8888年8月8日には、世界そして中国は何が起こるかも全然想像できない。
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<範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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2007.08.08
日 時: 2007年11月18日(日)
午後2時30~5時30分 その後懇親会
会 場: 東京国際フォーラム ガラス棟会議室 G510号室
主 催: 関口グローバル研究会 (SGRA:セグラ)
協 賛: (財)渥美国際交流奨学財団
■フォーラムの趣旨:
SGRA「人的資源・技術移転」研究チームの担当する4回めのフォーラム。広告は社会を写す鏡なのか。どのように写しだすのか。大量消費文化を反映するものなのか、それとも何がしかのプロパガンダが含まれているのか。単に物を売るためだけでなく、新しい思想、新しいライフスタイルを啓蒙するものなのか。広告は国や文化によって違った特徴をもっているのか。中国やウクライナの事例を紹介しながら、広告と社会の複雑な関係を考えます。
■プログラム:
詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/forum29program.doc
【基調講演】関沢英彦
東京経済大学コミュニケーション学部教授
【報 告 1】徐 向東
(株)中国市場戦略研究所、SGRA研究チーフ
【報 告 2】オリガ・ホメンコ
早稲田大学国際教養学部訪問学者、学術振興会外国人特別研究員、SGRA研究員
(休憩10分)
【パネルディスカッション】
上記講演者