SGRAかわらばん

  • 2017.07.13

    エッセイ540:林泉忠「香港政治体制の権威主義化」

    (原文は『明報月刊』(2017年7月号付)に掲載。平井新訳)   香港返還後の政治体制の行方は、『香港基本法』にすでに関連規定が存在している。1997年に香港返還が行われてから現在に至るまで、特別行政区政府は基本法の規定に則り円滑に統治が進められるはずであった。しかし、香港が返還20周年を迎えた今年、香港の政治体制はいったい「行政主導」なのか、はたまた「三権分立」なのかという激しい論争が巻き起こっている。   皮肉なのは、この論争に巻き込まれている当事者は、すべて中国の『憲法』及び香港『基本法』に定義されている為政者であり、返還20年来の中国と香港の政治エリートの間に、将来の香港政治の進展の方向性に関し、著しい思想的な隔たりを示していることである。両者は未だコンセンサスには至っておらず、現在及び将来の香港政治体制の発展には多くの不確定要素が横たわっている。   一方、2014年6月に北京が「一国二制度白書」を発行して以来、中央政府は中連弁(中国中央政府駐香港連絡弁公室)も含め、香港政治に積極的に介入しており、香港特別行政区の政治運営を改めて規定し直す動きが日増しに明らかになっている。このことは、香港の政治制度改革が「権威主義化」の方向に進んでいるのではないかという疑いも招いている。   〇「行政主導」か、それとも「三権分立」か?   この論争に火をつけたのは、中共中央港澳工作協調小組組長(中国共産党中央香港・マカオ工作協調チーム・リーダー)を兼務する中国共産党7常務委員(チャイナセブン)序列第3位の人民代表大会委員長、張徳江が、今年の5月27日に「香港基本法施行20周年座談会」に出席した際に発表した談話で、「香港基本法が規定している特別行政区における政治体制は三権分立ではなく、特別行政区長官を中心とした行政主導である」との指摘だった。この一言は大きな波紋と香港の民主派の強い反発を招くことになり、「大律師公會」(Hong_Kong_Bar_Association:香港法廷弁護士会)主席の林定国も「『基本法』には香港が独立した司法権を有していると明記してあり、返還20年来、そのことは一度も変わっていない」と反論した。   6月10日に至り、後任の特別行政長官林鄭月娥がテレビのインタビューで「『基本法』には、立法機関が政府を監督する権利を有すると明記してある」と語ったことで、ようやくこの論争に一段落がついた。   それでは『香港基本法』はいったい「行政主導」を強調しているのか、それとも「三権分立」なのだろうか?基本法の条文を見ると、「政治体制」の部分では、第一節で述べられているのは、行政長官の職能であり、その後に行政機関、立法機関、司法機関について規定されている。しかし、『基本法』の全文には「行政主導」に対する言及も、「三権分立」という語句も記載されていない。すなわち、張徳江が「行政主導論」を提起したのは、「香港が中央直轄の下で高度な自治権を有する行政区画としての法律的地位を享有することに符合する」と考えているためであり、その後の議論が示しているのは、その目的が「中央と香港は授権・被授権関係にあること」及び「高度な自治の名の下に中央の権力に対抗することを認めない」という主張にあることは明白である。   民主派陣営は、張徳江に対して『基本法』の中に「行政主導」が規定されていないことを強調することで速やかに反論し、張の「行政主導論」は基本法が有する「三權分立」の精神を破壊するものだと批判したのである。しかし『基本法』の「政治体制」に対する規定全体をみわたせば、「行政主導」の含意も、行政・立法の相互のチェックアンドバランス及び司法機関が独立した裁判権を行使するという「三権分立」の精神も、どちらも『基本法』において解釈の余地があり、ただ中央政府及び建制派と民主派の間で自らの利益によって各々の解釈の重点が異なるだけである。   〇2047年の「行政主導」の思想を超えて   筆者の意見では、張徳江の「行政主導論」は、中連弁主任の張曉明が2015年9月12日に提起した長官が三権を凌駕するという「特首超然論」と合致しており、加えて2014年の「オキュパイ・セントラル」以来、北京が政治改革を始動する時に何度も保守的な立場を表明するなか、中南海が香港政治体制の発展の方向性を再度位置づけし直す意図があることが見てとれる。言い換えれば、北京はすでに行政長官の香港憲政における立法、司法に優越する特殊な地位を維持ないし強化する傾向にあるということである。また、中国と香港の関係において行政長官及び特別行政区政府が「被授権」の相対的に弱い地位にあることを強調し、こうした位置づけを通じ行政長官をコントロールすることで香港を掌握するという目的を達成しようということであろう。   実際のところ、北京の頭の中にあるのは現在の「香港問題」への対応のことのみならず、「50年間変わらない」と言われた香港の現在の統治体制が終了を迎える2047年以降までを、すでに思考の視野に入れていると思われる。ここ数年、香港憲政体制及び中国香港関係についての議論で高い注目を集めている北京航空航太大学高等研究院法学院副教授で一国二制度法律研究センター執行主任の田飛龍が最近執筆した『行政主導はもう時代遅れか?──香港憲制モデルの再思考』という論考の中で、「2047 年は、『一国二制度』と『香港基本法』の存廃を決める年ではなく、(香港統治の)生まれかわりの年、行政主導と香港行政長官が生まれかわる年であり、現在の論争はすべてそれまでの間に(統治の)理念及び条件を整える準備であるのだ」と指摘している。   はっきりしているのは、田飛龍は「存廃の存在しない」という「一国二制度」と「香港基本法」がいったい2047年以降いかに「生まれかわる」のかについて、決して説明しない。田がその部分について多くの含みを持たせているのは、明らかに30年後の中国の変化が香港の制度に及ぼす影響を予測するのは難しいことを考慮してのことであり、同時に中国共産党が「行政主導」を土台とした権力思考を放棄していないばかりか、将来の長期間にわたってそれを構築し続けるだろうという予測を導き出しているということだ。   こうした権力思考のコンテクストにおいて、香港特別行政区政府がたとえ将来に政治改革を始動したとしても、少なくとも行政長官の「普通選挙」に関しては必ず「完全に支配可能」という北京の要求の基盤に沿ったものでなければならないということが判断できる。言い換えれば、予見可能な将来に渡って、中国政府が2014年に規定した行政長官「普通選挙」の全人代「八三一枠組み」(民主派の立候補を排除する)を放棄するなどという見立ては恐らく幻想に過ぎないということである。そしてこうした「支配可能」な選挙モデルは、通常、政治学における政治体制の分類における権威主義体制の特徴と図らずも一致するのである。   〇「権威主義体制」下の「支配可能な選挙」   政治学において「権威主義体制」とは、「全体主義体制」と「民主体制」の中間に位置する政治体制である。たしかに民主主義の観点からいえば、権威主義体制も専制独裁体制に分類される体制である。ただ国家もしくはその権力者があらゆる社会的リソースをコントロールする「全体主義」とくらべれば、「権威主義」は、比較的に強い支配イデオロギーを欠いており、また、国家権力は人民に宗教活動を含めた自由な活動空間を許さないほどまでに強大ではない。このほかに、権威主義体制のもう一つの特徴として、ある程度までの選挙は許容されるものの、選挙結果は必ず支配可能なものだという点である。戦後、発展が比較的早かった中南米や東アジアの多くの新興工業国、特に「四小龍」と呼ばれた韓国、台湾、シンガポールを含め、多くの東南アジアの国家が形成した政治体制は、ほとんどが「権威主義体制」の範疇に属するものである。   しかし、これまで香港は決して典型的な権威主義政体ではなかった。というのも、香港は1990年代以前には、確かに完全な選挙ではないものの、それでも一般の権威主義政体がそれを欠いている所の言論の自由や報道の自由、学問の自由など相当程度まで保障されていた。イギリス時代末期にクリストファーパッテン総督による政治改革が返還後の逆コースで頓挫して以降、香港は進むべきもう一つの道として、『基本法』に基づき、それが提示する「普通選挙」の方向に向かって、まさに一歩一歩と新しい選挙制度を再建してきた。   しかし、07、08年の「ダブル普通選挙」の延期後、さらに2017年行政長官選挙を規定する「八三一決定」がお目見えとなるに至って、もはや北京の理解においては、行政長官及び立法会を選ぶ「ダブル普選」を含む香港における高度な選挙は、必ずすべて「支配可能」な条件の下で実施されなければならないというものであることは明白である。 この点から言って、北京の支配下にある返還後の香港の政治体制の発展趨勢は、すでに権威主義体制にますます近づきつつあるといえるだろう。   〇香港政治の「権威主義」化   中国共産党が1949年に大陸において政権を掌握して以降に構築したのは、ソ連を模倣した社会主義制度で、政治体制論から言えば「全体主義体制」に分類されるものだった。この制度の下では党と国の一体化が進み、党の意志がそのまま国家政策を形成する中で、政府は人民に思想統制を敷き、あらゆる市民社会の社会活動空間を掌握していた。   毛沢東の死去に至って、鄧小平による改革開放の推進の時代を迎え、鄧による「思想解放」のスローガンの下で、1980年代は中国大陸において、これまでで思想が最も自由闊達な時代となった。北京が香港返還後に実施した「一国二制度」、「港人治港(香港人による香港統治)」という思想もまた、こうした比較的に緩やかな政治的雰囲気の中で生じたものであった。趙紫陽の時期に入ると、中国共産党は部分的に政治体制改革を開始し、村民委員会選挙も導入することができた。一方、1980年代後期の香港は区議会選挙のみを開放するばかりだった。この時期は、台湾では李登輝が憲政改革を推進する以前のことであり、国会は依然として全面改選にまでは至らず、未だ地方選挙のレベルに止まっていた。言い換えれば、1980年代末までの両岸三地は民主改革の進展度合いに大きな差はなかったのである。   1989年の民主化運動及び「天安門事件」を経て、中国共産党は政治体制改革を中止し、権威主義政体から民主政体への移行の契機は消失した。この後は、「中国の台頭」、日増しに強大化する経済的パワー、「政権の安定維持」が中国共産党にとってますます強固となる基本的な思想となった。こうした思想のもとで、中国共産党は自ずと香港に対するそれまでの「寬容」な態度から徐々に引き締めに向かい、「国民教育科」の推進や「銅鑼灣書店事件」、さらに近年は直接的に香港の教育制度に手を伸ばすような手段を採るなどした。これらの動向は、どれも中国共産党が中国大陸をコントロールする際の手法を使用することで香港社会の反発に対処しようという傾向にあることを示している。   こうした鄧小平の「馬照ホウ(足包)、舞照跳(返還後も香港人の暮らしは今までと変わらない)」という考え方に反する思想は、「雨傘運動」後に更に顕在化しており、香港の「権威主義政体」への移行路線は今にも現実のものとなろうとしている。台湾はかつて権威主義時代を経験したものの、最終的には民主化の方向に向かっていった。一方、香港はこのまま「権威主義化」の方向に進むにせよ、将来的に「脱権威主義化」の方向に向かうにせよ、その将来の行方は完全に北京の手に握られていることは全く疑問の余地はない。これこそが香港と台湾の最大の相違点と言えるだろう。   <林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。     2017年7月13日配信
  • 2017.07.03

    エッセイ539:葉文昌「忖度は日本の特性か」

    ここのところいろいろな事件によって、忖度という言葉が注目されている。既に今年の流行語大賞の有力候補であろう。そして、ニュースで、日本外国特派員協会において「忖度」の英訳に困って「Sontaku」というローマ字が使われたと報道されたように、忖度とは日本の特性と認識されている節がある。   しかし、そもそも「忖度」が初めて出現したのは少なくとも2700年前の詩経である。意味も「他人の心を読む」とある。中国から日本へ伝わったものであるから、日本人にはあって中国人にはないとは考えにくい。私の経験からしても忖度は中国や台湾でも日本以上にまかり通っている手法であり、私が台湾で初めて社会経験をした義務兵役でも、忖度することはとても大事だと先輩から教わり、実際に軍隊の中で忖度できる人は常にいい思いをしていたものだ。正門の衛兵が、夜中に直属ではない見知らぬ上官が外で飲んだくれて身分証明も見せずに入って来た時、あるいは上官が夜中に外部の女性を連れて入って来た時、銃を向けて「これ以上入ると銃を撃つぞ!」と言った日には、反省として一週間牢屋にぶち込まれ、先輩や直属上官からは「察しが利かないやつだ」、と笑われるに違いない。   ここまで察しや忖度などの力学で組織が動くようになると組織は危うくなるものだ。法治ではなくて人治になるからである。私は除隊後4か月で東京の大学へ入学した時の、人間関係の忖度や察しから解放された自由でクリアな気分を覚えている。このように、忖度の文化は、当時は日本よりも人治国家であった台湾の方が強かったというのが私の認識である。もっともこれは私の主観なので客観的にどこまで正しいかは断定できないが、少なくとも忖度は日本特有のものではないのである。   「日本人は以心伝心ができる」「日本人は味覚が鋭い」「日本人は繊細」とか「日本人はXX」という言い方をよく聞くが、私はあまり好きではない。裏を返せば「外国人は他人の心情領域にまで踏み込んでデリカシーがない」「外国人は味覚が鈍感」「外国人は粗削り」ということになり、差別意識を埋め込んでしまうことになるからだ。島根の中海では赤貝(実際はサルボウ貝)の養殖が盛んで、煮物が地元の味として食べられている。私は「蛤の美味しさは理解できるが、赤貝の美味しさがまだ理解できていない。」と人に言ったことがある。どういうところに旨味を感じるのかを教えてもらえば私もそこに注意してみたいと思ったのだが、「日本人の繊細な舌にしか理解できない」で片付けられるのが大抵のオチなのである。   なんとも歯がゆい。味覚については、どこの国でも自国メディアは国内のめでたいことしか報道しないから、自国民は秀でていると勘違いしがちなだけである。人口が日本の1/5の台湾が豊かになってからは、パン職人は欧米のコンクールで優勝しているし、地元のウィスキーが日本のウィスキー会社以上の賞を取ったこともある。従って台湾人の味覚が劣っているとは言えない。これからは豊かになった中国人が賞を取る時代が来るだろう。味覚は人間である以上人種によってそう変わるものではない。   「日本人は何事もオブラートに包む、空気を読む、相手の『察し』に期待して断片的にしか言葉にしない」と聞く。しかし京都人の「お茶漬けでもいかがどす?」に対して日本人にもいろいろな考えがあるように、私は日本人すべてが一様な考えとは思わない。私は20年近く前に「中国人はXX」と蔑んだことがあるが、私が未熟だったために偏見に満ちていたと今は気付いて反省している。人種や国籍による差異は、経済状況などのバイアスを受けるものの根本的な部分は小さく、それよりも内部の多様性による差異の方が大きいものである。何もかも人種の違いに解釈を見出すことは偏見を助長しかねないので不安を感じる。   <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。       2017年6月29日配信  
  • 2017.06.22

    エッセイ538:ラムサル ビカス「日本語のあいまいさ」

    人間はどんなに勉強しても、どんなに学習しても完全ではない。どんな分野であれ、完璧な人間はいないだろう。日本語に限らず、どんな事を習っても、その国の人のように理解するのは難しい。些細な事でも理解できない言葉も少なくない。日本語の中で私を最も悩ませるのはあいまいさである。そこで、今回はこのような日本語のあいまいさについていろいろ考えてみた。   あいまい表現とは直接ではなく、言いたいことを少し言い換えて(婉曲に)相手に伝えることである。翻っていえば、基準値が明確ではないため、相手を紛らわせる言葉ともいえる。例えば、感謝の気持ちを表すときに「どうも」という言葉をよく使う。「ありがとう」とも表せる言葉であるが、何かを謝るときの「ごめんなさい」も表してしまう。「すみません」も同様である。感謝の場合でも使え、また謝罪の時にも使える。一体何をしたいのだろう!謝っているのか、それとも礼を言っているのかを考えさせる表現である。   「結構です」もよく使われる。相手からご馳走になったとき「結構です」と言うのをよく見かけるが、これも2つの意味を表す。「おいしい」と「いりません」である。また、「ちょっと」も日本人がよく使う、とても便利で使いやすい言葉のようだ。しかし、外国人で、慣れていない人にとっては大変難しい。よく耳にするのは、「お食事は?」と聞かれ「今日はちょっと」という返事。これはどう考えても、わかりにくい。もう食べたのか、それとも食べてないのか、食べる気持ちがないのか、で惑わされる。   文法上は不備な言語構成であるが、日本人同士はこれで充分相互の意思疎通ができたのであり、それで不自由さを感じなかったのである。すなわち、外国人に会うことがほとんどなかった日本人社会では、このような会話でまったく問題がなく、この日本語で充分であった。   日本語のあいまいさとは日本の言語文化でもあり、知らず知らずのうちに使用してしまう場合も多い。提案書、設計書、報告書、さまざまな文書にあいまい表現は入り込み、技術提案書でよく出てくるあいまい表現もある。たとえば、進捗率70%と言った場合、どこまで進んで70%かは人や状況によって異なる。一見定量的な表現ではあるが、基準値が明確でないあいまい表現が圧倒的に多い(単位不明、期限が不明、対象範囲が不明、暗黙の了解)。   あいまい表現を分類しようにも書き切れないほどである。例えば、程度を表すあいまい表現は、すごく、適当、適切、ちょうど、かたい、だいたい、およそ、多く、きれい、~にくい(難しい)、少々、相当、少し、しっかり、あまり、一定の、きちんと、ほぼ、当分、はっきり、よく、大した、やや、などなどである。それに、調整に使うあいまい表現は、ちゃんと、しっかり、ただし、とにかく、~はず、~さえ、~ごとに、などがある。推測には、あれ、一応、くらい、だいたい、たいてい、およそ、~ようだ、~らしい、~だろう、などという言葉がある。まだまだ数えきれないほど、あいまいさを表す言葉は多い。   ここで自分の経験を挙げてみたい。日本へ来たばかりの私は、食事をしようと思ってレストランを探していた。片言の日本語を話せるレベルだったころのことだ。ラーメン屋で「ご飯お替り自由」と書いてあった看板を見て入店した。ラーメンを注文して、最後に、店員に「ご飯はいかがなさいますか」と勧められ、私は「ご飯はちょっと」と答えたが、30分たってもご飯が来ない、店員に聞くとご飯は頼んでいないことになっていた。その時の私は、ご飯を少なめにしてもらいたかっただけなのに、結局、ご飯にありつけなかった。   ここでは私の経験を生かして日本人と外国人の違いを述べたい。日本人は言語表現に際して、断定的にものを言うのを嫌う民族である。日本人はある現象にたいして、言語表現の文末に、意識的にわざわざ断定を避けて、それは「・・・でしょう」や「・・・であろう」といったように、あいまいに表現することが多い。自分では内心「これはこうだ」と思っていても、断定的な表現をわざとしないように「気をつかって(?)」「こうはこうであろう」と表現する。   その点、外国人の多くは、何事においても自分は「こう考える」とか「こうである」というように断定的に表現する。比較してみると、日本人は何事においても、自分の見解を述べるときには、断定を避けてあいまい表現に終始する態度をとるように見受けられる。この日本人のあいまい表現に対して、外国人はたいへん奇異に感じると同時に、自分の考えをわざと隠して述べない「ずるい」民族であると思う人さえいる。   私は、日本人の話し方に疑問を持っていないわけではない。しかし、このような紛らわしくて、わかりにくいあいまいさこそが日本の文化である。これによって日本人は日本人らしく表現することができる。日本人は、できるだけ争いを避けて平和に暮らしていこうという考え方の持ち主が多い。初めは面倒くさいと思ったことも、慣れていくうちにいつの間にか私も、あいまいな表現を使えるようになった。あいまいさがあるからこそ現代の奥ゆかしい日本文化が成り立っているような気がしてならない。   <ラムサル ビカス Lamsal_Bikash> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。ネパールのトリブバン大学科学技術学部物理学科を終えて、2010年1月に日本語学生として来日。2014年3月に足利工業大学大学院修士課程を卒業。2017年3月に足利工業大学大学院情報・生産工学専攻より博士号を取得。現在は鹿島建設株式会社技術研究所先端・メカトロニクスグループ研究員。     2017年6月22日配信
  • 2017.06.08

    エッセイ537:太田美行「忖度する日本語」

    イスタンブールのホテルでの会話である。 「すみません、ベッドサイドの電気スタンドの電気がつかないんですけど。」 「はい。」 「あの、電気がつかないんです。」 「はい。・・・それで?」 「いえ、あの、電気がつかないから困っているんです。」 「・・・ああ、お客様は困っていて技術的なアシスタントが必要なんですね。」 「そうです、そうです。」 「わかりました。係の者を部屋に伺わせますのでお待ち下さい。」   フロントに電話をしたら、やけに話が通じず時間が掛かって困った。フロントの人も意地悪でそういったのでは無論なく、私の話の趣旨が掴めず困っていたのだ。どうしてこうも話が通じないのだろう。ふと、日本語教師養成講座時代の先生の言葉が浮かんだ。 「日本語は察しの文化です。外国、例えば中国南部の人に以心伝心は通じません。具体的に言わない限り多くの場合、こちらの意向は伝わりません。」   そのクラスでは「以心伝心」「察し」で通じる会話を作成する課題が出された。酒屋に「うちだけど。」「ああ、毎度ありがとうございます。午後にお届けしますよ。」とだけで注文する得意客と店員の電話のやり取り、待ち合わせは「じゃあ、いつもの所で。」誰が、何を、どこで、は明示しなくても会話は成立してしまう文化。「どちら様ですか?」「いつものを何本ですか?」などと聞こうものなら、たちまちのうちに「まったく気が利かない店だよ。」などと思われてしまう。実際、ビジネスマナー本などにも「よく電話をかけてこられるお客様の声は覚えておきましょう。お客様も喜ばれます。」といった「気の利く対応」が推奨されている。   他人の心情領域に踏み込むこと、あるいは相手に行為を直接的に促すことが日本では、失礼なことにあたるとされている。英語の直訳で「(あなたは)私に何をしてほしいですか」と言われたら、大半の日本人が違和感を覚えるだろう。他にも有名な和歌の一部を引用することで和歌全体の内容を伝えることがあるが、この場合のポイントは全文を言わないこと。直接的な要求や引用は日本ではあまりしないものとされる。   それと言わなくてもコミュニケーションが成立してしまう日本文化では、非言語コミュニケーションが発達し、大いに考慮されている。特に権力の立場にある者は誰といるか、誰に何を頼んでいるか、それ自体がメッセージなのだから慎重なものになるべきだが、どうも怪しいようだ。周囲の者は発信者の意図を察して対応する。日本語と忖度はセットで使われ、必須の相方があってこそ日本語の文章は成立する。この文を読むあなたが今そうしているように。   <太田美行☆おおた・みゆき> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通、コンサルティングなどを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。     2017年6月8日配信
  • 2017.06.01

    エッセイ536:マックス・マキト「マニラ・レポート2017年初夏」

    2015年9月、国連は17の持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDG)を定めた。その6番目の目標に「すべての人々に水と衛生へのアクセスと持続可能な管理を確保する」ということが掲げられている。これを背景として、第23回SGRA持続可能な共有型成長セミナーが、「経済的に困窮しているコミュニティのための水の統合システム」というテーマで、2017年5月7日(日)にマニラで開催された。共同主催者は、雨水利用を推進するアメコス・イノベーション社(AMECOS INNOVATION, INC.)で、自社を会場として提供してくれた。   SDGのウェブサイトには、次のような統計がある。 ・2015年の時点で、改良飲料水源を利用する人々の割合は、1990年の76%から91%へと増大しています。しかし、トイレや公衆便所など、基本的な衛生サービスを利用できない人々も、25億人に上ります。 ・毎日、予防可能な水と衛生関連の病気により、平均で5000人の子どもが命を失っています。 ・水力発電は2011年の時点で、最も重要かつ広範に利用される再生可能エネルギー源となっており、全世界の総電力生産量の16%を占めています。 ・利用できる水全体の約70%は、灌漑に用いられています。 ・自然災害関連の死者のうち15%は、洪水によるものです。   フィリピンでも水の状況はあまり芳しくない。今のままでは、フィリピンは今後10年以内に水不足が深刻な問題になり得る。不衛生な水しかなくて毎日55人が命を落としている。ボトルウォーターの使用が急増している。   SGRA持続可能な共有型成長セミナーの目標は「効率・公平・環境」の鼎立であるので、実行委員会ではKKKセミナーと呼んでいる。ちなみに、フィリピン語にしてもKKKなのである。毎年2回フィリピンで開催する共有型成長セミナーでは、1人の委員のKKKに関する研究とアドボカシー(主張)に焦点を当て、発表と議論が行われる。   第23回KKKセミナーの午前中の司会者は、フィリピン出身の元渥美奨学生のブレンダ・テネグラさんであった。彼女は暫くの間参加できなかったが、今西淳子SGRA代表の誘いで、前回のKKKセミナーから復帰してくれたので嬉しく思っている。今回のKKKセミナーの焦点は、アメコス社の社長で、元大学教授であるアントニオ・マテオ先生の雨水利用の活動であった。   マテオ先生と角田英一渥美財団事務局長の開会挨拶の後、マテオ先生が「イノベンション(発明+革新)と気候変動の影響」(Innoventions Versus Climate Change Effects)というテーマで発表した。雨水利用は家計の水道費を節約するだけでなく、気候変動によって頻繁に起きている湖水の被害を軽減できるという主張であった。水源に注目したマテオ先生に対して、フィリピン固形廃棄物管理協会(Solid Waste Management Association of the Philippines)のグレース・サプアイ会長と娘のカミールさんは、下水に焦点を当てた「浄化槽における環境に優しいイノベンション(発明+革新)」(Green Innoventions in Septic Tanks)を発表した。   ちなみに、KKKセミナーへの次世代の参加が増えていて嬉しく思っている。彼らには未来が託されているからこそ、積極的に参加してもらいたい。KKKセミナーは2004年にスタートしたが、その時から僕の兄弟たちはもちろん、姪と甥もできるだけ参加してもらうようにしている。今回も、マニラの大学の工学部を卒業した甥が参加した。別の甥は、セミナー前日の夜遅くまで仕事があったが、セミナー当日には運転手として手伝ってくれた(セミナーでは眠っていたけれど)。   サプアイ親子の発表の次に、「コモンズの管理と債務の開発のための交換 (Managing the Commons and Debt for Development Swap:コモンズとは誰の所有にも属さない資源を指すもの)についてジョッフレ・バルセ氏が発表した。彼は、100年以上も続く古いオーストラリアの「良き政府の協会」(Association for Good Government)の会長であり、セミナーのためにシドニーから来てくれた。バルセ氏は、汚職などが絡んで正しく使われなかった借入金はインフラ開発のため(例えば、水道システムの開発)に使えるようにすべきだと主張した。   最後に、フィリピン大学経営学部のアリザ・ラゼリス先生が「営利団体による水源の管理」(Water Resources Management by Business Organizations)について発表した。国連の「統合水源管理」が発表した理論的な分析枠組みを展開し、文化的要素を含む社会的な様相をその枠組みに導入しようとした。   昼食を挟んで、午後はSGRAフィリピン代表のマキトが司会を務め円卓会議を行った。他の委員のアドボカシーを事例として円卓会議の進め方を説明した後、発表者や参加者と一緒に、午前中の発表を1つずつ、5つの観点(つまり、効率・公平・環境・研究・アドボカシー)から論じた。その詳細と当日の写真は、セミナーの報告書(英文)をご参照ください。   円卓会議の後、マテオ先生にアメコス社をご案内いただいた。本社屋は多目的で、自宅でもありながら、発明用の研究室+展示施設でもある。獲得した特許はすでにご自分の年齢を上回っているほどで、「母の胎内にいた時にも発明をやっていた」と冗談を言っていた。   しかし、特許に関しては問題もある。あるフィリピン政府機関が無断で彼の発明を利用しているそうだ。知的財産の権利を守る番人でもある政府が、その役割を果たしていないのであるから問題の深刻さを物語っている。政府は国の発展のためにその発明を広めようとしているかもしれないが、さらなる発明や革新の妨げになるだろう。それでも、マテオ先生は国の発展のために発明や革新を呼びかけている。   アメコス社のプチ観光の最後に、子ども達や家族や友人たちを楽しませるために、再利用した資材を使って自分で作ったツリー・ハウス(樹上の家)に案内してくださった。マテオ先生が発明や革新の意欲を失わず、しかも、KKKセミナーの参加者とのネットワークがビジネスにも役立ったと話してくれたことを嬉しく思っている。   <マックス・マキト☆Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。     2017年6月1日配信
  • 2017.05.25

    エッセイ535:金律里「『積弊清算』への要求―今回韓国大統領選挙について―」

    2017年5月9日(火)に行われた韓国の大統領選挙で文在寅(ムン・ジェイン)氏が当選し、韓国第19代大統領となった。   そもそも今回の選挙は、朴槿恵(パク・クネ)前大統領の弾劾で大統領が欠位になったためであった。朴前大統領は、「大統領が全国民に対し『法治と順法の象徴的な存在』であるにもかかわらず、憲法と法律を重大に違反した行為」(憲法裁判所決定文中)をしたゆえに弾劾され、現在拘置所に収監中である。   周知の通り、朴槿恵前大統領は、1963年から1979年まで執権した朴正煕(パク・ジョンヒ)元大統領の娘である。朴正煕は軍事クーデターによって権力を握り、国家主導の強力な経済発展政策を施行したが、彼に対する評価は大きく2つに分かれる。1つは、朴正煕は植民地支配とそれに次ぐ朝鮮戦争の後の貧しい韓国を、高度経済発展へと導き、現在の韓国経済の礎を築いた「偉大な指導者」である、という見方である。こういった見方の極端な例ではあるが、彼の誕生日に生誕祭を行うなど彼を神格化し崇拝する人々も存在する。他方、朴正煕は自分に反対する人々を無残に除去しながら長期執権した独裁者で、現在韓国の政治・経済・社会が抱えている諸問題は、ある程度は朴正煕独裁政権時代の過ちに起因する側面があり、よってその時代を反省して乗り越えるべきである、という見方もある。   朴正煕に対する見解は、韓国の改革派と保守派を区別する基準の1つともされ、政治家としてそれほど実績もなかった朴槿恵氏が特に保守派の圧倒的な支持で大統領となり得たのは、その親の七光りが極めて大きかった。それに加え、数年にわたる韓国経済の低迷によって、韓国経済が量的に大成長した朴正煕時代を懐かしく感じる人が増加し、経済再建を掲げた朴氏の当選に影響を与えた。   しかし、朴氏の在任期間中、韓国国民の生活はより厳しくなった。とりわけ、「3放世代(サンポセデ)」と称される青年達の生活はみじめな状況まで陥ってしまった。3放世代とは、3つをあきらめた世代という意味で、その3つは、恋愛、結婚、出産である。大学生は就職のための勉強で恋愛ができず、また就職しても給料が十分ではないため多額のお金のかかる結婚ができない。結婚はできても、住宅を購入できる十分なお金もなく共働きしなければならず、また育児や子供の教育にもお金がかかるため出産をあきらめる、ということである。この新造語は李明博元大統領の在任時期である2011年頃登場したが、言葉が表す青年たちの状況は悪化する一方であった。2017年の最低時給は6470ウォン(約650円)であるが、平均ランチ代は6500ウォン前後である。つまり、コンビニなどで1時間働いても昼食代さえギリギリなのである。   若者ひいては大多数の国民は、生活難の深刻化のうえに、セウォル号事件やMERS事件で明らかになった国民の生命さえ守れない無能の極まりを見せた朴槿恵政府に幻滅し、崔順実(チェ・スンシル)ゲート事件が起爆薬になって、大統領の弾劾に至った。   以上のような辛酸をなめてきた韓国国民は、今回の選挙で、もともと朴槿恵を支持しなかった人はもちろん、支持したことを後悔する人々も、「積弊清算」を掲げた文在寅を選択した。文氏の当選は、単なる政権交代にとどまらず、とりわけ朴前大統領の弾劾によって明確になった権威的な大統領、権力に迎合する検察、政官財の癒着などに対する改革の声であり、経済的不平等の緩和、社会的弱者に対する配慮などへの要求である。   英訳版はこちら   <金律里(キム・ユリ)Kim_Yullee> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。韓国梨花女子大学を卒業してから来日、2015年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を退学。     2017年5月25日配信
  • 2017.05.18

    エッセイ534:南衣映「平和の国で考えてきたこと」

    (『私の日本留学シリーズ#9』)   米軍基地は、ある人々にとってはアメリカ文化を楽しめる身近な場所となっている。毎年、花見と花火の季節に開かれる開放イベントでは、戦闘機や軍艦を見物し、ホットドッグやピザを味わう人々で賑わっている。しかし、そこはどうしても忘れることのできない苦痛が始まったところでもある。米兵の犯罪や事故で生命と尊厳を奪われた女性たちにとってはそうである。この事実を知らない人はほとんどいないだろう。だが、何も言えず静かに涙を流すしかなかった人々がどれほど存在していたかを知ることはできない。また、一方には、経済的な事情などの理由で兵士になったが、心的外傷後ストレス障害(PTSD)で苦しんだ末、自ら命を絶ってしまう若者たちがいる。米軍基地は軍産複合体(military-industrial_complex)であると論じられているが、それは苦痛と快楽の複合体(pain-pleasure_complex)でもあると私は思う。   米軍基地による安全保障が謳われている中で、こうした苦痛は語ること自体難しいものになっている。そのようにして、基地というのは多くの人々によって支えられている。私のように遠く離れているところに住んでいる者たちにとって、米軍基地とは何か。韓国と沖縄で基地のある日常を生きている人々の声を聞いて私はそう考えた。それからもう一度米軍基地に目を向けた。様々な人々がそれぞれ異なるかたちで関係しているこの巨大なシステムは、どのように形成されてきたか、その文化的基盤とは何かを考え始めた。具体的な事例として、東アジア最大の駐留地域である日本で、ミュージシャンによる公演活動や、FENとして知られている米軍ラジオ放送が、どのようにおこなわれてきたのかを研究してきた。このように文化を取り上げることで明らかにしたかったのは、米軍基地の明暗ではなかった。そうではなく、苦痛がどのようにして快楽と結び付くようになったかを考えたかった。そこで、第2次世界大戦期までのアメリカで何が起きてきたかを追跡してきた。   その過程で浮かび上がってきたのは、新しい史実よりも歴史とは誰の語りであるかという問いであった。資料調査中に訪れた米軍のミュージアムで、朝鮮戦争の最中を生きている少女の写真を見た。自身に銃口を向ける米兵の前で、チマチョゴリを着た少女は怯えていた。米軍はその姿をカメラに収め、「誰が敵であるかわからなかった」と伝えている。そこに写っている少女のことを、私は見たことも聞いたこともなかった。戦争は遠い過去のことのようである豊かな時代に生まれ育った私は、大学院に進学し米軍について研究をしている。だが、60余年前、私と同じところで生まれ育ったあの少女は、米兵に敵扱いされていた。この少女の姿が、韓国ではなくアメリカでこのように語られているのはなぜだろうか。   日本に帰ってアメリカで収集してきた米軍の文書を読んでいると、あるフレーズが目に入ってきた。「われわれはなぜ朝鮮で戦うのか」。戦場に派遣される兵士のため、こうしたタイトルの映画や冊子などが制作されていた。なぜアメリカの若者は朝鮮半島に来たのか。私はそのとき初めて問うようになった。戦争がどのように勃発したのか、どのように展開されたのかについては、小さい頃から聞いてきた。大学に入ってからは、戦争中に民間人の虐殺がどのように起きていたのか、米軍がその悲劇にどのようにかかわっていたかも知るようになった。しかし、米兵になった人々については考えたことはなかった。米兵はどのような思いで朝鮮半島に来たのか。アメリカの若者は、どのようにして見も知らぬ韓国人のために命を捧げるようになったのか。アメリカの青年が朝鮮の少女に銃口を向けるようになったのはなぜか。   その戦争は休んでいるものであれ、終わっていない。世界一平和が訴えられてきた国で暮らすことで、私は自身が世界一長い戦争が続いている国で生まれ育ったことに気付き、これまでの自身を振り返るようになった。それだけでなく、韓国の戦争も、日本の平和も、米軍基地という共通の土台の上に成り立っているのはなぜかを問うようになった。さらに、その土台が若者の苦悩と苦痛によって築かれてきたことにも目を向けるようになった。「基地問題」の対策が論じられても、基地というシステムが生み出す苦痛は、依然として語れないもの、聞こえないものになっている。米軍基地について何が見えても何は見えづらいのか。何が聞こえても何は聞きづらいのか。日米韓同盟の強化が推し進められる昨今の様子を見ると、平和なんて無理だという思いがしなくもない。しかし、他に選択肢があるのか。戦争による苦痛に満ちている社会で生まれ育った私は、やはりそう思うしかない。なかなか難しいものであるからこそ、平和は研究に値する対象ではないかと思う。   <南衣映(ナム・ウイヨン)Nam, Euiyoung> 東京大学大学院情報学環特任研究員。2006年、韓国ソウル国立大学社会学科卒業後、国費留学生として来日。2014年、東京大学大学院学際情報学府博士課程満期退学。19世紀後半以降のアメリカが軽武装国家から軍事大国へ変貌してきた過程を視野に入れ、第2次世界大戦以降の東アジアにおけるアメリカナイゼーションを考察している。       2017年5月18日配信
  • 2017.05.11

    エッセイ533:林泉忠「『習・トランプ会談』から見えたトランプの胆略と手腕」

    (原文は『明報』(2017年4月10日付)に掲載。比屋根亮太訳)   片方は権力が一極集中した毛沢東以来の中国最強の指導者。もう片方は「アメリカを再び壮大な国としての勢いを取り戻そう」という建国以来最も尋常ではない「超異種」の大統領。このユニークな個性を備える2人の、数十年に一度あるかどうかの大国の指導者のめぐり逢いにより「庭園サミット」が演出され、それだけで国際メディアの注目を引くには十分すぎるほどであった。それにとどまらず、今回の米中元首による会談の重要性を事前に評論するものも現れ、冷戦期1972年2月の共和党のニクソン大統領による歴史的な北京訪問と重ねて議論する者もいた。しかしながら、大きな注目を浴びた「習・トランプ会談」にもかかわらず、「実質上の成果を得られない」まま終了した。   〇トランプ氏が手堅く戦略的高得点を得た   なぜなら、2日間の「習・トランプ会談」は、火花が散ることも、これといって目立ったニュースもなく、インタビューに訪れた多くの国際メディアの記者たちは、トランプ氏の孫娘による中国語の歌『茉莉花(ジャスミン)』に注目をせざるをえなかった。あるいは、報道の焦点を会談期間中に起きた、アメリカのシリアへの軍事行動へと迅速に移さざるをえなかった。しかしながら、もしトランプ氏が今回の習近平氏訪米全過程を、細かくアレンジしていたとするならば、我々は、トランプ氏の「能ある鷹は爪を隠す」という能力を暴くことが出来なかったということになる。トランプ氏は人を唸らせるほど大胆な知略と手腕に富んでいたことになるだろう。そして今回の、尋常でない米中サミットに伴う2大指導者による外交の力比べにおいて、言うまでもなく、トランプ氏が最初から最後までずっと戦略的主導権を握っていたと言えるだろう。   まず初めに、トランプ氏が先手を取ったのは、米国がホスト、中国がゲストという地位関係である。45年前はニクソン氏自らが、新中国を巧みに手なずけし、それをもってソ連を牽制するという目的で、千里はるばる見知らぬ「共産中国」を訪れた。毛沢東は落ち着きはらい、自信たっぷりな様子で、「米帝国主義のボス」を出迎え、明確に、威張り腐った「ソ連兄貴」へ見せつけた。この奇妙な米中ソの世紀の外交ゲームにおいて、「東風が西風を押し倒す」をスローガンに掲げていた毛沢東が勝利をおさめ、その傍らで面子をも取り戻した。   しかし今回は、ホワイトハウスの新たな主人であるトランプの主導のもと、習近平氏の訪問が「アレンジ」され、更には、もともとは7月に予定されていたスケジュールを4月上旬に早めさせた。国内では権力を集中させ、13億人もの人口を抱える大国の習近平氏は、時間の調整を急がせざるをえず、予定を早めてこちらの「不確実性」に溢れたアメリカ新大統領に会いに来た。時間と場所のアレンジ、どちらか一方だけをとっても、今回の一幕においてトランプ氏は容易にいち早く主導権を握っていた。   2つ目は、「習・トランプ会談」前の3か月ほどの間に、トランプ氏はありとあらゆる手を尽くして、米中関係の為すべき事柄全てをシュミレーションし、中国国内において早い段階からすでに「核心」的「スーパーストロング政治家」としての印象を持たせ、習近平氏が対抗できないほどにトランプ氏に引き回されていた。トランプ氏はまず去年12月2日に慌てず騒がず落ち着いて「蔡英文からの電話を受け」、更に2、3発続けて、「もし中国が経済貿易と南シナ海の議題において譲歩しなければ、アメリカは『一つの中国』政策を堅持するとは限らない」と言い放った。   言うまでもなく、トランプ氏とその官僚たちは、北京が最も気にかける「一つの中国」と「台湾問題」、これらの「核心」的利益について熟知しており、したがって、就任前から「台湾カード」を出して取引を行った。そして2月9日の習近平氏との通話中には、一変して「アメリカは『一つの中国」』政策を尊重する」とし、北京からの「高い評価」をうまく引き出した。北京のトランプ氏に対する基軸は、誰にも気づかれないうちにいつのまにか「不確実性を減らす」ということに固く設定されていた。中国だけに止まらず、この点に関して、トランプ氏は依然として、相手の頭をくらくらさせ方向を見失わせることを楽しんでいる。   今回の米中力比べにおいて既に優勢であったトランプ氏は、一方では、習近平氏の訪問を熱烈に歓迎する姿勢を見せ、もう一方では、「習トランプ会談」前夜に、もし北京が北朝鮮を有効に抑え込むことに協力しなければ、アメリカは「単独行動」を採ると単刀直入に言い放った。以前オバマ氏は、北京に「取り換えが効かない」影響力を発揮して欲しいと終始懇願し、北朝鮮に圧力をかけようとしていた。しかしながら、トランプ氏は、一方では、北京に対して、中国の北朝鮮に対する影響力が大きいから、それを取引の材料として、トランプ政府との駆け引きができると勘違いして誤った判断をしないようにと促し、もう一方においては、北朝鮮から地理的に遠いアメリカではあるが、依然として世界の指導者であり、トランプ政権下のアメリカは国際的な懸念に対してはさらに決断力をもって処理していくと、北京をたしなめた。突然「攻撃を受けた」北京は、まだ何が起きているのか理解できていないまま、「習近平訪米前の良好な雰囲気づくり」の目的のため、早い段階から北朝鮮への石炭の輸出を一時的に禁止し、身の程をわきまえて国連決議の執行を宣言していた。   〇トランプ氏、超大国指導者の対応能力を示す   骨折り損のくたびれ儲けの「習・トランプ会談」劇場は、4月6日予定通りトランプ氏の別荘があるマー・ア・ラゴにて、鮮やかに始まった。習近平氏はこの地に約20時間とどまり、すべての中国メディアはまじめに「習大大」(シー・ダーダ)の訪米の詳細を一つ一つ報道評論した。トランプ氏は、一方で、習近平氏を自然体で夫婦で出迎え、同時に、もう一方では、慌てず騒がず落ち着いて、シリアに対する軍事行動を挙行した。習氏に対して超大国の指導者の並外れた対応能力を見せつけたのだ。   実は、当日の午後、庭園に向かう途中の飛行機の中でもまだ、トランプ氏は国防省とテレビ会議を行っており、午後4時マー・ア・ラゴに到着後、大統領は、即座に国家安全会議を招集し、軍事行動という重大決定を下していた。晩餐会は6時半に正式に始まり、トランプ氏は、何事もないような笑顔でリラックスした様子で、「われわれは長時間の話し合いをしたが、未だに何の成果も得られていない」と表明した一方で、7時40分、米軍はシリアへ59発のトマホークミサイルを発射し、トランプ氏は宴席の間も引き続き国家安全会議の役人の進展報告を聞いていた。そして晩餐会が終了する8時半前、トランプ氏は慌てず落ち着いた様子で宴席上の習近平氏にアメリカの今回の軍事行動を伝えた。しかしながら、この前にアメリカは、ロシアとアメリカの同盟国には、このことを伝えていた。習近平氏は、これに対し「理解を示す」しかなかった。   「習トランプ会談」終了後、中国外交部の役人は慣例に則り、習近平氏の今回の訪米の「非常に大きな成果」を声高々と強調し、双方がいわゆる外交安全対話、経済問題に関する全面的な対話、ネット・セキュリティに関する対話、および社会と人文交流に関する対話という、4つの対話メカニズムの構築を宣言した。実際は、米中間において、内部の者は、各種対話メカニズムが不足していないことを皆知っているが、これらの気まずさを隠すための自己肯定は、逆にやられた感を増すどうしようもない表情として写った。   〇トランプ氏、指導者としての風格を見せ、人々のこれまでの見方を一変させ重視させる   完全にトランプ氏の脚本によって演じられた「習・トランプ会談」は、トランプ氏のアメリカ国内での名声を上げ、「オバマケア」排除等の国内政策上困り果て挫折しそうな表情をさらけ出していた状況を一掃し、外交領域での成功をおさめリベンジを果たした。その中でも特に、トランプ氏が見せた外交手腕とユニークな指導者としての風格は、この実業家ファミリー出身の「政治素人」に対して、馬鹿にするような目で見ていた多くの人々のこれまでの見方を一変させ、重視させるようになった。今回の「大がかりなトランプ劇場」に理由なく共演役を務めさせられた中国において、北京のブレインは、今回の授業によって、改めてトランプ氏の物事の処理にあたる風格、指導者としての才能と手腕を研究し理解する得難い機会を得、それを経験として取り入れ、それらがトランプ新時代の「不確実性」の序幕への対応となるだろう。   <林 泉忠(リン・センチュウ)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。     2017年5月11日配信
  • 2017.05.04

    エッセイ532:林柏俊「八田與一先生、すみません」

    4月16日の夕方、長い海外出張から戻ってほっとしたその時、テレビの速報で八田先生の銅像が破壊されたニュースを見てびっくりした。翌日、日本の友人にすまないとLINEでメッセージを送ったところ、群馬県の40代のA君から「ニュースで見た。ひどいことをする人がいるものです」との返事が来て、A君のがっかりした顔つきが僕の頭に浮かんだ…。   犯人は警察に逮捕されたが、動機といきさつを犯人自身がFB(フェイスブック)で語ったところによると「八田氏の台湾での貢献に関する歴史評価を認めることができない。数年前から計画していた」とのことだった。それに対して、台湾駐日本代表の謝長廷氏は東京で「八田氏が台湾人に危害を加えたことはない。彼は政治家ではなく水利土木技師であり、反日の対象にはなり得ない」と発言した。一方、5月8日に「八田先生の追悼会」が行われる予定であり、民間の嘉南農田水利会(組合)と奇美博物館は速やかに協力を表明し、大至急銅像の修復を行うと発表した。追悼会に間に合うよう、現在も修復を急いでいる。   台湾南部の人と我ら日本留学組は、八田先生を大変尊敬している。この方の偉業が、最近の台湾内部の政治紛争に巻き込まれてしまったことは非常に遺憾である。特に八田先生の家族と今まで台湾を応援してくださった日本の友人に対して大変申し訳ないと、深く心が痛む。   いばらの道ともいえる120年の複雑な歴史の流れの中で、日本と台湾は今までにない友好的な関係を築き、強い信頼で結ばれたパートナーとなった。これは言うまでもなく、先人や先輩方の、多方面にわたる命がけの努力の上に築き上げられたものである。   この事件をきっかけとして、台湾と日本の友人は次のことを真剣に考えるべきだと思う。   (1)先人達が残した重要な資産について学び、再認識すべきである。例えばダムなど国土を支えている建造物、鉄道や道路などの交通システム、戸籍などの政治制度の背景を、両方が互いに学ばなければならない。   (2)様々な歴史を背負ってきた日台関係は平たんなものではなかったにもかかわらず、益々緊密かつ有効的なものになっている。宿命ともいえるこの関係について、その理由を理解しようと努めるべきである。   ただ観光に来るだけではなく、一段と日台関係の歴史と未来について考え、理解を深めるべきだと呼びかけたい。台湾には「打断手骨、顛倒勇」ということわざがある。折られた腕はさらに強くなるという意味だ。この事件によって我らはよい教訓を得たが、今後もまた何らかの事件が起こるかもしれない。   日台の絆は、はかり知れないほど貴重な宝である。日本人と台湾人にとって共有の無形資産と言えよう。やはり皆が一緒になって、雲上の八田ご夫妻のご恩にふさわしい絆を守り、着実に次世代へとバトンタッチするよう努力すべきである。   さて、話を戻して、僕はこの文章と次のメッセージをA君に送るつもりだ。   「大丈夫。安心してください。日台の絆は簡単に引き裂かれるものではありません。また台湾で一緒にお酒を飲んで、おいしい料理を食べましょう。」   〇筆者による補足説明   八田與一(はった・よいち)先生は、1886年石川県に生れ、1910年東京帝国大学土木工学科を24歳で卒業後、台湾総督府の土木技師に就任し、初めて嘉南平野の水利問題を調査、後に烏山頭ダムと嘉南大シュウを計画、建設して、荒地を良田に変えた貢献者です。 1920年に外代樹(とよき)女史を烏山頭の任地に妻として迎えて居住。1942年政府の派遣でフィリピンに赴任した時に、運送船の大洋丸が米軍の潜水艦の攻撃を受けて殉職。遺骨は同年台湾烏山頭墓地に納められ永眠されました。妻の外代樹女史は、終戦後日本への引き上げ前に、夫の後を追いダムに投身、情愛の厚い大和撫子に台湾の人は感動しました。 ダム施工中、病気などで死難した134名の殉職者を、日本人(統治者)台湾人(植民者)の区別なく殉職時の順で慰霊碑に姓名をきざみこんだ事に台湾の人も感服しました。 この恩典に感謝するため、1930年に「八田の友会」が組織され、日本の有名な彫刻家都賀田勇馬に銅像を依頼して翌1931年に烏山頭ダムに建立しましたが、第二次世界大戦末期の金属徴収令を避けるため、嘉南の人々が命をかけて、密かに銅像を現在の隆田駅の倉庫に隠しました。戦後、蒋介石政権の反日感情を懸念して嘉南水利組合の決議で私人住宅に移され、数十年を経て政治情勢の緩和にともなって、1981年に現在の烏山頭八田塚前に再び建立された次第です。 毎年5月8日の命日には「八田の友会」を開催し、八田家の子孫親友と共に追悼会を行っています。   <林柏俊 Bob Lin> 家族と祖父の日本人の友人のお陰で、1977年(15才)から名古屋に渡り、名古屋市立菊井中学を卒業。更に1年10カ月程の日本語の学力で高校入試にのぞみ、名古屋市立北高等学校に入学。高校2年生の時に(1980)アメリカに留学。南カリフォルニア大学で学士、経営修士(MBA)を習得。カリフォルニア州の公認会計士の免許取得後、1990年に台湾に戻る。現在は共益水泥製品廠/金匡国際(股)社長、台湾外貿協会WTO_GPA全球採購商機専案顧問等を務める。また、台日文化経済協会の理事として日本と台湾との民間交流の活動を支援している。       2017年5月4日配信
  • 2017.05.04

    エッセイ531:林茜茜「住みにくい人の世」

    「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭の言葉である。同じく「人の世」に属しているため、「住みにくい」と感じる点に関しては、たぶん中国も日本も大して変わらないだろう。しかし、やはり文化の違いがあるので、どうしても感じ方には相違が生じる。   日本に来てあっという間に5年が過ぎた。この5年間で、日本に対する認識も少しずつ変わりつつある。日本へ留学する前に、日本のドラマやバラエティ番組を見たことがある。特にバラエティ番組における女装タレントたちの活躍ぶりを見て、大変驚いた。その時、私のなかの日本は、女装タレントも差別されることなく、自由にメディアに出られる開放的な国であったのだ。   実際に日本へ来て、テレビを見る機会は前よりだいぶ増えた。いつの間にか、朝起きたら、まずテレビをつける習慣が身に付いていた。午前中、ほとんどのテレビ局が報道番組をやっているが、番組で中国のこともしょっちゅう俎上に載せられる。しかし、日本のテレビで報道されている中国のイメージは、かなり偏っている印象をどうしても受けてしまう。例えば、中国のどこかでまた世界遺産を模倣した建築物が作られたとか、修復時に「万里の長城」の表面がコンクリートのようなもので平らに塗り固められたとか、珍事件ばかりが報道される。それを見ていると、やはり違和感を覚える。結局、中国に対する日本人の今までのステレオタイプと一致するネタだけが選択されているのではないか。その点について物申してみたい。   もちろんニュースで取り上げられた珍事件が実際にあったことは、揺るぎのない事実である。ただし、日本側の報道には、中国人全員がそれらの珍事件を違和感なく受け入れているような印象を与える傾向が見られる。そうすると、日本人の中国に対するイメージは、ますますステレオタイプ化されてしまうことになる。実際は中国においても、それらの事件に対して批判的な態度を取る人が大勢いることを、より多くの日本の方々に知ってもらいたい。中国のことをより的確に知りたいのならば、多様な中国人の声を意識的に聞く工夫が必要だと思う。   日本で生活してみて、もう一つ気になった点がある。日本では中国の言論統制がよく話題にされるが、しかし日本は本当に言論自由な国といえるのだろうか。確かに日本では国民が自由に発言できる権利をもっている。しかし、発言に不適切な言葉が一箇所使われるだけで、発言者はすぐ強く叩かれることになる。そうすると、人々はどうしても慎重に言葉を選び、しかも無難な発言をするようになってしまう。このような空気が蔓延すると、環境がますます窮屈になり、言論の自由も次第に奪われてしまう気がせざるを得ない。もちろん言葉に責任を持つべきだとは分かるが、しかし細かい言葉遣いの一箇所よりも、もっと発言内容の全体に目を向けてもらいたいとつくづく思う。   およそ5年前、上海で日本人の女性Aさんと知り合ったが、彼女は中国人の男性と結婚して、上海でおよそ8年間暮らしていた。中国語で値切れるほど中国の生活になじんでいたので、本当にタフな方だなあと思った。約2年前に旦那さんの仕事の関係で、Aさんは再び日本へ戻って暮らすことになった。ちょうど1週間前に、久しぶりに彼女に会ったが、なんとあのタフなAさんの口から「中国に戻りたい。日本は怖くて住めない!」という言葉が出た。その理由を聞くと、どうやらこの前、ある女性タレントが不倫のため、世間から厳しく叩かれ、一時期芸能活動を休業にまで追い込まれたのを見て、現在の日本がリンチ社会になっていると感じ、恐怖を覚えたらしい。もちろんそのことに対して異様さを感じた人は日本にも多くいるはず。私もその一人である。ただし、長年中国で暮らしたことのあるAさんだからこそ、そのことに対する違和感をよりいっそう敏感に感じ取ったのだと思う。   確かに「人の世は住みにくい」。しかし、この住みにくい人の世を少しでも住みやすくするには、やはり窮屈だと感じた社会の全体を見直し、改善する必要があると思う。改善の時期はいつであるかと聞かれると、答えは1つしかない。それは「今でしょ!」   <林茜茜(リン・センセン)Lin Qianqian> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。2013年4月に早稲田大学教育学研究科国語教育専攻に入学し、2017年3月に博士学位を取得。日本近代文学、中日比較文学を中心に研究している。     2017年5月4日配信