SGRAエッセイ

  • 2022.10.13

    エッセイ718:陳姿菁「第6回アジア未来会議を終えて」

    「来年、台湾台北で会いましょう!」 中国文化大学元学長の徐興慶先生、台湾のラクーン(元渥美奨学生)たちと一緒に、2020年1月にフィリピンで開催された第5回アジア未来会議のクロージングパーティーのステージに上がり、皆さんに呼びかける自分の声が耳元で響いていた光景が昨日の出来事のようです。   翌日のツアーで火山の噴火を目の当たりにし、そして火山灰で滑走路が閉鎖され、空港では長時間待たされ、混乱の中で帰国便の変更をしたことなど、皆さんは覚えているでしょうか。   帰国後、第6回アジア未来会議の準備が始まりました。いえ、準備はもっと前から始まっていました。火山見学の途中、噴火する直前の火山の横の展望台で、徐先生から「準備委員会の連絡グループを作りましょう」と指示を受けた時に始まっていました。   フィリピン大会から約1カ月後、日本から今西さんと角田さんの2人、タイからはアジア未来会議(AFC)事務局3人組が台湾で集合しました。   宿泊施設の視察、おもてなしの台湾料理の試食など朝から晩までぎっしりとスケジュールが詰まっていました。台湾の魅力をどのように皆さんに知ってもらうか、いろいろなアイディアが飛び交っていました。   101ビルはランドマークとして広く知られているかもしれません。では、圓山ホテル(ザ・グランドホテル)はご存知でしょうか。赤い柱と金の瓦の14階建て中国宮殿様式のホテルで、台湾では初めての5つ星ホテルです。歴史のある圓山ホテルの格式を味わってもらう宴会場を探しました。高さ11メートルの天井に、渦を巻いて空を飛ぶ龍が珠を吐き出すホールを見学し、ここでクロージングパーティーを開いたらきっと一層華やかな雰囲気を引き立てられるのではないか、視察チームは様々な想像を巡らせて、その会場を予約することにしました。   その頃は新型コロナが世界にこんなに大きな影響を与えるとは思いもよりませんでした。台湾ではすでに警戒態勢で、マスクは配給制になっていました。視察チームが帰国する際に、空港で今西さんが「マスクをあげようか」と言ってくれたのをまだ鮮明に覚えています。「いえいえ今西さん、ご自分に取っておいた方がいいですよ」と答えましたが、まさかその後日本でもしばらくマスクが不足するとは思いませんでした。   2020年3月19日、今西さんたちが帰国して間もなく台湾は国境を閉じ、新型コロナは火に油を注ぐような勢いで世界中に広まっていきました。   新型コロナの収束が見えない中、対面で会議が開けるか台湾の準備委員会では議論を重ねました。様々な国の学者と対面で議論し、学際的な交流をするのはアジア未来会議の醍醐味です。その醍醐味を最大限に保ちたいという思いを優先し、2021年8月に台湾で開催予定だった第6回アジア大会の延期を決めました。「1年延期すれば、なんとか光が見えてくるでしょう」と準備委員会で議論しました。そして本番の大会の宣伝を兼ねて、オンライン式の「プレカンファランス」を開くことになり、2021年8月26日(木)に実施しました。   「プレカンファランス」が大成功に終わり、いよいよ本番を目指します。しかし、新型コロナがベータからデルタ、オミクロンへと次から次へ変異し事態が思わぬ方向へと進んでいきました。オンラインかハイブリッドか対面か、どの形にするか最後の最後まで決めかねていました。準備委員会としてはアジア未来会議の醍醐味である対面会議での交流を大事にしたいと考えていましたが、ご存じの通り入国制限があり、最後はハイブリッド形式に決まりました。アジア未来会議が始まってから初めてのチャレンジです。   大会数日前にはパネリストや通訳などに続々と感染者が出て、臨時的措置を取らなければならない慌ただしい雰囲気が漂っていました。あと数分で日付が変わる25日の真夜中に、事務局から26日に公開する英語のお知らせの中国語への翻訳の依頼が入り、「間に合うか間に合うか」と秒単位で緊張しながらのやり取りです。さまざまなネットワークやチームメンバーが動員された大会がいよいよ開幕を迎えると実感しました。   8月27日当日、台北市北部の山に位置する中国文化大学で大会が始まりました。台湾ではまだ新型コロナ対策として「社交距離」、「マスク着用」など様々な規制があるにも関わらず、大会ホールには大勢の人が集まっていました。   シンポジウムでは基調講演者の前(第14代)中華民国副総統の陳健仁先生をはじめ、各国・各分野で活躍する先生方が新型コロナについて様々な視点から話をしてくれました。パネリストの一人である黄勝堅先生(台北市立聯合病院前総院長)の言葉を借りますと、基調講演とシンポジウムの話はまさに大会趣旨である「みんなの問題、みんなで解決」にぴったりだと、私も思わずうなずいていました。   開催会場の中国文化大学側の総動員、日本(+タイ)側のスタッフ、そして台湾の多数の学校をまたぐ準備委員会の委員たちが積極的に協力してくれたおかげで、3日間にわたった基調講演、シンポジウム、円卓会議、分科会などがスムーズに行われ、活発な議論が展開されました。大会が順調に行われた裏ではたくさんの方々の協力が欠かせませんでした。心から感謝を申し上げます。   私は準備委員の一員であるほか、コメンテーター、座長、共同発表、個人発表など数役を担い、日本語、中国語、慣れない英語を切り替えながら気を張り詰めて3日間を過ごしました。新しく取り入れた研究テーマが「ベストプレゼンテーション」という評価をいただき、とても励みになりました。新しい研究やチャレンジの成果をシェアできる場として、異なる分野、異なる国の学者が異なる視点で議論できる場として、大会の様子を見て「あー参加して良かった」とつくづく思いました。   第6回アジア未来会議は無事に閉幕しました。対面会議ではない形で開催され残念な気持ちはありますが、これからの時代はハイブリッド形式が普通になるのではという感想もあります。   第1回から第6回、コロナのない時代、コロナの時代、ポストコロナの時代、そしてウィズコロナの時代、これからはどんな時代になるのでしょうか。第7回アジア未来会議は最初の開催地であるバンコクに戻ります。どんな話題が繰り広げられるのか、とても楽しみです。   では、台湾の台北からタイのバンコクへバトンタッチします。 皆さん、2024年8月にバンコクで会いましょう。     英語版はこちら     <陳姿菁(ちん・しせい)CHEN Tzu-Ching> SGRA会員。お茶の水女子大学人文科学博士。台湾教育部中国語教師資格、ACTFL(The American Council on the Teaching of Foreign Languages)のOPI(Oral Proficiency Interview)試験官(日本語)。台湾新学習指導要領(第二外国語)委員。開南大学副教授。専門は談話分析、日本語教育、中国語教育など。     2022年10月13日配信
  • 2022.10.07

    エッセイ717:オリガ・ホメンコ「戦争とスマホ」

    コロナが始まってからの2年間はスマートフォン(スマホ)やパソコンを使う時間が増えた。ウクライナの子供や学生たちもオンライン授業になって画面と付き合う時間が急増した。何人かの教え子が修士課程のオンライン授業に飽き、その上に経済状況が悪化してお金を稼がないといけない厳しい現実に直面して、博士課程に進学するのをやめた。とても残念に思った。漢字文化圏に比べてウクライナの人々は視力が良いのだが、コロナの間に大人も子供も目を悪くして眼鏡をかける人が増えた。   戦争が始まったらスマホの画面と付き合う時間がさらに倍くらい増えた。子供、大人、老人も毎朝起きてベッドからまだ起き上がらない状態で恐る恐るニュースをチェックする。親戚や友達とメッセージ交換し、キーウの私のマンションや駐車場のチャットグループを確認して、やっとそれから顔を洗う。ベッドに入る時も同じことをする。日中には何度も同じことをする。   この7ヶ月の間にいろいろな国で出会ったさまざまな職業のウクライナ人から同じ話を聞いた。スマホでニュースを見ないと落ち着かない。見なかったら何か大事なものを見逃すかもしれない。自分の国、首都のキーウが存在しているか、ミサイルで破壊されてないか。ニュースを確認するのが大事な仕事になった。とにかくスマホと付き合う時間が増えすぎた。ニュースを読んでも何かできるわけでもないのだが、読まないと落ち着かない。よく分かる。自分は何の影響を与えることもできないが、ニュースを読むくらいは毎日できる。   それは時間の無駄使いかもしれない。ストレスになるばかりだ。何もできない時間でもある。受身的に怖い情報を受けるだけだ。コロナ以前、友達は子供がネットを使う時間を1日30分に制限した。その代わりに一緒にテーブルゲームし、絵を書かせて、そして数学の勉強に力を入れた。コンテンツを消費する人ではなく、将来的にはコンテンツを作る人として育てたいからだ。   しかし、スマホを止めるのは難しい。固定電話の昔とは違って電話番号も覚えていない。全てが入っている。家族や友達の連絡先、銀行、郵便局、地図、万歩計、天気、そして読書、言葉を学ぶアプリ、ガソリンスタンドの会員カード、さらには世界と付き合うInstagram(インスタグラム)、Twitter(ツイッター)、Zoom(ズーム)、Facebook(フェイスブック)、タクシーや買い物のアプリも入っている。ウクライナではコロナになって2年前から全ての大事な書類、つまりパスポート、免許、保険やワクチンパスポートなどがデジタル化してスマホのアプリひとつになったので、まさに命そのものだ。避難した人にとっても非常に重要だった。個人情報を盗まれるのではないかとデジタル化を嫌がった人もいたが、戦争になってからありがたみを感じるようになったようだ。国を出る時に必要な書類がなくても、アプリ1つあれば全部確認できる。デジタル化は他の分野でも進んだ。役所に並ばずに、ネットやアプリで結婚や離婚、また出産届も出せるようになったので便利だ。   そして、デジタル化が進んで、高齢者もどうしてもこの流れに乗らないといけなくなった。先ずはワクチン。注射を受けるためにネットで予約しなければならないが、あの頃は若い人が手伝ってくれた。だが戦争が始まってから年寄りでもスマホを使いこなすようになった。   年齢におかまいなくデジタル化が進んだ。それまでは機械やITが苦手でスマホの電話機能しか使わなかった70歳とか80歳のおばあちゃんが、戦争が始まってからたった1ヶ月で、避難先の外国でウクライナのニュースを見るためにスマホでYouTubeを使えるようになった。国営テレビはニュースをテレビやネットで24時間流している。元気な顔を家族に写メールで送れるようになった。以前はテレビのリモコンさえ使いたくなかったのに、信じられない発展である。母親から初めて写メールが届いた時、一瞬スマホを盗まれたのではないかと思った。電話して本人が送ったと分かって安心した。必要性に応じて、あるいは命に危険を感じたら物事を早く学べると分かった。   周りに若い人がいるとさらに早く学べる。戦争になってから子供や孫のおかげでTikTok(ティックトック)やインスタグラムのような新しいメディアを使い始めた高齢者が増えた。メラニアさんという84歳の有名なおばあちゃんはその一人だ。孫がおばあちゃんのためにアカウントを作成し、毎日情報発信するのを手伝っている。そのおかげでウクライナ全土で愛されるおばあちゃんになった。メラニアさんは生まれた時からずっとポーランド国境近くの村に住んでいる。子供の時に戦争を経験したが、まさかもう一度戦争が来ると思わなかった。歳をとって何もできないから、軍人に大量の手作り水餃子を作り、毎日ソーシャルメディアでメッセージを発信するようになった。家事、庭仕事、日常生活を紹介している。おばあちゃんがいない、あるいは優しいおばあちゃんを知らない30代、40代、さらには50代もフォローして、愛される存在になった。今ティクトックで70万人のフォロワーがいる。   今の時代ソーシャルメディアのおかげで良い意味でも悪い意味でもグローバル化され、情報を隠すことができなくなっている。インターネットさえあれば情報を発信することができる。しかも、Facebook(フェイスブック)やインスタグラムと違ってティックトックはすぐに大勢の人の手元にメッセージを届けることができる。空襲警報で地下室に入っている人たち、軍隊にいる人たち、避難している人たち、また遠い外国にいる人たちが一つの見えない糸でつながっている。   戦争になってソーシャルメディアにも新しいトレンドも現れた。今まではほとんど発信しなかった軍人が政治家並みに活躍している。イーロン・マスク氏の「スターリンク」のおかげで東部で戦っているウクライナ軍人もずっとネットが使えて家族ともつながっている。普通の投稿だけではなく、ウクライナの歌が全世界の人々と歌うために流される。歌ったり踊ったりして敵をからかう人も少なくない。そして面白い情報だけではなく危険を避けるための重要な情報も、投稿されるおかげで隠せないものになる。3月にザポリージャ原発が襲われた時、一人の市民ストリーマーがその映像を世界に流したので注目された。   戦争になってから一般住民がチャットグループで情報交換するようになった。私のキーウのマンションもそうで、チャットで毎日情報が来るようになった。2月末、高層マンションは空爆のため敵にマークされていたので、マンションの住人は屋上へ出る扉に鍵をかけ、1時間ごとに当番で確認していた。屋上の入口に小麦をまいて、誰かが歩いたらすぐ分かるようにした。サスペンス小説で学んだのかなと思った。また窓に緑か青のライトをつけていると空爆を呼び込むという情報が流れた時、建物の窓を全部チェックし、そのような光が出ている家が無いかを確認した。たまには間違うこともある。停電になった時に子供部屋のナイトライトが勝手について大騒ぎしたこともあった。まあ、結果良ければ全て良しですが。   でもそうではなかった時もあった。5月のある日、突然チャットに「マンションの9階あたりで女の叫び声が聞こえる」というメッセージが入ってきた。200家族が住んでいたマンションには5家族しか残ってないので、どうしたのかなと皆気になってとりあえず警察を呼んだ。お巡りさんはちゃんと来たが、叫び声は聞こえてないから帰った。2時間後、チャットグループに叫んだ本人からの連絡があった。「騒がせてごめんなさい。先ほどマリウポリにいる家族が皆死んだという連絡が来たので気持ちを抑えられなかった。。。それを読むだけでドキッとした。どう返事すれば良いかわからなくて戸惑った。だが、とにかく、この7か月間は新聞やテレビよりソーシャルメディア、スマホのチャンネルからもらう情報の方が早かった。   戦争が始まってから何人かのウクライナの有名なジャーナリストがテレグラムチャンネルを作り、新聞より早いいろんな情報が流されるようになった。だがそれ以外に毎日見るのが同級生のチャット(皆元気かな?)、それから家と駐車場のチャット(大丈夫かな)か。それを確認するだけで結構時間とられて忙しい毎日。   もう一つ昔のことを思い出した。子供の頃にキーウに田舎から親戚のおばちゃんが来る時、都会の親戚の住所を書いたメモを必ずポケットに入れていた。万が一大都会で迷子になった場合はきちんとその住所に届けてもらうために。あの頃、第二次世界大戦で両親と離れ離れになった子供がいると聞いたが、まさかその時代がもう一回来ると思わなかった。2月に戦争が始まってからニュースで両親の携帯電話番号を背中に赤いペンで書かれて避難先に送られた子供の映像を見た時にそれを思い出した。   しかしスマホは「救うもの」から「裏切るもの」に簡単に変わる可能性もあることが、今回の戦争でよく分かりました。記録されている情報や写真を見たら、その人の過去と現在が全部分かってしまうからだ。占領地域にいる人々がウクライナに帰る時に色々確認されたようだ。電話しかできない機種を持っていた人が割とスムーズに帰れて、スマホだと保存されている情報や特にウクライナの旗、民族衣装、軍人と撮った写真があると危険な目にあったという話も少なくない。また、移動中には電話しかできない機種の方がバッテリーが長持ちしたという話もある。電源オンのスマホは電波を流しているので、簡単に居場所が知られてしまうので危ないという話も聞いた。   平和の時と戦争の時とではスマホの使い方が違っているので、それまではチャットに投稿しても普通と思われた情報が危ないものになる可能性がある。例えば、ツイッターやインスタグラムに写真を載せるとその写真のファイルに位置情報がついているので簡単に場所確認できるため、非常に危険にさらす情報になる。いざとなったらスマホが友達から敵に化けないよう、最近ウクライナのメディアは一般市民に戦争中のスマホの知識を学ばせている。   <オリガ・ホメンコ Olga Khomenko> キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※ウクライナ首都の日本語の表記は、オリガさんによれば「クィーブ」が一番相応しいということですが、ご了解いただいて本エッセイでは「キーウ」を使います。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。       2022年10月7日配信
  • 2022.09.08

    エッセイ716:謝志海「ゲルニカから戦争と平和を考える」

    小中高生は夏休みも終わり、ランドセルや制服姿の児童や生徒を再びたくさん見かけるようになった。毎年8月になると日本では8月6日、9日の広島と長崎に投下された原爆を思い出し、8月15日に終戦記念日を迎え、平和の尊さをかみしめる。しかし第2次世界大戦の終結から77年たつ今も、地球上で戦争が起きているとは信じがたいと誰もが思う8月だったのではないだろうか。   旅行も遠出もないまま8月を終えた我が家だったが、心に残る夏休みを過ごせたと思えるのは子どもたちと戦争と平和について話す機会を持てたことだ。現在住んでいる市にある群馬県立近代美術館ではパーマネントコレクションである、ピカソの有名な絵「ゲルニカ」のタピスリ(タペストリー)が展示された。妻が子どもたちに見せたいというので私はついていった。ちょうどその日は美術館スタッフがタピスリの前で「ゲルニカ(タピスリ)を見ながらお話をしよう」という企画をしていた。ほぼ原寸大で圧巻のタピスリを前に、美術館スタッフは子どもに「戦争」や「戦い」という言葉を伏せて、ゲルニカの見どころを丁寧に教えてくれた。子どもからはゲルニカを見ても「戦い」という言葉は引き出せず、むしろ「なんで人や動物がこんな風に描かれているの?」という感じだったが、それでも子供たちは「これはピカソという画家が描いた戦いへの怒りなんだ」ということをインプットされた。   美術館スタッフは大人の参加者には、このゲルニカのタピスリは世界に3枚しかないこと、うち1枚はニューヨークの国連本部にあること、このタピスリ制作にあたりピカソ自身も使用する糸や色などの監修に加わったことを教えてくれた。また1学期には美術館近くの小学校に出張授業に行き、生徒たちとゲルニカをしっかり観察し、何を感じたかなど話し合ったということだった。   数日後、家でまたゲルニカが話題になった時、小学生の息子が、「せんそうしない」という、字がすごく少ない絵本について小学校の先生が話をしてくれたと言った。調べてみると、それは谷川俊太郎さんの本だった。彼については紹介するまでもないが、以前テレビのインタビューか何かで、第2次世界大戦の東京大空襲の頃、中学生だったと話しておられたことを思い出した。   こうして絵や絵本を用いて戦争を語り継ぐことで、戦争の歴史を胸に刻み平和へつないでいこうとするのは素晴らしいと思う。そういえば「日本では小学6年生で「ゲルニカ」を学ぶんだよ」と美術館スタッフは息子に伝えていた。妻に「『ゲルニカ』を知ったのは6年生だった?」と聞いたら「7歳」。「小1の誕生日プレゼントの本がかこさとしさんの『美しい絵』で、そのなかで『ゲルニカ』が紹介されていた」とのこと。谷川俊太郎さんにかこさとしさん、国際関係の学者に出る幕はないように思われてきた。広い世代にわたって、わかりやすく物事を伝えるだけでなく、彼らの伝えたいことは読者の心に長く残り続けるのだから。   思えば、春学期では「国際関係論」と「国際関係の歴史を知る」等の授業で戦争と平和の難しい話をしていた。学生と一緒に20世紀の戦争と平和を振り返り、ロシアのウクライナ侵攻についても考えてもらった。21世紀のいまでも戦争が起こっていることは、いまこそ戦争を考える必要があると伝えた。私も戦争と平和について難しい学術本ばかりを読んできたが、もっと一般の方や子ども向けの本を読んでみたいと感じた。秋学期になったら、もっとわかりやすく学生に戦争と平和の話ができるように心がけようと考えた。     英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2022年9月8日配信  
  • 2022.09.01

    エッセイ715:オリガ・ホメンコ「ウクライナ人とトラウマ」

    子供の頃からおばあちゃんに「戦争さえなければ良い」とよく言われていた。平和ボケで、戦争ってどこか遠いところにあるもの、自分と全く関係ないのだと思い込んでいた。   戦争になって6カ月が過ぎた。戦争が始まった2月には「夏までに終わるだろう」と皆期待していた。友達の歴史家と4月頃にその話をした時、「それはあれ。第二世界大戦の時と一緒。始まった時には皆、クリスマスまでに終わるだろうと言っていたのと一緒かもしれない」と指摘され「何言ってるの」と思ったけど。   ウクライナ人にとって第二次世界大戦のトラウマは何か。いろいろある。まずは1カ月くらいでキーウに侵攻したドイツ軍が2年以上も占領していたこと。戦争で父親を失い、家を失った人が多く、残された家族はドイツに安い労働力として連れていかれた。穀倉地帯なので肥沃な土までドイツに運んだ。キーウではユダヤ人を含むたくさんの人が殺された。第二次世界大戦では700以上の町と28000以上の村が完全に破壊された。軍人と民間人合わせて800万~1000万人のウクライナ人が亡くなった。軍人と同数の民間人が亡くなった。当時のウクライナの人口の4分の1だ。戦後、結婚する相手がいなくて苦しんだ世代もあった、などなど。   長く占領されていたので、年寄りはドイツ語に抵抗感がある。戦後のソ連の戦争映画も誤ったドイツ人のイメージを作った。映画の中では「止まれ」「手を上げろ」「早くしろ」「牛乳と卵をくれ」など、特殊なドイツ語しか出てこなかった。ソ連時代の子供は皆そのようなドイツ語は理解できた。学生時代ドイツに旅行中、駅で警察の人に「パスポートを見せなさい」と言われた時、体が凍り付いた。笑うか泣くかどうすればいいか分からなかった。今回、ドイツへ避難して半年たっても、ドイツの言葉、生活、ルールの厳しさに慣れなくてキーウに帰る人もいる。   ウクライナ人はそもそもトラウマが多い国民である。1918年にウクライナ共和国が独立したのに長続きせず、自分の国を持てなかったトラウマ。1933年の人工的に作られた飢饉のトラウマ。第二次世界大戦で配偶者を失った多数の未亡人、父親を知らないまま育った戦前生まれの子供のトラウマ、またチョルノブーリ事故の被害のトラウマ。そして、おまけに、今回の戦争で避難民になった人、またイルピンやブーチャ虐殺だ。なんという不幸な運命としか思えない。このようなことが続くので、「いくら頑張っても何か余計な力が必ず邪魔する」という迷信が自然に生まれてきた。ウクライナ語のことわざに「邪魔しなければ、助けなんていらない」というものもある。   経済学者によると、飢饉があった地域とそれがなかった地域を比べると、ビジネスに対する思いや意欲が違うそうだ。やはり、国、地域、個人の経験が繋がっている。外から圧力をかけられ自分で自分の運命を決められなかった時代がトラウマとなって、社会の記憶になる。飢饉を直接経験せず何十年後にも生まれても、おばあちゃんが残ったパンを食卓から片付けて食べているものを見るとやはり気になる。   私は学者なのでさまざまな学問的アプローチをしていているが、やはりいざとなったら体の中に染み込んだ歴史的なトラウマが前に出て体を動かすことになることを今回実感した。一つは、2020年3月。世界にコロナ時代が来た時、私はアメリカにいた。近くのスーパーに出掛けていろんな食料を買った。その買物をよく見たら普段はあまり買わないものだった。たとえばコンデンスミルク4缶。考えてみたら、私が高校生の頃はソ連時代の終わりであまり良いお菓子がなくて、必ずどこの家にもコンデンスミルクの缶があった。長持ちするし、死ぬほど甘いし、甘いものを欲しくなったら簡単に使える。今は食べることもないのに、昔の話と混乱して無意識的に買ってしまったのだ。これには自分でもびっくりした。それまで食料が家にあるか殆ど気にしなかったが、それ以後は食べ物がなくなったらどうするかとものすごく心配した。最初の1週間は毎日料理を作っていたのを覚えている。   もう一つは、家族に大学中退のお父さん、卒業証明書を無くしたおじいちゃんがいたので学問関係の書類はきちんとしておくべきだという家族トラウマがあった。1月から日本の友達もキエフを去り始め、メディアもいろいろ報道していたのでウクライナは結構変わった雰囲気に陥った。それを見ながら、大学の卒業証明書や博士号の学位記などを全部揃え始めた。家で書類のファイルを作る時に結構手が震えた。研究で学んだ話もあるが、家族に書類関係の変わったストーリーがたくさんあった。   戦後、子供を抱えた若き未亡人のおばあちゃんが再婚した。旦那のグリゴーリイさんは結婚歴があった。徴兵に応じた時、卒業証明書などはもちろん持っていかなかった。戦争から帰ってくると、当時の奥さんが生活に苦労して彼の卒業証明書を売ってしまったことを知った。大学の資料館が全部燃えてしまい、教育を受けた証拠がなくて再発行してもらえなかった。それで鉄道会社に就職し、長い間仕事で全国を渡ってきた。汽車のサービス関係者だった。いろいろなところのお土産話をしてくれたので、まだ小さい私は聞くのが楽しみだった。そして話の中に、大学卒の学歴を証明できるものがあったら、安心してキーウで仕事ができたのに、という話が必ず出てきた。私は今までさまざまなテーマの研究をしてきたが、一つがウクライナのディアスポラ、移民研究である。その研究でも身分証明書を持っていない人がどれだけ酷い目にあったかを知らされる。   ちょうど1月初めに自分の家族史は、チェルニヒフ歴史資料館に17世紀まで遡れる資料があることが分かったが、3月の空爆で燃えてしまったニュースを見て非常に残念に思った。資料館、博物館や一般の家が空爆によって破壊されている状況を見て、ウクライナの歴史をまるごと消そうとしている攻撃者のモチベーションについて考えた。「自分の味方にならない人は皆存在しなくてもいい」という考えが怖い。   出張に行く時、全ての書類を整理したファイルを震える手で旅行カバンに入れた。侵攻の2週間前だった。   ウクライナ人はたくさんの辛い経験をさせられている。だが、トラウマに対する思いや受け止め方はいろいろある。トラウマがあったということさえ受け止めない人、自分がどうしてこんな可哀想な目にあったかという被害者意識を持つ人、そして、そのトラウマをじっくり見つめながら、その中にも成長する部分があったと受け止める人。   この30年間、ウクライナの人は自分の独立国家で普通に生活し、今までの歴史的なトラウマを乗り越えるために頑張っていた。チョロノビーリ事故が起きた後に家族レベルではあまりその話をしなかったのは、そのトラウマをどうすればいいか分からなかったからだと思う。しかし、国レベルでは、飢饉などの悲劇な出来事がきちんと歴史教科書に載って、マスコミや文学で語り合うことができて、博物館もできて、11月の第4土曜日は記念日になった。やっと過去のトラウマを乗り越えつつあると思っていたところに、今回の侵攻で新たなトラウマが増えた。それは何かというと、「戦争」そのもののトラウマ、戦争から海外に避難したトラウマや罪悪感など。また今回は戦争関係の報道が多く、現場からの悲劇的な写真や映像を見てトラウマを受けた人も少なくない。「目撃者のトラウマ」と言っても良いかもしれない。それはウクライナ人だけではない。ニュースが国際的に報道されているので、世界的にもビジュアルなトラウマを受けて寝られない人もいる。   避難して戦場から離れていても、日常の経験でトラウマが出てくる可能性もある。第二次世界大戦でウクライナ人が安い労働力としてドイツに送られた時の体の中に眠っているトラウマ。友達の家族がハンガリーに避難して2週間後、家を貸してくれた人から電話があって「温室で仕事をしませんか」と聞かれた。友達の年寄りの母親はそれを聞いて泣き出したという。「どうしてこの歳になっても私は温室で雑草を抜く作業を1時間5ユーロでしなければならないの?」と泣きながら話したそうだ。   話を持ち掛けてくれた人に聞いてみると、友達の母親は毎日のように夏の家の話をしていて、一緒にブダペストで種屋さんの前を通った時に「この春に種を撒けないことが辛い」と言っていたことがあったので、田舎町の温室で植物の世話をあそび程度ですれば心のトラウマのリハビリになるのではないかと思って善意で薦めたという。一方、子供の頃、第二次世界大戦で周りの人がドイツに安い労働力として連れて行かれたことがあったので、今回海外避難民として渡った友達の母親も同じように使われるのではないかと心配したらしい。長く海外にいる友達は驚きながら母親に「どうして断らなかったの?どうして泣きながら僕に電話するの?」と聞いても、母親はすぐには答えなかった。しばらくすると「一生懸命手伝おうとしてくれている人に断ったら悪いから、私は絶対にしたくない」とだけ言った。これは単なる文化ディスコミュニケーションなのか、それとも過去の歴史のトラウマの影響なのか。   今回の侵攻でこのように過去の大変な思い出が多くの人に出てきた。私のお母さんも今回の空襲のサイレンで急に一つ思い出したようだ。それは戦争が始まって、おばあちゃんの家にいた5歳にもならないお母さんが、おばあちゃんが庭に掘った防空壕に女と子供ばかりで隠れた思い出だった。今まで一度も聞いたことがない話だった。防空壕の中でおばあちゃんはご飯を作って運んで、土の中に掘った棚にアルミの食器とスプーンを置いた。空爆のドンという音で食器が下に落ちてガチャンという音を立てた。今回の空襲警報でその音がいきなり頭の中で浮かんできたようだ。人間は覚える手段がいろいろあって、言葉だけではなく、急に70年ぶりに記憶がよみがえることがあると実感した。移民研究、ディアスポラ研究をやってきた私もまさか自分の研究テーマがそのまま現実化してしまうとは思わなかった。   やっと少しヒーリングできたトラウマだらけのウクライナの人の心が、今回の侵攻の影響で再びダメージを受けた。その回復には想像もつかない長い時間がかかるのだろう。ただ一つ言えるのは、独立後の平和な時代のウクライナにとって「ソ連時代」あるいはロシアとの今までの付き合いがどういうものだったか、しっかり話し合う時間が足りなかったような気がする。今回のロシアの侵攻以来、国のレベルだけでなく個人のレベルでもそれを見直すことが大きな課題になっていると思う。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004 年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。 著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2022年9月1日配信
  • 2022.08.04

    エッセイ714:オリガ・ホメンコ「ウクライナの2つの海」

    私の2冊の日本語の著書を出してくれている群像社という出版社には〈群像社 友の会〉という読者の会費で成り立っている会があって、その会員向けに年2回、A3で4ページの『群』という通信を出している。この7月で60号(まる30年!)となる記念すべき号で、ウクライナに関する4つの質問を受けた。その1問目は「黒海はなぜ『黒い海』なのか、黒海、アゾフ海はウクライナにとってどんな海なのか」というものだった。本エッセイはその一部を修正加筆したものである。   日本には7月に「海の日」という休日があり、さすが海に囲まれた国だと思う。ウクライナには黒海とアゾフ海という2つの海があることはあまり知られてないかもしれない。日本の友達には「黒海は本当に黒いの?」とよく聞かれる。また名前の由来と黒海への思いについても。   黒海はいろいろな時代に、いろいろな国で異なる名前で呼ばれた。ギリシャ人には紀元前8世紀から知られていた。ヘロドトスの『歴史』では「北の海」と呼ばれている。紀元前1世紀頃のギリシャの哲学者のセネカは「スキタイの海」と呼んだ。同時代の地理学者で歴史家のストラボンによれば、この海はギリシャの入植者によって「黒い海」と名付けられた。ここで嵐や霧によって遭難したし、敵対的なスキタイ人とタウロイ人が住む未知で未開の海岸だったからだ。彼らは野蛮な見知らぬ人が住む海にふさわしい名前を付けた――「人を寄せ付けない海」「もてなしのない海」または「黒い海」と。しかし、入植以降、紀元前6世紀からは「もてなしのある海」と呼ばれるようになった。   ヨーロッパではギリシャやビザンチン伝統が強かったので、18世紀までの地図では「もてなしのある海」と呼ばれ続けていた。また海の部分は「キメリア海」とも呼ばれていた。またそれを略してポントゥス、ラテン語でMare_Ponticumとも呼ばれた。   一方、12世紀に書かれた古代スラブの年代記『過ぎし年月の物語』では「キエフ公国(ルーシ)の海」と呼ばれ、コサックの時代には「コサックの海」も呼ばれたこともある。   「黒海」という名前の由来にはいくつか説があって、どれが正しいのかは不明である。トルコ語からという説もある。トルコ語では「黒の海」と呼ばれる。トルコ系の民族では方向が色で示される伝統があって、黒は北を意味した。「黒の海」は北にある海という意味になる。その名前を使っている人は今でもいる。ちなみに南は白で、地中海は「白い海」と呼ばれている。だが「黒海」と呼ばれるようになったのは、トルコからの影響かは不明である。   黒海は、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、ロシア、トルコ、ジョージアの海岸を洗っている。最大深度は2210メートルで、面積は42万2000平方キロメートル。そして150~200メートルの深さの水は硫化水素が多く、場合によっては火事になる可能性もある。船員たちは、この海を旅した後、船の錨やその他の金属部分が黒くなったことに気づき、海を「黒」と呼んだ。主たる海流は海岸に沿って反時計回りに流れていて、そこからの2つの支流が海の真ん中で北から南にねじれて互いに出会う。19世紀にイギリス船の乗組員はオデッサからイスタンブールまで海流に乗って帆を上げずに行き賭けたらしい。海底には、ムール貝、カキ、そして極東からの船によって運ばれた貝もいる。またこの海は100年に20?25センチメートルの速度で広がっているという。   バイロンの長編詩『ドン・ジュアン』の中では黒海はヨーロッパとアジアの間にある海と書かれ、またフランスのルイ14世時代の生物学者のジョセフ・ピトン・ド・トゥルヌフォールは「古代の人が何を言ったとしても、黒海には黒いものは何もない」とも書いている。そしてソ連時代の大衆歌には「最も青い黒海」という歌詞がある。『チョロノモーレツィ(黒海人)』というサッカークラブもある。   第二次世界大戦の前、「大陸政治」とは別に海を中心に考える特殊な政治コンセプトがウクライナで生まれたことがある。オデッサ出身の医者、政治評論家、詩人でもあったユーリイ・リーパが提起した「黒海論」である。それによれば、黒海周辺の国家は一つの政治ブロックを形成し、そのリーダーはウクライナであるべきだ。なぜなら、「黒海は黒海周辺の国家にとって経済的、精神的な土台になるものである。ウクライナにとって黒海は命に関わる空間である。そして面積、資源や人のエネルギーの多さを考えると、ウクライナが黒海周辺の国々の中で黒海をうまく利用する上で先頭に立つべき国である。それゆえウクライナ外交において『黒海論』は優先すべきものである」からだと述べている。   そして隣国と比較する時に「ヴォルガ上部地域がモスコビア(モスクワ公国)の陸軸である場合、ウクライナの陸軸は黒海の北東海岸だ。モスコビアの領土の中では川の大部分は北に流れるが、ウクライナでは、クバンを除いてすべての川が南に流れる。ウクライナの拡大の最も自然な軸は南軸であり、モスコビアにとって最も自然な軸は北軸だ。ロシアは北、ウクライナは南。両国は、人口と地政学的重要性の点で互いにバランスを取っている」と書いている。ちなみに満州にいたイワン・スウィットはこの「黒海論」の影響を受けて、極東シベリアでのウクライナ人移住の歴史を19世紀からではなく13世紀半ばから遡ることになった。   ちなみに、もう一つのウクライナの海、アゾフ海は世界にある63の海の中で最も小さくて内陸にある。ウクライナでは「子供用の海」とも呼ばれる。アゾフ海は世界で最も浅く、水深は13.5メートルを越えない。夏には28~30度くらいの海温になる。古代ギリシャ人は海とは考えず、メオティアン湖と呼び、ローマ人はマエオティアン沼地と呼び、スキタイ人はカラチュラック(リブネ)海と呼び、アラブからは「濃い青の海」と呼ばれた。現在のトルコ語でも「濃い青の海」と呼ばれている。   スラブの歴史上の記録では1389年に最初にこの海をアゾフと名付けている。アゾフという都市の名前が海の名前の由来という説がある。ここはギリシャ時代にボスポロス王国の植民地で、また10?12世紀にトムタラカン公国、そして13世紀にアゾフ地方はジョチウルス(キプチャク・ハン国、金帳汗国)の一部になり、その次にクリミア・ハン国(オスマン帝国の家臣)の領土になった。そしてコサックたちも1695~96年あたりにここまで戦いに来ていた。ウクライナの民族歌謡には『アゾフの町でトルコの逮捕から逃げた3人兄弟』というコサックの伝統的な歌もある。   18世紀のロシアとトルコの戦争の結果、ここはロシア帝国のものになった。ちなみに、トルコ語の「アザン」=「下のもの」、チェルケス語で「ウゼフ」=「口」または「河口」という意味もあるという。ウクライナではアゾフとオゾフという名前を両方とも使っていた。ソ連初期の1929年の地図ではウクライナ語でオゾフ海となっている。   1600年代以降、アゾフ海では多くの軍事紛争が発生し、ロシア軍に対するイギリスとフランスの同盟国の参加により、クリミア戦争という大規模な戦いも行われた。   アゾフ海はある意味ウクライナの中のアジアでもある。黒海とつながる最長でも4キロメートルほどの狭いケルチ海峡は、地理的にヨーロッパに位置するケルチ半島と、アジアと位置付けられるタマン半島を隔てている。海峡の真ん中には、ウクライナに属するトゥーズラ島がある。1925年までは小さな半島だったが、嵐でつながっていた部分が崩れて島になった。ウクライナに長さ6.5キロメートル、幅500メートルの小さなアジアの領土がついてきたとも言える。そこには「腐った海」と呼ばれるシワーシ池があり、健康に良い泥を利用したサナトリウムがたくさん建てられている。   山が少なく平たんなウクライナには海が2つあり、それが国の地理だけではなく歴史に大きく影響されてきたことを、海に対して特別な思いを持っている日本のみなさんにお伝えできたら嬉しい。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004 年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。 著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。     ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2022年8月4日配信  
  • 2022.07.28

    エッセイ713:陳藝婕「絵画鑑賞における『原作』の意義」

    「絵画鑑賞において、最も大事なのは原作を見ることである」美術史専攻の課程の中で、先生たちはこういう言葉を繰り返し強調していた。学部に入ったばかりの頃、私は疑問を抱いた。真贋の鑑定なら紙、絵の具、表装といった要素もあわせて参考となるため、実物を調査するのは必要なことである。しかし、単に絵画を楽しみたい時に、複製品と原作の違いがそこまで重要だろうか?   技術の発展によって、高精度のプリント複製品や画像データでの保存が可能になった。中国美術史の専門家が日本のホテルで南宋時代の名作を見て、とても驚いたという逸話がある。後にこれは日本の東洋美術専門の出版社である二玄社による複製品だということが分かった。専門家も騙されるほどの複製品は、「下真跡一等」と評価される。「この複製品は原作とほぼ同じものであるが、原作ではないという点で一つレベルを下げたもの」ということである。一方、高精度の画像データは拡大が自由で、細部まで詳しく確認できる。それに対して美術館で原作を見る時、常に照明が暗くて、距離も遠く、データのようにはっきりと弁別することができない。図像分析などの研究をする際、原作より画像データの方が使いやすいのではないか?   こうした「原作」の意義に対する疑問は、日本留学中の経験で答を得ることになった。以下では日本絵画を例に感想を述べたい。   まず寸法に違いがある。日本絵画の中で屏風・襖絵は相当の割合を占めている。しかしカタログの印刷図版やパソコンで見る画像データはサイズに制限があり、原作よりかなり小さくなる。サイズの変化によって、鑑賞者に与える迫力も変わる。画集の図版を見る感覚は、二条城の大広間で襖絵を仰ぎ見る時に受ける衝撃とは比べものにならない。また、人物画の場合も同様である。等身大の画像は、鑑賞者と画中人物の心理的な距離を縮め、実在の人間としての印象を残す。それに対して宗教的な壁画にある巨大な仏像・神像は、非人間性の一面を強調し、観者に崇高な敬意を喚起させる。複製によってサイズが変われば、制作者の意図は汲み取ることが難しくなる。   次に素材に独特の魅力がある。日本画には、一般に鉱物の絵の具や金銀箔などの素材が利用される。鉱物で作られた絵の具は、光線の変化によって反射する。このピカピカする微光は、画面に透明感や活気をもたらす。写真、プリンター、画像データは、いずれもそうした素材の魅力を伝えることが出来ない。金銀色は絵画を写真に撮る際、最も再現が困難な部分であり、印刷を経ると一層見劣りがする。東山魁夷(1908年―1999年)の作品は一つの好例であると思っている。昔、私は画集や講座のパワーポイントなどで彼の絵を何度も確認したものの、その良さをあまり感じることができなかった。2018年、京都国立近代美術館の「生誕110年 東山魁夷展」で原作を見たことを契機に、初めてその美を知った。絵画の前に立つ時、寒い夜に光の冷たく冴えわたった森に浸みこんだ感じを覚えた。   最後に、一部の絵画において制作者が構図に注いだ奇想は、特定の展示方法でしか見ることができない。寺院の法堂の天井画と言えば、「八方睨みの龍」がよく見られるテーマである。即ち、頭をあげて天井を見ると、法堂のどこに立っても龍が自分をじっと見ている感覚がする。京都の相国寺、建仁寺、南禅寺、天龍寺、いずれもこのような龍図が採用されている。一部の屏風は、展開する際の凹凸を利用して立体感を示している。円山応挙(1733年―1795年)の≪雲龍図屏風≫(1773年、重要文化財、個人蔵)や木島桜谷(1877年―1938年)の≪寒月≫(1912年、京都京セラ美術館蔵)は、共にこのような作品だ。   日本留学の数年間で、私は多くの絵画の原作を実際に見て、大いに見識を広げた。美術鑑賞に対する「原作」の重要な意義を深く認識した。このほんのわずかな心得を多くの人々にシェアしたい。   英語版はこちら   <陳藝婕(チン・イジェ)CHEN Yijie> 2021年度渥美奨学生。総合研究大学院大学国際日本研究専攻博士、中国北京大学美術史専攻修士、中国中央美術学院美術史専攻学士。専門は日中近代美術交流史、日本美術史。国際美術史学会(CIHA)、アジア研究協会(AAS)、ヨーロッパ日本研究協会(EAJS)などの国際学術会議で研究成果を発表。 著作に『黄秋園 巨擘伝世・近現代中国画大家』(中国北京 高等教育出版社、2018年)、「高島北海『写山要訣』の中国受容:傅抱石の翻訳・紹介を中心に」『日本研究』64集(2022年3月)他。     2022年7月28日配信   
  • 2022.07.14

    エッセイ712:オリガ・ホメンコ「戦争の中で神様と会話」

    自分の家が空爆され家を出なければならない時、家族以外に誰に助けを求められるのかしら。そんな時に聞いてくれる相手は神様しかいないかもしれない。しかし、神様とウクライナ人の関係は特別かもしれない。それは普通の宗教と少し違うかもしれない。特に中部のウクライナでは。   ロシア革命以降宗教は弾圧され、教会も壊され、自由に祈ることもできなかった。宗教の代わりに共産主義、神様の代わりに国のリーダーを信じていた。生まれた子供の洗礼もできなかった。やりたい人はひそかにするしかなかった。どうしてひそかに洗礼をさせていたのかというと、不安定な社会の中で子供を守るためには神様に任せるのが最初で最終的な手段だった。   宗教が弾圧されても、教会が閉まっても、神様を信じなかったことは全くない。開いている教会もいくつかあったが、そこの神父はおそらく国の指導者に従うか、組織的につながって裏で報告していたので、教会の人は信用できなかった。   しかし、教会に行かなくても皆家のどこか隠れた場所で祈っていた。田舎に行ったらおばあちゃんの家には必ずイコン(聖画像)があった。田舎では都会と違って誰もそれに文句を言わなかった。表では共産党のメンバーでも、洗礼を受けた時に頂いた十字架を大事に引き出しの中にしまっていた人もいた。   ソ連時代の小学校の授業では、「宗教の信者は変わった人で、子供が病気になっても医者にかからず、神の力で治せられると信じて死なせる」と教えられてびっくりし、家に帰って泣いた覚えがある。なんとなく宗教の信者は危ない人間と学ばされた。宗教の信者に違和感を持たせる雰囲気の中で育てられた。   宗教は表ではダメであったが、それでも自分より大きな力があると信じることはやめなかった。皆ひそかに復活祭とクリスマスを家で祝っていた。先生たちもそれが分かっていた。生徒の家庭でイースター・ケーキとピサンカ(装飾された卵)を作ると分かっていたので、前の週には「あのケーキをお弁当で持って来てはいけません」と注意された。   このような環境でずっと生活してきたウクライナ人には特別な宗教観が生まれたかもしれない。表と裏の宗教観という。表では祈ってはいけない、教会の近くを通る時に十字架をかけることもできない、そして教会へ行っても神父を信用できない状況だった。ウクライナ語でお祈りすることはほぼできなかった。教会はロシア語だった。ウクライナ語でミサをする教会はキーウには数カ所しかなかった。しかもそこでもロシア革命以降、特に1930年代のスターリン時代、また1970年代に強い圧力を受けて神父や信者を取り締まっていた。特にキーウの教会はそうだった。   2014年に東部で戦争が始まってからは、多くのウクライナ人はロシア正教会に行かなくなった。ミサのなかに政治が絡んでいるので、モスクワからの説教を聞きたくない。そして、何よりも自分の言語で神様と会話をしたいから。神と話せるものが言葉や言語でなくても。2018年にウクライナ正教会がやっと独立できたのは歴史的な出来事である。政治的な圧力でそれができたという批判には反論したい。要するに全ては政治である。ウクライナがロシア革命の後に一回独立した時、正教会には強い独立願望があったが、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)にロシアから強い圧力をかけられて認めてもらえなかった。自分の国を持って、自分の宗教の本部を持つのは当たり前の話である。税金を他国に納めるのではなく、自分の所に納めるのと同じような話だ。自分の言葉で祈り、ウクライナ正教会の本部がキーウにあるのは当然である。それも心の自由で、精神的な独立でもある。   このような状況の中で育てられたウクライナの子供に両親は「神様は心の中にいる」と言う。どこに行ってもあなたの心の中にいる。どの宗教のお寺に言っても祈ることができる。宗教は形だけで、神様は一人である。正教会から考えたらあり得ない話。正しい神はそこだけにあるからだ。でも歴史的、政治的な状況から考えたら、その厳しい状況を受け入れて、その中に自分の世界を作ることができたとも言える。   独立後間もない頃、ある有名な修道院で撮影をしていた時、成績が良い生徒が案内してくれた。その時に色々な話を聞いた。コネがある学生はお金持ちの町の教会で主任になるが、そうでもない人は遠い貧乏な地域の担当になるなど。そこも普通の社会と変わらないと思った。   このような事情によって、ウクライナ人の宗教観が形成された。心の中にはいつも話せる相手がいて、それを、自分を守ってくれる天使か、神様か、自然の力か、手伝ってくれる力と呼んでもいいかもしれないが、いつまでも側にいてくれる力がある。大きく考えれば宗教は元々そのようなものだが、ウクライナの人は教会の人抜きで直接神様に話せるようになった。   ウクライナ人は昔から上からの圧力に反発心が強かったし、型式から抜けるようにしていた。その意味で新しい所に行く好奇心があり、国境を超えてコミュニケーションをする力もあった。17世紀のウクライナに生まれた家庭イコンの現象もある意味でその1つとも言える。もちろん教会で売っていた高いイコンを買えないという理由でもあって、形式を勉強していない人間が自由にイコンを描くようになった。そのイコンはギリシャ、ローマ、ロシアと違って、華やかで慰めてくれるもので、そこに表現されている神様は罰を与えられる存在ではなく、自由に相談できる相手でもあった。   1991年に独立して宗教が自由になった時、それまで禁止されていた宗教にどれだけ関心が集まったか想像してほしい。出版社に勤めていた人の話では、当時一番多く印刷したのは聖書、サスペンス小説、翻訳されたビジネス書だった。また色々な宗教団体が活動にやってきた。同級生は英語を勉強したかったがお金がなかったので、ある米国系の教会に通った。今まで見たことのない外国人であるアメリカ人がそこにいて、自由に会話ができたからだ。しかし3か月後に様々な理由でやめた。宗教ではなく英語が目的だったので。全然宗教に関心のない友達が牧師さんと結婚した時も皆驚いた。幼なじみの従兄は急に航空大学をやめて宗教学校に入った。ちなみに彼は立派な牧師になって今でもやっている。   だが同時に多くの若者を宗教から遠ざける大きな事件もあった。1993年秋に「白い兄弟」と言う新宗教団体にはいっていたキーウ大学哲学部や数学部などの優秀な学生がソフィア寺院あたりで集団自殺をしようとした時だった。警察や公安が早めに察知し、大人のリーダー夫婦を逮捕し、学生を家族に戻した。しかし、大きな精神障害を被って普通の生活に戻れなかった人もいた。マスコミに大きく報道され、新宗教の怖さに皆が気づいた。当時の若者の宗教への熱心さが冷めたとも言える。その後は冷静な目で宗教を見るようになった。   ウクライナの中部と西部では宗教に対する親近感が違う。大都会のキーウはそうでもないが、西へ行けば行くほど、道端に小さな祭壇が多くなり、日曜日に家族揃って教会へ行くのが当たり前になる。宗教が生活の中に溶け込んでいると言っていいかもしれない。正教のお祭りがその土地古来の信仰のお祭りと混ざって生活の中に入っている。お正月を祝って、1月7日に正教のクリスマスを祝って、その次に古来の新春を祝い、その後にキリストの復活祭を祝う。また教会と関係なく、古代の命のシンボルであるピサンカも作る。装飾した卵の伝統が後にイースター卵になったと言われている。7月7日には夏至祭のイワーナ・クパーラを祝う。たまたまその日は聖イオアンのお祭りも重なっている。さらに、最近では7月28日のキーウ公国がキリスト教を受け入れた日がウクライナ国家の日になった。そして古くからあるカレンダーに従って8月14日に蜂蜜収穫、8月19日にリンゴ収穫のお祭りがある。それがキリスト教のものとも重なっている。   日曜日に教会へ行かなくても、家にイコンがあってもなくても、車に小さなイコンを飾っている人も多い。特にタクシーの運転手だ。イコンに守られると思ってシートベルトを締めないのは不思議としか思えないが。   宗教と同じくらいに運命を信じる人もいる。日本の友達がウクライナの一番有名な詩人のタラス・シェフチェンコの詩を読んで、「この人はどうして自分の運命を恨むのですか。ウクライナ人は人生観の中で運命に何パーセント任せられるのですか」と聞いてきた。なるほどと思って翌日クラスで私の生徒にその質問をした。そうすると50%という人、80%の人もいた。だが生徒は皆運命の大きな役割を認めた。それは迷信の文化とも言えるかもしれない。暗い歴史を経験しているので、人前ではあまり自慢しない。運が逃げないように自慢しないという習慣もある。神様を信じる人は迷信を信じないのが普通だが、ウクライナでは両方とも平和的に存在している。   外国の友達に「ウクライナの『運命』の定義は自分の受身的な立場の理由付けに使う」と言われたことがある。その時は、それは大きく間違っていると思った。しかし、戦争が始まってから再び「運命」のことを考えさせられた。3月の初めだったが、キーウにずっと留まっていた友達に避難するように呼びかけたが、「ここから離れない。しようがない。これが私たちの運命であったら、ここで死にます」と言われた。「自分は死んでも良いけど、子供を救いなさい」と言っても聞いてくれなかった。その友達は行動的ではなかったし、また戦争という大きな人生の変化の中でフリーズしていたとしてもおかしくないかもしれない。しかし他の人が決めた「死なせる運命」に任せてはいけないと思う。その人の旦那に話したら、家族を西の方に避難させてくれてありがたかった。皆元気で命が助かった。   戦争が始まってから、ウクライナ人は心の中で神様ともっと会話するようになった。私物はほとんど何も持たずに洗礼の十字架だけを体につけて家から逃げた人、軍隊に参加しているウクライナ人もそうだ。助けてくれるのは自分の手、人の手、また神の手しかない。戦争が始まってから4カ月の間にウィーン、ブダペスト、デュッセルドルフ、ロンドンの駅で出会った避難民のウクライナ人は、ほぼ全員が首に十字架をかけていた。多くの人は手に赤い糸もつけていた。その赤い糸は悪魔から守ってくれる「輪」であり、キリスト教とは全く関係ない。何も助けにならない時はそれでも良いと思う。これもウクライナでは迷信と言っても良いかもしれない土着の信仰が、宗教と複雑に生活の中に溶け込んでいると言えるだろう。   厳しい状況の中に置かれているウクライナ人は一人一人神様とひそかに会話をしている。「神よ、どうしてこんなことにさせられるんですか。私たちは何も悪いことをしていない。ただ自分の国で幸せな暮らしをしようとしていただけです。どうして守ってくれなかったのですか。私たちはどうしてこのような試練を味わうことになったのですか。しかし、周りの人は被害にあったけど、私と私の家族を助けてくれてありがとう。本当にすみません、こんな話をあなたにしてしまって。でもあなたにしか助けてもらえないからお願いしています。どうにかしてください、神様。私たちの上に傘を開き、燃えているところから、あなたの掌の上に救い上げてください。お願いです。お年寄り、子供たち、動物たちも。頼みます」と。大体皆このように毎日神と会話している。   BBCの記者が東部から報道しているテレビ番組を見ていたら、後ろにいたおばあちゃんがミサイルが飛んでいるのを眺めて大声でお祈りを早口に叫んでいた。イギリス人の記者は「どうして逃げないのか」と目を丸くしていた。   知り合いの13歳の息子は46時間もかけてドイツに向かっている車の中で話していた。到着前の1時間半は母親も疲れ切って運転中に居眠りすることを怖れて、上の息子にお祈りでもしてと頼んだ。その子が知っているお祈りは10分で終わってしまったので、母親を絶対に寝かさないために、いつものように神様との会話を始めた。無事に着くように頼んでいた。守ってもらうように大声で願っていた。無事に行き先に到着した。祈りが届いたとも言える。心の中にいる神に守られたとも言える。   ただの会話だけではなく、実際に積極的に行動もしていることに感動する。そこには諺(ことわざ)でも表現されている昔の知恵がある。「神様にお祈りをしようとしても、自分がただ寝ていたらダメです」。言い換えれば、神には自分の手しかないということだ。また「神に守られていても本当は刀がコサックを守ってくれる」を読めば神に対する定義がだいたい分かっていただけるでしょうか。   <オリガ・ホメンコ Olga Khomenko> キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。 著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2022年7月14日配信
  • 2022.06.30

    エッセイ711:胡石「遺伝子組み換えについて」

    スーパーやコンビニで買い物をする時、商品の包装に「遺伝子組み換え」、「遺伝子組み換えでない」などの表示を見たことがあると思う。遺伝子組み換え作物は主に飼料や加工食品の原材料に使われているため、我々は気付かないうちにこれらをたくさん食べている。筆者は日本に留学中、ずっと遺伝子組み換え植物を研究対象として使っていたので、遺伝子組み換えについて少し話したいと思う。   遺伝子とは?   生物学の教科書の説明によると、遺伝子は遺伝情報を載せるDNAセグメントである、となっている。では、「DNAとは何ですか?」という質問が出ると思う。答えはデオキシリボ核酸である。さらに「デオキシリボ核酸とは何か?」となって、問答は永遠に終わらない。簡単に言うと、遺伝子とは生物をつくる設計図に相当するものである。この設計図は生物が環境に適応するため、どのように成長するかを決定する。人間の場合、それは性別、外見、体調、生涯にわたる治療不可能な病気を持っているかどうか、そして子孫の人生さえ決定するかもしれない。   もちろん、今の社会には人の表現型(生物が示す外見上の形態)を変える科学技術の発展がたくさんある。たとえば、一重まぶたが嫌いなら整形手術で変えられ、目の色が嫌いならコンタクトレンズを着用し、さらに性別も手術で変更することが可能である。しかし、これらはただ表面的な現象であり、遺伝子によって決定されるものの多くは変えられない。たくさん食べても体重が増えない人がいるのはなぜか?運動をしないのに病気にならない人がいるのはなぜか?不治の病になる人がいるのはなぜか?・・・人々はいつも「神がすべてを決定する」と言ってきたが、本当は遺伝子がすべてを決定する。科学者たちの仕事はこの遺伝子という設計図を解読することで、私たちの生活を変えることであろう。   遺伝子組み換えとは?   遺伝子組み換えは生物が持つ遺伝子の一部を他の生物の細胞に導入して、その遺伝子を発現させる技術のことである。簡単に言えば、生物Aには生活の質の低下につながる不利な点があり、生物Bにはこの不利な点がないということであれば、生物Bの原因となる遺伝子を生物Aに移行することで、生物Aはそれまでの不利な点がなくなってうまく生きることができる、ということだ。   最初の遺伝子組み換え植物は、1983年に米国で作り出された遺伝子組み換えタバコである。そして1994年にフレーバー・セーバー・トマトと呼ばれる遺伝子組み換えトマトが世界で初めて発売された。遺伝子組み換え作物は病気・農薬に強い、収穫量が多いなどメリットを持っている。日本は遺伝子組み換え作物を大量に輸入し、加工食品の原料や畜産の飼料として利用している。日本国内のトウモロコシ、ワタ、ナタネおよびダイズ使用量の9割程度が遺伝子組み換え作物と推定されている。   遺伝子組み換え作物の安全性   まず、遺伝子が人間に移されるのではないかという心配について、論理的に「不可能」とは言えないが、映画のように「遺伝子組み換えスーパースパイダー」に刺されてスパイダーマンになることは、数十年間は実現できないと考える。例えば細菌由来のBt遺伝子を導入した組み換えイネについて、「食べると虫が死ぬが、人に害はないか」という質問がある。このBt遺伝子の機能はタンパク質を作ることで、昆虫に食べられた後、タンパク質と昆虫体内の受容体が結合して毒性を生み出し、昆虫を殺すことができる。一方、この受容体を持っていない人間やその他の生物には影響がない。もちろん、遺伝子組み換え作物の安全性について、まだ少し懸念は残っているが、現在輸入されている遺伝子組み換え食品は緻密な安全検定を行っているので、安心していただきたい。   遺伝子組み換え自体は単なる専門用語であり、それが良いか悪いかは関係ないし、技術に正誤はない。もちろん、私たちは消費者として遺伝子組み換え食品を食卓に出さないことができるし、遺伝子組み換え綿花で作られた服を着ることも避けられる。ただし、科学者の研究結果を否定しないでほしい。   英語版はこちら     <胡石(こ・せき)HU Shi> 2021年度渥美奨学生。中国湖北省出身。2022年3月に東京農工大学大学院・生物システム応用科学専攻の博士号取得。現在日産化学株式会社で農薬の開発に携わる。 論文に「Rerouting of the lignin biosynthetic pathway by inhibition of cytosolic shikimate recycling in transgenic hybrid aspen」(Plant Journal, 2022)など。     2022年6月30日配信
  • 2022.06.23

    エッセイ710:李貞善「『あの時・あそこ』から『今・ここ』へ」

    【場面 #1】 今から70年前の1952年の初春、ある若い兵士が朝鮮戦争の最中に戦場から一時帰郷し、家族とともに幸せなひと時を過ごしていた。名前はウィリアム・スピークマン(William Speakman)。小さな娘を膝の上に座らせたまま、家族に囲まれて夕食を食べていた。こぢんまりとした一般家庭の、平凡な父親の姿であった。   【場面 #2】 1965年の春、韓国・釜山の国連記念墓地(現在は国連記念公園)では、朝鮮戦争での英連邦軍の犠牲者を追悼し平和を祈念する英連邦記念碑の除幕式が挙行されていた。スピークマン氏はイギリスを代表する軍人として戦友たちと一緒に出席した。   スピークマン氏は朝鮮戦争に参戦したイギリス出身の元国連軍兵士であった。1951年11月4日に繰り広げられた臨津江(イムジンガン)地域の戦いでは彼が活躍したおかげで、多くの戦友たちの命が救われた。   2018年に90歳で召天したスピークマン氏は翌年、生前の自らの遺志の通り「第2の故郷」の国連記念公園に奉安された。葬儀は、遺族をはじめ、イギリスおよび韓国の政府関係者、多くの市民たちが見守る中、厳かな雰囲気の中で執り行われた。   冒頭に話を戻してみよう。スピークマン氏が登場する2つの場面は、私が博士論文に関する調査の過程で発見した歴史映像であった。朝鮮戦争勃発70年を迎えた2020年に学術研究の結果、彼の軌跡を探り当てることができた。   場面#1の白黒の映像に見られるスピークマン氏は終始一貫ほほ笑み、至福の様子であった。英連邦軍の公式の催しに出席した堂々とした様子(場面#2)よりも自宅で家族と過ごし、父としてささやかな幸せを感じている様子の方が、何故か私の心に深い余韻を残した。それは彼の姿と、長らく実家を離れて留学している自分の姿が重なったためだけではないだろう。   2本の映像をしばらく見つめていた私は、2019年のスピークマン氏の葬儀の時、彼のご子息たちが訪韓したことを思い出した。そして、博論がきっかけとなり日ごろ連絡をしている国連記念公園の関係者にメールを送った。「貴国連記念公園の奉安者であるスピークマン氏が登場する希少な映像を見つけました。もし可能であれば、この映像を関連する方々にお伝えいただけますでしょうか」と。すると間もなく返信が届いた。   「ご子息の一人とこの映像を共有しました。…初めてこの映像を見たそうです。1964年に父親が国連記念墓地を訪れたことも知りませんでした。もちろん、彼はこの映像が発見されて非常に喜んでいます」   これを契機に私は研究者として知識を蓄積する努力以上に、その知を社会に広く還元する実践の重要性を身をもって実感した。知識の習得が「物事の一端を知ること」を意味するならば、知識の実践は、まず理論である知識を確立したうえで、物事の本質を見極めて人類や社会に貢献する営みではないか。日本に留学し、約7年間かけて研究に取り組んできた私の立場からすると、これまでの自分の活動は知識を体得することに重点がおかれていた。しかし、真の研究者を目指すには、そのような個人的な次元の「知識の習得」を発展させ、「知識の共有」へと結実することがさらに大事であろう。冒頭の場面に当てはめると、従来の国連記念公園に関連する歴史や人物を知ることが一次的な知識習得の行為だとすれば、これからは学術的な知の意義を国連記念公園の関係者たちやスピークマン氏のご子息と分かち合って、社会に発信することが二次的な知の構築行為になると考えられる。   この映像を手がかりに、私は研究を通して「あの時・あそこ」のヒト・モノ・コトが、結局「今・ここ」に帰結するという悟りを得た。「今・ここ」の私が、「あの時・あそこ」のスピークマン氏の足跡を彼の遺族に取り戻してあげたように。この映像を通して亡き父の生前の姿を目にした時のご子息の感動は計り知れないものだろう。   過去から構築されてきた知を体得するとともに、善意の知を実践していくこと。「あの時・あそこ」から「今・ここ」にも通用する有効な示唆点を導き出し、平和で包摂的な社会の一助となることが一人の研究者、そして21世紀のよき地球市民としての役割ではないか。その延長線上で、朝鮮戦争にちなんだ文化遺産を研究する立場から、地球市民がお互いに共鳴するという自覚と連帯感を持ち、目下のロシアのウクライナ侵攻にも深く心を痛め憂慮する。   早く戦争が終わり、70年前のあのスピークマン氏のように、すべての戦闘員・非戦闘員が無事に家に戻り、愛する家族とまた至福の日常を過ごす日が訪れることを願ってやまない。     英語版はこちら     <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。     2022年6月23日配信
  • 2022.06.16

    エッセイ709:オリガ・ホメンコ「家はどこ?」

    あなたとって家とは何ですか?   「お家はどこですか?」と聞かれると一瞬戸惑ってしまう。戦争で避難民になって家を離れたということもある。だが普段でも「あなたにとって家とは何?どこですか?」と聞かれたら考えてしまうかもしれない。習慣や年齢によって違いがあるとしても、「家」に対する思いは人それぞれなのだ。家はどこにあるかと聞いても、返事はさまざまであろう。ある人にとってそれは実家で、クリスマスやイースターに帰る両親の家で、母親の料理を食べて子供時代に戻れるところだ。そこは自分の心の家でもあるかもしれない。別の人にとっては、長い間頑張って積み重ねた努力で買った「マイホーム」である。旅行かばんの中に持ち込んで、どこでも「家」を作れる人もいる。「家はどこ?」と聞かれたら「飛行機の中」と笑いながら答える人もいる。人は色々で、家も色々である。   だが、家とは場所、もの、人、雰囲気でもある。特にコロナが始まってから、皆が「家」の物理的な存在を見直すことになった。家から仕事をするようになって、住んでいる環境をもう一度じっくり見直すことができた。2年間もじっくり見させていただいた。見たくないほど見ました(笑)。それまではほぼ「寝る場所」として使っていた人も、家の存在を見直さざるをえなかった。   外資系の法律事務所で働いている友達は、コロナの前には出張が多くてほとんどキエフ(キーウ、キイブ)にいなかった。自分の「家」を出張用スーツケースの中に持ち歩いた。だがいくら外見はそうだったとしても、やはり帰る場所が欲しくてコロナ前に家を買った。将来キエフに定住するかどうかも決まっておらず、賃貸よりお金がかかるのに、どうして買ったのか聞いたら「自分の靴下を自由にあちこちに散らかして誰にも文句を言われない自分だけのスペースが欲しい」と言う。何となく分かるなぁ。   別の友達に聞くと、「パートナーや家族、子供がいるところ」との答。そして好きなワンちゃんがいる場所。「皆一緒にいてワイワイする所ですよ」という答もあった。ある年寄りは「ゆっくり自炊できる台所と体をほぐせるお風呂場が自分の場所」と言った。確かに!   家に対するウクライナ人の思い   ウクライナ人は自分の家に対する特別な思いがある。都市でも田舎でもそれがよく分かる。例えば、街の古いマンションの玄関や廊下が汚くても、中に入ると綺麗に手入れされている。イギリス人ほどではないかもしれないが、やはり「マイホーム」を非常に大事にしている。ロシア革命以前に、ある歴史家で民俗学者がウクライナを旅した日記がある。その中で、ウクライナとロシアの村はかなり違うと書いている。ウクライナでは、家の周りに庭があって花を植え、壁は毎年塗り直されている。家の中も綺麗である。少しでもお金を稼いだら家に投資する。西に行けば行くほど家が豊かで綺麗になるという。   個人所有が許されなかったソ連時代でも、家は唯一の資産であった。自動車は購入するのが大変で、それほど普及していなかった。家は一番の資産であり、精神的にも大きな意味があった。圧力をかけられている社会から唯一逃げられる場であった。社会主義がいくらコントロールしようとしても、人々が朝食や夕食をとっている台所で、あるいは寝室で、どんな話をしているかは最後まで管理しきれなかった。家は自由に生活を楽しむことができる最後に残された「場」であった。特に台所はそうで、皆が集まり語り合う場所でもあった。ソ連時代でも台所で密かに誰にも言えない政治的な話をした。台所は「奥様」がつかさどるところでもあって、家の台所を見たらどのような人が住んでいるか大体分かるというくらいだから、台所を中心とした自分の家への愛と密着感は半端ではない。   家を出る   2月24日にロシアの侵攻が始まって、改めて自分の家の存在への思いが強くなった。コロナの2年間飽きるくらい居た家から突然出なければならなかった。一所懸命稼いで買って、内装を全部自分で一つ一つ考えて作った家を一気に奪われた。まだ物理的に存在していても、そこに帰れない精神的な辛さはうまく表現できない。家に残ってミサイルに撃たれて死ぬ場所になるか、それとも家はあるけど出るのか、こんなに厳しい選択を迫られるとは思っていなかった。   ウクライナ人には既に数回、家を離れなければならない危険な状況があった。まず1986年4月のチェルノビーリ原発事故。その夏、キエフの女と子供はほぼ全員家を離れた。8月末に疎開先からキエフの家に戻った時、自分の家で再び普通に生活できることが信じられない気分だった。2013年の秋にヤヌコビッチ元大統領が欧州連合(EU)加盟への道を捨てた時にも、家を出ることを考えた若者が少なくなかった。ある友達は両親に「いざとなったら国を出る」と告げた。母親が昔は富の象徴でもあった壁にかかっている絨毯(じゅうたん)のそばに座って「でもこの家はどうするの?」と聞いた時、「いくら立派な絨毯の家であっても、それより自由の方が大事だ。このような60年代にフルシチョフの政策で作られ、もう古臭くなっている絨毯だらけのマンションはいらない。貧乏でも自由のままでいい」と答えたという。   その頃、別の友達は大きなソファを買うために貯めたお金を「万が一の貯金」に回した。幸い政権が変わったので貯金を取り崩す必要はなくなった。10年後、家と母親を大事にしているウクライナ人ですから、彼は母親を新築の高層マンションに引っ越させた。窓からは綺麗な風景が広がり、母親は毎日夕焼けを楽しんでいた。まさかその高層マンションの一角にミサイルが飛んでくることになるとは夢にも思わなかった。2月24日の午後に近所のマンションがやられた時、「家に居たら死ぬ」という厳しい現実を受け止める必要があった。それで家を出た。最初は西に逃げ、今は長男が住むドイツにいる。残念ながら家は動かせない資産であるため、今でもそこにある。キエフの家賃は半分になった。不動産屋が困り、建設会社はさらに困っている。新しい家を作る見込みはない。建設に使う鉄筋コンクリートの工場が破壊され、コンクリートの値段が急騰している。   だがそれだけじゃない。家を出なければならなかったことはもっと前からあった。その時からずっと続いているのだ。ロシア革命の時、裕福な農家はほぼ全部、家を奪われた。しかしながら、早く空気を読み取って早く家を離れ、大都市に移って隠れ通せた人もいた。実は私の親戚もそうだった。2月初めに私が出張に出かける頃、すでにキエフの空気は重かった。荷造りをしている間、どうして歴史は繰り返されるのか考えていた。私たちは自分の土地で自由に生活しているのに、どうしていつもよそ者に邪魔されるのか。答えが見つからない。その時、体のどこかで先祖から受け継いだ言葉に現れなかった記憶がよみがえって恐怖に襲われたことを今でも覚えている。無意識のうちに学校の卒業証書をかばんに入れていた。戦争で若い未亡人になった祖母が再婚した相手は、戦前に大学を卒業したが戦争中に卒業証書を失くした。戦争が終わっても再発行してもらえなかったため、祖父はずっと安い給料の仕事しかできなかった。小さい時からその話を聞いていたので「まずは証書」と思ったのだろう。   大切なもの   ウクライナでは「長く使う」という考え方で、自分の家に一番良いものを買う。今、西ヨーロッパに避難した多くのウクライナ人が、生活スタイルの違いに気づいている。ヨーロッパの人はあまり家にお金をかけない。アパートの壁紙、風呂場やキッチンの設備などに量販品を使うことも少なくない。そこで、逆にウクライナの生活レベル、またはクオリティ・オブ・ライフがかなり高いことに気づく。ウクライナに侵攻したロシア軍の兵士も自分の生活と比較して気づいたようだ。ウクライナの公安が聞き取れた電話の会話に「いい生活しているぞ。こんな家電は10年働いても買えない」というものがあった。それで洗濯機まで盗んで持っていかれる。ある意味でウクライナの家の生活レベルの高さを認めたことになるだろう。   ウクライナ人は家に対する特別な思いがあると言っても良いかもしれない。そしてもちろん家はイコール「自分が所有するもの」である。独立後30年間、資本主義の自由を味わったウクライナ人であるが、ものを買えなかったソ連時代をまだ覚えていて、「もの」に対するハングリー精神はまだまだ残っている。自分の家には一番良いものを買い、人前に出る時はまだまだドレスダウンではなく、ドレスアップする。   社会主義時代には共同生活というものがあった。「もの」も思い出も全部共同にさせて、人の個人性を無くそうという動きだった。共同農家、共同組合、共同ナントカができていた。友達の話を聞くと、東ドイツもそうだったらしい。施設で暮らす時には、自分のスプーンを持たずに共同で使うものがあった。しかし、日本の家庭ではそれぞれがお箸を持っているのと同様に、昔からウクライナの家庭では自分のスプーンを持っていた。他人のスプーンを使うのはタブーだった。亡くなった時にそのスプーンを棺に入れる習慣が今でも残っている。当時はもしかしてそれが唯一の個人資産であったかもしれない。   人はあくまでも「自分だけのもの」を欲して、自分が「安心して過ごせる縄張り」を確認していると思う。私もそうだ。ヨーロッパに来てから最初の2週間は、出張中の友達の家に泊まっていた。その時には自分が避難民になったという事実をなかなか受け止められなかった。その家には何でもあったが、やはり自分だけのものが欲しくなった。それである日ウィーンのIKEAに行って、取り敢えずスプーン、ナイフ、フォーク、お皿3枚とコップを買った。まだ寒かったから寝巻き、スリッパ、布団と枕も。自分だけの枕。新しい夢を見る枕を。久しぶりに100ユーロも使ったが、ものすごく得した気分だった。「IKEA、ありがとう」と思いながら青いバッグに入れて帰ってきた。そこは自分の家ではないが、少し家らしくなったような気がした。生活するのにどれだけものが必要か、引っ越しの時によく分かる。今までに25回くらい引っ越ししたことがあるが、いつもそう思う。長く夢見ていた自分の家を10年ほど前に買った。これでやっと落ち着くと思った。その先にこんな状況が待っているとは思わなかった。   避難民にとっての「家」   オーストリア、ドイツ、ハンガリー、イギリスなどでウクライナの避難民にインタビューをした。家の話も聞いてみた。「『自分のもの』と『自分のルール』があるところ」と答えた人が多かった。「自分の生活習慣が成り立っている空間である」という人もいた。キエフ郊外からドイツに子供3人を連れて避難してきたスビトラーナーさんにとっては、キエフに居た時と同じように、毎朝好きなコーヒーを作って飲むことが落ち着きを取り戻せるようだ。コーヒーメーカーは全く知らないドイツ人がコーヒー大好きな彼女にくれた。息子のミーシャ君はキエフから持ってきたサッカーボールで遊ぶことが「家にいた時にしていた」日常となった。そこにあった生活習慣や雰囲気が「家」なのだ。   3月からウィーンで借りていたウィークリーマンションで、キエフから避難してきたリトアニア人の国際機関の職員に会った。彼は「自分の子供のおもちゃが散らかっているところが家だ」と。なるほど。私の母にとっては、犬と散歩した後にソファでクロスワードをすることだ。フランクフルト空港で買ったクロスワードをあげたら大喜びしてくれた。ウクライナ語の本を買えずに悲しんでいるので、ユーチューブの使い方を3ヶ月かけて学んでもらった。夜のニュースを見たいのだ。彼女にとってはそれが家にあった毎日のリズムを整えるものだった。それを再生することができて良かった。   ヨーロッパの多くの国々は今回、ウクライナの避難民を受け入れてくれた。「家」の意味をよく分かっているイギリスの人々は、ウクライナ人の避難者向けのプログラムを「ウクライナ人向けのホーム」とそのまま名づけた。その説明書には「家」の定義がよく説明されている。まずは、自分の部屋、プライバシーがある空間。   キエフの家を離れなかった同級生とも「家」について話した。彼は留学もせず、早く結婚して子供を5人持ってずっとキエフで仕事をしている。やはり「大きな家はウクライナ、小さい家は自分の家。好きな人が待ってくれるところだ。臍(へそ)を埋めてあるところ(注)でもあって、我々の領土である。どこも行かない。最後まで戦う」と言った。それもなんとなくわかる。心配で毎日メッセージを送っている。彼は今、私たちの「心の家」を守っている。 (注)ウクライナの諺で「生まれたところ、母国」という意味   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。 著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2022年6月16日配信