SGRAエッセイ

  • 2013.10.23

    エッセイ390:葉 文昌「トルコ旅行記(その2)」

    翌日、フェリーでボスポラス海峡を渡ったアジア側を散策した。「アジア」といえども建物や雰囲気はヨーロッパであった。トルコ人も私にはアジア人ではなくてヨーロッパ人に見える。散策していると、一行の中の何人もが鼻がムズムズしてきてくしゃみが続いた。通りにあるすべての銀行のATMを見ると画面の強化ガラスが蜂の巣状に割れている。そして道路標識は押し倒された状態で歩道に横たわっている。広告看板には「UTAN! Polis」という落書きが。意味は分からないがその類の落書きは世界共通なので簡単に想像できよう。きっと昨日はここでもデモがあって、くしゃみは残った催涙ガスのせいなのであろう。でも店はちゃんと開いていて、それらの破壊以外は平常通りだった。   旅の後半は飛行機で400㎞離れたアンタルヤへ行った。地中海に面したリゾート地である。海沿いにはパステルカラーのリゾートマンションが続く。イスタンブールの気温は20度前後でとても気持ちよかったが、アンタルヤは40度の暑さだった。タクシーには空調がない。日本や台湾だったら汗が噴き出していたに違いないが、トルコではさほどの苦痛にはならなかった。乾燥しているので汗がすぐ蒸発して涼しく感じるのだろう。乾燥のせいでトルコではすぐ喉が渇き、水分と塩分の補給が必要になる。トルコではミネラルウォーターとアイランという塩味のヨーグルトが随所で売られている。アイランは塩味である以外は日本や台湾のヨーグルトと全く同じ味であったが、体が塩分を欲しがっているせいか、やみつきになった。   アンタルヤ滞在中は日帰りで世界遺産のパムッカレにも行った。車の中からトルコの地形を眺めることができた。山はわずかな草に覆われているか、はげ山が多かった。東アジアだったらこういう山は雨で土砂崩れを起こしているだろうが、ここには鉄砲水がないので大丈夫そうだ。パムッカレの観光客は殆どがロシア人であった。寒いロシア人が暖かいトルコにあこがれてよく観光に来るのだそうだ。道路沿いの売店もロシア人観光客を乗せたバスが来るたびに溢れかえり、ロシア人観光客は沢山のお土産を買って帰って行く。   お店に行くと試食を薦められる。食べてみたい気持ちはあるが、試食したら押し売りされてしまうという警戒心が働いて断ってしまう。日本や台湾ではたとえ買わないつもりでも試食するのだが。実際にはトルコのお店だって消費者心理を販売の手段としているわけではなく、「美味しければ買えばいい」程度に思っているのかも知れない。また、街で地図を広げて場所を確認している時、大学生風の若者が親切に場所を教えてあげると言って来た。心の中で「気をつけろ!」という警戒が先走ったが、結局はとても親切な若者だったのである。言葉も文化も知らない場所にいると警戒心が高まるが、自分の邪推を醜悪と反省した。   中東の料理の特徴は羊肉である。かつて羊肉は苦手であったが、学生の頃に渥美財団のバーベキュー会でケバブ(羊の串焼き)を食べて羊肉が好きになった。羊肉はたっぷりのクミンをかけて焼く。羊肉もクミンも自己主張が激しい。でも一緒だととても相性がよい。更にそれらはビールともよく合う。ドネルケバブという豪快なファーストフードもある。東アジアでも見かけるようになったが、肉片を円筒状に積み重ねて、側面から焼きながらそぎ落としてナンやパンで包んで食べるものである。羊肉100g入りが10リラ(500円)、150g入りが15リラ(750円)であった。最後の3日間は毎日このドネルケバブを食べ続けた。帰国直後は自分の汗が羊肉臭いことに気づいた。中東の人が持つ匂いだ。目から鱗であった。体臭は人種固有のものではなく、食に起因するものだった。   初めての西アジア旅行は刺激的な経験となった。幾つかの国に行ったことがあるヨーロッパに比べると、今回のトルコは異文化度が高かった。異文化の交わる所は創作活動が盛んになるそうだが、これほど刺激が多ければ芸術文化が盛んになるのも頷ける。   旅行の写真をここからご覧ください。   葉 文昌「トルコ旅行記(その1)」はここからご覧ください。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2013年10月23日配信
  • 2013.10.16

    エッセイ389:葉 文昌「トルコ旅行記(その1)」

    島根の友人5名と9月にトルコへ旅行した。初めてのイスラム圏への旅である。松江から最も手頃で早い航空便は、岡山空港発、ソウル仁川経由でイスタンブール行の大韓航空だった。朝6時に松江を出て、翌日2時(現地時間夜8時)頃にイスタンブールのアタチュルク空港に到着した。人からなのかそれとも店からなのか、空港ロビーに降り立った時からケバブのにおいがしていた。クミンかマトンかあるいはそれらの混ざり合った匂いである。日本は発酵大豆の匂い(味噌か醤油)、台湾は八角の匂いがするそうだ。たしかに私も最近台湾に帰ると八角か小籠包の匂いが気になる。自分は無色無臭と思っていたらそれは間違いなのである。   空港からタクシーで旧市街地のホテルへ向かう。高速道路の作りや雰囲気が台湾と似ている。それは「緻密度」だろうか。昔台湾から新潟へ出張したとき、アスファルトと道端のコンクリートの継ぎ目の緻密さに感激したことがある。作業員(職人)のこだわりの主張を感じた。これが緻密度である。予算たっぷりに建物を作ったとしても、或いは先進国の建設会社が作ったとしても、見える外装は現地の職人の手で完成されるので、経済的に余裕があるほど完成品の緻密度は高くなる。トルコの経済水準は台湾と同程度なので、同じような緻密度なのだろう。   途中で雑貨屋があったので、イチジクを一個買った。皮は紫色で枝の付け根から半分に裂くと真二つに割れて綺麗に断面が見える。日本のと比べると皮は薄く、中身は色が赤く乾いていてとても甘かった。調べてみるとイチジクの原産は中東とあった。いくら他の土地で人工的に品種改良しても、土地と気候が適した原産に敵うわけがない。果物は日本や台湾では輸入制限があり、現地だけでしか味わえないことが多いので、海外旅行で楽しみにしていることの一つである。   翌朝、ブルーモスク、トプカピ宮殿、地下宮殿と回る。ブルーモスク内部のパステルな色使いは今でも通用する落ち着いたデザインだと思う。またトプカピ宮殿の幾何学的な窓格子も印象的だった。かつて富が集まった場所の工芸品は緻密度が高い。いずれも最高の職人が仕上げたものだからである。すべて人の手によるものなので、時代に関係なく、最高の職人による彫刻や建築を見比べることができる。各国のかつて栄えた時代の工芸を見れば、特定の人種が職人芸に秀でているのではないことがわかる。近代の日本の工芸品は緻密度がとても高いが、これも同じ事が言える。   夜になれば、世界三大料理の一つとされるトルコ料理とお酒の至福の時間となる。出発前の情報によればトルコは穏健イスラム派のエルドアン政権により、飲酒が昔よりも制限されたとあるので、酒が飲めないことを心配していた。しかしいざ到着してみると、青いEFESビールののぼりがあちらこちらにあって安心した。結局はイスタンブールではどこでも普通に飲めたので、トルコ万々歳である。   一行はタクシム通りの近くの予約したレストランへ向かった。タクシム広場では普通に観光客が歩いていたが、その一角では大勢の機動隊員とその車両が陣取っていて、物々しさを感じた。その日はオリンピックが東京に決まった日。それがきっかけで政府への不満が爆発してデモや暴動が起こることないかと心配しながら通り過ぎた。どこの人ですかと聞かれてたので、私が「Taiwan」と返せば「Good。 I don’t like Japan」と、同行者が苦笑する場面もあった。国際連合ツアーの良さもあるものだ。店でトルコ料理とビールを堪能し、気持ちよく酩酊して店を後にする。   トリム(路面電車)に乗るために再度タクシム通りに出た途端、群衆のシュプレヒコールが聞こえて来た。タクシム通りの100m先は人で溢れかえっており、群衆の中心でもある交差点から黒煙が立ち上っていた。そして一部がこちらに向かって走ってくる。スポーツ競技の前のような胸の高鳴りを感じた。同調心理だろうか。こういう時は何も考えずに群衆に吸い込まれる人も多そうだ。でもここは野次馬根性を捨て、トリム乗車を諦め、逆方向から抜けることにした。途中、早歩きで群衆に向かう50人程の機動隊とすれ違う。小路をすり抜けて大通りへ出た。大通りは相変わらず車で満ちているもののデモはなく、その静けさに安堵した。ホテルへ直行し、次の日の為に早めの休息を取った。 (つづく)   関連の写真は、ここからご覧ください。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)  Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2013年10月16日配信    
  • 2013.10.02

    エッセイ388:アーロン・リオ「Sさんを待ちながら」

    ミニバスの運転手と2人きりでガタガタ山道を走っている。ちょっと前までは農家と田んぼとガソリンスタンドがいくつかあったけど、今は窓から外を見ると、杉林の起伏ばかりが続き、真夏の昼間なのに杉が太陽を遮ってとても暗い。運転手は、僕の不安な表情に気づいたのか、「カントリーサイドやねん」と、わけのわからない日本語で喋り出してくすくす笑っている。「カントリーサイド?それってちょっと控えめすぎるんじゃない?」と思いながら、やがてまた杉のリズムに戻っていく…   その数年前に、大学を卒業したら大学院で日本の美術史を勉強すると決心した。まずはまだ行ったこともない日本を味わってみようと思い、航空券代を稼いだら一週間東京へ。新宿西口の夜の賑わい、東京国立博物館で見た大徳寺聚光院の襖絵、山手線の大混乱、はじめての酎ハイ…今顧みるとそれぐらいしか思い浮かばない。帰国後、ジェットプログラムに応募した。仏教美術に憧れていたので、軽々しく奈良と京都を第一、第二希望にした。   卒業後の夏、一日千秋の思いで待って、遂に日本国文部科学省から手紙が届いた。「Placement」という欄にローマ字で「Soni Village」としか書かれてない。ワクワクしながらインターネットで検索してみても結果が出ない。 漢字も分からず、 グーグルマップがまだ存在しないあのとき、不安いっぱいで日本人の友人に聞いてみたけれど、「ソニって?漢字は何だろう」。ぶつぶつ言いながら何日かたつと、「Soni Village」のSさんからの簡単な挨拶メールが入った。大変きれいな英語でなぜかほっとした。漢字も委細もわからないまま荷造りをしたり、別れの挨拶をしたりして、一夏を過ごした。関西空港に到着したら、優しそうなSさんが迎えにきてくれると期待していたけど、ミニバスの運転手しかいなかった。   …とうとう、ミニバスが山を下りはじめ、無限の杉林が開けて、明るい谷間が広がった。渓流の両岸に田んぼとビニールハウスが並び、山腹に農家が点在している。一本道は、軽トラックだらけで、川に沿って伸びていって渓流の遠端に消えていく。まさに一度離れたら戻ることができないという桃源郷のようだ。ミニバスはまた坂を上って森を背にして建っている小屋の前に止まった。「ジス、イズ、ハウス」とミニバスの運転手が口ごもって言う。ミニバスの運転手は一緒に荷物を中に運んで、しばらく半分関西弁(当時は一体何語なのかと思ったけど) 半分片言英語まじりで、家の中を回って、指差しながら説明する。布団、固定電話、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機。浴室で、これを押し回しこれをガチャガチャ回転させ何とかなると、細かいジェスチャーで何かを説明しているけど意味不明。「Sさん、来週、カムバック」と、妙に親切なミニバスの運転手は小腰をかがめながら家を去った。   ミニバスの運転手が指差した冷蔵庫の扉に、付箋紙で「Please drink!」とSさんによる指示があった。冷蔵庫の中に見つけた「American Cola」の印がついた赤い缶を開け、不味いけどそれを飲みながら、窓から目の覚めるような景色を眺める。渓の向こう側に、あとになって名前がわかった「鎧岳」という山が空に聳えている。目を下ろすと、目の前に広がる田んぼのど真ん中に腰の曲がったお婆さんが篭を背負ってこっちを凝視している。んん?と思いながら、畳の上に横になってぐっすり寝入ってしまう。少しして、玄関から震える女性の声で「先生?先生?」と聞こえてくる。畳の上から襖をそーっと開けて首を伸ばすと、人の姿は見えないけれど、大きい段ボール箱が置いてある。躊躇いながらこそこそと玄関へ這って行くと、なぞの箱にはトマト6個、茄子2個、ほうれん草1束、信じ難いほどたくさんのお米(一年分?)など、ぎっしりと詰まっている。今も尚、誰だったかわからないけど、あの田んぼのお婆さんだったと勝手に信じている。   暫くの間、幾人かの見知らぬ人が突然玄関に現れて、野菜やお米をくれたり、人がたくさん集まった誰かさんの家に連れて行かれて食べさせてくれたりした。酔っ払っているミニバスの運転手もなぜかよくいて、何時も「Sさんがー」なんちゃらかんちゃらと。はじめての日本酒もミニバスの運転手と。ある日突然、医者っぽいおじさんがエアコンを携えて来て、説明も無く壁に取り付けた。別の日、ミニバスの運転手が僕を車に乗せて、途中でお爺さんを迎えに行って、最後にある家の前に止まった。お爺さんだけが家に入って、20分後に車に戻って僕から3万円を求めてまた家に入る。お爺さんが10分後にもどったら、僕に車の鍵を渡して「マイカー」だと。帰りはお爺さんを「マイカー」になったばかりの軽カー(軽自動車)に乗せて。   ミニバスの運転手が約束した通り、着いてから1週間後にSさんが玄関に現れた。英語ぺらぺらの美人のSさんは僕の上司だそうだ。1週間ぶりの英語のためか、初めてなのに久しぶりの親友のように、多事な1週間をSさんに語り尽くす。田んぼのお婆さんが隣人のTさんでSさんの夫の母、エアコンを取り付けた医者っぽいおじさんがクリニックの院長のFさん、3万円を求めたお爺さんが教育長のMさん、姿を表さないマイカーの売り手が教育長のMさんの秘密の恋人、ミニバスの運転手がSさんの友人で役場の整備員のIさん、漢字が「曽爾」、等々、Sさんが1週間の神秘を解いてくれた。   あれから10年も経って東京で博士課程を終えつつある。不慣れなところも未だに多いけど、留学の経験や日常生活や研究によって、日本について色々学んできた。今でも、東京の喧騒から逃げたいときは、時折第二の故郷の曽爾へ。Sさんと一杯やりながら、現実からの息抜き。そのときにいつも考える、今も僕が日本について「知っている」事のほとんどは、Sさんを待ちながら学んだ。   ------------------------------------------- <リオ・アーロン Aaron M. Rio> コロンビア大学美術史考古学部博士課程後期。2004年インディアナ大学東アジア研究部・文学部を最優等で卒業。2008年コロンビア大学美術史文学修士、2010年日本美術史哲学修士。同年より東京大学東洋文化研究所訪問研究員、2012年より学習院大学文学部哲学科客員研究員。研究分野は中世日本の地方画派。 -------------------------------------------   2013年10月2日配信
  • 2013.09.25

    エッセイ387:マックス・マキト「マニラ・レポート2013年夏」

    2013年8月23日、フィリピン大学工学部にて、第16回日比共有型成長セミナー「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」が開催された。   午前8時45分、予定通りフィリピンと日本両国の国旗掲揚で開会した。日の丸は在フィリピン日本大使館から借り、両国の国歌は、英語訳のついたものをYouTubeからダウンロードした。今年の3月のSGRAかわらばん(エッセイ368:マニラ・レポート2013年冬)でも報告したように、本セミナーを共同で主催する団体の2つの国、フィリピンと日本の国旗掲揚と国歌演奏を行うことは、本セミナーの顧問である東京大学の中西徹教授からヒントを得て、フィリピン人で構成されたセミナー実行委員会で私が相談した結果である。ご存知のように、第2次世界大戦の最後に、マニラはベルリンとスターリングラードと並べられるほど壊滅的な破壊を被った。他の東南アジアの都市では、日本軍は比較的早く降伏したのに、なぜかフィリピンでは徹底抗戦をし、大勢の地元住民が巻き込まれた。実行委員会で相談した時、数人の委員が当時自分の家族が日本軍から受けた経験を分かち合ってくれた。私の提案は拒否されるのではないかと思ったが、最後には、全員一致で受け入れてくれた。「あの戦争は忘れてはいけないが、それを乗り越えて前に進まなくては」と。   中西先生が、参加者の誤解を招かないように、この国旗掲揚の意味を、開会挨拶で感動的に語ってくださった(下記参照)。日本大使館から日の丸の貸し出し許可が下りたので、中西先生と日の丸を受け取りにいく時に、大使にご挨拶をしたいと伝えたところ、卜部敏直大使は中西先生のために夕食会を開いてくださった。実行委員会のメンバー数人も一緒に招待され、大使公邸でマニラで一番美味しい和食をご馳走になった。   今回のセミナーは様々な点で今までの記録を更新した。参加者(200人強)、報告(25本)、協力(在フィリピン日本大使館、フィリピン高等教育委員会)、協賛(鹿島フィリピン、農業訓練所、マリア エズペランザ・B・ヴァレンシア&アソシエイツ、ダニエル・B・ブリオネス建設、フィリピン建築家連合)の数が倍増した。皆さんのご支援とご協力に心から御礼を申し上げたい。そして、実行委員たちが本当によく頑張ってくれたことに感謝したい。企画に協力してくれたフィリピン大学建築学部、フィリピン水と衛生センター、元日本国文部省奨学生同窓会、そしてフィリピン大学工学部(とくに機械工学部)にも感謝の意を表したい。   セミナーのテーマは「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」で、5つのブロックに分かれた。「持続可能な共有型成長(その他)」(ブロック1)、「都会・農村のコミュニティにおける社会サービスと生活」(ブロック2)、「持続可能な農業」(ブロック3)、「持続可能な都市」(ブロック4)、「都会の緑とグレー」(ブロック5)である。各ブロックで、平均5人の発表者から各15分の報告があった。合計26本の報告は一日がかりであった(最終的なプログラムは下記リンク参照)。フィリピンは丁度雨季で、セミナーが開催された週はフィリピンの各地で洪水がおこり、キャンセルした報告者や参加者もあった。しかし、実行委員会の懸命な努力により、220人もセミナーに参加してくれた。   名前を出さないのは報告者に対して申し訳ないが、全ての報告についてここで語りきれないので、関心のある読者はぜひ下記リンクより論文要旨をご参照ください。どの報告も、私達が目指すフィリピンのためのKKK(効率・公平・環境)を掲げたものである。ブロック1では、共有型成長KKKに関する定義が取り上げられた。「幸せ」、「環境倫理」、「日本から学んだ共有型成長」というやや広範なものから、フィリピン人が好む「モールに行くこと」やアキノ政権の「健康政策」という具体的な事例まで語られた。ブロック2では、水や衛生を地方に普及させるWASH(Water Sanitation and Health 水に関する衛生と健康)や、高原で母なる自然と調和するシステムを営んでいるKISS (Kapangan Indigenous and Sustainable Systems カパンガン地区における土着かつ持続可能システム)プロジェクトを中心に報告が行われた。お弁当のランチを挟んでブロック3では、ネグロスで実施されている事業を中心に議論が進められた。この事業については僕がDIRI(Downstream Integrated Radicular Import-Substitution 下流統合型幼根的輸入代替)モデルと命名し、研究を続けている。ブロック2と同じくこのブロックでも持続可能な共有型成長のための試みが語られたが、WASHは基本的にPCWSという非営利団体主導、KISSは農地改革省主導、DIRIは民間企業主導と、多様な形がある。ブロック4ではいかにマニラが都市集中型の発展から離れるかという主旨で、他の地方や国(オランダ)の持続可能なモデルが紹介された。同時に、東アジアにおけるフィリピンの戦略的な立地活用についても議論が進められた。ブロック5では、都会の緑とグレーの両側面についての報告があった。前者では、自然が重視されたモールや公共のスペースや都会型の農業がテーマだったが、後者では、都会のゴミは貧しい人々によって処理されているが、その人々を社会の公的な部分に取り入れる重要性が訴えられた。   会場から飛び込んできた質問があった。「あなたはフィリピンにおける共有型成長の実現をどう展望しているか、どのように実現できるかを聞かせてください。」   僕は、過去数年間製造業を、そして近年は農業を通じて、フィリピンの共有型成長へ貢献する道を探ってきた。中小企業・労働者・東アジアと成長が共有できそうなフィリピンの製造業や、KKKを実現できそうな持続可能な農業の可能性を探ってきた。そして、これらの部門を支援・指導する国家戦略がなければ、この可能性を実現することはできないという結論に至っている。僕たちが色々頑張ってみても、あまり進展がない感じである。というのは、フィリピン社会は、海外出稼ぎ者の送金に依存する深刻な病に掛かっている。フィリピン政府が、困難な産業・農業発展戦略を実施しなくても、海外出稼ぎ者から準備外貨が送金される。だから、この質問に対して明るい展望をなかなか描けない。   このように答えざるをえないはずであったが、このセミナーの2週間前に、僕はフィリピンにとって新しい道を発見した。そのきっかけは、国士舘大学の平川均教授、名古屋工業大学の徳丸紀夫教授、創価大学の遠藤美純博士によるフィリピンIT産業の調査である。1週間、IT産業の関係者とのヒアリングを行い、訪問中の皆さんと議論したお陰で、フィリピンIT産業には、上述したような製造業や農業の潜在力を引き出すダイナミズムが十分にあることに気付いた。フィリピンでも共有型成長の展望が明るくなったという気がする。   僕の発表の時に、僕の方から質問を投げかけた。「我々が日本から学べるものに関心がある人?」会場の3分の2ほどが挙手してくれた。手を挙げていない人々よ、これから僕が日本から学んだ共有型成長についてお話ししましょう。日本からいかに学べるか、経済学の視点から説明しましょう。この15分間の話で納得できない方のために、今、「フィリピンのために日本から学ぶ共有型成長」という本のシリーズを執筆しています。   今度のマニラ訪問で、意気投合した仲間達とその本の共著を決めた。その仲間が、いつ出版するのかと聞かれた時に、「5年前(に出版すべきだった)」と即答した。彼はフィリピン政府の政策立案・実行と多くの開発プロジェクトに関わっているからであろうか、この研究の重要性をすぐ理解してくれた。数年間、友人の経済学者に共有型成長の重要性を訴えてきたが、従来型の経済学(つまり市場万能主義)はフィリピンでも根強いらしい。この本にマニラ・セミナーのビションを詳細に書き、従来型と違う経済学をフィリピンに紹介しようと思っている。   この夏、フィリピンで大きなエネルギーをいただいた。第17回日比共有型成長セミナーは、来年の2月にマニラで開催する。「早すぎない?」と悲鳴をあげた実行委員もいたが、幸い20人以上の委員が、フィリピンのためのKKKという我々の使命を理解してくれている。第17回目のマニラ・セミナーは日本の建国の日、2月11日に開催する予定である。   関連リンク等   1.フィリピンの国歌 (英訳付き)   2.日本の国歌(英訳付き)   3.セミナープログラム (又はSGRAセミナー・レポート、まだ作成中)   4.発表書類   5.本エッセイ「マニラ・レポート2013年夏」の英語版   6. マニラ・セミナー16報告書(英語)   7. 中西徹教授の国旗と国歌に関する挨拶文   ■ NAKANISHI, Toru "On Sharing the National Flag and National Anthem"   It is my great honor to be given a chance to talk about sharing and respecting the National Flag and National Anthem between the Philippines and Japan as a Japanese. The idea of this opportunity comes from an informal discussion with Dr. Max, Ferdinand Maquito, Program Organizer of this conference.   Frankly speaking, however, I could say that I have not loved HINOMARU and KIMIGAYO for a long time. I think many Filipinos may be surprised to hear this, but such a feeling is not so unusual among the Japanese people. Such tendency may come from the stance of mass media or the elementary and secondary level education in Japan. Some of us insist that HINOMARU and KIMIGAYO were symbols of the militarism in Japan during the World War II, so that respecting them so much will call back such militarism.   Indeed, the Japanese invasion caused huge damages to the other Asian countries like the Philippines. When I was a high school student, I read Without Seeing the Dawn, translated in Japanese, written by Stevan Javellana. This book inspired me to study the Philippine society. In this book it is eloquently described how the Japanese invasion violently changed the peaceful and happy days in a charming village in Panay Island into cruel and hopeless nights.   On the other hand, many Japanese youth were forced to serve in the so-called Kamikaze suicide squad that executed the suicide attack on the US warships, even if they did not want to die in such manner. Even as the bereaved families tried to understand the tragic loss of their sons, they have been condemned for long time after the War as if their sons were willing offenders. The ordinary people, mga tao, always lose loved ones in all wars everywhere.   From the historical point of view, it is true that the World War II had been a nightmare in the long history of Japan. If we, Japanese, really understand the history of the nightmare, none of us will repeat or participate in such tragic and sad mistakes ever. HINOMARU and KIMIGAYO were not created for the World War II but had existed since the Meiji or Edo era during the 19th century. Our history of invasions of the Asian countries has to be understood and accepted as our serious mistakes which disgraced the long history of Japan.   Furthermore, to tell the truth, I have had a basic question: can Japan really pay due respect to the national flag or the national anthem of another country, if she does not pay due respect to those of her own country? Such a question was elicited by one of my experiences in the Philippines about 5 years ago. (By the way, as introduced I have been coming back and forth to the Philippines more than 30 years now.)   I have been involved in some scholarship program for the students living as informal settlers in Malabon since 2006. The aim of this program is to assist students with good grades in the early high school level to take and pass the entrance examinations of the high standard universities, like the UP, and to assist them until their university graduation. About 5 years ago, I went to register some of my scholars for the entrance examination in a private university. I was doing this task for my wards, because their parents did not have enough money to do so.   After I queued up for long line I was finally in front of the registration window to submit the registration forms. I could get my turn at last. However, at this moment, the officer suddenly stopped working. I could not understand what happened to her and asked her why. Then she pointed to the window behind me without saying anything. When I looked back, everyone was silent in the room and were looking at only one thing: the national flag raising with the accompanying singing of the Philippine National Anthem. Immediately, I also paid due respect to the occasion. To pay due respect to the national flag and the National Anthem is very common everywhere in the world. This scene, however, is rarely seen in Japan! This was a very valuable experience for me, because I confirmed that Japan has not shared such an inspiring global standard.   Both HINOMARU and KIMIGAYO already existed long before the World War II started. If the Japanese still think that they are so sinful and therefore scarlet with shame, there must be a strong movement to change the National Flag and the National Anthem in Japan. However, we have not found such movement in Japan until now. I think all Japanese accept HINOMARU and KIMIGAYO positively or negatively. If one says this proposition is not right, I suppose that he would not face up to the history of Japan or he would like to get the absolution for the sins of the World War II by disguising to hate them.   Based on the above narration, the meanings for me as a Japanese of the honor to share the Japanese National Flag and National Anthem with Filipinos are the following three points: First, HINOMARU and KIMIGAYO continue to warn us against militarism. It can be said that for most of us Japanese to accept HINOMARU or KIMIGAYO gives us some pains to some degree or another. In general, Japanese have a feeling that to positively accept HINOMARU or KIMIGAYO means to have an abnormal thought, though to negatively accept them is not. I am confident, however, that we need some more positive deed, that is to say, to accept the whole of our history by squarely or directly confronting our stigma. HINOMARU and KIMIGAYO show our history itself. They always continue to remind us they are symbols of our long history and yet warn us of our historical events and warn us against futile and destructive military adventures.   The second point concerns a global standard of social custom. According to my understanding, there are no countries where many people have a negative image on their own National Flag and their own National Anthem, except Japan. I believe that we should pay due respect to the social custom based on historical traditions. HINOMARU and KIMIGAYO have a long history as repeatedly mentioned. Therefore, if I do not pay due respect to HINOMARU and KIMIGAYO, I must have not a global standard but a double standard. I am confident, finally, that the Japanese should pay due respect to HINOMARU as our National Flag and KIMIGAYO as our National Anthem.   Finally, all the program board members willingly consented to our, sort of test, for jointly honoring both our countries by this gesture through the initiative of Dr. Max. I know the relatives of many of you have grievous experiences similar to those described in Without Seeing the Dawn. On this point, the word “absolve” in a Catholic sense to which Dr. Max referred is very impressive to me. Here I confirm to be determined that Japan would never repeat the mistake in the World War II. Though our trial balloon today is very small step, I feel confident that it will give us a further push to fostering deeper friendship between the Philippines and Japan. Thank you very much for your kind attention.   (Professor, The University of Tokyo)   英語版エッセイはこちら   -------------------------- <マックス・マキト Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械 工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学) 産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧 問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------   2013年9月25日配信
  • 2013.09.18

    エッセイ386:角田英一「『3・11』『ふくしま』から考える」

    崔勝媛さんのエッセイ「日本の科学、そして世界化について」を興味深く、また共感をもって拝読しました。と書くと硬くなってしまいますが、「僕と同じことを考えている!」とうれしくなって読んだ、と言うのが本音です。   《大学の「自死」》   現在、大学のグローバル化と留学生をめぐって、「『学』と『知』の魅力」「産業の魅力」「生活環境の魅力」「歴史・文化の魅力」などの議論が行われていますが、「『学』と『知』の魅力」を語るべき大学人の意識、思考力の欠如と視野狭窄に愕然とさせられます。崔さんが書いている「研究者に研究し続けさせる原動力は、純粋な好奇心から出るものである。物事の根本に対する深い考えがあってからでこそ、横への広がりも生まれてくると思う。」というような、「知のありよう」に関する本質的な問いかけや議論を公式の場でできない大学人とは、何なのでしょうか?当然のことながら、大学人の多くは、自らこうした問いかけをしているのでしょうが、公式な議論の場には出てきたがらない。逃げる。あるいは封殺されて出てこられない。「知のありよう」を考え、新しい知を創造する拠点としての大学の「自死」とも言える状況が蔓延しています。   《大学のグローバル化戦略とアメリカ型グローバル資本主義》   大学のグローバル化、グローバル人材育成という課題の下には、アメリカ型グローバル資本主義のもとでの国際競争という背景があります。さらに、地球社会全体に蔓延したアメリカ型グローバル資本主義の根底には、旧態依然とした西洋型近代主義、経済成長至上主義のイデオロギーがあります。ローマクラブが「成長の限界」を発表してから40年がたち、地球大の人口爆発からもたらされるエネルギーの枯渇(現在の原発問題もこの文脈の延長線上にあります)、貧困の増大と食糧の枯渇、環境破壊等々、地球社会の危機的な状況が急速に進展している今日、西洋型近代主義、経済成長至上主義に依拠し、その究極の形態であるアメリカ型グローバル資本主義が、今後数十年にわたって生き長らえて行くのでしょうか?その基盤となっている「科学・技術のあり方」はこのままで良いのでしょうか?   《千年前のアラビア科学の発祥に学ぶ》   崔さんは「日本の科学」をテーマとしてお書きになっていますが、本質には、現代における「科学とは何か?」、「知のありようとは、何か?」についての問いかけをなさっているのではないでしょうか?とは言っても、「科学とは何か?」、「知のありようとは何か?」に答えることは、いかなる天才でも簡単なことではありません。直接的に答える以前に、共に考える「場」を設定することが必要です。   8世紀から12世紀まで、バグダッドを中心にして「アラビアの科学」が勃興し、その後、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとするヨーロッパのルネッサンスの生成に大きな影響を与えたことはご存知の方も多いと思います。アラビア科学の発祥にあたって、アラビア科学を担ったのはアラビア・イスラムの学者ではなく、その大部分が当時の辺境であったトルコ、ペルシャ、更にはインドや中国からバグダッドに招かれた学者や翻訳家でした。(伊東俊太郎著「近代科学の源流」等参照)当時の版図による「世界中」からもたらされた、多様な科学、文化、知識の集積、特に翻訳文化の上に、成立したのが「千年前のアラビア科学」です。正に、一握りの天才ではなく、多様な文化背景や知識を持った大量の学者や翻訳家の集積の上にアラビア科学が発祥したと言われています。新しい「知のありよう」を探り、紡ぎ出すためには、多様な文化背景や知識を持った大量の学者や翻訳家が集まる「場」が必要なのです。   ここまで書くと、「チョッと待てよ、SGRAは正にそうした『場』ではないのか?」と思い始めました。SGRAには、アジアだけでなくアメリカ、ヨーロッパや最近ではラテンアメリカ、アフリカまでの、多様な留学生、学者が集まっています。こうした多様な文化背景や知識を持った大量の学者が集まり、多様な知識を持ちより、自由に議論する「場」は、他にはない貴重なものなのです。   《「3・11」、「ふくしま」の現場から考える》 とは言っても、ただ集まって自由に議論していても議論の基盤が見えてはきません。日本が直面している「3・11」と「ふくしま」は新しい「知のありよう」を模索する上での重要な契機を提供しています。「3・11」では、自然の驚異の前に人間はいかに無力であるか、を思い知らされました。「ふくしま」では、科学・技術、あるいは科学技術の専門家への根源的な疑問や疑いが生まれています。科学・技術信奉の基盤の上に成立している西洋型近代主義、経済成長至上主義、国民国家主義などが崩壊しつつある今日、「3・11」と「ふくしま」は、現代の「知のありよう」に大きな方向転換を迫るものではないでしょうか?   1755年のリスボン大地震の災禍は、ヴォルテール、ルソー、カントなどの哲学に強烈な衝撃を与え、18世紀のヨーロッパ啓蒙思想に強い影響を与えたと言われています。「3・11」と「ふくしま」には、それと同様あるいはそれ以上のインパクトが内包されています。SGRAでは、毎年福島県飯舘村でのスタディーツアーを行い様々な議論をしています。こうした現場を訪れ避難村民の方々の生の声を聴きながら「日本の社会が、また科学がどういう答えを見つけて行くのか」その姿を世界に発信して行くことこそが、「日本なりの世界化」への一歩ではないでしょうか。   ------------------ <角田英一(つのだ えいいち) Tsunoda Eiichi> 渥美国際交流財団理事、アジア21ネットワークス代表、Global Voices from Japan事務局長。 ------------------   2013年9月18日配信
  • 2013.09.11

    エッセイ385:シム チュンキャット「日本に「へえ~」その13:「2020年オリンピックが東京に

    おめでとうございま~す!Congratulations! 恭喜恭喜(ゴンシーゴンシー)!   僕が人生の活動拠点を置いているこの大東京で7年後に夏季五輪が開催されるなんて、祭と人込みが大好きな僕はもう今からワクワクドキドキです!いろいろな競技を生で楽しめるように軍資金を貯めておかないと。シンガポールにいる家族や友人もたくさん来るでしょうしね。だって、これまでオリンピックで金メダルを1個も取ったことのないシンガポールがオリンピックの開催地になることは、隣国との共催ならともかく、たぶん百年後でも無理です。百万シンガポールドル(8千万円弱)という世界最高金額の金メダル獲得賞金を用意しても、シンガポール生まれ育ちでない新移民の力に頼っても、ならぬものはならぬのです。とにもかくにも、東京五輪2020となんら関係を持たない僕も忙しくなること請け合いです!   あっ、話が脱線しました。3回連続で立候補したマドリードと5回目の挑戦となったイスタンブールは本当に残念でした。とりわけ、イスタンブールが掲げた「Bridge Together」(ともに橋を架けよう)というスローガンが一番心に響いただけに、何か心残りになりました。確かに、大陸間、民族間や宗教間の架け橋となることなど、トルコが果たせる役割は大きいと考えられます。特に、「われわれ」と「彼ら」という対抗意識に横たわる溝が深まりつつある今日の国際情勢において、その役割はますます重要でありましょう。ただ、あいにく数ヶ月前に起きた大規模反政府デモとその鎮圧が象徴するように、当のトルコ国内における政府と市民との間の架け橋が覚束ないように見えるうえ、周辺国の不安定情勢も心配の種となりました。もし僕が選考委員だったとしても、リスクを回避し時期尚早という判断を下したことでしょう(誰だよ、君は!と突っ込まないで、オリンピックから縁遠いシンガポール人の戯言だと思ってください、はい)。   それに対して、失礼ながらマドリードのスローガンの意味はいささか掴みきれませんでした。「Illuminate the Future」(未来を照らせ)という文字通りの意味は分かります。だが、その未来というのが、スポーツの未来なのか、それとも人類社会の未来なのか、はたまたEUの未来、もしくは自国経済の未来なのかがはっきりと伝わってきませんでした。いずれの未来にせよ、甚だ無礼ではありますが、それを照らすことを、なぜ未来を担う若年層の失業率が半数超というスペインが先導するのかが今ひとつ理解できませんでした。   一方、東京のスローガンは「Discover Tomorrow」(未来(あした)をつかもう)でした。うん、つかみましょうよ!というよりも、つかまなくても来ますから、未来(あした)は。重要なのは、どのような未来(あした)を目指すかですね。昨日までやってきたことと今日やることによって未来(あした)は創られるものの、ひとたび天災や人災が起きれば未来(あした)ほど脆いものはないことをわれわれは思い知らされてきました。ともあれ、その未来(あした)について、東京は「平和」「アジア」「復興」という理念を打ち出しましたが、単なるスローガンに終始せずにぜひ実践してほしいものです。   しかし、安倍首相のあの「福島第一原発の汚染水漏れはまったく問題なし」や「福島の状況はアンダーコントロール」という自信たっぷりの発言には驚きました。原発事故をめぐる一連の問題がすでにコントロールされているなんて、僕は知りませんでした。大学の教員でありながら、実に不勉強です。まったく問題がなくて状況がコントロールされているのなら、なぜそれを当事者の福島県民の前で発表せずに、地球の反対側まで行ってそれも英語で声高に宣言するのか、ちょっと不親切ですね。   このことも含め東京五輪の再来について、15万人以上の人々が未だに避難中という福島の人々はどのように受け止めているのか、気になります。去年の10月にSGRAの福島県飯舘村スタディツアーで会ったたくさんの顔が頭に浮かんできます。駐車場に設けられた仮設住宅の中の、決して広いとはいえない広場で静かに日向ぼっこしていたおばあちゃん達、誰も住んではいけない村を今でも交代で昼夜防火・防犯巡視を行う村民達、イノシシの増殖に対応しながら実験畑の汚染状況を調べ続ける「ふくしま再生の会」のボランティア達、立ち入り禁止区域の前のゲートで直立し、全身を防護服で包んだ、顔も見えない警備員のお兄ちゃん達…各々どのような思いでロゲ会長の「Tokyo!」を聞いていたのか、想像すると胸に苦みが広がります。まったく問題なしだなんて、そんな子供騙しのことを言わないでくださいよ、首相。つかむどころか、ましてやコントロールするなんて、未来(あした)が見えない人がまだたくさんいることをご存知でしょうに。   祭大好きと言っておきながら、皆がお祭気分で盛り上がっているときに水を差すようなことを言う僕も、大人気ない偽善者かもしれません。五輪招致の成功でアベノミクスの4本目の矢が放たれ、「無駄ではない」と言い切れる公共事業を増やしたり、もっと電気が必要だということで原発再稼働を推し進めたりする口実も手に入ったことから、脱デフレ期待で株価が上がりお金がジャラジャラと鳴る音が聞こえる世の中は悪いわけがないですものね。   2020年オリンピックが東京に決まって本当によかった…ですよね?   ------------------------------- <沈 俊傑(シム チュン キャット) Sim Choon Kiat > シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------   2013年9月11日配信
  • 2013.08.28

    エッセイ384:尹 飛龍「日本が好きになってきた」

    私は2007年9月に日本に来ました。私にとって初めての外国でした。日本滞在はもうすぐ6年になりますが、冷静に考えると、日本語は上手くなったけれども、日本の文化、日本の歴史、日本の政治、日本の経済などについて、悔しいですが、あまり深くは知りません。実を言うと、それらを理解しようとする努力をしなかったためです。   博士号を取得した時、どうして日本で生活を続けるかをもう一度考え直す機会がありました。正直に言うと、日本に来る前は、日本に対する印象はあまりよくないものでした。その原因は日本に対する知識があまりなかったからです。私のもっていた知識は、昔の日本は中国を侵略して多くの中国人を殺したり苦労させたりしたこと、現在の日本は経済面で中国から多くの利益を盗んだことくらいでた。日本に来たのも先生方に薦められたからで、技術力が高い日本で自分を高めようとしただけの利己的な考えでした。   然し、日本に来て、まず日本の環境に驚きました。市街にごみがなく、川の水が澄みきって、浅い水の中でも魚が生き生きと泳いでいました。道路と川の両側に木がたくさん植えられていて、公園もたくさんあって、東京に住んでいるのに、自然や緑がいっぱいだと自慢できることは想定外でした。日本にいる間にイギリスのロンドンとアメリカのオーランドの学会に行きましたが、そちらと比べても、日本は勝っていると思います。日本の環境は世界一という噂は確かなようですね。環境問題に陥った昔の日本と現在の日本を比べて、中国もこれから改善できることがわかり、中国の明るい未来が見えてきました。   それから、日本人の礼儀が素晴らしいと感じたのは、有名なお菓子屋さんでアルバイトをしていた時でした。仲間の接客を見て、その一言一言から「お客様が第一」ということがしっかり分かりました。そこで3年以上アルバイトを続けましたが、恥ずかしいですけど、外国人である私は接客に出る自信はありませんでした。子供の頃から、このような環境に慣れなければいけないかもしれませんね。然し、公衆トイレにトイレットペーパーを入れても、すぐ盗まれた時代も日本にあったことを知り、昔の ような「路不拾遺(道徳が世に行われて人々は道に落ちているものを拾わなくなる)」「夜不閉戸(夜でも鍵をかけなくても良い)」の中国もいつか戻ってくるでしょう。   また、日本人の親切にはすごく感動しました。東京に来て間もない頃は電車の乗り換えの時に困りました。東村山市萩山に住んでいたので、学校から帰るときに国分寺で乗り換えが必要でしたが、どう行けばいいのか分かりませんでした。その時、ある日本人の方にホームまで案内していただきました。いま思い出しても、まだ心が温かくなります。その後、何度もこのように親切に助けていただきました。修士課程の時からは、奨学金をいただきました。奨学会は毎月例会を行って、お金をあげるだけではなく、日本での生活、学業など幅広いことについて話し合って、大変助かりました。これも日本人の親切の表現だと思います。   日本の生活は便利で、食品が安全であることがとても好きです。何の業界でもルールがあって、皆が守っていることはすごくいいと思います。車が横断歩道の手前で止まって歩行者に譲ったり、電車やバスに乗るのに列を作って待ち、なんでもスムーズに動いています。市役所に行っても、警察署に行っても、サービス精神溢れる公務員からサービスを受け、大満足でした。皆が自分の責任をしっかり認識して、守るべきことを尊重しています。   日本へ来て、自分自身でいろいろ新しい情報を手に入れて、日本人に対する印象、日本に対する感情が大きく変わりました。昔のことの痛みはまだありますが、塩に水をかけるように、だんだん薄くなってきました。そして、今の平和を望んでいる日本人に、昔の罪に対する罰を与えることも不公平だなと考え、自分の視線は未来志向へ変わり、平和が続くように願い続けています。   様々な感動があって日本を好きになりましたが、まだ日本人のすべてを理解できるとは言えません。ルールが多すぎるせいかもしれませんが、日本人の中には、機械のように生きている方がたくさんいるように思います。皆が活発になるように何かをしてあげたいです。これは私の独りよがりの考えで、間違っているかもしれません。   それから、ある政府の関係者から、日本の政治家の中には右翼的な方が相対的に多いことを教えていただきました。個人的な考えですが、そのような状況がちょっと不安です。   日本に来て、私の視野が広くなりました。日本人と付き合って、日本に対する敵意がなくなりました。日本で生活をして、日本が好きになりました。日本も中国も、良いところを続け、良くないところを直していって、皆の幸せのために平和的な発展を目指し続けましょう。個人の力だけでは何も変えられないですが、我々地球市民の皆の力を合わせば、何でも変えられるでしょう。   頑張ろう、日本! 頑張ろう、皆! 私も頑張るぞ!   ------------------------------------------- <尹 飛龍(イン・フェイロン) Yin, Feilong> 東京農工大学工学博士。専門は自動車工学。車と人間の情報伝達手段として、アクセ ルペダルの反力を制御することで、安全かつエコの運転を実現する方法を研究してき た。現在は井関農工株式会社海外営業本部に所属し、海外向け製品の技術サポートを 担当している。2012年度渥美奨学生。 -------------------------------------------     2013年8月28日配信
  • 2013.08.07

    エッセイ382:崔 勝媛「日本の科学、そして世界化について」

    私は日本に来る前から日本の科学文化に興味をもっていた。日本に旅行で来て訪れたさまざまな博物館、韓国でも翻訳されている科学教養書、そしてニュートンのような科学雑誌など、日本のノーベル賞受賞者たちの名前を挙げなくても、日本は十分に日本独自の科学文化を形成している。   しかしながら、日本に来た2009年のある事件により、私は日本の科学について深く悩み始めた。それは新しく生まれた民主党政権による「事業仕分け」だった。一時期「1位じゃないとダメでしょうか」というセリフが流行ったぐらいに事業仕分けは熱い話題だった。それに反対する科学系の人々の声が高まる中、東京大学の小柴ホールで科学系のノーベル賞受賞者による記者会見が行われた。ノーベル賞受賞者が6人も集まって自分の声を発する科学系の環境に私は迫力を感じたが、彼らの発言は結局「いつかは役に立つ。そして1位を目指さなければ、2位もない。だから支援を続けるべきである」というのが結論だった。私はこの発言に違和感を覚えた。私たち科学者は本当に「いつか役に立つため」に研究を続けているのだろうか。国民の莫大な税金で行われる科学の研究に関して、研究者はもちろんその研究の青写真を国民に提案する義務はある。しかし研究者に研究し続けさせる原動力は、純粋な好奇心から出るものである。物事の根本に対する深い考えがあってからでこそ、横への広がりも生まれてくると思う。浅く掘った穴は大雨ですぐ埋められてしまう。今すぐ必要とされるものは、すぐにその必要性を失ってしまう。それをノーベル賞の受賞者の方々から聞けなかったのは非常に残念なことであった。   私はこれをきっかけに「科学とはなにか」について悩み始めた。そして西洋文化である科学を日本はどう取り入れ、科学先進国になったのかということに興味を持ち、色々な文献を読んだ。その中で一つ得た答えとしては、明治時代に科学を日本に取り入れる時の「専門用語の漢字語への翻訳過程」が非常に大事な段階だったということだった。何かに新しく名前を付けるには、対象の特徴を理解し、それをもっともうまく表現できる字を深く考察する必要がある。今存在する科学系の専門用語は明治時代の日本が作った漢字語である。私はこの過程が日本の学者たちに科学を深く考えさせる哲学と文化を生み出したと思っている。同じ漢字圏である韓国と中国は、科学を取り入れる時に日本が作った漢字語をそのまま取り入れたため、最初の考える段階が欠けてしまった。そして当時の科学は強国になるための手段であったので、先進国の科学知識と技術を急いで追いかけるだけで精一杯だった。私がこう考え始めたのが2011年ころである。日本の様々なメディアでは日本の世界化に関する話を良く取り上げていた。多くの大企業で全社員を対象とした英語コミュニケーションを推進したり、大学は世界の大学に合わせるため、9月に学年を始める案を検討したりしていた。現在の日本が世界化を念頭に入れるのは当然だと思うが、それを実現させるための案は他の国のマネのようなものがほとんどだ。大企業は、今、世界でもっとも多い売上を達成しているサムソンのシステムを学ぼうと叫び、大学は欧米の教育システムを取り入れようとしていた。   しかし今の日本に必要なのは他国のマネではない。これからの先を考えるため最も必要なのは、最初に科学用語を作り上げた時のような物事への深い考えなのではないだろうか。それが日本だけの突破口を見つける一番の近道だと私は思っている。   その頃、留学生として私の興味を引く話があった。文部科学省の「留学生30 万人計画」だった。日本学生支援機構による2012 年5 月1 日現在の留学生数は約13 万7 千人。2020 年までに今の留学生数の2 倍を超える30 万人の留学生を日本に招くということだ。国際化社会の一国として力をつける為、世界各地の優秀な人材を積極的に集めるという趣旨だ。天然資源に限界があり、人材が最も大事である日本という国で、海外からの人材の輸入は大事な戦略であることは確かだ。しかしその戦略の焦点が、単なる数に当てられているのはどうだろうか。   科学系でも似たような話がある。1990 年代日本政府は、日本の科学技術立国を実現する為、研究者の数を増やすべきだと判断し、理系の大学院生の数を増やすことに力を入れた。しかし、学生の数だけが増えても、その人たちを受け入れるポストが限られていた為、日本政府は、今度は、1996 年から2000 年までの5 年間の「ポスドク1 万人計画」をたて、大学及び研究機関に雇用資金を配布するに至る。しかし尚残る問題は、ポスドクを得た後の安定した職場の状況が全然改善されていないことだった。安定したポストを得る為の競争の時期が、博士号取得の直後からポスドクの契約期間が終わった後に延長されただけで、むしろ人の数が多くなり競争がもっと激しくなる一方であった。   日本で勉強する留学生の環境を改善し数を増やすことは、もちろん世界の中の日本の立場の上昇に寄与するに違いない。しかしそれは入学の時期を9 月にずらし、授業の言語をすべて英語に切り替えるなど、形だけの変化で叶えられるものではない。日本が留学生を増やそうとしていたのは今だけの話ではない。30~40年も前から、日本には、他のアジアの国に比べて、沢山の留学生が存在してきた。またその人材を育てる重要性もわかっていたはずだ。それなのになぜ今まだ日本は、日本が望む世界化にはなってないのだろうか。そこには様々な要因があると思うが、私は日本が英語中心の世界化だけに注目しているからだと思う。日本に留学する学生の出身地に注目する必要がある。日本学生支援機構の統計によると日本の留学生の8 割を占めるのが中国と韓国だ。それ以外のアジアの国を合わせると9 割に至る。英語は大事な共通言語にもなりうるが、その英語は西洋中心的な考えだけで、アジアの国への深い理解は欠けていると感じられる。日本は日本なりの世界化を考える必要がある。日本政府と大学は、世界の中のアジアの位置づけやその役割を深く考えるべきではないだろうか。   日本は、今までの日本、そしてこれからの日本、それを深く考えて日本なりの答えを見つけてほしい。その議論がまた日本内だけに縛られることなく、日本に住む外国人とも広く考えてほしい。人が持つ行動の力は、人と人の間で生まれてくる。良い留学生を、また研究者を増やすだけで、世界化、また科学立国になるわけではない。人と人の交流なしでは、人はただすれ違っていくだけだ。これからは多様な人たちの自由な混ざり合いから様々な答えが探れる社会になると思っている。これからも日本で科学を続ける研究者として、私は、日本の社会が、また科学が、どういう答えを見つけていくのか、その答えを周りの人たちと共に探し続けていきたい。   ----------------------- <崔勝媛(チェ・スンウォン)、Choi, Seung-won> 東京大学理学博士。現在理化学研究所特別研究員。専門は植物の分子生物学。現在は植物免疫研究グループで植物が病原菌にどう対応するのかを細胞レベルで検討する研究をしている。今の人間社会で科学が持つ意味についてもずっと考察中である。2012年度渥美奨学生。 ------------------------     2013年8月7日配信
  • 2013.07.31

    エッセイ381:李 垠庚「グローバル時代における講義の難しさ」

    今年の春学期、女子大学生を対象に「日本の女性とその歴史」についてはじめて講義をすることになった。普段は半年を通して「日本の歴史」について講義をしてきた私にとって(「日本史」について話せることはどれほど多いだろうか。いつも時間が足りないほどである)、 もっぱら「日本の女性」というテーマについて毎週3時間ずつ全15回、あわせて45時間も話すことが出来るか、少し心配になった。学期が始まる前の冬休みからプレッシャーは徐々に増し、日本出張中には日本女性関連の書籍を漁り、使えるものがあるかと韓国人の書いた関連論文も一通り目を通した。   ところが、実際に学期がはじまると、予想外の問題が待ち受けていた。受講生の中に「日本」からの学生たちが10人近くも含まれていたのである。彼女たちの学生としての身分はばらばらであった。ある学生は正式な交換学生、またある学生は語学研修のための留学生。日本からやってきた日本人女子大学生たちの前で、「日本の女性」について講義をしなければならないということが新たなプレッシャーとなった。しかも、その中には講義の内容どころか、講義に関する連絡事項さえ十分に理解できない聴講生もいた。したがって、日本語を交えて講義をしなければならず、レジュメにも日本語を適度に書き加えることにした。試験の際は、問題を日韓対訳で作成し、同じく留学の経験がある者として、自分なりに彼女らに対し最善を尽くしたつもりであった。   ところが、その講義ではもう一つ気にかかることがあった。受講生の中には中国からの学生2人も含まれていたのである。彼女達は朝鮮族ではなく、大陸からの漢族であった。韓国語の実力はそれほど違和感が感じられないほどそこそこ高いレベルであったが、日本語だけを交えながら講義をするとなると、日本の学生だけに有利ではないか、気になるのも事実であった。もしかすると、これを差別かひいきと感じるのではないか、いや、私が実際に、または無意識に差別をしているのではないか、何度も自問をせざるを得なかった。   言葉の問題だけではなかった。正直に言うと、日本女性に関する私の講義を、「日中韓」の東アジア三国の学生たちが一緒に聞くという状況は、私の想像を超えたものであった。講義中、誰かが気分を害する内容はなかったか、いわゆる「口がすべる」ことはなかったか、講義を終えての帰宅時間はいつもこのような反省の時間となった。   たまに、歴史にかかわる科目を教える立場の人間が、学生の集中力を高めるため、または分かりやすさのため、他国の極端なケースと比較したり、さらには揶揄する場合がある。これらは学生の笑いをさそうもっとも簡単な方法である。彼らに悪意があるわけではなく、なるべく印象深く、そして分かりやすい説明をするためであるとはいえ、もし当事国の人々が目の前に座っている状況であったならば、とうてい考えられないことであり、しかも決して講義でしてはいけない内容である場合も少なくない。学生が皆韓国人である場合、「ここだけの話だけど」だとか、「私たちだけの話だけど」といいながら、冗談めいた表現をすることも多いが、 もうこのような「国内用」講義が通用しない時代になりつつある。   実際、ある先輩は、いつも通りに講義をしたものの、その後、ある国の留学生団体から「講義に我が国を傷つける内容があった」との抗議を受けたという。その国をこきおろすのが目的ではなく、いわゆるその「国民性」を分かりやすく説明するつもりで例えたのが度を過ぎたとの言い訳であった。私は直接その講義を聴いたわけではないため、どれほどの内容だったかはわかりようがないが、とにかく、講義の内容がそのような理由で問題化したのは、これまではあまり見られなかった現象であろう。ソウルにあるほとんどの大学には、もはや数百人以上、大学によっては一千名を超える外国からの留学生が生活しているという現実を認識し得なかった故に起きたミスと言えるだろう。   では受講生の中に外国人がおらず、韓国人だけのクラスだったとすればそれはそれでよかったのだろうか。講師本人は気づいていないかも知れないが、究極的にはそれこそがより大きな問題であるとも考えられる。なぜならば講師が勢いで他国の歴史や国民性について、なにげなく「冗談」のつもりで話をした場合、講義以外に日本に関する情報や知識に接するチャンスが少ない学生たちは、そのままそれを「事実」として受け止めかねないからである。一学期の講義が終わってからの学生たちの感想・評価を見ると、講義中の冗談がもっとも印象に残ったとの答えが多いことを鑑みても、講師が冗談のつもりで歪曲した内容だけを学生達は強烈に記憶する可能性が高い。特に他国と比較したり、他国の風習を笑いの対象とする行為は、学生や大衆の関心を引くにあたって、より陥りやすい誘惑の道なのである。   私が講義室に東アジアの三国の学生が一緒にいることを知り、少し慌てたのは、私自身も、そのような誘惑や習慣と完全に決別していないことを示唆しているのかも知れない。帰国後、講義をするチャンスは増えたものの、他の研究者たちの(研究発表ではない)講義を聞くチャンスは少なくなるばかりである。私が最近、先輩の研究者がどこかで公開講義をするといううわさを耳にすれば、なるべく足を運ぶ努力をしているのには、このような背景がある。彼らの「知識」が気になるのではなく、大衆または学生に向けてどれくらいの「レベル」で、どのような「言葉」と「表現」をもってして伝えようとしているかがより気になる今日この頃である。   ------------------------------------------ <李垠庚(イ・ウンギョン)、Lee, Eun-gyong> 韓国ソウル大学日本研究所研究教授。淑明女子大学・漢陽大学などで非常勤として講義中。専門は日本の近現代史で、主に日本女性の運動・生活・文化について研究中。ソウル大学で学士と修士の学位を、東京大学総合文化研究科で博士の学位を取得。2007年度渥美奨学生。著書としては、『日本史の変革期を見る』(共著、2011)、 『現代日本の伝統文化』(共著、2012 )、論文としては「大正期における日本女性運動の組織化と路線葛藤」(2011)、「戦後の日本女性の対外認識」(2011)、「近代日本キリスト者の戦争協力」(2010)などがある。 ------------------------------------------   2013年7月31日配信
  • 2013.07.10

    エッセイ379:李 彦銘「第4回SGRAカフェ報告―日中に求められる『温故知新』」

    2013年6月15日、東京九段下の寺島文庫みねるばの森にて、早稲田大学の劉傑先生をゲストスピーカーとして迎え、第4回SGRAカフェが開催された。   冒頭の挨拶でSGRA代表の今西淳子さんから、カフェ開催の趣旨と経緯が説明された。今回の目的は、昨年以来から緊張感が高まる日中関係をどのように理解、整理すればいいか、リラックスしながらみんなで考えることである。劉先生のお話は少し硬い「文革世代の私からみた中日交流40年とこれからの中日関係」というテーマであったが、結論から言うと、蒸し暑さが飛ばされ、清涼感が漂う3時間となった。   劉先生はまず個人の体験を踏まえ、中国の文革世代と日本との出会いを話してくれた。日中国交正常化の直後、「紅小兵」(紅衛兵の小学生バージョン)として日本語の勉強を始めた劉先生の経歴は、現在中国の指導者層や社会運営の中枢を担う多くの文革世代のなかで、決して一般的なものではないが、日中の本格的な相互認識や一般の交流が可能になったのは、1980年代になってからのことであったと、参加者に実感させた。つまり、日中の相互認識は、われわれが想像したような長い歴史と深い理解を持つものでなく、これからもっと進めていかなければならないのだ。   1950、60年代生まれの中国人のなかには、劉先生のように、改革開放に伴い80年代初めに渡日し、日本というものが日常生活の中に常に存在し、人生の大半が日中関係の中で過ごした人々が多くいる。その一方、現在中国で国の方向性を握っている同じ世代の政策決定者は、必ずしも時代相応の国際感覚を持っていないと、劉先生は指摘する。とくに彼らの中には、国益の追求を重視する傾向が存在する。また毛沢東時代に対する肯定的な再評価の動きも現在の中国において物議を呼んでいる。これらの要素は今後の中国の対日姿勢だけでなく、中国の外交スタンスに対する周辺諸国や国際社会の憂慮の材料になっている。しかしグローバル化が進むなかで、これらは同時に中国側が乗り越えるべき課題であると、劉先生によって問題提起された。たとえば、昨年の反日デモにおける中国側の過激な行動と言説は、1930年代の反日運動と、驚愕するほど似ているのだ。百年近く前の歴史が繰り返されたように、歴史研究を専門とする劉先生の目に映っていた。   中国側の国際認識を検討した後、日本側の対中認識についても問題提起された。中国側の反日言説と行動だけでなく、日本側の国際社会に向けての訴えもまた歴史と同じだ。つまり、1930年代と同じように、日本は「国際社会のルールを守らない」という中国に対する批判と、自らこそが国際社会と「価値を共有」していると国際社会に訴えているのだ。   そして「価値」の分野だけでなく、歴史認識においても日中は格差が存在している。そもそも「戦後」に対する認識は、日中においては異なり、日本が主張する「今日的正義」に対し、中国は「歴史的正義」を主張している。こうした認識の格差は、今すぐに両国間で歴史を共有することがもはや困難であり、そこばかり追求していくと対立は避けられないということを示しているように思われる。   現状として、中国社会の中の多元化が進んでおり、国家と個人の関係や国益に対する認識も一枚岩ではなくなってきている。昨年のような反日デモの中に暴力的な事件が起こったのは、極めて残念なことであり、日本社会にとってだけではなく、中国社会でも大きなショックとなった。その後、社会の反省は、個人財産を保護すべきとの主張や、「文革」心理の復活に対する危惧の形で表れている。確かに中国社会はまだまだ激動の真っ最中で、その方向性を正しく予知することは難しい。しかしだからこそ、国際社会の反応自体も、中国のこれからの方向性にとって重要な要素となりうる。   以上のような変化の流れを見過ごしては、偏った中国理解につながり、そして偏った中国理解に基づいた日本側の行動が、また中国国内の被害者意識や過度な国益追求を刺激してしまう、という負の連鎖を引き起こすではないか、というのは筆者の感想である。すでに1930年代にはそのような負の連鎖が起こった。その歴史を鏡にもう一度現状を見直し、「温故知新」を求めるのは、日中双方の責任そして、われわれ市民社会の責任である。   日中に横わたる問題を解決し、相互理解をより進めていかなければならない。そのために、まず共通の価値観や認識を見出すことが大事であると劉先生は提起した。とくに、一国の利益のみを考えないで、全人類の福祉を促進する立場からの平和と協力の視点が必要とされている。筆者は一人の「80後」(中国で1980年代に生まれた、最初の一人っ子世代)として、その結論に大いに賛成し、またこれは世代や国籍を超えた認識であると確信している。   当日の写真(ゴック撮影)   ------------------------------------ <李 彦銘(リ・イェンミン) Yanming LI> 国際政治専攻。中国北京大学国際関係学院卒業、慶應義塾大学にて修士号取得し、同大学後期博士課程を単位取得退学。研究分野は日中関係、現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。 ------------------------------------     2013年7月10日配信