SGRAプロジェクト

  • 角田英一「第62回SGRAフォーラム・APYLP+SGRAジョイントセッション「再生可能エネルギーが世界を変える時…?-不都合な真実を超えて」報告」

    2019年2月2日、東京・六本木の国際文化会館で、第62回SGRAフォーラム・APYLP+SGRAジョイントセッション「再生可能エネルギーが世界を変える時…?-不都合な真実を超えて」が開催された。このフォーラムは、国際文化会館がアジア太平洋地域の若手リーダー達を繋ぐことを目的として組織し、SGRAも参加する、「アジア太平洋ヤングリーダーズ・プログラム(APYLP)」とのジョイントセッションとして開催された。   今回のフォーラムは、2015年のCOP21・パリ協定以降、急速に発展しつつある「再生可能エネルギー」をテーマとして、その急速な拡大の要因や将来の予測を踏まえて「再生可能エネルギー社会実現の可能性」を国際政治・経済、環境・技術(イノベーション)、エネルギーとコミュニティの視点から、多元的に考察することを目的とした。   フォーラムで行われた、研究発表と基調講演を概観してみよう。 午前中のセッションは、120名の会場が満杯となる盛況の中、デール・ソンヤ氏(一橋大学講師)の司会、今西淳子氏(渥美国際交流財団常務理事・SGRA代表)の挨拶で始まった。 第1セッションでは、3名のラクーン(元渥美奨学生)の研究発表が行われた。トップバッターの韓国の朴准儀さん(ジョージ・メイソン大学兼任教授)は、「再生可能エネルギーの貿易戦争:韓国のエネルギーミックスと保護主義」の発表を行い、専門の国際通商政策の視点から文在寅政権の野心的すぎる環境政策、中国の国策の大量生産による市場独占、アメリカの保護主義政策などを分析しながら、韓国の太陽電池生産の衰退を取り上げ、再生可能エネルギービジネスが大きく歪められている現状に警鐘を鳴らし、政策転換の必要性を力説した。 第2の発表は、高偉俊氏(北九州市立大学教授)による「中国の再生可能エネルギー政策と環境」。中国の環境問題を概観した上で、深刻な環境汚染を克服するために「再生可能エネルギーへの転換が必要だ」と訴え、政府主導で中国国内や外国で展開される中国製大規模プロジェクトを紹介したが、一方で、中国は大規模プロジェクトに傾斜せず、きめ細かな環境政策が必要であると強調した。第3の発表は、葉文昌氏(島根大学准教授)の「太陽電池発電コストはどこまで安くなるか?課題は何か?」で、PVの独自のコスト計算を披露しながら、太陽光発電コストを削減するための様々なイノベーションの可能性を示した。その上で、発電と同時に蓄電のイノベーションの必要性を訴えた。   春を思わせる陽光の下、庭園で行われたコーヒーブレイク後の第2セッションでは、原発被害からの復興と地域の自立のために「再生可能エネルギー発電」を新しい地域産業に育てようと試みる福島県飯舘村の事業が紹介された。まず、飯舘村の村会議員佐藤健太氏が、2011年3月11日の福島第一原発事故による被害と昨年まで7年間の避難生活を振り返りながら、飯舘村の再生、新しい地域づくりの核に「再生可能エネルギー発電」を取り上げる意義と将来のヴィジョンを語った。次に登壇した飯舘電力の近藤恵氏は、既に飯舘村内で実施中のコミュニティレベルの小規模太陽光発電プロジェクトなどの取組を紹介すると共に、現在の日本国内の規制、制度の下での地域レベルの発電システム拡大の難しさを語った。   午後のセッションは、2本の基調講演と分科会でのディスカッションが行われた。 1本目の基調講演はルウェリン・ヒューズ氏 (オーストラリア国立大学准教授)の「低炭素エネルギー世界への転換と日本の立ち位置」。この講演の中でヒューズ氏は、低炭素エネルギーへの転換の世界的な流れを概観し、気候変動対策等を重要な政策とかかげ、低炭素エネルギーの振興を語りながらも、明確な指針が定まらない日本のエネルギー政策を多様なデータを用いながら解説した。 これに対して2本目の基調講演者ハンス=ジョセフ・フェル氏(グローバルウォッチグループ代表、元ドイツ緑の党連邦議員)は「ドイツと世界のエネルギー転換とコミュニティ発電」の中で、1994年に世界初の太陽光発電事業者コミュニティを設立し、ドイツ連邦議会の一員として再生可能エネルギー法(EEG)の法案作成に参画、その後世界の再生可能エネルギーの振興に取り組んできた経験を紹介しながら、「Renewable_Energy_100」のスローガンの下に、再生可能エネルギー社会の実現を訴えた。   午前中の5本の発表、午後の2本の基調講演の後、講演者、参加者が「国際政治経済の視点から」、「環境・イノベーションの視点から」、「コミュニティの視点から」の3分科会に別れて、熱い議論が展開された。   今回のフォーラムは、一日で「再生可能エネルギー社会実現のための課題と可能性」を探ろうという試みであり、さまざまな分野の多くのトピックスが取り上げられ、また様々な疑問、問題点も提起された。これらの議論を消化することは、容易ではないことを改めて感じさせられた。 フォーラム全体を通じて私が感じたのは、まず、「世界の脱炭素化、再生可能エネルギー社会に向かう傾向は後戻りできない現実、あるいは必然であろう」という認識が講演者だけでなく会場全体で共有されていたことである。 しかし、すべてが楽観的に進行して行くとは思えないことも、発表の中で明らかになった。また、分科会でも、各国、各分野がさまざまな課題を抱えていることが指摘されたし、このフォーラムで必ずしも疑問点が解消されたと言うこともできない。 例えば、地球温暖化の影響で顕在化する気候変動、資源の枯渇などを考えれば再生可能エネルギー社会(脱炭素エネルギー社会)への転換は、地球社会が避けて通ることができない喫緊の課題である。しかしながら、グローバルなレベルで大資本が参入し、化石燃料エネルギーから自然エネルギーに転換したとしても、地球環境問題は改善されるであろうが、大量消費文明を支える大規模エネルギーの電源が変わるだけで、大量生産大量消費の文明の本質は変わらないのではなかろうか、という疑問に対しての答えは得られなかった。 また、分科会では、巨大化するメガソーラが景観や環境を破壊するとして、日本でもヨーロッパでも反対運動が生まれていること、太陽光パネルの製造過程で排出される環境汚染物質などの問題も提起された。 FIT((売電の)固定価格買い取り制度)がもたらす、買い取り価格の低下による後発参入が不可能となる問題、財政が圧迫する(ドイツの事例による)などの問題点。蓄電システムなど技術的なイノベーションの必要性なども議論された。 当然のことながら、こうした地球社会の未来にもかかわる大きなテーマに簡単な解や道が容易に導き出されるとは思えないし、安易な解答、急いで解答を求める姿勢こそ「要注意」だと思える。   様々な課題や困難があろうが、再生可能エネルギー社会が世界に普及、拡大して行く傾向は、ますます大きな流れとなることは、間違いのない現実だろう。 ここで思い起こされるのが、このフォーラムのサブタイトルである「『不都合な真実』を超えて」というフレーズである。これは、アメリカ元副大統領アル・ゴアが地球環境問題への警鐘として書いた本のタイトルである。 大きな力強い流れがおこっている中では、流れに逆らう「不都合な真実」はともすれば語られず、秘匿される。 「再生可能エネルギー」の議論の中でも、福島第一原発事故においても、さまざまな「不都合な真実」が語られず、秘匿されてきたことが明らかになっている。 再生可能エネルギーの普及に向けた市民のコンセンサスのために、そして科学技術信仰のあやまちを繰り返さないためにも、さまざまな「不都合な真実」を隠すことなく、軽視することなく、オープンにして市民レベルでの議論を繰り返して行くことが求められる。   フォーラムの写真   《角田英一(つのだ・えいいち)TSUNODA Eiichi》 公益財団法人渥美国際交流財団理事・事務局長。INODEP-パリ研修員、国連食料農業機関(バンコク)アクション・フォー・デヴェロプメント、アジア21世紀奨学財団を経て現職     2019年3月14日配信
  • 2019年度SGRAセッション/フォーラム/カフェの企画案の募集

    ラクーンのみなさん   SGRAではラクーンのみなさんにもっと参加していただくために、昨年に引き続き、SGRAセッション/フォーラム/カフェの企画案を募集します。企画が採用されれば、講師や討論者の旅費・滞在費などの経費の全額を、SGRAが負担します。奮って応募してください。   ◇企画案は応募フォームを下記からダウンロードして記入、送付してください。   PDF版応募フォーム http://www.aisf.or.jp/raccoon/SGRA-kikaku-form.pdf   Word版応募フォーム http://www.aisf.or.jp/raccoon/SGRA-kikaku-form.docx   <募集内容>   1. 東アジア日本研究者協議会(EACJS)第4回国際学術大会(2019年11月1日~3日@台北市)のパネルに参加するSGRAチームを募集します。 ※ 応募希望者は3月15日までにご一報ください。   詳細は下記リンクより募集要項をご覧ください。 http://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2019/02/2019EACJS.pdf   2. SGRAフォーラムの企画案を募集します。<応募締切:2019年3月31日> 日本国内で1~2回くらい開催予定です。週末の午後1時から5時くらいまで。基調講演1名、研究報告2~3名で構成してください。講師、討論者、司会者にラクーンが3名以上入るようにしてください。50名~100名の参加者を集めたいです。有楽町の東京国際フォーラムで開催することが多いですが、ここに限りません(大学施設等での開催、東京以外での開催も可能です)。講演録はSGRAレポートとして発行します。今回募集するフォーラムの実施は2019年度になります。   3. SGRAカフェの企画案を募集します。<応募締切:2019年3月31日> 日本国内で1~2回くらい開催予定です。週末の午後に、渥美財団ホールで開催することが多いですが、ここに限りません(大学施設等での開催、東京以外での開催も可能です)。講師、討論者、司会者にラクーンが2名以上入ること。講演と質疑応答で2時間程度、30名以上の参加者を集めたいです。講演録は作成しません。   お問い合わせは:sgra-kikaku@aisf.or.jp(角田、辰馬)まで。 皆さんの積極的なご応募をお待ちしています。  
  • 張桂娥「第3回東アジア日本研究者協議会パネル報告『アジアにおける日本研究者ネットワークの構築』報告」

    2018年10月27日(土)京都において、「第3回東アジア日本研究者会議国際学術大会」が開催され、SGRAから参加した2つのパネルの1つとして「アジアにおける日本研究者ネットワークの構築~SGRA(渥美国際交流財団関口グローバル研究会)の取り組みを中心に~」と題するパネルディスカッションが行なわれた。当パネルは発表者4名、討論者2名、座長兼司会1名で構成され、ほぼ満場に近い世界各国からの来場者を前に、SGRAがアジアを中心に取り組んでいる日本研究者ネットワークの構築について幅広い議論が交わされた。   本パネルは、アジアにおける日本研究者ネットワークが実現するまでに、2000年の発足以来継続してきたSGRAの取り組みを振り返り、今後目指すべき新地平を探ることを目的とした。特に、日本国内のSGRAフォーラムとシンクロして、アジア各地域で展開される、「日韓アジア未来フォーラム」(2001~)、「日比共有型成長セミナー」(2004~)、「SGRAチャイナフォーラム」(2006~)、「日台アジア未来フォーラム」(2011~)に焦点を当て、地域ごとの活動報告を通して、より創発的に共有できる「知の共同空間」構築のための解決すべき課題、未来を切り拓く骨太ビジョンの策定等について、異なる見解が共有され多様な視点が得られた。また、フロアの参加者たちを交えた質疑応答コーナーでも活発な意見交換が行なわれ、改めて本パネルの課題に寄せられた研究者たちの関心の大きさに気づかされ、実り豊かなひと時を過ごすことができた。   パネルの流れとしては、最初に座長兼司会の劉傑先生(早稲田大学社会科学総合学術院教授)がパネル企画の背景・趣旨およびメンバーの紹介を行い、次に4つの発表をした後、討論者がコメントをし、最後に参加者の質疑応答の時間を設けた。2015年第49回SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」において、「アジアないし世界が共有できる『日本研究』とはどのようなものか」「東アジアの日本研究の仕組みをどのように構築していくのか」といった問題を提起した劉先生は、「日本研究」をアジアの「公共知」として育成するために、アジアで共有できるアジア研究を目指すネットワークの構築が喫緊の課題であるといち早く予見し提唱した識者であるが、SGRAの取り組みの方向性についてコメントしていただけるラクーン(元渥美奨学生)ネットワークのアドバイザーでもある。今回のパネル議題に強い関心を持つ劉先生の切れ味抜群の司会進行で、各発表が明るくテンポよく進められた。以下、4本の発表要旨と討論者によるコメントの概要を簡単にまとめる。   1本目の発表は、「日韓アジア未来フォーラム」(JKAFF)の設立(2001年)から係わってきた金雄熙先生(韓国・仁荷大学国際通商学科教授)による報告であった。韓国未来人力研究院の「21世紀日本研究グループ」と渥美財団SGRAの共同プロジェクトで始まったJKAFFの経緯(17回毎年開催した形式、内容、番外の三拍子が揃ったフォーラムのテーマの紹介)、現状(アジアの研究者及び現場の専門家たちが、アジアの未来について幅広く意見を交換する集まり)について詳しく説明した金先生は、さらに社会統計学の手法を用いて、これまでに積極的に参加した韓国ラクーンと出席関係者たちで築き上げられた知のネットワークを、ダイナミックなグラフで「見える化」した。スクリーンに写し出された科学的・実証的な考察結果に、報告者も含むフロア一同、強いインパクトを受けた。   金先生は、歴史問題で揺れ動く日韓の間ではあまり類を見ないしっかりとした交流プロジェクトであるJKAFFの実績を自負しながらも、決して現状に甘んずることなく、テーマ設定の在り方や次世代を担う若手研究者の育成面では考え直すところがあると、危惧の念を抱いているという。今後の課題として、より多元的で弾力的な推進体系を取り入れ、東アジア地域協力課題により多面的に対応し、ダイナミックで実践的な知のネットワークを作り上げていきたいと、淡々と語った金先生であるが、彼の眼には、知日派人材の宝庫である韓国ラクーンメンバーたちの目指す「日韓アジア未来フォーラム」(JKAFF)の未来像(テーマの多様化・運営主体の多元化・運営資金調達の安定化・専門同時通訳士の予算確保・ネットワークの脱集中化)が、より鮮やかに映って来たのではないか、というインパクトのある印象を受けた。   2本目の発表は、フェルディナンド・シー・マキト(Ferdinand_C._Maquito)先生(フィリピン大学ロスバニョス校准教授)による発表であり、SGRAの全面的な支援を受けて2004年に設立した「日比共有型成長セミナーの経緯、現状と課題」について振り返ったものである。当初は経済の成長と分配が同時に進む「共有型成長」を軸に進められたが、2010年よりラクーン同期である高偉俊教授(北九州市立大学教授)の協力を得て環境問題も含む学際的な日比共同研究プラットホームが実現した。以降、訪日歴あるフィリピン研究者を中心に環境問題が取り上げられ、ここ数年では、環境保全(持続的)、公平(共有)、効率(成長)の3つの目標を目指す「持続的な日比共有型成長セミナー」に進化してきた。この3つの目標に当たるフィリピン旧来文字の言葉の頭文字が<KA、KA、KA>であることから、「3KA(さんか)セミナー」と愛称されることに。   2017年に帰国したマキト先生は、東アジアからさらに南西に離れたフィリピンで展開した、「英語」ベースの日比共有型成長セミナーの活動を、遠路遥々の日本における「東アジア日本研究者協議会」で「日本語」で発表するめったにない機会に感謝しながら、少しのためらいと緊張感に包まれていたように見受けたが、簡潔明瞭で歯切れのよい日本語の説明と、持ち前のユーモアセンスで会場中の人びとを笑いのるつぼに陥れることに成功した。2020年1月に第5回アジア未来会議を開催する責任者に任命されたマキト先生は、3KAセミナーに基づく「持続的な共有型成長:みんなの故郷(ふるさと)、みんなの幸福(しあわせ)」という目標を大会のテーマに据えて、SGRAフィリピンの活動の集大成を目指したいという。さらに、フィリピンに限らず、世界が直面している課題でもある「持続的な共有型成長」の実現に向けて、微力ながら貢献できればと、目を輝かせながら力強く締めくくった。   3本目の発表は、2006年SGRAチャイナフォーラムが発足した当初から舵を取ってきた孫建軍先生(北京大学外国語学院副教授)が、フォーラムの経緯、現状と課題をめぐって、「広域的な視点から東アジア文化史再構築の可能性を探って」という視座から振り返った報告であった。前期(2006-2013)では、中国全土(北京、上海、フフホト、ウルムチ、延辺など)で活躍している20名弱の中国ラクーンの所属大学を拠点に、若者(大学生たち)向けに、環境問題・人材養成などの分野で活躍している日本の公益活動を紹介する講演会を開催し、知的情報の共有や国際的な視野と円満な人格の涵養を図るイベントがメインであった。   しかし、2012年に起きた反日活動の影響で大きく軌道修正したチャイナフォーラムは、2014年より、清華大学東亜文化講座の協力を得て、広域的な視点から東アジア文化史再構築の可能性を探ることをテーマの主眼に据え、日本文学や文化研究に携わる中国人研究者の関心を集め、国際的な学術的活動への新しい展開を見せている。その背景には、研究者層の拡大、経済的背景の変化、文化史(美術、言葉、映画)への共通的関心など、様々な要素が挙げられるという。豊富な語彙で切れのいい言葉づかいの名人である孫先生は、軽妙でユーモアな語り口と独創的な表現力を駆使しながら、今後の課題について、ぶれない文化史を軸に、他地域の経験を如何に生かすかという極めて重大な問題を提起した。底の知れぬ可能性を持つチャイナフォーラムは、独自の路線を維持するか、それともさらなる大きな方向転換に挑むか、今後の動向が興味深い。   4本目の最終発表は、本パネルの企画者である張桂娥(東呉大学日本語文学科副教授)が、2010年代に誕生したばかりの「日台アジア未来フォーラム」(JTAFF)の歩み(経緯、現状と課題)を振り返りながら、台湾ラクーンメンバーの「既成概念にとらわれない柔軟なフットワークで、身の丈にあった知的交流活動の展開」を紹介した。JTAFFでは、主にアジアにおける言語、文化、文学、教育、法律、歴史、社会、地域交流などの議題を取り上げ、若手研究者の育成を通じて、日台の学術交流を促進し、台湾における日本研究の深化を目的とすると同時に、若者が夢と希望を持てるアジアの未来を考えることを、その設立の趣旨としている。2011年東北大震災の直後にスタートしたJTAFFは、かつてないほど盛り上がった日台友好ムードに恵まれ、台湾の大学機関・公的部門のみならず、台湾現地の日系企業からも比較的潤沢な活動資金が確保できるという、運営体質に恵まれた組織である。   JTAFF主催責任を担う7名の台湾ラクーンはそれぞれ専門が異なるため、バラエティーに富んだ多元的学問領域を視座に、既成概念にとらわれない柔軟なフットワークを展開してきたが、長期的には、持続可能な「知の共同空間」の構築に欠かせない骨太ビジョン、いわば具体的にアプローチできる目標を確立しない限り、活動のアイデアの枯渇やマンネリ化に陥る危機感を募らせる一方である。今後、台湾ラクーン個々のメンバーに期待される急務は、学際的・国際的学術交流に積極的に参画することによって、長期的視野に立ったフォーラム作りをはじめ、広域的な視点に立ったテーマの取組みまで、日台間の歴史文化・政治的・社会的問題に幅広い関心をもって、深く掘り下げることの出来る高度の知見と能力を兼ね備えることではないか。   続く専門家の助言を仰ぐ時間であるが、1人目の討論者として迎えた稲賀繁美先生(国際日本文化研究センターおよび総合研究大学院大学教授)のコメントは、まず所属する公的機関、国際日本文化研究センターを引き合いに、「国際」を大々的に掲げたにも関わらず、日本国内にある国際学術機構の交流成果は民間組織であるSGRAの実績には遥かに及ばない現実に言及し、東アジアで展開されるSGRAの取り組みこそ、日本の国際的学術組織がもっとも見習うべき見本の1つではないかと念を押した。 そして、国際社会に向けて発信する際の言語媒体に悩まされる学者の懸念に対し、英語が公用語である3KAセミナーを除き、同時通訳付き形式を採用したSGRA中韓台のフォーラム運営方式には肯定的な意見を示した。最後に、本パネルの4つの発表を通して、日本学を外に開いたことをどう意味づけするのか、東アジアの諸国(非日本語の世界)に蓄積された日本研究の成果、知識、解釈が、日本の学会・日本列島に住んでいる国民にも行き渡るようなプラットホームの構築をどう実現していくのか、日本学のあり方や真価が問われる喫緊の課題ではないかとコメントした。   2人目の討論者である徐興慶学長(中国文化大学学長・外国語文学院日本語文学系教授兼院長)は、本パネルで報告した上記4名の発表内容を総括した形で感想・助言を述べられた。たとえば、フィリピン3KAセミナーでは、時の政権と抗って果敢に取り上げられた環境・自然問題、経済利益の公平的再分配問題を、古き時代から蓄積してきた文化資産の共有で日本とは強いつながりを持ってきた中国では、両国の美術交流史・文化交流史の再構築に焦点を当てるチャイナフォーラムの斬新な試み、JKAFFで実現できた日韓交互開催形式の幅広いネットワークの強い連帯感、そして、第1回JTAFFの開催に徐興慶学長自身がパイオニア主催者として最善を尽したJTAFFの独創的なスタイルーー既成概念にとらわれない柔軟な対応力を培った多元文化社会台湾ならではの底力――、つまり、SGRAの元奨学生がそれぞれの国の置かれた状況にふさわしい活動をダイナミックに展開することに成功しているのではないかと、励ましのコメントを送った。   座長を務めた劉傑先生は、討論者の意見に対してそれぞれ簡潔なコメントを述べたあと、会場からの質問を受けることに移った。   渥美国際交流財団についての質問をはじめ、4つの国以外でも実施した或いは実施する予定の取り組みや奨学金の申請方法、元奨学生が活躍できる交流の場の提供や場づくりのノウハウなど、会場まで駆けつけた今西淳子常務理事が自らの言葉で説明したり、現場にいる元奨学生たちが補足したり、実に幅広い課題について議論が交わされた。満場に近いオーディエンスから終始熱い注目を浴びている会場の雰囲気から、東アジア日本研究者協議会のような、広域的な地域連携による知的交流の場づくりの大切さが、フロア全員にも、しっかりと体感できたのではないか。   何より、本来、日本留学を終え、韓・比・中・台、それぞれの国に貢献すべく、帰国した高度知日派人材であるラクーンメンバーが、独自な組織運営を営みながら孤軍奮闘してきた足跡・蓄積してきた知的交流のノウハウは、こうした国際的な知的情報の交換/交流舞台に持ち込まれ、広く共有されることで、新たなエネルギーを生み出していくと確信できよう。そのエネルギーは、やがて国際交流に役立つファシリテーターに吸収され、国際的ネットワークへ拡張していき、その先々には、再生できる知的交流サークルが形成されることであろう。   今回は(公財)渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)のパネル企画者及び発表者として参加でき、実りの多い貴重な体験を記憶に刻むことができた。それぞれの立場をわきまえながら、同じ思いで別々の国で努力している仲間たちとの意見交換によって、これまでにない斬新なアプローチに向けて発展させ、アジアにおける日本研究者ネットワークを広げることの意味を台湾の仲間たちに伝えることができる。参加してみて改めて、会話・対話を通じたコンセンサス(合意)形成の意味と必要性を深く認識させられた東アジア日本研究者協議会であった。   素晴らしい機会を与えていただき、感謝の念に尽きない。 報告者、討論者、座長(司会)の先生方に改めて感謝を申し上げたい。(文中敬称略)   金雄熙(日韓アジア未来フォーラム)発表資料   マキト(共有型成長セミナー)発表資料   孫建軍(SGRAチャイナフォーラム)発表資料   張桂娥(日台アジア未来フォーラム)発表資料   第3回東アジア日本研究者協議会国際学術大会の写真   <張 桂娥(ちょう・けいが)Chang_Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本語教育、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科副教授。授業と研究の傍ら、日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。     2019年1月24日配信
  • グアリーニ & ファスベンダー「第3回東アジア日本研究者協議会パネル『現代日本社会の『生殖』における男性の役割――妊娠・出産・育児をめぐるナラティブから』報告」

    2018年10月27日(土)に国際日本文化研究センター(日文研)と京都リサーチパークにおいて、第3回東アジア日本研究者協議会国際学術大会が開催されました。私たちは、SGRAから参加したパネルの1つとして「現代日本社会の『生殖』における男性の役割――妊娠・出産・育児をめぐるナラティブから」という発表をしました。本パネルは、2人の発表者のほか、司会者のコーベル・アメリ(パリ政治学院)、討論者のデール・ソンヤ(一橋大学)とモリソン・リンジー(武蔵大学)の5人のメンバーで構成されました。当日、約15人の参加者を迎え、討論者や参加者から刺激的な質問やコメントをいただき、熱心な議論が交わされました。   本パネルは、現代日本において、妊娠・出産・育児における男性の役割がどのように語られているかを考察することを目的としました。日本の最重要な社会的課題として「少子化」が議論されているなかで、個人の妊娠・出産・育児には、国家や企業、マスメディアからの介入がみられますが、その言説では、若い女性が子供を産み育てるために身体・キャリア・恋愛などの人生のあらゆる側面をプランニングし、管理する必要性が説かれています。そうした「妊活」(妊娠活動)や育児に関わる言説には、今も尚、母性神話が強く根付いています。一方、そこに男性の存在感は稀薄であり、家庭内における「父親の不在」がしばしば指摘されています。たとえ「イクメン」という言葉が流行し、子育てに参加したい気持ちはあっても、長時間労働や日本企業独特の評価制度などに縛られ、それを許されない男性は多いのです。   上記の背景を踏まえた上で、本パネルでは、社会学と文学のそれぞれの視点から、妊娠・出産・育児における男性の役割の考察を試みました。   最初の発表は、イサベル・ファスベンダー(東京外国語大学)による「『妊活』言説における男らしさ―現代日本社会における『産ませる性』としての男性に関する言説分析」でした。ファスベンダーは、これまで「妊活」言説が、国家・医療企業・マスメディアの利害関係のもとにいかに形成されてきたか、そしてその言説がいかに個人、とりわけ女性の生き方を規定するかを分析してきました。 しかし今回は、その言説における男性の役割に焦点をあてました。「妊娠」すること、「産む」ことは、個人的な領域に属していると思われがちですが、不断に政治的なものとして公の介入を受けてきました。特に問題視されてきたのは「妊孕性」と「年齢」の関係性です。これまで「妊活」言説の主人公が主に女性に限定されてきましたが、最近になって、男性の身体、妊孕性をめぐる言説も注目されてきています。生殖テクノロジーの発展に伴う生殖プロセスの、生殖細胞レベルでの可視化が、さらに徹底して利用されていることが背景にあります。 この発表は、新聞記事、専門家へのインタビュー、男性向けの「妊活」情報、そして男性自身の語る「妊活」体験談などの分析に基づいて、男性の生殖における役割が現在の日本社会においてどのように位置づけられているのかを探りました。   2番目の発表は、レティツィア・グアリーニ(お茶の水女子大学)による、「妊娠・出産・育児がつくりあげる男性の身体-川端裕人『ふにゅう』と『デリパニ』を手がかりに-」でした。この発表では、川端裕人の『おとうさんといっしょ』(2004年)を中心に日本現代文学における父親像の表象について考察を試みました。 現代日本における出産・育児の語り方は、常に女性に焦点を当て、母親がいかにして子どもを産み育てるための身体を作るべきかが論じられています。一方、そこに男性の存在は稀薄であり、家庭内における「父親の不在」がしばしば指摘されています。このような社会事情を反映する現代文学においても出産・育児の体験はしばしば女性を中心に語られており、男性が物語の舞台に登場することは少ない上、育児に「協力する」副次的な人物として描かれることが多いのです。 グアリーニは、川端裕人の『おとうさんといっしょ』から出産に立ち会う男性を主人公にする「デリパニ」と授乳しようと試みる父親を描く「ふにゅう」、この2つの短編小説を取り上げ、川端裕人の作品分析によって、男性の身体に焦点を絞りながら父親の表象について論じ、新たな観点から出産・育児の体験を考察しました。   今回、渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)のパネルの発表者として参加できたおかげで、貴重なコメントをくださった討論者の方はもちろん、さまざまな研究者と意見交換ができました。自分たちの研究について改めて考える機会を与えていただき、ありがとうございました。 (文中敬称略)   当日の写真   <グアリーニ・レティツィア GUARINI Letizia> 2017年度渥美奨学生。イタリア出身。ナポリ東洋大学東洋言語文化科(修士)、お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科(修士)修了。現在お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科に在学し、「日本現代文学における父娘関係」をテーマに博士論文を執筆中。主な研究領域は戦後女性文学。       2019年1月17日配信
  • 陳龑「第12回SGRAチャイナ・フォーラム『日中映画交流の可能性』報告」

      『中日友好条約』が調印されて40年。今年の5月には、新たな「日中映画共同製作協定」が発効した。日中映画提携のさらなる成長が期待されるものの、今年の冬は中国映画界にとって一層寒くなっている。最近、映画業界を整理するために納税のチェックが厳しく行われ、関係者は深刻な不安に襲われているのだ。このような流れの中で、2018年11月24日、今回のSGRAチャイナ・フォーラムが開催されたので、映画研究者にとっては感慨無量と言えるであろう。   今回のチャイナ・フォーラムの会場は中国人民大学の逸夫会堂、テーマは「日中映画交流の可能性」。今までのチャイナ・フォーラムと違って、映画は身近な存在であるため、映画の研究者はもちろん、映画のファン、また、親から高倉健の名を聞いたことのある若い学生にとっても、日中映画交流の歴史を日中両面から認識することができる絶好のチャンスであった。   SGRAチャイナ・フォーラムは、広域的な視点から東アジア文化史再構築の可能性を探ることをテーマの主眼に据えている。文化的相互影響、相互干渉してきた多様な歴史事象の諸相を明らかにし、交流を結節とした大局的な東アジア文化(受容)史観を構築することの重要性を指摘してきた。今回も企画段階からこの主旨を貫き、日本映画が中国にもたらした影響と中国映画が日本にもたらした影響を両サイドから解釈するために、それぞれの専門家に依頼した結果、日本人の中国映画史専門家、刈間文俊教授(東京大学名誉教授)と中国人の日本映画専門家、王衆一先生(『人民中国』編集長)を迎え、「史上初の日中映画史『聴き比べ』」が実現した。   はじめに、主催者側の人民大学文学院を代表して副院長の陳奇佳教授が開会の辞を述べた。彼自身も映画のファンであり、日本のマンガ・アニメーションについても10年間研究したことがあるため、今回のテーマを期待していた。続いて、渥美財団を代表して今西常務理事からのご挨拶とフォーラムの開催経緯の説明があった。   講演の部分では、刈間教授が先に「中国映画が日本になにをもたらしたのか――過去・現在・未来」をテーマに、中国映画の日本進出の状況とそれに関する論評を詳しく紹介した。近年来、日中両国の間では大量な観光客の訪日による新たな「接触」が発生しているため、中国の抗日ドラマなど日本と日本軍を描写するコンテンツは挑戦を受けている。なぜなら、「本当の日本を知るようになった以上、簡単に騙されない」から。同じく、日本側も中国観光客を見て中国の現在を認識している。映画は、この様な「接触」ができない時代から、お互いに「印象をつける」という役割を果たしてきた。   実は、中国の日本映画熱愛の前の1977年に、日本で第一回中国映画週間がすでに開催されていた。当時は『東方紅』、『偉大なるリーダーとチューター毛主席永垂不朽』、『敬愛なる周恩来総理永垂不朽』など時代性の強い映画が上映され、日本人観客を震撼させた(特に周恩来総理の葬式の部分)。その後、時代の流れと共に、日本の観客がそれぞれの時代の映画を通して、ニュースでは紹介されない中国を認識してきた。刈間教授も、当時から中国映画の字幕をつけ、上映会をやりながら、中国に対する興味を深めた。77年代後半から80年代に亘って、「中国の庶民は時代に翻弄され貧しい生活(特に農村地域)をおくっている、それにしても強く生きようとしている」というイメージが日本の観客の中で固まった。この先入観が強すぎるため、中国の現在の社会を描く中国映画は日本では受けないと刈間教授は推測している。   また、当時上映された映画の映像表象は日本の大島渚など映画人にも影響を及ぼし、日中映画人(中国側は主に第五代監督、即ち1980年代の半ばにデビューした新世代の監督たち。例えば陳凱歌など)の対談も屡々行い、お互いに交流しあうようになった。例えば、大島渚の非被害者視点的出発点が陳凱歌を刺激し、彼をストーリテールに回帰させ90年代の傑作『さらば、我が愛』に導いた。一方、直接中国映画の制作に関与した日本技術者、映画人と日本の会社も存在し、日本人の俳優も中国映画市場で活躍するようになった。さらに、この40年間の映画合作をみて、最も大きな変化は中国をロケ地にするだけではなく、作品で描いた日中人物の関係が平等に、密接的になり、また、日本の創作者が持つ歴史観が中国歴史題材の映画に新たな解釈と可能性を提供した。今年「日中映画共同製作協定」が調印され、今後の日中映画交流・提携が益々発展すると刈間教授は期待している。   刈間教授の講演内容とは対照的に、王衆一先生は「中国における日本映画-交融・互鑑・合作」というテーマで、映画が人々の心象風景を如何に表現し、日本映画が如何に中国に影響を及ぼしてきたかという事実を詳しく語った。一言で言えば、日本映画は中国の観客・映画人に技術面で刺激し、また、コンテンツとしても中国人に感動を与えている。実は、50年代、新中国の映画事業の初期段階に、日本映画人がすでに制作に参加していた。歴史的原因で、上海映画はアメリカからの影響が強く、東北映画は日本映画の伝統を受け継ぐ。最も有名なのが東北電影製片所による『白毛女』(1950)という作品で、日本でも50年代に自主上映によって公開され、松山バレエ団が刺激を受け『白毛女』のバレエバージョンを作った。また、日本の高度経済成長に伴う社会問題、環境問題などを反映するドキュメンタリーも中国にとって教訓をくみ取ることのできる内容として中国に入った。   1978年日中平和友好条約が締結されたあとの日本映画ブームは今でも常に語られる。映画を通して、中国観客が70年代の日本のファッション、日本の風景、日本人の日常生活と社会問題などを知るようになり、一方、中国のスクリーンにない男性像の主人公が当時の観客の心をつかみ、中国で人気絶頂のビッグスターとなった。最も有名なのが高倉健と『君よ憤怒の河を渉れ』であり、40年間に何回も翻案され、その影響は今でも続いている。さらに、映画の舞台になったところは中国人にとって「聖地巡礼」の場になり、山田洋次監督の作品で描かれた北海道は中国映画でも舞台となり、多くの観光客を迎えている。しかし日本人の「原郷」は瀬戸内海であり、日中共通の「情け」文化を考えると、今後日中の合作映画は瀬戸内海をロケ地にすれば絶対ヒットするはずと王先生は強調した。   80年代から、日中映画人の交流イベント、日中合作映画、ドラマなどが断絶することなく続いている。NHKと提携し、鄧小平が題字を書いた『望郷之星』、日本小説が原案となる『大地の子』など、日中両国でもよい反響が寄せられた。インターネット時代に入ると、中国で先に話題になった日本の作品が海外で受賞した後に日本国内で興行されるというように、逆影響を受けた例も少なくない。今後日中映画、ドラマだけではなく、舞台、アニメ、ゲームなど様々な提携が期待できると王先生は語った。   情報量と面白さで充実した両先生の講演の後、パネルディスカッションに入った。登壇者は北京大学の李道新教授、中国社会科学院の秦嵐先生、北京語言大学の周閲先生、北京市社会科学院の陳言先生と東京大学の林少陽教授。時間の関係で、登壇した先生方は深くディスカッションできなかったが、それぞれ自身の日中映画交流に対する理解と自身の研究領域とを繋いで論議を交わした。秦先生は現代文学の教育体験をシェアし、周先生は是枝裕和監督と侯孝賢監督の友情・作品を例に分析し、陳先生は好きな日本映画・アニメーションと共同市場に対する考察を語った。中国映画史の専門家である李先生は今回の講演内容を高く評価し、「『日本人の中国映画オタクと中国人の知日派メディア人』の会話が珍しく、中身の濃い内容だった」と感想を述べた。林先生は講演で言及された日中知識人の提携、中国歴史題材の日本翻案・日本における中国像などについて語った。   会場に集まった20代の若い学生にとっては、90年代までの作品を見る経験がなく、高倉健など日本映画ブームのスターたちは親世代の憧れという認識しか持っていなかったが、今回のフォーラムを通して、日中映画交流の歴史を知るようになった。今日の学術的体験をきっかけに、自分の世代のマンガ・アニメーションを中心に展開した新世代の日中文化交流を研究するようになるかもしれない。日中映画交流の将来、そして、それに関する学術研究の交流の将来が楽しみである。   当日の写真   北京晩報に掲載された記事   また、新華網の記者が書いた「映画、中日の人々の心を打つ異文化交流」と題した記事がネット上で拡散されました。人民網、中国網、Sina網など、全国ネットもあれば、西藏網(チベット)、大衆網(山東省)、または舜網(山東省済南市)のような地方ネットにも転載されました。   <陳龑(ちん・えん)Chen_Yan> 北京生まれ。2010年北京大学ジャーナリズムとコミュニケーション学部卒業。大学1年生からブログで大学生活を描いたイラストエッセイを連載後、単著として出版し、人気を博して受賞多数。在学中、イラストレーター、モデル、ライター、コスプレイヤーとして活動し、卒業後の2010年に来日。2013年東京大学大学院総合文化研究科にて修士号取得、現在同博士課程に在籍中。前日本学術振興会特別研究員(DC2)。研究の傍ら、2012~2014年の3年間、朝日新聞社国際本部中国語チームでコラムを執筆し、中国語圏向けに日本アニメ・マンガ文化に関する情報を発信。また、日中アニメーション交流史をテーマとしたドキュメンタリーシリーズを中国天津テレビ局とコラボして制作。現在、アニメ史研究者・マルチクリエーターとして各種中国メディアで活動しながら、日中合作コンテンツを求めている中国企業の顧問を務めている。     2019 年1月10日配信  
  • エッセイ583:野田百合子「飯舘村を訪れて」

    今までに経験したことのない類の、広くて深い学びだった。   忘れないようにとせっせとメモをとって、でもそれは気軽には読み返せなくて、心の奥の引き出しにそっとしまっておきたくなるような。 私にとってはある意味とても非日常な旅だった。東日本大震災の被災地には何度も足を運んだけれど、原発事故で全村避難していた村に来るのは初めてだ。線量計をつけて歩くのも、原発事故や放射線被害について学者の先生から生で話を聴くのも、村の農家の人の暮らしを見せていただいて本音がポロリとこぼれる瞬間に立ち会うのも初めてで。頭も心もたくさん揺さぶられた3日間だった。 しかし飯舘村に暮らす人々にとってそれは日常だ。変わらない、そして日々変わりゆく日常。福島では今も毎日震災や原発関連のニュースをテレビや新聞で取り扱っているのだろうか。少なくとも2年前はそうで、それは東京に住む私にとって一つの驚きだった。   東京から飯舘村に行くには、福島駅で新幹線を降りて1時間ほど東へ車を走らせる。9月半ば、ちょうど稲穂が黄金色に光ってとても美しい風景だった。いいなぁ、こんな季節に来られて幸せだなぁと思ったのも束の間、境を越えて飯舘村に入った瞬間に景色が一変する。黄金色の稲穂はない。稲を育てるのが禁止されているからだ。そして見えるのは除染されてはげ山のようになった田んぼの跡地と黒と緑の巨大な除染袋の山ばかり。これが飯舘村の現実かとショックを受けた。そして境って何だろうと思った。放射性物質には境はない。村の中と村の外、境界線近くの線量は同じくらいのはずなのに地図上に引いた境が運命を分ける。村の一部は未だ帰還困難区域でバリケードで封鎖されている。その境目も難しい。バリケードの中は人が住めなくて荒れ放題で、でも中に家がある人には補償金がたくさん出るという。どちらがいいのか、いやどちらも嫌だな。村の人はこの美しい村で黄金色の稲や花を育てたり、牛を飼ったりして、昔ながらの暮らしを続けたいだけだっただろうに。   2017年3月31日に村の多くの地域で避難指示が解除になって、元の人口6,000人のうち約400人が帰村した。村に住む人、通う人、家族は別に暮らす人。人によって状況は様々だ。放射性物質は目に見えないし、この先の状況もわからない。だから一つひとつの判断に家族は揺れ、意見が分かれる。「これは放射能の問題というより生活や人間関係の問題、精神の分断だ。夫婦ゲンカ、親子ゲンカ、こういう問題はお金で解決できない。」ふくしま再生の会の田尾さんの言葉が胸に突き刺さった。   村に帰ってきて生活を再建しようとしている人にも何人かお会いした。 高橋日出夫さんは、国に建ててもらったというビニールハウスでアルストロメリア、トルコキキョウやカスミソウを育てて大田市場に出荷している。花について活き活きと語るときの日出夫さんの笑顔と、「生まれ育ったところでは見える景色全部が自分のもの。月も星も、飛行機までもうちのものと思う。避難先では月も星もよそのものって思ってたからなぁ」という一言が印象に残った。今67歳。あと20年は花を育て続けたいそうだ。   大久保金一さんは76歳。小宮地区にほぼ一人で住んでいる花の仙人だ。物心ついたときから花に興味を持っていて、花は食べられないからと親に叱られながらも花を植え育ててきた。震災の前の年に思い切って水を引いて花園を拡大しようとするも原発事故で中断。今も除染作業の最中だが、除染を終えたところには17種類の桜を始めボランティアの力も借りながら様々な花を育てている。金一さんは「原発事故があって涙を流さない日は一日もないといっても過言ではない」と言いながらも、花のことになると活き活きと語ってくれた。毎日一人であれをしよう、これをしよう、こうしたらどうかなとあれこれ考えて身体を動かす。生きる喜びとはこういうことなのかもしれない。事情の違う一人ひとりの生活の再建を支えるというのは気の遠くなるような道のりだと思う一方で、この喜びや尊厳を奪う権利は誰にもないのではと金一さんの姿を見ていて感じたのだった。   今回の旅を案内してくださったふくしま再生の会はシニア世代を中心とするNPO法人で、ほぼ毎週末東京などから飯舘村に通って村の人と一緒に様々な活動をしている。いま村の人は何を求めていてどんなデータや仕組みがあったらいいかを考え試行錯誤をしながら、ボランティアがそれぞれの関心や専門性を活かして活動しているのが特徴的だ。理事長の田尾さんは、「僕らは支援者じゃない。対等に協働している。ありがとうはいらない。村の人のためというよりか自分のためにやっている。」「ここは本物のフロンティア。まだわからないことがたくさんある。役に立てることがたくさんある」という。そして、なぜそこまでするのですかという質問には、「リタイアした人は都会でさみしいんだ。ここに来ると元気になる。人生100年、それをどう過ごすかだ。自分はここではりきっている。課題やわからないこともたくさんある。」と答えてくれた。   今回の旅で一番印象に残ったのは、あれをしよう、これをしようと自分で考えて身体を動かし、自分らしく生きる人の活き活きと輝く姿だった。それは被災した村の人も、再生の会の人も、たぶん私たちも同じ。人生とは、自分らしくクリエイティブに生きること。   では、私らしくクリエイティブに生きるって何だろう。私にとっては通訳の仕事を含めて、人と人との間に橋をかけることなのかなと思う。私はこの旅で村の人や再生の会の方たちにたくさんのものをもらった気がする。だから私らしく橋をかけることで何かお返しできたらと思った。具体的には今後、飯舘村に来たことのない日本の人、外国の人をもっとここに連れてきて橋をかけることで、お互いがもっと豊かになるような体験が提供できたらいいなと考えている。   今回お世話になった一人ひとりに感謝したい。SGRAの皆さんとのおしゃべりもとても楽しかった。 飯舘村、また来ます。 (2017年12月記)   <野田百合子(のだ・ゆりこ)NODA Yuriko> 英語通訳、ファシリテーター、ミディエーター。公益社団法人CISV日本協会理事。国際基督教大学卒業、現在は明治大学専門職大学院ガバナンス研究科に在学中(ミディエーション研究)。人と人との間に橋をかけ、お互いがより深く理解し合えるようにサポートするというのをライフワークに、日々活動している。       2018年12月20日配信
  • エッセイ582:リンジー・モリソン「ふるさとは、土でできている」

    SGRAふくしまスタディツアーで、5月25日から27日の間、初夏の飯舘村を訪れた。私にとって3度目のツアーであったということもあり、今回は比較的のんびりできた。真剣な勉強ツアーというよりも、飯舘の自然に癒やされて東京に帰ってきたという感じだった。   飯舘村に行くたびに、自分の恐怖心が和らいで気持ちが楽になってきているように思うが、今回は特に楽しいツアーだった。のんびりできたのもあるが、もう一つの原因は線量計を持ち歩かなかったからだと思う。不思議にも線量計を持っていると急に意識が変わり、まわりに危険性が潜んでいるように感じる。飯舘村に到着した当初は気分が弾んでいたが、線量計を手にした途端、気持ちが引き締まっていくのを感じたことを思い出す。   前回の訪問に比べて、飯舘村の様子はだいぶ変わっていた。あちこちに新築の建物ができたり、新しい高速道路が通ったりと、工事作業で村中が騒がしかった。どうやら村の復興予算を使い切るための事業のようである。こうした工事が村民のためになっているのであればいいのだが、建設会社ばかりの利益となっていたら、真の復興といえるか疑問が残った。   現時点で飯舘村に帰還しているのはまだ700人しかいない。さらに、その大半は昼間だけ帰って、夜は他の村で生活している。菅野宗男さんによると、国の復興対策の不足が原因で、「大方の人が戻りたいと思うような解除がよかったのに」と悔やんでいた。飯舘村を村民が帰れるような形にしないと、復興に使われている国民の血税が無駄になってしまうと宗男さんは懸念を示した。   しかし、そもそも若い人が村へ帰りたいと思っているのか疑問に思った。避難先や別の村で落ち着いてしまって飯舘に戻りたくない人が少なからずいる上に、菅野永徳さんが話してくれたように、「村に道路が一本通ると、地域が衰えていく」。つまり、村に出口ができると、若い人はより便利な生活を求めてどんどん流れ出ていく。永徳さんはこうした価値観の差がわからない。永徳さんからすれば、都会はお金がないと住めないところなので、お金に縛られる窮屈な生活になってしまう。一方、農家は水と空気と土だけで暮らせる。「どうして若い人はお金にすがり付かなければ生きていけない生活を求めるのか、理解ができない」と語っていた。永徳さんは自分自身にも責任を感じて、村の文化をちゃんと継承できなかった、歴史の重要性をちゃんと伝えられなかったから若い人が出ていってしまったのではないかと後悔していた。   永徳さんの話を聞いて、SGRAのメンバーで飯舘村を復興させるためにはどうすればいいかという話になった。そこで、何か文化的なイベントがあれば村の活性化につながるのではないかという提案が出た。永徳さんは、「昔は山津見神社に3万人も集まる大きなお祭りがあった。山津見神社は約970年前からある飯舘村の中心的な神社である。神社の由緒書によれば、源頼義の夢の中に、山の神の使者である白狼が現れたため、山津見神社は数少ない狼信仰のお社になった。明治以前、太平洋側には狼信仰の神社が多かったが、明治以降はそれが良くないという風潮になり、次第に消えていった。山津見神社のお祭りは獅子舞があったが、ある年が凶作だったためやめることになった」と教えてくれた。   土曜日の宴会で飯舘村議会議員の佐藤健太さんと会った。彼は飯舘村のお神楽(かぐら)を復活したいと話していた。健太さんもちょうどSGRAのメンバーと同じように、新しいお祭りやお神楽があれば村は活性化するのではないかと考えている。村の伝説や歴史と結びつけて新しい舞やお祭りが作れたらいいね、と話し合った。神社というのは村の年中行事の拠点だけではなく、血縁と地縁を示すものであり、郷土愛の象徴でもあるため、山津見神社を中心に据えて飯舘村の新しい行事を起こすのは、最適のプランだと思う。   今回の訪問でもっとも印象深かったのは、田植えの体験だった。来日して11年も経つが、田植えは初めてだった。田んぼの土が想像以上にどろどろしていて、歩くのに一苦労したが、その柔らかく栄養に満ちた土に触れることで、なんとも言えない快感を覚えた。いつも悩まされている手のアトピーは土を触れても炎症せず、むしろ少し改善したように思えた。体を動かし、外の空気を吸い、土に触れるのがこんなに気持ちいいものかと、自然の治癒力を改めて実感した。   田植えが終わったら、早苗饗(さなぶり)という、一種の直会(なおらい)が行われた。直会とは、お祭りが終了した後に神に捧げた供え物を参加者で頂戴する行事のことであるが、早苗饗も同じように田植えの作業が無事終了した後、田の神に供物を捧げて豊作を祈願し、皆でご馳走を食べてお酒を交わす宴のことである。   日曜日の夕方に東京へ帰ってきて自宅で横になっていたら、不思議な感覚に浸った。田植えをしていた時の感触がまだ足のまわりに残っていた。硬い地面と小石の上に立って、柔らかいどろどろした土の中を歩き回るあの感触がまだ身体から抜けていなかったのだ。泳いだ日の夜にまだ自分が泳いでいると感じるように、私の体はまだ田植えの感覚を忘れていなかった。人間の動き方、労働の形がいかに体に滲み付いていくのかを考えさせられるきっかけとなった。   田植えで皮膚に付いた土がなかなか落ちず、石鹸で一所懸命こすっても、まだ爪の裏などに残っていた。それを見て、普段からまったく土に触れていない自分が少しおかしく思えた。そして昔言われたことを思い出した。数年前に一軒家でルームシェアしていたが、借りていた家の前に小さなお庭があった。不動産屋はその家の前のお庭をいずれはコンクリートで埋める予定だと話したが、その時、「家の前を綺麗にする」という表現を使った。土を見えないようにすることが本当に「綺麗にする」ことなのかと、その時に強い反感を覚えた。でも、都会に住んでいる現代人には、珍しくない考え方なのかもしれない。   人はどんどん土に触れる環境から離れていく。現代社会では、確かに、多くの人には土に触れる必要がないだろう。しかし、その経験を失った我々は、それだけを失っているのだろうか。土の感触以外にも、忘れていることはないのだろうか。   長年大都会に住んで、私の体もきっと都会の生活のために形成されてきているのだろう。歩き方や振る舞いには、都会の匂いが滲みているに違いない。仕方ないことではあるが、永徳さんが言っていたようなお金のために働き、消費するばかりの生活が、どうしても後ろめたく感じてしまう。   今回まったくの素人が植えた早苗がちゃんと育つか、心配半分、楽しみ半分だ。また来年、よろしくお願いします。   英訳版はこちら   <リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison> 2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。       2018年12月6日配信  
  • エッセイ580:マイリーサ「繋げて育む協働の輪―ふくしまスタディツアーに参加して」

      2018年5月25日、私は初めてSGRAふくしまスタディツアーに参加させていただきました。渥美国際交流財団SGRAでは2012年から毎年、原発事故の被災地である飯舘村を訪れています。出発の前、私はSGRAスタディツアーに参加した先輩方の感想文を読み、飯舘村の状況について少し事前勉強をさせていただきましたが、現場では、飯舘村がおかれている厳しい状況を改めて感じることができました。   「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご案内で、私たちは住民の帰還開始から1年となる飯舘村を見学しました。正直、この美しい里山が消滅の危機に直面していると思いました。そして、「ふくしま再生の会」が非常に困難な課題の解決に挑んでいるというのも初日の感想でした。日本の農山村は元々人口減少や高齢化の進行に苦しんでいますが、原発事故災害という特殊な環境において、その傾向はいっそう拍車をかけられています。   しかし、このスタディツアーで、私は次第にある現象に気づき、ここは交流人口がとても多いことに驚きました。というのは、ツアー中に私たちは他地域からの訪問者をよく見かけました。土曜日になると、何世帯かの高齢者しかいない限界集落に奇跡が起きていました。田植えを翌日に控え、佐須地区の「再生の会」の拠点に様々な分野の幅広い世代の人々が訪れていました。   やはり、人と人が集う場所には明日への活力が生まれると、私はその時強く感じました。原発事故が発生した3ヶ月後から、ここ佐須地区を舞台に、村民・専門家・ボランティアの協働による除染法の開発や農作物の栽培試験の取り組みが始まっていましたが、種まき、田植え、稲刈りなど1年を通して村民は多くの参加者の方々と一緒に米を育ててきました。現在は人々の繋がりによる協働の輪が広がりつつあります。   話によると、ほぼ毎週末(土日)、「ふくしま再生の会」の活動拠点に人びとが集まり、各種の活動を行っています。埼玉県立鴻巣高校のボランティアや東京大学のサークルのツアーなど若者たちが来ていました。そうした中で、大学と結ぶ活動の創造的展開も生み出されています。東京大学や明治大学などとの協働により、住民の目線による農地再生の取り組みと新しい地域づくりも可能になっているのではないかと感じました。   人々のつながりの「輪」は、環境保全に限らず、歴史と文化の継承という可能性も生み出しています。山津見神社拝殿の天井絵(オオカミ絵)の復元プロジェクトへの協力、明治時代に造られた校舎の保全と活用、味噌づくり継承プロジェクトなどはその好例です。こうした持続的な交流と協働こそが、「ふるさと再生」の仕組みを作り上げることができるのではないかと感じました。外国人の私は、日本のこのような多様な主体を持つ社会活動の展開とそれによる社会的価値創造にとても励まされました。   飯舘村は、日本の最も美しい村の一つとして知られていますが、飯舘村に行ってさらに、信じられないほど美しい光景に出会いました。それは「繋げて育む協働の輪」です。私は人々のつながりに非常に感動しました。またこの美しい村に行きたいです。   ※SGRAスタディツアーの報告(2018年5月に実施)   英訳版はこちら   <マイリーサ Mailisha> 昭和女子大学国際学部教授。2000年一橋大学社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。専門分野は教育社会学、農山村の地域づくり。近年、日本の里山保全と中国の少数民族地域での環境問題を研究対象としている。日本学術振興会外国人特別研究員、立教大学非常勤講師、昭和女子大学人間文化学部特命教授などをへて、現職。主な著書に『内発的村づくりにおける人間形成をめぐって』(一橋大学大学院社会学研究科博士学位論文、2000年)「流域の生態問題と社会的要因――」中尾正義等編『中国辺境地域の50年史』(東方書店、2007年)他。     2018年11月8日配信    
  • 第12回SGRAチャイナ・フォーラム「日中映画交流の可能性」へのお誘い

    下記の通りSGRAチャイナ・フォーラムを北京で開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛ご連絡ください。   ※お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局(sgra-office@aisf.or.jp, 03-3943-7612)   テーマ:「日中映画交流の可能性」 日時: 2018年11月24日(土)午後2時~5時 会場: 人民大学逸夫会堂第二報告庁 北京市海淀区中関村大街59号中国人民大学校内(明志路)   主 催: 渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA) 共 催: 中国人民大学文学院、清華東亜文化講座 助 成: 国際交流基金北京日本文化センター   ポスター(PDF)   ■フォーラムの趣旨   日中友好の基礎は民間交流に在り、お互いをより幅広く、正しく知るためには、相手の「心象風景」を知ることが、民間交流の基礎を固める上で重要である。映画は、その大事な手段であり、この40年にわたり、大きな役割を果たしてきた。 1977年と78年に、日本と中国でそれぞれ最初の映画祭が開かれた。中国では日本映画ブームが起こり、日本でも中国への関心から多くの観客が訪れた。このときの高倉健の影響力は衰えることなく、2014年の同氏の逝去に際し外交部スポークスマンが追悼の発言を行ったことは知られている。 日本映画の上映は、その後の「Love Letter」や「おくりびと」、「君の名は。」にいたるまで、中国に日本人の細やかな感情を伝え、等身大の日本人に親しみを感じさせてきた。そして、日本にロケした中国映画は、北海道ブームをもたらすなど、現在の日本旅行ブームの原動力にもなっている。また、中国映画の上映は、「芙蓉鎮」や「さらばわが愛、覇王別姫」が波乱の現代史に生きる中国人の姿を伝え、「ヒーロー」や「レッドクリフ」が歴史スペクタクルの楽しさを教えてくれた。 日中の国同士の関係に摩擦が生じたときも、映画交流はさらに発展を続け、映画祭の開催や劇場公開、合作映画の制作やインディペンデント映画の紹介、さらには回顧展の開催など、多様化が見られ、お互いに影響を与え合ってきた。近年はSNSによる発信など、中国の若者の日本への関心が増加しているが、日本でも賈樟珂や婁燁の作品が上映され、今年は「空海――美しき王妃の謎」がヒットし、「中国電影2018」で最新作が紹介されるなど、新たな動きが起こっている。4月の合作映画の撮影に関する日中政府間協議の締結も、重要な一歩である。 いまや中国は世界第1位のスクリーン数と第二の映画製作本数を誇る映画の一大市場であり、日本も世界第4位の映画製作本数を維持している。世界の映画産業のひとつの中心は、まさに東アジアにあると言ってもよいだろう。本フォーラムでは、この映画大国である日本と中国の40年にわたる映画交流を、日本と中国の側からそれぞれ総括を行い、意見交換を行い、今後の展望を検討することを目的としている。 刈間文俊氏は、1977年の中国映画祭から字幕翻訳に携わり、これまで100本に近い中国映画の字幕を翻訳し、中国映画回顧展のプロデュースを行うなど、日本での中国映画の紹介に携わってきた。王衆一氏は、日本映画に精通し、「人民中国」編集長として多くの日本の映画人と交友を持ち、「日本映画の110年」を翻訳し北京で出版している。日中の映画交流の歩みを現場で知る二人の発表をもとに、日中双方の識者による討論を行う。   ■プログラム   総合司会:孫 郁(中国人民大学文学院) 【講演1】刈間文俊(東京大学名誉教授) 【講演2】王衆一(人民中国編集長) 【総合討論】 討論者:李道新(北京大学)、秦 嵐(中国社会科学院)、周 閲(北京語言大学) 陳 言(北京市社会科学院)、林少陽(東京大学) 司会者:顔淑蘭(中国社会科学院) 〇同時通訳(日本語⇔中国語):文 俊(北京語言大学)、宋 剛(北京外国語大学)   ※プログラムの詳細は、下記URLをご参照ください。 日本語  中国語   ■発表内容   【講演1】 ◆刈間文俊「中国映画は日本になにをもたらしたか――その過去・現在・未来」 [要旨] 1977年に始まる中国映画祭は、日本に中国映画を紹介する大きな役割を果たした。1986年の「黄色い大地」のロードショー公開は、ニューウェーブの衝撃をもたらし、1985年の中国映画回顧展は、中国映画史の豊かさを教えるものとなった。1990年代に入ると、中国映画は国際映画祭での受賞が相次ぎ、インディペンデントの映画製作も始まるなど、多様化が見られた。日本における中国映画は、中国を知るための窓から、陳凱歌や張藝謀、賈樟珂、婁燁という監督の名前で語られる芸術となり、さらに歴史スペクタクルを描くエンターティメントとなったが、いま中国で大ヒットしている「私は薬神ではない」は、新たな社会派エンターティメントの可能性を示すもので、日本でも驚きをもって受け入れられるだろう。 [略歴] 東京大学名誉教授、武蔵野大学講師、南京大学客員教授。NPO法人日中伝統芸術交流促進会副理事長。1952年生まれ。東京都出身。麻布高校卒、1977年東大文学部中国文学科卒、83年同大学院博士課程中退。駒澤大学講師、87年東大教養学部講師、助教授を経て96年教授。専門は中国現代文学、中国映画史。共著書に「上海キネマポート―甦る中国映画」(凱風社)1985年、「チャイナアート」(NTT出版)1999年、訳書に陳凱歌「私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春」 (講談社) 1990年。これまで中国映画の字幕を百本近く翻訳してきた。『空海―美しき王妃の謎』も日本語版の監修・翻訳を担当。   【講演2】 ◆王衆一「今に問われる日本映画が中国に与えた影響――融合・参考・合作」 [要旨] 西洋から来た映画は日本経由で中国に伝わったのである。戦後日本映画はいくつかの段階で、それぞれ特色のある形で中国に入りましたが、決定的に中国で日本映画の存在を示したのは40年前『中日友好条約』が調印された時点からです。高倉健、栗原小巻、中野良子、倍賞千恵子などは幾世代の中国人の記憶に残っていて、国民間の好感度向上に一役を買っています。以来、日本映画は中国映画に与える影響はハリウッドとヨーロッパ、ロシア映画と違う形で今日まで続いています。中日友好や共同市場をめざす合作映画も中日映画交流の特徴のひとつです。昨年中国でヒットした『君の名は。』やこの夏中国で話題を呼ぶ『万引き家族』は、日本映画の新たなブームが始まったことを宣言すると同時に、同時代の日本人の「心象風景」は、映画を通して中国の若い世代に理解されることにつながるでしょう。政府間の映画合作協定の締結は、将来共同市場の形成に新たな可能性を与えています。 [略歴] 『人民中国』雑誌社総編集長。1963年生まれ。吉林大学で日本言語学を専攻、1989年に修士号取得。同年、人民中国に入社。1994年から東京大学で一年客員研究員。コミュニケーションや、翻訳学、大衆文化など多岐にわたる研究を行う。中華日本学会及び中日関係史学会常務理事、中日友好協会理事を務める。著書に『日本韓国国家のイメージ作り』、訳書に『日本映画のラディカルな意志(四方田犬彦著)』『日本映画史110年(四方田犬彦著)』などがある。第十三期全国政治協商会議委員。
  • ボルジギン・フスレ「AFC#4:SGRAセッション『現代モンゴル地域における社会変容』報告」

    2018年8月26日の午後に開催された第4回アジア未来会議自主セッション「現代モンゴル地域における社会変容」は、激変する北東アジア社会の複雑な状況を視野に入れながら、最新の資料を駆使して、モンゴル地域における社会変遷を焦点に特色ある議論を展開することを目的とした。同セッションでは、国立政治大学民族学部准教授の藍美華(LAN Mei-hua)先生と私が共同で座長をつとめた。   SGRA会員、内モンゴル大学モンゴル研究センター准教授のリンチン(仁欽、Renqin)氏の報告「20世紀後半の内モンゴルにおける草原生態系問題の検討」は、20世紀後半の内モンゴルにおける放牧地開墾問題の実態はどうだったか、その背景と要因は何であったか、放牧地開墾問題はモンゴル人地域社会に何をもたらしたか、さらに今日の内モンゴルにおいても生じている環境、漢化、自治区の自治権の低下、人口、言語教育など非漢民族の生存権問題と如何に関連しているのかなどについて考察した。 リンチン氏は、結論として、下記の事を指摘した。 第1に、「大躍進」運動では、農業地域か牧畜業地域かを問わず、内モンゴル地域では「農業を基礎にする」という方針のもと、「牧畜業地域の食糧と飼料の自給」という名目で、中華人民共和国建国以来最大規模の放牧地が開墾された。 第2に、「文化大革命」期間の「牧民はみずから穀物を生産すべき」のスローガンのもとで、内モンゴル生産建設兵団による2回目の大規模の放牧地開墾が行われた。しかし、その結果、食糧と飼料の自給が成し遂げられるどころか、むしろ穀物は減産したのである。 第3に、草原生態系への破壊的影響をもつ開墾により、放牧に利用できる草原の面積が縮小したため、牧民たちは生産手段でもある放牧地を失い、生活の困窮状態に陥った。 第4に、近年、北京、天津にとどまらず、はるか朝鮮半島、日本にまで猛威を振るっている「黄沙」の主な発生源は内モンゴルとされているが、そう簡単に結論づけることはできない。内モンゴルにおける環境問題は、実際このようは政治的・社会的・人為的要因があった。   SGRA会員、昭和女子大学国際学部国際学科教授のマイリーサ(Mailisha)氏の報告「観光化の中における文化伝承」は、甘粛省粛南ヨグル族自治県白銀モンゴル自治郷(1930年代に外モンゴルから河西回廊に移住したハルハ・モンゴル人の村落)における「伝統文化の担い手と継承のための工夫」の事例を検証した。言語や文化の消滅の危機にさらされている少数民族の生存戦略と、その潜在的な可能性について検討し、「民族風情園」など「中国的な見せる観光」における問題点を指摘し、たいへん興味深かった。   東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程ソルヤー(Suruya)氏の報告「フルンボイル地域における民族衣装の再創造――ダウル人を中心に――」は、日本における文化人類学の先端的な研究成果を吸収し、ホブズボウムとレンジャーの「伝統の創造」論を踏まえ、先行研究を批判的に参考にしながら、民族表象の問題として民族衣装に焦点をあてた。フィールドワークで得た成果に基づいて、ダウル人の民族衣装を中心に、内モンゴル・フルンボイル地域におけるモンゴル系サブグループの民族衣装が、20世紀以降、いかに衰退から「再生」へと発展してきたのか、それがフルンボイルのモンゴル系サブグループのアイデンティティの再構築とどのような関係をもっているかなどについて検討をおこなった。今日、ダウル人は伝統を取り戻そうと、その民族衣装を再構築し続けているが、そのプロセスにおいて、実際は、多くの伝統が失われ、また新たな「伝統」が生まれ続けていることなどを指摘した。   桐蔭横浜大学FIJ欧米・アジア語学センター非常勤講師ボヤント(Buyant)氏の報告「内モンゴルにおける土地紛糾の一考察」は、モンゴル人社会の現状を踏まえ、映像資料を含む第一次資料を用いて、2010年以降、内モンゴル地域で農民・牧畜民と地方政府の間で起きた土地・生態環境をめぐる紛糾を焦点に、さまざまな矛盾や葛藤を抱えている多民族国家中国の民族問題の現状について考察し、検討した。1978年に「改革開放政策」が提唱されて40年が経過した現在、少数民族地域におけるインフラ整備や資源開発、経済成長、党幹部養成等は目覚ましい勢いで進んでいる一方、「党国家」をおびやかす事件が多発し、少数民族をとりまく状況は急速に変わっている。氏の報告は刺激的であり、関心をもたらせた。   セッションの最後に、藍美華氏がセッション報告の成果をまとめ、今後の研究の展開について期待をかけた。   当日の写真     <ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。        
  • 1 / 1712345...10...最後 »