SGRAエッセイ

  • 2006.11.02

    エッセイ011:マキト「環境にみる多様性の中の調和」

    SGRAの基本的な目標は「多様性の中の調和」を通じて「良き地球市民」を実現することである。僕は専門の経済学を通じてこの課題に取り組んできた。日本は欧米社会とは違う経済システムと経済発展を世界に提示してきたのだから、この多様性を維持すべきだと強調してきた。「グローバル化」は「グローバル・スタンダード化」ではないと。   SGRAフォーラムでは、経済学以外の分野においても、この「多様性のなかの調和」を考える機会があった。2003年の夏に軽井沢で開催された第12回フォーラム「環境問題と国際協力:COP3の目標は実現可能か」の時、環境においてもこの原理が重要であることを実感した。僕は、そのフォーラムで、京都議定書に対するフィリピン政府の対応について報告した。その時、サンゴ資源に関しては、オーストラリアとインドネシアとともに母国のフィリピンも、世界のトップ3に入っているという、僕にとって嬉しい発見があったのだ。海の底を綺麗に飾るだけではなく、サンゴは海洋の多様性を育む役割を担っていること、日本の主な海流は東南アジアから北に流れてくることを指摘した。日本とフィリピンの「海の関係」は思ったより深かっ た。   今年、フィリピンで開催された海洋専門家の国際的会議において、フィリピン列島は海洋の多様性の中心だと宣言された。サンゴの重要さが一層強調された。ただ、それと同時に、その会議は警鐘も鳴らした。他の東南アジア諸国に比べて、フィリピンはこの海洋資源の利用がもっとも非効率なのである。フィリピンのサンゴは、ブラジルの熱帯雨林と同じくらい環境に大切なものだから保全すべきだと政策提言が行われた。というのはブラジルの熱帯雨林と同様、フィリピンのサンゴも「経済開発」という口実で、どんどん破壊されつつあるのだ。   今、フィリピンのこの大切な資源がどのぐらいが残っているのか、不安に思うことがある。インドネシアのサンゴの半分はもう破壊されているという報告を聞いたことがある。フィリピンも同じぐらいであろうか。一回失った資源を取り戻すことができるのだろうか。   今、沖縄では珊瑚礁の再生で騒いでいる。なかでもサンゴの養殖による再生プロジェクトを世界で初めて行なっている阿嘉島にある研究所が注目を集めている。珊瑚は動物で、1年に1回だけ、赤ん坊を産む。その時期を忍耐強く待てば養殖で使える「もと」を採ることができる。サンゴの養殖技術は、資源が少ない国から資源が豊かな国への贈り物になるだろう。   今年、マキト家では大きな決断がなされた。マニラの都会の便利さを捨てて、できたら海の近くに移住する。そういえば、幼いころに海の近くに長く住んだことがあった。毎週末のように海岸に連れていってもらって真っ黒になった。だから、ある意味でこの移住は原点に戻るわけだ。多様性の中心に選ばれたフィリピンの海は、そのとき一段と僕の目に美しく見えるであろう。   ケネディー大統領は、「人の血や汗や涙には海と同じ割合の塩が含まれている。ですから、海に戻るときに、我々は原点に戻っているだけです」と、海を賞賛した。銃撃で倒れる2ヶ月前だったという。人間は海と結びついているのであり、これからもこの『水球』と呼ぶべき惑星は、聖なる生命の揺りかごであると信じている。   お勧めのウェブサイト(1と2は、URLが長いので検索してください) 1.“Philippine Environment Monitor 2005: Coastal and Marine Resource Management” 世界銀行のサイト 2.“The center of the center of marine shore fish biodiversity: the Philippine Islands” Environmental Biology of Fishesのサイト 3.阿嘉島にある研究所 http://www.amsl.or.jp/    -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師  --------------------------  
  • 2006.10.26

    エッセイ013:羅 仁淑 「10年経てば山河も変わる」

    1984年に来日した。韓国には「10年経てば山河も変わる」ということわざがあるが、確かにその時と変わった。それもそのはず。山河が2度変わって余る年月が過ぎたもの。   4年間だけのつもりで日本留学を決めた。経済大国ってどんな感じだろう!生まれて今まで見たことのない華やかな街並み、人々の身なりしか頭に浮かばなかった。夜に着いた。早く見たい日本。逸る気持ちを抑えて迎えた翌朝、自分の国でも見られなくなった質素で地味な日本が目の前に広がった。がっかりした。日本のお金はみんなどこに集まっているのかしら。その答えは生活大国という形で生活の中から徐々に一つ、また一つと出てきた。   韓国にいる時、医療保険って聞いたこともなかった。後から知ったことだが、あることはあったらしい、名前だけは。病院に行くと患者の状態がどうであれ、夜であれ、昼であれ、予め保証金を入れないと診てもらえなかった。「明日銀行が開いたら・・・」など通用しない。当直しかいなくてとかなんとかで門前払いを食わせる。次から次へと病院の門を叩くがもちろん結果は同じ。結局手遅れで大事に至る。その反面、金持ちの行く手を阻む税金など厄介ものは少ない。金持ちの富は雪だるま式に膨らんで行く。資本主義の影と光、自由と自己責任の展示場のようだった。それが紛れもない当時の韓国だった。その中で育った。   医療保険というものを知った時それは素直に感動した。平等主義日本が眩しかった!生活大国日本に私の心は虜になった!大学を卒業した。帰らなかった。   最近マスコミでよく耳にする「格差社会」って本当?それ本当。所得分布の集中度とか不平等度とかあるいは所得分布の格差とも言うが、それを表す指標のひとつにジニ係数(Gini’s coefficient)というのがある。話がいきなり堅くなった?まあまあせっかくだから最後までお付き合いくださいな。   貧困には絶対的貧困と相対的貧困がある。絶対的貧困とは低所得、栄養不良、不健康、教育の欠如など人間らしい生活から程遠い状態を指すが、幸い、日本は絶対的貧困が問題になることは多くない。かかる格差問題も相対的概念に根差している。わざと「相対的」をつける必要もない。   ジニ係数ももちろん相対的な概念に基づいたもので、完全平等状態の時0、不平等度が最も大きい時1になる。格差が小さいほど0に近く、大きいほど1に近いということだ。来日した1984年から2005年までのジニ係数の推移を5年刻みに並べてみるとそれぞれ0.252、0.260、0.265、0.273、そして0.314である。平等主義がかなり緩くなってきていることは一目瞭然だ。   昨年のOECD25カ国のジニ係数を高い順に並べると、メキシコ(0.467)、トルコ(0.439)米国(0.357)、イタリー(0.347)、ニュージーランド(0.337)、英国(0.326)、そして日本の0.314が次ぐ。抜群に高いメキシコとトルコを除いてみると、日本の所得格差の大きさが一層浮き彫りになる。かつては「一億総中流」と言われたのに、10年余りの間に驚異的に貧富の格差が拡大した。   所得格差って悪いの?とかく格差は悪で平等は善と考えやすい。しかしその反対かも知れない、「適当」という条件が付いてさえいれば。競争原理をばねとする資本主義だもの、差が付くのは当たり前だ。昔の韓国のような社会が良いとは決して言えない。しかし、平等分配の社会(実際には存在しないが)ほどつまらなく効率の悪い社会もないだろう。旧ソ連をはじめ社会主義諸国の崩壊や中国の市場経済化がそれを証明しているのではないか。   調査対象に特定の傾向がある場合には、ジニ係数が1に近いからといって必ずしも不平等が悪いとも限らないし、どれくらいで大きく、どれくらいなら許容範囲かを判断することも難い。しかし0.2から0.3が資本主義の通常の配分型だと言われている。その基準からして昨年の「0.314」は「通常」を超えている。とはいうもののまだ深刻とも言えない。   新保守主義(Neo-conservatism)だの、新自由主義(Neo-liberalism)だの、第三の道(The third way)だのの嵐が世界中を吹き荒れている。その渦巻きの中で全力疾走している日本の格差社会化。着地はいずこ?それが気になる。来日当時、まさか日本の所得格差を憂える日が来るとは思わなかった。   -------------------------------------- 羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 --------------------------------------  
  • 2006.10.16

    エッセイ010:ボルジギン・フスレ 「15年ぶりのウランバートル」

    1991年7月、わたしは、モンゴル人の唯一の国であるモンゴル国の土地を踏むことができた。青空、草原、人、馬、悠々と流れる麗しいメロディー、大空を自由に飛翔する鷹・・・、待ちに待ったはじめてのモンゴルの旅、国境に分断された同じ民族の人々とのはじめての出会いで得た感動はいまだに残っている。15年の後、モンゴル建国800周年の今年8月、わたしは再びモンゴルに行った。今回は、2つの国際シンポジウムに参加し、資料調査をおこなうという目的であったが、民主化運動の15年後の、今日のモンゴルはどのようにかわっているのかを、切実に知りたかったのである。モンゴル建国800周年なのに、中国の内モンゴル自治区では何の記念行事もおこなっていない。それと対照的に、モンゴル国では、あらゆることを「800周年」と結びつけて記念行事をおこなっていた。   最初のシンポジウムは、国際モンゴル学会(IAMS)主催の、「大モンゴル国成立800周年記念、第9回国際モンゴル学者会議:モンゴルの国家像――過去と現在――(Ninth International Congress of Mongolists Devoted to the 800th Anniversary of the Yeke Mongol Ulus -The Mongolian Statehood: Past andPresent)」(8月8~12日)である。このシンポジウムはアメリカ、日本、ドイツ、カナダ、ハンガリー、イタリア、フィンランド、モンゴル、ロシア、中国、韓国など25ヵ国から480人あまりが参加し、名実相伴う大規模な国際会議となった。もう1つのシンポジウムは、「大モンゴル国成立800周年記念」の名も借りた、「ムンフテンゲル研究国際学術大会(Devoted to the 800th Anniversary of the Yeke Mongol Ulus ―International Conference of Munkhtenger Studies)」であり(8月13~18 日)、モンゴル、日本、ロシア、中国など7ヵ国から90人あまりが出席した。   会議のかたわら、わたしは、ウランバートルの本屋をまわり、資料収集をおこなったほか、国際モンゴル学会(IAMS)からの紹介状をもらって、モンゴル国立中央文書館(The National Central Archives)にて、資料調査をおこなった。しかし、こちらは、清朝時代の文書群が主であり、内モンゴル現代史とかかわる文書は、主にモンゴル人民革命党文書館(Archives of Mongolian People’s Revolutionary Party)に保存されていると、事務の方が教えてくれた。   夏休みのため、当初はモンゴル人民革命党文書館での資料調査は不可能だと聞いて、とても残念な気持ちだったが、東京外国語大学教授二木博史先生の紹介で、同文書館の館長の特別許可を得て、二木先生と一緒にまる4日間、文書館に入って、資料を読むことができた。文書館の入り口には、警備員がいたが、館長の特別許可があったお蔭なのか、出入りはわりに自由で、身分証明書も見せる必要がなく、閲覧証すら作らずにすんだ。私がもっとも嬉しかったのは、同文書館では、1920~40年代の、内モンゴル革命に対するモンゴル人民共和国からの援助、内モンゴル人民革命党の活動、モンゴル人民革命党と中国国民党・共産党との関係などに関する資料が、大量に残されており、しかも閲覧やコピーが、わりに自由だったということである。これほど詳しく記録された資料を、これほど自由に閲覧することは、中国では想像もできなかった。   モンゴルに行く前、ウランバートルの社会治安状況などについて、さまざまな噂を聞いた。ウランバートルに着いた後も、「財布をきちんと管理してね」「一人で出かけないでね」など、まわりの人から忠告された。しかし、現在のウランバートルを見たいという気持ちはおさえがたく、翌日から、毎日一人で出かけるようになった。泊まったホテルから、スフバートル広場、百貨店、日本大使館・・・、第13区の商店街まで、まわってみた。15年前のウランバートルの街は、奇麗に整備されていて、人はそれほど多くはなかったし、郊外からやってきた鹿が、住宅街を自由に歩いている姿すらあった。しかし、現在、ウランバートル市の人口は100万人まで倍増し、街には 埃が吹き、果物やティッシュを売る、あるいは電話機を賃貸する(公衆電話)子供の姿がどこでも見られる。さまざまな店があらわれ、商品の種類は15年前よりも大幅増えているが、物価の高騰も事実である。   街を走る車のなかで、もっとも多かったのは中古のトヨタ、日産、ホンダ、三菱などの日本車である。そして、毎日交通渋滞。余裕を持って出かけないと、遅刻するのは日常茶飯事である。日本の企業は、モンゴルの電力、通信、金融などの分野に進出しているそうで、空港には、日本料理店「さくら」、市内にも「東京ホテル」がある。さらに、空港に行く途中、日本・モンゴル親善協会の植林の看板も目を引く。日用品のなか、もっとも多かったのは中国製品である。空港やホテル、公的施設の便器、乾燥機なども中国製、そのメーカーや説明文はほとんど中国語で書かれ、モンゴル語・英語の表記はなく、多くは壊れている。こちらも韓流ブーム。街には、韓国語の看板と国旗がよくみられる。バスの自動ドアにも韓国語、そして韓国人経営のマンション(不動産)・ホテル・レストランなど少なくなく、デパートやレストランの中でながれているのも韓国の音楽だ。   15年前、ウランバートルの料理店は、モンゴル料理以外、ロシア料理、中華料理、西洋料理などだったが、今は、韓国料理・日本料理などさまざまがある。「db」という、アメリカ系といわれているレストランのバーベキューのバイキングもたいへん印象に残った。15年前には、ビールを買うために、列をつくって並ぶ人の姿をよく見たが、今、ウランバートルでは、モンゴル製のビール以外にも、ドイツ、アメリカ、韓国、中国製のビールもたくさん売られている。   相撲は確かに人気がある。コマーシャルだけではなく、街にも朝青龍、白鵬の絵が掲げられている。この旅の前に、モンゴルでNHKの放送がみられると聞いていたが、ウランバートルに着いたら、実際、NHKだけではなく、アメリカのCNN、イギリスのBBC、韓国のKBS、香港のスターTV、中国のCCTV、内モンゴルのNMTVなど、さまざまな国や地域のテレビ局の放送も見られるということがわかった。この面での自由は、中国も、日本も及ばない。   モンゴルは、市場経済の波に乗って、完全に私有化がすすみ、都会の人も利己主義になっていると感じる。しかし、日本に戻る際、ウランバートルのボヤントオハー空港で、偶然、一面識もなかったG.オチルバト氏と出会ったときには、モンゴル人の伝統的な素朴な性格を再び感じた。蜂の研究を専門にしている64歳のオチルバト氏はすでに定年になっているが、モンゴル科学アカデミーとウランバートル大学で働きつづけている。彼は話好きで、空港のレストランでお茶をご馳走してくれ、蜂や、モンゴル人民共和国のかつての指導者ツェデンバルについていろいろ話してくれた。   その日の夜零時になって、10時間も出発が遅れた中国国際航空CA902便が、この日は飛ばないという情報を知り、オチルバト氏は、わたしと二木先生を自宅に泊まらせ、その晩だけではなく、翌日の昼ご飯まで、ご馳走してくれた。そして、再び空港に行く時に乗ったタクシーの68才の運転手もたいへんやさしかった。彼はかつてモンゴルの映画製作の美術の仕事に携わり、奥さんはモンゴルの勲功女優であったが、今、年金だけで生活するのは難しく、やむを得ず自分の古い車でタクシーの仕事をしている。空港まで一番安い料金で送ってくれたが、料金をもらう際、恥ずかしそうな表情をうかべた。   --------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。SGRA研究員。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。  ---------------------------------
  • 2006.10.04

    エッセイ008:李 鋼哲 「善玉菌と悪玉菌」

    微生物学では、人間の腸内細菌には「善玉菌」と「悪玉菌」があるという。人間社会でも「善玉人間」と「悪玉人間」がいるが、微生物世界でも人間社会でも優勢なのは「悪玉」ではなく「善玉」であることは明かである。しかし、腸内でも、人間社会でも「悪玉」は不可欠に存在している。もし、数少ない「悪玉菌」が腸内で優勢を占めるようになると人間の身体はおかしくなる。人間社会でも「悪玉人間」が優勢を占め権力を持つようになると社会はおかしくなる。   近代社会では「国民国家」というものが出来上がり、それが国際社会を形成している。しかし、「国民国家」が出来上がるや人類は類なき世界的な戦争に突入し悲劇を招いた。「国民国家」で権力欲や領土欲が満ちている為政者つまり「悪玉人間」が権力を握ると、国民に対する統制や略奪はさることながら、他の国や領土も略奪し、さらには支配下に入れようとする。   二つの世界大戦が終わっても、「悪玉」は終焉しない。「悪玉」と「悪玉」の対決で人類は核戦争に脅かされているのだ。悪と悪の対決で核開発は世界的に広がる。東西の対決がその現れであり、これを美しい言葉で「勢力均衡安全保障」という。冷戦が終わり、やっと悪と悪の対決が終わったと思ったのに、そう簡単には善玉の世界が訪れてこない。それは世界で最強の国民国家が新しい「悪玉」を探し求めているからではないかと思う。世界の中の「悪玉」を征するという名目で「善玉」を装い軍備を増強し、知らず知らずのうちに自分も「悪玉」に見られてしまう。「悪の枢軸」という言葉を作り出した張本人は自分が「悪の枢軸」になっていないか鏡を見てもらいたい。その悪意が見えているから「ならず者国家」の悪玉も核開発の名目を与えられているのではないか。「悪玉」が「悪玉」を呼ぶ悪循環が世の中を支配しているように見えてならない。   その影響を受けてか、東北アジアでも悪の対決構図が浮かび上がってくる。こうなると軍備競争は当たり前のこと。平和国家を自負する国が平気でTMD(戦略ミサイル防衛)に突き進む。「先制攻撃」論さえも批判されずに飛び交っている。理由は周りに「悪玉」ばかりが見えるから。しかし、「悪玉」しか見えない目を持つのは「悪玉」に支配されているからではないか。他人の「悪玉」しか見えないものにとっては、隣の人がオナラをしただけなのに、それを自分に向けられたというのだから。「悪玉」と「悪玉」の対決の末には戦争しかないということを肝に銘じるべきだ。   菌の世界では日和見菌も多いそうで、大きく別けると善玉菌・日和見菌・悪玉菌の比率は2:6:2と言われる。善玉菌と悪玉菌が勢力争いすると日和見菌は優勢の菌と同じ役割をする。人間社会もこれと似ているかな。世の中は悪い人が増えれば、その他大勢もそれに習ってどんどん退廃していく。「悪玉」が振る舞う世界では「善玉」は無力のように見える。しかし、良い人が善玉菌のように努力して、それなりの行動を起こせば、世の中もそれなりに「悪玉」を押さえ良くなっていくはず。仏教ではそのことを「薫習(くんじゅう)」という。  -------------------------------------- 李鋼哲(り・こうてつ Li Gangzhe) 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、現在は総合研究開発機構(NIRA)主任研究員、本年10月より北陸大学教授に赴任。中国の黒龍江大学などでも客員教授を兼任し、日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005 日本講演)、その他論文やコラム多数。  --------------------------------------
  • 2006.09.29

    エッセイ007:シルヴァーナ・デマイオ「ナポリ大学オリエンターレと日本語教育」

    ナポリ大学オリエンターレは1732年に「コッレージョ・デ・チネーシ(中国人寄宿学校)」の名前で設立された。1710年から1724年まで清朝の中国に滞在したマッテオ・リーパは5人の中国人をつれて帰国した。当時、コッレージョ・デ・チネーシでは、カトリック宣教師になろうとした中国人の宗教教育が行われた。しかし、それだけではなく、オステンド会社及びオランダ東インド会社に必要な通訳の教育も行われた。   イタリア統一後も、コッレージョ・デ・チネーシにはふたつのセクションがあり、ひとつでは宣教師の教育、もうひとつでは宗教教育と関係なく中国語などが教えられていた。1868年に「レアレ・コッレージョ・アジアティコ(王立アジア寄宿学校)」に改名された。1870年代の本機関の規約には日本語講座が記録されているが、実際にジュリオ・ガッティノニによって初めて日本語講座が設けられたのは1903年のことである。文哲学部における日本語講座の伝統は長いが、1970年代の前半に政治学部ができ、そちらにも独立した日本語講座が設立された。   イタリアのほとんどの大学にはキャンパスがないのはご存知の通りである。ナポリ大学オリエンターレもナポリ市内の建物を借りたり、買ったりしている。現在、アジア研究科附属図書館、教員のオフィスはパラッツォ・コリリアーノにあり、教室、ラボ、各学部長室などはパラッツォ・メディテッラネオにある。   数年前から、日本語を勉強し始める学生は漫画、アニメ、日本のテレビゲームなどに育てられてきた世代である。したがって、日本文化への関心があるということは間違いない。しかし、文化的浸透が進み、日本文化の理解は前提になってきていて、それと結びつく将来の職業を考えて、オリエンターレに入学してくる学生が増えてきている。   学生の日本語学習動機をまとめてみると、次のとおりである。 1) 和伊の翻訳をしたい。 2) 日系企業に就職したい。 3) 観光に結びつく就職がしたい(観光ガイド、添乗員)。この場合、国家試験を受けて州の免許をとらなければならない。 4) 日本文学、日本史、日本美術史などについて研究したい。 5) 外交官、国際機構またはNPOの役員になりたい。   最後にナポリ大学「オリエンターレ」の学生のための留学の可能性について考えてみたい。現在、7つの日本の大学と交換留学協定を締結し、わずかだが奨学金を付与し、各大学に毎年、平均2名の学生を本学留学生として派遣している。更に、数年前から、オリエンターレの卒業生は、在イタリア日本大使館の公募により、JET プログラム(日本の地方公共団体が外務省や文部科学省などの協力の下に実施している語学指導等を行う外国青年招致事業)に参加することにもなった。その他、エラスムス・プログラム(EUが実施している欧州の学生・教員交流事業)があり、毎年、ヨーロッパの5つの大学に学生を派遣している。さらに、将来、学生の海外留学のチャンスを増やすための計画をたてているところである。  ---------------------- シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio) ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年?2002年レッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002 年よりナポリ大学オリエンターレ政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------  
  • 2006.09.28

    エッセイ006:張 紹敏「エール大学:リーダーの孵卵器」

    銃で頭を撃たれた10代の男の子は危篤だと地元のテレビ局が伝えている。この1ヶ月にその様な報告は2~3回あった。町の一部の区域に限られたことであり、町全体の治安が悪いとは言えないが、それにしても何が起こるかは分からない。それでも、夏場の週末に人々は町の中心にあるグリーン広場に集まって、ジャズコンサートを楽しんでいる。毎年一度はメトロポリタン・オペラもこの広場で公演し、それはこの町、ニューヘイブンの風景になっている。8年前にここに来た時、日本の友達から「危険だよ」と忠告を受けたが、住んでしまうと怖いという感覚もなくなってしまう。25セントから2~3ドルまでのお金を必要とするヒトに数回お目にかかったが、危険だとは感じなかった。   ニューヘイブンは米国北東部のコネティカット州にある港町で、ニューヨークまで南に1時間半、ボストンまで北に2時間のドライブで行ける、典型的なニューイングランドの町である。ニューヘイブンという名前よりも、この町をホーム・タウンとするエール大学の方がよく知られているだろう。日本では、ハーバード大学に比べ、エール大学はそれほど有名ではないかもしれない。実際にこちらへ来て、日本からの学生や学者が少ないと感じた。中国からの留学生や学者は1000人いる。台湾と本土から来た人たちが、別々の小学校を作り、それぞれ中国語を教えている。それに対し、京都から来た日本人の同僚の学者は毎週末ニューヨーク市まで行って、子供に日本語を勉強させていると話していた。この2~3年、週末には韓国からの団体観光客が急増したが、日本からの観光客は未だに少ない。   アメリカの歴史は若いが、このあたりでは200年前に造られた古いアパートを借りて暮らす学生や学者が多い。米国で一番古いハンバーガー屋もある。二度ほど足を伸ばしたが、ランチしかやっていないこともあって、とても混雑していて食べられなかった。ニューへイブンは米国におけるイタリアピザの発源地でもある。ピザの店はあちこちがあるが、町の東にはピザ街がある。元々、イタリア移住者の住んでいた地域である。そこにクリントン前大統領とヒラリー夫人がエール大学在学時によくデートしたピザ屋があるという。   民主党の元副大統領候補のリーバーマン上院議員は、コネティカット州の民主党予備選で敗れて無所属に転じたが、11月の米中間選挙を前にイラク戦争支持を表明した。最近発表された世論調査では、共和党支持者を大幅に取り込んでリードを奪い返したが、これは、日本でも「奇策」と報告されているという。そのリーバーマン氏もエール大学の卒業生だが、彼の実家はニューヘイブンにある。よく知られているように、ブッシュ大統領の親子三代もエール大学卒業である。この20年間の米国の指導者はすべでエール大の出身者だ。最近のタイム・マガジンは、2008年の大統領選挙を特集したが、表紙はヒラリー夫人だった。   3年前からエール大学では、中国の将来の指導者となることが期待される中央省庁の幹部を対象に、2週間の研修クラスを開いている。エール大学で研修後、ホワイト・ハウスでアメリカの指導者と話し合うという。何を教えているのか、将来はどうなるのかなど、今はまだ評価出来ないが、今年4月に米国訪問中の中国の胡錦濤主席が、わざわざエール大学を訪問したという事実は、何かを物語っているかも知れない。それに対し、日本からは、観光客はもとより政治家がニューヘイブンに足を伸ばすまでにはかなり時間がかかりそうだ。あるいは、そんな必要はないということなのか。   ------------------------------------------------- 張 紹敏(ちょう・しょうみん Zhang Shaomin) 中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。現在は米国エール大学医学部眼科研究員。間もなくペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。  -------------------------------------------------  
  • 2006.09.24

    エッセイ005:範建亭 「上海の住宅事情」

    上海の夏はとても蒸し暑い。幸い7月から大学が夏休みに入るので、学校に行かなく てもいい。だが、夏休みを利用してやらなければならないことがたくさんある。その うち、一番頭を悩ませるのは、自宅の内装に手入れをすることである。   僕の住まいは大学のキャンパスに隣接している12階建ての新築マンション。同じ敷地 に同様のビルが三棟もあるが、そこに住んでいる人はほとんど大学の先生や職員であ る。昔のイメージで言うと、これは大学の教師用宿舎だと思われがちだが、実際はそ うではない。これらは確かにうちの大学が開発業者として建てたマンションだ。しか し、もう大学のものではない。というのは、大学の住宅制度もすでに変わっており、 新しく建てた住宅を売るものとし、その所有権(厳密に言えば使用権)は購入した人 のところにあるからだ。僕は3年前に運がよく抽選でその購入権利を手に入れた。し かも就職の手続きを完了した直後のことだった。なぜ抽選を行わなければならないか というと、売る値段は市場価格より30%ぐらい安いから、購入希望者が多く、それ以 上公平な手段がないからである。   マイハウスを手に入れても、スケルトンなので内装工事は自分が探した専門業者に頼 まなければならない。100平米の広さで内装工事は2ヶ月かかった。その間、デザイン から建材の購入まで、また時には現場作業の監視をも自分でやらなければならないの で大変だった。内装工事を全部業者に委託したのだから、本当はそこまでしなくてい いのだが、施工の手抜き、建築材料の品質欠陥などがとても心配なのでそうするしか なかった。ところが、住み始めてから1年もたたないうちに、リビングルームの壁や 天井にあちこち裂け目が出てきた。昨年の夏に1回直してもらったが、今年もまた同 じようなことが起きた。その業者に何度か連絡した末、やっと先週1人の作業員を派 遣して直してくれた。2年間の保証期間があるから、お金が要らなくてよかったが、 室内の工事なので家具やフローリングは結構汚れてしまった。もちろん、掃除や整理 などの仕事はその作業員とは「無関係」で、家内と二人で片付けるしかなかった。   とは言っても、いまの住まいには、かなり満足している。近年、中国では住宅の品質 についての苦情が多くなっている。地盤沈下、壁破裂、雨漏り、水道管破裂、材質の 欠陥・手抜きのような欠陥住宅問題がよく報道されている。それに比べると、うち は、内装には問題があるものの、建物自体は粗悪な住宅ではないようだ。   そして、この住まいは職場に近いだけではなく、部屋の広さ、周りの環境、また購入 の値段などから考えても悪くないと思う。最近発表された「2005年城鎮部屋概況統計 公報」によると、上海の一人当たり住宅建築面積は33平米で全国第二の高さに達し ており、全国平均の26平米をかなり超えている。そして、日本で苦学していた頃の 住まいを思い出すと不満はない。また、購入金額についてもそうである。近年、中国 はバブル気味で、全国的に不動産ブームが起きている。その結果、上海をはじめ、各 地の住宅価格が急速に上昇している。自宅の値段を例にすると、もともと市場価格よ り低く購入したものの、わずか三年間で倍近く値上げした。上昇した分は少なくとも 7-8年分の収入に相当するものだ。そう考えると、早く帰国してよかったなあと自己 満足している。   -------------------------- 範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting) 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管 理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に 「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------  
  • 2006.09.16

    SGRA会員の新刊紹介

    ■佐藤東洋士・李 恩民編 「東アジア共同体の可能性:日中関係の再検討」 御茶の水書房 http://www.ochanomizushobo.co.jp/ 2006年7月15日発行 ISBN4-275-00435-3  --------------------------------------   ○「近現代史における日中関係の再検討」国際シンポジウムの記録。アジアの双璧として地域統合に多大の貢献をなしうる力を備えている日本と中国は、負の遺産として残された「過去」をどのように克服していくか、東アジア共同体の構築の上での最も重要な課題に挑む。   ○目次 第1部 日中関係の再検討:近代史の視点から (黄自進、横山宏章、邢麗荃、服部龍二、聞黎明、植田渥雄) 第2部 日中関係の再検討:戦後史の視点から (宋志勇、大澤武司、松金公正、Unryu Suganuma、大崎雄二) 第3部 日中関係の再検討:教育文化の視点から (小崎眞、太田哲男、町田隆吉、光田明正、石之瑜) 第4部 日中関係と未来の東アジア共同体 (佐藤考一、天児慧、Quansheng Zhao、John N. Hawkins、Gilbert Rozman、Kent E. Calder、川西重忠) 第5部 キャリ外交官・実務経験者の回顧と分析 (白西紳一郎、王泰平、中江要介、田島高志、今西淳子)   ○李 恩民 ( LI Enmin り・えんみん) 1983年中国山西師範大学歴史学系卒業。1996年南開大学にて歴史学博士号取得。1999年一橋大学にて博士(社会学)の学位取得。南開大学歴史学系専任講師・宇都宮大学国際学部外国人教師などを経て、現在桜美林大学国際学部助教授、SGRA研究員。著書に『中日民間経済外交』(北京:人民出版社1997年刊)、『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房、2001年刊、大平正芳記念賞受賞)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』(御茶の水書房、2005年刊)など多数。現在、日本学術振興会科研費プロジェクト「戦後日台民間経済交渉」研究中。   -------------------------------------------------------- ■徐 向東著 「中国で『売れる会社』は世界で売れる!日本企業はなぜ中国で勝てないのか」 徳間書店 http://www.tokuma.jp/ 2006年8月31日発行 ISBN4-19-862207-8 --------------------------------------------------------   ○サムスンの経営者は「これからの数年間、中国で勝たなければ世界で勝てない」と口癖のように言う。これこそがサムスンの中国戦略のベースになっている。(中略)現に、中国の携帯電話市場でトップ3のシェアをもつノキア、サムスン、モトローラは世界市場でも同様の地位にある。そして中国で売れない日本の携帯電話は、世界でも売れてないのだ。(中略)技術力だけでは世界市場で勝てないことをまず肝に銘じておくべきだろう。(「はじめに」より)   ○目次 はじめに 日本企業はなぜ中国でサムスンに負けたのか 第一章 「新中間層」が牽引する巨大消費市場 第二章 「新中間層」を取り込むマーケティング戦略 第三章 「新中間層」の心をつかむブランディング戦略 第四章 「新中間層」が踊る都市経済圏   ○書評(前野晴男):中国に進出した日本企業の中には思い通りの成果が上がらず苦戦している企業も多い。本書はこうした企業がいかに行動するべきかのポイントが記されており、現在独走中の韓国やヨーロッパの企業について解説されている。派手な広告とベタな人海戦術のマーケットにいかに進出してゆくか。その答えは一個百円から一箱数万円もする豪華月餅の行方に隠されている。(以下は下記URLをご覧ください) http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2437104/detail   ○徐 向東(Xu Xiangdong /じょ・こうとう):中国大連生まれ。北京外国大学、北京日本学研究センター(修士課程)、北京外国語大学専任講師などを経て、1996年に立教大学博士課程に留学し、博士(社会学)学位取得。日本労働研究機構情報研究員、中央大学兼任講師、日経リサーチ主任研究員を経て、現在キャストコンサルティング代表取締役社長。専修大学兼任講師。SGRA「人的資源と技術移転」研究チームチーフ。日経リサーチ時代から、中国での市場調査やマーケティング戦略のコンサルティングに従事。2003年2月17日日経新聞経済教室に「中国<新中間層>の台頭」を発表。消費市場としての中国新中間層への注目を日本で初めて提起。  
  • 2006.09.12

    エッセイ004:オリガ・ホメンコ 「国々人々を変えるサッカー」

    6月にドイツのワールドカップに仕事で行く機会があった。ドイツは初めてではなかったが、今回の旅は特別の高揚感を持って出発した。ワールドカップは4年に1度しかない世界的なイベントで、その期間は、サッカーにそれほどの関心のなかった一般人までを巻き込むことを私は知っていたし、その雰囲気を私も味わってみたかったからだ。   まず町中ですぐに気づいたのは、商売上の工夫や努力だった。サッカー関係の様々なグッズを、ワールドカップの流れの真っ只中にいるトレンディーな市民たちが先を争うように身に着けている。参加国の旗の色をデザインした下着まで売っていた。「外からは見えなくても、その下着を身につけて、心から応援しなさい」というメーカーからのメッセージだったかもしれない。その話をウクライナの友達にすると、「女性にとってはそれだけではないでしょうね。1カ月以上も続くワールドカップの間、男性たちはサッカーに夢中でガールフレンドにも無関心になるから、恋人の注目を引くために下着もサッカーのモチーフにしてくれたのかもね」と笑いながら教えてくれた。   レストランも知恵を絞っている。ティッシュにサッカフィールドの絵を入れたり、サッカーゲームの記録を書けるように、フォークとナイフを包むナプキンにスコアを付けたりしていた。家ではなく、外のレストランやパブで試合を見て「盛り上がる」人が多いことを正しく予想していたわけだ。   私がドイツ行きを楽しみにしたのは、サッカーの伝統があり、フランツ・ベッケンバウワーやオリバー・カーンの国がホスト国になるととても盛り上がるだろうと期待したためだけでなく、これまでのワールドカップの歴史を見ると、サッカーは国民を仲良くさせ、自分の民族の「アイデンティティ」を強く実感させることになり、さらに勝利すれば、一般の国民にも大きな自信を付けるということを聞いていたからだ。16年前にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一されたが、合併後の西と東にはなお経済格差がある現実に対して、世界のメディアは今回のワールドカップの試合がドイツの各地で行われることの効果に注目していた。   私は、いくつかのスタジアムを見て回ったが、東西ドイツの両方に新しいスタジアムが建設されたり、古いものを修復したり、ドイツが建設ラッシュに沸いたことが想像でき、経済効果があったに違いないと思った。また、誰もが知っているが、誰も口に出さなかったドイツ人のコンプレックスはサッカーのおかげで発散することができたように思えた。それは、第二次大戦後の長い間、ドイツの学校で採られた教育方針で、「ドイツ人である」という誇りを持ってはいけない、しかも人の前でそれを表してはいけない、戦時中の犯罪行為を戦後のドイツ国民は皆で反省し、償いを果たすべき、と教え続けてきたことである。この話はドイツ人の30歳代の友人から聞いたものだった。一方日本の友達からも類似の話を聞いたことがあるが、それは戦後すぐから1950年代の頃の話だった。ドイツではいかに長期にわたり償い続けてきたかがわかる。   だが、今回のワールドカップでドイツ代表は勝ち抜いて3位に入賞した。応援しているドイツ国民も、初めて、遠慮せずに、自分はドイツ人であるという誇りを持って応援していた。また、国民としてのアイデンティティを改めて確かめることができた。あの時ドイツにいた人は皆それを感じた。毎日ドイツ代表のユニフォームを着て人々は会場に現れたし、会社に出かける姿もあった。ドイツ首相のメリケル氏もインタビューでそのような発言をした。   サッカーで国民意識が高まることは、日韓共催のワールドカップで韓国の国民意識が強くなるという現象があったし、今回のドイツでも証明された。そして我が国ウクライナも同様であった。ウクライナは今回が初出場で国民はとても盛り上がっていた。ワールドカップが引き金になって子供達がサッカーを始めるというのはよく聞く話だが、子供にも国民意識を植え付け、高揚させるとは予測していなかった。ワールドカップの仕事が終わってウクライナに帰った日に、久しぶりに自宅でゆっくり半日かけて洗濯をした。洗濯物を干そうとバルコニーに出ると、外で誰かが歌っている声が聞こえた。   ウクライナの国歌だった。驚いて下を眺めると、マンションの前の公園で小学生の男の子が5人、走りながら大声でウクライナの国歌を歌っていた。驚いた。子供たちが街で子供の歌を歌うことはあるが、普通、国歌は歌わない。しかもその5人は最後までそれを歌い終えたので、とても感動した。これはすごいことだと思った。初めてサッカーの国際舞台に登場したウクライナ代表のプレーを大人も子供も見守り、国歌を歌う場面でサッカー選手とともに感動を味わったのだ。   ウクライナの国歌は19世紀半ばに作られた。「ウクライナは滅びず」というタイトルは可笑しく聞こえるかも知れないが、ウクライナが、ポーランドやロシア、ソ連邦から長い間独立できなかった歴史を示している。15年前に独立を果たしたウクライナがこの歌を国歌にしたことは国民の悲願と言えよう。家の前で「ウクライナは滅びず」と歌っている子供たちに、サッカーであろうが何であろうが「まだまだ滅びないよ」と私も感動しながら応えた。   -------------------------- オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。現在、キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 -------------------------- 
  • 2006.09.08

    エッセイ003:マックス・マキト「老後を楽しみにしようよ」

    2006年4月13日、農霧の東京湾でフィリピンの貨物船イースタン・チャレンジャーが日本の貨物船と衝突して沈没した。東アジアの経済大国日本に、僕も大きな夢を抱いてやってきたが、この数年間は先が見えにくく混乱が起きやすいので、果たして無事に着岸できるのかという不安が重く圧しかかっている。日本が大好きで、日本から離れられなかった結果として、多くの日本人と同様に、明るい老後を期待できない状態に陥ってしまったような気がする。   ところが、最近、僕の母国のフィリピンが、灯台のように強い光で導いてくれるかのようになった。「ドンマイ、ドンマイ。引退したらここに住めばいいじゃない」と、母国は僕に話しかける。海外から母国を見ると、また別の側面を発見することができるものだが、どうも日本ではフィリピンのイメージが芳しくない。少なくともテレビから伝わってくるのは、3K、つまり、キツイ、キタナイ、キケンな国というイメージである。正直にいえば、日本に長く居たおかげで、僕自身がそのような考え方に傾きかけていた。しかし、この4年間、SGRAのプロジェクトで毎年3回ぐらいフィリピンの大学と共同研究をおこなったおかげで、今度はまた別の視点から母国を見ることができるようになった。   「キツイ」というよりは「ヤスイ」。フィリピンの一人当たりのGDPは日本に比べてはるかに低いので生活がキツイと考えられるのかもしれないが、フィリピンの物価は日本の4~5分の一と推定されている。例えば、日本で散髪すると、デフレの恩恵をうけた一番安いところでも1000円する。それも、わざわざそういう安い店を探して行かなければならない。しかし、フィリピンでは家の近所に、短くてもスタイルがいい(つまり、丸坊主ではない)床屋があり、散髪の後1分ぐらいマッサージをしてくれて、たったの150円だ。つまり、日本での稼ぎがあれば、フィリピンでは十分に余裕ある生活ができる。   「キタナイ」というよりは「サムクナイ」。南国だから日本の夏みたいにかびが繁殖しやすく、食中毒が起きやすいと思われるかもしれないが、フィリピンの暖かい気候は健康に良い。初めて雪に会ったのは、まだアジア経済研究所が都内にあった頃、当時所属していたフィリピンの研究所との共同研究のために東京に来た時だった。ある朝起きて窓の外を見たら、隣の家の屋根が真っ白だった。すぐに外にでて実際に白くて冷たい粉を触った。雪はとても美しいし、映画でよく見る北国の格好いいファッションも着られるので、毎年冬を楽しみにした。でもそれは日本に滞在してから4~5年目までだ。日本の四季の中で、桜の春と紅葉の秋は最高だが、夏か冬を選べと言われたら、夏のほうがいい。冬は寒いし、心臓が止まりそうな静電気にもよく襲われる。やっぱり、サザン・オールスターズの音楽を満喫できる温暖な気候のほうが僕には合っている。   「キケン」というよりはちょっとした「ボウケン」だ。たしかに、日本は長い間、安全で平和な国だったので、フィリピン人の目からみると、リスク管理が甘くなってしまっている。フィリピンに帰国すると、意図的にリスク管理のスイッチを入れる。しかし、本当にそんなに危ない国かな。次の統計を見てください。危険の最大の象徴ともなりうる「死亡率」という観点からみたら、フィリピンはそれほど命が奪われる国でないことを示唆している。   [死亡率] 国 1970年 1990年 2004年 日本 7 7 8 米国 9 9 8 英国 12 11 10 韓国 9 6 6 タイ 9 6 7 フィリピン 11 7 5 (「死亡率」:1年間に死亡した人を全人口で割り1000をかけた数字) 出所: www.unicef.org   今年の初め、在日フィリピン大使館が、フィリピンでのロングスティ(長期滞在)の説明会を開催した。日本人向けの説明会だったが、オブザーバーとして申し込めたので、僕も参加してみたところ、定員を上回るぐらい大勢の日本人が集まり、配布資料や席が足りないほどだった。   ささやかな力ではあるが、僕は、日本で見つけた宝物をいかして、引退後は母国フィリピンで暮らすのを楽しみにしている。日本人の皆さんも、濃霧の中の衝突を避け、一緒に無事に着岸しましょう。いかがですか。   --------------------------  マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。 フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師  --------------------------