SGRAエッセイ

  • 2015.12.03

    エッセイ475:謝 志海「中国の一人っ子政策廃止で思うこと」

    自国を離れて暮らすことは、文化も言葉も違うので容易ではない。しかし良い面もある。それは自分の国を客観的に見ることができるという点である。先日中国が一人っ子政策を中止した。日本の新聞、テレビでもトップニュースで取り上げていた。そして思い出した。中国人留学生としてはじめて海外(日本)で暮らし、日本人や様々な国籍の人と触れ合いはじめた頃のことを。中国がしている政府による人口のコントロールを、はじめて彼らと一緒に客観視することができたのだ。外国人にとってこの政策がどれほど異質に映るのかと気付くのに、正直少し時間がかかった。   私の場合、一人っ子政策がすでに履行されていた80年代前半に生まれたので、周りが一人っ子であることに違和感も疑問もなかった。実際のところ、自分の国、中国が世界で唯一、一人っ子政策をとっているという意識すらなかったのだ。中国以外の国では家族計画は個人の意思で決めることができる。こんな大きな違いを、さして気にもせずにいたとは。これは何というか、今思えば恥ずかしいような気分だ。留学生時代は時間があれば、日本語や英語で書かれた一人っ子政策に関しての書物や記事をたくさん読んだ。   驚くべきことに、英語の言説は、一人っ子政策にともなう中絶の増加や、男性が多く女性が少ないという性別のバランスを欠く結果となった中国社会を痛烈に批判し、一人っ子政策が失敗だったとまで言い切っている。特に妊娠中絶の強制を深刻な人権の侵害であるとし、すぐに止めるべきだとの声も多い。さらに驚いたことは、これらはヨーロッパやアメリカ在住の中国人によって書かれたものが多かったことである。私には、まだその頃、自分の国で起きていることを直視し、言葉に書き出す勇気がなかったので驚きもひとしおだった。しかも、それらの英語で書かれていることは誇張ではなく、農村まで出向き取材し、事実に基づいて書かれている。私が住んでいた農村でも予定外に二人目の子どもができてしまった人々の苦悩をよく耳にしたりした。二人目の子を持つ家庭に課せる罰金も決して安くない。本や論文で、中国の一人っ子政策を失敗だったと嘆く中華系学者たちは、中国国外へ出てこの異様な政策に感情を揺さぶられ、研究をはじめたのだろうか?   もちろん中国国内の人口学者も以前から、一人っ子政策を続けることによる労働人口の減少や高齢化を憂慮し、政策変更を訴えてはいた。経済学者たちの中でも、一人っ子政策が高齢化を引き起こし、国が豊かになる前に経済が減速するという見解は多かった。しかし地方都市や農村では、一人っ子政策違反の罰金が地方政府にとっての捨てがたい大きな収入となっていたり、学校などを増やすことの負担への懸念などで、対応は遅れていた。そうこうするうちに、都市部では一人の子に教育費等お金をかけて育てるスタイルが定着してしまった。2013年には、夫婦のどちらかが一人っ子なら、二人目を持つことを認められた。しかし、こちらは人口増加にさして変化が見られなかったようだ。たった2年で一人っ子を完全に廃止したことが答えだろう。   中国国内では一人っ子政策廃止のニュースを遅すぎたと冷ややかに受け止められている。我々80、90年代生まれは唯一の一人っ子世代となってしまった。これまで罰金を払った多くの人にとっても、今さらという感じだろう。ジャパンタイムズの2015年11月6日付、裴敏欣(Minxin Pei)氏の記事の最後の段落に「単純に、一人っ子政策が二人っ子政策になっただけ」とある。そう、あくまでも二人までという制限。一人っ子政策の廃止は国民に自由をもたらすものではないのだ。世界最大の人口国、中国の今後の動向を引き続き世界が固唾を呑んで見守るだろう。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2015年11月26日配信    
  • 2015.11.12

    エッセイ474:アブディン、モハメド オマル「2015年スーダン総選挙・大統領選挙からアフリカでの選挙の意義を問い直す」

    調査期間:2015年2月4日から3月26日 調査地:スーダン共和国ハルツーム   今回は、2015年4月に実施されたスーダン総選挙、大統領選挙に向けた各勢力の動員戦略に焦点を当てることが調査の大きな目的であった。特に、選挙キャンペーンの状況と各種政党のマニフェスト分析を調査対象の中心とした。選挙キャンペーンが始まる前、2月4日にスーダンへ渡航した。選挙キャンペーンが始まる2月中旬に向けて、毎日の新聞チェック、ラジオ、テレビのニュースや討論番組の視聴が欠かせなかった。さらに、政治家、研究者、ジャーナリストなどへのインタビューも重要な調査活動の一つであった。   しかし、私が調査地であるハルツームに到着すると、主要な野党の選挙ボイコットが確実となってしまっていた。調査する身として、何のために来たのかなと失望を覚えたが、念のためそのまま続けることにした。   まず、スーダン政治に詳しい研究者、ジャーナリスト、および若者への非公式なインタビューを通じて、今回の選挙の意義を問うことができた。しかし、5年前の2010年の選挙と比べて、インタビューの対象者は、匿名での取材を希望したり、慎重に発言したりしていると感じた。それは、政権が選挙キャンペーンに合わせて、締め付けをし始めたからである。   さらに、選挙キャンペーンの観察を通じて、与党の政治動員戦略に関する情報を手に入れることができ、それを分析して、現在論文にまとめる作業をしている。   さて、野党が不在ならば、はたして選挙キャンペーンの分析は意味のあることだろうか。最初はそう思ったが、野党の不在が、逆に現政権にとって思いがけぬ形で負の影を落としたといえる。   ◇選挙の正当性   特定の候補者の支持者が車列を作ってクラクションを鳴らしながら、候補者の宣伝をする姿は、過去に実施された複数政党制選挙の特徴だったともいえるが、今回の選挙においては、このような華やかなパフォーマンスが確認できなかった。選挙キャンペーンも、街頭演説もほぼ確認できなかった。   さらに、私が20名程の有権者に対して「投票する?」と聴いたところ、投票に行くという有権者は1名にとどまった。   以上のことから、今回の選挙が正当性を得られなかった原因は二つあると考えられる。一つ目は、2010年4月の選挙に勝利して大統領に再選されたバシール大統領は、2015年の大統領選挙に立候補しないと国民に約束したにも関わらず、2014年10月に、「国民の声に応えるよう、再度立候補する」ことを発表した。そのことが、国民の間でバシールへの信頼性に大きなダメージを与えたと考えられる。   二つ目は、2011年7月の南スーダン独立以後に、石油収入の激減の結果、スーダンの人々の暮らしが逼迫して、政府に対する不満が、若者を選挙ボイコットへと導いたといえる   ◇分裂の危機   今回の調査の間、発行される新聞の選挙報道を毎日チェックしていたが、そこで以下のようなことがわかった。   野党の完全ボイコットが、政権党である国民会議党(NCP)内の足並みがそろっていない現実を露呈した。党内の意見の衝突がもっとも明らかになったのが、NCPの州知事の任命を巡るグループ間の意見の不一致である。   そもそも、2005年に制定された暫定憲法において、州知事は直接選挙で州民によって選ばれることになっていたが、NCPの州支部が党本部に推薦する候補者は、必ずしも党本部が予定していた候補者とは一致していなかった。州支部の推薦を受け入れれば、その分地元志向の強い知事が誕生してしまう。党本部の支持に完全には従わないことが党本部にとって懸念材料の一つであった。一方では、党本部が、別の立候補者を公認してしまうと、選挙における州支部のサポートを得られず、NCPの候補者が落選する可能性が高まるので、党本部は厳しい選択肢を迫られていた。   実際に、2010年の選挙以降、NCPの党本部の支持に背く州知事が多くあらわれ、大統領が憲法に反する形で知事を更迭したり、州の再編を行ったりして、党本部の考えに近い人物を、更迭した知事の後に据えるケースが紅海州、ゲジラ州、および、ダルフールの三つの州で見られた。   2015年選挙に先立ち、NCPが大多数派を占める連邦議会が、これまでに選挙で選ばれた知事を大統領任命制に選挙法を変更したことが、NCPの本部と地方との不和を物語っている。   ◇選挙の結果   私は3月中に調査を終えて日本に帰ってきたが、4月中旬に実施された選挙は案の定、バシール大統領の94%の支持率による再選と、NCPとともに与党を形成していた小政党の連合の圧勝に終わった。投票率は46%と選挙管理委員会が発表したが、この数字は多くの専門家によって疑問視されている。   ◇終わりに   選挙の意義は、国民の真意を問うことであるが、近年アフリカ各地でも見られるように、現職による選挙プロセスの操作、不正、野党政治家への暴力が、選挙本来の意義に大きな疑問を投げかけている。スーダンの選挙キャンペーンを通じて、ここでも、同じ傾向がみられたことを報告する。民意を反映しない選挙は、税金の無駄遣いだけといっても過言ではないが、このような選挙の結果でも、結局、国際社会は容認している。そのことは、現職による選挙操作に拍車をかけている。もう一度、アフリカにおける選挙の意義を問い直す必要が出てきているように思う。今後とも、学術雑誌において、積極的に論文を発表していきたいと思う。     <アブディン モハメド オマル Mohamed Omer Abdin> 1978年、スーダン(ハルツーム)生まれ。2007年、東京外国語大学外国語学部日本課程を卒業。2009年に同大学院の平和構築紛争予防修士プログラムを終了。2014年9月に、同大学の大学院総合国際学研究科博士後期課程を終了し、博士号を取得。2014年10月1日より、東京外国語大学で特任助教を務める。特定非営利活動法人スーダン障碍者教育支援の会副代表。   *本エッセイは、渥美国際交流財団の海外学会参加等奨学金の報告書としてご提出いただいたものですが、執筆者の了解を得てかわらばんで配信します。     2015年11月12日配信
  • 2015.11.05

    エッセイ473:謝 志海「アメリカに見るスピード感:同性婚の容認」

    アメリカ連邦最高裁判所は2015年6月に同性間による結婚を認めた。すなわち同性婚は全米50州と首都ワシントンで合法となった。この判決は、アメリカだけでなく、世界中で大きな反響を呼び、ソーシャルネットワーク(SNS)上ではLGBT(性的少数者)の象徴である虹色を自身のプロフィール写真にスクリーンカラーとしてのせる人がたくさん現れた。ホワイトハウスが虹色にライトアップされた写真も同性婚容認のニュースと共に世界中に配信された。この写真を見て、私は米国民と政府の距離に親しみを感じた。法の改正をホワイトハウスそのもので表わす。国民にとってとても伝わりやすい。このような光景を日本や中国で見られる日はいつ来るだろう。アメリカの多様性の受け皿の大きさを痛感する。アメリカという国を少しうらやましく思う。そしてこの判決は単に同性婚が認められたという一つの事実以上にたくさんの事を教えてくれる。   まず始めに、この同性婚容認で一番感心したのは、アメリカ政府が世論の急速な変化に対応したというスピード感だ。2004年にマサチューセッツ州で初めて同性婚が認められたが、保守的な州では根強く同性婚禁止が制定されていて、後が続かなかったイメージだったのに。単にオバマ大統領が同性婚の支持を表明したからというだけではない。何かもっと大きな目に見えないものに動かされた判決のような気がする。先述の通り世論の変化だ。   アメリカではドラマの中でLGBT役の人物がよく登場する。大抵はそのドラマを面白くするキーパーソンとして、まるで自分の周りにもこういう友達がいればいいなと思わせるキャラクターが多い。主役でも悪者役でもなく、物語に自然に溶け込んでいる。ドラマの中ではLGBTが「普通」に存在している。日本や中国のドラマを観ていても遭遇しない登場人物達だ。また実生活でも俳優に限らず有名人がLGBTであることをカミングアウトしている。勇気ある行動だと思う。このようにアメリカでは法で認められるよりずっと前からLGBTの存在が大きくなってきている。政府がその「普通」な存在を見逃さなかったことは、LGBTの人に限らず、アメリカ国民にとって大きな意味があるのではないだろうか。   もちろんアメリカが同性婚容認に傾いたのはメディアや有名人のカミングアウトだけでない。アメリカの大企業が同性愛者をはじめ人種差別などの社会問題に関わりはじめたことが大きい。今年3月の最高裁に提出した意見書には379の企業・団体が名を連ね、国際的有名企業も含まれている。同性婚容認は、大手企業の(社会問題に関わろうという)姿勢の変化が政府にちゃんと届くのだ、ということを証明したとも言えるのではないだろうか。もちろん、企業はあらゆる層の顧客を獲得しなければならないし、政治家は票が欲しいから同性愛者を支持するまでだという見方もできる。一理はあるだろうが、企業が世の中の変化に対応して、社会問題を経営のテーマに取り込むことは、利益ばかり追うだけよりもずっとよいことではないだろうか。   経済学や政治学というサブジェクトにとどまらず、それらに同性愛者、人種差別、男女の賃金格差等の社会問題が含まれることは、広い視野で物事をとらえるチャンスであり、今の時代には必要なことだろう。日本版ニューズウィークの2015年7月14号によると、実際のところ、アップルやウォルマート(米国小売最大手)のような大企業はできるだけ多様な人材を雇い、消費者の変化に対応しようとしているそうだ。大手企業が始めると世の中のトレンドになってゆくので影響は大きい。従業員を雇う際、人種どころか同性愛者を差別していては優秀な人材を見逃すかもしれない。その優秀な人材がオープンな社風の他社に採用されてしまったら?世の中の変化に敏感になっておくことは経営のリスクを避けることができるのだ。同性婚支持の意見書に署名した企業の一つであるゼネラル・エレクトリック(GE)のCEOジェフ・イメルト氏は(LGBTについて)「ビジネスの観点で言えば、ダイバーシティは競争力であり、文化そのもの」と言う(日経ビジネス_2015年8月24日号より)。   もう一つ、アメリカらしいエピソードとして、政治家と国民の距離が近いと感じた瞬間を紹介したい。日本経済新聞2015年8月4日の記事「同性婚容認_米の変化」の中に、同性愛を公言する人が増えたことも世論に大きな影響を与えたとして、例を挙げている。同性婚禁止派のブッシュ政権時代のチェイニー元副大統領は、次女が12年に女性パートナーと結婚し、容認派に変わった。オバマ氏が同性婚支持を表明した理由も、娘からの抗議がきっかけ。娘の友人の両親が同性カップルで、「(同性婚禁止は)納得できない」と娘に言われたのだという。このような政治家、ましてや現職の大統領の私生活からのエピソードがアメリカ国民どころか、海を越えて日本の新聞にまで掲載されるとは。日本や中国の国民にとっては、首相や国家主席のプライベートな部分は知る由もないのだが。   世論の変化のスピードに国が追いつき、国を変える。日本や中国では国民の声が政治家に届くと国民が実感できるのはいつになるだろう。大国ゆえ解決すべき問題が山積みのアメリカ。同性婚が全州で合法にはなったものの、アメリカは州や裁判所の管轄区によって政令が違うので、LGBTに対する結婚以外の差別、例えば住居、雇用については完全に平等とはまだ言えない。引き続き、州や地方レベルで平等への戦いは続く。同性婚容認の流れに乗って、引き続き市民の声を吸い上げて欲しい。そしてそのムーブメントが今後アジアに影響を与えるようになるといい。   <謝 志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2015年11月5日配信  
  • 2015.10.29

    エッセイ472:金 銀惠「飯舘村、再生のジレンマを乗り越えて」

    1.日本研究者として福島にどう向き合うべきか。   震災から4年半、SGRAふくしまスタディツアーも4回目になりました。   私は、2011年の渥美奨学生として、東北大震災以降の、日本国内外での大混乱を生々しく経験しました。それは、一生忘れられない経験でした。その年、「石巻の炊き出し」にも参加して、震災地の住民たちの力になりたいという気持ちも少しは晴れました。一方で「福島原発事故」には、如何なる形で向き合うべきかと悩みましたが、その頃は、直後の事故収束で緊迫していて、「再生」は、まだ私の心には響かない言葉でした。   私は、帰国して博士号を取得した後、「グローバリゼーション時代の東アジア都市の危機と転換」というテーマの研究チームで、共存とサステナビリティが可能な東アジアの都市を模索しています。勿論、他の日本研究にも関りながら、原発が生み出す「危険景観(Riskscape)」を巡る北東アジア(日本・中国・台湾・韓国)での対応や変化を分析しています。特に、私は、「福島原発事故以後、日本市民社会の変化と模索」の研究に集中しています。   2.2014年冬、 パイロットスタディ   私は、去年(2014年)12月に、初めて飯舘村を訪ねました。それまでも「福島の対応」に関心を持ちながら、マスコミ報道や資料を読み続けていました。だが、自分が現地で目の当たりにしたフレコンバックのピラミッドは、言葉に尽くせない凄まじい光景でした。2日間の訪問の中で「ふくしま再生の会」の田尾陽一さんが、最初の飯舘村民との出会いから、NPO法人に至るまでの経緯を詳しく説明してくれ、菅野宗夫さんは、事故直後の混乱から抜け出して、再生に向かう決意を語ってくれました。   何よりも私にとって印象的だったのは「科学技術への信頼回復」のために、被災した農民とボランティアと科学者が共同作業をする姿勢でした。   「反原発・脱原発」という言葉をよく使いますが、実際、現場で住民と手を組んで、一歩ずつ踏み出す団体は数少ないのが現実です。目に見えない放射能だからこそ、科学技術との連携が必ず必要です。その点で「ふくしま再生の会」は、世界最先端の科学技術者の集まりではないかと思いました。   その夜の交流会では、工学と農学・林学の研究者、そしてボランティアの方々が一緒に、原発事故の原因、事故収束などについて、激論が続きました。人災に近い原発事故。そこから立ち上がるため、農民の知恵と多様な専門の融合の中から生まれ出たアイディアを少しずつ実験して、そのプロセスや結果を世界に発信するという考えに、私も共感しました。特に、「農学(農業)の力で福島を再生したい」という熱い思いに感動し、自然の再生を生かす科学こそが、人を生かす学問になると思いました。雪が積もった寒い朝、管野さんの奥さんの千恵子さんから暖かい靴下を貰って、明大農学部が設置した「ビニールハウスでの作業」を手伝いしなら、「農学に才能がある」と褒められて、再生のための実験に少しでも力になりたいと思いました。   3.2015年秋、再参加と協働作業   今回のスタディツアーには、渥美財団の仲間や関係者など国籍や分野、性別も世代も多様なメンバー達と共に参加しました。ツアーの2週間前に「豪雨のニュース」を聞いて本当に心配でした。「再生の会」からのメールでは、「再生の会」の拠点である菅野宗夫さんのお宅の周りの道路は破壊され、実験用ビニールハウスから収穫前の田んぼまでが被害を受けたことも伝えられました。実際、行ってみたら、道路やビニールハウスは復旧されていましたが、力を注いだ田んぼの1/5位の稲は、降雨で倒れてしまっていました。   2日目の協働作業体験は、その倒れた稲を起しながらの稲刈り作業と収穫の祭でした。   慣れない農作業の途中、周りで落穂拾いをしている二人に出会いました。将来飯舘村長の夢を持つ若い世代の代表、佐藤聡太君は、不安や期待が交差しながらも、飯舘村の再生に熱い抱負を語ってくれました。もう一人は、千葉からのボランティアの方で、今回が2年目の「稲刈りへの参加」で、落穂をお宅に飾って「福島の再生」を祈念していると話してくれました。   正直、昨年初めて参加した時には、「再生」という言葉自体に大きな疑問もありましたが、今回は「再生の力は、人の力だ」と強く感じました。   「イネ(畑作)試験栽培」の田んぼの稲刈り作業の中で、「コオロギ、ミミズ、オケラ、お腹が赤いイモリ」まで生きていて、「こんなに多様な生き物の居場所でもあった」と日本語の名前や子供の頃の思い出なども話し合いました。「生命の居場所としての土地」を再生することが、本当の再生の第一歩だと再確認した瞬間でした。しかし、向こうの田んぼにはびこる雑草を除去する作業からは、一日中凄い音が聞こえていました。骨の折れる除染作業、私が出会った政府から派遣されている作業員も、みんな若者でした。こうした厳しい労働を「再生の喜び」と結び付ける政策は本当にないのかと思いました。   4. 厳しい現状を乗り越えて   しかし、「再生の念願」を無駄にしないためにも、幾つかの矛盾を考えたいと思います。 まず、直接に測ってみても「放射線量」はまだまだ高くて、場所や条件別に相当の差があり、その実態を乗り越える除染方法を政策に転換する制度改革が切実に求められているのです。東京に戻る新幹線の中ではTPPの交渉で、日本の都市消費者は、海外から安い食糧を輸入出来ることに喜んでいるというニュースが流れていました。   日本政府の無理な帰還政策だけではなく、厳しい現状に囲まれた「福島農業と住民に本当に役に立つ帰還政策の中身は何か」、「帰還した他の地域の問題(高齢者中心、訴訟など)と、飯舘村の帰還は、どのくらいの差別性をみせるのか」などを議論する必要があると思います。   最後に、国土面積に比べて世界で一番密集した「韓国の原発」、30km圏域だけで300万以上の人口が住んでいることを思い出しました。現在の日本が原発事故以降直面した厳しい現実から、挑戦しつつある科学的・社会的な実験をどのように活かすか、これからも飯舘村の再生の道に注目すべきだと思いました。     英語版はこちら --------------------------------------------------------------------------------------------------------- <金銀惠(きむ・うね)KIM Eun-hye> 韓国全州出身。ソウル在住。2013年に韓国ソウル大学社会学科より博士号(社会学)取得。専門分野は、都市・文化・日本社会学(メガイベント・世界都市論・開発主義)。現在、ソウル大学アジア研究所、SSK東アジア都市研究団選任研究員。最近は、東アジア都市の比較研究を発展させ、都市の危機を新しい転換の機会として模索している。SGRA会員。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------     2015年10月29日配信
  • 2015.10.22

    エッセイ471:外岡 豊「JIフォーラム『戦後70年Ⅱ:歴史記憶と歴史認識を考える』に参加して」

    SGRAと関係が深い2名の講師、木宮正史氏(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授、韓国政治史)と劉傑氏(早稲田大学社会科学総合学術院教授、近代日中関係史)を招いて、構想日本代表の加藤秀樹氏がコーディネータを務めたJIフォーラムに参加した。 私は、フォーラムの最後の質疑応答の時に、劉傑氏の言う公共知の構築による国民的和解をネット上のプラットフォームを作って推進すべきであるという意見を述べたが、その後の交流親睦会において自分の発言が意に反して逆の意味にとられかねないことが判明したので訂正しておきたい。 東アジアの歴史を概観すると、中国ではアヘン戦争以来の混乱があり、韓国では朝鮮戦争で南北に分断されたままの異常事態が続いており、日本は明治維新以来、日清、日露、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続き、敗戦になったが、それらの社会的混乱はすべて欧米列強の植民地支配をねらった進出がもとになっている。 台湾、韓国、満州での異民族地域支配を決して正当化できるものではないが、日本はペリーの黒船来航以来、欧米人の東アジアへの進出に対して、アジア人として対抗する必要があり、侵略戦争とされている度重なる戦争も、各地への進出も(少なくとも初心においては)アジアを守るための戦いであったと、はっきり主張すべきであるとの意見も根強い。 日本における戦後の歴史教育はアメリカに都合のよいように仕向けられて、すべて侵略戦争だとして説明され、それが日本人に自虐史観を植え付けてきたという説もある。これは敗戦後、アメリカ占領軍がかつての日本人の団結力を恐れ、日本が再び好戦的な国として立ち上がることがないように、民族の誇りを持たせないように、ゆがんだ歴史教育を強いて、それが今も続いているのだ、という。世界の世論調査で国際比較すると日本の若者は愛国心が薄弱、親を尊敬しない、自分に自信がない点において先進国中突出しているというが、これはアメリカの占領後の対日戦略の結果だとされ、こうした現状を打破して日本人の誇りを取り戻そうとする活動も最近活発化しているようである。私は積極分子ではないが、いろいろな考え方の人がいることを知るために、この数年その手の勉強会にも参加している。 歴史は常に時の為政者に都合の良いように書かれるものだとされるが、それでは国民感情としての歴史認識問題は解決できない。劉傑氏の提案のようなアジアの公共知としての歴史を構築するには、そのための客観的な、各国政治に影響されない共通歴史資料の蓄積が必要である。残念ながら日本人は歴史基礎知識が不足していて、近隣諸国占領の歴史を知らない人も多く、まして占領支配された側の苦しみを実感できるような知識も情報も不足している。 政府はどうしても政権に都合のよい歴史を国民に押し付け、外国にも主張しようとするが、現在のネット社会では政府とは無関係な市民間情報の共有ができるので、国境を越えた客観的な歴史資料を公共知の基礎として市民が構築すべきである。矛盾する様々な説があるだろうが、それらを互いに客観的な根拠を添えて主張し、誰にもわかりやすく説明し、その基礎知識を提供する役割が歴史学者に求められている。各国市民はそれらを見て、政府発表とは違う諸説があることや、各国に様々な見方があることを知り、それらを総合した客観的な認識を得ることによって、政府の歴史観のもとに市民間で対立していても意味がないことと実感し、自然にわだかまりが解けるような効果を期待したい。 一方、歴史認識問題を含め政府間の対立を解決するのは外交官の仕事であり、最近、日中韓でそれがうまくいっていない現実は、各国ともに外交官の交渉能力が低下しているのではないかと懸念される。 毛沢東は「存在が意識を決定する」と言い、政治に関与する者は各階層(特に貧農下層中農)の人民の立場に立って考えよと説いたが、それは、意識しないと、とかく自分の立場の限られた視点だけでものを考えてしまいがちだという指摘である。支配される側の他国民の立場や感情を日本人が想像することは難しい。 このことが念頭にあったので、発言の中で、「日本人は植民地にされた経験がないので韓国、中国、台湾の非支配者の立場を理解しがたい」と言ったが、無頓着な態度を反省なく肯定しているかのように受け止められかねない言い方であったと後から気が付いた。 それは講演後の懇親会で、日本も米軍に占領支配された経験があるではないか、と言われて、その人と話すうちにどうも誤解を招く発言であったようだと思った。確かに沖縄では多くの市民が犠牲になった。本土では爆弾を落とされて市民多数(原爆と東京大空襲だけで30数万人)が死亡したが、長期間の植民地支配を受けたわけではないので、支配された経験がないと言ってしまった。 しかし、考えてみれば、戦後70年の日米関係は、巧妙な支配でいまだ敗戦国から抜け出せていない。70年経っても米軍基地は残り、いつなくなるのか展望もないままである。アメリカはイラクを日本のように柔軟に支配して何でも聞いてくれる国にしたかったのだ、という説も聞いた。日本は隠れ植民地支配されているも同然と言うべきかも知れない。 ローマ法王は現代の企業は人から収奪し環境を傷めつけていると明言している。現在の先進国の企業活動は合法的に巧妙に利益吸収して、1%の富裕層が貧しい99%を支配しているという構図はトマ・ピケティーが指摘している通りであり、金融派生商品の発達や、会社の重役の持ち株の売却に際して、その税制がアメリカでも大きな不平等を生んでいるとの指摘もある。世界的に一部の人が彼らの利益追求のために国家にも影響力を持ち暗躍していて、実はそれが世界各地の紛争をあおっているとするうがった説もある。 世界を支配する一部の人達のあくなき利益追求の下でアジア人同士がいがみあっていても始まらない。共に協力してより多くの収穫が得られるよう努力してきた稲作協働文化社会であり、儒教社会でもある日中韓においては和解しやすい基礎は元来あるはずである。 皆さん御承知のように渥美国際交流財団ではまさに劉先生が提唱する公共知構築に寄与する国際的な研究会を各地で開催してきていることは関係者として誇らしいものである。渥美財団の奨学支援で育った優秀な人材が各地で活躍しており、彼らと共に人の輪を広げて、相互理解を深め、アジアが率先して互恵社会を作り上げて行けるよう、EUに負けないアジア経済社会圏を早く実現できるように期待したい。この勉強会はその一歩となる有意義なものであった。 <外岡豊(とのおか・ゆたか)Yutaka TONOOKA>神奈川県出身 湘南高校卒業、早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院終了、工学博士 埼玉大学大学院人文社会科学研究科教授 早稲田大学招聘研究員、大連理工大学と西安交通大学の客座教授、元Imperial_College、Visiting_Prof. 建築学会地球環境委員会、同倫理委員会委員、低炭素社会推進会議(18団体で今年設立)幹事、森街連携会議代表、エコステージ協会理事、日本都市問題会議世話役他 専門分野は都市環境工学、環境政策、とくにエネルギーと環境のシステム分析 最近は気候変動対策評価研究を発展させて、持続可能社会について考察中 SGRA会員  <参考>JIフォーラム「戦後70年Ⅱ:歴史記憶と歴史認識を考える」共催報告 2015年9月28日、渥美財団評議員の加藤秀樹氏が主宰する構想日本のJIフォーラムを共催した。「事業仕分け」を始め、日本国内の課題について検討することが多い構想日本だが、国際的な課題も議論したいということで共催のお話をいただき、また、SGRAとしても国際的な問題をもっと多くの日本の方に考えていただきたいと思っていることから、このフォーラムが実現した。構想日本は7月に「戦後70年 戦前の昭和期に学ぼう」というフォーラムを開催したので、今回は、同じ時代を中国と朝鮮半島の方からみてみようということで、SGRAを長年応援してくださっている劉傑先生(早稲田大学)と木宮正史先生(東京大学)にお願いし、『戦後70年Ⅱ:歴史記憶と歴史認識を考える』というテーマが決まった。 劉先生は、1972年に毛沢東・周恩来と田中角栄・大平正芳が日中国交正常化した時の親密な写真と、昨年11月に安倍晋三と習近平がよそよそしい顔で握手をしている写真を比べ、日中友好の後退をビジュアルに示した。さらに、政治家だけでなく、両国の意識調査で80%以上の国民が、互いの国を嫌いだと言っていることに言及した。そして、近年中国の学会で歴史の再認識の動きがあることに触れたうえで、この状況を改善するためには、知的レベルの交流を推進し、日本研究においては、戦前も含めた日本の成功と失敗の経験をアジア全体で共有しうる公共知とする必要性を主張した。 木宮先生は、日韓関係は1965年の日韓基本条約で、それ以前の問題をきちんと解決できないまま締結したことが火種になっているが、現在の問題の背景には、垂直から水平へ(日本が旧支配国、経済発展先行国から平等な力関係へ)の日韓関係の変化があること、韓国の多様化、多層化に伴う韓国国内の対立が鮮明化していること、更には、批判を恐れて日本と妥協しにくい状況があることを指摘した。その解決方法として、日本は狭義の歴史問題に積極的に取り組み、一方、韓国は日本の取り組みを認めることで、日韓問題の「歴史問題化」を自制する必要がある、また、共に対中認識、対中政策における接近の可能性を追求すべきだと主張した。 モデレーターの加藤氏から、「歴史問題は、あまり細かいことにこだわらずに、大きく見るようにしたい」という前置きがあったが、両先生のお話はまさに現代史の大きな流れを俯瞰したものだった。アンケートにも「ディスカッションの通り、何が真実か分からず自分の意見が持ちにくいテーマです。こういう機会を増やし、少しでも真実に近づけるように、また個人の意見としてもはっきり言える考えが持てるようにしたい」というコメントがあり、主催者側の望んだ効果があったと思われる。「正義」とか「正しい」がでてくると窮屈になって自由な空間が失われる、外国はわからないが昨今の日本は確実に窮屈になっている、という加藤氏の指摘が印象に残った。当日ご参加くださった方、共催にあたってご協力いただいた方々に御礼を申し上げたい。 (SGRA代表 今西淳子)英語版はこちら 2015年10月22日配信
  • 2015.10.08

    エッセイ470:謝 志海「子どもとスマートフォンの関係性における大人の役割」

    最近の子どもに関する事件は、彼らが所持するスマートフォンが密接に関わっている。夏休み後半には、愛媛県で同級生に暴行を繰り返し、その画像をLINEで拡散した中学生が逮捕されるという事件があった。似たような事件が日々報道されているが、なかなか改善策が見出せずにいる。それは、スマートフォンと共に成長した子どもが大人になった状態を、我々がまだ見ていないからではないか。急速に変化する子どもたちのネット環境により、ネット上でのいじめや、被害者にも加害者にもなりうる犯罪が起きてしまうようになった。   おそらく小中学校の教育現場では最重要課題の一つであろう。しかし、どれだけ学校で先生が注意喚起しても、生徒たちのLINEのネット上でのコミュニティには入れない。また親が子どもに与えるスマートフォンにフィルタリング機能を搭載したとしても、写真や動画のアップロードは防げない。ひとたび画像や動画がネット上にあがって拡散されてしまったら、学校や親はおろか警察さえ完全に削除することはできないだろう。教育現場ではどのように対処しているのだろう。   所変わって、私の出身地である中国でも状況は同じで、子どもとスマートフォンの関係については社会問題になっている。スマートフォンを使ったLINEと同じようなアプリ、「微信」(WeChat)で友達同士いつもつながっていないと気が済まないネット依存症の若者が多い。もちろん大人も便利に使っている。フェイスブック、ツイッターが使えない国だが「微博」(Weibo)なるツイッターと極めて似た機能を持つミニブログ、前出の微信、チャットの「QQ」、ネット上で人とつながり、意見を交換する場はいくらでもある。こうなると中国も世界に負けないネット依存大国だ。そして子どもとスマートフォンの関係性だが、日本と同様、国が定めた法令はないが、各学校が、授業中はスマートフォンを先生に預ける等の対応をとっている。こちらも各学校や、教育機関の手腕が問われるところだ。   日本ではLINE上での仲間外れなど、LINEばかりが目立っているが、LINEに追いつけ追い越せで、次々と新しいアプリが開発されている。最近の学生の間での流行りはスマートフォンで撮った動画をアプリで編集し投稿することだそうだ。インターネットのスピードが早くなり、Wi-Fiへのアクセスが増えたことで、動画は(ファイルのサイズが)重いという問題が払拭された。   先日、青少年育成団体に所属する方々と話す機会があったが、スマートフォンの使用で懸念しているのは、LINEだけではなく、芸能人を起用して派手にテレビコマーシャルを打つオンラインゲーム。これは父兄の方までハマっていることもあり、子どもとゲームを引き離すことが難しく、とても困っているようだ。また、最近トラブルが多いのは、不用品を売る専門のアプリで、18歳以下は使えないなどの制限がかかっていないものがあることが問題だそうだ。すなわち、18歳以下の子どもがアプリを操作し物が売れたら、お金を手にすることが可能になってしまう。次々と開発され便利で楽しい機能満載のアプリ、我々大人の方がついていくのに精一杯で、子どもへどのくらい悪影響を及ぼすのかまで想定しきれていないのが現実かもしれない。   このまま放っておくわけにはいかない子どもとインターネットの関係性。まずは親が現状を知り、家での利用時間の制限などモラル作りをしてあげ、子ども自身が上手にスマートフォンと付き合えるようになるのが理想だろう。   学校側は、父兄へのお願いとして大人のスマートフォン利用、すなわち自身のスマートフォンとの関係をも省みて欲しいとお願いしているそうだ。これは我々にとっても耳の痛い話である。ただ我々はスマートフォンが無かった時代も良く知っているが、今の子どもはそうではないことが問題だ。ネット上での何気ないやりとりが人を傷つける凶器になったり、事件に巻き込まれるなどの恐ろしいものになり得ることを良く理解させ、子どもたちが自分の身は自分で守れるように導いてあげないといけない。     英語版はこちら ---------------------------------------------------------------------------------- <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 ---------------------------------------------------------------------------------- 2015年10月8日配信  
  • 2015.10.01

    エッセイ469:白 智立「方法としての東アジアの日本研究」

    去る7月18日、東アジアの日本研究の第一線で活躍する研究者20名が一堂に会して、SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」が開催された。このフォーラムにお招きいただき、多くの研究者との議論と交流の機会を与えていただいた渥美国際交流財団、早稲田大学東アジア国際関係研究所及び早稲田大学の皆さまに心からお礼を申し上げたい。   このフォーラムでの焦点の一つとして、「方法としての日本研究」が議論された。この「方法としての日本研究」、ことさらに「方法としての『東アジアの』日本研究」について、私の日頃の考えを、ここにエッセイとしてまとめて、このフォーラムの報告に換えさせていただきたい。   「日本研究とは何か?」。日本研究を志す研究者、とりわけ中国や韓国といった東アジアの研究者にとっては、答えることが難しい問いかけである。   私だけでなく、多くの東アジアの日本研究者は、特別な想いやきっかけによって日本研究を志している。この特別な想いやきっかけがあるが故に、単純な学術研究から離れて、日本をとおして自己を見つめ、あるいは自己を再確認、再認識するという内面的、精神的な活動に向かわざるを得ないのである。自国、自民族の歴史や発展、あるいは個人の人生経験などの「自」の要素と重ね合わせ、否応無く自国の歴史・発展過程と向かい合わざるを得ない。   つまり、東アジアの研究者にとって「日本研究」は、あたかも自己や自国の在りようを深層まで映し出す「合わせ鏡」のような、自己や自国との内的な対話の一つの方法=「方法としての日本研究」となるのである。   このような考え方は、言うまでもなく東アジアの近隣という地理的な限定、そして近代以来の歴史の複雑な展開を土台にして生まれたものである。   具体的には、日本は明治時代以降、他の東アジアに先駆けて近代化を達成し、戦争の時期を経て、戦後の平和的発展期から今日に至って、欧米諸国に並ぶ経済・社会の発展を遂げた。     この明治以降の日本の近代化の過程は、今日でもなお、身近な東アジアとの相互関係の上に成り立っている。その意味で、東アジアの日本研究は、日本研究であると同時に、東アジア研究であり東アジア諸国の「自国研究」であり、東アジアの日本研究者は無意識のうちに「方法としての日本研究」を繰り広げているのである。   「方法としての日本研究」は純粋な日本研究ではない、との危惧や批判は当然存在する。しかしながら、一人の研究者、一人の人間として日本という研究対象に向かい合い、自他混合と紙一重となるような思索の緊張を保ち続ける中で、自己の精神を磨き、自己の精神を再形成して行く過程を無価値として見過ごすことはできない。こうした思索の緊張関係と自己省察は、学術的な日本研究以上に、予期せぬ結果が得られると考えられるのである。   方法としての東アジアの日本研究の、自己の精神形成という側面を強調する時、研究者は必然的に、過去の被害者歴史と対面せざるを得ない。すなわち、東アジアの最大の課題である「歴史の和解」そのものに直面せざるを得ないのである。   和解は、謝罪による加害者側の自らの心の救済であると同時に、被害者側の心の救済とならなければならない。このリアルな課題に直面し、その解決を模索する時、方法としての東アジアの日本研究の知的蓄積と研究者個人個人の内面的省察が大きな糧となり手がかりになるのではないだろうか。   東アジアの日本研究者は、自国との相互関係性を視野に入れて思索するため、東アジアの日本研究は東アジア研究にシフトすることになる。これは言うまでもなく、東アジア全体を包み込む視点であり、その思索は、前述の歴史の和解の先の、東アジアの知の共同体、ひいては東アジア共同体へと飛躍して行く。   方法としての東アジアの日本研究は、日本の西欧近代化の所産である。依然近代化の過程にある中国にとっては、今後の自国の近代化の展開を探求する上で、いち早く近代化を達成した日本との対話を重ねて行くことが不可欠である。その意味で、「方法としての日本研究」は未だに現実味を失ってはおらず、今後の東アジア、アジア、世界を考える上で、一層その重要性を増していると言えるであろう。   さらに「資本主義の終焉」が語られる今日、すでに近代化の諸過程を歩み終え、大きな転換点にある日本には、ポスト近代の、新しい文明の創造に向けて邁進することが期待されているからである。   日本研究ないし東アジアの日本研究は、これからも重要性を失うことはないであろう。   しかし、東アジアの日本研究に緊張感を持たせ続けるためには、「方法としての日本研究」をさらに一歩進めた「方法としての東アジア研究」にいかにアプローチするか、が一つのポイントとなる。   「方法としての日本研究」を進化させた「方法としての東アジア研究」を価値あるものとして認めるならば、そして東アジアの知の共同体を指向するのであれば、これまでの無意識的な方法から意識的な方法へと昇華し、さらに精緻化し、体系化し、共有する努力がこれからの東アジアの日本研究者に求められるであろう。   英語版はこちら --------------------------------------------------------------------------------- <白 智立(はく ちりつ)Bai Zhili> 北京大学政府管理学院副教授・北京大学日本研究センター副院長。1997年法政大学博士課程修了。政治学博士。 ---------------------------------------------------------------------------------     第49回SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」報告は、ここからご覧いただけます。   2015年10月1日配信
  • 2015.09.24

    エッセイ468:太田美行「電話ボックス」

    近頃日々困っている。「これでいいのかニッポン」とつぶやきたくなるくらいだ。何かというと公衆電話の話である。携帯電話の普及による公衆電話の減少は著しく、平成14年度の584,162台から25年度には195,514台にまで減っている(出典:総務省『情報通信白書』)。公衆電話が減っているという事は電話ボックスも減っているはずで、ある程度はやむを得まい。しかし私は電話ボックスを減らさないでほしいと思う類の人間だ。いや、それどころか増やしてほしいとすら思っている。それは災害時や高齢者のためだけでなく、もっと現代的な理由からだ。   LINEの利用が増えたとしても電話をかける機会は明らかに増えている。それに伴い、私たちが騒音に対していっそう鈍感になったように思えてならない。街中で、建物の中で、電話はいつでもかかってくるし、またかけてもいる。「電車内での通話はご遠慮下さい」とよく聞くが、では代わりの場所は用意されているのだろうか。騒々しい駅のホームではもちろん無理だ。道の真ん中で? いや端でだってうるさくて無理だろう。街中でなくても、住宅街の道でも、危険はある。今度は静か過ぎるから辺りに話の内容が筒抜けなのだ。電話だと対面の会話と違って声が大きくなるためで、自宅にいて通行人の携帯電話の会話をうるさく感じることもしばしばだ。   では建物の中では? ビルのロビーは音がよく響く。そんな所で何かの予約や、商品の取り置き依頼をしたり(最近は美容院であろうがデパートであろうが、ほぼ確実に「ではお名前をフルネームで仰って下さい」と言われる)、自分の携帯電話の番号やクレームを言ったりはしたくないのである。周囲の人にも迷惑だ。だからといって建物の人気がない所、は危険だ。このご時世、警備員が出てきたりしかねない。そもそも「関係者以外の立ち入りを禁じます」とある中にどうして入ることができよう(入ってるけど)。そんな時こそ電話ボックスは、その秘めたる価値を顕わにする。   騒音は一定程度遮られ、透明で周囲の様子もわかる電話用の個室。そこで電話をしても何ら怪しい事はない。そういう訳で私は公衆電話でなく、携帯電話で話すために電話ボックスをよく利用している。傍から見るとおかしいらしく、道行く人に笑われたこともある。しかしそれが何だというのであろう。電話のための空間で電話をする。何も間違ってはいない。笑う人たちは音のマナーに鈍感なのだ。ああ気の毒に。   昔の映画によく登場する、また今でも高級ホテルのロビーで見かける電話室。そのために電話ボックスを増やしたい。電話ボックス復活は今やマナー改善、ひいては人間尊重につながる大事な手段なのである。   英語版はこちら ------------------------------------------------------------------------------------ <太田美行(おおた・みゆき)>東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通、コンサルティングなどを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著書に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ------------------------------------------------------------------------------------   2015年9月24日配信
  • 2015.09.04

    エッセイ467:謝 志海「ドローンの行く末」

    このところ、世界情勢の様々な事が深刻で、目が離せない。ギリシャ経済危機、テロ組織ISをはじめアジアでは中国の株価暴落、日本は集団的自衛権をめぐる安保法案についてなど。どれもが先の見通しが予見しづらい上に、明日には状況が大きく変わっているかもしれないと思うと、朝、起きてから一日中ニュースを追う事になる日々だ。そしてつくづく感じるのは国際関係、経済、政治、外交など、全てが繋がっているということ。自分の専門分野を超えて研究と分析をし続けなければいけない。   そんな変わりゆく世界情勢を追いかけ整理するのに忙しいさなか、興味深い記事を拾い読みした。ニューズウィーク日本版7月14日号の半ページほどの小さな記事「ドローンが目障りでも撃ち落としちゃダメ」。アメリカでドローンを飛ばしていた人、それを銃で撃ち落とした人の話だ。小型ドローンの普及はおどろくほど速く、それに伴う法整備が追いつかないという。この記事でも自分の実家(米カリフォルニア州)で小型ドローンを飛ばしていたら、隣人にそのドローンを銃で撃たれ墜落したというエピソードから始まる。撃ち落とした人はCIAの監視用ドローンだと思ったのだそうだ。これは訴訟問題に発展し、ドローンを飛ばした人はどうにか損害賠償を勝ち取ったそうだ。   自分の家の上空にドローンが飛来していたら?そのようなことはつい最近まで考える必要はなかったはず。日本の首相官邸の屋根にもドローンが着地していた事件が話題になったことにより、日本でも自分の家の窓を開けたらドローンがいたらどうしよう、と一瞬ではあっても意識する生活がはじまった。そう、これはもうアメリカ上空だけの懸念ではない。前出の記事では、ドローンが他人の敷地を飛行するのは不法侵入に当たるのかどうかについて、この解釈は曖昧になるであろうと懸念している。確かに家と家の間には垣根などの境界があるが、上空何メートルまでを境界とし、どこからを違法とするのかとなると難しい。個別の事例に対処していく課程で法整備は進むだろうとしているが、事例が起こってからではなく、早急に法整備した方が良いのではないかという別のドローンのニュースが飛び込んできた。   このニューズウィークの記事に前後して、なんと銃を発砲するドローンが浮遊している映像がユーチューブ(YouTube)にアップされたというのだ。テレビのニュースによると、そのようなドローンを飛ばしたのはアメリカのまだ10代の大学生だそうだ。利便性や人を危険から守る為に作られたはずのドローンがあらぬ方向へ動き出している。皮肉にも、法整備もままならないうちに世界中に飛び交ってしまっているドローンは、あたかも空に国境はないのだよと言っているようだ。   研究の合間に読んだこのドローンの記事は、まるで私に自分の専門分野だけにとどまらず、常に広い視野を持って研究をしなさいと示唆しているようだ。そして私はこれからドローンの行く末も見守り続けなければならない。     英語版エッセイはこちら   --------------------------------------------------- <謝 志海(しゃ しかい) Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 ---------------------------------------------------   2015年9月3日配信
  • 2015.07.16

    エッセイ466:劉 傑「『日本研究』を『アジアの公共知』に」

    日中韓の東アジア三国は歴史認識と領土問題をめぐって、70年代以来の難局に直面している。アジアインフラ投資銀行がいよいよ創設されるなか、金融を梃子にした経済提携が期待される一方、日本は中国が主導する同機構の透明性と公正性に懐疑的で、慎重な姿勢を崩していない。終戦から70年が経過するが、アジアにおける「信」の欠如は、政治的関係を著しく後退させ、国民感情にも暗い陰を落としている。長期的に安定した地域関係を構築するために、信賴の醸成は不可欠であるが、その前提条件は、共有できる「知」を編み出すことである。この重責を担う各国の知識人に求められているのは、国境を越える「知」の「公共空間」を構築することである。   歴史の束縛から解放されていない東アジアにおいて、地域研究としての「中国研究」「日本研究」及び「韓国研究」の諸分野で、「公共空間」を形成することは極めて難しい。各国がそれぞれのコンテクストの中で他地域を研究している現状は、憂慮すべきことである。各国が描く他国のイメージと当該国の自己認識との間に大きなズレが生じている。例えば、中国と韓国の研究者がもっている日本の近代史像と、日本人研究者がもっているそれとの距離は、この30年間で拡大の一途を辿った。中国研究への傾斜が顕著な今、東アジアにおける日本研究の停滞は、この地域の国際関係に大きな影響を及ぼしている。   問題は先ず日本側にある。そもそも日本のアジア研究から日本研究が排除されたことで、日本の日本研究は「日本的空間」のなかに閉じ込められた。このことが世界の日本研究に与えた影響は大きく、日本の「独自性」が特別に強調される結果をもたらした。しかし、19世紀以来のアジアの歩みには、戦争と革命はいうまでもなく、社会・経済の近代化や文化の伝達と発展など、どの分野からみても、日本が深く関わってきたことは一目瞭然である。日本研究の視野を広げ、アジア研究のなかに踏み込まなければ、本当の意味の日本研究は成り立たない。   一方、中国や韓国の日本研究のあり方にも大きな問題がある。中国についていえば、清末から中華民国時代にかけて大量の留学生が日本、アメリカそしてヨーロッパに渡ったが、彼らが追い求めたのは、中国を近代国家に進化させる道筋であった。彼らは中国の歴史から近代化のさまたげとなるものをえぐり出し、中国の歴史、思想、文化などを西洋の近代的な学問体系を用いて再解釈することに力を入れた。半面、中国の知識人は日本経由で近代の「知」の概念を貪欲に吸収しながらも、日本や欧米に対する研究には大きな関心を示さなかった。そのため、中国には本当の意味の「日本学」も「アジア学」も確立しなかった。   1980年から始まった第二波の留学ブームもこの伝統を継承した。文系を専攻とする留学生の学問的関心は相変わらず、中国近代史、中国政治、中国社会、中国経済などに集中し、日本研究を志すものは比較的少なかった。日本の教育研究機関における中国研究は大変充実しており、留学生に恵まれた環境を提供した。日本には戦前から内藤湖南や狩野直喜らがリードする「支那学」の伝統があり、戦後は「中国学」に継承された。1947年に設立された東方学会は、民間の学術団体として、日本のアジア学の発展と東方諸国の文化の進展に貢献することを目的に活動し続けている。また、アジア政経学会に集まる研究者の大半は中国研究に従事する研究者である。留学生の受け入れに積極的な日本の大学は、中国や韓国の日本研究者をどのように育成していくのか、喫緊な課題である。   東アジアの歴史和解を実現するとともに、国民同士の信頼を回復し、安定した協力関係を構築するには、「公共知」の力が求められる。日本研究をこのような「公共知」に育成することの意味は無視できない。近代日本はアジア諸国と複雑な関係を歩んできた。日本が経験した成功と失敗をアジア全体が共有する財産に昇華させることは、歴史を乗り越えることでもある。また、戦後の日本はアジアのどの国よりも、環境問題、高齢化問題、エネルギー問題、自然災害などの問題をたくさん経験し、多くの知見を蓄積してきた。これらの経験をアジア共有の財産に育て上げることの意味はいうまでもない。アジアが求めている現代日本学は、失敗と成功の2つの側面からの「日本経験」に他ならない。   それでは、「アジアの公共知」としての「日本研究」をどのように創成していくのだろうか。   第一は、歴史を乗り越えることである。そのための第一歩は、中国の「国史」と日本の「国史」、韓国の「国史」を対話させることである。「国史」研究者同士の交流は共有するアジア史につながり、日本のアジア研究に日本研究を取り入れる環境整備にもなる。   第二は、日本が中心になって日本研究のプラットフォームを形成し、これをアジアの公共財に育成することである。日本には日本研究に必要な資源がもっとも集中している。「日本文化」だけではなく、人文科学と社会科学の融合を目指した日本研究の拠点が必要である。これは多方面の提携協力が必要であるが、既存の研究環境の活用から着手することが重要であろう。   第三は、情報の共有を目指すことである。「アジア歴史資料センター」という試みは、世界の日本研究に大きな貢献をしている。歴史資料だけではなく、今まで蓄積された日本の「日本研究」の成果を、多言語に翻訳し、多様な型式で発信する事業も重要であろう。   第四は、アジアにおける日本研究ネットワークの構築である。各国には日本研究の組織が多数存在するものの、国際的な連携を図る仕掛けは存在しない。ネットワークと共同研究の場の形成に向けて、日本はハブ機能とリーダーシップを発揮しなければならない。   英語版はこちら   ----------------------------------------------- <劉 傑(りゅう けつ)Liu Jie> 早稲田大学社会科学総合学術院教授、博士(文学)。専門は近代日本政治外交史、近代日中関係史、現代日中関係論。北京外国語大学を経て、1982年に来日。1993年東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。1996年4月より早稲田大学社会科学部に勤務。コロンビア大学客員研究員、朝日新聞アジアネットワーク客員研究員などを歴任。著書に『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)、『中国人の歴史観』(文藝春秋 文春新書、1999年)、『漢奸裁判―対日協力者を襲った運命』(中央公論新社 中公新書、2000年)、共著に『国境を越える歴史認識』(東京大学出版会、2006年)、『新華僑老華僑』(文春新書、2008年)、『1945年の歴史認識』(東京大学出版会、2009年)など。 -----------------------------------------------   *本文は、2015年7月18日に開催する第49回SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」の問題提起として書かれたものを著者のご同意を得て、SGRAかわらばんで配信します。     2015年7月16日配信