SGRAエッセイ

  • 2023.02.23

    エッセイ732:李典「パートナーに支えられた留学生活」

    この春、7年間の博士課程でのトレーニングを終了し、新たな道を歩み出す。10年も留学で日本にいたことになるが、その間の出来事を振り返ってみたい。   初めて日本に来たのは6歳の時で、両親の仕事の都合で北京から大阪に引っ越し、2年間住むことになった。小学校の担任が私や両親とスムーズにコミュニケーションが取れるように中国語を勉強したり、クラスメートたちも親切に接したりしてくれて、日本を離れる時にまたいつか来たいと強く思ったのを覚えている。   再び日本に来たのは13年後の2011年春。東日本大震災の直後だった。生物学専攻の学部生の私は交換留学で横浜に1年間留学することになった。余震が絶えなかったので、ビクビクしながら初の海外での一人暮らしだったが、面白い授業や実習のおかげで充実した毎日を過ごした。当時指導していただいた先生の紹介で私がその後所属する研究室を訪ねる機会があり、運よく修士課程から受け入れてくれることになった。   北京の大学の学部を卒業し、2014年春、東京で新生活が始まったが、まさか9年間も慶應義塾大学にいることになるとは思ってもみなかった。修士課程はそれほど難しくなく、授業を受けながら残りの時間を実験に使った。チャレンジングなプロジェクトに入っていたが、順調に進んで結果も出始めた。実験手法を磨き、きれいなデータを出すのが楽しくて、2年間はあっという間に過ぎていった。   その後も学問を追求したいという思いから、迷うことなく博士課程に進学した。しかし、そこからさまざまな変化があった。実験がうまくいかず、プロジェクトが進まない。試行錯誤し続けても改善が見られない。実験などいろいろなことを教えてくれた仲の良い先輩たちが卒業していき、ライフワークバランスが崩れ始めた。学会発表でも研究について厳しく指摘され、追い討ちをかけられた。研究や対人関係で心細い思いをし、一時期はあまり動けず、朝布団から出られず、研究室に行けなくなってしまうまで調子を崩した。   そんな時に一番心の支えになってくれたのが夫だった。中国から駆けつけてくれて、私が立ち直るまで一緒にいてくれた。時間がかかったが、なんとか回復して、研究も方向を変えて新しいプロジェクトをゼロからスタートさせた。もう博士課程3年目だったが、余計なことを考えずもう一度研究を楽しもうと決心した。夫も中国での仕事を辞め、日本に来て博士課程に入り、同じ研究室で研究を始めた。   4年が経ち、この3月に私たちはようやくプロジェクトを完了し、博士号を取得する。この間はもちろん全てが順調ではなかったし、研究をしていると毎日のように問題に直面し、時には挫折する。そんな中でも心のバランスを保ち、困難を乗り越えていくには心の支えを持つことと、身の回りの些細なことに気を取られないことが重要だと知った。生活面での心の支えは一般的に家族になるのだが仕事面まで理解が得られない場合が多い。しかし、仕事面でのサポートも生活面と同じくらい重要だと感じている。私の場合、運良く生活でも仕事でも理解してくれるパートナーに出会えたことで困難を乗り越えられた。   もう一つ私にとって大事な心掛けは、些細なことに気を取られないようにし、日々の生活の中で余計なエネルギーを使わないことだ。一つの実験結果に一喜一憂していると時間もエネルギーも無駄になるし、ニュースや会員制交流サイト(SNS)の情報で落ち込んでいられない。感情的になるよりも論理的に物事を分析することのほうがよほど効率が良い。エネルギーを使いすぎてしまうと次の日がどうしてもしんどくなってしまうので、無駄な消費を抑えることが自分にとって一定のコンディションを保つ有効な方法だと感じている。たまに感情が薄いと言われることもあるが、それも気にしない。   ここまでこられたのは、大勢の方々からの助けがあったからこそで、恵まれていたと感じている。失敗も挫折も経験したが、それらに向き合ってきたからこそ成長できたと思う。感謝の気持ちを忘れずに、目の前のプロジェクトに挑み続けたい。   英語版はこちら   <李典(り・てん)LI Dian> 2021年度渥美財団奨学生。中国北京市出身。慶應義塾大学医学研究科博士課程在学中。哺乳類着床前初期胚発生時に、ゲノム中でとびまわる特殊なDNA配列の動態を研究。3月に博士号取得見込み。4月からは所属が変わり、アメリカ・ペンシルベニア大学で研究活動を継続する。     2023年2月23日配信
  • 2023.02.16

    エッセイ731:陳希「複数の故郷で生きる」

    日本に留学に来たのは2013年秋のことでした。もともと日本に留学したいと思っていたので、公募を知りすぐに応募したところ、運良く国費留学生として選ばれて都内の大学院で研究生活を始めることになりました。異なる言語に囲まれ、異なる言語で研究生活を送るのは決して簡単なことではありません。しかし、私は言葉の面で窮地に立たされた記憶がほとんどありません。理由として考えられるのは次の二つです。   一つは、留学する前に大学で日本語を学び、日本人の先生方や留学生たちとコミュニケーションを取った経験があるからです。おかげで比較的すんなりと日本社会に馴染むことができました。   もう一つは、小さい頃から中国・貴州省の中で学校を転々としていたことが挙げられます。同じ省とはいえ話される言葉はかなり異なっているので、最初に苦労するのは言葉でした。しかも、当時は共通語としての「普通話」(中国における民族共通語 )は今ほど普及していなかったため、日常生活はもちろん、教室の使用言語も方言が使われることが普通でした。子供であっても、現地の言葉に順応するのには時間と工夫が必要でした。   なぜなら、異なる方言を学ぶときには、発音、語彙、文法だけでなく、その方言の独特の表現法や現地の文化も合わせて学ばなくてならないからです。そうでなければ、現地の人々と真の意味でのコミュニーションは成立しがたいです。逆に言えば、異なる言語を学ぶことによって、自分がいままで知らなかった新しいものの考え方や文化を知ることができます。   何度も転校を繰り返して気づいたのは、言葉はコミュニケーションのための手段である以上の機能を持っているということでした。つまり、言葉を思想や文化と切り離して考えることができません。異なる言語を学ぶとは、その言語を用いる他者を知り、自分の世界を広げていくことでもある、ということを、子供の時になんとなく感じ取っていたようです。   この経験から「異なる道を歩み、異なる地に逃げて、異なる人々を探し出しにいく」(魯迅『吶喊・自序』)かのように、日本留学を選びました。幸いなことに日本で何人かの「異なる人々」と出会いました。「異なる人々」との協力と支えがあったからこそコロナ禍でも博士論文が書け、無事に学位を取得し、研究者としての第一歩を踏み出すことができました。   限られた時間と能力のなかでの執筆であり、史料の発掘、テクストの分析などに関しては十分であったとは思えませんし、別の観点、別の論点から考察を行うこともできたと思います。これらの反省は今後の課題です。   留学生活のなかで度々実感していたことの一つは、もう帰るべき故郷がないということです。幼年期と少年期は貴州で過ごしたので、大雑把に言えば故郷は貴州です。しかし、大学進学のために貴州から離れ、その後は天津で6年ほど、東京で8年ほど、と、ずっと遠く離れた所に住み続けてきました。いつのまにか故郷であるはずの貴州は、ほんの一時住んでいた土地の一つ、という程度でしかなくなりました。   しかし、これは不幸なことではないと思います。なぜなら、私は帰るべき故郷を喪失することによって、複数の故郷を手に入れることができたからです。   哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリの共著に『千のプラトー』という本があります。この中で二人の思想家は、人間の言語、文化、性、そして人間そのものの歴史といったものは、決してひとつの原理によって成り立っているわけではないと述べています。つまり、人間は、さまざまな言語、文化、性、歴史によって生きている。ドゥルーズとガタリはこのような「多数性」あるいは「複数性」の原理を提唱しています。   「複数性」の原理は、人間には多様性があるといった単純な事実を掲げるだけではなく、世界を変える可能性をもはらんでいる、と多くの研究者は考えています。私もそう信じています。今後、私は単に「お客さん」としてではなく、一定の責任を持った立場で「複数の故郷で生きる」ことを実践し続けていきたいと思います。   英語版はこちら   <陳希(チン・キ)CHEN Xi> 中国貴州省生まれ。2013年に文部科学省国費留学生として来日。2021年度渥美財団奨学生。中国近現代史を専攻、2022年3月に東京大学大学院地域文化研究専攻にて博士(学術)学位取得。現在、東京大学東アジア藝文書院特任研究員、津田塾大学非常勤講師。2022年度太田勝洪中国学術研究賞を受賞。     2023年2月16日配信  
  • 2023.02.09

    エッセイ730:王杏芳「光陰矢の如し」

    日本に来て4年半が過ぎた。時間が存在するかどうかはさておき、「ある時刻とある時刻との間の長さ」の意味で時間を理解する。こうした理解では、4年半の期間は決して短くはないが、あっという間である。光陰矢の如し。しかし、振り返ってみると、子供の時代はそうではなかった。時間がより長く感じられた。いや、まるで無限で永遠に終わらないように。しかし、年をとるにつれて、月日の流れの速さをますます強く感じるようになってきた。無論、これは私個人だけの感想ではない。多くの人に共通する感覚であろう。年を重ねるごとに時間が早く感じられるのはなぜか、その原因についてはさまざまな研究と調査があるが、ここでは省く。それより、時間の流れを強く感じている私自身の感想を述べてみたい。   子供の時に覚えた「子在川上曰、『逝者如斯夫、不舎昼夜』」(『論語』子罕第九)という孔子の感慨に、ここ数年、ようやく共感を持てるようになった気がする。孔子が川のほとりに立って言う。「歳月はこの川の流れのように去っていくものだ。昼となく夜となく、休むことはない」。それはいつでも奇麗な現代語に訳することができる。そして、この言葉の意味はよく理解できる、とずっと思っていた。確かに、言葉の表面的な意味はそうだった。しかしここ数年、時間の止まらない、特にその速さに驚き、文字の意味を自身の経験を通して体得するようになった。それと同時に、恐れ及び怖いという感覚も生じてきた。生命が徐々に消えてなくなることに対する恐れ、及び怠けが怖くなる気持ち。人間はなぜ命を失う死を恐れるのか、ここでは議論しない。それより、後者に注目してみたい。つまり、人間が時間を無駄にする怠けが怖くなるのはなぜか。さらに言えば、怠けたらなぜいけないのか、ということに関心を持つようになった。   怠けの話というと、『論語』公冶長篇の孔子が宰予を叱るあの有名な段落がすぐに思い出されるだろう。「宰予昼寢。子曰、『朽木不可雕也、糞土之牆不可朽也。於予與何誅』」と。宰予とは孔子の高弟の一人である。彼が昼寝をしていた。これに対して、孔子は「朽ちた木に彫刻はできない。土がぼろぼろに腐った土塀には上塗りをしてもだめだ。お前のような怠け者を責めても何ともしようがない」と言った。昼寝ぐらいでどうしてこんなに叱られるのだろうか。理由について昔から諸説あったが、それはそれとして、ここでは「怠け」についての理解に留める。   なるほど、孔子は怠けを批判していた。しかし、なぜ批判すべきなのか。前文の「川上之嘆」に、回答が潜んでいる。確かにそれは時の流れを感じる言葉だが、同時に川は休みなく流れ、万物は止まることなく変化するように、人間である我々も日夜努力しなければならないという意味にも読み取れるだろう。また、『周易』にも同じ趣旨の言葉が見られる。例えばあの有名な「天行健。君子以自強不息」。天の運行は現在に至るまで、ずっと休みなく健やかであるように、君子たるものも、この健やかな天の運行を範とし、自ら努め励み、怠けることなく奮励しなければならない、と。   天が健やかで休みなく運行し、万物が止まることなく変化する。自然としての人間である以上、それに従い、永遠に努力しなければならない。これは儒学の人間が怠けてはいけない理由になるだろう。魅力的な答えだと思う。   ちなみに、その答えを探すために、ネットで検索したり、周りの友達にもいろいろ聞いてみたりした。回答は一様ではないが、「怠けるのは別に悪くない」ということは通説である。なぜかというと、怠けるか怠けないかは個人次第でその人の自由であるからだ。   天にその根源があるか自己決定するか、そこにはまた伝統と近代との区別が見られる。   英語版はこちら   <王杏芳(おう・きょうほう)WANG Xingfang> 2021年度渥美奨学生。中国江西省出身。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程に在学中。日本政治思想史を専攻。     2023年2月9日配信
  • 2023.02.02

    エッセイ729:李貞善「異国で花咲いた私の『発電所』」

    2023年の年明けに韓国のユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領がアラブ首長国連邦(UAE)を訪問した。1980年の国交正常化後、韓国首脳のUAE国賓訪問は今回が初めてで、韓国・UAEの友好増進とともに、さらなる経済協力を図るためである。尹大統領と経済使節団が足を運んだのは、韓国電力公社が率いる共同事業体(以降、KEPCOコンソーシアム)が2009年12月に受注し、建設・運営しているバラカ(Barakah)原子力発電所の現場だった。   私の目を引いたのは、尹大統領がバラカ原発で韓国電力公社の社員たちと一緒に撮影した1枚の写真だ。大統領の後ろには、10年前に私と一緒に勤務した上司が立っていた。その隣にも、私の同僚だった人が特有の表情で誇らしげにほほえんでいる。   韓国電力公社は、2015年に日本に留学する前に11年間勤務した元職場。2003年から2014年まで事務職正規社員として清州(チョンジュ)とソウル本社で働いたが、2009年にUAEのバラカ原発4機を受注する事業の一員になった。約1年間、「War_Room」と呼ばれる本社の地下で、同僚と一致団結してプロジェクトに専念した。少し(大分)誇張すると、映画「パラサイト」の地下室を連想させる極秘の空間で。   忍耐の過程を経てKEPCOコンソーシアムは、日米連合やフランス連合などの有力な競合他社に打ち勝って約400億ドル(約5兆2千億円)規模の受注に成功した。韓国で12月27日が祝日(原子力安全及び振興の日)に制定されたのも、KEPCOコンソーシアムが2009年のこの日にUAEの最終事業者に選定されたことに由来する。これは、韓国史上最大規模の海外受注になっており、今もその記録は越えられていない。   受注に成功した後も、退職する2014年末までこのバラカ原発建設プロジェクトで事務業務を担当した。人事、総務、財務、送金、機密契約書管理など、多岐にわたる業務で、私の30代のバイオグラフィーに達成感と煩悩と、笑いと涙の強烈な痕跡を残した。   遠回りして日本に留学した初期には、自分が研究者としてもう遅いのではないかと不安だった。しかし、博士学位取得を目の前にしている今、導き出した結論は、あの11年間の社会経験が研究にも貴重な資産になり、むしろ今の私を精力的に動かす「発電所(発展所)」にもなり続けているということである。事業報告書の作成、多岐にわたる資料の分析、プレゼンテーションの担当、海外からの重要人物(VIP)リエゾン担当者としての業務連携、約束の順守、異文化理解、業務倫理の厳守、前向きな態度など… 振り返ってみたらこれらの経験は、どんな難関にも常に適応能力(レジリエンス)を持たせて明日に進展させる動力源になったのである。   UAEの発電所は2014年末に私の人生で停止したが、それ以降私は日本で別の形の「発電所」を10年近く稼働してきている。まずは未熟ながら書きたての博士論文が、丹精を込めて築き上げた「発電所第一号機」になるだろう。2023年年明けに、砂漠で蒔いた種がバラカ原発に実った様子を遠くから凝視しながら感無量に思うと同時に、今の私の「発電所」を確かめてみる。   原発建設は通常5~10年ほど工期の遅れが発生する。他方で、KEPCOコンソーシアムは数多くの悪条件を乗り越え、約束した期日と予算内で工事を成功裏に終えた。冒頭で述べた尹大統領のUAE訪問を機に、韓国側がUAEから300億ドル(約4兆円)の追加投資の約束を取り付けたのも、KEPCOコンソーシアムのそのような工期厳守と事業への徹底したミッションがUAEに認められた結果である。これから私も、独自の観点とペース、温度、スタイルで、異国で私ならではの「発電所」を稼働していこうと考える。学位取得以降の次のステージに向かって、今後も2、3号機の新たな「発電所」を前向きに受注・建設していきたい。   私にとっては永遠の未完成品として残っているバラカ原発。あの発電所を見事に完成してくれた元職場の同僚たちにも、そして自分の土壌で各自の「発電所」を稼働している世界中のラクーン(渥美奨学生)たちにも、熱い応援の拍手を送る。   英語版はこちら   <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。     2023年2月2日配信
  • 2023.01.26

    エッセイ728:オリガ・ホメンコ「美術で表現する戦争と人の気持ち」

    ウクライナは昔から美術の強い伝統を持っている。口に出せない時も美術で表現していた時代が少なくない。口に出さなくても美術的な表現で会話できるから。その中でも特に美術が開花していた時代が、例えばロシア革命後から1930年代まで。ミハイロ・ボイチュック(1882-1937)を中心に多くのアーティストが育った。ウクライナの画家はベネチア・ビエンナーレにも参加し、1928年には17枚、1930年には15枚の絵を出展、ソ連の他の共和国よりずっと多かった。だが1930年代のスターリンの圧政で多くのアーティストが亡くなり、出展も止まった。   数年前にキーウのウクライナ国立美術館で、この時代の美術展をやっていたことを思い出す。スターリンは弾圧したアーティストの絵を集めて破棄する予定だったが、誰かが隠して守ってくれた。絵は普通に奇麗だったが、キャンバスの裏にも描かれていたもう一つの絵が印象的だった。ある風景画の裏側には秘密警察などを統括する内務人民委員部(NKVD/KGB)の軍人か公安のブーツだけが描かれており、その時代の怖さを感じた。   2014年にクリミアがロシアに併合され、ウクライナ東部で戦争が始まった時、東部出身のアーティストたちがすぐにそれを表現するようになった。2014年の秋にキーウのピンチック現代美術館で開催されていたジャンナ・カディーロワの作品はとても印象的だった。レンガでできているウクライナの地図があり、クリミアは床に崩れ落ちていた。美術の力はすごいと改めて気づいた。   2014年のマイダン革命からキーウの街にグラフィティが増えた。闘争の場となっていたフルーシェフスキー広場の近くの科学アカデミーの建物に描かれた、ウクライナの19世紀の国民的詩人タラス・シェフチェンコや同時代の詩人イワン・フランコとレーシャ・ウクラインカの肖像画がとても印象的だった。バンダナをつけたり、マスクをかけたり、戦う現在の人として表現されていた。そしてシェフチェンコの絵に彼の言葉「燃えている人に火は危なくない」、フランコの顔には彼の言葉「我々の人生は戦争である」、レーシャ・ウクラインカには彼女の言葉で「自分を自由にさせた人は、いつまでも自由になる」と書いてある。それを見て、やはりウクライナ人にとっては、19世紀にウクライナ語や文化が禁止されていたことがまだまだ生々しく、マイダン革命とリンクされると感じた。革命の後、キーウの建物に壁画(以下、ムラール)が現れ始めた。そしてこの8年間で非常に増えた。ベリーカ・ワシリキフスカ通り29番には、1918年にウクライナが最初に独立した時の大統領で歴史家のミハイロー・フルシェフスキーイ、また最後の軍司令官のパフロー・スコロパロドツキ、その時代の軍事委員長シーモン・ペトリューラなど歴史的な人物や19世紀の女性詩人レーシャ・ウクラインカが描かれている。   文化や昔話をテーマにするムラールも増えた。アンドリーイ坂にはウクライナ人とフランス人のアーティストのコラボによる「復活」というタイトルの作品がある。民族衣装を着て花輪を頭に飾っている少女が華やかで印象的だ。雨に濡れて色が薄くなったら書き直すという。保守的な人たちは「建物をきちんと修理しないで古さを隠してしまう」とムラールアートを結構批判している。だがソフィアでは1000年前から壁画が描かれていたことが知られており、キーウにもこの文化が昔からあって、時代と共に進化して建物壁の全体に広げていったということも考えられる。最近はさらに増え続け、街の名所にもなり、キーウの「顔」を少しずつ変えることになった。   そして、2月24日の前にウクライナのイラストレーターは少しずつ不安を感じるポスターを作り始めていた。今でもよく覚えているのは、リボン付きのチューリップのブーケに手榴弾がぶら下がっていて「占領者を花で迎えるのではない」と書いてあった。   侵攻が始まってしばらくは、アーティストたちも他の市民と同じようにフリーズしていた。皆まさかと思っていたのだろう。少し時間が経つといろいろな人の作品が現れるようになった。侵攻後のイラストアートが非常に盛んになって、人々の勇気を盛り上げた。3月初めの英紙The_Guardianには色使いがとても鮮やかで、海外でも戦前から知られているセルギーイ・マイドゥコフ(インスタグラムで「sergiymaidukov」参照)の戦争関係のイラストが掲載された。オレクサンデール・グレーホフ(同「unicornandwine」参照)は詩人のシェフチェンコのキャラクターを現代風の軍人に書いた。彼のイラストは明るい色使いで独特なユーモアがある。インスタグラムで作品を購入でき、一部が軍隊に寄付される。そして画家のオレーナ・パフロワが作った頭が良くていたずらっ子の猫の「イチジクくん」もウクライナの人々を勇気づけている(同「kit_inzhyr」参照)。   キーウには新しいムラールが増えた。戦争関係のものが多い。2022年5月にアントノワ通り13番に聖ジャウェリーナが描かれたが、教会関係者からクレームがあったのでトライデント(三叉槍)があるニンバズ(競走馬)を消した。爆弾を見つけて有名になったチェルニヒフ非常事態省に勤務している犬のパトロンのムラールも現れた。去年の夏には、伝説的な存在になった軍隊のパイロットで「キーウの幽霊」というニックネームの人のムラールが現れた。そして11月にバンクシーを名乗る英国のストリートアートのグループが、独立広場に瓦礫でシーソー遊びをする「戦争中の子供達」を描いた。イルピーンでは新体操をする女の子の絵だ。   有名なアーティスト同様、市民も最初の数週間は「どうして?なんで襲われたのだろう?」という質問が頭から離れず沈黙していたが、少し気持ちを整えてから落書き程度の絵日記を書く人が増えた。その日記や絵は非常に大事な意味があると思う。なぜなら戦争が終わってもその記録は残って、暗い時代の中でも人々が生き延びていた証拠になるから。私もその一人である。   2022年10月からミサイル攻撃が増えてウクライナで停電の繰り返しになった時、知り合いの子供が黒い紙に白い鉛筆で描きたいと両親に頼んだ。理由を聞くと、やはり今の状況を表現するのに一番いいとの返事だった。8歳のハルキフ市出身のジェーニャはハルキフ州内に避難し、半年以上過ごしていた。都会っ子で田舎生活は初めてだったので動物や植物にたくさん触れて絵を描き続けてきた。停電になると一瞬で絵のスタイルが変わった。風景は一緒だが、電気と一緒に色が絵から消え急に白黒になった。このような表現の仕方もある。   友達の写真家はこの10年近くウクライナの有名アーティストの写真を撮っていた。しかし戦争になってから避難先で避難者の写真を撮り始めた。戦争の大変さは人の顔で表現できるからだ。   今回、西ウクライナにたくさんの人が移動したが、イワノ・フランキフスク州の劇場は1日も活動を中止しなかった。逆に、俳優たちは昼と夜で2倍仕事をすることになった。昼間は支援物資を集めて避難者に配る作業、夜は通常通りの劇場活動。劇場には毎日2回行列ができていた。昼間は支援物資を受け取るために、夜は劇を見るために。上演中に空爆があったので舞台を地下室に移動し、そこで空襲中にも続けていた。戦争中には劇場が自然にシェルターとして使われており、地下室で劇をやっている最中に空爆から避難してくる人もたくさんいた。2022年2月から4月までに500人も入っていたという話もある。戦争になってから1年近くになるが、新しい劇も出している。その中で、ウクライナの19世紀の詩人レーシャ・ウクラインカの「森の歌」を現代風にアレンジしたものが特に評判が良い。   海外でもこの1年間、ウクライナ美術展が増えた。特に印象的だったのが2023年1月にマドリードで開催されたウクライナの1900年から1930年の間のモダニズム美術展だ。今までの美術との連続性が見えるウクライナ美術の社会との関わりや、鮮やかな色を昔から使うのを好んでいたことを知った。そしてスターリン政権に殺された多くのウクライナのアーティストの運命を考えて悲しかった。生きていればどれだけウクライナ美術が開花していたでしょう。   この1年間ウクライナで空爆され、破壊された素朴画で有名なマリア・プリマチェンコの美術館、哲学者のフリホーリーイ・スコヲロダーの博物館、そして10月のミサイル攻撃で被害を受けたキーウのハネンコ美術館のことを考えると、ウクライナ人の自由で豊かな表現の仕方への妬みがあり、1930年代の圧政時代と変な連続性があるように思える。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。     2023年1月26日配信
  • 2023.01.06

    エッセイ727:オリガ・ホメンコ「移民史、戦争、避難民」

    7、8年前から極東アジアにおけるウクライナ人運動史、移民史を研究している。ウクライナや米国、日本の資料館で調べながら1870年から1945年までウクライナ人がアジアでどのように暮らし、文化活動をしていたかに注目した。特にコロナ禍の間、米国で集めた資料をキーウで改めて読みながら、身分証明書もなく、移民先で色々ひどい目にあった人々の苦しみを感じていた。2022年2月24日のロシアの軍事侵攻後、まさか自分の研究テーマが私自身の現実になるとは夢にも思っていなかった。避難先の警察へ行き、指紋を取られて新しい身分証明書の発行を申し込んだ。研究者としての身分と自尊を取り戻すために必死だった。色々言われたりひどい目にあったりしたこともあった。研究で知ったことを、今度は自分の肌で感じることになった。   1945年の上海で難民が食料券をもらう際には家庭訪問があった。家に猫がいると「お金持ち」とみなされてもらえなかった。今年の春、犬や猫を連れて避難するウクライナ人が多かった。そうすると、住むところがなかなか見つからない。やはり「お金持ち」とみなされたこともあったようだ。この歴史的な関連を不思議に思った。動物は家族の一員で捨てられないというウクライナ人が多いが、周りの圧力に負けて手放した人もいる。   ウクライナから海外への移民の波はこれまで4回あった。目的はさまざまだ。第1波は1870年代半ばから第1次世界大戦まで。西ウクライナからの農民や労働者がカナダ、米国、そしてブラジルへ出稼ぎに出かけた。小作制度が廃止された結果、極東開発のために移動する人も少なくなかった。オーストラリアやニュージランド、ハワイに移動した人もいた。   第2波は第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に社会的政治的な理由で人が動いた。ソ連政権の下にいたくない人が移動したと言っても良いかもしれない。ポーランドやチェコ、ルーマニア、フランス、ドイツ、米国、カナダなどに行った。   第3波は第2次世界大戦が終わった時に始まった。難民キャンプの元軍人、ナチスによって無理矢理に肉体労働のためにドイツに連れて行かれた人たち、戦争で難民になった人々など。この人たちは米国やカナダ、ブラジル、アルゼンチン、オーストラリアなどに移動した。この時アジアにいたウクライナ人ディアスポラも米国や南米の国々、オーストラリアへ動いた。   ソ連崩壊の頃には経済的な理由で第4波があった。その時に特に西ウクライナから米国やヨーロッパ(女性はヘルパーやベビーシッターで、男性は建設労働者として、行き先はポーランドやポルトガル、イタリアなど)、ロシアに多くの出稼ぎ労働者が出かけた。2014年にクリミア併合や東部で始まった戦争で、またポーランドや他の国に移民した人も少なくないが、それは特別な「波」とはされていない。   今回の軍事侵攻があってから「5回目の移民の波になった」と研究者が指摘し始めた。統計がまだまだ確実ではないが、2月以来1200万人が国外に出たという。戦争が長引くとこの中のどれくらいの人が帰ってくるか誰にも分からない。いずれにせよ人口4600万人のウクライナにとって大きな人災であることは間違いない。今回海外で避難民になったウクライナ人は、それ以前に移民した人たちと全く同じ経験をしている。持ち物はほとんどなく、身分証明書類もきちんとしてなくて、子供や動物を抱えて新しい住居を必死に探す。言葉の壁もあって新しい社会に溶け込むのに時間がかかるので、取りあえずウクライナ人コミュニティで固まることも多い。交流サイト(SNS)が進んでいる時代なので、新しい町で簡単につながって情報交換し、「歌う会」、「靴下を編む会」、そして「避難民や軍人を支援するボラティアの会」にまとまる。   海外に避難したのはほとんど女性と子供なので「女性の会」が多い。「ウクライナ女性はきれいな身なりをしているので避難民に見えない」という意見も聞いた。イタリアのロケから戻ってきた日本人の友達が、ローマでタクシーの運転手に言われたそうだ。服装や美容に力を入れているので「今まで見てきた避難民には見えない」と。コロナの3年間で皆、運動着姿になってしまっても、化粧もするし服装にもそれなりに注意を払っている。あまり私物が持てなかったソ連時代には、外に出かける時に服装で判断されることが多かったのでドレスアップしていた。   それを聞いた時、別の日本の知り合いから聞いた話を思い出した。キーウに格好良い若い社長が滞在していた。ヘアスタイルや服装を揃えて男性誌に出るモデルのような人だった。聞いてみると、小さい時に経済的にあまり恵まれなかったので「だらしない」と言われないように気をつけるようになったという。人って過去のトラウマから色々な生活習慣が生まれるのだ。ヨーロッパの避難所に所持品はほとんどないのにルイ・ヴィトンの鞄を持っていた女性がいたので受け入れ先の関係者が驚いたという。国によってドレスアップとドレスダウンするところがある。狙われないように南米では逆の見方があるということを、2016年にブラジルに行った時に初めて気づいた。   10年以上前から知っている2人のイギリスの友達の家族が実は避難民だった、と今回初めて知った。1人のお父さんは1950年代にエジプトから避難、もう1人のお爺さんはユダヤ系で20世紀初めに移ってきた。それまで一度もそのような話をすることがなかったが、今回の軍事侵攻でその記憶が戻ってきたようだ。「知らない人が私達を助けてくれた。そのお返しをしたいのでウクライナの家族を受け入れた」とも言っている。受け入れたウクライナ人は全く知らない人だったが、数カ月間で仕事も見つけて無事に自分の家も借りられたので、そのイギリス人の「ウクライナ株」も上がった。ありがたい話です。   しかしながら、外国の生活や他人の家に慣れることができず、なかなか新しい言葉を学べず、社会的地位が変わったので自分のアイデンティティーに危機を迎え、ウクライナに戻る人も少なくない。旦那がウクライナに残ったので家族で合流したいという理由も大きい。そんな時に子供の意見もよく聞く。母親だとやはりどうしても子供を守りたくて、子供を優先する。ドイツに避難した子供から話を聞いたことがある。「ハルキフに帰りたいが、攻撃が怖いから帰りたくない」「パパを大好きだがママは離れてほしくない」「ドイツの学校で友達もできた」「ママやおばあちゃんもやはり残るって」。複雑だがなんとなく分かる。この人たちが以前の移民たちと同じように自分のウクライナ人としてのアイデンティティーを少なくとも生活習慣や文化活動で守り続けるか、受け入れ国の社会に溶け込んでしまうかはまだ分からない。   友達のお母さんがドイツで泊まっているアパートの住人は掲示板にメッセージを貼ってくれた。「ドイツ語を話せないフラウ(夫人)がいるので、困った時には助けてあげてください」と。それで皆親切にしてあげる気になったようだ。避難民と受け入れる人々のこのような小さな交流が、受け入れてくれた社会になじんでいくきっかけとなるのだろう。   この1年でさまざまな人に会った。パレスティナの避難民にも会ったことがある。避難生活7年目と15年目の家族だった。7年目の人たちは子供がたくさんの言葉を話すことができ、人に優しくていろいろ手伝おうとしていた。15年目の人は子供の避難経験を思い出すと泣き出してしまうが、それ以外は特別に陽気だった。共通の友達に「避難してきた家族の経験は皆同じように過酷なものですが、きっと人に落ち込んだ気持ちを見せたらいけないと考えているのでしょう」と言われた。どうでしょうね。でもそうなのかもしれない。最初は落ち込んでいる人を助けようとするけど、それが続くと支援する側もマイナイス思考に疲れて離れるかもしれない。海外に避難したウクライナ人が強気で陽気で行くか、戦争から受けたトラウマでしばらくマイナス思考になるか分からないけど、受け入れてくれることを祈る。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。       2023年1月6日配信