SGRAエッセイ

  • 2018.06.28

    江永博「第7回SGRAふくしまスタディツアー『<ふるさと>に帰る』報告」

    2018年5月25日、私は東日本大震災の翌年の2012年から毎年原発事故の被災地である飯舘村を訪ねている渥美国際交流財団SGRAスタディツアーに参加し、福島に向かった。   2泊3日のツアーでは、「ふくしま再生の会」の理事長田尾陽一さんの案内で、村役場をはじめ、未だに帰還が禁止されている区域である長泥のゲート、牛の放牧実験場、花のハウス栽培とメガソーラーがある関根・松塚地域、飯館村の信仰の中心とも言える山津見神社などを見学し、再生の会と村の方々のお話を伺い、田植えを体験した。震災の日から7年の歳月が経った今、被災地の復興、飯舘村の再生は如何なる状態なのか、私がこの3日間、目にしたもの、体で感じたことを文字で表してみたい。   福島駅からマイクロバスに乗り換え、通称中村街道の国道115号経由で、飯舘村に入った。面積の7割が山林の飯舘村の景色は、とても被災地とは思えないほど美しく、空気も非常に綺麗である。昨年(2017)3月に飯舘村に対する避難指示が解除されたが、原発被害の爪痕はまだ残っている。その代表的なものが除染の「副産物」=除染土のフレコンバックのピラミットである。過去にもツアーに参加したことのあるメンバーの話によると、前は真っ黒なフレコンバックのままのピラミットであったが、今はグリーンのシートに覆われているため、景観的にピラミットの威圧感が少し緩和されたようだ。   また、同じ景観的な意味合いで、景観作物の栽培という新たな試みも行われている。現段階は外で避難生活をしている人々が再び戻ってくれるための景観の「再生」であるが、将来的には観光または販売も視野に入れているそうである。再生の会福島代表の副理事長であり、佐須行政区長でもある菅野宗夫さんによると、震災後、園芸を含む畑作、牛の放牧と太陽光発電の売電は再生のための三大柱である。太陽光発電は言わずもがな、一見震災前と変わらない畑作と放牧も、ビニールハウスにおける遠隔操作や放牧実験中の牛の人工受精など現在最先端のICT技術が導入され、再生の道は一歩一歩着実に前へ進んでいると見受けられた。   こうした状況の中、飯舘村が直面している課題を取り上げたい。まず、私にとって今回のツアーで一番印象に残ったのは、現在再生可能エネルギー資源として注目を浴びている太陽光発電設備のメガソーラーである。私の出身地台湾では、東日本大震災の前からすでに原子力発電に反対する声があり、震災後の原発事故の影響で原子力発電を廃止すべきという主張が主流になった。その結果、もともと2011年に運転開始を目指していた第四原子力発電所は2015年に正式に凍結された。原子力発電の代わりに、現在注目されているのは太陽光・風力・水力などの再生可能エネルギーである。しかし、今回のツアーで実際にメガソーラーを目の当たりにし、今までなかった印象を受けた。平野一面に広がるメガソーラーは壮観で迫力があるが、その大部分は周りに鉄フェンスと関係者以外立ち入り禁止の看板があり、周りの景観に融け込めない異様な風景という印象が非常に強かった。   再生の会と村の方々のお話を聞くと、理想的な太陽光発電は売電目的ではなく、コミュニティー使用が中心であり余った分だけ売電する形であるが、現在飯舘村の場合は、まだ村に帰還する人口が少ないため、このような状態になった。畑作として使わないまたは使えない土地を活用するために、再生可能エネルギーのメガソーラーの設置は一つの方法かもしれないが、村の風景に融け込まない鉄フェンスに囲まれたメガソーラーのままでは、村にとって貴重な自然景観が少しずつ外来の資本により蚕食されるような気がしてならない。外来資本の投資は非常に重要であるが、村を主体として考えず、資本主義至上の外来資本をそのまま不用意に受け入れたら、村にとって最終的には相容れない癌のような存在になってしまう恐れもあるのではないだろうか。飯舘村におけるメガソーラーはすでに目立つ存在になった。この目立つ存在を如何に工夫し、村に融け込ませ、村の風景の一部にするかは重要な課題だと考えられる。   メガソーラー以外、震災前から引き継いできた全国各地方と共通する課題は、人口の過疎化と高齢化である。これらの問題を解決するために、平成30年度から飯舘村は移住・定住支援事業を展開している。「10年間住めば、1区画200坪の分譲地を無償で譲渡」、「500万円までの住宅新築費用を補助」、「2年間新規職業に就くための活動支度金の支給」など非常に魅力的な内容であり、村はこの事業に力を注いでいる。   また、すでに避難先で新しい仕事と生活をはじめ、帰村しない人あるいはできない人のために、佐須行政区地域活性化協議会は、様々なイベントを企画し、ボランティア・学生・外国人・移住検討者などの人々との交流を通し、当地の歴史と文化を継承し、新たな地域づくりを図ろうとしている。こうした実質的な移住支援と人との交流による歴史・文化の継承=「心の故郷作り」が同時に推進され、飯舘村だからこその特徴=「飯舘村色」が見つけられたら、村は「再生」に止まらず、さらに一歩前に進む飯舘村の「新生」も期待できると思う。村の「新生」への期待を込めて、これからも飯舘村を見守っていきたい。   スタディツアーの写真     <江永博 CHINAG_Yung_Po> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。現在早稲田大学大学院文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文執筆中。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。       2018年6月28日配信  
  • 2018.06.21

    第11回SGRAカフェ「日中台の微妙な三角関係」へのお誘い

    SGRAでは、良き地球市民の実現をめざす(首都圏在住の)みなさんに気軽にお集まりいただき、講師のお話を伺い、議論をする<場>として、SGRAカフェを開催しています。下記の通り第11回SGRAカフェを開催しますので、参加ご希望の方はSGRA事務局へお名前、ご所属と連絡先をご連絡ください。   ◆林泉忠「日中台の微妙な三角関係」   日時:2018年7月28日(土)15時~16時半 会場:渥美財団ホール http://www.aisf.or.jp/jp/map.php 会費:無料 参加申し込み・問合せ:SGRA事務局 Email:  [email protected] Tel: 03-3943-7612   チラシ(PDF版)   講師略歴: 林泉忠(リン・センチュウ Lim Chuan-Tiong) 台湾中央研究院近代史研究所副研究員、国際政治学専攻。2002年東京大学より博士号(法学)を取得、琉球大学法文学部准教授、またハーバード大学フェアバンク・センター客員研究員などを歴任。2012年より現職。著作に『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス:沖縄・台湾・香港』(単著、明石書店、2005年)。   講師からのメッセージ: 李克強首相の訪日により日中関係が暫く良好な方向に向かう見通しなので、2年前の蔡英文政権の発足で「黄金期」を迎えたと期待される日台関係は難しい段階に入ると思われます。そもそも日中関係と日台関係はどのような関係にあるのでしょう?中国にとっていわゆる「台湾問題」は対日関係に影響する3大要因のひとつであり、日本にとっての中国は経済上の最大のパートナーで最も重要な対外関係のひとつです。他方、日本と台湾は国交がないにも関わらず、互いに親近感が最も高く民間関係は最良な状態が続いています。さらに、日本でも注目される中台関係はよくも悪くも日中関係にも影響を与えています。いったい、複雑で微妙な日中台三角関係をいかに捉えればよいのでしょうか。 皆さんと一緒に考えてみたいと思います。    
  • 2018.06.14

    エッセイ572:金跳咏「日本刀工房に弟子入り」

    (私の日本留学シリーズ#22)   日本刀は日本国内を超え、全世界的に有名である。素敵な形のみならず、強くて折れない高度な性能が世界的に認められたからだ。しかし、「日本刀はどのように作られるのか」と聞いても詳しく答えられる人は意外と少ない。ここでは日本人なら誰でも知っていながらも、意外に詳しくは知らない日本刀、そして6ヵ月間過ごした日本刀工房での経験について少し話したい。   刀に関心を持つようになったのは、韓国の大学で考古学を専攻してからである。学部4年生の時に卒業論文テーマを何にしようか悩んでいた時、指導教員から派手な装飾で飾られた裝飾大刀を研究してみないかという提案を受けた。三国時代(韓半島に高句麗、新羅、百済が競合していた4-6世紀)に製作され、古墳に副葬された裝飾大刀の研究を進めつつ、自然と刀に関心をもち、結局修士課程まで大刀の研究が続いた。しかし、学部・修士課程で進めた裝飾大刀の研究は、素直に言うと、刀身そのものに関する研究というより刀柄に関する研究であった。1500年前に製作された「装飾」大刀は、その名称からも分かるように、刀柄に龍、鳳凰を金、銀、銅などの貴金属を使用して華やかに完成される。私をはじめとする古代刀の研究者たちは、刀身より刀柄を集中的に研究しているのだ。   しかし、殺傷という刀の本来の目的を考えると、大刀研究の核心は刀身にあるといえよう。「どうすれば刀身の研究ができるだろう」という悩みに対する解答は、修士課程を卒業する頃突然に訪れた。東京工芸文化研究所の鈴木勉先生から連絡が来たのだ。国立九州博物館との共同プロジェクトで福岡県宮地嶽古墳から出土した7世紀代の大刀を復元するが、研究員として参加しないかというお誘いであった。私の日本留学は、このメール1通から始まった。   工芸文化財研究所に到着した日が2013年3月20日、東京から福島市立子山にある日本刀工房を訪ねたのが27日。来日してから東京にいた時間は僅か1週間だけであった。当然ながら日本語も下手だったため、日本刀工房での生活はすべてのことが予想外だった。振り返れば、日本刀のみならず、日本文化や日本語などについても全く知らなかったため、却って勇気をもって工房に行くことができたのかも知れない。   工房での生活は極めて単純である。朝6時に起き、工房を掃除する。工房や庭の床を掃き、ほこりが飛ばないように水をまく。終わったら師匠が使用する道具を整理する。朝7時30分に朝食をする。朝食が終わったら皿を洗い、ゴミを分別する。朝9時から午後5時半までが仕事である。毎日、仕事は異なるが、刀製作に必須である炭を切る作業が多い。師匠が刀を作るときは、補助の仕事を手伝う。昼食は、午後12時から1時まで。日課を、このように整理すると、簡単なように思われるかもしれないが、それが言葉のようには簡単でない。ほとんど力仕事であるため、肉体的に容易なことではない。   日本刀の製作工程を簡単にまとめると以下のようになる。材料は玉鋼(たまはがね)だ。たたら製鉄によって作られた玉鋼は、純度が非常に高い良質の鉄である。適当量の炭素が含まれ、焼き入れ(熱処理)によって高性能の刀を製作することが可能である。丈夫であり、折れない日本刀の秘訣は、この玉鋼という優れた素材にある。刀を製作するのに重要な作業の一つが、玉鋼を炭素量ごとに分けることである。玉鋼内には、炭素量が多い部分(高炭素)と少ない部分(低炭素)がある。高炭素の玉鋼は、焼き入れによって硬くなるが、低炭素の玉鋼は焼き入れ効果が効かない。ゆえに、高炭素の玉鋼は刀の刃に、低炭素の玉鋼は刀身の背中に使用する。   このように玉鋼に含まれた炭素量を区分するため行う作業を「水べし」と「小割り」という。次に、炭素量ごとに分けた玉鋼を鍛える。炉で加熱した玉鋼を数回折り、組織を均一にする。この工程を「折り返し鍛錬」という。その後、折り返し鍛錬した高炭素の玉鋼で、低炭素の玉鋼を包み込むようにするが、この工程が「造り込み」である。「造り込み」によって高炭素の玉鋼が刃に、低炭素の玉鋼を背中に配置される。こうやって合わせた鋼塊を鍛造して刀身のように延ばすが、この過程が「素延べ」である。「素延べ」で長い棒の形になった玉鋼に刃を立てる「火造り」を行う。刀の形になると「焼き入れ」をする。焼き入れとは、真っ赤に焼けた刀を水などに入れ、一気に冷やすことである。焼き入れによって刀身内にマルテンサイトという組織ができ、刀として機能を果たすことができるようになる。   こうやって完成される刀の長さは、普通1m前後である。しかし、私が参加して作った宮地嶽古墳の刀は全長が240cmに達する。6ヵ月にわたって復元した刀身に柄や鞘まで組み合わせると3mを超え、長さでは日本一である。復元した大刀は現在、九州国立博物館に展示されている。片手では振ることさえできない3mの大刀を、1500年前の九州の人々はどうして作ったのだろうか。おそらく武器よりは祭りに使用されたのではないだろうか。   福島で過ごした6ヵ月間の刀身製作の経験は、以後、日本で留学を決める決定的なきっかけとなった。博士課程で進めた金工品も、鉄製工具を使用して製作するため、日本刀工房での経験は研究の重要な土台となった。   日本刀工房で学んだのは、単に刀の製作技術だけではない。一生何かにはまって生きること。朝から晩まで、ひたすら刀を作り続けることに集中する「刀鍛冶」の精神である。もしかしたら忙しい現代を生きていく私たちに必要なものかもしれない。発掘現場で見つかる遺物を作った昔の人々も、「刀鍛冶」のような心構えであったのであろう。   <金跳咏(キム・ドヨン)Kim_Do-young> 2017年度渥美奨学生。韓国出身。専攻は考古学。2013年度来日。2018年総合研究大学院大学文化科学研究科博士号取得(文学)。現在、国立歴史民俗博物館外来研究員     2018年6月14日配信  
  • 2018.06.07

    エッセイ571:林泉忠「日台関係は日中関係に従属するのか?」

    (原文は『明報』(2018年5月14日付)に掲載。平井新訳)   10項目の協力協定に調印するだけでなく、天皇陛下や安倍晋三首相との会見を特別に調整したのも、日本が中国ナンパー2の訪日を重視していることを示すためであり、安倍首相自ら、李克強総理の北海道訪問に全スケジュールを同行する力の入れようであった。前例のない空港での見送りまで行い、中国の歓心を得ようという露骨な「親中劇」を演じてみせ、その待遇は、まさに日本の最重要同盟国であるアメリカのトランプ大統領訪日に匹敵するレベルであった。   ○台湾は「結局は日本に捨てられる」のか?   安倍首相が、なぜここまで心を砕いて、李克強に破格の高待遇を行ったのか、それはここ数年来の日中関係の発展と安倍政権自身の目論見と関係があるが、これについては別稿で論じる。興味深いのは、北京で交わされている台湾に関する世論の中に、「最も親日」の台湾は「結局は日本に捨てられる」とか、「一番損するのは台湾だ」云々といった種の論調が見受けられることだ。これが中国のネット住民達の自らの立場に基づいた自然な反応であるとすれば、それほど気にする事もないかもしれない。しかし、少なくない中国の対台湾政策の専門家がこうした世論に同調しており、これはおそらく北京の日台関係の本質と構造に対する正確な理解と判断に影響を与えることになるだろう。   ここで問題となるのは、日中関係と日台関係の間は、いったいどのような関係にあるのかということである。北京における政権のブレーンや専門家の基本的な認識は、「日台関係は日中関係に従属している」というものである。この見方は相当程度、「台湾は中国の一部であり、中国の一部としての台湾と日本の関係は、日中関係と同等な関係であり得ない」という思考に基づいている。ここでしばらくポリティカルコレクトネスから離れ、客観的に考えれば、こうした認識は必ずしも正しいとは言えないだろう。なぜなら、台湾の対外関係は完全に北京の対外関係に制約されているわけではないからである。   たとえ台湾の外交空間が頻繁に北京の圧力を受けるとしても、いかなる理由であれ、台湾が一定程度の活動空間を維持しているというのは事実である。輝かしいとは言えない18の「外交関係国」及び、中国大陸をはるかに凌ぐ139カ国以上のビザ免除待遇以外に、さらに重要なのは、たとえ国交がなくてもアメリカ及び日本と緊密な関係を維持し続けているということである。アメリカを例にとれば、「台湾関係法」がまったく動揺することなく40年近く継続されているだけでなく、最近では、さらに台湾との関係を強化する「国防授権法案」と「台湾旅行法」が登場した。これは、台湾の対外関係が完全に北京の制約を受けているわけではないことの証である。日台関係もまた同様で、双方の関係は日本が1972年に北京を選択したために台北との断交とあいなったが、それでも日台間で現在までに調印した協定は61項目に上る。   李克強の今回の訪日日程の成功は、日中関係が、経済貿易関係を含め、尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる衝突により最悪の状態となった2012年より前の水準にまで完全に回復したことを象徴する出来事である。このような日中関係の全面回復が、日台関係の発展にとってプラスとなるか否かは、検討に値する問題である。   ○日台関係の「黄金期」はすでに過ぎ去った?   両岸(中台)関係と日台関係の関係について、日本の学者の間で多く見られる一つの認識とは、「両岸関係が良ければ、それは日台関係にとっても良いことだ」というものである。この認識における基本ロジックは、両岸関係が良好な際、北京側は台湾による対米及び対日関係の強化の動きを「大目に見る」というものだ。馬英九は、自らの政権8年の間に日本と28項目の協定に調印した。その中には影響の大きな「日台漁業協定」や「日台租税協定」なども含まれ、こうした認識の由来を窺い知ることができよう。   こうした考えについて、筆者はその一定程度の有効性は否定しない。一方、中国の台頭以後、両岸関係のパワーの差は日増しに大きなものとなっており、アメリカ側においても日本側においても、台湾海峡のパワーバランスが崩れることへの戦略上の焦りが存在している。蔡英文総統の就任以後、北京側は蔡英文政権が「92年コンセンサスを承認しない」ことへの不満から、軍事的にも外交的にも、さらには民間交流においても台湾に圧力をかけ続けている。このことによって、アメリカが台湾との関係の強化策を次々と打ち出す情勢を生み出し、「国防授権法案」及び「台湾旅行法」以外にも、台湾側に「国産の潜水艦」を建造するために必要な技術協力等の提供を許可している。   言うまでもない事だが、日台関係に影響を与える要素と米台関係に影響を与える要素は異なる。戦前の台湾植民地統治という「原罪」から、日本にはアメリカのような「台湾関係法」の成立を欠いており、また46年前の日華断交ならびに北京との「国交正常化」以後、台湾との関係の処理において、日本側は非常に慎ましく、北京との約束を遵守して台北との「民間交流」という枠組みを維持しており、台湾との政治的な関係の強化はたいへん厳しい道のりとなった。そしてさらにデリケートな安全保障上の日台協力となれば、最近までほとんど空白状態といわざるを得ないだろう。   しかし、中国の台頭に対する不信と台湾海峡におけるパワーバランスの崩壊に対する憂慮は、特に1960年代以来日本の歴代の政権の中で最も親台湾派の安倍首相就任以降、日本側は台湾との関係強化の機運に明確な転機が見られるようになったと言える。たとえ、日本にとって台湾側が完全に安心できる相手とは言えなかった馬英九政権期ですら、馬政権が完全に「中国へ傾倒」するのを防ぐために、双方の関係強化への尽力は忘れられることはなかった。   そして2016年蔡英文政権が発足してからは、日台関係は数十年に一度の「黄金期」を迎えたといえる。日本は蔡英文政権時代に対し高い期待を抱いてきた。台湾側が日本食品輸入制限の解禁に関して取り付く島もない対応を見せている間であっても、日本は北京からの圧力を押しのけて「交流協会」を「日本台湾交流協会」へと改名し、また赤間二郎総務副大臣を台湾に派遣し、断交後初の副大臣級の日本官僚による訪台を行うなどしているのがその証左である。しかし、日中関係が昨年後半から明らかに穏やかな兆しを見せ始めた状況において、今後はこうした台湾との政治的関係強化の措置は停止されてしまうのだろうか。   ○日台関係は日中関係に従属するのか?   日中関係は今般の李克強の訪日後に全面回復の機運を得ることとなった。特に、安倍首相は今年後半に中国訪問を期待しており、さらには来年6月に開かれるG20サミットに習近平国家主席を招待し、国賓としての習の来日を待望しているとされる。日本がこうした「中国を求める」機運の下で、台湾との政治関係のさらなる発展を模索し続けることはないだろうと予測するのは難しくない。   しかし、このことは双方の実質的関係に全く発展の余地がないことを意味しない。「敏感ではない」経済貿易関係や地方交流および文化交流をさらに継続して進めていく以外にも、「敏感」な問題である安全保障分野を切り拓いていく余地はあるだろう。日台関係は国交がなくとも、共に東シナ海の側に位置しており、「不測の事態を防ぐ」ために、双方の専門家は安全保障分野における対話の必要性を認めるだろう。ちょうど5月に成立した台湾国防部直轄の「国防安全研究院」が、日本防衛研究所などとの間に制度化した「日台安全保障対話メカニズム」を発足させることは想像に難くない。   東アジアの両大国である中国と日本の関係は、現在のところ全面的回復という歴史の転換点にあり、そのことは東アジア地域の平和と安定にプラスであることは疑いようもない。しかし、日中互いの国家戦略は決してそのことで変化するというわけではなく、習近平の「新時代」における中国の「グローバルガバナンス」思想を反映する「一帯一路」が依然として進展しつつあり、日本側の中国への牽制を主軸とした「インド太平洋戦略」も変わらずに続くだろう。民主主義を拒絶する中国の台頭に対する不信と、両岸統一が日米の国益にそぐわないというアジア太平洋戦略の方向に関する基本的な思考枠組みに基づけば、日中関係は確かに「小春日和」を迎えたと言えるものの、そのことによって日本が台湾との「民間交流という枠組み」の下での親密な友好関係の推進を変えたり疎かにしたりすることを意味しない。この点を理解すれば、日中関係と日台関係の間は単純な従属関係ではないことが理解できるだろう。   <林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。       2018年6月7日配信  
  • 2018.05.31

    エッセイ570:イザベル・ファスベンダー「『ホーム』とは何か?」

    (私の日本留学シリーズ#21)   実は、このエッセイで何を書けばいいのか長い間想い悩んでしまって、言葉がまったく浮かんでこなかったので〆切をかなり押してしまった・・・。何となく、今までの、自分の日本での経験について書きたいと思い始めて筆をとった。決して難しいテーマではないはずだけれど、自分の今までの日本での経験を、なぜか、なかなか言葉にできない。このエッセイを10回ぐらい書こうとしても紙の白さに変わりはないのはなぜ?   私が日本にいるということ自体が、「留学」という範囲を大幅に越えてしまった気がする。日本とは私にとって一体何だろうか?と思ってしまう。日本における経験について再考察することは自分の「ホーム」はどこにあるのか?という自分のアイデンティティを考える、とても難しい問いにぶつかる。だから簡単に言葉にならなかったのではないかと今更ながらに気付いた。   日本に「ゲスト」として滞在するという新鮮な気分はもう全くない。そして、出身地であるドイツに一時帰国する際には、毎回カウンター・カルチャーショックが大きく、自分はもうその土地の人間ではない、母語にすら自信がないという不思議な気分になる。友達と話すときに急に日本語になったり、スーパーのレジでお辞儀をして変な目で見られたり。20年間あの街に住んでいたのに、自分が宇宙人であるかのような疎外感を感じる。他方、日本でも宇宙人であることに変わりはない。外見で判断され「外の人」として見なされるから、「ホーム」と言い切れるワケでもない。そして、昔から私の心の「ホーム」である母、姉、そして友人はここにはいない。でも、私の存在そのものを支えてくれる新たな心の拠り所、「ホーム」の全てである私が選んだ夫と子ども、そして新しくできた大事な友人達はいまもここで、傍にいる。   日本にも私には大切な家族がいて、何もそこまで複雑ではないはずなのに、なぜか、この白い紙を覗き、ハラハラしながら私の「ホーム」は一体どこにあるのか、「ホーム」というのは何か?ということを考えてしまう。   高校を卒業して、早くあの小さなつまらない街から出たかった。12歳ぐらいからその瞬間を待っていた。卒業後、まず5週間オーストラリアに旅に出てから、その後にジュネーヴに行って、1年間、高校で一生懸命に学んできた大好きなフランス語を勉強しながら、住み込みでベビーシッターをして2人の子どもの面倒をみた。そこで知り合った日本人女性のおかげで日本語に興味を持ち始めて、ベルリンで日本学を勉強することを決めた。大好きになっていたスイスが恋しくて、1年半後にチューリッヒに移住。その後、大阪へ留学し、またチューリッヒにもどって、転々としていた。定住しないことがとても気持ちよかった。そして2011年にチューリッヒ大学の日本学部を卒業した後、2回目の留学に旅立った。1年半後に又チューリッヒに戻り、修士号を取得するつもりでいたけれど、しかし、運命の歯車は別の方向に回ることになる。当初の予定とは異なり、正式に東京外国語大学大学院の修士課程に進学することになったのだ。その時に、今の夫に出会って、知らないうちにますます、日本は留学地ではなくなり、定住地になってきた。   2011年に旅立った時には予想だにしなかった決定的な出来事は、もちろん子どもができたこと。2016年7月に京都の小さな助産院にて最愛の「渚」が産まれた。私は20年間ずっとドイツにいたにもかかわらず、この子にドイツ語の名前を与えることは考えもしなかった。私たちのとても自然な物語の中で「渚」という名前がおりてきたのだ。   その渚ももうすぐ2歳になり、まさに幼児(Infancy)から抜け出して言葉を修得しようとする最中である。毎日、その過程を観察するのは、面白くて仕方がない。自分の子どもがドイツ語より日本語を母語にしているということは、とても不思議な感じがするが、違和感はない。そう考えると、どう考えても「留学」など卒業してしまっている。嬉しい反面、懐かしい気持ちにもなる。でも実は、今後どこに行くか、どこに住むか、どこが「ホーム」になりうるか、不安にもなるけれど、将来まだまだ様々な形での「留学」が待っているかもしれないと思うと、日本に「留学」しに来た時のあのワクワク感がどこからか改めて湧いてくる。結局人生のすべてが「留学」であるはず。知らない土地に行って、知らないことを学ぶという態度は一生忘れたくない。その気持ち自体が「ホーム」であるかもしれない。未知の輝きに満ちた瞳をもつこの可能性の塊を寝かしつけながら、ひしひしと私はそう感じ、想うのである。   <イザベル・ファスベンダー☆Fassbender,_Isabel> 渥美国際交流財団2017年度奨学生。ランツフート(ドイツ)出身。2011年チューリッヒ大学(スイス)日本研究科卒業。2014年東京外国語大学大学院総合国際学研究科地域国際専攻にて修士号取得。現在、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程国際社会専攻に在籍、博士論文を執筆中。2018年4月から京都外国語大学と同志社大学にて非常勤講師としてドイツ語と日本社会について教えている。専門は家族社会学、ジェンダー論。     2018年5月31日配信  
  • 2018.05.24

    エッセイ569:ジョセフ・アンペドゥ・オフォス「日本での運転から学んだこと」

    (私の日本留学シリーズ#20)   日本に来て1月も経たないうちに、私はある体験をした。それは最初で最後となるものではなく、その後も繰り返し体験することになる、日本文化に染み付いたものであった。その体験とは,電車の線路沿いの道路の改修に関するものである。驚くべきことに、作業員たちはたったの12時間で1kmほどの道路を掘り起こし、舗装し、そして塗り直したのである。ある日、私は午後9時頃に研究室から宿舎に帰る際に、作業員たちがバリケードや作業用の道具、照明などを準備しているのを目にした。そして翌朝8時、研究室へ向かう電車に乗るために歩いていると、なんと昨夜工事の準備をしていた道路が完璧に改修されていたことに気づいた。私はこのことにとても感心し,“作業員たちはたった一夜でどうやって作業を終えたのだろうか?”、“一体このメンテナンスはどの程度もつのだろうか?”といったことを考えながら駅までの道のりを楽しんだ。   他の国であれば、1kmもの道を改修するには何日、あるいは何週間もかかっただろう。この道は京王井の頭線の駒場東大前駅の近くの道だった。私はこの体験から、メンテナンスが素早く行われることは社会をより良く回すことにつながるということを学んだ。この体験は例外ではなく,むしろ日本社会のあらゆるところに見られるものであった。高速道路や一般道路を走ればこの体験はありふれたものであるとすぐに気づくだろう。もちろん改修が頻繁であるからといって、すぐにやり直さなければならない雑な仕事ぶりを暗示するものではない。むしろ安全と安心のために道路の改修は常に行われているのである。   私が日本の道路から学んだことはもう一つある。それは高速道路を運転する時、特に道が混雑している時には常に周りの人がどうしているかをよく見て、彼らに従って動くべきだということである。急いでいるからといって“決まり”から外れた動きをすると、かえって遅れることや後悔することにつながるからだ。例えば、片側2車線の道路で、隣の車線の方が車通りが少なく早く進んでいるように見えても、安直に車線変更するのはお勧めできない。なぜなら空いている道路の出口は実は混み合った高速の入口につながっているかもしれないからである。道路の標識は高速道路の入口や出口から1~2km程度しか離れていないところにしかないことがあり、気づいた時にはもう遅い、ということもある。ここから学んだことは、急ぐことは早く物事を進めることにはつながらず、むしろ痛い目にあう可能性もあるということだ。人生は急がず、ゆっくりと1歩ずつ進めばいい。   日本のドライバーの素晴らしいところは、常に感謝の気持ちを表すための準備をしていることである。他のドライバーに道を譲った際には、ほとんどの人が「ありがとうございます」とハザードランプを2、3回点滅してくれる。アクアラインや常磐高速、東名高速、首都高などで必ずと言っていいほど目にする光景である。ここから、他人が優しさや親切心を持って接してくれた際には感謝を表すべきだということを学べる。   私にとって、運転は昔から身の回りで起きていることを観察し、学ぶ場であったが、日本で運転することで新しく学べたことは思ったよりもたくさんあった。このような経験から根気や忍耐、勤勉さ、謙虚さ、そして近所の人を含む環境への思いやりなどを学んだ。   英語版(原文)   <オフォス・ジョセフ・アンぺドゥ Joseph_Ampadu_Ofosu> ガーナ出身。東京大学大学院新領域創成科学研究科先端エネルギー専攻小紫研究室博士課程。研究テーマは、未来の宇宙推進応用のためのレーザープラズマ物理とレーザー支持爆轟波。現在、イマジニアリング株式会社でプラズマアプリケーションの研究開発を行っている。     2018年5月24日配信
  • 2018.05.17

    エッセイ568:マグダレナ・コウオジェイ「アウシュビッツ強制収容所博物館を訪ねた1日」

    去年の9月に3週間ポーランドに帰った。親孝行と言うか、毎年必ず1回は実家に帰るようにしている。そして、去年はちょっと特別で1人の日本人の友達を連れて帰った。そうすると、ポーランドの観光でもしようという話になるのは当然であろう。ポーランドに来る多くの外国人がアウシュビッツ強制収容所博物館を訪ねる。私の実家は、そこから車で約1時間の距離なので近い。私自身は既に4回見学している。中学の時に1回、大学生の時に3回で、毎回外国人の友達を連れて行く。英語にはダーク・ツーリズム(dark_tourism)という言い方があって、まさに「暗い観光」といえるのかもしれない。人間は残酷で暗いものに引かれるということであろう。   晴れの日も、吹雪の日も、年中無休で開いているアウシュビッツ強制収容所博物館。昼間は混雑しているので自由に見学することができず、グループごとに行動しなければならない。そしてグループごとに博物館の社員であるガイドがつく。今回は日本人の友達と一緒だから、初めて日本語のガイドがついて見学することになった。中谷剛さん。ポーランド滞在30年近く、ガイドの仕事も20年以上のベテランである。   5回目の見学だからどういう話が出てくるのかだいたいわかる私が、あの有名な「労働は人間を自由にする(Arbei_macht_frei)」という入り口の門を通ると、泣きたくてたまらなくなる。どうして人間が他の人間にあんな残酷なことをさせたのか、そういう単純な気持ちで悲しかった。しかし、戦争も暴力も体験していない私が見学したと言っても、本当の残酷さはいくらも想像できないことで、センチメンタルな気持ちに過ぎなかったのかもしれない。   中谷さんは、早口でどんどん話が進む。グループは12-13人ぐらいで、私以外はみんな日本人であろうという人たち。強制収容所の歴史、組織、囚人の生活、監視人のことなどを聞き取ろうとしている。表面上、強制収容所はとても近代的な性格を持っていた。レンガの建物が並び、幼稚園もあり、囚人は給料ももらっていた(実際は、一切お金は使えない状態だったが)。ガス室での死、収容所での飢餓。囚人を使った医学的な実験。囚人が反対運動を起こさないために、囚人の間で階層制度を作り、囚人同士お互いに連帯や同情を持たせないように、囚人が囚人を監視するシステムなど。ヨーロッパの20世紀の歴史、反ユダヤ主義の歴史、ドイツと日本帝国のつながり、長崎に住んだことがありアウシュビッツで殺され、聖人になった神父マキシミリアン・コルベの話。   そして、中谷さんの話が知らないうちに現在にまで広がる。私たちにまで広がる。あの医学実験は、私たちのためになったのでは?当時のドイツ企業が強制労働を使い、それが今の経済成長に繋がっているのでは?もちろん仮定に過ぎない話だが、自分にとってのアウシュビッツの存在が、少しずつ大きく、リアルに見えてくる。また、当時の人たちは、ユダヤ人に対してある固定観念を持っていたから、強制収容所にユダヤ人を入れやすかったと言えるが、現在生きる私たちは誰に対してどういう固定観念を持っているのだろう?ヨーロッパでの難民の話、日本での部落民や少数民族の話。ドイツと日本でのヘイトスピーチに関わる法律とそれに関わる問題。   参加者はみんな少しずつうなずきを控え、さらなる沈黙に陥る。他人の歴史が自分のもののように見え、居心地が悪い。被害者、加害者という単純な枠があるにも関わらず、自分がどこに所属しているのか、自分は「いい人」と思っていたのが本当なのか、あの強制収容所を作った固定観念だって今も生きているのではないか、などと考えさせられる。   中谷さんは、「Aが正しいBがだめだ」と言うような単純な答えは出さない。日本人だからこそ、そういう話がしやすいのかもしれない。アウシュビッツ博物館を訪ねるユダヤ人とポーランド人(ロマ(中東欧に居住する移動型民族)や同性愛者も含む)は、そんなニュアンスがあって複雑なストーリーを聞きたくないかもしれない。加害者は加害者、被害者は被害者だろう。   2時間が経って、アウシュビッツを出て、近くにあるビルケナウという支部の強制収容所に向かう。その時に、中谷さんと初めて雑談し挨拶をする。中谷さんがびっくりして「あら、僕は今日初めてポーランド人にガイドをした、申し訳ない」というようなことを言う。謙遜の言葉かもしれない。あるいは、相手によって語れる歴史ってだいぶ違ってくるということであろう。考えさせられることばかり。次の世代にどうやって歴史を伝えるかと真剣に考えている中谷さん。   今回のポーランド旅行で1番刺激になった1日は歴史と現在を繋ぐ中谷さんの話を聞いた日だった。天気は晴れ、ビルケナウの芝生はまだ青かった。   <マグダレナ・コウオジェイ Kolodziej, Magdalena> 2017年度渥美奨学生。2018年デューク大学Art,_Art_History_Visual_Studies博士号取得。8月からデューク大学でポスドク非常勤講師として1年間日本美術史を教える。専門は、東アジアの近代美術史。     2018年5月17日配信
  • 2018.05.17

    エッセイ567:宋 晗「役に立つか立たないか」

      3月で学位を取得することになる。研究職のパイが小さくなっているなかで、すんなり就職が決まった自分は、大変幸運である。8年間在籍していた研究室からはなれるのは、やはりなんとしても名残惜しいもので、いままでの苦労も美しい過去のように思えてきた。もっとも過去はいつでも美しいのであるから、役に立たない感傷である。   役に立たないというと、世間では文学研究がまず想起されるようだ。まるで「役に立たない」が文学研究の枕詞かのようである。近年、この文学無用論はますます勢いを強めているが、率直にいって、文学の価値を分かりたくない人にとって文学研究は何の役にも立たない。無論、「役に立たない」というフレーズをどんなシチュエーションで、誰が誰に向けていったのかによって、反論は幾通りか存在するのであるが、つまらないと感じてしまったが最後、そこに執着する必要はないわけで、他のレクリエーションを楽しめばよろしい。文学研究のなかでも古典文学研究はいつ役に立つのか特にイメージしづらいようで、私などもファッションでやってるんだろうと何回かいわれたことがあった。だからこそ文学に堪能でない御仁は適当にシェイクスピアを文学無用論の槍玉に挙げるようであるが、とんと話の種にならない平安朝漢文学を専門とする私などにとってみれば、槍玉に挙げられるだけでもシェイクスピアは古典文学の顔なのだと思い、羨ましいかぎりである。   くやしまぎれにいうと、平安朝漢文学は平安時代では非常に役に立っていた。現代でいえば小説・テレビドラマ・ポップソングをあわせたハイカルチャーだったわけであるから、とても面白い文芸だったようである。いや、面白い文芸だったと断言しよう。だからこそ天神様の菅原道真は屈指の漢詩人としてふんぞり返っていたし(現存する作品を読めば自信家だったことが容易に想像される)、紫式部に「若紫はどこにいますか」ととぼけた質問をしたという藤原公任も、和歌を詠じて藤原道長に褒められたときは「いやはや、漢詩を作ったらもっと評価されたでありましょうな」などとうそぶいたのである。   平安朝由来の漢詩は近世に至っても儀礼的にではあるにせよ宮中では作られ続けられたのだが、つまり漢詩文は教養として、コミュニケーションのツールとしてつぶしが効いたのである。漢詩が作れなくても、名作名句を覚えておけば他人から一目置かれるので、今の新卒社員が日経新聞を社会常識として読むようなものである。読めばたちどころに儲けの種になるかはわからないが、読まなければ馬鹿にされるのである。近頃の若者は無学だ向上心がないだなどと陰口をたたかれるかもしれないのである。   つまりどういうことかというと、私は漢文学を研究することで、役に立つものはいつか役に立たなくなることが結論として得られたのだ。盛者必衰のなんとやらで、いまを時めく分野もいつかは無用になる時が来るのだろう。それでも、アクチュアルなコンテンツとしての魅力が色褪せてしまっても、文学が古典として後世に享受されるのは、一体どういうことだろうか。それはいわゆる人間の普遍の真理が古典に潜んでいるからに他ならない。自分がこれまでの人生で思い悩み、悟ったものはすべてはるか昔から伝えられてきた古典に書いてある。普段は文学を馬鹿にする人が、ひとたび外国人を前にするとむやみやたらに古典文学をふりかざす場面を、私は日本と中国で何度となく見てきた。結局、誰もが古典にこそ文化の精華が宿っていると認識しているのである。他国に向けて自国の特徴をアピールするときに古典文学はまだ役に立っているのである。   そうであるならば、分業体制が高度に発達した現代において、古典文学を解読できる専門家を育成することも大事なのではないだろうか。文学研究とは知のインフラのようなものである。そして私自身に立ち戻れば、研究は私の役に立っているのである。このような所見を、日本留学を通じて得られたことは非常に幸運なことといわねばならない。   <宋晗(そう・かん)Song_Kang> 2017年度渥美奨学生。2018年東京大学大学院人文社会系研究科博士号取得(文学)。現在、フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科助教。専門は平安朝漢文学を中心とする日中比較文学研究。     2018年5月10日配信
  • 2018.05.03

    エッセイ566:ジッリォ「私の日蓮(2):日蓮の多面性」

    ◆エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮(2):日蓮の多面性」   数年前から鎌倉期の日蓮(1222~1282)の「写本遺文」(真蹟非現存、真偽未決、殆どが15世紀から文献として始めて歴史に登場)という資料を研究する機会をいただいている。その際に日蓮遺文の思想史的研究について色々思うことがあったので、この度はエッセイの形で発表させていただきたい。   日蓮遺文における特定の思想の全体像を、思想史の観点から明らかにしようとするとき、3つの問題に慎重にならなけなければならない。1つは日蓮の多面性である。2つ目は「思想史的研究」と「宗教的注釈」との違いである。3つ目はどのような主体性を前提に日蓮遺文の思想史的研究を行うべきかという問題である。「研究者の主体性」の価値を繰り返し強調している日蓮学者では現在、元早稲田大学教授の花野充道先生の存在が特に目立っている。筆者の場合はひとまず、「キリスト教の文化から仏教学研究へ」と、「生まれ育ちの文化環境から受け継いだ思想的なカテゴリーを乗り越えて」という道のりなので、今日蓮に対して存在するあらゆる伝統・解釈・カテゴリー・研究方法などを日本でひと通り学び、他方解体し乗り超えていこうとする主体性に必然的になっている。   日蓮の多面性について   日蓮は臨機応変で、多面的な思想の持ち主であり、同類のテーマに関しても、時と場と人によって異類の視点を展開してゆき、遺文に見られる数々の思想は、多くの文献の中でばらばらになっており、情緒的で非体系的な形で説かれることがある。また、佐渡流罪(1271~1274)を契機に「法華行者」としての自己認識が増し、彼の中で大きな変化も起きる。一言で言えば、日蓮はこういうテーマについてこう考えていたと思えば、そうでもないと述べる文献が真蹟の中でも出てくる可能性が常にある。   例えば、羅什訳『法華経』「如来寿量品第十六」所伝の「久遠実成」の釈尊はこの娑婆世界の一切衆生の主師親にして本尊とすべしと述べる遺文は数多いのだが、「我等が己心所具」の釈尊を述べる遺文もある。他に、日蓮が己自身に対して主師親の三徳を授ける遺文があり、末法時代において釈尊ほどの仏よりも法華行者と称せられる日蓮とその弟子たちのほうが大事であり、供養に値すると述べられる遺文も見られる。さらに、『法華経』はそのまま釈尊の身体・力・命であるという「経仏同一説」が述べられる遺文があるが、『法華経』を「師」とし、仏を「弟子」とする遺文も見られる。   要するに、諸宗派と各教団はどれも、ある程度まとまった思想体系を紹介しているが、宗教思想史を見てみれば、それを立てるとき、宗祖の何かを選び、何かを無視し捨てなければならない。「体系」というものは、合理性を最重要と考え、経験の世界に何らかのコントロールを厳格に定めようとして始めて成立するものだからである。だが、日蓮ほどの多面性は日本仏教史のなかでも特殊な事例であり、簡単にコントロールできるものではない。ある意味で、諸宗派と各教団の思想体系や日蓮を首尾一貫した解釈に閉じ込めようとする試みは、どれも一つ残さず彼の実際のあり方から逸する要素を必然的に含んでしまう。そのときはむしろ、日蓮をより柔軟に受け止められる自由な思想史的研究の価値が明らかになってくるのではないかと考えている。   問題は、日蓮をどのような存在として考え、それを前提に彼の遺文をどのように扱うかである。この点で、「思想史的研究」と「宗教的注釈」との違いを考える必要性が出てくる。(つづく)   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。博士論文を修正中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2018年5月3日配信
  • 2018.04.19

    エッセイ565:孫軍悦「この国の指導者、なんとかせなあかんと思うけど、ちゃうか?」

    就活、婚活、妊活、保活、習活、終活……活きることに忙殺される時代で、私も久しく世間に眼を向ける余裕がなかった。   1歳の息子を保育園へ送る朝、国会議員が駅前で演説をしていた。改札を出て、信号を待ち、道路を渡った約2分のあいだ、彼は延々と天気の話をしていた。息子は、街頭演説があるたびに身を乗り出して熱心に聴いていた。でも、息子よ、今は天気の話だ、お前の未来の話ではないのだ。   保育園から出て喫茶店に入った。授業を準備するために魯迅の『阿Q正伝』を開いた。が、隣のおばちゃんが話しかけてきた。   「何してんの?お勉強?えらいなあ。今の時代は勉強せなあかんな。おばちゃんの娘も言っとったわ、英語があかんから、昇進できへんって。娘はもう40やけど、東京で一人暮らししてんねん。こないだ、娘は指が痛いから病院へ行ってん、先生は何の病気かわからへんから、とりあえず薬を出してくれはったんやけどな、家に戻ったら失神して倒れたんや。おかしいやろ。おばちゃんも、大きい病院へ精密検査でも受けてきいやって言ってるけどな、仕事が忙しいからいけへんって。こないだ、こたつに入って寝てたら、焦げくさい匂いがしたって、新しいのをこうたらええのに。近くにホームセンターあるんやろうか。おばちゃん心配やけど、でもいかへん。いったらじゃまになる。   あんた結婚してんの?あ、そう、子供もいてはるの?ご両親は?あ、そう、中国からきてるの。おばちゃんは偏見もってへんで。昔働いてたところにも中国人の子何人もおったわ。みんなええ子やった。中国もいま大変やなあ。あれ、なんちゅうの?あたりや?あれほんまにかわいそうやわ。自分から車にぶつけていくなんて。あれは、国の指導者なんとかせなあかんと思うわ。ちゃうか。日本には、こんなかわいそうなことはないわ。」   私は何か言おうとしたが、何も言えなかった。間抜けな愛想笑いをしただけだった。おばちゃんの言っていることは誠に正しい。魯迅はロシア語訳「阿Q正伝」の序文に、次のようなことを書いた。人と人との間に築かれた高い壁のせいで、われわれはいま他人の肉体的苦痛だけでなく、精神的苦痛でさえも感じられなくされてしまった。小説が出版された後、「病的だと思う者、滑稽だという者、風刺だと考える者、あるいは冷嘲だと受け止めた者もいて、自分でさえも、本当は心の中に恐ろしい氷塊が蔵されているのではないかと疑ってしまうほどだ。」「ただ黙って生き、萎れ、枯死していく」沈黙の国民の魂に、たとえいかなる固陋があったとしても、魯迅は単に諷刺、冷笑するために書いたわけではなかった。   止まっている車にわざとぶつかっていくあたりやの男性の滑稽な姿も、傷つけられたと嘘を付いて賠償金を迫り、無辜の少年を自殺に追い込んだ老婆の不誠実さも、現代中国の国民の魂にほかならない。それに同情の念が微塵もなく、道徳的退廃ばかりを嘆き、国の指導者の責任に思い至るどころか、むしろ国家のために弁解めいた言葉を無意識のうちに探している私の心にも、やはりいつのまにか、恐ろしい氷塊が蔵されたのではないか。   だが、おばちゃんよ、病院へ行く暇もなく働き詰めた娘さんが独りで焦げ臭いこたつに潜り気を失うなんて、この国の指導者もなんとかせなきゃあかんと思うけど、ちゃうか。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んできたこの国の国民もその国の国民もあの国の国民も、もはや「国家」という高い壁を越え、他者の肉体的、精神的苦痛――それは紛れもなく自らの苦しみの鏡像に他ならないにもかかわらず――を思いやる余裕が持てなくなった。一度旋風が吹き荒れれば、赤でもグリーンでも熱狂する。このような現実ほど危機的な状況はあるだろうか。   喫茶店を後にして松屋に入った。一人の南アジア系の女性店員が水を注いでくれた。インド映画に出てくる女優のような大きな瞳だ。ある少年が食券を買い間違えたことを説明すると、彼女は首をかしげながら厨房に入った。5分ほど経つと、白髪のおじいさんが出て来て再び事情を聴いて厨房に入った。さらに5分経って、少年に小銭を握らせ、食券を買いなおすよう求めた。そういえば、この頃足繁く通った日高屋にも、日本人どころか、中国人の店員すらまだ一度も見ていない。大半東南アジア系の男性が中華鍋を振るっている。ここは、国籍も民族も性別も年齢も関係なく、低賃金の労働者と低所得の消費者が集う世界だ。グローバル時代の労働市場と消費市場には、中国人の作る毒餃子を日本人が食する、日本人の創る商品を中国人がボイコットできる、という阿呆な空想は通用しない。私がテレビ番組のプロデューサーなら、彼ら、彼女たちにマイクをむけたい。YOU、何をしに日本に来たの?YOU、日本に住み続けた理由は?YOU、どうして悠々自適の老後を楽しまず、こんなところで働いているの?YOU?YOU?YOU?   粒らの瞳の女性店員が作ったキムチチゲを平らげたとき、少年はまだお茶を啜りながら静かに待っていた。   コンビニに寄ると、名札に「リウ」とある青年が手早く商品の陳列をしている。時給820円、819円の最低賃金より一円高い。東大赤門前の瀬佐味亭のラーメンは一杯800円。税抜き価格なら、彼が1時間荷卸し、レジ打ち、声掛けしても、セサミンたっぷりのラーメン一杯が食べられないということだ。彼の納めた税金の一部は、沖縄県民の怒号のなかでオスプレイの配備に使われ、原発反対の住民の不安をよそに東電の事故処理に潰えてしまう。160円の交通代を節約するために一駅も二駅も歩く人は、1兆6000億の五輪開催費となると、訳が分からなくなる。滝川クリステルさんにもう一度やってほしい。「お・も・て・な・し」、「もっ・た・い・な・い」と。   年の瀬の北風は骨に沁みる。今夜雨が降りそうだ。明朝あの国会議員はまた駅前で天気の話をするだろう。彼に一言伝えてもらいたい。この国の指導者、いや、この世界の指導者たち、なんとかせなあかんと思うけど、ちゃうか。 (2016年12月初稿、2018年3月改稿)   <孫軍悦(そん・ぐんえつ)☆Sun_Junyue> 2007年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部専任講師。専門分野は日本近現代文学、日中比較文学、翻訳論。     2018年4月19日配信