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エッセイ567:宋 晗「役に立つか立たないか」

 

3月で学位を取得することになる。研究職のパイが小さくなっているなかで、すんなり就職が決まった自分は、大変幸運である。8年間在籍していた研究室からはなれるのは、やはりなんとしても名残惜しいもので、いままでの苦労も美しい過去のように思えてきた。もっとも過去はいつでも美しいのであるから、役に立たない感傷である。

 

役に立たないというと、世間では文学研究がまず想起されるようだ。まるで「役に立たない」が文学研究の枕詞かのようである。近年、この文学無用論はますます勢いを強めているが、率直にいって、文学の価値を分かりたくない人にとって文学研究は何の役にも立たない。無論、「役に立たない」というフレーズをどんなシチュエーションで、誰が誰に向けていったのかによって、反論は幾通りか存在するのであるが、つまらないと感じてしまったが最後、そこに執着する必要はないわけで、他のレクリエーションを楽しめばよろしい。文学研究のなかでも古典文学研究はいつ役に立つのか特にイメージしづらいようで、私などもファッションでやってるんだろうと何回かいわれたことがあった。だからこそ文学に堪能でない御仁は適当にシェイクスピアを文学無用論の槍玉に挙げるようであるが、とんと話の種にならない平安朝漢文学を専門とする私などにとってみれば、槍玉に挙げられるだけでもシェイクスピアは古典文学の顔なのだと思い、羨ましいかぎりである。

 

くやしまぎれにいうと、平安朝漢文学は平安時代では非常に役に立っていた。現代でいえば小説・テレビドラマ・ポップソングをあわせたハイカルチャーだったわけであるから、とても面白い文芸だったようである。いや、面白い文芸だったと断言しよう。だからこそ天神様の菅原道真は屈指の漢詩人としてふんぞり返っていたし(現存する作品を読めば自信家だったことが容易に想像される)、紫式部に「若紫はどこにいますか」ととぼけた質問をしたという藤原公任も、和歌を詠じて藤原道長に褒められたときは「いやはや、漢詩を作ったらもっと評価されたでありましょうな」などとうそぶいたのである。

 

平安朝由来の漢詩は近世に至っても儀礼的にではあるにせよ宮中では作られ続けられたのだが、つまり漢詩文は教養として、コミュニケーションのツールとしてつぶしが効いたのである。漢詩が作れなくても、名作名句を覚えておけば他人から一目置かれるので、今の新卒社員が日経新聞を社会常識として読むようなものである。読めばたちどころに儲けの種になるかはわからないが、読まなければ馬鹿にされるのである。近頃の若者は無学だ向上心がないだなどと陰口をたたかれるかもしれないのである。

 

つまりどういうことかというと、私は漢文学を研究することで、役に立つものはいつか役に立たなくなることが結論として得られたのだ。盛者必衰のなんとやらで、いまを時めく分野もいつかは無用になる時が来るのだろう。それでも、アクチュアルなコンテンツとしての魅力が色褪せてしまっても、文学が古典として後世に享受されるのは、一体どういうことだろうか。それはいわゆる人間の普遍の真理が古典に潜んでいるからに他ならない。自分がこれまでの人生で思い悩み、悟ったものはすべてはるか昔から伝えられてきた古典に書いてある。普段は文学を馬鹿にする人が、ひとたび外国人を前にするとむやみやたらに古典文学をふりかざす場面を、私は日本と中国で何度となく見てきた。結局、誰もが古典にこそ文化の精華が宿っていると認識しているのである。他国に向けて自国の特徴をアピールするときに古典文学はまだ役に立っているのである。

 

そうであるならば、分業体制が高度に発達した現代において、古典文学を解読できる専門家を育成することも大事なのではないだろうか。文学研究とは知のインフラのようなものである。そして私自身に立ち戻れば、研究は私の役に立っているのである。このような所見を、日本留学を通じて得られたことは非常に幸運なことといわねばならない。

 

<宋晗(そう・かん)Song_Kang>

2017年度渥美奨学生。2018年東京大学大学院人文社会系研究科博士号取得(文学)。現在、フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科助教。専門は平安朝漢文学を中心とする日中比較文学研究。

 

 

2018年5月10日配信