SGRAイベントの報告

  • 2009.10.07

    国際シンポジウム『世界史のなかのノモンハン事件(ハルハ河会戦)』報告(その2)

    ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年を記念して、2009年7月3、4日にウランバートルで開催したシンポジウムについては、前回のかわらばんで報告いたしましたが、基調講演をお願いした一橋大学名誉教授の田中克彦先生が、現在編集中の論文集のためにシンポジウムを総括してくださいましたので、先生のご承諾を得てご紹介いたします。尚、田中先生は、本年6月に出版された岩波新書「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」で、新史料に基づくモンゴル人研究者による業績を含めた最近の研究成果をわかりやすく纏めていらっしゃいますので、是非ご一読ください。 ■ 田中克彦「2009年ウランバートル・シンポジウムを終えて」 モンゴルとソ連は、その堅固な友好の同盟関係を強調するために、しばしばハルハ河戦勝記念日を祝っていたと思われる。それを知ったのは、たまたま戦勝30周年にあたる1969年、ウランバートルを訪問したときである。記念行事のためにモンゴルを訪れていたらしいソ連軍将兵が「ハルハ河30年」と書いた記念バッヂを胸につけて街を散策しているのを見かけて話し合い、そのことを知ったのである。 その時私は、かれらの敵対者であった日本も、そのような催しに加わって、不戦を誓いあうべきではないかと考えて、雑誌『世界』に一文を寄せた(「ノモンハンとハルハ河のあいだ」)。それは3年後にモンゴル語に翻訳されて、モンゴルでひろく読まれた。 私のこの一文の影響のせいか否か、明らかではないが、それから20年たった、すなわちハルハ河50周年にあたる1989年6月、モンゴルは日本からも研究発表者を招いてウランバートルでモ・ソ・日の三者からなる「ハルハ河50周年シンポジウム」を開催した。これがきっかけとなり、それから2か月たった8月、今度はモスクワに、モンゴル、日本から代表を招いて円卓会議が開かれた。主催はソ連国防省軍事史研究所で、日本からの出席は私だけだった。 その席で、次回は日本が行うべきだと多くの参加者たちが要求したので、私は「何とか努力しましょう」と半ば約束させられてしまった。   この約束は1991年に実現した。NHK、朝日新聞社をはじめ、ジャーナリズムやいくつかの企業から資金が寄せられたおかげである。シンポジウムで発表されたロシア語とモンゴル語の論文はすべて翻訳され、さらに一般参加者からの発言、討論も含めて、『ノモンハン・ハルハ河戦争』として1992年原書房から刊行された。 この東京シンポジウムには特に指摘しておかねばならない価値があった。というのは、モンゴルの固有の領土の一部が、日本に占領されたまま停戦協定が結ばれてしまったために、モンゴル領として回復されず、今日の中国領に残ってしまった。このことを、1936年にモンゴル、ソ連との間で締結された、相互援助条約の不履行であるという指摘をモンゴル代表が行ったのである。つまりモンゴル側からソビエト連邦に対する不服のあることが明らかにされたのである。これは会場を日本で準備して得られた大きな成果であった。モンゴル代表は、日本では、比較的自由にふるまえたからだと思う。   その後、年々ハルハ河戦争についてシンポジウムが行われたが、今回、日、ロ、モ三国の間に行われた70周年シンポジウムは、1991年の結果をさらに展開させた点で注目すべき催しであった。 以下に、寄せられた9か国40本の発表論文の分析にもとづき、そこに示された注目すべき関心をいくつかの項目にまとめる。   1. ノモンハン戦争の原因と目的に関して この戦争をはじめたのは日本側であるというのが全般的な共通認識である。日本では現地の関東軍が東京の大本営の制止を受け入れず独走したとの議論がひろく知られ、一般認識となっているが、ソ連(ロシア)、モンゴルではそうではない、1927年に当時の首相田中義一が天皇に上奏した、大規模な侵略計画にもとづいて開始されたのがノモンハン戦争だという説がいまなお一貫して維持されている。ロシアの学会ではこの上奏文なるものが偽文書だということが徐々に理解されてきたが、今回、依然として、そこからノモンハン戦争の原因が説き起こされているのは注目すべきことだ。 日本の研究者は、今回のシンポジウムまで、こんな議論がくりかえされているのかとあきれているが、こういう誤った前提が解消されるには、あと10年、つまり80周年のシンポジウムまでかかるであろう。 2. ノモンハン戦争は避けられたはずだとする説 1935年、ノモンハン戦争の前哨をなす、ハルハ廟における満洲国軍とモンゴル軍の衝突以来、双方はこうした紛争が大きく発展するのを阻止するため、それぞれが代表を派遣して、マンチューリで会談を行うことになった。この会談は、満、モ双方がそれぞれの支配者である、日本とソ連の支配から脱して、独立統合への道を模索する密談を含むものとして、日、ソ双方が会談を妨害、阻止した。日、ソは、満、モの代表それぞれを逮捕処刑した。しかし、もしこのような妨害が行われなければ、マンチューリの会談は成功して、戦争に至らずにすんだかもしれないという趣旨のものだ。1991年の東京シンポジウムではじめて発表されたこの考え方を、今回のシンポジウムで受けついで発表したのが、私、田中である。 3. 国境認識にかかわる地図の研究 ソ連は、1932年に、ハルハ河が満、モ国境線をなすという、日本側と同様の認識をもっていた。しかし、1934年までの間にノモンハン・ブルド・オボーを国境線とするという認識に変わった。この問題は国境衝突事件としてのこの戦争を研究する上で出発点となるほどの重要性がある。しかし、勝者としてのロシアには国境線については議論の余地がないものとしてあまり関心がないのに対し、日本代表にはまだ議論し足りない不満が残った。 4. 国際関係からみたノモンハン戦への関心 すなわち、日本はなぜ停戦を急だか、また、41年には、ドイツ軍がモスクワに迫っていたときを利用して、なぜ日本はドイツの同盟国でありながら、ソ連に攻撃を加えず、想像を絶した真珠湾攻撃に踏みきったのか。あの時、もし日本がドイツに呼応してソ連を攻撃していたら、ソ連は崩壊していたかもしれないというような問題提起である。日本では考えられないこのような仮定はアメリカ、イギリスなどの参加者から出された。 また、アメリカからはもう一人の気鋭の研究者が、ノモンハン戦争を朝鮮戦争と対比して見せた。同じ民族がかれらを分断した国境の双方から敵対したという点に注目した、このような巨視的な見方は、欧米の研究者にしてはじめて得られるものであろう。 5. 日本の国内事情にも関心が持たれるようになった 1989年のモスクワ円卓会議で、私は辻政信参謀個人の性格が戦闘の開始そのものにも、関東軍の行動の上にも大きな影響を及ぼしたことを述べたけれども、ソ連は全く関心をもたなかった。天皇を頂点とする規律正しい帝国日本では、一個人がそのような独走を演ずる余地は全くなく、関東軍の動きを、一貫した侵略計画の不動の方針に従ったものとする理解の域を出なかった。しかし今回2009年のウランバートルでは、停戦協定を結んだ東郷大使の回想録を読んで、その人柄を知り、東郷が停戦にこぎつけた功績をたたえる発表が行われた。これは日本側の立場を内部にたち入って明らかにしようと試みたものであって、研究がよりこまやかになり、大きく進展するきざしを見せるものとして注目すべきであろう。 6.ノモンハン戦争の背後には満洲国とモンゴル人民共和国の国境によって分断されたモンゴル諸族の統一運動があったことを重視する視点は、最近のモンゴル人の著作には至るところ示されているけれども、それをまとめてとりあげる試みはなかった。しかし、田中の提出したこの観点に積極的に賛意を示す人は少なく、と言って反論する人もいなかった。ロシアの人たちには不快に感じられたはずである。しかし、これは将来忘れられない論点になるである。 以上、今回のシンポジウムの成果を、1989、1991年の状況と比べるならば、長足の進歩があったと称賛しなくてはならない。そして、歩みは遅いけれども、国際的なシンポジウムが開かれる度に、確実に発展があり、それはハルハ河戦争のみならず、モンゴル、ロシア、日本相互の間の国際理解に大きく寄与したことが実感される。 半世紀にわたってこの経過を見つづけてきた者には、なお80周年のシンポジウムが行われる必要があり、そこではさらに大きな一歩が進められるであろうと期待される。 ------------------------------------------- 2009年10月7日配信
  • 2009.09.30

    国際シンポジウム『世界史のなかのノモンハン事件(ハルハ河会戦)』報告(その1)

    ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年を記念して、2009年7月3、4日の2日間、モンゴル国家文書管理総局、関口グローバル研究会(SGRA)、モンゴル科学アカデミー歴史研究所が共催、在モンゴル日本大使館、アメリカ大使館、ロシア大使館が後援、東京外国語大学、モンゴル国立大学歴史研究院、モンゴル国防省国防科学研究所軍事史研究センター、モンゴル科学アカデミー国際研究所、モンゴル・日本人材開発センターが協力、日本国際交流基金、霞山会、渥美国際交流奨学財団、守屋留学生交流協会、アメリカのアラタニ財団、韓国の未来人力研究院、及びモンゴル国のモンゴル・テレコム(Telecom Mongolia)、ロシア財団NGO(Russian Foundation NGO)、モンゴル・アーカイブズと歴史研究者連合会“On tsag”(“On tsag” association of Mongolian Archivists and Historians)、“Tsom” Consultingの協賛で、国際シンポジウム「世界史のなかのノモンハン事件(ハルハ河会戦)――過去を知り、未来を語る――」が、モンゴル国首都ウランバートルで開催された。 7月3日、のどかで、あたたかい日だった。午前9時、モンゴル・日本センターの多目的室で盛大な開会式をおこない、モンゴル国会議員、法務内務大臣 Ts. ニャムドルジ(Ts. Nyamdorj)氏、モンゴル科学アカデミー総裁 B. チャドラー(B. Chadraa)氏、関口グローバル研究会代表今西淳子氏が挨拶と祝辞を述べた。Ts. ニャムドルジ大臣の挨拶では、戦略的な視点から、ハルハ河戦争を評価し、研究者たちと率直に話しあって、今後の世界平和と国際的な相互理解を促進したいという意を伝えた。英語で挨拶した今西さんは、同シンポジウム実現までの経緯、ウルズィーバータル局長との付き合い、田中克彦先生、ゴールドマンさんとの出会いなどを簡潔に述べ、参加者に感謝しながら、この戦争をめぐる研究の更なる発展を展望した。続いて、モンゴル科学アカデミー歴史研究所長 Ch. ダシダワー教授、ロシア連邦科学アカデミー会員、シベリア支部ブリヤート支局長 B. V. バザロフ(B. V. Bazarov)教授、一橋大学田中克彦名誉教授、そして、アメリカのユーラシア・東ヨーロッパ評議会の S. D. ゴールドマン(Stuart D. Goldman)博士が基調報告をおこなった。在モンゴル日本大使 城所卓雄閣下、ロシア公使、アメリカ大使館の代表が開会式に出席し、在モンゴルアメリカ大使 M. C. ミントン(Mark C. Minton)閣下も途中から参加した。休憩の忙しいひと時を裂いて、今西さんがミントン大使に挨拶し、私も大使に紹介され、一緒に記念写真をとった。ミントン大使は穏やかで、とてもやさしいという印象だった。日本語が流暢で、びっくりした。たずねてみたら、在日本アメリカ大使館で長年勤務したことがあったのだ。   昼には、参加者たちがモンゴルの国会議事堂の前で記念写真を撮ってから、アルタイというバイキングの焼肉店で食事をした。   午後は、東京外国語大学 二木博史教授、岡田和行教授、愛知大学法学部ジョン・ハミルトン(John Hamilton)教授、内モンゴル大学 チョイラルジャブ(Choiraljav)教授、モンゴル国外務省 Ts. バトバヤル(Ts. Batbayar)局長、モンゴル科学アカデミー会員、国立大学 J. ボルドバータル(J. Boldbaatar)教授、文化芸術大学学長 D. ツェデブ(D. Tsedev)教授、国防科学研究所長 B. シャグダル(B. Shagdar)少将、文書総局 ウルズィーバータル局長、ロシア連邦科学アカデミー極東研究所長 S. G. ルジャニン(S. G. Luzyanin)教授等10人がそれぞれの分野を代表して、大会報告をおこなった。   夕方、モンゴル国大統領官邸のイフ=テンゲル(Ih Tenger)迎賓館で歓迎宴会をおこなった。ちょうど雨が降り始めて、今西さんが、昨年のシンポジウムの招待宴会での挨拶の続きとして、たくみに雨を話題に祝辞を述べて、参加者からの拍手喝采を受けた。ウルズィーバータル局長が「今年はもう雨が降らないでしょう。明後日、草原に行くとき、必ず晴れたいい天気になる」と自信満々で返事をした。宴会中、モンゴルの伝統の歌や馬頭琴の演奏が披露された。在モンゴル日本大使館 藁谷栄参事官が招待に応じて出席し、今後のSGRAのモンゴルプロジェクトについて、いろいろ助言してくださった。   翌日の7月4日午前、モンゴル・日本センターの多目的室、ゼミナー室1・2で、「ノモンハン事件(ハルハ河会戦)の真実: 多元的記憶と多国間アーカイブズの比較の視点から」「ノモンハン事件に対する理解の国際比較と現状」「ノモンハン事件に関する報道、文学、映画、音楽、美術」の三つの分科会をおこなった。シャグダル(B. Shagdar)少将、二木博史教授、ツェデブ学長、ルジャニン所長、ボラグ教授等が各分科会の議長をつとめた。   夕方、在モンゴル日本大使館公邸で、日本大使館とSGRA共同で招待宴会をおこなった。各国の研究者60名あまりが集まって、城所卓雄大使が英語で挨拶を述べた。研究者たちが乾杯しながら歓談し、意見交換をした。城所大使はやさしく、参加者の要求めに応じて、それぞれと記念写真を撮った。これまで、モンゴル国で、世界モンゴル学会など国際シンポジウムをおこなった際、日本大使館は日本の研究者を招待したことがあるが、各国の研究者を一緒に招待したのは、今回がはじめてだったそうで、たいへん有意義なことだと、日本の研究者だけではなく、海外の参加者からも好評だった。   シンポジウムはモンゴル語、英語、日本語、ロシア語の同時通訳がつき、効果的だった。2日間の会議中、モンゴル、日本、アメリカ、ロシア、イギリス、中国、韓国などの研究者が40本の論文(共同発表もふくむ)を発表し、ウランバートルにある各大学、研究機関の研究者、台湾国立政治大学民族学部藍美華教授、東京大学、東京外国語大学の研究者、留学生、中国社会科学院の訪問学者など180人ほどが参加した。会議の影響は大きく、モンゴルのモンツァメ国営通信社、『Udrin sonin(日報)』、UBSなど10数社が報道した。シンポジウムの発表の詳細については、別稿にゆずりたい。   これまで、ノモンハン戦争について、日本、モンゴル、ロシアが数回シンポジウムをおこなってきたが、いずれも各国各自の主催であった。ノモンハン事件をテーマに、日本とモンゴル国の諸団体が共同主催し、同事件に関わった国の研究者だけでなく、世界各国の研究者が集まって、国際学術シンポジウムを開催したことは、今回が初めてであった。田中克彦先生の言葉を借りると、「ノモンハンが軍事にとどまらず、多面的な文脈の中で明らかにされること」が、今回のシンポジウムのもっとも重要なところであった(田中克彦「ノモンハン戦争とは何だったのか、奪われた民族統合の夢」『朝日新聞』、2009年6月25日夕刊)。 -------------------------------- <ボルジギン・フスレ☆ Husel Borjigin> 博士(学術)、東京大学大学院総合文化研究科日本学術振興会外国人特別研究員。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。今西淳子、Ulziibaatar Demberelと共著『北東アジアの新しい秩序を探る:国際シンポジウム“アーカイブズ・歴史・文学・メディアからみたグローバル化のなかの世界秩序――北東アジア社会を中心に――“論文集』(風響社、2009年)。 --------------------------------   ★準備段階から、シンポジウム後のチョイバルサン旅行記までを含んだ12ページの報告書 ★モンゴルシンポジウムとその前後の旅行の写真   フスレ撮影         石井撮影 ★SGRAかわらばんで報告していただいた関連エッセイは下記よりご覧ください。 ■ ボルジギン・フスレ「ハルハ河戦争(ノモンハン事件)は、モンゴルと日本の矛盾によっておこったのではなかった」 その1      その2 -------------------------------- 2009年9月30日配信
  • 2009.08.05

    第36回SGRAフォーラム in 軽井沢「東アジアの市民社会と21世紀の課題」報告

    2009年7月25日(土)午後2時より9時30分まで、軽井沢にて「東アジアの市民社会と21世紀の課題」をテーマに第36回SGRAフォーラムが開催された。 「良き地球市民の実現」を基本的な目標に掲げるSGRAは、2000年7月の設立以来、常にグローバル化と同時に市民社会に注目して研究活動を続けている。今回のシンポジウムはその一環として、「グローバル化と地球市民」研究チームが担当した。本フォーラムは、東アジアという地域の中でも特に、日本・韓国・フィリピン・台湾・香港・ベトナム・中国において市民社会とは何かという疑問を様々な角度から考察し、意見交換する場として実現した。東アジア各国の「市民」とは何か、NGO及びNPOなどの市民社会運動体の現状を、ヨーロッパ的な市民社会の背景と比較したうえで考え直す試みであった。 フォーラムでは、今西淳子代表の開会挨拶に続き、7人の先生方及びSGRA研究員による研究発表が行われた。まず、本シンポジウムの基調講演として、宮島喬氏(法政大学大学院社会学研究科教授)が「市民社会を求めての半世紀ヨーロッパの軌跡とアジア」というテーマの発表をした。宮島氏は、国境なきヨーロッパを作ることを目標とするEUとヨーロッパ市民社会の伝統・その現実との関連、その展望と問題点について述べた。特に、第二次世界大戦後、アジア諸国は独立国家を目指し、その過程でナショナリズムが高揚したが、それに対して、戦後ヨーロッパは、国家ナショナリズムは悪という自覚から出発していることを指摘した。「市民社会」というキーワードの出自であるヨーロッパを今回のシンポジウムの基調講演のテーマに設定したのは、東アジアの現実と可能性を意識しているからである。しかし、国家単位を超え、一つの共同体として変容していくヨーロッパとは異なり、東アジアにおいては、ASEANを除けばまだ実現していない「国境を越えた地域統合」は今後の課題である。特に難民や移民の受け入れに対する、ヨーロッパの国々の義務感、人権意識が強調された。 2番目の都築勉氏(信州大学経済学部教授)の発表は近代日本の市民社会政治の研究者の立場から「『市民社会』から『市民政治』へ」というテーマだった。都築氏は「市民社会」というキーワードで、近代日本とりわけ戦後社会の変遷、60年安保における市民運動の誕生の経緯や、その影響と発展などについて紹介した。そして、党派のセクト主義、偏狭的なナショナリムを超えるような「アソシエーション的新しい市民政治」の可能性を呼び掛けた。氏の発表は日本の国内レベルでは、市民の主体性につながる市民と政府の契約の結びなおしの可能性、国外のレベルでは日本とアジア、特に東アジアの連帯の可能性への期待を感じさせた。   3番目の発表者の高煕卓氏(延世大学政治外交学科研究教授、SGRA「地球市民研究チーム」チーフ)は「韓国の市民社会と21世紀の課題:『民衆』から『市民』へ~植民地・分断と戦争・開発独裁と近代化・民主化~」という発表をした。高氏は19世紀末の植民地期間における「民衆」「人民」という語の意味から、解放・南北分断後、60~70年代の開発独裁と近代化期間の民主化運動におけるこれらの言葉の意味の変化と表わし方の変容までの歴史を紹介し、市民政治の今日における韓国での意味・問題点を紹介した。「市民」が肯定され、「非営利民間団体支援法」が誕生したのは2000年のことであり、それが韓国の市民社会の芽生えだと位置づけた。高氏の発表では、下からの民主主義の歴史を誇る韓国の現代史の独自性が印象的であった。高氏は今回のシンポジウムの企画・実施のためにたいへんご尽力をいただいたキーパーソンでもある。   4番目の発表者は中西徹氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)であり、氏のテーマは「フィリピンの市民社会と21世紀の課題:「フィリピンの『市民社会』と『悪しきサマリア人』」である。中西氏は、塔に先に上った人々が「梯子を外す」ということに譬えながら、開発経済学の「新自由主義」によって強化された先進国の抑圧的な構造を紹介した。つまり、「国際社会におけるBad Samaritan (IMF、世界銀行、WTOなどの国際機関、及びそれらを支えている先進国)」との関係性の中で、フィリピンが発展途上国の貧困から抜け出すことが出来ないと指摘した。しかし、フィリピンの農村の人々が既に有しているコミュ二ティの資源を利用して、その固定的な階層社会を相対化し流動化していることを紹介し、貧困層が権利獲得と自立のためにネットワークを形成するという意味で市民社会の可能性を提示した。   5番目の発表は林泉忠氏(琉球大学准教授/ハーバード大学客員研究員、SGRA研究員)による発表である。林氏の発表は、「台湾・香港の市民社会と21世紀の課題:『国家』に翻弄される『辺境東アジア』の『市民』~脱植民地化・脱「辺境」化の葛藤とアイデンティティの模索~」というテーマだった。林氏は台湾・香港を例に、この二つの地域における市民社会形成の特徴を纏めつつ、それと「国家」との関係、植民地の歴史との関係を提起した。氏はこの二つの異なる地域における市民社会の形成の過程と民主化との関係、アィデンティティ形成との関係を示した。   6番目発表者であるブ・ティ・ミン・チィ氏(ベトナム社会科学院人間科学研究所研究員、SGRA会員)は、「ベトナムの市民社会と21世紀の課題:変わるベトナム、変わる市民社会の姿」という発表をした。ブ氏は社会学的な角度からこの15年間におけるベトナムの「市民社会」という「デリケート」な用語・概念自体の変遷を具体的なデータで示し、NGO組織、CGO組織のなどの増加の傾向を提示した。ブ氏は同時にべトナムの市民社会の形成の経緯・現状とその可能性を、中国、シンガポールなどの国と比較した。 最後の発表者は劉傑氏(早稲田大学社会科学総合学術院教授)であり、テーマは「中国の市民社会と21世紀の課題:模索する『中国的市民社会』」である。劉氏は中国の現代における「1949年」と「1978年」(とりわけ後者)の意味を強調し、さらにオリンピックと四川省の大地震後の民間組織とボランティア活動が盛んであった「2008年」を「中国公民社会元年」と位置づけた。また、劉氏は「公民社会」というキーワードで中国の市民社会の独自な文脈を強調し、同時に「知識界」という用語で、台頭する民族主義を、知識人が批判していることを取り上げつつ、中国の知識人の中国の「公民社会」の形成における役割を紹介した。劉氏は、インターネットと「公民社会」との関係、若い世代と「公民社会」との関係、「公民社会」と民族主義との関係を提示した。 夕食後、午後7時30分~9時まで、孫軍悦氏(明治大学政治経済学部非常勤講師、SGRA研究員)を進行役に、上記の講演者・発表者をパネリストとして、「東アジアの市民社会と21世紀の課題」をテーマとするパネル・ディスカッションを行った。パネル討論ではたくさんの質問が寄せられ、パネリストによる返答・討論を行った。東アジアが今後一つの共同体として姿を形作るには、まだ時間がかかることを認めたうえで、様々な経済的・政治的な問題が課題として残されていることが討論された。今回のフォーラム自体が「東アジア」という単位で考えるための一つの試みであったことは最も大きな成果だと考えられる。これからの東アジアの有様は、中国の国際プラットフォームでのステータスの上昇に大きく左右されると考えられる。また東アジア地域が戦争の負の記憶を乗り越え、新たな連帯・協力の体制を作るのがこれからの課題であろう。その過程において経済的にも比較的に余裕のある日本が自発的に協力・統合を呼びかける役割を果たすべきではないだろうか。 当日の写真は、下記からご覧ください。 足立撮影 マキト、郭栄珠撮影 --------------------------------------- <林少陽(りん・しょうよう)☆Lin Shaoyang> 厦門大学卒業後、吉林大学大学院修士課程修了。学術博士(東京大学)。1999年来日。東京大学博士課程、東大助手を経て東京大学教養学部特任准教授。著書に『「文」与日本的現代性』(北京:中央編訳出版社、2004年7月)、『「修辞」という思想:章炳麟と漢字圏の言語論的批評理論』(白澤社、近刊)及び他の日本・中国の文学・思想史関係の論文がある。SGRA研究員 <Kaba Melek(カバ・メレキ)> トルコ出身。2003年来日。現在、筑波大学人文社会科学研究科文芸言語専攻博士課程後期に所属。専門分野は比較文学・文化。SGRA会員 --------------------------------------
  • 2009.06.17

    F.マキト「立教大学国際シンポジウム参加報告」

    SGRAかわらばん257号でお知らせした通り、立教大学第二回経営学部国際シンポジウムに参加し、「Rediscovering Japan's Leadership in "Shared Growth" Management: Some Findings from a Study on Philippine Ecozones and Automotive Industry」という報告をした。 基調講演をされたRICHARD STEERS博士は、アメリカ型の経営がグローバル化に対応できない部分があると指摘した。例えば、20年以上前に出版された「IN SEARCH FOR EXCELLENCE」という経営学のMUST READINGに掲載された優勝なアメリカの企業グループの3分の1は現在すでに存在していないという。そして、アメリカの大学のMBAのいわゆる国際的経営の指導は十分であるかどうかという疑問も投げかけた。グローバル化が生み出した多文化の経営環境にアメリカ型の経営者が適応できるかどうかと。アメリカの大学の経営学の教授の発言として非常に謙遜で妥当な自己評価だと思った。 懇親会のときに、STEERS先生とお話しした。僕は「多文化のアメリカは、本来、多文化経営に優れているはずだが、なぜそれが欠けているか」と質問した。先生は「アメリカの『上の階級』は実際多文化ではなく、多くのアメリカ人はそれに対して不満を持っている。(オバマ大統領を含む・・・先生はオバマ大統領は『GOD』であると評価している。僕も同感。)」とお答えになった。もうひとつの共通点は、このままでは、HAVEとHAVE NOTSとの格差が拡がっていくという懸念である。面白い調査結果を聞かせていただいた。従業員の一番高い給料と一番低い給料の平均的な差は日本では20倍ぐらいだが、アメリカでは420倍だという。 この調査結果を、共有型成長の経営の必要性を強調した僕らの発表で引用させていただいた。ただ、最近、この必要性がどのぐらい日本で浸透しているか、はっきりわからなくなってきている。だから、僕らが発表した論文では、この共有型成長の魂の「再発見」を提案している。いつものように、発表を聴いてくれた人は多くなかったけれど、学会の会長は僕らの論文を一番良いと評価してくれた。僕の住まいから自転車でいける学会で、これだけ勉強させていただいたのは贅沢かもしれない。 当日の写真はこちらからご覧いただけます。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2009年6月17日のSGRAかわらばん「会員だより」で配信
  • 2009.06.17

    第35回SGRAフォーラム「テレビゲームが子どもの成長に与える影響を考える」報告

     2009年6月7日(日)、東京国際フォーラムにて「テレビゲームが子どもの成長に与える影響を考える」をテーマに第35回SGRAフォーラムが開催された。   本フォーラムは「ITと教育」チームが担当した。昨年フォーラム後の懇親会で話題になった「子どもに携帯電話をもたせるべきか」という報道から発展させ、「ITは子供にどのような影響を与えるのか、本当に子供教育に役立つのか」という問いをベースに、抽象的ではなく、具体的に議論ができるよう、「テレビゲーム」に焦点を絞り、子供に与えるよい影響、悪い影響を考える会として企画された。   フォーラムでは、今西淳子SGRA代表の開会の挨拶に続き、3人の専門の先生方とSGRA研究員による研究発表が行われた。 「現代社会はテレビゲームをどう受容してきたか」と題してテレビゲームの影響を多面的に捉える必要性を、東京大学大学総合教育研究センター助教の大多和直樹先生が説いた。大多和先生は、現代社会では、テレビゲームの議論が悪玉・善玉といった具合に二極化されやすいが、ニュートラルにテレビゲームを捉える必要があり、現代の子どもが、管理される学校化社会と、インターネット等による情報化社会の双方に取り込まれつつあることを力説し、さらに、これによる悪影響を学校が排除しようとする動きを指摘し、この排除あるいはコントロールは問題を解決するのかと問題提起した。 東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻社会予防疫学分野教授の佐々木敏先生は、テレビゲームと子供の肥満の関係性について調査結果を発表した。アメリカでは男子の肥満はテレビ視聴時間と強く関連しているが、女子は運動頻度とテレビ視聴時間の両方が関連しているとの調査結果だった。日本では現段階で信頼度の高い調査・研究は少ないが、過去25年間を見ると、日本の子供たちの肥満者率は増加してきている。さらに、東京大学大学院医学系研究科社会予防疫学分野客員研究員であるU Htay Lwinさんは研究結果の少ない日本の子供(那覇市、名護市の6歳から15歳の児童)を対象に健康調査を行った結果を発表した。日本でもやはりアメリカと似た結果が出た。   最後に、テレビゲームが子供の心理に与えるポジティブな影響とネガティブな影響について、慶応義塾大学メディアコミュニケーション研究所研究員である渋谷明子先生からの報告があった。空間処理能力、視覚的注意、帰納的問題解決能力などが代表的なポジティブな影響で、ネガティブな影響としてテレビゲームの過度な依存による社会性の欠如などが指摘された。ご専門である、子どもの暴力化については、とりあげて心配しなければならないほど強い影響力はないという調査結果がでているとのことだった。 パネルディスカッションでは参加者からたくさんのご質問をいただき、白熱した議論ができた。ゲームの地域性、家庭背景、その人にとって価値などにも関係していることが指摘され、無限に子供にゲームを与える、あるいは必要以上にゲームを制限することの欠点についても討論した。明確な良し悪しの結論は出ないものの、子供の能力を引き出す、あるいは、子供の成長を助けるゲームは存在するのは間違いなく、適宜に教育に取り入れることが必要であるという議論であった。最後にパネル進行役である自分も驚いた結果であるが、会場の40数名の聴講者の約半数が「自分の子供にゲームを与えたい」と挙手によって答えた。時代の変遷に伴い、ゲームに対する観点も変化しつつあり、テレビゲームとのかかわり方も今後少しずつ変わっていくだろうと想像がつく。   最後に、この場を借りて、ご講演いただいた4名の先生方と最後まで聴講していただきアクティブにディスカッションに参加してくださった会場の皆様に感謝の気持ちをお伝えするとともに、司会のナポレオンさんおよび会場の設営を手伝っていただいたSGRA研究員のみなさまにお礼を申し上げたい。 フォーラムの写真はここから  ご覧ください。 ------------------------------ 江 蘇蘇(こう・すーすー ☆ Jiang Susu) 中国出身。留学する父親と一緒に来日。日本の高校から、横浜国立大学、大学院修士課程・博士課程を卒業。専門分野は電子工学。現在(株)東芝セミコンダクター社勤務。SGRA研究員。 ------------------------------ 2009年6月17日配送
  • 2009.03.03

    第8回日韓アジア未来フォーラム・第34回SGRAフォーラム「日韓の東アジア地域構想と中国観」報告

    2009年2月21日(土)、東京国際フォーラムで「日韓の東アジア地域構想と中国観」をテーマに第8回日韓アジア未来フォーラムが開催された。前回のグアムフォーラムにおいて「東アジア協力」と「ソフトパワー」というキー概念を念頭に置きながら、中国に対する見方の日韓の差に注目し、今後具体的に検討していくことにしたのを受けて、今回のフォーラムでは、日韓の東アジア地域構想について比較の視座から考えてみることにし、その大きなポイントとなる中国観の日韓における相違などについて検討する機会を設けた。   フォーラムでは、今西淳子(いまにし・じゅんこ)SGRA代表と韓国未来人力研究院の李鎮奎(イ・ジンギュ)院長による開会の挨拶に続き、4人のスピーカーによる研究発表が行われた。まず 名古屋大学の平川均(ひらかわ・ひとし)氏は20世紀から現代までの日本における主なアジア主義について思想と実態とに分けてその特徴を明らかにした上で、昨今の東アジア共同体ブームに関連して、現在が歴史の再現ではないことを力説するとともに、日本の東アジア共同体構想に対する立場は米国配慮と中国牽制であるとした。延世大学の孫洌(ソン・ヨル)氏は、韓国の地域主義について「東北アジア時代構想」と「東北アジアバランサー論」を主な事例として取り上げながら、地域の範囲、性格、アイデンティティ、方法論の側面から日本や中国のそれとの違いを明らかにした。そしてミドルパワーとしての韓国のバランサーとしての役割を強調した。東京大学の川島真(かわしま・しん)氏は「日本人の中国観」について、これまでの日本の対中観を歴史的な経緯や、近30年間の調査結果、そして昨年の状況などについて概括した。とりわけ、東洋/日本/西洋という三分法の下にあった日本の中国観は戦後日本にも継承され、中国があらゆる分野で存在を強めたことで、日本内部で拒否反応が起きてきたと主張した。また、現在も、日本では中国についての否定的な言説が支配的であるが、中国そのものへの不信感は政治や歴史認識問題ではなく、しだいに生活そのものに脅威を与える存在として中国が認識されつつあるとした。そして最後の発表者としてソウル大学の金湘培(キム・サンベ)氏は「韓国人の中国観」について発表を行った。21世紀東アジアにおける世界政治はソフトパワー(soft power)や国民国家の変換 (transformation)に注目すべきであるとした上で、こうした文脈から理解される中国の可能性とその限界とは、取りも直さず技術・情報・知識・文化(これらをまとめて「知識」)と「ネットワーク」という21世紀の世界政治における二つのキーワードにいかにうまく適応できるかを基準にしながら評価できるものであると主張した。   パネル討論では、SGRA研究員であり北陸大学の李鋼哲(り・こうてつ)氏は、「中国からみた日韓の中国観 」について、対中国認識における日韓両国と国際社会の間の乖離、対日本認識における中韓両国と国際社会の乖離、中国観と現実の中国の間にみられる乖離に触れつつ、「求大同、存小異」の姿勢を力説した。このほかにもパネルやフロアーからたくさんの意見や質問などが寄せられたが、時間の制約上議論は惜しくも懇親会の場に持ち越された。   今回のフォーラムは67名の参加者を得て大盛会に終えることができたが、これには同時通訳という「重荷」をボランティアーで快く引き受けてくれたSGRA会員の方々の存在が大きかった。この場を借りて感謝の意を表したい。例年だと、フォーラム終了後は「狂乱」の飲み会に変わってしまうことが多かったが、今年はグローバル金融危機のしわ寄せもあって静かな夜に終わったような感じがする。来年を期待してみたい。   *フォーラム当日の写真を下記よりご覧ください。    足立撮影    フェン撮影   -------------------------- <金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。 -------------------------   2009年3月3日配信
  • 2008.12.19

    第33回SGRAフォーラム『東アジアの経済統合が格差を縮めるか』報告

    SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームが担当する第33回SGRAフォーラムは、2008年12月6日(土)の午後、東京国際フォーラムガラス棟G402会議室にて開催された。今回のテーマは「東アジアの経済統合が格差を縮めるか」であった。フォーラムは、研究チームのサブチーフの李鋼哲さんの司会で始まり、東茂樹先生(西南学院大学経済学部教授)の基調講演の後、SGRA顧問の平川均先生(名古屋大学経済学研究科教授)、ド・マン・ホーン先生(桜美林大学経済経営学系講師)、そして研究チームのチーフを務めるマキトの3名による感想と問題提起が行われ、休憩を挟んでパネルディスカッションというプログラムであった。    基調講演で東先生は、最初に、SGRAがめざす「誰にでも分かるように」という趣旨に則って、 FTA(Free Trade Agreement自由貿易協定)についての基礎的な説明をしてくださった。主流な経済学では、FTAは貿易を促進し、企業の生産性に対してあらゆる便益を与えるとしている。WTO(World Trade Organization世界貿易機関)もこのように考えているので、積極的に貿易の自由化を押し進めてきたが、いわゆるドーハ開発ラウンドという、貿易障害をとり除くための交渉にはいまだに決着がついていない。そこで、行き詰まった状況を打開するために、WTOが条件付きで容認せざるを得ないFTAが盛んに提携されている。さらに、「物」の国境を越えた売買だけではなく、サービスや貿易関係の取り決めまでを取り入れたEPA(Economic Partnership Agreement 経済連携協定)まで展開しつつある。    WTOが進めている多国間自由貿易と違って、FTA(EPAを含む、以下同じ)は二カ国或いは地域間の交渉になる。東先生はご専門の政治経済学の視点からFTAの交渉過程を検討し、国家間の戦略的なやり取りとして捉えた。つまり、2カ国間或いは地域間でFTAが結ばれることにより、第3国/地域が不利な立場に落とされる可能性があるのでFTAの獲得のラッシュが発生し、複雑に絡み合う貿易協定が生み出されている。その一つのデメリットとして、生産地の規制が取り上げられた。あるFTAの輸出国にとっての便益を得るためには、その輸出した製品の価値の一定の割合はその国で実際に生産されたことを証明する義務があり、その手続きにかかるコストが高くなるからである。東先生は、最後に、日本の自由貿易の交渉の仕方について触れ、東アジアと共生できるような新しい交渉戦略の構築を呼びかけた。   「感想と問題提起」のコーナーでは、3人のコメンテーターが東先生の論文を参考に、FTA・EPAの日本の交渉を中心に感想と問題提起を述べた。まず平川先生は東先生の分析方法が新しい視点からの分析だと評価し、JETROの最新の白書を利用しながら、交渉の非妥協的態度、日本の貿易自由化率の低さ、情報不開示と相互不信(フィリピンへの有害廃棄物の輸出を事例として)の3つの問題点をとりあげた。そして、このような態度で日本が東アジアと結ぶFTAは、果たしてアジア共同体を導いていけるのか、という疑問を投げかけた。   次に、東南アジアの研究者を代表して、ホーンさん(ベトナム)とマキト(フィリピン)が、引き続き、自由貿易に関しての意見を述べた。ホーンさんは、ベトナムにとっては、現段階まで、一部を除き、市場の開放による経済的な効果は大きくないと主張した。特に、FTAの交渉を、先進国同士の場合、企業と企業の戦いだが、先進国と途上国の場合、先進国の企業と途上国の政府との戦いとみなし、結局、現状の交渉し方のままだと、FTAの締結によるデメリット(被害)を受けるのは途上国の民間企業であるから、これを克復するため、FTAの交渉と同時に、先進国から途上国の民間セクターの振興への協力と支援が必要だと主張した。     マキトは日本の通産省とJETROの報告書を利用しながら、東アジアにおける国際分業という日本の構想と日本自身のそれに対する理解とのギャップ、構想と現場とのギャップ、というふたつのギャップの存在により、自由貿易の交渉が余計に困難になっていることを指摘した。そして、東アジアの経済統合が格差を縮めるために、日本の独自の構想を生かした「STOP 格差!」を呼びかけた。   10分間の休憩を挟んで、4人によるパネルディスカッションが行われた。進行役の平川先生は会場からいただいた質問を整理して、3人の研究者に振り分けた。取り上げられた質問は、格差の定義、格差の解決の可能性、日本の独自性を巡るものなどがあった。詳しくは来年の春に発行予定のSGRAレポートをご期待ください。    当日の写真を下記からご覧いただけます。 足立撮影 ナポレオン撮影   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2008.10.03

    第3回SGRAチャイナフォーラム「一燈やがて万燈となる如く」報告

    講演:工藤正司(アジア学生文化協会常務理事) 「一燈やがて万燈となる如く~アジアの留学生と生活を共にした協会の50年~」 中国における第3回目のフォーラムは、9月26日(金)に延辺大学総合棟七階報告庁にて、9月28日(日)に北京大学外国語学院民主楼にて開催されました。2006年に北京大学で開催したパネルディスカッション「若者の未来と日本語」、2007年に北京大学と新疆大学で開催した緑の地球ネットワーク高見邦夫事務局長のご講演「黄土高原緑化協力の15年:無理解と失敗から相互理解と信頼へ」に引き続き第3回目です。今回は、50年にわたり東京で留学生の受け入れ態勢の改善に取り組んできたアジア学生文化協会(ABK)の工藤正司常務理事に、協会の創設者穂積五一氏の思想とABKを通して見た日本とアジアのつながり、そして民間人による活動の意義をお話しいただきました。   工藤さんは、「お国の発展ぶりに讃辞を送ることからお話を始めることになるのですが、私の本当の心を申しますと、それよりも前に、私の国・日本が過去に皆様のお国に行ったことをお詫びさせて戴きたい思いです」、「今日私がお話しするのも、私たちの協会や創設者のことを、誇るためでも、宣伝するためでもありません。敗戦した国で日本人は何を考え、どのように行動したか、そして、現在はどう動いているかを、1つの例として、私たちの協会とその創設者の人間を通してのぞいてみること、そして、それを通じて『公益事業を民間が行うこと』の意味を皆さんと一緒に考えてみて、もし、皆様にも参考になることがあれば、活用していただきたいということです」と講演を始め、戦前の日本に対する反省に立って「新しい戦後日本」を構想して設立されたABKと創設者穂積五一氏の思想、その後の協会の展開と工藤さんご自身の関わりを、パワーポイントで写真を映しながら話されました。そして、最後に、「日本に居る留学生たちは、今、いじめにあうのを恐れて、自由にものを言えないのではないか」「移民政策が定かでないのに、日本の労働力不足を補うために留学生の受け入れを急増させようという留学生30万人計画は危ないのではないか」「日本も中国も短絡的に相手を見ることが多すぎるのではないか。お互いの現在の状況を新しい姿勢で、もっとよく研究する必要があるのではないか」と問題提起し、「具体的提案があれば、私はABKが現在進めている改革に、文化交流の一環として、組入れることを真剣に検討する用意があると申し上げます」と結ばれました。   延辺大学フォーラムの参加者は、主に国際政治学を専攻する学生約150名で、日本と中国の教育や学生の違いについて等の質問がありました。北京大学フォーラムの参加者は、日本語学習者を中心とした北京大学、北京第二外語大学、北京語言大学、北京人民大学等の学生、日本留学中にABKや太田記念館に滞在した方々、渥美財団の渥美理事長他関係者など約80名でしたが、大学で日本語を勉強する学生さんは皆さんとても流暢な日本語で質問したので驚きました。ふたつのフォーラムを実現してくださった延辺大学の金香海さんと北京大学の孫建軍さんに心から感謝いたします。また、参加してくださったSGRA会員のみなさん、呉東鎬さん、金煕さん、張紹敏さん、朴貞姫さん、馮凱さん、宋剛さん、ありがとうございました。   (今西淳子)     ◆ 延辺大学の金香海さんより:   延辺大学のフォーラムでは、講演の後も、学生達の興味深い質問に対し、工籐さんは熱心に回答してくださり、会場は一貫して熱い雰囲気でした。その余蘊が去らず、30名の参加者達は、日本国際交流基金の援助で出来たばかりの「延辺大学日中ふれ合いの場」で立食パーティーを開き、ワインを交えながら、再び工籐さんから日中学生気質の違いや日本語教育についてのお話を伺い、夜が過ぎるのを忘れました。このように大きな共鳴を引き起こしたのは、やはり工籐さんの講演の内容とそのすばらしい人格のためであったと思います。 日本とアジアは長い文明交流の歴史がありました。日本は明治維新を通じて西洋と肩を並べる近代国民国家になりましたが、その過程でアジアを否定して西洋の価値観を取り入れて“空想的帝国”をつくろうとしたが失敗しました。この後、またアメリカの価値観を取り入れ、先進国になったけれども、ここにはいろいろな歪みが生じました。これがまさに、ABK創設者の穂積先生が、日本社会の疾病としたもので、敗戦直後から「アジアのために」アジアの留学生を支援してきた理由です。工藤さんは、日本の再生、そしてアジアの価値の回復と創造は、学生達の草の根の交流があって初めて、“一燈やがて万燈となるごとく”実現できると仰いました。大変優しく、すばらしい人格の持ち主で、文明に対する深い理解を持っていらっしゃる工藤さんを、私は非常に尊敬しています。     ◆ 北京大学の孫建軍さんより:   「留学」について深く考えさせられるお話でした。外国の進んだ技術や裕福な生活に憧れ、または外国語の習得や学術研究に役立たせるために、留学したい人が多いものです。多くの人の場合、それは夢だけに終わってしまいますが、僅かながら留学を実現させた人もいます。自分を中心に生活を考える留学生と違い、工藤さんのいらっしゃるABKは留学環境を整えるために50年奮闘して来られました。日本国内政治の動きや国際関係の変化に翻弄されながらも、留学生のためという信念を曲げることがありませんでした。ABKのような組織は、アジアの学生にとってどれだけ心強い存在でしょう。ABKにお世話になった元中国人留学生が、会場にたくさん集まったのもABKの強い求心力の表れに違いありません。 講演を聞きながら考えました。心にゆとりのある人でなければNPO活動は成立しません。留学がきっかけで、自分はNPOの存在を知り、関わるようになりました。精神的に豊かな方のそばにいるだけで励まされます。もっと精神的に成長しなければならないと切実に感じました。     ◆ フォーラムの写真は下記URLよりご覧いただけます。   延辺フォーラム   北京フォーラム      
  • 2008.03.03

    第7回日韓アジア未来フォーラム「東アジア協力の過去、現在、未来: 日韓アジア未来フォーラムのあり方を念頭に置きながら」報告

    2008年2月23日(土)、季節を忘れて、グアムのシェラトンホテルで「東アジア協力の過去、現在、未来: 日韓アジア未来フォーラムのあり方を念頭に置きながら」をテーマに第7回日韓アジア未来フォーラムが開催された。7年目を迎え、一種のsabbatical leaveという性格もあわせもった今回のフォーラムでは、日韓両国で3回ずつ行われたこれまでのフォーラムの成果と意義、問題点などについて振り返りながら、東アジア協力の過去、現在、未来について議論を行った。また、これからのフォーラムの進め方についても自由に意見を交わした。   グアムという場所の制約やテーマの性格などを考え、今回のフォーラムは非公開で行われた。米国領のグアムを訪れる観光客の7割以上が日本人であるが、近年は韓国人が増えているという。また、地理的には東南アジアに近く、日韓アジア未来フォーラムを開催するのにぴったりであった。   フォーラムでは、韓国未来人力研究院の李鎮奎(イ・ジンギュ)院長と今西淳子(いまにし・じゅんこ)SGRA代表による開会の挨拶に続き、4人の研究者による研究報告が行われた。まずSGRA研究員であり北陸大学の 李鋼哲(り・こうてつ)氏の研究発表は「北東アジア経済協力の展望 」をより具体的に明らかにするものであった。SGRA研究員のマックス・マキト氏は、「東アジア地域協力におけるアセアンの役割」について力説した。東京大学の木宮正史(きみや・ただし)氏は「東アジアの安全保障と共同体論」について、そして最後の発表者として延世大学の韓準(ハン・ジュン)氏は「東アジア協力におけるソフトパワーの役割」について発表を行った。   3時間に及ぶ報告と討論の後の第2セッションでは、嶋津忠廣(しまづ・ただひろ)SGRA運営委員長により、これまでの日韓アジア未来フォーラムの成果について報告が行われた。10ページほどの写真付の資料をもとに、これまでの楽しく有意義な研究交流活動を振り返る良いきっかけとなった。   嶋津氏の報告を土台に、これからのフォーラムのテーマや進め方などについて様々な提案があり、議論が交わされた。とくに注目すべきは、SGRAと未来人力研究院が異なるアプローチを互いに尊重しつつ、それぞれの強みを生かしながら、これまでのパターンを守り続けていくことで一致しているのが確認できたことである。また、「東アジア協力」と「ソフトパワー」というキー概念を念頭に置きながら、これからのテーマを決めていくことにも合意が得られ、次のテーマは、東アジア協力の大きなファクターとなる中国に対する見方の日韓の違いに注目し、今後具体的に検討していくことにした。   フォーラム終了後の夕食会は、市内の韓国料理店で、野菜もない牛肉だけの焼肉に焼酎バクダンを一気飲みするというややタフな食事会であった。前回の葉山フォーラムと同じく、まもなく「狂乱」の飲み会に変わってしまった。週末ということもあって店の人は呼んでも来ないし、お酒とお肉以外には殆ど品切れ状態だったのでそれが最善だったようにも思われる。2次会は音楽の賑やかなホテル内のバー、そして3次会はフィリピン海を見おろすプールサイドであった。   24日(日)は、自信満々の韓国系グアム人のガイドさんの案内で3時間ほど市内ツアーを楽しむこともできた。とくにツー・ラバーズ・ポイントは、「2回目のハネムーン」中の宋復理事長ご夫妻に思い出の場所となったに違いない。渥美財団主催の夕食会では主催側のご配慮でバーベキューにちょっと贅沢な日本酒を楽しんだが、前日の食事会に比べたらほんとうに穏健だった。この夕食会で「『次の7年目(=第14回日韓アジア未来フォーラム)』にはハワイでまた『3回目のハネムーン』を!」というすばらしいご提案があった。 次の第8回日韓アジア未来フォーラムは、2009年2月に東京で公開で開催する予定です。   -------------------------- <金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。 --------------------------
  • 2008.02.01

    第30回SGRAフォーラム「教育における『負け組』をどう考えるか」報告

    第30回SGRAフォーラムは、素晴らしい晴天に恵まれた2008年1月26日(土)、東京国際フォーラムG610会議室にて晴れ晴れと開催されました。「教育問題」が世間やマスコミを賑わしている昨今のご時勢において、「教育における『負け組』をどう考えるか ~日本、中国、シンガポール~」という今回のフォーラムは非常にホットなテーマであると言わざるを得ません。SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームが担当する6回目のフォーラムとなりますが、一般的な教育問題を扱ったフォーラムは初めてだそうです。   発表者および発表の流れは以下の通りです:   【発表1】佐藤 香 (東京大学社会科学研究所准教授) 「日本の高校にみる教育弱者と社会的弱者」 【発表2】 山口真美(アジア経済研究所研究員) 「中国の義務教育格差 ~出稼ぎ家庭の子ども達を中心に~」 【発表3】シム・チュン・キャット(東京大学大学院教育学研究科博士課程) 「高校教育の日星比較 ~選抜度の低い学校に着目して~」   基調講演を担当していた佐藤先生は、まず近代教育システムの特徴を説明しつつ、日本の教育モデルとメリトクラシー(meritocracy 能力主義)の現実を明らかにした後、日本におけるメリトクラシーの緩和および教育弱者の厳しい現状について説明しました。そして、教育弱者が社会的弱者になりやすい傾向の中で、彼らが社会に拡散してしまう以前に教育現場において集中的に支援を行なったほうが効率的であると主張しました。非常に濃い内容を簡潔にまとめられた佐藤先生の発表が素晴らしかったこともさることながら、SGRAフォーラムの講演者としては初めての着物姿もとてもステキでした。   二人目の発表者であった山口さんは、中国の都会に住む出稼ぎ労働者の現状とその子どもたちの教育問題に着目し、中国における義務教育の格差問題について報告しました。山口さんはまず中国の教育制度と各教育段階の就学率の推移について説明し、経済発展が著しい中国において国内出稼ぎがどのように発生・拡大していったのか、そして出稼ぎ家庭の子どもの義務教育を受ける権利がいかに草の根レベルでの解決によって制度化されるように至ったのかを詳述しました。データと写真を表示しながら、丁寧に且つ力強く中国の教育現状を訴えた山口さんの発表はとても印象に残るものでした。   最後の発表者の私は、日本とシンガポールにおける選抜度の低い学校に焦点を当て、教育の「負け組」への両国の対処のあり方を比較しながら、教育が果たすべき社会的役割について検討しました。日星両国の高校生を対象とした質問紙調査のデータをもとに、私はまず両国ともに選抜度の低い下位校には学力も出身階層も低い生徒が集まることを示したうえ、シンガポールの下位校生徒が、学校の授業や先生を高く評価し、高い学習意欲と進学アスピレーションを持っているのとは反対に、日本の下位校生徒は授業や先生に対する評価が低いだけでなく、意欲にも欠けていることを明らかにしました。そして、日本の下位校の厳しい現状を言及しつつ、どの国でも下位校が教育的・社会的セーフティネットとなるべく、下位校への投資と改革が急務であると強く主張しました。   「教育問題」は非常に身近でホットなテーマであるだけに、フォーラム当日には会議室の席がほぼ全部埋まるほど参加者が集まりました。パネル・ディスカッションのときも、フロアから質問とコメントが引っ切り無しに出され、会場は盛り上がりました。教育弱者への支援の重要性について意を同じくした参加者もいれば、学力以外にも「生きる力」を柱とした教育の必要性を強く訴えた参加者もいました。教育のあるべき姿を考えるヒントとして、自国の教育制度や自らの体験を熱く語ってくれた参加者もいました。そして、ディスカッションの熱気は冷めることなくそのまま大盛況の懇親会へと持ち越され、最後の最後まで熱い議論が交わされる一日となりました。   当日、SGRA運営委員の足立さんとマキトさんが撮った写真は、下記URLからご覧ください。   http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/   (文責:シム・チュン・キャット)