SGRAかわらばん

  • 2013.07.10

    エッセイ379:李 彦銘「第4回SGRAカフェ報告―日中に求められる『温故知新』」

    2013年6月15日、東京九段下の寺島文庫みねるばの森にて、早稲田大学の劉傑先生をゲストスピーカーとして迎え、第4回SGRAカフェが開催された。   冒頭の挨拶でSGRA代表の今西淳子さんから、カフェ開催の趣旨と経緯が説明された。今回の目的は、昨年以来から緊張感が高まる日中関係をどのように理解、整理すればいいか、リラックスしながらみんなで考えることである。劉先生のお話は少し硬い「文革世代の私からみた中日交流40年とこれからの中日関係」というテーマであったが、結論から言うと、蒸し暑さが飛ばされ、清涼感が漂う3時間となった。   劉先生はまず個人の体験を踏まえ、中国の文革世代と日本との出会いを話してくれた。日中国交正常化の直後、「紅小兵」(紅衛兵の小学生バージョン)として日本語の勉強を始めた劉先生の経歴は、現在中国の指導者層や社会運営の中枢を担う多くの文革世代のなかで、決して一般的なものではないが、日中の本格的な相互認識や一般の交流が可能になったのは、1980年代になってからのことであったと、参加者に実感させた。つまり、日中の相互認識は、われわれが想像したような長い歴史と深い理解を持つものでなく、これからもっと進めていかなければならないのだ。   1950、60年代生まれの中国人のなかには、劉先生のように、改革開放に伴い80年代初めに渡日し、日本というものが日常生活の中に常に存在し、人生の大半が日中関係の中で過ごした人々が多くいる。その一方、現在中国で国の方向性を握っている同じ世代の政策決定者は、必ずしも時代相応の国際感覚を持っていないと、劉先生は指摘する。とくに彼らの中には、国益の追求を重視する傾向が存在する。また毛沢東時代に対する肯定的な再評価の動きも現在の中国において物議を呼んでいる。これらの要素は今後の中国の対日姿勢だけでなく、中国の外交スタンスに対する周辺諸国や国際社会の憂慮の材料になっている。しかしグローバル化が進むなかで、これらは同時に中国側が乗り越えるべき課題であると、劉先生によって問題提起された。たとえば、昨年の反日デモにおける中国側の過激な行動と言説は、1930年代の反日運動と、驚愕するほど似ているのだ。百年近く前の歴史が繰り返されたように、歴史研究を専門とする劉先生の目に映っていた。   中国側の国際認識を検討した後、日本側の対中認識についても問題提起された。中国側の反日言説と行動だけでなく、日本側の国際社会に向けての訴えもまた歴史と同じだ。つまり、1930年代と同じように、日本は「国際社会のルールを守らない」という中国に対する批判と、自らこそが国際社会と「価値を共有」していると国際社会に訴えているのだ。   そして「価値」の分野だけでなく、歴史認識においても日中は格差が存在している。そもそも「戦後」に対する認識は、日中においては異なり、日本が主張する「今日的正義」に対し、中国は「歴史的正義」を主張している。こうした認識の格差は、今すぐに両国間で歴史を共有することがもはや困難であり、そこばかり追求していくと対立は避けられないということを示しているように思われる。   現状として、中国社会の中の多元化が進んでおり、国家と個人の関係や国益に対する認識も一枚岩ではなくなってきている。昨年のような反日デモの中に暴力的な事件が起こったのは、極めて残念なことであり、日本社会にとってだけではなく、中国社会でも大きなショックとなった。その後、社会の反省は、個人財産を保護すべきとの主張や、「文革」心理の復活に対する危惧の形で表れている。確かに中国社会はまだまだ激動の真っ最中で、その方向性を正しく予知することは難しい。しかしだからこそ、国際社会の反応自体も、中国のこれからの方向性にとって重要な要素となりうる。   以上のような変化の流れを見過ごしては、偏った中国理解につながり、そして偏った中国理解に基づいた日本側の行動が、また中国国内の被害者意識や過度な国益追求を刺激してしまう、という負の連鎖を引き起こすではないか、というのは筆者の感想である。すでに1930年代にはそのような負の連鎖が起こった。その歴史を鏡にもう一度現状を見直し、「温故知新」を求めるのは、日中双方の責任そして、われわれ市民社会の責任である。   日中に横わたる問題を解決し、相互理解をより進めていかなければならない。そのために、まず共通の価値観や認識を見出すことが大事であると劉先生は提起した。とくに、一国の利益のみを考えないで、全人類の福祉を促進する立場からの平和と協力の視点が必要とされている。筆者は一人の「80後」(中国で1980年代に生まれた、最初の一人っ子世代)として、その結論に大いに賛成し、またこれは世代や国籍を超えた認識であると確信している。   当日の写真(ゴック撮影)   ------------------------------------ <李 彦銘(リ・イェンミン) Yanming LI> 国際政治専攻。中国北京大学国際関係学院卒業、慶應義塾大学にて修士号取得し、同大学後期博士課程を単位取得退学。研究分野は日中関係、現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。 ------------------------------------     2013年7月10日配信
  • 2013.07.03

    エッセイ378:葉 文昌「実験装置や備品の買い方」

    私の実験系研究室では実験設備や消耗品等を購入する機会が頻繁にある。私はすべて自ら見積もりを取って購入している。まずネット検索に始まり、続いて会社のサイトで要望と資料の請求を記入するのだが、その後の業者の対応は千差万別だ。すっきりするのが見積書と仕様書を速やかに送ってくる、又は電話で仕様について詰めてくる業者である。こういうのは進展が早い。そして嫌なのが、「後日訪問させていただきます」というタイプである。「見積書を先に送ってもらえませんか?」と要望を出しても、「訪問時に持参いたします」ともったいぶる。こっちはその為に時間を作らなければならないし、訪問すると言っても来られるのは大抵1、2週間後の事なので、そんな呑気に待っていられない。「営業は足でする」と誰かが言っているが、それはインターネットが普及する前の話だ。今ではネットで瞬時に情報を収集できる。だから営業活動で面白い情報でもなければ「訪問する金と暇があるなら安くしてくれ」と言いたくなる。   消耗品に関しては私が台湾から日本に移った3年前から日本はすでにネット販売の時代になっていた。更に金属や樹脂の特注加工もネットで形状設計して発注できるようになっていた。台湾では消耗品は商社に見積もりを依頼してから物品を購入していたし、特注加工品は町工場を見つけて出向いてお願いしていたので、効率は雲泥の差がある上にネット発注の方が格段に安くなっていた。全国的に展開しているネット会社が市場を席巻する一方で、これまで地域で展開していた商社は痛手を被っているようだが、ネットの効率性には敵わないのが現状だ。   大学の一研究室の物品購入もすでに国境を超えてグローバル化しつつある。私は台湾での経験もあるので日台間の実験装置部品の価格差がわかる。日本での売値が台湾よりも安い物もあるが、昔台湾で購入していたある米輸入品が、日本では2倍強で売られていたことがある。アフターサービスのしようがない製品にもかかわらずだ。幸い今の大学も、業者に翌月末払いの信用取引を取り付けることができれば、物品の海外からの直接購入は可能となっている。米メーカーにもメール交渉すれば、信用取引に応じてくれる業者もいる。因みに私の英語力は貧弱と言える。しかし英語力は必ずしも重要ではない。信用取引に応じてくれれば予算が浮くので、だめもとで試す価値はある。   実験装置を作る時、予算が無限にあれば高くても一番いい部品を揃えられる。しかし当然ながら予算は有限である。だから部品の購入にも取捨選択が求められる。その方法は日常生活と同じだ。今の時世では着る服をブランド品で固める人はもはやいなくなり、富裕層でも場面によっては廉価アパレルブランドも着こなす方が多いのではないか。この方がマネージメントとしてもスマートで、個人レベルにおける生活のパフォーマンスが大きくなる。私も実験装置で使う部品は性能面で特に問題がなければ安い海外製も購入することもある。こうすることによって限られた予算内でも大きいパフォーマンスを得ることができ、それが私が在籍する社会へのより大きな貢献となる。よくオールジャパンという言葉を聞くが、私はこの言葉は好きではない(もちろんオールタイワンも)。肝心となる部分を押えていれば、他はジャパンでなくてもいいと考えている。そして社会レベルでパフォーマンスが最大化できれば、結局は社会が潤う。   島根大学に来て満3年となったが、真空装置や測定装置を立ち上げることができて、太陽電池等の半導体デバイスを作って評価する環境を構築することができた。そして春には国内初と言える結晶Si太陽電池をその場で作る大学公開講座も開講した。大学でもグローバルに物品を調達できるようになったこととネット販売の利便性による所に感謝している。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)  Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------   2013年7月3日配信
  • 2013.06.26

    エッセイ377:デール・ソンヤ「『外国人』として」

    先日、耳鼻科に行った。初めての診察で、登録等をし、症状を書類に書いた。私の番になったときに、名前が呼ばれて、診察室に入った。「日本語はもう完璧みたいですね」と言われて、すぐ診察が始まった。   その後、薬をもらうために隣の薬屋に行った。パートナーと一緒に行ったので、私の番を待ちながらおしゃべりをしていた、日本語で。ここでも、初めての客として登録をするための書類が必要だった。書類を渡すため、私の名前を呼んだ薬剤師が、「日本語大丈夫ですか」とすぐ聞いた。名前を見たからか、顔をみたからか、なんだろうね。隣に座っていたパートナーに日本語でしゃべっていたのに、なぜか日本語ができないと思っていた。   別の日、またパートナーと整体の体験に行ってみた。小さな施設で、整体師も一人しかいなかったので順番に整体を受けた。まずはパートナーだった。次は私。国籍や日本語の能力について何も聞かれず、「普通」に話してくれた整体師は、不思議と新鮮だった。とても嬉しかったので、パートナーにその感想を話した。「いや、私に聞いたよ。ソンヤが日本語できるかって」。その現実を聞いて、ちょっとがっかりした。   日本で、多くの日本人が、なぜか(見た目や名前で判断して)外国人は日本語ができない、と思い込んでいるようだ。人と初めて接する時に、ほとんどいつも「日本語できますか」と聞いてくる。もはや日本語ができないことを前提として話すようだ。私が日本に来たばかりのときなら、日本語がまだ分かりづらかった時だったら、そのような気遣いをされると嬉しかったかも知れないが、日本に来て4年目に入って、少し飽きてきた。   私の先生は、白人のアメリカ人で、20年近く日本に住んでいる。最近、二人で喫茶店で待ち合わせをして、英語で話していた。小さなお店で、トイレの場所が分かりにくかったので、先生は店員さんに場所を聞いた。少し複雑な場所だったので、私の先生は、「はい、はい」と言いながら聞いていた。私たち以外、お客さんがあと一人いた。先生がトイレの長い説明を聞いているのを見て、その人は私と目を合せてきた。「日本語、わかるかな」と笑いながら私に向かって言った。「もちろんですよ。日本語はぺらぺらです」と、私は、先生の代弁をした。どうせ、あの人は私の曖昧な見た目で「日本人」だと思ったのだろう。   ある人が、ある人を「日本人」じゃない、と判断する。その判断は、ほとんど見た目に基づいているのだろう。または、名前を見て判断するのだろう。その判断は、多くの場合一瞬で終わる。そして、「外国人」と判断されてしまったら、まさか日本語ができるとは思われないようだ。私は、たまに日本に生まれ育った日本人のハーフ(またはダブルやミックス等々、お好みでどうぞ)のことを考える。そういう人たちが、「日本人」じゃないと判断されてしまうことは、きっと辛いだろう。「ハーフ」は、親の国籍や育ちによって二つ(または三つ、四つ、それ以上)の文化を合わせ持つと言えるが、同時にそのいずれかの文化(または社会)から排除される可能性もある。見た目で判断するから、そういうことになるのだろう。私は、日本人のハーフではないが別の「アジア系」のハーフである。そのため、国籍が判断しにくい顔になっているようだ(そもそも顔で国籍を推測するってどういうことなんだろうね)。でも、その顔のおかげで、たまに「日本人」としてパスできる。そういうときは、なぜか嬉しく感じる。別に「日本人」になりたいわけでもないけどね。何よりも、「普通」にしゃべってくれることが嬉しい。   20年間近く日本にいる私の先生が、初めて出会う人に「日本語はわからないだろう」と判断されたのは、少し悲しい現実を目撃した感じだった。20年も日本にいても、どこまで日本語が上手になっても、見た目が「日本人」ではない限り私も同じ扱いをされるだろう。日本人が「外国人」を見下しているわけではないが、やはりもう少し(いや、少しだけではなく、もっともっと!)、日本語に関しては期待してほしい。でもそれだけではなくて、やはり単純に見た目や名前で、人を判断してほしくない。人の国籍や年齢や性別や身長や眼の色等を前提として、話してほしくない。みんなを自分と同じ「人」として、接してほしい、接したい。   ---------------------------------------------- <デール、ソンヤ Sonja Dale> 上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士課程満期退学。上智大学グローバル・スタディーズ研究科特別研究員。ウォリック大学哲学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士。2012年度渥美奨学生。 ----------------------------------------------     2013年6月26日配信
  • 2013.06.19

    エッセイ376:カトウ メレキ「トルコの反政府デモ:『アッラーがアダムをつくった。翌日カインがアベルを殺した。』」

    「今度のオリンピックは、東京とイスタンブール、どちらが選ばれると嬉しいですか」とよく聴かれていた。それが急に「大変ですね、トルコ、大丈夫ですか?」と言われるようになった。トルコでは、現在、大規模な反政府デモが続いているからである。すでに死者がでており、500人ほどが逮捕された。デモ隊は6月16日に政府によって排除された。このデモは世界各国のメディアでも取り上げられている。デモ参加者の攻撃的な態度と、政府および警察のそれに対する姿勢が大きな批判の的となっている。デモ隊が反対しているのは、イスタンブールの中心街のタクシム広場に関する「ゲジ公園」という再開発プロジェクトである。環境保護団体のメンバー達は、この広場の木が切られることに反対であると訴えている。   2013年5月下旬から6月のはじめにかけて、エーゲ海の新緑が美しくなった頃、ちょうどトルコにいた。イスタンブール以外の都市は静かに(トルコの「静か」は日本のそれとくらべたら「うるさい」と感じられるかもしれないけれども)日常生活を送っていたときに騒動が起こった。それは、突然、フェイスブック(以下FB)上と、ランキングはそれほど高くない「ハルクTV(国民テレビ)」というテレビ局の両方で始まった。ハルクTVは、現場からの生中継の間に、トルコの左よりで革命派の俳優ギュネイ・ユルマズ主演の反政府映画とその主題歌アルカダッシュ(我が友)を放送した。その映像には銃などが出てくるシーンがあり、思春期の若者の気持ちを刺激し、彼らが自らのことを「反政府の英雄」と夢みてデモ隊に加わることになったと、新聞記者トルグット・セルダル氏が書いている。氏は、若者が犠牲になったトルコのクーデターを自ら経験しており、トルコではこのようなことが数年ごとに繰り返されると批判している。トルコという国の若者たちは、数年ごとに原因不明の「分裂病」にとりつかれるのだろうか。   ハルクTVを除けば、デモが始まったころメディアは無関心だった。しかしFBでの呼びかけをきっかけに、若者を中心とする多数のグループが、タクシム広場周辺でテントを張り、寝泊りしながらデモを始めた。その後子どもから高齢者まで、様々な年齢の人々が加わった。イスタンブールの知事が、自分の子どもを連れ戻しに来るように、母親たちに呼びかけたこともあった。それは警官隊が使用する催涙弾などが含んでいる有害物質の影響から若者を守るためだった。エジプトの反政府運動やシリアの内戦が始まったとき、トルコの世論は、アラブ諸国よりも自らの国がデモクラシーの面で優越していると自慢げだった。しかし今回のデモをきっかけにトルコのデモクラシーも問われるようになった。シリアの友人に「トルコの春がきたね」と言われた。   最初、デモ隊は、環境保護を訴えてタクシム広場の木が切られることに反対する人々であった。しかし参加者の中には、反政府組織のメンバー、野党支持者及びPKK(クルディスタン労働者党。クルド族の独立国家建設を訴える武装組織のメンバーも多く、トルコではテロリストとしても認識されることがある)支持者や、トルコ外部の勢力に支持されている違法団体の人々も入っていると、政府は認識している。それに対する最初の攻撃は、警察によるデモ隊の撤退を求めるものだった。しかし、参加者の多様性や、政府の過激な抑圧を観察するだけでも、今回のデモが単にトルコ政府の都市開発プロジェクトとそれに反発する民衆の衝突として単純化されない問題であることがわかるだろう。その背後には、無視することができないトルコの政治的、社会的、歴史的そして精神的な背景があるという事実は疑いの余地がない。   トルコの政治的な構造をみると、主に4つに分かれる。政権を握っているAKP公正発展党はイスラム主義を掲げている中道派である。その次に支持されているのはCHP共和人民党であるが、左よりでライシテ(政教分離や世俗主義)、アタチュルク主義(トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク)的な思想を持っている。第3勢力はMHP民族主義者行動党であり、ナチスドイツまではいかなくても民族崇拝的な色が濃く、イスラム思想を重んじる傾向を持っている。最も少数派であるBDPはクルド人住民を代表する左派政党である。もちろんこのような説明の仕方は大雑把で、支持者を単純にグループ化することは容易ではない。   トルコでは同じ家族の中でも、支持する政党や思想がかなり異なる場合が多い。時には兄弟の間で摩擦の原因にもなる。トルコで政治が話題になっている時に、忘れてはならないことが一つある。子どもから年配の方まで、政治や政治家のことを話せば絶対に盛り上がる。政治は常に日常化した熱心な議論のネタである。職場の同僚に嫌われるのは、彼はAKP支持者なのに自分はMHP支持者であるから、ということは十二分にある。トルコの某国立大学で働いていたCHP寄りの研究科長の某先生は、昨年、新しく入ってきた学長がAKP寄りであったから、強制的に他の国立大学に勤務先を変更させられた。とにかく日本ではおとぎ話にも聞こえるような出来事が沢山出てくる。   トルコの政党の話が長くなったが、こうした政党や、その支持者同士の摩擦が長年続いてきた。今回のゲジ公園プロジェクトに反対するデモ隊の中には、AKP以外の党を支持するグループも多く、結局、異なる政党支持者間の衝突まで始まった。AKP側の若者たちがCHPの別館を石や棒で攻撃したのもその一つの事例である。それはCHP側の人々が、最近のエルドアン政権の行いに対して不満を抱くようになったこととも関係している。AKPは、2002年以来続いている政権の中で、国民の多くに認められたように厚生、社会福祉、経済、国際関係の分野で大きな発展を成し遂げた。しかし、だからといって信条や習慣が統一されたわけでは全くない。   トルコでは、飲酒やお酒の販売に関しては様々な法令の提案があったが、今回のゲジ公園プロジェクト抗議運動の直前に、午後10時以降お酒の販売が禁止された。この法令はイスラム主義のエルドアン首相やその支持者である国民の一部にとって望ましい変化であった。イスラム教ではお酒は禁止されており、その販売も宗教的に禁止である。トルコでは飲酒の習慣が日本とは異なる。トルコでお酒を飲むのは殆ど男性であり、その中でも、飲む人と、生涯飲まない人とではっきり分かれている。これは宗教的な選択である。田舎の街角でビールを購入すると、中身が「バレないように」缶を新聞紙に包んで渡される。かたちであれ、心からであれ、宗教的な生活を好む住民が多いトルコでは、飲酒は、どことなく白い目で見られがちな習慣なのである。   それと反対に、左よりのCHPやアタチュルク主義を訴え世俗主義的な生活を好む住民にとって、お酒販売の制限は大きな抑圧である。さらに、観光業が大きな収入源であるイスタンブール、地中海およびエーゲ海などで観光業に携わる経営者達にとっては、お店が賑わう夜10時以降は客にお酒を出してはいけないという政府からの制限は、厳しい打撃となった。お酒販売の制限であっても、トルコでは2項対立の反応が常にあるのである。   また、エルドアン首相の最近の独裁者的な言動も、国民の間で不満の的にもなっていた。確かに大規模な集会などでのエルドアン氏のスピーチを聞くと、驚くほどオスマントルコのスルタンの口調で話す例が少なくない。最近のデモを受けて、トルコの有名な心理学者キョクネル・オズジャン教授は、「演説などを分析したところ、ヒトラーという独裁者でさえ、エルドアン氏ほど暴力的な口調では話さなかった」とある電子新聞の記事に書いた。6月16日、イスタンブールの市内のタクシム広場でデモが続いていた時に、エルドアン首相が同じ市内の別の場所で大規模な集会を開催し、自分の支持者の前にたって演説を続けたこともかなり批判されている。   その舞台となったイスタンブールでは、二人の兄弟がいれば、一人がエルドアンの演説を聞いて拍手しながら盛り上がっている最中に、もう一人の兄弟がデモ隊の中で警官隊と衝突しているということは、全く普通の話である。その兄弟は翌日同じ家で生活し同じ食卓を囲む。しかし、話題が政治に変わると、この二人は必ずと言ってよいほど殴り合いになる。兄弟であっても憎しみでいっぱいになる。今回のデモでは4人の命が失われた。これは中東的な落ち着きの無い性格なのだろうか。または気性が激しい国民性といったところだろうか。   エルドアン首相やギュル大統領はデモ隊を無視し続けているが、その姿勢について彼らの言い訳はAKP支持者がトルコ住民の半数に及んでいるからということである。そのようなAKP政権を全くの「悪党」とみなすのは不平等な理解の仕方になるだろう。長い間AKPは国民に支持されてきたのである。CHPやMHPは野党としてしか政治に関与できず、そのメンバーや支持者は政権交代を訴え続けて10年あまりが過ぎている。その歳月の間、AKPが様々な分野で多くの業績を残しているのは明確である。病院、学校や職場など公の場で、トルコに帰国するたびに観察できる変化が著しい。国民の経済的なゆとりも顕著である。携帯電話やPCを2台以上持っている人も多いし、iPhoneを片手に友達と話している中学生も少なくない。果物、野菜やパンなどの食料がゴミとして大量に捨てられるほど余っている。それなのに、人々の間では、とにかく政権を批判することが盛んになっており、トルコの最近のトレンドである。   今回のデモが起こったのは、トルコの最近の発展成果を示す重要な出来事がいくつか重なっていたことも指摘されている。デモ開始の2週間前の5月14日、トルコは国際通貨基金(IMF)から借りていた膨大な借金をやっと完済した。1969年1月1日以降、トルコ政府が借りた4億米ドルのことである。   6月1日から16日の間、140カ国からのトルコ語学習者の学生たちがトルコを訪れ、第11回目のトルコ語オリンピックが開催された。このオリンピックはギュレン運動(ギュレン・フェツフッラー氏がリーダーである中立的な宗教団体で、政治と距離をおき、イスラム教の掟を守りながら、自らや周りの人々の教育に熱心なグループであり、最近米国などで国際学会も開催されるようになった)が開催しているもので、どちらかというとエルドアン首相やイスラム教に積極的な人々が応援しているイベントである。   トルコ経済が軌道に乗り、国の借金が完済され、トルコ東部で長年続いたテロ問題もそろそろ落ち着いてきた今、トルコ語オリンピックも開催されているちょうどその時期に反政府デモが起こるのは、政府に言わせればエルドアン政府の支持率を下げるための一つの仕掛けであり、政府の業績よりもその欠点を前面に出そうとする試みなのである。   そのような主張をする政府も、国民を政府側と反政府側という二つのグループに分けて扱おうとする。国民も、ときには非常に意識的に、ときには無意識的にこの二つのグループに自ら別れる。一方はデモ隊に入って棒や石で警官隊のパトカーや救急車を襲う。もう一方は警官隊側に立って「人だかりの方に催涙弾を投げろ!」という命令に従いデモ隊を攻撃する。この二人とも同じイスタンブールの市民であり、制服やデモ用のマスクを脱げば、翌日同じスーパーで何もなかったかのようにアッラーの作った野菜を購入して晩ご飯のおかずにする。そしてまたその翌日兄弟を棒や石で襲う。モナリサはトルコを見ていたに違いない。   アッラーのために、一日5回、礼拝堂のミナレットから人々に祈りに集まるように呼びかけられる。その日もその翌日も、カインのようなトルコ人が、アベルのようなトルコ人を殺しつづける。   ---------------------- <カトウ メレキ(Melek Kato)> トルコ出身。トルコのエルジエス大学日本語日本文学部を卒業後、筑波大学人文社会科学研究科・文芸言語専攻にて文学修士号を2006年取得。同研究科で20011年学術博士号取得。現在白百合女子大学非常勤講師。研究分野は比較文学、比較文化、翻訳研究。SGRA会員。 ----------------------     2013年6月19日配信
  • 2013.05.29

    エッセイ375:韓 玲姫「日本体験記―駆け込み乗車」

    来日してすでに10年の歳月が流れた。思えば人生で最も輝く30代を、わたしは日本とともに過ごした。日本は、私に豊富な知識を与え、人間として生きる力を与えてくれた。さらに、私に2人の子供を授け、私を大人に成長させた。今、振り返ってみると、7年間の会社生活と3年間の研究生活は、いずれも私にとって新しい発見と学びの旅であり、その一つ一つが私の人生の宝物であった。   勿論、日本での体験はすべてが愉快というわけではない。入社間もない頃、中国の取引先との電話商談がうまくいかず、会社で唯一の中国人である私をわざわざ呼び出し、「おれは中国人が嫌い。だから中国と取引したくない。」と直属上司でもない人に、意味不明に八つ当りされたこと、「中国には信号があるの?」、「キム・ジョンイルって中国の首相?」などのような馬鹿げた質問に、「はあ?」と唖然としてしまったことも多々ある。しかし、そのようなことがあったからこそ、もっと日本人を理解したい、日本社会を知りたいという強い思いが芽生えたと思う。   そもそも、私が東京の生活に憧れ、会社に入社したのは、10年前のあることがきっかけだった。それは、初めて上京した時の出来事だ。閑静な筑波大学のキャンパスとはガラッと変わって、混雑した人込み、職場に向かって早足で急いでいるスーツ姿のサラリーマンやOL(オフィスで働く女性の意)、建ち並んでいる高層ビル群、これまで頭の中で想像していた都会の風景が目の前に現れた時の感動は、未だに鮮明に覚えている。田舎生れ田舎育ちの私にとって、東京という大都会はすべてが新鮮で、神秘的なものだった。その時、私はこの憧れの大都会で生き延びることをひそかに心に決めたのである。   1年後、再度来日した時、私は念願の東京OLの仲間入りを果たした。そして、電車に揺られて7年間の通勤の旅が始まったのである。日本の通勤といえば、満員電車と思われる人が多いが、私にとって一番印象に残るのは朝のラッシュ時の駆け込み乗車である。   上京して最初の4年間、私は千葉県市川市の南行徳に住み、その後は船橋市の船橋法典に引っ越した。会社まではそれぞれ地下鉄東西線、JR武蔵野線を利用したのである。東西線も武蔵野線もラッシュ時の乗車率がトップテンに入るぐらいで、私が乗っている区間はいつも混雑していた。   朝の通勤ラッシュの時間帯になると、ホームにいつも長い行列ができるのは珍しくないことだ。いよいよホームに電車が入ってくるが、電車の中はすでに人がぎゅうぎゅう詰めで、降りる人もほとんどいない。いつの間にか長い行列の人が我先に中へ乗り込んでゆく。小さいスペースしか空いていなかったのに、そんなに長い行列の人が全部入れるなんて信じられないが、確かにみんな乗っている。   「ドアが閉まります、ご注意ください。」、「駆け込み乗車はお止めください。」というアナウンスとともに、よく目にする光景がある。それは、必ずといっていいほど、閉まる扉に駆けこんでくる人がいることだ。半開きになったドアには片足しか入っていないが、それでも諦めず必死に押し寄せてくる。やっと体半分が入ったところで、男性の駅員が駆けつけてくる。「駆け込み乗車はお止めください。」、「もう満員なので降りてください。」と怒り出すのかと思うと、今度は駅員が必死に外から客を中に押し込めてあげる。そして、半開きになったドアを手動で締めると、かすかながらも安堵の表情を浮かべる。   実は、このような光景は中国でもよくあることだ。しかし、舞台が違う。それは、国営の電車や汽車ではなく、地方行きの個人請負バスである。個人経営なら、お金を稼ぐために一人でも多くの人を乗せたいだろうが、日本の場合は違うのではないか。私は、閉まる扉に駆け込む人に対しても、命が危ないことをする利用客を止めない駅員に対しても、疑問に思っていた。しかし、徐々に私は彼らが理解できるようになった。   毎朝、私はいつも15分前には会社に着くようにする。が、その時ほとんどの社員がすでに仕事を始めているのだ。定時前に着いても、みんなが仕事をしているところへ入っていくのは、何となく気まずい雰囲気がしてたまらない。私だけの思いかも知れないが、朝出社した時、席に座っている社員に向かって、「おはようございます。」と挨拶をするより、席に座って、「おはようございます。」と出社した人を迎えたほうが、精神的にもっと楽な気がする。これが決して理由にはならないが、遅刻は禁物という日本社会の秩序と、毎朝緊張が走る会社の雰囲気が、どうしても目の前の電車を逃したくないという思いを募らせた原因の一つであるのは違いない。   次の電車に乗って、3分、5分遅く出社するより、1分でも早く着きたいという気持ち、また、予定時刻より早く会社に着いた時のラッキーな気持は、日本の社会人にしか分からないことだろう。そして、その気持ちが分かるからこそ、駅員も駆け込んでくる客を乗車させたかったのだろう。必死に電車の中へ乗り込もうとする客、そして、後ろで客を必死に電車の中に押し込もうとする駅員、彼らはまったく他人であるが、彼らには以心伝心の原則が通じるのだ。その光景は、まるで同じゴールを目指し、バトンを渡して後押しする人生のリレーマラソンのようであり、心の温まる場面であった。   とはいっても、私にとって日本での社会生活の中で、仕事より朝の通勤のほうが確かにプレッシャーだった。そして、それがストレスとなり、挙げ句の果てに某日の朝、会社のエレベータから降りた途端、廊下で倒れ、大騒ぎになったことさえある。社会人として遅刻禁物というルールは当然守るべきであるが、もっと精神的にゆとりのある職場と気楽な社会環境が必要かもしれない。   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ)Lingji Han> 中国吉林省出身。延辺大学日本語学部卒業後、延辺大学外国言語学及応用言語学研究科にて文学修士号取得。2013年3月筑波大学で学術博士号取得。現在浙江越秀外国語学院東方言語学院日本語学部講師。2012年度渥美財団奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。 ---------------------------------------
  • 2013.05.22

    エッセイ374:シム・チュンキャット「21世紀のアジアの教育を考える」

    (第1回アジア未来会議報告#5)   華麗な手さばきでiPhoneやiPadをいじる子どもを電車の中でよく見かけます。鮮やかだな~と感心する傍ら、彼らのこの優れた指技と能力を学校の現場で活かさなければ、もったいなすぎるといつも思います。今の子ども達を取り巻く成長環境が大人世代のそれとは大きく異なることは想像に難くありません。つながろうと思えば、見知らぬ人ともつながることができますし、調べようと思えば、わざわざ出かけなくても部屋の中で多くの情報を容易に入手することができます。その良し悪しはともかくとして、既成の観念と枠組みや従来の常識がおそらく今後も次々に打ち破られていく、そういう時代に移ったと認めなければなりません。そして、学校教育が子ども達の未来のための材料づくりを担う役割を果たすのであれば、なおさら変わらずにいられるわけがないと思って、2013年3月にバンコクで行われた第一回アジア未来会議では「21世紀に向けたアジアの教育の在り方を考える」というセッションを組みましたが、この僕の狙いと期待は見事に裏切られました。未来志向の教育を目指すその前に、現存する学校教育制度には問題が山積しており、その解決が先であることを僕は4名の発表者に教わったのです。同じセッションに分野や専門などを異にする研究者が集まるアジア未来会議であるからこそ、視点の違う立場からある共通のテーマについて議論することができました。ということで、2ヶ月程遅れましたが、僕が座長を勤めたセッションで行われた発表と主な議論の余韻を少しでも皆さんにお届けできればと思って、以下に簡単にまとめました。   まず、青山学院大学大学院の中西啓喜氏がシンガポールとの比較を通じて、日本における商業科高校の変化と課題を検討しました。同氏によれば、近年日本の商業科高校には社会階層上位層の子弟が入学しており、また就職指導よりも進学指導が実施されるようになってきた、という変化が見て取れるといいます。換言すれば、生徒の手に職をつけるという職業教育の本来の目的から離れ、日本の商業科高校の職業教育機関としての不明瞭さが増してきているということです。アジア各国で大学進学熱が高まるなか、職業教育の存在意義の再考および新たな役割の認識が求められている現実が浮き彫りになりました。   つぎに、東京大学大学院の李スルビ氏は、同じ学校の生徒でありながら、使われる教科書と教育内容によって歴史認識が大きく変わるという事例研究の結果を発表しました。李氏がフィールドワークを行った東京韓国学校において、日本の大学への進学を目指す「Jクラス」の生徒と、母国の韓国に帰国して進学を希望する「Kクラス」の生徒とでは、使用する歴史教科書の視点と内容が異なるため、日韓関係史に対する認識が進路によって大きな隔たりが生じていることが示されました。アジアにおける歴史認識の問題がクローズアップされている昨今、歴史という教科の学びと意義および教科書の在り方がいっそう問われていると李氏は問題提起をしました。また、李氏のこの興味深い発表はこのセッションでの優秀発表賞(Best Presentation Award)に選ばれました。   続いて、上越教育大学の堀健志氏は、最初の発表者である中西氏と同様に日本とシンガポールとの比較をもとに、学力面で下位に位置づけられる高校生に焦点を当てることによって、グローバル化の影響で何らかの不利と困難がもたらされた子どもへの対応について検討しました。堀氏によると、現代社会では自分の人生をどう生きるかを自ら決定することが求められる「個人化した状況」が生み出されているにもかかわらず、日本の下位校生徒の多くは、社会に出ることに対して不安を抱いており、自己有能感も低く、そのうえ今の学校生活から将来像を描くことができずにいます。社会や将来に対する若者の不安と不満が、過度にナショナリスティックな姿勢に結びついてしまわないためにも、そうしたネガティブな感情を抱かずにいられる状況を作り出すことが、本人たちの未来にとってもアジアの未来にとっても極めて有益であると訴えました。問題解決に向かう道の一つとして、同氏はシンガポールのように完成教育としての職業教育を若者に提供すること、また職業教育を受けたとしてそれが生かされる職を用意することが重要であると提案しました。なお、これらの知見をまとめた堀氏の大会論文は優秀論文賞に選ばれたことをここで記しておきます。   最後の発表者は、きれいな関西弁日本語を駆使するにもかかわらず、なぜか英語で発表をすることにした同志社大学のラフマン・シャフセインリ氏でした。シャフセインリ氏は、初等教育における平和教育の重要性を強調しつつも、その導入と実施がアゼルバイジャン、アルメニアおよびグルジアの三国からなる南コーカサス地方において困難を極めていることを明らかにしました。紛争が長く続いたこの地域において、学校教師の多くが実際に戦争を経験しており、若かった頃に憎むことをひたすら教わった教師達がいかに平和について教えるかが大きな課題となっていると報告しました。子ども達のための「寛容教育(Tolerance Education)」がつい4年前の2009年に始まったばかりのアゼルバイジャンは、同じく悲惨な戦争を経験し、その後平和憲法を守り続けてきた日本から多くのことを学べるはずであるとシャフセインリ氏は最後に提言しました。   以上で紹介した通り、また冒頭でも述べたように、僕が座長を務めたセッションにおける4つの発表内容は良い意味で多岐に及んでおり、未来の教育に向けての現在の課題が多く指摘されました。言うまでもなく、未来と現在は陸続きになっており、いま現在の教育問題への解決について議論することは、結局のところ未来に向けた教育を考えることにもつながるのだということを、バンコクで改めて気付かされた次第です。「未来」を照らすためには、やはり「現在」という鏡が必要不可欠なのですね。   ------------------------------- <Sim Choon Kiat (シム チュン キャット) 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------  
  • 2013.04.24

    エッセイ373:高橋 甫「日本にとっての北東アジア地域協力」

    (第1回アジア未来会議報告#4)   筆者は、3月8-10日バンコクで開かれた第1回アジア未来会議において、「地域協力の可能性--北東アジアの政治・経済・安全保障」をテーマとしたセッションの共同議長を務めた。この寄稿は、同セッションで発表された四つの報告に基づく討議のフォローアップとして掲題のテーマで筆者の考えをまとめたものである。   はじめに   国際的文脈での「地域協力」を「地理的に近い3カ国以上の国家が、あらかじめ合意された分野で継続的に協力を行う行為」と定義すると、北東アジアは、その種の地域協力のための制度的な枠組みが存在していない数少ない地域の一つとなる。欧州、北米、アフリカ、中南米、中東、東南アジア、南アジア、そして旧ソ連圏は政治、経済、関税同盟、安全保障と、政策領域や協力の濃淡の違いはあるが、いずれの地域でも制度的な協力の枠組は存在している。欧州では、EUという枠組で27もの国家が条約に基づき特定分野の国内制度を統一化した地域統合が進行しており、1967年に政府間協力機構として発足したASEANも、2015年には共同体に移行することに合意している。地域統合や地域協力の背景も地域によって異なるが、その主なものとして国際環境の変化、安全保障・危機管理上の要請、そして歴史的な理由の三つをあげることができよう。   グローバル化の進展等、一国を取り巻く国際環境の変化は、隣接する国家間の交流を拡大させる。そして、隣接諸国間の制度の違いがそうした交流の進展の障害として作用し始め、とりわけ企業や市民により認識され始める。また、国境を越えた問題が地域共通課題としての対処を要請するようになり、地域レベルで協働の必要性も政策当事者間で強く認識されるようになる。さらに、一国の経済政策もグローバル化や国内市場の成熟化への対応として、隣接する市場の発展や拡大を前提としたものに変質することとなる。日本にとっての「アジア内需」という新たな捉え方はその典型といえよう。こうしてみると、地域統合や地域協力は、グローバル化の進展と表裏一体といえる。そして、多国間貿易交渉の停滞も、二国間あるいは地域レベルの自由貿易協定の締結の動きを加速させている。   冷戦の終焉とともに、安全保障の焦点も、地域紛争、国際テロリズム、そして独裁国家による核の脅威に移ってきている。安全保障・危機管理において、地理的接近性はとりわけ重要な要素だ。同じ核開発の脅威であっても、日本にとってはイランによるものよりも北朝鮮によるものの方がより深刻な安全保障上の脅威であることはいうまでもない。地域経済統合や協力は、その地域の安全保障と平和構築の環境醸成に貢献し、また隣国からの平和への脅威に対する防波堤としての役割も担う。   これらに加え、隣接国は隣接国であるがゆえに紛争の危険にさらされ、また過去の遺産という問題を抱える場合が多いことも忘れてはならない。過去の遺産の二国間ベースでの克服の試みには、当事国の利害関係の衝突が直接的に発生する可能性が高くなる。そして歴史は、過去の遺産の克服には多国間の枠組みでの処理が重要な意味を持つことを示してきた。フランスとドイツ間の領土問題は、近隣4か国も参加した欧州石炭鉄鋼共同体の設立を通じて終止符が打たれた。東西ドイツ統一においても、EUという地域的な枠組の存在が統一ドイツへの脅威論を横に追いやり、歴史的な統一が実現された。北東アジアは、過去の遺産問題や領土問題が存在しているにも拘わらず、隣接諸国間で危機管理の対話やメカニズムの不在というきわめて危険な状況下にある。偶発事件が国民感情を刺激し、結果として、隣接諸国同士が戦争に追いやられた事例は枚挙にいとまがない。   1. 世界の趨勢と北東アジア   こうして見ると、北東アジアは地域協力を要請する三つの主要要件すべてを持ち合わせていることとなる。それでは、何故、北東アジアは世界の例外地域となっているのか。その背景の一つに、これまでの北東アジア地域協力に関する議論で再三陥る誤謬、つまり、議論の一般論化があるように思えてならない。地域協力や地域統合を論じるに当たり、前提として国家による地域統合、すなわち欧州統合プロセスをモデルとした地域統合を念頭に置いた議論だ。その結果、北東アジアは政治経済体制が異なり、依然として分断国家が存在し、経済規模と成熟度に格差がみられ、また文化的な同質性がないので、地域統合はもとより地域協力も困難ということとなる。   アジア未来会議において、統計データによる経済実態面での日本・中国・韓国間の経済・貿易の結び付きの深化が報告され、実態経済活動においては北東アジアで市場統合に向けた動きが加速しているにも拘わらず、制度面での地域協力・統合が進んでいないことが指摘された。地理的に接近した諸国間の制度化された協力関係を考察する際、協力の分野、深さ、主体に対して硬直的な捉え方をすると、具体的な成果を伴わない議論のための議論となりかねない。東アジア共同体構想はその一例といえなくもない。構想が壮大であればある程、既得権者の反発や抵抗を生み、政治的にもまた社会的な合意形成も困難となる。   2. 日本にとっての北東アジア地域協力   そうはいえ、成熟した民主主義国家、そして少子高齢化の進む日本にとっては、地域的な協力のための制度づくりは他の北東アジア諸国以上に緊急の課題といえる。北東アジアの地域協力を阻むと論じられてきた要因こそが、グローバル化の時代での成熟国家としての日本が地域協力を必要としている理由であることに目覚めるべきだ。安全保障、危機管理、自然災害への対応、環境保全、保健衛生、治安、漁業の安全操業、人の自由移動、交易、領土保全、そして将来の発展のための潜在市場の有効活用等、これらは全て近隣という地理的な要因が大きく介在する政策課題といえる。そして、近隣諸国間の共存共栄こそが地域協力の究極目的であることはいうまでもない。   日本にとっての中国、韓国を含んだ地域協力の遅れは、納税者である日本国民や企業が行政サービス上の不利益を被っていることを意味している。EU諸国の国民は欧州市民権を得ることにより、国家行政サービスに加え、地域という付加的な行政サービスを享受している。この付加的な国境を越えた行政サービスは、欧州大陸を舞台とした人の移動や居住の自由、EU加盟国間の資格の相互承認、就職機会の自由、そして安全保障面での安心に及ぶ。また企業にとっても、EUが提供する付加的な行政サービスの効果は、人口5億の統一市場、EU基準の事実上の国際基準化、EUが第三国との間で締結している自由貿易協定、経済連携協定に伴う国際市場での競争上の優位性といった具合に広範にわたっている。東南アジアの諸国民も2年後に国境を越えた新たな行政サービスを享受しようとしている。日本の産業空洞化の背景として、高い人件費、重い法人税等の理由が挙げられてきたが、こうした理由以外に、地域協力の制度的枠組の不在の結果、日本を舞台とした経済活動が国際競争上不利となっている事実があることも忘れてはならない。   そうした中、日本はTPP交渉、日・EU経済連携協定締結交渉、そして日中韓自由貿易協定交渉へ向けて舵を切った。これは確かに大きな政治決断といえるが、これら3つの大規模交渉が並行的に行われることが、それぞれの交渉の進展にどのような影響を与えるのかは明らかではない。交渉を担当する人材の確保の問題、それぞれの交渉内容の整合性確保の問題等、地域協力や経済連携協定の進展を必要としている日本の利害関係者の心配はつきない。   3. 現実的アプローチの重要性   こうした状況に対して、日本の利害関係者はどう対処すべきなのか。先ず、地域協力とは広い概念であり、選択肢も広いことに注目すべきだ。究極の形態としての国家主権の一部移譲を伴う統合、国家主権の移譲を伴わないが主権の制限を伴う制度化された政府間協力、そして制度化されない協力も有り得る。地域協力の分野についても同様である。理想論としての包括的地域協力もあれば、政策分野別かそれとも個別的なものも有り得るのだ。個々の利害関係者にとっては、地域協力は必ずしも包括的である必要はない。そして、地域協力の主体は決して国家や政府である必要もない。地方自治体でも 企業でも個人でも市民社会でも、地域協力の枠組み作りは可能なのである。スポーツ競技団体同士の近隣諸国との地域競技大会の開催や交流はその一例といえる。鳩山首相の提唱した「東アジア共同体」構想は、理念と現実が余りにも遊離された形で当事者間の信頼醸成のプロセスを経ないまま提言された。その結果、まともな議論や検討に付されないまま、葬り去られてしまった。「欧州統合には青写真はなかったこと、実際の統合は分野別漸進的であり、具体的実績をベースに次の統合段階に進んだ」という欧州統合の事例は北東アジアの地域協力にとって参考となりそうだ。   アジア未来会議では、北東アジアを逆さにして日本海と東シナ海を中心に据えた地図が披露された。そこに現れたのは、日本海と東シナ海を中心に存在するロシア極東であり、日本であり、朝鮮半島であり、中国であり、台湾であった。正しく北東アジア湾岸地帯の存在である。北東アジア諸国を新たな湾岸諸国と捉え、共通の海を面した国家間あるいは地方間、分野別あるいは個別的な協力関係の構築、そしてそれに伴う実績と信頼関係の構築が将来の北東アジア地域協力の現実的な第一歩と思える。そこで重要な政府の役割は、そうした地域、都市レベルのイニシアティブの邪魔をしないこと、そしてそうした協力の環境作りを行うことである。   自民党の教育再生実行本部は、国際社会で活躍する人材を育成するため、英語の検定試験TOEFLで一定以上の点数をとることを大学受験の条件とすることなどを盛り込んだ教育改革の提言をまとめ、本年3月末、安倍首相に提出した。これは日本の将来にとって重要な提言といえる。同時に、「国際社会で活躍する人材を育成するための英語」教育に加え、「地域協力という視点から北東アジアで活躍し得る人材を育成するための中国語と韓国語」教育や地域内相互理解のための教育上の環境整備も教育改革に含めるべきだ。事実、アジア未来会議では、北東アジアの地域協力との関連で、草の根レベルの交流、協力や相互理解、信頼醸成にとって語学の果たす役割の重要性が指摘された。   ------------------------------ <高橋甫(たかはし・はじめ)Hajime Takahashi>  SGRA渉外委員 1947年生れ、東京出身。1970年:慶応義塾大学法学部法律学科卒業。1975年:オーストラリア・シドニー大学法学部修士。1975年~2009年:駐日EU代表部勤務、調査役として経済、通商、政治等を担当。2007年~2012年:慶應義塾大学法学部非常勤講師(国際法)。2013年1月よりEUに関するコンサルタント会社であるEUTOP社(本社ミュンヘン)の東京上席顧問。これまでにEU労働法、EU共通外交安全保障政策、EU地域統合の変遷と手法に関して著述。 ------------------------------   2013年4月24日配信
  • 2013.04.17

    エッセイ372:オリガ・ホメンコ「ソ連時代とこどもの頃」

    「ソ連時代はどうでしたか?覚えていますか?」と最近よく聞かれる。たぶん大変な思いをしていたという答えを想定しているのだろう。しかし、一言で言えば私にとってソ連時代はこどもの頃だったので楽しい思い出が多い。政治に全く関係ない思い出。自分の国の政治体制が何か特別なものであるという意識は、ある時期までなかった。   それはブレジネフ書記長が亡くなった時のことだった。私はまだ小学生で10歳だった。共産党の一番偉い人が亡くなったので、テレビでは「白鳥の湖」のバレエや、哀しいクラシック音楽のコンサートばかり3 日間連続で放映していた。そして、身近な人が亡くなった時と同じように学校で追悼の時間があった。私は丁度その1年前に祖母を亡くしていたので、とても辛くて、「きっとブレジネフさんも誰かのおじいちゃんなので、家族は悲しんでいるでしょう」と悼んだのを覚えている。こどもたちは国のトップの人をそのような意識でとらえていたから、その点ではその存在は近かったかもしれない。   その3 日間は授業がなくて、学校ではブレジネフさんの著書を読んでいた。そのようなある日、友だちと2人で学校から帰る道で、指導者が亡くなったことが話題になった。普通は小学生の話に上がらないことなので、同級生が「ブレジネフさんが亡くなってもあまり悲しくない。よくない人だった。戦争中に指導をしていたスターリンもあまりいい人ではなかった。たくさんの人を死なせたから」と言った時、私はその言葉にとても驚いた。「えっ?指導者なのに?あり得ない。どうしてそう思うの?国の指導者なのに」と戸惑って聞き返すと、「両親がそう言っているから。家で。誰も聞いてないときに」との返事だった。私はとてもショックを受けた。ブレジネフもそうだが、博物館や学校のあちこちに写真を飾っているスターリンまで、まさか「よくない人」と思えなかった。歴史の授業では「戦争中には『愛国のために、スターリンのために』と叫びながら、自分の体に爆弾を巻いて戦車に体当たりして死んでいった若者がたくさんいた」とも教えられた。国民の多くがそれほどに指導者を尊敬していたと教えられた。歴史教科書からお祭りのポスターまで、スターリンは国民の「父」だと語っていたにもかかわらず、まさか、「国民を死に追いやった」という表現で友人が話すとは信じがたいことだった。   この出来事が起きたのは、1982年の、もうキエフの町の中の木々の葉も落ち、町全体がグレーの霧に包まれた11月のことで、寒い時だった。家に帰るとその同級生が言ったことについてしばらく考えた。「あり得ない」としか思えなかった。夜になって家に戻ってきた両親にその話を伝えると、彼らはお互いの顔を見交わすだけで何も応えなかった。こども心に「おかしい」と疑念が残った。わが家は特に反体制ではなかったが、こどもたちと政治的な話をすることはなかった。   その日からこの社会には、口に出せなくても様々な考えを持っている人がいると思うようになった。そして同級生の家族、またその家庭で話されていることが「何か少し違う」と思うようになった。その3 年後の夏に成績優秀なこどもたちが選抜されて1ヶ月間キャンプ生活をした。そこでは食事や遊び以外にいろんな講義があった。今で言う「合宿」に相当する。その講義には数学、歴史、絵画などの教科以外に「政治事情」もあった。その内容の大半は「アメリカはいかに怖い国か」だった。ある講義で、アメリカの国旗やアメリカのシンボルをTシャツにつけている人は、自分の国を裏切っていて愛国心がないという話題になった。私はハッと気付いた。その時たまたま、買ってもらって得意になってはいていたジーンズのポケットにアメリカの国旗が付いているのだ。「どうしようか」と慌てた。それで静かにTシャツの裾をズボンから取り出し、ジーンズの上にかけた。その旗が見えないように。私が裏切りものと思われないように。幸いに誰も気づかなかったので安心した。今から考えると、服は人間のアイデンティティの一部であり、服装だけで人間の思想性を判断するというのはちょっと単純すぎると思う。だがその当時、「外国」との関係は微妙であった。   両親は毎晩、テレビで9 時のニュースを見ていた。私は寝る前にテレビがある部屋の近くをうろうろして、ニュースを聞くようにした。国際ニュースが一番気になっていた。なぜなら、ある時期、よくアメリカの地図が映され、この国はソ連への核爆弾を準備していて、近々わが国に落とすだろうと伝えていたから。アメリカという国を全く知らないにも関わらず、こどもの私は毎晩不安になった。怖い国としか思えなかった。アナウンサーが伝える冷静で硬く笑みのない声を今でも覚えている。   15 年後、日本留学中にアメリカからの留学生数人と仲良くなった。最初はやはり昔形成された先入観をぬぐい去ることができず、友人ながら用心深く付き合い始めた。 「アメリカからきている人たちは、たぶん違う。注意しなければ」というふうに。共同の台所に行くと、彼らは朝食にピーナッツバターという不思議なものを食べている。また洗濯をするときに服とスニーカーを一緒に洗うという、とんでもないことをしている。また人生観について話すと「quality of life(生活の質)」という不思議な言葉をよく使っている。でもこのような違いを除けば他にはあまり違いがなくて「普通の若者」だった。ある日のこと京都の嵐山で一緒にバーベキューをしていた時、こどもの頃のアメリカの怖いイメージについて話すと、同年代のアメリカの女子学生が「私も。同じようなことを思っていた。毎日ニュースを見て、ソ連が爆弾を落とすのでは、と怖かった」と。とても不思議な気分だった。鏡の裏にいる人から同じことを言われたような気がした。そのときに初めてプロパガンダの意味をよく理解できた。   だがそれを知ったのはずいぶん先の話であった。こどもの頃は外国についてほとんど何も知らなかった。ただ本を読むのが大好きだった。その頃、父から誕生日に冒険小説の全集をプレゼントされた。外国作家中心の12冊の本。全部纏めて出版されたのではなく、出版されると家に届けられた。鮮やかなカバーの色は毎号違っていた。本棚に並べてみると虹のようだった。それを少しずつ読み、まだまだ外国へ行けなかった時代、しかもまだこどもだった自分は、頭の中であちこちに旅をしている夢をみた。ベッドに座って、本から目を離して窓の外を眺める、そこにはスペインの町、ロンドンの時計、モロッコの道、それからアフリカのジャングルが見えた。全部虚構の世界で、私にしか見えない世界。でもいつかそこに必ず行けると信じていた。どこからそんな確信をもったかよくわからないが、「直感」であり「信念」でもあった。我に返ると手にきれいな本があるだけ。当時、就寝前の短い時間、まるで「幻想」の世界に生きる夢見る少女だったかもしれない。   ブレジネフの死から6 年経つと、その話をした同級生は、自分はユダヤ人だと告白してイスラエルに亡命してしまった。ピオネール(共産圏の少年団)だった私たちはコムソモール(共産党の青年組織)に入ったが、その2年後にはコムソモールもなくなった。キエフ大学に入学すると、2年生の時に学生運動が始まり、大きな市民デモに発展して当時の首相は辞任させられた。その半年後にウクライナはソ連から独立した。そしてそれまで知らされなかった様々な歴史的事実が明るみに出るようになった。それでブレジネフやスターリンの人生、また1933年の「大飢餓」で亡くなった多くのウクライナ人のこと、殺されたたくさんのウクライナの作家や詩人のことを知るようになった。その時、ブレジネフが亡くなった時に同級生とした話やその時の信じられなかった気分が甦った。やはり、知っている人は知っていた。例えこどもの時代であっても。   ------------------------------------ <Olga Khomenko オリガ・ホメンコ  > キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活躍。2005 年には藤井悦子と共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行した。 ------------------------------------   2013年4月17日配信
  • 2013.04.12

    エッセイ371:洪ユン伸「ダルウィッシュ・ホサムさんの講演を聞いて」

    「シリアの料理は美味しいです。イタリアやスペイン料理のように。イタリア料理を 食べながら懐かしいと思う時もあります。オリーブオイルをたくさん使ったもので す。安定したら是非、皆さんも!・・・でも安定しないかもしれない・・・」   去る3月23日、「アラブの春とシリアにおける人道危機」をテーマに開かれた第3回 SGRAカフェは、シリア料理の話から始まった。   SGRAカフェは講演、質疑応答、懇親会を合わせた3時間に及ぶ「議論の場」である。 20人ほどの少人数であったが、日本、アメリカ、韓国、中国、トルコからの会員等が 集まり、シリアの情勢について議論した。講師のホサムさんは、シリア出身で、日本に留学して以来、ここ日本で祖国シリアに思いを寄せている研究者である。2010年に東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラムより博士号を取得、現在、アジア経済研究所中東研究グループ研究員を務めている。SGRA会員でもある。   「安定しないかもしれない・・」という言葉を何度も聞いたためであろうか。ホサムさんは時々笑いを取りながら、終始冷静を保ちつつ、静かに、しかしながらはっきりした口調で話しを進めたが、それがむしろ、私を不安にさせた。そして、報告書を書いている今、ホサムさんの冷静な声と、繰り返される言葉が持つ不安定さの間の「揺れ」のようなものこそ、多くのことを伝えていたように、私は思う。そこで、本報告 は、私が感じたこの「揺れ」を伝えるため、まず、シリア情勢をめぐるホサムさんの冷静な講演内容を伝えた上で、SGRAカフェならではの講演会後の議論の内容を含むものにしたい。   【「西洋の期待」を裏切った独裁者とその妻】   シリアは、地理的な重要性からエジプト、アッシリア、モンゴル、オスマントルコ、英国、フランスなどの帝国がその支配をめぐって抗争を続けてきた地域である。1946年フランスの委任統治終了後は25年近く軍事クーデターが繰り返された。1963年「単一のアラブ民族」を掲げたバース党によるクーデターが成功し、バース党政権が樹立される。その国防相を務めたハーフィズ・アル=アサドは、1970年クーデターを成功することにより、それまで繰り返されてきたクーデターに終止符を打ち、大統領にまで登り詰めた。独裁者ハーフィズ・アル=アサドの時代に、国家としてのシリアが形成されていった。   ハーフィズ・アル=アサドの次男こそ、現在のアサド大統領である。彼がイギリスに留学していたことや、留学中に出会った妻アスマー・アル=アフラスが、「中東のダイアナ」と呼ばれていたことは、日本でもよく知られている。SGRAカフェで、ホサムさんは、アサド一家の家族写真の説明から始め、シリアの歴史を紹介していった。   「西洋で教育を受けたから民主化するだろうと、『西洋人』は期待したようですね」と語るホサムさん。そもそも政治に関心もなく、イギリスに留学、眼科医としての道を選ぼうとした次男アサドは、後継者であった兄の急死により政治の道に入った。西洋で学んだ大統領の誕生であった。しかし、西洋育ちのアサドは、父より残酷な人権蹂躙の道を選んだ。それは2011年の民衆蜂起に対する弾圧に現れている。   【シリアにおける民衆蜂起・ダマスカス(Damascus)という都市】   民衆蜂起は、2011年3月にダマスカスに近い、シリア南部の都市ダラアー(Daraa)で起 こった。私が個人的に最も興味深かったのは、一体、何故、蜂起がここから起きたかという点にあった。ホサムさんの報告を聞いて初めて、ダラアーの蜂起には、民主主義への強い熱望だけではなく「文化」という要素も深く関わっていたことを知った。   「ダマスカスから少しだけ離れると、貧しい地域が広がっています。それに比べればダマスカスは金持ちの町で、政権に比較的好意的な人々が多い地域です。」シリアは中心と周辺で、経済格差や、地域性、教育の程度などが異なる。若者の失業率は中東のなかでも最も深刻な状況にある。研究者としてホサムさん自身も、経済的な不満から「アラブの春」の波がシリアにも押し寄せると予測していた。しかし、それがダラアーで起こり、あっという間にダマスカスに広まるとは思わなかったという。   事件は、「アラブの春」に触発されたダラアーの子どもたち(当時11歳から16歳まで)の落書きを政権が許さなかったことから始まる。警察は学校の壁に反政府的な落書きをした子どもたちを逮捕、爪を剥ぐなどの拷問を行う。釈放を求める母親たちに対して、「もう子どもは釈放できない。子どもをつくり直した方がよい。出来ないならつくってあげようか」などと言い返したという。ホサムさんによると、ダラアーは都市とはいえ、まだ部族的な文化や風習が根強い地域であるようだ。拘束された子どもたちの親たちは親戚同士であったり、近所の住民たちとも親族のようなコミュニティを形成したりしている。「新しい子どもをつくれ」などの侮辱的な言葉が導火線となり、一瞬にして部族的なダラアー社会全体の怒りに広がり、その抗議の波は全国に広がっていく。   かつてアサド大統領の父ハーフィズ・アル=アサドは、ハマーという地域で蜂起がおこると、部落全体を虐殺し葬り去ることによって政権の危機を免れた。1982年のことである。しかし、2011年のダラアーの子どもの落書きと親たちの反発から始まった抗議デモは、おさまらなかった。シリアでは葬式に死者の棺を担いで町を行進する風習があるが、ダラアーのデモで殺された人々の葬式行列は、政権反対デモ行進となった。葬式行列に警察が発砲し新たな死者が出ると、その怒りが火花となり、もっと大きな葬式の行列が出来る。こうして、葬式、発砲、行列が繰り返された。毎週金曜日の礼拝後に抗議デモが起こる。2011年に始まった抗議活動は、現在でも拡大していくばかりだ。   参考映像   1982年と違って、アサド政権のいうイスラム原理主義者たちの鎮圧のためにという名目も、宗派の間の紛争という建前も説得力を失った。ホサムさんはその原因を、第一 に、今度の蜂起は宗派との戦いとは言えないほど一般市民が抗議デモに参加していること、第二に、軍が情報を統制することもできなくなったこと、第三に、抗議の拡大により、今や、抗議が単なる政権交代の要求だけではなく、シリアにおける新たなアイデンティティの模索にまで広がっていることを挙げる。   特に、新たなアイデンティティの模索の兆しとして、抗議運動のために新たな「国旗」が提示されている現状を説明した。今までシリア政権が公式に掲げてきた国旗は、支配党バース党が定めたもので、赤・白・黒の水平三色の帯に、中央の白帯のところに2つの緑の星があるデザインである。しかし、抗議の行列に加わった人々が掲げた国旗は、かつてフランス委任統治から解放された時の国旗だ。緑、白、黒の帯にしたもので、中央の緑の星は消えている。その代わり、中央にはっきりと刻まれているのは、3つの鮮明な赤い星である。人々は、独裁政党・独裁大統領から「解放」され、自由なシリアを訴えている。(当日発表資料参考:スライド10~12)   2011年、「21世紀的」な革命のように見えた「アラブの春」の感動を覚えている私にとって、こうしたシリアの動きは、たとえ現在厳しい状況が続いていても、確実に「革命前夜」が訪れているかのようにも思えてくる。しかし、ホサムさんの言葉は、むしろ冷静だった。ホサムさんにとって困窮するシリアの情勢は、「人道危機」そのものであるからだ。   【人道危機と「100年後」のシリア】   現在、国民のライフラインはアサド政権自らの手で断絶されている。抗議運動が起こる地域は次々と孤立させられ、住民は周辺へ周辺へと国内・外を彷徨っている。アサド政権は「私か、破壊されたシリアか」を見せしめるかのように、町を破壊し続けており、病人はモスクや地下で手当てを受け、集団虐殺が続けられている。2013年1月だけで死者の数は5000人以上、これまでに8万人以上が亡くなったとされるが、政府軍の弾圧を恐れ、被害を登録していない数を合わせると、死者の数は2倍になる見込みだそうだ。冷凍倉庫には、もはや葬式すら出来ない状況のため、数千の死者が保管されている。     参考映像   国内には約200万人の人々が避難先を求め逃げまどっている。アサド政権の弾圧に抗するために立ちあがった人々は「自由シリア軍」と呼ばれているが、組織化された指導部をもつものではない。アサド政権を支援するシリア軍、民兵、治安部隊に加え、長年のアサド独裁政権と利害関係のある国々との外交関係が複雑に絡み、国連の支援も期待できない状況である。海外に逃げた人々は、トルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトに分散し「難民」となった。登録された海外への難民数は70万人に上る。国連によると、2013年末までにシリア難民は3倍に達する見込みで、人口の4分の1が難民になる危機にさらされているという。   「アラブの春の意味」「蜂起の特徴」「国際社会の介入」などについて様々な質問があったが、もっと心に残る質問は全ての講演が終わって、食事会に入った際、静かにホサムさんのそばに来て尋ねた渥美伊都子理事長の問いであった。   「ホサムさん、どうしても聞きたいことがあります。それであなたの家族はどうしていらっしゃるの?」 「弟はマレーシアに逃げるようにアドバイスして、まだ連絡が取れていた時期で、幸いマレーシアに。でも親戚の多くはまだ残されています。今日一緒に来たもう一人のシリア人の親戚はアサド政権の発砲で亡くなりました。別に蜂起に加担したわけではないです。町を無差別に攻撃しているからですね・・・。トルコ、レバノン、ヨルダン・・・逃げた人々は皆、難民収容所で毎日戦争の話を聞いています。今日は誰が死んだのか、何処が破壊されたのかなど。」   理事長と落ち着いて答えるホサムさんとの会話を隣で聞きながら、「アラブ」の春に感動した私が、シリアの現状や今出来る「人道支援」というものよりも、シリアの未来に「民主化されたシリア」を夢みたいという欲望が先立っていたことを認めざるを得なかった。私は、困難なシリアの今に「不安」を感じるよりも、「革命前夜」を想像することで冷静でいられるのではないか。冷静なのは、ホサムさんではなく、むし ろ、私/私たちではないか。それは、「冷静」というよりむしろ「無関心」という言葉が適しているかもしれない。しかしながら、「日本が出来ることはいっぱいありますよ」というホサムさんの高まった声に、どのように答えればよいのか、言葉が見つからなかった。   懇親会の議論の時に、「ホサムさん、今は困難でも100年後、こういう動きがあったことを誇らしく思う時期がくるかもしれません」と、「100年後のシリア」という話があった。「でも、その時にシリアは、昔、昔、シリアという国がありましたとなる可能性だってあるんですよ」。ホサムさんの声はやはり冷静であったが、ほとんど手を付けていない彼の皿に目が届くと、胸に迫るものがあった。   当日の発表資料(PPT)   当日の写真   ---------------------- <洪ユン伸(ホン・ユンシン) Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士修了後、同大学アジア太平 洋研究科「国際関係学」博士号取得(2012年4月)。学士から博士課程までの専攻 は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。 フェミニズム批評理論など。博士過程では「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄 戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに研究。現在青山学院大学非常 勤講師。編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』な ど。SGRA会員。 ----------------------   2013年4月12日配信
  • 2013.04.03

    エッセイ370:沼田貞明「アジアの戦後処理と歴史和解」

    筆者は、3月8-10日バンコクで開かれた第1回アジア未来会議において、アジアの戦後処理と歴史和解についてのワークショップの議長を務めた。   第二次世界大戦後日本が直面して来た「戦後処理」には、(1)法的処理(平和条約、戦争犯罪の処理、および補償)、(2)謝罪、(3)和解の3つの側面がある。また、日本政府対相手国政府、日本政府対相手国被害者(捕虜、強制連行者、慰安婦等)、日本企業対相手国被害者、日本国民対相手国国民と言った様々なレベルの問題が存在する。特に、小菅信子教授が「講和後あるいは平和の回復された後も旧敵国間にわだかまる感情的な摩擦や対立の解決」と定義する戦後和解は、人の心の内部に関わるだけに最も解決が困難である。   今回のワークショップで、李恩民桜美林大学教授は、鹿島建設(旧鹿島組)と中国人強制連行者との間の「花岡和解」を取り上げた。これは、企業側が法的責任は認めないが政治的道義的責任を認めて謝罪し、受難者全員へ補償金を支払う全体解決方式を取り、解決に当たり日本国内の市民活動が大きな役割を果たした等の点で、「日本型歴史和解」のモデルとなったと論じた。この裁判上の和解に至るまでの過程で、1989年から鹿島側が真剣に取り組んで中国人生存者との間で「自主交渉」を行い、1990年に「共同発表」まで漕ぎ着けたことは、その後10年の紆余曲折を経て裁判上の和解に至る布石として大きな意義を持った。   従軍「慰安婦」問題については、韓国などとの関係で、日本政府対相手国被害者、日本政府対相手国政府、日本国民対相手国国民の各レベルの問題が複雑に絡み合っている。岸俊光毎日新聞学芸部長は、村山内閣の下で被害者への償いを目指して1995年に発足し2007年まで事業を展開した「アジア女性基金」が、日本の国民と政府が責任を分かち合うとの対応を取ったことについて、政府補償を主張する人たちは「国の責任を免れるごまかし」と非難する一方、歴史の暗部を認めようとしない人たちは、「慰安婦」に対する国の関与を否定ないし過小評価するとの基本的対立があることを指摘した。さらに、日本ができることと、被害を受けた当事者が求めていることとの間に大きなギャップが存在する状況の下で、高齢となった被害者の救済と共に、韓国等の民族感情を傷つけた日本による植民地支配の問題にも向き合った解決策が必要なことを主張した。   太平洋戦争の末期、日本国内で唯一地上戦が行われ、県民の3分の1の人が亡くなり4人に1人が犠牲となったとされる沖縄には、多数の朝鮮人軍夫が連行され慰安婦も強制動員されていた。青山学院大学非常勤講師の洪ユン伸女史は、これら朝鮮人軍夫と慰安婦の体験を「調査」し、「記録」し、慰霊碑の建立等により犠牲を悼む「祈念」の営みが沖縄の住民の証言に基づいて行われた経緯を辿り、そこに、自らが「捨石」とされたと言う沖縄住民の「被害」の体験と朝鮮人の「被害」の体験が重なり合っていることを指摘した。このことは、すぐれて「心」の問題である戦後和解において、被害者に対する感情移入(empathy)が一つの重要な要素であることを示唆している。   1990年代後半に英国において自らボランティアとして英国人元捕虜との和解のために努力した小菅信子山梨学院大学教授は、戦時中の捕虜収容所における過酷な経験から日本との和解に至った元捕虜、民間人抑留者の心の軌跡と、それを記録し、史料化する歴史学者の役割について論じた。同教授は、個人の苦悩の体験や記憶に向き合おうとする時に、「日本国民」とか「英国国民」と言ったナショナリズムの緊縛から逃れることは困難であり、それを「同じ人間の内面にかかわるもの」、すなわち、人間ゆえの苦痛や苦悩の問題としてとらえるならば、ナショナリズムを多少なりとも拭い去ることができるだろうとしている。これは、小菅教授と同じ時期に在英大使館において日本国の代表として元捕虜などの「被害者」と向き合わざるを得なかった筆者として痛感していたことであった。日英和解に当たっては、日英両国の民間ボランティアが、国の裃を脱いだ心の触れ合いの触媒として重要な役割を果たした。   今回のワークショップは、日中韓等からの参加者が、未来を志向しつつ過去を見つめるとの問題意識を共有しつつ、それぞれの国の裃を脱いで率直に議論したことが特色であった。筆者としては、この問題が政府対政府にとどまらず、被害者の人たち、企業、民間ボランティア、市民団体等様々な当事者にかかわるものとして、色々なレベルでの地道な努力を通じる積み木細工のような対応を要することを改めて感じた。筆者自身は、1995年8月15日の村山総理大臣談話はこの積み木細工の重要な一部として 維持しつつ、未来に向かって何ができるかを考えていくべきであると思う。   ------------------------------ <沼田 貞昭(ぬまた さだあき) NUMATA Sadaaki> 東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。 1966年外務省入省。1994-1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998-2000年外務報道官。2000-2002年パキスタン大使。2005-2007年カナダ大使。2007-2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長 -------------------------------   2013年4月3日配信