SGRAかわらばん

  • 2013.12.25

    エッセイ395:今西淳子「SGRAより感謝をこめて」

    2006年9月から始めたSGRAかわらばんが、おかげさまで500号になりました。ここまで続けられましたのも、1600名を超える読者の皆様、SGRAや渥美国際交流財団をご支援いただいている皆様のおかげと、心より感謝申し上げます。今年は、渥美財団の設立20周年でもありますので、あらためて活動を紹介させていただきます。   1993年に父、渥美健夫鹿島建設名誉会長が亡くなり、遺志をついで家族で小さな留学生奨学財団を設立しました。当初より多国籍で知的なネットワークを作りたいという希望があり、日本の大学院に在籍して博士論文を執筆中の留学生を対象に奨学支援を始めました。ちょうど同時期から始まったインターネットの普及のおかげもあり、まもなく、想定以上に素晴らしい、優秀で意欲的な外国人研究者のネットワークができあがり、これを活かしたプロジェクトをするために、2000年7月に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立しました。関口というのは、渥美財団事務局のある場所の名前で、関口からグローバルに発信していこうということで名づけられました。   SGRAは、渥美財団の奨学生に限らず、世界各国から渡日し長い留学生活を経て日本の大学院から博士号を取得した知日派外国人研究者が中心となって活動しています。学会のような特定の専門家ではなく広く社会一般を対象に、日本語を公用語として、グローバル化に関わる様々な問題をテーマに、日本国内および海外にてフォーラムやセミナーを開催し、日本と諸外国の相互理解の増進を図っています。国際的であること、学際的であること、そして日本で研究した高学歴の研究者のネットワークであることが、SGRAの特長です。   SGRAは専門や興味に基づいて自主的に結成された知日派外国人研究者(留学生、元留学生)による7つの研究チーム(①グローバル化と地球市民、②構想アジア、③環境とエネルギー、④ITと教育、⑤宗教と現代社会、⑥東アジアの安全保障と世界平和、⑦東アジアの人材育成)が担当して企画から携わり、日本国内でフォーラム、ワークショップ、スタディツアー、カフェ(小規模な講演会)等を開催しています。さらに5か所の海外拠点(中国、韓国、フィリピン、モンゴル、台湾)において、帰国留学生が中心となって現地の機関と共同で、各地で毎年1回以上フォーラム等を開催しています。   講演録はレポートとして発行し(発行部数800部)関係者や支援者の他、国内の各大学留学生センターや、海外の日本研究所等に配布しています。レポートのいくつかは英語、中国語、韓国語にも翻訳して発行ています。活動の詳細はどうぞホームページでご覧ください。 http://www.aisf.or.jp/sgra/   SGRA設立以来13年間で国内フォーラムを45回、海外拠点におけるフォーラムやシンポジウムを44回開催し、レポートを65冊発行しました。また、さらに多くの方々にSGRAの活動を知っていただくために、2006年9月よりメールマガジン「SGRAかわらばん」を発行し、世界各地の知日派外国人研究者の声(日本語エッセイ)とSGRAフォーラム等の案内を毎週水曜日に無料配信しています。   アジア未来会議は、このような活動の集大成として、2013年3月のバンコク会議を皮切りに始めたSGRAの新事業です。日本に留学し現在世界各地の大学等で教鞭をとっている方々、その指導を受けた若手研究者の皆さん、研究所や企業等で研究や活動を続けている方々、日本の大学院で研究を続けている留学生(研究者)の皆さん、そして国際交流に関心のある日本の研究者の方々に、交流・発表の場を提供して「アジアの未来」について議論していただくことによって、知日派外国人研究者のネットワークの強化を図ることを目的としています。グローバル化が進む現代においては、社会のあらゆる次元において、物事を多面的に検討することが必要となっていますから、アジア未来会議では、自然科学、社会科学、人文科学を包括する広範なテーマを設定することによって、専門学会とは違った国際的かつ学際的なアプローチを試みています。   第2回アジア未来会議は、2014年8月22日(金)~24日(日)に、インドネシアのバリ島で開催します。テーマは「多様性と調和」です。インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちています。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一(Bhinneka Tunggal Ika)」というスローガンです。さらに、アジア未来会議の発表者は、平和、グローバル化、環境、持続性、成長、公平、人権、健康、幸福、文化、コミュニケーション、イノベーション等のサブテーマとも関連づけることを推奨されます。自然科学、社会科学、人文科学を超えた、学際的な議論が期待されています。現在、発表論文、ポスター発表、作品展示を追加募集中です。締め切りは2月28日です。   第2回アジア未来会議では、一日目に開会式・基調講演と3つのフォーラムおよび作品展示を、二日目に円卓会議と200を超える論文発表による分科会およびポスター発表、三日目には見学会を行います。参加人数は、基調講演が 500人~800人、分科会は300~400人を見込んでいます。並行開催する 3つのフォーラムのテーマは、「環境リモートセンシング」、「中国台頭時代の東アジアの新秩序」、「アジアを繋ぐアート」です。さらに、円卓会議「これからの日本研究」と「ポスト成長時代における日本の未来を考える」、および自主企画「SGRA福島レポート」などを企画中です。   アジア未来会議は、オブザーバー参加も大歓迎です。フォーラム「アジアを繋ぐアート」では、舞踊、陶器、服飾についての研究報告と同時に展示や公演も予定されています。特に、バリ島のバロンダンスと奈良県無形文化財に指定されている曽爾村の獅子舞の同時上演は、自信をもってお薦めします!   オブザーバー参加ご希望の方も、どうぞオンライン登録してください。   現在、政治情勢の悪化が心配されるアジアですが、どのような時でも、一番大事なのは、人と人との交流、あるいは、あちら側の人をも理解しようとする想像力と包容力を持つことだと思います。SGRAは極めてささやかな活動ではありますが、少しでも国境を超えてお互いの立場を配慮するお手伝いができたら嬉しいと思っています。   毎週SGRAかわらばんを読んでくださる皆さんに心から感謝申し上げ、今後ともご支援いただきますよう、お願い申し上げます。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ) IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(公財)渥美国際交流財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、(公社)CISV日本協会理事。 ------------------------------------------     2013年12月18日配信
  • 2013.12.05

    エッセイ394:李 鋼哲「日本の大学教育、これで大丈夫?」

    最近の『日経ビジネス』インターネット版に下記のような記事が掲載された。 「厳しくも暖かい早稲田大学の熱血教授、カワン・スタント」、サブタイトルとして「『教育機関』としての大学を考える」。   その記事は次のように始まる。 「名優リチャード・ジェンキンスが主演し、2009年に公開された映画「扉を叩く人」。彼が演じたのは、気力を失った大学教授だった。毎年同じ講義をひたすら続け、シラバスは表紙の「年度の数字だけ」を変える。その大学教授が1人の青年との出会いをきっかけに、情熱を取り戻していくヒューマン・ドラマだ。日本の大学でも、このような光景は多々見られる。教育改革が叫ばれて久しいが、日本の大学のレベルの凋落は深刻な問題と言えよう。世界の大学ランキングを見ると、東京大学ですらトップ20には入れていないのが現状だ。」   その続きは、教育に情熱を注ぐカワン・スタント教授の事跡を紹介している。それを読んで筆者も全く同感だし、深い感銘を受けた。   実は、スタント教授とは昨年8月末に中国の延吉でお会いした。氏は日本の「華人教授会議」の故郷訪問団の一員として延吉を訪問していて、延辺大学副学長の招待晩餐会の時に私の隣の席だったので初対面の挨拶をしながらいろいろなお話しをすることができた。私は訪問団には入っていなかったが、延吉市政府の広報大使を任命されて、一足先に延吉入りし、教授会の依頼を受けて、彼ら一行の延辺での訪問、および北朝鮮の羅津・先鋒経済貿易地帯訪問の手配をしていた。   スタント教授の名刺を見てびっくりした。なんと日本と米国で4つの博士学位をとっているではないか。それも工学、医学、薬学、そして教育学という幅広い異分野の学位を!何という天才だろうと思った。また米国の2つの学会でFellow賞をとったという。氏は、自分はなぜ4つの博士学位を取ったのかについて私に語ってくれた。その勉学の精神に私は心を打たれた。自分なりに一所懸命勉強に頑張ったと今まで思っていたのに、彼に比べると足下にも及ばないと、恥ずかしささえ感じた。スタント教授は「心を育てる教育や感動教育」を実施し、カワン・スタント・メソッドも開発しているという。彼の事跡は「早稲田大学研究者紹介」にも掲載されている。   それはともかく、本題に戻りたい。 その早稲田大学の商学部に私の息子が昨年入学した。おめでたいことで、周りの人々から祝福を受け、親としてもこれでひと安心した。ところが、入学してから2ヶ月くらい経って、息子は「大学を辞めてアメリカのカレッジに入って一からやり直したい」と言ってきた。「何言っているんだ。早稲田は日本では入りたくても入れない人がたくさんいるんだよ」。「授業がつまらないし、刺激がない」と息子は言う。「でも早稲田の学歴は日本では大変役立つのでは?」と私が言ったら、「自分にとってはここで勉強するのは時間の無駄になる」と息子は言い張る。実は「国際教養学部の授業が面白いから、転学部したい」と言っていたが、申請時期を逸したので実現できなかった。もし国際教養学部のスタント教授のような方に出会えたら、彼の考え方はちょっと変わったかも知れない。   その後、周りの方々と相談しても、私と同じような考え方だった。しかし、息子の考え方は変わらない。そして、今年の8月には自費でアメリカ各地を1ヶ月くらい回って、いろんな大学に潜り込んで講義を聴いたり、友達と交流したりしてきた。「アメリカの大学は日本より百倍楽しいよ」と。これが息子の結論だった。親としては反論する余地はなくなったが、しかし、一からやり直すことは「世間的な」親としては同意できない。結局、息子は妥協して大学を辞めるのではなく、交換留学にチャレンジすることにした。その後に次のステップを考えようと。   私はアメリカの大学が全て良いとは思わないが、しかし、「百聞は一見に如かず」で、息子が自分で体験してみて判断したことだから、それを信じたい。アメリカの大学教授は如何に競争の中で教育開発に情熱を注ぐのか、ということはよく聞く話である。   そして日本の大学に目を転じると、確かに大学の教育に大きな問題があることを改めて感じる。私も日本の大学院で10年くらい勉強したが、「やむを得ない選択だった」と言わざるを得ない。魅力ある講義が少なすぎると感じたことは一回だけではない。もちろん、中国でも同じで、大学に入ったからには将来のために勉強せざるを得ないだけのことだった。   最近、2012年の世界大学ランキングを調べて見てびっくりした。東大がやっと27位にランキングされ、早稲田と慶應はなんと351~400位にランキングされている(2013年の発表では2つの大学は400位圏から外されたという)。20位まではほとんど米国、英国の大学である。アジアでこそ、東大は1位を保っているが、早稲田と慶應は54位と57位。その代わりに台湾、韓国、シンガポール、香港(かつての「4匹の龍」)の大学、そして中国などの大学がランキングを上げている。これが現在の日本とアジア、そして世界の教育状況の変化である。   もちろん、日本の大学がまだある程度の底力があることは否定しないが、人々の観念のなかの東大、早慶が日本やアジアでトップ・レベルであるという考え方はもう古いのではないか。リクルート進学総研所長・小林浩氏(早稲田出身)も、「早稲田大学は関東ではまだイメージが高いが、関西では東大の滑り止め程度のイメージである」と言い切る。実は息子も東大の滑り止め。知名度は高いが実力が衰えているのが実情だろう。   それでは、なぜ日本の大学教育はここまで低落しているのか。理由はさまざまあるだろう。「今の学生は駄目だ、勉強しない」と、20数年前に日本に来てから良く聞く話だ。もちろん、時代が変わり、環境が変わると若者も変わるだろう。生活満足度が高いからハングリー精神がなくなり、勉強しない若者が増えているのも事実であろう。   しかし、若者のせいにするだけでは、日本の教育は変わらないと思う。変化する環境と時代に相応しい教育体制と教育方法を見つけることが大学としての責務ではないだろうか。そのためのイノベーションを積極的に進めるべきではないだろうか。   日本の大学教育に問題があるとしたら、学生のやる気が弱くなったのも確かであるが、根底には「先生が駄目である」と私は言いたい。有名な大学では、先生は教育より研究にかなり力を入れていると言われている。つまり教育能力の開発、授業法の開発や工夫にはそれほどエネルギーを注いでいないと思われる。私の知っている地方の私立大学では「研究より教育を重視しろ」、「愛情と情熱をもって教育しろ」と絶えず言われているが、実際の教育現場ではその通りにならないそうだ。だからといって教員が研究に熱心かといえば、必ずしもそうでもなさそうである。学生の定員割れが深刻であるが、それへの危機感を持って真面目に教育に従事しているとは思えない。   ビジネス・コンサルをしているある友人が、「日本の大学教員は腐っている」、「だから自分は大学の先生になる道を選ばなかった」と話してくれたことがある。私も「なるほど」と頷いた。だからと言って私自身どれくらい優れた教育をしているだろうかと問えば、恥ずかしながらスタント教授に比べると足下にも及ばない。   それでは、なぜ「大学教員は腐っている」のかを考えなければならない。私の浅見では、その根底には日本社会の組織風土に問題があると思っている。毎日「改革」とか叫びながらも、保守的で、古臭くて、既得権益者の利益だけが守られているのが、大学も含めた日本の多くの組織ではないだろうか。日本国の政治家や官僚、巨大企業などにも似たような現象が起きているのではないか。「改革」、「イノベーション」、「維新」というきれいごとの言葉は良く使われているが、それが既得権益に触れるとき、何も進まない。   大学の教員や経営者もある意味では既得権益者であり、自分たちの利益を犯してまで改革をしたいとは思わないだろう。いくつの大学で、競争システムやインセンティブ・システムが制度的に整備されているのだろうか。頑張っても頑張らなくても評価や待遇はあまり変わらないし(その面では「社会主義」と言われる)、頑張っている人が逆に足を引っ張られることもある。   最近のOECD諸国の「知力調査」では日本がトップにランキングされているが、大学の教育レベルは下がる一方であることは何を物語っているのだろうか。日本の大学教育は本当に大丈夫なのだろうか。   --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------     2013年12月4日配信
  • 2013.12.03

    エッセイ437:謝 志海「忍びよる子供の貧困」

    最近新聞等、メディアの見出しで時々目にする「子供の貧困」。どこの子供の貧困を意味するのかと思えば、日本だった。これは信じられないことだ。日本の子供はみんなゲーム機を持ち、小学生のうちからスマートフォンを持っている子もたくさんいる。もちろん身なりも貧困とは到底信じられない。   日本経済新聞の記事を読み進めてみると、厚生労働省がまとめた国民生活基礎調査で、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合を示す「子供の貧困率」が、2012年に16.3%と過去最高を更新したという。前回の2009年の調査から0.6ポイント悪化している。なるほど、数字ではっきりと現れているのだ。子供は労働しておらず、収入が無いので、親の所得からの算出方法となる。同省は子供の貧困率上昇の理由として母子世帯が増えていることを指摘している。女性は派遣社員や、非正規雇用として働いている人が多いので、世帯収入が低くなるのも必然とも言える。世帯収入で子供の貧困を測るなら、正社員で終身雇用の父を持つ子供、またはその父親と仕事をしている母(共働き)を持つ子供との世帯収入の差は格別に大きいだろう。正直なところ、個人的視点だが日本の子供のイメージは、先述の通り物に恵まれ、親はお受験のために塾や習い事に惜しみなくお金を掛けていると思っていた。私は、貧困率の上昇もさることながら、この収入格差が気になってきた。収入格差によって、様々なチャンスに恵まれる子とそうでない子の差が拡大されることは、今後の日本に何か悪い影響をもたらすのではないかと。   親の所得はそれぞれ違えど、子供達は格差無く教育を受けるチャンスがあれば良いのではないだろうか?日本は、塾通いが主流になっている。生活が苦しい家庭は塾の月謝を捻出出来ず、子供に学習習慣を身につけさせることすらできないのか?そもそも何故日本の子供は塾に通うのだろうか。一番は受験対策だろうが、もう一つは学校の教育力が落ちているからということだ。信じがたい事実だが、OECDの調査によると、日本政府支出の教育に占める支出は32カ国中31位である。学校教育が十分でないなら日本の子供の塾通いはしばらく続きそうだ。このまま子供たちが親の所得格差に翻弄され続けたら、どのような日本になるのだろう?   親の貧困環境が子供の貧困に深く影響していることを、アメリカの著名な経済学者であり、コロンビア大学地球研究所長(The Earth Institute)のジェフリー サックス氏(Jeffrey Sachs)は、以前より多くの面から問題視しており、アメリカでは貧困の状況が世代を超えて伝染していて、この連鎖を断ち切るべきとしている。彼の論文によると、アメリカでは、離婚家庭に限らず、無職、病気はたまた投獄されている親の子供が貧しい地区に住み、教育レベルが低い学校に通うという貧困に閉じ込められたサイクルの中にいる。そしてそのような環境下で育った子は最終的に貧しい大人、すなわちスキルも無くまともな職につけないような大人になってしまうという負の連鎖が続く。このような貧困状態の子供の増加は国の経済成長をも鈍らすと警鐘を鳴らす。サックス氏が更に強調するのは、これは物質的に豊かであるアメリカで起こっていることだ。先進国日本でもこの負の連鎖は有り得ない話では無いのではなかろうか。   手遅れになる前に、子供の貧困とその連鎖を食い止めるには?その解決策もサックス氏が教えてくれる。彼が昨年発表した論文「苦しむ子供たち、苦しむ国」では子供たちに平等の機会を与える事を徹底すべく、公的資金を投資すべき、としている。日本には「子ども手当」があるが、うまく機能しているのだろうか?次回の調査で日本の子供の貧困率が下がることを期待する。   英語版エッセイはこちら   -------------------------------- <謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 --------------------------------   2013年12月3日配信
  • 2013.11.21

    エッセイ393:韓 玲姫「国境を超えて」

    歩いて2分ほどのところに国境がある。中国と朝鮮の国境線―鴨緑江である。幼いころよく川辺で洗濯をしていた母の隣で、川の向こうにいる人にまで声が届くかなあと、大きな声を出してみたり、手を振ってみたりした。また、川が凍結する冬には、川の真ん中まで歩いてみたり、氷にぽつんと空いた穴を囲んで黙々と洗濯している(中国と朝鮮の)人達の姿をわざわざ覗きにいったりしたことを、今も鮮明に覚えている。ということもあって、私にとって国境は程遠いものではなかった。いや、むしろ身近で親しいものだった。   そのような国境が私の心で変化し始めたのは、来日して韓国系の企業に就職してからだった。そもそも、子供の時に住んでいた町は朝鮮族が16%で、大半が漢民族であったこともあって、小学校の時から家と学校では朝鮮語、外では中国語と二つの言語を使い分けてきた。たまに近所の意地悪い男の子にからかわれたこともかすかに覚えてはいるが、それよりも彼らと楽しく過ごした記憶のほうが今も懐かしく思われる。当時の私にとって朝鮮族の人も、漢民族の人も一様だった。だって、私達は同じ中国の同じ場所に住んでいるのだから。私達は同じ中国語を話す中国人なんだ。私達は産みの違う母親から生まれた兄弟なんだ。という認識だったかもしれない。   一方で、中国語と朝鮮語のバイリンガルに、日本語ができるという語学能力が決め手となって、私は念願だった日本での就職を果たした。生れて初めて中国の朝鮮族として少し優越感を感じる瞬間だった。韓国にある親会社と日本支社、日本にある得意先、そして中国、海外にある取引先を連携する橋渡し役は、なかなかやりがいのあるものだった。そして、かつて地理の授業で必死に覚えていた一本一本の国境線が少しずつ心の中から薄まっていった。   しかし、ある出来事で私は自分のアイデンティティについて疑問を持つようになった。それは韓国人の駐在員と外回りの際は必ずと言っていいほど「韓国人の○○です。」と紹介してもらうことだった。「実は中国人ですが…」と喉まで出かかった言葉を飲み込み、笑顔でごまかすが、なんだかすっきりしない気分になる。自分のルーツを辿ってみると、確かに祖父の世代に朝鮮半島から中国に渡ってきたゆえに、韓国・朝鮮人の血が流れているには違いない。だが、中国で生まれた3世として、朝鮮族の学校に通ったとは言え、中国教育と漢民族の影響を多く受けながら育ってきた私には、韓国人のことをあまりにも知らなさすぎた。はっきり言って、今の韓国社会についてはまったく門外漢なのだ。来日までに私のアイデンティティは韓国・朝鮮人という認識よりも、朝鮮語が話せる中国人という意識のほうがもっと強かった。   同じようなことが繰り返され、私は次第に彼らの目に映った自分は韓国語が話せる中国人ではなく、かつて中国に住んでいた同じ民族であることに気付いた。彼らは同じ韓国人として私を受け入れてくれた。今振り返ってみると、30年も異なる世界で離れて暮らしてきた私を、快く受け入れてくれた彼らに心より感謝したい。しかし、当時の私には正直何とも言えない不思議な気分だった。そして、「私はいったい何者?」、「私のこれまでのアイデンティティはなんだったの?」と、初めて心の中に葛藤が生じた。   幼いころ、川一つ挟んでまったく違和感を覚えず暮らしてきた身近で親しい「国境」が、なぜか疎遠になったように感じた。いや、まるで小説の中の世界のように私から遠ざかっていくようだった。いつの間にか私の心の中にはひそかに国境線が引かれていたのである。とはいうものの、それが自分のルーツを考え直す契機となり、その後韓国社会について調べたり、韓国のエンターテインメントを通して韓国の文化や歴史を理解したり、かつて心の中から遠ざかっていった「国境」に少しでも近づけようとした。   その後、自分のアイデンティティとは関係なく、私は日本語教育を目指して筑波大学の博士後期課程に入った。いつからかはわからないが、名前を言っただけで「韓国人?」と聞かれる時が多くなった。昔だったら「いえ、中国人です。」ときっぱり否定したかもしれない。だって、パスポートの国籍にはっきり「中国」と書かれているのだから。しかし、今は「う~ん、宇宙人です。」と冗談交じりで返すことが多い。まあ~、中国人でも韓国人でもいいや。私はわたしだから。私は国境を超えて生きているから。このような考えはかつて国籍に縛られていた私を気楽にさせる。   今年の10月から東京で日本語講師として勤めることになった。そもそも日本での日本語講師といえば、日本語母語話者がほとんどであるようだ。そのためなのか。応募した学校の中には、模擬授業の時に「先生~わかりません」と、何度も何度も質問を投げてきた生徒役の審査員がいた。いじわるなのか、まじめなのか、教職経験を持つ私にはなかなか理解しがたい。   グローバル化が進んでいる現在において、「日本語教育は日本人が教えるもの」という固定観念を捨て切れず、未だに一本の線で分断しようとする現場の考え方に正直戸惑う時も多々ある。そのような気風があふれる現場で、冷たい風当たりを感じながら、この道を歩き続ける魅力があるのかと思うと、ちょっと虚しい気分になってしまう。しかし、いつかは国境を超えて世界でつながっていく日本語教育の可能性を信じて、願って、私は今日も、明日も一歩一歩、歩み続けたい。   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ) Lingji Han> 中国吉林出身。延辺大学日本語学部卒業後、延辺大学外国言語学及応用言語学研究科にて文学修士号取得。延辺大学の日本語講師を経て来日。日本の貿易会社で7年間勤務後、2013年3月に筑波大学で学術博士号取得。現在東京で日本語講師非常勤、中国語講師非常勤を務める。研究分野は比較文化、日本語教育、中国語教育。 ---------------------------------------     2013年11月20日配信
  • 2013.11.13

    エッセイ392:金キョンテ「あまちゃんと韓国」

    2013年はまだ終っていないが、今年最高にヒットしたドラマといったら間違いなく「あまちゃん」であろう。「あまちゃん」はNHK朝のドラマで、2013年4月1日から2013年9月28日まで全156話が放送され、毎回最高視聴率20%を上回る記録を残したという。日本の友達から「あまちゃんすごく面白いよ」といわれ、半信半疑で見てみたが、本当に面白かった!   東北地方の仮想都市、北三陸市を舞台として東京の女子高生アキが、母の春子と一緒に母の実家に行き、祖母の夏と会い、海女である彼女の影響を受けて海女になる決心をする。一方、北三陸には、東京に行ってアイドルになることを夢見ている足立ユイという同じ年の少女がいて、二人は友達になる。二人は各々地元のアイドル的な存在になって人気を集めることになる。その後、アキは東京に行きアイドルになるため努力するが、ユイは事情によって地元に残ることになる。私が見たのはここまでで、後は東日本大震災以後二人が北三陸にもどって復興のために頑張る話が描かれているという。   脚本家、宮藤官九郎特有の、漫才を彷彿させるテンポの速い台詞、本物の女子高生を連れてきたような純粋なイメージのアキ(能年玲奈)、小泉今日子、宮本信子など、ベテラン俳優の熟練した演技、1984年と現在を行き来する絶妙な演出、日本の「メインカルチャー」だけではなく、サブカルチャーの要素を巧みに盛り込んだ奇抜さ。普段ドラマをあまり見ない私だが、自分でも知らぬうちにこのドラマに夢中になり、数十編を見てしまった。(1回に15分だけだが)   私がこのドラマを好きになった理由は (たぶん、このドラマが人気になった重要な要素の一つだと思うが) このドラマがとても優しくて、暖かいというところにある。久しぶりに登場した人情味の溢れるドラマだった。最近のドラマや映画は、残酷さを強調する刺激的なものが多い。もちろん世の中は厳しい面があり、我々はそのなかで生きていかなければいけない。そのようなストーリーや表現が描かれているのも、また人間の生き方を映すのであろう。しかし、毎回そのような場面だけを見ていたらたまらない。   世の中の別の一面、暖かい世の中を見たいし、癒されたい。「あまちゃん」は、私たちに足りなかったその部分を満たしてくれたのではないだろうか。寅さん好きな私としては、本当に満足できるドラマだった。(「男はつらいよ」シリーズに、あけみ役で出演する美保純さんがドラマでは海女の美寿々さんとして出演したので嬉しかった) 最近、不倫と出生の秘密を素材にしたドラマが流行っている韓国で、このようなドラマが放映されたら逆に人気を得るのではないかと思っている。   さて、韓国では日本ドラマはあまり人気がない。地上波テレビでは放送されていないし、ケーブルテレビでは放送されてはいるが視聴率は高くない。韓国で日本ドラマはマニア層だけに人気があるといっても過言ではない。   それなのに、「あまちゃん」というドラマが最近、韓国で言及され始めた。ニュースにも登場した。しかし、「あまちゃん」が人口に膾炙しているのは、ドラマが面白いからではない。ドラマの人気に影響を受け、日本(三重県)で、海女漁を国連教育科学文化機関 (ユネスコ)の無形文化遺産に登録させようとする動きに危機感を感じたからである。   世界の中で現在、海女漁をしているところは韓国と日本だけ (これはドラマの中でも海女美寿々の台詞を通じて言及される) 。韓国では彼女たちを海女(해녀, ヘニョ)と呼ぶ。海女は韓国のほぼ全国の海辺で活動している。海辺の近くで育った私も海女さんたちがうにをとるのを見たことがある。今も実家に行けば彼女たちを見ることができる。   韓国で海女といえば、 濟州島(チェジュド)がいちばん有名で、いま活動している海女の人数も多い。濟州では海女漁のユネスコ無形文化遺産への登録を目標としていたが、日本で、「あまちゃん」ブームで海女が全国民的な注目を浴びることになり、ユネスコ無形文化遺産登録にも積極的に動きはじめたので、危機を感じたのである。単独登録になると、類似なものの登録は難しくなる。すなわち、韓国か日本のどちらかが先に登録されたら、他の国は登録できない。 一時期は共同登録を検討していたようだが、今のところは足踏みの状態らしい。   2002年ワールドカップ誘致競争を思い出したら、思い過ごしだろうか。度を超す競争はどちらかひとつの 犠牲につながる。両国が必死になる必要がある分野かどうかよく分からない。今のところで最善の「解決案」は共同登録しかないと思うが、競争が好きな人たちは「共同」を嫌がる。こうして登録の問題は政治的な問題になってしまった。   さて、考えておきたいのは、果たして我々が今まで海女に関してどのくらいの関心をもっていたのかということだ。彼女たちが採ったうにとサザエをおいしく食べながらも、それを採った彼女たちのことを考えたことがあるだろうか。日本も同じだろう。「あまちゃん」が人気を得る前に、日本の海女の生活を知っていた人は多くなかったと思う。私も彼女たちをそばで見ながらも彼女たちの暮らしについて興味を持ったことはない。しかし、このような「作られた」「急造された」興味が彼女たちの生活を潤沢にし、海女という文化的な伝統を維持できる道につながる。皮肉な現実である。 そりゃ「あまちゃん」のなかの北三陸市だって、アキとユイの地元アイドル活動で観光業を復興させたのですから。   歴史問題で相変わらず韓国と日本の間は騒々しい。海女で戦う必要があるのだろうか。海女は世界のなかで韓国と日本にしかいない。日本と韓国の普通の人々が海辺に円座して、お互いに話し合いながら、両国の海女さんが採って来る甘いうにを食べるのはどうでしょうか。あ、うにをだれが多く採るかで競争することならいいかもしれない。   -------------------------------------- <キム キョンテ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専攻。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------   2013年11月13日配信
  • 2013.10.30

    エッセイ391:フリック・ウルリッヒ「ドイツから見える日本」

    日本留学を終え9月にドイツに帰国した後、ドイツから日本がどのように見えるかについてのエッセイを依頼された。日本滞在中は、ドイツ語によるメディアに触れる機会がとても限られていたため、ドイツで日本がどのように報道されているかを知ることは難しかった。また、ドイツを離れている間に、メディアが伝える日本のイメージに変化が起きたかどうかもあまり詳しくは分からない。それゆえ、これから述べることは、あくまでも私の主観的かつ個人的な意見として受け取って頂きたい。   ドイツ人が日本をどう見るかと言えば、まず日本の「遠さ」を取り上げなくてならないだろう。ドイツ人にとって、日本はおそらく非常に遠い存在である。日本人の間では、ドイツと日本は、第二次世界大戦中に同盟関係であったという意識が今でも割と存在しているようだ。しかし、ドイツ人の間では、そのことは忘れ去られたことではないものの、当時の歴史はとても暗い歴史であるため、三国同盟などに関連する事柄をことさら取り上げることはまずない。それゆえ、日本とドイツが歴史的につながっているという意識がドイツ人の間で低いのは当然である。   もちろん、日本製の車や電化製品は、ドイツでも日常生活に欠かすことができないものになっている。そのため、日本はテクノロジーがとても発達している国というイメージが強い。1970年代、ソ連で製作された『ソラリス』というSF映画は、日本が撮影の場所になっていたことを思い出す。テクノロジーの発達や、日常生活の機械化などの面から見て、ドイツにおける日本のイメージは、もしかすると今でも少しSF的な色彩を持っているかもしれない。日本と聞いて、ドイツ人が普通に思い浮かべる風景はおそらく世界遺産として選ばれた富士山よりも、新宿や六本木のような高層ビルが乱立する場所であり、それは先に取り上げたSFのような日本のイメージをさらに強化するのである。   残念なことに、ドイツのメディアにおける日本についての報道はきわめて偏っているというしかない。日本は変わった趣味を持つ国であり、日本が登場するニュース以外、メディアが取り上げるのはあくまで日本の変わった部分である。そのようなイメージを多くのドイツ人が持っている。私自身はこのような日本の描き方に強い反感を抱いているが、この種の偏った国の描き方はおそらくお互い様だろう。例えば、数年前、日本のある航空会社が東京からミュンヘンへの直行便を始めた時に、延々と続く飲み会のイメージでドイツを売り込もうとしていた。ドイツもビールとソーセージだけではなく、複雑な文化を持っている。日本もドイツも相手が持っている一方的なイメージに対して文句は言えないだろう。文化に関心を持つ人にとっては、日本仏教の禅や石庭といったものが日本のイメージになっている。総じて言えば、日本製のテクノロジーに日常的に触れているとはいえ、日本はドイツ人にとって遠い存在であり、ドイツ人が持っているぼんやりとした日本のイメージには矛盾点が多い。   しかし、日本についてのイメージでは、最近、悲しい点が一つ増えた。それは福島の原発事故である。東京が2020年のオリンピックの会場に選ばれた際、日本はドイツから遠く、ドイツではニュースにすらならなかったのではないかと聞かれた。しかし、スポーツに情熱を傾けるドイツでは、そのようなことはあるはずがない。そして、ドイツでは東京オリンピックに関連して福島が話題になった。   まず、なぜドイツ人がそれほど福島にこだわっているかについて述べなくてはならない。鉄のカーテンの西側では、ドイツはおそらく一番直接にチェルノブイリ原発事故の影響を受けた国の一つだろう。私の子供時代までさかのぼるが、私も「雲」が通った時の屋外活動の自粛や汚染のため砂遊びが禁止されたことなどを体験した。私の世代以上のドイツ人は皆このような経験と記憶を持っている。25年以上たっているものの、今でも放射能汚染が基準を超えているため、キノコの採集や狩の獲物の消費が禁止されている場所もある。このような経験をもとに、ドイツでは強い反原発運動が形成され、それは反原発文学のような文化活動にまで発展している。その代表的な存在は後に映画化された『雲』(日本語訳で『みえない雲』)という小説である。学校で読んだ人も多く、知らない人は殆どいないと思う。ドイツ語では、『雲』ほど原発事故への恐怖を表現する言葉はおそらくないだろう。   私自身もドイツ人として当初から、日本政府及び日本人の事故への対応の甘さに強い違和感を持ち、そしてそれは今でも続いている。オリンピック会場の選出の件に限らず、日本について語る時には福島が話題にされることが多い。日本についてのニュースでは、福島についてのものが著しく多い。遠いゆえに、日本国内の事情はそれほど注目されないが、福島において新たな問題が起きた場合、ドイツのメディアはそれにきわめて敏感であり、すぐに反応する。このような現象は決してドイツに限らないと思う。福島の原発事故は日本国内のみならず、様々な意味でグローバルな問題でもある。日本政府が「日本を取り戻す」というスローガンをいくら掲げても、まず原発事故の問題を速やかに解決し、国際社会の信用を取り戻さない限り、おそらく取り戻せるものは一つもないだろう。   ------------------------------------------- <フリック・ウルリッヒ Ulrich Flick> ドイツ・ハイデルベルク大学東アジア研究センター博士課程。2001年、中国研究と日本研究を専攻としてハイデルベルク大学修士課程へ入学。北京及び東京留学を経て、2009年修士課程を卒業。同年、博士課程へ入学。2010年後期より2013前期まで早稲田大学外国人研究員。 ------------------------------------------     2013年10月30日配信
  • 2013.10.23

    エッセイ390:葉 文昌「トルコ旅行記(その2)」

    翌日、フェリーでボスポラス海峡を渡ったアジア側を散策した。「アジア」といえども建物や雰囲気はヨーロッパであった。トルコ人も私にはアジア人ではなくてヨーロッパ人に見える。散策していると、一行の中の何人もが鼻がムズムズしてきてくしゃみが続いた。通りにあるすべての銀行のATMを見ると画面の強化ガラスが蜂の巣状に割れている。そして道路標識は押し倒された状態で歩道に横たわっている。広告看板には「UTAN! Polis」という落書きが。意味は分からないがその類の落書きは世界共通なので簡単に想像できよう。きっと昨日はここでもデモがあって、くしゃみは残った催涙ガスのせいなのであろう。でも店はちゃんと開いていて、それらの破壊以外は平常通りだった。   旅の後半は飛行機で400㎞離れたアンタルヤへ行った。地中海に面したリゾート地である。海沿いにはパステルカラーのリゾートマンションが続く。イスタンブールの気温は20度前後でとても気持ちよかったが、アンタルヤは40度の暑さだった。タクシーには空調がない。日本や台湾だったら汗が噴き出していたに違いないが、トルコではさほどの苦痛にはならなかった。乾燥しているので汗がすぐ蒸発して涼しく感じるのだろう。乾燥のせいでトルコではすぐ喉が渇き、水分と塩分の補給が必要になる。トルコではミネラルウォーターとアイランという塩味のヨーグルトが随所で売られている。アイランは塩味である以外は日本や台湾のヨーグルトと全く同じ味であったが、体が塩分を欲しがっているせいか、やみつきになった。   アンタルヤ滞在中は日帰りで世界遺産のパムッカレにも行った。車の中からトルコの地形を眺めることができた。山はわずかな草に覆われているか、はげ山が多かった。東アジアだったらこういう山は雨で土砂崩れを起こしているだろうが、ここには鉄砲水がないので大丈夫そうだ。パムッカレの観光客は殆どがロシア人であった。寒いロシア人が暖かいトルコにあこがれてよく観光に来るのだそうだ。道路沿いの売店もロシア人観光客を乗せたバスが来るたびに溢れかえり、ロシア人観光客は沢山のお土産を買って帰って行く。   お店に行くと試食を薦められる。食べてみたい気持ちはあるが、試食したら押し売りされてしまうという警戒心が働いて断ってしまう。日本や台湾ではたとえ買わないつもりでも試食するのだが。実際にはトルコのお店だって消費者心理を販売の手段としているわけではなく、「美味しければ買えばいい」程度に思っているのかも知れない。また、街で地図を広げて場所を確認している時、大学生風の若者が親切に場所を教えてあげると言って来た。心の中で「気をつけろ!」という警戒が先走ったが、結局はとても親切な若者だったのである。言葉も文化も知らない場所にいると警戒心が高まるが、自分の邪推を醜悪と反省した。   中東の料理の特徴は羊肉である。かつて羊肉は苦手であったが、学生の頃に渥美財団のバーベキュー会でケバブ(羊の串焼き)を食べて羊肉が好きになった。羊肉はたっぷりのクミンをかけて焼く。羊肉もクミンも自己主張が激しい。でも一緒だととても相性がよい。更にそれらはビールともよく合う。ドネルケバブという豪快なファーストフードもある。東アジアでも見かけるようになったが、肉片を円筒状に積み重ねて、側面から焼きながらそぎ落としてナンやパンで包んで食べるものである。羊肉100g入りが10リラ(500円)、150g入りが15リラ(750円)であった。最後の3日間は毎日このドネルケバブを食べ続けた。帰国直後は自分の汗が羊肉臭いことに気づいた。中東の人が持つ匂いだ。目から鱗であった。体臭は人種固有のものではなく、食に起因するものだった。   初めての西アジア旅行は刺激的な経験となった。幾つかの国に行ったことがあるヨーロッパに比べると、今回のトルコは異文化度が高かった。異文化の交わる所は創作活動が盛んになるそうだが、これほど刺激が多ければ芸術文化が盛んになるのも頷ける。   旅行の写真をここからご覧ください。   葉 文昌「トルコ旅行記(その1)」はここからご覧ください。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2013年10月23日配信
  • 2013.10.16

    エッセイ389:葉 文昌「トルコ旅行記(その1)」

    島根の友人5名と9月にトルコへ旅行した。初めてのイスラム圏への旅である。松江から最も手頃で早い航空便は、岡山空港発、ソウル仁川経由でイスタンブール行の大韓航空だった。朝6時に松江を出て、翌日2時(現地時間夜8時)頃にイスタンブールのアタチュルク空港に到着した。人からなのかそれとも店からなのか、空港ロビーに降り立った時からケバブのにおいがしていた。クミンかマトンかあるいはそれらの混ざり合った匂いである。日本は発酵大豆の匂い(味噌か醤油)、台湾は八角の匂いがするそうだ。たしかに私も最近台湾に帰ると八角か小籠包の匂いが気になる。自分は無色無臭と思っていたらそれは間違いなのである。   空港からタクシーで旧市街地のホテルへ向かう。高速道路の作りや雰囲気が台湾と似ている。それは「緻密度」だろうか。昔台湾から新潟へ出張したとき、アスファルトと道端のコンクリートの継ぎ目の緻密さに感激したことがある。作業員(職人)のこだわりの主張を感じた。これが緻密度である。予算たっぷりに建物を作ったとしても、或いは先進国の建設会社が作ったとしても、見える外装は現地の職人の手で完成されるので、経済的に余裕があるほど完成品の緻密度は高くなる。トルコの経済水準は台湾と同程度なので、同じような緻密度なのだろう。   途中で雑貨屋があったので、イチジクを一個買った。皮は紫色で枝の付け根から半分に裂くと真二つに割れて綺麗に断面が見える。日本のと比べると皮は薄く、中身は色が赤く乾いていてとても甘かった。調べてみるとイチジクの原産は中東とあった。いくら他の土地で人工的に品種改良しても、土地と気候が適した原産に敵うわけがない。果物は日本や台湾では輸入制限があり、現地だけでしか味わえないことが多いので、海外旅行で楽しみにしていることの一つである。   翌朝、ブルーモスク、トプカピ宮殿、地下宮殿と回る。ブルーモスク内部のパステルな色使いは今でも通用する落ち着いたデザインだと思う。またトプカピ宮殿の幾何学的な窓格子も印象的だった。かつて富が集まった場所の工芸品は緻密度が高い。いずれも最高の職人が仕上げたものだからである。すべて人の手によるものなので、時代に関係なく、最高の職人による彫刻や建築を見比べることができる。各国のかつて栄えた時代の工芸を見れば、特定の人種が職人芸に秀でているのではないことがわかる。近代の日本の工芸品は緻密度がとても高いが、これも同じ事が言える。   夜になれば、世界三大料理の一つとされるトルコ料理とお酒の至福の時間となる。出発前の情報によればトルコは穏健イスラム派のエルドアン政権により、飲酒が昔よりも制限されたとあるので、酒が飲めないことを心配していた。しかしいざ到着してみると、青いEFESビールののぼりがあちらこちらにあって安心した。結局はイスタンブールではどこでも普通に飲めたので、トルコ万々歳である。   一行はタクシム通りの近くの予約したレストランへ向かった。タクシム広場では普通に観光客が歩いていたが、その一角では大勢の機動隊員とその車両が陣取っていて、物々しさを感じた。その日はオリンピックが東京に決まった日。それがきっかけで政府への不満が爆発してデモや暴動が起こることないかと心配しながら通り過ぎた。どこの人ですかと聞かれてたので、私が「Taiwan」と返せば「Good。 I don’t like Japan」と、同行者が苦笑する場面もあった。国際連合ツアーの良さもあるものだ。店でトルコ料理とビールを堪能し、気持ちよく酩酊して店を後にする。   トリム(路面電車)に乗るために再度タクシム通りに出た途端、群衆のシュプレヒコールが聞こえて来た。タクシム通りの100m先は人で溢れかえっており、群衆の中心でもある交差点から黒煙が立ち上っていた。そして一部がこちらに向かって走ってくる。スポーツ競技の前のような胸の高鳴りを感じた。同調心理だろうか。こういう時は何も考えずに群衆に吸い込まれる人も多そうだ。でもここは野次馬根性を捨て、トリム乗車を諦め、逆方向から抜けることにした。途中、早歩きで群衆に向かう50人程の機動隊とすれ違う。小路をすり抜けて大通りへ出た。大通りは相変わらず車で満ちているもののデモはなく、その静けさに安堵した。ホテルへ直行し、次の日の為に早めの休息を取った。 (つづく)   関連の写真は、ここからご覧ください。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)  Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------     2013年10月16日配信    
  • 2013.10.02

    エッセイ388:アーロン・リオ「Sさんを待ちながら」

    ミニバスの運転手と2人きりでガタガタ山道を走っている。ちょっと前までは農家と田んぼとガソリンスタンドがいくつかあったけど、今は窓から外を見ると、杉林の起伏ばかりが続き、真夏の昼間なのに杉が太陽を遮ってとても暗い。運転手は、僕の不安な表情に気づいたのか、「カントリーサイドやねん」と、わけのわからない日本語で喋り出してくすくす笑っている。「カントリーサイド?それってちょっと控えめすぎるんじゃない?」と思いながら、やがてまた杉のリズムに戻っていく…   その数年前に、大学を卒業したら大学院で日本の美術史を勉強すると決心した。まずはまだ行ったこともない日本を味わってみようと思い、航空券代を稼いだら一週間東京へ。新宿西口の夜の賑わい、東京国立博物館で見た大徳寺聚光院の襖絵、山手線の大混乱、はじめての酎ハイ…今顧みるとそれぐらいしか思い浮かばない。帰国後、ジェットプログラムに応募した。仏教美術に憧れていたので、軽々しく奈良と京都を第一、第二希望にした。   卒業後の夏、一日千秋の思いで待って、遂に日本国文部科学省から手紙が届いた。「Placement」という欄にローマ字で「Soni Village」としか書かれてない。ワクワクしながらインターネットで検索してみても結果が出ない。 漢字も分からず、 グーグルマップがまだ存在しないあのとき、不安いっぱいで日本人の友人に聞いてみたけれど、「ソニって?漢字は何だろう」。ぶつぶつ言いながら何日かたつと、「Soni Village」のSさんからの簡単な挨拶メールが入った。大変きれいな英語でなぜかほっとした。漢字も委細もわからないまま荷造りをしたり、別れの挨拶をしたりして、一夏を過ごした。関西空港に到着したら、優しそうなSさんが迎えにきてくれると期待していたけど、ミニバスの運転手しかいなかった。   …とうとう、ミニバスが山を下りはじめ、無限の杉林が開けて、明るい谷間が広がった。渓流の両岸に田んぼとビニールハウスが並び、山腹に農家が点在している。一本道は、軽トラックだらけで、川に沿って伸びていって渓流の遠端に消えていく。まさに一度離れたら戻ることができないという桃源郷のようだ。ミニバスはまた坂を上って森を背にして建っている小屋の前に止まった。「ジス、イズ、ハウス」とミニバスの運転手が口ごもって言う。ミニバスの運転手は一緒に荷物を中に運んで、しばらく半分関西弁(当時は一体何語なのかと思ったけど) 半分片言英語まじりで、家の中を回って、指差しながら説明する。布団、固定電話、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機。浴室で、これを押し回しこれをガチャガチャ回転させ何とかなると、細かいジェスチャーで何かを説明しているけど意味不明。「Sさん、来週、カムバック」と、妙に親切なミニバスの運転手は小腰をかがめながら家を去った。   ミニバスの運転手が指差した冷蔵庫の扉に、付箋紙で「Please drink!」とSさんによる指示があった。冷蔵庫の中に見つけた「American Cola」の印がついた赤い缶を開け、不味いけどそれを飲みながら、窓から目の覚めるような景色を眺める。渓の向こう側に、あとになって名前がわかった「鎧岳」という山が空に聳えている。目を下ろすと、目の前に広がる田んぼのど真ん中に腰の曲がったお婆さんが篭を背負ってこっちを凝視している。んん?と思いながら、畳の上に横になってぐっすり寝入ってしまう。少しして、玄関から震える女性の声で「先生?先生?」と聞こえてくる。畳の上から襖をそーっと開けて首を伸ばすと、人の姿は見えないけれど、大きい段ボール箱が置いてある。躊躇いながらこそこそと玄関へ這って行くと、なぞの箱にはトマト6個、茄子2個、ほうれん草1束、信じ難いほどたくさんのお米(一年分?)など、ぎっしりと詰まっている。今も尚、誰だったかわからないけど、あの田んぼのお婆さんだったと勝手に信じている。   暫くの間、幾人かの見知らぬ人が突然玄関に現れて、野菜やお米をくれたり、人がたくさん集まった誰かさんの家に連れて行かれて食べさせてくれたりした。酔っ払っているミニバスの運転手もなぜかよくいて、何時も「Sさんがー」なんちゃらかんちゃらと。はじめての日本酒もミニバスの運転手と。ある日突然、医者っぽいおじさんがエアコンを携えて来て、説明も無く壁に取り付けた。別の日、ミニバスの運転手が僕を車に乗せて、途中でお爺さんを迎えに行って、最後にある家の前に止まった。お爺さんだけが家に入って、20分後に車に戻って僕から3万円を求めてまた家に入る。お爺さんが10分後にもどったら、僕に車の鍵を渡して「マイカー」だと。帰りはお爺さんを「マイカー」になったばかりの軽カー(軽自動車)に乗せて。   ミニバスの運転手が約束した通り、着いてから1週間後にSさんが玄関に現れた。英語ぺらぺらの美人のSさんは僕の上司だそうだ。1週間ぶりの英語のためか、初めてなのに久しぶりの親友のように、多事な1週間をSさんに語り尽くす。田んぼのお婆さんが隣人のTさんでSさんの夫の母、エアコンを取り付けた医者っぽいおじさんがクリニックの院長のFさん、3万円を求めたお爺さんが教育長のMさん、姿を表さないマイカーの売り手が教育長のMさんの秘密の恋人、ミニバスの運転手がSさんの友人で役場の整備員のIさん、漢字が「曽爾」、等々、Sさんが1週間の神秘を解いてくれた。   あれから10年も経って東京で博士課程を終えつつある。不慣れなところも未だに多いけど、留学の経験や日常生活や研究によって、日本について色々学んできた。今でも、東京の喧騒から逃げたいときは、時折第二の故郷の曽爾へ。Sさんと一杯やりながら、現実からの息抜き。そのときにいつも考える、今も僕が日本について「知っている」事のほとんどは、Sさんを待ちながら学んだ。   ------------------------------------------- <リオ・アーロン Aaron M. Rio> コロンビア大学美術史考古学部博士課程後期。2004年インディアナ大学東アジア研究部・文学部を最優等で卒業。2008年コロンビア大学美術史文学修士、2010年日本美術史哲学修士。同年より東京大学東洋文化研究所訪問研究員、2012年より学習院大学文学部哲学科客員研究員。研究分野は中世日本の地方画派。 -------------------------------------------   2013年10月2日配信
  • 2013.09.25

    エッセイ387:マックス・マキト「マニラ・レポート2013年夏」

    2013年8月23日、フィリピン大学工学部にて、第16回日比共有型成長セミナー「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」が開催された。   午前8時45分、予定通りフィリピンと日本両国の国旗掲揚で開会した。日の丸は在フィリピン日本大使館から借り、両国の国歌は、英語訳のついたものをYouTubeからダウンロードした。今年の3月のSGRAかわらばん(エッセイ368:マニラ・レポート2013年冬)でも報告したように、本セミナーを共同で主催する団体の2つの国、フィリピンと日本の国旗掲揚と国歌演奏を行うことは、本セミナーの顧問である東京大学の中西徹教授からヒントを得て、フィリピン人で構成されたセミナー実行委員会で私が相談した結果である。ご存知のように、第2次世界大戦の最後に、マニラはベルリンとスターリングラードと並べられるほど壊滅的な破壊を被った。他の東南アジアの都市では、日本軍は比較的早く降伏したのに、なぜかフィリピンでは徹底抗戦をし、大勢の地元住民が巻き込まれた。実行委員会で相談した時、数人の委員が当時自分の家族が日本軍から受けた経験を分かち合ってくれた。私の提案は拒否されるのではないかと思ったが、最後には、全員一致で受け入れてくれた。「あの戦争は忘れてはいけないが、それを乗り越えて前に進まなくては」と。   中西先生が、参加者の誤解を招かないように、この国旗掲揚の意味を、開会挨拶で感動的に語ってくださった(下記参照)。日本大使館から日の丸の貸し出し許可が下りたので、中西先生と日の丸を受け取りにいく時に、大使にご挨拶をしたいと伝えたところ、卜部敏直大使は中西先生のために夕食会を開いてくださった。実行委員会のメンバー数人も一緒に招待され、大使公邸でマニラで一番美味しい和食をご馳走になった。   今回のセミナーは様々な点で今までの記録を更新した。参加者(200人強)、報告(25本)、協力(在フィリピン日本大使館、フィリピン高等教育委員会)、協賛(鹿島フィリピン、農業訓練所、マリア エズペランザ・B・ヴァレンシア&アソシエイツ、ダニエル・B・ブリオネス建設、フィリピン建築家連合)の数が倍増した。皆さんのご支援とご協力に心から御礼を申し上げたい。そして、実行委員たちが本当によく頑張ってくれたことに感謝したい。企画に協力してくれたフィリピン大学建築学部、フィリピン水と衛生センター、元日本国文部省奨学生同窓会、そしてフィリピン大学工学部(とくに機械工学部)にも感謝の意を表したい。   セミナーのテーマは「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」で、5つのブロックに分かれた。「持続可能な共有型成長(その他)」(ブロック1)、「都会・農村のコミュニティにおける社会サービスと生活」(ブロック2)、「持続可能な農業」(ブロック3)、「持続可能な都市」(ブロック4)、「都会の緑とグレー」(ブロック5)である。各ブロックで、平均5人の発表者から各15分の報告があった。合計26本の報告は一日がかりであった(最終的なプログラムは下記リンク参照)。フィリピンは丁度雨季で、セミナーが開催された週はフィリピンの各地で洪水がおこり、キャンセルした報告者や参加者もあった。しかし、実行委員会の懸命な努力により、220人もセミナーに参加してくれた。   名前を出さないのは報告者に対して申し訳ないが、全ての報告についてここで語りきれないので、関心のある読者はぜひ下記リンクより論文要旨をご参照ください。どの報告も、私達が目指すフィリピンのためのKKK(効率・公平・環境)を掲げたものである。ブロック1では、共有型成長KKKに関する定義が取り上げられた。「幸せ」、「環境倫理」、「日本から学んだ共有型成長」というやや広範なものから、フィリピン人が好む「モールに行くこと」やアキノ政権の「健康政策」という具体的な事例まで語られた。ブロック2では、水や衛生を地方に普及させるWASH(Water Sanitation and Health 水に関する衛生と健康)や、高原で母なる自然と調和するシステムを営んでいるKISS (Kapangan Indigenous and Sustainable Systems カパンガン地区における土着かつ持続可能システム)プロジェクトを中心に報告が行われた。お弁当のランチを挟んでブロック3では、ネグロスで実施されている事業を中心に議論が進められた。この事業については僕がDIRI(Downstream Integrated Radicular Import-Substitution 下流統合型幼根的輸入代替)モデルと命名し、研究を続けている。ブロック2と同じくこのブロックでも持続可能な共有型成長のための試みが語られたが、WASHは基本的にPCWSという非営利団体主導、KISSは農地改革省主導、DIRIは民間企業主導と、多様な形がある。ブロック4ではいかにマニラが都市集中型の発展から離れるかという主旨で、他の地方や国(オランダ)の持続可能なモデルが紹介された。同時に、東アジアにおけるフィリピンの戦略的な立地活用についても議論が進められた。ブロック5では、都会の緑とグレーの両側面についての報告があった。前者では、自然が重視されたモールや公共のスペースや都会型の農業がテーマだったが、後者では、都会のゴミは貧しい人々によって処理されているが、その人々を社会の公的な部分に取り入れる重要性が訴えられた。   会場から飛び込んできた質問があった。「あなたはフィリピンにおける共有型成長の実現をどう展望しているか、どのように実現できるかを聞かせてください。」   僕は、過去数年間製造業を、そして近年は農業を通じて、フィリピンの共有型成長へ貢献する道を探ってきた。中小企業・労働者・東アジアと成長が共有できそうなフィリピンの製造業や、KKKを実現できそうな持続可能な農業の可能性を探ってきた。そして、これらの部門を支援・指導する国家戦略がなければ、この可能性を実現することはできないという結論に至っている。僕たちが色々頑張ってみても、あまり進展がない感じである。というのは、フィリピン社会は、海外出稼ぎ者の送金に依存する深刻な病に掛かっている。フィリピン政府が、困難な産業・農業発展戦略を実施しなくても、海外出稼ぎ者から準備外貨が送金される。だから、この質問に対して明るい展望をなかなか描けない。   このように答えざるをえないはずであったが、このセミナーの2週間前に、僕はフィリピンにとって新しい道を発見した。そのきっかけは、国士舘大学の平川均教授、名古屋工業大学の徳丸紀夫教授、創価大学の遠藤美純博士によるフィリピンIT産業の調査である。1週間、IT産業の関係者とのヒアリングを行い、訪問中の皆さんと議論したお陰で、フィリピンIT産業には、上述したような製造業や農業の潜在力を引き出すダイナミズムが十分にあることに気付いた。フィリピンでも共有型成長の展望が明るくなったという気がする。   僕の発表の時に、僕の方から質問を投げかけた。「我々が日本から学べるものに関心がある人?」会場の3分の2ほどが挙手してくれた。手を挙げていない人々よ、これから僕が日本から学んだ共有型成長についてお話ししましょう。日本からいかに学べるか、経済学の視点から説明しましょう。この15分間の話で納得できない方のために、今、「フィリピンのために日本から学ぶ共有型成長」という本のシリーズを執筆しています。   今度のマニラ訪問で、意気投合した仲間達とその本の共著を決めた。その仲間が、いつ出版するのかと聞かれた時に、「5年前(に出版すべきだった)」と即答した。彼はフィリピン政府の政策立案・実行と多くの開発プロジェクトに関わっているからであろうか、この研究の重要性をすぐ理解してくれた。数年間、友人の経済学者に共有型成長の重要性を訴えてきたが、従来型の経済学(つまり市場万能主義)はフィリピンでも根強いらしい。この本にマニラ・セミナーのビションを詳細に書き、従来型と違う経済学をフィリピンに紹介しようと思っている。   この夏、フィリピンで大きなエネルギーをいただいた。第17回日比共有型成長セミナーは、来年の2月にマニラで開催する。「早すぎない?」と悲鳴をあげた実行委員もいたが、幸い20人以上の委員が、フィリピンのためのKKKという我々の使命を理解してくれている。第17回目のマニラ・セミナーは日本の建国の日、2月11日に開催する予定である。   関連リンク等   1.フィリピンの国歌 (英訳付き)   2.日本の国歌(英訳付き)   3.セミナープログラム (又はSGRAセミナー・レポート、まだ作成中)   4.発表書類   5.本エッセイ「マニラ・レポート2013年夏」の英語版   6. マニラ・セミナー16報告書(英語)   7. 中西徹教授の国旗と国歌に関する挨拶文   ■ NAKANISHI, Toru "On Sharing the National Flag and National Anthem"   It is my great honor to be given a chance to talk about sharing and respecting the National Flag and National Anthem between the Philippines and Japan as a Japanese. The idea of this opportunity comes from an informal discussion with Dr. Max, Ferdinand Maquito, Program Organizer of this conference.   Frankly speaking, however, I could say that I have not loved HINOMARU and KIMIGAYO for a long time. I think many Filipinos may be surprised to hear this, but such a feeling is not so unusual among the Japanese people. Such tendency may come from the stance of mass media or the elementary and secondary level education in Japan. Some of us insist that HINOMARU and KIMIGAYO were symbols of the militarism in Japan during the World War II, so that respecting them so much will call back such militarism.   Indeed, the Japanese invasion caused huge damages to the other Asian countries like the Philippines. When I was a high school student, I read Without Seeing the Dawn, translated in Japanese, written by Stevan Javellana. This book inspired me to study the Philippine society. In this book it is eloquently described how the Japanese invasion violently changed the peaceful and happy days in a charming village in Panay Island into cruel and hopeless nights.   On the other hand, many Japanese youth were forced to serve in the so-called Kamikaze suicide squad that executed the suicide attack on the US warships, even if they did not want to die in such manner. Even as the bereaved families tried to understand the tragic loss of their sons, they have been condemned for long time after the War as if their sons were willing offenders. The ordinary people, mga tao, always lose loved ones in all wars everywhere.   From the historical point of view, it is true that the World War II had been a nightmare in the long history of Japan. If we, Japanese, really understand the history of the nightmare, none of us will repeat or participate in such tragic and sad mistakes ever. HINOMARU and KIMIGAYO were not created for the World War II but had existed since the Meiji or Edo era during the 19th century. Our history of invasions of the Asian countries has to be understood and accepted as our serious mistakes which disgraced the long history of Japan.   Furthermore, to tell the truth, I have had a basic question: can Japan really pay due respect to the national flag or the national anthem of another country, if she does not pay due respect to those of her own country? Such a question was elicited by one of my experiences in the Philippines about 5 years ago. (By the way, as introduced I have been coming back and forth to the Philippines more than 30 years now.)   I have been involved in some scholarship program for the students living as informal settlers in Malabon since 2006. The aim of this program is to assist students with good grades in the early high school level to take and pass the entrance examinations of the high standard universities, like the UP, and to assist them until their university graduation. About 5 years ago, I went to register some of my scholars for the entrance examination in a private university. I was doing this task for my wards, because their parents did not have enough money to do so.   After I queued up for long line I was finally in front of the registration window to submit the registration forms. I could get my turn at last. However, at this moment, the officer suddenly stopped working. I could not understand what happened to her and asked her why. Then she pointed to the window behind me without saying anything. When I looked back, everyone was silent in the room and were looking at only one thing: the national flag raising with the accompanying singing of the Philippine National Anthem. Immediately, I also paid due respect to the occasion. To pay due respect to the national flag and the National Anthem is very common everywhere in the world. This scene, however, is rarely seen in Japan! This was a very valuable experience for me, because I confirmed that Japan has not shared such an inspiring global standard.   Both HINOMARU and KIMIGAYO already existed long before the World War II started. If the Japanese still think that they are so sinful and therefore scarlet with shame, there must be a strong movement to change the National Flag and the National Anthem in Japan. However, we have not found such movement in Japan until now. I think all Japanese accept HINOMARU and KIMIGAYO positively or negatively. If one says this proposition is not right, I suppose that he would not face up to the history of Japan or he would like to get the absolution for the sins of the World War II by disguising to hate them.   Based on the above narration, the meanings for me as a Japanese of the honor to share the Japanese National Flag and National Anthem with Filipinos are the following three points: First, HINOMARU and KIMIGAYO continue to warn us against militarism. It can be said that for most of us Japanese to accept HINOMARU or KIMIGAYO gives us some pains to some degree or another. In general, Japanese have a feeling that to positively accept HINOMARU or KIMIGAYO means to have an abnormal thought, though to negatively accept them is not. I am confident, however, that we need some more positive deed, that is to say, to accept the whole of our history by squarely or directly confronting our stigma. HINOMARU and KIMIGAYO show our history itself. They always continue to remind us they are symbols of our long history and yet warn us of our historical events and warn us against futile and destructive military adventures.   The second point concerns a global standard of social custom. According to my understanding, there are no countries where many people have a negative image on their own National Flag and their own National Anthem, except Japan. I believe that we should pay due respect to the social custom based on historical traditions. HINOMARU and KIMIGAYO have a long history as repeatedly mentioned. Therefore, if I do not pay due respect to HINOMARU and KIMIGAYO, I must have not a global standard but a double standard. I am confident, finally, that the Japanese should pay due respect to HINOMARU as our National Flag and KIMIGAYO as our National Anthem.   Finally, all the program board members willingly consented to our, sort of test, for jointly honoring both our countries by this gesture through the initiative of Dr. Max. I know the relatives of many of you have grievous experiences similar to those described in Without Seeing the Dawn. On this point, the word “absolve” in a Catholic sense to which Dr. Max referred is very impressive to me. Here I confirm to be determined that Japan would never repeat the mistake in the World War II. Though our trial balloon today is very small step, I feel confident that it will give us a further push to fostering deeper friendship between the Philippines and Japan. Thank you very much for your kind attention.   (Professor, The University of Tokyo)   英語版エッセイはこちら   -------------------------- <マックス・マキト Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械 工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学) 産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧 問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------   2013年9月25日配信