SGRAかわらばん

  • 2021.10.14

    エッセイ684:三谷博「コロナ禍下に国史対話は続く 国境と世代を越えて」

    (第6回「国史たちの対話」会議に参加した翌日にFacebookアカウントに投稿された文章です)   昨日、第6回目の「日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性」の研究集会がオンラインで開かれた。これは渥美国際交流財団の支援の下、2016年から東アジアの自国史研究者の間に対話の道を開くために開催してきたものである。国際関係や隣国史を研究している人たちは留学をきっかけに隣国人と日常的に対話してきたが、「国史」の研究者はそうした経験を持たない。20世紀から尾を引く東アジアの歴史摩擦を解消するためには、まず閉鎖環境で暮らしてきた「国史」学者たちに直接に対話してもらうことが必要である。早稲田大学の劉傑さんの首唱により、渥美財団のご理解を得て日・中・韓の歴史家たちが、ほぼ隔年に対話集会を繰り返してきた。   今回のテーマは「人の移動と境界・権力・民族」で、塩出浩之氏による基調報告の後、日中韓三国からそれぞれ二人が指定討論に立ち、その後、10人のパネリストたちによる自由討論を約3時間半にわたって展開した。以前と異なって発表はただ一人で、後はその場の展開に任せるという冒険的な試みだったが、実行委員会の村和明、李恩民、南基正、彭浩、鄭淳一氏らの周到な準備とチームワークのおかげで、充実した討論とその連鎖が実現された。今回の主力となった三国の中堅と若手の歴史家たちは、着実な史料研究を基礎として専門分野と所属国を越える対話に積極的に踏み込み、学術討論を立派に成し遂げた。年配者としてうれしいことである。   この国史対話は、元来は東アジア三国、とくに日本と隣国との間にわだかまる歴史摩擦を解消し、国際関係への負担を軽くするために始められた。今世紀初頭、「歴史認識」問題が争点化したとき、私と同世代の歴史家たちは何度も対話を重ね、少なくとも歴史の専門家の間では、相手側が異なる解釈を見せた時、なぜ相手がそう考えるかを理解しようとするまでにはなった。しかし、その後、東アジアの諸政府は領土その他生々しい問題を敢えて争点化し、それによって歴史問題は後景に退くことになった。いま、20世紀前半の厳しい歴史について議論できる場は失われている。   しかしながら、今世紀初頭の東アジア歴史家たちの成果は見捨てるに忍びない。一歩退いて、せめて学術レヴェルだけでも次世代の歴史家たちに日常的な交流と連携の場を用意しておきたい。学問的にも各国の歴史家たちが自国の学界に閉じこもるより遙かに生産的となるだろう。国史対話はこの度、当初と違った方向に舵を切ったわけであるが、それは同時に世代交代の機会ともなった。昨年1月にフィリピンでの集会に加わった学者たちが渥美財団の元奨学生たちと協力し、新たな問題設定の下に動き始めたのである。今年1月には、コロナ禍を意識しながら「19世紀東アジアにおける感染症の流行と社会的対応」を取り上げ、その際、内容はともかく討議が十分に行えなかったとの反省に基づいて、若手自らが「人の移動と境界・権力・民族」を問題として設定し、学校教科書の「国史」を超えた歴史ナラティブを探り始めたのである。   無論、取り上げられた諸テーマが十分に討議しつくされたわけではない。しかし、中には「国境通過証明書」のように、古代から近世に至る議論が続いたセッションもあって、これらはいずれ共同論文集を編む可能性も見て取れた。   いま東アジア3国の国際関係は最悪であり、各国の世論の相互敵対関係は今世紀初頭には予想もされなかったほどである。しかしながら、今回の研究集会はそれと全く異なる潮流が存在し、若手がその担い手であることを世に示した。世は政治ばかりに規定されるのではない。学術を通じた絆が太く強靱なものに育ち、コロナ禍は無論、国家間の敵対関係を超えて、世に公益をもたらしてくれることを願う。今回の会議はその期待を大きく膨らませるものであった。   <三谷博(みたに・ひろし)MITANI_Hiroshi> 1978年東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程を単位取得退学。東京大学文学部助手、学習院女子短期大学専任講師・助教授を経て、1988年東京大学教養学部助教授、その後東京大学大学院総合文化研究科教授、跡見学園女子大学教授などを歴任。東京大学名誉教授。文学博士(東京大学)。専門分野は19世紀日本の政治外交史、東アジア地域史、ナショナリズム・民主化・革命の比較史、歴史学方法論。主な著作:『明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動』(山川出版社、1997年)、『明治維新を考える』(岩波書店、2012年)、『愛国・革命・民主』(筑摩書房、2013年)など。共著に『国境を越える歴史認識-日中対話の試み』(東京大学出版会、2006年)(劉傑・楊大慶と)など多数。     2021年10月14日配信  
  • 2021.10.07

    エッセイ683:雍旭「時間というもの」

    我々は成長と共に、知識や見識などを積み上げていく。その間に、ある特定の専門分野のみならず、義理、人情、この世の動きに対する理解も深めてなじんでいくようになる。結果的に素晴らしい成果を収めたり、株価の上下の判断や世論の流れも的確に推測したりできるようになる。社会や自分にとって、この累積してきた経験は「魂」みたいなものであり、なくてはならない宝となる。しかしながら、せっかく魂を大きく育てて来たのに、我々の身体は年を重ねて徐々に老いていき、最終的に無に帰す。なんとか魂を保ちたい→だから永生を求める必要が出てくる→でも無理だと残念に思う人がたくさんいるからこそ、仏教の輪廻転生のような説が生み出されたわけである。このような説によって、永遠の生命を追求したいが死は避けられなくて残念という気持ちが多面的に慰められる。   ここまで来て、これからの話は迷信的な展開になるのではないかと思われるかもしれないが、科学的に言うと、実在のものにはきっと論理がある。たとえ仏教の輪廻転生説でもある可能性のひとつにすぎず、解析する必要があるパラメータと同様な存在である。では、なぜ我々の魂が大きく成長するたびに、肉体が衰えていくのか?なぜこういうトレードオフ関係の設定になるのか?もちろんこの不可解な問に答えはない。それでも、この設定を使って将来的な可能性を科学的に話してみたい。   上記の設定における最初の問題は2つある。魂の不滅と肉体の保持である。魂であれ、肉体であれ、両者をつなぐのは「時間」である。時間は客観的に作られた定義で、我々の認識の一環として身に溶け込んでおり、疑うことはない。しかしながら、主観的に人々が感じる時間の尺度は異なる。時間の流れを早いと感じる人もいるし、遅いと感じる人もいる。感じる時間の流れは年齢の逆数となるという研究結果がある。例えば、50歳の人が感じる過去の1年間はまるで1週間のようなもので、年を取るほど時間の流れが早いと感じる。   肉体の保持について話すと、できる限り時間の流れを遅らせたい、停止させたいと思うのは当然の考えである。生物学的に生体機能を高めて、寿命を延ばす方向に進んではいるが、まだまだ限界があって、無限の生命には遥かに遠いのが現状である。一方、工学的には、衰えた身体を補助するパワーアシスタント・スーツが開発されたり、失った腕や足などを代替できる電動義肢や義足もかなり発展したりしてきて、肉体が衰弱になっても機械的な代替品を入れ替えることにより、代替した部分は「時間」というパラメータを無くし永遠になるわけである。しかしながら、身体のすべて(例えば臓器、脳など)を機械化するにはまだ大きな壁があるので、永遠の肉体はいずれ行き詰まることになるだろう。   一方、魂の不滅について話すと、時間の流れと共に積み重ねた知識や見識などは経験・認知として脳に保存され、我々の意識となる。それを究明するために、脳科学の研究者たちは近年、侵入式(動物)と非侵入式(人体)で最先端の手法を用いて脳波を計測している。最新の技術進捗により、脳波を駆使したロボットアームでものを把持して自分に飲ませ、しかも把持の感覚もちゃんと脳にフィードバックした。イーロン・マスク氏が創業したNeuralink社もイノシシの脳にセンサーを入れて、四肢の動きを正確に表示させたほか、サルの脳波でゲームまでしている。人間の脳には860億個のニューロンがあって、現在の研究結果ではごくわずかしか計測できていないが、いずれそれらをすべて計測して人間の脳の活動が分かるようになり、可視化することも実現できるだろう。さらに一歩前進し、脳活動をコピーして、計算能力の強い量子コンピューターで再現できれば、意識を別の容器で再生することができて「時間」というものは無意味になり、魂そのものの永久不滅を達成し、現実化される。   それが可能になったとき、病気・機能不足の肉体は存在せず、機械化された身体を所有しながら、永遠の魂を持つサイボーグの世界になるだろう。夢の話と思われるかもしれないが、いまの科学者たちはまさに好奇心でその方向に進んでいて、時間を重ねればどんどん実現化に近づいていくだろう。さて、本当にその「時」になったら、果たして我々は不安を感じるのか、それとも喜ぶのだろうか。   <雍旭(よう・きょく)YONG_Xu> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。中国出身。現在、中国科学院深?先進技術研究院・神経工程研究センター助教。電気通信大学情報理工学研究科で博士号を取得。2020年度日中科学技術交流研究奨励賞を受賞。     2021年10月7日配信
  • 2021.09.30

    エッセイ682:林泉忠「なぜ北京は中国と国交のある国が台湾との関係を強化することを阻止できないのか?」

    (原文は『明報』筆陣(2021年5月11日)に掲載。平井新訳)   バイデンと習近平が9月10日に電話会談を終えたばかりのタイミングで、米国が台湾の駐米機関である「台北経済文化代表処」を「台湾代表処」という名称に変更することを「真剣に検討している」というニュースが伝わってきた。これは、7月に台湾がリトアニア政府との協議を経て、リトアニアの首都ビリニュスに「台湾」の名を冠した代表処を設立したこと、そして9月初めに欧州連合(EU)外務・安全保障政策上級代表に対して「欧州経貿弁事処」の名称を「欧州連合駐台弁事処」に変更するよう提言した議案がEU欧州議会外務委員会を通過して以降、欧米諸国における台湾との関係強化を望む近年の雰囲気の中で、一連の「正名」運動にかかわる新たな動きである。この動きが北京の敏感な神経に再び触れることになるのは避けられないだろう。   ※台北経済文化代表処:Taipei_Economic_and_Cultural_Representative_Office ※台湾代表処:Taiwan_Representative_Office ※欧州経貿弁事処:European_Economic_and_Trade_Office ※欧州連合駐台弁事処:European_Union_Office_in_Taiwan   周知の通り、台湾の国際社会における存在感を低下させ、台湾の国際的な地位向上を阻止することは、社会主義中国の建国以降、外交政策上の「核心」的な課題であった。1971年、「中華人民共和国」が国際連合における地位を「中華民国」に取って代わり、翌年には台湾の最も重要な国際的支持勢力である米国と日本が相次いで北京との関係樹立を進めるというブレイクスルーが見られた。この国際情勢の急転によって、台湾海峡両岸の国際的地位は急速で「不可逆的」な歴史的転換を招いた。その後、北京は中国と国交のある国の政府に対して台湾との関係を「非公式」レベルの交流にとどめるとした合意を必ず遵守するよう着実に求めていく。この度のワシントンの動きについても、中国駐米大使館は従前通り、「中国側は米国と台湾の間のいかなる形式の公式交流にも断固として反対する」との姿勢を示している。   ○欧米諸国における「リトアニアモデル」の伸長   21世紀初め以降、中国の台頭が日増しに明らかになるにともない、中国の世界における地位もまた確実に上昇し続け、北京はさらに積極的にその国際的なディスコースパワー(自らの発言の内容を相手に受け入れさせる力=「話語権」)を拡大していった。それと同時に、両岸のパワーの差も日増しに開いていった。多くの西欧企業が次々と中国へ投資し、あるいはより緊密な経済貿易関係を結んだことで、北京の国際的な影響力は急速に上昇した一方で、欧米諸国やその他の国家がより積極的に台湾との関係を強化させることは阻止できないでいる。   近年、(日本を含む)西欧国家が台湾の「正名」運動にかかわる現象が次々と起こっている。2017年元旦、日本の対台湾機関である「交流協会」(本部は東京、台北事務所と高雄事務所を設置)が「日本台湾交流協会」へとその名称を変更し、同年5月に台湾側では日本にかかわる事務を処理する機関である「亜東関係協会」が、その正式名称を「台湾日本関係協会」へと変更した。さらに2019年6月、台湾は「北米事務協調委員会」を「台湾アメリカ事務委員会」へと改めた。2020年4月、「オランダ貿易及投資弁事処」は「オランダ在台弁事処」という肩書に変わった。そして前述したように、今年リトアニアは台湾が「駐リトアニア台湾代表処」を設置することに同意した。リトアニアの駐台機関の名称は未だ確定していないが、おそらく「リトアニア駐台代表処」という名称が使用されることになるだろう。さらに、EUは「欧州経貿弁事処」という名称を「欧州連合駐台弁事処」に変更する予定であるという。   ※(旧)交流協会:Interchange_Association ※(現)日本台湾交流協会:Japan-Taiwan_Exchange_Association ※(旧)亜東関係協会:Association_of_East_Asian_Relations ※(現)台湾日本関係協会:Taiwan-Japan_Relations_Association ※(旧)北米事務協調委員会:Coordination_Council_for_North_American_Affairs ※(現)台湾アメリカ事務委員会:Taiwan_Council_for_U.S._Affairs ※(旧)オランダ貿易及投資弁事処:Netherlands_Trade_and_Investment_Office ※(現)オランダ在台弁事処:Netherlands_Office_Taipei ※(新)駐リトアニア台湾代表処:Taiwanese_Representative_Office_in_Lithuania ※(見通し)リトアニア駐台代表処:Lithuanian_Representative_Office_in_Taiwan   筆者は先月、北京が中国の駐リトアニア大使を呼び戻し、さらに北京に到着したばかりのリトアニアの新駐中国大使を「追放」するなど、「話を聞かない」小国のリトアニアに対し珍しく厳しい措置をとったのは、悪事をまねようとする者を戒め、「リトアニアモデル」が他の2つのバルト3国であるエストニアとラトビア、そして一部の中東欧諸国においてドミノ現象に発展することを防ぐためだと論じた。ところがわずか1か月ほどで、EUと米国が「台湾」を正名とする衝撃的な出来事の発生を目の当たりにすることになった。これにより、北京が取り組んでいる、台湾の国際空間を狭めて中国と国交のある国が台湾との関係を強化することを阻止するという努力が、ボトルネックにぶつかっていることが明らかとなった。   ○「台湾」――米国議会の後ろ盾とホワイトハウスの「決断」   「リトアニアモデル」の波及という現状は、実際には、米国が「リトアニアモデル」の影響を受けているというより、むしろリトアニアなどの国が、ワシントンによる「台湾」正名の動向の積極的な支持、台湾との関係強化を促進している雰囲気を感じ取り、大胆にも「先に一歩進んだ」と見るべきだろう。   米国議会における「台湾」の「正名」を求める動向は、すでに醸成されていた。例えば、トランプ政権期の昨年12月17日、米国下院議員78名がポンペオ国務長官に対して連名で書簡を送り、米台関係について3つの提言を行っているが、その中には、台湾の駐米弁事機構の名称を「台湾代表処」に変更するべきだということが含まれていた。そして7か月後の2021年7月、米国下院外交委員会は「抗中」の「イーグル法案」を通過させた。最も注目されたのは、まさに台湾の駐米代表処の「正名」について協議を開始するよう米国政府に対して求めたことである。この度ホワイトハウスが「真剣に検討している」ことを明らかにできた背景には、すでに議会の後ろ盾を獲得していたためである。   ※イーグル法案:Ensuring_American_Global_Leadership_and_Engagement_Act、略称E.A.G.L.E.Act   冷静に考えれば、台湾の在外代表機関のほとんどが「台湾」ではなく「台北」の名を冠する理由はとても複雑である。単純に北京の「圧力」によるものだけではなく、当該国がその国の国益に基づいて検討したことによるものであり、さらには蒋介石・経国時代の台湾自身が「漢賊不両立(漢賊並び立たず)」の原則にこだわっていたためでもある。   1949年以降、特に1970年代の「断交の波」の「陣痛」を経験して以降、台湾はかつて国交を有していた国と再び「非外交関係」を構築しようと模索する。そして代表機関の設置について議論していた際、「台湾」を代表処の名称として用いる選択肢は基本的に排除された。その理由は、彼らが「中華民国」を「台湾」に「矮小化」することを望まなかったからである。そして、「台北」という言葉を使用することを受け入れる方向になったのは、国際的な外交の舞台において、一国の首都の名前を用いて、その国またはその国の政府を代表させることはよく見られることだったためである。「ワシントン」は米国政府の代わりとして用いられるし、「ロンドン」は英国政府の代わりとして用いられる。   ○中国の台頭とむしろ高まる「台湾」の存在感   なぜ台湾は後になって再び「台北」を「台湾」に改めることを求めるに至ったのだろうか?その背景には、「代表権争い」が終幕した後の影響と、台湾社会の「国家アイデンティティ」意識の変遷がある。   前述した1970年代の両岸の国際的地位の逆転にともない、1949年以降の両岸で繰り広げられてきた、一体誰が合法的に中国を代表できるのかという「代表権争い」が終焉した。そして、「自由中国」を自称してきた台湾が、国際社会において自らを「中国」と称することは次第に難しくなっていった。事実、台湾の最も重要な「友好国」である米国と日本を含む国際社会の認識もまた、「中国」は中華人民共和国であると見なしはじめていた。このような国際情勢の変遷というコンテクストの中で、台湾の民衆、特に多くの社会エリートたちもまた、「台湾」を以って、中国大陸とは隔たれた空間として、自らの地位を定めようとし始めたのである。   もう一つの主な原因は、台湾が1990年代に政治の民主化を迎え、台湾社会の本土意識が躍動しはじめ、国家アイデンティティの構造が急速に変異したことである。人々はさらに自らを「台湾人」だと認識するようになり、「台湾」を以って自らの身分が帰属する対象として設定することに賛同するようになった。こうして在外機関の「正名」の声が盛り上がったと言える。これまで常々、米国議会で遊説し「友台法案」を一つ一つ通過させることに尽力してきた「台湾人公共事務会」は、長年台湾の駐米機関の「正名」を重要な議題として推し進めてきた。   ※台湾人公共事務会:Formosan_Association_for_Public_Affairs、FAPA   なぜ欧米や日本などの西欧国家地域は「台湾」の「正名」運動を積極的に支持するのか。その要因は主に3つある。   1つ目には、彼らが台湾社会の民主的な発展の効果を高く評価し、台湾とともに自由、民主、人権などの普遍的価値を享受できると考えているためである。2つ目は、台頭する中国の「専制政治の輸出」が香港に広がっており、今後は台湾にまで拡大させるつもりだという危機感から「台湾を支持する」動向の一環であろう。3つ目は、新型コロナウイルス流行への対応が民主主義社会の中でも比較的良好だったという評価のためである。   「新冷戦」の雰囲気が目まぐるしく変化する昨今、中国は国際関係の処理においてやはり米国の影響力をより重視しているといえよう。特にバイデンが大統領に就任して以降、積極的に民主主義国家同士が連携して中国に対処していくという戦略を進めていることに対して、中国側は極めて憂慮している。しかし、習近平とバイデンの会談が行われたことからもよくわかるように、北京はワシントンとの「新冷戦」にこれ以上踏み込むつもりはないだろう。例えホワイトハウスが「台湾駐米代表処」の「正名」を確定したとしても、北京は新任の秦剛駐米大使を呼び戻す、あるいは米国が指名したばかりのニコラス・バーンズ駐中国大使の就任を拒絶するなどといった、リトアニアへの「懲罰」に類する対応は考えにくいだろう。   中国台頭の時代に、国際社会の主導力としての欧米諸国が「台湾」の「正名の波」を含め、台湾を支持する動きを進めることについて、なぜ中国は効果的にこれを阻止できないのだろうか。目下の中国の外交政策及び対台湾政策の担当者が、すぐに深刻に振り返り、検討する必要がある重要な課題であろう。   <林泉忠(りん・せんちゅう)LIM John_Chuan-Tiong> 国際政治学専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年よりハーバード大学フルブライト客員研究員、2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、国立台湾大学兼任副教授、2018年より台湾日本総合研究所研究員、香港アジア太平洋研究センター研究員、中国武漢大学日本研究センター長、香港「明報」(筆陣)主筆、を歴任。 著書に『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス:沖縄・台湾・香港』(明石書店、2005年)、『日中国力消長と東アジア秩序の再構築』(台湾五南図書、2020年)など。     2021年9月30日配信
  • 2021.09.24

    エッセイ681:梁誠允「日本の古典文学と私―西鶴奇談を研究すること―」

    留学生活の最後の1年であった2020年度は、新型コロナウイルス感染拡大のただ中でした。日本の古典文学、特に井原西鶴(いはら・さいかく、1642-1693)の小説を中心に江戸時代の表現文化を研究している私にとって、本物の資料を参照することは必須作業です。ウイルス感染よりも資料調査への隘路こそが心配事でした。もちろん、翻刻・出版された文献もあり、古典籍の画像データベースが急速に進展しウェブサイトで閲覧可能な資料もありますが、私が取り扱う文献には未公開資料で各地の図書館・文庫に所蔵されている写本が多いのです。日本には大量の古典籍が沢山残っています。くずし字が読めれば江戸時代の生活文化史における重要な考究材料を自由に活用できるわけですが、コロナ渦では大学図書館の出入・閲覧制限がなされ、資料への接近そのものが難しくなっています。コロナの終息も資料閲覧の再開も、なお遼遠に見えます。   いつの間にか私は、日本の文学と文化について最も前衛的に探求しなければならないという使命感を持つようになりました。研究成果を早く公表しようとする焦りから生じたものでもなければ、元禄時代の文豪〈西鶴〉を再び特権化しようとする意図から生じたものでもありません。一つの大きな問題意識に由来するものです。   韓国の高麗大学で日本文学を学んでいた頃、私は「時を超越して〈今・ここ〉を思うことは可能なのか」という、極めて抽象的な問いを抱いていました。また、現代の我々の姿や社会の有り方を見つめ直すためには、それらと距離を取りながら眺めることが必要であり、場合によっては積極的で反省的に関与する知の態度も必要ではないか、と思っていました。一見、相反する思いですが、ひとまず大学院に進学して、近代以前の人々の表現文化について研究することに決めました。その時、特に注目したのが、江戸時代の人々が巷談巷説の記録に熱心であったという事実です。日本の近世人が奇怪な話題を好み、世間話を好んだ実情は想像を超えるものがあります。諸国話・雑話物・説話物と称される作品群をはじめ、随筆・日記・見聞譚などの記録には、様々な異事奇聞・世間話がたくさん残されています。このような報道説話・世間話は、近世社会の自画像とでも言うべき資料であり、近世人にとっては見知らぬ世界についての、いわば情報交換としての意味あいも持っていました。   そこで私は同時代の人間の姿や心のあり方、世態風俗に深く心を傾け、それらを鋭く描き出した西鶴の作品の中で『西鶴諸国はなし』(1685年刊)、『懐硯』(1687年刊)という奇談集を研究対象と定めました。西鶴は奇談集の中で、同時代の人情世態を形象化するに当たり、実際に起こった事件を用いる場合においても、素材の元の面影をほとんど留めない形で改変しており、数多くの奇異・怪異現象を盛り込んだ先行の説話、あるいは民話・伝説のような口承文芸を利用しています。西鶴の奇談には、新奇な社会現象や事件、噂の出来事を伝えようとする姿勢を建前としながら(事実を踏まえてはいるものの)、実態としては作り物が多いのです。   そのため西鶴の奇談には〈同時代の人情世態〉が素直に表れていません。言い換えれば普段、読者が特定の話に感動を覚えた時、その表現がどうして可能であったのだろうかという問いが、現代の我々には容易に生じないという難点があります。この難点こそ、実は先に言いました「時を超越して〈今・ここ〉を思うこと」の難しさであり、この難点に立ち向かうことが、「時を超越して〈今・ここ〉を思うこと」はどのようにして可能なのか、という問いに答えるための重要な契機ではないかと考えました。ここ10年間、私の研究は西鶴の創作のあり方を解明しながら、当時の人々が西鶴の奇談を読んで覚えた感動を、現代の我々が共有できるように語り直すことだったと思います。   この問題意識を背景に、博士学位論文「西鶴奇談研究」では、西鶴奇談の一話一話を詳細に考察して、作品の中の不可思議で説明できないものを可能なかぎり明確に説明し、西鶴奇談の備えている遂行力(表現の挑発力)を再び活動させることに努めました。研究の方法は分析対象となる作品によって様々でしたが、通底しているのは〈注釈〉という方法です。〈注釈〉という言葉には固いイメージがありますが、先人達が使っていた一つ一つの言葉を吟味し、その意味や典拠などを探る作業です。往時の用例を調べ、作品が成立した時代に作品を戻して解釈していく作業の基礎が〈注釈〉です。現代を生きる我々は気付いてはいませんが、制度的思考や感性に縛られています。そうした時空の制約から解き放ち、別のより豊かな解釈を示して別の時代や空間に誘ってくれるのが〈注釈〉という手続きです。〈注釈〉とは現代の言語表現に対して距離をとって眺める行為であると同時に、現代の表現文化に対するより積極的で反省的な知の態度であると言えます。おそらく〈古典〉と呼ばれる作品の魅力も、今の世の中を新しく語り直すための道具として、我々の社会的想像力をより豊かにするための契機を与えてくれるところにあると思います。   ただし、古典と言っても人々に受け止めてもらえない限り、いつか忘れ去られてしまうかもしれません。西鶴の奇談には従来の歴史の表舞台に現れず、捉え切れなかった町人達・武士達の生々しい情念と生活様態が巧みに描き込まれており、江戸時代人の人間性とは何か、という新たな問いを提起しています。西鶴奇談について研究しながら、日本の表現文化史についての新たな知見を公表してきた私は、西鶴の文学が私達の生き様と社会の有り方とを見つめ直すための格好の材料であり、〈反射鏡〉としての性格を持っていると考えます。このことを、私が一般の人々にどのように示し、近代以前の人々の経験を我々にとっての新たな経験としてどのように紡ぎ出していくかが重要な課題です。この課題を今後も渥美国際交流財団と交流しながら、ともに考えていきたいのです。   <梁誠允(ヤン・ソンユン)YANG Sung-Yun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。韓国高麗大学を卒業後、2011年度に文部科学省招請奨学生として来日。2021年7月に東京大学大学院人文社会系研究科で博士号取得。日本デジタルハリウッド(DHU)大学招請講師を経て、現在、高麗大学文科大学日語日文学科講師。主要論文に「『懐硯』巻五之二「明て悔しき養子が銀筥」の虚偽―フィクションとしての西鶴説話―」(「日本文学」第68巻第12号、日本文学協会,2019年12月)、「『西鶴名残の友』「人にすぐれての早道」と狐飛脚伝承」(「国語と国文学」第95巻第6号、東京大学国語国文学会、2018年6月) 。共著に『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』(文学通信、2019年5月)があり、韓国詩人・金永郎を日本に紹介した寄稿文「手を結ぶ世界の詩人たち―永郎の人生と詩、そして私達」(『詩と思想』No398、2020年9月)がある。     2021年9月24日配信
  • 2021.09.09

    エッセイ680:謝志海「レジ袋有料化から見えてきたプラスチック削減の新たなチャレンジ」

    1年ほど前、日本でスーパーのレジ袋が有料化されたことについて書いたが、エコバッグ持参で買物する生活は定着してきたように思う。私が住む群馬県は車社会なので、エコバッグだけでなく、スーパーの買物かごと同じようなものを持参で来ている人も多数みかける。買ったものをポリ袋やエコバッグに移し替える必要がなく、エコと時短が同時にかなうものだ。スーパーの景色はこうして変わった。しかし、レジ袋有料化にともない家庭ゴミの排出量は減ったのだろうか?以前より週に2回のゴミ回収の山がひとまわり小さくなった、なんて変化はみられない。   雑誌「アエラ」でこんな記事をみつけた、「レジ袋断ってゴミ袋買う矛盾」(2021年6月14日号)。矛盾とは、これまでレジ袋を生ゴミ袋やゴミ袋として使っていた人々が、エコバッグを持つようになり、結局ゴミ捨て用のゴミ袋を買っているというものだ。確かに、日本のスーパーやコンビニのポリ袋は生ゴミ袋としても耐えられるしっかりとした作りになっている。レジ袋をゴミ袋に再利用していた人がいかに多かったかということか。エコバッグを使うようになり、生魚や肉のパックからの液もれでエコバッグを汚さないようにと、小さな透明ポリ袋(無料)を以前よりひんぱんに使うようになった、というコメントもあった。   エコバッグを持つようになって、なんらかの矛盾を抱きながら暮らしている人が多いのではないだろうか?私もゴミを出す量が減ったかという点においては、もやもやしたままだ。「アエラ」の記事によると、英国の環境庁が2011年に発表した調査では「地球温暖化の可能性」をレジ袋より少なくするにはエコバッグを131回使う必要があるという。こういう具体的な数字を出してもらえるのはありがたいが、それではポリ袋をもらってしまおうと思う人もいるだろうし、今ではエコバッグを複数枚持っている人が非常に多いという。我が家にも、買ってもいないのに気づけばサイズもさまざま何枚もある。   我々が感じるこの矛盾の理由は、お金を払ってレジ袋をもらうかエコバッグを持参するかのどちら派になるかでは、自分のしていることがエコかどうか明確に解決しないからだろう。そう、レジ袋だけがプラスチック製品ではないのだ。「アエラ」の記事はこの点においても疑問を呈し、最後にはすっきりと読み終わらせてくれた。「(レジ袋にかぎらず)トータルでエコを意識できているかが大事です」なるほどそういうことだ。レジ袋はもらうけれど、移動に自転車を使うならば、エコを意識しているといえるだろう。コンビニでお弁当とヨーグルトを買った知人が、レジ袋を断った後に、割箸とプラスチックのスプーンは当たり前のようにさっと取って出てきたことに違和感を持った。どちらも家に持ち帰るものだから、断わることができたはずだ。「レジ袋は有料だけど必要ですか?」という問いがなければ、ふたつとももらっていたかもしれない。   そう、レジ袋がゴミ削減に対するトリガーになるのであれば、それでいいと思う。実際のところ、プラスチックのスプーンやフォークを有料にする案も環境省と経済産業省が合同で具体化を進めている。食に関するものだけでなく、クリーニング店のハンガー、ホテルなどで提供される歯ブラシやヘアブラシなど12品目にもわたるという。この新制度の導入は、2022年4月を目指している。これが本格的に動き出したら、プラスチック使い捨て製品への意識はさらに高まると期待する。日々の生活で少しずつできることからやっていく、そうすれば、だれもがエコな活動に参加することになる。     英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2021年9月9日配信
  • 2021.08.28

    エッセイ679:ニューベリーペイトン・ローレンス「お笑いの形」

    嫌なことしかニュースにならないというが、2020年度は国内外を問わず、新型コロナウイルスの蔓延を始めとしてうっとうしいニュースばかりだった。2016年には国宝とされていた有名人が何人も亡くなったことで、英国では冗談半分で「史上最悪の1年」と呼ばれたりした。今振り返ると、よくその程度で騒いでいたなとつくづく考える。2021年8月現在、英国だけでも13万人以上がコロナで亡くなっている。また、欧州連合からの離脱により英国経済が甚大な打撃を受けている。そのような状況の中で、あえて楽しい(軽い?)ネタについて書いてみたい。研究分野でもなんでもないが、一人の留学生として感じた、日本のお笑いの特徴について述べる。   日本のお笑いはいくつかの点で欧米のコメディーの主流と大きく違う。1つ目は「意外性」の役割だ。欧米のコメディーでは原則として、予想外の展開を見せることで観客を笑わせる。同じギャグを繰り返すと意外性がなくなるから、話題を変えて次から次へと新しい冗談を言い続ける。日本のお笑いではむしろ反復が期待される。だからこそ、お笑い芸人が特定の言葉や動作と連想されるし、「あの有名なネタを久しぶりに見られてよかった」や「あのコントを生で見られてうれしい」といったコメントが成り立つ。   日本のお笑いは1つのネタの中でも、反復がよく使われる。私は今になっても、特に漫才では内容をもれなく聞き取れることが少ない。しかし、前半のせりふが後半に再び出るときや、その芸人特有のキャッチフレーズがあると、楽しく聞くことができる。サビだけよく知っていてつい口ずさむ歌のようだ。ただ、最初から半分ネタばらしなので、意外な展開にげらげら笑うことはない。   お笑いとコメディーの形態も違う。欧米ではコメディアンが一人でステージに立って観客に語りかけるのが一般的だが、お笑いでは多くの場合、2人で進行する。しかも、漫才では「ボケ」と「ツッコミ」という役割分担がほとんど鉄則になっている。「ツッコミ」の役割は多くの場合、「面白いところ」を観客に知らせる、あるいは「笑ってね」という合図をするガイドのような存在に見える。これもまた親切だが、「面白いところへの気づきこそが楽しい」という欧米の考え方からすると少し残念とも思える。コメディアンはどちらかというとさりげなくボケて、それを観客に気付かせる。エネルギッシュな漫才に比べゆっくりした流れが一般的だ。   日本のお笑いを批判していると思われるかもしれない。そうではなく、人類共通の「笑う」という現象が国や文化によってこんなに違うこと自体が面白いのだ。もちろん共通点もあり「ピコ太郎」の海外進出からわかるように、日本のお笑いは海外でも受ける。お笑いコンビの「サンドウィッチマン」も、近年はスペインで講演している。今後、国内外のお笑いの合流によって新型お笑いのさらなる発展を期待している。   次に、言語を研究している者として、日本語の特徴から生まれるお笑いの可能性について触れておきたい。日本語はいわゆるSOV(主語―目的語―動詞)型言語で、動詞が文の最後に来る。動詞が文の中心的な意味を表すことが多いので、最後まで聞かないと意味が確定しない。その動詞でさえ、「行きまー」と言って聞き手を待たせることが簡単だ。もちろん、それまでの内容から予想できるが、文末は予想を覆す最適のチャンスを与える。これは、英日や日英の同時通訳における難点でもあるが、お笑いの武器にもなれる。実際、「パンクブーブー」の2人のように、日本語の構造を生かして観客の予想を裏切る漫才もある。意外性が十分に生まれ、個人的にはとても面白い漫才ができあがる。   最後に、お笑いのネタにしてもよさそうな日本の日常的なエピソードを2点紹介したい。留学生であれば、どちらか疑問に思ったことはあるのではないだろうか。   1.天気予報:天気予報士が気温、気圧、湿度、紫外線、花粉などについてまくしたて、となりに立たされている女子アナウンサーはやがて堪忍袋が切れて「そうなんですね、では、明日の天気はどうでしょうか」と突っ込む。   2.商店街で外国人を取材:和食を試食した外国人が生半可なコメントをしても、日本語の吹き替え(なぜかアニメのような音質)では絶賛の声が後を絶たない。納豆を試食した1人が微妙な表情を浮かべるが、すぐにテロップで顔を隠される。   以上のエピソードを面白いと感じるかどうかはわからないが、暗い世界情勢からちょっとした面白さを見つけ出す喜びを日々感じるようにしたい。   <ニューベリーペイトン・ローレンス Newbery-Payton,_Laurence> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。英国出身。東京外国語大学非常勤講師、国士舘大学非常勤講師。リーズ大学現代言語文化学部学士。東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程修了。国費外国人留学生(2013~2019)。研究分野は対照言語学、第二言語習得、外国語教育。     2021年8月28日配信
  • 2021.08.19

    エッセイ678:ボルジギン・フスレ「東京五輪:世界に何を残すか」

    世界が注目するなか、新型コロナウイルス流行により1年延期となった第32回オリンピック競技大会(東京2020、以下「東京五輪」と略す)が2021年7月23日に東京で開幕し、17日間の熾烈で、輝かしい、感動的競技をへて8月8日に幕をおろした。   東京五輪の意義などについては、橋本聖子東京五輪・パラリンピック組織委員会会長とトーマス・バッハ国際オリンピック委員会(IOC)会長の開会及び閉会のスピーチで述べられているので繰り返さない。一方、開会にいたるまで、そして、開催中、さらに閉会後、今日までも今回の五輪に対する批判の声が止まらない。「涙」「復興」「躍動」「努力」「挑戦」「感動」「最高」「偉業」「魅力」「希望」「感謝」「重圧」「逆境」「簡素」「地味」「困難」「過酷」「異例」「不安」「混乱」「励まし」「暑すぎ」「無観客」「手抜き」「嘘つき」「利己的」「難民選手」「前代未聞」「お金目当て」…など、賛成と反対の声が入り混じっていることが物語るように、東京五輪はさまざまな課題を抱え、葛藤とチャレンジに満ちた大会となった。   海外の報道をみると、東京五輪の背景・開催状況・日本国内の批判の声を紹介するものもあるが、称賛も非常に多い。しかし、不思議なことに日本のマスコミが海外報道を紹介する時、なぜか懸命に「マイナス評価」のみを探し出し、それを大いに紹介し、あらゆる手段をつかって東京五輪を批判する傾向がある。日本はどうしてこれほど自虐的に自己否定になったのだろうか。   五輪開催中の8月6日の午後4時すぎ、私はオリンピックスタジアム(国立競技場)を訪れた。風が穏やかで日ざしが明るく、うららかな日であった。偶然にもこの日は広島平和記念日(原爆の日)でもあった。スタジアム周辺には、たくさんの警察がいて、パトカーもあちこちで走っていた。その中には広島県警のパトカーや警察官の姿も見えた。オリンピックという祭典の雰囲気はあまりなく、何か「事件」が起きたような感じだった。   日本オリンピックミュージアムの前に設置されている五輪モニュメントを見学しようと思ったが、スタジアムとミュージアムの間の道路が閉鎖されていた。「出入口」となるところには多くの警察官が立ち並んで「本日16:00より、この先の入場はできません」という看板があった。なぜ入場できないかと警察官に確認したら、「デモがあるので」という答えだった。結局、五輪モニュメントは見学できなかった。なんのデモだろうと、私はスタジアム周辺を回って見たが、デモの様子はなかなか見えなかった。   午後6時になって、「やっと」デモが始まった。僅か十数人いるかという規模だ。一つの髑髏(どくろ)のような「人形」を高く掲げ、鍋と椀のようなものを打ち鳴らし、叫び始めた。スピーカーが数台あったので、その叫び声が響きわたる。何に抗議しているかと聞いてみた。東京五輪に対する「批判」であった。いや、批判というより日本政府、東京五輪実行委員会、IOC、参加選手、メダリストを罵り散らしている。ネットでも東京五輪を罵倒する乱暴な書き込みが話題になっているが、その書き込みを見る限り、論理どころか教養も何も感じられない。何より参加選手やメダリストを誹謗、中傷、侮辱する行為は理解できないどころか許せない。   この「デモ」は確かに効果があった。十数人のために、数百人もの警察官や十数台のパトカーが動員された。複数の道路が閉鎖され、日本オリンピックミュージアムや五輪モニュメントの見学が中止になった。さらに、複数の国内外の新聞社、テレビ局がこの「抗議」を取材し、報道した。現場を訪れていない者が、マスコミの「デモ」に対する報道だけをみたら、まるで「日本全体」が東京五輪を反対しているように「見えて」しまう。また、かれらは1時間以上も密の状態をつくり、1時間以上も続く騒音がスタジアムとミュージアム周辺の街にこだました。   「より速く(Faster)、より高く(Higher)、より強く(Stronger)」というオリンピックのモットーに、東京五輪では「一緒に(Together)」が加わった。残念ながら、多くの人がこのモットーを忘れたのかもしれない。東京五輪の賛成者であれ、反対者であれ、無視する者であれ、このモットーのもとで対話や議論ができないのだろうか。   今回の東京五輪組織委員会は受難の委員会であり、東京五輪は受難のオリンピックであったように見える。日本政府と東京五輪組織委員会、IOCがやたらに罵られるに止まらず、選手、メダリストも罵声などを浴びせられた。メダリストとその家族たちは喜びを控えさせられている。   スタジアムの周辺には、多くのボランティアの姿が見られた。よく知られているように、今回の東京五輪には多くの医療従事者やボランティアが参加した。教え子の一人も参加した。このような教え子がいることを、私は誇りに思う。   日本のマスコミは、よく「今回の東京五輪は日本に何を残すか」と問う。しかし、オリンピズムが目指しているのは、人間の尊厳の尊重、人類の調和的な成長であり、オリンピックは世界の平和の祭典である。   東京五輪を正しく評価するには時間がかかるだろう。世界は新型コロナウイルス感染拡大という不測の事態に見舞われ、世界を席捲したこのパンデミックが終息していないという状況のなか、東京五輪の開催はチャレンジであった。そして、無事に開催して世界に大きく貢献した。数年後には、みんながその貢献を理解し、東京五輪は栄光に輝くだろう。   英語版はこちら   <ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)他。     2021年8月19日配信
  • 2021.07.30

    エッセイ677:具慧原「小津めぐり」

      数年前の夏、清澄白河にある、ずっと行ってみたかったカフェに向かう途中だった。ビルに書いてある住所をちらっと見た私はびっくりした。深川、と書いてあったためである。深川は私の研究対象である小津安二郎監督が生まれ、幼少期を過ごしたところである。彼の映画に現れる下町情緒の起源とも言える深川に偶然足を踏み入れたことは、私を非常に興奮させた。まだ東京の地理に詳しくなかった私の頭のなかでは、清澄白川と深川は全く異なる島のように浮かんでいたため、これは思わぬ発見だった。猛暑も忘れてすぐに地図アプリを開き、「小津安二郎誕生の地」に行ってみた。道路ができ、大きなマンションが立ち並んでいる風景は、小津の眼に映ったものとは随分違うはずなのにもかかわらず、夏の陽を照り返すアスファルトに立ってその風景を眺めていると、小津が歴史の中の人物というより、まるで私の身近な人であるかのような不思議な感じがした。そして私の研究も、根本的にはこの地から始まったんだ、という実感が湧いた。予期しなかった小津との出会いが、私を小津の方へ一歩近寄らせたのである。   それ以来、いわゆる小津めぐりは留学生活における一つの課題となった。上野公園の西郷隆盛銅像、鎌倉の大仏、京都の龍安寺、尾道の鉄道などから小津の足跡をたどった。ドイツの世界的な監督であるヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)はドキュメンタリー映画『東京画』(1985)にて、東京にはもはや『東京物語』(1953)の様相がない、とがっかりしていた。しかし私は、すでに変わったもののなかで変わっていないものを見つける度に、つかの間ながら小津とつながっているような気がした。その時だけは、戦争を挟む歴史的な屈曲のなかで捉えていた白黒の小津が、私のなかで総天然色に染まった。だが、その直後にはいつも小津の不在が惻々として心を打った。『東京物語』から変わっていない尾道の穏やかな海は、いつかここに存在していた小津の眼差しを私に共有させると同時に、あっという間に過ぎ去った彼の生涯を浮き彫りにしたのである。   長谷正人は、小津の遺作『秋刀魚の味』(1962)で、娘が嫁に行った後に映される空になった2階の娘の部屋や階段のショットが、娘と父親が「ともに過ごした時間があっという間に過ぎ去ってしまった」ことを観客に感じさせると指摘する。長谷の言う「あっという間に過ぎ去った」時間感覚は、他の小津映画のみならず、私の小津めぐりにも当てはまる。この感覚は、小津映画のなかでは肝心な場面の意図的な省略によって強調されており、小津めぐりにおいては、今の私には知りようがない、小津の生涯におけるところどころの空白によって生じるのだろう。切ないとか、空しいとかでは表すことのできない複雑で奇妙な時間感覚が、尾道の煌(きら)めく波と共に私に絶えず流れ込んだ。小津めぐりは、小津との出会いと別れの繰り返しだった。   振り返れば、小津映画の謎に対する好奇心が研究の世界へ私を導き、その謎を自分なりに解いていくなかで目した小津の揺るがぬ強さが研究の指標になってくれた。そして小津めぐりは、留学生活の活力源として精神的な支えになった。研究で疲れた時にも、挫折した時にも、日本のどこかに残っている小津の軌跡を辿ることは、常に彼の存在/不在を生々しく喚起し、乱れた心を引き締めることができた。作品を見る経験と、監督の足跡を追う経験との共鳴は、私の小津像をカラフルに彩り、視野を拡張した。これは日本に留学したからこそ得られた貴重な経験だった。今考えてみると、研究だけでなく、足掛け8年の日本での生活それ自体が小津に導かれたようである。あっという間に過ぎ去る時間のなかで、私の見た小津の眼差しをどう継承していくべきか、未解決の、おそらく一生の課題となるこの問題を心に刻みつけ、その答えに少しでも近づける方向へと、次の一歩を踏み出したい。   英語版はこちら   <具慧原(グ・ヘウォン)Koo Hye-won> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。韓国出身。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学芸術学)。国立釜山大学芸術文化映像学科学士。東京大学大学院博士前期課程修了。大使館推薦による国費外国人留学生(2014~2019)。研究テーマは「小津安二郎の受容史・言説史」「1920~1960年代の日本映画史」。     2021年7月29日配信
  • 2021.07.15

    エッセイ676:呉勤文「日本文学に出会ってしまった人生」

    高校3年生の頃、国語の先生の薦めで遠藤周作の『深い河』を読み始めた。日本の文学作品の中国語訳が大量に本屋に並べられるようになったのは台湾の戒厳令が1987年に解除された後だった。『深い河』の世界で何かの意味をつかもうとしていた信仰のない私は、この歴史の長河で浮遊する一人の読者に過ぎなかった。   ある日、「国語」の模擬試験のために『紅樓夢』の注釈を探す同級生に付き合って本屋をまわっていたとき、夏目漱石の『吾輩は猫である』のタイトルが面白かったので、手に取って読み始めた。これがきっかけで、『こころ』を読んで日本語文学科の受験を決意。陽射しが暖かくて爽やかな風が吹く故郷を離れて、日本語が学べる台北の大学に進んだ。   漱石の生きていた立身出世と生存競争の明治時代を知れば知るほど、それが台湾の学歴社会にとても似ていると気付かずにはいられない。大都会の大学に進んだ若者たちは、明治時代の学生のように高い物価と悪い居住環境に加えて、人間関係の孤立と社会からの期待にストレスを感じる。特に台北の天候はいつもじめじめしているので、それに気付かずに心身失調になった子が少なくない。   『子どもはあなたの所有物じゃない』という社会批判のテレビドラマが最近、台湾で話題になった。もっと早めに制作されるべきであった良い作品だと思う。社会の地位などにこだわりがない両親のもとで育った自分は、子どもの頃から学校の教育体制に違和感を抱いてきた。特に、都会出身の若者と話す際に、期待に応えることを両親と先生の「愛」と結びつけるという社会の功利的な雰囲気で育てられていることについての認識がより深まった。「これに挑戦して楽しい」よりも、「何者かにならなければならない」という焦りが、若者の間に蔓延している。学歴を重んじる東アジアにおける共通の問題として、これから教育において思索され続けるべき課題だと考える。   博士課程に進学する少し前から、日米安保体制の推進に伴い、米国流の実用を重視する教育体制への調整が始まった。日本の文系排斥運動は台湾の教育圏にも影響を及ぼした。文系が崩壊し始めるこの時代の中で、日本近現代小説を翻訳していた同級生も「文学には何の効用がある?」と言い出すほど、自己内面の混乱を抱えていた。さらに少子化の問題、大学のポスト激減と雇用の不安定化が原因で、とても良い大学に進学する後輩も、博士号を取ってから社会にどう見られるか焦りを感じていた。博士課程の学生を増加させることで文系の需要と供給のアンバランスをもたらした政策の失敗、それに高学歴の無職者に対する社会の軽蔑、院生の自己アイデンティティの喪失が悲劇をもたらし続けるのである。   留学の前後は鬱々とした日々だった。同じ出身の先輩によるソーシャルメディアいじめに遭わされ続けた。ある学会に参加したいと言い出した時点で攻撃され、自分の悪口と噂も同じ分野の人の間に流された。フェイスブックで単純に生活のことをシェアしても嫌味を言われた。何もしていなかったのに、誰かの進路を邪魔しているような罪を着せられた。研究発表の際にもほかの先生を通じて言いつけにきた人がいる。専門分野における留学生の採用率が高くない日本や欧米での就職を勧められ、女性は嫁ぐのが当たり前という旧観念をもつ方から日本で結婚相手を探す男性を紹介されたこともある。他者の欲望を自分の欲望にし、欲しい物に手段を選ばず、利益の衝突があるとすぐ裏切るような人間と「共依存」の(特定の相手との依存関係を強いられる)関係に陥っていたのだと思う。   思い出せば、日本文学の世界に導いてくれた『深い河』の中で、主人公は人生の意味を探すためにインドへ長旅をした。長い間、信仰のない、窮屈な人間関係の中で生きてきた「わたし」も、何を信じるべきなのか、と問いたくなった。   ただ、日本における自分の実存の世界は、自然に恵まれた全く違う居場所である。昔に比べてだいぶ開発されたと聞いたが、受験の前夜もシーンとした大きな森に囲まれて、バス停でガス燈に照らされる綺麗な蜘蛛糸の網を不思議に眺めつつ、心穏やかだった。本屋でもほかの所にない「森と鳥の楽しい生活」コーナーが設けられている。晴れた休日には親子ともに野原を走り回り、魚や鴨に餌をやり、のんびりした生活を過ごす人が多い。同じ院生室の後輩が冗談半分に言っていたが、ここに来た留学生の中で優しくて親切な方が多いのは、大自然に浄化されたおかげかもしれない。   西行や芭蕉を読んで我々がほっこりするのは、おそらく同じような長旅を心の中でたどったからではないだろうか。そう言えば日本文学を知る前に、日本では失恋すると旅に出ると聞いて不思議に思った。失恋と言えば歌とお酒、というのが台湾の通俗文化の世界だった。自分が馴染んできた日本文化の世界が上品すぎて、父母兄弟との間にできた世代差を時々、面白くすら感じる。   英語版はこちら   <呉勤文(ご・きんぶん)WU_Ching-wen> 台湾大学日本語文学科・修士(2015年・修了)。台湾大学言語センター・日本語講師(非常勤2015~17年)。日本台湾交流協会奨学生(2017~19年度)、渥美国際交流財団奨学生(2020年度)。筑波大学人文社会科学研究科博士(国際日本研究)(2021年・修了)。筑波大学博士特別研究員(2021年度)。2021年8月より台湾大学日本語文学科・專案助理教授。     2021年7月15日配信  
  • 2021.07.08

    エッセイ675:苗鳳科「研究生活を選んで、損はないことに気づいた瞬間」

    「学問は 尻から抜ける ほたる哉」江戸の俳人、与謝蕪村の一句である。ちび坊や(8ヶ月)と暮らしていると、学業の時間は深夜になりがち。かれこれ半年以上寝不足が続いた近頃、この俳句をよく思い出す。あれほど懸命に覚えていた作家の数々、あれほど丹念に読んでいた論文の一本一本、いざ書こうとすると、みな尻から抜けたかと思うほど吹っ飛んでしまう。   孫康映雪、車胤聚蛍。人々は「蛍雪の功」を唱えるが、そんなことしたら風邪や近視にならん?と幼い頃首をかしげたけれど、今はその「功」まで疑ってしまった。学識を積み上げればあげるほど、下にあったものを忘れてゆく。まるで賽の河原だ。   それでも、やはり研究生活を選んでよかった、と思うところがあった。それを気づかせてくれたのは、我が家のちび坊やだった。   育児に一番苦労したのは何かと問うと、半分以上の親が「寝かしつけ」に一票を入れたというアンケートがある。そして、一回の寝かしつけは平均45分もかかるらしい。   こんな贅沢な時間、我が家は到底作れない。子供の世話を手伝う親戚が居ず、授業や博士論文で自分の面倒だけでも精一杯の状況下で、15分の抱っこ寝かしつけも、よくパンかじりながら論文読みながらやっていたくらいもったいなかった。産後すぐ、私はネントレ(赤ちゃんセルフねんねのトレーニング)の本を貪るように読み始めた。それでも、赤ちゃんのバッテリーの切れやすさにすぐ心が折れた(8ヶ月の今でも夜までねんね3回)。   大丈夫。ただの寝かしつけのために学業を怠けられるものか!そういう決心で、坊やの3ヶ月目から、お風呂→保湿→着替え→授乳→歯磨き→絵本読み→子守唄のねんねルーティンを日に日に地道に実践してきた。正しい生活リズムを作るために学校や買い物の途中でも月齢別の発育通り眠るべき時間帯で寝かしつけをしていた。3ヶ月の辛抱で、やっとおっぱい以外で寝たことのない坊やが、抱っこで寝るようになり、トントンで寝るようになり、最後は歌を聞くだけでスイスイ寝るようになってくれた。   君の睡眠に注いだ労力でママ論文2本も書けるよ!と内心こっそり凱歌を奏したその時の出来事だった。   日々ハイハイに興奮してきた坊やは、ベビーベッドにもつかまり立ちができるのに気づき、あまりの楽しさ?で寝なくなった。来る日も来る日も、彼はプロレス選手のようにベビーベッドの中を猪突猛進していた。あきれて大人のベッドに移すと、今度はガンガンはしゃいだ挙句私の頭の上に乗っかって寝るのだ(どこでそんな贅沢な寝方覚えたかよ)。   と同時に、彼はまた実に多種多彩な夜泣きを、毎晩連続で披露し始めた。自分のオナラにびっくりして起きた。父ちゃんのくしゃみに驚いて起きた。歯が生える痛みで起きた。公園で興奮した日は夢を見て起きた。それまでのセルフネントレの努力が一夜にして水の泡になり、私はすっかり狼狽した。   大丈夫。ただの寝かしつけのために学業を怠けられるものか!一週間以上重度の寝不足で白髪が前髪にまで出た。でもここは、ママの粘る根性を見せるところじゃないか。   気づけばネントレの本がまた8冊も棚に現れた。色鮮やかな付箋を挟み、細かいメモをコツコツ作り、新米ママは大学院試験準備並みの情熱を燃やした。夜泣きはまず60秒数えて待ち、温度湿度など生理的理由を辿る、段階を踏んだ寝かしつけをする、ブロッコリーやキャベツなどのアブラナ科野菜は夜中オナラするので夕飯には禁物…おまけにメラトニンやらプルオフメソッド(授乳なしの寝かしつけ)やら使わない日本語ばかり覚えさせられ、乳幼児睡眠コンサルタントの資格でも取りたいほど無駄な自信が付いてしまった。   親の努力と反対に、坊やのねんねは一向によくならず、そればかりか、トラウマでも覚えたかのようにベッドに下ろされた瞬間ヒステリックに泣くようになった。私はどんなに心苦しくても動じず、「ゆらゆら寝かしつけ」をしなかった。すべてのネントレ本には、ここの難関さえ乗り越えれば「自分でスイスイ寝付く天使ベビーになる」と励ましの言葉があふれていたからだ。   いつものように、ママ行かないで!と泣き叫んでいるように私にしがみ付くある日だった。その必死さを見て思わず背中がゾクっとした。ひたすらマニュアルを思い浮かべながら頑張っていた私の目に、坊やの目線が初めてのように焼き付いた。文学研究をしているのに「文学は樹林よりも目の前にある1本1本の木を見る」という加藤周一の言葉をなぜ忘れた。セルフねんねに成功した赤ちゃんがいくらいるにせよ、坊やはこの世に唯一無二の小木だ。   そもそも、今主流の「ネントレ」学説、どこの何者が、いつどれくらい信憑性のある学術誌に発表したものだ?研究するならこれまでの権威を全て疑うほどの決心がないといけないと教授が言っていた。幸い大学院生活を送っているので答えを探るノウハウくらいは知っている。   数ヶ月ぶりに我が子をのんびりゆらゆらし(ネントレ中大禁物らしいのに)、いかにも「ママ、これ最高だぜ!」という顔で寝てくれた坊やを下ろし、先行研究を調べ始めた。   「信息(情報)繭房」という中国語がある。人は皆自分の周りの情報で織られた繭に縛られて、世界もそれぞれ違うように見えるという。調査をして正にこれが本当のことだとわかった。添い寝は危ないと聞かされてきた我々の世代には、いわゆる早期からの独り寝が子供の自立性育成に良いということで欧米から伝わったネントレが推奨されるが、60年代の日本はなんと「親子川の字寝率」が91%だった(ちなみに今禁止のうつぶせ寝も90年代には推奨されていた)。では欧米は皆ベビーベッドでネントレしているのかと思ったら、本当は英国、イタリア、米国など数カ国に限られており、フランスなどはアジアと変わらないくらい、ネントレどころか添い寝もしているようだ。   でも自立心の育成効果は期待できるじゃない?さらに調べたら、なんと、ネントレ大国米国から、寝方は自立心の育成とは関係せず、乳幼児期に一緒に寝たほうが知能が上がるという最新研究が現れた。   坊や、君と涙ボロボロで奮闘した数ヶ月はなんだったのか。赤ん坊にかけた高すぎる期待で散々泣かせたことが馬鹿らしかった。それよりも悔しいのは、それら権威学説の幾度にもわたる更迭は、論文を書く現場の自分によくわかるはずだった。絶対の学説は常に存在しない。時間が経てば新世代の研究者が新しい「権威」を持って現れる。不本意にも我が子がその観察対象として消費されただけの気がした。   哺乳類の赤ちゃんには「輸送反応(親に運ばれると泣き止む反応)」があるらしい。我が子も抱っこされて安心するものならなぜしてはいけないか。夜泣きも、夜中も親がそばにいることの確認だと理解するならば、2億年近い哺乳類の歴史の中で、赤ちゃんが生きるために必要不可欠な能力だと分かる。   坊やはその後に、後追いが始まり、ますます粘着テープのように親にしがみ付くようになり、寝る時も私によだれを塗りたくっていた。   ネントレを続けていたら、彼は今寝かしつけがいらない子になっていたかもしれない。しかし私は、続けなかったことに心が救われた。もう抱きしめるのを我慢しない。我が子が我を必要としている時は躊躇なく応えたい。研究はいつも新旧学説の戦争であり、育児にも正解はないのかもしれない。   以上が、とある新米ママの、研究生活を選んで損はないことに気づいた話だ。研究は中身を忘れるけれど、思考力が残っているだけでも良かった。錯綜する育児論の中でこれからも迷うだろうが、母親に全身全霊で頼っている坊やを抱え、小さい頃ベッド一つに家族4人缶詰で寝ていた楽しさを思い出しながら、今はただこの瞬間を楽しみたい。   <苗鳳科(みょう・ほうか)MIAO_Fengke> 2020年度渥美奨学生、中央大学文学研究科博士後期国文学専攻。研究テーマは「改革開放後の80年代中国における日本近現代小説の受容」。共著に「『女のいない男たち』ほか」(『村上春樹と二十一世紀』千田洋幸、宇佐美毅2016)、小説翻訳に「呼蘭河伝」(原作者蕭紅、『はなうた』2018年7月号より連載中)、論文に「80年代の中国における私小説の受容―田山花袋『蒲団』への読解から」(『JunCture超域的日本文化研究』2021)、「80年代の中国における日本社会派推理の受容について―『砂の器』と『人間の証明』から見えるもの」(『日本文学』2020)、「中国における日本近現代小説の受容研究:1979?1992年」(『大学院研究年報』2020)など。文学と言葉に興味がある。教員免許(日本語専攻、中国にて取得)や国際漢語教師資格を持ち、教師の経験あり。2017年度東京白門ライオンズ学術奨励賞受賞。     2021年7月8日配信