• 2012.12.26

    エッセイ362:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その12:教育を取り戻すって?」

    かなり心配しています。近頃、自分の日本語能力は大丈夫かと本当に自信を失いかけています。とりわけ、2012年12月に行われた衆議院議員選挙の際に、各政党が打ち出したキャッチコピーには理解困難なものが多くて戸惑いを禁じえませんでした。例えば、日本維新の会の『今こそ、維新を。』って、あの倒幕運動から始まった明治維新の維新ですよね。うん、日本の現状を見ればそれをやりたくなる気持ちもわかりますが、本当にちゃぶ台返しのようにもう一回日本のすべてをひっくり返すのですか、危なくないですか。つぎに、日本共産党の『提案し、行動する。』って、あの…ちょっと待ってください…今まで提案し、行動してこなかったというのですか!?仕事はちゃんとしましょうね。あと、日本民主党の『動かすのは、決断。』って、主語がないのでそれは誰の決断を指しているのかちょっとわかりませんが、まあ、結局国民が決断してあなた達を壊滅状態の所に動かしたみたいですけどね。そして、自由民主党の『日本を、取り戻す。』って、なるほど詳細を見ていくと「経済・教育・外交・安心を取り戻して、新しい日本をつくろう」という意味だそうで、いいですね、これはわかります。うん?でも「教育を取り戻す」って?よく見るとそのすぐ下には「危機的状況に陥った我が国の教育を立て直します」という説明がついていましたが、あれっ、日本の教育は危機的状況に陥っていましたっけ?教育社会学者でありながら、その危機的状況に気付かなかった僕は寝ぼけていたのでしょうか。   日本に「へえ~」その6:「PISA調査における日本の最新結果、すごいじゃん?」にも書いたように、2009年のPISA(OECD生徒の学習到達度調査)に参加した、いわゆる「ゆとり世代」と言われてきた当時の日本の高校1年生の学力はそれでも世界トップレベルだったのです。さらに、2012年12月12日付の朝日新聞と毎日新聞の1面トップで報道されたように、63ヶ国・地域が参加した2011年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)でも、調査対象であった日本の小学4年生と中学2年生の平均得点は、ともに数学と理科の両分野においてベスト5に入っていました。当然、日本の教育は完璧では決してありませんが(というか、日本の評論家がよく絶賛するフィンランドも含め、教育が完璧な国は存在しません)、2つの国際学力調査においてどちらも世界トップレベルの成績を収めた日本の教育がもし本当に「危機的状況に陥った」としたら、順位のより低い国々の立場はどうなるのでしょうか。まったく失礼な話です(笑)。危機感を煽るのも大概にして欲しいものです。   無論、教育は学力だけではありません。現に、教育再生に関する自民党の政権公約の中には世界トップレベル学力の育成のほかに(今でも世界トップレベルですから!)、6・3・3・4制および大学教育の見直し、幼児教育の無償化、教育委員会制度の改革や、教科書検定基準・近隣諸国条項の見直しやいじめ対策などもあって、中身は実に盛りだくさんです。紙幅の関係上、そのすべてに言及する余地はありませんが、とくに気になっている最後の二つについて簡単に私見を述べたいと思います。   まず、教科書検定基準の抜本的改善や近隣諸国条項の見直しについてですが、その狙いは、自民党の公約にも書いてあるように「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」、これまでの自虐史観的な教科書を駆逐することにあるのでしょう。無知を承知で素朴な疑問なのですが、今の日本の子供たちは本当に日本の伝統文化に誇りを持てていないのですか。そういう印象を僕は抱いていませんが、もしそうだとしても、それは自国の歴史の負の部分を強調しすぎた(とされる)教科書のせいなのでしょうか。実はそれ以前の問題として、負の部分どころか、あの戦争についてほとんど知らない日本の若者がなんと多いということが僕の率直な感想です。実際に大学の授業でも、当時の日本軍がシンガポールまで「進出」したことさえ知らなかったという大学生にたくさん会ってきました。そもそも、あの戦争についての教科書記述と日本の伝統文化への誇りとのつながりがいまいち見えてこない僕はバカでしょうか。なんか本当に心配になってきました。   つぎに、いじめ対策ですが、まあ無策よりはいいでしょう。ただ、別に悲観主義者というわけではありませんが(どちらかというとその逆ですが)、いじめは無くならないでしょう。しかも、今年8月に発表された文科省の学校基本調査によれば、2011年において日本の小中高校の生徒数はそれぞれ約676万人、355万人と336万人であり、なんと小中高生の人数だけでシンガポールやフィンランドの人口の2.5倍以上もいるではありませんか!これだけの遊び盛りの子供が学校という閉じられた環境でほぼ毎日学習生活を送らせられているわけですから、皆が皆おとなしくしているほうが反って不自然・不気味というものでしょう。時たま何かの事件が起きたりするのも無理はないのではないかと思います。言うまでもなく、いじめは許される行為ではありませんし、学校からいじめが無くなることに越したことはありません。ただ、殺人、強盗、放火、詐欺などの許されない犯罪行為が大人の社会から無くならないように、子供の社会である学校からいじめを完全に追放するのも至難の業といえましょう。学校現場では、保護者も含めてあれだけの人が集まってきますから、毎日いろいろなことが起きます。しかしながら、マスコミに報道されない限り、ほとんどの場合においてわれわれはそれらのことを知りようがありません。そして残念なことに、マスコミに大きく取り上げられるのが専ら最悪の事態に至った事故・事件ばかりですから、学校を見るわれわれの目はどうしても偏ってしまいがちになります。最近、いじめ自殺の報道が続けてなされていますが、その母集団が1300万人を超えるという事実を忘れてはなりません。視点を変えて見れば、いじめが最悪の事態を招く前に食い止め、それゆえマスコミにはまったく登場しない学校や教師もきっとたくさんいるはずです。繰り返し言いますが、僕は日本のいじめ問題を過小評価しようとしているつもりは毛頭ありません。然るに、いじめは日本に限った問題ではなく「いじめ問題国際シンポジウム」が定期的に開催されるほど各国が抱える共通の教育問題の1つでもあります。したがって、日本の教育だけが「危機的状況に陥った」わけではありません。そう思う僕はやはり楽観主義者でしょうか。   2012年の夏にわれわれSGRAが主催した「第44回SGRAフォーラムin蓼科『21世紀型学力を育むフューチャースクールの戦略と課題』」でも熱く議論され、またSGRAが2013年3月にバンコクで開催する第1回アジア未来会議でも僕の研究グループが同じテーマに挑みますが、情報通信手段の急激な進化の波と確実に広がるグローバル化の流れは、これまでの学校教育のあり方にも大きな変化を迫っており、従来とは異なる21世紀型の「学ぶ力」が強く求められています。そのような意味でも、「教育を取り戻す」のではなく、「新しい教育を創っていく」というような未来志向のメッセージが欲しかったなぁと思うのは僕だけでしょうか。   ------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学と昭和女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------     2012年12月26日配信
  • 2012.12.26

    レポート第64号「東アジア軍事同盟の課題と展望」

    レポート64号本文 レポート64号表紙   第43回SGRAフォーラム 「東アジア軍事同盟の課題と展望」講演録 2012年11月20日発行   もくじ   【発表1】ポスト冷戦期における米韓同盟の持続と変化 朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院副教授)   【発表2】台湾内政の変動と台米同盟                     渡辺 剛(杏林大学総合政策学部准教授)   【発表3】ポスト冷戦期の米比同盟―引き続く過去と新たな脅威                     伊藤裕子(亜細亜大学国際関係学部教授)   【発表4】日米関係における「日米同盟」―過去、現在、今後―                     南 基正(ソウル大学日本研究所副教授)   【問題提起1】「同盟」を超える領土紛争の対応と連携~「尖閣諸島」における日米・中台の「協力」関係                     林 泉忠(琉球大学法文学部准教授)   【問題提起2】対テロ戦争にみる安全保障の新展開                    竹田いさみ(獨協大学外国語学部教授)   【パネルディスカッション】  
  • 2012.12.20

    エッセイ361:朱 暁雲「第2回SGRAカフェ『福島をもっと知ろう』へのお誘いに参加して」

    今西淳子さんのお誘いで、SGRAが主催するカフェに参加しました。その集まりは、「福島をもっと知ろう」というテーマで、 福島県飯館村で牛を飼い、米と野菜を作り、土から生まれる命を育てる「生業」を営んでいる菅野宗夫さんを囲み、彼の身に実際に起った様々な出来事に耳を傾けて、生の声を聴く会でした。そこには「福島」を知る為のスタディツアーに参加したSGRA会員の方々と、日本の大学で教壇に立っている会員の先生方の報告に触発された学生達が参加していました。「報道」として作られた情報ではなく、目の前にいる人の口から発せられる苦悩や訴えは、心に直接響きました。   2011年3月11日、東日本に大地震が起った日、私は上海にいました。日本のNHK国際放送の映像から見た、巨大津波に飲み込まれて行く漁港と市場、押し流される家々、自動車。遠く離れている日本の東北の東海岸で、現実に起っている映像をリアルタイムで観ていたときの驚愕を、今も鮮明に思いだします。此の時の、言葉がないテレビの実況放映は、その後に報道された現場からの「報道」よりも生々しく、強烈でした。巨大津波の映像は世界中の人々を震撼させたにちがいありません。世界の人達の目が、日本の東北地方の町や村に生き残った人達を見つめました。   日本から発信された様々なテレビ放送からの「情報」の一部を、中国のメデアが採り上げ、上海の地下鉄のプラットホームやバスの停留所、街角のモニターTVから、地震と津波で破壊された街や田畑の惨状と避難所に身を寄せて身内の安否を心配する人々の映像が、上海の街中に流されました。上海市民の殆どが毎日、強い関心をもって画面を見ていました。その時市民にとって最も印象的だったのが、被災地の住人達が、静かな表情でテレビのインタビューに応えていた時の「日本人」の表情です。惨事にも人間らしさを失わない日本人の「尊厳の高さ」に感じ入り、インターネットでは感嘆の念を表すメッセージが飛び交っていました。   福島の原子力発電所の爆発は、津波のニュースとは全く違い、「脅威」として受け止められました。放射能汚染が上海までやってくる、海水が汚染されて塩がなくなるという流言が、サイバースペースを飛び交いました。「福島」は放射能汚染の代名詞となり、直接の被害を受けた福島の住人の苦悩は殆ど伝えられていませんでした。爆発した原子力発電所が与える「脅威」そのものの方が、その脅威に晒されている住人達の苦悩よりも、遥かにニュースヴァリューがあるからでしょう。福島県飯館村の菅野さんの発言は、私にとって初めて、福島の住人の生の声を聞く機会でした。   壊れた原子力発電所から飛び散る放射能に、家族が一緒に住む家を、手塩をかけて育てて来た牛達を、そして何世代にも渡って耕し続けてきた田畑を、見捨てなくてはならない無念さを、私は初めて身をもって感じました。菅野さんのお話を拝聴し、私が最も感じいったのは、菅野さんが抱いている「土」への念いです。飯館村の豊かな自然の中で「土」に根ざした生活を営むことは、生きることであり、生きる喜びと感じました。飯館村をこの上なく美しいと憶う故郷の風景への愛が、私の心の奥にも生き生きと映りました。菅野さんだけではなく、被爆地域の多くの住民達が共有する想いである筈だと思います。   私は今、上海市の北を流れる長江の中の島、崇明島の将来のために何ができるかを考えています。崇明島は「生態島」と呼ばれています。中国の中央政府が、国家の環境改善対策と持続可能な発展のシンボルとして、過去十数年以上も押し寄せる経済開発の波を押さえてきました。「生態島」という旗のもとで、有効な対策が立てられないまま、開発から取り残されて来たことが幸いして、崇明島の広大な湿地帯は今、生態環境保全のための研究プロジェクトの機会を提供するところとして注目されるようになっています。此の島の東端と西端に広がる湿地には多種の野鳥が棲息し、アジア大陸の東岸を飛来する渡り鳥に休息の場を提供しています。崇明島が「生態島」として生き残れるためにすべきことは何か。これが私の課題です。   長江の汚染はニュースになりません。しかしその河口にある崇明島の水環境は近年著しく悪化し、湿地の生態系を脅かしています。野鳥が姿を消し、渡り鳥が来なくなる日が遠くないと心配です。このようなことにならないように、科学的データを蓄積し、分析して、効力のある警告ができるようにしなくてはなりません。その一方で、崇明島の地元で漁業、農業、牧畜業を営む人々が、水と土の汚染を問題とは考えず、自分たちも汚染をしていることを気に留めず、生きる為の生業を営んでいます。私の活動は、目には見えない脅威を共有し、持続可能な生態環境を育てるため、研究者と技術者が地元の人達と対話できる場をつくることを目的にしています。そのような「場」が、地方の行政を動かし、中央政府に届く声になることを夢見ています。どのような場合でも、顔と顔を合わせて話し合うのが、最良の成果を産むと信じています。    インターネットやマスメディアで得ることのできる情報は、そのままでは「知」として、思考の材料にはなりません。菅野さんは、ご自身の一家が四世代に渡って飯館村で農業と牛畜業を営んできた歴史を話してくださいました。彼の代になって、東京の銀座に安心できる美味しい食材を届けるようになり、新しい生活基盤をつくっていると語りました。そのお話の間で、何回も「自然の恵みに感謝しています。」と言っていました。原子力発電所の爆発によってその生活が断絶されたままになっている今、その感謝の言葉がより鮮明に「失われたもの」を浮き彫りにし、都会の消費者の意識を、生産者の心に結びつける力になるのではないかと、私は思いました。私がそう思ったのは、菅野さんが私の眼の前でお話ししてくださったからに違いありません。「福島をもっと知ろう」に参加したことは、マスメディアの波の中で虚像になってしまった「知」、「知ること」に意味を見つける機会になりました。   福島原発事故は、人類の貪欲な消費活動がもたらした自然破壊です。日本国民を始め、国際社会の多くの研究者や政治家や行政指導者達にも、深刻な社会問題としての危機感を触発しました。その一方で、飯館村の美しい原風景は、菅野さんの心の原風景であり続けると思います。この原風景が安全な美味しさを生み出す叡智となり、菅野さんと飯館村の村民達の共有財産になっていると信じます。アジアの諸国の人々にとっても、共有できる原風景は貴重な財産です。機会があればこの日の「集い」の感激を私は崇明島の関係者たちにも伝えたいと思います   ------------------------------------ <朱暁雲☆Zhu Xiaoyun> 中国北京出身。1981年日本留学。日本大学理工学部建築学科卒業。東京芸術大学美術学部科建築科修士修了。現在中国発展研究院長江流域可持続発展研究中心研究員。上海崇明島低炭素街づくり計画をテーマに活動中。 ------------------------------------     2012年12月20日配信
  • 2012.12.20

    エッセイ360:朴 炫貞「第2回SGRAカフェ報告:まずは知ることが大事な、福島飯舘村からのメッセージ」

    未曾有の東日本大震災から1年9ヶ月が経ちました。時の流れは早く、世間から311のことはもう忘れられているかのようにも見える今も、福島の問題は続いており、そこには奮闘している人々がいます。2回目を迎えたSGRAカフェは、『福島をもっと知ろう』というタイトルで、飯舘村の菅野宗夫さんをお招きし、飯舘村の話を直接聞いて福島の問題を考える<場>として企画され、12月6日に東京九段下の寺島文庫ミネルヴァの森で開催されました。   カフェでは、まず、10月に「飯舘村スタディツアー」に参加したシムさんをはじめとする参加者の話を聞きました。映像や話には、スタディツアーで飯舘村を訪ねた時に見た「現実」があり、実際に行かなかった人々にとっても心を打つ「何か」がありました。そこに人が居ることを忘れずに、直接その人たちと話して知ろうとする心が大切だという参加者の話によって、マスコミからの福島情報とはまた違う一面を知ることができました。   飯舘村スタディツアー報告の後、3階の講義室に移って菅野さんの話を聞きました。飯舘村は、東京のJR山手線の内側の3.5倍の面積があり、その内の75%が山という、緑の豊かな土地です。事故前の飯舘村は日本で最も美しい村のひとつに選ばれるほど自然環境に恵まれ、自然を土台にしながら、人間対人間の見つめ合いや対話、ふれあいを大事にする村でした。   しかし、大事にしていた自然との生活は、母なる地球の運動である地震や津波ではなく、それに続く原発事故という人災によって奪われてしまいました。原発から遠く、原発から何の利益も受けず、原発の影響など考えもしなかった飯舘村は、今では高い放射線量が測定され、計画的避難区域に指定されており、昼間は入ることができますが、泊まることは許されません。   震災の翌日の3月12日、原発に隣接する浪江町や南相馬市から1500人もの人たちが避難してきたので、何が何だかよく分からないまま、村中総出でお手伝いをしました。ヘリや車の往来が激しく、国道周辺に白い作業服がポイ捨てされている異常な様子がみられ、ものすごく恐ろしいことが起こっているという噂が広がったといいます。安全に対する無責任な発言が飛び交う中、3月18日から自主避難がはじまり、3月30日には「飯舘村は放射性ヨウ素131が避難基準の2倍」というIAEA(国際原子力機関)の発表がありました。それでも「人体には影響がない」という説明がされたりしていましたが、4月22日になって突然、公式に避難区域に指定されました。データに基づいて人間の健康を第一にしないといけないのに、早めの対応がなかったことは非常に残念に思っている点です。避難したといっても、生活の基盤になっていた畑や家畜は避難できない状態であり、まるで人生を奪われたようなものでした。   原発問題の最も恐ろしいことは、気持ちが一つになれないことだと菅野さんはいいます。福島においても溢れる情報の中、どの情報を信じればよいか判断するのが非常に難しいので、同じ村の中でも、様々な意見がでてきてしまうのです。その上、福島というだけで物が売れず、差別まで受ける状況は、問題の解決を遅らせる大きな要因になっています。 このような深刻な状況にも関わらず、今の飯舘村では「自分の村は自分たちで見守りたい」と、夜は無人になってしまう村の治安を自ら守る活動や、生き甲斐のために避難先でも農業を始めるなど、自分のところでできる努力をしているそうです。   今回のカフェには、40人を超える参加者がありました。特に日本大学、日本女子大学や専修大学からの20代前半の学生が多く参加したことが特徴で、活発な質疑応答も行われました。「これからの要望」、「福島を忘れないための試み」、「福島の人々におけるきれいなキャッチコピーに対する印象」、「選挙に対する考え」、「環境に対する意識」など、様々な側面からの質問や意見が出ました。このような質問に対して、菅野さんや「ふくしま再生の会」の田尾さんは、今日のような話し合いの場があることがとても大事であり、元気な姿で復興に取り組むのが表面だけにならないように、まずは現場を知ってから考えてほしいと話しました。2時間におよぶの熱い話において、菅野さんは最も大事なこととしてチャレンジ精神を強調しました。そして、「忘れ去られることとの戦い」に言及し、現場の声を聞かないと分からないようなことに接する努力をしてほしいと語りました。   「豊かな暮らし」というものは、環境や文化、人々の価値観よって違うでしょうが、飯舘村は自然との豊かな暮らしが美しく調和されていた村という印象を受けました。いつ元の生活に戻れるのか分かりません。戻れないかもしれません。しかし、時は過ぎていきますが、今も飯舘村の問題、福島の問題は進行中です。今私たちにできることは、福島を忘れることなく、常に意識をおいて知ろうとすることからはじめ、皆で考えることから変化の風が起こると考えます。菅野さんは「皆との出会いが幸せだ」と何回も言いました。 菅野さんに出会えたことを私たちも幸せに感じられたのは、今でも元気で前向きに人々との出会いを大事にする菅野さんのエネルギーに刺激を受けたからではないでしょうか。人とのふれあいを大事にし、豊かな自然と暮らした飯舘村の美しさを忘れないことが、まず私たちにできることであると、しみじみと感じました。   尹飛龍さんが撮影した当日の写真   飯館村スタディツアー報告   ------------------------------- <朴炫貞(パク・ヒョンジョン)☆PARK Hyunjung> 韓国芸術総合大学芸術士、武蔵野美術大学修士。映像作品制作とともに映像を用いたワークショップ・展示を企画・実施している。 -------------------------------     2012年12月20日配信
  • 2012.12.05

    エッセイ359:オリガ・ホメンコ「バロック美術品を救った先生」

    数ヶ月前にテレビのニュースでウクライナの有名な美術館の館長が交通事故で亡くなったと知り、強いショックを受けた。リビフ美術館の館長だったボリス・ヲズニツキ先生、86歳だった。最後まで自分で運転をしていて、あちこちに出かけていた。その日は暑い日だったが、運転中の交通事故で亡くなったのだろう。   去年、先生とお会いする機会があった。背が高くてスラッとした体で、エネルギーが溢れている方だった。ヲズニツキ先生は50年前から多くの美術品を収集し保存に努めていたが、ある彫刻家の作品に夢中になり、一生をかけてその人の作品を探し続けた。その彫刻家は、18世後半に西ウクライナで活躍したヨハン・ゲオルグ・ピンゼリで、「ウクライナのミケランジェロ」とも呼ばれている。ソ連時代には宗教が弾圧されていて、教会は破壊されたり、倉庫にされたりした。昔の教会にあったルネサンスやバロック時代の美術品は宗教と一緒に捨てられた。暖房用の薪にされないために、ヲズニツキ先生は、そのような美術品を守ろうとした。1960年代から90年代まで、ヲズニツキ先生が副館長だった美術館のトラックを使って、壊された教会から、また破壊させられた墓地から、昔の彫刻家が作った彫刻やイコンなど、数多くの美術品を救い、自分が働いていた美術館の倉庫に隠していた。美物館を管理する上司から「宗教関係の粗大ゴミはもう持って来るな」とも言われたが、彼は止めずに密かに持ち帰って隠した。   ピンゼリの作品は、その中でも特別で、先生は一生をかけて探した。この彫刻家がどこで生まれ、どこで亡くなったかさえも分からない。名前からすればおそらくウクライナ出身ではない。だが彼の偉大な作品は西ウクライナで作られた。彼は謎の人物であり、神話の人物でもあるのかもしれないと思われたこともあった。記録がないので、ドイツ、イタリア、ポーランド、あるいはチェコからの旅人とも思われていたかもしれない。   最近の研究によれば、彼はおそらく1740年代半ばに西ウクライナのリビフ市の美術を支援していた、風変わりなお金持ちのミコラ・ポトツキの所に招待されて、そこで制作をしていたと考えられている。謎の人物ではなく、本当に存在していた人間であるという記録がいくつか見つかったのだ。この時代に残っているものは、教会に残る出産、結婚、死亡の記録に限られる。先ずは、リビフ市の聖ユーラ教会の彫刻を作った時に、その制作費が支払われたという記録。それから1751年5月3日に、未亡人マリアンナ・ケイトワと結婚し、2人の息子、ベルナルド(1752年)とアントン(1759年)が生まれたという記録。しかしながら、次の記録は、マリアンナが1762年10月に「未亡人で再婚した」という記録である。これにより、ピンゼリは、彼の下の息子が生まれた1759年とマリアンナが再婚した1762年の間に死亡したということになる。   彼の人生についての記録はあまりに少ないが、作品はいくつか残っていて、今でも美術家に注目されている。なぜなら、同時代のヨーロッパのバロック時代の建築や彫刻には、まだ、ピンゼリの作品ほどドラマティックなものはなかった。そこが面白いところなのだ。彼は初めの頃は、石像を作っていた。しかし、木像の方が有名である。教会が破壊されても、残って有名になった作品はほぼ木からできたものである。300年もの長い年月を経ても変形しなかったのは、ひびが入りにくく、かつ柔軟性のある菩提樹を素材としているからである。彼の彫刻の特徴は衣装のダイナミズムやドラマ性である。衣がとても悲劇的に身体を覆っており、この像が教会で祈る信者の前にあったと想像すると、非常に印象的なものであったに違いない。彼の作品には、イエスキリスト、アブラハム、マリア、聖ヨアキム、聖アンナなど、聖書をもとにしたモチーフが多い。   ウクライナが独立するまで、その作品は全てリビフ美術館の倉庫で眠っていた。独立後にヲズニツキ先生はリビフ市にピンゼリ博物館を設立させた。そこに28点のピンゼリの作品が展示されている。この10年の間に、ピンゼリは注目を浴びるようになった。数年前リビフ州は「ピンゼリの年」を定め、この彫刻家の作品やその歴史について、いくつかの展覧会が開かれた。2010年、ウクライナの郵便局はピンゼリのマリアと天使の切手を発行した。中央銀行は5グリブナのピンゼリ記念コインを5千枚も発行した。また2人の作家が、彼の人生や作品をもとにした小説を書いた。さらに、数種類の画集や写真集も発行された。そして今、以前「粗大ゴミ」とも言われたピンゼリの作品のために、ルーブル美術館で特別展が開催されている。ヲズニツキ先生の努力が報われた最高の結果でもあるといえるだろう。残念なことに、先生はそれを自分の目で見ることができなかった。   しかしながら、これからも、先生が救った美術品が、世界中で多くの人々の目を喜ばせることになるだろう。   ピンゼリの作品 ルーブル美術館の展覧会   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活動中。2005年 藤井悦子さんと共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行。 ------------------------------------  
  • 2012.11.28

    エッセイ358:韓玲姫「講演会『日英戦後和解(1994-1998)』報告」

    2012年度の「渥美奨学生の集い」が2012年11月1日午後6時より、渥美国際交流財団ホールにて開催されました。31名の出席者を迎えた本年度の集いは、渥美伊都子理事長の開会の辞に続き、ゲストの元駐カナダ、パキスタン大使、在英特命全権公使の沼田貞昭様に「日英戦後和解(1994-1998)」という社会的に関心の高いテーマで大変貴重なご講演を頂きました。   本講演会は、沼田元大使の経験談を交え、第二次世界大戦後日本がいかに英国と和解に向けて取り組んできたかを主題とした、とても興味深い内容でした。沼田大使はまず、戦後処理について法的処理から謝罪、そして和解という三つの側面から概観した後、1991年から1994年まで外務副報道官として在任中、海部俊樹総理大臣のシンガポールでの演説(1991年5月)から、細川護熙総理大臣の所信表明演説(1993年8月)に至る間の、侵略行為や植民地支配などに対する総理大臣、官房長官の「反省」から「お詫び」への経緯について述べました。そのうえで、90年代になって英国との和解が主要争点となったのは、日本では、太平洋戦争の責任について未整理のままで、国内の「ベルリンの壁」を抱えたまま戦後50年を迎えたことと、アジアの問題としてとらえがちで、米英蘭等の元捕虜・民間人抑留者問題は大方の意識に上がらなかったとの解釈を示しました。   沼田大使はまた、1994年から1998年まで在英日本大使館に在任中、日本政府と民間の対応を中心に「恨みの噴出から和解」を成し遂げた事例を詳しく説明しました。対日戦勝50周年を迎え、1995年年頭より英メディアに対日批判が溢れ、英国政府はVE Dayに独伊の首脳を招いたのに、VJ Dayは英国国内及び英連邦中心の行事として日本の要人が招かれなかったことを挙げ、1945年に戦争が終わり帰国した際に「忘れられた軍隊」として英国国民から冷遇されたビルマ戦線の英国軍将兵の「恨みの噴出」を英国政府とメディアが受け止めたことを指摘しました。そして、8月15日に「村山談話」が発表され、それが英国人捕虜をも対象とした閣議決定に基づく日本政府の公式な謝罪となり、それが契機となって英メディアの対日批判が静まったと説明しました。また、和解に向けての対応は政府だけでなく、民間においても行われたことを強調しました。即ち、1990年に英国に「ビルマ作戦同志会」が設立され、日本全ビルマ作戦戦友団体連絡会議と相互訪問したことや、1997年2月に日英双方の有志・家族等36人がビルマで合同慰霊祭を行ったこと、さらに、サフォーク州の高校日本語教師であるMary Grace Browning女史と英国在住の日本人である恵子・ホームズ女史の和解活動等を挙げ、日英の和解の輪が政府だけでなく、民間、そして個人へと広がったことについて詳しく説明しました。一方で、沼田大使はBBCテレビ、ラジオ、民放テレビに積極的に出演して説明したことや、1997年10月5日にコベントリー大聖堂での英米日の和解の式典に参列したこと、そして、1998年1月9日の自らの離任レセプションに100人を超える元捕虜、和解関係団体代表、日英交流関係者が参加してくれたこと等を挙げ、自ら英国和解に関わったことについてお話をされました。   そして最後に、日英戦後和解は成功したのかについては、全体として良好な日英関係の中で位置付けられると指摘しました。   講演終了後、会場からは「戦後日英和解がなぜ90年代になって争点となったのか」、「日本の昭和史を見直す必要があるのでは」という意見と、地理的に遠い英国とも和解を果たしているので、尖閣諸島、竹島等の問題で緊張が高まっている隣国の中国、韓国ともねじれた関係が克服できるだろうとの感想が寄せられました。政府、民間、個人の努力により成し遂げられた「日英戦後和解」を通して、今後の日中、日韓の和解の行方を考えさせられる、とても有意義なご講演でした。 講演会終了後、引き続き同会場において親睦会が行われ、渥美国際交流財団評議員で日本プロテニス協会理事長の佐藤直子様の乾杯の発声により開宴されました。当日は中華料理を楽しみながら、ゲストと出席者達と様々な話題で盛り上がり、交流を深めました。   当日の発表資料 English Translation   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ ☆ Lingji Han)> 中国吉林出身。延辺大学外国言語学及応用言語学修士号取得。現在筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程在籍。2012年度渥美財団奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。 ---------------------------------------     2012年11月28日配信
  • 2012.11.21

    エッセイ357:デール・ソンヤ「ふくしまから帰ってきた私の素直な感想」

    豊かな緑。素晴らしい景色。朝の散歩をしながら、ふくしまが私のノルウェーの実家を思い出させ、懐かしい気持ちいっぱいで新鮮な空気を贅沢に深く吸い込んだ。ノルウェーの実家は、ライカンガー(Leikanger)という小さな村で、今回訪問した飯舘村と同じように農業が主な産業である。人口が少なく、各住宅は広く、隣家と距離がある村である。そのライカンガーで、私は毎日山の豊かさと孤独さを楽しんでいた。今でも懐かしく思い出すし、すぐに帰りたいという思いはずっと心の奥にある。 ふくしまにいた間に、複雑な気持ちを抱いたことはたくさんあった。まずは、人がほとんどいなかったこと。特に飯舘では、ふくしま再生の会のボランティア以外はひとりも見かけなかった。素晴らしい緑を一人占めできたが、今はそのような場合ではない、という現実をすぐ思い出した。ふくしま再生の会の代表の田尾さんの案内で、飯舘の空気、土、植物等の放射線量を計り、ここは人が住める場所ではないということを理解し合った。しかしながら、「住めるか住めないか」という問題だけではない。最初の夜に泊まったふくしま体験スクールで、ご主人の酒井徳行さんの話を聞いた。原発事故の影響で農業ができなくなったせいで、生活のことが不安になり自殺した農業者が、その小さい村にもいた。原発の問題は、「生きるか生きられないか」、もしくは「生きたいか生きたくないか」という問題でもある。 おひさまプロジェクト、いいたてカーネーションの会、いいたてホーム、ふくしま再生の会。ふくしまの再生のために、頑張っている方々の話をたくさん聞いた。絶望的な状況の中で、ふくしま、友達、自分、みんなのために明るい状況を作ろうとしている人々である。放射能の恐れで若者と子供がほぼ全員いなくなった村では、孤独さ、寂しさ、絶望に毎日襲われているのだろうが、私たちが出会った皆さんは、とても元気で、精一杯頑張っている。尊敬せざるをえない。 ふくしまから東京に帰った夜に、友達と夕食をして、私のふくしまの経験について話した。一人の友達が、「福島に行ったら、きっと自分の無力を感じるようになる」と言った。ふくしまのために、何かしたいが何もできないという思い込みは、珍しくないと思う。私も、その気持ちがよくわかる。しかし、この機会に、ふくしまのためにできることについて、少し考えてみたい。 ふくしまの住民の声を聞いている時に、「政府に頼れない」というセリフが、何回も繰り返された。この気持ちはふくしまの住民に限らず、日本の国民全体に広がっている感覚だと思う。政府を信用できない、政治家が市民のことを考えていない、日本の政治はもうダメ、というような意見は、様々な場面で聞こえる。そして、政府に頼れないと思っているから、選挙で投票しない。政治に興味を持たない。このような態度は、特に日本の若者の中で非常に明らかである。しかし、政府が国民のためにあるものでなければ、何のためにあるのだろう。また、政府に信用がなくても、政府の決めたことはみんなの生き方や生活に影響する。例えば、ふくしまの場合だと放射能の危険レベルや、どこの地域を立入禁止にするかなどは政府が決めることだ。 ふくしまにいた間に、一番印象的だったことは若者や子供がいないことだった。そして、お年寄りも自分の家に居られないことだ。人生の価値についての話に入るつもりはないが、放射線の影響は、すぐにわかるものではなく、何年かたってからその結果がでる。もしそういうことだったら、お年寄りは、自分が生きている間にその影響を受けないだろう。そういうことだったら、危険でも、自分が居たい場所に居ていいんじゃないか、と私は心の中で思っている。しかし、立入禁止区域は個人の決定ではなく、政府が決める。 私は、ふくしまのためにできることは、政治に興味をもつ、ということだと考えている。「日本が沈まないように強いリーダーが必要」という意見が最近よく耳に入る。しかし、私はそう思わない。それより、ちゃんと人の話を聞くリーダーが必要ではないか、と考えている。 30歳に近づいている私は、まだ「若者」だといえるだろう。そのため、周りにいる「若者」の政治や他人への無関心さがとても気になる。原発の問題や、政治の話などに全然興味を持っていない若者が、たくさんいるように思える。自分の生活に関わっている問題なのに、どうして興味を持たないのか、私にとって謎である。考えない、あるいは無視する方がきっと楽だろうが、やはり考えてほしい。自分の周りにいる、苦しんでいる人々、または自分の生き方に影響すること、ちゃんと考えてほしい。もっと、目と心を開いてほしい。 少しおおざっぱな感想だが、ふくしまにいた間の複雑な気持ちが、東京に帰ってからの欲求不満に飲み込まれて、周りの無頓着な学生たちを見ると毎日いらいらしている、ということである。ふくしまスタディ・ツアーは、大変良い経験だった。ぜひ、皆さんも、一回だけでも行って、ふくしまの人々と話してみてください。 スタディ・ツアー「飯館村へ行ってみよう」報告 ---------------------------------------- <デール、ソンヤ Sonja Dale> 上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士課程。上智大学比較文化研究所リサーチ・アシスタント。ウォリック大学哲学学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士。2012年度渥美財団奨学生。 ---------------------------------------- 2012年11月19日配信
  • 2012.11.14

    第2回SGRAカフェ「福島をもっと知ろう」へのお誘い

    第2回SGRAカフェは、福島県飯館村の菅野宗夫様に、日本で一番美しい村が原発事故の後どのようなことになったのか、10月のスタディツアーに参加したSGRA会員との対話形式でお話しいただきます。福島は現在本当はどうなっている?避難された人々の生活は?ふるさとは再生できる?いつ帰れる?という素朴な質問にお答えいただけると思います。 ●日時:2012年12月6日(木)午後6時30~9時30分 ●会場:寺島文庫1階みねるばの森 東京都千代田区九段北1-9-17 寺島文庫ビル1階 九段下駅(5番出口)徒歩3分 ( Tel: 03-5215-2950 ) ○会費(ビュッフェの夕食付):SGRA会員・学生は1000円、非会員2000円 ○準備の都合がありますので、参加ご希望の方はSGRA事務局へお名前と緊急連絡先をご連絡ください。 SGRA事務局: [email protected] ○スタディツアー参加者からひとこと 「百聞は『一会』にしかず。是非ご一緒に福島の今を考えましょう!」(シム) 「メディアでふくしまについて色々聞いたあなたへ。メディアではなくちゃんとふくしまの人の話を聞きましょう。何もしないまま「何もできない」とはいえないでしょう。」(ソンヤ) 「福島=日本の再生に期待していますから、是非来てください!」(陳景揚) 「山重水復疑无路,柳暗花明又一村(陸遊「遊山西村 」)(于暁飛) (「山が重なり、川が入り組んでいて、もう道がない、もうだめだと思いきや、進めるだけ前へ進んでいるうち、急に道が開けて、柳もこんもりと茂げ、花が咲き乱れ、桃源郷のような村が すぐそこにあった」という意味です。絶望な環境に置かれても、諦めないで前へ前へ、そのうち苦境を乗り越える!)
  • 2012.11.07

    第1回SGRAスタディツアー「飯館村へ行ってみよう」報告

    今回のSGRAフォーラムは、スタディツアー(福島被災地訪問)という特別プログラムとして、2012年10月19日~21日(2泊3日)に行われました。東京から貸切のマイクロバス1台で約4時間かけてJR福島駅に着き、そこで東京からの田尾陽一さんと金沢から来た私(李鋼哲)が合流し、車内で弁当を食べながら、さらに2時間近くかけて相馬市に行きました。   参加者はSGRAらしく、韓国からわざわざ来日した2名、シンガポール、ノルウェイ、台湾、中国出身の会員、渥美財団関係者など総勢14名でした。「構想アジア」研究チーム(チーフ:李、顧問:平川均名古屋大学教授)が形式的にではあるものの本企画を担当することになりました。   今回のスタディ・ツアーは、「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご協力を得て、福島県相馬市と飯館村を主な訪問地としました。同会は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体として、昨年6月の設立以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。   「ようこそ!福島へ」とは言われても、原発事故で放射能被害が深刻な福島に足を運ぶのはなかなか勇気が要るものです。私も「参加する」と答えたものの、「放射能は大丈夫だろうか」と不安を感じました。妻は「遺言書でも残していってらっしゃい」と冗談半分で言いました。   福島駅のバス停留場で、田尾さんより放射線量計測器(自己開発制作したもの)を配っていただき、駅周辺の放射線量を測ったら、0.28マイクロ・シーベルトでしたが、この線量がどの程度のものであるのかさっぱり分からないのでドキドキしました。田尾さんは物理学が専門であり、かつて広島で被爆した経験があるだけに、理論的にも実践的にも放射線の人体に対する影響などに非常に詳しい方なので、彼が案内するところだったら大丈夫だろうと思いました。   福島駅から相馬市に向かってバスで走行する途中、休憩所で地元名物のアイスクリームをみんなで食べながら、草の生えているところで放射線量を測ったら、なんと最高は(福島駅に比べると10倍以上も高い)3.2マイクロ・シーベルトまで上昇し、みんな一瞬緊張が高まりました。ちなみに、国際基準では、「事故などによる一般公衆の1人の年間被曝量は1ミリ・シーベルト=1000マイクロ・シーベルトを超えないように」となっており、実はほとんど影響がないそうです。   バスは引き続き走り、相馬市に着きました。相馬市は海岸地域であるために地震と津波の被害を受けましたが、福島原発からは約50キロ離れており、放射線の影響はそれほどなく、原発避難指定地域から大勢の避難者を受け入れていました。   相馬市で我々を迎えてくれたのは、「おひさまプロジェクト」代表を務める大石ゆい子さんでした。元気ハツラツな方で、被災者達を支援する活動をしている小さなアパートの事務所に我々一行を案内してくれました。そこは被災者達に元気になってもらうための教室で、様々な活動をしているということでした。   そこで橋本経子さん(ホリスティック・アドバイザー)が、自分の病弱体験を踏まえて避難生活者達に行っている心理的なケア活動について紹介してくれました。橋本さん自身が、被災者達の辛い立場を十分理解し、命の危険を冒してまで、避難地域の被災者の自宅まで一緒に立ち入り、必要な家財の整理や墓参りなどを手伝ったとの、感動的な物語を聞かせてくれました。そこは放射線量が80マイクロ・シーベルトの危険地域だったとのことでした。避難した人たちは家族がばらばらになって県内や県外で避難生活を送っているケースが多く、「一日も早く復興して帰郷したい」という気持ちだということがよく分かりました。この教室で約1時間半、地元の人々のお話を聞き、質疑応答もしました。   その後、またバスに乗って海岸地域の被災地を見学しました。地震や津波被害で多くの建物は破壊され、流されたその惨状は目を覆いたくなるひどいものでした。テレビで見るのとは違い生々しい光景で、それを見ていた参加者の心情を想像していただけるでしょう。   夕方まで見学した後、バスに乗って隣の伊達(だて)市霊山(りょうぜん)の山中にある「福島ふるさと体験スクール」に向かいました。この施設は子供達に自然と農業、伝統的な生活体験をさせる目的で、2年前に東京の高校の校長をしていた酒井徳行さんが私財を投げ打って作ったのですが、原発事故で子供達が来られなくなり、我々「大きな子供」達が泊まることができたのです。   心をこめて用意された美味しい夕食を食べながら交流会が行われました。大石ゆい子さんと河北新報編集委員の寺島秀弥氏さん駆けつけて夕食懇親会に参加しました。自己紹介の後、大石さんが「おひさまプロジェクト」について紹介してくれました。   このプロジェクトは、「健康や癒し」をキーワードに食事や運動とグリーン・ツーリズム、エコ・ツーリズムを取り入れた体験滞在型の「までい流ヘルス・ツーリズム」構築を目指し、新しいライフスタイルの振興を行うことで、QOL(生活の質)の向上を図ることを目的としています。健康、食、環境が共存できる広域的で新鮮な地域活性化事業に取組み、地域が自立できる<場>を構築し、活力ある地域社会を実現するために、同じ志を持った仲間で立ち上げたものです。   飯舘村の人々は原発事故の被害に立ち向かって一所懸命闘っています。彼らは「までいの力」(「までい」とはこの地方の方言で、「両手を動かして頑張れば、いかなる困難も乗り越えられる」との意味)を発揮し、「までいの精神」でふるさとの再建に立ち向かっています。その精神に感銘を受けました。   翌朝、宿泊施設を後にして飯舘村に向かいました。途中で飯舘村農業委員会会長の菅野宗夫さんが乗車し、我々を案内してくれました。最初に被災者の仮設住宅(福島市松川工業団地敷地内)を訪問しました。仮設住宅に住んでいるのは、ほとんどシルバーの方々で、老人村のようでした。避難した人々はここで一応安定した生活を送っているようですが、精神的・心理的にはますます不安な状況とのこと。これからどうなるのか?ふるさとに戻れるのか?など心配する毎日を送っているとのことでした。   そこで数名の方から避難生活に関するお話を聞きました。「いいたてカーネーションの会」というNGOの代表佐野ハツノさんは地元で被災者支援活動、心理的なケア活動を精力的に行っている様子を聞かせてくれました。住民のおばあさんたちが、寄附してもらった着物の生地を使って、洋服や様々なグッズを作って販売しています。この事業によって、おばあさんたちの目が輝くようになったとのことでした。   しかしながら、地元の皆さんの訴えの多くは、「国や政府が充分な対応をしてくれない」、「世間はもう自分達のことを忘れている、報道にも出ない」、「早くふるさとに戻って平常の生活をしたいのに、何も起こらない」などでした。政治家、官僚やマスコミに対する怒りがかなり貯まっている様子でした。   気持ちが重くなる言葉を心に刻みながら、我々はバスで全村計画的避難区域の飯館村に向かいました。この地域は、住民は昼は入ることができますが、泊まることはできません。線量計の放射線量は徐々に上がりました。飯館村の南にある立ち入り禁止区域の前のゲートまで行き、そこで全員バスから降りました。周辺の放射線量を測ったら最高31マイクロ・シーベルトまで上がりました。皆さん少し緊張した表情をしながらも、写真を撮ったり、警備員に話しかけたり、平静な雰囲気を演出していましたが、バスに戻ってそこから離れると皆ほっとした表情で、「ここまで来たのだからもう怖くない」という感じでした。現場を体験すると勇気も倍増するようでした。   引き続き飯舘村役場近くにある特別養護老人ホーム「いいたてホーム」に行きました。そこの休憩室で弁当を食べ、施設長の三瓶政美さんのお話を聞いた後、施設見学と隣接している役場見学をしました。80名あまりの老人が介護施設に入っており、避難指定地域ではあるが、地元の行政の判断と国の許可を得て全員避難せずにいるとのこと。従業員は施設や近くに住むことができず、全員が避難地域外から車で長時間をかけて毎日出勤せざるを得ない、という厳しい状況でした。   最後の訪問地は菅野宗夫さんの自宅がある山村でした。宗夫さんの自宅は「ふくしま再生の会」の現地事務所になっています。近くの田圃や畑には田尾さん達が作った飯舘村再生モデル事業の「イネ栽培実験田」があり、実験用で栽培した稲が田圃に干されていました。この稲は放射線量がたくさん含まれているので、「一粒とも残さず国に納めよ」という国の指示があるそうです。サツマイモの実験畑も見学しました。このモデル事業は、田圃や畑などの放射線量を常時計測しながら除染作業を進めていき、何年かかるかは分かりませんが、村人達が戻って来て自分の家と土地でかつての平穏な生活と農業ができることを目指しているとのことでした。   宗夫さんの自宅は、事務所としてだけではなく、線量計設備(田尾さん達が手作りした)が配置され、簡素な設備ではあるが立派な実験室のようでした。そこで色々なデータを計測し、データ分析する大学や、国内外に向けてインターネットメディアを通じて発信しています。そこで我々はこたつを囲んでお茶を飲みながら宗夫さんのお話を聞きました。理路整然と被災地の現状、国の対応、地元の対応などについて説明してくれました。「原発事故は福島だけのことではない、日本のことであり、アジアのことであり、全世界のことである」、「この事故で世界が教訓を汲むべき」と強調しました。だからこそ、地元の現状を常に世界に向けて発信することが必要なのです。   「我々SGRAのメンバーとして、福島被災地のために何ができるのか」、参加者は皆、見学しながら常に考えていましたが、「世界に向けて日本に向けて発信して原発事故を忘れさせない」、「原発事故の被害について考える」ことが我々の役割ではないか、と考えるようになりました。   飯舘村を後にして、バスは宿泊地の霊山紅彩館に向かいました。立派なリゾート宿泊施設で、霊の宿る山の中にありました。入浴後、2回目の夕食と懇親会がありました。菅野宗夫さんも後を追って参加してくれました。ここでも宗夫さんと田尾さんのお話を聞き、参加者全員が感想発表をしました。2日間、参加者は貴重な体験をしながら、地元の人々や支援者達のお話を聞き、強く胸を打たれました。「福島を永遠に忘れることはできない」というのが参加者共通の思いでした。   翌朝は宿泊地を後にして、伊達市保原歴史文化資料館を見学しました。東北の藩主伊達家の歴史について勉強するよい機会でした。養蚕で財をなした旧亀岡家住宅も大変素晴らしく、東日本大震災でもほとんど無傷だったという明治時代の洋風建築に見とれました。1時間ほどの見学後、バスは福島を後にして東京に向かいました。   「福島よ、忘れさせない!」   スタディ・ツアーの写真   (執筆および文責:李鋼哲 [SGRA構想アジア研究チームチーフ、北陸大学教授] )       2012年11月7日配信
  • 2012.11.01

    エッセイ356:今西淳子「Y先生へ」

    Y先生、   先日はわざわざご丁寧にお電話をありがとうございました。 勿論、こういう時にこそ中国で開催することに意義があるというご意見は全く正しいと思います。そして、上海で開催できなくなる確率はかなり低いと思いますし、国家主席が交代すれば、政治も落ち着くだろうという大方の予測も、おそらく正しいのでしょう。   しかしながら、95%の確率で開催できるとしても、日本やタイで中止せざるを得ない事態に陥る可能性は、それよりも遙かに低いです。たとえ、今後、政治情勢が落ち着いたと見えるようになったとしても、根本的な問題は何も解決されておらず、日本の政権が代わると状況が変わるかもしれませんし、もし何かを勘違いしている誰かが中国を刺激する発言をした時に、中国政府はまた強烈な攻撃を開始するでしょう。実際、複数の中国人の仲間から、9月の中国政府の対応や言説が文化革命当時を思い出させると聞きました。今までとは少し違うという印象を、私は持っています。   9月に北京とフフホトで開催するはずだったSGRAフォーラムをあっけなくドタキャンすることになってからは、いつ同じことが起きるかわからないと感じています。パートナーの開催大学の担当者は、大学が「幹部の勧告」を受けた時に、為す術がありません。「申し訳ありません」と言われた時に、私は何と答えればいいのかわかりませんでした。大きな流れに巻き込まれてしまった個人に迷惑がかからないことを最優先に対応する以外に何もできないのです。「勧告」は突然(前回は3日前)起こりえますし、起きてから対応するのでは遅すぎます。第一回アジア未来会議には、既に350名を越える方に登録していただいていますから、予定通りに確実に開催することが、私たちの責任だと思います。   実は、今回、早目に手を打ってアジア未来会議を上海からバンコクに移そうと思いついた時、解放感を感じました。もう政府の許可をとる必要がない、政治的な、あるいは歴史問題がテーマのセッションを開催しても、開催大学に迷惑がかからないだろうかと心配する必要がないと。そもそも、自分が信じた公益活動を遂行するために、自分で資金を工面して活動するのが、民間の公益法人です。日本政府の補助金を受けずに、政治や宗教から独立して自由に活動することを信条としているのに、時代錯誤の文化排除政策をとる中国政府の様子を伺いながら活動しなければならないのでしょうか。そのようにしてまで開催することが「日中友好」だとしたら、それは何を目指しているのでしょう。交流事業ができたことがニュースになること自体の滑稽さを皆が認識するようになるために、SGRAは何をすればいいのでしょう。   ここ数年、(日本人の中にも多くいますが)中国人の留学生たちから、「日本のメディアなどは言いたい放題で自由すぎる。もっと国が管理すべきだ」というような言説を聞くことがあり、ずっとひっかかっていました。もしかすると、欧米の過剰で乱暴な人権活動の反動があるのかもしれませんが、何か、世の中全体で、自由とか民主主義に対する感性が鈍ってきているようにも思います。しかしながら、中国版ツイッターでは、今回の反日デモに対して批判の声が圧倒的だということです。大勢の中国の人たちがもっと冷静に物事を見ていると想像するのは、それほど難しくないでしょう。今深刻なのは、民意の問題よりも、システムの問題なのではないかと思うようになりました。領土「問題」については、政治の場で時間をかけて議論すれば良いのではないですか。領土問題によって、関係国の国民の毎日の生活が左右される必要はないのです。増してや、情報を管理したり、人々の交流や自由な議論の場を制限したりしてはいけないのです。   アジア未来会議は、中国に限らず、アジア、あるいは世界各国から、日本で勉強した人、日本に関心がある人が集まり、アジアの未来を語る<場>を提供することを目的としています。中国政府の管理下でできることからやっていくよりは、もっと自由に開催できる場所で、勿論たくさんの中国人研究者にも参加していただいて開催したいと思います。   タイで開催する大きな理由は、地理的にも比較的アクセスが良いこと、ビザの手続きが非常に簡単であること、開催コストが安いことなどです。今回の移転を打診するとタイの皆さん全員が「それは良いアイディアだ!」と歓迎してくれました。   微笑みの国タイで、アジア未来会議をスタートすることをご理解いただき、引き続きご支援ご協力いただきますよう、お願い申し上げます。   渥美国際交流財団関口グローバル研究会 代表 今西淳子   2012年11月1日配信