SGRAかわらばん

  • 2018.07.26

    エッセイ576:フーリエ・アキバリ「大切なものを与えてくれた日本」

    私が3歳のとき、父の留学のため家族全員で日本に来ました。その時に、今でも忘れられない思い出があります。それは小学校3年生の時、初めてスカーフを被った日のことです。昨日までは、他の子供達と同じような恰好で学校に通っていましたが、9歳の誕生日を迎えた私は、イランの風習で大人の女性の仲間入りをしたのです。その日からは大人の女性として、様々な点を気にしなければなりませんでした。母のように外出するときは、髪の毛や肌を隠し、決まった時間にお祈りをするなど、生活には多くの決まりが加わります。   「9歳の私に、それも自分の国ではなく日本でそのようなことができるのだろうか?」と不安になりました。なぜなら、家族はこれまでも日本で生活をする上で、習慣や宗教の違いから様々な問題に直面していました。そのたびに父は周囲の日本人に相談をしては、助けられていました。きっと、親切な日本人の助けがなければ、その時点まで来られなかったでしょう。   自分の信念を大事にしていた父は、9歳の私にもその教えを守ってほしかったことと思います。しかし、どのようにすれば私が傷つけられずに、いじめられずにこの道を乗り越えられるのか。両親は悩み考えた結果、いつもお世話になっていた担任の先生にこの問題を相談しました。その結果、先生の考えで私のために特別に全校集会を開き、父母と弟を学校に招待してくれました。   最初に私の担任の先生ともう一人の先生が生徒全員の前に立ち、スカーフを被ったのです。「先生は今、スカーフを被っていますが、何も変わってませんよ、先生はこれまでと同じ先生です。明日からフーリエちゃんもスカーフを被って学校に来ますが、何も変わりません。同じフーリエちゃんですよ」と言ってくれたのです。そして、私を呼び、スカーフを被らせてくれて言いました。「明日からフーリエちゃんは、大人の仲間入りをしますが、これからもみんなのお友達です!何も変わりません!これからもフーリエちゃんとお友達でいてくれる人?」、すると全生徒がいっせいに手を挙げてくれたのです。   次の日からは、いじめられるどころか、すっかり学校の人気者になっていました。私に、「自分らしくいること」、「自分の考え方に自信をもって発言すること」を教えてくれ、勇気をくださったのが日本人のみなさんでした。今でもこの思い出は、私の一生の宝物です。今の自分が自分らしく堂々としていられるのは、あの日の先生方とみんなのお陰であったといっても過言ではありません。   日本での素敵な思い出を胸にその2年後、家族全員でイランに帰りました。その後も、日本に対する愛情はずっと変わりませんでした。そして「いつか自分の力でまた日本に留学する」と決心していた私は、29歳の時に博士課程習得のため文部科学省の奨学生として再来日することができました。あの時から20年・・それも、当時父の留学先の千葉大学に入学しました。   博士課程の2年生のある日、午後家に帰ろうとした私は大学の正門前で見覚えのある人を見かけたのです。少し近づいてみると、当時の小学校の校長先生でした!!!私は勇気を出し、校長先生に声をかけてみました!当然、20年後の私を知る由もない校長先生に当時の話をしたら、覚えていてくれたのです。その後、校長先生のおかげで、感動と勇気を与えてくれた担任の先生にも連絡が取れ、お会いすることができました。   もしあの時の、父の決断そして先生たちの判断がなければ、自分は違う経験をし、違う生活をしていたかもしれません。自信をもってきちんと自分の信念や想いを伝えることの大切さ、そしてそれを理解しようとする思いの重要さ、それがあれば平和や幸運をもたらせることを実感することができました。   今回の留学でも私は多くの素敵な日本人と留学生に出会い、大切なことを学びました。 それは、国境や言葉、宗教などとは関係なく、私たちは人間として互いにとても理解しあえるのだということ。そして余談ですが、日本が私に与えてくれたもうひとつの大切なものが、コスタリカ人の夫です。世界の反対側にここまで自分の考え方に近い人がいる、同じ価値観を持つ人がいるということを学びました。   私に大切なことを教え、大事なものを与えてくれた日本に感謝の気持ちでいっぱいです。   <フーリエ・アキバリ Hourieh_Akbari> 渥美国際財団2017年度奨学生。イラン出身。テヘラン大学日本語教育学科修士課程卒業後、来日。2018年千葉大学人文社会科学研究科にて博士号取得。現在千葉大学人文公共学府特別研究員。研究分野は、社会言語学および日本語教育。研究対象は、日本在住のペルシア語母語話者の言語使用問題。       2018年7月26日配信  
  • 2018.07.19

    エッセイ575:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮(3):宗教的主体性」

      「私の日蓮(1):日蓮研究に至った背景について」 「私の日蓮(2):日蓮の多面性」   〇「思想史的研究」と「宗教的注釈」との違いについて   日蓮宗の宗派と教団は大きく2つに分けられる。   ひとつは、日蓮宗の日興門流から派生した宗派と教団で、いわゆる「富士門流」である。今日その流れを受け継いでいる教団では日蓮正宗と創価学会が数えられる。基本的に日蓮の正体を、多くの大乗経典でいう「仏」、すなわち永遠な存在として扱っている。そのため、筆者が研究している日蓮の「写本遺文」(「日蓮遺文」の40%)のような、後代の弟子たちに偽造されたかもしれない文献でも、日蓮と同じ精神性を示していると思われるなら、直ちに彼自身に帰せられても問題ないという立場に立つ。   だが、この主体性を前提に「思想史的研究」を行えば、「思想史的研究」よりも「宗教的注釈」になるのではないかと考えている。「宗教的注釈」ならば歴史を超えた「何か」、たとえば永遠な存在としての日蓮の精神性に拠ろうとしても、それはそれで問題ないかもしれない。だが、「思想史的研究」は「思想史」すなわち「歴史」でないといけないので、歴史を超えていると思われる「何か」を基準に進んでいくのを避けなければならない。となれば、研究は歴史を超えた普遍性という幻想を諦めたところで仮言的言明にとどまり、「疑い」であり続けるという「科学性」を有しなければならないことになる。   上記以外の宗派と教団とは、「身延門流」を指している。日蓮を基本的に「仏」ではなく、「人」として扱っている。「人」として扱い、研究をすれば、筆者が研究している「写本遺文」のような、日蓮という「人」自身のものではないかもしれないという文献の「日蓮らしさ」を「疑う」のは一見妥当であろう。確かに、多くの写本遺文は室町期で支配的だった天台思想の影響下で偽作された可能性がある。だが、「日蓮の真作かどうかはわからない」「後に他の思想の影響下でつくられた偽作なのかもしれない」と歴史学的に「疑う」ということが、宗教的にも「信じてはならない」という立場に突然飛んでいくことになれば、大きな問題が出てくる。   「疑う」という点では上述の教団のような主体性を前提とする試みよりはもう少し科学性を示しているかもしれない。しかし、その裏にはまた護教的で宗教的な「何か」、すなわち鎌倉期の他の仏教思想などに対して日蓮の「純粋さ」を護ろうという目的が潜んでいる点では、日蓮の出発点としての歴史的背景との不可避な影響関係まで完全に無視してしまうことになる。そのため、「思想史的研究」よりは結局、「富士門流」とは違う形であれ日蓮の歴史性を超えようとする「宗教的注釈」に再び偏ってしまうのではないかと考えている。   〇「主体性」の選択について   宗教は己の都合のために、科学だろうとなんだろうと、何を活かそうとしても問題はないのかもしれない。仏教はある時点から確かに「富士門流」と同じような主体性で、仏滅の数百年後に現れた大乗経典を「仏」に帰せて受け容れたのだから、今度は科学思想まで受け容れて、活かそうとしても問題ないのかもしれない。だが、宗教は歴史性と理性の世界を超えようとする。対して、科学は基本的に理性の活動であり、「過去の無知から現在の研究へ、そして現在の研究から未来の進歩へ」という方向性のある時間、すなわち「歴史」の中で己を根強く位置付けている。そのため、とある文献の救済力まで測定できる計算機が存在するかどうかはっきりしない限り、歴史的かつ科学的に「偽作」だと言っても、宗教的かつ救済論的にも「信じてはならない」、要するに「人を救う力がない」というようなことになることは一切ないであろう。   以上の理由を踏まえて、日蓮遺文の「思想史的研究」をするのであれば、日蓮をひとまず「歴史的人物」として扱うのが最も妥当であり、その点では「富士門流」のような主体性は乗り越えるべきであると考えている。だがそれと同時に、日蓮の歴史性まで完全無視してしまったときの「身延門流」のような主体性をも乗り越えなければならない。「宗教的主体性」については以上である。(つづく)   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。博士論文を修正中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2018年7月19日配信
  • 2018.07.12

    エッセイ574:陳龑「アニオタからアニメーション史の研究者へ」

    (私の日本留学シリーズ#24)   「日本語の専攻でもなく、日本語学校に通ったこともありません。アニメを見て日本語を覚えました。」最初に日本へ来た時、これが私の定番の自己紹介でした。大学1年生の時、学生寮で海賊版アニメの「名探偵コナン」を見ていて、10分も経ってから突然あるセリフが分からなくなってはじめて、「あ、中国語の字幕がついてない」と気づいたのを今でも覚えています。いつの間にか聞けばわかるけど読み書きはできない日本語の「文盲」になっていました。それから日本語をまじめに勉強するようになったのです。   「平成生まれ」と同じように、中国では「八〇後」という世代があります。この世代は様々な特徴が指摘されてきましたが、「日本のアニメと優秀な中国のアニメの両方を見て育った」という代表的な特殊性は意外と注目されていません。私の親の世代は日本映画とドラマの「大熱愛世代」と言われ、日本でも研究されていますが、私が所属する「八〇後」は日本のメディアに注目されたものの、アニメの側面は殆んど語られていません(私の世代の後は中国の良い作品がなくなり、日本のアニメだけを見る世代もいましたが、2004年頃からは海外アニメがテレビで見られなくなって、ようやく最近になり少し柔軟になったのです)。   実際、「アニメ好き→日本文化に興味を持ち始め→日本で生活してみたい→日本留学」と、私と同じような道を辿ってきた中国人留学生がたくさんいます。正直なところ、最初日本語を自分で勉強しようと思ったときの目的は、字幕・翻訳なしで原版のアニメとマンガが理解できるようになりたかっただけでした。でも日本のコンテンツを見れば見るほど、作品の中で描かれた世界、様々な中国にない文化風習に憧れて、もっと知りたくなってしまいます。これが日本アニメとマンガの最大の魅力であり、その産業が国家のソフトパワーになれる理由でもあると思います。   なぜ日本ではいつも高校生が世界を救う?学園祭にはなぜ女装する男性が必ずいる?日本人が犬より猫を好きな理由は?ダメ男が主人公で素敵な女の子たちに愛されるという設定が主流になれる社会背景は?日本に来る前に、すでに頭の中で質問が溢れていました。高校時代は理系で、学部時代はマーケティング専攻で、文系研究に対する概念が全くなかった私はまだ知りませんでした――まさかこれらの正直な問いが「研究動機」になりうることを。   「Interest is the best teacher.(好奇心は最良の教師なり。)」この名言は昔から聞いていましたが、まさかアニメに対する情熱が研究につながるとは思わなかったです。アニメ研究はやはり日本でこそ成立する研究領域です。最初に日本語を独学し始めたときには絶対想像できなかったでしょうね、字幕なしでアニメをみたい気持ちが、20万字の日本語の博論を支えるなんて(笑)。   アニオタ(アニメーションのオタク)からアニメーション史の研究者に変身(或いは進化?)。これが私の日本留学です。   <陳龑(ちん・えん)Chen Yan> 北京生まれ。2010年北京大学ジャーナリズムとコミュニケーション学部卒業。大学1年生からブログで大学生活を描いたイラストエッセイを連載後、単著として出版し、人気を博して受賞多数。在学中、イラストレーター、モデル、ライター、コスプレイヤーとして活動し、卒業後の2010年に来日。2013年東京大学大学院総合文化研究科にて修士号取得、現在同博士課程に在籍中。前日本学術振興会特別研究員(DC2)。研究の傍ら、2012~2014年の3年間、朝日新聞社国際本部中国語チームでコラムを執筆し、中国語圏向けに日本アニメ・マンガ文化に関する情報を発信。また、日中アニメーション交流史をテーマとしたドキュメンタリーシリーズを中国天津テレビ局とコラボして制作。現在、アニメ史研究者・マルチクリエーターとして各種中国メディアで活動しながら、日中合作コンテンツを求めている中国企業の顧問を務めている。       2018年7月12日配信  
  • 2018.07.05

    エッセイ573:楊冠穹「わたしはここにいる」

    (私の日本留学シリーズ#23)   12年前、新卒として就職したばかりの私は毎日ラッシュアワーに満員の通勤バスに乗って、黄浦江を渡る大きな橋の上で渋滞に耐えていた。イヤフォンで音楽を聴きながら、渋滞がなければ10分間の道のりが1時間もかかる毎日を過ごしていた。決して仕事の内容が退屈とか、そういうことではなかったが、ただただ、人生が囲まれているように感じていた。どこかに突破口を開きたかった。   「五月にある人は言った。誰もが未来を求め旅立って、結局、生まれた場所に帰っていくのだと。」これは、テレビドラマ『東京タワー』のセリフである。このドラマを見ていて、初めて東京タワーが「東京タワー」であることを知った。そして自分の人生、夢を見つめ直した。行きたい、そのシンボルに向かって。   でも、人間は馴れた場所から離れると、ようやく気づくのだ。自分自身は誰なのか、どこから来たのか、を再確認する。外国で生活する人にとって、「郷愁」は常に伴う言葉なのだろう。私もそうだった。バイト帰りの夜はいつも空を見上げて、明るい月の下で、「私は何をしている?」、「何のためにここにいる?」、と自分を問い詰めていた。その答えは、今の研究にある。   その時から故郷の上海に注目し始め、上海出身の作家を研究テーマにしようと思って、進学先を探し始めた。偶然、東大中文研究室のホームページで授業案内を目にした。そこには、当時中国で人気だった女性作家の安妮宝貝(アニー・ベイビー)の作品を対象とした「原典を読む」という講義があった。   驚いた。まさか同時代の上海の文学が日本の大学で紹介されているとは、それまでまったく思いもしなかったからだ。この出会いをきっかけに、「日本で中国現代文学を研究する」という周りから不思議に思われる決断をした。   今年で日本に来て10年目に入るが、その9割は東大中文研究室にいたと気づいた。このような自分にとって、故郷への愛情は研究テーマにも繋がっており、まさに研究者になりたい源泉なのである。外から見る風景と、中にいる時の風景は違う。しかし、その違いにきっと何か意味があるに違いない。   2011年、東日本大震災。当時就職するつもりだった私は、すべての計画が狂ってしまって、とても就活を続ける状況ではなかった。これもまた偶然と言えるのではないだろうか。日本ドラマに惹かれて来日した自分が、まさか博士課程に進学する日が来るとは思ってもみなかった。人生を変える大きな選択だった。   2012年、博士課程に進学。この年は中文にいる中国人留学生にとって特別な年だった。世界レベルの中国人映画監督、張芸謀の初監督作品は『紅いコーリャン』という映画だが、この映画の原作『赤い高粱』を書いた作家、莫言が2012年のノーベル文学賞を受賞したのだ。しかしながら、同時に、私にとってはこれまでの人生の中で最も落ち込んでいた時期を迎えた年でもあった。   博士課程に入ってから、最初の学会論文採用まで、3年待った。同時代文学研究には実証性と批評性が必要だが、ほとんどの文学研究者は前者を重視している。同時代文学は先行研究が少なくて批評になりがちなので、実証性が足りないと思われている。有名な教授が書いたものなら話は別だが、大学院生の論文になると、実証性の低いものは学術として認識されないことが多い。そのため、批評性に実証性の不足を補うだけのものがあっても、なかなか採用されない。まして、今現在の新しい文学を研究すること自体が、いったい研究する価値のあることなのかも問題なのである。急速に発展する中国文化の事情に関して、日本の学術界はあまりにも関心が薄い。   少額の奨学金しかもらえない、それでバイトをしなければならない、研究もなかなか認めてもらえない。博士課程の最初の3年はそういう時期だった。でも、「Show_must_go_on」、ショーは続けなければならない、今立ち止まったら、そこで終わりが来てしまう。そう思って、とりあえず走り続けようと自分に言い聞かせた。走り続けたら、いずれゴールにたどり着く。   2015年1月、学会投稿論文に取り上げた作品がアメリカで有名な翻訳者によって英訳された。夏には『すばる』に同作品の邦訳が掲載された。そして、何よりも論文が採用された。それまではこのテーマで博士号を取れるかどうか、ずっと懸念を抱いていたが、これでほっとした。「ラッキー!」と思いながら、よく考えてみると、研究はやはり運ではない。どうして他の作家や作品ではなく、「これ」を選んだのか、そこにはきちんと裏付けがあった。   ふと思えば、親に「いつ卒業できるの」「いつ就職するの」と聞かれる日々の中、自分を疑うこともあった。それでも自分を信じて人生を歩んでいきたかった。他の誰でもない、ここにいるのは「わたし」なんだから。それに、「わたし」が他のどこでもない、「ここ」を選んだのだから。   卒業することはきっと終点ではなく、新たなスタートになる。今後の人生も、自分の心の声にしたがって生きていきたい。   <楊冠穹(よう・かんきゅう)Yang_Guanqiong> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。中国出身。華東師範大学卒業後、電通広告勤務。2018年東京大学人文社会系研究科アジア研究専攻にて博士号取得。現在東京大学総合文化研究科学術研究員、北京語言大学東京校非常勤講師。研究分野は、中国現代文学および社会文化。     2018年7月5日配信
  • 2018.06.28

    江永博「第7回SGRAふくしまスタディツアー『<ふるさと>に帰る』報告」

    2018年5月25日、私は東日本大震災の翌年の2012年から毎年原発事故の被災地である飯舘村を訪ねている渥美国際交流財団SGRAスタディツアーに参加し、福島に向かった。   2泊3日のツアーでは、「ふくしま再生の会」の理事長田尾陽一さんの案内で、村役場をはじめ、未だに帰還が禁止されている区域である長泥のゲート、牛の放牧実験場、花のハウス栽培とメガソーラーがある関根・松塚地域、飯館村の信仰の中心とも言える山津見神社などを見学し、再生の会と村の方々のお話を伺い、田植えを体験した。震災の日から7年の歳月が経った今、被災地の復興、飯舘村の再生は如何なる状態なのか、私がこの3日間、目にしたもの、体で感じたことを文字で表してみたい。   福島駅からマイクロバスに乗り換え、通称中村街道の国道115号経由で、飯舘村に入った。面積の7割が山林の飯舘村の景色は、とても被災地とは思えないほど美しく、空気も非常に綺麗である。昨年(2017)3月に飯舘村に対する避難指示が解除されたが、原発被害の爪痕はまだ残っている。その代表的なものが除染の「副産物」=除染土のフレコンバックのピラミットである。過去にもツアーに参加したことのあるメンバーの話によると、前は真っ黒なフレコンバックのままのピラミットであったが、今はグリーンのシートに覆われているため、景観的にピラミットの威圧感が少し緩和されたようだ。   また、同じ景観的な意味合いで、景観作物の栽培という新たな試みも行われている。現段階は外で避難生活をしている人々が再び戻ってくれるための景観の「再生」であるが、将来的には観光または販売も視野に入れているそうである。再生の会福島代表の副理事長であり、佐須行政区長でもある菅野宗夫さんによると、震災後、園芸を含む畑作、牛の放牧と太陽光発電の売電は再生のための三大柱である。太陽光発電は言わずもがな、一見震災前と変わらない畑作と放牧も、ビニールハウスにおける遠隔操作や放牧実験中の牛の人工受精など現在最先端のICT技術が導入され、再生の道は一歩一歩着実に前へ進んでいると見受けられた。   こうした状況の中、飯舘村が直面している課題を取り上げたい。まず、私にとって今回のツアーで一番印象に残ったのは、現在再生可能エネルギー資源として注目を浴びている太陽光発電設備のメガソーラーである。私の出身地台湾では、東日本大震災の前からすでに原子力発電に反対する声があり、震災後の原発事故の影響で原子力発電を廃止すべきという主張が主流になった。その結果、もともと2011年に運転開始を目指していた第四原子力発電所は2015年に正式に凍結された。原子力発電の代わりに、現在注目されているのは太陽光・風力・水力などの再生可能エネルギーである。しかし、今回のツアーで実際にメガソーラーを目の当たりにし、今までなかった印象を受けた。平野一面に広がるメガソーラーは壮観で迫力があるが、その大部分は周りに鉄フェンスと関係者以外立ち入り禁止の看板があり、周りの景観に融け込めない異様な風景という印象が非常に強かった。   再生の会と村の方々のお話を聞くと、理想的な太陽光発電は売電目的ではなく、コミュニティー使用が中心であり余った分だけ売電する形であるが、現在飯舘村の場合は、まだ村に帰還する人口が少ないため、このような状態になった。畑作として使わないまたは使えない土地を活用するために、再生可能エネルギーのメガソーラーの設置は一つの方法かもしれないが、村の風景に融け込まない鉄フェンスに囲まれたメガソーラーのままでは、村にとって貴重な自然景観が少しずつ外来の資本により蚕食されるような気がしてならない。外来資本の投資は非常に重要であるが、村を主体として考えず、資本主義至上の外来資本をそのまま不用意に受け入れたら、村にとって最終的には相容れない癌のような存在になってしまう恐れもあるのではないだろうか。飯舘村におけるメガソーラーはすでに目立つ存在になった。この目立つ存在を如何に工夫し、村に融け込ませ、村の風景の一部にするかは重要な課題だと考えられる。   メガソーラー以外、震災前から引き継いできた全国各地方と共通する課題は、人口の過疎化と高齢化である。これらの問題を解決するために、平成30年度から飯舘村は移住・定住支援事業を展開している。「10年間住めば、1区画200坪の分譲地を無償で譲渡」、「500万円までの住宅新築費用を補助」、「2年間新規職業に就くための活動支度金の支給」など非常に魅力的な内容であり、村はこの事業に力を注いでいる。   また、すでに避難先で新しい仕事と生活をはじめ、帰村しない人あるいはできない人のために、佐須行政区地域活性化協議会は、様々なイベントを企画し、ボランティア・学生・外国人・移住検討者などの人々との交流を通し、当地の歴史と文化を継承し、新たな地域づくりを図ろうとしている。こうした実質的な移住支援と人との交流による歴史・文化の継承=「心の故郷作り」が同時に推進され、飯舘村だからこその特徴=「飯舘村色」が見つけられたら、村は「再生」に止まらず、さらに一歩前に進む飯舘村の「新生」も期待できると思う。村の「新生」への期待を込めて、これからも飯舘村を見守っていきたい。   スタディツアーの写真     <江永博 CHINAG_Yung_Po> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。現在早稲田大学大学院文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文執筆中。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。       2018年6月28日配信  
  • 2018.06.21

    第11回SGRAカフェ「日中台の微妙な三角関係」へのお誘い

    SGRAでは、良き地球市民の実現をめざす(首都圏在住の)みなさんに気軽にお集まりいただき、講師のお話を伺い、議論をする<場>として、SGRAカフェを開催しています。下記の通り第11回SGRAカフェを開催しますので、参加ご希望の方はSGRA事務局へお名前、ご所属と連絡先をご連絡ください。   ◆林泉忠「日中台の微妙な三角関係」   日時:2018年7月28日(土)15時~16時半 会場:渥美財団ホール http://www.aisf.or.jp/jp/map.php 会費:無料 参加申し込み・問合せ:SGRA事務局 Email:  [email protected] Tel: 03-3943-7612   チラシ(PDF版)   講師略歴: 林泉忠(リン・センチュウ Lim Chuan-Tiong) 台湾中央研究院近代史研究所副研究員、国際政治学専攻。2002年東京大学より博士号(法学)を取得、琉球大学法文学部准教授、またハーバード大学フェアバンク・センター客員研究員などを歴任。2012年より現職。著作に『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス:沖縄・台湾・香港』(単著、明石書店、2005年)。   講師からのメッセージ: 李克強首相の訪日により日中関係が暫く良好な方向に向かう見通しなので、2年前の蔡英文政権の発足で「黄金期」を迎えたと期待される日台関係は難しい段階に入ると思われます。そもそも日中関係と日台関係はどのような関係にあるのでしょう?中国にとっていわゆる「台湾問題」は対日関係に影響する3大要因のひとつであり、日本にとっての中国は経済上の最大のパートナーで最も重要な対外関係のひとつです。他方、日本と台湾は国交がないにも関わらず、互いに親近感が最も高く民間関係は最良な状態が続いています。さらに、日本でも注目される中台関係はよくも悪くも日中関係にも影響を与えています。いったい、複雑で微妙な日中台三角関係をいかに捉えればよいのでしょうか。 皆さんと一緒に考えてみたいと思います。    
  • 2018.06.14

    エッセイ572:金跳咏「日本刀工房に弟子入り」

    (私の日本留学シリーズ#22)   日本刀は日本国内を超え、全世界的に有名である。素敵な形のみならず、強くて折れない高度な性能が世界的に認められたからだ。しかし、「日本刀はどのように作られるのか」と聞いても詳しく答えられる人は意外と少ない。ここでは日本人なら誰でも知っていながらも、意外に詳しくは知らない日本刀、そして6ヵ月間過ごした日本刀工房での経験について少し話したい。   刀に関心を持つようになったのは、韓国の大学で考古学を専攻してからである。学部4年生の時に卒業論文テーマを何にしようか悩んでいた時、指導教員から派手な装飾で飾られた裝飾大刀を研究してみないかという提案を受けた。三国時代(韓半島に高句麗、新羅、百済が競合していた4-6世紀)に製作され、古墳に副葬された裝飾大刀の研究を進めつつ、自然と刀に関心をもち、結局修士課程まで大刀の研究が続いた。しかし、学部・修士課程で進めた裝飾大刀の研究は、素直に言うと、刀身そのものに関する研究というより刀柄に関する研究であった。1500年前に製作された「装飾」大刀は、その名称からも分かるように、刀柄に龍、鳳凰を金、銀、銅などの貴金属を使用して華やかに完成される。私をはじめとする古代刀の研究者たちは、刀身より刀柄を集中的に研究しているのだ。   しかし、殺傷という刀の本来の目的を考えると、大刀研究の核心は刀身にあるといえよう。「どうすれば刀身の研究ができるだろう」という悩みに対する解答は、修士課程を卒業する頃突然に訪れた。東京工芸文化研究所の鈴木勉先生から連絡が来たのだ。国立九州博物館との共同プロジェクトで福岡県宮地嶽古墳から出土した7世紀代の大刀を復元するが、研究員として参加しないかというお誘いであった。私の日本留学は、このメール1通から始まった。   工芸文化財研究所に到着した日が2013年3月20日、東京から福島市立子山にある日本刀工房を訪ねたのが27日。来日してから東京にいた時間は僅か1週間だけであった。当然ながら日本語も下手だったため、日本刀工房での生活はすべてのことが予想外だった。振り返れば、日本刀のみならず、日本文化や日本語などについても全く知らなかったため、却って勇気をもって工房に行くことができたのかも知れない。   工房での生活は極めて単純である。朝6時に起き、工房を掃除する。工房や庭の床を掃き、ほこりが飛ばないように水をまく。終わったら師匠が使用する道具を整理する。朝7時30分に朝食をする。朝食が終わったら皿を洗い、ゴミを分別する。朝9時から午後5時半までが仕事である。毎日、仕事は異なるが、刀製作に必須である炭を切る作業が多い。師匠が刀を作るときは、補助の仕事を手伝う。昼食は、午後12時から1時まで。日課を、このように整理すると、簡単なように思われるかもしれないが、それが言葉のようには簡単でない。ほとんど力仕事であるため、肉体的に容易なことではない。   日本刀の製作工程を簡単にまとめると以下のようになる。材料は玉鋼(たまはがね)だ。たたら製鉄によって作られた玉鋼は、純度が非常に高い良質の鉄である。適当量の炭素が含まれ、焼き入れ(熱処理)によって高性能の刀を製作することが可能である。丈夫であり、折れない日本刀の秘訣は、この玉鋼という優れた素材にある。刀を製作するのに重要な作業の一つが、玉鋼を炭素量ごとに分けることである。玉鋼内には、炭素量が多い部分(高炭素)と少ない部分(低炭素)がある。高炭素の玉鋼は、焼き入れによって硬くなるが、低炭素の玉鋼は焼き入れ効果が効かない。ゆえに、高炭素の玉鋼は刀の刃に、低炭素の玉鋼は刀身の背中に使用する。   このように玉鋼に含まれた炭素量を区分するため行う作業を「水べし」と「小割り」という。次に、炭素量ごとに分けた玉鋼を鍛える。炉で加熱した玉鋼を数回折り、組織を均一にする。この工程を「折り返し鍛錬」という。その後、折り返し鍛錬した高炭素の玉鋼で、低炭素の玉鋼を包み込むようにするが、この工程が「造り込み」である。「造り込み」によって高炭素の玉鋼が刃に、低炭素の玉鋼を背中に配置される。こうやって合わせた鋼塊を鍛造して刀身のように延ばすが、この過程が「素延べ」である。「素延べ」で長い棒の形になった玉鋼に刃を立てる「火造り」を行う。刀の形になると「焼き入れ」をする。焼き入れとは、真っ赤に焼けた刀を水などに入れ、一気に冷やすことである。焼き入れによって刀身内にマルテンサイトという組織ができ、刀として機能を果たすことができるようになる。   こうやって完成される刀の長さは、普通1m前後である。しかし、私が参加して作った宮地嶽古墳の刀は全長が240cmに達する。6ヵ月にわたって復元した刀身に柄や鞘まで組み合わせると3mを超え、長さでは日本一である。復元した大刀は現在、九州国立博物館に展示されている。片手では振ることさえできない3mの大刀を、1500年前の九州の人々はどうして作ったのだろうか。おそらく武器よりは祭りに使用されたのではないだろうか。   福島で過ごした6ヵ月間の刀身製作の経験は、以後、日本で留学を決める決定的なきっかけとなった。博士課程で進めた金工品も、鉄製工具を使用して製作するため、日本刀工房での経験は研究の重要な土台となった。   日本刀工房で学んだのは、単に刀の製作技術だけではない。一生何かにはまって生きること。朝から晩まで、ひたすら刀を作り続けることに集中する「刀鍛冶」の精神である。もしかしたら忙しい現代を生きていく私たちに必要なものかもしれない。発掘現場で見つかる遺物を作った昔の人々も、「刀鍛冶」のような心構えであったのであろう。   <金跳咏(キム・ドヨン)Kim_Do-young> 2017年度渥美奨学生。韓国出身。専攻は考古学。2013年度来日。2018年総合研究大学院大学文化科学研究科博士号取得(文学)。現在、国立歴史民俗博物館外来研究員     2018年6月14日配信  
  • 2018.06.07

    エッセイ571:林泉忠「日台関係は日中関係に従属するのか?」

    (原文は『明報』(2018年5月14日付)に掲載。平井新訳)   10項目の協力協定に調印するだけでなく、天皇陛下や安倍晋三首相との会見を特別に調整したのも、日本が中国ナンパー2の訪日を重視していることを示すためであり、安倍首相自ら、李克強総理の北海道訪問に全スケジュールを同行する力の入れようであった。前例のない空港での見送りまで行い、中国の歓心を得ようという露骨な「親中劇」を演じてみせ、その待遇は、まさに日本の最重要同盟国であるアメリカのトランプ大統領訪日に匹敵するレベルであった。   ○台湾は「結局は日本に捨てられる」のか?   安倍首相が、なぜここまで心を砕いて、李克強に破格の高待遇を行ったのか、それはここ数年来の日中関係の発展と安倍政権自身の目論見と関係があるが、これについては別稿で論じる。興味深いのは、北京で交わされている台湾に関する世論の中に、「最も親日」の台湾は「結局は日本に捨てられる」とか、「一番損するのは台湾だ」云々といった種の論調が見受けられることだ。これが中国のネット住民達の自らの立場に基づいた自然な反応であるとすれば、それほど気にする事もないかもしれない。しかし、少なくない中国の対台湾政策の専門家がこうした世論に同調しており、これはおそらく北京の日台関係の本質と構造に対する正確な理解と判断に影響を与えることになるだろう。   ここで問題となるのは、日中関係と日台関係の間は、いったいどのような関係にあるのかということである。北京における政権のブレーンや専門家の基本的な認識は、「日台関係は日中関係に従属している」というものである。この見方は相当程度、「台湾は中国の一部であり、中国の一部としての台湾と日本の関係は、日中関係と同等な関係であり得ない」という思考に基づいている。ここでしばらくポリティカルコレクトネスから離れ、客観的に考えれば、こうした認識は必ずしも正しいとは言えないだろう。なぜなら、台湾の対外関係は完全に北京の対外関係に制約されているわけではないからである。   たとえ台湾の外交空間が頻繁に北京の圧力を受けるとしても、いかなる理由であれ、台湾が一定程度の活動空間を維持しているというのは事実である。輝かしいとは言えない18の「外交関係国」及び、中国大陸をはるかに凌ぐ139カ国以上のビザ免除待遇以外に、さらに重要なのは、たとえ国交がなくてもアメリカ及び日本と緊密な関係を維持し続けているということである。アメリカを例にとれば、「台湾関係法」がまったく動揺することなく40年近く継続されているだけでなく、最近では、さらに台湾との関係を強化する「国防授権法案」と「台湾旅行法」が登場した。これは、台湾の対外関係が完全に北京の制約を受けているわけではないことの証である。日台関係もまた同様で、双方の関係は日本が1972年に北京を選択したために台北との断交とあいなったが、それでも日台間で現在までに調印した協定は61項目に上る。   李克強の今回の訪日日程の成功は、日中関係が、経済貿易関係を含め、尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる衝突により最悪の状態となった2012年より前の水準にまで完全に回復したことを象徴する出来事である。このような日中関係の全面回復が、日台関係の発展にとってプラスとなるか否かは、検討に値する問題である。   ○日台関係の「黄金期」はすでに過ぎ去った?   両岸(中台)関係と日台関係の関係について、日本の学者の間で多く見られる一つの認識とは、「両岸関係が良ければ、それは日台関係にとっても良いことだ」というものである。この認識における基本ロジックは、両岸関係が良好な際、北京側は台湾による対米及び対日関係の強化の動きを「大目に見る」というものだ。馬英九は、自らの政権8年の間に日本と28項目の協定に調印した。その中には影響の大きな「日台漁業協定」や「日台租税協定」なども含まれ、こうした認識の由来を窺い知ることができよう。   こうした考えについて、筆者はその一定程度の有効性は否定しない。一方、中国の台頭以後、両岸関係のパワーの差は日増しに大きなものとなっており、アメリカ側においても日本側においても、台湾海峡のパワーバランスが崩れることへの戦略上の焦りが存在している。蔡英文総統の就任以後、北京側は蔡英文政権が「92年コンセンサスを承認しない」ことへの不満から、軍事的にも外交的にも、さらには民間交流においても台湾に圧力をかけ続けている。このことによって、アメリカが台湾との関係の強化策を次々と打ち出す情勢を生み出し、「国防授権法案」及び「台湾旅行法」以外にも、台湾側に「国産の潜水艦」を建造するために必要な技術協力等の提供を許可している。   言うまでもない事だが、日台関係に影響を与える要素と米台関係に影響を与える要素は異なる。戦前の台湾植民地統治という「原罪」から、日本にはアメリカのような「台湾関係法」の成立を欠いており、また46年前の日華断交ならびに北京との「国交正常化」以後、台湾との関係の処理において、日本側は非常に慎ましく、北京との約束を遵守して台北との「民間交流」という枠組みを維持しており、台湾との政治的な関係の強化はたいへん厳しい道のりとなった。そしてさらにデリケートな安全保障上の日台協力となれば、最近までほとんど空白状態といわざるを得ないだろう。   しかし、中国の台頭に対する不信と台湾海峡におけるパワーバランスの崩壊に対する憂慮は、特に1960年代以来日本の歴代の政権の中で最も親台湾派の安倍首相就任以降、日本側は台湾との関係強化の機運に明確な転機が見られるようになったと言える。たとえ、日本にとって台湾側が完全に安心できる相手とは言えなかった馬英九政権期ですら、馬政権が完全に「中国へ傾倒」するのを防ぐために、双方の関係強化への尽力は忘れられることはなかった。   そして2016年蔡英文政権が発足してからは、日台関係は数十年に一度の「黄金期」を迎えたといえる。日本は蔡英文政権時代に対し高い期待を抱いてきた。台湾側が日本食品輸入制限の解禁に関して取り付く島もない対応を見せている間であっても、日本は北京からの圧力を押しのけて「交流協会」を「日本台湾交流協会」へと改名し、また赤間二郎総務副大臣を台湾に派遣し、断交後初の副大臣級の日本官僚による訪台を行うなどしているのがその証左である。しかし、日中関係が昨年後半から明らかに穏やかな兆しを見せ始めた状況において、今後はこうした台湾との政治的関係強化の措置は停止されてしまうのだろうか。   ○日台関係は日中関係に従属するのか?   日中関係は今般の李克強の訪日後に全面回復の機運を得ることとなった。特に、安倍首相は今年後半に中国訪問を期待しており、さらには来年6月に開かれるG20サミットに習近平国家主席を招待し、国賓としての習の来日を待望しているとされる。日本がこうした「中国を求める」機運の下で、台湾との政治関係のさらなる発展を模索し続けることはないだろうと予測するのは難しくない。   しかし、このことは双方の実質的関係に全く発展の余地がないことを意味しない。「敏感ではない」経済貿易関係や地方交流および文化交流をさらに継続して進めていく以外にも、「敏感」な問題である安全保障分野を切り拓いていく余地はあるだろう。日台関係は国交がなくとも、共に東シナ海の側に位置しており、「不測の事態を防ぐ」ために、双方の専門家は安全保障分野における対話の必要性を認めるだろう。ちょうど5月に成立した台湾国防部直轄の「国防安全研究院」が、日本防衛研究所などとの間に制度化した「日台安全保障対話メカニズム」を発足させることは想像に難くない。   東アジアの両大国である中国と日本の関係は、現在のところ全面的回復という歴史の転換点にあり、そのことは東アジア地域の平和と安定にプラスであることは疑いようもない。しかし、日中互いの国家戦略は決してそのことで変化するというわけではなく、習近平の「新時代」における中国の「グローバルガバナンス」思想を反映する「一帯一路」が依然として進展しつつあり、日本側の中国への牽制を主軸とした「インド太平洋戦略」も変わらずに続くだろう。民主主義を拒絶する中国の台頭に対する不信と、両岸統一が日米の国益にそぐわないというアジア太平洋戦略の方向に関する基本的な思考枠組みに基づけば、日中関係は確かに「小春日和」を迎えたと言えるものの、そのことによって日本が台湾との「民間交流という枠組み」の下での親密な友好関係の推進を変えたり疎かにしたりすることを意味しない。この点を理解すれば、日中関係と日台関係の間は単純な従属関係ではないことが理解できるだろう。   <林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。       2018年6月7日配信  
  • 2018.05.31

    エッセイ570:イザベル・ファスベンダー「『ホーム』とは何か?」

    (私の日本留学シリーズ#21)   実は、このエッセイで何を書けばいいのか長い間想い悩んでしまって、言葉がまったく浮かんでこなかったので〆切をかなり押してしまった・・・。何となく、今までの、自分の日本での経験について書きたいと思い始めて筆をとった。決して難しいテーマではないはずだけれど、自分の今までの日本での経験を、なぜか、なかなか言葉にできない。このエッセイを10回ぐらい書こうとしても紙の白さに変わりはないのはなぜ?   私が日本にいるということ自体が、「留学」という範囲を大幅に越えてしまった気がする。日本とは私にとって一体何だろうか?と思ってしまう。日本における経験について再考察することは自分の「ホーム」はどこにあるのか?という自分のアイデンティティを考える、とても難しい問いにぶつかる。だから簡単に言葉にならなかったのではないかと今更ながらに気付いた。   日本に「ゲスト」として滞在するという新鮮な気分はもう全くない。そして、出身地であるドイツに一時帰国する際には、毎回カウンター・カルチャーショックが大きく、自分はもうその土地の人間ではない、母語にすら自信がないという不思議な気分になる。友達と話すときに急に日本語になったり、スーパーのレジでお辞儀をして変な目で見られたり。20年間あの街に住んでいたのに、自分が宇宙人であるかのような疎外感を感じる。他方、日本でも宇宙人であることに変わりはない。外見で判断され「外の人」として見なされるから、「ホーム」と言い切れるワケでもない。そして、昔から私の心の「ホーム」である母、姉、そして友人はここにはいない。でも、私の存在そのものを支えてくれる新たな心の拠り所、「ホーム」の全てである私が選んだ夫と子ども、そして新しくできた大事な友人達はいまもここで、傍にいる。   日本にも私には大切な家族がいて、何もそこまで複雑ではないはずなのに、なぜか、この白い紙を覗き、ハラハラしながら私の「ホーム」は一体どこにあるのか、「ホーム」というのは何か?ということを考えてしまう。   高校を卒業して、早くあの小さなつまらない街から出たかった。12歳ぐらいからその瞬間を待っていた。卒業後、まず5週間オーストラリアに旅に出てから、その後にジュネーヴに行って、1年間、高校で一生懸命に学んできた大好きなフランス語を勉強しながら、住み込みでベビーシッターをして2人の子どもの面倒をみた。そこで知り合った日本人女性のおかげで日本語に興味を持ち始めて、ベルリンで日本学を勉強することを決めた。大好きになっていたスイスが恋しくて、1年半後にチューリッヒに移住。その後、大阪へ留学し、またチューリッヒにもどって、転々としていた。定住しないことがとても気持ちよかった。そして2011年にチューリッヒ大学の日本学部を卒業した後、2回目の留学に旅立った。1年半後に又チューリッヒに戻り、修士号を取得するつもりでいたけれど、しかし、運命の歯車は別の方向に回ることになる。当初の予定とは異なり、正式に東京外国語大学大学院の修士課程に進学することになったのだ。その時に、今の夫に出会って、知らないうちにますます、日本は留学地ではなくなり、定住地になってきた。   2011年に旅立った時には予想だにしなかった決定的な出来事は、もちろん子どもができたこと。2016年7月に京都の小さな助産院にて最愛の「渚」が産まれた。私は20年間ずっとドイツにいたにもかかわらず、この子にドイツ語の名前を与えることは考えもしなかった。私たちのとても自然な物語の中で「渚」という名前がおりてきたのだ。   その渚ももうすぐ2歳になり、まさに幼児(Infancy)から抜け出して言葉を修得しようとする最中である。毎日、その過程を観察するのは、面白くて仕方がない。自分の子どもがドイツ語より日本語を母語にしているということは、とても不思議な感じがするが、違和感はない。そう考えると、どう考えても「留学」など卒業してしまっている。嬉しい反面、懐かしい気持ちにもなる。でも実は、今後どこに行くか、どこに住むか、どこが「ホーム」になりうるか、不安にもなるけれど、将来まだまだ様々な形での「留学」が待っているかもしれないと思うと、日本に「留学」しに来た時のあのワクワク感がどこからか改めて湧いてくる。結局人生のすべてが「留学」であるはず。知らない土地に行って、知らないことを学ぶという態度は一生忘れたくない。その気持ち自体が「ホーム」であるかもしれない。未知の輝きに満ちた瞳をもつこの可能性の塊を寝かしつけながら、ひしひしと私はそう感じ、想うのである。   <イザベル・ファスベンダー☆Fassbender,_Isabel> 渥美国際交流財団2017年度奨学生。ランツフート(ドイツ)出身。2011年チューリッヒ大学(スイス)日本研究科卒業。2014年東京外国語大学大学院総合国際学研究科地域国際専攻にて修士号取得。現在、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程国際社会専攻に在籍、博士論文を執筆中。2018年4月から京都外国語大学と同志社大学にて非常勤講師としてドイツ語と日本社会について教えている。専門は家族社会学、ジェンダー論。     2018年5月31日配信  
  • 2018.05.24

    エッセイ569:ジョセフ・アンペドゥ・オフォス「日本での運転から学んだこと」

    (私の日本留学シリーズ#20)   日本に来て1月も経たないうちに、私はある体験をした。それは最初で最後となるものではなく、その後も繰り返し体験することになる、日本文化に染み付いたものであった。その体験とは,電車の線路沿いの道路の改修に関するものである。驚くべきことに、作業員たちはたったの12時間で1kmほどの道路を掘り起こし、舗装し、そして塗り直したのである。ある日、私は午後9時頃に研究室から宿舎に帰る際に、作業員たちがバリケードや作業用の道具、照明などを準備しているのを目にした。そして翌朝8時、研究室へ向かう電車に乗るために歩いていると、なんと昨夜工事の準備をしていた道路が完璧に改修されていたことに気づいた。私はこのことにとても感心し,“作業員たちはたった一夜でどうやって作業を終えたのだろうか?”、“一体このメンテナンスはどの程度もつのだろうか?”といったことを考えながら駅までの道のりを楽しんだ。   他の国であれば、1kmもの道を改修するには何日、あるいは何週間もかかっただろう。この道は京王井の頭線の駒場東大前駅の近くの道だった。私はこの体験から、メンテナンスが素早く行われることは社会をより良く回すことにつながるということを学んだ。この体験は例外ではなく,むしろ日本社会のあらゆるところに見られるものであった。高速道路や一般道路を走ればこの体験はありふれたものであるとすぐに気づくだろう。もちろん改修が頻繁であるからといって、すぐにやり直さなければならない雑な仕事ぶりを暗示するものではない。むしろ安全と安心のために道路の改修は常に行われているのである。   私が日本の道路から学んだことはもう一つある。それは高速道路を運転する時、特に道が混雑している時には常に周りの人がどうしているかをよく見て、彼らに従って動くべきだということである。急いでいるからといって“決まり”から外れた動きをすると、かえって遅れることや後悔することにつながるからだ。例えば、片側2車線の道路で、隣の車線の方が車通りが少なく早く進んでいるように見えても、安直に車線変更するのはお勧めできない。なぜなら空いている道路の出口は実は混み合った高速の入口につながっているかもしれないからである。道路の標識は高速道路の入口や出口から1~2km程度しか離れていないところにしかないことがあり、気づいた時にはもう遅い、ということもある。ここから学んだことは、急ぐことは早く物事を進めることにはつながらず、むしろ痛い目にあう可能性もあるということだ。人生は急がず、ゆっくりと1歩ずつ進めばいい。   日本のドライバーの素晴らしいところは、常に感謝の気持ちを表すための準備をしていることである。他のドライバーに道を譲った際には、ほとんどの人が「ありがとうございます」とハザードランプを2、3回点滅してくれる。アクアラインや常磐高速、東名高速、首都高などで必ずと言っていいほど目にする光景である。ここから、他人が優しさや親切心を持って接してくれた際には感謝を表すべきだということを学べる。   私にとって、運転は昔から身の回りで起きていることを観察し、学ぶ場であったが、日本で運転することで新しく学べたことは思ったよりもたくさんあった。このような経験から根気や忍耐、勤勉さ、謙虚さ、そして近所の人を含む環境への思いやりなどを学んだ。   英語版(原文)   <オフォス・ジョセフ・アンぺドゥ Joseph_Ampadu_Ofosu> ガーナ出身。東京大学大学院新領域創成科学研究科先端エネルギー専攻小紫研究室博士課程。研究テーマは、未来の宇宙推進応用のためのレーザープラズマ物理とレーザー支持爆轟波。現在、イマジニアリング株式会社でプラズマアプリケーションの研究開発を行っている。     2018年5月24日配信