SGRAかわらばん

  • 2021.06.28

    エッセイ674:マックス・マキト「マニラ・レポート2021初夏」

    ワイリー・オンライン図書館の『情報システム・ジャーナル』で、「私達は研究の社会的効果(ソーシャル・インパクト)を気にしているか」というタイトルの社説を見つけた。この社説は「H指数の独裁政治」、つまりジャーナル・インパクト・ファクターへの批判が高まっていることをはっきり指摘しただけではなく、V指数(Value-indices)、つまり僕がソーシャル・インパクト・ファクターと呼ぶものに明快に言及している。学術的研究と一般社会の関係者をどのように結びつければよいか――これはアカデミズム尊重の根強い伝統に対する正真正銘の反乱であり、僕は以前から考えていたポリシーブリーフの作成に努力しようという思いを改めて強く感じた。ポリシーブリーフとは、さまざまな政策案件に関して、政策研究のエビデンスに基づき、政策の選択肢について簡潔に解説を行うものである。自分自身はもちろんのこと、「戦略的計画の理論と方法」の授業を受けている僕の大学院生たちにも持続可能な共有型成長に関するポリシーブリーフを作成してもらうことにした。   この動きは、コロナのパンデミックのために1年間中止していた「持続可能な共有型成長セミナー」の復活となって実を結んだ。2021年5月31日、フィリピン大学ロスバニョス校公共政策開発大学院(CPAf)と渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)の共催で、第28回持続可能な共有型成長セミナー「持続可能な共有型成長へのポリシーブリーフ」が、初めての完全オンラインで開催された。   ロウェナ・バコンギス学院長と今西淳子SGRA代表の温かい開会挨拶の後、僕がセミナーの経緯と趣旨を説明し、最後に9人の大学院生が作成した5本のポリシーブリーフを発表した。9人は現役の教員や公務員で、ロックダウン中の最初の2学期間で僕が出したこの挑戦的な課題に真剣に応戦してくれた。   持続可能な共有型成長へのポリシーブリーフは次の通り。   1)ビバリー・デラクルスの「農場から食卓(F2F)までのロス削減:持続可能な食料システムのための3つの良い解決策」(“Farm to Fork FLaW (Food Loss and Waste) Reduction: A Triple Win Solution Towards Sustainable Food Systems” by Beverly Mae dela Cruz)。温室効果ガス排出の削減(SDG13)水(SDG14)と土(SDG15)の資源にかかる圧力の緩和、食料安全性と栄養による社会的状況の改善(SDG2)、責任ある消費と生産(SDG12)を通じた生産性と経済成長の向上(SDG8)をめざす。   2)マルク・イシップとダヤン・カベリョウの「強力な協同組合を通じるフィリピン国内の持続可能なハタ(魚類)の生産」(“Promoting a Sustainable Grouper (Lapu-Lapu) Production in the Philippines through a Strong Cooperative Sector” by Marc Immanuel G. Isip and Diana Rose P. Cabello )。海洋資源の保全、高価値のある海洋生産物の業者間の公平分配や、漁業部門の生産性の向上のために強い共同組合を提案。   3)ヨルダ・アバンティとジョセフィン・レバトの「イサログ山:共通の善か共通の対立か」(“Mount Isarog, A Common Good or A Common Conflict“ by Yolda T. Abante and Josephine R. Rebato)。 陸上の生物多様性の保全や中央・地方政府間の適切な権利分配やイサログ山コミュニティの活性化を促進する、適切な地方分権を提言。   4)フェ・アラザーとアイザ・スンパイの「公平な枠組みの構築:COVID-19時代に対応する採点方針(“Building a Framework of Equity: Responsive Grading Policy in the Time of COVID-19” by Fe B. Arazas and Aiza Sumpay )。学生達の多様な状況に配慮しながら、非正常でストレスが多いパンデミックの時代に合った採点システムを提言。   5)メルセル・クリマコサとカテリン・アルガの「栄養と教育:国の将来の決定要因」(“Nutrition and Education: Determinants of the Country’s Future” by Merssel F. Climacosa and Catherine N. Arga)。小学生とその親の世代間の関係に焦点を当て、子どもの栄養失調が国の未来に与える打撃を軽減するため、最近の栄養と教育の政策をサーベイ。   発表者たちのポリシーブリーフは、さまざまな完成段階にあったが、CPAfの教員であるメッリン・パウンラギ先生(Merlyne M. Paunlagui)、ジン・レイェス先生(Jaine C. Reyes)、マイラ・ダビッド先生(Myra E. David)とアジア太平洋大学のジョヴィ・ダカナイ先生からの適切なコメントを頂いた。ダカナイ先生と私は、アジア太平洋大学の前身である「研究とコミュニケーション・センター」時代の仲間である。当時はまだ大学院生であったが、今のポリシーブリーフに当たる「スタッフ・メモ」の定期的な執筆に動員され「火の洗礼」を受けた。あの時の熱気は、現在のアジア太平洋大学に立派に成長することになる魔法の種であった。あの時も今も、僕たちの関心は、誰かを置いてきぼりにするのではなく、全員を甲板に召集する事にある。これこそ、僕たちの社会が現在直面している深刻な問題を解決するために必要とされている。   当日の写真   本セミナーの報告書(英語)   <フェルディナンド・マキト Ferdinand_C._Maquito> SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学機械工学部学士、Center_for_Research_and_Communication(CRC:現アジア 太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。    
  • 2021.06.10

    エッセイ673:謝志海「ゆるい生き方のすすめ」

      今回は私が留学生として日本で暮らすようになって驚いたことから話そう。初めて暮らした場所は東京で、それまでは北京にいた。中国の首都から日本の首都へ来たわけだが、東京の街のきれいさにはおどろいた。治安もとても良い。そして飲食店の丁寧かつ素早い対応がどの店も同じというのが、一番びっくりしたことかもしれない。テーブルにつけばすぐさまウェイターが水を持ってきてくれる。その水はいつも氷が入っていて冷たい(中国から来た私にとって冷たいお水に慣れるのは少し時間がかかった)。注文しようと思えば、ウェイターを呼ぶ前にテーブルへ来てくれることもある。店内とキッチンを動き回りながらテーブルのお客さんを見ていてくれているのだろう。例え500円ぐらいの食事をする時でも同様なので、私は内心「ここまでしなくてもいいよ」、と思うことがある。コップの水が冷えていなくても構わないし、多少は店員に放っておかれても気にしない。そんなことを感じるのは無愛想な店員が多い中国から来た私だけだろうか?   しかし日本での生活も長くなるにつれ、こんなに平和で至れり尽くせりの国で「生きづらさ」を感じながら暮らしている日本人も多い感じがしてきた。コロナ禍の前から薄々感じていたのだが、これだけ街が整備されていて、使いやすい公共交通機関があり、飲食店に関わらず、どの店の店員もプロフェッショナル。それなのに行き交う人はこの平和を謳歌しきれておらず、何かに追われるかのように足早に無表情で移動している。この謎が解けないまま、新型コロナウイルスというパンデミックに見舞われ、とうとう街を歩き回る自由を奪われた。そして外国人観光客は日本からいなくなった。すると「マスク警察」なるものが現れ、マスクをしないで外へ出る人や、鼻まで覆わない人を市民が見つけ互いに言いつけ合う、なんてことまで話題になった。日本人自ら生きづらい社会にしてしまったのなら、なんてもったいないことだろう。   もう少し肩肘張らずに暮らせる社会であってもいいのにと私は思う。他人がマスクをしていなくても、自分がしっかりマスクをし、手洗い消毒をしていたらよいわけだし、何より他国に比べたら、かなり衛生的だ。留学仲間だったインド人の友人は、たまに行く海外の学会から帰ってきた時や、里帰りから日本に戻るたびに、日本は世界一、町中(まちじゅう)がきれいな国だと言っていたことを思い出す。日本にいる日本人が、自分のいる社会を厳しいものへ、厳しいものへと高めている一方に思えてしまう。   しかし「今の日本人の生きづらさ」に疑問を呈している日本人がいた。自身で会社を経営し、慶応大学でも教えている若新雄純先生が、日本の「生きづらさ」の要因を「正しさ」を求め過ぎるからではないかと指摘している。なるほど飲食店に座れば、さっと目の前に冷たい水が置かれることは「正しい」ことで、日本人には当たり前になり過ぎていると考えれば納得がいく。そして今でこそマスクなしで外へ出る人はいないが、マスク警察も、正しさを求め過ぎる所以(ゆえん)だろう。これでは正しさへの要求に歯止めがかからなくなり、ますます生きづらい社会になってしまう。   これ以上「正しさ」を求め過ぎない社会に変えていくのがよいだろう。例えば、中国に限らず欧米の電車は時々遅れることが当たり前だ。しかもどのくらい遅れてくるかのアナウンスすらない。乗客も待たされることが前提かのように動じてもいない。一方、日本は数分の遅れでも、プラットホームにきちんとアナウンスが入り、お詫びも頻繁に流れる。待たされている人間にとってはなんともありがたい情報だが、日本以外の国で電車に待たされてばかりの私は、なぜこんなにも遅延の謝罪に一生懸命なのだろうと思うほどだ。アナウンスの回数を減らすだけでも、鉄道会社の従業員、そして会社全体のストレスが少し緩和されるかもしれない。そして何より、乗客は電車遅延のアナウンスに数分のズレがあっても気にしないことだ。電車を待ちながら、スマートフォンでも眺めていたら、5分間なんてあっという間なのだから。   若新先生の研究分野は人と組織のコミュニケーションで、その研究の先に「許せる社会」を作りたいそうだ。具体的には、もう少し基準を緩くして消費者が間違いを許せる社会になればよいと思う、と提言している。そうか、相手を許すことによって、自分もまた社会で楽に生きられるということではないか。この考え方は日本以外のどの場所でも「有効」だが、今の日本にはとても「必要」かもしれない。   生きづらさに気づき、そこから目を背けず、この状況を変えようと思う人がいるなら日本の社会の未来は明るい可能性を秘めている。私は飲食店でぬるい水が出てきても、料理と一緒に水が運ばれてきても一向にかまわない。     英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2021年6月10日配信
  • 2021.06.04

    エッセイ672:于寧「偶然から始まった日本語学習」

      日本に留学してから日本語を勉強し始めたきっかけについてよく聞かれた。まったく視野に入れていなかったのに日本語学科に入ったのは「運命」だとしか答えようがない。それは母の「山口百恵と三浦友和夫婦への愛」がもたらしたものなのだ。   大学出願票を記入した時には外国語を専攻する発想がなかったので、当然、日本語を候補にすることもなかった。中国の大学出願票には「希望する学部でなくても、その大学に入学する意思があるかどうか」という項目があり、「はい」とチェックを入れていた。そうしたら、第一志望校の南京大学に合格したものの、学部の希望は通らず、枠が余った日本語学科へ変更させられた。日本語を専門にすることはあまりにも予想外だったため、浪人することも考えた。その時、日本語学科への入学を強く後押ししてくれたのが母だった。「将来日本語が出来るようになったら、日本に連れて行ってもらいたい。山口百恵さんと三浦友和さんに会えるかもしれないから、通訳してもらうわ」と。   1980年代に青春時代を送った母は日本映画の大ファンだった。当時中国に輸入された日本映画は一世を風靡し、多くの中国人が日本の映画スターに魅了されていた。母もその一人で、とにかく山口百恵と三浦友和夫婦が好きで、私も子どもの頃から二人に関する話を何度も聞かされた。日本語を勉強して何をするかは全く分からなかったが、少なくとも「山口百恵と三浦友和夫婦に会いたい」という母の夢には役立てるかもしれないと思い、とりあえず日本語学科に入学した。   実際に日本語を勉強し始めたら、意外と早い段階で語学の楽しさを感じることができ、日本について知れば知るほど、日本の文化に魅力を感じるようになった。自分の選択ではなかったものの、日本語学科に入って良かったと思うようになった。大学3年生の時に、長野県小諸市日中友好協会のご招待を受け、ホームステイで1週間日本に滞在した。初めての訪日だったが、日本人の家に泊まり込み、市民祭りにも参加した。日常に溶け込み、肌で日本文化を感じる貴重な体験だった。教科書の限界を痛感し、日本をより知るために留学を決めた。   しかし、日本で何について研究するかには頭を悩ませた。日本に関心が芽生えてきたものの、アニメやアイドルが好きで日本語を専攻するようになった同級生と異なり、研究すべき分野をなかなか特定できなかった。当時は「草食系男子」が日本で話題になり、中国のメディアにも取り上げられていた。自分も「草食系男子」だと同級生に言われ、ジェンダー研究に関心を持つようになった。南京大学では毎年、日本語学科の共催で東京大学の先生たちによる集中講義が行われており、たまたまその年に現在の指導教官がジェンダーの視点で映画を分析する講義を行った。私は即座にその指導教官のもとで、ジェンダー理論と映画研究を専攻することを決めた。   その後、「草食系男子」をテーマにした卒業論文を書き下ろし、留学選考に無事に合格して、今日本で勉強ができるようになっている訳だ。日本留学のきっかけを聞かれる度に、自分が今に至ったのは一連の偶然の結果であったことを改めて認識させられる。偶然で始まったものが自分の人生の方向を左右するとは思わなかった。自分の選択ではなかったものの、正解に導かれている気はする。やはり、当時後押ししてくれた母に感謝なのだ。母を日本に連れて行き、映画で見た日本の風景を見させてあげたい。可能性はほぼないが、母が山口百恵と三浦友和夫婦に会えることになったら、通訳になり、きちんと「二人への愛」を伝えるように努める。     英語版はこちら     <于寧(う・ねい)YU Ning> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。中国出身。南京大学日本語学科学士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士前期課程修了。研究テーマ「中国インディペンデント・クィア映像文化」「中国本土におけるクィア運動の歴史」。     2021年6月4日配信
  • 2021.05.27

    エッセイ671:マリダン・ヌルマイマイティ「私の日本留学」

      私は日本から直線距離にしておよそ4,348㎞離れた遠い世界にある東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)からやって来たウイグル族出身の留学生である。私が子どもの頃、周りの人が使っている家電製品や人気の車はほとんど日本製だったので「日本の知識、技術はすごい」という印象が芽生えた。小学生の頃から始まった日本の漫画やアニメに対する興味も好印象をもっと深めることになった。   1990年代後半、インターネットの広がりによって世界で海から最も遠いところにいる我々が世界をもっと知るチャンスが生まれた。医者になりたいという夢を持っていた私にとって、日本は知識や技術、発明生産能力や経済水準などだけでなく、医療水準も世界トップレベルであることが分かった。これが日本留学を決意した一番のきっかけだったと思う。そして大学に入る前から、本当の力を持つ立派な医者なるために、日本で世界トップの医学を学びたいという夢を持つようになり、2015年にやっと、その夢を実現することができた。   最初の日本語学校、そして大学院、ほとんどが学生生活だった。その間にしたいろいろなアルバイトでの「半社会人生活」も楽しかった。その中で、来日から私が感じてきた日本のイメージはほとんど変わらなかった。例えば、とてもきれいな、発展した国日本は確かに前に思っていた通り、別世界だった。今まで見てきた人々の中でも、とても礼儀正しい民族だった。負けず嫌いで、いつも非常にまじめな態度にすごく感動した。さすが、「大和民族」日本人だと。   それでも、やはり以前の印象と少しずれているところもあった。日本に来る前、日本人は本が大好きで、電車の中ではみんな本や新聞を読んでいるということをよく耳にした。来日して自分の目で見てみたら、日本人は書籍が大好きで電車の中で本や新聞を読んでいる人もまだいるものの、それほど多くはないし、ほとんどは年上の人だった。若い人は本の代わりにスマートフォンにはまっていた。   一番びっくりしたのは最近の日本人の結婚と人口の減少率だ。今の若い日本人は結婚ということがあまり気にならないようだ。人口はどんどん減少しており、あと50年で日本の人口はどうなるのか、こんな素晴らしい民族がだんだんいなくなるのかなとちょっと心配している。   初めての海外生活で日本に到着してから、ルールや生活の常識が違うため、何度も壁にぶつかった。しかし、留学を決めたのは私自身、苦しくても耐えるしかなかった。苦痛も孤独もやる気に変えて、一生懸命がんばった。これは、留学する人には避けられないことである。しかし、努力は自分を裏切らない。アルバイトで初めて日本人の友達ができ、奨学金に受かり、おかげでアルバイトもやめて、時間をサークル活動と勉強に回して楽しい学生生活を満喫し、大学院を無事に卒業することができた。   6年間の留学生活の中で一番の感想は「困難に遭ったとき、逃げずに、諦めずに、向き合って、努力を貫くことが大事だ」ということだ。いろいろな事が自分の思うように行かなくても、諦めないでください。今不足している部分を考えて、その欠点を埋め合せれば次はきっとできる。   最後に、留学を考えている方へ。最初は文化の違いや言語の壁、そして経済面の問題、様々な挑戦に向き合わなければならない。誰しも辛い目に遭ってしまうだろう。しかし、諦めてはいけない。苦難を乗り越える経験は、きっと人生の宝になる。人生の修行だと思いながら、初心を忘れずに頑張ってください。     英語版はこちら     <マリダン・ヌルマイマイティ Mardan Nurmuhammat> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。ウイグル族出身。順天堂大学医学研究科神経学専攻。中国大連医科大学臨床医学学士。順天堂大学医学研究科神経学博士後期課程修了。研究テーマ「光遺伝学を用いたiPS細胞由来ドパミン神経細胞のα-シヌクレイン分泌調節」。     2021年5月27日配信
  • 2021.05.20

    エッセイ670:趙沼振「『全共闘』を研究するという意味」

      韓国で学部の時から現在まで一筋に「日本学」を専門として勉強してきた。中学2年生の時に初めてJ-POPを聞いたのがきっかけで、日本の文化に興味を持つようになった。音楽のメロディーから聞こえてくる日本語の歌詞はよく分からなかったけれど、韓国とは違う特有の雰囲気が良かったのかもしれない。そこから映画やドラマなども見るようになり、独学で日本語の勉強を始めた。そして高校生になり、趣味で終わらせたくなかったから、数多い外国語のなかで日本語の授業を選択した。おそらくあの時から、心のなかで決めていたのかもしれない。大学に行くなら専門は必ず「日本学」だと。私はJ-POPを聞く趣味を持つ中学生から、日本学専攻を選んだ大学生に成長した。   学部生活の間に東京へ交換留学したおかげで、頭のなかで想像していた「日本」の実際の姿に出会うことができた。ひたすら面白い日々を過ごしていた留学生活のなかで、韓国に戻って就職するより、大学院に進学してもっと「日本」を研究したいと思った。そこで、私の研究テーマである日本の学生運動史・社会運動史、「全共闘」に出会ってしまったのだ。   初めて全共闘という言葉を知ったのは、韓国で大学院のゼミを受けていた時だった。そもそもゼミのテーマが「1960年代の日本」で、私には見慣れない日本の歴史像であった。学部の時には、日本の近世・近現代史という科目があり、本格的に日本史を勉強した記憶はあった。だが、1960年代の「歴史」はなかなか扱われていなかった。1950年代までが「戦後日本史」という枠組みがはっきりと決まっていた。日本の1960年代は、「政治の季節」という表現で描かれながら、さまざまな事件の連続という印象が強かった。そのため、堅苦しく論述される「歴史」というよりは、熱く報道され続ける「過去」のニュースのようにみえる時期として感じてしまったのである。当時を生きていた学生たちは、大学の問題から発して社会と国家のことについてまで深く考え悩んでいた。そして、彼らの意見を表すために、闘争のかたちで異議を申し立てた。こういったところが非常に面白かった。1960年代後半に相次いで発生した各大学の全共闘運動に最も興味を惹かれたのである。   そのなかでも日大全共闘が最も面白いという印象を受けた。当時の日大全共闘は、左翼文化の系統を立ててきた東大全共闘とは異なっていた。集会が禁じられ、一般的な学生活動すらできなかった日大生は政治的にもナイーブであり、運動の戦略や戦術も分からない状態だったという。にもかかわらず、日大理事会の約20億円の使途不明金問題が引き金となり、セクト的対応から離れた日大全共闘ならではの運動スタイルが築かれたわけである。一連の日大闘争は予測不可能なマス(Mass)的存在が登場することによって、まさに想像がつかない「1968年」の同時代性を持つ「スチューデント・パワー」誕生の瞬間であった。そして、日大闘争は次第に大規模なスケールになり、「日大全共闘のバリケードは世界最強」だという評価を受けるようになった。彼らの姿から、今を生きている私にもその生々しい情熱がはっきり伝わったのだ。「これは面白い」。当時の日大全共闘の情熱に匹敵するものは、現在の日本においてはこれっぽっちもないだけに面白いと思った。   60年安保を皮切りに本格的に学生運動が活性化し、全共闘運動により「若者」または「学生」が民主主義を唱える自発的な役割に区切りをつけたといえる。その後、若者から大人に、学生から社会人になった彼らによって闘争体験の記憶を共有する世代層が固くつくられた。そのため、「1968年」という時代に対する記憶が一種のノスタルジーとして回顧され続けてきたともいえる。しかし、今日の若者は当時の記憶に対して常套的なイメージを描いているだけで、共感を覚えることはなかなかできない。そこからジェネレーション・ギャップが生じてしまったと考えられるのではないだろうか。さらに、メディアを通じて「団塊の世代」または「全共闘世代」とレッテルを貼られたことにより、世代間のコミュニケーションが断絶されたのかもしれない。   そのため、今の若者に「1968年」の時代背景と価値観をインプットすることより、同じ「若者」として同時代性を感じさせることが重要だと思う。今の若者は当時のことを振り返ってみて「記憶」することはできないけれど、想像して「理解」することはできるはずだ。そして「学ぶ」「若い」「学生」という枠組みから共感を覚え、徐々にパラダイムを転換させていく練習を積んでいく必要があると私は思っている。     英語版はこちら     <趙沼振(チョ・ソジン)CHO Sojin> 2020年度渥美国際交流財団奨学生。韓国出身。東京外国語大学大学院総合国際学研究科国際社会専攻。淑明女子大学日本学科学士、修士。東京外国語大学大学院博士前期課程修了。研究テーマは「日大全共闘」「日本の学生運動史・社会運動史」。     2021年5月20日配信
  • 2021.05.13

    エッセイ669:劉怡臻「『わたしの青春、台湾』から見る対話の困難さ」

      2020年は新型コロナウイルスの感染が広がり、非常に大きな変化があった一年だった。縁あって映画『私たちの青春、台湾』の字幕翻訳、映画監督傅(フー)・ユーの自述的著書『わたしの青春、台湾』の翻訳チームに参加する機会を得た。外出を控えなければならない不自由な生活の中、翻訳の確認作業のため、何度も映画を見直し書籍を繰り返して読んだ。母国語で書かれている内容でも、日本人の先生方に解説するために、歴史背景と用語についていろいろ調べた。傅監督と編集者が自分とほぼ同じくらいの年で、言及されている台湾近年の社会情勢とその変化について、実は私も体験してきた一人なんだと思いつつ、出身や置かれている環境の違いによって見方も変わることをあらためて実感した。   映画『私たちの青春、台湾』は傅監督の「ひまわり運動」(2014年)を回想するモノローグから始まるドキュメンタリーで、運動の中心人物陳為廷(チェン・ウェイティン)と中国出身で台湾留学中の蔡博藝(ツァイ・ボーイー)をめぐって、運動に参加した喜怒哀楽と葛藤が描かれている。最後に監督自身も被写体になり、陳と蔡の前で告白して、自分の矛盾や無力をさらけ出した。   日本で上映される際、ポスターやタイトルだけ見ると、台湾の社会運動の成功が描かれているものと思われるかもしれない。ところが、この作品はそのような期待を完璧に裏切るものである。運動を起こしたヒロインは偶像として作り上げられ、結局失意に沈んでいくことになってしまうありのままの様子が映し出されている。そして、監督も自分が最初にこの運動の主人公である二人にかけた期待が裏切られ、そういう状況に直面している「揺れ」を強く感じて、戸惑っている。その戸惑いまでもドキュメンタリーに呈している。   社会運動とは、英雄のような誰かに一方的に期待をかけることではなく、自分を投げ出し、行動しながら物事を理解していくことだということがドキュメンタリーを通してわかる。運動はただ起こせば良いものではない。その後にも続いていく反省と行動こそが本当の変化をもたらす。しかし、変化は簡単に起こるものではない。   今回お手伝いをさせていただいた機会に、映画だけではなく、監督の著書を読んでいろいろ考えさせられた。「もしわたしたちが前に向かって進みたいなら、まず自分が傷ついたことを意識することから始める必要がある。台湾では、わたしたちが経験してきた歴史と現在の政治状況によって、おそらく多くの人が、成長の過程の中でみな傷ついたり、排除されたり、自分で限界を線引きしてしまったり、コミュニケーションをとろうとしたときに生まれつきの立場の壁にぶつかったり、話したことが曲解されてしまうと感じたり、最も身近な人とさえ理解し合えなかったりしただろう」という監督のことばに何度も心を打たれた。   台湾は日本統治期、祖国光復、そして国民党一党支配の権威主義体制時代を経て、世界最長となる38年間の戒厳令を体験した。その中で、政府が反共産主義という理由で、時局を批判した人間を逮捕、処刑する白色テロが横行した。同時に、70年代からは外交的な孤立を体験してきた。台湾の民主化運動は最初、そのような反体制の社会運動から基盤を築いてきた。1986年になって初めて野党の結成が認められ、実質的な選挙が行われ、民主化への一歩を踏み出した。   それに伴い、労働運動や環境保護運動、女性運動などが高まっていった。ところが、選挙が行われるたびに、青陣営(国民党)と緑陣営(民進党)は支持を得るために台湾のイデオロギーをめぐる論議を繰り広げることになる。いわゆる台湾アイデンテイテイというものがしばしば取り上げられ、強調され、日常生活の家族や友人の間でも喧嘩のタネになっている。そのため、異なる出身の台湾人が感情的に傷ついたり、傷つけられたりすることを繰り返す。そのゆえ、対話の混乱と困難はますます増している。   イデオロギーをめぐって話しあう際に、先にラベルを貼り付けてしまうこと、あるいは先に貼り付けられることはよくある。しかし、これもまた台湾国内の話だけにとどまらず、外国で生活する際にもよく体験したことでもある。自分はなぜそう思うのか、なぜそういう風に思ってきたのか、その思いが生じる背景とは何か、いかなるファクターが作用しているのか、一歩進んで追求してみたら、絡まった情緒や見方の糸が解かれるチャンスになるのではないか。   翻訳作業の過程で、デジタル担当大臣オードリー・タンさんから推薦文をいただいた。翻訳チームを悩ませたものに「公共事務」という言葉があった。英語にすれば「Public affairs」にあたるが日本語には当てる概念が見つからない。民間の人や団体が政治に参加して行政に関与して活動するという意味だが、当てはまる概念が見つからないことはチーム内の日本人の先生に衝撃を与えた。それをめぐって、みんなで何度も意味の確認と訳語探しに腐心した。私たちはそれによって日本と台湾の社会システム構造上の違いを初めて認識するようになった。   人間同士、お互いの共通項を求める前に、まずお互いの違いに気づき、認めて、理解して伝えることはなかなか難しいことだと体得した。字幕を翻訳すること、監督の著書を読むこと、翻訳チームに参加する中で、この体験が自分への一番のプレゼントである。     英語版はこちら     <劉怡臻(リュウ・イチェン)LIU Yichen> 2020年度渥美奨学生、台湾出身。明治大学大学院教養デザイン研究科文化領域専攻。研究テーマは「植民地台湾における石川啄木文学の受容」。国立台湾大学日本語文学研究科学士、修士。思潮社編集部のアルバイト、2020台湾文学祭詩人楊牧/洛夫ドキュメンタリー映画(邦訳)監修協力などを経験。共著には『世界は啄木短歌をどう受容したか』(桜出版、2018)、『日本歴史名人:Nippon所蔵日語厳選講座』(台北EZ叢書館、2020)など。現在、東京語文学院に勤務、慶応義塾大学湘南藤沢高校第二外国語講師を担当。     2021年5月13日配信
  • 2021.04.22

    エッセイ668:謝志海「止まらぬアジア人へのヘイトクライム」

      現在米国ではアジア系住民に対する嫌がらせが後を絶たない。日本ではあまり重要視されてこなかったこの出来事だが、3月30日にバイデン米大統領がアジア系への差別と暴力に追加対策をとると発表。これを受けて加藤官房長官が3月31日に「日本政府としてはアメリカ政府の個々の政策についてコメントする立場ではないが、人種などによって差別が行われることは、いかなる社会においても許容されるものではないという立場だ。また現地大使館や総領事館を通じて状況についてよく注意し、在留邦人などの安全確保にしっかりと努めていく」と記者会見で述べた。   テレビニュースでもアジア人差別の現状が伝えられるようになった。私も偶然米国からのニュース映像を観た。ニューヨーク市マンハッタンの街角で、アジア人の女性が白人男性に蹴られ、うずくまった。その場に倒れている女性をお店の中から見た別の男性は、助けに外に出るどころか、助けを乞うなと言わんばかりにドアを閉めるという、情のかけらもないものだった。被害者は65歳のフィリピン人女性で「おまえはここにいるべきではない。」と言われながらの暴力だったそうだ。   昨年ミネソタ州で警官の暴行により圧死した黒人男性(ジョージ・フロイド氏)の悲しみが癒えぬ間に、米国ではアジア人が差別の対象になっていると知り、私はこれまで感じたことのないようなやるせない気持ちになった。米国にいる全てのアジア系住民は、家を一歩出れば、コロナウイルスだけでなく、差別にも気をつけながら、覚悟を決めて外出しているのではないだろうか?そう考えると、日本で暮らしている私は平和だなあと思う。自分たちと同じアジア人が日々の生活で、差別や暴力に怯えながら暮らしている現状を米国以外の国にいるアジア人全員がもっと把握しておくべきだと思った。   しかし、なにかが起きると行動が早いのも米国で、サンフランシスコ州立大学が人種などを勉強するいくつかの学部と合同で、「STOP AAPL* HATE」というサイトを一年ほど前には立ち上げていて、全米各地でアジア人が差別にあったケースを集計している。これによると2019年に比べて2020年はアジア人へのヘイトクライムは2.5倍に増えた。そして差別や暴力の被害に遭うのは、アジア系の老人、続いて女性に多いことが浮き彫りとなった。   確かに、先述のニューヨークでのヘイトクライムもシニアのアジア人女性だし、もうひとつ記憶に新しい出来事と言えば、その事件の少し前に起きたジョージア州アトランタでおきた若い白人男性による銃撃で、死亡した8人のうち6人がアジア系の女性だった。さらに、この事件の報告をした報道官の警部が犯人をかばう発言とアジア人女性を軽視するような含みを持っていたため、後味の悪いものとなった。この事件の翌日、バイデン大統領はハリス副大統領と共にアトランタまで出向き哀悼の意を伝えたという。この2つの事件は3月に起きたもので、バイデン大統領は月をまたがずに、アジア系アメリカ人を守ることを強化する決断を下したのである。   しかし少し調べてみると、在米日本国総領事館から「アジア系住民に対する嫌がらせ等に関する注意喚起」と題したEメールを、在留届を提出している日本人に配信したのも3月であり、日本の外務省は米国の現状をきちんと把握している。日本国内でももう少し深くアジア人への人種差別が深刻化している様を伝えるべきだと思う。我々こそがアジア人なのだから。   アジア系住民への差別の発端はトランプ前大統領がコロナウイルスのことを「チャイナウイルス」と繰り返し言ったことからだとされている。その尻拭いをバイデン新政権が行なっているだけと言えばそれまでだが、バイデン大統領はアジア人を後回しにしていない。同時にアジア系自身も黙って時が過ぎるのを待つだけではなく、ヘイトクライム撲滅のデモをしたり、ヘイトクライムに遭ったらレポートし共有する場を設けたりしている。アジア系市民が被害に遭った時の防犯カメラの映像を繰り返しテレビで流すだけでなく、差別に立ち向かう様まで伝えることも大切だと思う。そして私のような日本にいる中国人は、コロナウイルスを理由に日本でヘイトクライムは受けていないということを米国に伝えるべきかもしれない。   *AAPL=Asian American Pacific Islanders アジア・太平洋諸島系アメリカ人     英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2021年4月22日配信
  • 2021.04.15

    エッセイ667:尹在彦「ミャンマー問題と韓国、そしてアジアの民主主義」

      韓国はこれまで、他国の民主主義の問題に深く関与してこなかった。1990年代以降においてようやく民主化したという認識より、国内事情が優先視された。他方で欧米、とりわけ米国による民主化支援への不信感も影響していた。韓国が権威主義体制に置かれていた時代、米国は冷戦体制を理由に韓国の民主化に後ろ向きだった。1970年代には朴正煕政権が自らの人権弾圧問題を覆い隠すため、米議会にお金をばらまく、いわゆる「コリア・ゲート」も発覚する。そのため、韓国では民主化が外部要因なしに「自生的」に成し遂げられたという認識が強い。   ただし、一つの例外があるとしたら、それはミャンマー問題だ。韓国は日本と共に難民問題に極めて消極的だ(2019年の難民認定率は両国ともに0.4%)と知られているが、毎年最も多く認定されているのはミャンマー国籍の人々だ。アウンサン・スーチー率いる国民民主連盟(NLD)の韓国支部も1997年に設立されている。同年に大統領に当選した金大中は、国際社会で軍事独裁政権に対抗したスーチーへの支持を呼び掛けていた。自伝で金大中はミャンマー問題への特別な関心を述べている。   このような背景から年初に勃発したミャンマー軍部のクーデターは、韓国政府にとって無視するわけにはいかない事案だった。デモ隊に対する軍人・警察の弾圧は、韓国のニュースにも盛んに取り上げられている。文在寅政権は3月以降、次々と行動に出ている。文在寅本人は3月6日「ミャンマー軍と警察の暴力的な鎮圧を糾弾し、アウンサン・スーチー国家顧問をはじめとした収監された人々の釈放を求める」とSNS上で訴えた。12日にはミャンマー軍部への軍事物資の禁輸措置を取り、政府開発援助(ODA)の見直しも示唆した。韓国政府のミャンマーに対するODA規模は約9000万ドル規模(2019年)で、これまでの抑制的対応から一転したとの評価も出ている。   韓国は中国の少数民族(ウイグル、チベット)や香港の問題に対しては発言を控えており、北朝鮮人権問題においても政権によって正反対の反応を示してきた。こういった事案は基本的な外交路線、即ち「国益」とも深く結びついており、単純に「人権・価値」だけで対処できる問題ではない。日本も米国との「安全保障協議委員会(2+2)」で中国を名指しで非難したものの、EUや米国の制裁には追随していない。中国の激しい反発や経済問題の影響もあると考えられる。   現地のミャンマーでは韓国政府の対応がそれなりに評価されているようだ。ツイッターやフェイスブック上で韓国政府や韓国人に支援を求めるコメントは少なくなく、ミャンマー人の韓国語の書き込みも多くみられる。   3月16日、日本のラジオ番組(「荻上チキSession」)に出演したミャンマー人留学生はあえて韓国に言及しながら、日本人の支援が必要だと切実に訴えた。しかし、残念ながら日本社会の反応は普段の反中感情と絡み合った中国問題に比べると生ぬるい。個人的に違和感を覚えたのは日本のニュースの伝え方だった。3月2日、NHKは「『申し訳ありません』在日ミャンマー人 コロナ禍のデモ」といったタイトルで「自粛中にも関わらずデモを行っていることへの申し訳なさ」を表現するミャンマー人の様子を伝えている。韓国でも在韓ミャンマー人のデモが展開されているが、同様のタイトルは見たことがない。日本ではコロナを理由にデモを禁じていない(韓国では人数制限がかかっている)。なのに、ラジオ番組に出演したミャンマー人留学生はネットニュースのコメント欄に数多くの非難(「デモをやるべきではない」など)が寄せられたことに衝撃を受けたという。   ヨーロッパのような国際人権機構はアジアに存在しない。さらに、アジアで民主主義国とされる国は少数にとどまっている。域内の人権問題に対し、アジアの民主主義国が一丸となり声を上げることは容易ではない。中国や北朝鮮の事例からも見られるように、安保や国益などが複雑に絡み合っている。よく知られている通り、天安門事件以降、中国への経済制裁を最初に解除した先進国は日本であり、経済や歴史問題への考慮があったと言われている。しかし、経済的側面を優先する民主化支援はそれほど効果的ではない。1990年代以降、日本が積極的に支援しているカンボジアでは、フン・セン首相が独裁政権を築いており、民主主義とは程遠い状況が続いている。ミャンマー問題においても「日本は軍部とのつながりがあり自制を求めている」などの報道は見かけるものの、実質的な措置はほとんどとられていない。   如何なる民主化支援もある程度は「内政干渉」を伴う。権威主義体制下ではコロナ禍を機に市民の動きを制限する動きも増えている。日本と韓国のような民主主義国家の役割は何だろうか、どんな役割を果たして協力できるか、非常に重要な課題だ。もちろん、現状では懐疑的にならざるを得ないが、アジアの悲惨な状況からするとそれなりに協力はできる分野だと思う。   英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。     2021年4月15日配信
  • 2021.04.08

    エッセイ666:尹在彦「ヴィクトリアピークの霧」

      1990年代までの韓国にとって、香港は文化の輸入が許された唯一のアジアの「先進地域」だった。韓国では長らく日本文化、特に映像コンテンツが禁止されていたため、香港を舞台にした様々な映画は憧れとして受け止められた。香港映画は旧正月やお盆の「引っ張りだこ」で、多くの韓国人を魅了した。イギリスの植民地ということもあってか、映画には多様な人種の人々が登場する。これもまた異国情緒を醸し出す要素だった。90年代を風靡した王家衛(監督)の映画は社会的なブームまで引き起こした。香港は民主化したばかりの韓国社会にとって「自由の象徴」でもあった。   韓国人の目線から見る現在の香港は複雑だ。香港は「帝国主義の被害地域」でありつつも、現在においては権威主義体制の激しい弾圧を受けている。韓国は歴史上、香港と同様の経験(植民地・独裁政権)をしており、そこから何とか抜け出した国である。そのため、私は香港に関して欧米系メディアの一方的な論調に比べれば中立的な話ができると思う。   香港は英国の帝国主義による植民地化で、中国では「百年国恥」の象徴として語られる(しかし、倉田徹・張イクマンによると香港が本土で注目され始めたのは90年代以降のことという(『香港』126頁)。宗主国(である)英国は、統治下の香港人に対しある程度の自由こそ与えたが、民主的な権利、即ち選挙権は80年代まで保障しようとしなかった。   1980年代に入り、英中間の返還交渉が進むにつれ、英国は急遽、新たな選挙制度を取り入れ始める。特に最後の総督、クリス・パッテンは返還日が近づく中で、無理をしてまで制度改革を推し進めた。やはりこれでは、英国の香港の民主主義に対する「本気度」が疑われても仕方ない。しかし、こういった側面は現状の香港問題を取り上げる中であまり注目されていない。特に欧米のメディアではそうである。返還交渉の結果、民主制度を50年間保障するとの取り決めに中国が合意したこと(一国両制)も重要であるが、英国に現状の問題への責任が全くないかといえばそうとは限らない。   1997年に香港が中国に返還されて以降、何度か大規模なデモが行われた。特に世界的に注目を浴びたのは2014年秋の雨傘運動だ。私は2013年と14年に取材のために香港を訪れた。13年には香港政治とは関係のない出張で、正直「暑い」という印象しかなかった。思っていたより英国色が薄いことも記憶には残った。   ところが、14年11月の出張では香港への見方も多少変わっていた。香港の若者問題をより詳しく知りたく、仕事とは直接的関係はなかったが若者の話を聞いてみた。気づかされたのは若者の経済的苦境だった。香港大学には現地人・本土人・留学生の3グループがあり、現地人学生の就職が最も厳しいという。広東語や英語だけではなかなか良い仕事にはありつけず、本土から来た優秀な学生たちが多国籍企業の本土進出の人材としてちやほやされているということだった。香港出身の若者たちにとって憧れの金融業への就職はまさに狭き門で、IT部門への就職は門戸が開かれているが、給料が非常に低かった。2010年代以降の若者を中心とした抵抗が、単純に政治問題でなく、経済問題が絡み合っていることを改めて実感した。   そういった若者たちの不満は解消されずむしろ膨らんでいった。それが2019年の法律改正の問題と相まって、中国政府に矛先が向かうようになったのだろう。これに対し中国政府は最初、トランプ(政権)との関係上、様子見の姿勢をとったが、コロナ禍の中で急速に規制を強めている。民主化運動の象徴とされた学生や起業家は次々と収監され、現在はほぼ芽が摘まれた状態だ。しかも、今年の全国人民代表大会(全人大)では「香港の代表者は愛国者に限る」といった法案が成立した。私は「国への愛し方」には様々なものがあり、人それぞれ違うと考える。そうした中で、香港では民主主義だけでなく、英統治下でもそれなりに守られていた自由が危うくなっている。世界的な支援の手が届かないコロナ時代は弾圧の格好の口実になっている。   韓国でも1980年代まで同様の理由で数多くの人(とりわけ大学生)が弾圧され、一部は国により殺害された。軍事政権は「内政干渉」を理由に、NGO等の介入を拒み続けていた。ただ、現在と構図が逆転している現象もあった。レーガン政権は全斗煥政権を認めていた。これに対し大学生らは米国大使館に対し「内政干渉(=独裁政権の認定)をやめろ」と叫ぶなど、反米運動を展開した。   香港に行くたびになぜか一度も欠かさずに登ったのが、夜景スポットのヴィクトリアピークだ。最後に訪れたのは2019年のことで、大規模デモの直前だった。しかし、霧があまりにもひどくて何も見えなかった。初めてのことで、まさに香港の未来を象徴するような光景だった。香港は中国だけでなく、アジアの民主主義の将来を占うカギを握っている。これからも香港をウォッチしなければならない。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。     2021年4月8日配信
  • 2021.04.01

    エッセイ665:フランコ・セレナ「私の『幸福の場』」

      日本に初めて足を踏み込んでから何年も経ったが、今でもその頃のことを忘れることができない。当時はホームステイしながら生活していた。出発前は楽しみで仕方なかったが、日本に住み着いてからすぐ様々な壁にぶつかって落ち込む日々が始まった。その気持ちの処理方法が分からなくて、ホームステイ先の寝室で眠りにつくと母国にいる夢を見ていたことを今でも鮮明に覚えている。長い年月が経過して、私は今も日本に住んでいる。初めて日本に来た私に会うことができれば、「慣れてくるものさ、なんとかなるよ」と励ましの言葉をかけてあげたい。それだけではない。何よりも一つの助言を与えたい。「これさえあればちょっと幸せだなと思える『幸福の場』を常に心の中に持っていたほうがいいよ」ということである。   日本文化と日本語に触れ始めたのは、小さい時から興味があったのではなく、単に家族に逆らうためだった。小学校の時から高校までは家族の期待に応えるためだけに勉学に励んでいて、学問に関してはこれを知りたいという好奇心がほとんどなく、学校の課題に漫然と取り組んでいた。反抗期というのは誰にでも訪れる。私の場合はそれが大学1年生の時だった。当時は家族の期待を押し切ってでも自分の意思を貫きたいという考えにとらわれていた。日本語と日本文化に関心がなかったにもかかわらず、家族の反対に耳を傾けることなく、大学で日本語と日本文化を勉強しようと決めた。しかし、ついに日本にやって来た時、日本のことを学ぶ動機が家族への反抗に過ぎず、日本の言葉と文化を学んできたのにその学習には心を込めたことがなかったことに気づいた。特に日本文化に対する理解を示そうとしても誤解されることがほとんどで、大学で学んできたことをむなしく感じていた。落胆して帰国することばかり考えていた。   その私を救ってくれたのは日本語の先生だった。先生は日本の伝統芸能の知識が豊富で、特に歌舞伎に精通していた。ある日、落ち込んでいる私を見て、歌舞伎を見てみないかと誘ってくれた。当時の私は何に対してもマイナス思考で、歌舞伎に対しては堅苦しい、分かりづらいという印象しかなく、わざわざ銀座まで歌舞伎を見に行くのは気が重かった。それでも断るのが得意でなかったので、不本位ながらその先生のお誘いを受けることになった。   歌舞伎座へ入った瞬間に、歌舞伎の世界は思っていたのとは別物だということに気づいた。公演の前に顧客が売店を見回ったり、演目の概要を読んだりしながらにぎやかにおしゃべりをしていた。なんか、楽しそうだなと薄々思い始めた。そして、公演が始まった。歌舞伎は動きが少なく、聞きなれていない日本語で延々と演技し続けるものかと思ったら、躍動感のある場面も多かった。動きは少なくてもそれぞれ美しく、少ないからこそ感情であふれている。気が付くと、歌舞伎役者の鍛錬された動きと美しい台詞に魅了されている私がいた。あっという間に5時間がたっていた。   公演が終わった時、ちょっとした幸福感に包まれていた。その時初めて、このように日常生活を忘れることができる「幸福の場」、歌舞伎がある日本をもっと理解したいと「心から」思った。私の日本の見方はがらりと変わった。多くの壁にぶつかって辛い思いをしても、自分だけの「幸福の場」があると何でも乗り越えられると思えるようになった。誤解されることがあっても、それをばねにしてどうやってこの誤解が解けるかに力を注ぐことにした。歌舞伎は私を救ったといっても過言ではない。   この経験から、昔の自分に会えばこんなことを言いたい。何かをやり始めるきっかけは様々な形で巡り合える。その中には、興味が湧いてきてつかんだきっかけもあれば、偶然に現れるきっかけもある。あるきかっけをつかめば人生の新たな道が開かれる。時には自分には合わない道を選ぶこともあるし、その道を必ず歩み続けなければいけないというわけでもない。それでも、「幸福の場」を見つけることができて、この道を歩み続けたいと思っているのであれば、間違った道ではないかもしれない。     英語版はこちら     <フランコ・セレナ Franco SERENA> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。イタリア共和国ベネト州出身。2015年度慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程(民事法学専攻)修了、2020年度慶應義塾大学院法学研究科後期博士課程(民事法学専攻)単位取得退学。2020年度より筑波大学社会・国際学群非常勤講師、2021年度より武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部専任講師。     2021年4月1日配信