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2008.04.29
葉 文昌様
SGRAかわらばん154号「差別化問題とグローバル化」を大変興味深く拝読しました。
日本のように人的資源以外なく、国土的にも小さな国がグローバル時代にどう生きるか考える上で、国際学会の話は示唆に富んでいますね。
しかし、「世界のセンター」は今の時代、本当に存在しているのでしょうか?また必要なのでしょうか?7年くらい前になりますが、「米国のホワイトハウスで政策立案に携わっている」という20代の女性と話す機会がありました。その時、「米国は世界の警察としての役割を担ってきたが、911事件以来それが揺らいでいる」と言われ、「そんなことを考えているのはアメリカくらいだ」と思い、そんなことを無邪気に信じている政策担当者に腰が抜けるほど驚きました。自分の周囲のことしか知らない人のことを「田舎者」と評することがありますが、その時は正直、「なんて田舎者的発想なのだろう」と思いました。アメリカだけが自分を世界のセンターと考えているのでは?(その人が少数派であることを祈ります。)
では逆に「世界の田舎者」は存在するのでしょうか。ここ数週間私が抱いている疑問です。
日本に関して言えば、今の日本は「世界の田舎者」になりつつあるのではないかと心配しています。その理由は第一に発信力が弱いこと、第二に日本以外の他者を知ることへの探究心が弱まっているような印象を最近受けるからです。
一つ目の発信力に関する要素の大部分は、英語力の弱さにあると思います。日本の公立の小中学校における英語教育のあり方には目を覆いたくなるものがあります。もちろん「英語力=グローバル(ビジネス力)」ではありませんが、国際社会で共通語ができないために効果的な主張ができにくいことは確かです。そして企画力やアピール力の弱さも挙げられるでしょう。昨年シンガポールに旅行しましたが、その際、韓国観光局によるCMの多さに驚きました。日本でも良く知られた俳優を起用したCMを放送したり、伝統だけでなくエネルギッシュな韓国の「今」を紹介するCMなど大変よくできていました。恐らくテレビの放送枠を買い取って放映しているのでしょう。
二つ目の問題に関しては、日本人に限った問題ではなく、そして外国だけでなく自国内の問題への無関心という点で日本以外の他国の人々も同様かもしれません。以前、日本に留学していた裕福なフィリピン人学生が、スモーキーマウンテン等に象徴されるフィリピン内の貧しい人々の状況を、日本のメディアを通して初めて知ったということがありました。彼女は裕福な家庭出身のため、自国内で貧しい人たちと接点がなく、知らなかったのです。そしてその貧しい人たちに外国人が支援をしているという実態を知り、「自分も帰国したら、彼らのために何かボランティアをしたい」と話していたそうです。
もうひとつの例としては、私が日本語教師をしていた時、中国人学生同士でも民族が異なると、互いに全く話をしないということがありました。教科書を忘れたある中国籍の少数民族の学生に、漢族の生徒の教科書を見せてもらうよう指示したところ、お互い話もしないし(授業中なのに)すぐに自分の席に戻ってしまうのです。教師の間ではよく知られていることらしいですが、新米教師だった私には大変ショックな出来事でした。日本に住む日本人だけでなく、世界中どこでも、多数派は往々にして自己中心的になりがちなのかもしれませんね。日本に留学していたウイグル族の留学生が帰国してみたら、いつの間にか漢族の町ができていて、膨大な数の漢族が移住してきていて、自分たちの文化が消されてしまうのではないかとショックを受けていたこともありました。
やや話が逸れてしまいましたが、「世界の田舎者とは自分と自分の周囲のことしか見ない人」と考えられないでしょうか。では「世界のセンター」とは何なのでしょうか。経済力、政治力、そして豊富な資源や文化的な影響力・・・。思いつくままに国力の要因と考えられるものを挙げてみましたが、これだけではないでしょう。しかし本当に今でも「世界のセンター」は必要とされているのでしょうか?交通機関の発達、留学生や移住者の増加、そして何よりインターネットの登場により、個々の発信力が強まった現在において必要なのは、「もっと違うこと」ではないでしょうか。
自国の情報源だけでなく、各国メディアを通して自国がどのように報道されているか、そして自分は本当に自分の国のことを知っているのか、「国は」でなく、「自分は」何を知りたくて、何をすべきなのか。それらを複数のメディアを通して、それらの意図やフィルターを考えた上で自分のすべきことをすることが必要なのではないでしょうか。
「国単位」だけでなく、「メディア」単位でも意図やフィルターはあります。日本のテレビ局や新聞社もそれぞれ主張や傾向があります。A社のトップニュースがB社では全く扱われないということもありますし、ある有名な海外政治家の発言が新聞社の主張に合わせた形に編集されて報道されたこともあります。そうなると各メディアの比較検討が個人レベルでも必要となってくるでしょうし、現在の技術はそれを容易にしていると思います。
私が大学に入学した時、国際関係論の教授は学生にイギリスの経済紙「FINANCIAL TIMES」を必ず読むように指導し、それに合わせた課題も出しました。なぜ「HERALD TRIBUNE」や「THE WALL STREET JOURNAL」でないのかと学生が質問すると、「日本ではアメリカの情報を簡単に入手できます。しかし世界はアメリカだけではありません。その複数の視点を養うためにイギリスの経済紙を選んだのです。本当はフランスの「LE MONDE」が良いのですが、フランス語を読みこなせる人はあまりいないと思うので」と答えられました。そして学部付属の図書館には「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」を初めとするアジアの雑誌も揃えられました。身近にそうした環境が整えられていたことは大変ありがたかったものです。
更に重要なのは、それらから得た知識を分かち合い、議論することではないでしょうか。気に入らないサイトに対するサイト攻撃などがありますが、そのような独りよがりになることなく、互いに議論する。まどろっこしく、牛歩にも似た動きのようですが、それこそが長い目で見ると、大きな力になると信じます。国家というのは常に自国の利益を優先する存在です。もし真の他者理解や交流を図るのであるならば、私たちは常に「私」という「個」に戻る必要があるでしょう。私が大学院生であった頃、チベット仏教を研究している学生が授業で研究発表をし、その後皆で議論をしました。その時ただ一人いた中国人学生は、自分が「クラスに一人の中国人」という立場であるためか、「中国政府擁護」に終始し、その場にいた学生は誰も中国人である彼女個人を非難していたわけではなかったのですが、結局議論は噛み合わないまま終わってしまいました。外国で自国の批判をされて気持ち良いはずがありませんが、問題は彼女がチベット問題を何も知らないまま政府擁護をしてしまったことにあるように思いました。
今回のオリンピックの聖火リレーで中国人留学生や中国系住民が祖国の聖火リレーを応援する気持ちはとても自然なものだと思います。しかしオーストラリアで行われたリレーで見たある映像には正直がっかりし、悲しくなりました。それはテレビのインタビュアーがチベット系住民にインタビューをしようとしたところ、中国人留学生たちが中国旗で画面を埋め尽くし、「One China!」の連呼でインタビューを打ち切ってしまった出来事です。その光景は正に、数に物を言わせた暴力として私の目には映りました。もしあの場に限らず、中国人留学生たちとチベット系住民の間で議論(対話)が生まれたらとても良かったのですが。
チベット問題に限らず、議論の結論が簡単につくとは思いません。もしかしたら結論がつかない議論を死ぬまで続けることになるのかもしれません。しかし「話し合う」、その事にこそ意味があり、互いに学べるのではないでしょうか。その意味で、「世界のセンター」ではなく、知の発信地が世界のあらゆる所にあり、議論(対話)が無数にあることを願ってやみません。私たちの時代にはもしかしたら何も解決しないかもしれませんが、長い人類の歴史の中で少しでもそうした動きが進歩のステップになれば、それで良いのではないでしょうか?
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<太田美行☆おおた・みゆき>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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2008.04.25
SGRAから、購読者の皆さんに質問しました。
「聖火リレーは続けるべきでしょうか」
■ 聖火リレー問題について意見を申し上げます。
チベット問題について一定の理解があるものの、今回のように聖火リレーを妨害することは下作だというしかありません。もともと聖火リレーは国際オリンピック委員会によるものであり、聖火は世界の平和を象徴するもので、聖火等を奪うようなテロ行為は本来なら世界が許すものではありません。ダライ・ラマ氏が言うように、暴力等をふるって問題を解決するものではありません。オリンピックを自分たちの政治に利用するのも卑怯です。中国政府に問題があるとしても、世界が望む四年に一度の平和の象徴のオリンピックを侮辱するのは決して許せるものではありません。平和的にオリンピックを行われることを祈っています。今回のような事件は、チベット問題を解決するのに何も役に立つことがないと思います。聖火リレーを妨害するのは得策ではないです。
■フランスで車椅子のランナーの手から聖火を奪う場面を見て、本当に驚きました。自由の国のフランスで、不自由な方にこのような恐怖を与えるのはわれわれ普通の人から見れば不思議でならないです。地球市民って難しいですね。いろいろな国々があって、それぞれの立場・利益からものの見方が変わってきます。日本のメディアも中国への非難一色で、聖火リレーを妨害する過激な行動が民主的ではないことは誰も批判しませんね。ま、どっちもどっちでよくわかりません
■私は縮小、或いはやめた方がいいと思います。本来の目的は達成しませんので、聖火リレーを続ける意味はないと考えます。
■今回の聖火リレーについては、本当にいろいろと考えさせられました。中国国内では、ナショナリスティックな意見も少なくないですが、マスコミは意外と冷静でした。リレーのトラブルに関する報道は規制されているせいか、衝撃な映像などはあまり流されていないです。
それに関連して、日本の報道ぶりに驚きました。上海の自宅で日本のNHKのニュースが見られるので、 聖火リレーの様子をキャッチできますが、昨日は衝撃を受けました。NHKの報道によると、インドネシアでの聖火リレーは中国政府の要請で専ら現地の運動場の中で行われたということでしたが、その直後、中国国内のニュースをみると、リレーは明らかに街の中でも行われている映像が流されていたのです。NHKも欧米のメディアと同じく、過大報道、中立でない報道、意図的な報道などといった問題を抱えているといわざるを得ないです。
チベットで起きた暴動事件などについても、真実はまだ見えないですが、マスコミの報道を単純に信じるのは危ないと強く感じました。中国政府を代弁するつもりはまったくないですが、今回の聖火リレー事件を通じて、中国国民が欧米諸国を見る目が変わったと思います。
日本での聖火リレーはどうなるか、注目したいです。
■北京に行ってきました。海外のテレビで流れている聖火リレーとそれをめぐる数々の騒動、およびそれによって出来上がっている北京五輪のイメージと、北京空港や北京街頭で体感した北京五輪の雰囲気とはだいぶ異なるような気がします。もちろん、私は今北京に住んでいないし、あくまでもこの4日間だけの滞在でしたので、私の「体感」もある意味ではこの4日間だけの私個人の感覚に過ぎないと思います。
しかし、昔に比べるとさわやかな緑(昔なら埃を被った緑)がずいぶん増えたなあとまず感心しました。まっすぐで大きい道路や立派な建物、そしてあの広々した開放感のある空間作り(それは昔もそうだったが、今はより広く感じられます)に癒されました。そして何よりも接してきた人々のあの親切さ、ホテルの人、タクシーの運転手、空港のスタッフ。みんな自然に笑顔があって心のゆとりを感じました。「ずいぶん変わったなあ」と感心しました。
海外のメディアはやはり海外のメディアらしく、彼らの意図や想像によって情報を取捨選択して流していると思います。もちろん、中国のメディアもそれなりの取捨選択で報道していると思いますが、しかしCNNの報道や、時には日本の民放の報道ぶりをみていると、彼らに中国のメディアを批判する権利はないなぁと思います。やり方はよりソフトに見えるかもしれませんが、情報操作とは言わなくても先入観があまりにも甚だしい。
私は普通の北京の人々が自然に笑顔で優しく接してくれるのが何よりも嬉しく思いました。もちろん中国にはまだ人権問題や環境問題など数多くの問題があります。程度の差はあるが、それはパリでも東京でもあると思います。しかし、中国人にも、北京オリンピックも含めて世界の人々と交流を深める中、自然な笑顔が溢れる「幸せ」を追求する権利はあります。そして北京で確実にそれが見えてきたのが何よりも嬉しいです。
海外のメディアは“洗練”されているかもしれませんが、その“洗練”の下には「アジア蔑視」「偏った先入観」が隠されているときもあります。“洗練”したカッコウをした「行き過ぎ報道」より、私にはタクシーの運転手や空港の若いスタッフ等の素朴な北京の人々のほうが正直で良いと思いました。
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2008.04.22
日本には他国にはない文化がある。それは茶の湯という飲茶の儀式とそこから生まれた侘び寂びの美意識である。茶の湯は分かっても、「侘び寂び」という言葉の意味については理解に困る。
私のような外国人には当然のことで、日本人でさえよく分かっていない気がする。私は正式にお茶を習ったことはない。研究対象が茶道具であるから茶道に興味がある程度であるが、「侘び」と「寂び」については今もたくさん考えさせられる。
鎌倉時代に中国から禅宗の飲茶法が導入されてから千利休(せんのりきゅう)の生きた安土・桃山の時代まで、美意識は、豪華で耽美的なものであったが、その反面、単純美を否定し、時を経て傷んだわびしい状態の美を肯定する精神的な美意識もあった。「侘び」とは広辞苑によると「①わぶること。わびしいこと。思いわずらうこと。②閑居を楽しむこと。また、その所。③閑寂な風趣。茶道・俳句などでいう。さび」とある。この説明では「侘び寂び」が何の意味かますます分からなくなる。基本的に「侘び」とは侘しい(わびしい)「寂び」とは寂しい(さびしい)という意味で捉えられる。
「寂び」は「錆び」とも書き、時間の流れによって古くなる様子、それが完全な美しさに到達していない、ある趣の美である。これには村田珠光の「草庵の茶」という新しい試みがあり、茶道具を通して形象化されたのである。草庵の茶とは四畳半という狭い空間で、飾り付けも少なくし、道具も歪みや不正形の、完全には物足りない道具で茶を点じることである。その後、紹鴎が踏襲し、ついにその弟子千利休が侘び茶を大成したのである。完全たる形、概念、日常、常識を超えて、あえて汚す、歪む、散らす美である。
それでは、日本でなぜ侘び・寂びの美意識が生まれたのか。武士政権が主導する日本とは違って王権政治をした朝鮮半島の例をみるといい。ごく簡単にいうと、政治面で日本は藩間の戦争が耐えることなく続いていたのに比べ、朝鮮は中央集権体制のもとで国内での戦いがなく、両班(文班と武班の貴族)のうち、文班(文臣)が権力を握るときが多かった。宗教面では、日本が華麗な仏教を中心にしたのに比べ、朝鮮時代は質素な儒教を支持していた。朝鮮でも飲茶の風習は古代からある。先祖に祭る祭祀を「茶禮」といい飲茶の痕跡は度々見られるが、茶室という特定の場所を設けてはいない。戦争のない平和な時代に茶室などは必要なかっただろう。
日本の場合は、江戸時代に入るまでは緊張を緩めることができない時代であった。俗世から離れて安らぎを求めるため、時には敵同士で非武装して向き合うため、ある時は仲間との親交の場として四畳半の空間はとても適したと思われる。生きるか死ぬか、勝つか負けるかの厳しい現実で、失敗は許されなく、全て完璧さが求められたに違いない。その現実において、四畳半の窮屈な茶室で完全とはいえない茶碗でお茶を飲む。これこそ究極の安らぎの空間であり、自分を見極める瞬間であっただろう。そして、こういう時代であったからこそ生じた茶の湯の文化、侘び寂びではないかと思われる。
茶の湯は今の日本を豊かにしたといっても過言ではない。茶の湯が残した数多くの美術品は人々の心を豊かにし、それを求めて各地を巡った商人の活動は日本が経済大国になる基礎になったのではないかと考える。文化は力なり。茶の湯は日本の大きな力となった大事な文化であるといえよう。
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<徐 景淑 (ソ・キョンスク) ☆ Seo Kyoung Sook>
韓国釜山の東亜大学芸術学部工芸学科(陶磁工芸専攻)卒。現在、慶応義塾大学大学院文学研究科(美学美術史学専攻)博士課程で高麗茶碗の研究をしている。SGRA会員。
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*このエッセイは、2006年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。
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2008.04.20
去る3月の総統選で当選した馬英九は22日に中華民国第12代総統に就任し、台湾は新たな時代に入る。馬英九時代の中台関係は改善する方向へ進むだろうと期待されているが、その根拠には必ずしも十分な説得力をもつとは限らない。中台関係は果たして蜜月の時代になるか。馬氏の強みと弱みを探ってみたい。
陳水扁時代の民進党政権は、中国に対話の相手として一貫して承認されてこなかった。そのため、1990年、李登輝時代に設置された中台間の実務窓口である台湾側の海峡交流基金会と、中国側の海峡両岸関係協会によるハイレベルの対話も事実上ストップしたままであった。中台対話中断の背景には「台湾独立」を掲げる民進党に対する中国側の深い不信感がある。
一方、当時の国民党主席・連戦氏は、2005年に57年ぶりに中国本土を訪問し、共産党との歴史的和解の道を開いた。その後4回にわたって国民党と中国による経済フォーラムが開催され、経済分野における台湾の中国進出の便宜図りに実績を積んだ。
これは両岸関係における国民党の強みにもなり、こうした中国の発展の勢いを台湾経済の活性化にうまく利用しようとする姿勢が、今回の台湾の政権交代につながったものとみることができる。
しかし、中台の政治的対話の進展や台湾の国際社会における存在感の強化については、楽観視できる材料が必ずしも多くない。馬氏個人の中国との交流歴はほとんどないばかりか、これまでにも中国を批判する言動が少なくない。
例えば、毎年6月の天安門事件記念座談会への出席や、「反国家分裂法」への反対、共産党独裁に関する批判文の発表、法輪功に対する寛容的対応の呼び掛け、そして最近のチベット問題に対する中国への批判など、これらはいずれも中国の逆鱗に触れるものであった。
また、馬氏は一昨年、国民党主席在任中に「独立は台湾の未来における選択肢の一つ」という新聞広告を出し、さらに昨年、総統選における国民党候補の公認になった後、「国連復帰」を求める住民投票を推進していた。これら一連の行動は中国の怒りを買うことにもなった。
ただし、馬氏は昨年の暮れから中国に妥協する姿勢も示した。中国は、民進党の「国連加盟」とともに国民党が自ら進めている「国連復帰」の住民投票に対し、アメリカや日本といった台湾に影響力のある国への反対表明呼び掛けを成功させたと同時に、国民党名誉主席の連戦氏や、中国に進出している台湾企業などにもボイコットを呼び掛けさせた。
こうして、これまであくまで自らの立場を堅持した馬氏は最終的に中国に屈服し、「国連復帰」を含めた住民投票のボイコットを事実上容認し、不成立に追い込んだのであった。
馬英九氏の台湾新総統就任によって、中国との両岸間の経済関係や人的交流は今後一層強化されるだろうが、政治的対話は果たしてどの程度進むかは依然不透明のままである。両岸の統一について、馬氏は任期中協議しないと公約したため、今後は、馬氏が承認を強く求めている台湾の地位をどう扱うかということが焦点になる。
これまで中国は台湾を自らの一つの省としか公式に認めず、台湾の国際社会における存在感の強化を厳格に阻止してきた。中国は李登輝政権の後半から陳水扁政権にかけて、台湾が希求してきた国連復帰(もしくは加盟)や世界保健機関(WHO)への加盟キャンペーンを「台湾独立の動き」として片づけてきた。
しかし、これらの動きに対しては国民党も支持し推進してきた。来る馬英九新時代においては、このようなキャンペーンは今後も継続されるか、国民党の選択を迫られる一方で、中国にもプレッシャーを与えている。
なぜならば、馬氏は北京の顔を伺いながら、国際地位の強化運動を止めることになれば、台湾内部からの反発を受け、政権の安定に悪影響を及ぼすことになるからである。しかし、統一派のイメージが鮮明な馬氏が、もしこのような運動を継続させた場合、中国は苦しい立場に追い込まれることになる。
というのは、もしそれを同じく「台湾独立」の動きとして批判するならば、両岸の民衆のみならず海外数千万の華僑・華人からの支持が得られない。そればかりか、そうすると台湾社会は朝野を問わず皆独立に傾斜することになり、これまで独立派は少数にすぎないという中国自らの主張と矛盾するだけでなく、台湾の遠心力を阻止できなかった、過去二十数年間の対台湾政策の失敗を事実上認めることになる。
国連やWHO加盟問題だけではない。そもそも中国は、これまで「総統」や「外交部」(外務省)と呼ばず「指導者」や「渉外部門」と台湾を「矮小化」する名称を使用してきた。これに対して強い不満を表明してきた馬氏は、名称の正常化要求を堅持する限り中台の摩擦は避けられない。
馬英九新時代の中台関係は、ますます目が離せなくなるに違いない。
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<林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John C. T. Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。
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*このエッセイは、『沖縄タイムス』朝刊3月30日、31日に発表された記事を加筆修正し、筆者と新聞社の許可を得て転載させていただきました。
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2008.04.15
「ヘアスプレー」というミュージカル映画を見た。60年代の黒人差別がまだ濃く残っていて且つ白人がメディアを牛耳っていたアメリカで、黒人のダンスの人気とは裏腹に舞台上演のチャンスを奪われたことをきっかけに、体形で差別されていた白人の女の子と、差別を良しとしない仲間の協力を得て、ついに黒人R&Bが大衆の支持を得て優勝したという内容である。この映画の中で、その頃は一般的であったであろう黒人や肥満などへの差別に対して、黒人と白人、肥満と普通、それぞれ多様であると訴えているところが印象的であった。
アメリカ社会は人種問題が激しい。それがない日本や台湾の方が住みやすいと日本と台湾に住む人々は言う。自分もかつてはこのような場所に生まれて良かったと胸を撫で下ろしていたものである。しかしエネルギー消費が増大すれば、地理的な活動範囲が拡大するは自然の摂理である。人間の歴史は、これまで幾度もそれを経験してきた。何らかの技術革新により人々の行動範囲は郷から県に広がり、また何らかの技術革新(例えば鉄砲)により県から国、そして何らかの技術革新(例えば発動機)により国から地球に広がった。そしてそれぞれの時代の中で、それまで郷内しか知りえなかった者が「よそ者」に抱く感覚や差別と、それまで国内しか知らなかった者が他国人に抱く感覚や差別は同じものだったと思う。だとすると単一民族とはある時点の特別な状態であって、差別問題はいつでも起こりうる。したがって60年代に社会の多様性を訴えて差別をなくす努力をしてきたアメリカは、グローバル時代を先取りしていたと言える。
昔、日本は単一民族国家だから外国人との付き合いに慣れていないと聞いたことがある。しかしグローバル化が進めば外国人との往来は益々増える一方で、それを拒むのは不可能である。また資源のない日本は外国との関わりを持つことによって豊かさを得ている面もある。開国する以上、一人よがりの中途半端な対応ではアジアからの人望を失う。人望を失えば人と金は集まらない。人と金が集まらなければ活気を失う。日本は開国することを選択した以上、中途半端な対応は許されず、今以上に外国人に対する意識の変革が求められているのだ。台湾人が日本に抱く感情の一つに「電子製品が優れている」ということがあるが、同時に「閉鎖的」とも聞く(多くは2~30年前のことが言い伝えられているが…)。日本はアジアからの人望がまだ不足しており、一流の人材は日本よりアメリカを選ぶようだ。そしてアメリカの影響力は強まり、電子製品ではアメリカと(日本を除く)アジアのグローバルスタンダードが出来上がる。そして日本の企業の業績に影響がでる。アジアと日本は近所なのに残念な話である。
ここで実例として産業に近い国際学会Aを紹介したい。この産業は日本が切り開いてきたが、その後韓国がトップの地位を確立したX産業に関する学会である。A学会は日本で設立され、毎年日本で開催される。組織委員会は大勢が日本の関連企業のお偉い役員で固められているが、その後韓国でこの産業が発達してきて研究レベルも向上したので、韓国人が主催を求めるのは当然の流れである。しかしこの学会の委員は頑なに外国での主催を拒んでいた。堪りかねた韓国人と日本人は、共同で同じ分野のB学会を設立し、毎年日本、韓国と台湾で掛け持って開催することにした。その際には、旗振り役の日本人研究者はA学会の人からクレームがついたそうである。また、B学会はその後ヨーロッパ人の要請でヨーロッパでも開催することになった。そしてこれをきっかけに、以前はアジアまで来なかったヨーロッパ人の参加者が増え、当然学会は益々盛り上がり、レベルが上昇するようになった。一体日本人組織委員だけで固められた学会に外国人が喜んで参加すると思うのであろうか?人が集まらねば当然高いレベルは維持できない。そして当然A学会はしぼんでいくことになろう。これは独善的な対応が行き詰ったことの実例である。このような状況はここで挙げた学会だけの話ではなく、他の分野でも起こっていると思う。日本では若い人ほど国際化に慣れている。国際化に彼らはうまく対応できよう。しかし問題は今会社の舵取りをしている世代なのである。グローバル化という時代の変革に適応していない人が少なからずいるのではないかと思う。
日本に牽引力がないのであれば、中国やアセアン諸国の一流人材を台湾に吸い込めたらどんなにいいかと思ったことがある。しかし一筋縄には行かないようだ。「台湾は外国人に親切と思うか」と台湾人に聞いてみると、「とても親切に接している」と言う。しかし彼らの言う「外国人」とは実際は自分より豊かな欧米諸国や日本からの外国人で、実は自分より貧しいアジアの国々の人に対しては「外国人」ではなく「外労」(外国人労働者の略称)として差別しているのである。6年前に台湾でかなりの規模の企業の工場を見学したことがあったが、本国人社員と外国人労働者の食堂が別々にあるのに気づいた。これは誰が見ても非効率である。そこで案内してくれた管理職の方に理由を聞いたところ、平然と「外国人労働者にはある種の寄生虫がいるから」と真顔で答えられた。このように日常的に差別が存在し過酷な搾取を受けているので、台湾ではこれまで外労の暴動が起きたこともある。日本人や欧米人にはやさしいが自分より貧しいアジアの国の人たちには厳しい。これでは弱い立場の平社員には厳しいが上司にはへつらう中間管理職と一緒である。当然部下からの人望は集められないし、偉くもなれない。たまたまリーダーになってしまったら、それは災の始まりである。だから台湾が他の国の人材を吸い込むのは難しい。
弱い立場の人間には厳しいので、皆学歴や家柄や人脈を強調して、自分を強く見せていじめられないようにする。台湾で路上の果物売りから果物を買っていた時に近所の人が通りかかったことがあった。後で「そんなやさしい顔をしていたら高く買わされるよ」とアドバイスを受けた。僕としては、相手は貧しい農民なのだから少しくらい高く買わされてもいいと思っていたのであるが、台湾ではそう考えないらしい。強い人にはへつらうが弱い人には厳しい。これは魯迅の言う阿Q精神で、中華文化の一部である。欧米的価値観では貴族の義務があって、社会上層にはより厳しい要求があると聞く。中華圏は反対で「貴族の権利」と「底辺の義務」しかなさそうだ。弱いものには厳しく当たるので弱い立場の辺境民族や農民は搾取の対象となる。そしてたまりかねて蜂起が起きる。これだから中国もリーダーの人望と品格は持ち得てない。
アメリカでは今や企業の雇用に国籍を問われないことが多く、世界から直接応募が集まり、企業も国籍問わずに対応すると聞く(註)。今後人々の地理的な活動範囲が増えればこの傾向は益々強まるであろう。それはアメリカが60年代に人種差別問題に真摯に取り組んだことがある程度影響しているのかもしれない。スポーツの世界でも、脂の載ったアジアの選手が次々と向こうに行って活躍し、給料以上の金をアメリカに集めさせている。「社会の発展は人にある」とすると、やはりこの先もアメリカが世界のセンターとして君臨続けるのではないかと思う。
註:http://nvc.nikkeibp.co.jp/report/jinji/leader/20070906_000701.html 参照。
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<葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。
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2008.04.11
「どこの出身ですか」と聞かれると、私はいつも口ごもってしまう。母の世代は「小三線」といえば、ある程度わかってもらえるが、私の世代となると、同じ経験を持つ人でない限り、もはや想像すらつかないだろう。
それは、たしか上海から500キロ離れた、安徽省積渓県、黄山という名勝地の麓だった。硯や墨、画仙紙、緑茶が有名で、清朝の大商人胡雪岩、五四文学革命の先駆者胡適、詩人汪静之、そしていまの国家主席胡錦濤など、有名人も輩出している。一方、洪水が多発し、夏になると、見わたす限りの濁流にわずか水牛の角と屋根が浮かんでいる。そのため、故郷を離れる難民が多いこともよく知られている。
私が幼少時代を過ごしたのは、この安徽省の山奥にある「上海光輝器材厰(工場)」というところだった。もう少し奥には、「万里厰」があって、ほかに「赤星」、「燎原」、「前進」といった工場もある。こうした山奥に作られた工場で働く上海人たちは、自分たちのことを「山裏人=山のなかの人」と呼ぶ。1980年代半ばごろ、工場が廃業し、彼らは一斉に上海に戻り、時計会社や、カメラ会社、製紙会社、洗剤会社、製鉄所、造船所などで働くことになるが、同郷の誼の代わりに、「山裏人」という固い絆で結ばれている。そして、私たちは、「山裏人の子ども」という奇妙なアイデンティティを共有することとなる。
工場は国産ブランドの置時計の部品を作っていた。が、かつて砲弾をつくる軍需工場だったことは一度も聞かされなかった。今思えば、このような交通不便な山奥で置時計を作ることも、近くの山頂に大砲が置いてあるのは山の猛獣を脅かすためだという大人たちの説明も、腑に落ちないものだ。真実が教えられていないことに対して不満をもっているわけではない。当事者は往々にして饒舌ではなく、寡黙なのだ。ただ、現実に疑問を呈する姿勢と矛盾を追究する方法が、私たちの教育には決定的に抜け落ちている。
正確に言えば、工場ではなく、街だった。地元の農民から土地を徴用し、道路、浄水場、マンション、幼稚園、学校、食堂、図書館、保健所など、生活に必要な施設はすべて揃っていた。マンションには水洗トイレがあるが、ガスはない。一階に住んでいたため、母は家の前の空き地を利用して、かまどのある厨房と、鶏やアヒルの小屋を作った。毎朝、アヒルを川に追い込み、夕方に家に連れて帰るのが私の日課だった。卵を産まなくなる鶏を食べて、その骨を細かく砕いて餌にする。雄鶏の尾羽を使って玩具を作る。アヒルの産毛はきれいに洗い、干してからダウンジャケットに使う。職員は朝がた県の市場から野菜を仕入れる。母は毎朝必要な野菜を日めくりカレンダーの裏に書いて、バスケットに付けてある洗濯挟みに挟んでおく。そして、私が学校に行くついでにバスケットを野菜売り場に預けて、夕方帰るときに取りに行く。今風に言えば、きわめて環境に優しい生活だった。母は石臼で豆乳を作り、お正月には団子用のもち米を挽いていた。一度、挽肉をつくる器械を使ってみたが、器械を組み立てたり洗ったりするのが面倒だったからか、それとも味に不満があったからか、結局包丁で叩くことに戻った。「過去の生活には戻れない」とよく聞くが、母にとって、「近代化」や「効率化」と「進歩」とは少しも結びつかない。生活に必要であれば、いくらでも「後退」することができる。そもそも、彼女からみれば、「進歩」するのは、経験から培われる智恵のみである。それに従わずに、知識や理屈を信奉するほど愚かなことはない。
都会からみれば、五階建てのマンションに住みながら、かまどを使い、家禽を飼う生活は、かなり奇妙ではあるが、地元の農民の自給自足(自足しているかどうかは別として)の生活とも一線を画している。農民たちは川の向こう側で畑を耕し、上海人は川のこちら側で旋盤を動かす。それぞれの技術で懸命に生きている。時には、農民たちが豚肉を担いで売りに来たり、上海人が水道を引いてあげたり、地元の大工さんに家具を作ってもらったりはするが、互いの交流はそれほど盛んではなかった。子供の世界も変わりはない。上海人の子どもたちは、川のこちら側の子弟学校で学び、地元の子どもたちは、川の向こう側の学校で学ぶ。山道で偶然出会ってもにらみ合うことがあるほど、互いに「違い」を意識していた。農地が徴用され、工場で働くことになった人もいるが、やはり上海人のなかに完全に溶け込んでいないようだった。あるいは、上海人が彼らを完全に仲間として受け入れていなかったのかもしれない。その子どもたちは、私たちと一緒に子弟学校で学んでいた。おかげで、野いちごのような美味しいものが食べられたが、ツツジの花びらや生のソラマメなど、まずいものも随分食わされた。それにしても、どこかが違うということは、おぼろげにも分かっていた。こんな山奥にある弾丸の地でも、差別意識は歴然と存在していた。恐ろしいことに、幼い子どもでもこうした差別意識を利用し、悪事を働いたら農民の子に罪をなすりつけることを覚えた。
小学校は、丘の中腹にあった。山は天然の校庭。自然科学の授業はつまらないが、バッタや蟷螂や蛙、そして毎年岩場で咲き乱れるツツジから、生命とは何かを教わった。それは、動物との触れあいの中で命の愛おしさを知るといった奇麗事ではない。むしろ、殺しても殺しても殺しきれないという厳然たる事実から、あらゆる生物に対する畏怖の念が生まれたのである。ペットショップや動物園、水族館に囲まれた子どもたちは、征服者としての人間の傲慢さしか知らない。現代社会は、自然を前に人間が覚えるもっとも基本的な感情の一つである恐怖を、子どもたちから確実に奪っている。
小学校の先生たちは、授業中は先生であるが、放課後は隣人でもある。たとえば、数学の先生は同じマンションの四階、美術の先生は六階、校長先生はむかい側のマンションに住んでいる。三人とも奥さんに尻に敷かれていることも、子どもながらよく知っている。四階の数学の先生の奥さんが「早く夕食の支度を」という先生への伝言を母に頼んだが、使いに行かされた私は怖くて伝えられなかった。そのせいで先生が奥さんに叱られたことを、いまでも申し訳なく思っている。遠足のときには一人の先生が何人かの生徒と一緒に行動することが決まりだったが、私はいつも美術の先生と一緒だった。二人とも無口で、不器用で、即かず離れずにぼうっと歩いていたことをかすかに覚えている。
低学年のクラスには、まだ十数名の児童がいるが、高学年となると、将来上海市の中学校で良い教育が受けられるように、親たちは大半心を鬼にして子どもを上海の親戚に預ける。もっとも、預かってくれる親戚がいれば、という幸運な場合に限った話だが。実際、兄にはいたが、私にはいなかった。ただ、私のほうがもっと幸運だった。(続く)
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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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2008.04.09
今、僕は社会科学を専門としている。でも、数年前から、以前専門としていた工学を凄く恋しく感じるようになった。その理由の一つは、やはり、ものづくり大国の日本に長年住んできたことにあるだろう。これって、厳しい冬の寒さの後に待ち受ける花粉症のように、長く東京に住むとかかってしまう病気なのかもしれない。
僕はフィリピン大学の機械工学部を卒業してエンジニアになった。卒業後数年間、フィリピンのものづくりの現場である国営の造船所で働いた。家族が住むマニラから離れた、道路などのインフラが乏しい田舎にある造船所で、自然と海に続いている土地だった。東京人のように歩く習慣のないマニラ人にとっても、歩いていける距離に宿舎があり、何かあるとすぐに呼びだされた。エンジニアの生活はキツイとしばしば感じた。溶接の火花が飛び散ったり、何トンもの機材を運ぶ重機が移動したり、吸い込みすぎると毒性のある塗料や化学薬品の蒸気が満ちていたり、エックス線による船体の検査が外野で行われたり、船底塗料の準備工程で高圧の砂吹きが行われたりする危険な職場だった。錆びだらけの、または油でぬるぬるした船内の奥隅まで入り込まなければならないこともあり、そんな時には体中がむずむずした。寝る前のシャワーが毎日の小さなお祭と感じさせるような実に汚い仕事であった。
だけども、幼いころからエンジニアという夢をみていた僕にとっては、その血が騒ぐ現場でもあった。フィリピンで当時初めての最大級の船の建設にも関わったこともあり、非常に誇りに思った。この現場で人生を過ごすという覚悟もした。土地の娘と結婚して家族を設けても可笑しくない時期に、工学ではなく社会科学を学ぶ機会を提供する奨学金を得ることになった。そして、経済学の道を歩みはじめるために、造船所を去って都会に戻ることになった。それから更に日本に渡って経済学を研究することになり、現在に至る。工学から足を洗った数年後、あの造船所はシンガポールの造船会社に買収されたと聞いた。
しかし、冒頭に述べたように、数年前からエンジニアの血がまた騒ぎ始めた。どんな形でもいいからまた船づくりと関わりたくてたまらない。あの手この手で探ってみた。先ずは日本のいろいろな門を叩いてみた。大学の休みの間に研修させてくれませんか?数ヶ月かけて造船工学を復習して資格を取得できないでしょうか?無視、無理。ああそうだ、経済学から攻めてみたらどうでしょう。そのうち、ある日本の造船大手企業がフィリピンに進出していることがわかった。東京にある窓口と連絡を取ったら丁寧に応対してくれたが、研究の許可はおりなかった。それならば、ちょうどフィリピンの製造業系の経済特区について研究しているから、どこかで接点があるのではないか。調べてみたら、日本、韓国、シンガポールの企業が3社、フィリピンの経済特区に造船所を建設する許可をすでに得たか申請中だということがわかった。そこで、今までの経済特区の研究でお世話になった認証機関の政府管理局に相談したところ、ぜひ研究してほしいと歓迎された。しかし、その後何度も連絡してみたが、なんだかの理由で相手にされず、「まさかここでも無視か」とがっかりした。
そうこうしているうちに、ほとんどが日系企業のフィリピンの自動車産業から熱い研究依頼がきた。こちらはSGRAの共同研究プロジェクトとして進行中である。フィリピンの自動車産業は、東アジアで進行している自動車産業の分業化で大変悩んでいるらしい。そのときに気がついた。もしかしたら、今フィリピンの造船業は栄えていて大きな悩みがないから研究の必要性があまりないのではないか。
更に調べてみると、前述の3社の造船企業のうち、日系企業と韓国系企業の造船所だけでも、なんとフィリピンの造船産業を日本、韓国、中国についで世界第4位にするほど大きなものであるという記事を見つけた。しかも、昔僕が誇りに思った最大級の船の10倍以上性能を備えた船を作っている。凄い!更に調べてみると、アメリカで教育を受けた、あの造船所の元幹部のS氏のウェブサイトに辿り着いた。S氏は韓国系大手造船所が位置する経済特区の会長兼フィリピン造船所の副会長として勤めている。連絡しても無視されたのは僕の研究を危険と感じたのではないか。彼らの防疫線を突破するのも難しいかもしれない。
その経済特区は1992年まで米海軍の基地だったが、比米の基地協定が終了したあと、フィリピン政府に返還されたスービックというところにある。SGRAフォーラムにも参加してくださったフィリピンアジア太平洋大学のヴィリエガス先生の評価によると、シンガポール経済の原点ともいうべき戦略的な立地にある港の3倍の面積を有するという。その場所を厳選した米海軍が撤退したあと、地域経済はドンと低迷したが、経済特区としてその戦略的な要素を生かした政策によって、スービック地域は再び栄え始めているようである。
日本に長く住んでいると東アジアの奇跡とも呼ばれる「共有型成長」の原点はものづくりだとわかってきた。最近の日本はその原点を忘れかけているように見受けられるが、それでも、それは、フィリピンがまだ体験したことがない奇跡なのである。前述のように、エンジニアだった僕は造船所で限界を感じ社会科学に移った。その限界というのは、ものづくりに対する当時のフィリピンの資源不足だったと思う。エンジニアたちがさらに勉強できるような支援がほとんどなかったのはそのひとつの例である。エンジニアとしての僕は、フィリピンの発展に貢献するという使命感を果たせなかった。しかし、今、ものづくり(船づくり)によって、いかに母国にも念願の共有型成長を実現できるかを追究することが、エンジニアの僕から経済学者の僕に託された課題だと感じている。
昨日、やっとあの元幹部からの返事がきた。いつでもスービックに大歓迎だという。SGRA日比共同研究をするために、今度の春休みに帰国したら必ず尋ねて僕の原点に戻りたいと思う。
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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2008.04.04
2月下旬、私の母方の祖母が亡くなった。100歳6ヶ月。なんと一世紀以上も生きたのだ。
祖母はいわゆる戦争未亡人、夫が戦争で亡くなった人である。祖父は自分の兄の会社で働いていたが戦争に召集され、輸送船に乗っているところをソロモン海付近で攻撃され38歳で亡くなった。その時祖母は30代半ば、12歳の息子を筆頭に下は2歳までの、4人の子供を抱えて未亡人となってしまった。今の私と同じくらいの歳で一家を支えることになった。
祖父は勤め人だったが、副業として小さなガソリンスタンドを経営しており、祖母が担当していたが、それが急遽メインの商売となり、社長として運営に当たることになった。昔の人は現代の若者より成熟度が高かったといわれるが、遺体のない空っぽの棺が届き、亡くなった日も正式には不明、詳しい状況を知る人もいないといわれた、その時の祖母の気持ちを考えると、どれほどつらかったろうと胸が痛む。
そして追い討ちをかけるかのごとく、政府により統制下にあったガソリンは、更に統制の度合いを強められた。ガソリンスタンドは「各地域に一軒のみ」と決められた。想像がつくと思うが「女が経営する店」の立場は決して良いものではない。この時、亡くなった祖父の長兄が役所に行き、「お国に一命を捧げた勇士の遺族を、国は見殺しにするのですか」と言い、この言葉のおかげで祖母の店は「各地域に一軒」に残ることができた。もし店が閉鎖されていれば、私はもしかすると生まれていなかったかもしれない。
もともと頭が良くしっかり者の祖母は、新聞はもとより経済雑誌を読み、国会中継をよく見ていた。そして近所の人が驚くほどの博識だった。知識欲も旺盛で若い頃は、通信教育でローマ字を学んだそうだ。後に長男(私の伯父)が成人した後も社長として経営に当たっていた。私が子供の頃は既に仕事から引退し、庭いじり等を楽しむ日々だったが、常に時事問題をチェックしていた。
私の記憶にある祖母はいつもニコニコと微笑んでいて、苦労のかけらも見せない「優しいおばあちゃん」、また母方の祖母で一緒に住んでいなかったこともあり、私もそんな苦労があったとは考えたことすらなかった。しかし大人になるにつれ、母が時折語る話や、祖父の兄弟についてまとめた本などから、祖母の微笑みの裏にある苦労が想像できるようになった。また95歳を過ぎた頃、一度だけ何かの弾みで出てきた言葉の切れ端から、祖母が多くの愚痴や不満を飲み込み、自分の胸ひとつにしまっておいてきたかを知った。
100歳近くになって、もう周りのことがあまりわからなくなってきてから、耳元で話しかけると、「お店」とつぶやいたことがあった。祖母の中でいつまで経っても心配事だったのだろう。そう思い、すぐに「お店は息子さんたちがしっかりやっていますよ」と大声で答えたが・・・。今となってはそれが伝わっていたことを祈るのみである。祖母が亡くなる前に、こうした軌跡を知っておいて良かったと思っている。歳をとった祖母の手をなでる時、耳元で話しかける時、こうした苦労を知っていることが、愛情だけでない、何らかの尊敬の念も込めることができたような気がしたからだ。よく「老人ホームで、赤ちゃんに話しかけるような言葉で老人に話す職員がいて不快」という投書を新聞で見かけるが同感だ。今では赤ちゃんのようになってしまった人でも、かつては素晴らしい生き方をしてきたもしれないのだから。
私の祖母は無名の人である。何か大きな業績をあげた訳でも、大発見をした訳でもない。しかし4人の子の母として、また小さな会社の経営者として立派に生きた。戦中、戦後、祖母のような人が限りなくいたことだろう。その人たちが今日の繁栄を築いてきた。生前祖母はよく言っていたそうだ。「うちもお父さんが早くに亡くなったから、みんなこうして仲良く真面目にやってきたけど・・・、お父さんが生きていたらまた違っていたかもしれないね。」
「一病息災」という言葉がある。健康に自信のある人よりも、どこか病気のある人の方が健康に気をつけるので、逆に長生きすることの例えだが、「一家の主の死」という不幸をきっかけにして逆に、幸せを頑張って築いたという見方もできるかもしれない。
祖母の生きた時代は今と違って女性の生きる選択肢が多くなかった時代であり、また与えられた境遇は自ら選択したものでもなかった。しかしその中で祖母は「幸せ」を自ら選び、築き、自分の道をしっかりと切り開いて歩んできた。そのことに私は(身内のことで恐縮だが)限りなく尊敬の念を覚える。
家族とのコミュニケーションが少ないとされる現代だが、皆さんにもぜひとも自分の家族史を知ってほしい。意外な人の助けや、皆さんのご先祖のがんばりで今日の自分が生かされていることに気づくから。納棺、通夜、告別式などの葬儀一連の儀式の時、私の目の前にいたのは「優しかったおばあちゃん」というよりもむしろ、「自分の道を戦って切り開いた、尊敬すべき女性」だった。
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<太田美行(おおた・みゆき)☆ Ota Miyuki>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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2008.04.02
来日二年目からある留学生寮に住んだ。当時、そこに入居するには「北京出身」という条件があった。わたしは北京で4年間勉強したことがあったから、厳しい選考を経て、そこに入ることができた。寮は立派で、共同の食堂と厨房があった。そこに住んでいる留学生たちはよく十数人くらいで集まって、一緒に料理を作って一緒に食べていた。皆と行動を共にしないわたしは、いつも厨房で自分の料理を作って、自室に持って帰って食べるのであった。偶然にも、わたしが料理を作る時、彼らもいつも厨房で料理をしていた。厨房と食堂はいつもにぎやかであったが、わたしは彼らとほとんど会話しなかった。
肉食に慣れたわたしは、日本に来ても、料理をする際、必ず肉をいっぱい入れる。1パックの牛肉を買ったら、そのまま、その肉を全部鍋に入れて煮る。或いは炒める。ある日、隣で料理をしているひとりの留学生が、わたしの料理を見て、「あなたはこれを何日間食べるの?」と聞いた。
「一食だけ」
「へぇー?うっそ~!あたなは1回でわたしたちの10人分を食べてしまうの?」と、その人は驚いた。
「これはわたしの分だよ」とわたしは言いながら、できあがった料理を大きな皿に入れて、自室に持ち帰った。
当時、わたしは、故郷から持ってきた干した牛肉や羊肉を材料にして料理を作っていた。干した肉を鍋に入れて、葱と塩を加え、1時間ほどじっくりと煮る。便利で、美味しい。1時間かかるから、火を弱火にして、一度自室に戻る。途中、1回だけ様子を見るが、できあがるまでずっと自室で本を読む。
そのように料理をし続けていたが、ある時期から、自分が干した肉で作っていた料理の量がよく足りなくなった。いつも決まった量で作ってきたので変るわけはないはずなのに、できあがった物がなぜ足りなくなったかと不思議に思った。そんなある日、いつものように、わたしは、干した肉を鍋に入れて、葱と塩を加え、弱火にかけて自室に戻った。30分後、厨房に様子を見に行ったら、何人かの留学生が慌てて、厨房から逃げ出した。「どうした?」と思いながら、厨房に入った。そこにはまだ一人の女の留学生がいて、口の中で何かを噛んで、笑いながら「皆に食べられちゃったよ」と言った。
自分の鍋を見たら、蓋が開いていて、鍋のなかの肉がだいぶ減っていた。わたしの不思議そうな顔を見て、「あなたがいない間、みんないつもあなたが作った肉を食べているんだよ。美味しい!」と、その女性が正直に言った。なるほど、彼らに食べられてしまったのか。だから最近の夕食の肉はいつも足りなかったのだ。
わたしは怒らなかった。まだできあがっていないものが我慢できない人々に食べられてしまうのは、その料理の魅了を物語っているのではないかと思った。
日本に来る前から刺身のことを知っていたから、日本に来た時には刺身をすぐ受け入れることができ、好きになった。ただし、日本人は魚だけではなく、鶏肉、牛肉、馬肉も生で食べるのは、知らなかった。
5年前、中国から来た代表団の通訳を勤めていた。ある日の夕食はステーキだった。店員は「ブルー(少し焼いて、ほぼ生に近い状態)にするか、レアー(ほぼ全体に色が変っているが、肉汁は生に近い状態)にするか、それともウェルダン(よく焼いたもの)にするか、レアーとウェルダンの間のミディアムにするか」と聞かれた時、わたしは、訳しながら、ステーキを食べたことのない代表団のメンバーにウェルダンを勧めた。ところが、代表団のメンバーのなかには、やわらかく焼いたステーキを食べたい人もいて、ウェルダンを注文した人もいれば、ミディアムやレアーやブルーを注文した人もいた。
「ステーキ」ってどんなものか皆楽しみにしていた。しかし、店員が出来上がったステーキを持ってきたら、代表団のメンバーはほぼ全員「ええ、これは生じゃないか。血も付いているよ」と不満だった。結局、日本の招待側と通訳のわたし以外、代表団のメンバー全員がシェフにお願いして、できあがったステーキを細く切って、再び焼いてもらって食べたのである。しかし、それはステーキというより、肉炒めといったほうがふさわしい。
同じ頃、わたしが通訳として、ある日本の会社の代表団と一緒に、内モンゴルを訪れた。旅行前、日本人のみなさんは、モンゴル料理とお酒を受け入れられるかどうか心配していた。
レストラン・オラーンでおこなわれた歓迎宴会で、豪華なモンゴル料理が出された。前菜のなかで、モンゴル風のソーセージもあった。団長はとても気に入って、「なんて美味しいんだろう。このソーセージを食べて、日本に戻ったら、日本のソーセージを食べたくなくなる」と、ソーセージをたくさん食べた。
メイン料理の羊一頭の丸焼きが出されると、みんな「ほ~」と興奮して、カメラを出して、写真を撮った。みんな満足そうに、その羊の丸焼きを十分堪能した。
日本代表団をホテルまで送る途中のバスのなかで、招待側の、草原で育ったガイドは「モンゴル人は羊一頭の丸焼きを食べるけど、みなさんが食べたこの羊は、ほんとうのモンゴルの丸焼きのやり方と違うよ」と言った。つまり、彼から見れば、メイン料理に出した羊一頭の丸焼きは、純粋なモンゴル料理とはやはり違う。しかし、わたしから見れば、時代や環境の変化にしたがって、料理というものが変わるのは当然である。文化というものは変わらない部分もあれば、変わる部分もある。つまり魂になるものは変わってはいけないが、魂をよりいい方向へと生かしていくため、変化した環境のなかで生命力がある良いものを取り入れる必要があると思う。単に料理をみると、中華料理には、調味料のなかで「胡」が付いているもの、つまり外来品が少なくない。日本料理の場合、東洋のものもあれば、西洋のものも少なからず含まれている。モンゴル料理も、他民族の料理の良いところを取り入れて、発展していくのだ。
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<ボルジギン・フスレ☆ BORJIGIN Husel>
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「1945年の内モンゴル人民革命党の復活とその歴史的意義」など論文多数発表。
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2008.03.25
「モンゴル人は血のついた肉をそのまま食べるって本当?」
20数年前、北京大学に入った時、クラスメートに、よくこのように聞かれた。
当時、わたしが入ったクラスには「五湖四海」と呼ばれる中国各地域から来た学生が51人もいた。それなのに、かれらにとって、内モンゴルから来たわたしはまるで特別な存在であった。モンゴル人の衣食住、ひいてはデリケートな政治問題などについて、さまざまな質問があった。「家の入り口に男女二人の靴が置いてあったら、その部屋に入ってはいけないって本当?」とか、「冬、おしっこをしに行く時、棒を持って行かなければならないの?」とか、どこで得た「知識」なのか分からないが、受け売りで根拠のない話は少なくなかった。そのなかには、モンゴル人の飲食についての質問もたくさんあった。
わたしがミルクティーを作って飲んでいるのを見て、「これは何?」と聞いてくる。わたしの説明を聞いたら、「へぇー、なんでお茶にミルクを入れるの?」と、かれらはわたしが飲んでいるものが非常にまずそうだという顔をする。「改革開放」から間もなく、貧困からまだ脱出しておらず、長い間、雑穀を食う生活に慣れたかれらにとっては、牛乳は赤ちゃんの飲み物だ。大人は牛乳なんて飲まないし、お茶に牛乳を入れるのはさらに不思議である。わが家では、麺類にも牛乳やバターを入れて食べると話したら、かれらはさらに大騒ぎした。かれらにとって、わたしは遅れているのであり、野蛮なのである。
冒頭の質問にもどると、確かに遊牧民族であるモンゴル民族は羊肉、牛肉が好きである。草原で育てられ、汚染されていない新鮮な羊肉そのものの品質は当然良いし、それほど煮ずに食べられるし、スパイスやソースも不要、塩のみで十分に旨い。農耕民族によって小屋で育てられた家畜は、生まれてからの運動も少ないし、育てられた環境や餌などの原因も加わり、肉が硬く、品質管理が悪ければ衛生上の理由でよく煮なければならない。濃厚なソースや強いスパイスなどの調味料も要求される。
半年後、冬休みに帰省し、新学期が始まると、わたしは故郷からたくさんの土産を持って大学に戻った。そのなかには母親が作ってくれた牛肉、羊肉の料理もあった。物理学部の故郷の友人を呼んで、ルームメートと一緒にその肉を堪能しようとした。ルームメートは初めてこんなたくさんの肉を目にして、たいへん喜んだ。彼は「美味しい。美味しい。でも1回でこんなたくさんの肉を食べきれない」と言いながら、ナイフで脂身の部分を切り捨てて、赤身の部分だけを食べた。豪放に肉を食べていた同郷の友人が、それを見て少し怒りながら、「何で肉を捨てるんだ?」と聞いた。ルームメートは、「脂身は食べられないよ」と返事しながら、続けて脂身を切り捨てた。友人はわたしに「肉を大切にしないやつは肉を食べる資格がない。かれらに肉をあげるな」と言った。
卒業して地元の大学で勤務していた。1996年、北京で開催されたある学会に参加した時、北京に住んでいたモンゴル人の友人がしゃぶしゃぶの名門店「東来順」に招待してくれた。わたしたちがたくさん羊肉を注文したのを見て、ある店員は「あなたたちは何者ですか?」と訪ねてきた。わたしたちがモンゴル人であるのを知って、「わたしは満洲族だ」と、その店員はしゃべり始めた。「しゃぶしゃぶは美味しいでしょう。こんな美味しい料理は、あなたたちの祖先の発明だ」と、次の物語を語った。
ホビライ・ハーンがある戦役を指揮した際、お腹がすいていて、「肉を持って来い」と近衛の部下に命令した。戦闘の真最中で、料理はすぐ作れないから、命令を受けた部下はお湯を沸かしながら、「このまま塊の肉を入れたら、出来上がるのに時間がかかる。どうしたらいいか」と焦っていた。その瞬間、ひらめいた。彼は速やかに肉を薄く切って、沸いたばかりのお湯に肉を入れたとたん、すぐとり出して戦役を指揮している馬上のホビライ・ハーンに呈し続けた。大勝した後、ホビライ・ハーンがあの料理のことを思い出して、「戦闘中に食べた料理は誰が作ったのか」と聞いた。
その部下は、何かまずいものを作ってしまい、ハーンに怒られたと心配しながら、慌てて「わたしです」と名乗り出た。ホビライ・ハーンは、「こんな美味しい料理を、おのれ一人で食べていいのか。わが勇敢な将軍、戦士たちもねぎらってやろう」と、部下に新たにその料理を作らせて、将兵たちにご馳走した。こうして、しゃぶしゃぶという料理が生まれ、後世に伝わった。大清時代には、宮廷の料理として、有名だったという。
この伝説は、わたしが中学校の時、フフホトでも聞いていた。ただし、その主人公はホビライ・ハーンではなく、チンギス・ハーンであった。伝説はともかく、今や、しゃぶしゃぶという料理が東アジア各国で盛んになったのである。(つづく)