SGRAエッセイ

  • 2008.06.04

    エッセイ134:オリガ・ホメンコ「周りの人からもらう夢」

    彼はとても明るく微笑んでいる。慎重な目線と粘り強い性格のおまけにその明るい微笑がある。たくさん苦労をしたように見えない。言葉がとにかく多いのだ。言葉で「足りない部分」は体の動きで表す。話す時はよく動いている。その動きで言葉を伸ばそうというかのように。もしかしたら、その動きでよりたくさんの空間を獲得しようとしているかもしれない。小柄で、歳をとっても少年のようだ。見学で博物館に連れてこられた少年のように、何もかも面白くてすべてに触って見たいというような強い好奇心をもっている。だが「博物館」の代わりに「周りの世界」だ。人々は彼のエネルギーがどこから生まれてくるのかと考えている。毎日、朝から患者さんを診療して、午後は医学部で講義をやっているくらいエネルギーに溢れる人に見える。    ある日、彼の子どもの頃の話を聞いてその理由が良く分かった。彼は1930年代の後半にウクライナの中部の小さな村で生まれた。彼の名前は、伝統に従って、その日の聖人に因んでミハイローになった。5歳にならないうちに母親が病気で他界し、父親は別の女性と再婚した。継母には自分の子供がいて彼には冷たかった。    ミハイローがまだ小さかった時にある人にすごく強い印象を受け、それが将来の職業にもつながったようだ。ある日、彼の村に町から医者が来た。村は小さかったので看護婦しかいなかった。誰かが重い病気になり、医者を呼んだのだ。その「町から訪れた」医者は医療道具が入ったぴかぴかの茶色い皮のカバンを持ち、パチパチという音がするほどのりをつけた白衣を着ていた。彼の白衣は本当に太陽の光よりもぴかぴかに見えた。小さいミハイローにはそのように見えた。緑がいっぱいだった村で、白衣が白かった。ミハイローはその白衣をきた医者が「違う世界」の人に見えた。その「世界」には、畑仕事、牛の世話、そして冷たい継母がいなかった。また大好きだった母親を救えた職業だった。その人を見て10歳のミハイローは医者になることを決めた。医者という仕事の内容も良く分からなかったけど、絶対医者なると決めた。    15歳になった時に家を出て遠くに行った。その行き先の町にはぼた山が多く、仕事帰りの男性は皆疲れて顔が黒くなっていた。その東部の町で、彼は医科短大に入学し、3年間パンと水ばかり食い、熱心に医学を学んだ。実家にはあまり帰らなかった。誰も待っていなかったし。彼はこの知らない町で自分の新しい居場所を探していた。炭鉱の給料が良いと聞き、そこでアルバイトをしようとした。炭鉱夫として。だが年齢や身体的な理由で炭鉱夫になれなかった。しかし夜間講座を受けて測量士になり石炭を計ることになった。一日3時間だけ寝て、短大の朝の授業にも必ず出た。そして授業にでる時も顔が黒くなっていることを誇りに思っていた。誰も「顔をちゃんと洗いなさい」とは言えなかった。なぜならその町では炭鉱の仕事で顔が黒くなっているのは、「仲間入り」したと同じことだったから。彼は、遠い町での居場所も見つけ、「仲間入り」もできた。    短大卒業後、医学部に入学できたので炭鉱のアルバイトを辞めた。6年間医学部で勉強し医者になった。彼の村では初めての医者だったみたいだ。それからもう46年間医者として勤めている。今までいろいろな患者さんを診て多くの人を救った。   ミハイローは私の友達の父親だ。学生時代の仲の良い友達だったから、病院に遊び(見学)に行ったことがある。その時、どうしてパチパチするぐらい白衣にのりを付け過ぎるのか疑問に思った。彼が歩くとそののりをつけすぎた白衣が変な音をたてていた。それに、まるで誰かの古い靴を借りてきたように、サイズの合わない靴をずるずるひきずるような音を立てて歩いていた。だが彼はそれを気にしていなかったみたいだ。逆にそれが好きだったようだ。こんな変な質問は、聞きたくても聞けなかった。    そんなある日、彼が子どもの頃の話を聞かせてくれた。その話を聞いて感動した。その時に初めてそのパチパチとする音は、彼の子どもの頃の夢をかなえた音だったと知った。そして、小さい時に自分の周りにいる人から、その人が知らなくても<夢>をもらうことができるのだと知った。そして夢は原動力となり人生を変えることもできると感じた。友達の父親を見て、夢に向かって努力を尽くせば何でもかなえるとも思った。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------  
  • 2008.06.01

    SGRA会則

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  • 2008.06.01

    2006-2007年度収支決算書

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  • 2008.06.01

    2008年度事業計画

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  • 2008.06.01

    2006-2007年度事業報告

    研究会会則第2条および2006・2007年度事業計画に沿って下記のリンクとおり活動した。 こちらへ  
  • 2008.06.01

    SGRAレポート(バックナンバーのご案内)

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  • 2008.06.01

    2008年度収支予算

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  • 2008.05.30

    ミャンマーのナルギス被災者支援プロジェクトにご協力ください!

    ■ ナルギス被災者支援プロジェクト (ヤンゴンのキン・マウン・トウエさんより)   現在、ミャンマーへ様々な国や国際事業団体などから御支援がきています。全て軍隊が管理して仕分け配分を行っていますが、支援物を今でももらっていない村や人々が多く、不満の声がかなり出ています。恥ずかしい話ですが、一部市場に販売されている話まで出ています。   民間レベルで直接現地まで行って支援しているボランテアグループもあります。現在、私も日本から今月21日に出るコンテナで運ばれる古着2トンを待っており、私自身でも古着などを買い求めました。薬品を送っていただくことも考えたのですが、なかなか難しいことがありましてあきらめました。   そこで、日本の友人の森峰生さん相談して募金を受けることにしました。ご寄付は国内で必要な薬や食べ物などの購入に使用し、一部現金支給も考えています。服に関しては、上記の古着で準備しております。直接被害者へ手渡しする予定です。政府機関には渡しません。   支援場所は、ヤンゴン川の反対側にある被害を受けた地域(海の方向になります)を考えています。ヤンゴンの近くにあるのに、今でも支援物が届かず大変困っています。被害を多く受けたエーヤーワデイ管区へ行く支援者が多いのですが、同じくらい被害をけたヤンゴンや近郊にある村などは、支援が大変少ない状況です。   今回サイクロン被害者支援活動は、私の学校プロジェクトに協力してくださっているボランテァグループメンバーが行います。現在も、我々の力でできる支援物資を被害者の方々へ手渡しております。これから皆様の募金を受けて広く活動できるようにと考えております。(尚、私のグループは、様々な国内状況によって名前は付けていません。)   ○ 募金趣意書は下記よりダウンロードしていただけます。   http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/MyanmarDonation.doc   ○ ポスターは下記よりダウンロードしていただけます。 (支援活動の様子がわかります) http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/AidPoster.pdf     ■ 韓国ラクーン会(KSR)ミャンマー義援金募金 (ソウルの韓京子さんより)    この春、それも5月の一ヶ月の間に相次いで、身近なところで、想像を絶する自然災害が起こりました。あえて「身近」といったのはアジアで起きたという地理的な「近さ」ではなく、「あ!○○さんの」という、知り合いの国という心理的な「近さ」からです。SGRAじゃなければそう感じることもなかったかもしれません。特に写真入りのキンさんの報告(SGRAかわらばん)によって事態の深刻さがひしひしと伝わりました。    また、中国四川省の大地震の凄惨さにも言葉を失いました。 そんな時、SGRAや渥美財団のネットワークを通じて災害看護マニュアルの中国語訳ボランティア募集のメールが何度かまわってきました。マニュアルの量が膨大なため大変な作業となるとは想像しつつも、どうすることもできずにいた韓国ラクーン会(KSR:Korea Society of Raccoon)のメンバーは、もどかしさから今西さんに何かお手伝いできることはないかと連絡をしていました。尚、ラクーン会というのは渥美奨学生の同窓会で、狸のロゴに因んでそう名づけられ、韓国では自主組織KSRとして運営されています。    そうしたメールのやりとりのうち、ミャンマーのキンさんのナルギス被災者支援プロジェクトに対して募金するという形でミャンマーの復旧事業に一助しようということになりました。ただし、1)軍事政権に関連する活動に使われてはいけない。2)安定化、復旧後は義援金の使用用途を明らかにすること。3)KSRからの義援金ということを明示すること、を条件として募金をはじめました。そして、5月20日のメールのやりとりから10日もたたずに170万ウォン(約17万円)が集まりました。(事務局注:この数字はまだ上記森さんの報告には含まれていません)    ミャンマーも中国も今度の災害で子どもたちの被害が特に大きかったように見えます。私たち韓国ラクーン会(KSR)の気持ちが彼らに伝わり、元気に未来へ向かっていくことができるようになることを願います。  
  • 2008.05.30

    エッセイ133:今西淳子「阪神から四川への橋渡し:留学生ネットワークによる災害看護ガイドの緊急翻訳プロジェクト」

    1.留学生ネットワーク:SGRA   それは成都からの1通のメールで始まりました。5月16日、四川大学華西病院の胡秀英さん(2006年千葉大看護学研究科より博士号を取得、SGRA会員)から届いた「殆どの時間は救急外来で頑張っています。休みの時間は災害看護の知識を翻訳しています。中国は地震医学と看護知識が遅れています。あまり時間がないし、一人の力では弱いので、助けていただければあり難いです。とりあえず、災害現場の看護師をはじめ医療職に配ると役に立つと思います」という依頼を受け、すぐに神戸の理化学研究所の武玉萍さん(2000年に千葉大学医学研究科より博士号を取得、SGRA会員)に連絡して取り纏め役を快諾していただきました。そして、SGRAおよび元渥美奨学生のメーリングリストで翻訳ボランティアを募集。同時に、胡さんから要請のあった「災害発生初期に知っておきたい知識」と「災害復旧・復興期に知っておきたい知識」の翻訳を開始。会員が所属する別のネットワークにも呼びかけていただき、ほどなく38名のボランティアが集まりました。   2.災害看護拠点:兵庫県立大学大学院看護学研究科COEプログラム   胡秀英さんがこのホームページに辿りついたのは偶然ではありません。地震の翌5月13日には日本の恩師である千葉大学の石垣和子教授にメールで災害看護と災害医学の本と資料を要求しています。教授は、直ちに資料の送付を約束し、また、兵庫県立大学のCOEプログラムが作成管理している「ユビキタス社会における災害看護拠点の形成:命を守る知識と技術の情報館~あの時を忘れないために~」( http://www.coe-cnas.jp/ )を紹介されました。胡さんは直ちに翻訳を始めましたが、休憩時間中にひとりでするには限界があり、SGRAへの呼びかけになりました。一方、兵庫県立大学の災害看護研究班では、震災直後から、従来から掲載していた中長期のケアに加えて、中国で役立つ救急看護情報も集めホームページに掲載をしていました。中国語への翻訳は始まっていたものの中国語のホームページはまだ公開されていませんでした。   3.中国語ホームページ   5月20日、SGRAの翻訳プロジェクトが軌道に乗ったので、兵庫県立大学地域ケア開発研究所の山本あい子教授に連絡し、留学生ボランティアが行った翻訳原稿をなるべく多くの方々に活用していただくために兵庫県立大学のホームページに掲載していただきたいとお願いしたところ、すぐに、「中・長期的な看護ケアに関しましては、本学のホームページがかなり役立つと考えていますので、翻訳へのご協力は本当に助かります」とのお返事をいただきました。そして、非常にタイミング良く、同日、兵庫県立大学の中国語のページが公開されました。 http://www.coe-cnas.jp/china/index.html   その後、中国語版のガイドは、どんどん追加掲載され、地震から2週間後の5月27日には、当初に計画された全ての中国語のPDFファイルが公開されています。今回の翻訳プロジェクトでは、多くの方々の積極的なご協力を得、大変短期間のうちに貢献度の高い活動を行うことができたと思います。震災直後から積極的に活動を続けられている四川大学の胡秀英さんと兵庫県立大学、千葉大学看護学部の先生方に敬意を表し、また武玉萍さんはじめ即座に翻訳ボランティアを志願してくださった方々に御礼申し上げます。   4.翻訳ボランティアの皆さん   武玉萍、阿不都許庫尓、安然、王偉、王剣宏、 王雪萍、王立彬、王珏、韓珺巧、奇錦峰、 弓莉梅、許丹、胡潔、康路、徐放、 蒋恵玲、銭丹霞、宋剛、孫軍悦、張忠澤、 張長亮、张欢欣、杜夏、包聯群、朴貞姫、 李恩竹、李鋼哲、李成日、陸躍鋒、劉煜、 梁興国、林少陽、麗華、臧俐、趙長祥、 邁麗沙、馮凱、马娇娇   5.次のプロジェクト   山本先生より「こちらの当初の予想を超えて、速いスピードで状況が変化しています。被害地域の甚大さ、被害者の数の尋常ではない多さから、今後は、日本の保健師さんのような活動が必要となってきます。つまり、避難所や仮設住宅を回り、そこで暮らす人々の健康について、生活面を含めて守っていく看護職です。中国には保健師さんはおられないとのことなので、看護師さんが保健師さんの活動ができるような教育プログラムを作成しています。その内容を中国語に変更していただくことは可能でしょうか?」というメールをいただき、継続してプロジェクトが続いています。今のところ前回ほど大規模な翻訳ではないようですが、日本語から中国語への翻訳ボランティアに興味のある方は、SGRA事務局にご連絡ください。  
  • 2008.05.28

    エッセイ132:マックス・マキト「マニラレポート2008春」

    ~ 3人の VIP、3つの研究、1つのアイディア~   共同研究のため、日本の春休みを利用して4月24日から約3週間マニラに帰省した。フィリピンでは夏休みの時期である。日本から3人のVIPにきていただいたので、僕にとってはどう対応したらいいか悩んだ結構暑い夏だった。おまけに4月30日にはフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)と共同で重要なセミナーを開催することになっていた。来てくださったのは、マニラ入りの順番で、SGRAの今西淳子代表、マニラ都会の貧困コミュニティーについて共同研究させていただいている東大の中西徹教授、そして産業クラスターについて共同研究させていただいている名古屋大学の平川均教授である。今回の僕の交通費は中西先生の研究費からだしていただいた。    まず、4月28日の午後2時から、UA&PのExecutive Loungeで、都会の貧困問題に関する研究プロジェクトについての会議を開いた。昨年、観光クラスターとマイクロファイナンスに関するUA&P・SGRA共有型成長セミナーで発表してくださった、UA&Pの貧困問題の専門家のビエン先生とその研究チーム(4名)、中西先生と僕が参加した。都会のスラムなどに住んでいる貧困者は、地方から移住した人々が多いので、地方の発展が都会の貧困問題の解決に貢献できるという点で皆が一致していると気づいた。ビエン先生のチームから全国で展開しようとした試みを聞いた。取り組みの例として、ファーム・スクール(農場学校)と地方の3ヵ所で開催した投資サミットの紹介があった。次に、中西先生の調査先のスラムについてのデータベースを参考にしながら、貧困者が最も多くきている地方を三ヵ所特定し、これらの地方とマニラのスラムとのネットワークを更に調べてみることにした。中西先生は、すでにこのような研究も進めておられるが、UA&Pにも何らかの形で参加してもらいたい。とりあえずは、研究助成金の申請とUA&P・SGRAセミナーの開催をすることになり、提案書は中西先生と相談しながら僕が書くことになった。その夜は、UA&Pの近くにあるアメリカ人経営の「力士」という日本料理店で、ビエン先生、中西先生、平川先生、今西代表と一緒に食事をした。僕は初めてフィリピンでマグロの寿司を口にした。問題なく美味しかった。    4月29日に、平川先生と今西代表をどうしてももてなしたいというUA&Pの共同研究者のユー先生とその家族にランチをご馳走になった。ユー先生は僕と同様、平川先生のお招きで名古屋大学に短期滞在したことがあり、大変お世話になったのだ。合間を縫って翌日のセミナーの発表について平川先生と打ち合わせをした。その夜、僕の両親の企画で、3人のVIPをマキト家に招待した。母と相談しながら、東京では食べられない特別なバナナや青いパパイヤが入っている煮込み料理などのメニューになった。    4月30日午後のセミナーは、平川先生と共同で進めているフィリピンの自動車産業についての研究報告がメインテーマであった。自動車産業は地方に工場が集中しているので、地方の活性化に貢献できると期待されている。中西先生を誘ってみればお忙しいのにきてくださったし、今西代表が開会挨拶を担当したので、また賑やかに3人のVIPが合流した。おまけに大手の日系自動車企業の社長さんも来られて大変緊張した。今西代表は開会挨拶のなかで、政府でも業界でもない第三者としてより広い社会的な視野にたって独立して活動できるSGRAのようなNGO・NPOの役割を強調した。僕らの自動車産業の研究プロジェクトでは、SGRAのこのような役割を生かそうとしている。平川先生は、前回のセミナーに引き続き、フィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国(+中国)と比較した研究を発表した。これによってフィリピンの自動車産業の深刻な現状をより鮮明に把握できた。その後、ユー先生はフィリピン政府の国際社会との取り組みという観点から、政府の自動車開発プログラムについて発表した。休憩を挟んで僕は政策提言を会場に発表した。最後に会場を囲んで色々と議論した。政府の代表者がいなかったのは残念だったが、自動車関連各社からきていた聴講者の反応は思ったより前向きだったので、政府に対して政策提案するという次のステップに追い込まれた気がした。東京に帰るまえに、僕の恩師であるフィリピン通産省の幹部と会い、僕らの提案について相談してみた。産業界と同様、彼も早く報告書を出しなさいというので、5月末を目処に平川先生とユー先生と相談しながら提出しようと思っている。    本稿をここまでマメに読んでくださった読者は、確かにVIPは3人だが、研究分野は2つしかないと気がつかれたと思う。もう一つは前回のエッセイで述べた、僕の原点でもあるフィリピンの造船産業に他ならない。鹿島建設も関わりフィリピン大統領がみずから式典に出席して4月28日に開通したばかりの高速道路に乗って、以前米国海軍が基地として利用していたスービック経済特区まで行って、造船会社の元幹部と面会することができ、研究の可能性についていろいろとアドバイスをいただいた。フィリピン大学の機械工学部の同級生や後輩と一緒に、船舶工学の教育プログラムを立ち上げる計画を立てていることに非常に関心を示してくれた。分れる間際に「フィリピン大学でそのようなプログラムができるのを長年望んでいた」との言葉をいただいた。このことを大学の仲間たちに伝えたところ、彼らもとても勇気付けられたようである。というのも、彼らは1998年に船舶工学教育プログラムを提案したのだが、学内から支援されず、そのまま長年眠っているのである。今、もう一度起き上がるようにフィリピン大学の仲間たちと作戦を練っている。    ここで最後に残る話は一つのアイディアであるが、いうまでもなく、それはフィリピンが共有型成長をいかに実現できるかということである。都会だけではなく、地方でも発展が芽生えるように、3人のVIPをはじめ皆さんのご支援をうけながら、3つの研究をさらに進めていきたいと思う。    -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。