SGRAエッセイ

  • 2026.03.09

    エッセイ810:尹在彦「株価と政治の関係について考える」

      私は韓国の経済新聞社の証券部で2年間勤務した。部署には3つのチームがあり、市況、すなわちマーケット全体の動向をカバーするチーム、個別銘柄(=企業)の動きを追うチーム、そして投資サイド(投資ファンドや年金・基金など)を取材するチームに分かれていた。私はそのうち、マーケットと個別銘柄、とりわけIT産業やエンターテインメント産業を担当した。   証券部記者の現場は、社会部や政治部とは異なり、「目に見えない」ものを扱うことが多い。特に市況を担当していた際は、一日中「数字」と向き合うのが日課だった。中でも重要なのは相対的な変動幅、つまりどれだけ上がったのか、下がったのかという点である。その上下幅によって記事の方向性も変わり、読者への伝え方も異なってくる。個別銘柄以上に、「株価指数」やそれに連動する「時価総額(企業価値)」は常に関心の的だった。「史上最高値」や「史上最安値」を記録すれば、一面トップ記事になる。   証券市場全体を示す指標である株価指数は、様々な銘柄の株価をもとに構成される。その銘柄群は、いわば「経済を支える主要企業群」でもある。そのため株価指数は経済状況を示す指標とされ、「上がって悪いことはない」と語られがちである。しかし、その時々の経済状況が良好だからといって、必ずしも株価が上昇するとは限らない。投資家の将来予測や資金の流れ(財政・金融政策、為替レートなど)の影響を強く受けることも多い。つまり、実体経済とのギャップを常に意識する必要がある。   株価指数を見る際には(韓国)国内だけに目を向けるわけにはいかなかった。値動きは海外市場の影響を受け、連動することが少なくないからだ。韓国の高い対外依存度は、そのまま株価指数にも表れる。特に2010年代半ばには、米国と中国(上海)の指数を常に確認する必要があった。当時は米中両国市場の動きが韓国の指数に反映される場面が頻繁に見られ、韓国経済の「対外従属性」を実感させるものだった。   参考指標として見ていたのが日本市場の株価指数、すなわち「日経平均株価」だった。ただし、米中の動向とは異なり、韓国が日本の影響を直接受けるというよりは、「比較材料」として記事に取り上げることが多かった。日本もまた米中、とりわけ米国の影響を受ける市場であるという点で、相対的な位置づけを考えるうえで有用だった。要するに、日韓の株価指数の動きが示したのは、株価は必ずしも国内要因だけで変動するわけではないということである。   2013年には、日本で初めて導入された「NISA(少額投資非課税制度)」を現地で取材したことがある。「株価指数が上向く政策の影響を探る」特集のためだった。当時は第二次安倍政権期の「アベノミクス」が韓国でも注目され、その象徴として日本政府は株式市場の活性化を前面に打ち出していた。積極的な金融緩和政策と相まって株価は連日上昇していた。実体経済がどこまで改善していたかは別として、指数上では確かな成果があったと評価する向きもあった。   そして約10年後のこの半年間、日韓両国で起きている状況は依然として非常に似通っている(2026年2月)。韓国でも日本でも株価指数が史上最高値を更新していた。韓国では李在明大統領が株価指数を政策成果の象徴として強調し、「国民の資産を増やす」「不動産投資から株投資へ誘導する」とアピールした。一方、日本でも高市早苗首相の就任後、「高市株高」と呼ばれる状況が語られた。興味深いのは、両国で共通する国際的条件があるにもかかわらず、国内要因に焦点が当たり、それが高支持率につながっている点である。   両国に共通する要因としては、積極的な財政政策への「アピール」や自国通貨安、そして何より米国市場の影響が挙げられる。とりわけトランプ大統領の政策スタンスや発言は、市場心理に大きな影響を与えている。それにもかかわらず、株高は「政権への期待」の結果として語られることが多い。   しかし、先述したように、株価指数がそのまま実体経済を反映しているとは限らない。緩和政策による資金供給の拡大は、同時に物価上昇をもたらす可能性がある。株高と物価高は、いわば「コインの表裏の関係」にある。また、株式投資をしていない人にとって株高は直接的な恩恵とはなりにくく、その効果が広く行き渡るかどうかは不透明である。   日韓のこのような共通点は、米国・イスラエルによるイラン攻撃によって、再びあらわになった。両国ともに、石油供給への懸念や一層不安定になった為替レートなどの要因により、ほぼ同時に株価が暴落している。3月9日の日経平均株価は5.20%、韓国のKOSPIは5.96%下落した(添付写真)。両国首脳の就任時の株価指数より依然として高い水準とはいえ、対外要因の強烈さを改めて露呈したといえる。   株価と政治、その相互作用、そしてそれをどのように報道するのかという問題は、興味深い分析対象でもある。トランプ大統領も最近(2月12日)、「ダウ平均株価が3年以内に10万ドルに達する」と発言した。李大統領も2月15日(旧正月の連休中)、株価指数の最高値更新を自らの「最大の実績」としてアピールした。だが、こうした政治的言説に対しては、有権者は慎重であるべきだろう。繰り返しになるが、株価指数が実体経済をどこまで反映しているのかは、時間の経過を待たなければ判断できないからである。イラン情勢と株価暴落は、その現実を改めて突きつけたともいえる。   ※本稿の初校は2月中旬に作成したが、3月9日イラン情勢の緊迫化による株価暴落を反映して加筆した。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
  • 2026.03.05

    エッセイ809:大元慶子「見えない障がいから社会を照らす――アノソグノシアと制度のはざまで」

    日頃、電車やバスを利用していると、杖を突きながらゆっくりと歩く人や、車椅子で改札を通る人とすれ違う機会が増えた。近所では毎夕決まった時間に、麻痺した手足を懸命に動かしながら散歩する方の姿を目にする。高次脳機能障害の研究に携わるようになってから、私の視線は、こうした人々の存在を自然と捉えるようになった。街でこれほど多く出会うのは、社会のバリアフリー化が少しずつ進み、外に出やすい環境が整いつつある証かもしれない。   しかし、私が向き合ってきたのは、外見からは決して窺い知ることのできないもう一つの障がい、アノソグノシア(anosognosia)病態失認である。アノソグノシアとは、自らの障がいや疾病を認識できない神経学的状態を指す。ギリシャ語の a(否定)、nosos(病気)、gnosis(認識)を語源とし、1914年にフランスの神経学者バビンスキー(Babinski, J.)によって命名された。例えば、脳卒中により左半身が完全に麻痺しているにもかかわらず、本人は「私の手は動いている」と断言する。促されても動かない手を見つめながら「上げています」と答えるその言葉は、虚偽でも心理的否認でもない。脳の損傷によって、自己の身体状態を監視し、評価する機能が失われているのである。この障がいが「見えない」と言われるのは、二重の意味においてである。外見から判断できず、周囲が気づきにくい。そして当事者自身にとっても、自らの障がいが「見えない」。この二重の不可視性は、医療や福祉の制度設計と深刻な齟齬(そご)を生む。   交通事故で片腕を欠損した場合、身体障害としての機能喪失は明確であり、障害等級も認定され、支援へとつながりやすい。一方、高次脳機能障害、とりわけアノソグノシアを含む症状は、画像所見や神経心理学的検査、日常生活能力の総合評価によって判断されるが、当事者は自らの困難を訴えることができない。「困っていることはありません」と語る人が、申告を前提とした制度の入口に立つことは、極めて難しい。   また、彼らは若年・中年期であっても、高齢者の認知症を前提とした福祉サービスに振り分けられることが少なくない。しかし、神経変性疾患によって進行する脳萎縮の認知症とは大きく異なり、外傷や脳血管障害によるアノソグノシアの脳で起きたダメージは、時間と訓練によって回復が十分に期待できることが医学的に示されている。それにもかかわらず、現在の制度はこうした脳の可塑性を十分に織り込めていないままである。その結果、当事者は医療と福祉の狭間に置かれやすい。   さらに、当事者にとってのリハビリテーションは、過酷である。多くが「脳疲労」と呼ばれる全身の倦怠感に近い症状を抱え、努力すればするほど消耗していく。また、リハビリテーションは毎回できていないとの評価を受け、当事者の心を傷つけてしまいがちである。しかも本人は、自分が障がいを負っているという自覚を持てないまま、日常生活の中で、かつての自分との違いに少しずつ気づかされていく。その過程は、家族をも疲弊させる。   この見えない断絶に橋を架けてきたのが、医療ソーシャルワーカーである。博士課程でのエスノグラフィー調査(行動観察調査)を通じ、その実践を間近で見てきた。退院支援や制度調整にとどまらず、社会生活へと踏み出すための支援を、当事者の回復段階に合わせて編み直していく。その営みは、英国で定義された「社会的処方」と重なる。理論上は「処方は福祉の職務ではない」と整理されがちであったが、福祉の現場はすでに、当事者の人生を再構築するための処方を実践している。   見えない障がいを、制度と社会の言葉に翻訳すること。それは、権利を可視化する行為である。自ら声を上げることが難しい人々の現実を、研究として社会に差し出すこと。その積み重ねが、異なる背景やもろさを抱えた人々が、同じ社会の成員として尊重される土壌をつくる。アノソグノシアという不可視の障がいから社会を見つめ直す作業は、国や制度の違いを越えて、私たちがどのような社会に関与していきたいのかを静かに問いかけている。   <大元慶子(おおもと・けいこ)OMOTO Keiko> 大阪府出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。2015年大分県立看護化学大学大学院看護学修士取得。2018年~2024年関東学院大学看護学部助教。関東学院大学大学院文学研究科障害社会学専攻博士後期課程在籍。     2026年3月5日配信  
  • 2026.02.27

    エッセイ808:奥田弦希「止まることを前提とした街で」

    ウィーン、ヴォティーフ教会前にて。立ち止まった視線の先。   ウィーンでの生活は、「止まること」を前提に組み立てられています。平日は20時まで、土曜日は18時まで、そして日曜日には街のスーパーが閉店します。日本で夜遅くまで店が開いている環境に慣れていると、当初は単純に不便に感じます。しかし生活を続けるうちに、別の違和感を覚えるようになりました。これほど多くの店が閉まっているにもかかわらず、社会が特に混乱することもなく、淡々と回っているという事実です。必要なものは事前に用意し、人々はそれを前提に生活のリズムを組み立てている。便利さを最大化しなくても、社会は成立する―そのことが、次第に印象に残るようになりました。   とはいえ、すべてが止まるわけではありません。ほとんどのものが止まる社会だからこそ、「どうしても止めてはいけない場所」だけが、はっきりと浮かび上がってきます。その象徴的な存在が、24時間営業のスーパーです。一つは主要駅構内の店舗で、これは比較的想像しやすいかもしれません。長距離移動の途中にある駅は、時間帯を問わず人が集まる場所だからです。しかし、もう一つを知ったとき、私は強い印象を受けました。それは、病院の中に設けられたスーパーでした。   病院という場所が、入院患者やその家族、昼夜を問わず働く医師や看護師、救急隊員にとって「生活を止めることができない空間」であることを考えれば、この例外は偶然ではありません。医療そのものだけでなく、食事や日用品といった日常の継続が、そこでは不可欠なものとして組み込まれているのです。   実は留学を始めて間もない頃、部屋に入り込んだスズメバチに手を刺され、初めてウィーンで病院を受診することになりました。大事には至りませんでしたが、外国で医療制度を利用するのは初めてで、この病院という空間を内側から経験する契機となりました。訪れたのは市内でも有数の総合病院で、敷地内には24時間営業のスーパーのほか、郵便局や銀行、カフェも併設されています。単なる医療施設というよりも、患者や家族の生活を絶え間なく支えるために必要な機能が集約された、小さな街のような空間でした。そして、この病院が「止まらない場所」であることは、医療だけに限られてはいません。敷地内には小規模ながら、教会やモスクといった祈りの空間も設けられており、目立つ存在ではありませんが、病院という空間の一部として、ごく自然に組み込まれていました。   オーストリアでは、公認された宗教団体が国家や行政と協力し、学校・病院・刑務所といった公共施設において、宗教的ケアを制度的に提供しています。ここで宗教は、個人の信条の問題にとどまらず、公共空間の中で一定の役割を担う存在として位置づけられています。病院に設けられた祈りの空間もまた、何かを「納得させる」ための場所というより、納得できないまま時間が進んでしまう現実の中に、人が一人きりで取り残されないための「余白」として、静かに組み込まれているように見えました。どれほど医療技術や科学が発達しても、死や不条理に直面した人が、それを合理的に受け入れられるとは限りません。むしろ、受け入れられないまま時間だけが進んでいく状況こそが常態に近いと思います。病院に設けられた宗教的ケアの空間は、その「世界が止まらない」という前提を覆すためではなく、その前提の内側で、立ち止まることを許すための「余白」として機能しているように見えました。興味深いのは、その「余白」が、個人の善意や偶発的な配慮に委ねられているのではなく、病院という場が回り続けることを前提にしたうえで、その内部にだけ、立ち止まりが許される場所が確保されている点です。その構造自体が、何を公共的に守るのかについての、静かな合意を示しているように思われました。   今回の経験を通じて、国家や制度と宗教の関係は、抽象的な理念としてではなく、生活空間の中での配置として立ち現れてくるのだと感じるようになりました。宗教は、常に目に見える形で主張されるわけではありません。社会が止まらずに回り続けるために不可欠な場面において、医療や福祉と同じ層に置かれ、静かに組み込まれています。その事実を、病院という「止まることのできない場所」の内部で実感することになりました。   社会は便利さを最大化することで成立しているのではなく、むしろ街全体が「止まること」を前提に組み立てられているのだ、という感覚を持つようになりました。しかし、その「止まること」を前提にした社会は、同時に、決して止めることのできない現実を内部に抱え込んでもいます。だからこそ、止めてはならない場所と、その内部で例外的に立ち止まることができる「余白」とが、あらかじめ構造として切り分けられているように見えてきます。社会は現実として止まらずに回り続けます。その前提を変えることはできないからこそ、「止まること」を前提に組み立てられたこの街の中には、人が立ち止まることを許される場所が、静かに残されているのだと思います。   <奥田弦希(おくだ・げんき)OKUDA Genki> 香川県高松市出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。2025年3月よりウィーン大学大学院歴史文化研究科博士課程留学中。専門は近現代ハプスブルク帝国史・宗教法制史。     2026年2月27日配信    
  • 2026.02.19

    エッセイ807:謝志海「日本の寒い家 続編-進化する日本の家-」

    ある日、知人との何げない会話のなかでふと言われたことに一瞬ついていけないことがあった。「家の中は暖かいから冬場もまだ暖房をつけたことがない」 日本の家って寒いのが当たり前じゃなかった?   以前、私は「日本の寒い家」についてエッセイ(かわらばんエッセイ449)を書いた。そのとき北京やニューヨークなどでは一般的な、家中を一括で暖めることができるセントラルヒーティングについて語り、日本ではなぜ冬の脱衣所が寒いままなのだろう、ヒートショックで命を落とすことがあるかもしれない、と心配していた。   あれから10年程経ち、日本の住宅事情は何か変わったのかと興味を持ち少し調べてみた。すると2025年4月に建築基準法が大きく改正され、新規で建てる建築物は「断熱等性能等級4以上」および「一次エネルギー消費量等級4以上」の適合が求められることになった。具体的には建築時に外壁などの断熱性能の高い素材を使う、その断熱性には等級があり、それまで等級4が最高等級だったのが22年に等級5、6、7を新設して、等級4が最低限必要な基準となった。断熱性能の向上だけでなく、そこに等級を加えることで、快適さを判断しやすくなるというのはすごいことだ。   一次エネルギー消費量等級4以上はというと、LED照明を使用する、壁に断熱材、複層ガラス窓の採用などで冷暖房や給湯などのエネルギーの消費を削減し、この等級が高いほど光熱費が安く済み、住環境性能が向上するというものだ。   セントラルヒーティングと全く逆のアプローチで寒い家問題を解決している。なんということだ。日本は家を建てる時点で寒さを屋内に持ち込まない、そうすればエアコンの使用も抑えられ、光熱費も安くなり、人の生活にも地球にも優しいという考えだ。 現在はエネルギー源がだいぶ天然ガスへ移行しているようだが、私が北京で学生時代を送っていた頃は、セントラルヒーティングには石炭を燃料に使用しており、寒さ厳しい時期の北京の街は大気汚染がひどかった。   法改正に話を戻すと、これから建てる家が快適なのであって、既存の住宅に住む家庭の家は寒いままだ。 私は築30年のマンションに住んでいるが、窓ガラスは複層ではなく薄っぺらいので、冬場は窓の近くに寄っただけで冷気を感じるし、結露がひどい。 その前に住んでいたマンションは複層ガラスだったので、その差は大きいと毎年の夏と冬に実感している。   築年数が古い住宅に住んでいる人や、中古物件を買おうとしている人には省エネ住宅で快適に暮らすことはできないのかというと、そうでもない。環境省は「既存住宅の断熱リフォーム支援事業」など新築に限らずリフォーム住宅の断熱性能の向上・省エネ化のための補助金制度を実施している。現在、快適とは程遠い生活をしている私にとっては、朗報だ。   建築基準法の改正は25年だけでなく、適宜行われていることも今回分かった。冒頭の知人の、冬も暖かい家とは22年頃に建てられた新築マンションである。近年の気候変動、自然災害、地震と辛い経験を通じ、法改正をもって即座に動き、人の生活を安全に快適に守るということはとても大事なことだ。そういう施策を見逃さないように、今の生活に疑問を持ち続け、生活向上のための解決策を探り続けたいと思った。   <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師、准教授を経て、2023年4月より現職。     2026年2月19日配信    
  • 2026.02.05

    エッセイ806:黒滝香奈「用水研究との出会い―博士課程を振り返って―」

    研究対象である十郷用水の取水口・鳴鹿大堰   私は近世日本の水資源、とりわけ灌漑用水の管理をめぐる領主権力と地域社会の関係について、越前国北部(現:福井県あわら市・坂井市)をフィールドに研究している。現代の日本においても、米不足に見舞われた2024年以降、米作りを行う地域が注目されるようになった。私はこれまで灌漑用水が潤す大規模な平野、すなわち米作りを主に行ってきた地域のフィールドワークや聞き取り調査に携わってきた。そこでは、「とにもかくにも重要なのは水と燃料」であることや、用水の暗渠化が行われた数十年前まで近世以来の水利慣行が残っていたことなど、興味深いお話を聞く。特に関心を抱いたのは、「用水は連続して流れているが、隣村は〇〇藩領で、自分の村は〇〇藩領」という意識が今も残っていることである。現代の感覚でいえば、行政区画は異なるけれども、隣村同士、生活に必要な用水を共有しているのだ。   現代では想像がつきにくいが、近世日本では、隣り合う村同士が異なる藩の支配下にあり、またその支配もしばしば変更された。修士課程までは、領主支配が入り混じる地域の行政区画における地域運営を研究していたが、行政区画だけを検討していては、元々関心のあった領主支配を越えた人々のつながりが見えてこないというジレンマを抱えていた。そこで、修論提出後に、米穀生産が盛んな地域においてとりわけ重要な用水に関する研究に取り組んでみようと決意した。   まずは、領主支配が錯綜した状況下で、行政区画を飛び越えて流れる用水を誰が管理していたのか、という点を明らかにしたいと考えた。史料を読み始めてみると、越前国北部の用水では、数人の百姓(世襲)が主導し、巨大な用水を管理していたことが判明した。さらに史料を読み進めると、彼らは異なる領主の意向をいかに調整し、複数の領主支配のもとにいる地域住民の利害をどのように調整していたのか、彼らは一枚岩で業務を遂行できていたのか、など次々に疑問が湧き、博士論文を執筆することができた。   ところで、近世史研究、とりわけ地域史や村落史では、近世の発達した文書行政により残された大量の古文書を扱う。研究対象を選ぶ際には、史料がたくさん残っている文書群(数千点)を選ぶのがより良いとされている。一方、私が主に検討対象とした文書群はわずか400~500点で、周辺に残されたものを加味しても1000点に達するかどうかというものであった。   150年間に及ぶ用水管理に関する日記があったり、残存する史料のかなりの割合が用水に関するものであったりと、用水を研究するには良質な史料群であった。点数もコンパクトで全体像が俯瞰しやすく、ある意味で「扱いやすい」史料群であったことも、博士課程から研究対象を変えた身にとっては、幸運であったと思う。修士課程までは、自分がどこに向かうべきなのかがわからず、当然研究も苦しいことが多かったが、博士課程から始めた用水の研究では、研究のすべての工程が俄に楽しくなった。   しかし、博士課程から着手した研究であったこともあり、研究助成の取得や投稿論文の審査通過などの「成果」は実りにくかった。そのため、このまま突き進んで良いのか自問自答を繰り返す日々だったが、用水研究の楽しさと指導教員の先生方による叱咤激励により、突き進むことができた。そのような時に、知り合いから渥美国際交流財団の話を聞いた。「国際交流」という私の研究とはかけ離れたテーマを掲げていることや、これまで研究助成にはほとんど通ってこなかったトラウマもあり迷ったものの、七転び八起きの精神でトライしてみたところ、幸いにも採択していただいた。   初めて財団の活動に参加した際には、普段は運営側も参加者側も約9割が日本人という学会ばかりに足を運んでいる身としては、様々な国籍に少しとまどいも覚えたが、「酒好き」は万国共通であることがわかり、すぐに打ち解けることができた。学問的にも、財団の活動に参加することで毎回新たな発見があり触発された。日本国内にしか向いていなかった研究の視線を外に開いていただいたことには非常に感謝している。そのような研究がいつ結実するのかは定かではないが、常にそのような視点を持ってこれからも邁進していきたい。   <黒滝香奈(くろたき・かな)KUROTAKI Kana> 神奈川県相模原市出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。専門は日本近世村落史、地域史、用水研究。2025年3月、一橋大学大学院社会学研究科修了、博士(社会学)。同年4月より一橋大学大学院社会学研究科特任講師(ジュニアフェロー)。       2026年2月5日配信  
  • 2026.01.29

    エッセイ805:閻志翔「私と仏像」

    私の専門分野は古代の仏教彫刻史である。仏像を研究する際、すでに刊行された写真資料などを参照するだけでなく、現地で仏像を調査し、詳細な研究資料を入手する必要がある。日本における8年間の研究生活を振り返ってみると、一番印象に残っているのは、やはり自分が参加した数々の仏像の調査だ。   2018年の夏休み、初めて本格的な仏像の調査活動に参加した。場所は岩手県の中尊寺。当時は自分が何をすべきか全く分からず、指導教官の指示をこなすだけで精一杯だった。現場の緊張感と自分の無力さを今でも鮮明に覚えている。日本の仏像研究は長い歴史がある。仏像に対する調査の方法などに関しては、厳格な学術規範が確立されている。私は多くの現場を経験し、ようやく仏像を調査する方法を熟知することができた。しかし、仏像の特徴はそれぞれであり、毎回多くの新たな知識を得る。そして、普段の旅行では行けない日本の地方を回り、多くの楽しい思い出ができた。   同じ時期、奈良文化財研究所蔵の薬師寺西塔跡塑像片の調査に参加した際は、初めて仏像の撮影を任された。これをきっかけに、それ以降はほとんど、私が仏像の撮影を担当した。しかし、仏像をどう撮るかについて、どこにも書かれていない。仏像には色々な種類がある。尊格からみれば菩薩像、如来像、神将像などがあり、姿からみれば立像、坐像、半跏像などがある。木彫像、塑像、乾漆像など材質もさまざまだ。2018年の夏休み以降、数々の調査現場で指導教官の松田誠一郎先生(東京芸術大学美術学部教授)より一から仏像の撮影を教わった。「仏像を撮影すること自体は高い撮影の技術が必要ではなく、重要なのは仏像に対する理解である」と、松田先生はいつもおっしゃっていた。仏像の何を撮っているかを正しく理解していないと、仏像を上手に撮ることができないということだ。   例えば、仏像の頭部を撮影する時、カメラの位置は仏像の目線に合わせる必要がある。仏像は視線を下に向けていることが多いため、頭部の正面を撮る時、仏像の視線にあわせて、目より低い位置で少し上に向けてカメラを構える。そうすると、仏像の顔の雰囲気がよく伝わってくる。位置だけでなく、カメラ自体の設定やライティングなども各カットによって異なる。留学中の仏像撮影の経験は、かけがえのない財産となった。そして、いつの間にか展覧会の図録に載っている仏像の写真を撮影の点から鑑賞することが趣味の一つとなっている。   松田先生は千葉県文化財保護審議会委員を務めていたため、千葉県の多くの仏像調査に参加する機会を得た。これらは仏像を修理するための事前調査であることが多い。県の文化財関係の担当職員や仏像を修理する方々など、多くの関係者が参加する。文化財の保護に多くの方々が関わっていることに深い感銘を受けた。特に仏像は研究の対象だけでなく、信仰の対象でもあり、お寺の歴史、またはそれを信仰する人々の絆がある。自分が微力ながら仏像の保護に貢献できたことを誇りに思う。   2023年、博士論文の執筆のため、関係する仏像の調査を行った。特に高知での調査は私が計画したもので、印象深い。仏像調査は、ほとんどの場合、時間がごく限られている(大体午前10時から午後4時まで)。現場にいる時間を無駄にしたくないために、事前に調査の時間配分を決め、調査機材などをお寺に送った。調査する前には、仏像の写真を見ながら調書を作成し、現場で特に確認したい点を把握しておいた。お寺は山奥にあるため、交通ルートなどの確認やタクシーの手配も重要である。前日まで調査がうまくいくか心配していたが、幸いにも現場でこれまで知られていなかったことを発見し、奇麗な仏像の写真も撮ることができた。この達成感こそが、私の研究生活を支えてきた。そして、数年前、中尊寺の現場でただボーと立っていた自分を思い出すと、自身の成長を実感するとともに、次の調査での仏像との新たな出会いが楽しみでならない。   <閻志翔(えん・ししょう)YAN Zhixiang> 中央美術学院人文学院美術史専攻学士、東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻日本・東洋美術史研究分野修士、同大学院美術研究科美術専攻芸術学研究領域(日本・東洋美術史)博士。2021年4月〜2023年9月、日本学術振興会特別研究員(DC2) 。2024年度渥美奨学生。現在、京都大学人文科学研究所外国人特別研究員