SGRAかわらばん
エッセイ808:奥田弦希「止まることを前提とした街で」
ウィーン、ヴォティーフ教会前にて。立ち止まった視線の先。
ウィーンでの生活は、「止まること」を前提に組み立てられています。平日は20時まで、土曜日は18時まで、そして日曜日には街のスーパーが閉店します。日本で夜遅くまで店が開いている環境に慣れていると、当初は単純に不便に感じます。しかし生活を続けるうちに、別の違和感を覚えるようになりました。これほど多くの店が閉まっているにもかかわらず、社会が特に混乱することもなく、淡々と回っているという事実です。必要なものは事前に用意し、人々はそれを前提に生活のリズムを組み立てている。便利さを最大化しなくても、社会は成立する―そのことが、次第に印象に残るようになりました。
とはいえ、すべてが止まるわけではありません。ほとんどのものが止まる社会だからこそ、「どうしても止めてはいけない場所」だけが、はっきりと浮かび上がってきます。その象徴的な存在が、24時間営業のスーパーです。一つは主要駅構内の店舗で、これは比較的想像しやすいかもしれません。長距離移動の途中にある駅は、時間帯を問わず人が集まる場所だからです。しかし、もう一つを知ったとき、私は強い印象を受けました。それは、病院の中に設けられたスーパーでした。
病院という場所が、入院患者やその家族、昼夜を問わず働く医師や看護師、救急隊員にとって「生活を止めることができない空間」であることを考えれば、この例外は偶然ではありません。医療そのものだけでなく、食事や日用品といった日常の継続が、そこでは不可欠なものとして組み込まれているのです。
実は留学を始めて間もない頃、部屋に入り込んだスズメバチに手を刺され、初めてウィーンで病院を受診することになりました。大事には至りませんでしたが、外国で医療制度を利用するのは初めてで、この病院という空間を内側から経験する契機となりました。訪れたのは市内でも有数の総合病院で、敷地内には24時間営業のスーパーのほか、郵便局や銀行、カフェも併設されています。単なる医療施設というよりも、患者や家族の生活を絶え間なく支えるために必要な機能が集約された、小さな街のような空間でした。そして、この病院が「止まらない場所」であることは、医療だけに限られてはいません。敷地内には小規模ながら、教会やモスクといった祈りの空間も設けられており、目立つ存在ではありませんが、病院という空間の一部として、ごく自然に組み込まれていました。
オーストリアでは、公認された宗教団体が国家や行政と協力し、学校・病院・刑務所といった公共施設において、宗教的ケアを制度的に提供しています。ここで宗教は、個人の信条の問題にとどまらず、公共空間の中で一定の役割を担う存在として位置づけられています。病院に設けられた祈りの空間もまた、何かを「納得させる」ための場所というより、納得できないまま時間が進んでしまう現実の中に、人が一人きりで取り残されないための「余白」として、静かに組み込まれているように見えました。どれほど医療技術や科学が発達しても、死や不条理に直面した人が、それを合理的に受け入れられるとは限りません。むしろ、受け入れられないまま時間だけが進んでいく状況こそが常態に近いと思います。病院に設けられた宗教的ケアの空間は、その「世界が止まらない」という前提を覆すためではなく、その前提の内側で、立ち止まることを許すための「余白」として機能しているように見えました。興味深いのは、その「余白」が、個人の善意や偶発的な配慮に委ねられているのではなく、病院という場が回り続けることを前提にしたうえで、その内部にだけ、立ち止まりが許される場所が確保されている点です。その構造自体が、何を公共的に守るのかについての、静かな合意を示しているように思われました。
今回の経験を通じて、国家や制度と宗教の関係は、抽象的な理念としてではなく、生活空間の中での配置として立ち現れてくるのだと感じるようになりました。宗教は、常に目に見える形で主張されるわけではありません。社会が止まらずに回り続けるために不可欠な場面において、医療や福祉と同じ層に置かれ、静かに組み込まれています。その事実を、病院という「止まることのできない場所」の内部で実感することになりました。
社会は便利さを最大化することで成立しているのではなく、むしろ街全体が「止まること」を前提に組み立てられているのだ、という感覚を持つようになりました。しかし、その「止まること」を前提にした社会は、同時に、決して止めることのできない現実を内部に抱え込んでもいます。だからこそ、止めてはならない場所と、その内部で例外的に立ち止まることができる「余白」とが、あらかじめ構造として切り分けられているように見えてきます。社会は現実として止まらずに回り続けます。その前提を変えることはできないからこそ、「止まること」を前提に組み立てられたこの街の中には、人が立ち止まることを許される場所が、静かに残されているのだと思います。
<奥田弦希(おくだ・げんき)OKUDA Genki>
香川県高松市出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。2025年3月よりウィーン大学大学院歴史文化研究科博士課程留学中。専門は近現代ハプスブルク帝国史・宗教法制史。
2026年2月27日配信




