SGRAエッセイ

  • 2016.07.07

    エッセイ496:謝志海「観光立国なるか、日本」

    私が初めて日本に来た2006年と比べ、変わったなあと思うことは訪日観光客の増加である。特に中国人旅行者はどこにでもいる。銀座に行けば母国に帰ったような錯覚を起こすほどだ。また、中国語に混ざって聞こえてくる言語も、英語に限らず実に様々である。「アベノミクス」政策の一つ「明日の日本を支える観光ビジョン」として日本政府はさらに訪日客を増やすそうで、2020年には2倍、 2030年には3倍を目指しているとのこと。2020年のオリンピック終了後の2030年までも、観光客を増やし続けるというビジョンは素晴らしい。この先日本がどう変わっていくのか楽しみにしている。   しかし、気になる事がある。海外からの観光客は増えたが、彼らは依然として同じ所にばかり訪れる。秋葉原、浅草、築地。そしてこれら3箇所のどれか、もしくは全部行った後に立ち寄るのが銀座、新宿、渋谷といったところだろうか。もちろんこれはいささか言い過ぎで、東京に全く立ち寄らず日本の旅行を完結させる人もいるし、日本中至るところにある温泉地には外国人旅行者が必ずと言っていい程いる。私が言いたいのは、日本はもっともっと魅力的で訪れるべき場所が多いし、公共交通手段を使えば、どこへでも行けるということ。気候も偏っていないし、観光地そのものをもっと増やせる気がする。   2020年はもう目前、今の2倍の、来日客4千万人を達成するまでに残された時間は短い。訪日ビザの緩和や免税品の買い求めやすさなど、すでに色々改革されてはいるが、何かが足りない。それは日本に観光客を引きつける力、ブランディングではないだろうか。   「日本」ブランディングに関しては、政府も民間企業もまだまだ頑張る余地がある。とっても厳しい言い方をすると、今の日本は「おもてなし」という言葉に酔いしれていて、外国人が日本に訪れる際に求めている本質に近づけていない気がする。最近は、地方創生とも相まって、都心から遠い観光地にも外国人を呼び込むべく、現地スタッフなどが、その地の文化・歴史を説明できるようにしようといった試みが行われていると聞く。外国語の表示をもっと多言語にすべきと議論もされている。どれも素晴らしい事だが、今時の旅行客は、スマートフォン持参で来る。自分で調べられる時代だ。ガイドブック片手に観光している外国人はあまり見かけなくなった。日本がおもてなし活動に奔走する間に、世界は目まぐるしく変化し、新しい建物、施設が開発され、観光スポットが増えている。   観光地開発の観点で言えば、東京は遅れをとっている気がしている。例えば、2015年の「世界の都市総合力ランキング」で4位の東京に対し、2位の座を勝ち取ったニューヨーク。マンハッタンやその周辺には高層ビルがひしめき合い、一見もうこれ以上改善の余地は見られないかのようだが、ホイットニー美術館が移転し、その周辺が新たな人の集まるエリアに生まれ変わった。有名建築家がデザインする、個性的なアパートも続々と建設されている。そう、ホテルではなく住居用の建物なのだ。だが、格好良い建物がマンハッタンの景色をアップデートさせているのは間違いないし、独創的なデザインをする建築家の建物は話題性を呼ぶ。そういった常にチャレンジする所に人は集まる。ニューヨークの魅力はそこにあると思うのである。ニューヨークが変われるのなら、東京も変われるし、さらには日本中にも、まだまだ観光地を増やせると思う。   では、何故私が、日本は観光地そのものを増やせると思うのか。それは四季があり、島国だから。気づいてないと思うが、日本は恵まれている。ヨーロッパ、北京、ソウル、ニューヨークの冬は日本の諸都市より寒い。夏でも東南アジア程は暑くない。日本の太平洋側は真冬でも観光が可能で、夏はリゾート地になれる。言わば、太平洋沿岸にヤシの木を植えれば、日本は日本人の大好きなハワイにだってなれる。日本の海岸を安全に整えれば、リゾート地ができあがる。   リゾート地といえば、シンガポールが好い例ではないだろうか。オープン当初に大いに話題となった「マリーナ・ベイ・サンズ ホテル」。高層のホテルの屋上がプールのあるラクジュアリーリゾートとなっている。このような大胆な発想の建物、リゾート施設は日本にはまだない。また、このホテルのアピールポイントは、説明がいらない居心地の良さということ。観光ガイドに説明させる必要もない。マリーナ・ベイ・サンズ に泊まれば、ホテルに隣接したカジノ、ショッピングモールや美術館を見て回り、そして屋上の宿泊者専用のインフィニティプールで泳ぐ。シンガポールで快適な時間を過ごせるというブランディングにまでつながる。   パリもまたブランディングに成功した説明のいらない観光地と言えるだろう。街並みはプライドの高いパリ市民のように、いつの時代も景観が整っている。一方で、パリ市民は観光客に優しくないなど言われているし、下を見れば石畳。地下鉄に乗るにもエスカレーターなどのインフラが整備されている訳でもない。しかしフランスは外国人観光客数1位に君臨している。多少不便でも、人々は何故かパリに惹きつけられてしまう。   日本が今より魅力的な国になれないはずがない。交通・アクセスや宿泊施設の少なさなどの課題は多いが、これらの問題解決と並行して、地方の観光地のイメージアップやブランディングに力を注ぐべきだ。きっと今日も世界のどこかで新しいコンセプトの建設計画や地域開発計画について話し合われているだろう。日本も待ったなしだ。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2016年7月7日配信
  • 2016.06.30

    エッセイ495:李龢書「台湾の日本に対する歴史認識」

      歴史認識とは、簡単にいえば人間が歴史をどう理解し、現状と将来をどう捉えるかということである。一方、歴史は人間によって作られたものであるために、歴史認識も常に変化している。台湾のような住民構成が極めて複雑な地域では、それぞれの民族や世代によって日本に対する歴史認識も異なる。本稿のタイトルには「台湾」と書いてあるが、内容はあくまで筆者の家族及び筆者自身の見聞を中心に語るものに過ぎない。   まず、台湾近代の歴史を簡潔に紹介しておきたい。17世紀から19世紀までの二百年間、中国の東南沿海部の福建と広東両省の漢民族が大量に台湾に移住してきた。しかしそれ以前より、台湾には様々な民族が既に居住しており、現在これらの住民は「先住民」または「原住民」と呼ばれる。そして、日清戦争で日本に負けた清国は1895年に下関で日本と日清講和条約を締結し、台湾などの領土を日本に割譲した。それから第二次世界大戦が終わった1945年までの五十年間、台湾は当時の大日本帝国の初めての植民地として、日本帝国政府の統治を受けていた。   戦後、1945年から4年間にわたって、中国大陸では国民党と共産党による全面的な内戦が起こった。この間、1947年2月28日、のちの台湾史に多大な影響を与えることになる歴史的事件、いわゆる2・28事件が起こった。この事件に巻き込まれた犠牲者の数は二万人近くに上り、その中には数多くの台湾エリートや学生も含まれた。1949年末、国民党政府は内戦に敗北し、百万余りの軍民を率いて、当時総人口がまだ六百万人未満だった台湾に撤退する。同年5月、これに先立ち、共産党との内戦状態が続く中、国民党政府は戒厳令を布告した。以来1987年7月に解除されるまで、ほぼ40年間にわたり、台湾は戒厳状態、即ち国民党の一党独裁の状態に陥ってしまった。   次に、筆者の家族を例にして、世代間で日本に対する歴史認識の相違について話したい。筆者の祖父は1922年、ちょうど日本統治中期に台南で生まれた。祖母は祖父より一歳下であり、筆者の覚えている限り、祖父母は家族と喋るときは大体台湾語を操るが、二人きりのときは日本語しか話さない。収賄などの不祥事を暴かれた国民党政府を、しばしば日本統治時代を比較対象にして非難していた。祖父母が日本に好感を抱いていることは明らかであろう。   しかし、同世代の台湾人が必ずしもこのようなわけではない。筆者は2014年2月に帰国した際、日本に対する歴史認識について、高校時代の恩師、呉淑娥先生に訊ねた。先生は自分の祖父の話を教えてくれた。文盲であった先生の祖父は、日本統治初期に政治犯として警察に反乱の疑いで逮捕され、1945年に国民党政府が来るまで冤罪によって収監されていた。それゆえ、彼は刑務所から出た後、日本への憎しみが噴出し、家族全員に日本人との婚姻を絶対許さないと伝えたそうである。日本統治時代に生まれ育った筆者の祖父母のように、日本に親近感を持つ台湾人は恐らく多数派だが、呉先生の祖父のようなケースにも注目すべきだろう。   親日派の祖父母に対して、戦後に生まれ、戒厳状況下でかつ国民党の歴史教育を受けて育った父になると、日本に対する態度が一変する。父の書斎には大量の古典漢籍が並んでおり、本には朱墨で書き込んだり折ったりした痕跡が随所にある。祖父母に反して、父は日本が行った近代以降の領土拡張や、植民地における幾度の武力鎮圧や残酷な手段による資源の搾取などの行為を強く批判していた。だが、中国と同じように欧米列強に開国させられ、明治維新で近代化に成功した点では絶えず賞賛する。一方、母の頭の中に浮かび上がる日本人のイメージは凶暴な警察しかなさそうであるが、母が日常生活によく使っている家電製品は大体日本製であり、また常に友達にも日本製品を勧める。父に比べ、母は日本に対して肯定的な態度をとっているというより、むしろ歴史認識を欠いているように思われる。   筆者は、なぜ自分の家族の中で日本に対する歴史認識がこんなに違うのかを常に自分に問いかけている。筆者は歴史学科出身のため、この課題に臨むとき台湾と日本を近代史の流れの中で捉えている。そうしてみると、現在の台湾における対日の歴史認識は、中国を外在する他者として対抗的に捉え、一方で日本というイメージのなかに自己を投影することによって自己の主体性を主張する過程で成立したものではないかと考えられる。   九州とほぼ同じ面積の台湾では、16世紀から現在にわたり、オランダ、清王朝、大日本帝国、国民党政府などの統治者が次々と入れ替わり、この土地の住民に様々な影響を与えてきた。それゆえ、このような小さい土地でありながら、人々は自分なりの歴史認識や歴史課題を抱えている。これは台湾の歴史に収まらず、近代のヨーロッパから発生したグローバル化という動き、また東アジア諸国がこの動きにそれぞれどう向き合ってきたかなど、様々な複雑な課題に深く関わるので、筆者の知識や学力ではまだ完全に掌握することができていない。冒頭で述べたように、これは一つの例として、ただ筆者の家庭および周囲の人たちとの交流を通して考えてみた台湾の日本に対する歴史認識を述べたに過ぎない。しかし、これを端緒として台湾の歴史の複雑さを改めて考え直せるのではないかと思う。   <李龢書(り・わしょ)Li, He-Shu> 2015年度渥美奨学生。2011年10月に東京大学大学院人文社会系研究科外国人研究生として来日。2012年4月に同研究科博士課程に入学。2016年3月に単位取得退学。現在、東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は中国中世思想史、道教史。     2016年6月30日配信  
  • 2016.06.02

    エッセイ494:ラムサル・ビカス「日本初ネパール人無料健康診断会(ヘルス・キャンプ)」

    どんな事態であっても生きている限りは大切なものがある。それは健康な体である。健康な体なしには、何をしようとしてもうまく行かなかったり、やる気がなくなったりする。近年は特に、仕事ばかりに夢中になって、健康管理ができていない人も少なくない。特に、それは外国人にとって最大の問題!何か体に異常があった時に、母国に居るように何でも理解できている状態で病院に行くのとは違って、外国にいて言葉も何もわからないまま病院へ行くのは問題点が多い。栃木、群馬県内には留学生、技能実習生、自営業者など約3700人のネパール人がいる。その中には、国民健康保険証がない等で病院へ行けない人もかなりいる。   2015年4月25日にネパールで起きた地震で大きな被害が出たが、地震の後、ネパールとネパール人を助けようと足利市在住の渡辺好美さんと源田晃澄住職が中心となって、市内の企業に声をかけ、地元の15社に協力いただいた活動があった。今回、私は健康診断キャンプを開催したいと思い、渡辺さんと源田さんの支援を受けて、色々なところへ行き色々な人に相談した。おかげで、力を貸してくれる仲間と、支援してくれる人達が集まって、足利ネパール交流協会が誕生した。こうして、2016年4月30日と5月1日に「ネパール人向け無料健康診断と面談会(ヘルスキャンプ)」が、私の在籍する足利工業大学のキャンパスを借りて開催されることになった。   このイベントが始まったのは4月29日。朝6時に東京へ出発し、車でネパール人医師たち6人を迎えに行った。足利に到着し食事を済ませてから、皆と一緒に会場へ行き、会場設営や看板の設置など必要なことを準備した。夕方6時、医師たちの歓迎会のため足利健康ランドへ向かった。歓迎会には、協賛企業から17名、足利工業大学から3名、足利ネパール交流協会3名、医師10名、取材者1名とボランティア3名で合計36名が参加した。歓迎会終了後、医師たちと何人かのボランティアは健康ランドに宿泊した。   4月30日、イベントは9時開始なので朝早く会場に着いた。看板やら道案内などをセットしてから、医師やボランティアの方々と朝礼。受付を2ヶ所に設置し、1番目は調査のために使い、2番目は患者登録に使用した。受付ではパソコンをネットワークに繋ぎ、患者の個人情報保護に配慮した上で、それぞれの医師が患者の基本情報が見られるようにして、医師たちが面倒なことをしなくて済むように準備した。医師たちには「日本に居ても、ネパールのようにネパール語で患者の診断をすることができるのはとても嬉しい」と言われた。患者たちからは「ネパール語で診断を受けたのは久しぶりだね」、「ネパールに戻ってきた気分だよ」というような声が聞こえた。この日は午前9時から午後5時までの間に、82人が診断を受けた。   次の日も全体的な流れは初日とほとんど変わらなかった。診断を受けたのは68人。1日目より増えると想定をしていたが、それには届かなかった。しかし、何よりも、診断を受けた人々が満足してくれたのが嬉しい。   中に、アメリカ英語とイギリス英語の違いから日本の病院で伝わらなかったという患者がいた。その女性は「ちゃんと言ったのに分かってもらえなかった」と悲しんでいた。「痔核」はアメリカ英語では「Hemorrhoid」と言い、イギリス英語で「Piles」と言う。今はアメリカ英語が主流で、あまり「Piles」は知られていない。しかし、英国の植民地だったインド、パキスタンとかネパールでは今でも使われており、彼女は伝わると思ったのだが、残念ながら日本の病院では伝わらなかったのだ。   健康診断で解決できなかった問題が1つあった。若い女性がネパールでNorplantを入れたが、日本に来てから妊娠したくなったため、取ってもらおうと思い近くの産婦人科にかかったが断られたという相談があった。しかしながら、日本ではNorplant を取り扱っていないので処置はできない。Norplantとは簡単な細長い道具で皮下に数本植め込むのだが、取る時も小さい切開手術が必要である。   1日の午後4時半にネパール国臨時代理大使がいらっしゃるとのことだったので、4時に診断を中止し、交流会場を急いで設営した。臨時代理大使が到着して感謝会が始まった。ネパール国臨時代理大使ゲヘンドラ・ラジュバンダリ、足利ネパール交流協会会長渡辺好美、副会長源田晃澄を始め47名が参加した。ラジュバンダリ大使は「ネパール・日本友好60周年であるこの年に、ネパールと日本の友好関係がどれだけ強いのかを知ることができました。ネパールも日本も友好関係にあるからこそできるイベントです。」と話し、足利工業大学と足利ネパール交流協会に感謝状を贈呈した。医者たちへの感謝状は栃木産婦人科医院の栃木英磨医院長、ボランティアとして手伝ってくれた方々への感謝状は渡部好美会長と源田晃澄副会長によって贈られた。記念品としてネパール“ダカ トピィ”を被せて、“カダ”で敬意を表した。最後に軽い食事会をして、イベントは終了した。   訪れた患者たちは、「このようなイベントを開いてくれてありがとう」、「こんなイベントが年に2回ぐらいあれば助かります」、などと語ってくれた。ボランティアの方々も「こんなイベントの一員として仕事をさせてくれてありがとう」と言ってくれた。皆の印象に残るイベントだった。   当日の写真と新聞記事   英訳版はこちら   <ラムサル ビカス Lamsal Bikash> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。トリブバン大学科学技術学部。物理学科を終えて、2010年1月に日本語学生をとして日本へ来日。2014年3月に足利工業大学大学院修士課程を取得。2014年4月から足利工業大学大学院博士課程情報・生産工学専攻に入学。現在は顔検出技術について研究中。  
  • 2016.05.26

    エッセイ493:李志炯「ものづくりと珊瑚礁」

    「珊瑚虫が作り出す珊瑚礁のように個体が作り上げたものもまたその個体と同様に遺伝子の表現型だった。」これは私が尊敬する押井守監督の作品である『攻殼機動隊-Innocence』の中に出てくるセリフである。この言葉が私の心に残っているのは珊瑚礁を作る仕事とかかわっているからかもしれない。特に、デザインという珊瑚礁は人間の生活に密接しているので、その形によって人間の人生が大きく変わる。そのため、デザインする際にはこのことをよく考えなければならない。   しかし、今までのデザイン、すなわちものづくりに問題はなかったのか。20世紀には国の成長のために国民(人間)が犠牲にされた部分もあったと思うが、ある程度の成長を成し遂げた21世紀に20世紀のものづくり方式は相応しいのか。最近、テレビのニュースを観ていると、珊瑚虫が作り出した珊瑚礁のせいで苦労している人間が多くみられる。特に、スマートフォンのような通信機器とかかわる産業でよくみられるようだ。   20年前に比べ、スマートフォンのような通信機器の発達によりコミュニケーションが一層とりやすくなった。しかし、いつも作用があるとその反作用もある。コミュニケーションがとりやすくなることにより人間関係にも変化が訪れた。連絡したいと思えばいつでもできることによって他人への思いが薄くなっている。また、昔は手紙を書く際には言葉のひとつひとつに思いを込めたが、今はあまり考えずにEメールを書いたり、ブログ等に書き込んで相手を傷つけることも多いという。   さらに、コミュニケーションのしやすさの反作用が大きいのが「LINE」のような無料通話アプリケーションである。現在最も注目されている事業分野である。これらの発達により国内電話だけではなく国際電話まで無料になり、多くの人にコミュニケーションの利便性を与えた。しかし、その一方でテレビのニュースで見かけるのが無料通話アプリケーションを通したイジメである。朝から晩まで、そして学校でも家でも無料通話アプリケーションでイジメられて、被害者が帰らぬ人になってしまう事件が増えている。   このような問題は誰の責任か。つくる側の責任なのか。それとも利用する側の責任なのか。私はデザインを専攻しているから、このような問題をつくる側の観点から考える。今までのものづくりを見ると、利便性を優先する傾向が強い。また、ものづくりの際に問題点が見えても、功利主義の立場からつくる側の利益ばかりを優先して、問題点が無視される場合もある。   しかし、すべての人間を満足させるものづくり、副作用がないものづくりは、そもそも存在しない。今のものづくりは社会に適合する形であるかもしれないが、人間の未来を考えた場合、本当にこれでよいのか。今のものづくりは社会には適しているかもしれないが、その社会に住んでいる人間には適していない可能性があるのではないか。   珊瑚虫が作り出す珊瑚礁のように、先祖がつくった珊瑚礁の中で私達は住んでいて、私達が作り出した珊瑚礁に私達の子供が住むはずだ。つまり、私たちの感情や思想、先入観を基に作り出した環境で次世代の人々が暮らすということである。つまり、私たちが作り出した環境により次世代の生活が大きく変わることになる。それならば、私たちの子供、また人間社会の未来のために私たちが珊瑚虫である今の時期にどんな珊瑚礁をつくり、世に残すべきなのか。これからはこのことをさらに深く考えなければならないと思う。   一例として私が2007年に日本に来たときと今の日本を比較してみたい。私が日本に来た2007年には電車に乗るとよく見かけたのは、本を読んでいる人や、友達と楽しく会話している人々であった。しかし、今はほとんどの人がスマートフォンでゲームをしている。特に、驚くのは、友達が一緒にいても各自にゲームをやっていることである。我々はスマートフォンゲームという珊瑚礁をつくったが、これによって若者たちの中で会話が少なくなるのではないかと心配になる。   特に、若者はスマートフォンゲームの文化に慣れてしまって、一人でも楽しむことができるから、友達と会うことをあまり重要ではないと思っている。そして、人間関係についてもあまり深く考えなくなり、学校や会社での人間関係でトラブルが発生するとそれに対応できずすぐやめてしまったりする。また、楽しさについての考え方もゲーム等が中心となり、それに邪魔になる恋人はいなくてもよいと思っている。これらは最後に孤独死、うつ病、人間不信、生命軽視による悪質な殺人、低出産などにつながるので、人間の生存を脅かすことになるかもしれない。   このような珊瑚礁の中で生活している珊瑚虫の若者達が、未来の珊瑚礁を作り出す立場になったらどんな社会になるのか、と考えると本当に夜も眠れないほど心配だ。私たちがまだ珊瑚虫である間に、人間の未来のためにどんなものづくりをするべきかについて深く考えなければならないと思う。   <李 志炯(イ・ジヒョン)Lee Ji-Hyeong> 2007年啓明大学(韓国)産業デザイン科卒業。2007年6月来日、千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻修士課程終了。2011年~2013年、千葉大学発ベンチャー企業BBStoneデザイン心理学研究所で研究員として勤め、現在は千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻博士課程在学。韓国室内建築技士・日本ユニバーサルデザイン検定の資格を保有。       2016年5月26日配信
  • 2016.05.19

    エッセイ492:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「『競争』が大嫌いな理由:一人の人間として、文学部の学生として」

    「競争」というものは、「比較」というものを大前提とする。人を競争させるためには、何らかの形で人を「比較」しなければならない。人を比較するためには、簡単には測定できないその奥深い中身―その人が持つユニークな内面性、事情、人としての成長、物語など―を、測り易く表示しやすいものに変換しなければならない。要するに、「数字」に還元しなければならない。   ここで、疑問。   「人」を比較し競争させる際、元々「質」の次元に所属している「内面性」などのような、奥深く簡単には測定できないものを、元々「量」の次元に所属している「数字」のような、測り易く表示しやすいものにどこまで変換し還元させていいのだろうか。そしてそれを前提に、人に対して何らかの価値判断をどこまで下していいのだろうか。 投稿一覧 特に、人間の最も奥深いところを次世代に伝える使命にあるはずの文学部に当てはめていいのだろうか。しかし、これは、世界中の大学の文学部で起きているらしい。判断基準はだんだん、「今まで出した論文数はいくつか」とか、「何年で修士論文や博士論文を出せたか」になろうとしている。結局、「量」的なものばかりではないか。ところが今、むしろそれこそ「成果」と評価されている。いったい何時から世界中の文学部が、このような非常に感情のない数式による「合理的な」仕組みに巻き込まれてしまったのだろうか。   私は、より「正確な」判断基準を提案する立場にもなく、どのケースにも楽に使えそうな方法も知らない。だが、文学部の学生として、そしてなによりもユニークな内面性、事情、物語などを持っている一人の人間として、「何かがおかしい」「何かが根本的にずれているのではないか」と感じている。一人の人間として、自分と他の人間の内面性などの、不可侵で測り知れない価値を訴えたくなる。「我々は今、何か大事なものを見失っているのではないだろうか」という気持ちになる。   もう一つの疑問。   「知識」と、単なる「情報量」との違いとは何か。また、その根本的な違いは、近ごろ文学部の中でも行われる、数字ばかりを用いた比較と競争の様々な仕組みと、どう関わってくるのか。   プラトンが教えている。「情報量」とは、ただのデータの集まりであり、未活用のものであると。「知識」とは、人の幸福や繁栄のために活用された情報量であると。要するに、「情報量」は人の幸福と繁栄のために活用されることで、初めて「知識」と成り得るのだと。しかし、数字ばかりを用いた比較や、それを大前提とする激しい競争や、弱い人間同士の席取り競争には、最後の最後までなんとしてでも自分だけを押し込まなければならないところもあるから、そこで「人のため」とか、自分も含めて「みんなのため」という部分は見事に除外されてしまうのではないだろうか。そしてそれによって、我々の教育機関も、「知識の場」ではなく、ほぼ完全に孤独な「情報収集の場」へと化してしまうのではないだろうか。我々の「知識」は少しずつ、ただの未活用の「情報量」に逆戻りしてしまっているのではないだろうか。   以上、昨今の私の疑問です。   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Giglio,_Emanuele_Davide> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を経て、2008年4月から東京大学大学院インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程に在籍中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2016年5月19日配信
  • 2016.05.12

    エッセイ491:顔淑蘭「私が見た中国の日本文学研究の現状」

      先日、中国国内のとある大学で日本文学コースの学生たちに文学理論の話をする機会があった。日本文学史あるいは自分の研究内容について話そうかとずいぶん迷ったが、自分の学生時代の状況を鑑みて、やはりこれまで学生たちが触れることの少なかったであろう文学理論の話をした方が、学生たちにとって得るものがあるように思って試みにしてみたのである。   と言っても、ただ単に文学理論の話ではなく、日本の有名な文学作品の分析と結びつけながら、それに関連してそれらの文学作品をめぐって研究史でどのような議論がなされてきたのかも合わせて話した。   そうしたら、講義の後、そこに来ていたひとりの先生に、「そのような研究方法だと、中国では読者がいない、もう少し自分が中国人であることを自覚したほうがいい」と言われた。   その先生の言うことが分からないわけではない。日本人の研究方法を追っているだけではなかなかそれを越えることが難しいから、もっと日本人のできないようなことをやりなさいということだ。それについて、私はまったく異論がない。私自身のこれまでの研究もむしろそうだったから、もちろん学生たちにもできるだけ自分の長所を生かしてほしい。また、中国文学と日本文学の研究方法が違っていて、後者の方法がどれだけ前者に応用できるのか、というその先生の疑問にもうなずけるところがある。   しかし、だからと言って、中国の日本文学コースの学生が、日本の研究方法を知らなくて本当にいいのだろうか。ましてや日本文学、あるいは中日比較文学の研究者が。もちろん、その先生は別の専門で、もともと近現代文学とはかなり異なる研究方法を持っていると思うから、あまり反論する必要がないかもしれない。が、両国の日本文学研究の現状がいかにかけ離れているのかということについて、中国国内の研究者たちにより正視してほしい。それだけでなく、文学理論は中国文学研究の方にも多く取り入れられているから、よけいに比較文学研究の研究者たちが取り残されたような感じがする。   あの日学生たちに話した研究方法が中国できちんと受け入れられるかどうかということについて、それまで私はほとんど問題にすることはなかった。博士後期課程の4年間、あまりにも慣れてしまったせいか、むしろそれが当たり前のように思っていた。しかし、思い返してみると、博士課程に進学した当初、ゼミの議論で多くの文学理論が飛び出てくることに私自身も結構戸惑っていた。もちろん、ある程度はそれが私の属していた研究室の特殊なところでもあって、あまり一般化することはできないが、4年間の訓練を経て、私自身の視野が広げられただけでなく、文学研究も今まで以上に面白くなってきたから、同じ日本文学を勉強する学生たちにもぜひ知ってもらいたいと思った。   かつて多くの中国知識人が海外留学で得た考え方や価値観をもって中国国内の状況を批判して、オリエンタリズムの内面化だと批判を浴びせられたことがある。そういったことを研究してきた人間として、日本だからなんでもいいといったようなものの見方や日本かぶれには警戒してきた。日本にいる4年間、中国と中国人に対する日本人の偏った見方に眉を顰めてもきた。しかし、あるいはだからこそというべきかもしれない、より多くの中国人に日本のいいところを学んでほしいと思う。   日本においても中国においても常に不満を感じている自分を反省するのを忘れない一方、これが文化を跨って生きる人間の逃れられない使命でもあるように思う。たとえこれからの道がまだまだ険しいとしても…   <顔淑蘭(イェン・シュラン)Yan_Shulan> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。厦門大学(学部)と北京師範大学(修士課程)を経て、2012年4月から早稲田大学教育学研究科に在籍。2016年1月に博士号を取得。現在は中国で就活中。     2016年5月12日配信
  • 2016.05.04

    エッセイ490:謝志海「人工知能と将来の職業のあり方」

    この春、初めて自分の受け持ったゼミ生が卒業した。普段の講義は英語でのみ行っているので、ゼミの授業だけが日本語。実は日本語でクラスを受け持つのは現職がほぼ初めて。私のつたない日本語にも関わらず、生徒はイヤな顔どころか、いつも笑顔で出席してくれた。感謝している。卒業と同時に彼らは人生の新たなドアを開ける。大半がどこかへ就職する。就職活動というのは、いつの時代も難しいはずだ。景気が良くても悪くても、「今年は全員が第一志望の所へ就職出来ました」などという話は聞いた事がない。昨今の就職活動で気をつけたいポイントは、日本においては、ブラック企業は避けようなどといったところだろうか。   最近の経済関連の新聞、雑誌によく取り上げられている、人工知能(AI)。大学生の就職活動と密接な繋がりを持っている。そのことを証明するのが、世界中を騒がせた論文、英国オックスフォード大学のオズボーン教授と研究員の書いた「雇用の未来——コンピュータ化によって仕事は失われるのか」。これまで人間がやっていた仕事で、近い将来機械(ロボットなど)に取って代わられるだろうという職種が具体的にリストアップされている。中には「そんな職種まで?」というものまでリストに入っているのだから、この論文が全世界から注目を集めたのだろう。就職活動をしている人にとって、自分の就きたい職種、勤めたい業界の仕事が近い将来消えていくと考えられていることを知れば、未来を悲観的に捉えてしまいがちなはずだ。   しかし自分の生まれた時代を嘆くのはまだ早い。このようなトランジッション(変遷)は就職活動をしている今に限らず、ほとんど誰もが社会人になっても経験することなのだから。例えば、コンピュータやインターネットがどのように社会に浸透し、どこまで日々の業務に入り込んでくるのかなんて、皆つい最近まで思わなかったのだ。それが今では、インターネットなんて、どこにいても繋がって当たり前の時代だ。   インターネットの到来と同じく、人工知能の発展と活用に伴い、ビジネスのあり方が急速に変わるだろう。もうすでに日々変わってきている。大切なのは、この人工知能をいかに上手く操り、作業を楽にすることによって自分の本当にしたいことに専念出来る環境を作ること。人工知能は人の仕事を奪う、という考え方をしないで、共存することを考えた方が前向きだ。   同時に、人工知能に奪われない仕事について自分自身で考えることも必要かもしれない。論文、「人工知能はビジネスをどう変えるか」(筆者: 安宅和人 ハーバード・ビジネス・レビュー 日本語版2015年11月号掲載)によると、人工知能ができないことを認識することが欠かせないとしている。そう、人工知能にだってできないことはある。筆者はこのできないことを8つに分類している。例えばそのうちの一つ、「AIは人間のように知覚できない」では肌触り、気持ち良さなどは人工知能はわからないという。ということは、人工知能は布団や洋服の為の新しい繊維を開発することは出来ないということか。新繊維があっても、それは寝具向きなのか、わからないのかもしれない。では繊維を開発する会社とはどんな会社があるだろう。といった具合に、生き残れる職種、会社をゲームのように考えていくのは、案外楽しいことではないだろうか。   また、同じ論文には、人工知能が普及したと想定して我々が受ける影響を5分類している。そのうちの一つ、「ヒューマンタッチがより重要になる」。色々なことが、自動化すれば、今後は人間同士の繋がりにより価値が出てくるということだ。ロボットにしてもらうよりは、時間がかかっても人にしてもらう方がいいという物事やサービスはこの先もきっとある。介護や病院での今まで通りの看護師とのコミュニケーションにかかわる職種はロボットに完全に取って代わられるということはないだろう。一方で、介護の肉体的な仕事などは、ロボットや機械を使えば、動けない老人をお風呂に入れるなどといった重労働から解放されるだろう。そうなれば、腰痛持ちだが、介護の仕事が好きな人などにチャンスが増える。   この春大学を卒業した人、これから就職活動をする学生みんなに、未来を悲観せずに、自分を信じて、今出来ることから始めて欲しいと言いたい。自分の就きたい仕事(職種)において、人工知能はどのように私の仕事を助けてくれるだろうと想像しながら就職活動をも楽しむとよい。必要な資格を取っておくなどして、日々を充実させよう。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2016年5月5日配信
  • 2016.05.04

    エッセイ489:李鋼哲「『孫中山』の名前の不思議」

    孫文といえば、中国でも日本でもまた東アジアや世界でもよく知られている歴史上の人物である。しかし、その名前(呼称)は面白くて不思議である。   先週、台湾の高雄市にある文藻外語大学でワンアジア財団の講義を依頼され、久しぶりに台湾旅行を堪能した。石川県の小松空港から台北桃源空港まで直行便が週に5便あり、とても便利である。金沢や北陸地方は台湾の観光客に人気で旅行者が多い。ちなみに石川県は保守的な風土があり、嫌中親台の傾向も強いので、大陸より台湾訪問者の方が多い。   ところで、ここで私が読者に伝えたいのは、「中華民国の国父」と言われる孫文の名前についてである。台北や高雄に行くと、「中山公園」、「中山路」、「中山大学」など、「中山」(Zhongsan)という名前の付いた地名が多くみられる。中国大陸にも同じように「中山」という名前の大学、施設や道路などがたくさんある。大陸では孫文を「国父」とまでは言わないが、「近代革命の先駆者」として特別な扱いをし、共産党中国は孫文の未亡人である宋慶齢女史を「国家副主席」にまで格上げし、死の直前には「中華人民共和国名誉主席」の称号まで与えた。孫文は、中国を清朝満州族の手から約270年ぶりに漢民族の手に取り戻し、「中華民国」を作り上げたので、国民党も共産党も孫文を「国父」や「先駆者」と崇めるのは当然のことであろう。   しかし、その名前の呼び方が「孫中山」となっていることは不思議だ。台湾や中国の皆さんは聞き慣れているからなんとも思わないだろうが、日本や外国では一般的に「孫文」または「孫逸仙」、英語では「Sun Wen」または「Sun Yat Sen」と呼ぶ。   ウィキペディアでは次のように紹介している。「孫文:譜名は徳明 、字は載之、号は日新 、逸仙 (Yìxiān) または中山 、幼名は帝象 。他に中山樵(なかやま きこり)、高野長雄(たかの ながお)がある。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語のローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる」。「号の由来:孫文が日本亡命時代に東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主人は貴族院議員の中山忠能である」。   つまり、「中山」は紛れもない孫文の日本名「ナカヤマ」である。一般の人が、自分が好きな名前を付けたりするのは特に問題にならないし、それには何の不思議もないが、「国父」、「先駆者」という特別な扱いをされ崇められる人物に「中山」(ナカヤマ)という外国の号を公式名称として使うことについて「不思議」に思うのは私だけだろうか?   大陸でも台湾でも、大学や施設や道路に「中山」を使って来ているが、なぜか「孫文大学」や「孫文路」などは見当たらない。それは日本に親しみを持っているからなのか、それとも別の理由があるのだろうか、私は孫文研究の専門家ではないので、その理由がわからない。   日本に親しみを持っているのであれば、国民党からも共産党からも「親日派」として批判されても不思議ではない。かつて孫文は日本を中国革命の根拠地として頻繁に出入りし、日本人の友人や支援者が多く、大月薫という日本人女性と駆け落ち結婚もして、子孫まで残しているという。彼の後を継いだ蒋介石も2度も日本に留学し、日本の高田砲兵隊に2年間勤務したので、「親日派」と言っても不思議ではないだろう。   また、中華人民共和国の創設者である毛沢東は日本留学の経験はなかったが、かつて1950年代に日本の社会党代表団が訪中し、毛沢東に会見した時、「日本は中国を侵略し多大な迷惑をかけた」とお詫びしたら、毛は冗談半分で「何をおっしゃっているのですか?我々は日本軍に感謝しています」と答えたという。「日本の侵略戦争があったから、中華民国の国民党の手から政権を奪うことができた」という意味で、日本に感謝するとまで言ったという。毛沢東の右腕であった周恩来首相も日本留学経験者であるのは周知の事実である。毛沢東や周恩来の時代には反日キャンペーンなどなかったのである。その後の鄧小平の時代もほとんど同じであった。   確かに、近代日中関係はいろいろ複雑な側面はあると思うが、台湾では比較的「親日的」(哈日) な傾向があるのは間違いなく、また、大陸でも1972年の日中国交正常化以降から1980年代まではかなり「親日的」であった。こういうことを今の中国人や日本人は忘れているように感じる。特に若者はそうである。北陸大学には中国からの留学生が多く、講義の時に「かつて80年代、私が大学生の頃は、親日ムードが凄かったよ!」というと、「え?そんな時期もあったんですか?」と中国人や日本人の学生たちはびっくりする。それも不思議ではない。彼らが世間を知り始めてから現在までは「日中関係は悪い」、「中国人は反日」という印象しかないのだから。   私が中国で世間を知り始めた10歳ころ、朝鮮族の有名な画家(かつて日本留学者)のご家族7人が「文化大革命」のために村に下放されて来たが、その画家の奥さんが日本人であった。末子は私の同級生だったので、その一家と仲良くしていたが、ちょうど日中国交正常化の時期ということもあったからか、村の誰一人も「日本人」だからと言って憎んだり虐めたりすることなく、親しく付き合っていた。私の日本語勉強は、その同級生のお母さんに教えてもらったのがきっかけであった。   それから1980年代末ころまでは、日中関係は基本的に友好的なムードであったことは疑いのない事実である。大学生の時代にはキャンパス・コンサートでも日本の歌を熱唱し、多くの若者が日本のドラマと映画に夢中になっていたのである。また大勢の若者が日本に留学に来たのである。つまり、中国には「親日的」(または「日中友好」)な要素がたくさんあるし、日中関係の未来にそれを生かすことができると信じている。また、それを今の若者に伝えるのは我々の責務であり使命でもあると思われる。   「孫中山」が「ソン・ナカヤマ」だったということも世の中に、特に若者に伝えることは中国人の日本理解を深め、対日観を変えていくためにはとても大事なことである。   <李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。北東アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 --------------------------------
  • 2016.04.14

    エッセイ488:金流星「アジアとは何か?」

    国際的なサービスを提供している企業のウェブサイト(例えばマイクロソフトやヤフーなど)で会員登録をすると、度々国籍を聞かれる。大体は、プルダウンメニュー(押すと選択肢のリストが出るメニュー)をクリックして、長い国名リストが下に広がり、その中から一つ選ぶ形式だ。インターネットを使っている人ならだれもが一度は経験したことがあるだろう。   私の場合は、国の名前が、「Republic_of_Korea」、「S._Korea」、「Korea」など(時には、漢字だったり、ハングルだったり)と何通りもの表現がある。スクロールし、リストの最後に着いても自分の国の名前を見つけられない場合があるが、すると「どこで見逃したんだろう?」と、ちょっと気を配りながらまた探し始める。私にとって国選びは嫌いな項目なのだ。すべてを名前順にするのではなく、まず一度、地域ごとに分類してから表示するウェブも少なくない。幸い、こんな親切な(?)ウェブに遭遇するとちょっぴり嬉しい。   ところが、私の国が属している「アジアのリスト」には、どう考えても「アジアのイメージがない国々」があるのに気づく。主に西アジア(中東)や中央アジアだ。失礼な発言だったかもしれないので、ここでまず「アジアとして認めない」などの意図はないことを断わっておこう。   「一体アジアってなんだろう?」「国選びの空欄」埋めから素朴な疑問が湧いた。皆さんもどこかで「アジア」という文字に接したときに、このような経験があるのではないだろうか?きっと「アジア人」なら一度は思ったはずだ。そして、多くの人にとっては、各自が持っているアジアのイメージは、実際の概念(西アジアから東アジアにいたる幅広い概念)と一致しないのではなかろうか?   こう言える理由を一つ上げてみよう。海外旅行会社のウェブで、海外旅行の航空券を選ぶ時を思い出してみよう。旅行会社のウェブのほとんどは、国々をグループごとに分類している。しかし、前述のウェブサイトの加入時の国別分類システムとは少し異なる。   一般的に、アジアの国々は、一つの大きなアジアグループに一緒に入っていない。日本のサイトの場合は、「アジア」という分類の中には、東アジア、東南アジア、南アジアのみであり、西アジアという用語はなく、中東として別に分類されている。韓国の旅行会社でも大体同じだ。旅行会社は利益を求める企業であることを考慮すると、客となる多くの一般人のイメージに合うような、より選びやすい分類システムを採用していると考えてもいいだろう。間接的ではあるが、一般の人にとっては、このような概念のミスマッチがあることは否定できないだろう。中国は国の名前がそのまま、別表記されているが、もちろん「中国はアジアではない」とだれも思っていない。ただ、中国への旅行客が多いことと中国国内の空港も多いので、あくまで便宜上の表現である。   では、一体、本当の「アジア」はなんだろう?「アジア」という言葉は、「東」を意味する「アス(asu)」とラテン語の接尾語「イア(ia)」がくっついてできたといわれている。ここでいう「東」とは、地中海の東、ヨーロッパの東のことだ。この説明のままでは、広すぎて、共同体を表す表現としてはあまり意味がないようにも見える。そもそも、文化的、人種的、民族的にも異なる「アジア」を、「非アジア」と区別するような共通項はあるのだろうか?   最近、知人にこんな話を持ち込んだら興味深い意見を聞くことができたので紹介したい。アジアは単純に「ヨーロッパの東」を指すのではなく、「非ヨーロッパ」の象徴ではなかったのかという意見だった。   つまり、アジアという言葉が広く使われるようになったころは、世の中はヨーロッパが主導する時代であった。アジアは、まだ経済力や技術力などの近代を支える力の少ない国、言い換えるならば、自分たちでない国(非ヨーロッパ)の意味があるのではないかということだ。   2006年に、スウェーデンのハンス・ロスリン教授は、いまでは最も有名な公開カンファレンス《TED》で、「自国の子どもたちを対象にした調査から、子どもたちは、世の中をWe(私たち)and_Them(あなたたち)で分類して、それぞれWestern_World(世界の西側/西洋)とThird_World(第三国)として認識している」と発表した。この事例を参考にすると、アジアという言葉には、「非先進国」という意味が含まれていると考えても極端な飛躍ではないかもしれない。   いままでは、ただ少し不思議な言葉だとしか思っていなかった「アジア」。調べるうちに、その不思議さを周りの知人の多くも感じていることが分かり、私たちはアジアという「言葉」自体に囚われていたのではと思うようになった。アジアという言葉は、大雑把な地理的な区分で始まったかもしれない、あるいはあまりよくわからない東の国々を指す言葉だったかもしれない。もしかしたら、発展途上国に対する優越感を表す言葉であったかもしれない。どれにしろ、それは世界がお互いをあまり知らなかった時代の産物である。ロスリン教授は、前述の事例で、先進国においても、変化する世界の事情を的確に教育に反映できていないことや、人々の認識が近代的な発想にとどまっていると指摘した。ロスリン教授の発表から10年後の今、私たちも同様に、今の世界には合わなくなったアジアという服を、未だに着ているのではないだろうか?   アジアは、文化や民族など多様性に富んでいる上に、アジアの国それぞれ様々な形で発展・変化してきた。時代の変化とともに共同体の概念も現状に合わせ、そして、有効に機能するように変えるべきかもしれない。グローバル化が進むと同時にナショナリズムが台頭する中、共同体という概念は常に揺られている。アジアという言葉の枠組みにとらわれず、私たちの未来に相応しい共同体の再定義が必要な時だと思う。   <金流星(キム・ユソン)Kim_Yusung> 日韓政府の共同事業「日韓共同理工系学部留学生制度」により2001年10月に来日。筑波大学で生物学を学び、東京工業大学大学院で、生体分子の調節機構を研究し修士号および博士号を取得(2011年)。韓国のRegeron,_Inc.で専門研究要員として軍服務すると同時に、生体機能分子を利用した医薬品・化粧品原料の開発を率いた。2014年からROAD_International(株)に移り、中国と日本に住みながら、海外企業向けの日本産業研修を提供している。現在Regeron,_Inc.副所長、ROAD_International(株)管理本部長。     2016年4月14日配信  
  • 2016.04.07

    エッセイ487:謝志海「上海で思う日中関係」

    私は中国人で現在は日本在住。研究は日中関係、米中関係などの国際関係。なので、なるべく中国を自分の目で見ておきたいと思っているが、日々の仕事に追われ、日本を出るチャンスは多いとは言えない。先日1年ぶりに仕事で中国に行く機会があった。場所は上海。相変わらずの国際都市。行くたびに高層ビルが増え、地下鉄はさらに延びている。今回、短い滞在の上、慌ただしいスケジュールであったが、日本では得られない中国の研究リソースを得た。   日中関係は2012年に日本政府が尖閣諸島(中国では釣魚島)を国有化することによって劇的に悪化した。以来、日中関係は大きくは変わっていない。中国人旅行客がこれ程日本に訪れていても、日本人と中国人の間には相変わらず距離がある。中国語を学びたいという日本人も減少の一途をたどっている。   ところが、ひとたび上海に来てみれば、日本企業の出店の多いこと!どのデパート、ショッピングモールに行っても、必ず一つは日本のチェーン店がお店を出している。日本企業は日中関係の悪化などどこ吹く風で、果敢に中国でビジネスを展開しているではないか。日本のファストファッションの紙袋を手にした中国人を地下鉄やいたる所で目にする。   昼休みの時間帯には、デパートの地下にあるフードコートの日本のうどんチェーン店に長蛇の列ができている。ここは日本かと錯覚してしまう。中国人、少なくとも上海の中国人には日本の製品、衣料品、飲食店は受け入れられている。中国に行ったことが無い日本人には想像もつかない光景ではなかろうか。日本人の中国に対するイメージは今でも、中国で日本のお店が中国人によって破壊された時期から更新されていない。   最近の日本のメディアが中国人について報道するのは、決まって「爆買い」。中国人が今、日本をどう思っているかまで掘り下げてはいない。   日本人が上海に旅行に行ったとしたら、街中に点在する、日本の見慣れたお店や企業の看板に安心感を抱くことが出来るのではないだろうか。しかし私は上海で観光客らしき日本人は見かけなかった。レストランで偶然隣に居合わせた日本人たちは、流暢に中国語を操り、私よりもそのレストランに慣れていた。上海に住んでいるのだろう。中国の生活に馴染んでいる日本人もいる。これも日本にいる日本人にはあまり知られていないのではないだろうか。   日本人に今の中国に行って見てもらいたい。日本企業は外交や政治的緊張を跳ね除けて、中国でビジネスを展開している。中国に来て、日本企業のたくましさを見れば、改めて自分の国を誇りに思えるのではないか。そう思うべきだ。   中国に進出しているのは日本企業だけではない、欧米や韓国の企業も中国にしっかり根を張ってビジネスをしている。上海の溢れんばかりの経済の活気を若いうちに目の当たりにすれば、日本の若者も中国語や英語等外国語を学ぶ必要性を感じるかもしれないと私は感じた。問題は日本人の中国への観光客が減っていることなのだ。この点については日本と中国の双方から解決しなければならない。   上海で思ったことは、中国と日本は関係を悪化させている場合ではない。互いの良い部分をもっと認め合えたら良いということ。春節が終わっても、東京にはまだ中国人観光客がいる。日本人ももっと中国に行って、今の中国を見て欲しい。そして私は自分にも言い聞かせる、中国について研究している限り、中国に足を運び自分の肌で中国を感じよう。今回の中国出張で、日中関係には回復の望みがあると思えた。日本と中国の心の距離が縮まることを願う。     <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。   2016年4月7日配信