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2015.04.02
2015年、この年はシンガポールの歴史に深く刻まれる年となります。建国50周年を迎えた年としてではなく、偉大なる建国の父がこの世を去った年として記録されることになるからです。
「偉大」という言葉を使うことで、まるで僕がどこかの国の国民みたいに独裁者を熱狂的に崇める輩のような印象を持たせてしまうかもしれませんが、僕は死んでもそういう人間にはならないことを僕のことを知る人なら分かるはずです。しかし誤解を招きかねない表現であっても敢えて使います。リー・クアンユー氏は偉大です。
リー・クアンユー氏の功罪を分析する書籍、論文や新聞・雑誌記事などがたくさん出ている中で、同氏の指導力、高圧的な政治手腕と独裁ぶりについては他の所を参考にしていただくことにして、ここでは彼が率いる人民行動党による一党支配体制下で生まれ育った一国民として自分の素直な気持ちを書きたいと思います。
発展途上国といわれるアジアの国々を訪れるたびに、僕はよくデジャビュに襲われます。手入れの行き届かない住宅、クモの巣のように地上に張り巡らされている電線網、衛生状態の悪い屋台の群れ、黒い水が流れる水路などなど、僕がまだ幼かった頃にシンガポールでよく目にした風景とどこか似ていると、心のアルバムのページが開くからです。現在一人当たりGDPが約6万USドルと日本の約4万USドルよりも高く、IMFや世界銀行などいずれの統計においても経済的豊かさが世界トップ10に入っているシンガポールからは到底想像できない風景でもあります。この驚くべき変貌を可能にした国づくりの第一設計者がリー・クアンユー氏であることに異議を唱える国民はいません。国の発展と繁栄とともに成長し、多くの恩恵を受けてきた僕のような独立後世代はなおさら否定することができません。
とはいえ、この世に完璧なものはあり得ません。完璧な民族、完璧な国なんて幻想でしかありません。 経済や社会がうまく回っているように見えるシンガポールでも、他の国と同じくいろいろな課題を抱えていることは事実です。ただ、国土が小さく資源も無いに等しい事情に加え、多民族・多言語・多宗教という複雑な国情の中で、文化も習慣も言葉も信仰も異なる国民同士が仲良く共存できていることが不思議でなりません。教会の近くにモスクが建ち、50メートル先に道教のお廟があって、そのすぐ隣りのヒンズー教寺院から祈りの声が響く、という今のシンガポールでは当たり前の風景でさえ、民族間不信や宗教暴動が頻発していた歴史から考えれば、これも奇跡の一つなのかもしれません。そして、その背後に無宗教のリー・クアンユー氏の存在が大きいことは、国民なら皆知っています。
もちろん、リー・クアンユー氏も完璧な人間ではありません。彼のことが嫌いだという人も少なくありません。実をいうと、僕もその一人です。超合理的でエリート主義者でもある彼は、物議を醸す発言を連発した時期もありました。大卒の女性の多くが独身であり、結婚しても産む子供の数が低学歴の女性より少ないという傾向を変えるべきだとか、一人一票が最善の選挙方法であるとは限らず家庭と子供を持つ国民には二票を与えるべきだとか、何の資源もない一国のあり方と将来を担う首相、大臣と上級官僚が世界一の高給をもらって当然だとか、反対ばかりしてより良い政策を提案する能力もない野党は要らないとか。一般の指導者であれば思っていても普通は決して口には出さないことを、このように躊躇もせずに直球で見解を表明することに気持ち良さすら感じてしまいます。また冷静に考えれば、それらの発言に一理がないわけではなく、その独創的な発想に新鮮さと大胆さを覚えます。好きではありませんが、心から尊敬はします。言ってみれば厳父のような存在です。
その厳父は優しいおじいさんでもありました。リー・クアンユー氏の7人の孫の一人であり、長男であるリー・シェンロン現首相と亡くなった前妻との間に生まれた息子であるイーペン氏は、アルビノで視覚障害があり、またアスペルガー症候群にもかかっています。この孫のことを一番可愛いと、リー氏は自身の回顧録にも書いています。リー・クアンユー氏の遺体が納められた棺が、一般国民の弔問を受けるために国会議事堂へ運ばれたとき、イーペン氏は先頭に立っておじいさんの遺影を持って歩いていました。その直後、国民による厳父への弔問の列は予想をはるかに超え最大で8時間待ちとなり、政府が国民に弔問を控えるように勧告を出したほどでした。
亡くなられる数年前にリー氏はあるインタビューで、自分が下した難しい政治決断に対して反対や不満を抱く人々もいただろうということを認めたうえで、次のように語りました。「結局のところ、私が何を得たかって?それはシンガポールの成功だ。私が何を捨てたかって?それは私の人生だ」と。
数年後、シンガポールのどこかにリー・クアンユー氏の銅像が建つのでしょう。いつかシンガポールのお札の肖像も今の初代大統領のユンソ・ビン・イサーク氏からリー・クアンユー氏に変わるかもしれません。いずれにせよ、銅像がなくてもお札が変わらなくても、その名は永遠に国民の心の中に生き続けるのでしょう。
英語版エッセイはこちら
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<Sim Choon Kiat(シム チュン キャット) 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。主な著作に、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年、「論集:日本の学力問題・上巻『学力論の変遷』」第23章『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』(日本図書センター)2010年、「現代高校生の学習と進路:高校の『常識』はどう変わってきたか?」第7章『日本とシンガポールにおける高校教師の仕事の違い』(学事出版)2014年など。
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2015年4月2日配信
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2015.03.25
フランスの経済学者、トマ・ピケティ氏の著書「21世紀の資本」が世界的ベストセラーになっている。日本語版も昨年末に発売され売れ行きも好調。各誌がこぞってピケティ特集を組んでいる。日本の経済学者だけでなく、会社経営者たちもこの本、そしてピケティ本人に随分と影響を受けているようだ。新聞や雑誌のインタビューで彼の本と発言の引用をよく目にする。私も実はそれらの記事からピケティ氏を知った。そして今、本屋では「30分で理解する」などといった「21世紀の資本」の解読本のようなものがたくさん並んでいる。先日の衆院予算委員会でもピケティの名前が出てきた。
これまで話題性のあるカリスマ的経済学者というと、おきまりのようにアメリカ人もしくはアメリカの名門校の教授だった。彗星のごとくフランスから世界へ躍り出たトマ・ピケティ、話題の本の内容はというと「富というのは富があるところに集中する、よって格差が生じる。手を打たないとこの格差は今後どんどん広がるだろう」というものだ。すなわち、資産を持っている人は、その資産を運用することで、さらに富を増やすことができる。こういった資産の収入を不労所得という。資産がある人は自分が働いて収入を得ている間も、その人の資産も自分で働きお金を稼いでいる。では資産の無い人が資産を得ようとすると、自身が労働し報酬を得るしかない。不労収入が無ければ、その人の労働時間は長くなるばかり。この資産ある人、無い人の差をピケティ氏は指摘する。さらに現代の資本主義では、この格差は拡大の一途をたどるという。格差社会の先陣を切っているアメリカではあまり話題にしたくない題材かもしれない。
しかしこの本の英語版は昨年のアマゾンの売り上げランキング1位になった。賛否両論あるそうだが、アメリカの経済学者も肯定的な評価をしている人が多い。この本が経済学の内輪の世界にとどまらず、民間企業の経営者や一般市民までに知れ渡り、惹きつけられるのにはいくつか理由がありそうだ。まず世界中の経済学者がこの本に注目するのは、ピケティ氏が歴史を遡り、かつ過去の莫大なデータを集めて分析し実証的に示したからであろう。つまり、机上の空論では無いということだ。次に、経済学者だけにとどまらず、広く一般にこの本が読まれることとなった背景に、格差社会がどの国でも顕著な、極めて身近な課題だからではないだろうか。例えば、この本の日本語版が出版された昨年は、日本では4月の消費税の増額にとどまらず、さらに増税する時期について大いに盛り上がった1年だった。それだけではない、アベノミクスの下、日銀が掲げる「2%のインフレ達成」、どちらも日本人の日々の生活に直接影響する。なんと絶妙なタイミングで現れた本だろうという感じがする。
「21世紀の資本」をただの一過性の話題本で終わらせてしまうのか、それとも、我々一般市民が経済について一考するチャンスととらえるのか?私は後者を選ぼうと思う。
ピケティ氏の「21世紀の資本」の中で結論とされる「r > g」という不等式、今では本の題名と同じぐらいよく目にする数式になったが、簡単にいうと、債券や株、不動産といった投資による資本収益率「r」は、経済成長率 「g」をつねに上回っている。しかもこの状態はいつの時代においても起こっていて、このまま続くと富の不平等が固定化されてしまうという。この一見シンプルな不等式により表現されている現実には、我々がどの国に住んでいようが、資本主義社会に生きていることを痛感させられる。資本主義社会の基本的な仕組みである経済、その仕組みを知らずに生きていくのはあまりに無防備だ。今こそ経済というフィルターを通して、自分の立ち位置を知り、格差社会とどう向き合い、今後の世の中の動きを自分の考えで推測して将来に備える、いい機会かもしれない。日本のこのピケティ・ブームはそう教えてくれている気がする。
まず自分の立ち位置についてだが、ピケティ氏は現代の社会における不平等の現状として、所得に応じて、上位層(10%)、中間層(40%)、下位層(50%)と3つのグループに分けている。上位層は資本所得が多く労働所得を上回っている。グループの半分を占める下位層の資本所得は無いに等しく労働所得が収入だ。この分類だけで、経済学など知らなくても、格差と機会の不平等が浮き彫りになっていることがわかる。自分はこの3つのどの層にいるのかは、だいたいわかるだろう。なにしろ、90%の人が上位層ではないのだから。ピケティ氏と共同研究者によると、アメリカの上位層(10%)の富裕層が総所得に占めるシェアは50%近く、さらにこの10%の中の上位1%の所得シェアは約20%という結果だ。こんなショッキングな数字が出ればアメリカでこの本が売れるのは当然だ。日本のメディアもこぞって彼を追いかけるのは、動向があやぶまれるアベノミクスについてピケティ氏に聞きたいことがたくさんあるからだろう。
では、日本の格差はいかがなものであろう?今年の1月にピケティ特集を組んだ東洋経済誌によると、日本の所得上位層の上位0.01%に該当する人の年収(税引き前、各種控除前)は8057万円。アメリカだとこの階層はなんと8億円を超えている。さらに、注目すべき点として、上位1%の年収が1279万円であること。これはおよそ上場大企業の管理職クラスが該当するそうだ。「年収1千万プレーヤー」なんて言葉を日本ではよく耳にする。この年収1000万円のラインに何歳で乗れるか否かがよく話題になる。それに上場大企業といえども、管理職クラスの人々もおそらく皆と同じ電車通勤しているだろう。ということはこの上位1%の人の暮らしは、富裕層ではない人々にとって想像の範囲内であり、日本はアメリカほど格差が拡大していないと言える。一見安心な結果のようだが、日本では世代間格差や新卒の就職難、増える非正規雇用者など、雇用機会そのものが問題だ。しかし迫り来る消費税10%、物価上昇は全ての人にふりかかる。今後日本は所得格差が縮まるということはなさそうだ。今のうちに自分がどの階層に位置するかを知り、格差社会に負けない人生を構築しておきたい。
さしあたって、アベノミクスは今後どうなるだろう?と日々の日本の政治経済の動向を観察して、自分なりに日本の未来を占うのもいい。今は盛り上がっているアベノミクス、いずれ崩壊すると読むのなら、それが自分の生活にどう影響するのかも考えておく必要がある。もちろんこのような危機管理を以前からしている人もいるだろう、そういう人は意識的もしくは無意識に経済を気にかける生活を送っていると再確認出来る。またこのピケティ氏が警笛を鳴らす今後の格差の広がりと、アベノミクスを考慮して、なけなしの貯金で株を買いはじめる人もいるだろう。自分の身近なところから経済に対し自分の考えを持ち、出来ることはやってみること。ピケティ・ブームは我々と経済学をこれまでになく身近な存在に近づけてくれた気がしてならない。
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<謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。-----------------------------------
2015年3月25日配信
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2015.03.18
そうしたなか、アジアでは中国とインドの台頭が世界的に注目されている。IMFは昨年(2014年)10月7日に発表した報告書『世界経済の見通し』のなかで、購買力平価(PPP)ベースでみた中国のGDPは2014年末に17兆6,000億ドルに達し、アメリカの17兆4,000億ドルを上回り、世界一の経済大国になると予測した。同じくPPPベースで、新興経済国G7(BRICs4カ国、インドネシア、メキシコ、トルコ)のGDP合計(37兆8,000億ドル)が、先進G7(米英仏独伊日加)のGDP合計(34兆5,000億ドル)を上回るという見通しである。
その中国は、潤沢な外貨準備高を利用し、BRICS開発銀行(資本金500億ドル、2016年発足)、BRICS外貨準備基金(資本金1,000億ドル、2015年発足)、アジア・インフラ投資銀行(AIIB、資本金500億ドル、26か国参加、今年6月発足)などの構想を打ち出し、既存のアメリカ主導のIMF、世界銀行のドル体制を脅かしている。
その中でも注目されるのが中国とインドの急接近である。かつて「犬猿の仲」であった両国は、今では手を携えてアジアの未来を共同で構築するという方向で動いている。習近平主席は「中国の夢」を実現すべく、「シルクロード経済帯」と「21世紀海上シルクロード」という「一帯一路」構想を周辺外交の方針とし、昨年9月14日から9日間にわたってタジキスタン、モルジブ、スリランカ、インドの4ヵ国を歴訪したが、その訪問を「一帯一路構想を実現する旅」と位置づけていた。
特に、インド訪問は中国の対インド政策の180度転換を印象づけた。9月17日、習主席はインドのグジャラート州のアーメダバード空港に降り立ち、そこでモディ首相と首脳会談を行い、以後2泊3日の全行程にモディ首相が同行した。モディ首相は、「インドの第一歩を、私の故郷に降り立ってくれて嬉しい。今年の7月にブラジルで初めてお目にかかった時、私はインドと中国は『二つの身体、一つの精神』であると述べた。INDIAとCHINAの頭文字を取れば、INCHではないか。われわれはインチの距離にある関係であり、マイルの距離まで関係を発展させるのだ」と述べた。
習近平主席の回答は、次の通りだ。「グジャラート州は、唐代の高僧・玄奨が立ち寄った場所で、中印交流の記念の地だ。両国は共に古代からの文明国であり、発展途上にある大国だ。今回の私の訪問は、友誼の旅であり、提携の旅だ…。『世界の工場』と『世界のオフィス』が組めば、怖いものはない。アジアの両大国が、『中国の能力』と『インドの知恵』によって牽引していくのだ。両国は手を携えて、バングラデシュ・中国・インド・ミャンマーの経済回廊の建設、シルクロード経済ベルト、21世紀の海上シルクロードを進めていこうではないか。モディ首相が唱える『二つの身体、一つの精神』に賛同する。『中国龍』と『インド象』が組めば、国際社会に大きく貢献できる」と述べた。
つまり、中国は「アジア未来の夢」を実現する最有力パートナーとしてインドを選んだのである。言い換えれば、今まで東アジアで言われていた、日中両国(または日中韓3国)が協力して「アジア共同体」をリードするという考え方からすると、大きな方針転換である。
これにより私がSGRAフォーラムで発表した「アジア・ハイウェイ」構想は西に向けて一歩前進するだろうが、東の日本と朝鮮半島の位置づけが変わることは間違いない。
*筆者は「アジア・ハイウェイ」の旅を夢見ており、その第一歩を今年5月2日に東京からスタートし、博多で対馬海峡をフェリーで渡り、プサンからソウル、そして板門店、中国経由でベトナム、カンボジア、ラオスまで走破する計画。SGRAからの参加者を募集中!
「西に向かう『中国の夢』と未来のアジア(その1)」は下記リンクからお読みいただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/active/sgra/2015/797/
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<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
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2015年3月18日配信
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2015.03.11
去る2月7日、第48回SGRAフォーラム(第14回日韓アジア未来フォーラム)が東京代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開催された。このフォーラムはSGRA構想アジア研究チームと日韓アジア未来フォーラムが共催したもので、アジアの急速な経済成長のダイナミズムを物流システム構築の側面から、その現状と課題について議論した。
筆者は「アジア・ハイウェイと地域統合-その現状と課題-」をテーマに、アジアの未来に向けた夢と現実について報告した。10年前、筆者は日本の国策シンクタンクNIRA(総合研究開発機構)で日中韓3カ国の国策シンクタンク(韓国のKRIHS(国土研究院)、中国のDNRC(国土研究所))による共同プロジェクト「北東アジア・グランド・デザイン」の研究と政策提言に携わり、そこで北東アジア地域の物流統合の未来ビジョンと現状や課題について数年間研究した。その中で、「アジア・ハイウェイ構想」、「日韓海底トンネル構想」、「北東アジア物流ネットワーク構築」などについて検討した。
アジアを一つに結びつける「アジア・ハイウェイ構想」は国連ESCAPが1950年代に提唱し推進している。2004年の時点でアジアやヨーロッパ32カ国が参加し、政府間協定に署名した。東は東京日本橋(AH1)が出発点で西はイスタンブールまで道路を繋ぎ、アジア諸国が協力して共に発展し、平和・繁栄の夢を実現しようとするものである。「アジア・ハイウェイ構想」の総延長141,714㎞のなか、中国本土だけで26,699㎞が指定され、中国大陸を経由して東南アジア、西アジア、中央アジア、北アジアやロシアまでその交通網が広がる構図である。
この「アジア・ハイウェイ構想」の実現に大きなインパクトを与える重要な構想が中国から提案されている。習近平主席の「一帯一路」構想である。中国は「一帯一路」構想をアジア諸国と進めることにより、新しい成長ベルトとして開発し、それを「新常態」に突入した中国経済の新しい成長軸とすることを目論んでいる。
中国では、2014年春より経済成長が鈍化へ向っている現状を「新常態」という言葉で表し、新しい中国経済の状態を認識し、受容するように習指導部が呼びかけ、それに基づいた経済戦略や改革ビジョンを打ち出した。そして、対外経済関係・外交においては、「一帯一路」という「新しいアジア・グランド・デザイン構想」(筆者造語)を発表し、実行に移しつつある。いずれも、習近平政権の新しい経済戦略と外交戦略構想である。もし、この構想通りに進むのであれば、アジアの勢力構図は大きく変わるだろう。
「新常態」は、中国の経済成長の鈍化を前提としたソフト・ランディングを目指す新しい成長パターンを示す用語として提起されたが、昨年後半の経済外交や政治外交を観察すると、それは単純な経済の新常態を表す言葉の領域を遙かに超え、新しい外交戦略の構想を示す国際関係の用語としても使われるようになった。それと共に、習近平主席は「一帯一路」構想を提案し、9月には中央アジアや南アジアの諸国を訪問し、その実現を訴えている。
「一帯一路」構想は、新しいアジア秩序において、今までの「ルック・イースト」戦略から、「ルック・ウェスト」(西に向かう)の戦略的な転換を意味するものと見られている。分かりやすく言えば、今まで中国が重視していた日本、韓国などアジアの先進国との関係や戦略的な価値は低下し、インドや東南アジア、中央アジアがこれからの中国の戦略的開発方向だという意味である。経済開発のみではなく、政治的・外交的にもインドと中国はアジアの二つの「象と龍」であり、「象と龍」が未来の世界の中枢になるという考え方である。
このような中国の外交政策や世界戦略とアジア戦略の転換は、東北アジアの国際関係や経済協力に大きなネガティブ・インパクトをもたらすと私は考えている。「東北アジア人」の私にとっては「夢と希望」に陰が落とされた重大な変化である。
日本の国際関係学者久保孝雄氏は「同時進行する南北逆転・東西逆転への胎動―加速する世界の地殻変動―」(メールマガジン「オルタ」第133号、2015.1.20)という論考で、「アメリカの覇権衰退が加速し、・・・世界経済における南北(先進国対新興国)逆転と、世界政治における東西(アジア対欧米)逆転への動きが複合しつつ進展している」と指摘する。(つづく)
英語版はこちら
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<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
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2015年3月11日配信
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2015.02.25
2月6日、待ちにまった渥美国際交流財団20周年記念祝賀会が霞山会館で開催された。
その日、私が虎の門駅でおりた時には、すでにひぐれの時間であった。エスカレーターを上がったところでまず目にしたのは、会場案内の看板を持って、来客を誘導している先輩の葉文昌さんであった。そして、霞山会館のビルの入口では、同じく道案内の看板をもっている先輩の李恩民さんが待っていた。二人はともに大学の教授であるにもかかわらず、寒いなか、熱心にみなさんの道案内をしている。先輩諸氏の姿をみて、まず、感動した。
あわてて、会場にかけこんで、財団の常務理事今西淳子さんに「なにかやることはありますか」と聞いたところ、「今日は落ち着いて、楽しんでください」といわれた。
中曽根康弘元総理大臣をはじめ、各国、各分野の200名を超す方々が参加し、祝賀会が大盛会であったことはいうまでもない。
馴染みとの再会、新しい仲間との出会いの喜びはもとより、知見の豊かな意見交換、そしてやや横道に逸れる話も、祝賀会に必要なものだと思われる。ことなる文化のぶつかりあいによって智慧の火花が生まれるからであろう。
「故きを温ねて新しきを知る」。渥美伊都子理事長のご挨拶は、渥美財団の20年の歩みをふりかえながら、新年会などでの留学生とのふれあいのエピソードをとりあげ、国際交流における日本文化の位置づけも試みており、東洋の心に思いを馳せた。
長い間、渥美財団の人材育成、国際交流事業をあたたかく応援してくださっている明石康先生のご挨拶は重みがあった。「人間でも、国でもどのように友達を選ぶのかは非常に重要だ」というご指摘に非常に感銘した。
桐蔭横浜大学教授のペマ・ギャルポ先生に会って、モンゴル語で挨拶した。先生はかつてモンゴル国大統領の顧問を担当されたことがある。来日してすぐに先生のことを知ったのだが、お目にかかったのは今回が初めてであった。
名古屋大学名誉教授平川均先生からは、東アジアの枠組みのなかの日本とモンゴルの友好関係とその意義などについて聞かれて、うれしかった。バリ島でおこなわれた第2回アジア未来会議では、平川先生からいろいろとご教示をいただいた。モンゴルはかつて日本の「生命線」と呼ばれる地域であったが、長い間わすれさられた。新しいアジアの秩序の構築において、日モ関係の強化は、ある意味では何をもっても代えることのできないほどの重要性があると思う。
渥美財団のアドバイザー高橋甫氏は、寡黙でありながら、いつも物事を鋭く洞察している。モンゴルでおこなわれた7回のSGRAの国際シンポジウムの内、2回も参加してくださった。その際、また、アジア未来会議においても、モンゴルの鉱山開発と環境保護について、貴重な助言と情報をくださった。
公益財団法人かめのり財団の常務理事西川雅雄氏にお会いして、若い世代を中心とする相互理解の国際交流等について話し合った。実は、かめのり財団は2012年に私が実行委員長をつとめた第1回日本モンゴル青年フォーラムに助成してくださったことがあり、この恩は忘れられない。
設立以来長い間事務局にいらした谷原正さんは人気者で、たぬき(渥美財団の奨学生)たちにかこまれて、いろいろと聞かれていた。慈愛にみちた美しさが感じられる。
著名な、日本を代表する国際的ヴァイオリニスト前橋汀子氏のすばらしい演奏は、人びとの心をうち、祝賀会をいやが上にも盛り上げた。日本に来る前に、ふるさとの芸術大学で9年間教鞭をとったこともあったのだが、昔のさまざまなことが思い出された。
先輩の李鋼哲さんは東アジアの秩序について、熱心にかたった。李さんはかつて『朝日新聞』にモンゴルに関するユニークなコラムを書いたことがあり、たいへん注目された。
再会した友人のなか、2003年度同期の奨学生林少陽氏、臧俐氏、張桂娥氏はそれぞれ大学の教授になっている。4人で乾杯し、教育のことが話題になった。
祝賀会は、旧知の情を呼び覚ますだけではなく、また新しい仲間と知り合うことだけでもなく、新しいスタートである。
子日く、「三十而立、四十不惑(三十にして立つ、四十にして惑わず)」。この意味で、渥美財団はまだ基礎を固める段階にあるが、すでに目覚ましい成果を成し遂げている。国際理解や平和構築、人材育成に、渥美財団が寄与すべき責任(仕事)は多々ある。財団の20年の歩みを誇り高く思うが、栄光は過去のものであり、新しい道を開いていくことは、私達の使命である。
祝賀会の公式報告と写真、当日上映した動画
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2015年2月25日配信
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2015.02.18
冬に日本へ一時帰国する海外在住の日本人の友人たちは、皆口を揃えて言う。「日本の冬は寒くて、過ごしにくい」と。彼らはみんな日本より寒い国や地域に住んでいるというのに、日本の家(主に彼らの実家)が寒いというのだ。私が勝手に抱いていたイメージは、日本の冬の「こたつでみかん」を楽しみにと思っていたのに、現実は違っていた。彼らが暮らしている国々は日本より冬が厳しいが、家中が暖かく保たれているそうで、日本の住居のように、暖房をつけた暖かい部屋を一歩出たら寒い廊下、そして寒いトイレに行くということが無いそうだ。思えば私が長年暮らしていた北京の冬は、日本より寒いが室内はどこも暑い程だった。家電製品は日々進化し、便利な生活を整えるため次から次へと新しい技術が産み出される日本で、何故日本の家は寒いままなのだろう。
ニューヨークから一時帰国してきた日本人の友人が教えてくれたのだが、ニューヨーク州の法律では、冬季(10月から5月)に外気温が10度を下回ったら、アパートの大家は室温を20度にしなければならないと定められているそうだ。しかもこの暖房費は家賃に含まれているとのこと。セントラルヒーティングで家中に暖房がいきわたり、家に帰れば家の中がすでに暖かいのはいいよと絶賛していた。このようなことが法律で定められていることに驚き、ニューヨークの近隣の寒い地域についても調べたら、米国東海岸の他の州はもちろん、カナダのトロントや、英国も同様に、住宅の最低室温に関して規制があった。そしてこれは健康への配慮からなる法規制であった。日本には住宅に対してこのような規制は無い。
インフラが整い、全てが完璧のような日本に落とし穴を見つけた気がした。日本のテレビでは毎日のように健康についての番組が放映され、現に国民の一人ひとりが健康への関心が高い。しかし日本の家の中は寒いままだ。そして冬のニュースでよく耳にするのが、高齢者のお風呂場、脱衣所で心臓発作による死。熱い湯船に浸かり、外気と同じくらい寒い脱衣所に出る。この急激な温度変化で体調が急変することを「ヒートショック」と言うそうだ。厚生労働省の報告書によると、入浴時の事故死だけで、年間1万9千人以上と推計されるそうだ。
このような事故死を防ぐため、日本の冬の住居環境を見直すべきだろう。欧米のように住宅の法規制として、断熱化を進めるべきではないだろうか。光熱費が高い日本では、家そのものの工夫が必要だろう。察するに、高齢の日本人は我慢強く、少しくらい寒くても我慢してしまうことが多い。暖房器具があっても使われなければ意味がないし、何よりも住居内での温度差が危険なのだ。家中の室温を一定に保つことが重要だ。北海道の家は冬も暖かいので、ヒートショックも少ないそうだ。身近な所から冬を過ごし易い住環境を取り込み、改善すべきだ。それは日本の高齢者を守り、人口減を緩やかにする。健康への関心が高い、先進国の日本人が、このように未然に防げそうな事故で毎冬あっけなく命を失うのは大変惜しい。
英語版エッセイはこちら
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2015年2月18日配信
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2015.02.11
多くの人は、自分が何人であるかについて話す時、つまり「私は日本人です」、「私はスペイン人です」と言う時、おそらく何の違和感、疑問を感じないだろう。ただし、私たちが「私は日本人です」、「私はスペイン人です」と言う時、自らの客観的、正式的、パスポートに書いてある国籍を指しているだけではなく、自分がある国、あるコミュニティーへの帰属意識、いわば自分のアイデンティティの一側面を表現してもいると言えよう。
私は留学がきっかけで、自らの国・国籍とアイデンティティについてしばしば考えるようになった。そして、この課題についての私の考え方は留学によって大きく変わった。本稿では、私の考え方がどう変わったかを説明するために、まず私の背景について、次に10年以上前に初めて留学することによって私の観点がどう展開したかを、そして最後に国とアイデンティティについての現在の私がどのような立場であるかを述べたい。
私はスペイン北部にあるバスク地方で生まれ育ち、22歳までバスク地方の最大の都市、ビルバオに住んでいた。バスク地方ではスペイン語と違う言語が話されており、また、その歴史・社会構造・経済構造の面からも他のスペインの地方との相違点が多く、バスク人の一部はスペインからの独立を願っている。このような複雑な地域では、「あなたは自分をバスク人と考えていますか、スペイン人と考えていますか」というような質問を問いかけられることがよくある。しかも、バスク地方では、自分をスペイン人かバスク人かと認識することは、自分の家系や母語とは直接関係なく、むしろ自身の政治的立場や感情と深くかかわっている。例えば、自分の家族がスペインの他の地方の出身であって、自分の母語がスペイン語であっても、自らをスペイン人でなくバスク人と考える人もいれば、家族がバスク地方出身であり、バスク語を母語とする人で自らをスペイン人と考える人もいる。
私自身は、バスク地方に住んでいた時、自信をもって「私はスペイン人ではなく、バスク人である」と言うことができた。それは、バスク地方以外の地域に対して何らかの抵抗を感じていたからではなくて、むしろバスク地方の独自性、いわばユニークさに一種の愛着を持っていたからであり、また、私の周りの人々、つまり家族や友だちが同様な観点を持っていたからであった。
しかし、私は22歳の時にイタリアのボローニャ大学に留学することになり、初めてバスク地方ではない国で生活し、また、バスク地方以外のスペインの各地方やヨーロッパの各国から来た友だちができることによって、私が、自分自身が、バスク人であるということの意味を深く考え直すことになった。バスク地方に住んでいた時の私はバスク地方の特殊性、スペインの他の地域との相違点などを重視していたのに対して、イタリアで生活を始めた当時の私にとっては、相違点というより、むしろスペインの他の地域やヨーロッパ各国との共通点の重要性がわかるようになった。したがって、私はイタリアで国籍を聞かれた時、だんだん違和感を持たずに「スペイン人です」と答えるようになり、かつ、自分をバスク人だけと考えていた以前の私の立場を排他的で度量の狭い立場のように見るようになった。そうして私は、「バスク人」「スペイン人」というような名称が自分の背景をある程度説明していることを理解すると同時に、自分にとって実際それらの言葉にたいした意味がなくて、自分のアイデンティティとしてはむしろヨーロッパ人としてのアイデンティティがもっと重要なのではないかと考えるようになった。なぜなら、ヨーロッパという概念からは、国境を超えた豊富な歴史を背景としながら、多様で充実した社会を目的とする民主主義的プロジェクトを構築していくことができると考えたからであった。
しかしながら、私は2007年に、ヨーロッパから離れて日本に留学することになり、自分の立場をあらためて考えることになった。イタリアに留学することによって私の視野が広くなったと同じく、はじめてヨーロッパ以外の国で生活し、日本およびアジア各国から来た友だちができ、実際に人間同士をつなげるものは共通の文化的背景などではなく、むしろ価値観、世界観であることがはっきり分った。
こうして、日本に留学することによって、私のバスク人、スペイン人、ヨーロッパ人としてのアイデンティティが、いったいいかなるものであるかをふたたび反省することになり、国とアイデンティティについて、より明確に考えるようになった。つまり、国とアイデンティティの間の関係において二つの側面を区別することができると思う。一方では、「私はスペイン人です」、「私は日本人です」などの表現によって、私たちがどこから来ているか、どこで育ったかを説明しているのであって、例えば私の個人的な場合に、やはり私がバスク人であること、スペイン人であること、ヨーロッパ人であることのそれぞれが、私の背景、いわば私の個人的な歴史を語っていると言えると思う。他方では、「私はスペイン人です」「私は日本人です」などの表現が、ある国、あるコミュニティーへの帰属意識を表しており、すなわち自らがどこから来たかだけを表すというより、むしろ自らがどこに帰属したいか、どこを自分の居場所にしたいかということを表していると思う。この二つ目の側面は、一つ目の側面より自由であり、個人が各々の人生において、様々な経験を重ねるにつれて、変わっていくことが可能であろう。
留学生として日本で7年間生活してきた私は、自分がバスク人、スペイン人、ヨーロッパ人であるということが、上述したように私のある重要な側面を捉えていると思う。なお、上記の二つ目の側面については、つまり私がどこに帰属したいか、どこを私の居場所にしたいか、「何人でありたいか」と聞かれるとしたら、バスク地方はもちろん、スペインやヨーロッパももはや狭すぎて、ありふれたひびきのある言い方であろうが、おそらく私の居場所が世界、地球であり、私が帰属したいコミュニティーは各国の狭い国境を超えた世界の市民のコミュニティーであると答えるしかないであろう。
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<アロツ=ラファエル アインゲル Aingeru Aroz-Rafael>
2005年Deusto大学文学部歴史学科卒業(ビルバオ、スペイン)。2008年マドリード自治大学学部東アジア学科卒業。2008年同大学マドリード自治大学大学院哲学研究科比較文学専攻修士課程修了。2003年ボローニャ大学留学(イタリア)。2007年上智大学留学。2007年平和中島財団奨学生。2008年〜2012年国費留学生。2013年渥美財団奨学生。研究関心は近代日本哲学史、近代日本言語学史・国語学史・人文科学史、言語哲学。現在、東京大学大学院学際情報学府博士後期課程。
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2015年2月11日配信
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2015.02.04
昨年末の日本経済新聞で、厚生労働省による2014年の人口動態統計の推計が発表されていた。それによると、死亡数は、戦後最多の126万9千人、出生数は100万1千人で出生数が死亡数を下回る人口の自然減は26万8千人で過去最大となった。2011年以降この自然減は毎年20万人を超えているという。出生数が増えないことには人口の自然減は食い止められないということだ。今は元気な団塊の世代が減りはじめたら、日本はどうなってしまうのだろう。政府として何か策は練っているのか?
政府の中位人口推計では、このままだと2020年代初めには、60万人減、40年代は年に100万人と減少速度が加速、2050年を前に総人口が1億人を割る見通しだそうだ。私の母国である中国の人口13億人を思うと、国際社会において政治、経済のいずれの面からも見ても大国である日本は人口が1億人を下回る国になるのは想像し難い。このまま人口が減って行くと、日本の国力と国際発信力にも大きな影響を及ぼすのだろう。日本政府はどうにか人口1億人を維持したいようだが、実現性は不透明という気がする。内閣府に設置された、「選択する未来」委員会が2014年に中間報告として示した「人口減少数の将来推計」によると、2030年に出生率2.07となれば、2060年以降も1億人程度の人口を維持できるとの推計を示した。しかし2013年の出生率(合計特殊出生率)は1.43人であり、1975年以来ずっと出生率2人を割っている。この現状を見ると、内閣府の将来推計は現実味に欠ける。
減りゆく人口に嘆いてもしょうがないので、始まったばかりの2015年が人口減少問題の解決に大きく1歩踏み出す年になると良いなあと思う。幸い日本は民間企業が社会問題に向き合い、福祉を考慮しながら従業員を守っているので、改善の余地はあるはずだ。そして、日本が官民一体で立ち向かう人口減少問題は、今後追随するであろうアジア全体の高齢化の手本になるはずだと期待している。例えば、ソフトバンクは社員に子どもが産まれる度に出産祝い金なるものを支給していて、第二子、第三子と増えるにつれて、祝い金の額が上がる。たくさん産めばたくさんもらえる仕組みだ。また、大和ハウス工業では、子供1人の出生につき100万円を支給する制度(次世代育成一時金)がある。このように、日本では政府の対策を待たずに、企業が知恵を絞り、国の問題解決に積極的に関わる様はとても美しいし、大きな意味がある。
しかしながら、民間企業にばかり頼っていても、日本の人口減少は歯止めが利かないであろう。何しろ毎年20万人以上もの自然減が起きている国だ。地方自治体も自分の街から人が減るのを食い止め、かつ積極的に呼び込むことに早急に対処した方がいい。地方創生に関しては、頑張っている自治体とそうでないところの差がとても大きい。東京から遠い市町村の方が、移住者の呼び込みや、地元の活性化が盛んで、実は東京へのアクセスが良い市町村から若者がどんどん減っていたりする。切れ目の無い地方創生が実現すれば、日本全体が活気づいて、人口減少によりさびれる街も減り、人口の底上げにもつながるのではないだろうか?客観的な意見だが、日本は面積の狭い国ではあるが、砂漠のような住めない場所というのはそれほど無いのだから、人口減少と地方創生を一緒に解決出来るポテンシャルがあると思う。事実、日本のどんなに小さな町でも意外と外国人が住んでいたりするものなのだ。その辺りをヒントに住みやすい日本で人口維持に向けて全国的に取組んだ方が良い。
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<謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
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2015年2月4日配信
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2015.01.28
歴史は繰り返すとよく言われます。なかにはスケール等を変えて繰り返されることもあります。グローバル化は、同質(なかま)の中に異質(よそ者)を取り込んで、より進化して多様化された新たな同質を作る過程だと思いますが、それはつい最近始まったものではなく、どの国でも内部で多くの邦に分れていた時期に幾度か経験しているはずです。
これから紹介するのは、2250年前の中国で、秦がまだ中国を統一していなかった戦国時代の出来事です。当時の中国は多くの国がひしめき合っていました。一部の国では技術や政治戦略の専門家を外国から招へいしていました。ある人材が持つ技術が高度であるほど、代替性はなくなり、一部の人材は国境を跨いで仕事していたことは想像に難しくありません。
ある日、灌漑工事の技術指導で秦に招へいされていた韓国人の鄭氏が、秦の財政を疲弊させるような工事をしている疑いをかけられました。それから秦の政界で「外国人を追い出そう (逐客令)」という運動が始まりました。現代のネオナチ又はヘイトスピーチのようなものでしょう。そこへ出てきたのが、李斯でした。彼も外国人で、このまま「外国人出て行け」運動が発展すれば自分も追い出されることになります。そこで彼は「諌逐客書」という有名な諌言書を秦王に出しました。内容は今見てもとても斬新なもので、これが2250年前に書かれたことには驚かされます。今回はこの書を翻訳して皆さんに紹介することにします。
* * * *
「外国人を駆逐すると聞いておりますが、私が思うにそれは過ちであります。
その昔、秦の穆公(ぼくこう)は人材を得るために、西からは戎国の由余を求め、東からは宛国から百里奚を求め、宋国から蹇叔(けんしゅく)を迎え、邳豹(ひひょう)や公孫支を招き入れました。この5名は秦の出身ではないものの、穆公は重用し、それで二十の国を併合し、西戎を支配しました。
また孝公は外国の商鞅(しょうおう)の法制を取り入れたことにより、社会気風と習わしを変え、国民は栄え、国は豊かになり、民は自ら進んで国に仕え、諸侯は感服し、楚と魏の兵を下して千里の領土を得て現在に至っております。
惠王は張儀の謀略を使って三川を攻略し、西に巴と蜀(しょく)を併合し、北に上郡を収め、南に漢中を取りました。更に九夷(きゅうい)の地を併合し、鄢(えん)、郢(いん)を取り、東に成皋(せいこう)の要塞を占拠し、肥沃な土地を収め、六国連合を瓦解させ、秦国に臣服させて利益は今日まで続いています。
秦昭王は范睢(はんしょ)を得て、穣侯(じょうこう)を罷免して華陽君を駆逐し、中央統治者の権力を増強させ、その他即得権益者や彊土を蚕食する諸侯を途絶させ、秦の帝業を成就させました。
この4名の君主の成功は、外来人材の貢献に依る所が大きかったのです。従って外来人材は秦に対して負い目はありません。もしこの4名の君主が外来人材を排除していたならば、秦はここまで豊かな実益も強大な威名もなかったはずです。
今日陛下は昆山の玉石、隨侯(ずいこう)の明珠、卞和(べんか)の宝玉を得て、差すのは太阿(たいあ)の名剣、乗るのは繊離の駿馬、掲げるのは翠鳳(すいほう)の旗、使うのは鰐(わに)の太鼓です。これらの中で秦に産するものは一つもありませんが、なぜに陛下はこれらを好むのでしょうか?秦のものしか使わないとするならば、夜光の玉壁は朝廷には飾らず、犀角(さいかく)象牙の器は使わず、鄭や衛の美女は後宮にせず、駿馬は馬屋におかず、江南の金錫は使わず、西蜀の顔料は使わずとなりましょう。
後宮の妾からすべての装飾や楽しませてくれるものは秦のものでないと駄目ならば、宛珠(わんしゅ)の簪(かんざし)、傅璣(ふき)の耳飾り、阿縞(あこう)の衣、錦繍の飾り等は陛下には献上できません。今風で雅、艶めかしく窈窕な趙の女も傍にはいないでしょう。甕缶を叩き、竹箏を弾き、太ももを敲いてリズムを取ってわいわい騒いで楽しむ、それこそが秦の本来の音楽であります。鄭・衛・桑間や、韶虞(しょうぐ)・武象などは、異国の音楽です。甕缶叩きをやめて鄭衛の音楽にし、竹箏弾きをやめて韶虞にしたのはなぜでしょう?それが面白いからです。
しかし陛下の任官はそうではなく、能力を問わず、実直かも問わず、秦出身でなければ追い出す。これは即ち重んじる所は色気音楽珠玉、軽んじる所は人民になります。これは海内を跨いで諸侯を制する術ではありません。
土地が広がれば育つ粟(あわ)は多くなり、国が大きければ人も多くなり、軍が強ければ兵士も勇ましくなると聞きます。太山はあらゆる土壌を受け入れたからこそ、いまある大きさになり得ました。海はあらゆる細流を選ばないからこそ、その深さになり得ました。王たるものは衆人を退けないからこそ、仁徳は広まります。土地は東南西北を隔てない、人民は本国他国を区別しない、そうすれば一年四季は充実し、鬼神も降臨して福をもたらすでしょう。これこそが五帝三王が無敵である所以であります。
今日陛下は庶民を棄てて敵国に資させ、賓客を駆逐して他国に尽くさせており、その為天下の人材の秦への入国を憚らせております。これは糧食を強盗に与えて武器を敵に貸し出すことと同じではないでしょうか。物は秦の産出ではないが宝となるものは多いです。人材も秦の産出ではないが秦に忠心を尽くす者も多いです。外国人を駆逐して敵国に資し、人口を減らして敵国の実力を増長し、この結果自国は弱体化される上に外国人の恨みを買って敵国に尽くす人を増やす、これで国が危険にさらされない訳がないでしょう。」
これを以って秦王は外国人駆逐命令を廃除し、李斯の官位を回復させました。
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<葉 文昌(よう・ぶんしょう) Yeh Wenchang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。
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2015.01.15
これだけ近い国だというのに中国へ行くのは初めてである。そういう訳で空港からのタクシーの中では念願の中国をよく見ようと、ひたすら車窓に張り付いていた。大陸の広さを感じた。何よりも建物の一つひとつが大きく、隣の建物との間が広い。そして道路はひたすら真っすぐだ。東京に生まれ育った身としてまず感じたのがこの空間感覚の違いである。ここから中国の人たちとの間に何となく感じる感覚の違いの背景に納得する。フォーラム会場の中国社会科学院文学研究所から天安門まで官公庁が並ぶ、中国で最も広いであろう通りを歩いた時は都を訪れる遣隋使はたまた遣唐使の気分で、「威容」が与える心理的効果についてしばし考えた。こうして私の中国訪問とチャイナ・フォーラムは幕を開けた。
第8回チャイナ・フォーラム初日の中国社会科学院では佐藤道信先生が「近代の超克-東アジア美術史は可能か-」で「ヨーロッパ美術史」が存在するのに対して日本、中国・台湾、韓国に同様の広域美術史がなく、一国美術史が中心となっている現状と課題について、木田卓也先生は「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」の講演で中国へ渡った近代日本の工芸家について講演をされ、2日目の清華大学では「脱亜入欧のハイブリッド:『日本画』『西洋画』、過去・現在」を佐藤先生が、「近代日本における<工芸>ジャンルの成立:工芸家がめざしたもの」で木田先生が近代日本と中国の美術・工芸のあり様について講演をされた。フォーラムの詳細は林少陽氏の報告書でご覧戴いたと思うので、ここでは私がフォーラム及び参加者との交流で感じたことを、広域史を中心にご紹介したい。
フォーラムは近代日本と中国、東アジアの美術・工芸のあり様と関わりを丁寧に、そして学術的に掘り起こし、整理していくものだった。私たちが当たり前にとらえている美術史が当時の時代背景と(恐らく)必要性や気運によってどのように「作られていった」のかを佐藤先生は「自律と他律の自画像」という言葉を用いながら、木田先生は工芸家の足跡をたどりながら、それぞれ明らかにした。
歴史というものは事実、起きたことの単なる集合体ではなく、どの「事実の集合体」を掘り起こして、どの角度から光を当てるか、それをどのように取り扱っていくのかの意図によって異なる意味をもってくる。その観点からすると今回のフォーラムでは、多くの事柄から「東アジア美術史」、「広域史」、「影響し合う」を選び、未来に対して前向きな意欲が感じられる発表と議論の場だった。一方で佐藤先生は「新しい基軸を作ることは新しい誤解を作ることになるのかと思う(こうした研究をするのは)自分がどこに立っているのか知りたい、それだけ」と語る。佐藤先生の指す「新しい誤解」への懸念はよくわかるものの、ある基軸を知ることで自分を取り巻く世界の構成が、成立の過程が、見えてくる。ひとつの基軸を知ることは他の基軸を感じ取る手がかりとなる。だから私はこの新しい基軸を積極的にとらえたい。
10年以上も前に「ワールド・ミュージック」が流行していた頃、確か音楽家の坂本龍一が雑誌の対談か何かで「今のワールド・ミュージックを語ると沖縄民謡のような民族音楽を語ることになってしまい、ワールドではなくなってしまう」という趣旨のことを言っていたのを思い出した。確かに当時彼が発表した音楽は沖縄民謡のアレンジ曲だった。同じように広域史を論じると自国史や「個」はどうなるのだろう。実際その点への心配の声が会場にはあった。しかし広域史を語ることは個や独自性を否定するものではないはずだ。独自性とは何か。人で考えた場合、個人の性質や能力、教育、経験の積み重ね、取り巻く環境とその歴史(国家だけでなく家族、友人、民族も含む)などから育まれ、磨かれたものではないか。ならば他との関わり(広域史)の中にある自己(自国史)を見出し、自己(自国史)の中に他(広域史)を見出すことはごく当たり前のことだ。自分の立っている場所を検証し続け、考えることこそが必要である。
もし自分の頭で考え物事を選ぶことをやめたら、すべてが曖昧なまま流されてしまいかねない。私たちは考え、掘り出し、そして選ぶ。その先にあるのが未来だ。何かを選ぶ時点で既に自らの態度を表明しているともいえないか。「東アジア美術史」、「広域史」、「影響し合う」を選ぶのは「影響し合う」未来を前向きなものにしたいからである。一見すると今回の講演は学術的で地味なものだろう。しかし、とかく考証の怪しげな歴史小説やドラマが溢れ、熱気を帯びた雰囲気や流れに足元をすくわれかねないような昨今、一つひとつを丁寧に掘り起こし、検証しつつ事実を浮かび上がらせることには大きな意味がある。
講演後の質問では少なからず論点から外れたというか、一足飛びのものがあったり、若い日本研究の学生と話していて意外にも現代日本の作家が読まれていないことに驚いたこともあった。(中国にも多数いるという村上春樹ファンはどこにいるのだろう?) それも事実なら、会場に大勢の学生が来てくれたこともまた事実だ。彼らの中に今回のフォーラムが種となり、芽吹く日が来ることを願っている。
木田先生は1920~30年代の「新古典派」を「懐古趣味的な保守反動勢力でなく、新しく東洋趣味的な工芸を作り出そうということを目指していた」、「『日本の近代』は、いかにあるべきか?、さらには『アジアの近代』はいかにあるべきかという問いが含まれていたと思われます」と語る。その頃の日本が発信する「東洋」と今の日本や他国がいう「東アジア(あるいは東洋)」では異なる点は多いだろう。だからこそ日本からだけでなく、その他の国から、人からの「東アジア広域史」を論じる声を聞き、共に今と未来とを選びたい。
--------------------------------------- <太田美行(おおた・みゆき)>東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通などを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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2015年1月15日配信