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2015.04.30
主人と娘が東京に会いに来た時の話である。
ある日、家族3人で電車に乗って、東京の郊外へ遊びに行くことにした。もともとすいている路線の各駅停車だからか、平日の昼だからか、電車はガラガラだった。乗客はみんなうまい具合に他人とスペースを残して、ゆったりと座席にすわっていた。郊外へ行けば行くほど、車窓から広がる景色が綺麗になり、それを楽しみながら親子の会話を楽しんで、すっかり観光気分になっていた。
どこからか、80代くらいのおじいさんがやってきて、ポケットから何かを取り出しながら、「何もないけど、どうぞ」と言って、目の前に差し出してくれた。私は反射的に「あっ、ありがとうございます」と言って、軽くお辞儀をしながら、目の前に渡された何かを両手で受け取った。受け取った後になって、自分でも不思議に思った。包装紙もきちんとしており、LOTTEの字もはっきりしていて、すぐガムだと確認でき、無意識に主人に一つ渡した。すると、おじいさんは空いている席がいくらでもある電車の中で、なぜか私のすぐ隣に座り込んでしまった。
日本語の分からない主人から、中国語で、小声で「知り合い?」と聞かれ、私は「知らない」と答えた。また、驚きを抑え「口に入れるなよ」と更なる小声で言われ、「大丈夫」と答えた後、手本を見せるかのようにガムを口に入れた。集中力を全部口の中に凝らしてみると、何も変な味はしなかった。驚きと疑いを隠して、冷静を装いながらも、なんでガムをくれるんだろう、と心の中は無数のハテナが舞い上がっていた。文字にすると、やや長めに感じるが、実際は本当に一瞬の出来事だった。
「どちらへ?」と隣に座ったおじいさんが再び口を開き、気まずい沈黙を破った。最初は警戒心が捨てられず、聞かれたら答え、相槌は打つが自ら話題を出さない聞き手に徹していたが、いつの間にか会話が弾んでいることに気づいた。私達が中国から来たのだと聞いて、おじいさんは中国語の「ニーハオ」で主人と娘に挨拶したり、娘は中国から持ってきたおやつを自分のリュックから取り出して、おじいさんにあげたりもした。おじいさんが降りる駅に到着したので、「じゃあ、日本を楽しんでください」との言葉を残して電車を降り、ホームで手を振ってくれた。
ガムをもらってよかったなあと、まだ喜んでいる中、「ママ、知らない人と話すなって言ったじゃん。人様のものまで食べちゃって。」と娘に指摘され、答えに詰まった。
本来、飴や果物などを誰かに渡すのは、好意を示すサインであり、話したい意思表示であり、交流のきっかけを作る極めて一般的なコミュニケーション行為である。しかし、こうした行為は、現代社会において、たとえ好意であっても不審に思われがちで、時には人に迷惑をかけ、人を困らせる行為にもなってしまう。都市化が進むにつれて人口密度が上昇し、人と人の物理的距離が限りなく近くなってきているにもかかわらず、人と人の心理的距離が限りなく遠くなってきて、心の砂漠化とも言われている。人々は他人の世界には入ろうとせず、自分の世界にも入ってこられないように、目に見えない厚い壁を作って、黙々と自分のことをこなそうとしている。さらに、詐欺や誘拐などに脅かされて、人間不信が蔓延するのも当然のことのようになっている。知らない人と話してはいけない、知らない人から物をもらってはいけない、知っている人の話も信じてはいけないなど、家族や自分自身を守るための信条となってしまい、次世帯へ押し付け、引き継がせていこうとする。
もっともこれは、毒りんごを食べた白雪姫の童話でわかるように、どうも現代社会だけの問題でもなさそうだ。険しい世の中というのは、いつの時代だって、どこの国だって、変わりはしないものかもしれない。とはいえ、いつまでも神経を尖らせ、心を閉じたまま人と接し、びくびくしながら毎日を送る必要もない。たまには、自分の心を開いてみたり、人の心の扉を叩いてみたりして、他人との関わりの中で、人生を楽しもう。
知らないおじいさんからガムを渡され、そしてそれを素直にもらったことがきっかけで、楽しい会話ができたのは、私にとって初めての経験であり、今後2度も3度もあるとは考えにくい。なぜ私達のところにやってきたのか、なぜガムを渡してくれたのか、そして、なぜ迷いもせずにそのガムをもらって口に入れたのかなど、謎は未だに解けないままである。
謎は謎のままでいい。心の温まる思い出を作ってくれた名前も知らないおじいさんに、そして、その好意を素直に受け止めたその時の自分にも、感謝したいと思う。
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<李 婷(り・てい)Li Ting>
早稲田大学大学院日本語教育研究科博士後期課程在籍。中国の曲阜師範大学で日本語教員として4年間教鞭をとり、2009年キャリアアップのため来日。
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2015年4月30日配信
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2015.04.23
モスクワ滞在中の9月16日午前、在ロシア日本大使館を表敬訪問した。今回の調査にあたって、井出敬二駐クロアチア日本大使、倉井高志駐ロシア日本公使にはたいへんお世話になった。2011年の調査の時にも、当時駐ロシア日本公使だった井出氏ご夫妻がいろいろと手配して下さった。ここに記して、感謝を申し上げたい。
16日の午後は、ロシア国立人文大学哲学部准教授のウズマノヴァ・ラリサさんにご案内いただき、ロシア国立軍事史文書館で資料を調査した。事前に連絡しておいたこともあり、また複数の紹介状もあったおかげか、意外にも質問もなく、閲覧証はすぐ発行された。これと比べると、国立ロシア連邦文書館、ロシア国立社会政治史文書館での調査はたいへんだった。ロシア国立社会政治史文書館のある男性の職員は毎日、机をたたいたり、叫んだりして怒っていた。よほどストレスがたまっていたのか、われわれ調査にきた者に対してだけではなく、文書館のほかの職員に対しても毎日怒っていた。しかし、相手がいくら怒っても、私は毎日、あきらめず、しつこく、調査しつづけた。実は、3年前の同文書館での調査でも、この職員に怒られていた。また、ある日、ロシア国立社会政治史文書館の職員と話が通じなかった時、そこで資料調査をしていた東京外国語大学図書館長の栗原浩英氏が助けて下さった。このように、今回の調査では多くの方々からご協力いただいた。
後日、K先生に言われた。「文書館の職員、いいや、それだけじゃない。おそらく文書館を利用しているすべての人は、フスレのことを知っているだろう。ロシア語はあまりできないくせに、毎日朝一番早くやって来て、閉館まで、一生懸命、ロシア語の資料を調べている。そして、一番貴重な資料を手に入れた。本当に不思議だ」。実は、調査の途中から、K先生は体調不良で、文書館に行けなくなった。その間に、私は重要な史料をみつけて、文書館の許す範囲で、500ページほどコピーした。
K先生はいつも早寝早起きで、モスクワについてからも(世界のどこに行っても同じだと思うが)、同じであった。ある夜、私は遅くまで調査した資料のメモなどを整理してから布団に入った。その時、隣の部屋で寝ているK先生が恐ろしい大声で叫んでいるのが聞こえた。慌てて起きて、K先生の部屋に入った。K先生は部屋の鍵もかけずに寝ていたようである。私が部屋に入ったところ、K先生はすでに起きて、ベッドに座っていた。「どうしたんですか」と聞いたら、「悪い夢をみた」と。「どんな夢だったんですか」と聞いたら、「知らない3人の女がやってきて、怖かった」と答えた。「本当に来たんですか」と冗談で聞いた。「来るわけはないでしょう。まあ。怖かった」と。その後、K先生に少しワインを飲ませて、寝かせた。私は自分の部屋に戻って寝ようとしたが、今度は、自分がなかなか眠れなくなった。仕方がなく、起きあがって、我慢できず、K先生の友人にメールを送って、先生の悪い夢の話をした。先生の友人からきたのは、「女難の夢を見たんですね。おかしいですね。まったくK先生らしくないね」という返事だった。
9月19日の夕方、日本センター長の浜野道博氏が、私たちのホテルを訪れ、食事に招待してくださった。浜野氏はロシア語が堪能で、豊かな知識をもって、国際関係やロシア文化、そして日本の対ロ政策などについて、K先生と話し合った。2人の間では、意気投合のところもあれば、はげしく論争したところもあった。
その日の夜、私とK先生は夜行列車でタタルスタン共和国の首都カザンに行った。カザンはかつて東西貿易の中継地点であって、今はイスラム文化とロシア文化を中心として、多文化が共存する街である。一等車だったので、ビールは無料で提供されたが、お茶とコーヒーは有料であった。中年の女性の乗務員は熱心で、お茶とコーヒーを飲んでいる私たちに、「どうですか?美味しいですか?」と聞き、「美味しいよ」と返事したら、「それはもちろんよ。私が心をこめて作ったのだから」とにこにこしながら、満足そうに言った。
カザンに着いたら、荷物をホテルにあずけて、すぐにカザン連邦大学(カザン大学)を訪問した。カザン連邦大学は歴史と伝統を誇る名門大学で、レーニンやトルストイ、ロバチェフスキー等は同大学の出身であり、モンゴル研究の発生地の一つでもある。昼には、私たちは同大学の国際関係・歴史・東洋学部の教員と会談し、午後には日本語コースの学生に会って話し合った。夕方はタタルスタン科学アカデミー歴史研究所を訪問した。
翌日、歴史研究所長が私たちにカザンの歴史や宗教、文化などについて話してくれたうえに、街の案内もしてくれた。カザン連邦大学国際関係・歴史・東洋学部の女子学生ポリーナさんとディーナさんも同行した。2人の日本語のレベルは非常に高い。私たちはモンゴル帝国のジョチ・ウルス時代から、カザン・ハーン国、日本人抑留、今日の交流までについて話しがつきなかった。K先生の話は、最初は学問的であったが、途中から下ネタを連発し始めた。その行動と話に驚いた学生の一人が私に「K先生は本当に日本人ですか」とひそかに聞いたほどであった。「正真正銘の日本人だよ」と答えた。
カザンからモスクワに戻って、パヴェレツカヤ駅とトレチャコフスカヤ駅の間に位置する、昨年オープンしたばかりのホテルに泊まった。さすがに新築のホテルで設備がよい。また、ロシア国立軍事文書館に地下鉄で1本で行けるし、ロシア国立社会政治史文書館に行くのもわずか2駅であり、調査には非常に便利で助かった。
日本に戻る前日の夜、浜野氏が私たちに東洋エンジニアリング社モスクワ事務所長の宮崎哲二氏と菅原アソシエーツ社代表の菅原信夫氏を紹介してくれた。宮崎氏は埼玉大学の出身で、菅原氏は東京外国語大学ロシア語科の出身である。宮崎氏等はK先生と私、ラリサさんを食事に招待してくれたが、宴会開始直前に、昭和女子大学のもう一人の教員とモンゴル科学アカデミー歴史研究所長がサンクトベテルブルクから駆け込んできた。みんなで食事をしながら、日露関係やウクライナ危機等について話し合った。
特別な国際関係・社会状況の中、日本はロシアに対して独自な政策をとるべきだと、私は考えている。ロシアは、日本がかつて深い関心をもった地域であった。しかし、戦後、北方領土問題があるものの、日本人のロシアに対する関心が次第に薄れてきたことを、残念に思う。NHKにロシア語を教えるテレビ番組がある。放送時間は木曜日の深夜1時からの25分程度で、再放送は金曜日早朝の5時半からの25分間である。こんな時間にロシア語を勉強するのは、どんな人たちなのかを知りたい。
ウクライナ危機をきっかけに、日露関係は冷やかになったが、こういう時だからこそ、日本がイニシアティブをとって、両国の関係を打開すべきではないかと思う。
エッセイ456:ボルジギン・フスレ「モスクワ、カザンへの旅(その1)」
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2015年4月23日配信
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2015.04.16
2014年9月14日から26日までK先生と一緒にモスクワとカザンに行った。今回は、主に資料調査であったため、出発4ヶ月前に、ロシアに行く度に利用してきた旅行社のH社長に、交通が便利で、文書館に近いホテルの手配などをお願いした。H社長は、私が送った文書館のリストをみて、1ヶ月かけて調整し、モスクワとカザンのホテルを手配してくれた。
最初に泊まったホテルはモスクワの地下鉄クロポトキンスカヤ駅とパールク・クリトゥールイ駅の間に位置する。そこは国立ロシア連邦文書館や古文書館に近く、歩いて20分程度の距離だったし、ロシア連邦外交政策文書館にも近く非常に便利だった。ホテルの朝食は豊富で美味しかった。ホテルの近くにはトルストイ博物館やモスクワ博物館、ピョートル大帝記念碑、トレチャコフ美術館などの観光の名所が林立している。また音楽学校もあって、ホテルを出ると、楽器を背負った生徒たちの姿をよく目にした。
モスクワに到着した翌日、国立ロシア連邦文書館と古文書館に行った。帰り道、ある公園をとおった時に、ベンチに座ってひそかにビールを飲んでいるロシア人の青年に出会った。通行人がくると、その青年はすぐビールを新聞の中に隠す。目のいいK先生は遠いところからその青年を見て、「あいつはビールを飲んでいるよ」と言いながら、青年に近づいて声をかけベンチに座った。青年はハバロフスクから観光にきたそうである。K先生は青年にプーチン大統領のことについて尋ねた。青年は「すばらしいじゃないか」と答えた。「新聞の中になにか隠していない?」とK先生は青年に聞いた。青年は少し迷ったが、「よかったらどうぞ」と言いながら、新聞の中に隠していたビールを出した。結局、K先生はその青年と一緒にビールを飲み始めた。
「プーチンがお酒に関するへんな政策を作ったから、あなたはこのようにビールを隠したんだね。ロシアの国民にお酒を飲ませない大統領が悪いんじゃないか」とK先生が言った。青年は、「いいえ」と、プーチン大統領を大いにたたえた。…話が長くなりそうだったで、私は2人から離れて、公園を散策することにした。私が離れて行ってしまうことを心配したのか、しばらくして、K先生が追いかけてきた。
その日の夜、K先生と一緒にアルバ―ト通りに行った。アルバ―ト通りは詩・歌・芸術の街として有名であり、歩行者天国である。また、カフェやレストラン、みやげ物屋も多い。私たちはここで夕食をとった。
私が初めてロシアに行ったのは2011年の春だった。モスクワのクレムリンや赤の広場、サンクトベテルブルクのエルミタージュ美術館や人類学・民族博物館などを見学したほか、バレエやオペラなども鑑賞したが、ロシアは大帝国であることと、「多民族・多文化国家」であるということが印象に残った。今回は、歴史と文化に培われたロシアの時空をあじわった。宿泊したホテルから駅までの間の建築物のほとんどはロシアの歴史文化財になっている。私たちが宿泊したホテルからクロポトキンスカヤ駅、或いはパールク・クリトゥールイ駅までは、本来、歩いていずれも10分程度の距離であるが、K先生と一緒に行くと、1時間もかかってしまう。というのは、毎日、文書館から帰りの道で、K先生は、いつも各建物の壁にかざってある案内版をみながら、その建物の歴史、あるいはその建物とかかわる歴史人物のことをかたりつづけたからである。私にとっては、よい勉強になった。
クロポトキンスカヤ駅周辺にはエンゲルス像やゴーゴリ並木通り、プーシキン博物館、救世主キリスト聖堂などがある。初めてクロポトキンスカヤ駅に行ったとき、エンゲルス像をみたK先生は、「エンゲルス像をここに立たせるのは相応しくない」と不満げに言った。理由を聞いたら、返事はなかった。パールク・クリトゥールイ駅のなかの壁には、ゴーリキー像が刻まれている。それをみたK先生は非常にうれしそうに、「これは面白いんだ」と、ゴーリキーのことをかたりつづけた。
モスクワでのもう一つの発見は、キックスクーターである。本来、キックスクーターは子供たちの玩具だと思ったが、モスクワでは、本物の交通道具として大人たちに使われている。街では、キックスクーターで走っている人の姿をよく目にした。
(つづく)
旅の写真
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2015年4月16日配信
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2015.04.02
2015年、この年はシンガポールの歴史に深く刻まれる年となります。建国50周年を迎えた年としてではなく、偉大なる建国の父がこの世を去った年として記録されることになるからです。
「偉大」という言葉を使うことで、まるで僕がどこかの国の国民みたいに独裁者を熱狂的に崇める輩のような印象を持たせてしまうかもしれませんが、僕は死んでもそういう人間にはならないことを僕のことを知る人なら分かるはずです。しかし誤解を招きかねない表現であっても敢えて使います。リー・クアンユー氏は偉大です。
リー・クアンユー氏の功罪を分析する書籍、論文や新聞・雑誌記事などがたくさん出ている中で、同氏の指導力、高圧的な政治手腕と独裁ぶりについては他の所を参考にしていただくことにして、ここでは彼が率いる人民行動党による一党支配体制下で生まれ育った一国民として自分の素直な気持ちを書きたいと思います。
発展途上国といわれるアジアの国々を訪れるたびに、僕はよくデジャビュに襲われます。手入れの行き届かない住宅、クモの巣のように地上に張り巡らされている電線網、衛生状態の悪い屋台の群れ、黒い水が流れる水路などなど、僕がまだ幼かった頃にシンガポールでよく目にした風景とどこか似ていると、心のアルバムのページが開くからです。現在一人当たりGDPが約6万USドルと日本の約4万USドルよりも高く、IMFや世界銀行などいずれの統計においても経済的豊かさが世界トップ10に入っているシンガポールからは到底想像できない風景でもあります。この驚くべき変貌を可能にした国づくりの第一設計者がリー・クアンユー氏であることに異議を唱える国民はいません。国の発展と繁栄とともに成長し、多くの恩恵を受けてきた僕のような独立後世代はなおさら否定することができません。
とはいえ、この世に完璧なものはあり得ません。完璧な民族、完璧な国なんて幻想でしかありません。 経済や社会がうまく回っているように見えるシンガポールでも、他の国と同じくいろいろな課題を抱えていることは事実です。ただ、国土が小さく資源も無いに等しい事情に加え、多民族・多言語・多宗教という複雑な国情の中で、文化も習慣も言葉も信仰も異なる国民同士が仲良く共存できていることが不思議でなりません。教会の近くにモスクが建ち、50メートル先に道教のお廟があって、そのすぐ隣りのヒンズー教寺院から祈りの声が響く、という今のシンガポールでは当たり前の風景でさえ、民族間不信や宗教暴動が頻発していた歴史から考えれば、これも奇跡の一つなのかもしれません。そして、その背後に無宗教のリー・クアンユー氏の存在が大きいことは、国民なら皆知っています。
もちろん、リー・クアンユー氏も完璧な人間ではありません。彼のことが嫌いだという人も少なくありません。実をいうと、僕もその一人です。超合理的でエリート主義者でもある彼は、物議を醸す発言を連発した時期もありました。大卒の女性の多くが独身であり、結婚しても産む子供の数が低学歴の女性より少ないという傾向を変えるべきだとか、一人一票が最善の選挙方法であるとは限らず家庭と子供を持つ国民には二票を与えるべきだとか、何の資源もない一国のあり方と将来を担う首相、大臣と上級官僚が世界一の高給をもらって当然だとか、反対ばかりしてより良い政策を提案する能力もない野党は要らないとか。一般の指導者であれば思っていても普通は決して口には出さないことを、このように躊躇もせずに直球で見解を表明することに気持ち良さすら感じてしまいます。また冷静に考えれば、それらの発言に一理がないわけではなく、その独創的な発想に新鮮さと大胆さを覚えます。好きではありませんが、心から尊敬はします。言ってみれば厳父のような存在です。
その厳父は優しいおじいさんでもありました。リー・クアンユー氏の7人の孫の一人であり、長男であるリー・シェンロン現首相と亡くなった前妻との間に生まれた息子であるイーペン氏は、アルビノで視覚障害があり、またアスペルガー症候群にもかかっています。この孫のことを一番可愛いと、リー氏は自身の回顧録にも書いています。リー・クアンユー氏の遺体が納められた棺が、一般国民の弔問を受けるために国会議事堂へ運ばれたとき、イーペン氏は先頭に立っておじいさんの遺影を持って歩いていました。その直後、国民による厳父への弔問の列は予想をはるかに超え最大で8時間待ちとなり、政府が国民に弔問を控えるように勧告を出したほどでした。
亡くなられる数年前にリー氏はあるインタビューで、自分が下した難しい政治決断に対して反対や不満を抱く人々もいただろうということを認めたうえで、次のように語りました。「結局のところ、私が何を得たかって?それはシンガポールの成功だ。私が何を捨てたかって?それは私の人生だ」と。
数年後、シンガポールのどこかにリー・クアンユー氏の銅像が建つのでしょう。いつかシンガポールのお札の肖像も今の初代大統領のユンソ・ビン・イサーク氏からリー・クアンユー氏に変わるかもしれません。いずれにせよ、銅像がなくてもお札が変わらなくても、その名は永遠に国民の心の中に生き続けるのでしょう。
英語版エッセイはこちら
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<Sim Choon Kiat(シム チュン キャット) 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。主な著作に、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年、「論集:日本の学力問題・上巻『学力論の変遷』」第23章『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』(日本図書センター)2010年、「現代高校生の学習と進路:高校の『常識』はどう変わってきたか?」第7章『日本とシンガポールにおける高校教師の仕事の違い』(学事出版)2014年など。
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2015年4月2日配信
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2015.03.25
フランスの経済学者、トマ・ピケティ氏の著書「21世紀の資本」が世界的ベストセラーになっている。日本語版も昨年末に発売され売れ行きも好調。各誌がこぞってピケティ特集を組んでいる。日本の経済学者だけでなく、会社経営者たちもこの本、そしてピケティ本人に随分と影響を受けているようだ。新聞や雑誌のインタビューで彼の本と発言の引用をよく目にする。私も実はそれらの記事からピケティ氏を知った。そして今、本屋では「30分で理解する」などといった「21世紀の資本」の解読本のようなものがたくさん並んでいる。先日の衆院予算委員会でもピケティの名前が出てきた。
これまで話題性のあるカリスマ的経済学者というと、おきまりのようにアメリカ人もしくはアメリカの名門校の教授だった。彗星のごとくフランスから世界へ躍り出たトマ・ピケティ、話題の本の内容はというと「富というのは富があるところに集中する、よって格差が生じる。手を打たないとこの格差は今後どんどん広がるだろう」というものだ。すなわち、資産を持っている人は、その資産を運用することで、さらに富を増やすことができる。こういった資産の収入を不労所得という。資産がある人は自分が働いて収入を得ている間も、その人の資産も自分で働きお金を稼いでいる。では資産の無い人が資産を得ようとすると、自身が労働し報酬を得るしかない。不労収入が無ければ、その人の労働時間は長くなるばかり。この資産ある人、無い人の差をピケティ氏は指摘する。さらに現代の資本主義では、この格差は拡大の一途をたどるという。格差社会の先陣を切っているアメリカではあまり話題にしたくない題材かもしれない。
しかしこの本の英語版は昨年のアマゾンの売り上げランキング1位になった。賛否両論あるそうだが、アメリカの経済学者も肯定的な評価をしている人が多い。この本が経済学の内輪の世界にとどまらず、民間企業の経営者や一般市民までに知れ渡り、惹きつけられるのにはいくつか理由がありそうだ。まず世界中の経済学者がこの本に注目するのは、ピケティ氏が歴史を遡り、かつ過去の莫大なデータを集めて分析し実証的に示したからであろう。つまり、机上の空論では無いということだ。次に、経済学者だけにとどまらず、広く一般にこの本が読まれることとなった背景に、格差社会がどの国でも顕著な、極めて身近な課題だからではないだろうか。例えば、この本の日本語版が出版された昨年は、日本では4月の消費税の増額にとどまらず、さらに増税する時期について大いに盛り上がった1年だった。それだけではない、アベノミクスの下、日銀が掲げる「2%のインフレ達成」、どちらも日本人の日々の生活に直接影響する。なんと絶妙なタイミングで現れた本だろうという感じがする。
「21世紀の資本」をただの一過性の話題本で終わらせてしまうのか、それとも、我々一般市民が経済について一考するチャンスととらえるのか?私は後者を選ぼうと思う。
ピケティ氏の「21世紀の資本」の中で結論とされる「r > g」という不等式、今では本の題名と同じぐらいよく目にする数式になったが、簡単にいうと、債券や株、不動産といった投資による資本収益率「r」は、経済成長率 「g」をつねに上回っている。しかもこの状態はいつの時代においても起こっていて、このまま続くと富の不平等が固定化されてしまうという。この一見シンプルな不等式により表現されている現実には、我々がどの国に住んでいようが、資本主義社会に生きていることを痛感させられる。資本主義社会の基本的な仕組みである経済、その仕組みを知らずに生きていくのはあまりに無防備だ。今こそ経済というフィルターを通して、自分の立ち位置を知り、格差社会とどう向き合い、今後の世の中の動きを自分の考えで推測して将来に備える、いい機会かもしれない。日本のこのピケティ・ブームはそう教えてくれている気がする。
まず自分の立ち位置についてだが、ピケティ氏は現代の社会における不平等の現状として、所得に応じて、上位層(10%)、中間層(40%)、下位層(50%)と3つのグループに分けている。上位層は資本所得が多く労働所得を上回っている。グループの半分を占める下位層の資本所得は無いに等しく労働所得が収入だ。この分類だけで、経済学など知らなくても、格差と機会の不平等が浮き彫りになっていることがわかる。自分はこの3つのどの層にいるのかは、だいたいわかるだろう。なにしろ、90%の人が上位層ではないのだから。ピケティ氏と共同研究者によると、アメリカの上位層(10%)の富裕層が総所得に占めるシェアは50%近く、さらにこの10%の中の上位1%の所得シェアは約20%という結果だ。こんなショッキングな数字が出ればアメリカでこの本が売れるのは当然だ。日本のメディアもこぞって彼を追いかけるのは、動向があやぶまれるアベノミクスについてピケティ氏に聞きたいことがたくさんあるからだろう。
では、日本の格差はいかがなものであろう?今年の1月にピケティ特集を組んだ東洋経済誌によると、日本の所得上位層の上位0.01%に該当する人の年収(税引き前、各種控除前)は8057万円。アメリカだとこの階層はなんと8億円を超えている。さらに、注目すべき点として、上位1%の年収が1279万円であること。これはおよそ上場大企業の管理職クラスが該当するそうだ。「年収1千万プレーヤー」なんて言葉を日本ではよく耳にする。この年収1000万円のラインに何歳で乗れるか否かがよく話題になる。それに上場大企業といえども、管理職クラスの人々もおそらく皆と同じ電車通勤しているだろう。ということはこの上位1%の人の暮らしは、富裕層ではない人々にとって想像の範囲内であり、日本はアメリカほど格差が拡大していないと言える。一見安心な結果のようだが、日本では世代間格差や新卒の就職難、増える非正規雇用者など、雇用機会そのものが問題だ。しかし迫り来る消費税10%、物価上昇は全ての人にふりかかる。今後日本は所得格差が縮まるということはなさそうだ。今のうちに自分がどの階層に位置するかを知り、格差社会に負けない人生を構築しておきたい。
さしあたって、アベノミクスは今後どうなるだろう?と日々の日本の政治経済の動向を観察して、自分なりに日本の未来を占うのもいい。今は盛り上がっているアベノミクス、いずれ崩壊すると読むのなら、それが自分の生活にどう影響するのかも考えておく必要がある。もちろんこのような危機管理を以前からしている人もいるだろう、そういう人は意識的もしくは無意識に経済を気にかける生活を送っていると再確認出来る。またこのピケティ氏が警笛を鳴らす今後の格差の広がりと、アベノミクスを考慮して、なけなしの貯金で株を買いはじめる人もいるだろう。自分の身近なところから経済に対し自分の考えを持ち、出来ることはやってみること。ピケティ・ブームは我々と経済学をこれまでになく身近な存在に近づけてくれた気がしてならない。
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<謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。-----------------------------------
2015年3月25日配信
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2015.03.18
そうしたなか、アジアでは中国とインドの台頭が世界的に注目されている。IMFは昨年(2014年)10月7日に発表した報告書『世界経済の見通し』のなかで、購買力平価(PPP)ベースでみた中国のGDPは2014年末に17兆6,000億ドルに達し、アメリカの17兆4,000億ドルを上回り、世界一の経済大国になると予測した。同じくPPPベースで、新興経済国G7(BRICs4カ国、インドネシア、メキシコ、トルコ)のGDP合計(37兆8,000億ドル)が、先進G7(米英仏独伊日加)のGDP合計(34兆5,000億ドル)を上回るという見通しである。
その中国は、潤沢な外貨準備高を利用し、BRICS開発銀行(資本金500億ドル、2016年発足)、BRICS外貨準備基金(資本金1,000億ドル、2015年発足)、アジア・インフラ投資銀行(AIIB、資本金500億ドル、26か国参加、今年6月発足)などの構想を打ち出し、既存のアメリカ主導のIMF、世界銀行のドル体制を脅かしている。
その中でも注目されるのが中国とインドの急接近である。かつて「犬猿の仲」であった両国は、今では手を携えてアジアの未来を共同で構築するという方向で動いている。習近平主席は「中国の夢」を実現すべく、「シルクロード経済帯」と「21世紀海上シルクロード」という「一帯一路」構想を周辺外交の方針とし、昨年9月14日から9日間にわたってタジキスタン、モルジブ、スリランカ、インドの4ヵ国を歴訪したが、その訪問を「一帯一路構想を実現する旅」と位置づけていた。
特に、インド訪問は中国の対インド政策の180度転換を印象づけた。9月17日、習主席はインドのグジャラート州のアーメダバード空港に降り立ち、そこでモディ首相と首脳会談を行い、以後2泊3日の全行程にモディ首相が同行した。モディ首相は、「インドの第一歩を、私の故郷に降り立ってくれて嬉しい。今年の7月にブラジルで初めてお目にかかった時、私はインドと中国は『二つの身体、一つの精神』であると述べた。INDIAとCHINAの頭文字を取れば、INCHではないか。われわれはインチの距離にある関係であり、マイルの距離まで関係を発展させるのだ」と述べた。
習近平主席の回答は、次の通りだ。「グジャラート州は、唐代の高僧・玄奨が立ち寄った場所で、中印交流の記念の地だ。両国は共に古代からの文明国であり、発展途上にある大国だ。今回の私の訪問は、友誼の旅であり、提携の旅だ…。『世界の工場』と『世界のオフィス』が組めば、怖いものはない。アジアの両大国が、『中国の能力』と『インドの知恵』によって牽引していくのだ。両国は手を携えて、バングラデシュ・中国・インド・ミャンマーの経済回廊の建設、シルクロード経済ベルト、21世紀の海上シルクロードを進めていこうではないか。モディ首相が唱える『二つの身体、一つの精神』に賛同する。『中国龍』と『インド象』が組めば、国際社会に大きく貢献できる」と述べた。
つまり、中国は「アジア未来の夢」を実現する最有力パートナーとしてインドを選んだのである。言い換えれば、今まで東アジアで言われていた、日中両国(または日中韓3国)が協力して「アジア共同体」をリードするという考え方からすると、大きな方針転換である。
これにより私がSGRAフォーラムで発表した「アジア・ハイウェイ」構想は西に向けて一歩前進するだろうが、東の日本と朝鮮半島の位置づけが変わることは間違いない。
*筆者は「アジア・ハイウェイ」の旅を夢見ており、その第一歩を今年5月2日に東京からスタートし、博多で対馬海峡をフェリーで渡り、プサンからソウル、そして板門店、中国経由でベトナム、カンボジア、ラオスまで走破する計画。SGRAからの参加者を募集中!
「西に向かう『中国の夢』と未来のアジア(その1)」は下記リンクからお読みいただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/active/sgra/2015/797/
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<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
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2015年3月18日配信
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2015.03.11
去る2月7日、第48回SGRAフォーラム(第14回日韓アジア未来フォーラム)が東京代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開催された。このフォーラムはSGRA構想アジア研究チームと日韓アジア未来フォーラムが共催したもので、アジアの急速な経済成長のダイナミズムを物流システム構築の側面から、その現状と課題について議論した。
筆者は「アジア・ハイウェイと地域統合-その現状と課題-」をテーマに、アジアの未来に向けた夢と現実について報告した。10年前、筆者は日本の国策シンクタンクNIRA(総合研究開発機構)で日中韓3カ国の国策シンクタンク(韓国のKRIHS(国土研究院)、中国のDNRC(国土研究所))による共同プロジェクト「北東アジア・グランド・デザイン」の研究と政策提言に携わり、そこで北東アジア地域の物流統合の未来ビジョンと現状や課題について数年間研究した。その中で、「アジア・ハイウェイ構想」、「日韓海底トンネル構想」、「北東アジア物流ネットワーク構築」などについて検討した。
アジアを一つに結びつける「アジア・ハイウェイ構想」は国連ESCAPが1950年代に提唱し推進している。2004年の時点でアジアやヨーロッパ32カ国が参加し、政府間協定に署名した。東は東京日本橋(AH1)が出発点で西はイスタンブールまで道路を繋ぎ、アジア諸国が協力して共に発展し、平和・繁栄の夢を実現しようとするものである。「アジア・ハイウェイ構想」の総延長141,714㎞のなか、中国本土だけで26,699㎞が指定され、中国大陸を経由して東南アジア、西アジア、中央アジア、北アジアやロシアまでその交通網が広がる構図である。
この「アジア・ハイウェイ構想」の実現に大きなインパクトを与える重要な構想が中国から提案されている。習近平主席の「一帯一路」構想である。中国は「一帯一路」構想をアジア諸国と進めることにより、新しい成長ベルトとして開発し、それを「新常態」に突入した中国経済の新しい成長軸とすることを目論んでいる。
中国では、2014年春より経済成長が鈍化へ向っている現状を「新常態」という言葉で表し、新しい中国経済の状態を認識し、受容するように習指導部が呼びかけ、それに基づいた経済戦略や改革ビジョンを打ち出した。そして、対外経済関係・外交においては、「一帯一路」という「新しいアジア・グランド・デザイン構想」(筆者造語)を発表し、実行に移しつつある。いずれも、習近平政権の新しい経済戦略と外交戦略構想である。もし、この構想通りに進むのであれば、アジアの勢力構図は大きく変わるだろう。
「新常態」は、中国の経済成長の鈍化を前提としたソフト・ランディングを目指す新しい成長パターンを示す用語として提起されたが、昨年後半の経済外交や政治外交を観察すると、それは単純な経済の新常態を表す言葉の領域を遙かに超え、新しい外交戦略の構想を示す国際関係の用語としても使われるようになった。それと共に、習近平主席は「一帯一路」構想を提案し、9月には中央アジアや南アジアの諸国を訪問し、その実現を訴えている。
「一帯一路」構想は、新しいアジア秩序において、今までの「ルック・イースト」戦略から、「ルック・ウェスト」(西に向かう)の戦略的な転換を意味するものと見られている。分かりやすく言えば、今まで中国が重視していた日本、韓国などアジアの先進国との関係や戦略的な価値は低下し、インドや東南アジア、中央アジアがこれからの中国の戦略的開発方向だという意味である。経済開発のみではなく、政治的・外交的にもインドと中国はアジアの二つの「象と龍」であり、「象と龍」が未来の世界の中枢になるという考え方である。
このような中国の外交政策や世界戦略とアジア戦略の転換は、東北アジアの国際関係や経済協力に大きなネガティブ・インパクトをもたらすと私は考えている。「東北アジア人」の私にとっては「夢と希望」に陰が落とされた重大な変化である。
日本の国際関係学者久保孝雄氏は「同時進行する南北逆転・東西逆転への胎動―加速する世界の地殻変動―」(メールマガジン「オルタ」第133号、2015.1.20)という論考で、「アメリカの覇権衰退が加速し、・・・世界経済における南北(先進国対新興国)逆転と、世界政治における東西(アジア対欧米)逆転への動きが複合しつつ進展している」と指摘する。(つづく)
英語版はこちら
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<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
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2015年3月11日配信
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2015.02.25
2月6日、待ちにまった渥美国際交流財団20周年記念祝賀会が霞山会館で開催された。
その日、私が虎の門駅でおりた時には、すでにひぐれの時間であった。エスカレーターを上がったところでまず目にしたのは、会場案内の看板を持って、来客を誘導している先輩の葉文昌さんであった。そして、霞山会館のビルの入口では、同じく道案内の看板をもっている先輩の李恩民さんが待っていた。二人はともに大学の教授であるにもかかわらず、寒いなか、熱心にみなさんの道案内をしている。先輩諸氏の姿をみて、まず、感動した。
あわてて、会場にかけこんで、財団の常務理事今西淳子さんに「なにかやることはありますか」と聞いたところ、「今日は落ち着いて、楽しんでください」といわれた。
中曽根康弘元総理大臣をはじめ、各国、各分野の200名を超す方々が参加し、祝賀会が大盛会であったことはいうまでもない。
馴染みとの再会、新しい仲間との出会いの喜びはもとより、知見の豊かな意見交換、そしてやや横道に逸れる話も、祝賀会に必要なものだと思われる。ことなる文化のぶつかりあいによって智慧の火花が生まれるからであろう。
「故きを温ねて新しきを知る」。渥美伊都子理事長のご挨拶は、渥美財団の20年の歩みをふりかえながら、新年会などでの留学生とのふれあいのエピソードをとりあげ、国際交流における日本文化の位置づけも試みており、東洋の心に思いを馳せた。
長い間、渥美財団の人材育成、国際交流事業をあたたかく応援してくださっている明石康先生のご挨拶は重みがあった。「人間でも、国でもどのように友達を選ぶのかは非常に重要だ」というご指摘に非常に感銘した。
桐蔭横浜大学教授のペマ・ギャルポ先生に会って、モンゴル語で挨拶した。先生はかつてモンゴル国大統領の顧問を担当されたことがある。来日してすぐに先生のことを知ったのだが、お目にかかったのは今回が初めてであった。
名古屋大学名誉教授平川均先生からは、東アジアの枠組みのなかの日本とモンゴルの友好関係とその意義などについて聞かれて、うれしかった。バリ島でおこなわれた第2回アジア未来会議では、平川先生からいろいろとご教示をいただいた。モンゴルはかつて日本の「生命線」と呼ばれる地域であったが、長い間わすれさられた。新しいアジアの秩序の構築において、日モ関係の強化は、ある意味では何をもっても代えることのできないほどの重要性があると思う。
渥美財団のアドバイザー高橋甫氏は、寡黙でありながら、いつも物事を鋭く洞察している。モンゴルでおこなわれた7回のSGRAの国際シンポジウムの内、2回も参加してくださった。その際、また、アジア未来会議においても、モンゴルの鉱山開発と環境保護について、貴重な助言と情報をくださった。
公益財団法人かめのり財団の常務理事西川雅雄氏にお会いして、若い世代を中心とする相互理解の国際交流等について話し合った。実は、かめのり財団は2012年に私が実行委員長をつとめた第1回日本モンゴル青年フォーラムに助成してくださったことがあり、この恩は忘れられない。
設立以来長い間事務局にいらした谷原正さんは人気者で、たぬき(渥美財団の奨学生)たちにかこまれて、いろいろと聞かれていた。慈愛にみちた美しさが感じられる。
著名な、日本を代表する国際的ヴァイオリニスト前橋汀子氏のすばらしい演奏は、人びとの心をうち、祝賀会をいやが上にも盛り上げた。日本に来る前に、ふるさとの芸術大学で9年間教鞭をとったこともあったのだが、昔のさまざまなことが思い出された。
先輩の李鋼哲さんは東アジアの秩序について、熱心にかたった。李さんはかつて『朝日新聞』にモンゴルに関するユニークなコラムを書いたことがあり、たいへん注目された。
再会した友人のなか、2003年度同期の奨学生林少陽氏、臧俐氏、張桂娥氏はそれぞれ大学の教授になっている。4人で乾杯し、教育のことが話題になった。
祝賀会は、旧知の情を呼び覚ますだけではなく、また新しい仲間と知り合うことだけでもなく、新しいスタートである。
子日く、「三十而立、四十不惑(三十にして立つ、四十にして惑わず)」。この意味で、渥美財団はまだ基礎を固める段階にあるが、すでに目覚ましい成果を成し遂げている。国際理解や平和構築、人材育成に、渥美財団が寄与すべき責任(仕事)は多々ある。財団の20年の歩みを誇り高く思うが、栄光は過去のものであり、新しい道を開いていくことは、私達の使命である。
祝賀会の公式報告と写真、当日上映した動画
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2015年2月25日配信
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2015.02.18
冬に日本へ一時帰国する海外在住の日本人の友人たちは、皆口を揃えて言う。「日本の冬は寒くて、過ごしにくい」と。彼らはみんな日本より寒い国や地域に住んでいるというのに、日本の家(主に彼らの実家)が寒いというのだ。私が勝手に抱いていたイメージは、日本の冬の「こたつでみかん」を楽しみにと思っていたのに、現実は違っていた。彼らが暮らしている国々は日本より冬が厳しいが、家中が暖かく保たれているそうで、日本の住居のように、暖房をつけた暖かい部屋を一歩出たら寒い廊下、そして寒いトイレに行くということが無いそうだ。思えば私が長年暮らしていた北京の冬は、日本より寒いが室内はどこも暑い程だった。家電製品は日々進化し、便利な生活を整えるため次から次へと新しい技術が産み出される日本で、何故日本の家は寒いままなのだろう。
ニューヨークから一時帰国してきた日本人の友人が教えてくれたのだが、ニューヨーク州の法律では、冬季(10月から5月)に外気温が10度を下回ったら、アパートの大家は室温を20度にしなければならないと定められているそうだ。しかもこの暖房費は家賃に含まれているとのこと。セントラルヒーティングで家中に暖房がいきわたり、家に帰れば家の中がすでに暖かいのはいいよと絶賛していた。このようなことが法律で定められていることに驚き、ニューヨークの近隣の寒い地域についても調べたら、米国東海岸の他の州はもちろん、カナダのトロントや、英国も同様に、住宅の最低室温に関して規制があった。そしてこれは健康への配慮からなる法規制であった。日本には住宅に対してこのような規制は無い。
インフラが整い、全てが完璧のような日本に落とし穴を見つけた気がした。日本のテレビでは毎日のように健康についての番組が放映され、現に国民の一人ひとりが健康への関心が高い。しかし日本の家の中は寒いままだ。そして冬のニュースでよく耳にするのが、高齢者のお風呂場、脱衣所で心臓発作による死。熱い湯船に浸かり、外気と同じくらい寒い脱衣所に出る。この急激な温度変化で体調が急変することを「ヒートショック」と言うそうだ。厚生労働省の報告書によると、入浴時の事故死だけで、年間1万9千人以上と推計されるそうだ。
このような事故死を防ぐため、日本の冬の住居環境を見直すべきだろう。欧米のように住宅の法規制として、断熱化を進めるべきではないだろうか。光熱費が高い日本では、家そのものの工夫が必要だろう。察するに、高齢の日本人は我慢強く、少しくらい寒くても我慢してしまうことが多い。暖房器具があっても使われなければ意味がないし、何よりも住居内での温度差が危険なのだ。家中の室温を一定に保つことが重要だ。北海道の家は冬も暖かいので、ヒートショックも少ないそうだ。身近な所から冬を過ごし易い住環境を取り込み、改善すべきだ。それは日本の高齢者を守り、人口減を緩やかにする。健康への関心が高い、先進国の日本人が、このように未然に防げそうな事故で毎冬あっけなく命を失うのは大変惜しい。
英語版エッセイはこちら
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2015年2月18日配信
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2015.02.11
多くの人は、自分が何人であるかについて話す時、つまり「私は日本人です」、「私はスペイン人です」と言う時、おそらく何の違和感、疑問を感じないだろう。ただし、私たちが「私は日本人です」、「私はスペイン人です」と言う時、自らの客観的、正式的、パスポートに書いてある国籍を指しているだけではなく、自分がある国、あるコミュニティーへの帰属意識、いわば自分のアイデンティティの一側面を表現してもいると言えよう。
私は留学がきっかけで、自らの国・国籍とアイデンティティについてしばしば考えるようになった。そして、この課題についての私の考え方は留学によって大きく変わった。本稿では、私の考え方がどう変わったかを説明するために、まず私の背景について、次に10年以上前に初めて留学することによって私の観点がどう展開したかを、そして最後に国とアイデンティティについての現在の私がどのような立場であるかを述べたい。
私はスペイン北部にあるバスク地方で生まれ育ち、22歳までバスク地方の最大の都市、ビルバオに住んでいた。バスク地方ではスペイン語と違う言語が話されており、また、その歴史・社会構造・経済構造の面からも他のスペインの地方との相違点が多く、バスク人の一部はスペインからの独立を願っている。このような複雑な地域では、「あなたは自分をバスク人と考えていますか、スペイン人と考えていますか」というような質問を問いかけられることがよくある。しかも、バスク地方では、自分をスペイン人かバスク人かと認識することは、自分の家系や母語とは直接関係なく、むしろ自身の政治的立場や感情と深くかかわっている。例えば、自分の家族がスペインの他の地方の出身であって、自分の母語がスペイン語であっても、自らをスペイン人でなくバスク人と考える人もいれば、家族がバスク地方出身であり、バスク語を母語とする人で自らをスペイン人と考える人もいる。
私自身は、バスク地方に住んでいた時、自信をもって「私はスペイン人ではなく、バスク人である」と言うことができた。それは、バスク地方以外の地域に対して何らかの抵抗を感じていたからではなくて、むしろバスク地方の独自性、いわばユニークさに一種の愛着を持っていたからであり、また、私の周りの人々、つまり家族や友だちが同様な観点を持っていたからであった。
しかし、私は22歳の時にイタリアのボローニャ大学に留学することになり、初めてバスク地方ではない国で生活し、また、バスク地方以外のスペインの各地方やヨーロッパの各国から来た友だちができることによって、私が、自分自身が、バスク人であるということの意味を深く考え直すことになった。バスク地方に住んでいた時の私はバスク地方の特殊性、スペインの他の地域との相違点などを重視していたのに対して、イタリアで生活を始めた当時の私にとっては、相違点というより、むしろスペインの他の地域やヨーロッパ各国との共通点の重要性がわかるようになった。したがって、私はイタリアで国籍を聞かれた時、だんだん違和感を持たずに「スペイン人です」と答えるようになり、かつ、自分をバスク人だけと考えていた以前の私の立場を排他的で度量の狭い立場のように見るようになった。そうして私は、「バスク人」「スペイン人」というような名称が自分の背景をある程度説明していることを理解すると同時に、自分にとって実際それらの言葉にたいした意味がなくて、自分のアイデンティティとしてはむしろヨーロッパ人としてのアイデンティティがもっと重要なのではないかと考えるようになった。なぜなら、ヨーロッパという概念からは、国境を超えた豊富な歴史を背景としながら、多様で充実した社会を目的とする民主主義的プロジェクトを構築していくことができると考えたからであった。
しかしながら、私は2007年に、ヨーロッパから離れて日本に留学することになり、自分の立場をあらためて考えることになった。イタリアに留学することによって私の視野が広くなったと同じく、はじめてヨーロッパ以外の国で生活し、日本およびアジア各国から来た友だちができ、実際に人間同士をつなげるものは共通の文化的背景などではなく、むしろ価値観、世界観であることがはっきり分った。
こうして、日本に留学することによって、私のバスク人、スペイン人、ヨーロッパ人としてのアイデンティティが、いったいいかなるものであるかをふたたび反省することになり、国とアイデンティティについて、より明確に考えるようになった。つまり、国とアイデンティティの間の関係において二つの側面を区別することができると思う。一方では、「私はスペイン人です」、「私は日本人です」などの表現によって、私たちがどこから来ているか、どこで育ったかを説明しているのであって、例えば私の個人的な場合に、やはり私がバスク人であること、スペイン人であること、ヨーロッパ人であることのそれぞれが、私の背景、いわば私の個人的な歴史を語っていると言えると思う。他方では、「私はスペイン人です」「私は日本人です」などの表現が、ある国、あるコミュニティーへの帰属意識を表しており、すなわち自らがどこから来たかだけを表すというより、むしろ自らがどこに帰属したいか、どこを自分の居場所にしたいかということを表していると思う。この二つ目の側面は、一つ目の側面より自由であり、個人が各々の人生において、様々な経験を重ねるにつれて、変わっていくことが可能であろう。
留学生として日本で7年間生活してきた私は、自分がバスク人、スペイン人、ヨーロッパ人であるということが、上述したように私のある重要な側面を捉えていると思う。なお、上記の二つ目の側面については、つまり私がどこに帰属したいか、どこを私の居場所にしたいか、「何人でありたいか」と聞かれるとしたら、バスク地方はもちろん、スペインやヨーロッパももはや狭すぎて、ありふれたひびきのある言い方であろうが、おそらく私の居場所が世界、地球であり、私が帰属したいコミュニティーは各国の狭い国境を超えた世界の市民のコミュニティーであると答えるしかないであろう。
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<アロツ=ラファエル アインゲル Aingeru Aroz-Rafael>
2005年Deusto大学文学部歴史学科卒業(ビルバオ、スペイン)。2008年マドリード自治大学学部東アジア学科卒業。2008年同大学マドリード自治大学大学院哲学研究科比較文学専攻修士課程修了。2003年ボローニャ大学留学(イタリア)。2007年上智大学留学。2007年平和中島財団奨学生。2008年〜2012年国費留学生。2013年渥美財団奨学生。研究関心は近代日本哲学史、近代日本言語学史・国語学史・人文科学史、言語哲学。現在、東京大学大学院学際情報学府博士後期課程。
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2015年2月11日配信