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エッセイ463:蔡 炅勳「隣の幽霊の金縛り」

日本のホラー映画が世界的に有名であることに異論のある人はあまりいないだろう。最近では少し停滞しているが、一時期『リング』や『呪怨』のような日本のホラー映画が外国で注目を集め、ついにハリウッド映画でリメイクされることにもなった。『リング』の場合は、韓国でもリメイクされ、『リング』に出た幽霊の貞子は、長い間人々の話題となっていた。ホラー映画は、他ジャンルの映画に比べて好き嫌いがはっきりと分かれ、観客層が限られている。そのため、映画ランキングの第1位を占めるのは容易ではない。正確な記憶ではないが、『リング』や『呪怨』も 映画ランキング1位を占めたことはなかったと思う。にもかかわらず、それらの映画をはじめ、日本のホラー映画が注目を浴びたのには何か特別な理由があるのだろう。

 

その理由の一つとして、私は日本映画に出てくる幽霊のそれぞれの存在理由が、主人公に劣らず詳しく描かれ、物語がより豊かになっているからだと言いたい。幽霊の存在感を浮き彫りにするこのような傾向は、他者を眺める日本人の視線に関係があると思う。字数が限られおり、また映画の批評でもないため、複雑な話は省略したいが、重要なことは、幽霊や怪物がこの社会の他者を形象化した存在であり、日本のホラー映画の幽霊は他者としての強力な存在根拠を持ち、主人公に決して避けられない恐怖を与えるのだ。

 

映画のみならず、アニメーション、漫画、小説、ビデオゲームなど、日本の大衆文化の中には幽霊や妖怪や怪物のような異質の存在がしばしば登場する。これらは通常、恐ろしくてグロテスクだが、時には『隣のトトロ』のように親しみやすく、『ポケットモンスター』のように可愛く、そして『うる星やつら』のように人間と大きく変わらない存在としても出てくる。もしかすると、日本人の中に、主流の特定宗教がなく、唯一神の信仰が定着していないこととも関係があるのかもしれない。また、八百万の神を祀っているという話のように、あまりにも多くの異質の存在が到る所にいるからかもしれない。私はこのような日本文化の特徴の中に、現代人に求められる人間的な価値や美徳の大きな可能性があると思う。

 

前述したように、幽霊、妖怪、怪物のような異質のものは、その社会の他者の形状を通じて生まれた、つまり他者化された存在である。すべての他者がそのようなものではないのだが、ほとんどの他者は、個人にとっても社会においても脅威の存在とみなされる。そのため、他者は追放されるか封印されるべき存在であり、社会追放と封印の過程を経て、全体性の中に整然と統合される。中世の魔女狩りが共同体の構成員の同質性を回復し、共同体の存立のためになされる他者化の代表的な例であろう。我ら人間は、このような他者の犠牲のおかげで自分の世界を維持することができたのだ。そして、魔女狩りは現在も続いている。

 

しかし、現代社会は他者に関する新たな視点と理解を求めている。特に、様々な人々が国境を越えて自由に移動し、コミュニケーションをとっている現代社会で、他者とのコミュニケーションはますます重要な問題となっている。2年前のOECDの調査報告書でも、移住の問題は、宗教、民族、人種などが幅広く関連しているため、現代社会の中で最も重要な問題の一つだと指摘されている。激しい宗教紛争、民族問題、人種差別、領土紛争などが起きている今日、自分に代表される同一者と他者との葛藤は、もはや従来の認識論的体系では解決不可能の状態にある。これまでの同一者中心の欧米のロゴス的認識体系では、他者とのコミュニケーションに限界があることを知り、他者に関する新たな模索を試み、他者を他者本来の位置に戻そうとしている。

 

他者も皆それぞれの歴史を持ち、自分なりの物語を持つ。それを私たちが判断し、評価を下すことはできない。そもそもそのような権利さえない。他者は他者として、幽霊は幽霊として、妖怪は妖怪として存在しなければならない。また何よりも、私たち自身も幽霊の姿をしている他者であることを覚えておかなければならない。このようなことから、私は他者との共存可能性の糸口が日本の文化の中にあると思うのだ。ハリウッド映画の優しいモンスターは常に人間の味方で人間のために戦い、ある意味では、神のような特別な存在である。一方、日本の怪物は日常の中で生きながら人々と付き合い、時には葛藤したり、喧嘩したりして共存する存在として登場する。もちろん、最終的には物語の主人公の世界観や社会の一般常識によって異質性が評価され、統合されてしまう限界はあるが、怪物を怪物として、幽霊を幽霊として認識し、受け入れようとする試みが見られるのが日本の大衆文化の特徴だと思われる。

 

八百万の神を祀っていることは、一方で八百万以上の犠牲になった他者(即ち幽霊や妖怪や怪物のような異質のもの)が存在していると考えることもできるかもしれない。その分、他者を徹底的に排除してきたとも言えるが、同時に幽霊や怪物は、すでに消えた他者を記憶して哀悼する方法でもある。実際に私たちの社会は他者の犠牲によって存立しているが、すでに忘れ去られて幽霊や怪物にもならなかった無数の犠牲者がいたことも忘れてはいけない。他者を少しでも多く、より長い間覚えて悼もうとするために、八百万にも達する神を祀っているのかもしれない。このように考えて、私は日本文化に他者とのコミュニケーションの取り方の可能性を見るのである。

 

しかしながら、現代の日本社会は、本来日本文化の中に存在しているはずの「異質なものをそのまま受け入れる」力が失われてしまっているのではないだろうか。現代の日本社会は、他者に関する想像力が非常に低いようにみえる。この問題は、自分自身も鬼の姿をしている他者でもあるということを認めようとしていないためではないだろうか。「おもてなし」に代表される他人への配慮は、むしろ他者に向かって自分のことを隠して他者の視線から避ける行為のように見える。他人のことを先に考え自分のことを譲るのも、他者に対する配慮ではなく、他者との衝突を避ける卑怯な行為のようにも見える。日本人は他者を認めようと努力はしているが、自分自身が異質の存在として他者の位置に置かれることは恐れているようだ。しかし、自分もまた他者として、他者の生を規定し、規定されるのは、あまりにも当然のことで、避けることは絶対に不可能なのである。

 

ということで、他者の怖い目つきに堪えなければいけない。恐怖そのものであるけれども、私たちは他者という異質の存在に直面しなければならない。これがエマニュエル・レヴィナスの話した他者に向かう無限の責任であり、他者に対する倫理ではないだろうか。『リング』の貞子がテレビの画面を突き抜けて私たちの前に顕現することをちゃんと見つめ、『ステキな金縛り』の武士の幽霊と一緒に過去の真実を裁判所で証言しなければならない。他者との出会いで葛藤は避けられないが、重要なことは、葛藤と向き合うことによって他者に一歩近づくことができるということであり、それはまた、他者の金縛りになった我らを自ら解放させることなのである。

 

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<蔡炅勳(チェ・キョンフン)Che Kyounghun>

韓国外国語大学校卒業、東国大学校大学院文学修士号取得。映画評論家として活動。2010年来日。現在、東京芸術大学大学院映像研究科博士後期課程映像メディア学博士号候補者。実験映画監督として作品活動。研究テーマは、他者性を基にして記憶と空間の問題を扱い、在日韓国・朝鮮人の映画的な表象と映画の中の風景との関係を研究している。論文のタイトルは、『風景として現われた在日朝鮮人-映画的な記憶と在日朝鮮人の表象』。

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2015年6月25日配信