SGRAエッセイ

  • 2015.07.09

    エッセイ465:ダヴィド ゴギナシュヴィリ「イデオロギーをめぐる考え」

    ~「どんな人が一番嫌い?」という質問から得られた示唆~   ある飲み会で、「どんな人が一番嫌い?」 と聞かれた。「〇〇主義者」が一番嫌いだと心の中で思ったが、そう答えても、相手が理解してくれないだろうと考えたため、反論を招かないように無難な回答をさがして、誰もが共感するであろう「裏表のある人が嫌いだ」という答えを選んだ。   理解してもらえないだろうと思った理由は、相手が日本人であり、私とは全く違うバックグラウンドを持っていたからである。私は、長い間様々な「〇〇主義者」によって苦しめられてきたジョージアという国で生まれ育ったのだが、そのような経験をしていない人間にとって「〇〇主義者が嫌いだ」というような発言は、すんなりと理解できないのは当然であろう。   ここで、そのように答えたかった私の気持ちの背景、この質問が私に提起した問題、そしてそこから導いた結論を説明したいと思う。   私が子供だった頃は共産主義者が人々の自由を抑圧しており、ソ連崩壊後は過激主義者と分離主義者、そしてその分離主義者を後押ししていた隣国(ロシア)の帝国主義者がジョージアを分断しようとしていたことが記憶に刻まれている。一方で、国を守ろうとしていた愛国主義者(彼らは私の憧れであった)もいた。ただし、その愛国主義者の中でも健全な愛国主義と偏狭な民族主義を区別できず、イデオロギーの名の下で内戦に火をつける人も多かった。そういった「〇〇主義者」と呼称されていた人たちのせいで私の国は政治・経済的な危機、そして戦争に直面してしまった。当時の混乱は、私と同じ世代のジョージア人なら誰もがよく覚えているはずだ。   21世紀に入ると、ジョージアは様々な改革を実施し、著しい発展を成し遂げたが、「〇〇主義者」によって痛めつけられた傷は未だ国中に強く影響を残している。   大学生になって海外留学や海外旅行をしていたら、ジョージアでは見たこともない様々な類の「〇〇主義者」に出会った。   例えば、アメリカの南部では白人至上主義者に襲われそうになったり(幸いに、私がコーカス地域出身である、すなわち、英語で白人の人種を意味する「コーカソイド」であると認められ、白くはない肌にもかかわらず見逃してくれた)、オーストリアのウィーン郊外のバスでは、ネオナチ主義者とトルコ人の殴り合いに巻き込まれそうになったり(何とか逃げ出すことができた)もした。また、ある時は、ネパールのカトマンズのレストランで、私が共産主義の悪口を言っていたせいでレストランを出た途端に、その話を聞いていた共産党毛沢東主義者の店員とその仲間に絡まれたこともある(幸いにも話し合いで問題を解決できた)。   一方で、上述の人々とは違う、非暴力的な平和主義者の類の人々にも会ったこともあるが、当然そうした「〇〇主義者」に対しては決して嫌悪を感じない。しかし、残念ながら平和主義のようなイデオロギーは極めて観念的、かつ非現実的な思想に基づいており、暴力的な現実から目をそらすことによって、むしろ間接的に悪の繁栄を促進しているのではないかという疑問が生じる。イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルが書き残したように、「悪人が成功を遂げるために必要なたった一つのことは、善人が黙視し、何もしないことである」(注)   まさに現代の世界では、いわゆるジハード主義者のボコ・ハラムやイスラム主義者の組織と呼ばれるISILが拡大し続けているし、または神政主義者と言われているジョゼフ・コニーが未だに子供を誘拐して、少年兵として利用している。このような事態を許している主な原因の一つには、国際社会がそれらの被害者の叫び声に十分に耳を傾けていないことである。   この21世紀においても人間は、宗教またはイデオロギーの名の下に、心の中にある悪を養い、人道に対する罪まで犯している。それにもかかわらず、この悪を阻止できるはずのアクターは、利己主義または平和主義の名の下で介入を回避しているという現実に鑑みると、「〇〇主義者が嫌いだ」という私の答えはもはや不自然ではないだろう。   しかし、上述の問題を生み出している原因をイデオロギーや宗教に求めるという考えは完全に間違っている。イデオロギーや宗教は、憎しみが生まれ育ちやすい周囲の教育や社会環境が存在する条件下において、偏狭な考えしか持ち合わせない人々により「憎しみを養うためのツール」として利用されているに過ぎない。つまり、問題の根源は人間の心の中に潜んでいる憎しみであり、その感情に対してはいかなる餌も与えてはいけないのだ。   以上のような考察を経た後で、「〇〇主義者が嫌いだ」という私自身の意見をもう一度よく考えてみると、私が間違っていたことに気がつく。つまり「嫌いだ」とずっと思い続けていたことこそが間違っていたのではないか。なぜなら憎しみは「さらなる憎しみ」しか生み出さないからである。   *筆者の訳。原文は下記の通りである:"Bad men need nothing more to compass their ends, than that good men should look on and do nothing". 出所:Mill, John Stuart, Inaugural Address Delivered to the University of St. Andrews, London: Longmans, Green, Reader, and Dyer, 1867, p. 36.   <ダヴィッド ゴギナシュビリ David Goginashvili> 渥美国際交流財団2014年度奨学生 グルジア出身。慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程。2008年文部科学省奨学生として来日。研究領域は国際政治、日本のODA研究。   2015年7月9日配信
  • 2015.07.02

    エッセイ464:謝 志海「どうなる地方創生」

    地方創生はうまくいっているのだろうか?具体的には何をしているのだろうか?ぱっと頭に浮かぶのはゆるキャラ、町おこしのプロモーションビデオ。しかしこれだけで、都心に住む人が地方都市をどれほど知ることができるのか?行ってみたいと思う人はいるのだろうか?実際に地方都市の人口は増えているのだろうか? もちろん地方創生は地方だけの問題ではない、国の問題だ。政府は「まち・ひと・しごと創生本部」を設置していて、各府省庁はそれぞれの視点で地方創生の策を練っている。   例えば、総務省は地方へ若者の人口流入を促すべく、「地域おこし協力隊」として移住政策を推進している。移住先でローカルの仕事を斡旋する仕組みや、住居なども整えてあげている。あるいはその土地で起業する人への財政支援もしている。これらは大体1~3年という期間が設けられているところが多いが、約6割の人が任期終了後も同じ地域に定住しているそうだ。しかも若い人が多い(平成25年6月末時点。まち・ひと・しごと創生本部資料より)。 すでに実績も出ていて、素晴らしいプロジェクトだと思う。一方で有識者会議によるCCRC(Continuing Care Retirement Community)構想も発表されている。これは東京圏をはじめ大都市の高齢者が、本人の希望に即して地方に移り住むことを支援するというもの(まち・ひと・しごと創生本部資料より)。 こちらのすごい点は、移住した後の生活まで支援体制を整えているところで、引き続き健康でアクティブな生活を送れること、後に医療や介護が必要になった時の為の体制も確保することを目指している。定年後は首都圏から離れて穏やかに過ごしたいが、その術がわからずイマイチ踏み出せない、という人にチャンスを与えることができるはずだ。   このような素晴らしい地方創生のプログラムがたくさんありながら、都市部と地方には大きなギャップがあると感じるのはどうしてだろう。現在私は地方都市に住んでいて、東京には時々仕事で行くぐらいだ。この往復で思うのは、東京と地方の温度差(気候ではない)が未だに大きいこと。東京はやはりエネルギッシュな都会だ。オリンピックを5年後に控え、観光客で賑わい、衰えることを知らない感じがする。他方、地元にいると地方創生をしようという雰囲気は特に感じられない。   政府が地方の活性化にどんなにいいプログラムを策定しても効果はそれほど上がらない。やはり、元からいる住民がその土地で楽しく暮らし、住民たちの手で広め、呼び込むことが大事なのではないだろうか。例えば、東京の広告代理店に頼んで、地元活性化のプロモーションビデオを作ってもらって、YouTubeにアップロードして終わりでは、結局お金が東京の会社に支払われるだけで本末転倒になってしまう。プログラムを作った分だけ地元に還元されるべきだろう。地元の人々が、政府が用意してくれた様々な地方創生プログラム案をその土地に合うようにカスタマイズし、運用していく所から活性化していくのではないだろうか。実際、すでに地方創生が盛んな地域とそうでない地域の差が出始めている。地方創生がうまくいっている地域は、東京からのアクセスが良くなかったりする。ということは、きっとその地方の人々の努力の賜物だろうと私は勝手に推測している。   これから地方創生に求められるのはスピード感ではないだろうか。人口減少必至の日本、乗り遅れると一気に過疎化してしまうのでは?と心配になる。町が生き生きとするかどうかは、地元に住んでいる人が自ら動き出すかどうかによるのではないだろうか。     英語版はこちら -------------------------------------------- <謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 --------------------------------------------   2015年7月2日配信  
  • 2015.06.25

    エッセイ463:蔡 炅勳「隣の幽霊の金縛り」

    日本のホラー映画が世界的に有名であることに異論のある人はあまりいないだろう。最近では少し停滞しているが、一時期『リング』や『呪怨』のような日本のホラー映画が外国で注目を集め、ついにハリウッド映画でリメイクされることにもなった。『リング』の場合は、韓国でもリメイクされ、『リング』に出た幽霊の貞子は、長い間人々の話題となっていた。ホラー映画は、他ジャンルの映画に比べて好き嫌いがはっきりと分かれ、観客層が限られている。そのため、映画ランキングの第1位を占めるのは容易ではない。正確な記憶ではないが、『リング』や『呪怨』も 映画ランキング1位を占めたことはなかったと思う。にもかかわらず、それらの映画をはじめ、日本のホラー映画が注目を浴びたのには何か特別な理由があるのだろう。   その理由の一つとして、私は日本映画に出てくる幽霊のそれぞれの存在理由が、主人公に劣らず詳しく描かれ、物語がより豊かになっているからだと言いたい。幽霊の存在感を浮き彫りにするこのような傾向は、他者を眺める日本人の視線に関係があると思う。字数が限られおり、また映画の批評でもないため、複雑な話は省略したいが、重要なことは、幽霊や怪物がこの社会の他者を形象化した存在であり、日本のホラー映画の幽霊は他者としての強力な存在根拠を持ち、主人公に決して避けられない恐怖を与えるのだ。   映画のみならず、アニメーション、漫画、小説、ビデオゲームなど、日本の大衆文化の中には幽霊や妖怪や怪物のような異質の存在がしばしば登場する。これらは通常、恐ろしくてグロテスクだが、時には『隣のトトロ』のように親しみやすく、『ポケットモンスター』のように可愛く、そして『うる星やつら』のように人間と大きく変わらない存在としても出てくる。もしかすると、日本人の中に、主流の特定宗教がなく、唯一神の信仰が定着していないこととも関係があるのかもしれない。また、八百万の神を祀っているという話のように、あまりにも多くの異質の存在が到る所にいるからかもしれない。私はこのような日本文化の特徴の中に、現代人に求められる人間的な価値や美徳の大きな可能性があると思う。   前述したように、幽霊、妖怪、怪物のような異質のものは、その社会の他者の形状を通じて生まれた、つまり他者化された存在である。すべての他者がそのようなものではないのだが、ほとんどの他者は、個人にとっても社会においても脅威の存在とみなされる。そのため、他者は追放されるか封印されるべき存在であり、社会追放と封印の過程を経て、全体性の中に整然と統合される。中世の魔女狩りが共同体の構成員の同質性を回復し、共同体の存立のためになされる他者化の代表的な例であろう。我ら人間は、このような他者の犠牲のおかげで自分の世界を維持することができたのだ。そして、魔女狩りは現在も続いている。   しかし、現代社会は他者に関する新たな視点と理解を求めている。特に、様々な人々が国境を越えて自由に移動し、コミュニケーションをとっている現代社会で、他者とのコミュニケーションはますます重要な問題となっている。2年前のOECDの調査報告書でも、移住の問題は、宗教、民族、人種などが幅広く関連しているため、現代社会の中で最も重要な問題の一つだと指摘されている。激しい宗教紛争、民族問題、人種差別、領土紛争などが起きている今日、自分に代表される同一者と他者との葛藤は、もはや従来の認識論的体系では解決不可能の状態にある。これまでの同一者中心の欧米のロゴス的認識体系では、他者とのコミュニケーションに限界があることを知り、他者に関する新たな模索を試み、他者を他者本来の位置に戻そうとしている。   他者も皆それぞれの歴史を持ち、自分なりの物語を持つ。それを私たちが判断し、評価を下すことはできない。そもそもそのような権利さえない。他者は他者として、幽霊は幽霊として、妖怪は妖怪として存在しなければならない。また何よりも、私たち自身も幽霊の姿をしている他者であることを覚えておかなければならない。このようなことから、私は他者との共存可能性の糸口が日本の文化の中にあると思うのだ。ハリウッド映画の優しいモンスターは常に人間の味方で人間のために戦い、ある意味では、神のような特別な存在である。一方、日本の怪物は日常の中で生きながら人々と付き合い、時には葛藤したり、喧嘩したりして共存する存在として登場する。もちろん、最終的には物語の主人公の世界観や社会の一般常識によって異質性が評価され、統合されてしまう限界はあるが、怪物を怪物として、幽霊を幽霊として認識し、受け入れようとする試みが見られるのが日本の大衆文化の特徴だと思われる。   八百万の神を祀っていることは、一方で八百万以上の犠牲になった他者(即ち幽霊や妖怪や怪物のような異質のもの)が存在していると考えることもできるかもしれない。その分、他者を徹底的に排除してきたとも言えるが、同時に幽霊や怪物は、すでに消えた他者を記憶して哀悼する方法でもある。実際に私たちの社会は他者の犠牲によって存立しているが、すでに忘れ去られて幽霊や怪物にもならなかった無数の犠牲者がいたことも忘れてはいけない。他者を少しでも多く、より長い間覚えて悼もうとするために、八百万にも達する神を祀っているのかもしれない。このように考えて、私は日本文化に他者とのコミュニケーションの取り方の可能性を見るのである。   しかしながら、現代の日本社会は、本来日本文化の中に存在しているはずの「異質なものをそのまま受け入れる」力が失われてしまっているのではないだろうか。現代の日本社会は、他者に関する想像力が非常に低いようにみえる。この問題は、自分自身も鬼の姿をしている他者でもあるということを認めようとしていないためではないだろうか。「おもてなし」に代表される他人への配慮は、むしろ他者に向かって自分のことを隠して他者の視線から避ける行為のように見える。他人のことを先に考え自分のことを譲るのも、他者に対する配慮ではなく、他者との衝突を避ける卑怯な行為のようにも見える。日本人は他者を認めようと努力はしているが、自分自身が異質の存在として他者の位置に置かれることは恐れているようだ。しかし、自分もまた他者として、他者の生を規定し、規定されるのは、あまりにも当然のことで、避けることは絶対に不可能なのである。   ということで、他者の怖い目つきに堪えなければいけない。恐怖そのものであるけれども、私たちは他者という異質の存在に直面しなければならない。これがエマニュエル・レヴィナスの話した他者に向かう無限の責任であり、他者に対する倫理ではないだろうか。『リング』の貞子がテレビの画面を突き抜けて私たちの前に顕現することをちゃんと見つめ、『ステキな金縛り』の武士の幽霊と一緒に過去の真実を裁判所で証言しなければならない。他者との出会いで葛藤は避けられないが、重要なことは、葛藤と向き合うことによって他者に一歩近づくことができるということであり、それはまた、他者の金縛りになった我らを自ら解放させることなのである。   ------------------------------ <蔡炅勳(チェ・キョンフン)Che Kyounghun> 韓国外国語大学校卒業、東国大学校大学院文学修士号取得。映画評論家として活動。2010年来日。現在、東京芸術大学大学院映像研究科博士後期課程映像メディア学博士号候補者。実験映画監督として作品活動。研究テーマは、他者性を基にして記憶と空間の問題を扱い、在日韓国・朝鮮人の映画的な表象と映画の中の風景との関係を研究している。論文のタイトルは、『風景として現われた在日朝鮮人-映画的な記憶と在日朝鮮人の表象』。 ------------------------------   2015年6月25日配信  
  • 2015.06.18

    エッセイ462:胡 艶紅「『迷信』をめぐって」

    2006年に来日してから、あっという間に8年が経ちました。日本に留学した感想については、様々な面から述べることができますが、私は日本で民俗学を専攻しましたので、民俗学を勉強してからの自分自身の変化や感想を述べたいと思います。   日本に来て民俗学を選んだ時には、衣食住などの習俗に関する面白いことを研究する学問としか考えていませんでした。ところが、研究生として筑波大学で民俗学専門のゼミに参加してみると、ゼミでよく議論されていたのは、衣食住などの習俗ではなく、人々の日常生活に関わる民間信仰でした。しかし、中国で無神論の教育を受けてきた私にとって、ゼミで聞いた信仰の話は体系的な宗教ではなく、中国で「迷信」と呼ばれるものでした。   日本に来る前までは「迷信」に対して強い抵抗がありました。私が大学一年生の時、祖母が癌に罹りました。病院で治療しても治らなかったので、祖母は大金を惜しまず、儀式を行って病気を治療する民間の宗教職能者に頼もうとしました。当時、無神論の教育を受けていた私はそれに大反対しました。お金を無駄にするということが理由の一つでしたが、自分の家族がこうした「迷信」的な行為をすることをとても恥ずかしく思ったということもありました。結局、宗教職能者が招かれ、儀式が行われました。その日、本来ならベッドで横になっていた祖母を看護すべきだったのですが、私は祖母に対して不満の言葉を吐いて、家を出てしまいました。そのため、祖母の心を傷つけてしまいました。間もなく、祖母の病気は重くなり、そして亡くなりました。   そのようなことから、こうした「迷信」が日本民俗学で議論され、研究されるほどの価値が一体どこにあるのか、当時は疑問を持ち、自分が選んだ道に対して戸惑いも覚ました。しかし、柳田國男が唱える民俗学の目的の一つに、人々の心意現象を明らかにすることがあるのを知り、約2年にわたる民俗学の勉強を経て、私は民俗学に対する理解を深め、こうした「迷信」を研究する価値も徐々に理解していきました。つまり、「迷信」の背後には、人々の考えや思いが潜んでおり、そこから地域の深層文化を読み取れるということです。これは文化研究に対して大きな意義を持っています。文化の差異の最も根底にあるのは、人々の考えや思いです。こうした認識を持つことにより、私の修士論文のテーマも飲食文化から水神信仰に変りました。   日本で「迷信」について勉強して、日本人や日本文化に対する理解が深まりました。同時に、こうした「迷信」に関する研究にも興味を持つようになりました。一方、中国における「迷信」をめぐる事情についても考え始めました。すると、もう一つの疑問が浮かび上がりました。それは、私の周りにも私の家族にも「迷信」への関わりが頻繁に見られるにも拘らず、なぜ私は、以前はそれに対して強い抵抗があり、全く関心を持つことがなかったのだろうか。なぜこうした有意義な研究が中国であまり行われていないのだろうか。私は、こうした疑問を持って博士課程に進学し、「迷信」による行動を盛んにとっている中国の漁民を研究対象として選びました。   研究の過程で、私は「迷信」的な行動を盛んにとる中国の漁民の考え方を次第に理解できるようになりました。なぜ私が当初「迷信」に対して強い抵抗があったのかもよくわかるようになってきました。そして、臨終の祖母の心を理解できず、不満の言葉を吐いた当時の私を思い出して、後悔の気持ちでいっぱいになりました。   日本での留学を通して、様々な収穫がありましたが、最も大きな収穫は、むしろこうした日本人・日本文化を理解することによって、自分自身、自国の制度や文化を見直せたことだと考えています。   -------------------------------------------------- <胡 艶紅(こ・えんこう)Hu Yanhong> 2006年来日。2010年3月筑波大学人文社会科学研究科 国際地域専攻修士課程修了。同年4月同研究科 歴史・人類学専攻一貫制博士課程編入、2015年7月同課程修了見込み。専門は、東アジア歴史民俗学。主要論文「現代中国における漁民信仰の変容」(『現代民俗学』4)。 --------------------------------------------------   2015年6月18日配信
  • 2015.06.12

    エッセイ461:金 兌希「日韓関係の変化について」

    2012年8月、イ・ミョンバク前大統領の竹島訪問があった一週間を私はとてもよく憶えています。この時期、三つの出来事がありました。イ・ミョンバク前大統領の竹島訪問と天皇への謝罪要求発言、そしてロンドンオリンピックにおける男子サッカーの日韓戦で韓国の選手が「竹島は韓国の領土である」と記載されたプラカードを掲げた事件です。そしてこの時を境に、韓国に対する日本の報道、そして世論が大きく変わったと感じました。その変わりようがあまりにも早くて、非常に驚いたのを今でもよく憶えています。その後、日韓関係は急速に冷え込み、今日に至っています。   よく、イ・ミョンバク前大統領の竹島訪問などの一連の出来事がなかったら、日韓関係は今のようにはならなかったのではと尋ねられることがありますが、私の考えは違います。私は日韓が今日抱えている問題の根本的な原因はずっと前から存在していたもので、イ・ミョンバク前大統領の竹島訪問は一つの契機に過ぎなかったと思っています。また、それぞれの国に対する世論において、より大きく変化したのは韓国ではなく、日本であるように思います。   なぜならば、韓国の世論が歴史問題で日本政府に対して批判的な態度をとってきたのは、大韓民国の建国以来続いてきたことであり、近年に始まったことではありません。ただ、日本で韓流ブームが始まる前は、日本における韓国のプレゼンスはそれほど大きくなく、韓国内の情報もそれほど日本のメディアに流れることはありませんでした。1990年代まで、韓国はNIES諸国と呼ばれ、IMF経済危機まで経験し、経済的にも影響力が弱かったのです。   しかし、2000年代に入って、韓流ブーム、サムソンなどの企業の国際的台頭、インターネットメディアの発達により状況は変わりました。経済レベルでも、民間レベルでも、韓国に対する関心は大きく高まり、同時に韓国に対する情報量も一挙に増えました。経済的・文化的交流が大幅に増え、韓国のプレゼンスが日本国内で高まった時期だったように思います。   その結果、韓国世論がどれほど歴史問題について対立的な態度をとっているか、改めて多くの人が知ることになりました。日本は既に「戦後70年」ですが、韓国では戦前の植民地時代の問題が解決していないと認識している割合が高いように思います。このような両国内の歴史問題に対する「時差」は、日韓両国の関係が深まるにつれ、いずれは衝突を起こす潜在的な要因だったのです。   両国の対韓・対日感情を改善するためには、色々な方策が考えられます。例えば政府レベルでの外交関係を改善する、経済レベルでの協力を緊密にする、民間レベルの交流を増やすなどがあります。しかし、それらは必ずしも世論を改善することにはつながりません。根本的な改善のためには、互いの交流以前に両国内で歴史問題や両国関係に関する成熟した議論が必要ではないかと思います。   韓国では、日韓問題について、国内の議論が成熟していない部分があります。特に歴史問題は非常にデリケートで、多様な議論が充分満足に行われているとは言い難いのではないかと思います。そのため、どうすれば歴史問題を終結させ日韓関係を改善することができるのか、という議論も明確にまとまっていないように思います。例えば、日本に対する要求に関しても(謝罪など)、具体的な中身については韓国国内ですら意見の食い違いがみられます。まず韓国では、日韓問題について多様な議論を自由に行える土台を作る必要があります。また歴史問題の解決を日本の出方に任せるのではなく、どうすれば歴史問題を終結させることができるのか、韓国は自らが主体となって冷静に議論し答えを出していく努力が必要です。   一方で、日本は、韓国が歴史問題をどのように認識しているのか、どのような「時差」が日韓の間に生じているのか、理解する必要があるのではないかと思います。また、今日の日本では、憲法改正の可能性も高まっており、安全保障の問題において歴史的な変化の時期を迎えようとしています。同時に、歴史に対する見方、外交政策の方針などにおいても変化の時期に入っているように思います。これらが今後の国の在り方を決めるにあたって、基礎となる非常に重要な問題であることは言うまでもないことです。これらの議論を政治レベルに一任するのではなく、市民レベルにおいても十分な議論を行う必要があるのではないかと思います。また、韓国との関係が悪化したことで、嫌韓デモや在日韓国人に対するヘイトスピーチなどが行われることがありました。これは、日韓の外交問題が契機となって表面化したことかも知れませんが、あくまで日本国内の問題です。国籍や人種をもとにした差別や暴力は、韓国に対してだけでなく、他のマイノリティーにも今後広がる可能性は十分にあります。国際化の推進や、海外からの労働力導入を検討している今、多様化した社会で起こりうる差別とどう向き合っていくか、考えていく必要があるのではないかと思います。   *対韓国意識の変化については、内閣府世論調査などをご参照ください。   英語版エッセイはこちら   ---------------------------------------- 金 兌希(きむ・てひ)Kim Taehee 慶應義塾大学法学研究科助教。延世大学政治外交学科卒、慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程修了、同大学院博士課程単位取得退学(2015 年)。現在博士論文の提出を準備中。専門は、投票行動、政治参加、市民意識の国際比較など。 -----------------------------------------   2015年6月12日配信
  • 2015.05.21

    エッセイ460:タマヨ・ルイス エフライン・エドアルド「フットプリントと私達の責任」

    フットプリント(「あしあと」、狭義には環境負荷、広義には影響を与える範囲)という言葉は、しばしば、環境、特に産業や交通などから排出される温室効果ガスに使われます。私はこのフットプリントという言葉を、もう少し広い意味でとらえ、それに伴う責任について考えてみたいと思います。毎日の生活のフットプリントとは、一日の活動を通した人や環境とのかかわり合いのすべてを合わせたものです。言い換えれば、私達が生きていく上で必要としたもの、及び排出したもの全ての合算です。例えばエネルギー消費をインプット、その生産時に排出された二酸化炭素をアウトプット、消費する食糧をインプット、その食糧生産に伴う環境負荷をアウトプット、消費するものをインプット、それに必要な素材とエネルギーをアウトプット、さらには、学ぶことをインプット、活動することをアウトプット、などです。   各人のフットプリントの全体にはプラスとマイナス両面の効果があり、結果として環境や社会を改善したり、負荷をかけたりします。ですから、私達はフットプリントに対する責任を持つべきなのです。フットプリントを意識し、私達の決断がいかなる効果をもたらすかを知ることによって、フットプリントを管理することが出来ます。誰もが自分自身のフットプリントの全体と、それに対する責任について考え、それを管理する方法について教育を受ける必要があると思います。   世界の人口は、過去300年で約10倍となり、2013年には70億人に達し、2050年には90億人になるといわれています。人口の増加に伴い産業活動も増加し、資源の消費とともに廃棄物の発生も増えています。もし70億人が、現在の世界人口の10%に満たない先進国と同じように資源を消費し、廃棄物を発生させたならば、地球は持ちこたえることはできません。しかし、残り90%の国々は発展するに従い、先進国と同じような道をたどっているのです。   私は、地球の天然資源や海の生き物を涸渇させないために、又、持続可能性を脅かすようなあらゆる種類の廃棄物の発生を減らすために、先進国、発展途上国、いずれの国々においても、絶対に必要な、最小限の資源のみを使って生活し、マイナス面のフットプリントを減らすことを提案します。このためには、「あなたが何かをする前に、地球上の他の70億人があなたと同じことをしたらどうなるか考えてみましょう」という、簡単な習慣付けが役立つと思います。これは一つの行為の70億倍の効果を考えることです。例えば、リサイクルをしないで無意識にゴミを捨てる前に、環境を配慮せずに生産された安価なものを無意識に買う前に、歩かずに自動車を使う前に、電気をつける前に、などです。   人口が多いことが、全体として人類を存続の危機に陥れかねないほどのマイナス効果を増大させるのと同じ理由で、もし私達全員が自分自身のマイナス効果のフットプリントを減らすことができれば、それは劇的にプラス効果へ変化させることができます。キーポイントはいかに人々をそこに気付かせ、行動に導いていくかです。   人々はモノを「買うことが出来る」と思うと、資源やモノを「消費しても良い」、すなわち「買うことが出来る」イコール「消費しても良い」と錯覚しています。しかし問題は、ほぼすべての生産物、あるいは抽出された資源には、表に現れないコストがあるということです。これらのコストは資源や物質の生産にかかわるコストの一部ですが、値段には反映されていません。典型的な例が児童労働や労働搾取などの社会コスト、あらゆる種類の汚染や(森林の)濫伐などの環境コストです。これらのコストが価格に含まれれば、価格は間違いなく上がるはずです。私たちの日常生活において、資源を大切に意識して使うことが、消費の決定要因であるべきなのです。ある商品を購入することは、それを生産する産業をサポートし、生産を続けてほしいというメッセージではありますが、同時に、責任ある消費は、社会と環境を意識した産業のみを促進させる原動力となります。重要なのは誰もがこのことに自らコミットしていくかどうかであり、そこが分岐点となります。すべての人が同じ意識をもって行動すれば良い結果につながるでしょう。   私自身は、日常生活で消費を減らす、CO2の発生を減らす、地元の食品を買うなど環境負荷のマイナス面を減らしていますが、さらにその効果をあげるために不要なことは止めるということは非常に極端になる場合もあり、限界があることがわかりました。どんなライフスタイルにも最小限のマイナス面の環境負荷があります。生きるために必要な最小限まで環境負荷を削減するということであれば、私ももっと減らすことが出来るでしょうが、自分にとって大切なこと、好きなことを削減することは出来ません。誰もが見つけるべき大切なポイントは、自分の好むライフスタイルと、環境負荷のマイナス面を最小限にするベストバランスを見つけ出すことなのです。   人間の行為は相互依存の関係にあることと、資源は有限であることを無視してしまうのが、利己主義の問題点です。自分本位の行動が、無意識のうちにマイナス面のフットプリントを発生させ、富や収入の分配の不均衡をもたらします。私たちは、自分の社会的な価値観に従って行動していますから、価値観をさらに高めることが、変化への最も力強い推進力になるというのが、私がたとり着いた結論です。消費を増大させたり多くのモノを買い集めたりするのではなく、自己のフットプリント(影響を与える範囲)のマイナス面を減らし、不公平を是正する努力を促すような新しい社会的な価値観が求められているのです。   資源のインプットと私達の行為による廃棄物のアウトプットは、計算しやすく理解しやすいと思います。大規模な人口増加のインプット/アウトプット問題が、環境面、持続可能性に悪い影響を及ぼしており、それらに対して私達が何か行動しなければならないことは明らかです。私達のライフスタイルに合ったベストバランスを探し、マイナス面のフットプリントを減らす、あるいは最小限にする新しい価値観を創りましょう、というのが本論のもうひとつの提案です。   私達の行為の結果としてのフットプリントは、それが有形か無形か、積極的か消極的かにかかわらず、いずれにせよ人類の進歩や持続可能性に影響します。行動する、しないにかかわらず、フットプリントに対する自分たちの責任に気付き、それに対して日々の生活のなかで何が出来るかを探し求めることが大切なのです。   ------------------------------- <タマヨ・ルイス エフライン・エドアルド Tamayo Ruiz Efrain Eduardo> 2010年フランストロワ工科大学材料工学部卒業。2010年トロワ工科大学大学院光学ナノ工学修士課程修了。2008年(1年間)東北大学交換留学生。2010年(半年間)(株)東芝の研究開発センターでインターンシップ。2014年東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了。現在、(株)日立製作所研究開発グループ社員。 -------------------------------   2015年5月21日配信
  • 2015.05.14

    エッセイ459:柳 忠熙「差異への想像力とこれからの日韓関係―大学での初講義体験の回想から」

    昨年、大学で日韓関係の歴史についてはじめて教える機会を頂いた。朝鮮・韓国の歴史に重点を置いた授業で、時期的には朝鮮末期から植民地期まで、つまり19世紀半ばから20世紀半ばにかけての日韓の近代史であった。この時期は日韓両国が西欧列強の影響によって開国や開化をせざるを得ない転換期だった。と同時に、東アジアにおける「近代」が始まった時期でもあった。日韓の近代が「帝国/植民地」に基づいた帝国主義の時代を経て形成されたことは、今まで外交や教育など諸分野に亘って往々に日韓両国のナショナリズムを刺激する要因となってきた。このような過去の歴史について日本の大学生は何を知っていて、そしてどのように考えているのか、こうした問いが授業を担当するようになって、まず頭に浮かんだ疑問であった。   授業に際して、いつも最初に、なぜこの授業を受けるようになったのか、ということを学生たちに尋ねた。予想どおり、大半の学生たちは、韓流ブームや韓国の観光経験などが理由で、もっと韓国を知りたいという答えであった。その中には、韓国の大学に交換留学生として行ってきた学生がいて、現在の韓国の生々しい大学生活について聞くこともできた。   一方、これらとはかなり異なる観点で授業を受けた学生が一人いた。その学生は、「現在の日本における外国人に対するヘイトスピーチの現象に関心があって参加した」と言ったのである。その学生によれば、ヘイトスピーチをする人々の論理には理解できない側面があって、自分で朝鮮の近代史を知りたいという理由であった。   もう一人、韓国人の交換留学生がいた。私は毎回の授業で感想文や疑問を書いてもらうようにしていたが、その学生は、そこにいつも高校時代の「国史(韓国史)」授業の内容を思い出し、そしてたまに私の説明がすこし不満だというニュアンスの感想を書き残した。その学生は東アジアの近代史に関するほかの外国人留学生向けの講義を聴いていたようで、ある日、その授業での朝鮮の近代史についての説明が不十分でほかの留学生たちに誤解を与えるかもしれないと、私に訴えてきた。その学生の気持ちは理解できないわけではなかったが、何がその学生をそこまで熱くさせたのか気になった。そのときはその学生に最初の授業で強調した「歴史像」の問題を喚起させることで、その〈もやもや感>を治めようとした。   「歴史像」という概念は、日本史の成田龍一氏の著書から引いたものである。成田氏は、「歴史とは、ある解釈に基づいて出来事を選択し、さらにその出来事を意味づけて説明し、さらに叙述するものということになります。本書ではこれを『歴史像』と呼んでいきます」(成田龍一『近現代日本史と歴史学――書き替えられてきた過去』(中央新書、2012年)、ⅱ頁)と述べる。この「歴史像」についての説明は、歴史学を勉強する人にとっては当たり前のことであるかもしれないが(断っておくが、私は歴史学専攻ではなく、その隣接分野の文学や思想を主に研究する者である)、一般の人々、つまり歴史を学ぶことは歴史的事実を勉強する、あるいは覚えることだと考えている人々には、今までとは異なる観点を提示してくれる概念である。とくに大学生たちの柔軟な思考のためには有効だと思う。歴史に向き合うとき、ある事実を選択する行為自体が自分自身のある観点に基づいているという〈自覚〉が必要であり、ひいてはその事実で他人を説得することができる妥当性をもつことが必要であるという考えが、「歴史像」という概念の前提とされている。   こうした物事に対する思考には、そもそも世の中には、ある同じ出来事に対して、さまざまな異なる観点と解釈が存在するという、異なる観点への寛容性がある。それは差異への想像力によって可能となる。この差異への想像力は、単なる空虚な状況で生まれるものではない。ある出来事についての具体的な知識によって可能となるのだ。この知識によって自分なりの観点での発想ができ、説得力が保たれるようになる。こうした「歴史像」への思考から生まれる想像力を学生にすこしでも理解してもらい、彼らが関わっている歴史と社会を自分なりの観点をもって理解しようとする態度に気付かせること、それが私の授業の究極的な目的である。そしてこれからの私の課題でもある。   あの韓国人学生は、私の原論的な説明では納得がいかない様子だった。私がその学生に納得のいく史料などを取り上げて具体的に説明することができたとすれば、学生は納得した顔を見せたかもしれない。だが、そうした方法は知識の量と洗練された話法による説得だとは言え、こうした具体的な知識のみでの説明では、究極的なレベルにおいて互いを受け入れることはできない。いや、そもそも人と人が理解し合うということ自体が無理なのかもしれない。誤解や異なる考えの摩擦のなかで、<相手を理解しようとする態度やその試み>が存在するのみだと私は思う。その韓国人留学生のもやもやしているように見えた態度も、もしかすると、こうした理解と試みのある段階にあったものだったかもしれない。   前期・後期ともに、授業の最初と最後の感想が結構異なっていた。最初は歴史的事実を質問したり、授業の内容を要約して書いたりしたものばかり。しかし、最後のあたりになると、ある資料から自分の意見を述べるようになっていた。例えば、植民地支配による残酷さを語る学生もいた一方、植民地朝鮮における経済発展を統計資料に基づいて述べる学生もいた。その歴史的な判断はともあれ、何か資料を以て自分の観点を述べるようになったという点では嬉しいかぎりである。   今年で日本は敗戦、韓国は解放70周年を迎える。と同時に、日韓修交正常化50周年でもある。この半世紀の間、日韓の学者たちの交流を通じて相互の理解が深まったのは確かである。一方、一般レベルでのナショナリズムの雰囲気は依然として強く存在する。日韓両国の学生たちが自分の「歴史像」を持って、異なるさまざまな「歴史像」を理解できる態度や想像力を持つことになれば、これから50、70年後にはすこし異なる社会的雰囲気になるかもしれない。つまり、日韓関係ひいては東アジア諸国の問題に対して、現在の思考の単一化を図るナショナリズム的な観点よりも、少しは余裕を持って異なる観点を受け入れる雰囲気が形成されるかもしれないのだ。   英語版はこちら   ------------------------------------- <柳 忠熙(リュウ・チュンヒ)Ryu Chunghee> 東京大学東洋文化研究所特任研究員。成均館大学卒、同大学大学院修士課程修了。2008年に来日、東京大学大学院総合文化研究科超域文科科学専攻(比較文学比較文化コース)博士課程単位取得満期退学。武蔵大学非常勤講師。東アジアの近代と知識人の問題について研究中(比較文学・比較思想)。論文:「近代東アジアの辞書学と朝鮮知識人の英語リテラシー」(『超域文化科学紀要』第18号、2013年11月)、「漢詩文で〈再現〉された西洋」(『朝鮮学報』第232輯、2014年7月)、「開化期朝鮮の民会活動と「議会通用規則」」(『東方学志』第167輯、延世大学校国学研究院、2014年9月、韓国語)。訳書:齋藤希史『近代語の誕生と漢文――漢文脈と近代日本』(黄鎬德・林相錫・柳忠熙共訳、現実文化、2010年、韓国語)。 -------------------------------------   2015年5月14日配信
  • 2015.04.30

    エッセイ458:李 婷「知らないおじいさんからもらったガム」

    主人と娘が東京に会いに来た時の話である。   ある日、家族3人で電車に乗って、東京の郊外へ遊びに行くことにした。もともとすいている路線の各駅停車だからか、平日の昼だからか、電車はガラガラだった。乗客はみんなうまい具合に他人とスペースを残して、ゆったりと座席にすわっていた。郊外へ行けば行くほど、車窓から広がる景色が綺麗になり、それを楽しみながら親子の会話を楽しんで、すっかり観光気分になっていた。   どこからか、80代くらいのおじいさんがやってきて、ポケットから何かを取り出しながら、「何もないけど、どうぞ」と言って、目の前に差し出してくれた。私は反射的に「あっ、ありがとうございます」と言って、軽くお辞儀をしながら、目の前に渡された何かを両手で受け取った。受け取った後になって、自分でも不思議に思った。包装紙もきちんとしており、LOTTEの字もはっきりしていて、すぐガムだと確認でき、無意識に主人に一つ渡した。すると、おじいさんは空いている席がいくらでもある電車の中で、なぜか私のすぐ隣に座り込んでしまった。   日本語の分からない主人から、中国語で、小声で「知り合い?」と聞かれ、私は「知らない」と答えた。また、驚きを抑え「口に入れるなよ」と更なる小声で言われ、「大丈夫」と答えた後、手本を見せるかのようにガムを口に入れた。集中力を全部口の中に凝らしてみると、何も変な味はしなかった。驚きと疑いを隠して、冷静を装いながらも、なんでガムをくれるんだろう、と心の中は無数のハテナが舞い上がっていた。文字にすると、やや長めに感じるが、実際は本当に一瞬の出来事だった。   「どちらへ?」と隣に座ったおじいさんが再び口を開き、気まずい沈黙を破った。最初は警戒心が捨てられず、聞かれたら答え、相槌は打つが自ら話題を出さない聞き手に徹していたが、いつの間にか会話が弾んでいることに気づいた。私達が中国から来たのだと聞いて、おじいさんは中国語の「ニーハオ」で主人と娘に挨拶したり、娘は中国から持ってきたおやつを自分のリュックから取り出して、おじいさんにあげたりもした。おじいさんが降りる駅に到着したので、「じゃあ、日本を楽しんでください」との言葉を残して電車を降り、ホームで手を振ってくれた。   ガムをもらってよかったなあと、まだ喜んでいる中、「ママ、知らない人と話すなって言ったじゃん。人様のものまで食べちゃって。」と娘に指摘され、答えに詰まった。   本来、飴や果物などを誰かに渡すのは、好意を示すサインであり、話したい意思表示であり、交流のきっかけを作る極めて一般的なコミュニケーション行為である。しかし、こうした行為は、現代社会において、たとえ好意であっても不審に思われがちで、時には人に迷惑をかけ、人を困らせる行為にもなってしまう。都市化が進むにつれて人口密度が上昇し、人と人の物理的距離が限りなく近くなってきているにもかかわらず、人と人の心理的距離が限りなく遠くなってきて、心の砂漠化とも言われている。人々は他人の世界には入ろうとせず、自分の世界にも入ってこられないように、目に見えない厚い壁を作って、黙々と自分のことをこなそうとしている。さらに、詐欺や誘拐などに脅かされて、人間不信が蔓延するのも当然のことのようになっている。知らない人と話してはいけない、知らない人から物をもらってはいけない、知っている人の話も信じてはいけないなど、家族や自分自身を守るための信条となってしまい、次世帯へ押し付け、引き継がせていこうとする。   もっともこれは、毒りんごを食べた白雪姫の童話でわかるように、どうも現代社会だけの問題でもなさそうだ。険しい世の中というのは、いつの時代だって、どこの国だって、変わりはしないものかもしれない。とはいえ、いつまでも神経を尖らせ、心を閉じたまま人と接し、びくびくしながら毎日を送る必要もない。たまには、自分の心を開いてみたり、人の心の扉を叩いてみたりして、他人との関わりの中で、人生を楽しもう。   知らないおじいさんからガムを渡され、そしてそれを素直にもらったことがきっかけで、楽しい会話ができたのは、私にとって初めての経験であり、今後2度も3度もあるとは考えにくい。なぜ私達のところにやってきたのか、なぜガムを渡してくれたのか、そして、なぜ迷いもせずにそのガムをもらって口に入れたのかなど、謎は未だに解けないままである。   謎は謎のままでいい。心の温まる思い出を作ってくれた名前も知らないおじいさんに、そして、その好意を素直に受け止めたその時の自分にも、感謝したいと思う。   ------------------------------------- <李 婷(り・てい)Li Ting> 早稲田大学大学院日本語教育研究科博士後期課程在籍。中国の曲阜師範大学で日本語教員として4年間教鞭をとり、2009年キャリアアップのため来日。 -------------------------------------   2015年4月30日配信
  • 2015.04.23

    エッセイ457:ボルジギン・フスレ「モスクワ、カザンへの旅(その2)」

    モスクワ滞在中の9月16日午前、在ロシア日本大使館を表敬訪問した。今回の調査にあたって、井出敬二駐クロアチア日本大使、倉井高志駐ロシア日本公使にはたいへんお世話になった。2011年の調査の時にも、当時駐ロシア日本公使だった井出氏ご夫妻がいろいろと手配して下さった。ここに記して、感謝を申し上げたい。   16日の午後は、ロシア国立人文大学哲学部准教授のウズマノヴァ・ラリサさんにご案内いただき、ロシア国立軍事史文書館で資料を調査した。事前に連絡しておいたこともあり、また複数の紹介状もあったおかげか、意外にも質問もなく、閲覧証はすぐ発行された。これと比べると、国立ロシア連邦文書館、ロシア国立社会政治史文書館での調査はたいへんだった。ロシア国立社会政治史文書館のある男性の職員は毎日、机をたたいたり、叫んだりして怒っていた。よほどストレスがたまっていたのか、われわれ調査にきた者に対してだけではなく、文書館のほかの職員に対しても毎日怒っていた。しかし、相手がいくら怒っても、私は毎日、あきらめず、しつこく、調査しつづけた。実は、3年前の同文書館での調査でも、この職員に怒られていた。また、ある日、ロシア国立社会政治史文書館の職員と話が通じなかった時、そこで資料調査をしていた東京外国語大学図書館長の栗原浩英氏が助けて下さった。このように、今回の調査では多くの方々からご協力いただいた。   後日、K先生に言われた。「文書館の職員、いいや、それだけじゃない。おそらく文書館を利用しているすべての人は、フスレのことを知っているだろう。ロシア語はあまりできないくせに、毎日朝一番早くやって来て、閉館まで、一生懸命、ロシア語の資料を調べている。そして、一番貴重な資料を手に入れた。本当に不思議だ」。実は、調査の途中から、K先生は体調不良で、文書館に行けなくなった。その間に、私は重要な史料をみつけて、文書館の許す範囲で、500ページほどコピーした。   K先生はいつも早寝早起きで、モスクワについてからも(世界のどこに行っても同じだと思うが)、同じであった。ある夜、私は遅くまで調査した資料のメモなどを整理してから布団に入った。その時、隣の部屋で寝ているK先生が恐ろしい大声で叫んでいるのが聞こえた。慌てて起きて、K先生の部屋に入った。K先生は部屋の鍵もかけずに寝ていたようである。私が部屋に入ったところ、K先生はすでに起きて、ベッドに座っていた。「どうしたんですか」と聞いたら、「悪い夢をみた」と。「どんな夢だったんですか」と聞いたら、「知らない3人の女がやってきて、怖かった」と答えた。「本当に来たんですか」と冗談で聞いた。「来るわけはないでしょう。まあ。怖かった」と。その後、K先生に少しワインを飲ませて、寝かせた。私は自分の部屋に戻って寝ようとしたが、今度は、自分がなかなか眠れなくなった。仕方がなく、起きあがって、我慢できず、K先生の友人にメールを送って、先生の悪い夢の話をした。先生の友人からきたのは、「女難の夢を見たんですね。おかしいですね。まったくK先生らしくないね」という返事だった。   9月19日の夕方、日本センター長の浜野道博氏が、私たちのホテルを訪れ、食事に招待してくださった。浜野氏はロシア語が堪能で、豊かな知識をもって、国際関係やロシア文化、そして日本の対ロ政策などについて、K先生と話し合った。2人の間では、意気投合のところもあれば、はげしく論争したところもあった。   その日の夜、私とK先生は夜行列車でタタルスタン共和国の首都カザンに行った。カザンはかつて東西貿易の中継地点であって、今はイスラム文化とロシア文化を中心として、多文化が共存する街である。一等車だったので、ビールは無料で提供されたが、お茶とコーヒーは有料であった。中年の女性の乗務員は熱心で、お茶とコーヒーを飲んでいる私たちに、「どうですか?美味しいですか?」と聞き、「美味しいよ」と返事したら、「それはもちろんよ。私が心をこめて作ったのだから」とにこにこしながら、満足そうに言った。   カザンに着いたら、荷物をホテルにあずけて、すぐにカザン連邦大学(カザン大学)を訪問した。カザン連邦大学は歴史と伝統を誇る名門大学で、レーニンやトルストイ、ロバチェフスキー等は同大学の出身であり、モンゴル研究の発生地の一つでもある。昼には、私たちは同大学の国際関係・歴史・東洋学部の教員と会談し、午後には日本語コースの学生に会って話し合った。夕方はタタルスタン科学アカデミー歴史研究所を訪問した。   翌日、歴史研究所長が私たちにカザンの歴史や宗教、文化などについて話してくれたうえに、街の案内もしてくれた。カザン連邦大学国際関係・歴史・東洋学部の女子学生ポリーナさんとディーナさんも同行した。2人の日本語のレベルは非常に高い。私たちはモンゴル帝国のジョチ・ウルス時代から、カザン・ハーン国、日本人抑留、今日の交流までについて話しがつきなかった。K先生の話は、最初は学問的であったが、途中から下ネタを連発し始めた。その行動と話に驚いた学生の一人が私に「K先生は本当に日本人ですか」とひそかに聞いたほどであった。「正真正銘の日本人だよ」と答えた。   カザンからモスクワに戻って、パヴェレツカヤ駅とトレチャコフスカヤ駅の間に位置する、昨年オープンしたばかりのホテルに泊まった。さすがに新築のホテルで設備がよい。また、ロシア国立軍事文書館に地下鉄で1本で行けるし、ロシア国立社会政治史文書館に行くのもわずか2駅であり、調査には非常に便利で助かった。   日本に戻る前日の夜、浜野氏が私たちに東洋エンジニアリング社モスクワ事務所長の宮崎哲二氏と菅原アソシエーツ社代表の菅原信夫氏を紹介してくれた。宮崎氏は埼玉大学の出身で、菅原氏は東京外国語大学ロシア語科の出身である。宮崎氏等はK先生と私、ラリサさんを食事に招待してくれたが、宴会開始直前に、昭和女子大学のもう一人の教員とモンゴル科学アカデミー歴史研究所長がサンクトベテルブルクから駆け込んできた。みんなで食事をしながら、日露関係やウクライナ危機等について話し合った。   特別な国際関係・社会状況の中、日本はロシアに対して独自な政策をとるべきだと、私は考えている。ロシアは、日本がかつて深い関心をもった地域であった。しかし、戦後、北方領土問題があるものの、日本人のロシアに対する関心が次第に薄れてきたことを、残念に思う。NHKにロシア語を教えるテレビ番組がある。放送時間は木曜日の深夜1時からの25分程度で、再放送は金曜日早朝の5時半からの25分間である。こんな時間にロシア語を勉強するのは、どんな人たちなのかを知りたい。   ウクライナ危機をきっかけに、日露関係は冷やかになったが、こういう時だからこそ、日本がイニシアティブをとって、両国の関係を打開すべきではないかと思う。   エッセイ456:ボルジギン・フスレ「モスクワ、カザンへの旅(その1)」   ----------------------------------------- <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。 -----------------------------------------   2015年4月23日配信
  • 2015.04.16

    エッセイ456:ボルジギン・フスレ「モスクワ、カザンへの旅(その1)」

    2014年9月14日から26日までK先生と一緒にモスクワとカザンに行った。今回は、主に資料調査であったため、出発4ヶ月前に、ロシアに行く度に利用してきた旅行社のH社長に、交通が便利で、文書館に近いホテルの手配などをお願いした。H社長は、私が送った文書館のリストをみて、1ヶ月かけて調整し、モスクワとカザンのホテルを手配してくれた。   最初に泊まったホテルはモスクワの地下鉄クロポトキンスカヤ駅とパールク・クリトゥールイ駅の間に位置する。そこは国立ロシア連邦文書館や古文書館に近く、歩いて20分程度の距離だったし、ロシア連邦外交政策文書館にも近く非常に便利だった。ホテルの朝食は豊富で美味しかった。ホテルの近くにはトルストイ博物館やモスクワ博物館、ピョートル大帝記念碑、トレチャコフ美術館などの観光の名所が林立している。また音楽学校もあって、ホテルを出ると、楽器を背負った生徒たちの姿をよく目にした。   モスクワに到着した翌日、国立ロシア連邦文書館と古文書館に行った。帰り道、ある公園をとおった時に、ベンチに座ってひそかにビールを飲んでいるロシア人の青年に出会った。通行人がくると、その青年はすぐビールを新聞の中に隠す。目のいいK先生は遠いところからその青年を見て、「あいつはビールを飲んでいるよ」と言いながら、青年に近づいて声をかけベンチに座った。青年はハバロフスクから観光にきたそうである。K先生は青年にプーチン大統領のことについて尋ねた。青年は「すばらしいじゃないか」と答えた。「新聞の中になにか隠していない?」とK先生は青年に聞いた。青年は少し迷ったが、「よかったらどうぞ」と言いながら、新聞の中に隠していたビールを出した。結局、K先生はその青年と一緒にビールを飲み始めた。   「プーチンがお酒に関するへんな政策を作ったから、あなたはこのようにビールを隠したんだね。ロシアの国民にお酒を飲ませない大統領が悪いんじゃないか」とK先生が言った。青年は、「いいえ」と、プーチン大統領を大いにたたえた。…話が長くなりそうだったで、私は2人から離れて、公園を散策することにした。私が離れて行ってしまうことを心配したのか、しばらくして、K先生が追いかけてきた。   その日の夜、K先生と一緒にアルバ―ト通りに行った。アルバ―ト通りは詩・歌・芸術の街として有名であり、歩行者天国である。また、カフェやレストラン、みやげ物屋も多い。私たちはここで夕食をとった。   私が初めてロシアに行ったのは2011年の春だった。モスクワのクレムリンや赤の広場、サンクトベテルブルクのエルミタージュ美術館や人類学・民族博物館などを見学したほか、バレエやオペラなども鑑賞したが、ロシアは大帝国であることと、「多民族・多文化国家」であるということが印象に残った。今回は、歴史と文化に培われたロシアの時空をあじわった。宿泊したホテルから駅までの間の建築物のほとんどはロシアの歴史文化財になっている。私たちが宿泊したホテルからクロポトキンスカヤ駅、或いはパールク・クリトゥールイ駅までは、本来、歩いていずれも10分程度の距離であるが、K先生と一緒に行くと、1時間もかかってしまう。というのは、毎日、文書館から帰りの道で、K先生は、いつも各建物の壁にかざってある案内版をみながら、その建物の歴史、あるいはその建物とかかわる歴史人物のことをかたりつづけたからである。私にとっては、よい勉強になった。   クロポトキンスカヤ駅周辺にはエンゲルス像やゴーゴリ並木通り、プーシキン博物館、救世主キリスト聖堂などがある。初めてクロポトキンスカヤ駅に行ったとき、エンゲルス像をみたK先生は、「エンゲルス像をここに立たせるのは相応しくない」と不満げに言った。理由を聞いたら、返事はなかった。パールク・クリトゥールイ駅のなかの壁には、ゴーリキー像が刻まれている。それをみたK先生は非常にうれしそうに、「これは面白いんだ」と、ゴーリキーのことをかたりつづけた。   モスクワでのもう一つの発見は、キックスクーターである。本来、キックスクーターは子供たちの玩具だと思ったが、モスクワでは、本物の交通道具として大人たちに使われている。街では、キックスクーターで走っている人の姿をよく目にした。 (つづく)   旅の写真   ----------------------------------- <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。 -----------------------------------   2015年4月16日配信