-
2021.01.21
新型コロナウイルスという世界的大案件を持ち越したまま2021年を迎えてしまった地球。年末年始に「コロナ疲れ」を癒すどころか、日本では特に東京の感染者が急増したことが目立ち、気をつけながらのお正月を過ごした方が多かったことだろう。年末年始の感染者増加に、二度目の緊急事態宣言、コロナ関連においては相変わらず話題に事欠かない。医療従事者は慢性のコロナ疲れであることは間違いない。彼らの精神面はコロナと同様に心配である。最近では、欧州やアメリカで増えつつあるワクチン接種のニュースよりも、日々の感染者数の話が目立つ。
しかし、もし世界に先駆けてコロナワクチンを開発したのが日本の製薬会社だったら、きっともっと話題になっていただろうし、日本人はすでにワクチン接種をしていたかもしれない。なぜこんなことを思ったのかと言うと、昨年12月に米ファイザー製薬が開発したワクチンがロンドンで解禁になり、大きな話題を呼んだ。ドイツの製薬会社もほぼ同時にワクチン開発を発表した。その時私は、日本もすぐに大手製薬会社がワクチンを開発したと発表するのだろうと漠然と思っていた。日本が、米国のワクチンを取り入れるのか、ドイツのワクチンを取り入れるのか、そんなことより、日本は日本ですぐに製品化までするのだろうと思っていた。しかし年が明けてもそのような話は一向に聞かない。
ものづくりの国、技術先進国、おまけに世界に名の知れる大手製薬会社がいくつもある日本、何かがおかしい。どうした日本?そう考えると、最近の日本のプレゼンスが低くなっていることに気がついた。新進気鋭のスタートアップもさほど目立たなければ、世界的に有名な若きカリスマ社長などもいない。(個人的には気になる起業家は何人かいるが)業界問わず、そういうカリスマ的存在というものが、国をも引っ張り、国民の士気も上がるのでは?と思いはじめた。
もちろん日本にも起業し、現在も国際的に活躍する社長はいる。例えばソフトバンク・グループ孫正義、楽天を立ち上げた三木谷浩史など。しかし起業家の国際的知名度がぐっと上がるのは、海外に多い。中国ならアリババを作ったジャック・マー。イギリスならヴァージン・グループのリチャード・ブランソン。アメリカなら故人になってもスティーブ・ジョブスと、彼の遺したアップルは今でも存在感を放つ。同じくアメリカで今、一番目立つ社長といえば、テスラ・モーターズのイーロン・マスクだろう。このテスラで2年近く働いたという元パナソニックの副社長、山田善彦氏は、東洋経済の「テスラvs.トヨタ」特集で日本人にはちょっと耳の痛い指摘をした。「パナソニックに限らず、今の日本の企業はこのテスラのスピード感についていけない。よほどのカリスマ経営者がいるか、創業者が経営に関わっていない限り無理だ」そう、スピード感だ!今の日本に足りないものは。
日本に足りないものについて話す前に、日本の素晴らしいところも伝えておきたい。まずはなにより、マスク・手洗いをちゃんとする国。公共の場所がとても綺麗なところも日本の魅力だ。現に世界に比べたら、日本のコロナ感染者数は騒ぐほど多くはないのではないか。だからなおさら思う。今の日本には全体的にスピード感がないと。コロナで様々なことが停滞するのはわかる。感染者をたくさん出すが、ワクチン開発はものすごいスピードのアメリカとヨーロッパ諸国。中国は徹底した感染対策に加えて、いち早くワクチンを開発した。ここに日本が入れていないのが非常に残念なのだ。
製薬業界に全く詳しくない私が検索で見つけた、日本のワクチン開発が遅れている理由の一つとして「大規模な臨床試験をできない日本の弱点が新型コロナで明らかになった」と日経・FT感染症会議(主催・日本経済新聞社、共催・英フィナンシャル・タイムズ)で医薬品医療機器総合機構理事長の藤原康弘氏が言っている。どうやら制度の問題が大きいようだ。確かに日本の新薬の認証は元来とても慎重で時間がかかるとされている。しかし、コロナは未曾有のパンデミックで、従来どおりの慣習にのっとって開発していたら、間に合わないのは当然だ。コロナに対しては、特例を設け、迅速に優先的に感染者の情報を手に入れたりする方法を見つけたりして、なんとか国内での開発をあきらめたり、スピードを緩めたりはしないでほしい。
日本がポストコロナで輝くために必要なのは、危機管理をしながらの新しいことへの挑戦精神をあきらめないことだろうか。最後に、元駐中国大使、元伊藤忠商事株式会社会長を務めた丹羽宇一郎氏の著書からの言葉を引用したいと思う。「いままでの日本ではあり得なかったことが、これからは当たり前のように起こります。だからこそ、何歳になっても努力を怠ってはいけないのです。」当然至極のことを言っているようだが、これはコロナ前の2019年に出版された「仕事と心の流儀」という本の「「ドングリの背比べ」を続けていたら仕事を奪われる」の項からの一節である。今とても心に沁みる言葉ではないか。世界が混沌としたまま年を越したが、努力の先に明るい未来が待っているかもしれない。
英語版はこちら
<謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai>
共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2021年1月21日配信
-
2021.01.14
早いもので、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めて一年が経ち、人々の日常生活を完全に変えた。寒い季節に入って、再び世界中で感染者数が急増している。最近、我々日本在住の外国人の多くが、ある一つのニュースに心を痛めたのではないだろうか。日本政府は、新型コロナウイルスの変異種が確認されたことを受けて、全世界からの外国人の新規入国を停止した。2020年8月中旬以降、外国人の入国が緩和されて、職場では新しい外国人研究者を受け入れてきたので、私も近いうちに、実家に帰ったり、海外調査に出かけたりすることができると期待していたさなかのことであった。
2020年3月初旬に私は研究調査と学会参加のため、アメリカへ渡航した。すでに中国をはじめとするアジア地域(そしてイタリア)で感染が拡大していた頃であったが、アメリカではまだ特に入国禁止措置が取られている状態ではなく、学会も中止されていなかったため、渡航を決行した。アメリカに着いた一週間目は図書館などに問題なくアクセスできたが、3月15日頃から各大学が閉鎖となり、外出自粛の要請も出された。その後、私は毎日、日本の外務省のホームページで入国制限の最新情報を注視しつつ、航空会社に予定より早い便に変更してもらえないか、連絡し続けていた。幸か不幸か、入国制限がかけられるまでには帰れたが、公共交通の利用禁止や14日間の自宅隔離が求められ始めた当日に日本に着いた。帰国前の不安や焦りに満ちた日々をいまだに鮮明に覚えている。日本に自宅があるのに、外国人だから家に帰れない、家族と会えないということが、自分の友人に大きく影響を与えたためである。
「何かある時、日本で一番早く見捨てられるのは外国人だよね」
「それはどこの国でもそうでしょう」
最近のニュースを見て家族に愚痴を言った時に、このように返された。確かに、現代社会は国民国家の枠によって形成されて、その中の一人ひとりは基本的には特定の集団に属して、その所属によって色々と規定されてしまうのだ。もちろん、どの国にも所属しない難民や複数の集団に所属する多国籍者も存在して、実像はさらに複雑だ。多くの人にとっては、自国を離れ他国に行くと、通常は人口的なマイノリティーとならざるを得ない。肌の色や話す言葉などでマジョリティーとの明確な違いがある場合、さらに目立つこととなる。これによって、誤解されたり、差別を受けたりすることがありがちだ。特に、昨今のコロナ禍のような有事の際は、マイノリティーが置かれる厳しい環境がさらに浮き彫りになる。
3月にアメリカにいた際、私は感染拡大していることが分かっていても、外出時にマスクを付けなかった。現地でのトラブルを回避するためだった。その頃、世界中でアジア系の人がマスクを付けていることで、ウイルスだと言われたり、時に暴力を振われたりしたことが、しばしばニュースで報じられた。
カリフォルニアの民間団体や大学関係者が立ち上げた、アジア系アメリカ人や太平洋諸島出身の人々に対する暴力事件を申告するプラットフォームSTOP AAPI HATEには、3月中旬のオープンから8週間で1843件ものコロナ関係の差別事件の申告が寄せられた。中には身体的暴力が8.1%を占めている。差別の理由として、17.5%の回答者はマスクまたは服装と述べている。このような世界中のアジア系に対する差別を情報収集、分析、発信しているプラットフォームとして、他に、海外在住の中国系研究者が運営するSinophonia Trackerやオーストラリアの民間団体が進めるI Am Not a Virusキャンペーン等々がある。SNS上でもJeNeSuisPasUnVirusのハッシュタグに注目が集まっている。
これらは全て中国系をはじめとするアジア系の人々の処遇に目を配るものである。一方、同時期に、中国の広東省に居住するアフリカ系移民が大家に強制的に退居され、感染してないのに隔離されたことが報道された。もう少し調べたところ、インドでも例えば北東部出身で肌の色が中国人に近いモンゴロイド系の人、そして社会的に少数派であるムスリムへ差別や暴力が向けられている。いずれも社会のマイノリティーである。しかし、差別は感染症によって作り出されたものではなく、既存の差別問題が感染症によってさらに露呈されたのだ。危機時に自分の集団に所属しないと思われる人々を排除し攻撃することは、歴史的によくあることである。関東大震災後の朝鮮人殺傷事件や、9.11アメリカ同時多発テロ事件後の非イスラム教国での人口的少数であるイスラム教徒に向けられた敵意が想起される。
しかし、マジョリティーやマイノリティーとは、実は非常に流動的で、時間や空間が変わると入れ替わるものだと思う。日本社会に暮らしている自分は外国人として確かにマイノリティーだが、日本在住の外国人のなかでは中国人はマジョリティーである。日本人とは外見のみではほぼ見分けられないため、日本語を上手に話せば、うまくマジョリティーである日本人にカモフラージュすることもできる。もしかすると、日本国籍を持っているハーフの日本人よりも日本人と思われやすく、疎外感を感じにくいかもしれない。そう考えると、国籍や肌色といった一見明確そうなカテゴリー付けも実は非常に恣意的なものだと感じる。
新型コロナが世界中で広がっている中、最近ではあまり特定グループを敵視することが報道されなくなった。しかし程度の差はあれ、どの国や地域でも起こっていた他人化(othering)の現実を簡単に忘れてはならない。世界規模のパンデミックはいずれまた発生するかもしれないし、人類は色々な災害に直面するだろう。その時、今回のコロナの経験を振り返った上で、人々がより寛容でいられるようになればと願う。
英語版はこちら
<王雯璐 WANG Wenlu>
渥美国際交流財団2019年度奨学生。東京大学国際高等研究所東京カレッジ特任研究員。2011年北京外国語大学中国語言文学学科卒業。2014年同大学大学院比較文学専攻修了、修士号取得。2020年3月東京大学人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。専門分野は東アジアとヨーロッパの交渉史、東アジアにおけるキリスト教の布教史。
2021年1月14日配信
-
2020.12.17
少し前のことだが、大学1年生のお子さんを持つ母親が書いたと思われるブログに遭遇した。全く知らない方のある日のつぶやきだが、私の心に重くのしかかり色々と考えることになってしまった。その大学生の娘さんはこの春に入学して、まだ一度もキャンパスの門をくぐったことがないという。そしてそのまま後期が始まり、大学に行かないことが当たり前のように過ごす娘。そんな中、家に届いたのは来年度の学費の振込票だった。お母さんは「GoToトラベルもいいけど、GoToスクールもなんとかしてほしいものだ」と締めくくっていた。
きっとこれが学校に通えないお子さんを持つ親のリアルな叫びなのだろう。私はなんとも言えない苦い気持ちになった。以前「かわらばん」で、「大学はなにがあっても学生に学びの機会を提供できる場でなければいけない」と書いたが、去年の今頃と今を比べて、学生の勉強時間は減っていないかと心配になる。全国の大学教員は、講義を前もって録画してシステムにアップロードするなど、むしろ去年より授業の準備に手間がかかっている方も多いだろう。しかし保護者をはじめとする、学費を払う者と、学ぶ学生にそれが伝わらなければ意味がない。オンライン授業の早期普及は助かるが、それでも限界がある。早稲田大学の田中愛治総長が2020年10月13日の「週刊エコノミスト」で「社会が求めている人材はたくましい知性としなやかな感性を兼ね備えた人物だ。たくましい知性はオンラインで7割ぐらい身につけることができるが、しなやかな感性はオンラインでは無理だ」と語っていた。
登校できないこと、勉強時間の損失は大学生に限ったことではない。義務教育の学生、高校生、そして世界中全ての学生にとって、今年の学習環境と勉強時間は憂慮される。英エコノミスト誌(2020年7月18日)でも、新型コロナウイルスによって子どもたちが学校に通えないことは、世界中の生徒に大きなダメージを生むことを憂いていた。例えば、(家庭で)虐待を被る可能性があること、栄養不良、心の健康の低下などに陥りやすいと警笛を鳴らしている。また学習機会の損失が未来の経済にどのように影響するかも指摘しており、同記事では「世界銀行によると(コロナウイルスの影響で)学校が5ヶ月間閉鎖した場合、生徒たちの生涯収入は現在の額で10兆ドルの減少になるだろう」と予測している。
この世界銀行の試算を聞いて真っ先に思い出されるのが、冒頭のお母さんのブログの最後「GoToトラベルよりもGoToスクール」だ。目先の経済をまかなうより、将来を見越して持続可能な経済政策を打ち立てなければならない。特に日本は少子化が止まらないというのに。今いる子どもたちの将来の年収が減ったら、誰でも容易にいくつもの心配事が浮かぶだろう。今年の春先、「GoToトラベル」なんて存在していなかった。それがいまでは、日本国民でこの言葉を知らない人は皆無に等しい。ならば同じぐらいのスピードで全ての学生の学びの機会が追いつく施策も作れるはずだ。
もちろん、文部科学省が大学生の支援策として学生支援緊急給付金を交付したり、大学が個別に支援金を配布したりしている。例えば東京大学と早稲田大学は、経済的に困窮した学生に対し、前者は1人5万円、後者は10万円を支給し学生の退学を防ごうとしている。経済的な理由で大学を離れるのを防ぐのは大事だが、登校する機会が減り、オンライン授業ばかりになっても、学生たちが退屈することのない授業やプログラムを提供し、このコロナ禍でも自身の大学を選んでよかったと思えれば、「退学」の2文字はよぎらないはずだ。これもまた経済の話になるが、大学卒と高校卒の年収は100万円ぐらい違うという調査もある。そういうことを考慮し、大学生が金銭を理由に退学して大学を去ったとしても、休学システムを寛容化させる、もしくは復学のチャンスを与えてあげる対策も必要であろう。
GoToトラベルと同じぐらいのスピードと熱量で学生の学びを停滞させない政策を作るべきだ。厳しい冬の到来は目の前だが、この冬コロナが増えようが減ろうが、来年度は2019年に戻るか追い越すぐらい、学校に通う全ての子どもたちに学びのチャンスが到来することを願うばかりだ。これからも身を引き締めて、教育現場の活性化に努めたい。
<謝志海(しゃ・しかい)XIE_Zhihai>
共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2020年12月17日配信
-
2020.11.26
私が所属している立教大学コミュニティ福祉学部(コミュニティ福祉学研究科)と山形県高畠町では、2001年4月から地域連携プログラムのひとつである「高畠プロジェクト」を始めた。2010年11月には相互友好協定を結び、さまざまな形での連携交流を続けている。具体的には実習や演習、農業体験や調査研究など、毎年双方からの提案による活動が繰り広げられている。
高畠町は山形県の南東にある人口約2万3千人の町で、ぶどう「デラウエア生産量日本一」など、農業の盛んな町として知られる。この町は「まほろばの里」と呼ばれている。「まほろば」とは、「周囲を山々で囲まれた、実り豊かな土地で美しく住みよいところ」という意味の古語である。山形新幹線高畠駅を降りると、南に飯豊連山、西に朝日連峰、東を蔵王山に囲まれ、米、野菜、果物の豊かな土地を目にすることができる。
立教大学と高畠高校の高大連携交流事業として11年目を迎えた2019年6月19、20日の2日間、私は立教大学の大学院生講師として派遣され、福祉を選択している生徒を対象にした講義とディスカッション形式の特別授業を行った。このプロジェクトは高等教育を受講させることで高校生の知的欲求を開発し、山形県内各市町村の未来の地域コミュニティを担う人材を育てることを目的としている。
1日目の「社会福祉基礎」では、4月から初めて社会福祉を学ぶ2・3年次生徒約50名を対象に社会福祉を学ぶ面白さを中心に、私が社会福祉の道に進んだきっかけや、韓国と日本の社会状況、両国における福祉の今後の課題などについて講義をした。
2日目は、1年間を通して自ら設定した課題を研究する「社会福祉研究」のクラスで、私が大学院で行っている研究の内容について講義をした後、3年生6名が課題研究の発表を行った。生徒がそれぞれ取り組んでいる課題研究のテーマは、孤独死や無理心中、高齢者の介護問題、高畠町の観光案内、地域再生の方法など多様で興味深く、議論を深めることができた。
生徒からは、私が講義の中で取り上げた少子高齢化、人口減少社会、消滅可能性都市の事例について「今までは少子高齢化という問題について深く考えたことがなかったけど、他人事ではなく、私達1人1人がこれらの課題について考えて行かなければならないと思いました。今の世代からできることを少しずつ積み重ねていこうと思います。この問題をより多くの人に知ってもらい、危機感を感じてもらうことが大きな第一歩だと思いました。」などの感想が寄せられ、私が高校生に一番伝えたかったこと―「社会福祉」は単なる高齢者やしょうがい者の介護問題ではなく、われわれの生活と密接に関連した「自分事」として捉えること―をしっかりと受け止めてくれたことに感動した。
また、「金さんは現在韓国と日本をまたにかけて自殺の問題の解決法を研究していて、現在の問題に背を向けないで、まっすぐに向き合って生きている金さんがとてもかっこよく感じました。私も社会問題に背を向けないで、社会のために貢献できる人間になりたいです。」というある生徒の感想文は特に胸に響いた。自分が取り組んでいる研究―韓国と日本の自殺問題と予防対策―の意義を改めて考えるよい機会となった。
高畠高校での特別講義だけでなく、1泊2日の間、高畠高校の評議員(元高畠町役場の職員)の方のお宅にホームステイをして得たこともたくさんある。たとえば、日本の茶道や着物の体験、ぶどう農園の作業など、普段はできない大変貴重な経験が出来た。また、奈良県桜井市の安倍文殊院、京都府宮津市の智恩寺(切戸の文殊)とともに、日本三文殊の一つに数えられる亀岡文殊(大聖寺)をはじめとして、高畠ワイナリー、瓜割石庭公園、安久津八幡神社など、高畠町の観光スポットを案内していただいたこともとても楽しかった。
これからも私の研究領域である「社会福祉」を媒介として、日本と韓国さらには世界における交流活動を続けていきたいと強く思っている。
<金信慧(キム・シンヘ)KIM Sinhye>
渥美国際交流財団2019年度奨学生。東洋大学大学院福祉社会デザイン研究科修士課程修了(社会福祉学の学位授与)。立教大学大学院コミュニティ福祉学博士課程修了(単位取得満期退学)。韓国社会福祉士(国家資格取得)。日本社会福祉士(国家資格取得)。
2020年11月26日配信
-
2020.11.19
中学生のとき、なにかの宿題だっただろうか、自分のことについて作文を書いたことがある。詳細はまったく思い出せないものの、日本に暮らす韓国人としての自分のことを振り返りながら、「私は私」という、今にして思えば小説等の影響を多分に受けていて、背伸びしてはなかろうか?と勘繰りたくなるような、しかし実に素直な結論で、担任の先生に気に入ってもらえたことが嬉しかった、そんな思い出がある。
今の自分と比べると、当時の私は常にアンテナを張っていて、ちょっとしたことで尖り、自分の考えを晒すことに躊躇しない、こわいもの知らずの十代だった。振り返れば眩しく、空恐ろしくもある。当時の私にとって、自分とはまわりに「日本に住む外国人」を認識してもらうためのこの上ない媒体であったし、日本語の拙さを指摘されなくなってからは、まわりの人々が持つなにかしらの固定観念を見つめ直してもらうために小さな発信を続けていた。社会学者の岸政彦は、著作『同化と他者化』において、マイノリティであることは果てしなく自己に問いかける「アイデンティティの状態」に置かれることであり、マジョリティであることはこのような問いかけから免除されていることであると述べたが、当時の私は(もちろんこのことは知る由もないが)まさにこうした問いかけを自分のみならずまわりに対しても投げ続けることに強く意味を感じていたように思う。
翻って今、日本に暮らす「外国人」をめぐる研究を選び取り、長い時間をかけて進めてきた私は、もう少し慎重で、当時の私からすれば不必要におどおどしているように見えるかもしれない。何かを発言する前に、立ち止まり、深呼吸して、推敲しようとする私は、良くも悪くも少しばかり「大人になった」のかもしれないが、どちらかといえば、当事者としての自分と、(まだまだ若葉マークではあれ)研究者としての自分のちょうど良い距離感を測り続けているからではないか、と感じている。
私は今でも変わらず、日常生活で覚えた小さな違和感をひっそりと拾い集め、積み上げている。入学式を控えたこの季節になると聞こえてくる、「桜をきれいだと感じるのは日本人ならではだよね」「日本に生まれてよかった」といった、なんてことはない言葉に対して、その度に引っかかりを覚える。特段何の悪意もない、「やっぱり韓国人だね」や「もう完全に日本人だよね」のどちらに対しても曖昧に笑ってうなずくことしかできない。淀みなく会話していたはずの相手に、名前を明かした途端にゆっくりとしたスピードになる日本語に、配慮を感じ取るよりももどかしさを覚えることも、依然として多々ある。
それでも、これらの思いは、私が研究を進める上での強烈な動機や基本的なスタンスにこそなれ、実際に議論を展開する際に挟み込まれることはないように、可能な限り注意を払って進めているつもりである。誰にとってもそうかもしれないが、少なくとも私にとって、論文を書くことは、いくつも厳しい批判を想定し、なんとか答えようとする作業の連続のように思える。私が思いつく程度のことはすでにとうの昔に答えられていて、より細かく、より新しい説明が求められる。先人の積み重ねた考察を読み進めるほど、新たな言葉を獲得すると同時に、自分が付け加えられる部分の小ささを思い知り、この圧倒的な営為の前では度々口をつぐむことになる。
それに、当然のことながら当事者としての私は決して誰かの代弁者になれるはずもなく、先行研究に当たることはもちろん、実際にフィールドに出かけて調査を進めていると、このことをより強く実感する。私が日本で暮らすことで見聞きし、感じてきたことは、あくまでもひとつの軌跡に過ぎず、同様に「日本で暮らす外国人」であっても、その経験や感性は千差万別である。そういった瞬間に遭遇する度に、当事者としての私は戸惑い、ときには落ち込み、傷つくこともある。調査は必ずしも「望ましい」答えを与えてくれないし、自己の一般化はただの驕りでしかない。
そうやって振り返れば、長い大学院生活を経て手に入れたのは、先人への敬意と、自分とは異なる他者への気付き、そしてそれゆえの慎重さであるように思われる。いまだに当事者としての自分と研究者としての自分の「ちょうど良い」距離感はうまく測れないことが多く、時に場面にそぐわず慎重すぎたり、感情的になりすぎたりすることもあるものの、おそらく他の多くの研究者もそれぞれの距離の取り方に悩み、試行錯誤しているのだろう、そんなふうに思って自分を奮い立たせる。「私は私」と言ってのけた遠い日の稚い勇気を少しばかり借りるならば、「私らしく」距離感を測り続けることにも意味があると思いながら、これからの研究生活を進めていければと願う。
<申惠媛(シン・ヒェウォン)SHIN_Hyewon>
渥美国際交流財団2019年度奨学生。東京大学教養学部附属教養教育高度化機構・特任助教。2013年東京大学教養学部卒、2015年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2020年同博士課程単位取得満期退学。専門は社会学、移民・エスニシティ研究。
2020年11月19日配信
-
2020.11.12
桜が咲き始めた3月の下旬、東京のアパートで窓の外を眺めると、暖冬最後の冬らしさを主張するかのように雪が降っている。僕にとって雪が見られるのは日本にいる時に限る。冬でも軽々と20度を超える日が多い故郷では雪なんか降らないからだ。
大学3年生の頃は、交換留学生として筑波大学に1年間在学していた。初めて日本に来たのがその時だった。交換留学の申請は地元で入学した大学2年の後半に始まったが、ようやく大学生活に馴染みはじめた僕は留学なんかに乗り気ではなかった。留学を熱望した「意識高い系」のルームメートに付き合う形で申請書を提出したものの、早くも煩雑な手続きに頭を抱えた。とはいえ、「こんないいチャンスはめったにないんだよ。今のうち行かないと後悔するぞ」と先生方から何度も言われたし、どうせ1年だけだから、人生に1度ぐらい非日常的な異国体験ができるのも悪くないと思い、逡巡しながらもなんとか手続きを最後まで完了させ、留学に旅立った。そして留学先での勉強生活を通じて学問の世界に興味を抱き、研究したいことも見つかり、結果的に日本の大学院への進学が決まった。
大学院は甘くない、けれど数年辛抱すれば学位を取って帰国し、元の日常生活に戻れるはずだ。そう思っていた僕は地元の大学を卒業したあと再び日本に渡り、修士課程を修了し博士課程にあがり、気づいたら6年半の歳月が流れた。ところがいつからか、自分のなかで「日常」と「非日常」が逆転しはじめたようだ。狭いアパートでの1人暮らしと大学院の研究生活が日常になってきて、カレンダーは大学や学会の行事で埋まっている。一時帰国は年に1回か2回程度で、帰ったあとも相変わらずレポートや論文で忙殺されていた。いったん街に出ると、かつて見慣れた故郷の景色をどこかよそよそしいと感じてしまい、近所の市場で買い物する際にぎこちない方言を操っている自分がいた。町並みに関する記憶も、地図で確認しないと同窓会が開かれる有名な店の場所すら分からないくらい薄れている。どうやら僕は、自分の故郷の異邦人になったみたいだ。
そこでふと思った。故郷とはなにか、と。そもそも、中国の南の沿岸部に位置するこの都市は僕にとって果たして故郷といえるだろうか。たしかにここに両親が住んでいる。その意味で実家というのは間違いない。だが故郷はたぶん実家以上の何かである気がする。それは、明確な輪郭を持たないにせよ、「家」を取り巻く1個1個の原風景を?き集めたようなものではないか。しかしいま、心のアルバムをめくっても、思い出の写真はそれほど出てこない。
というのも、この都市に住んでいたのは中学3年から高校3年まで、せいぜい4年間なのだ。1つの場所を故郷として胸に焼き付けるには4年という時間は短すぎたかもしれない。それ以前はずっと都市部からやや離れた小さな町(行政区画では同じ「市」の管轄下にあるが)で暮らしていた。中学2年の夏、親の転勤で引っ越しと転校を余儀なくされた。そのとき、仲間との別れや新しい環境への不安にさいなまれ、大きな抵抗感を覚えた。引っ越し先のすべては新参者の僕にとって疎ましい存在だ。毎日のように元の町に帰りたいと駄々をこねて、実際何回か戻ったこともある。そしてあそここそ真の故郷だと思っていた。
しかし、やがてインフラ整備や大規模の改築工事が次々と行われ、町の雰囲気はすっかり変わり、昔の知人たちも相次いで引っ越してしまった。あの故郷に帰ったところで、親しみのある人も物ももはや見当たらない。少し大人になったためか、単に15歳の自分を裏切った結果か、僕はあるときからあの町に帰ることを口にしなくなった。かといって、高校を卒業し大学に行ったあとも、ついに「新しい故郷」に馴染むこともできなかった。なるほど、現実の物理的な空間を占めた故郷には大した思い入れがなく、思い入れのある故郷は過去の時間にしか存在しない。帰郷という言葉さえ空しくなるほど、故郷という存在が抜け殻のようになっている。僕は期せずして故郷の喪失といういかにも現代人らしい宿命を自分なりに体験することになった。
窓を開けてみると、雪が止んだ。季節は移ろうとしている。もう少し、淡い郷愁を誘うこの移ろいを味わいたいものだ。
<郭馳洋(かく・ちよう)GUO_Chiyang>
2019年度渥美国際交流財団奨学生。2011-2012年、筑波大学に交換留学。2013年、廈門大学日本言語文学学科を卒業。2016年、東京大学大学院修士課程を修了、修士号を取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科博士課程に在学。日本学術振興会特別研究員(2016-2019)、東京大学東アジア藝文書院リサーチアシスタント(2019-2020)。日本近代思想史を専攻。訳書に『中国近代思想的“連鎖”』上海人民出版社、2020(原著:坂元ひろ子『連鎖する中国近代の“知”』研文出版、2009)。ほかに研究論文多数。
2020年11月12日配信
-
2020.11.05
新型コロナウイルスの到来によって、我々の暮らしが一変してしまった2020年。まずは人口密度の高い都心の住民から生活習慣の変更が余儀なくされたのではないだろうか?通勤ラッシュを避けるべく企業が次々と打ち出す在宅勤務は主に大企業が始めたが、在宅勤務のインフラが整っていない会社や、サービス業など在宅勤務が成り立たない人は、どこに浮遊しているかもわからないコロナウイルスに怯えながら通勤していたのだろう。外出すればどこへ行っても「密」を避けられない都会の暮らしがこんなにもネガティブな目で見られるとは。
その間、東京から100キロ離れた私の住む北関東の地方はというと、車社会なので「密」になることはないと呑気なものだった。連日のテレビの報道でコロナコロナと大騒ぎなのが嘘のように、ラーメン屋の行列は道路にはみ出さないようにするため、相変わらず密な行列だった。そして人々は綺麗に真っ直ぐな線を描いていた。こういう時も日本人は日本人だなぁと思った次第である。スーパーやドラッグストアに行けば、コロナ前となんら変わりない人出で、レジもまた密着して並んでいる。(現在は距離を置いた立ち位置を示すシールが床に貼ってあるようになった。)
同じテレビ報道を都会と地方問わず日本全国でしていても、こんなにも受け止め方の差があるように思うのだ。
では、地方の暮らしや生活の実態を、都会に暮らす人はどのくらい把握しているのだろうか?「リモート○○」が定着するかしないかの頃から言われ始めた、都心から地方への移住。これは在宅勤務、あるいは週に一、二度の出勤で残りは在宅勤務で良いのなら狭くて家賃の高い都会ではなく、地方の広い家に住み、用事がある時だけ都心に行けばいいじゃないかという考えで、これにより地方が活性化することも期待されている。今年7月に発売された「週刊東洋経済」のコラムでも1ページを使い「郊外や地方に引っ越して、より広々とした住環境の中で、仕事や子育てを」することについてのメリットをたくさん紹介していた。しかし今地方に住んでいる私としては、地方への移住はそんなにたやすいものではないと思うのだ。
以下にまとめるのは、私の住む市と私の勤務地のある隣の市を実際に見て回ったり、車窓から観察してみたりした今の地方の現状と、コロナ禍において地方移住を考慮するときに知っておくべきことを伝えたいと思う。まず、コロナの影響かどうかわからないが、お店の閉店が止まらない。6月に久しぶりに街を歩き回って大変驚いた。主に個人が開いていた飲食店以外でも、雑貨や衣料品のお店の閉店が多い。しかしそれだけではない。日本の誰もが知っている居酒屋チェーンやファーストフード店もまたどんどん撤退している。撤退時に看板を外していかないので、車でしか移動しない人は閉店したことに気づいていないと思う。
また、「週刊東洋経済」の同じコラムには、都会の人々が地方に移住することにより「例えば副業が認められるのであれば、都市部の会社に対してはテレワークを行いつつ、地元企業にアドバイスをしたり勤務したりする人も出てくるだろう。そうすれば、地方の企業活動の活性化や産業育成という観点でも、プラスの効果が得られる」とあった。これが実現すればなんとも素晴らしいことだが、これは都会に住む人だから言えることではないだろうか?東京から新幹線で1時間足らずのこの土地は、東京と同じようには暮らせないのだ。これは大げさではなく、例えば、仕事終わりに家路に着くまでの間、郵便ポストに手紙を入れ、ATMで現金をおろし、スーパーやコンビニで買い物、その後ドラッグストアにも寄る。こういったことを都会に暮らす人々は特に深く段取りを考えずとも日常的にやっていることだろう。
しかしこの土地はそれぞれの全てが離れている。車でしか辿り着けない所が多いだけでなく、用事を済ませたい場所と場所の距離が離れている上、その間に公共交通機関がない。車でしか移動できないのだ。移ってきたら、まず地元の銀行口座を開き、車を購入しなければならない。なぜなら、この県はメガバンクの支店とそのATMが無いに等しいぐらい少ない。幅をきかすのは地元の地方銀行で、それならどこにでもある。私もとうとう数年前に必要に迫られ、地元の銀行に口座を持った。車も移住後、結局3年以内に購入を余儀なくされた。
転勤/転職ではなく、今回のテーマであるコロナ禍においての地方移住を目的として、想定される現実をシュミレーションしてみよう。例えば、本職は東京にオフィスがあるテレワークで、その合間に地元の企業に貢献すべく担当者と会うとなれば、車が必要であり、そこへ辿り着くまでの時間もかかる。全ての地元企業が駅前にオフィスを構えているとは限らない。ではその地元企業の近くに住まいを構えればいいではないか?とすると、例えば本職の方のオフィスで会議があるなどで出社しないといけない時、最寄りの電車の駅まで家族に車で送ってもらう必要があるだろう。ではせっかく手に入れた車で東京オフィスまで乗り付ければいいと言うかもしれないが、ご存知の通り、高速代がかかるし、都心は駐車料金が高い。
同じく車がらみの話になるが、子育て世代が家族で地方に移住となると、奥さんが車を運転できなければならないし、大半が夫婦で1台ずつ車を持たなければならないだろう。なぜなら子どもの送迎はだいたいがお母さんの役目だ。私の家の最寄り駅の駅前ロータリーは毎朝車から降りてくる制服を着た学生、なかには私服の大学生らしき人も多いが、そうした家族を送るためのちょっとした渋滞がおきている。中高生となるとこれに塾の送迎も加わる。都会でバリバリ働くお母さんが、毎日子どもの送迎に時間を奪われることなど、想像できるのだろうか?
そしてもっと小さい子世代の「子育て」というのもまた都会とは違う。公園というものが住宅地とリンクしていないのもこの土地の特徴で、公園の近くに居を構えていない人以外は、しっかりした公園で遊ばせようとなると、車を出す必要がある。都内によくある、住宅地にぽつんとあるブランコしかない公園、というのがあまりないので、子どもを短時間でも近所の小さな公園で遊ばせる、もしくは小学校高学年ぐらいの子たちが自分たちで近所の公園で遊ぶという光景も、東京とは違い住宅街では見かけない。
また、都会の生活で多く利用されているアマゾンフレッシュやスーパーによる生鮮食品の宅配はほとんど無い。食品の宅配は生協の一択となる。コロナ禍で大層注目を集めたUber_Eatsや出前館は存在すらしていなかった。今年9月中旬からやっと市内でUber_Eatsが始まった。しかし、Uber_Eats
がさかんになる前に飲食店がどんどんお店を閉めてしまったら、どうなるのだろう。
そして実はお店だけでなく、家も空いたままのものが多い。昨年、まさに新幹線が停まる駅前にタワーマンションができた。マンション建設と平行して駅からのペデストリアンデッキも延伸させ、駅直結マンションをうたい、建つ前から完売御礼だった。しかし入居が始まっても空き部屋が目立っていた。コロナウイルス感染拡大で様々なメディアでリモートワークや地方移住が話題になり、あのタワーマンションもいよいよ入居者が増えるかと思いきや、家に投函されるチラシにそのマンション広告が部屋タイプも様々に何戸も紹介されていた。「投資用マンション」「投機目的にどうぞ」とうたい文句も添えられていた。現在も相変わらず広告チラシは届いている。
ここまで、地方の現実ばかり書いたが、きっと元々地方出身者にとっては車社会なことなど百も承知だろう。そういう人々にとっては地方移住も抵抗ないだろう。メディアに取り上げられるのは都心の人々がたくさん行き交う映像ばかり、観光地でもないような地方の市町村の実態が見えてこない。気楽に地方移住を高く評価するような事を言う人に限って、都心に住んでいるのではないかと思う程、東京と地方の暮らしは違う。もちろん東京のような大都市に住むのが一番であり「無敵の暮らし」とは言えず、都会で暮らすことの落とし穴のようなものもあるだろう。
たとえコロナウイルスがなかったとしても、地方創生はこの国の重要な課題の一つである。わたしの住む市はこれまで、観光地と特産物の広報活動には力を入れている。これからは住みやすい地、自然災害の少ないエリア等、アピールできるものはどんどん発信して、地方側から都会の人間を呼び込むことも必要であろう。同時に、路線バスの本数を増やすなど、移住者がすぐに町になじめるようなインフラ整備も行うべきだろう。
英語版はこちら
<謝志海(しゃ・しかい)XIE_Zhihai>
共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2020年11月5日配信
-
2020.10.29
ある人が、毎日1個ずつ金の卵を産む鵞鳥を飼っていた。その飼主は、鵞鳥の腹の中に大きな金の塊があるのだと考え、その腹を切り裂いた。が、中は他の鵞鳥たちと同じであった。
余りにも有名で多くを語る必要はないだろうが、この話は古代から伝わるイソップ寓話中の一篇である。紀元前6世紀頃のアイソーポス、英語読みのイソップという人によって語られたとされるイソップ寓話は、主として動物を主人公とする短い物語と、それに添える教訓・啓蒙的な言辞から構成されるのが一般的である。
後世のイソップ寓話編訳者および再録者たちは、この「金の卵を産む鵞鳥」の話について「今もっているものに満足し、むやみに欲張ってはならない」という趣旨の教訓を伝えるものと捉え、欲望に耐えきれず鵞鳥の腹を切り裂いた飼主の行動を愚かなものとする評言を付しているのがほとんどである。3世紀頃のバブリウス版から、現代日本でも最も広く読まれているシャンブリ版にいたるまで、欲望への戒めの伝統は忠実に受け継がれてきたのである。すなわち、金の卵を産む鵞鳥の飼主は2千年近くも世のそしりを免れることができなかったといえよう。
なるほど、確かにこの話の展開から見る限り、飼主を擁護する余地はなさそうだ。しかし、もしも鵞鳥の腹を切り裂いて原作の寓話とは異なる結果が出たらどうだろうか。仮定の話だが、飼主の思った通りに金の塊でも出てきたとしたら、あるいはせめて金の卵を産む仕掛けが見つかったとしたら…。いやいや、鵞鳥の腹から金の塊が出るなんて常識的にとうてい考えられない、と仮定の前提そのものが否定されるかもしれない。しかし、そう言い切れるだけの十分な科学的な根拠はあるのだろうか。
もし金の卵を産む鵞鳥が存在するならば、その鵞鳥の体内では何が起きているのか。これを科学的に解明しようと試みた人がいた。アメリカの生化学者で(SF)作家のアイザック・アシモフは、SF雑誌『アスタウンディング』1956年9月号に「金の卵を産む鵞鳥」という短編を発表した。その筋書きはこうである。1955年、テキサスのある農園主が飼っている一羽の鵞鳥が金の卵を産んだ。それを知った農務省は研究チームを立ち上げ、金の卵とそれを産んだ鵞鳥に対する科学調査に乗り出した。その結果、鵞鳥の肝臓の中で酸素18が金197へと転換されるという推論が提示された。
鵞鳥が金の卵を産むという寓話の世界の出来事を科学的に解明しようとしたバカ真面目なところも含めて非常に興味深い発想のあふれるフィクションであるが、特に私が注目したいのは、結局鵞鳥の腹を目の前で裂きひろげることができなかった研究者たちの次の言葉である。「わたしたちは、《金の卵を産む鵞鳥》を殺す勇気はなかった」。推論を立証し、鵞鳥の体内で金が作られるメカニズムを明らかにするために、鵞鳥の腹の中を直接見て調べるのは絶対欠かせない作業である。しかし、研究者たちは、だった1羽しかいない鵞鳥を解剖することはできなかったのである。この言葉に対する解釈は色々あるだろうが、古代から非難されてきた飼主のためのある種の弁護として受け止めることも可能ではなかろうか。
よく考えてみると、飼主の行動を「欲望」と結び付けて問題とする共通理解の背後には、鵞鳥の腹の中に金の塊なんか詰まっているはずがないという観念が大きく影響しているような気がする。言い換えれば、鵞鳥の腹に金の塊は存在しないと考えるのが常識的で理性的な判断だから、彼の行動は反常識的で反理性的なものになるわけで非難されるべく、彼がそのような行動をとったのはやっぱり欲望に負けたからだ、という論理が、古代から飼主の行動を戒める見方を支えてきたように思うのである。しかし皮肉なことに、欲望を諷刺しながらも、結局毎日一個ずつ金が得られるという、安定した金の入手による幸福追求を正しい選択として奨励している。果たして飼主の行動は、欲望にくらんで犯した反常識的・反理性的なものとして非難ばかりされるべきものなのか、疑問を拭いきれない。
今一度問い直してみよう。鵞鳥の腹の中から金の塊が出てきたとしたら、あるいは金の卵を産む仕掛けが見つかったとしたら、飼主への見方はどうなるだろうか。おそらく鵞鳥を切り裂かせた原因として戒められた「欲望」は、ふと思いついたことをすぐ実行に移した「実践力」として、また勇気のある行動をもたらした「原動力」として称賛されるかもしれない。
<李澤珍 LEE Taekjin>
東京大学大学院総合文化研究科博士課程在学中。専門は日本近世・近代文学、特に日本におけるイソップ寓話受容の歴史について研究している。主な論文に、「古活字版『伊曽保物語』の出版年代再考」(『国語国文』87―7、2018年)、「『伊曽保物語』版本系統の再検討―B系統古活字本の本文異同を中心に―」(『近世文芸』106、2017年)、「明治初期のイソップ寓話受容における『伊曽保物語』の影響について―渡部温編訳『通俗伊蘇普物語』を中心に―」(『超域文化科学紀要』21、2016年)等がある。
2020年10月29日配信
-
2020.10.22
コロナから何か一つでも良いことがもたらされたとすれば、経済活動の休止による二酸化炭素の排出量の激減ではないだろうか。しかし、知っての通り一時的なもので、これは長く続かない。地球温暖化対策とは、持続可能な経済発展をしながら取り組まなければならない。その一つはエネルギー政策だ。石炭や石油などの化石燃料の使用を減らしてゆき、再生可能エネルギーへの代替を加速させる「脱炭素社会」を目指すことが地球温暖化対策の近道となる。
2015年にパリ協定で定められた「世界全体の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保つとともに、1.5℃に抑える努力を追求する」という目標を実現するため、多くの国々は「脱炭素」に向けて動き出している。脱炭素と言うと、まずは石炭の利用を減らす、あるいはやめることだ。石炭火力発電は二酸化炭素排出量が、天然ガスを使う同規模の火力発電と比べ約2倍になる。先進国のうちイギリスは2025年、フランスは2021年、カナダは2030年までに石炭発電を「やめる」と宣言している。そして2016年に、これらの国々が率先して脱炭素連盟(PPCA)を立ちあげ、すでに33ヶ国と29の自治体が参加している。
では、日本はどうだろう。現在稼働中の石炭火力発電所は約140基ある。また、東南アジア等の途上国、例えば、ベトナムで2024年の稼働を目指す「ブンアン2」という大規模な石炭火力発電所を手がけている。日本はG7の中では、いまだ海外で石炭火力発電所を新設している唯一の国だ。パリ協定に参加している日本は、2030年までに温室効果ガスの排出量を2013年よりも26%削減する目標を設定したが、他の先進国と比べると、脱炭素に関してはあまり積極的ではなかったことで批判を浴びている。現に2019年12月国連気候変動サミットCOP25の開催期間中、環境NGOの「気候行動ネットワーク(CAN)」から不名誉な賞「化石賞」を受賞した。しかも2度目の受賞である。これを受け、小泉環境相がCOP25のスピーチで「我々は脱炭素化に完全にコミットしているし、必ず実現する」と誓った。
それ以来、日本の石炭火力発電政策は少しずつ変化が起きはじめた。まず注目されるべき点として、2020年7月3日、経済産業省は稼働中の石炭火力発電所140基のうち、旧式で二酸化炭素の排出量が多い約100基を2030年までに休廃止すると発表した。これと同時に、日本政府は石炭火力発電所の輸出支援条件を厳格化する方針を決めた。これは脱炭素への大きな一歩を踏み出したともとれるが、完全に石炭をやめるまでには踏み込んでいないということでもある。
なぜ日本はまだ石炭発電を止められないのだろうか。それには、国内と海外の二つの要因が考えられる。国内では、3.11以降、原子力発電所はほとんど止まったため、いわばなし崩し的にコストが最も低い石炭火力発電の割合が増えた。現在、日本の電力供給は、石炭火力発電が30%以上を占めているため、そう簡単にはすべての石炭火力発電所を廃止することはできない。また、東南アジア等の途上国で今もなお石炭火力発電所の開発を進めており、日本が参入し続けないと、中国、インド等の新興国が入ってきてしまい、石炭火力発電所建設という大きな海外市場を失うことを恐れているのだろう。
これらの要因にとらわれず、国連のグテレス事務総長が指摘した「石炭中毒」の状態から脱却するには、再生可能エネルギーへの再認識が必要だ。例えば、石炭火力発電のコストが低く、再生可能エネルギーのコストが高いという認識はもはや正しくない。2010年からここ十年、太陽光発電のコストは80%も下がった。Bloomberg New Energy Finance によると、2030年までに、太陽光や風力などの再生可能エネルギー発電のコストが石炭発電のコストを下回る見込みだという。また、海外市場について、石炭発電所よりむしろ再生可能エネルギー技術を輸出した方が、経済的利益も国際社会からの評価もはるかに上がるだろう。
脱炭素への実現には、やはり再生可能エネルギーの普及が欠かせない。政府が掲げた目標は、2030年まで再生可能エネルギーを22~24%まで上げる、同時に石炭火力はわずか数パーセント減で26%としている。この目標は見直すべきだろう。例えば、経済同友会は2030年の再生可能エネルギーの割合目標を40%にすべきだと主張している。3.11後に孫正義氏が設立した「自然エネルギー財団」(東京)は目標を45%にすべきだと提言している。日本政府は真に再生可能エネルギーを主力電力化とすることを目指しているならば、より大胆に再生可能エネルギーの導入をすべきだ。そうすれば、「脱炭素社会」の実現もそう遠くないだろう。
英語版はこちら
<謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai>
共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2020年10月22日配信
-
2020.10.15
新型コロナウイルス感染症が発見されて間もなく、中国政府は軍の医療チームを含む延べ4万2千人以上の医療関係者を、全国各地から武漢市をはじめとする湖北省の16都市に派遣した。その際、「抗疫」、「援鄂(鄂は湖北省の別名)」、「最前線」、「出征」という中国語語彙がメディアをはじめ、各医療チームのスローガンにも多く見られるようになった。医療関係者はコロナと「戦う」覚悟で湖北省(最前線)に出向かっている(出征)というニュースがメディアによって繰り返し報道され、全国的に「緊張」が走っていった。実はこの時、医療現場では「コロナ」以外にもう一つの「戦い」が始まっていた。それは人々の日常生活や社会活動に欠かすことができない重要な「武器」である「言葉」との「戦い」であった。というのは、湖北省に派遣された医療関係者を困らせることが起きたからである。つまり、患者の中に年配者が大勢いたため、まず「言葉」が通じないという問題が出てきたのである。方言の障害によってコミュニケーションがうまくとれず、治療に支障が出たのだ。
皆さんご存知のように、中国には56の民族がいて、その分言語も多いと思われがちであるが、ここで指摘したいのは、少数言語は別として、中国語の方言間の差異も大きいという点である。中国では、昔は「山を一つ越えれば、言葉が通じない」と言われるほどであった。標準語がすでに普及している日本からみると、この「言葉」が通じないという状況は考えられない光景だろう。しかし、現時点においても中国では、標準中国語(普通話putonghuaとも言う)が標準日本語のようにすべての地域に普及しているわけではない。学校で教育を受けられなかった人々は標準中国語を話すことができるとは限らない。特に今回のような場合、学校教育をきちんと受けられなかった年配者、あるいは地元の方言しか話せない方々は、外部の人との意思疎通に問題が起こりかねないだろう。
中国湖北省の方言は大きく3つに分けられる。即ち、西南官話、江淮官話と贛方言である。これらの方言はさらに細かい方言に分けられる。湖北省に派遣された医療チームは主に西南官話の武漢、荊州、宜昌、襄陽の各方言、江淮官話の孝感、黄石、鄂州、黄岡方言および贛方言の咸寧方言などを話す9つの地域で治療に当たっていた。これらの方言を全国から応援に来た医療関係者が知らないか、または標準語をあまり知らない患者さんが医療関係者の問いに答えられないか、方言で返してくるということが起こり、何を話しているかをお互いに理解できず、聞き取れないことがあったので治療にまで影響を及ぼしはじめていた。
最初に派遣された中国山東大学斎魯病院の医療チームが湖北省黄岡市に着いた時、現場で働く医療関係者が言葉の違いにいち早く気づいた。医療関係者と患者との意思疎通に障害が起き、治療の有効性に影響を及ぼしはじめたため、看護師のZ氏が自ら対策を考え「自救」に乗り出した。最初の『看護師と患者とのコミュニケーションブック』(『護患溝通本』)を2月1日までは作成し終え、職場である大別山地域の医療センターで実用化しはじめた。その後、山東省から第5次で派遣され、2月9日に武漢に到着した同大学医療チームのG氏も言葉の問題に気付き、現地の医師や大学の関係者に協力してもらい、武漢に到着してからわずか48時間以内に『湖北省を支援する国家医療チーム武漢方言実用ハンドブック』(『国家援鄂医療隊武漢方言実用手册』)を作成し、現場で使用しはじめた。
北京語言大学言語資源先端イノベーションセンター(語言資源高精尖創新中心Language Resources High-precision Innovation Center)の李宇明氏は、中国山東大学斎魯病院の医療チームが自ら『武漢方言実用ハンドブック』を編集したことを報道によって知り、すぐに多数の大学や研究機関及び企業などと連携を取り、「戦疫言語サービスチーム」(戦疫語言服務団)を立ち上げ、わずか3日間で『コロナ感染対策湖北方言通』(『抗撃疫情湖北方言通』)という「製品」を作り、「最前線」の医療関係者や患者らに湖北省の9つの方言と標準中国語の対応語彙や会話などを提供した。『湖北方言通』には感染対策や治療のためによく使われる156の語彙と75の文が選定されている。
現場への言語対策としての「製品」の形式は多種多様である。ウェブサイトネットバージョン、オンライン電話相談サービス及びネット上のテキストなどがあり、音声データとマイクロビデオも継続的に再生できるようになっている。またウィーチャット(WeChat)バージョンもある。標準中国語と方言の文と語彙が対応しているため、QRコードをスキャンすれば音声再生システムが起動され、音声放送ができる。そして『融合媒体ポケットブック(Fusion Media Pocket Book)』も手帳の形で印刷され、さらにTikTok(抖音)バージョンも作られた。それ以外に、方言翻訳ソフトも使用され、インテリジェントによる音声発信システムや医療アシスタント電話ロボット、そして日本ではあまり知られていないが、噂であるか否かを確認できる「奇虎360」会社の検索サイトまで登場した。湖北省や武漢市政府からビデオ同時通訳サービスも提供された。こうして「言葉」の壁を乗り越えていったのである。
後にこれを活かし、『コロナ感染対策外国語通』(『疫情防控外語通』)、『コロナ感染対策「やさしい中国語」』(『疫情防控“簡明漢語”』)なども短期間で作成され、現場や外国人に提供された。「やさしい中国語」は日本の言語サービスとして、在日外国人に提供されている「やさしい日本語」からヒントを得て作られたという。「戦疫語言服務団」の「災害言語サービス」対応に参加した機関や業種は多く、500人以上の人々が参加していた。医療関係者だけではなく、他の分野からもこうした膨大な規模の人々が動きだして言語対策を取り、「災害言語サービス」を提供していたことがわかった。
英語版はこちら
<包聯群(ボウ・レンチュン)Bao Lian Qun>
中国黒龍江省出身。東京大学から博士号取得。大分大学経済学部・教授。中国言語戦略研究センター(南京大学)研究員。TOAFAEC『東アジア社会教育研究』編集委員。SGRA会員。専門は社会言語学、中国北方少数言語。『言語接触と言語変異』、『現代中国における言語政策と言語継承』(1-4巻)などの著編書多数。
2020年10月15日配信