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エッセイ665:フランコ・セレナ「私の『幸福の場』」

 

日本に初めて足を踏み込んでから何年も経ったが、今でもその頃のことを忘れることができない。当時はホームステイしながら生活していた。出発前は楽しみで仕方なかったが、日本に住み着いてからすぐ様々な壁にぶつかって落ち込む日々が始まった。その気持ちの処理方法が分からなくて、ホームステイ先の寝室で眠りにつくと母国にいる夢を見ていたことを今でも鮮明に覚えている。長い年月が経過して、私は今も日本に住んでいる。初めて日本に来た私に会うことができれば、「慣れてくるものさ、なんとかなるよ」と励ましの言葉をかけてあげたい。それだけではない。何よりも一つの助言を与えたい。「これさえあればちょっと幸せだなと思える『幸福の場』を常に心の中に持っていたほうがいいよ」ということである。

 

日本文化と日本語に触れ始めたのは、小さい時から興味があったのではなく、単に家族に逆らうためだった。小学校の時から高校までは家族の期待に応えるためだけに勉学に励んでいて、学問に関してはこれを知りたいという好奇心がほとんどなく、学校の課題に漫然と取り組んでいた。反抗期というのは誰にでも訪れる。私の場合はそれが大学1年生の時だった。当時は家族の期待を押し切ってでも自分の意思を貫きたいという考えにとらわれていた。日本語と日本文化に関心がなかったにもかかわらず、家族の反対に耳を傾けることなく、大学で日本語と日本文化を勉強しようと決めた。しかし、ついに日本にやって来た時、日本のことを学ぶ動機が家族への反抗に過ぎず、日本の言葉と文化を学んできたのにその学習には心を込めたことがなかったことに気づいた。特に日本文化に対する理解を示そうとしても誤解されることがほとんどで、大学で学んできたことをむなしく感じていた。落胆して帰国することばかり考えていた。

 

その私を救ってくれたのは日本語の先生だった。先生は日本の伝統芸能の知識が豊富で、特に歌舞伎に精通していた。ある日、落ち込んでいる私を見て、歌舞伎を見てみないかと誘ってくれた。当時の私は何に対してもマイナス思考で、歌舞伎に対しては堅苦しい、分かりづらいという印象しかなく、わざわざ銀座まで歌舞伎を見に行くのは気が重かった。それでも断るのが得意でなかったので、不本位ながらその先生のお誘いを受けることになった。

 

歌舞伎座へ入った瞬間に、歌舞伎の世界は思っていたのとは別物だということに気づいた。公演の前に顧客が売店を見回ったり、演目の概要を読んだりしながらにぎやかにおしゃべりをしていた。なんか、楽しそうだなと薄々思い始めた。そして、公演が始まった。歌舞伎は動きが少なく、聞きなれていない日本語で延々と演技し続けるものかと思ったら、躍動感のある場面も多かった。動きは少なくてもそれぞれ美しく、少ないからこそ感情であふれている。気が付くと、歌舞伎役者の鍛錬された動きと美しい台詞に魅了されている私がいた。あっという間に5時間がたっていた。

 

公演が終わった時、ちょっとした幸福感に包まれていた。その時初めて、このように日常生活を忘れることができる「幸福の場」、歌舞伎がある日本をもっと理解したいと「心から」思った。私の日本の見方はがらりと変わった。多くの壁にぶつかって辛い思いをしても、自分だけの「幸福の場」があると何でも乗り越えられると思えるようになった。誤解されることがあっても、それをばねにしてどうやってこの誤解が解けるかに力を注ぐことにした。歌舞伎は私を救ったといっても過言ではない。

 

この経験から、昔の自分に会えばこんなことを言いたい。何かをやり始めるきっかけは様々な形で巡り合える。その中には、興味が湧いてきてつかんだきっかけもあれば、偶然に現れるきっかけもある。あるきかっけをつかめば人生の新たな道が開かれる。時には自分には合わない道を選ぶこともあるし、その道を必ず歩み続けなければいけないというわけでもない。それでも、「幸福の場」を見つけることができて、この道を歩み続けたいと思っているのであれば、間違った道ではないかもしれない。

 

 

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<フランコ・セレナ Franco SERENA>
渥美国際交流財団2019年度奨学生。イタリア共和国ベネト州出身。2015年度慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程(民事法学専攻)修了、2020年度慶應義塾大学院法学研究科後期博士課程(民事法学専攻)単位取得退学。2020年度より筑波大学社会・国際学群非常勤講師、2021年度より武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部専任講師。

 

 

2021年4月1日配信