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2025.04.24
「テレビで映画をやってる!男の子が4人、線路の上を歩いている……僕ももう行かなくちゃ!」。
いつからだろうか、私の目標は子供の頃に憧れていた「ポケモンマスター(携帯獣達人)」から、「イミンドクター(遺民博士)」へと変わっていった。国が滅び、遺された民、縮めて「遺民」、この世の不思議な集団、「江南」に「中州」に「日ノ本」に、その数は100、200、300……いや、それ以上かもしれない。
私の研究対象はこの「遺民」と呼ばれている人たちだ。「遺民」とは何だろうか?簡単に言えば、「遺民」とは、旧王朝が滅びた後も生き残り、あるいは義を守り、新王朝に仕えることを拒んだ人々を指す。日本人になじみのある概念では、主家を失った「浪人」(例えば『忠臣蔵』)が最も近い存在だろう。中でも私は、漢人政権の明から満洲政権の清へという王朝交代を生き抜いた遺民、さらには中国大陸から逃れ日本へ渡った遺民たちを主な研究対象としている。
研究方法は主に文献学の手法を用いながら、フィールドワークも行う。歴史学者として遺民を追う作業は、私にとって「ポケモン探し」にとてもよく似ている。「遺民博士」の仕事とは、歴史の闇に埋もれてしまった未知の遺民を発掘し、図鑑を完成させることに他ならない。まず、膨大な古書の中から「野生」の遺民を探し出す。だが、注意を怠ると、彼らは逃げて行ってしまう。そして、古書だけではなく、山中の寺院、大名の屋敷、果ては墓地に至るまで、冒険の旅が必要になる。特に寺院においては、秘蔵の史料が外部に公開されることが少ない。まず「ミッション」をクリアしないと隠し場所に入ることすら許されない場合もある。
調査の途中では、遺民にゆかりのある庭園や橋、書道作品、石碑などに出会うこともしばしば。そうした瞬間、時を超え、昔の遺民たちと交錯する感覚に陥る。まるで彼らと「対話」をしているような不思議なひとときである。遺民を「捕まえる」ことに成功した後は、彼らを「遺民図鑑(遺民録)」に登録。その上で、分析と研究を重ね、論文として発表することで図鑑の説明文を埋めていく。最終的には、パートナーである遺民と学術成果を携えて学会に発表――ポケモンゲームのように「バトル」を行い、トレーナーやジムリーダー、さらには四天王に挑むことになる。ただし、ゲームと同様に、その遊び方や楽しみ方は人それぞれ。私の夢は「チャンピオン」になることではなく、図鑑を完成させ、本物の「遺民博士」となることだ。
私の研究の旅は、修士課程で明の遺民・王夫之という人物を選んだことから始まった。王夫之は顧炎武、黄宗羲とともに「明末清初の三大師(三大儒)」と称され、遺民の中でも最も著名な三人のうちの一人。私は彼らを明遺民の「御三家」と呼びたい(王夫之は当時あまり知られておらず、清末になって同郷の曾国藩によって発掘された人物)。この「御三家」を初期パートナーとして修士論文を完成させたことで、本格的に「遺民博士」への旅路を歩み始めた。博士課程に進学する前、指導教官の小島毅博士から「顧君も曾国藩のように、将来は王夫之に匹敵する遺民を発掘してほしい」と言われた。その言葉を胸に、博士課程では、さらに知られざる遺民たちを探し求めた。広く知られる南方の遺民だけではなく、北方の李楷や日本に逃れた戴曼公、張斐といった人物も対象とした。
遺民を発掘する際、よく使うのは「芋づる式」という「遺民捕獲」のコツだ。東洋文化研究所の大木康博士から学んだ方法で、遺民の友人たちもまた多くが遺民であることから、一人を見つけると、繋がりを辿って次々と新たな遺民を発見できるというものだ。この連鎖が続くと、時には非常にレアな「伝説遺民」に巡り会う。特に未知の遺民や未発掘の史料を第一発見者として見つける瞬間は、新種のポケモンを発見した時のような感動がある。最近、約400年前に明の遺民が記した『宋遺民広録』という失われた書物を再発見した。この発掘過程は、まるで「古びた海図」を手に「最果ての孤島」へ向かい、ミュウと出会う旅のようだった。遺民を探し出す過程は「ポケモン探し」のようなもので、その過程には驚きと発見が詰まっており、楽しさに満ちている。
幾多の試練を乗り越え、遺民研究学界の「マスター」になるために、そして最高の「ドクター」になるために、新たな出会いを繰り返しながら、遺民仲間たちとの旅は今日も続く。続くったら続く……
<顧嘉晨(こ・かしん)GU Jiachen>
2024年度渥美国際交流財団奨学生。東京大学大学院人文社会系研究科(アジア文化研究専攻東アジア思想文化専門分野)博士課程。日本学術振興会特別研究員DC1、国際日本文化研究センター特別共同利用研究員を経て、現在桜美林大学リベラルアーツ学群非常勤講師。専攻は遺民思想史。日本儒教学会賞受賞。
2025年4月24日配信
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2025.04.17
2023年の夏、留学中だったオーストラリア・アデレードで、渥美国際交流財団の奨学金申請書類に取り組んでいた。「国際交流への関心」という課題を見て、「これは私にぴったりのテーマだ」と思った。私自身や家族は多文化の背景を持ち、高校生の頃から自治体や学校の国際交流や留学プログラムに積極的に参加してきた。だからこそ、私はこの財団が求める人材に違いないと、根拠のない自信すら抱いた。しかし、審査を意識するあまり、実際に書いた内容は「国際交流とはかくあるべきだ」という一般的な枠組みに沿うものだった。あの時は書ききれなかった本音を、奨学期間が終わる今、改めて率直に綴ってみたい。
国際交流の場では、しばしば「○○人」と「××人」といった対比がなされる。あたかも、明確に定義された2つの文化が交わるかのように。例えば、過去に私が参加したプログラムでは、「日本人として恥ずかしくない行動を!」、「日本人としての誇りをもって」、「日本文化を外国人に伝えよう!」といった言葉が飛び交っていた。これらの言説には暗黙の前提が含まれている。1つ、画一的で普遍的な「日本文化」が存在すること。2つ、「日本人」であれば、それを知っていて当然であること。3つ、その場にいる参加者全員が「日本人」であること。これらの前提は本当に正しいのだろうか。
例えば、プログラムに参加していた人々が同じ文化的背景を持っていたかというと、そうではない。沖縄出身の友人は「お節料理を食べたことがない」と言い、広島出身の友人は「3.11を経験していないことに負い目を感じる」と語った。その場には在日コリアンの友人や、ミックスルーツの人もいた。それでも「日本人としての文化的統一性」が求められる場面では、こうした個々の違いは無いものとして扱われたり、「例外」として扱われたりする。私自身、日韓の背景を持つが、国際交流の活動におけるそのような言説に対し、違和感を覚えることがある。それは、アイデンティティを「勝手に決めないでほしい」という思いと、狭い「日本人らしさ」に押し込められる息苦しさがあるからだ。
私は研究を通じて、「日本人らしさ」がどのように定義され、それと「ハーフ」というカテゴリーがどのように関係しているのかを社会学的に分析してきた。「ハーフ」はしばしば画一的な「日本人」イメージを広げる存在として語られる。だが、実際には見た目や振る舞いといった「日本人らしさ」からの部分的な逸脱を説明するための「ラベル」として機能している。「この人は日本人っぽくない」と感じたとき、「ハーフなのでは?」と推測することで、その違和感を説明しようとする。私の調査では、外国にルーツがないにもかかわらず「ハーフ」と誤認される人々も含まれていた。つまり、マジョリティ・「日本人」とされる人々の間にも見た目や振る舞い方や文化といった多様性はあるはずなのに、そうした多様性はしばしば無視され、「ハーフ」といった単純化されたカテゴリーに押し込められてしまうのだ。
こうしたカテゴリーの枠を外して考えると気づくことがある。「○○人」や「ハーフ」といった言葉では捉えきれない多様性が存在することに。世界は単純な二分法では説明できず、三分法や四分法でも十分に捉えきれない。「画一的な国・人と、画一的な国・人同士の交流」という、一般的な国際交流の捉え方には限界がある。国際交流とは、異なる2つの文化の間に橋をかけることだけではない。むしろ、個々の背景や経験を尊重し、固定化されたカテゴリーを超えて対話することではないだろうか。
<佐藤祐菜(さとう・ゆな)SATO Yuna>
神奈川県平塚市出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。専門は国際社会学および人種・エスニシティ研究。2025年4月より特任研究員(日本学術振興会特別研究員PD)として東京大学社会科学研究所に所属。慶應義塾大学社会学研究科後期博士課程在学中に南オーストラリア大学とのダブルディグリー制度に参加し、2023年3月から一年間、オーストラリア・アデレードに留学。2025年3月に慶應義塾大学で博士号(社会学)を取得し、2025年5月に南オーストラリア大学からも博士号を取得予定。
2025年4月17日配信
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2025.04.06
2025年3月28日午後12時50分(日本時間:15時20分)、ミャンマーの中心部にあるマンダレー市の近くサガイーを震源にマグニチュード7.7の大地震が発生した。地震の経験が少ないミャンマーの人々にとっては、瞬時に自分が生き残れるかが決まる一生忘れられない出来事だった。予測もしていなかったし経験もないから、地震直後は困難なことがたくさんあった。
「サガイー断層(Sagaing_Fault)」と呼ばれる1200キロ以上もある長い断層がミャンマーを南北に縦断していることは、1930年ごろから専門家によって指摘されていた。今回の大地震を引き起こした動きは「ストライクスリップ」であり、2つのブロックがお互いに水平に動いた。実は、サガイー断層プレートを中心とした大地震が100年後(現在)に起きるとも予測されていた。
ミャンマーの首都ネピィドー管区、マンダレー管区、サガイー管区、南シャン州に大きな被害が起きて多くの建物が潰れた。4月1日に死亡者2719人、負傷者4521人、行方不明441人と発表があり、その後も増加し続けている。
多くの高層ビル(例えば11階建て1000室以上のスカイヴィラ高級マンション)が潰れ、たくさんの命が失われた。地震の後、マンダレーの街に出てみると、家を失ってホームレス生活をしている人々がたくさん居た。命が残されても食料や水、寝る場所、仕事場がなくなり、夢を失い、心の傷を負っている。階段を見るだけで怖い、家は残ったが戻るのが怖い。一瞬のうちにホームレス生活になった友人たちを見て、支える言葉も出ない。40度以上の暑さは被災者の健康をむしばむ。5月になれば雨季に入り、テント生活もできなくなる。被災者のために心が痛む。
自分に命が残されたのは幸せなことだった。地震が起きた時、マンダレー市にある市民病院に2カ月半前から入院している91歳の父親のところに居た。父を背負って4階から階段で運び出した。父はこの混乱によるショックで危機的な状態に陥ったが、病院スタッフのみなさんのおかげで助かった。
地震が発生した時、家族はばらばらだった。幸いにも病院のインターネットがまだ使える状態だったので、バンコク留学中の娘から連絡があり、お互いの無事を確認した。マンダレーの学校に通っている次女は潰れた校舎から抜け出し、先生たちと避難したとの連絡があり安堵した。6階の自宅に居た妻と息子に連絡が取れなくて心配したが、2時間後に私が経営する居酒屋のスタッフと避難したとの連絡を受け、やっと全員の無事が確認できた。「イビススタイルホテル」内にある「居酒屋秋籾(AKIMOMI)」は大きな被害を受け、日本から苦労して輸入した大事な食器や飾り物が壊れてしまった。ただ、マンダレーから車で1時間ほど離れた避暑地ピンウーリンで経営する「ホテル秋籾」は、日本人の設計と監督によって建設されたこともあってか、大地震の影響はほぼない。
今回の大地震によって、家族とスタッフ全員の命に影響が無かったのは幸せだった。そこで、被災者のために私ができることをしようと考えて支援活動を始めた。まず、「ホテル秋籾」に滞在しているマンダレーからの被災者(多くは、年配の方たちと子供たち)に心の傷を短時間でも忘れてもらうために、特別な夕食を無料で提供して皆さんに美味しく、楽しく過ごしていただいた。部屋代の割引やできる限りのサービスを行った。ホテルに滞在している100人ぐらいの被災者しか支援できないので、お弁当も作って病院に差し入れた。
今、私の力ではお弁当や飲み水を配布することしかできない。これから必要になる医薬品やドライフード、ソーラー電気関係やテント、寝具など被災者支援のための募金を始めた。このエッセイを読まれる皆様にも「ミャンマー大地震復興支援活動のための募金」にご協力を願いしたい。
※地震被害の状況や支援活動の写真
<キン・マウン・トウエ Khin Maung Htwe>
ミャンマーで「小さな日本人村」と評価されている「ホテル秋籾(AKIMOMI)」の創設者、オーナー。マンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手、Ocean_Resources_Production社長を経て「ホテル秋籾」を創設。SGRA会員。
2025年4月10日配信
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2025.03.28
2023年末、ナポレオンの生涯を描いた映画が公開された。メガホンを取ったのは、古代ローマの剣闘士を描いた<グラディエーター>など、数々の名作を持つリドリー・スコット監督である。フランス革命史を専攻する私は、渥美国際交流財団の忘年会でこの映画についての好意的な感想を聞き、早速期待を寄せながら映画を観た。率直な感想としては、壮観な光景に圧倒されながらも、いくつかの点でどうしても違和感が拭えなかった。ナポレオンはマリ=アントワネットの処刑に立ち会っていない、ギザのピラミッドに向けて大砲を放っていないなど、歴史家たちは史実に反する点を多々批判しているが、私が最も気になったのは主演ホアキン・フェニックスの年齢である。
ナポレオンは1769年に生まれ、35歳の若さで皇帝になり51歳で死んだが、フェニックスは映画公開時点で49歳だった。映画冒頭のマリ=アントワネットの処刑やトゥロンの戦い(1793年)のシーンでは、まったく若作りせずに演じていたが、当時ナポレオンは20代前半の青年だったはずで、とても奇妙に感じられた。また、ナポレオンより6歳年上の妻ジョゼフィーヌ役はフェニックスより14歳年下のヴァネッサ・カービーが演じ、ナポレオンの上官に相当する14歳年上のポール・バラスもフェニックスより7歳年下のタアール・ライムが演じている。中年の男性と若い妻、年下の上官と初老の部下のように見えて、どうしても違和感が拭えない。しかも当初、ジョゼフィーヌ役はもっと若い女優、1993年3月生まれの30歳のジョディ・カマーが演じる予定だったが、パンデミックの影響で撮影延期となり都合がつかなくなったという経緯があるそうだ。本来であれば、もっと年齢差を感じる配役となっていたかもしれない。
英『タイムズ』紙のインタビューを受けたスコットは、史実との整合性について次のように答えている。「ナポレオンが死んで10年が経ち、誰かが本を書く。そしてある者がその本を手に取り、新しい本を書く。こうして400年(*原文ママ)が経ち、[歴史書には]多くの想像が含まれている。歴史家たちと揉めるとき、私は次のように問う。『すみません、あなたはそこにいたのですか?ノーですって?おやおや、それなら黙っとけ』と」。もちろん、映画監督と歴史家の仕事は違うし、観客を魅了させるための創作・演出は許されて然るべきだが、スコットは歴史家の仕事を分かっていない。二次資料(研究文献)にのみ依拠した研究はアカデミックな歴史学研究とは認められない。私たちは常に一次資料(原典史料)にまで降り立って調べるのだ。ちなみに、ナポレオンとジョゼフィーヌとの年齢差についても、スコットは「重要ではない」と一蹴しているが、せめて若作りさせてほしかった。
だが、スコットの「言い訳」はある意味で正しい。あまりに多くのことが語られたために、ナポレオンのイメージは想像に満ちている。ナポレオンに関する言説の信憑性を考察したリチャード・ホエートリーは、「語られたことすべてを信じようとすれば、一人ではなく、二、三人のボナパルトが存在したと考えなくてはならない。もし十分に裏づけのとれたものだけを認めるならば、一人も存在しないのではないかと疑わざるを得ないだろう」と述べている。唯一キャスティングの点でスコットを擁護できるとすれば、フェニックスの顔は、いくつかのナポレオンの肖像にどことなく似ている気がする。
だが、絵画も政治的意図を持って脚色されたものばかりで、あまり信用すべきではない。おそらく、多くの日本人が思い浮かべるナポレオンのイメージは、画家ダヴィドが描いたアルプスの山を白馬で颯爽とかけ登る姿だろうが、実際には、半世紀後にポール・ドラロシュが描いたようにラバで苦労したとされる。ダヴィドの弟子にあたるグロやジェラールら新古典主義の画家たちも、戦争を指揮する勇姿や現人神のごとく着飾った皇帝の姿を描いているが、等身大のナポレオンを描いたとは考え難い。ナポレオン自身が印象操作に心血を注いでいたからである。
私はナポレオン没後200周年であった2021年に、ナポレオンの人生と遺産を振り返りつつ、人々がナポレオンを映画、小説などで取り上げてやまないことこそ、彼が遺した最大の遺産だという趣旨のエッセイを執筆したことがある(『人文会ニュース』第137号)。シャトブリアンは、「ナポレオンは、生きているときには、世界を獲得し損ねた。死んでから世界を手にした」と述べたが、ナポレオンの最大の功績は、数々の戦勝でも民法典でもなく、彼の人生が映画などで取り上げられ、人々を惹きつけてやまない点にあるのではないだろうか。
<楠田悠貴(くすだ・ゆうき)KUSUDA Yuki>
大阪公立大学都市文化研究センター研究員、および立正大学・岡山大学非常勤講師。2015年に東京大学大学院博士課程に進学した後、フランス社会科学高等研究院修士課程、パリ第一大学(パンテオン=ソルボンヌ)大学院博士課程に留学し、現在博士論文を執筆中。専門はフランス革命期・ナポレオン統治期の政治史、政治文化史。主な論文に「ルイ16世裁判再考」(山﨑耕一・松浦義弘編『東アジアから見たフランス革命』風間書房、2021年所収)、単訳書にマイク・ラポート『ナポレオン戦争』(白水社、2020年)がある。
2025年3月27日配信
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2025.03.20
3月も啓蟄を過ぎ、暖かくなる日が増えてきました。春の到来を感じさせる晴れの日にこれまでの研究生活をのんびりと振り返りながら、この原稿を書いています。
嘘である。今日は朝から寒いうえに雨が降っている。学会発表や報告書作成、査読依頼の対応に残りの実験と標本の整理、研究室の片付けなどにかまけているうちに締め切りも残り3日を切ってしまった。良い文章を書くには適度に追い込まれることが必要だと聞いたことがあるが、私の場合、悲しいことに追い込まれる状況にあっても一向に筆は進まず、心身が疲弊していくばかりである。このくらいの文字数なら2時間もあれば余裕で書けると嘯(うそぶ)いた2時間前の自分に悪態をつきながら未だ机に向かっている。
博士課程での研究は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響をもろに受ける形で始まった。2020年の4月2日に資料を受け取りに大学に行った後、6月末まで研究室に入れなかったことをよく覚えている。その後も研究室での滞在時間の短縮や、演習林での野外調査の延期などの制限を受け、当初の研究計画も一部変更を余儀なくされることになった。
このように、目に見えないものに振り回された4年間であったが、その一方で様々なご縁にも恵まれた。特に、2023年度は渥美国際交流財団の奨学生として貴重な経験をさせていただいた。財団ならびに元奨学生(ラクーン)の皆様が企画してくださった交流会では、人文・社会科学のほか、自然科学でも工学や医学など、普段自分が接する機会のない研究領域(と私も思われていたのは想像に難くない)を扱う同期の方々と交流することができた。各々のバックボーンや研究分野、研究アプローチが大きく異なることから、最初は不安もあった。しかし、韮崎でのワークショップをはじめ、研究報告会や新年会での餃子作りなどを通して相互にやり取りを重ねる中で、それらが違えども、苦労する点は意外と似ていたりすることなどを知るとともに、日々研究に取り組む同世代の人がこんなにたくさんいるのだと嬉しくなった。「龍吟じ虎嘯く」とはこのような時に使うのだろうか。
「相互のやり取り」という語に関連して、自分の研究についても少し触れたい。私は、マツ科やブナ科などの樹木、それらと地下部で共生関係を結ぶ外生菌根菌と呼ばれる真菌、根のまわりに生息する根圏細菌の三者を主な対象として、それらの相互作用に関する研究を行っている。これらの共生微生物は、宿主樹木から光合成産物の供給を受ける代わりに、宿主の成長促進や、植物病原菌に対する抵抗性の向上などに寄与することが明らかになっている。一般的に微生物といえば、カビやバイ菌などといったネガティブな印象を持たれがちだが、これらのように、植物の生育に不可欠なものも数多く存在することを知ってもらえると幸いである。
こうした森林生態系における微生物に関する研究を志したきっかけは定かではないが、研究を続けると決心した一端には、『蟲師』という漫画の影響があったような気がする。この作品では、「蟲」と呼ばれる、生命の根源に近いとされる架空の存在が引き起こす現象と人間とのやり取りが描かれている。研究を始めた当初、私は周囲と比べて研究対象の生物に対する偏愛が欠けているのではないかと後ろめたさのようなものを勝手に感じていた。しかし、医師や研究者を兼ねる主人公の、蟲に対して「奇妙な隣人である」と明確に線引きをしたうえで関わっていくスタンスに、それぐらいの距離感で向き合う研究者がいても良いのだと思い直した覚えがある(当該の描写は『春と嘯く』というエピソードで確認することができる)。なんだか話が上手くまとまり過ぎている気がするので、都合の良い記憶の後付けかもしれない。いずれにせよ、今後も地面の下(しばしば地表)にいる奇妙で興味深い隣人たちの研究を続けていければと考えている。
多くの方々の助けを借りて博士号を取得するところまで来ることができた。この場を借りて厚く御礼を申し上げる。来年度からは、相変わらず先行きが見えない研究生活が続くが、新たな環境や研究テーマにワクワクもしている。「どうにかなるさ」、と嘯いていきたいものである。
<白川誠(しらかわ・まこと) Makoto SHIRAKAWA>
埼玉県出身。2023年度渥美国際交流財団奨学生。東京大学大学院農学生命科学研究科附属アジア生物資源環境研究センター特任研究員。2018年に東京農業大学で修士号(林学)、2024年に東京大学で博士号(農学)を取得。森林圏に生息する微生物の分類と保全、利用に関する研究を行っている。2025年4月より千葉県内の私立大学に助教として着任予定。
編注:このエッセイは2024年春に書いていただいたものです。
2025年3月20日配信
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2025.02.27
2016年4月、私は東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に入学し、労働法を専攻することになりました。それまで台湾の大学で法学を学んできましたが、日本の大学院で学ぶことは私にとって大きなチャレンジでした。
東京大学の労働法の指導教員や先輩たちは、私を暖かく迎え入れてくれました。ゼミでは活発な議論が行われ、教授からは丁寧な指導を受けることができました。当時労働法専攻の大学院生は私1人だけで、寂しさを感じることもありました。日本語での議論についていくのは容易ではなく、日本の社会や文化になじむのにも時間がかかりました。
そんな中、私は渥美国際交流財団に出会いました。財団の奨学金を受け、イベントに参加したりする中で、同じように日本で学ぶ留学生たちと交流を深めることができました。来日6年目にして、初めて日本で帰属意識を感じる場所が見つかりました。母国を離れ、異国の地で学ぶ私たちにとって、渥美財団は心の支えとなりました。財団を通して出会った友人たちは、今でも大切な存在です。
振り返ってみると、「留学」を通じて初めて比較法の重要性と価値を理解することができました。どの国でも、市場の背景や社会状況は異なりますが、共通の問題点が存在することに気づきました。この共通認識を踏まえた上で、各国の市場背景の違いなどに基づいて法政策を分析することが可能になるのです。
例えば、学部時代に台湾大学法学部で日本の労働法に関する論文を読む機会がありました。東亜ペイント事件の判決で示された転勤命令について、業務上の必要性がない場合や不当な動機・目的がある場合や、労働者に「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせる場合」等、特段の事情がない限り権利の濫用に当たらないとされた点が当時は理解できませんでした。日本の判例法理はなぜ使用者の配転命令をそこまで認めるのだろうと疑問に思っていました(東大法学政治学研究科への入学にあたり、この問題意識とワークライフバランスをテーマに研究計画書を提出しました)。
その後、東大で本格的に労働法を学ぶ中で、日本の労働市場が長期雇用慣行・終身雇用制を採用し、厳しい解雇規制によってこの制度が支えられていることを理解しました。特に能力不足の労働者に対する解雇制限が極めて厳しい状況で、使用者に広範な配転命令権を認めることで、不適任の労働者を他の部門に配置換えできるようにし、長期雇用慣行と厳しい解雇規制を成り立たせていることが初めて分かりました。
逆に、台湾の労働市場は雇用の流動性が高く、能力不足の労働者に対する解雇に関する規制が相対的に緩やかであり、これが台湾及び日本の法政策の違いを浮き彫りにしています。日本へ留学しなかったら、他者の目となって自国や他国の法制度を分析する機会は得られず、比較法という学問の真髄を体験することは難しかったかもしれません。
大学院での研究は決して楽なものではありませんでしたが、指導教員や先輩、そして渥美財団の支援があったからこそ、乗り越えることができました。日本での経験は、私の人生を大きく変えてくれました。日本の社会や文化に触れ、多様な価値観に出会ったことで、視野が広がりました。
渥美財団で出会った仲間たちとは今でも交流を続けており、互いに刺激し合いながらそれぞれの道を歩んでいます。日本留学は、私にとってかけがえのない経験となりました。東京大学の恩師や先輩方、渥美財団の皆様には心から感謝しています。これからも日本と台湾の架け橋となるべく、研究と教育に励んでいきたいと思います。
<黄若翔 HUANG_Jo-Hsiang>
台湾の新竹県で生まれ育つ。中学校卒業後台北に進学し、国立台湾大学法学部を卒業(2016)。同年、思鴻教育財団の奨学金を得て、日本の東京大学大学院法学政治学研究科へ留学し、修士号(2019)および博士号(2024)を取得。在学期間中、東京大学先端ビジネスロー国際卓越大学院奨学生、渥美財団奨学生および日本学術振興会特別研究員(DC2)に選出される。博士号取得後、日本独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)にて研究助手を務めた。現在は台湾の国立清華大学科技法律研究所に助理教授として勤めている。
2025年2月27日配信
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2025.02.20
2024年9月に博士号を取得する際、アカデミア研究者としてのキャリアを追求するか、あるいは企業の世界へ移行するか、という選択を迫られました。日本での留学経験を振り返ると、すべては9年前に名古屋大学の学部プログラムに入学したときから始まります。この経験が学問的に豊かになるだけでなく、個人的な成長や文化への没頭の貴重な機会を与えてくれたからです。
学部時代に私が参加したグローバル30というプログラムは、様々な国や背景からの学生を受け入れていました。多様なバックグラウンドを持つクラスメートとの交流は新しい文化や視点を学ぶ機会となり、ハイキングやジャズ音楽など多くの新しい興味を見出すこともできました。その後は東京大学大学院に進学し、修士課程を修了、博士課程に進みました。博士課程は私の人生において最も挑戦的で、かつ充実した経験の一つでした。
まず、博士課程は非常に時間とエネルギーを要するものであることを強く実感しました。研究や論文執筆に集中するためには、日々の時間管理と自己犠牲が欠かせませんが、このプロセスを通じて、自己管理能力や粘り強さを向上させることができました。また、数々の試練や挫折に直面しながらも、それらを乗り越える戦略を身につけることができました。「擬似天然チオペプチド創薬プラットフォームの開発」という研究テーマが異なる学問領域や専門知識の統合を必要とする複雑な問題に関連するため、様々な学際的なアプローチが求められました。さらに、博士課程は独自の研究を行い、その過程で自己表現と創造性を発揮する場でもあります。自分自身のアイデアや仮説を探求し、それらを実証するための研究を進めることは非常に豊かな体験でした。新しい知識や発見を生み出す喜びは、私の努力への報酬であり、研究への情熱をさらに燃やしました。
これらの9年間を通じて自分の強みや弱みを理解し、克服する方法を見つけたことは、私のキャリアと人生の中で非常に重要なスキルになると感じています。多様な学術的追求に参加し、最先端の研究に没頭し、同僚や指導者と意義深いつながりを築いてきたことで、学生として、そして学術研究者としての生活は充実していました。時折疲れることもありましたが、そのような困難にも関わらず、興味を追求し、情熱を存分に追求する自由を大切にしてきました。
いざ卒業、となった時に根本的な問いに直面しました。基礎研究や教育を通じて知識とイノベーションを推進するために学術の道を進むべきか、それとも企業や産業の環境で専門知識を活かすべきか。産業界でのキャリアはより快適で安定した生活を約束するかもしれませんが、個人的な興味に没頭する自由を手放すことが心に重くのしかかります。
自分の旅を振り返ると、私は常に社会に意味のある貢献をし、影響力のある発見をすることを志してきました。この志が学術的努力を通じて研究の機会を追求し、直面する課題に立ち向かうよう私を導き、実験室、教室、文化的浸透のいずれの経験でも私の視野を広げる原動力となっています。
私は幸運に恵まれ、博士課程で行った研究を続けることができるスタートアップに参加することになりました。ここで世界に意味のある貢献をし、イノベーションを起こし、積極的な変化をもたらすという強い使命感に駆られています。
<チャン・ジュンシ CHANG Jun-shi>
クアラルンプール出身。2015-2019:名古屋大学理学部化学科学士(阿部研究室)、2019-2021:東京大学大学院理学系研究科化学専攻修士課程 (菅研究室)、2021-2024:同博士課程。現在はDayra Therapeutics社勤務。
2025年2月20日配信
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2025.02.14
長い間一つの研究課題に取り組んでいると、もともとは知的興奮から選んだテーマでも、いつの間にか味気なくなってしまうという経験をしたことがある研究者は少なくないだろう。私も長年にわたって歴史研究に従事する過程で頭が疲れることがあり、その際に、失われつつあった「思考散歩」の楽しさを再び感じさせてくれたのは、一人の先輩との対話であった。そのなかでの話題に歴史(学)と「美」の関係があった。以下にそのときに湧いてきたとりとめのない考えを少しまとめてみたい。
まずは、歴史が美的判断の対象となり得るかどうかという問題である。そういった判定につながる観察の対象となり得る客観としての「歴史自体」のようなものはないであろう。歴史はむしろ人間の作ったストーリーであり、ストーリーテリングから切り離しては存在しない。確かに、単に過去のものとその変遷を「歴史」と定義すれば、人間がそれを物語ることを必要条件としない存在があるといえるかもしれない。しかし、それがひとたび「歴史」になると、その存在は消える。この一度消えた存在を復活させて現在共有できるのは、結局人間の物語る歴史である。歴史学もその一種に違いない。
では、ストーリーとしての歴史は美的判断の対象となり得るだろうか。私は、なり得ると思う。ただし、このストーリーとしての歴史の何を対象にするかにより、判断の性質が異なってくると考えられる。
例えば、(一)芸術としての歴史を対象とし、その「美」を判断する場合は純粋な美的判断に近いといえよう。歴史小説や詠史、歴史映画など、おそらくどのような歴史叙述でも、それなりに芸術的な観点から美的判断をくだすことが可能であろう。ただし、歴史学に関していえば、あくまで私見だが、多くの研究書は、客観性を高めようと努めているためか、言語用法がかなりテクニカルであり、そこに「美」を認めることは難しい。
他方、(二)歴史として語られるものを対象とする場合、美的判断が純粋ではなくなることがある。社会の激変に直面する人間が過去を美化する現象がその例として挙げられる。近代において産業化・資本主義化・都市化していく社会から失われてしまう過去の美風に憧れた人々にとっては、その客観、すなわち彼らの見た「歴史」は美しく見えたのであろう。デジタル化に伴ってまだ把握しきれない変化を受けている現代社会においても似たような傾向があるように思われる。しかし、この場合、憧れる過去の美風は単に「美しい」だけではなく、「善い」ものでもあり、理性を介し概念をつうじて理解されるようである。すなわち、それには社会・美風が何であるべきかというある目的の概念が含まれ、さらには「そういう美風のある社会に生きたい」「社会にそうあって欲しい」というような、ある種の関心が含まれているのである。
歴史学の文脈においてはどうか。歴史学者が過去の「美」を掘り出そうとすることもまれにあるかもしれないが、普段は研究対象とする人物や事象を批判的な目で見ている。私も自らの研究で過去の思想家が書いた文章を読んでいる際に、その美しい語句や一見して崇高な思想に対して美的感情を抱くことはあるが、その裏にあるさまざまな問題を分析していくにつれて、その美しさがだんだん?がれ落ちていく。その理由は、単に観察において対象を判定するのみならず、そこに何らかの道徳的観念が関与してくるからだと思う。歴史学の研究対象が人間と人間社会である以上、その対象をめぐる判断には、人間がどうあるべきかという目的の概念および人間にどうあって欲しいかという関心が含まれてくるのは当然である。美しいと判断しても、その場合の「美」は「善」と結びあっており、あえていえば「随伴的な美」である。歴史研究の一つの意義が過去から教訓を得ることにあるとすれば、この研究には現代社会をより善いもの、より美しいものにする可能性もあるのではないだろうか。
<ロバート・クラフト Robert KRAFT>
ドイツ出身。2010年から2018年までライプツィヒ大学(ドイツ)で日本学を専攻。学士課程と修士課程においてそれぞれ1年間千葉大学に短期留学。2019年に筑波大学の日本史学の博士課程に編入学。2024年に博士号(文学)を取得。
2025年2月13日配信
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2025.01.30
「刮痧」(監督:鄭暁龍、2001年上映)という中国映画がある。「刮痧」とは専用の板で背中をこすって皮膚を充血させ、様々な症状を改善する伝統的な中医療法である。映画では、米国で暮らす中国人3世代家族の子育てを取り巻く異文化間の葛藤を描写している。主人公は人前でも息子を厳しくしつけるべきだという文化信念を持ち実践していた。そして、主人公の父親は、ある日熱が出ている5歳の孫に「刮痧」の治療法を行った。後に息子の背中にある大面積の傷を医者に発見され、深刻な虐待の証拠として警察に通告される。さらに日常的な体罰を行っていたことも米国人の知人に指摘され、一家は強制的に親子分離を要求されることになった。中国文化に根差した親子観念、育児様式と西洋の人権観念、社会制度との間の矛盾は、その後親権をめぐる主人公と児童福祉施設との裁判で露呈する。
そうした葛藤が日本社会でも現実になるのはおかしなことではない。私は7年間、日本と中国の児童虐待について研究している。儒家文化に根差した親子観念は類似していたが、社会制度の変化とともに、現在の日本と中国では「児童虐待」の扱いが異なってきている。中国では親による子どもへの体罰が一般的な事象であり、極端な暴行を加えない限り、「良い家庭教育の方法」として認められると言っても過言ではない。日本では2000年に『児童虐待防止法』が制定されて以来、児童虐待の範囲がどんどん拡大されており、身体的・心理的な暴力やネグレクトを含めた不適切な養育が虐待として非難されている。また、虐待の疑いがあることに気づいたら、保育士や教師、小児科医など子どもに身近に関わる人だけでなく全国民が通告する義務を課せられた。
一方、日本では家族形態が多文化・多民族化の様相を呈している。法務省によると2023年6月時点で日本に中長期滞在している中国人は82万人を超え、国別1位。中国にルーツを持つ未成年の子どもも最多だ。中国の伝統文化に触れながら育てられている子どもが非常に多いということである。しかし「児童虐待」への扱いや認識の差異は、家庭という閉鎖的空間において育児を通して具現化される。中国人親にとっては育児の壁となり、また、日本社会での児童虐待防止に支障をきたす。
知り合いの中国人母親による出来事がきっかけで、異文化の児童虐待防止の課題を垣間見ることができた。この母親は子どもをしつけようと思い、つい2歳の子どもに体罰的な行動を行った。隣人が泣き声を聞いたのか、保育園の先生が体の傷に気づいたのか、自宅で児童相談所と警察から事情調査を受けることになった。母親はとてもショックを受け、混乱して「自分の子どもを虐待するわけがないのに」と大泣きしながら訴えたという。
こうした事例は珍しくない。生活経験を投稿できる「小紅書」(RED)という中国の人気ソーシャルメディアのアプリがある。そこでは類似した経験を訴えた日本在住の中国人母親による投稿が多数見られる。「親として自分の子どもを厳しくしつけるのはダメですか?」「育児は他人と関係ないのに通告されるのはなぜ?」など、日本の「児童虐待」への扱いや制度に対して困惑を感じているようだ。彼女たちを責めるつもりはない。日本語を知らない者もおり、日本語を知っていても日本の児童虐待に関する情報を知ることは難しい。ただ「これまでの文化信念=ちゃんとしつけようと思ったのに」vs.「現代日本の法制度=虐待者として疑われ、調査された」の苦境に立っており、「どうしつけすれば良いのか?」に関する的確な援助を必要とする。この苦境が親の育児ストレスに繋がり、より深刻な虐待に至る可能性があるからだ。
日本の児童虐待の早期予防に関する主な取組みは、日本人の虐待リスクを基準に成り立ったものであり、虐待のリスクを踏まえながら、母子保健や啓発活動などを通して親を支援することが基本である。しかし子育て中の親の持つ文化背景がどんどん多様化する中、虐待の早期予防に向かうリスクアセスメントに画一的な判定を使用しているのは適切ではないと考える。不思議に思うのは、「児童虐待」という子どもの権利に関する緊急性の高い課題を抱えているのに、これだけたくさん日本で暮らしている中国人や外国人の親たちが、日本の福祉制度の情報を入手しにくいため援助を受けられないことや、文化背景を配慮した育児に関する的確な援助がめったに提供されていないことである。私は児童虐待予防の視点から在日中国人親の子育てを支援していけたらと考えている。
<何星雨(か・せいう)HE Xingyu>
中国・浙江省杭州市出身、2015年7月に来日。2023年度渥美財団奨学生。2024年3月に東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を修了し、博士号を取得。日中両国の児童虐待予防に関心を持っている。現在は子どもの権利と保育に関する研究を続けながら東京家政大学、文教大学、女子栄養大学の非常勤講師として務めている。
2025年1月30日配信