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エッセイ801:エマヌエーレ ダヴィデ ジッリォ「一つ以上の「霊性(精神性)」を併せ持つことについて~多宗教的な信仰体験をする人の心構え~」
以前のエッセイで「私は自分のことをクリスチャンであり、仏教者でもあると思っている」とか、「違う宗教の方と結婚した人、その子供たちのアイデンティティー論、ハーフの方」は、「一つ以上の母国語、一つ以上の文化、場合によっては一つ以上の霊性(精神性)を持つ方もいる」(参考:「私の宗教と信仰:「~でもある」という在り方について」)という話を書きました。ハーフや国際カップルでなくても、日本でそういう方を何人も知っています。
しかし、「一つ以上の「霊性(精神性)」、要するに一つ以上の宗教や信仰を持っている方もいるという話をすると、違和感を持つ方がいます。日本では僧侶だったり、宗教2世・3世の方だったりもします。今回のエッセイでは、どうやって一つ以上の「霊性(精神性)」を同時に併せ持つことができるのか、「多宗教的な信仰体験」ができるかについて、詳しくお話ししてみたいと思います。
基本的に「霊性(精神性)」を一種の「言語」と捉えます。「宗教・信仰・精神性は言葉だけじゃない」とか、「言葉だけの問題じゃない」と言う方も出てきますが、ご注意ください。私は「言葉」ではなく、「言語」と言っています。
「言語」は10%が「言葉(情報交換をするための手段)」、40%が「声の大きさ・低さ(気持ちを伝えるための手段)」、50%は「ボディーランゲージ(深層心理=個人的にその気持ちをどのように体験しているのかということが伝わっていくもの)」の三つによって構成されています。「言葉」は「言語」というものの10%に過ぎません。漢字で考えるよりも、英語で考えたほうが分かりやすいかもしれません。漢字では「言語」と「言葉」は非常に近い単語ですが、英語では「Language」と「Words」になります。「Words」は「Language」というものの10%に過ぎません。
新しい「言語」を吸収している時に、何が起きているのか?実はその「言語」を使っている人たちのコミュニケーションの仕方、民族としての気持ちや深層心理まで吸収しているのです。長い歴史の中で積み重なってきた大きなパッケージです。新しい「言語」を吸収するということは、大きなパッケージを背負えるもう一つの主体性やチャンネルを自分の中で作ろうとすることです。カール大帝(8世紀前半~9世紀前半)の名言があります:「第二の言語を学ぶことは、第二の魂を持つことである」。英語を使う時は英語圏的な主体性を、日本語を使う時は日本的な主体性を背負います。英語圏や日本の人々の言葉を使う時には、ボディーランゲージやコミュニケーションの仕方から、気持ちと深層心理まで身につけようとしているはずです。この点を十分に深めない限り「下手な外国語しか使えていない」という厳しい話になります。
次は「霊性(精神性)」の話です。古代から現代まで、偉大な思想家と宗教家はみな「霊性(精神性)」も一種の言語だと言っています。このエッセイで紹介する「心構え」は、新しい話ではないのです。
私はイタリア出身ですが、日本の政府機関にバイリンガルとして登録されており、イタリア語と日本語を両方とも母国語のように使えていると言われています。イタリア人とはイタリア語で、日本人とは日本語で喋っています。イタリア人とはイタリア的な主体性や気持ちと心理を使い、日本人とは日本的な主体性や気持ちと心理を使おうとしている、ということです。日本で私をよく知っている人は、こう言います:「あなたは、イタリア語で喋っている時はまるで別人だ。手振りも声も顔まで変わってくる」と。イタリアで私をよく知っている人は、同じことを言っています:「日本語で喋る時はまるで別人になる」。
しかし、「イタリア語」で喋っている時は、「日本語」を忘れているのでしょうか?「日本語」を否定しているのでしょうか?「日本語」で喋っている時は「イタリア語」を忘れ、否定しているのでしょうか?故郷ではみな自分たちの「言語」だけで喋っているでしょうけど、「他の知っている言語」は否定しているのでしょうか?言語はもちろん違います。音声・文字・起源・歴史・気持ちの伝え方・心理などもかなり違っています。しかし、「ブオン・ジョルノ」とそれについてくる手振りよりも、「こんにちは」と日本的なお辞儀のほうが正しいという人はいないでしょう。「言語」は違っていますが、同じようなことを伝えようとしているのではないでしょうか?
クリスチャンたちとはキリスト教的な主体性とその「言語」を使い、仏教者たちとは仏教的な主体性とその「言語」を使います。その間に他に持っているものを何も否定することなく、いつでも違う主体性などに自由に切り替えて、同じような話をすることができます。違う「言語」で様々な相手を元気づけることも可能です。
では「本当の自分はどちらにあるのでしょうか?」という問いかけも出てくるかもしれませんが、「どちら?」というのはもうありません。本当の自分は様々なチャンネル(主体性)を管理できる、より広い包括的な者になっているのです。
一つ以上の宗教・信仰・霊性(精神性)を同時に併せ持つことは可能だということを、これでご理解いただけるかと思います。
「第二の『言語』を学ぶことは、第二の魂を持つことである」。一つ以上の魂(主体性など)を持つことは可能です。「言語」とは何かをご理解いただけたなら、一つ以上の「ボディー」を持つことすら可能だということです。
二つの魂を持ってみたいのであれば、新しい自分は両方とも包括できるような、両方とも管理できるような、いつでもどれかに自由に切り換えることができるような、より広い者になっていけば良いです。三つの魂、四つの魂でも同じです。自分の心の中の境界線をどれほど広げたいかの問題になります(参考:「イタリアと日本との『良き合成体』を目指して:日本に来て8年目に思いついた、ちょっとした雑感」)。「自分はどっちだ?」などという低次元のアイデンティティー論で悩まなくて済むことを私は体験しています。「どっちだ?!」というマインドセット(体験できる言語・文化・宗教などは一つまでという者たちによく見られる思考)なら、残念ながら分裂しやすく、深刻に悩んでしまうのではないでしょうか。
一つ以上の世界を生きている方々、
一つ以上の世界を生きてみたいという方々のお役に立てればと願いつつ。
東京、2025年09年03日
<ジッリォ、エマヌエーレ・ダヴィデ GIGLIO, Emanuele Davide>
1997年と1998年にFESIK(イタリア空手道スポーツ連盟)・全国大会にて優勝(団体形(だんたいかた)及び個人形(こじんかた))。1998年よりイタリア空手道代表チームに所属。2007年にトリノ大学外国語学部・東洋学科を首席卒業。外国語学部の最優秀卒業生として産業労働者同盟賞を受賞。2008年4月から2014年3月まで日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年よりNHKバイリンガルセンター所属。2012年3月に文学の修士号を取得。2013年4月より身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。2014年に日蓮宗外国人留学生奨学金を受給。渥美国際交流財団2015年度奨学生。仏教伝道協会2016年度奨学生。2019年3月に東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室の博士課程を修了し、哲学の博士号を取得。2020年4月から2022年3月まで日本学術振興会外国人特別研究員。現在、医科大学にて哲学講師・倫理学講師・国際コミュニケーション講師。工科大学にて日本語講師。
2025年10月2日配信



