SGRAエッセイ

  • 2008.01.15

    エッセイ107:玄 承洙「教室雑感」

    私が東京大学大学院で留学を始めた頃の話である。専攻上の必要からアラビア語を勉強しなければならなかったため、基本文法を教える学部生向けのアラビア語教養講座の授業に出ることにした。しかし、初めて目にした日本の大学授業の風景はそれこそ衝撃の連続であった。教室ではまったく講義らしきものが行われていなかった。学生たちの大半は居眠りをしていたり平気で雑談をしていた。授業中にいきなり携帯の着信音が鳴ったかと思いきや、学生は「ちょっと待ってな〜」と言いながら、先生の前を横切って教室から出て行った。もっとショックだったのは教師の態度であった。おそらく他大学から教えに来ていたと思しきあの男性講師は、困った顔でこういっていたからである。「皆さん、あと15分で終わるから我慢してくださいね。あと15分ですよ。」   9年間の日本留学も無事に終わり、待望の博士号を取得して帰国した。韓国の大学を取り巻く厳しいニュースは日本にいた頃から聞いてはいた。だが、帰国して本格的に学術活動を開始してみると、研究者の就職活動や研究環境が想像以上に厳しいことがつくづく感じられた。少子化現象もあって学生数は毎年減っているのに、修士や博士号をもっている人の数は増える一方である。要するに、需要より供給が過剰なわけである。政府は10年前から「高等失業者」を救済するという目標の下、学術振興財団を通していろんな研究プロジェクトを設けて研究者を公募している。今の韓国の博士号所持者の大半はこの「学進課題」に大いに頼っているといっても過言ではない。逆にいうと、研究者個人であれ、集団であれ、毎年行われる数個の「学進課題」に採用されなければ、食べていけないのである。週にいくつかの授業を担当しても、それだけでは生計を立てることはできない。   それで、この大学授業についてである。冬学期が始まり、本格的に授業を担当することになった。ありがたいことに周囲の先生たちや知人の配慮もあって、4つの授業を担うことになったが、そのうち1つはいま住んでいるソウルからかなり離れた地方大学での講義である。週に1回、高速バスに乗って片道4時間の長道である。たったの3時間の授業をおこなうために路上で8時間も過ごさなければいけない。だが、私を悩ませるのは、決してその長い通勤時間ではない。学生たちの態度である。いや、より正確に言うならば、どうやって学生たちに接すればいいかという問題なのである。   私は基本的に子供が好きである。若い人たちに(自分もまだ若いとは思っているが)接することも楽しい。彼らと考え方を共有し、彼らの質問に答え、彼らの将来についていっしょに考えるのが好きである。しかし、こうした私の期待は時間がたつにつれ少しずつ失望に変わっている。学生全員ではないが、多くの大学生たちがなぜか学問にたいしてあまり意欲を見せない。学問的な好奇心もあまり感じられない。教壇にたっている教師をだる〜い視線で眺めている。彼らから少し視線をそらすと、すぐ携帯で何かを操作している。冗談とかで彼らの注意を喚起しても、長くて10分ももたない。授業のために何日もかけてビジュアル資料を用意して使うが、すぐ飽きた顔をしてアクビをしたりする。   こうした私の悩みを先輩の講師たちに話した。私の教授法にどこか大きな間違いでもあるのではないかという不安を吐露した。すると、講師歴15年のベテラン先輩はこう言った。「どこの授業も大抵そのようなものさ。いくら面白い動画を見せ、繰り返し冗談を連発したって学生からはすぐ飽きられるんだよ。大学で教えるべきものは、興味を誘発するだけでは続けられないような内容なんだ。講義はテレビのお笑い番組ではないんだよ。」先輩はこうも言った。「最初は学生たち全員を公平に扱わなければならないと考え、ついて来られないやつらを見ていらいらするかも知らない。けれど、どうせ全員向けの授業なんてできやしない。寝ているやつらは放っとけばいいんだ。大きな声で雑談をして周りに迷惑をかけない限り、彼らをいちいち注意することなんて無理さ。慣れてくれば何でもないんだよ。」   しかし、講師歴たったの4ヶ月に過ぎない私にとっては、とうていそうはいかない。先日の授業ではロシアの歴史を紹介する水準の高いドキュメンタリー映画を見せながら授業を続けていた。だが、映画が始まって20分もたたない時点でビデオを止めてしまった。150人を超える学生のうち3分の2以上が寝ていたからである。不快感を顔に浮かべつつ拍手を打って学生たちの目を覚ました。そして彼らを叱った。「若々しい20代の君たちがなぜにこうも、うとうとしているのか、先生はどうしても理解できないんだ。一学期300万ウォンもする学費がもったいなくないのか。適当に時間を費やし、適当に満足できそうな成績をあげ、適当な人生を過ごそうと思っていいのか。授業の内容が気に食わなかったら、素直に言いなさい。質問をさせても閉口で一貫し、機会さえあれば寝ることばかりにしか興味のないような君たちがかわいそうでしかたないんだ」と。   私はまだ教師としての経験が浅い。学生たちの興味を誘発するのに精一杯で、進度もなかなか進まない。学生たちにアクビさせないほどのテクニックなんて持っていない。しかし、いま私たちの教育現場に充溢した危機感を、ただ教師や学生の資質だけに求めるべきではない。激しい民主化の流れにより社会はいろんなところで肯定的な変化を遂げたが、同時に社会全体において拝金主義と権威の喪失を深めた。なくすべきは権威主義であって権威そのものではないのに、権威というものはもうどこにもない。子供たちの前で父兄が教師を暴行したというニュースもたびたび聞こえる。体罰をする教師を携帯で撮影し、インターネットに流布する学生も増えている。こうした社会的風潮のなかで教師は師としての権威を喪失し、単純な知識の商売者に転落してしまったのではないか。   10年前に日本の大学で目撃した教室風景は、いま韓国でそのまま再現されている。もちろん韓国が日本を真似しているわけではない。何もかもがビジネスになってしまった時世のせいでもあるのだ。教育の価値を経済的な価値に換算して評価しがちな時勢のためであろう。教育の中心を教師ではなく学生が占め始めてから、教師は学生に教育を「サービス」しなければならず、教師と学生の区別が曖昧になり、一切の権威が崩壊した教室は知識を売る市場に化してしまったのではないか、と私は考えている。   ---------------------------------- <玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN> 2007年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『チェチェン紛争とイスラーム』)。専門はロシア及び中央ユーラシアのイスラーム主義過激派問題。現在は韓国外国語大学の中央アジア研究所で研究員として務めている。SGRA会員。 ----------------------------------
  • 2008.01.11

    エッセイ106:高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その2)」

    韓国の2007年大統領選挙(大選)では10年ぶりに与野党の政権交代が起こった。その直後、多くのマスメディアでは投票行動における一定の世代や理念の影響力低下といった傾向を主要な特徴として取り挙げていた。長く続いた保守系政党の長期執権に終止符が打たれ政権交代が実現した前々回(1997年、金大中氏)、そして前回(2002年、慮武鉉氏)の大選においては、彼らの「民族」や「民主」、あるいは「平等」などの理念的志向に共感する3、40代を含む多くの若い世代の人びとの存在が大きかった。が、今回の大選ではそうならなかったわけだ。   それは大選後の世論調査でも表われている。1980年代の民主化運動の流れのなかで市民の力によって創立された、いわば進歩系新聞の代表格のハンギョレ新聞の世論調査によると、2002年の大選で慮武鉉氏に投票した人びとのなかで今回李明博氏の支持へと変えた人が約41%に至るという。   ところで、その記事で印象的だったのは、「民心読み」という新年初の連続企画記事のタイトルであった。この世論調査はじつは昨年末に行われたものだった。が、まさにそのタイトルに象徴されているように、今回の大選結果もさることながら、集団転向と呼ばれそうな上記の世論調査結果がいかにも衝撃的だったようだ。そのタイトルは「民心を読み誤り、そこから離れていた」といった自覚の裏返しであったといえる。   では、こうした一方の「民心離反」と他方の「民心の読み誤り」はいかに生じ、またその間隔は何を意味するものだろうか。   そこには、単純化を恐れずにいえば、現政権の5年間だけでなく、この10余年間に進行した韓国社会における一種の中産層の解体とそれに伴う政治意識の変動といった構造的問題が横たわっているのではないだろうか。   その理解のために、とくにバブル崩壊とIMF事態を経て政権交代に至った1997年前後に遡って振り返ってみる必要があると思う。まだ記憶に新しいが、今から10年前頃は、アジア金融危機が広がるなか、韓国経済がバブル崩壊とともに国家的破綻の危機に直面し、国際金融機構IMFからの金融支援を受けざるをえなくなっていた。が、他方では、そのような状況のなかで進歩系野党候補の金大中氏が大選で当選し、政権交代が現実した時期でもあった。   1997年の大選で金大中氏が選ばれたのは、それまで経済成長を主導してきた勢力の経済政策の失敗や判断錯誤への責任を、より公共的な位置から問う意味合いが大きかった。それまでの経済成長の戦略的・制度的修正だけでなく、そのなかで後回しにされていた疎外や格差といったいわば開発独裁の影の部分の是正を通じて、名実相応の「国民国家」の完成を図るといった、金大中氏の国家戦略が効いたのだ。「国民の政府」と自称していた金大中政権において地域間、階層間、さらには南北間の「均衡」が盛んに謳われたのはそのためであったと思う。   そして2002年の大選で慮武鉉氏が選ばれたのも、大きくいって、その延長線上のものといってよい。さらには「人」の斬新さも一役買われたこともあって、前政権の「均衡」政策だけでなく、いわば権威主義や排他主義に集約される韓国社会の古い体質を変えて、より対話的な探求を可能にするといった意味での「民主」を押し通したのが効いたような気がする。現政権は自らを「参与政府」と自称していたし、今は別名に変わったが、当時の政党名が「開かれたウリ(我々)党」だったのもその象徴であった。「均衡と参与」によって、あらゆる国民が自らの政府の主人となり、官民ともに国家の未来を開いていくといった現政権出帆当時の鳥瞰図は、ある意味では鮮やかな絵を見るかのようだった。   だが、政権交代の機会を提供した経済危機が執権後には大きな負担であるといったジレンマを十分に認識していたとは思えない。バブル崩壊とIMF事態がそれまで高度経済成長を持続させてきた韓国経済の根幹を大きく揺るがしたことの政治的意味を重く受け止めていなかったような気がする。   その一つ、大量失業の事態と生活上の危機。多くの大小企業の倒産が相次ぎ、また生き残った企業や金融機関の構造調整のために合併や整理解雇などが行われた。それまでの60代停年といった雇用安定の構造が壊れ、私の周りでも50代さらには40代に職場から追い出される人が続出したし、また若い人々にとっての就職は前例のないほどの厳しいものになっていった。   その二つ、両極化の深化と無限競争の一般化。IMFによる金融支援は体質的問題とされた韓国経済の不透明で閉鎖的な構造を改革することが義務付けられたものであった。それに則って金大中政権の初期から経済構造改革が進められるなかで、いわばグローバル・スタンダードは急激に一般化していった。が、被雇用者側からみれば、それは国内外の境界が無くなった状況での勝ち組と負け組みとの鮮明な区分けを意味し、またその勝敗をめぐる競争の激化を体感させるものでもあった。   その三つ、急転直下による心理的恐慌。バブル崩壊直前まで多くの人びとは、ある意味では膨張する欲望のまま振りまわっていた。「シャンパンを抜くのが早すぎたのではないか」といった憂慮が国外から指摘されてもいたが、むしろOECDの仲間入りに国家的に歓呼していたほどだった。それだけに、その急転直下の辛酸を直接に嘗めた人々の過酷な現実はいうに及ばず、間接に体験した人びとの不安や恐怖の大きさも計り知ることができないかもしれない。バブルの酔いからまだ目覚めないうちにまさに上記の二つの事態に見舞われただけに、階層や地域によって速度差はあったものの、韓国社会の全般に危機感を高めていったのだ。   その意味で現政権の5年間は、こうした危機感の漸増とともにそれまでの精神的余裕が蝕まれていった状況のなかで、その事態の意味の「読み誤り」と「民心離反」が繰り返された時期でもあった。経済的・社会的弱者を保護するために構想された不動産政策や教育政策などの現政権の代表的な政策が、かえって逆効果となり、人々から典型的な失政として反発を買っていたというアイロニーは、まさにこうした状況のなかから生み出されていた。   それにしても、今回の圧倒的票差による李明博氏の当選を単に「保守化」と断定してよいとは思わない。アマチュアリズムや「口先だけの政治」といった批判に象徴されているように、いわば保守か進歩かといった「理念」の問題としてではなく、むしろそれ以前の問題として捉えられていたと思う。状況認識に長けた李氏の当選はこの意味では当然だった。   だが、その分、新政権も現政権と同様の負担から自由ではない。まして、曲がりなりにもこの10年間における「国民の政府」や「参与政府」の経験をもつ人びとを前にして、単なる後戻りが許されるとは思わない。その意味で新政権は、従来の保守と進歩がごちゃ混ぜになったような国政運営をせざるをえなくなるのではないか、というのがこの頃の私の感想である。   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務める。2007年11月より高麗大学日本学研究センター研究教授。SGRA地球市民研究チームのチーフ。
  • 2008.01.09

    エッセイ105:マックス・マキト「マニラ・レポート2007年12月」

    今回のフィリピンへ帰省中、僕としては初めてのスタディーツアーを行った。僕の日本の大学の学生たち7人(性別的にいえば女性5人、男性2人、出身国的にいえば日本人5人、ポーランド人1人、インドネシア人1人)と先生2人(SGRA顧問で名古屋大学教授の平川均先生と僕)の参加で、12月5日から14日までの合宿旅行を、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)のユウ先生とマニラにいる家族の協力を得ながら実施した。幸いに今回のプロジェクトの一部は、平川先生の名古屋大学の産業集積の研究助成金から支援していただいた。   12月5日に、名古屋発の平川先生と東京発の僕がマニラ国際空港で合流した。学生さんたちは期末試験のため、マニラ到着(台湾経由)を一日遅らせた。参加者は9日まで、マニラ市内のホテルをベース・キャンプとした。師走という時期だったので、残念ながら、平川先生は9日に日本にお帰りになった。   ツアー前半の主な目的は、昨年から続いている経済特区におけるフィリピンの自動車産業の研究調査を行うことである。昨年、平川先生とユウ先生と一緒にフィリピン・トヨタの工場を見学し、僕は特区に関する研究を発表した。その後の交流の結果として、自動車産業を中心とした研究方向が固まってきた。12月6日(木)に、僕らの研究を支援してくれているフィリピン・トヨタの方の手配で、トヨタの下請け企業であるPhilippine Automotive Components、Fujitsu Ten、Toyota Boshoku Philippinesを見学させていただいた。さらに、8日(土)には、週末にも関わらず、Yazaki-Torres Mfg. Inc.という合弁会社を見学できた。この場を借りての幹部社員の皆様の暖かい歓待に感謝を申し上げたい。以上の見学によって僕達が行っている研究の分析結果を現場で確認することができ、今後の研究に役立てるヒントを得た気がする。   7日(金)の午後1時半から5時半まで、UA&P・SGRA日本研究ネットワークの第6回目の共有型成長セミナーがUA&Pの会議室で開催された。最初に平川先生がフィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国と比較した。日本のダルマに例えて、フィリピンの自動車産業は7回転んでも8回立ち直す。東南アジアからみても遅れているということがわかるが、部品調達先としての役割を深めているということだった。次に僕が経済特区の比較分析の結果を発表した。この分析はこれから特区を超える産業ネットワークにも適用できるので、そのための研究支援を訴えた。休憩を挟んでユウ先生がフィリピンの半導体産業と自動車産業の比較分析の結果を発表した。この観点からみてもフィリピンの自動車産業は遅れていることがわかる。ただ、世界の観点からみれば、自動車産業は部品などの調達で中小企業に大きく頼っているので、共有型成長の潜在力が非常に高いという。最後に、フィリピン自動車産業協会のホマー・マラナンさんがフィリピン自動車産業の現状について報告した。輸入車の量が現地生産高とほぼ同じことが現地自動車産業に大きいな打撃を与えていることがわかる。最近、フィリピン国産車の啓蒙活動が進められ、法律も作られているというが、輸入車がビジネスとして成り立っている限り、今後の展望はまだまだ難しいようである。セミナーの最後に僕が司会をして、会場のみなさんを混じえてパネル・ディスかションを行った。色々なことが議論され、フィリピン自動車産業の研究の将来性を感じた。   トヨタの役員の方に誘っていただいたセミナー終了後の食事会でも、同じように前向きな印象を受けた。フィリピン自動車産業のこれからの戦略立案において大学やNGOという中立的な立場が必要とされている。そこでUA&P・SGRA・名古屋大学のネットワークが活躍できると思う。東京に帰る前に研究助成を含む話し合いが予定されている。また、できるだけ早く戦略政策案を提出するよう要請されている。   スタディーツアーの後半(9~12日)は主に地方で過ごした。マニラの東南、車で約4~5時間の太平洋に面するビーチ・リゾートがベース・キャンプである。リゾートといっても主な客層は地元の人々で、決して一流の観光地ではない。一行は、僕と学生7人、父と妹とその長男、運転手の総勢12人だった。初めての試みだったので不安がたくさんあったが、その心配は無用だったように、みんなが明るく、フィリピンの地方での3日間を過ごしてくれた。   地方の視察は共有型成長をテーマとする僕の研究の一貫である。都会から地方への発展をいかに進めるかということをが、僕の研究の基本的な目的である。ツアー前半の経済特区はまさにその一つの有効な手段である。製造業の経済特区は大体地方に位置しているからである。引き続き、地方における農林水産業部門やサービス部門においても、僕の研究を展開しようと試みたわけである。今回は農林水産業部門では養魚場を一ヶ所視察し、サービス部門では、今後の研究の可能性を探るため、ベース・キャンプにしたリゾートを中心とした観光施設を訪問した。   未開発の海や豊かな雨量に恵まれているこの地方は、養殖業の可能性が十分あると思われるが、商業ベースで営んでいる養魚場はどうも少ないようである。観光地としても理想的なところであるが、地元の人たちは、この地方の住民か、たまたまやってきた観光客しか狙わない。立地は良いのに、どうもこれ以上発展したいという住民の熱意が感じられなかったというのが率直な印象である。確かにフィリピンの地方では、ノンビリというのは当たり前だとよく聞く。しかし、地方でも機会があれば発展したい気持ちはあると思う。隣の県と比べると、今回の視察先では遊んでいる土地が多いようであるし、観光の観点からみてもさまざまな点で遅れている。   このビーチ・リゾートは、妹の友人に紹介してもらったものだが、合宿中も色々と親切にしていただいた。彼らにとって精一杯のもてなしをしてくださったと思う。同時に、このプロジェクトを手伝ってくれた僕の家族にも感謝している。日本から行った学生さんたちから事前に了解を得て、今回の合宿旅行の余剰金は、妹の3人の子どもたちへの奨学金とさせてもらった。他のパック旅行と比べても低予算という制約の下で組んだスタディーツアーであるが、家族のボランティアと全力をあげての経費節減により、いくばくかの支援金を得ることができた。実は今までのSGRAでの僕の研究成果は、殆ど妹(と父)が手伝ってくれたデータ収集が基本になっている。妹の明るい性格は、参加した学生さんたちに非常に受けて、みんなに親切に付き合ってくれた。   嬉しいことに、今回参加してくれた学生さんたちは、地方から帰ってきた後、マニラでの滞在期間を2泊延長した。そして、日本に帰ってからも優しい言葉を一杯くれて、このような合宿を近いうちにもう一回やろうという自信を芽生えさせてくれた。いうまでもなく今回の合宿には問題点も多くあって、いわゆるトヨタの「カイゼン(改善)」を習って、東京へ帰ったら反省会を行うと同時に第2回目のツアーの企画も始めたい。今回の訪問先と比較するため、次回はまた家族のネットワークに頼ってマニラから北西のほうを調査してみたい。   このスタディーツアーを企画している間に、フィリピンではモールの爆発や、クーデターなど、いくつかの事件が報道されたために、何人かが参加を中止した。そんな状況でも、暖かく支援してくださった企業はもちろん、それでも参加してくれた7人の学生さんたちと平川先生に心から感謝している。色々大変だったと思うが、僕まで驚かせたこのグループの前向きな姿勢によって、一人残らずフィリピンの訪問が勉強になり、良い思い出ができたそうである。   SGRAのみなさんからも、東海の真珠と呼ばれるフィリピンへの冒険旅行はいかがでしょうか。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2007.12.29

    エッセイ104:李 鋼哲「中国人の近隣感覚」

    日本では中国人の反日感情が非常に強いと思う人が多い。しかし、中国人の近隣感覚は必ずしもそうではない。最近、インターネット・メディア「新華網」が発表した「中国人の隣国イメージ調査」によると、「最も好きな隣国」はパキスタン28%でトップ、ロシアが二番目で15.1%、日本が三番目で13.2%という結果が得られた。また「最も好きではない隣国」の第一位は隣の韓国が40.1%、日本が30.4%で第二位、インドネシアが18.8%で第三位である。調査は中国ネティズン1万2千人を対象に行ったもの。   日本人にとって嬉しいことか憂うべきことかそれぞれの判断であろうが、注目したいのはインターネットが感情発散のはけ口で、反日感情が強いと思っていた中国のネティズンは、意外と冷静に隣国を見ているのだとする中国の専門家の分析である。20の隣国と接する中国にとっては、「善隣友好」関係は政府も国民も望ましいが、現実では近隣関係は理想的ではなく、近隣環境が厳しいと見る人が少なくない。   日本に対しては、愛と憎みが入り混ざっていると関係者は分析している。「日本は歴史的な原因により嫌いな国であるが、我々が学ぶべきところが多く、日本民族の多くの特徴は我々の自己反省の鏡となる」と調査結果を読んだある読者は自分の意見をネットで書いたという。   パキスタンが最も好きな隣国になった理由は、パキスタンは中国を裏切ったことがなく、いつも中国人に対して友好的だから。しかし、中国人はパキスタンについてどれぐらい知っているだろうか。昨年パキスタンを訪問した中国人はわずか6万人である。中国を訪問するパキスタン人も限られている。つまり、お互いに接触が少なく、ある「造られたイメージ」による判断になりかねない。   筆者が小学校や中学校時代の1960~70年代、中国は「日本は中国を侵略したが、それは日本の一部軍国主義者が悪いので、日本国民も被害者である」と国民を教育したので、反日感情というのはそれほど見られなかった。もちろん、日本を訪問できる人はほとんどいなかったので、日本の実態を分かる人は誰もいなかった。つまり、「造られたイメージ」により国民は日本を想像し、日本人を認識したのだ。それが、1日平均1万人以上の交流時代(今年は双方訪問者500万人になる見通し)になると、日本に対する評価も様々である。   近年、韓国ドラマで韓流ブームになっていた中国国民のなかで韓国人嫌いが急速に増えたのは、「韓国人は中国で偉そうに振る舞っている」、「中国人を見下ろしている」からであると前記の調査では解説している。近年急増して日本を超える規模の韓国人の中国訪問者、そして現在70万人といわれ、来年は100万人になるといわれる(駐中国韓国大使の話による)中国での韓国人居住者。付き合いが多くなると好き嫌いも明確になるのではないか。やはりドラマで見るのと実物を見るのは違うのか。   ----------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 -----------------------------------------
  • 2007.12.26

    エッセイ103:高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その1)」

    韓国の2007年大統領選挙(「大選」)はあっけなく終わった。今回ほど、投票前に形勢がほぼ決まり、選挙関係者だけのお祭りで、面白くない大選もなかった、といったのが多くの人びとの実感であろう。   といっても、今度の大選がもたらした政治的出来事は決して小さいものではない。   その一つ。韓国の人びとは去る12月19日の投票でいわば政権交代を起こした。現政権の統一相を歴任した与党候補の鄭東泳(チョン・ドンヨン)氏ではなく、野党のハンナラ党から立候補した李明博(イ・ミョンバク)氏を選んだのだ。   その二つ。圧倒的な票差。得票2位に止まった与党候補との間では、得票率において20%以上、得票数において五百万票以上といった、史上前例のないほどの大差がついた。最後の最後まで判らないといった薄氷の勝負を繰り広げた前回や前々回の大選とは様相が全然違うものだった。   その三つ。史上最低の投票率。大選平均の80%台にはほど遠く、最低だった前回を7%も下回る63%だった。3人に1人が棄権ということになるが、とくに前回に比べれば、さらに約2百万人以上の人が投票をしなかったわけだ。   このように今度の大選で韓国の人々は大きな政治的変動を選択した。が、その選択は、これまで緊迫感に満ち活気が溢れていたものとは対照的に、冷笑が漂う静けさのなかで行われたのだ。   こうした政治的現象はどう理解すれば良いのだろうか。いったい韓国社会のなかで何が起こっているのだろうか。ここでは私なりの解釈を試みてみたい。   まず、注意を引くのは、政治と道徳との平面的連動構造の弱化である。   最近10年間の大選において候補者の道徳性問題が勝敗の大きな分かれ目となったのと比べれば、今回のそれは異様なほど違っていた。現大統領の慮武鉉氏(2002年)やその直前の金大中氏(1997年)が大選で勝利できたのは、あえていえば、そこに対立政党・候補の道徳性問題が大きく絡んでいたからである。   また、とくに今回の選挙では与党側に道徳的公憤をもとに劣勢を挽回し大逆転の期待を抱かせた、「BBK事件」も結局「大選の雷管」にはならなかったのだ。   「BBK事件」に限っていえば、今年の前半期からその事件への李氏の関与疑惑が持ち上がり、先月の半ばにはマスメディアの集中的な照明のなか、その事件の主犯格とされる人がアメリカの拘置所から韓国に引き渡され、それに対する検察の特別取り調べが実施されたし、「李氏はBBK事件の共犯者だ」といったその人の供述さえ報道されていた。ましてや投票日3日前には、ある大学で李氏自ら「BBKを創業した」という内容の入った当時の講演映像が流された。   しかし、それにもかかわらず、「BBK事件」への取り調べが軌道に乗った後で行われた世論調査においても、李氏への高支持率に大きな変動はなかった。「BBK事件」だけでなく、さらには偽装転入問題や脱税などのさまざまな疑惑のため、ある意味では「腐敗政治人」の典型としても映された李氏のイメージが大選の焦点に持ち挙げられるなかでも、圧倒的な票差による李氏の当選が現実化したのだ。   今は透明になりつつあるとはいえ、これまで大小の腐敗や虚偽問題に苦しまされ続け、それゆえ道徳性の問題に敏感だった韓国人のことだけに、今回大選の結果は従来の政治と道徳との平面的連動構造の弱化を示唆しているように思われるのだ。   だが、ここでまた、注意を要するのは、その意味への解釈ではないだろうか。   一つの解釈は、李氏への支持を、いわば「勝てば官軍」といった情緒の表現と見なし、国民的な「道徳的堕落」と受け止める立場である。先月の半ば、与党の選挙対策共同委員長を務める人から、政治と道徳との平面的比例構造の弱化の様相をふまえて、「国民は呆けているのではないか」といったイライラの発言が飛び出たほどだ。が、その解釈は一面に傾いた感を免れない。   もう一つの立場は、上記の立場への批判的意味も込めて、今回の大選は現政権に対する懲罰的投票が最も顕著に現われたケースとして見なすのだが、こうした見解は割りと多い。前回2002年の大選ではその愚直さと斬新さで大きな期待をもって迎えられた慮武鉉政権だったが、その斬新さはアマチュアリズムの無能に、その愚直は傲慢や独善に取って代わったというのだ。それからの「学習効果」が今回の大選で大きく反映されたと憤慨する人びとを私の周りではよく見かける。が、敗北の真の原因を探すより敗北の責任者を探し出すことにもっとエネルギーが投入されているような感じで、部分的には理解できるものの、やはり納得いかないところも多い。   私は、今回の投票傾向の分析から明るみに出ている、これまで政治的形勢に大きく影響を与えてきた世代や理念、あるいは地域といった要素の比重が低下したという側面に注目したい。それは韓国社会の構造的変動と絡み合いながら、そのなかの人びとの政治意識構造の変動をも示唆しているように思われるからだ。 (これ以降は次に譲る)   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------
  • 2007.12.21

    エッセイ102:太田美行「私の残業物語」

    先日長めの残業をした。午後5時半に始まった会議が翌朝2時まで続いたのだ。その後軽く打ち合わせがあり、退社は午前3時。夕飯、休憩なし。もちろん数時間後には始業時間なので自宅で軽く仮眠をとった後に出社。さすがにこんなに残業時間が長いことは普段ないが、でも長い。自宅の机の上には『定時に帰る仕事術』と『WORK AND LIFE BALANCE』の本。どうも実践できておらず、本のタイトルを見てため息。   これまで学生時代のアルバイトを含め、複数の業界で仕事をしてきた。会社により残業のスタイルもかなり違う。単に会社の規模や仕事内容だけの問題でなく、背後にある社員に対する考え方や、給料体制など色々な背景事情が関係しているのがわかる。例えばA社では頻繁に午後10時位まで残業があるが、その代わりラーメンや弁当などの夜食が出される。仕事も楽しいので終電で帰宅しても少し疲れたと思うくらい。B社では残業は一切なく、残業させる時には「今日は30分ほど残業してもらえる?」と聞かれた上で残業を行う。1時間以上の残業はほぼゼロ。社長が残業代に大変厳しい人だったので就業時間内に終わらせることが最優先。終わらなければ社長がその分の仕事をするか、翌日へ持ち越し。C社(日本語学校)では残業代が一切支給されないが、皆残業が当たり前。自宅でも皆仕事をする。私も授業の準備のため、よく机にうつ伏せになったまま朝まで寝ていた。ヨーロッパ企業のD社では「ワークバランス」を標榜しており、残業は好まれない。どれが良くてどれが悪いかは、その人のポジションによっても違うので一概には言えない。   面白いのは、この中でつらかったと感じる原因が、単純に仕事量の多さではなかったことだ。自分のしている仕事が活かされていることが見える時は、自分の仕事が全体の中でどれほどに小さくてもやりがいを感じる。逆に先が見えなかったり、仕事の意味が見えなかったりすると疲れもひどく感じる。   日本語教師をしていた時は睡眠時間が3時間くらいしかない時が度々あったが、「新人教師はこんなものだろう」と、あまりつらく感じなかった。周囲の教師も指導法や文法などで行き詰まると互いに相談や議論をして元気が良かった。もちろん生徒がおしゃべりをして授業をまったく聞かない時と、先輩であるベテラン教師に「授業の準備があるから布団に入って寝たことなんてないわよ」と言われた時は疲れが雪崩のように押し寄せてきたが。(これを読んで思い当たる節のある元日本語学校の生徒は大いに反省して下さい)   D社は「ワークバランス」を掲げており、自分の裁量に任されていて大変良かったが、現状に危機感を持つ「ローカルスタッフ=日本人」がいつも残業する結果になってしまう。ある時、一緒に仕事をしていたある人(ヨーロッパ出身)による仕事の押し付けが激しく、残業の日が続いた。多少の皮肉も込めて、「昨日は会社に泊り込んで仕事をした」と話したらヨーロッパの人の反応は私の予想をはるかに超えるものだった。「これは大問題だ!」「まあ何てこと!」「日本の悪い習慣がここにまで!だから日本企業は駄目なのよ」「いいえ、あなたがこうした事を問題にしたくないのはわかるけれど、これはみんなで解決すべき問題です。さっそく会議にかけなければ」と大騒ぎになった。   「そんなに残業を問題視するなら、自分の仕事をきちんとやってよね。私も好きで残業しているわけでもないし」と思いつつも、問題にしたくない旨を伝えた。しかしその場にいた“親切な人”が「日本人の上司にだから彼女は言えないに違いない。自分の上司(イギリス人)から彼女の上司に言ってもらおう」と勝手に判断し、その通りに行動した。   数日後、私の上司から「事実確認」の電話が入り、そして何事もなく終わった。仕事量が減ったわけでも、残業禁止令が出たわけでもない。もちろん仕事の押し付けがなくなったわけでもなかった。   仕事量はともかく、この件では国による考え方と表現の違いを示す一つ面白いエピソードがあった。「会社に泊まりこんだ」ことを話した時、その“親切な人”は休みを取らせようとして「あなたがいなくても会社は動きます」と言った。大変微妙な響きのあるコメントで、たぶん日本人にとっては「あなたの存在は大したものではない。あなたは会社の歯車に過ぎません」と聞こえる可能性もある表現。もちろんその人が大変良い人で、親切心から「休みを取りなさい」と言ってくれたことを知っていたので、誤解はしなかったが、もし信頼関係ができる前に今の言葉を聞いたら、きっと会社の屋上に上って「私は会社の歯車なの~~~~~!?死んでやる~~~」と絶叫していたに違いない。その後「『あなたがいなくても会社は動きます』と言われたらどう思う?」と周囲の日本人に聞いたら次のような答えが返ってきた。 「・・・(しばらく沈黙の後)きついですね」 「そんな事言われたら、言ってる奴の首を絞めてやる」   こうした数々の出来事を経験して今日がある。この原稿を書いている間に現在勤めている会社の社長と上司から呼ばれ、残業についての話し合いがあった。何が問題なのか、仕事量を減らすために会社ができることはないのかを話し合った。大変前向きな話でほっとしている。だからといって仕事量がずっと楽なままではないだろうが。こうして私のライフ・ワーク・バランスを考える日々はまだまだ続く。   皆さんの国の残業事情はどうですか?   ----------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 -----------------------------
  • 2007.12.19

    エッセイ101:葉 文昌 「台湾版クールビズ」

    インドネシアのバリ島で開催されているCOP13(国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議)で、日本は地球温暖化防止交渉にマイナスな発言をしたとして「化石賞」をもらったりして苦戦している。しかし、僕から見ると、日本では地球温暖化の軽減策として、社会が一丸となってCO2排出量低減に取り組んでいるように思える。一昨年来政府が音頭をとって世間を賑やかにしたクールビズがそうである。夏の間、オフィスで上着とネクタイを未着用として、エアコンの温度設定を高めの28℃に設定するということだ。ちなみに、冬の間は、もう一枚多く着て、設定温度を低めの20℃に設定するウォームビズが提唱されている。   台湾ではもともとビジネスの場で滅多にネクタイを着用しないのであるが、日本のクールビズのお陰で台湾人はルーズな格好に大義名分を得たようだ。例えばである。去年夏、政府主催の太陽電池フォーラムでの出来事だ。その席で官僚が挨拶した。「日本は地球温暖化対策としてネクタイ未着用としている。だから私も率先してノーネクタイにした」と自慢げに言っていた。台湾では学歴とは無関係にいろいろな人からこのような発言が聞かされるものなのだが、これにはいつも怒りを覚える。なぜならば台湾の公の場ならどこでもエアコン温度は気持ちよく涼しい。誰も28℃設定を口にしない。僕は決して環境にやさしい人間ではないのだが、しかし社会の上から下まで安易に「ノーネクタイ=環境にやさしい、だからノーネクタイ」と、考えていることにもどかしさを感じる。権利(=ノーネクタイ)あれば義務(=エアコンの温度設定は高め)が伴う。角度を変えて言えばギブアンドテークなのである。しかし、台湾でそうならないのは、教育全体が思考より記憶重視であるために目先の権利や利益しか見えなくなってしまうからなのかも知れない。   台湾でもエコロジーの機運はあり、リサイクルも一応まじめにやっている。しかしやり方がどこかアンバランスで本気でエコロジーしたいのかわからない。大学でPC節電の宣伝を聞いたことはないし、学生も進んでPC節電はしない。若い人さえ短距離の移動もバイクか車を使う。政治家は政治家で、環境保全へのアピールをさせれば、「台北市はエコロジーの見地から、ゴミ回収車は廃サラダ油使用車に買い換えました」である(冒頭の官僚)。金を使えばエコロジーができると考えているようで自己要求はなにもない。その一方で台北市のバイクは相変わらず排気を都市中に充満させている。学生も学生だ。反化学工場建設、反核運動の急先鋒に立つ学生はいるが(その前にスクーターを自主規制しろといいたいが…)、大抵は偽の運動家で社会人になった途端でかい外車を乗り回すようになる。上から下までなにもかもが贋物なので、台湾のエコロジー志向がどこまで本物かも疑問に思ってしまう。   この点、東京の人たちは偉い。どこかがハイブリッドカーを開発しただの、太陽電池出荷量世界一だの、のことではない。若い女性も長い距離を歩く、電車を使う、アイドリングはできる限りしない(台湾ではこの考えすらまだない)、エアコンの高い温度設定にも我慢できる。豊か(台湾との比較)でありながらこのようにたくさんの自己要求ができるから偉いと思うのである。   --------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 ---------------------------  
  • 2007.12.15

    エッセイ100:オリガ・ホメンコ「小柄なマリーナおばあさん」

    【人物で描くウクライナの歴史④】   彼女は今83歳なのに、60歳にしか見えない、口紅をつけずに外出することのない女性である。彼女の毎日は必ず体操から始まる。そして親戚の若い子にとっても、とてもリベラルな考え方を持っている。道で他人が振り向くような変わった服を着ていたとしても、それを見た親戚が下の唇を上にあげて不満を示しても、彼女は肩を振って「まだ若いから人生を楽しんでもいいじゃない」と微笑みながら言うだけ。   彼女は20歳も年上の人と結婚していた。彼は彼女に夢中で、彼女をとても甘やかしていた。きれいな洋服を買ってあげたり、クリミアやソチの保養地に連れて行ったりした。彼女には重い荷物を一切持たせなかった。彼、旦那のリョーニャは、彼女のためにそこに居たのだった。子供が生めないと分かった時にも、彼は静かに彼女の手を握って「マリーナ、もういいよ。自分を苦しめないで。そのままでいい。僕たちは二人で十分楽しく生きていける・・」と言ってくれた。   時がたって、彼女は姑の葬儀、それから従兄弟の葬儀、そして彼の葬儀に立ち合った。彼女はとても強かった。他の人が同じ状況に陥ったらパニックになったかもしれないが、彼女はとても冷静だった。「皆、いつかは亡くなるのだから、仕方ない。天寿を祝って喜べるだけ喜ぶべき」と語り続けた。周囲の人から、「わがまま」と思われることも少なくなかった。彼女は今83歳で、毎日が体操から始まり、微笑みながら仕事に出かけ、大学の寮で受付の仕事をしている。   私は、そんなマリーナを見て、「こんなに粘り強い秘密は何だろう」と考えつづけていた。80歳を超えてもどこからこんな元気をもらえるのか疑問に思っていた。遺伝子?それともただ偶然の一致?   だがある時分かった。急に全部分かった。   1944年、再び赤軍(ロシア軍)が村に戻ってきたとき、彼女の両親は赤軍に殺された。彼女の目の前で。二人とも。マリーナの家の墓に行った時、ご両親が亡くなった日にちが同じなので、「ロメオとジュリエレトみたいに同じ日に亡くなった。きっとすごく好きだったに違いない」と思った。だがその「亡くなった日」が戦争中の1944年だったのでちょっと不思議に思った。それで、聞いてみたら、彼女は教えてくれた。彼女がそれを見た日から10年が過ぎていた。10年前は、まだいろいろ「話せない時代」だったので、その時に大人が黙っていたことはおかしくない。彼女の父親はドイツ語ができたので、占領軍(ドイツ軍)の事務所で秘書として働いていた。そこへ再び赤軍が来たから家族全員が殺されたのだった。小柄なマリーナはまだ子供だったので、隠れていたから助かった。隠れていた所から家族の遺体が墓に運ばれるところも見ていた。見つからないように、声をださないで泣いた。そして、その後、自分の家族のことを一切話さなかった。家族のことを聞かれたら「みんな戦争で亡くなった」と言っていた。その頃は、戦争で亡くなった人が多かったから疑われなかった。話せないことが多いから、代わりに微笑んでいった。なんとか生き延びる必要があったからだ。それで微笑んでいた。   そして20歳の時に恋に落ちた。大好きなアレクセイの父親は村長で、とても尊敬されていた。しかし、彼女との結婚は「好ましくない」と考え反対した。だが若者は怖いものなしだから、隠れて結婚式をしてしまった。市役所でもらった結婚登録書は父親の怒りから守ってくれると思い込んでいた。父親はとても怒っていたが、アレクセイはマリーナを愛していたので気にしなかった。だが父親は、その結婚をどうしても取り消そうと思い、「あるところ」に無名の手紙を出した。そこの反応はとても早かった。数日後、マリーナさんを連れて行く車が来た。戦後の厳しいスターリン時代だった。その車はマリーナをもっとも遠くに運べる汽車の駅に連れて行った。マリーナはとても若く、旦那のアレクセイを大好きだったので、夜警察官が寝ている時に走っている汽車から飛び降りた。そして、一週間歩いて家にたどりついた。だが振り返ってみれば、家に戻ったのは間違いだった。そこには再び通報する人間がいたからだ。だけど、彼女はアレクセイを大好きだったし、彼以外彼女を守ってくれる人はいなかったし、結局、彼女には他に帰るところがなかった。   村に戻ったマリーナは、アレクセイは親戚がいる西部にむりやり送られたと聞いた。少し「頭を冷やす」ために。家には誰もいなかった。彼女の父親のことが知られたら、彼女は戻ってくることができないと、彼は思ったに違いない・・・   それで家には誰もいなかった。彼女は普段の生活に戻り、家の掃除をするために井戸から水を運び、その水を家の前に高く伸びた赤い朝顔にあげていた。監視員に見られたのか、誰かが通報したのか、今はもう分からないが、再び黒い車が迎えに来た・・・今度は、もっと遠く、一ヶ月走ってもたどりつかない場所へ送られた。絶対に逃げられないように。炭鉱でとてもきつい肉体労働をした。あの時に逃げださなければ、もっと普通の仕事ができて体を壊すこともなかったのに、と自分自身に文句を言い続けていた。だけど、彼女は粘り強かったので、口や目を閉じてまじめに働き続けていた。それで数年後、そこから出ることができた。もう村には帰らなかった。そこはもう「帰るところ」ではなかったからだ。首都に行った。そこで20歳も年上の彼と知り合って結婚した。彼は彼女の「過去」について知っていたけれど、一度も非難しなかった。彼女をとても尊敬していた。彼らは25年間も一緒だった。あの炭鉱の仕事のせいで子供は生まれなかったけれど。   リョーニャが亡くなった数年後、彼女がこの首都の真ん中のアパートで一人暮らしの生活になれた頃、一通の手紙が届いた。封筒に西部の小さな町の名前が載っていた。なにか不思議な予感がした。胸で何か重いものが切れて落ちた感じがした。封筒をあけたら知っている字が見えた。アレクセイからの手紙だった。アレクセイはいろいろと謝罪して、「もう一度会ってください」と書いてきた。勇ましい小柄なマリーナは、この時、初めて泣いた。とても泣いた。あまり泣いたので、次の朝起きていつも通り体操しても元気が出なかった。そのとき初めて、もうほとんど忘れかけていたあの大好きな「最初の夫」のことについて話しだした。   しばらくして彼が会いにきた。大きくなっている二人の子どもやこの前亡くなった奥様のことを話した。だけど、マリーナのことを一生忘れられなかったと告白した。彼は、彼女のことをずっと思い出していた。他の人と結婚しても、子育てをしていても思い出していた。あの小さい村に戻って、もう知らない人が住んでいるあの家を訪ねた時も思い出していた。家の前は、もう高くて赤い朝顔ではなく、ほかの奥様が植えた低くて粘り強いマリーゴールドを眺めた時も思い出していた。   彼はまだ若くて無責任で彼女を守れなかったことに対して謝罪した。自分の父親から彼女を守れなかったことも含めて。西部に行かされて、若い女性に会って、また人生を最初から、新しいきれいな一枚の紙からはじめたことに対して謝罪した。その一枚の新しい紙に長く書き続けていたことに対しても謝罪した。子どもたちは成長し、妻を尊敬していたが愛がなかったようだ。心の中に針がささっているように、あの小柄なマリーナの思い出が生きていたようだ。自分が守れなかった小柄なマリーナ。自分の若さ、それとも心細さで守れなかったマリーナのこと。しかし、彼女は生き残って再婚して幸せになれた。アレクセイはこのことがうれしかった。そして、結局今再会できたのだから、残りの人生を一緒に生きられれば良いと思っている。破れたあの人生の紙一枚をのりで張り合わせるような感じだ。   マリーナさんは彼に夕食を作ってあげた。彼の話を黙って聞いていた。ただ微笑んでいただけ。それから彼に「来てくれてありがとう」と言った。だが人生は遠い昔にそれぞれの流れ方を決めた。彼らの人生の一ページは、違う本の中に綴じられてしまった。その本の内容が似ていても、ジャンルが違うので、本屋さんも違う階で売れている。長い間に、彼女は自分を自分で守れることを学んだ。勿論、その前にもできたのだけど、自信がなかった。いや、ただ自分の力を知らなかっただけかもしれない。   彼はさびしい顔で西部の家に帰っていった。彼はこの物語に違う「終わり」が期待できると思い込んでいた。   しばらくして、あの西部の町から再び郵便物が届いた。今回ははがきだった。住所は一緒だったが、名前だけ違っていた。彼の名字でマリーナという名前の女性が、父親が急に心臓発作で亡くなったことを知らせていた。小柄なマリーナは意識を失った。   マリーナが気づいた時、まだあのはがきを手にしていた。「そうか、彼にも痛みを感じる<心>があったんだ」としか考えられなかった。娘に彼女の名前をつけた。会ったときには言わなかったけど。だがマリーナは葬式に出なかった。自分の最初の夫のアレクセイは遠い昔に亡くしたのだから・・・違った書架に運ぶあの黒い車に彼女を手放したとき、彼は彼女を亡くしたかもしれない。彼女は彼を許したが、それは、この長い年月の間に、自分を評価し、自分の命を大事にしなければいけないことを学ばせられたからだ。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------  
  • 2007.12.12

    エッセイ099:奇 錦峰「中国の大学の現状(その4)」

    大学の教員のこともすこし言わせてもらおう。グローバル化している現在、中国全土的に大学教員が若くなり、しかも“博士化”している。数多くの優秀な方が海外或いは国内の名門大学を出て、あちこちの大学のポジションについている。だが、後者----“博士化”の中身をみると、恐らく多くの一般大学でそんなに正常ではない。博士号をもらう正常な道は、大学院の博士課程に入り、3~4年間勉強して定められた単位をとり、学位論文を完成した後、厳しい審査を経てから学位をもらう。論文博士の場合はもっと長い時間がかかり、論文審査は更に厳しい。しかし、ここ数年間、数多くの一般大学が各自で自分の教員に博士号を“もたせている”。“在職学習”という博士養成方法が、知らないうちに中国で普及した。つまり大学の教員が自分の仕事をしながら(給料をもらいながら)暇な時間にちょこっと単位を集め、学生に自分の実験をやらせ、“学位論文”を完成して学位をもらっている。こんな博士たちは、厳しい競争を経て博士課程のトレーニングを受けた正真正銘の博士と大分違い、海外から帰国した博士とは比べ物にならないのが事実だ。しかし、こういう“特産品博士”たちはその人の学校の“人脈事情”に詳しいのでよく出世し、優遇される。更に一部の学科(たとえば、うちの大学みたいな伝統医学科とか)では、教員の大半が自分の巣から出たものばかりの場合もある。学問分野で“雑交優勢”を重んじている現在、“近親繁殖”をまだ続けていると笑われてしまう。   親は子どものために生きている、親は子どものためならば何でもしてあげる(子どものためなら無理も当然)という習慣は中国伝統文化の一つだというのをよく聞く。何といっても、“80後”世代を育成したのは彼らの親およびその時代と文化なのだ。責任はこの世代にはない!一昔前の中国では、多子多孫の伝統が“人口爆発”を引き起こした。では、今、子どもを甘やかし溺愛する習慣がどんな社会を作り出すのだろうか。中国大陸の親たちは、この新人類たちが生まれた理由が徐々にわかってきたらしい。しかし、残念ながらもう遅いではないだろうか。   最後に、インターネット上で見つけた“80後”の文章をご紹介しよう。   80年到85年出生的人的十大尴尬 (80年から85年に生まれた人の気まずい10点)   1. 辛辛苦苦小学六年,勤勤恳恳初中三年,废寝忘食高中三年,却赶上国家扩招,任他猫猫狗狗也都能混个大学文凭。   苦労した小学校の六年間、勤勉だった中学校の三年間、寝食を忘れて勉強した高校の三年間、しかし、国家が大学生を拡大募集する時代になって、今や猫も杓子も大学生だ。   2. 稀里糊涂大学混了四年,使尽浑身解数拿到英语四级证、计算机等级证、毕业证,却怎么也找不到如意的工作,有的连工作都找不到。   ぼんやり過ごした大学4年間だけど、一所懸命に頑張って、英語検定四級、コンピューター検定、そして卒業証書ももらったが、どうしても自分にあう仕事が見つからない。仕事が全く見つからない人もいる。   3. 千心(この字は間違っている、じつは“辛”です)万苦进了外商独资企业当白领,才发现原来中国现在遍地都是外企,500强有499家在中国有分号。   千辛万苦のあげく外資系の会社に採用され、ホワイトカラーになった後分かったのは、中国全土のどこにも外資系の会社があり、グローバル企業500社のうち、499社が中国に支店をもっている。   4. 福利分房早已成为昨日黄花,住房公积金少得可怜,又赶上无耻之徒遍地炒房,一年攒下来的钱才能买两三平方米住房。   福祉政策の部屋配りはもう大分前に終わってしまった。住宅公共積立金はかわいそうなほどの額。その上、恥を知らない奴らが住宅を転売した結果、1年間蓄えたお金では住宅の2~3平米ほどしか買えない。   5. 小时侯教育要做个诚实的孩子,中学大学又普及诚信教育,工作后又不得不说假话,拿假文凭,在假发票上签字。   子供の時には誠実な人になれと教えられた。中学校と大学でもまた「信用が大事」という教育を受けた。しかし就職してからは嘘をつかざるを得なくなった。偽の卒業証書を作ってもらったり、偽の領収書にサインしたり。   6. 他们说计划经济的教育已经跟不上时代,要普及素质教育,结果我们什么都得学,什么都要摸到皮毛却连皮毛都不知道。   計画経済の教育は時代遅れと批判され、素質教育の普及が提唱され始めたために、この世代はいろんな学問を学ばなければならなくなってしまったが、結局何もよく分からない。   7. 电子信息产业高速发展,网上信息如潮涌,不论是垃圾还是精华都让人疲惫不堪,没有手机和电脑人家会觉得你生于60年代。   IT産業が急速に発展し、ネット上の情報が洪水のように殺到する。有用無用の情報が人々を疲れさせるが、携帯電話やコピューターのない人は60年代生まれと見なされる。   8. 从小学完雷锋学赖宁,接着学习李素丽,现在学习杨利伟,表面文章做足了接着自私自利。   小学校時代は雷鋒と頼寧の模範を学ばされ、続いて李素麗の模範を、現在は楊立偉から学ばされている。「表」のことは十分やったが、実は全部エゴイズム。(個人名は1960年代から今までの各時期の中国の英雄)   9. 闯荡社会若干年后发现一事无成一钱未赚一权未谋,逼不得已重新拾起书本,泡在冲刺、精华、宝典的密题中,希望混个更高一点的文凭出来好混日子。   社会にでてから数年後、突然何もできなかったことに気づいた。一銭も儲けていない!少しも出世していない!仕方がないから、良い仕事を探すために、新たに大学時代の教科書を集め、修士課程の試験問題集に没頭する。   10. 美好的生活属于谁呢?二十年前:“属于八十年代的新一辈”;十五年前:“太阳是我们的”;十年前:“让我们期待明天会更好!”;八年前:“不经历风雨,怎能见彩虹”;现在:“我闭上眼睛就成天黑”。   誰が豊かな人生を送れるのか?二十年前には“1980年代生まれは新世代だ” と言われた。十五年前には“私たちの人生は豊かだ” と、十年前には“私たちの明日はもっと美しくなる” と、八年前には、“辛い努力をしなければ、いい結果は得られない” と。今、僕が“目を閉じると、真っ暗だ。”   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------
  • 2007.12.07

    エッセイ098:奇 錦峰「中国の大学の現状(その3:学生の質②)」

    三番目の特徴は怠け者。“80後”たちは、子どもに家事をさせない家庭で育てられたものが圧倒的に多いから、怠け者になってしまうのは当然だ。大学に入って寮生活をするまで靴下を洗ったこともない人がいっぱいいるそうだ。大学の集団生活(ある意味では独立した生活)を送らなければならなくなったときから、洗濯ぐらいはするはずだろうが、今の学生は全てをコインランドリーに頼る人が多いそうだ。   広州の大学城では恐らく8割の人が朝寝坊である。土日はもちろん、平日も! ぎりぎりの時間に起きて、朝食を持って、自転車(宿舎から教室までせいぜい500mなのに、学生の6割が持っている)で飛ぶようなスピードを出して、始業ベルの鳴る前後に教室に入り、一日の勉強は朝食を始めるのと同時にスタート!教師たちにとっては、まるで台所で講義を始める感じだ(プ~ンと美味しい香りがどんどん飛んでくる)。涼しい季節なら、窓を開けて新鮮な空気をいれればいいが、夏は辛いよ!(広州では年間約5ヶ月間はクーラーが必要)----窓を閉じているから、教室の中は10時ぐらいから変な臭いで一杯----先ずは口臭(朝食後口をすすがないから)、それに、汗、足……。信じられないでしょう?今の大学のクラスは平均100人、多い場合は200人、どんなに少なくても50人だよ。では、「なぜ注意して止めさせないの?」と思う方もいらっしゃると思う。それは少数の行動ではなくて、半分以上の人がこうしているからです。しかも注意してもほとんど聞いてくれない!だが僕は我慢づよい。毎年、最初と二回目の講義の時、食事する人、遅刻する人に警告する。三回目には追い出すのだ---食事する人は、どうぞ外でごゆっくり!始業のベルが鳴ったらドアをロックしてしまう------これが講義中の飲食、遅刻を止めさせる僕の戦術だ。   台湾の柏楊氏が書いた有名な『醜い中国人』という本によれば、中国人が外国人に嫌われる悪いところは、「汚い、混乱、うるさい」という三点だそうだが、今の“80後”たちは更に上回ると思う。教室、食堂……学生のいるところはうるさくてたまらない。また想像してみてください。教室の中の数百人の学生や、食堂の中の数千人の学生が騒いでいる様子を!   次に、学問の習得について言わせてもらう。学生の本業は勉強だ。しかし“80後”たちの中には、勉強をさぼっている人が少なくないようだ。これは判断上の間違いかもしれない。というのは、前回すでに述べたように、中国の大学は1990年の後半から毎年募集する学生数を増やしているから、勉強しない人が大学でも増えるのは当然である。日本の言い方で“猫も杓子も大学生”という時代になってしまったのだ。勉強するということ自体は、それほど難しいことではないかもしれないが、誰でも好き、誰でも我慢できるというものでもない。さぼる人のほうが多くなると、本当の努力家が埋もれてしまうので、前に述べたような“判断ミス”が出てしまう恐れが大きい。(そうだったら努力家のみなさんには御免なさい)。   コンピューターが普及したためでもあるが、字もよく書けない人がいっぱいいる。半分以上の学生がローンをして勉強しに来ているのに、遊びが多すぎて必要な単位をとれなくて落第することも少なくない。もっとも、真面目に勉強しても卒業後の仕事が見つからないから、今現在の人生を楽しんだほうがマシだと思う人も少なくないようだ。1990年代の大学生と比べ、今は授業中にノートをとる学生が少ない。なぜノートをとらないのか聞いたら、「多分、教科書に全部あるだろう」と答えるのだ。「ないよ」と言ったら、「もう覚えたよ」と……。こんな馬鹿なことにはもう数え切れないほどぶつかっている。本当に冷たくて、何にも無関心、ぼうっとしているやつもけっこういる。   学生の質が落ちたもう一つの原因は、学生数が爆発的に増えているから、以前のように教師が一人一人学生の面倒をみることが今や不可能になってしまったことだ。さらに、今の教師の責任感は、一世代前の教師たちと比べると落ちている(すでに述べたように今は社会全体のモラルが滅びてしまった時代だ)。勿論、勤勉な学生だって多いのだが、こういう努力家は学問的には問題ないようだが性格が弱い。これは前に述べたように、両親と4人の祖父母からの溺愛の世界で育ってきたからで、例えば、人と付き合いにくい、団体行動がとれない……。   以上は人類社会が21世紀の間、たくさん苦労して歩んできた今の時代に、中国大陸でしか見られない現象だと思う。よその国の新人類も親の世代と合わないということは、もちろん沢山あるだろうけど、中国の“80後”ほどではないと僕は確信する。つい最近、11月末の中国広東省の地方紙(<南方日報>、<広州日報>等)には、指名手配の犯人が百名(本当に丁度この数字なのか?)があった!!!新聞に写真付きの“指名手配令”を載せるということは、僕にとっては初めて経験したことだ。しかも、ほとんどが“80後”だった!広東省(省というのは中国の一級行政地区で31個ある)という狭い範囲なのに、逃げている犯人がこれほどいるということだから、刑務所はどれほど犯人で一杯か想像できますか?   今の中国の大学生が全部、上述したような駄目なやつばかりというのは言い過ぎかもしれないけど、真面目な人が段々減っているのは事実だ。“大学(本科)の「名誉」(証書)、専科の「レベル」、専門学校の「能力」、中学校の「考え方」、小学校の「性格」”という言い方が一時はやっていたことを思い出すと、一体“80後”世代のどこが我々と我々以前の世代と共通なのか、僕はいつも迷ってしまうし、またこの世代がこの国をどのようにしていくのかひどく心配してしまう。だが、海外へ留学している若者たちの大半は本当に人間らしい正常な教育(人徳と知識)を受けて育てられていると僕は期待している。 (つづく)   --------------------------------------------------- <奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng> 内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------