SGRAエッセイ

  • 2019.02.07

    エッセイ585:林泉忠「台湾社会が「一国二制度」を支持しない4つの要因」

    習近平は1月2日に台湾統一に向けた「習五条」の重要談話を発表した。これは、北京当局の習近平「新時代」における対台湾政策の指針である。これに対して、台湾メディアでは連日議論が紛糾し、多くの識者がさまざまな角度から分析と評論を行なっており、台湾問題というこの古くて新しい話題は確かに相当程度、盛り上がりを見せた。しかし、多くの人々にとって理解し難いのは、北京はなぜ40年にわたって台湾社会では受け入れられることのない「一国二制度」を両岸統一の唯一の枠組みとして堅持するのだろうか、という問題である。   「一国二制度」に対する台湾からの否定的反応   「習五条」の統一攻勢に対して、台湾の与野党二大両党はそれぞれ別々の反応を示した。政権を握る民進党政府は、蔡英文が自ら当日午後に臨時の記者会見を開き、「台湾は絶対に『一国二制度』を受け入れない。絶対多数の台湾民意は、『一国二制度』への反対を堅持する。これは『台湾共識(台湾コンセンサス)』である」と表明した。こうした蔡英文の反応は、決して意外ではなかった。むしろ北京が注目したのは、国民党の態度である。呉敦義が主席を務める国民党は、習談話の翌日、党中央委員会文化伝播委員会(文伝会)から6項目にわたる声明文を発表しこれに応じた。 その中では、たしかに国民党は「一中各表(双方とも『一つの中国』は堅持しつつ、その意味の解釈は各自で異なることを認める)」の「九二共識(92年コンセンサス)」を支持すると強調したものの、習近平が定義した「九二共識」の「新たな内容」すなわち「国家統一を目指し共に努力する」への直接な言及を避けた。しかし「一国二制度」に対しては、「現段階で「一国二制度」は台湾の多数民意の支持を得ることはおそらく難しいだろう」と間接的に否定するという形で応じたのである。   その後、「平和的統一、一国二制度」を内包した「習五条」談話についての世論調査が続々と発表された。1月9日、台湾民間シンクタンク両岸政策協会が発表した世論調査では、80.9%にも上る台湾市民が「一国二制度」に賛成しないと回答しており、賛成はわずか13.7%であった。ほどなくして行政院大陸委員会が17日に記者会見を行い、関連した世論調査を公表したが、「一国二制度」に賛成しない市民は75.4%に上り、賛成はわずか10.2%であった。しかも、習近平談話の中に定義されていた「両岸は一つの中国に属しており、共に国家統一を目指して努力する」という「九二共識」の実質的内容に対しても、74.3%が「受け入れない」としており、「受け入れる」と答えた市民の割合はわずか10%だけだった。   台湾の民主化と本土化の影響   実際、行政院大陸委員会や一部のメディアは、1990年代以来何度も台湾市民の「一国二制度」に対する賛否を問う世論調査を行ってきた。そうした調査の結果において「一国二制度」への賛成がこれまで3割を越えたことは一度もなかった。この40年来、台湾において民意の多数派が「一国二制度」を支持しないのは、以下の4つの要素にその理由を見いだすことができるだろう。   第1に、台湾社会が1990年代の「本土化」の波を経験した後、民意の多数派は両岸統一を再び支持することは無くなったということである。これ以前には、台湾の国民党政府は、1949年以前の中華民国の命脈を維持する残存政権として、蒋介石の「大陸反攻」から蒋経国の「三民主義による中国統一」にいたるまで、中国統一を国策として高く掲げていた。1990年代の李登輝政権初期までは、依然として「国家統一委員会」を設置し、「国家統一綱領」を制定していたのである。しかし、その後の憲政改革の推進に伴う台湾社会の「本土化」運動の興隆によって、1994年以降は「中国人」であると認識する台湾市民の割合が再び民意のメインストリームになることは無くなった。こうした政治社会状況の変化のもとで、両岸統一を支持する思想も民意の多数派の耳目を浴びるものでは無くなっていった。これこそ、2008年に馬英九の国民党が政権に返り咲いた後も、「国家統一委員会」も「国家統一綱領」も復活させることがないばかりか、さらには両岸政策において「統一しない」という方針を採った所以である。   第2に、「一国二制度」が必然的に「中華民国」の消失を招くと台湾社会は認識しているということである。これは国民党の人々にとっても受け入れることのできないことだ。たしかに国民党の党憲章の中には、今でも「国家の繁栄と統一という目標の追求は、一貫して変わらない」という旨の条文があり、これは「国家統一綱領」に掲げられた国家統一の理念と相通じている。しかし、こうした思想が「中華民国」という国体から続く国家アイデンティティを意味するものである以上、あくまで「中華民国」の旗の下の中国統一を追求するものであって、「中華民国」の放棄を含む統一を受け入れるものではない。 北京が提起した「一国二制度」の統一枠組みは、国民党にとって「中華民国の消滅」を前提とした統一の論理であり、たとえ「深藍(もっとも忠実な国民党支持派)」の国民党の人々であっても受け入れ難いものであろう。したがって、「一国二制度」の枠組みが、「中華民国」の存続の可能性を内包したものでない限り、国民党がその態度を改めることはないであろうし、「本土化」の影響を強く受けた国民党支持者ではない台湾の人々は言うに及ばない。   キーポイント:台湾版「一国二制度」における両岸の地位の位置づけ   第3に、「一国二制度」の枠組みにおける大陸と台湾の関係は、多くの人々にとって中央政府と地方政府の関係として理解されているということである。これは、1990年代の政治的民主化の後、台湾社会が受け入れることのできない施策である。たしかに、習近平が提出した「一国二制度の台湾方案」は未定稿であり、大陸と台湾の具体的な関係も明確とはいえない。大陸の学者である王英津は、統一後の両岸関係を条件付きで「中央政府と準中央政府」の特殊関係と規定する研究をかつて行なっている。しかし、王英津を含めこうした議論は、中国社会科学院台湾研究所所長補佐彭維学が提起した「中央全面統治権の確保」の原則を前提としたものである。言い換えれば、「一国二制度の台湾方案」における大陸と台湾の関係の位置づけは、「中央対地方」の関係を原則としない可能性を示すことができなければ、台湾の主要政党及び社会が「一国二制度」の統一案を受け入れることは難しいだろう。   第4に、香港で「一国二制度」が実施されて20年余りが経過するが、未だ成功例を台湾に示せていない。周知の通り、香港とマカオで実施されている「一国二制度」は、もともと台湾統一に向けた構想であった。2017年の香港返還20周年の習近平の談話であれ、今回の「習五条」の講話であれ、北京としては、香港における「一国二制度」の実施は非常に成功していると捉えている。しかし、こうした政府公式の見方と現実のギャップは、台湾市民の眼に映っているのみならず、香港社会においてすら「一国二制度」への信頼ははっきりと揺らいでいることからも伺える。 香港大学の民意研究プロジェクトの「一国二制度」への信頼に関する調査では、1997年香港返還当初、「一国二制度」を「信頼する」と答えた香港市民の割合は63.9%で、「信頼しない」と答えたのはわずか18.5%であった。ところが、「一国二制度」施行後21年経った今日、最新の調査では、「信頼する」と答えた香港市民の割合は45.5%にまで低下しており、「信頼しない」と答えた46.9%よりも低い結果となった。しかも、香港における普通選挙もソフトランディングできずにおり、2014年に勃発した空前の「オキュパイ・セントラル/雨傘運動」も、台湾人の「一国二制度」への不信をさらに高めることになったのである   実際、将来「一国二制度の台湾方案」の内容がどのように発表されるのかは依然として未知数である。しかし、上述したように、台湾社会の「一国二制度」への信頼に対してマイナスの影響を与える要素に関して、十分に考慮を重ねて改善を図り、台湾社会が受け入れ可能な方案を制定すること無しに、国民党を含めた台湾社会の「一国二制度」及び両岸統一に対する態度を変えようと一方的に頑なに希望することは、おそらく永遠の希望的観測に過ぎないのである。   (原文は『明報』(2019年1月28日付)に掲載。平井新訳)   英訳版はこちら   <林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、国立台湾大学兼任副教授、2018年より台湾日本総合研究所研究員、中国武漢大学日本研究センター長を歴任。     2019年2月7日配信
  • 2019.01.31

    エッセイ584:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮(4):日蓮遺文の思想史的研究の方法論について」

    「私の日蓮(1):日蓮研究に至った背景について」 「私の日蓮(2):日蓮の多様性」 「私の日蓮(3):宗教的主体性」   日蓮はまず歴史的人物だと言えるが、歴史を超える「何か」、すなわち『法華経』の教えの普遍性を踏まえて活躍した宗教者に違いない。言い換えれば、歴史の中にいながらも、歴史を超えた次元を前提に活躍した人である。また、科学は、数多くの文献について日蓮の真作かどうか答えることができても、何のためにその真偽問題を解決しなければならないのかは答えられない。「意味」も「目的」を持たない、ありのままの事実しか提供できないものだから。となると、「宗教的主体性」は問題を抱えているが、「科学的主体性」にも大きな限界があると言わざるを得ない。前者は「意味」と「目的」を提供することができても「思想史的研究」には相応しくなく、後者は何故「思想史的研究」を行うのかを説明できないからだ。   では、「疑い」続けられるものは、科学以外にもあるのだろうか。あるとすれば、それは哲学であろう。しかし、哲学は定義として、科学のように理性の活動でありながらも、所属の文化と時代の諸設定を乗り越えたところですべてを考え直す試みであり、ラディカルな批判性がある。そのため、日蓮遺文の「思想史的研究」に活用するとすれば、必然的に日蓮系の諸宗派と各教団の伝統・解釈・カテゴリー・研究方法へのラディカルな批判として働き出すことになるだろう。しかし、諸宗派と各教団の伝統・解釈・カテゴリー・研究方法と現代思想の諸設定を乗り越えたところで日蓮遺文の中身を考え直していく必要があると言えるが、このような「哲学的主体性」はどこまで現在の各教団に許されるのだろうか。更に、「哲学的主体性」こそ最良の手段であるということも、どこまで言い切れるのだろうか。筆者が研究している日蓮の「写本遺文」のケースを考えれば、答えが出てくる。   日蓮の「写本遺文」は、後代の弟子たちの「写し」しか残らず、日蓮の「真蹟」はないからこそ真偽について即断できないという点に加え、これまでの日蓮研究ではあまり指摘されてこなかったもう一つの大きな特徴が存在する。それは、どのような読み方をするかによって「真蹟」の内容と矛盾するかどうかが決まってくるということである。すなわち、「矛盾しない」という読み方を探っていくことも可能だという特徴である。しかし、日蓮教団の伝統に強く縛られていれば、そのようなことは簡単には出来ない。   筆者の研究では次のような方法を考えた。日蓮の「真蹟遺文」は2種類ある。 (ア)日蓮の代表作に該当する「真蹟完存の遺文」;これらは「真蹟遺文」の20%で、多くは日蓮が当時の有力な人物たちに宛てた論書である。今の日蓮各教団で最も信頼され研究されている資料である。 (イ)今の日蓮各教団ではあまり参考にされない「真蹟断片のマイナーな遺文」;これらは「真蹟遺文」の80%で、一般の信者の一人ひとりに宛てた資料である。 これまでの研究においては、日蓮の「写本遺文」の内容は(ア)としか比較されなかったが、(イ)とも比較すれば、次のようなプラスの3点が明らかになる。 (1)「真蹟断片のマイナーな遺文」は同じテーマに関して、より多面的で様々な角度を提供している。内容が豊富な資料であるため、「写本遺文」の内容と「真蹟遺文」とが矛盾するかどうか判断しやすくなる。(矛盾しないと考えやすくなる) (2)「代表作」(上記(ア))という狭い範囲から「真蹟断片のマイナーな遺文」」(同(イ))にも視野が広がるということで、「真蹟遺文」のカテゴリー自体がより広くなる。 (3)(イ)との比較において発見できる日蓮思想の様々な側面を比較材料に導入することができるので、日蓮思想の全体像がより広くなる。   しかし、この作業には大きな限界が存在する。それは、2つの可能性に同時に導いてしまうことである。確かに、(1)日蓮の「写本遺文」の中身は、彼の「代表作」と「マイナーな遺文」から描かれる「日蓮本来の思想」に「ありえなくはない」ため、「真作らしい」と考えることもできる。だが、(2)日蓮の真作に見えるように後代の優れた弟子たちによって非常に巧みに偽作された可能性もある。   結局、日蓮の「写本遺文」は歴史的にも本当に彼の著作かどうかは確実な答えが出ていないままで、むしろ特に「信仰の立場からは問題ない」と言える箇所、すなわち「真蹟完存の主な代表作」と「真蹟断片のマイナーな遺文」のどれかに似ているとある程度言えるような理論を含んだ箇所に注目してこそ、逆に上記のような二重の可能性に最も導きやすく、結論を更に曖昧で複雑にしてしまうことになる。これが、諸宗派と各教団の伝統・解釈・カテゴリー・研究方法と現代思想の諸設定を乗り越えたところで日蓮遺文の中身を考え直していくという、「哲学的主体性」の大きな限界であろう。   どうしても、確実な答えに導いてくれる「何か」を新しく発見することが必要不可欠のように思える。例えば、現存する日蓮の「写本遺文」の1つずつが文献として歴史に初めて登場した時点から間も無く、「この書はこう言った理由で現在の~さんに作られ、師匠・日蓮の著作として最近はじめて収録されたものである」と根拠付けて明確に記す資料(宗門内の注釈書)さえ発見することができれば、筆者の研究はもう少し楽になるかもしれない。残念ながら現段階では、これは干し草の山で針を探すような試みである。しかし、同時に、今の日蓮研究では至難の試みであるからこそ、多くの研究者が日蓮の「写本遺文」に関心を抱き、魅力を感じる大きな理由になっている。   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。2015年に大田区日蓮宗池上本門寺の宗費研究生。2006年度に仏教伝道協会の奨学生。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。     2019年1月31日配信
  • 2019.01.24

    張桂娥「第3回東アジア日本研究者協議会パネル報告『アジアにおける日本研究者ネットワークの構築』報告」

    2018年10月27日(土)京都において、「第3回東アジア日本研究者会議国際学術大会」が開催され、SGRAから参加した2つのパネルの1つとして「アジアにおける日本研究者ネットワークの構築~SGRA(渥美国際交流財団関口グローバル研究会)の取り組みを中心に~」と題するパネルディスカッションが行なわれた。当パネルは発表者4名、討論者2名、座長兼司会1名で構成され、ほぼ満場に近い世界各国からの来場者を前に、SGRAがアジアを中心に取り組んでいる日本研究者ネットワークの構築について幅広い議論が交わされた。   本パネルは、アジアにおける日本研究者ネットワークが実現するまでに、2000年の発足以来継続してきたSGRAの取り組みを振り返り、今後目指すべき新地平を探ることを目的とした。特に、日本国内のSGRAフォーラムとシンクロして、アジア各地域で展開される、「日韓アジア未来フォーラム」(2001~)、「日比共有型成長セミナー」(2004~)、「SGRAチャイナフォーラム」(2006~)、「日台アジア未来フォーラム」(2011~)に焦点を当て、地域ごとの活動報告を通して、より創発的に共有できる「知の共同空間」構築のための解決すべき課題、未来を切り拓く骨太ビジョンの策定等について、異なる見解が共有され多様な視点が得られた。また、フロアの参加者たちを交えた質疑応答コーナーでも活発な意見交換が行なわれ、改めて本パネルの課題に寄せられた研究者たちの関心の大きさに気づかされ、実り豊かなひと時を過ごすことができた。   パネルの流れとしては、最初に座長兼司会の劉傑先生(早稲田大学社会科学総合学術院教授)がパネル企画の背景・趣旨およびメンバーの紹介を行い、次に4つの発表をした後、討論者がコメントをし、最後に参加者の質疑応答の時間を設けた。2015年第49回SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」において、「アジアないし世界が共有できる『日本研究』とはどのようなものか」「東アジアの日本研究の仕組みをどのように構築していくのか」といった問題を提起した劉先生は、「日本研究」をアジアの「公共知」として育成するために、アジアで共有できるアジア研究を目指すネットワークの構築が喫緊の課題であるといち早く予見し提唱した識者であるが、SGRAの取り組みの方向性についてコメントしていただけるラクーン(元渥美奨学生)ネットワークのアドバイザーでもある。今回のパネル議題に強い関心を持つ劉先生の切れ味抜群の司会進行で、各発表が明るくテンポよく進められた。以下、4本の発表要旨と討論者によるコメントの概要を簡単にまとめる。   1本目の発表は、「日韓アジア未来フォーラム」(JKAFF)の設立(2001年)から係わってきた金雄熙先生(韓国・仁荷大学国際通商学科教授)による報告であった。韓国未来人力研究院の「21世紀日本研究グループ」と渥美財団SGRAの共同プロジェクトで始まったJKAFFの経緯(17回毎年開催した形式、内容、番外の三拍子が揃ったフォーラムのテーマの紹介)、現状(アジアの研究者及び現場の専門家たちが、アジアの未来について幅広く意見を交換する集まり)について詳しく説明した金先生は、さらに社会統計学の手法を用いて、これまでに積極的に参加した韓国ラクーンと出席関係者たちで築き上げられた知のネットワークを、ダイナミックなグラフで「見える化」した。スクリーンに写し出された科学的・実証的な考察結果に、報告者も含むフロア一同、強いインパクトを受けた。   金先生は、歴史問題で揺れ動く日韓の間ではあまり類を見ないしっかりとした交流プロジェクトであるJKAFFの実績を自負しながらも、決して現状に甘んずることなく、テーマ設定の在り方や次世代を担う若手研究者の育成面では考え直すところがあると、危惧の念を抱いているという。今後の課題として、より多元的で弾力的な推進体系を取り入れ、東アジア地域協力課題により多面的に対応し、ダイナミックで実践的な知のネットワークを作り上げていきたいと、淡々と語った金先生であるが、彼の眼には、知日派人材の宝庫である韓国ラクーンメンバーたちの目指す「日韓アジア未来フォーラム」(JKAFF)の未来像(テーマの多様化・運営主体の多元化・運営資金調達の安定化・専門同時通訳士の予算確保・ネットワークの脱集中化)が、より鮮やかに映って来たのではないか、というインパクトのある印象を受けた。   2本目の発表は、フェルディナンド・シー・マキト(Ferdinand_C._Maquito)先生(フィリピン大学ロスバニョス校准教授)による発表であり、SGRAの全面的な支援を受けて2004年に設立した「日比共有型成長セミナーの経緯、現状と課題」について振り返ったものである。当初は経済の成長と分配が同時に進む「共有型成長」を軸に進められたが、2010年よりラクーン同期である高偉俊教授(北九州市立大学教授)の協力を得て環境問題も含む学際的な日比共同研究プラットホームが実現した。以降、訪日歴あるフィリピン研究者を中心に環境問題が取り上げられ、ここ数年では、環境保全(持続的)、公平(共有)、効率(成長)の3つの目標を目指す「持続的な日比共有型成長セミナー」に進化してきた。この3つの目標に当たるフィリピン旧来文字の言葉の頭文字が<KA、KA、KA>であることから、「3KA(さんか)セミナー」と愛称されることに。   2017年に帰国したマキト先生は、東アジアからさらに南西に離れたフィリピンで展開した、「英語」ベースの日比共有型成長セミナーの活動を、遠路遥々の日本における「東アジア日本研究者協議会」で「日本語」で発表するめったにない機会に感謝しながら、少しのためらいと緊張感に包まれていたように見受けたが、簡潔明瞭で歯切れのよい日本語の説明と、持ち前のユーモアセンスで会場中の人びとを笑いのるつぼに陥れることに成功した。2020年1月に第5回アジア未来会議を開催する責任者に任命されたマキト先生は、3KAセミナーに基づく「持続的な共有型成長:みんなの故郷(ふるさと)、みんなの幸福(しあわせ)」という目標を大会のテーマに据えて、SGRAフィリピンの活動の集大成を目指したいという。さらに、フィリピンに限らず、世界が直面している課題でもある「持続的な共有型成長」の実現に向けて、微力ながら貢献できればと、目を輝かせながら力強く締めくくった。   3本目の発表は、2006年SGRAチャイナフォーラムが発足した当初から舵を取ってきた孫建軍先生(北京大学外国語学院副教授)が、フォーラムの経緯、現状と課題をめぐって、「広域的な視点から東アジア文化史再構築の可能性を探って」という視座から振り返った報告であった。前期(2006-2013)では、中国全土(北京、上海、フフホト、ウルムチ、延辺など)で活躍している20名弱の中国ラクーンの所属大学を拠点に、若者(大学生たち)向けに、環境問題・人材養成などの分野で活躍している日本の公益活動を紹介する講演会を開催し、知的情報の共有や国際的な視野と円満な人格の涵養を図るイベントがメインであった。   しかし、2012年に起きた反日活動の影響で大きく軌道修正したチャイナフォーラムは、2014年より、清華大学東亜文化講座の協力を得て、広域的な視点から東アジア文化史再構築の可能性を探ることをテーマの主眼に据え、日本文学や文化研究に携わる中国人研究者の関心を集め、国際的な学術的活動への新しい展開を見せている。その背景には、研究者層の拡大、経済的背景の変化、文化史(美術、言葉、映画)への共通的関心など、様々な要素が挙げられるという。豊富な語彙で切れのいい言葉づかいの名人である孫先生は、軽妙でユーモアな語り口と独創的な表現力を駆使しながら、今後の課題について、ぶれない文化史を軸に、他地域の経験を如何に生かすかという極めて重大な問題を提起した。底の知れぬ可能性を持つチャイナフォーラムは、独自の路線を維持するか、それともさらなる大きな方向転換に挑むか、今後の動向が興味深い。   4本目の最終発表は、本パネルの企画者である張桂娥(東呉大学日本語文学科副教授)が、2010年代に誕生したばかりの「日台アジア未来フォーラム」(JTAFF)の歩み(経緯、現状と課題)を振り返りながら、台湾ラクーンメンバーの「既成概念にとらわれない柔軟なフットワークで、身の丈にあった知的交流活動の展開」を紹介した。JTAFFでは、主にアジアにおける言語、文化、文学、教育、法律、歴史、社会、地域交流などの議題を取り上げ、若手研究者の育成を通じて、日台の学術交流を促進し、台湾における日本研究の深化を目的とすると同時に、若者が夢と希望を持てるアジアの未来を考えることを、その設立の趣旨としている。2011年東北大震災の直後にスタートしたJTAFFは、かつてないほど盛り上がった日台友好ムードに恵まれ、台湾の大学機関・公的部門のみならず、台湾現地の日系企業からも比較的潤沢な活動資金が確保できるという、運営体質に恵まれた組織である。   JTAFF主催責任を担う7名の台湾ラクーンはそれぞれ専門が異なるため、バラエティーに富んだ多元的学問領域を視座に、既成概念にとらわれない柔軟なフットワークを展開してきたが、長期的には、持続可能な「知の共同空間」の構築に欠かせない骨太ビジョン、いわば具体的にアプローチできる目標を確立しない限り、活動のアイデアの枯渇やマンネリ化に陥る危機感を募らせる一方である。今後、台湾ラクーン個々のメンバーに期待される急務は、学際的・国際的学術交流に積極的に参画することによって、長期的視野に立ったフォーラム作りをはじめ、広域的な視点に立ったテーマの取組みまで、日台間の歴史文化・政治的・社会的問題に幅広い関心をもって、深く掘り下げることの出来る高度の知見と能力を兼ね備えることではないか。   続く専門家の助言を仰ぐ時間であるが、1人目の討論者として迎えた稲賀繁美先生(国際日本文化研究センターおよび総合研究大学院大学教授)のコメントは、まず所属する公的機関、国際日本文化研究センターを引き合いに、「国際」を大々的に掲げたにも関わらず、日本国内にある国際学術機構の交流成果は民間組織であるSGRAの実績には遥かに及ばない現実に言及し、東アジアで展開されるSGRAの取り組みこそ、日本の国際的学術組織がもっとも見習うべき見本の1つではないかと念を押した。 そして、国際社会に向けて発信する際の言語媒体に悩まされる学者の懸念に対し、英語が公用語である3KAセミナーを除き、同時通訳付き形式を採用したSGRA中韓台のフォーラム運営方式には肯定的な意見を示した。最後に、本パネルの4つの発表を通して、日本学を外に開いたことをどう意味づけするのか、東アジアの諸国(非日本語の世界)に蓄積された日本研究の成果、知識、解釈が、日本の学会・日本列島に住んでいる国民にも行き渡るようなプラットホームの構築をどう実現していくのか、日本学のあり方や真価が問われる喫緊の課題ではないかとコメントした。   2人目の討論者である徐興慶学長(中国文化大学学長・外国語文学院日本語文学系教授兼院長)は、本パネルで報告した上記4名の発表内容を総括した形で感想・助言を述べられた。たとえば、フィリピン3KAセミナーでは、時の政権と抗って果敢に取り上げられた環境・自然問題、経済利益の公平的再分配問題を、古き時代から蓄積してきた文化資産の共有で日本とは強いつながりを持ってきた中国では、両国の美術交流史・文化交流史の再構築に焦点を当てるチャイナフォーラムの斬新な試み、JKAFFで実現できた日韓交互開催形式の幅広いネットワークの強い連帯感、そして、第1回JTAFFの開催に徐興慶学長自身がパイオニア主催者として最善を尽したJTAFFの独創的なスタイルーー既成概念にとらわれない柔軟な対応力を培った多元文化社会台湾ならではの底力――、つまり、SGRAの元奨学生がそれぞれの国の置かれた状況にふさわしい活動をダイナミックに展開することに成功しているのではないかと、励ましのコメントを送った。   座長を務めた劉傑先生は、討論者の意見に対してそれぞれ簡潔なコメントを述べたあと、会場からの質問を受けることに移った。   渥美国際交流財団についての質問をはじめ、4つの国以外でも実施した或いは実施する予定の取り組みや奨学金の申請方法、元奨学生が活躍できる交流の場の提供や場づくりのノウハウなど、会場まで駆けつけた今西淳子常務理事が自らの言葉で説明したり、現場にいる元奨学生たちが補足したり、実に幅広い課題について議論が交わされた。満場に近いオーディエンスから終始熱い注目を浴びている会場の雰囲気から、東アジア日本研究者協議会のような、広域的な地域連携による知的交流の場づくりの大切さが、フロア全員にも、しっかりと体感できたのではないか。   何より、本来、日本留学を終え、韓・比・中・台、それぞれの国に貢献すべく、帰国した高度知日派人材であるラクーンメンバーが、独自な組織運営を営みながら孤軍奮闘してきた足跡・蓄積してきた知的交流のノウハウは、こうした国際的な知的情報の交換/交流舞台に持ち込まれ、広く共有されることで、新たなエネルギーを生み出していくと確信できよう。そのエネルギーは、やがて国際交流に役立つファシリテーターに吸収され、国際的ネットワークへ拡張していき、その先々には、再生できる知的交流サークルが形成されることであろう。   今回は(公財)渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)のパネル企画者及び発表者として参加でき、実りの多い貴重な体験を記憶に刻むことができた。それぞれの立場をわきまえながら、同じ思いで別々の国で努力している仲間たちとの意見交換によって、これまでにない斬新なアプローチに向けて発展させ、アジアにおける日本研究者ネットワークを広げることの意味を台湾の仲間たちに伝えることができる。参加してみて改めて、会話・対話を通じたコンセンサス(合意)形成の意味と必要性を深く認識させられた東アジア日本研究者協議会であった。   素晴らしい機会を与えていただき、感謝の念に尽きない。 報告者、討論者、座長(司会)の先生方に改めて感謝を申し上げたい。(文中敬称略)   金雄熙(日韓アジア未来フォーラム)発表資料   マキト(共有型成長セミナー)発表資料   孫建軍(SGRAチャイナフォーラム)発表資料   張桂娥(日台アジア未来フォーラム)発表資料   第3回東アジア日本研究者協議会国際学術大会の写真   英訳版はこちら   <張 桂娥(ちょう・けいが)Chang_Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本語教育、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科副教授。授業と研究の傍ら、日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。     2019年1月24日配信
  • 2019.01.17

    グアリーニ & ファスベンダー「第3回東アジア日本研究者協議会パネル『現代日本社会の『生殖』における男性の役割――妊娠・出産・育児をめぐるナラティブから』報告」

    2018年10月27日(土)に国際日本文化研究センター(日文研)と京都リサーチパークにおいて、第3回東アジア日本研究者協議会国際学術大会が開催されました。私たちは、SGRAから参加したパネルの1つとして「現代日本社会の『生殖』における男性の役割――妊娠・出産・育児をめぐるナラティブから」という発表をしました。本パネルは、2人の発表者のほか、司会者のコーベル・アメリ(パリ政治学院)、討論者のデール・ソンヤ(一橋大学)とモリソン・リンジー(武蔵大学)の5人のメンバーで構成されました。当日、約15人の参加者を迎え、討論者や参加者から刺激的な質問やコメントをいただき、熱心な議論が交わされました。   本パネルは、現代日本において、妊娠・出産・育児における男性の役割がどのように語られているかを考察することを目的としました。日本の最重要な社会的課題として「少子化」が議論されているなかで、個人の妊娠・出産・育児には、国家や企業、マスメディアからの介入がみられますが、その言説では、若い女性が子供を産み育てるために身体・キャリア・恋愛などの人生のあらゆる側面をプランニングし、管理する必要性が説かれています。そうした「妊活」(妊娠活動)や育児に関わる言説には、今も尚、母性神話が強く根付いています。一方、そこに男性の存在感は稀薄であり、家庭内における「父親の不在」がしばしば指摘されています。たとえ「イクメン」という言葉が流行し、子育てに参加したい気持ちはあっても、長時間労働や日本企業独特の評価制度などに縛られ、それを許されない男性は多いのです。   上記の背景を踏まえた上で、本パネルでは、社会学と文学のそれぞれの視点から、妊娠・出産・育児における男性の役割の考察を試みました。   最初の発表は、イサベル・ファスベンダー(東京外国語大学)による「『妊活』言説における男らしさ―現代日本社会における『産ませる性』としての男性に関する言説分析」でした。ファスベンダーは、これまで「妊活」言説が、国家・医療企業・マスメディアの利害関係のもとにいかに形成されてきたか、そしてその言説がいかに個人、とりわけ女性の生き方を規定するかを分析してきました。 しかし今回は、その言説における男性の役割に焦点をあてました。「妊娠」すること、「産む」ことは、個人的な領域に属していると思われがちですが、不断に政治的なものとして公の介入を受けてきました。特に問題視されてきたのは「妊孕性」と「年齢」の関係性です。これまで「妊活」言説の主人公が主に女性に限定されてきましたが、最近になって、男性の身体、妊孕性をめぐる言説も注目されてきています。生殖テクノロジーの発展に伴う生殖プロセスの、生殖細胞レベルでの可視化が、さらに徹底して利用されていることが背景にあります。 この発表は、新聞記事、専門家へのインタビュー、男性向けの「妊活」情報、そして男性自身の語る「妊活」体験談などの分析に基づいて、男性の生殖における役割が現在の日本社会においてどのように位置づけられているのかを探りました。   2番目の発表は、レティツィア・グアリーニ(お茶の水女子大学)による、「妊娠・出産・育児がつくりあげる男性の身体-川端裕人『ふにゅう』と『デリパニ』を手がかりに-」でした。この発表では、川端裕人の『おとうさんといっしょ』(2004年)を中心に日本現代文学における父親像の表象について考察を試みました。 現代日本における出産・育児の語り方は、常に女性に焦点を当て、母親がいかにして子どもを産み育てるための身体を作るべきかが論じられています。一方、そこに男性の存在は稀薄であり、家庭内における「父親の不在」がしばしば指摘されています。このような社会事情を反映する現代文学においても出産・育児の体験はしばしば女性を中心に語られており、男性が物語の舞台に登場することは少ない上、育児に「協力する」副次的な人物として描かれることが多いのです。 グアリーニは、川端裕人の『おとうさんといっしょ』から出産に立ち会う男性を主人公にする「デリパニ」と授乳しようと試みる父親を描く「ふにゅう」、この2つの短編小説を取り上げ、川端裕人の作品分析によって、男性の身体に焦点を絞りながら父親の表象について論じ、新たな観点から出産・育児の体験を考察しました。   今回、渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)のパネルの発表者として参加できたおかげで、貴重なコメントをくださった討論者の方はもちろん、さまざまな研究者と意見交換ができました。自分たちの研究について改めて考える機会を与えていただき、ありがとうございました。 (文中敬称略)   当日の写真   <グアリーニ・レティツィア GUARINI Letizia> 2017年度渥美奨学生。イタリア出身。ナポリ東洋大学東洋言語文化科(修士)、お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科(修士)修了。現在お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科に在学し、「日本現代文学における父娘関係」をテーマに博士論文を執筆中。主な研究領域は戦後女性文学。       2019年1月17日配信
  • 2019.01.10

    陳龑「第12回SGRAチャイナ・フォーラム『日中映画交流の可能性』報告」

      『中日友好条約』が調印されて40年。今年の5月には、新たな「日中映画共同製作協定」が発効した。日中映画提携のさらなる成長が期待されるものの、今年の冬は中国映画界にとって一層寒くなっている。最近、映画業界を整理するために納税のチェックが厳しく行われ、関係者は深刻な不安に襲われているのだ。このような流れの中で、2018年11月24日、今回のSGRAチャイナ・フォーラムが開催されたので、映画研究者にとっては感慨無量と言えるであろう。   今回のチャイナ・フォーラムの会場は中国人民大学の逸夫会堂、テーマは「日中映画交流の可能性」。今までのチャイナ・フォーラムと違って、映画は身近な存在であるため、映画の研究者はもちろん、映画のファン、また、親から高倉健の名を聞いたことのある若い学生にとっても、日中映画交流の歴史を日中両面から認識することができる絶好のチャンスであった。   SGRAチャイナ・フォーラムは、広域的な視点から東アジア文化史再構築の可能性を探ることをテーマの主眼に据えている。文化的相互影響、相互干渉してきた多様な歴史事象の諸相を明らかにし、交流を結節とした大局的な東アジア文化(受容)史観を構築することの重要性を指摘してきた。今回も企画段階からこの主旨を貫き、日本映画が中国にもたらした影響と中国映画が日本にもたらした影響を両サイドから解釈するために、それぞれの専門家に依頼した結果、日本人の中国映画史専門家、刈間文俊教授(東京大学名誉教授)と中国人の日本映画専門家、王衆一先生(『人民中国』編集長)を迎え、「史上初の日中映画史『聴き比べ』」が実現した。   はじめに、主催者側の人民大学文学院を代表して副院長の陳奇佳教授が開会の辞を述べた。彼自身も映画のファンであり、日本のマンガ・アニメーションについても10年間研究したことがあるため、今回のテーマを期待していた。続いて、渥美財団を代表して今西常務理事からのご挨拶とフォーラムの開催経緯の説明があった。   講演の部分では、刈間教授が先に「中国映画が日本になにをもたらしたのか――過去・現在・未来」をテーマに、中国映画の日本進出の状況とそれに関する論評を詳しく紹介した。近年来、日中両国の間では大量な観光客の訪日による新たな「接触」が発生しているため、中国の抗日ドラマなど日本と日本軍を描写するコンテンツは挑戦を受けている。なぜなら、「本当の日本を知るようになった以上、簡単に騙されない」から。同じく、日本側も中国観光客を見て中国の現在を認識している。映画は、この様な「接触」ができない時代から、お互いに「印象をつける」という役割を果たしてきた。   実は、中国の日本映画熱愛の前の1977年に、日本で第一回中国映画週間がすでに開催されていた。当時は『東方紅』、『偉大なるリーダーとチューター毛主席永垂不朽』、『敬愛なる周恩来総理永垂不朽』など時代性の強い映画が上映され、日本人観客を震撼させた(特に周恩来総理の葬式の部分)。その後、時代の流れと共に、日本の観客がそれぞれの時代の映画を通して、ニュースでは紹介されない中国を認識してきた。刈間教授も、当時から中国映画の字幕をつけ、上映会をやりながら、中国に対する興味を深めた。77年代後半から80年代に亘って、「中国の庶民は時代に翻弄され貧しい生活(特に農村地域)をおくっている、それにしても強く生きようとしている」というイメージが日本の観客の中で固まった。この先入観が強すぎるため、中国の現在の社会を描く中国映画は日本では受けないと刈間教授は推測している。   また、当時上映された映画の映像表象は日本の大島渚など映画人にも影響を及ぼし、日中映画人(中国側は主に第五代監督、即ち1980年代の半ばにデビューした新世代の監督たち。例えば陳凱歌など)の対談も屡々行い、お互いに交流しあうようになった。例えば、大島渚の非被害者視点的出発点が陳凱歌を刺激し、彼をストーリテールに回帰させ90年代の傑作『さらば、我が愛』に導いた。一方、直接中国映画の制作に関与した日本技術者、映画人と日本の会社も存在し、日本人の俳優も中国映画市場で活躍するようになった。さらに、この40年間の映画合作をみて、最も大きな変化は中国をロケ地にするだけではなく、作品で描いた日中人物の関係が平等に、密接的になり、また、日本の創作者が持つ歴史観が中国歴史題材の映画に新たな解釈と可能性を提供した。今年「日中映画共同製作協定」が調印され、今後の日中映画交流・提携が益々発展すると刈間教授は期待している。   刈間教授の講演内容とは対照的に、王衆一先生は「中国における日本映画-交融・互鑑・合作」というテーマで、映画が人々の心象風景を如何に表現し、日本映画が如何に中国に影響を及ぼしてきたかという事実を詳しく語った。一言で言えば、日本映画は中国の観客・映画人に技術面で刺激し、また、コンテンツとしても中国人に感動を与えている。実は、50年代、新中国の映画事業の初期段階に、日本映画人がすでに制作に参加していた。歴史的原因で、上海映画はアメリカからの影響が強く、東北映画は日本映画の伝統を受け継ぐ。最も有名なのが東北電影製片所による『白毛女』(1950)という作品で、日本でも50年代に自主上映によって公開され、松山バレエ団が刺激を受け『白毛女』のバレエバージョンを作った。また、日本の高度経済成長に伴う社会問題、環境問題などを反映するドキュメンタリーも中国にとって教訓をくみ取ることのできる内容として中国に入った。   1978年日中平和友好条約が締結されたあとの日本映画ブームは今でも常に語られる。映画を通して、中国観客が70年代の日本のファッション、日本の風景、日本人の日常生活と社会問題などを知るようになり、一方、中国のスクリーンにない男性像の主人公が当時の観客の心をつかみ、中国で人気絶頂のビッグスターとなった。最も有名なのが高倉健と『君よ憤怒の河を渉れ』であり、40年間に何回も翻案され、その影響は今でも続いている。さらに、映画の舞台になったところは中国人にとって「聖地巡礼」の場になり、山田洋次監督の作品で描かれた北海道は中国映画でも舞台となり、多くの観光客を迎えている。しかし日本人の「原郷」は瀬戸内海であり、日中共通の「情け」文化を考えると、今後日中の合作映画は瀬戸内海をロケ地にすれば絶対ヒットするはずと王先生は強調した。   80年代から、日中映画人の交流イベント、日中合作映画、ドラマなどが断絶することなく続いている。NHKと提携し、鄧小平が題字を書いた『望郷之星』、日本小説が原案となる『大地の子』など、日中両国でもよい反響が寄せられた。インターネット時代に入ると、中国で先に話題になった日本の作品が海外で受賞した後に日本国内で興行されるというように、逆影響を受けた例も少なくない。今後日中映画、ドラマだけではなく、舞台、アニメ、ゲームなど様々な提携が期待できると王先生は語った。   情報量と面白さで充実した両先生の講演の後、パネルディスカッションに入った。登壇者は北京大学の李道新教授、中国社会科学院の秦嵐先生、北京語言大学の周閲先生、北京市社会科学院の陳言先生と東京大学の林少陽教授。時間の関係で、登壇した先生方は深くディスカッションできなかったが、それぞれ自身の日中映画交流に対する理解と自身の研究領域とを繋いで論議を交わした。秦先生は現代文学の教育体験をシェアし、周先生は是枝裕和監督と侯孝賢監督の友情・作品を例に分析し、陳先生は好きな日本映画・アニメーションと共同市場に対する考察を語った。中国映画史の専門家である李先生は今回の講演内容を高く評価し、「『日本人の中国映画オタクと中国人の知日派メディア人』の会話が珍しく、中身の濃い内容だった」と感想を述べた。林先生は講演で言及された日中知識人の提携、中国歴史題材の日本翻案・日本における中国像などについて語った。   会場に集まった20代の若い学生にとっては、90年代までの作品を見る経験がなく、高倉健など日本映画ブームのスターたちは親世代の憧れという認識しか持っていなかったが、今回のフォーラムを通して、日中映画交流の歴史を知るようになった。今日の学術的体験をきっかけに、自分の世代のマンガ・アニメーションを中心に展開した新世代の日中文化交流を研究するようになるかもしれない。日中映画交流の将来、そして、それに関する学術研究の交流の将来が楽しみである。   当日の写真   北京晩報に掲載された記事   また、新華網の記者が書いた「映画、中日の人々の心を打つ異文化交流」と題した記事がネット上で拡散されました。人民網、中国網、Sina網など、全国ネットもあれば、西藏網(チベット)、大衆網(山東省)、または舜網(山東省済南市)のような地方ネットにも転載されました。   英訳版はこちら   <陳龑(ちん・えん)Chen_Yan> 北京生まれ。2010年北京大学ジャーナリズムとコミュニケーション学部卒業。大学1年生からブログで大学生活を描いたイラストエッセイを連載後、単著として出版し、人気を博して受賞多数。在学中、イラストレーター、モデル、ライター、コスプレイヤーとして活動し、卒業後の2010年に来日。2013年東京大学大学院総合文化研究科にて修士号取得、現在同博士課程に在籍中。前日本学術振興会特別研究員(DC2)。研究の傍ら、2012~2014年の3年間、朝日新聞社国際本部中国語チームでコラムを執筆し、中国語圏向けに日本アニメ・マンガ文化に関する情報を発信。また、日中アニメーション交流史をテーマとしたドキュメンタリーシリーズを中国天津テレビ局とコラボして制作。現在、アニメ史研究者・マルチクリエーターとして各種中国メディアで活動しながら、日中合作コンテンツを求めている中国企業の顧問を務めている。     2019 年1月10日配信  
  • 2018.12.20

    エッセイ583:野田百合子「飯舘村を訪れて」

    今までに経験したことのない類の、広くて深い学びだった。   忘れないようにとせっせとメモをとって、でもそれは気軽には読み返せなくて、心の奥の引き出しにそっとしまっておきたくなるような。 私にとってはある意味とても非日常な旅だった。東日本大震災の被災地には何度も足を運んだけれど、原発事故で全村避難していた村に来るのは初めてだ。線量計をつけて歩くのも、原発事故や放射線被害について学者の先生から生で話を聴くのも、村の農家の人の暮らしを見せていただいて本音がポロリとこぼれる瞬間に立ち会うのも初めてで。頭も心もたくさん揺さぶられた3日間だった。 しかし飯舘村に暮らす人々にとってそれは日常だ。変わらない、そして日々変わりゆく日常。福島では今も毎日震災や原発関連のニュースをテレビや新聞で取り扱っているのだろうか。少なくとも2年前はそうで、それは東京に住む私にとって一つの驚きだった。   東京から飯舘村に行くには、福島駅で新幹線を降りて1時間ほど東へ車を走らせる。9月半ば、ちょうど稲穂が黄金色に光ってとても美しい風景だった。いいなぁ、こんな季節に来られて幸せだなぁと思ったのも束の間、境を越えて飯舘村に入った瞬間に景色が一変する。黄金色の稲穂はない。稲を育てるのが禁止されているからだ。そして見えるのは除染されてはげ山のようになった田んぼの跡地と黒と緑の巨大な除染袋の山ばかり。これが飯舘村の現実かとショックを受けた。そして境って何だろうと思った。放射性物質には境はない。村の中と村の外、境界線近くの線量は同じくらいのはずなのに地図上に引いた境が運命を分ける。村の一部は未だ帰還困難区域でバリケードで封鎖されている。その境目も難しい。バリケードの中は人が住めなくて荒れ放題で、でも中に家がある人には補償金がたくさん出るという。どちらがいいのか、いやどちらも嫌だな。村の人はこの美しい村で黄金色の稲や花を育てたり、牛を飼ったりして、昔ながらの暮らしを続けたいだけだっただろうに。   2017年3月31日に村の多くの地域で避難指示が解除になって、元の人口6,000人のうち約400人が帰村した。村に住む人、通う人、家族は別に暮らす人。人によって状況は様々だ。放射性物質は目に見えないし、この先の状況もわからない。だから一つひとつの判断に家族は揺れ、意見が分かれる。「これは放射能の問題というより生活や人間関係の問題、精神の分断だ。夫婦ゲンカ、親子ゲンカ、こういう問題はお金で解決できない。」ふくしま再生の会の田尾さんの言葉が胸に突き刺さった。   村に帰ってきて生活を再建しようとしている人にも何人かお会いした。 高橋日出夫さんは、国に建ててもらったというビニールハウスでアルストロメリア、トルコキキョウやカスミソウを育てて大田市場に出荷している。花について活き活きと語るときの日出夫さんの笑顔と、「生まれ育ったところでは見える景色全部が自分のもの。月も星も、飛行機までもうちのものと思う。避難先では月も星もよそのものって思ってたからなぁ」という一言が印象に残った。今67歳。あと20年は花を育て続けたいそうだ。   大久保金一さんは76歳。小宮地区にほぼ一人で住んでいる花の仙人だ。物心ついたときから花に興味を持っていて、花は食べられないからと親に叱られながらも花を植え育ててきた。震災の前の年に思い切って水を引いて花園を拡大しようとするも原発事故で中断。今も除染作業の最中だが、除染を終えたところには17種類の桜を始めボランティアの力も借りながら様々な花を育てている。金一さんは「原発事故があって涙を流さない日は一日もないといっても過言ではない」と言いながらも、花のことになると活き活きと語ってくれた。毎日一人であれをしよう、これをしよう、こうしたらどうかなとあれこれ考えて身体を動かす。生きる喜びとはこういうことなのかもしれない。事情の違う一人ひとりの生活の再建を支えるというのは気の遠くなるような道のりだと思う一方で、この喜びや尊厳を奪う権利は誰にもないのではと金一さんの姿を見ていて感じたのだった。   今回の旅を案内してくださったふくしま再生の会はシニア世代を中心とするNPO法人で、ほぼ毎週末東京などから飯舘村に通って村の人と一緒に様々な活動をしている。いま村の人は何を求めていてどんなデータや仕組みがあったらいいかを考え試行錯誤をしながら、ボランティアがそれぞれの関心や専門性を活かして活動しているのが特徴的だ。理事長の田尾さんは、「僕らは支援者じゃない。対等に協働している。ありがとうはいらない。村の人のためというよりか自分のためにやっている。」「ここは本物のフロンティア。まだわからないことがたくさんある。役に立てることがたくさんある」という。そして、なぜそこまでするのですかという質問には、「リタイアした人は都会でさみしいんだ。ここに来ると元気になる。人生100年、それをどう過ごすかだ。自分はここではりきっている。課題やわからないこともたくさんある。」と答えてくれた。   今回の旅で一番印象に残ったのは、あれをしよう、これをしようと自分で考えて身体を動かし、自分らしく生きる人の活き活きと輝く姿だった。それは被災した村の人も、再生の会の人も、たぶん私たちも同じ。人生とは、自分らしくクリエイティブに生きること。   では、私らしくクリエイティブに生きるって何だろう。私にとっては通訳の仕事を含めて、人と人との間に橋をかけることなのかなと思う。私はこの旅で村の人や再生の会の方たちにたくさんのものをもらった気がする。だから私らしく橋をかけることで何かお返しできたらと思った。具体的には今後、飯舘村に来たことのない日本の人、外国の人をもっとここに連れてきて橋をかけることで、お互いがもっと豊かになるような体験が提供できたらいいなと考えている。   今回お世話になった一人ひとりに感謝したい。SGRAの皆さんとのおしゃべりもとても楽しかった。 飯舘村、また来ます。 (2017年12月記)   <野田百合子(のだ・ゆりこ)NODA Yuriko> 英語通訳、ファシリテーター、ミディエーター。公益社団法人CISV日本協会理事。国際基督教大学卒業、現在は明治大学専門職大学院ガバナンス研究科に在学中(ミディエーション研究)。人と人との間に橋をかけ、お互いがより深く理解し合えるようにサポートするというのをライフワークに、日々活動している。       2018年12月20日配信
  • 2018.12.06

    エッセイ582:リンジー・モリソン「ふるさとは、土でできている」

    SGRAふくしまスタディツアーで、5月25日から27日の間、初夏の飯舘村を訪れた。私にとって3度目のツアーであったということもあり、今回は比較的のんびりできた。真剣な勉強ツアーというよりも、飯舘の自然に癒やされて東京に帰ってきたという感じだった。   飯舘村に行くたびに、自分の恐怖心が和らいで気持ちが楽になってきているように思うが、今回は特に楽しいツアーだった。のんびりできたのもあるが、もう一つの原因は線量計を持ち歩かなかったからだと思う。不思議にも線量計を持っていると急に意識が変わり、まわりに危険性が潜んでいるように感じる。飯舘村に到着した当初は気分が弾んでいたが、線量計を手にした途端、気持ちが引き締まっていくのを感じたことを思い出す。   前回の訪問に比べて、飯舘村の様子はだいぶ変わっていた。あちこちに新築の建物ができたり、新しい高速道路が通ったりと、工事作業で村中が騒がしかった。どうやら村の復興予算を使い切るための事業のようである。こうした工事が村民のためになっているのであればいいのだが、建設会社ばかりの利益となっていたら、真の復興といえるか疑問が残った。   現時点で飯舘村に帰還しているのはまだ700人しかいない。さらに、その大半は昼間だけ帰って、夜は他の村で生活している。菅野宗男さんによると、国の復興対策の不足が原因で、「大方の人が戻りたいと思うような解除がよかったのに」と悔やんでいた。飯舘村を村民が帰れるような形にしないと、復興に使われている国民の血税が無駄になってしまうと宗男さんは懸念を示した。   しかし、そもそも若い人が村へ帰りたいと思っているのか疑問に思った。避難先や別の村で落ち着いてしまって飯舘に戻りたくない人が少なからずいる上に、菅野永徳さんが話してくれたように、「村に道路が一本通ると、地域が衰えていく」。つまり、村に出口ができると、若い人はより便利な生活を求めてどんどん流れ出ていく。永徳さんはこうした価値観の差がわからない。永徳さんからすれば、都会はお金がないと住めないところなので、お金に縛られる窮屈な生活になってしまう。一方、農家は水と空気と土だけで暮らせる。「どうして若い人はお金にすがり付かなければ生きていけない生活を求めるのか、理解ができない」と語っていた。永徳さんは自分自身にも責任を感じて、村の文化をちゃんと継承できなかった、歴史の重要性をちゃんと伝えられなかったから若い人が出ていってしまったのではないかと後悔していた。   永徳さんの話を聞いて、SGRAのメンバーで飯舘村を復興させるためにはどうすればいいかという話になった。そこで、何か文化的なイベントがあれば村の活性化につながるのではないかという提案が出た。永徳さんは、「昔は山津見神社に3万人も集まる大きなお祭りがあった。山津見神社は約970年前からある飯舘村の中心的な神社である。神社の由緒書によれば、源頼義の夢の中に、山の神の使者である白狼が現れたため、山津見神社は数少ない狼信仰のお社になった。明治以前、太平洋側には狼信仰の神社が多かったが、明治以降はそれが良くないという風潮になり、次第に消えていった。山津見神社のお祭りは獅子舞があったが、ある年が凶作だったためやめることになった」と教えてくれた。   土曜日の宴会で飯舘村議会議員の佐藤健太さんと会った。彼は飯舘村のお神楽(かぐら)を復活したいと話していた。健太さんもちょうどSGRAのメンバーと同じように、新しいお祭りやお神楽があれば村は活性化するのではないかと考えている。村の伝説や歴史と結びつけて新しい舞やお祭りが作れたらいいね、と話し合った。神社というのは村の年中行事の拠点だけではなく、血縁と地縁を示すものであり、郷土愛の象徴でもあるため、山津見神社を中心に据えて飯舘村の新しい行事を起こすのは、最適のプランだと思う。   今回の訪問でもっとも印象深かったのは、田植えの体験だった。来日して11年も経つが、田植えは初めてだった。田んぼの土が想像以上にどろどろしていて、歩くのに一苦労したが、その柔らかく栄養に満ちた土に触れることで、なんとも言えない快感を覚えた。いつも悩まされている手のアトピーは土を触れても炎症せず、むしろ少し改善したように思えた。体を動かし、外の空気を吸い、土に触れるのがこんなに気持ちいいものかと、自然の治癒力を改めて実感した。   田植えが終わったら、早苗饗(さなぶり)という、一種の直会(なおらい)が行われた。直会とは、お祭りが終了した後に神に捧げた供え物を参加者で頂戴する行事のことであるが、早苗饗も同じように田植えの作業が無事終了した後、田の神に供物を捧げて豊作を祈願し、皆でご馳走を食べてお酒を交わす宴のことである。   日曜日の夕方に東京へ帰ってきて自宅で横になっていたら、不思議な感覚に浸った。田植えをしていた時の感触がまだ足のまわりに残っていた。硬い地面と小石の上に立って、柔らかいどろどろした土の中を歩き回るあの感触がまだ身体から抜けていなかったのだ。泳いだ日の夜にまだ自分が泳いでいると感じるように、私の体はまだ田植えの感覚を忘れていなかった。人間の動き方、労働の形がいかに体に滲み付いていくのかを考えさせられるきっかけとなった。   田植えで皮膚に付いた土がなかなか落ちず、石鹸で一所懸命こすっても、まだ爪の裏などに残っていた。それを見て、普段からまったく土に触れていない自分が少しおかしく思えた。そして昔言われたことを思い出した。数年前に一軒家でルームシェアしていたが、借りていた家の前に小さなお庭があった。不動産屋はその家の前のお庭をいずれはコンクリートで埋める予定だと話したが、その時、「家の前を綺麗にする」という表現を使った。土を見えないようにすることが本当に「綺麗にする」ことなのかと、その時に強い反感を覚えた。でも、都会に住んでいる現代人には、珍しくない考え方なのかもしれない。   人はどんどん土に触れる環境から離れていく。現代社会では、確かに、多くの人には土に触れる必要がないだろう。しかし、その経験を失った我々は、それだけを失っているのだろうか。土の感触以外にも、忘れていることはないのだろうか。   長年大都会に住んで、私の体もきっと都会の生活のために形成されてきているのだろう。歩き方や振る舞いには、都会の匂いが滲みているに違いない。仕方ないことではあるが、永徳さんが言っていたようなお金のために働き、消費するばかりの生活が、どうしても後ろめたく感じてしまう。   今回まったくの素人が植えた早苗がちゃんと育つか、心配半分、楽しみ半分だ。また来年、よろしくお願いします。   英訳版はこちら   <リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison> 2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。       2018年12月6日配信  
  • 2018.11.22

    エッセイ581:ムラット・チャクル「日本でトルコ語教育を経験して」

    私は、現在、関西外国語大学(以下関西外大)で働いており、教職、比較文化研究及びトルコ語教育を担当している。関西外大では、毎年秋学期にトルコ語の講座が開かれ、トルコ語を全く知らない学生にトルコの言語と文化について教えている。そのほかにも、トルコ大使館文化部ユヌス・エムレ・インスティトゥートの派遣(非常勤)講師として筑波大学、早稲田大学、獨協大学、文京学院大学でトルコ語を教えた経験があり、筑波大学と獨協大学では現在もトルコの文化と言語の教育に携わっている。さらに大学院生の時には、横浜・新宿アサヒ文化センター、DILAやISAAC等の言語学校、日本トルコ協会などでもトルコ語教育に携わった経験もある。このようなところで若者から年配の方までを対象にトルコ語を教えた経験から、日本のトルコ語教育について数多くの課題に気付いたが、その中で特に困っている2つのことについて述べたい。   1つ目は、カタカナ語での発音についてである。トルコ語で正しい発音はとても重要である。なぜなら、正しく発音しないと相手を混乱させる、または相手に誤解されることが多々あるからだ。例えば、火曜日はトルコ語でSALIという。トルコ語の母音には日本語にない唇を横に広げて「ウ」というと出る母音「I」がある。またトルコ語の火曜日に似た発音をする言葉として黄色があり、トルコ語でSARIという。トルコ語の黄色と火曜日をカタカナで表すと、どちらも「サル」になる。そうすると聴き手の多くは、話し手が黄色と言いたいのか、火曜日と言いたいのかわからなくなる。   このような例はいくらでもあげることができるが、外国語の単語の読みをカタカナに変換し発音しようとする時に、カタカナ語は正しい発音の邪魔になるケースが多い。私の名前は「望み、希望」と言う意味で、ローマ字で“Murat”と書くのだが、これをカタカナで書くと「ムラット」になって、これをローマ字に再び変換すると“Muratto”になり、「t」と「o」の2つの文字が増えて、しかも意味も変になり、日本人におかしく聞こえてしまう。このようにもともとの言語の表記をカタカナにしてしまうと「音」と「意味」の面で見落としがちな面があるといえよう。   トルコ語を正しく発音するために、可能な限りカタカナ語を使用しないよう、毎回学生に言っている。ひらがなでもカタカナと同様に外来語を表すことができるが、それに漢字が加わると、日本語の複雑さがより増していることに気付いた。なぜなら日本人はトルコ語を学ぶときに、まず物事を「イメージ」してから「音声」という優先順位で理解して、初めて言語を習得する。ただ音声表記しか使ってこなかったトルコ人はそこまでする必要性はない。音声で理解すればそれで充分に外国語を習得出来るのである。   例えば、トルコ語でBen okula taksiyle giderim(カタカナでの発音:ベン・オクラ・タクシーレ・ギデリム)の文を日本語に訳すと「私は学校にタクシーで行く」になる(日本語とトルコ語の文法のSOVの順番は同じである)。見てわかるように日本人は漢字、ひらがな、カタカナの全部を使いこなして言語の意味と音声を表している。このような複雑な言語は世界に例がないと思う。ここから私は、日本人が外国語が苦手な理由は、この複雑な言語構造にあり、外国語を学ぶのに外国人より日本人のほうが、3、4倍労力がかかっており、日本語自体が多言語を学ぶことを難しくする性格を持っているのではないかと考えた。これからトルコ語を教える時には、日本人特有の言語習得思考を念頭に置いた指導と、それを促す教材の開発に努めていきたい。   2つ目は、トルコ語を教える際の英語の邪魔についてである。トルコ語を教えるときに、最も悩まされることは英語である。この悩みをここですべて描き切るのは難しいが、トルコ語を習っている日本人の一般的な癖だが、ローマ字での表記を見るとすべてを英語で発音しようとし、英語で言いたがる。例えば、トルコ語のアルファベットの特徴を説明して、「英語にない字もあるよ」、「このように発音するよ」、「英語のような発音はやめてください」と2~3時間説明し、歌でも歌わせて一人ひとり発音をチェックし、復習もさせる。しかし、1週間たって、同じ単語を発音させるとまた英語で発音し、しかもトルコ語の単語を読めないという現象が多々ある。   ある日、以前に行った「AはBです」という文法の復習をする授業で、学生に「私は日本人ですとトルコ語で言ってください」と指示したら、その学生はまじめに「I_am_Japanese.」と言った。私は「おったまげ」というか「お手上げ」の気持ちになって、「あなたはここで学んでいる言語を間違っているよ」といって苦笑いした。文法も教えて、実際にトルコ語で私が発音しても、トルコ語で発音するどころか、英語で言いたがる気持は理解できない。私はもともと英語が好きなのだが、トルコ語を教える時にはいつも越えなければならない壁として私の前に立ちはだかって必要以上に時間を使わせるという意味で英語が嫌いになり、この悩みは「つづく」。日本人のお母さんたちには「早期英語教育をやめて」と言いたい。   <ムラット・チャクル Murat CAKIR> 渥美国際交流財団2014年度奨学生。2015年度に関西外国語大学特任助教。2015年筑波大学人間総合科学研究科教育基礎学専攻博士後期課程単位取得退学(教育学)。獨協大学、文京学院大学、早稲田大学、筑波大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート派遣講師。       2018年11月22日配信  
  • 2018.11.08

    エッセイ580:マイリーサ「繋げて育む協働の輪―ふくしまスタディツアーに参加して」

      2018年5月25日、私は初めてSGRAふくしまスタディツアーに参加させていただきました。渥美国際交流財団SGRAでは2012年から毎年、原発事故の被災地である飯舘村を訪れています。出発の前、私はSGRAスタディツアーに参加した先輩方の感想文を読み、飯舘村の状況について少し事前勉強をさせていただきましたが、現場では、飯舘村がおかれている厳しい状況を改めて感じることができました。   「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご案内で、私たちは住民の帰還開始から1年となる飯舘村を見学しました。正直、この美しい里山が消滅の危機に直面していると思いました。そして、「ふくしま再生の会」が非常に困難な課題の解決に挑んでいるというのも初日の感想でした。日本の農山村は元々人口減少や高齢化の進行に苦しんでいますが、原発事故災害という特殊な環境において、その傾向はいっそう拍車をかけられています。   しかし、このスタディツアーで、私は次第にある現象に気づき、ここは交流人口がとても多いことに驚きました。というのは、ツアー中に私たちは他地域からの訪問者をよく見かけました。土曜日になると、何世帯かの高齢者しかいない限界集落に奇跡が起きていました。田植えを翌日に控え、佐須地区の「再生の会」の拠点に様々な分野の幅広い世代の人々が訪れていました。   やはり、人と人が集う場所には明日への活力が生まれると、私はその時強く感じました。原発事故が発生した3ヶ月後から、ここ佐須地区を舞台に、村民・専門家・ボランティアの協働による除染法の開発や農作物の栽培試験の取り組みが始まっていましたが、種まき、田植え、稲刈りなど1年を通して村民は多くの参加者の方々と一緒に米を育ててきました。現在は人々の繋がりによる協働の輪が広がりつつあります。   話によると、ほぼ毎週末(土日)、「ふくしま再生の会」の活動拠点に人びとが集まり、各種の活動を行っています。埼玉県立鴻巣高校のボランティアや東京大学のサークルのツアーなど若者たちが来ていました。そうした中で、大学と結ぶ活動の創造的展開も生み出されています。東京大学や明治大学などとの協働により、住民の目線による農地再生の取り組みと新しい地域づくりも可能になっているのではないかと感じました。   人々のつながりの「輪」は、環境保全に限らず、歴史と文化の継承という可能性も生み出しています。山津見神社拝殿の天井絵(オオカミ絵)の復元プロジェクトへの協力、明治時代に造られた校舎の保全と活用、味噌づくり継承プロジェクトなどはその好例です。こうした持続的な交流と協働こそが、「ふるさと再生」の仕組みを作り上げることができるのではないかと感じました。外国人の私は、日本のこのような多様な主体を持つ社会活動の展開とそれによる社会的価値創造にとても励まされました。   飯舘村は、日本の最も美しい村の一つとして知られていますが、飯舘村に行ってさらに、信じられないほど美しい光景に出会いました。それは「繋げて育む協働の輪」です。私は人々のつながりに非常に感動しました。またこの美しい村に行きたいです。   ※SGRAスタディツアーの報告(2018年5月に実施)   英訳版はこちら   <マイリーサ Mailisha> 昭和女子大学国際学部教授。2000年一橋大学社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。専門分野は教育社会学、農山村の地域づくり。近年、日本の里山保全と中国の少数民族地域での環境問題を研究対象としている。日本学術振興会外国人特別研究員、立教大学非常勤講師、昭和女子大学人間文化学部特命教授などをへて、現職。主な著書に『内発的村づくりにおける人間形成をめぐって』(一橋大学大学院社会学研究科博士学位論文、2000年)「流域の生態問題と社会的要因――」中尾正義等編『中国辺境地域の50年史』(東方書店、2007年)他。     2018年11月8日配信    
  • 2018.10.25

    ボルジギン・フスレ「AFC#4:SGRAセッション『現代モンゴル地域における社会変容』報告」

    2018年8月26日の午後に開催された第4回アジア未来会議自主セッション「現代モンゴル地域における社会変容」は、激変する北東アジア社会の複雑な状況を視野に入れながら、最新の資料を駆使して、モンゴル地域における社会変遷を焦点に特色ある議論を展開することを目的とした。同セッションでは、国立政治大学民族学部准教授の藍美華(LAN Mei-hua)先生と私が共同で座長をつとめた。   SGRA会員、内モンゴル大学モンゴル研究センター准教授のリンチン(仁欽、Renqin)氏の報告「20世紀後半の内モンゴルにおける草原生態系問題の検討」は、20世紀後半の内モンゴルにおける放牧地開墾問題の実態はどうだったか、その背景と要因は何であったか、放牧地開墾問題はモンゴル人地域社会に何をもたらしたか、さらに今日の内モンゴルにおいても生じている環境、漢化、自治区の自治権の低下、人口、言語教育など非漢民族の生存権問題と如何に関連しているのかなどについて考察した。 リンチン氏は、結論として、下記の事を指摘した。 第1に、「大躍進」運動では、農業地域か牧畜業地域かを問わず、内モンゴル地域では「農業を基礎にする」という方針のもと、「牧畜業地域の食糧と飼料の自給」という名目で、中華人民共和国建国以来最大規模の放牧地が開墾された。 第2に、「文化大革命」期間の「牧民はみずから穀物を生産すべき」のスローガンのもとで、内モンゴル生産建設兵団による2回目の大規模の放牧地開墾が行われた。しかし、その結果、食糧と飼料の自給が成し遂げられるどころか、むしろ穀物は減産したのである。 第3に、草原生態系への破壊的影響をもつ開墾により、放牧に利用できる草原の面積が縮小したため、牧民たちは生産手段でもある放牧地を失い、生活の困窮状態に陥った。 第4に、近年、北京、天津にとどまらず、はるか朝鮮半島、日本にまで猛威を振るっている「黄沙」の主な発生源は内モンゴルとされているが、そう簡単に結論づけることはできない。内モンゴルにおける環境問題は、実際このようは政治的・社会的・人為的要因があった。   SGRA会員、昭和女子大学国際学部国際学科教授のマイリーサ(Mailisha)氏の報告「観光化の中における文化伝承」は、甘粛省粛南ヨグル族自治県白銀モンゴル自治郷(1930年代に外モンゴルから河西回廊に移住したハルハ・モンゴル人の村落)における「伝統文化の担い手と継承のための工夫」の事例を検証した。言語や文化の消滅の危機にさらされている少数民族の生存戦略と、その潜在的な可能性について検討し、「民族風情園」など「中国的な見せる観光」における問題点を指摘し、たいへん興味深かった。   東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程ソルヤー(Suruya)氏の報告「フルンボイル地域における民族衣装の再創造――ダウル人を中心に――」は、日本における文化人類学の先端的な研究成果を吸収し、ホブズボウムとレンジャーの「伝統の創造」論を踏まえ、先行研究を批判的に参考にしながら、民族表象の問題として民族衣装に焦点をあてた。フィールドワークで得た成果に基づいて、ダウル人の民族衣装を中心に、内モンゴル・フルンボイル地域におけるモンゴル系サブグループの民族衣装が、20世紀以降、いかに衰退から「再生」へと発展してきたのか、それがフルンボイルのモンゴル系サブグループのアイデンティティの再構築とどのような関係をもっているかなどについて検討をおこなった。今日、ダウル人は伝統を取り戻そうと、その民族衣装を再構築し続けているが、そのプロセスにおいて、実際は、多くの伝統が失われ、また新たな「伝統」が生まれ続けていることなどを指摘した。   桐蔭横浜大学FIJ欧米・アジア語学センター非常勤講師ボヤント(Buyant)氏の報告「内モンゴルにおける土地紛糾の一考察」は、モンゴル人社会の現状を踏まえ、映像資料を含む第一次資料を用いて、2010年以降、内モンゴル地域で農民・牧畜民と地方政府の間で起きた土地・生態環境をめぐる紛糾を焦点に、さまざまな矛盾や葛藤を抱えている多民族国家中国の民族問題の現状について考察し、検討した。1978年に「改革開放政策」が提唱されて40年が経過した現在、少数民族地域におけるインフラ整備や資源開発、経済成長、党幹部養成等は目覚ましい勢いで進んでいる一方、「党国家」をおびやかす事件が多発し、少数民族をとりまく状況は急速に変わっている。氏の報告は刺激的であり、関心をもたらせた。   セッションの最後に、藍美華氏がセッション報告の成果をまとめ、今後の研究の展開について期待をかけた。   当日の写真     <ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。