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2013.11.06
第2回SGRAスタディツアーは、「福島県飯舘村へ行って、知る・感じる・考える」をテーマに、2013年10月18日(金)から20日(日)までの2泊3日に亘って行われました。実施にあたって、特定非営利活動法人「ふくしま再生の会」とGlobal Voices from Japanにご協力を頂きました。
初日の早朝、本年度及び元渥美奨学生、その他のSGRA関係者を中心に、寝ぼけ眼の参加者十数名が池袋のサンシャインシティに集合しました。バスの中では、最初の休憩後、ようやく目が覚めたところで、ふくしま再生の会より事前に提供して頂いた資料を基に、飯舘村の基礎知識と再生の会の活動概要について、再生の会でも活躍されているGlobal Voices from Japanの角田英一さんから簡単な説明を受けました。なるべく先入観や偏見をもたず、頭を白紙の状態にして現場に入るのが重要ということで、事前学習は本当に初歩的な内容に止めました。
お昼は、福島駅前で弁当を食べましたが、ここで3日間の案内人を担当してくださった、ふくしま再生の会の代表を務めていらっしゃる田尾陽一さんと合流しました。現地での流れ、地域の歴史や特性、また放射能汚染に関する田尾さんのレクチャーを聴きながら、仮設住宅に向かいました。この時点から配布して頂いた線量計で放射線量の計測を始めました。
仮設住宅では、自治会の会長、副会長、管理人の方々をはじめとして、入居者の皆さんからお話を伺いました。その中で最も印象的だったのは、実質的な家族分離状態に関する悩みでした。というのは、飯舘村は災害の前は3世代以上の世帯が一般的であったのに、汚染被害を受けた後、希薄な支援体制の下で避難する中で、この世帯構成が崩れてしまったのです。子どもをもつ若い世代は別の地域で生活を再建し始め、仮設住宅に残っているのは高齢者ばかりです。さらに、皆さんは自分の土地、即ち日々の農作業からも切り離されており、経済的な困難に加え、プレハブでは孤立しがちになるという課題も抱えていらっしゃいます。
次に、飯舘村の小学校3校が移されている仮設校舎を訪問し、3人の校長先生と懇談しました。校舎では良い学習環境が整っているとはいえ、生徒さんが学校外で過ごす時間の様子が心配事の一つであることが分かりました。具体的には、放課後の過ごし方が避難前後で大きく異なります。今は全員、授業が終わるとすぐにスクールバスで帰宅します。避難先がバラバラであるため、近所の友達関係などの絆が失われてしまいました。さらに広い空間と自然に恵まれた農村環境から切り離されたため、毎日の運動量が減り、体力低下が気になるそうです。バス通学や校庭が狭くなったことも影響しているはずです。
続いて、仮村役場に行って「通行証」をもらい、実際の避難区域にあたる村に入りました。誰もいない従来の村役場の前で、最近まで村議会議員であった農家の菅野義人さんと待ち合わせた後、彼の案内を受け、村を見学しました。各種の公共施設、田畑(水田と畑)、バリケード、神社などを順番に回り、避難前後の状況と将来の展望について説明を聴きました。そして、手元の線量計で各所の汚染状況を自分達で常に確かめました。
夕方、隣接の伊達市にある旅館に着き、入浴を済ませた後の夕食では、各自の感想を共有し、不明な点を田尾さんに質問しながら議論を展開しました。参加者の心の中では、特に午後聴いた菅野義人さんの村と自分の家の歴史に関する言葉が響いたようでした。彼の家系は飯舘村において何世代にも亘る、少なくとも400年以上に至る歴史があり、天明の大飢饉(江戸中期)の際に90世帯のうち村に残った僅か3世帯の一つにあたるということです。今回の放射能汚染からの復興も自信がある、という極めて逞しい言葉でした。
2日目は、朝食をとってからバスで南相馬市に行き、約6キロまで福島第一原発に近づきました。原発までの現在の運輸経路とバリケードの現状、津波による被害状況や堤防などを見学し、放射線量を測って回りました。線量は飯舘村よりもずっと低いのですが、原発から20キロ圏内は長い間立ち入り禁止になっていたため、津波からの復旧が遅れています。
道の駅で昼食をとってから、飯舘村に戻り、午後は田尾さんに加えて農業委員会会長の菅野宗夫さんにお世話になりました。国家行政が進めている除染事業のぎくしゃくした流れ(仮々置場→仮置場→置場)について一通り把握し、その実態を見た後、菅野宗夫さんの土地を拠点にしているふくしま再生の会による様々なプロジェクトを見学しました。水力発電、オールタナティブの除染方法の開発、それを踏まえた栽培実験等々について勉強させて頂きました。最後に、菅野宗夫さんのご自宅でこたつを囲んで、災害直後の避難の流れなどのお話を直接伺いました。
宿舎に戻って入浴後の夕食兼総括は、菅野宗夫さんご夫妻とお父様も出席して下さったお陰で、懇談しながら有意義に議論が展開する会になりました。お父様は、蓼科ワークショップ参加者にとって映像からお馴染みの歌まで披露して下さいました。疲れが相当溜まっているにも関わらず、参加者はそれぞれの部屋に戻ってからも、目が自然に閉じてしまう直前まで、活発な議論で盛り上がりました。
最終日は、朝食をとって旅館を出発し、地域の歴史に対する理解を深めるために伊達市の文化財である保原歴史文化資料館に立ち寄りました。池袋に着いたのは夕方で、到着後すぐ解散となりました。
実は、私の出身国ハンガリーにおいて、与党は経済成長に伴い、かつロシアの資源への依存から脱却するために、原発を増設する方針を数カ月前に発表し、なおかつその技術移転を巡って日本と交渉する意図を明らかにしました。したがって、今回のスタディツアーでは、日本滞在期間に合わせて東電の電力使用歴が10年を上回る東京都民、あるいはコミュニティ開発・復興についても研究しているソーシャルワークの専門家という立場のみでなく、ハンガリーを母国とする身としても、個人的に考えさせられることがたくさんありました。参加者の具体的な感想も含む、より詳しい記録に関しては、映像作家の朴炫貞さんが撮影して下さったドキュメンタリー映像を楽しみにしていてください。
旅行の写真
金範洙撮影(1)
金範洙撮影(2)
今西撮影
ふくしま再生の会Facebook
-------------------------- <ヴィラーグ ヴィクトル ☆ Virag Viktor > 2003年文部科学省学部留学生として来日。東京外国語大学にて日本語学習を経て、2008年東京大学(文科三類)卒業、文学学士(社会学)。2010年日本社会事業大学大学院社会福祉学研究科博士前期課程卒業(社会福祉学修士)、博士後期課程進学。在学中に、日本社会事業大学社会事業研究所研究員、東京外国語大学多言語・多文化教育研究センター・フェローを経験。2011/12年度日本学術振興会特別研究員。2013年度渥美奨学生。専門分野は現代日本社会における文化等の多様性に対応したソーシャルワーク実践のための理論及びその教育。 ---------------------------
2013年11月6日
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2013.10.18
SGRAでは昨年に引き続き、福島県飯舘村スタディツアーを下記の通り行います。
参加ご希望の方は、SGRA事務局へご連絡ください。
日 時: 2013年10月18日(金)~20日(日)
<日程変更しました!>
集 合: 午前7時に池袋駅 (または午前11時に福島駅)
参加費: 15000円(交通費、食費、宿泊費を含む)
*ラクーン会員の方には補助がありますので事務局へお問い合わせください
定 員: 先着20名
募集締め切り:2013年9月20日(ただし定員になり次第募集を締め切ります)
申し込み・問い合わせ:SGRA事務局(
[email protected])
主催:渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)
協力:特定非営利活動法人「ふくしま再生の会」
フォーラムの趣旨:
SGRAでは、2012年2月25日に韓国高麗大学で、第11回日韓アジア未来フォーラム「東アジアにおける原子力の安全とエネルギー問題」を開催した後、同年10月19日から21日に、福島県飯舘村への第1回スタディツアーを実施、同年12月6日には東京で第2回SGRAカフェ「福島をもっと知ろう」、2013年7月5日から7日は、長野県蓼科でSGRAワークショップ「原発を知り、感じ、考える」を開催し、福島の現状を知って、原発の問題についてひとりひとりが考える機会を提供しています。
これらの一連のプロジェクトは、ソウルのフォーラムでご講演いただいた田尾陽一様のお取り計らいで、「ふくしま再生の会」およびGlobal Voices from Japan(GVJ)のご協力を得て進めています。「ふくしま再生の会」は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体です。2011年6月以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者の方々とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。また、GVJは、留学生、日本留学経験者、日本やアジアに関心のある世界の若い世代のオピニオンや情報(News)を発信するInternet Broadcasting Systemです。今回のツアーでは、飯舘村を訪問してふくしま再生の会のプロジェクトを見学し、地元の方や関係者と懇談し、福島の再生について一緒に考えます。
プログラム
10月18 日(金)
7:00池袋駅、あるいは11:00福島駅集合。貸切マイクロバスで飯舘村へ。村内見学(村役場周辺、比曽地区、長泥地区バリケードなど)17:00霊山(りょうぜん)紅彩館ホテル着。食事後全員でミーティング。
10月19日(土)
7:30朝食、午前、南相馬見学。午後、飯舘村佐須・菅野宗夫さん宅着。宗夫さんと懇談、周辺の「ふくしま再生の会」実験場所見学。食事は、全員で紅彩館ホテルのレストランで。食事後全員で総括ミーティング。
10月20日(日)
7:30朝食、9:00出発。伊達市見学後、貸切マイクロバスで東京へ。池袋解散。(福島駅下車可)
皆様のご参加をお待ちしています。
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2013.10.09
―今西淳子氏にモンゴル科学アカデミー栄誉学位を授与―
2013年9月5、6日の2日間、渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)とモンゴル科学アカデミー歴史研究所の共催、在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴルの歴史と文化研究会の後援、双日株式会社、鹿島建設の協賛で、第6回ウランバートル日モ国際シンポジウム「モンゴルにおける鉱山開発の歴史、現状と課題」がウランバートルで開催された。
近年、モンゴルは新たな資源大国として世界から熱い視線を集め、大きな変動期をむかえている。しかし、資源開発にともなう負の側面も問題化し始めた。インフレの進行、貧富の格差や環境汚染は日々深刻さを増し、社会インフラの整備の遅れも目立っており、大規模資源開発はモンゴルの地域生態システムへの影響をももたらしている。モンゴル政府は、鉱山開発、資源利用における関係諸国との友好関係を強調しながら、多くの葛藤に遭遇しており、対外関係は近時、複雑化してきている。このような現状のなか、今西SGRA代表と私は、モンゴル国の関係者と話し合って、今回のシンポジウムを企画した。
本シンポジウムでは、モンゴルにおける資源開発の歴史を振り返りつつ、同国の鉱山開発の現状、問題点をより多元的かつ総合的に把握し、さらに経験や教訓、問題への解決方法について、広い視野から検討することによって、モンゴルの持続可能な資源開発の発展のために意味のある議論を展開することを目指した。
9月4日午前、私がウランバートル国際空港に着くと、モンゴル科学アカデミー歴史研究所の職員が出迎えに来てくれたが、交通渋滞で、空港から歴史研究所に着くまでに、2時間余りもかかった。S.チョローン所長と会談した後、同研究所の職員と一緒に、プログラム、要旨集、会議でつかうパワーポイントなどを確認し、日本大使館の青山大介書記官とも連絡をとった。その後、ケンピンスキーホテルにて、6日夜のSGRAの招待宴会のメニューなどを確認して予約した。そして、今西さんと高橋甫氏を出迎えるため、空港に行った。
5日の昼、チョローン所長はスフバートル広場の隣にあるレストランに今西さん、高橋さんと私を招待した。モンゴルの鉱山開発や、日本と北朝鮮政府のモンゴルでの交渉などが話題になり、大変興味深かった。午後、私は歴史研究所の職員と一緒に会議の準備をし、夕方、モンゴル・日本人材開発センターにて、同時通訳設備のセッティングなどをした。日本からの参加者のほとんどはこの日の夜、ウランバートルについた。
6日午前、モンゴル・日本人材開発センター多目的室で開会式がおこなわれ、在モンゴル日本大使館の林伸一郎参事官、今西代表、モンゴル科学アカデミーのB. エンフトゥブシン総裁(E. プレブジャブ事務局長が代読)が挨拶をした。
今西さんはSGRA代表として、長年にわたって国際交流活動に貢献し、顕著な業績をあげ、とりわけモンゴルで国際理解に重要な意義を持つ国際学術シンポジウムをおこなってきて、日モ交流の促進とモンゴル研究の発展へ寄与した功績で、モンゴル科学アカデミーより同アカデミー最高栄誉賞――栄誉学位を授与された。モンゴル科学アカデミーはモンゴルの最高の科学学術機関であり、栄誉学位は同科学アカデミーの最高栄誉賞である。
開会式の後、前モンゴル工業大臣Ts. ホルツ氏が「モンゴル鉱業開発史」、名古屋大学客員教授、前在モンゴル日本大使 城所卓雄氏が「モンゴルにおける鉱山開発の歴史と問題点」をテーマとする基調報告をおこなった。
午前中の後半の会議では、モンゴル科学アカデミー歴史研究所のN. Ganbat副所長と埼玉大学の外岡豊教授が座長をつとめ、6本の論文が発表された。午後の会議では、高橋甫氏とモンゴル国立大学のJ. Urangua教授が座長をつとめ、7本の論文が発表された。その後おこなったディスカッションでは、チョローン氏と私が座長をつとめ、モンゴルの鉱山開発における問題点やモンゴルは戦後日本の経済発展の経験と教訓から何を学ぶべきかなどをめぐって、活発な議論が展開された。
同日夜ケンピンスキーホテルでSGRA主催の招待宴会がおこなわれ、50人ほどが参加し、モンゴルの国家殊勲歌手や馬頭琴奏者、柔軟演技者が素晴らしいミニコンサートを披露した。
7日午前の会議では、東京外国語大学の上村明氏とモンゴル科学アカデミー歴史研究所のS. Tsolmon教授が座長をつとめ、鉱山開発と環境保護をテーマとする11本の論文が報告された。日本からは上村明氏、外岡豊氏、特定非営利活動法人「地球緑化の会」の栁田耕一氏、千葉大学准教授児玉香菜子氏、SGRA会員で昭和女子大学准教授マイリーサ氏、首都大学東京非常勤講師包聯群氏、同大学教授落合守和氏(共同発表)が参加し発表した。N. Ganbat氏と一橋大学名誉教授田中克彦氏はその後のディスカッションの座長をつとめた。
午後は、ウランバートルから130キロほど離れたところにあるバガノール炭鉱を見学した。日本からの参加者にとって、この見学は非常に重要であった。その日の夜、バガノールの観光リゾートで歴史研究所主催の招待宴会がおこなわれた。星空のもと、宴会は続き、みなそれぞれの思いを語り、歌った。翌日の朝、今西さんの携帯から、2020年オリンピック開催地は東京に決定という朗報が入ってきて、みんなで喜びを分かち合った。
二日間の会議には、90人あまりが参加した。日本からは上記の報告者のほかに、双日株式会社の代表や「モンゴルの花」社の代表、名古屋大学の教員、東京外国語大学の留学生なども同シンポジウムに参加した。モンゴル国営通信社など22社が同シンポジウムについて報道した。
シンポジウムの写真
フスレ撮影
今西撮影
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部准教授。北京大学哲学部卒。内モンゴル大学芸術学院助手、講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2013年10月9日配信
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2013.09.29
下記の通りSGRAフォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛 ご連絡ください。
テーマ:「紛争の海から平和の海へ-東アジア海洋秩序の現状と展望-」
日時:2013年9月29日(日)午後1時30分~5時30分 その後懇親会
会場:東京国際フォーラム ガラス棟 G409 号室
参加費:フォーラムは無料 懇親会は正会員1000円、メール会員2000円
お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局(
[email protected], 03-3943-7612)
◇フォーラムの趣旨
東アジアの海が荒れている。特に2012 年は日中・日韓の間で島々の領有をめぐり、激しい応酬が見られた。日本はロシアとの間でも4 つの島をめぐり領土問題を抱えている。このような現状で、東アジア共同体の構築に向けた議論はどこにいってしまうのか。果たして領土問題は東アジアの海に紛争の渦を湧き起こし、共同体議論は破綻してしまうのか。それとも領土問題は東アジアの人々に協力と平和の大切さを気づかせ、共同体議論を一歩前進させるきっかけとなりうるか。この地域は今、その岐路に立っている。一方、共同体議論と領土紛争はあまりにもかけ離れているため、そのどちらにしろ性急な結論に走ってしまうように思われる。したがって、その中間領域で、かつ長いタイム・スパンで、じっくり現実を見つめることが必要である。「(武力によって)強制できず、(対話によって)譲歩できず、したがって解決できず」の現実が物語るのは何であるのか。その現実を見つめると、そこに戦後の歴史のなかで紆余曲折を経ながら形成されてきた「秩序と規範」、即ち「東アジア型国際社会」の存在を確認することができるのではないだろうか。SGRA「東アジアの安全保障と世界平和」研究チームが担当する第6 回目のフォーラムは、こうした問題意識から「東アジア海洋秩序の現状と展望」を語ることで「紛争の海から平和の海へ」の可能性を模索したい。
◇プログラム
詳細はこちらをご覧ください。
司会:李 恩民(桜美林大学リベラルアーツ学群教授)
【基調講演】村瀬信也(上智大学法学部教授)
「東アジアの海と領土-国際法の視点から-」
【発表1】南 基正(ソウル大学日本研究所副教授)
「東アジア型国際社会の出現-日韓漁業協定(1965)への過程を振り返るー」
【発表2】李 成日(中国社会科学院研究員)
「東アジア国際システムの現状と展望-中国内の議論を中心に—」
【発表3】林 泉忠(台湾中央研究院副研究員)
「「琉球地位未定論」の再燃で尖閣紛争の解決に役立つのか-中国と台湾の議論を中心に-」
【発表4】福原裕二(島根県立大学准教授)
「竹島/独島をめぐる海の一断面」
【発表5】朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院教授)
「北極海の開放と韓国・日本・中国の海洋協力可能性」
【パネルディスカッション】
司会:李 恩民
総括:明石 康(国際文化会館理事長)
討論者:上記発表者
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2013.09.25
2013年8月23日、フィリピン大学工学部にて、第16回日比共有型成長セミナー「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」が開催された。
午前8時45分、予定通りフィリピンと日本両国の国旗掲揚で開会した。日の丸は在フィリピン日本大使館から借り、両国の国歌は、英語訳のついたものをYouTubeからダウンロードした。今年の3月のSGRAかわらばん(エッセイ368:マニラ・レポート2013年冬)でも報告したように、本セミナーを共同で主催する団体の2つの国、フィリピンと日本の国旗掲揚と国歌演奏を行うことは、本セミナーの顧問である東京大学の中西徹教授からヒントを得て、フィリピン人で構成されたセミナー実行委員会で私が相談した結果である。ご存知のように、第2次世界大戦の最後に、マニラはベルリンとスターリングラードと並べられるほど壊滅的な破壊を被った。他の東南アジアの都市では、日本軍は比較的早く降伏したのに、なぜかフィリピンでは徹底抗戦をし、大勢の地元住民が巻き込まれた。実行委員会で相談した時、数人の委員が当時自分の家族が日本軍から受けた経験を分かち合ってくれた。私の提案は拒否されるのではないかと思ったが、最後には、全員一致で受け入れてくれた。「あの戦争は忘れてはいけないが、それを乗り越えて前に進まなくては」と。
中西先生が、参加者の誤解を招かないように、この国旗掲揚の意味を、開会挨拶で感動的に語ってくださった(下記参照)。日本大使館から日の丸の貸し出し許可が下りたので、中西先生と日の丸を受け取りにいく時に、大使にご挨拶をしたいと伝えたところ、卜部敏直大使は中西先生のために夕食会を開いてくださった。実行委員会のメンバー数人も一緒に招待され、大使公邸でマニラで一番美味しい和食をご馳走になった。
今回のセミナーは様々な点で今までの記録を更新した。参加者(200人強)、報告(25本)、協力(在フィリピン日本大使館、フィリピン高等教育委員会)、協賛(鹿島フィリピン、農業訓練所、マリア エズペランザ・B・ヴァレンシア&アソシエイツ、ダニエル・B・ブリオネス建設、フィリピン建築家連合)の数が倍増した。皆さんのご支援とご協力に心から御礼を申し上げたい。そして、実行委員たちが本当によく頑張ってくれたことに感謝したい。企画に協力してくれたフィリピン大学建築学部、フィリピン水と衛生センター、元日本国文部省奨学生同窓会、そしてフィリピン大学工学部(とくに機械工学部)にも感謝の意を表したい。
セミナーのテーマは「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」で、5つのブロックに分かれた。「持続可能な共有型成長(その他)」(ブロック1)、「都会・農村のコミュニティにおける社会サービスと生活」(ブロック2)、「持続可能な農業」(ブロック3)、「持続可能な都市」(ブロック4)、「都会の緑とグレー」(ブロック5)である。各ブロックで、平均5人の発表者から各15分の報告があった。合計26本の報告は一日がかりであった(最終的なプログラムは下記リンク参照)。フィリピンは丁度雨季で、セミナーが開催された週はフィリピンの各地で洪水がおこり、キャンセルした報告者や参加者もあった。しかし、実行委員会の懸命な努力により、220人もセミナーに参加してくれた。
名前を出さないのは報告者に対して申し訳ないが、全ての報告についてここで語りきれないので、関心のある読者はぜひ下記リンクより論文要旨をご参照ください。どの報告も、私達が目指すフィリピンのためのKKK(効率・公平・環境)を掲げたものである。ブロック1では、共有型成長KKKに関する定義が取り上げられた。「幸せ」、「環境倫理」、「日本から学んだ共有型成長」というやや広範なものから、フィリピン人が好む「モールに行くこと」やアキノ政権の「健康政策」という具体的な事例まで語られた。ブロック2では、水や衛生を地方に普及させるWASH(Water Sanitation and Health 水に関する衛生と健康)や、高原で母なる自然と調和するシステムを営んでいるKISS (Kapangan Indigenous and Sustainable Systems カパンガン地区における土着かつ持続可能システム)プロジェクトを中心に報告が行われた。お弁当のランチを挟んでブロック3では、ネグロスで実施されている事業を中心に議論が進められた。この事業については僕がDIRI(Downstream Integrated Radicular Import-Substitution 下流統合型幼根的輸入代替)モデルと命名し、研究を続けている。ブロック2と同じくこのブロックでも持続可能な共有型成長のための試みが語られたが、WASHは基本的にPCWSという非営利団体主導、KISSは農地改革省主導、DIRIは民間企業主導と、多様な形がある。ブロック4ではいかにマニラが都市集中型の発展から離れるかという主旨で、他の地方や国(オランダ)の持続可能なモデルが紹介された。同時に、東アジアにおけるフィリピンの戦略的な立地活用についても議論が進められた。ブロック5では、都会の緑とグレーの両側面についての報告があった。前者では、自然が重視されたモールや公共のスペースや都会型の農業がテーマだったが、後者では、都会のゴミは貧しい人々によって処理されているが、その人々を社会の公的な部分に取り入れる重要性が訴えられた。
会場から飛び込んできた質問があった。「あなたはフィリピンにおける共有型成長の実現をどう展望しているか、どのように実現できるかを聞かせてください。」
僕は、過去数年間製造業を、そして近年は農業を通じて、フィリピンの共有型成長へ貢献する道を探ってきた。中小企業・労働者・東アジアと成長が共有できそうなフィリピンの製造業や、KKKを実現できそうな持続可能な農業の可能性を探ってきた。そして、これらの部門を支援・指導する国家戦略がなければ、この可能性を実現することはできないという結論に至っている。僕たちが色々頑張ってみても、あまり進展がない感じである。というのは、フィリピン社会は、海外出稼ぎ者の送金に依存する深刻な病に掛かっている。フィリピン政府が、困難な産業・農業発展戦略を実施しなくても、海外出稼ぎ者から準備外貨が送金される。だから、この質問に対して明るい展望をなかなか描けない。
このように答えざるをえないはずであったが、このセミナーの2週間前に、僕はフィリピンにとって新しい道を発見した。そのきっかけは、国士舘大学の平川均教授、名古屋工業大学の徳丸紀夫教授、創価大学の遠藤美純博士によるフィリピンIT産業の調査である。1週間、IT産業の関係者とのヒアリングを行い、訪問中の皆さんと議論したお陰で、フィリピンIT産業には、上述したような製造業や農業の潜在力を引き出すダイナミズムが十分にあることに気付いた。フィリピンでも共有型成長の展望が明るくなったという気がする。
僕の発表の時に、僕の方から質問を投げかけた。「我々が日本から学べるものに関心がある人?」会場の3分の2ほどが挙手してくれた。手を挙げていない人々よ、これから僕が日本から学んだ共有型成長についてお話ししましょう。日本からいかに学べるか、経済学の視点から説明しましょう。この15分間の話で納得できない方のために、今、「フィリピンのために日本から学ぶ共有型成長」という本のシリーズを執筆しています。
今度のマニラ訪問で、意気投合した仲間達とその本の共著を決めた。その仲間が、いつ出版するのかと聞かれた時に、「5年前(に出版すべきだった)」と即答した。彼はフィリピン政府の政策立案・実行と多くの開発プロジェクトに関わっているからであろうか、この研究の重要性をすぐ理解してくれた。数年間、友人の経済学者に共有型成長の重要性を訴えてきたが、従来型の経済学(つまり市場万能主義)はフィリピンでも根強いらしい。この本にマニラ・セミナーのビションを詳細に書き、従来型と違う経済学をフィリピンに紹介しようと思っている。
この夏、フィリピンで大きなエネルギーをいただいた。第17回日比共有型成長セミナーは、来年の2月にマニラで開催する。「早すぎない?」と悲鳴をあげた実行委員もいたが、幸い20人以上の委員が、フィリピンのためのKKKという我々の使命を理解してくれている。第17回目のマニラ・セミナーは日本の建国の日、2月11日に開催する予定である。
関連リンク等
1.フィリピンの国歌 (英訳付き)
2.日本の国歌(英訳付き)
3.セミナープログラム (又はSGRAセミナー・レポート、まだ作成中)
4.発表書類
5.本エッセイ「マニラ・レポート2013年夏」の英語版
6. マニラ・セミナー16報告書(英語)
7. 中西徹教授の国旗と国歌に関する挨拶文
■ NAKANISHI, Toru "On Sharing the National Flag and National Anthem"
It is my great honor to be given a chance to talk about sharing and respecting the National Flag and National Anthem between the Philippines and Japan as a Japanese. The idea of this opportunity comes from an informal discussion with Dr. Max, Ferdinand Maquito, Program Organizer of this conference.
Frankly speaking, however, I could say that I have not loved HINOMARU and KIMIGAYO for a long time. I think many Filipinos may be surprised to hear this, but such a feeling is not so unusual among the Japanese people. Such tendency may come from the stance of mass media or the elementary and secondary level education in Japan. Some of us insist that HINOMARU and KIMIGAYO were symbols of the militarism in Japan during the World War II, so that respecting them so much will call back such militarism.
Indeed, the Japanese invasion caused huge damages to the other Asian countries like the Philippines. When I was a high school student, I read Without Seeing the Dawn, translated in Japanese, written by Stevan Javellana. This book inspired me to study the Philippine society. In this book it is eloquently described how the Japanese invasion violently changed the peaceful and happy days in a charming village in Panay Island into cruel and hopeless nights.
On the other hand, many Japanese youth were forced to serve in the so-called Kamikaze suicide squad that executed the suicide attack on the US warships, even if they did not want to die in such manner. Even as the bereaved families tried to understand the tragic loss of their sons, they have been condemned for long time after the War as if their sons were willing offenders. The ordinary people, mga tao, always lose loved ones in all wars everywhere.
From the historical point of view, it is true that the World War II had been a nightmare in the long history of Japan. If we, Japanese, really understand the history of the nightmare, none of us will repeat or participate in such tragic and sad mistakes ever. HINOMARU and KIMIGAYO were not created for the World War II but had existed since the Meiji or Edo era during the 19th century. Our history of invasions of the Asian countries has to be understood and accepted as our serious mistakes which disgraced the long history of Japan.
Furthermore, to tell the truth, I have had a basic question: can Japan really pay due respect to the national flag or the national anthem of another country, if she does not pay due respect to those of her own country? Such a question was elicited by one of my experiences in the Philippines about 5 years ago. (By the way, as introduced I have been coming back and forth to the Philippines more than 30 years now.)
I have been involved in some scholarship program for the students living as informal settlers in Malabon since 2006. The aim of this program is to assist students with good grades in the early high school level to take and pass the entrance examinations of the high standard universities, like the UP, and to assist them until their university graduation. About 5 years ago, I went to register some of my scholars for the entrance examination in a private university. I was doing this task for my wards, because their parents did not have enough money to do so.
After I queued up for long line I was finally in front of the registration window to submit the registration forms. I could get my turn at last. However, at this moment, the officer suddenly stopped working. I could not understand what happened to her and asked her why. Then she pointed to the window behind me without saying anything. When I looked back, everyone was silent in the room and were looking at only one thing: the national flag raising with the accompanying singing of the Philippine National Anthem. Immediately, I also paid due respect to the occasion. To pay due respect to the national flag and the National Anthem is very common everywhere in the world. This scene, however, is rarely seen in Japan! This was a very valuable experience for me, because I confirmed that Japan has not shared such an inspiring global standard.
Both HINOMARU and KIMIGAYO already existed long before the World War II started. If the Japanese still think that they are so sinful and therefore scarlet with shame, there must be a strong movement to change the National Flag and the National Anthem in Japan. However, we have not found such movement in Japan until now. I think all Japanese accept HINOMARU and KIMIGAYO positively or negatively. If one says this proposition is not right, I suppose that he would not face up to the history of Japan or he would like to get the absolution for the sins of the World War II by disguising to hate them.
Based on the above narration, the meanings for me as a Japanese of the honor to share the Japanese National Flag and National Anthem with Filipinos are the following three points: First, HINOMARU and KIMIGAYO continue to warn us against militarism. It can be said that for most of us Japanese to accept HINOMARU or KIMIGAYO gives us some pains to some degree or another. In general, Japanese have a feeling that to positively accept HINOMARU or KIMIGAYO means to have an abnormal thought, though to negatively accept them is not. I am confident, however, that we need some more positive deed, that is to say, to accept the whole of our history by squarely or directly confronting our stigma. HINOMARU and KIMIGAYO show our history itself. They always continue to remind us they are symbols of our long history and yet warn us of our historical events and warn us against futile and destructive military adventures.
The second point concerns a global standard of social custom. According to my understanding, there are no countries where many people have a negative image on their own National Flag and their own National Anthem, except Japan. I believe that we should pay due respect to the social custom based on historical traditions. HINOMARU and KIMIGAYO have a long history as repeatedly mentioned. Therefore, if I do not pay due respect to HINOMARU and KIMIGAYO, I must have not a global standard but a double standard. I am confident, finally, that the Japanese should pay due respect to HINOMARU as our National Flag and KIMIGAYO as our National Anthem.
Finally, all the program board members willingly consented to our, sort of test, for jointly honoring both our countries by this gesture through the initiative of Dr. Max. I know the relatives of many of you have grievous experiences similar to those described in Without Seeing the Dawn. On this point, the word “absolve” in a Catholic sense to which Dr. Max referred is very impressive to me. Here I confirm to be determined that Japan would never repeat the mistake in the World War II. Though our trial balloon today is very small step, I feel confident that it will give us a further push to fostering deeper friendship between the Philippines and Japan. Thank you very much for your kind attention.
(Professor, The University of Tokyo)
英語版エッセイはこちら
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<マックス・マキト Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械 工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学) 産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧 問。テンプル大学ジャパン講師。
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2013年9月25日配信
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2013.09.06
下記の通りモンゴル国ウランバートル市にてシンポジウムを開催いたしますので、論文、参加者を募集いたします。皆様の積極的なご参加をお待ちしています。
【開催趣旨】
モンゴルは新たな資源大国として世界から熱い視線を集め、大きな変動期にあります。埋蔵資源はモンゴルに急成長をもたらしています。しかし、資源開発にともなう負の側面も問題化し始めました。インフレの進行、貧富の格差や環境汚染は日々深刻度を増し、社会インフラの整備の遅れも目立っています。そして、大規模資源開発はモンゴルの地域生態システムのへの影響をももたらしています。
モンゴル政府は、鉱山開発、資源利用での関係諸国との友好関係を強調しながら、多くの葛藤に遭遇しており、対外関係は近時、複雑化してきています。1992年の新憲法の発効から22年を経過したモンゴルは、こうして国内的にも対外的にも大きな課題を抱えています。
国内的には、持続可能な資源開発、伝統文化の維持、環境保護、格差解消、そしてこれらを実現するために不可欠な創造的な技術革新、また対外的には、開発外国資本の企業倫理、資源開発をめぐる日モ協力を含む国際協力の在り方などが問われているのです。
こうしたことから、関口グローバル研究会(SGRA)とモンゴル科学アカデミー歴史研究所は、第6回ウランバートル国際シンポジウム「モンゴルの資源開発の歴史、現状と課題」を本年9月6~8日に共同主催することにいたしました。
本シンポジウムでは、モンゴルンにおける資源開発の歴史を振り返りつつ、同国の資源開発の現状、問題点をより多元的かつ総合的に把握し、さらに経験や教訓、問題への解決方法について、広い視野から検討することによって、モンゴルの将来にとって意味のある議論を展開することを目指しています。さらに、対等なパートナーとしての日モ関係の在り方についての知見を交換し、モンゴルの持続可能な資源開発の発展のための新たな視点、方法を提言できればと思います。
皆さまの奮ってのご参加を、心からお待ちしております。
■日程:2013年9月6(金)~8日(日)
9月6日(金)開会式、基調講演、シンポジウム
9月7日(土)シンポジウム、閉会式
9月8日(日)バグノール炭鉱見学、草原旅行
【会場】
モンゴル・日本人材開発センター 多目的室、セミナー室
(モンゴル国ウランバートル市)
【プログラム】
詳細は下記案内状をご覧ください。
案内状(日本語)
Invitation in English
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2013.08.23
下記の通りフィリピン国マニラ市にてセミナーを開催いたしますので、論文、参加者、支援者を募集いたします。皆様の積極的なご参加をお待ちしています。
テーマ:「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」
日時:2013年8月23日(金)
会場:フィリピン大学(マニラ市)
言語:英語
このセミナーで取り上げる課題は、「持続可能な農業」「竹の生産と使用」「環境的倫理」「気候変動と農村・都会のダイナミクス」「接続装置:社会と物理的インフラ」「地域ハブ」「エコ観光と自然資源」「グリーン都市計画」等です。SGRAの設立当初からの方針に沿って、当セミナーは学際的×多分野的×国際的に開催されますから、ご関心のある地球市民のみなさんのご参加を大歓迎します。尚、当セミナーはインドネシアのバリ島で開催される第2回目アジア未来会議のフィリピン国内準備会議としても進めています。
セミナーの詳細(英語)
参加申込み・お問い合わせはSGRA事務局へ
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2013.07.17
2013年6月19日から21日まで、マニラにあるアジア開発銀行(Asian Development Bank, ADB)の本部で開催されたGlobal Development Network (GDN) の第14回年次グローバル会議に出席するため、マニラに一週間ほど帰った。論文発表をしないのに、飛行機代や会場の近くにある五つ星のホテルの滞在費などを補助してもらえたし、「不平等性、社会保護、包括的成長」(Inequality, Social Protection,
Inclusive Growth)というテーマがSGRAフィリピンのテーマである「持続可能共有型成長」(Sustainable Shared Growth)と関わっているので、大学は夏学期の最中であったが、スケジュールを調整して、世界中から集まった400人余りの経済開発研究者との議論に参加することにした。
アキノ大統領による基調講演では、フィリピン政府の、不平等性改善のための重要な対策である、条件付き補助金制度(Conditional Cash Transfer)が取り上げら れた。貧しい子供達が学校に通うことを条件に、現金が与えられている社会保護措置である。会議のなかでも、これについていくつかの興味深い研究が発表された。
本会議や分科会の間、僕はできるだけ参加者と話して研究やアドボカシーの可能性を摸索した。今後もさらに可能性を追求していきたいと思っている。セッションの質疑応答でも活発な議論があり、議長は大体の場合、参加者の勢いに負けないよう に必死だったし、できるだけ多くの人が質問できるように取り纏めていた。運よ く、僕はセッション中に質問の機会が2回まわってきたが、時間の制限で質問できなかったことも多かった。そのため、できるだけ、発表者を休憩時間中に捕まえて議論した。僕が質問したことは、重要だと思うので、下記のとおりご報告させていただきたい。
一つは「アジアや太平洋における包括的成長の実施」(Operationalizing Inclusive Growth in Asia and the Pacific) というテーマの分科会であった。発表者全員がADBの研究者だった。参加者が後ろの方に集まり、会議の間にさらに減ってしまいそうだったので、座長は「質疑応答の時に互いの顔がよく見えるよう に」前の方に移動するように促した。僕はすでに前のほうに座っていたので、移動の必要性がなかった。ADBの研究者が一般参加者との対話を嫌う傾向があるという印象を、僕はこの学会の早い段階で受けていたので、これで少し和らげることができてよかったと思った。
ADBの発表者の話を聞きながら、自分の頭で整理しようとしたのは、ADBが積極的に進めている「包括的成長」は以前の「共有型成長」とどう違うか、ということであった。どうしても発表者に確認しておきたかったので質問を投げかけた。「共有型成長」は1993年に世界銀行が発行した「東アジアの奇跡」という報告書で取り上げられた。発表者の一人が示した「成功した東アジア」がこの報告書の対象となっているが、日本を含むこれらの国々が成功できた理由の一つは、政府が行なった戦略的産業政策であると分析されている。発表者であるADBの研究者の報告を聞くと、両方の成長概念・開発政策・戦略が、貿易による地域統合、人材育成や雇用創出と言ったところで一致しているように聞こえた。ただ、雇用創出に関しては、一人の発表者が熱心に語ったものの、包括的成長の中では後からの思いつきのような存在だと受け止めざるをえなかった。これは一人が発表したADBの評価報告で最も明確だったと思う。ADBがあなたのプログラムをどう評価するか、ADBにとって何が重要であるか、明確に教えてくれる。ADBが発表した評価報告をみると、包括的成長は社会保護(=SAFETY NET、つまり人材育成や失業対策)を強調しているようである。この理解で行くと、次のフィリピンの事例のような問題がでてくるのではないか。フィリピンで教育を受けさせ、看護師やコール・センター従業員などを育てることは、果たして今のフィリピンにとって良いのだろうか。というのは、このような開発モデルに乗れば、フィリピンの早期非産業化(EARLY DE-INDUSTRIALIZATION)がますます深刻になりかねかないからである。僕は、今のフィリピンは、製造業を育てなくてはいけないと考えている。
例の「成功したアジア」を取り上げたADBの発表者は、正しい雇用創出がやはりフィリピンにとって重要で、この早期非産業化の議論をフィリピンで深める必要があると賛成してくれた。包括的成長の生みの親のようなもう一人のADB報告者(日本人ではないらしい)は、言葉的に両方の成長は似ているが、共有型成長のほうは「機会の平等性」を無視しているのではないか、と答えてくれた。この答えは先の僕の理解を確認できたと僕は受け止めている。教育のためにお金がない人々に補助金を提供したり、解雇者を救ったりすることは大事であるが、先ほどの早期非産業化の問題の解決策にならず、フィリピンは「中所得の罠」から益々脱出できなくなる。
もう一回質問の機会を与えられたのは、フランスに本拠を置いているFERDI財団(FONDATION POUR LES ETUDES ET RECHERCHES SUR LE DEVELOPPEMENT INTERNATIONAL、国際開発の研究財団)が設けた 分科会であった。
そこでは、被援助国の災害に対する脆弱性を含む成果主義の評価に基づくODAの配分について報告された。それに対して、指定のコメンテーターが、「このようなシステムは被援助国の政策者にとって難し過ぎて、下手をすると贈与の金額が削減される可能性がある。援助の政治経済学を念頭に置きながら、評価の提案を批判しなければいけない」と強調した。つまり、これ以上ODAの配分を複雑化するな、というコメントだった。
東京大学の博士論文や名古屋大学で研究員として研究をしていたときに、僕も日本のODAについて近代経済学の観点から研究したことがあるので、先のコメンテーターに対して、「政治経済といっても、ODAは政治家・官僚が参加している交渉テーブルではなく、最終的な恩恵者である被援助国の国民のところで終わるものである」と指摘した。FERDI財団が設けようとする成果主義のODA評価システムは、被援助国の政府の成績を評価する道具にもなりえるので、国民にとってありがたいものになるであろう。その意味でも、援助国のODAのやりかたを評価できるシステムでもあると思うので、研究の対象になった世界銀行の援助以外に、他の機関の援助の配分が成果主義に基づくものであるかどうか調べたことがあるかと質問した。
以上の僕のコメントについて、コメンテーターは笑顔でその通りだと認めてくれた。成果主義の評価システムの開発者は、他の国際援助機関の援助配分も調べたが、大体世界銀行と同じような結果が出た。ただし、成果に基づいて配分していない援助機関もあるので、そのような機関は今後、配分を見直す必要があるだろう。
会議の3日目の朝、今西淳子SGRA代表のアドバイスで、会議を抜けて、鹿島フィリピンの事務所に足を運んだ。SGRAフィリピンが8月にフィリピン大学と共催するセミナーのスポンサーをお願いするためであった。加藤総明COOと斉藤幸雄CFOが応対してくださり、僕がセミナーについて説明させていただいた後、セミナーの最大のスポンサーになることを決断してくださった。お二人は、第16回共有型成長セミナーで発表予定の建築学関係の研究に関心をもっておられるが、フィリピンにおける都会と農村の格差の解消にも興味を示してくださった。これからご指導とご支援をよろしくお願いします。
この他、SGRAフィリピンのセミナーだけでなく、来年8月にバリ島で開催するアジア未来会議への参加を誘ったり、インドやベトナムの参加者と共同研究プロジェクトの可能性を探ったりした。おかげさまで大変充実した3日間を過ごすことができた。Global Development Networkに感謝の意を表したい。今回僕は「SGRAジャパン」のメンバーとして登録した。僕の顔をみればすぐ日本人ではないとバレてしまうが、開発に関する日本の素晴らしい発想を信奉する者としてそう表現させていただいた。
英語版
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。
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2013年7月17日配信
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2013.06.15
SGRAでは、良き地球市民の実現をめざす(首都圏在住の)みなさんに気軽にお集まりいただき、講師のお話を伺い、議論をする<場>として、SGRAカフェを開催しています。第4回は、長年日中間に横たわる歴史認識問題に取り組んでいらっしゃる早稲田大学の劉傑教授にお話しいただきます。
日時:2013年6月15日(土)18時~21時(懇親会を含む)
会場:寺島文庫1階みねるばの森
会費(ビュッフェの夕食付):SGRA会員・学生は1000円、非会員2000円
テーマ:文革世代の私からみた中日交流40年とこれからの中日関係
講師:劉傑(早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授)
メッセージ:中国は、文化大革命世代が国家と社会の表舞台で活躍する時代を迎えました。この世代がもっている時代感覚は明らかに前の世代や、後の世代と違い、彼等の世界認識に文革の刻印が色濃く残っています。私は中学生になった頃に文化大革命が終わりましたので、厳密に言えば、文革世代ではありませんが、幼い頃に見た文革の実態は鮮明に記憶に残っています。この世代の視点から日中交流の40年とこれからの日中関係を考えてみたいと思います。
準備の都合がありますので、参加ご希望の方はSGRA事務局へお名前、ご所属と緊急連絡先をご連絡ください。
SGRA事務局:
[email protected]
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2013.06.12
2013年5月31日、国立台湾大学法律学院の国際会議場で第3回日台アジア未来フォーラム「近代日本政治思想の展開と東アジアのナショナリズム」が開催された。今回のフォーラムの趣旨は、ナショナリズムなど、近代西洋思想の受容によって展開された近代日本政治思想と諸概念、及びそれらの思想と諸概念が、中国と日本帝国の植民地において受容、変容されて、各地の政治情況と絡みながら展開されていた情況を検討することである。さらに、こうした近代政治思想の受容と交錯によって生じた現在の北東アジアのナショナル・アイデンティティに関わる諸問題に焦点を当てて検討した。
今回のフォーラムへの参加申込は187名であったが、会議当日、200席の会場は終日ほぼ満席であった。1つのセッションだけに参加した人もいたので、当日の参加者は基調講演と3つのセッションを合わせて計算すると、おそらく300名を超えたであろう。この意味で、今回のフォーラムのテーマの設定は成功だったと言えよう。
まず開会式では、台湾大学人文社会高等研究院の黄俊傑院長、台湾連合大学システムのカルチュラル・スタディーズ国際センターの劉紀蕙教授、公益財団法人交流協会台北事務所文化室の河野明子主任が開会のスピーチをしてくださった。基調講演を務めたのは法政大学法学部の渡辺浩教授(東京大学法学部名誉教授)であった。渡辺教授は「Nation・民主・自由ーー日本を例として」というテーマで講演を行ない、日本の歴史経験に関する考察に基づき、Nation、民主、自由との三者の複雑な関係と可能性について、鋭い見解を示した。たとえば、民主化がNationの形成を促進すると同時に、形成されたNationは対外戦争への協力・動員に積極的に応じた結果としてさらなる民主化をもたらした、という喜ばしくない因果連関が指摘された。
第1セッションは、「ナショナリズムをめぐる近代日本政治思想の展開と中国」というテーマで3名の学者が報告を行った。座長は台湾大学日本語学科の辻本雅史教授である。まず、立教大学政治学科の松田宏一郎教授は、「PatriotismとNationalism:「偏頗心」の設計」というテーマで発表した。松田教授はpatriotismとnationalismという概念に、明治期の日本の知識人がどのように日本語(そして、一応漢語でもある)の「愛国」「報国」などといった概念で関連づけたかを考察した。それを手がかりに、国家を統治機構としてではなく、大きな共同体と見なし、それに対する愛着や責任感情といった心理的な方向付けを要請する議論がどのように構成されていったのかを検討した。
次に、東京大学法学政治学研究科の平野聡教授は「大和魂、中国魂、西蔵魂?:中国民族問題における近代日本の陰影」というテーマで発表した。平野教授は中国とチベットとの関係に対する検討を通して、近代中国が近代日本から展開されたナショナリズムと帝国主義を内包することによって、今日に至る中国の国家統合問題が続いていると指摘している。さらに、その根本的な解決は中国自身が富国強兵・弱肉強食の帝国主義国家的手法を放棄することによるしかないと、その見解を提示した。
また、千葉大学人文社会科学研究科の蔡孟翰教授は「東アジアにおけるナショナリズムの再考:「国家」と「民族」の間」というテーマの論文を発表した。蔡教授は西洋近代の歴史経験にもとづいたナショナリズム論を基本的な参照軸にして、ナショナリズムをめぐる東アジア的文脈を、理論的に整理した。蔡教授によれば、近代日本において、東アジア共有の儒教や漢字文化によって「家族国家」論が発明されて、さらにそれを確立するために各国固有の始祖が作り出された。そして、こうしたことによって、近代東アジアのナショナリズムが創出されたのだと主張した。これは極めて大胆かつ新鮮な解釈とも評された。
第2セッションは、「ナショナリズムをめぐる近代日本政治思想の展開と台湾、韓国」というテーマで行われた。座長は台湾大学歴史学科の甘懐真教授である。まず、交通大学社会と文化研究所の藍弘岳教授は「〈明治知識〉と植民地台湾の政治:「国民性」言説と1920年代前の「同化政策」、ナショナル・アイデンティティ」というテーマの論文を発表した。藍教授は漢文脈において、「国民性」言説の展開過程を考察した上で、さらに「国民性」言説と植民地台湾に対する同化政策との関連を明らかにした。こうした検討を踏まえて、蔡培火などを例にして、1920年代台湾のナショナル・アイデンティティ問題を論じた。さらに、右の検討を通して、植民地期の台湾における〈近代西洋の知識〉と〈明治の知識〉、それに〈明治漢学〉と〈台湾漢学〉との類似と差異、及びこれらの知識形態が交錯していた複雑な知識情況の一端を明らかにしようとした。
次に、中央研究院台湾史研究所の陳培豊教授は「「同文」、「異文」、「台湾語文」:ナショナル・アイデンティティ及び表意 / 表音問題」というテーマの論文を発表した。陳教授は「植民地漢文」という概念を提起して、植民地台湾における漢文の「クレオール現象」を説明した。そして、日清戦争後、日本に支配された植民地台湾は様々な漢字漢文の坩堝となり、台湾人アイデンティティが形成していくことを論じた。さらに、台湾の植民地漢文の「同文」から「異文」への移行に伴い、植民地漢文は「同文同種」のプロパガンダの役割がなくなり、むしろメディアの検閲の障害となり、統治者にとっては文体上の他者、敵手となったと、複雑な展開過程を精彩に考察した。また、戦後の戦後台湾語文の発展とローマ字運動などをも検討した。
さらに、韓国延世大学政治外交学科の高煕卓教授は「韓国近代における「国民」意識形成とその隘路――東学(天道教)運動を中心に――」という論文を発表した。高教授の論文は、東学(天道教)の出現やその拡散に込められた政治思想的意味を「下」からの「国民」化への道とその隘路という視点から捉えなおしたものと言える。「君民一体」の夢を抱えていた東学との思想関連で、朝鮮人が日本統治時代において、「二等民族」として差別を受けたことによって「民族」を実感してから、自らの運命と国家の運命を一体化できる国家の建設と、国家・国民意識が生まれたと論じた。
第3セッションは、中央研究院近代史研究所の張啓雄研究員が座長を担当し、「ナショナル・アイデンティティを巡る現代東アジア」というテーマで3名の学者が報告を行った。まず、中央研究院近代史研究所の林泉忠研究員は、「ナショナル・アイデンティティにおける戦後初期沖縄住民の再模索:三大土着政党の政策を中心に」というテーマで論文を発表した。林研究員は戦後初期において、沖縄のいくつかの独自政党の「独立志向」像を明らかにし、その背景や特徴・性格の考察を通して、戦後初期の「独立」風潮から50年代以降の復帰運動への転換のダイナミズムを検討した。そして、当時の独立風潮の形成と消滅の背景をそれぞれ詳細に分析した。前者に関して、アメリカ軍の実効支配とこの時期の沖縄の法的地位の不明瞭、及び沖縄が「独立国」であったという歴史的郷愁などを検討した。後者に関しては、明白な民族アイデンティティの形成の失敗と大衆運動の欠如などの理由を挙げて分析した。最後に、その分析を踏まえて、結局、強い民族意識に支えられていない沖縄の民族独立運動は政治的影響を持続できなかったと結論付けた。
次に、香港中文大学の馬傑偉教授は「分と合の角力:香港アイデンティティの再ネーション化の過程における矛盾と変動」という論文を発表した。馬教授は1997年香港が中国に回帰した後の十数年間の香港人のナショナル・アイデンティティの変動を分析した。その分析によれば、香港人の、香港人および中国人としてのアイデンティティは変動しているが、純粋に中国人としてのアイデンティティは減少傾向なのに対して、香港人優先のアイデンティティは増加傾向だと見て取れる。また、香港人と中国人との間に存在するアイデンティティの境界について、中国大陸における資本主義の発展によって、香港人と中国人との間の経済価値観の差異は縮小しているのに対して、民主、自由などの政治価値観の差異は拡大していると指摘している。
次に、九州大学大学院の益尾知佐子教授は「中国政府の釣魚島主張の発展過程を論ずる:政府の宣伝とナショナリズムの高揚」というテーマの論文を発表した。まず、益尾教授は、中国政府の歴年の釣魚島主張を分析して、中国政府が1971年12月30日に、初めて釣魚台列島の領有を主張したのだと指摘している。さらに、こうした主張を踏まえて出てきた日中両方が「争いを棚上げにする」というコンセンサスが存在したという中国側の主張を検討した上で、日本の尖閣諸島の国有化に対して、コンセンサスを破る行動とした中国側の主張を批判している。さらに、益尾教授は1970から2011までの『人民日報』における「尖閣」という言葉を使用した回数を調べて、1996年は中国側の言論が急変した時点だと指摘している。さらに、『人民日報』における「愛国」「神聖」などの詞を調べて、政府の宣伝と中国ナショナリズムの高揚との関連を論じた。
最後に、渡辺教授と交通大学社会と文化研究所の劉教授と渥美財団の今西淳子常務理事が閉会スピーチを行い、フォーラムは成功裡に終わった。渡辺教授が指摘したように、今回の会議は多くの人が参加しただけではなく、発表した論文はお互いに関連しているし、その論文とコメントの質も高くて、多くの興味深い問題が提示された。例えば、近現代西洋のナショナリズム論で東アジアのナショナリズムを解釈することの有効性に対する疑問や、こうした敏感なアイデンティティ問題を論じる場としての台湾の意味などが論じられた。今回の会議は大変な成功であったと、多くの参加者からも評価された。
当日の写真は下記リンクよりご覧ください。
交通大学ホームページ
SGRAホームページ
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<藍弘岳(らん・こうがく)☆Lan Hong Yueh>
台湾国立交通大学社会と文化研究所副教授。
近著に:〈近現代東亞思想史與「武士道」—傳統的發明與越境—〉《台灣社會研究季刊》第85期,2011年。〈「武國」的儒學—「文」在江戸前期的形象變化與其出版、研究—」 《漢學研究》第30巻第1期,2012年。〈面向海洋,成為西洋—「海國」想像與日本的亞洲論述—〉,《文化研究》第14期,2012年。
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2013年6月12日配信