SGRAイベントの報告

  • 2015.01.21

    M. ジャクファル・イドルス「第6回SGRAカフェ 『アラブ・イスラムをもっと知ろう:シリア、スーダンそしてイスラム国』報告」

    近年、イスラムを中心とした中東やアラブ世界で進行した「アラブの春」という民主化運動をきっかけに、不安定な政治的社会的な状況が生み出されたのと同時に、イスラムを名乗った暴力的な行為によって、イスラムに対する不当な偏見が強まり、拡大している。その根底には、イスラム過激派の暴力的なニュースばかりが報道される一方で、特に日本では、イスラム教やイスラム諸国に対する根本的な知識や情報や理解をうながす「場」が乏しく、人々に多くの誤解を与えているという状況がある。   そのような背景の中で「アラブ・イスラムをもっと知ろう:シリア、スーダンそしてイスラム国を中心として」というテーマの下で、メディアには現れないイスラム教やイスラム諸国の実情について学ぶことを目的に第6回SGRAカフェが開催された。   今回、シリア出身のダルウィッシュ・ホサム氏(Housam Darwisheh:アジア経済研究所中東研究グループ研究員)と、スーダン出身のアブディン・モハメド・オマル氏(Mohamed Omer Abdin:東京外国語大学特任助教)に講演をお願いした。両名ともSGRAの会員である。   ホサム氏は「変貌するシリア危機と翻弄される人々」というタイトルの講演を行った。2011年に中東地域で拡大してきた民主化要求運動をきっかけに、シリアは現在、未曾有の危機に直面している。アサド体制と反体制派の多様なグループによる戦闘が各地で続くなか、シリア北部で誕生した「イスラム国」が侵攻し、3年におよぶ戦闘により、死者は20万人を超え、難民は400万人、国内避難民は1,100万人にのぼり、近隣諸国はシリア難民の受け入れに対応できない状況にある。アメリカを中心とする有志連合の干渉もあって、シリア危機はますます複雑な様相を呈し、日ごとに悪化する状況から脱する道は見出せないままである。このようにシリア危機の経過と現状を紹介した上で、壊滅的な内戦に陥った原因を、歴史的、宗教的、民族的、地政学的など多様な側面から解説し、シリア及び近隣アラブ諸国における内戦の今後の厳しい見通しについて語った。   アブディン氏は「なぜハルツームに春がこないか?:バシール政権の政治戦略分析を通して」というタイトルで、異なるアプローチからスーダンにおける「アラブの春」の影響について講演した。民主化を求めるアラブの春の運動は、長い間続いてきた独裁体制を崩壊させる一方で、内戦を勃発させ、中央政権の弱体化など様々な結果をもたらした。国によって、この運動がなぜこのように個別の結果をもたらしたかは、近年の国際政治学者の大きな関心事となっている。一方では、アラブの春の影響をほぼ受けなかった地域も存在する。アブディン氏は、中東の周辺地域に位置するスーダン共和国を事例に、現政権が、アラブの春の同国への波及を防止するためにどのような戦略をとってきたかを、スーダンを取り巻く内部的、外部的情勢をもとに講演した。特に印象的だったのは、「スーダンは過去に民主化とその挫折の経験を持っているため、民主化に対する幻想を持っていない」との指摘だった。   2時間程の講演に続き、座談会と質疑応答が行われ、30人を超える参加者のなかからたくさんの質問があった。「イスラム国における法の思考とその正当性はどのようなものなのか?」「イスラム国の裁判はだれに対しての裁判であり、非イスラム教徒はどのように扱われるのか?」「イスラム国はいったい何を目指し、今後どのように展開すると予測されるのか?」などイスラム国に対する質問が多く、関心の高さを感じさせられた。その他、「なぜ一般の人が巻き込まれるのか?」「どのような教えに基づいてその行動が取られるのか?」などとイスラムの本質に迫る質問も多数あった。   限られた時間のなかで、これらの質問に対して問題を掘り下げた議論を展開することはできなかったが、この3時間に亘った講演と座談会で共通認識として共有することができたのは「現代世界で起きているイスラム世界あるいはイスラムと関連する様々な問題は単なる宗教的な問題ではなく、政治、経済、国際関係など様々な要素の絡み合いの中から生じた複雑な問題」というものである。   今後とも、特に日本では、より正しく妥当な理解を得るために、SGRAカフェのような客観的な情報発信の場が必要とされている。   当日の写真   ------------------------------------- <M. ジャクファル・イドルス  M. Jakfar Idrus> 2014年度渥美国際交流財団奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科アジア地域研究専攻博士課程後期に在学中。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化。「国民国家形成における博覧会とその役割—西欧、日本、およびインドネシアを中心として−」をテーマに博士論文執筆中。 ------------------------------------- 2015年1月21日配信
  • 2014.12.24

    林 少陽「第8回SGRAチャイナ・フォーラム『近代日本美術史と近代中国』報告」

    2014年11月22日~23日、第8回SGRAチャイナ・フォーラムが北京で開催されました。今回のテーマは日本美術史です。22日の講演会は中国社会科学院文学研究所と、23日の講演会は清華大学東亜文化講座との共催でした。清華大学は北京大学のライバルであり日本でも知られていると思いますが、中国社会科学院は「知る人ぞ知る」かもしれません。中国社会科学院は、国家に所属する人文学及び社会科学研究の最高学術機構であり、総合的な研究センターです。中国社会科学院文学研究所の前身は北京大学文学研究所であり、1953年の創立です。1955年に中国社会科学院の前身である中国科学院哲学社会科学学部に合併されました。現在115人の研究員がいて、そのうち上級研究員は79名ということです。   今回、日本から参加してくださった2名の講師は、佐藤道信氏(東京藝術大学芸術学科教授)と、木田拓也氏(国立近代美術館工芸館主任研究員)です。佐藤氏は日本美術史学の代表的な研究者の一人であり、木田氏は日本の工芸史の研究者として活躍していらっしゃいます。木田氏が2012年に実施した「越境する日本人――工芸家が夢見たアジア1910s~1945」という展覧会が、今回の北京でのフォーラム開催のきっかけとなりました。   まず、11月22日の講演会についてご紹介します。佐藤氏の講演題目は「近代の超克-東アジア美術史は可能か」、木田氏は「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」でした。   佐藤氏は、「美術」「美術史」「美術史学」をめぐる制度的な研究をしてきた研究者です。その目的は、美術の今がなぜこうあるのか、現在の史的位置を考えることにありました。最初は、「日本美術(史)観」をめぐる日本と欧米でのイメージギャップについて研究し、大きな影響を与えた研究者ですが、この十数年は、欧米と東アジアにおける「美術史」展示の比較から、その地理的枠組の違いと、それを支えるアイデンティーの違いについて考えてきました。欧米の国立レベルの大規模な美術館では、実質「ヨーロッパ美術史」を展示しているのに対して、東アジアでは中国・台湾、韓国、日本、いずれの国立レベルの博物館でも、基本的に自国美術史を中心に展示していることを指摘しました。   つまり、実際の歴史では、仏教、儒教、道教の美術や水墨画が、広く共有されていたにもかかわらず、東アジアの美術史ではそれが反映されていません。広域美術史を共有するヨーロッパと、一国美術史を中心とする東アジアという違いがあります。その枠組を支えるアイデンティティーとして、大きく言えば、キリスト教美術を中軸とする「ヨーロッパ美術史」は、キリスト教という宗教、一方の東アジア各国の自国美術史は、国家という政治体制に、それぞれ依拠していることを佐藤氏は問題としています。   佐藤氏は1990年代以来、近代日本の「美術」「美術史」「美術史学」が、西洋から移植された「美術」概念の制度化の諸局面だったという前提で、「日本美術史」が、近代概念としての「日本」「美術」「歴史」概念の過去への投射であり、同様に日本での「東洋美術史」も(あくまで日本での、です)、じつは近代日本の論理を「東洋」の過去に投射したことを、いままでの著書で明らかにしてきました。 本講演において、佐藤氏は、19世紀の華夷秩序の崩壊後、ナショナリズムを基軸に自国の歴史観を構築してきた経緯を指摘しつつ、分裂した東アジアの近代が、歴史とその実態をも分断してきたのだとすれば、実態を反映した「東アジア美術史」の構築は、東アジアが近代を超克できるかどうかの、一つの重要な課題であると提起しました。そして、広域の東アジア美術史を実現するために、「自国美術史」の相互刊行、広い視野と交流史的、比較論的な視点、知識の樹立、さらには、イデオロギー(東西体制の両方)、大国意識、覇権主義、民族主義、汎アジア主義的視点などによる解釈の回避、国際間でのコミュニケーションと他者理解のしくみの確立、などを提言しました。   木田氏は、講演「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」において、まず自分自身がこれまでに関心を持って取り組んできた工芸史、デザイン史という領域において、19世紀後半のジャポニスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、モダニズムという流れにおける日本と西欧との文化交流に関する研究は盛んに行われているのに対して、それとは対照的にこの時代の日本と中国との関係については、あまり関心が払われていないことを反省しつつ、日本人の工芸家と中国との関連を紹介しました。木田氏はまず、日本の20世紀を代表する、国民的洋画家といえる梅原龍三郎の、1939年から43年までの計6回の中国訪問を紹介しました。戦争中にも関わらず、梅原は北京が最高であると記述しており、この時代の美術史の再評価の必要性を指摘しました。   そして、京都の陶芸家の2代真清水蔵六が、1889年(明治22)に上海と南京の間にある宜興窯に渡って、そこにおよそ1年間滞在して作陶を行ったことや、1891年(明治24)年に景徳鎮を訪問したこと、建築家で、建築史家でもあった伊東忠太が、1902年から1905年まで、約3年かけて中国、ビルマ、インド、トルコを経て、ヨーロッパへとユーラシア大陸を横断したこと、また1910年の日韓併合前から建築史家の関野貞が朝鮮半島で楽浪遺跡の発掘に関わっていたことなどを紹介しました。そして木田氏は、中国からの古美術品の流出と、日本におけるコレクションの形成との関係について紹介し、日本に請来された中国や朝鮮半島の美術品が日本の工芸家の作風に影響を与えたことを報告しました。   講演会には、社会科学院の研究員だけでなく、他の大学の研究者や大学院生も含む約50名の参加者が集まりました。中国社会科学院文学研究所の陸建徳所長が開会挨拶をしてくださいました。講演の後、とても密度の高い質疑と討論で盛り上がり、初日の講演会は大成功でした。   翌11月23日の講演会はさらに盛況でした。清華大学の会場は40名しか座れない会議室でしたが、実際80名を越す参加者があり、一部は立ったままで講演会を聴講していました。講演会を助成支援してくれた国際交流基金北京日本文化センターの吉川竹二所長や、中国社会科学院日本研究所の李薇所長も出席してくださいました。 佐藤氏の今回の講演題目は「脱亜入欧のハイブリッド:『日本画』『西洋画』、過去・現在」であり、木田氏の講演題目は「近代日本における<工芸>ジャンルの成立:工芸家がめざしたもの」でした。   佐藤氏の講演に対しては筆者が、木田氏の講演に対しては清華大学美術学院准教授の陳岸瑛氏が中国美術史研究者の立場からコメントし、また清華大学歴史学科の教授である劉暁峯氏がたいへん興味深い総括をしました。   紙幅の関係上2回目の両氏の講演についてご紹介できないですが、今回の出席者の積極的な参加ぶりは感動的でした。また会場からの討論の熱さも忘れがたいものです。参加者は美術史関係の研究者と大学院生のほか、文学研究者、歴史研究者も多いという印象を受けました。その意味において高度に学際的な会議でもあったと思います。   今回のふたつの講演会は高度な専門性を持つが故に大成功したと思いますが、日本研究と中国研究が対話する重要な機会でもあることを実感しました。   フォーラムの写真   フィードバックアンケートの集計結果   ----------------------------- <林 少陽(りん しょうよう)Lin Shaoyang> 1963年10月中国広東省生まれ。1983年7月厦門大学卒業。吉林大学修士課程修了。会社勤務を経て1999年春留学で来日。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程、東大助手、東大教養学部特任准教授、香港城市大学准教授を経て、東京大学大学院総合文化科超域文化科学専攻准教授。学術博士。著書に『「修辞」という思想:章炳麟と漢字圏の言語論的批評理論』(東京:白澤社、2009年)、『「文」與日本学術思想——漢字圈・1700-1990』(北京:中央編訳出版社、2012年)、ほかに近代日本・近代中国の思想と文学ついての論文多数。 -----------------------------   2014年12月24日配信
  • 2014.10.15

    孫 建軍「第2回アジア未来会議円卓会議『これからの日本研究:学術共同体の夢に向かって』実施報告書 」

    本円卓会議は、漢字圏を中心としたアジア各地の日本研究機関に所属する研究者が集まり、グローバル時代における日本研究のあり方について議論する場として、第1回に引き続き、第2回アジア未来会議の二日目に開催された。会議は日本語で行われ、円卓を囲んだ10名の発表者と討論者、および各地から駆けつけた多くのオブザーバーが参加した。   円卓会議は2部からなり、前半は提案の代読及び指定発表者の報告であった。提案者である早稲田大学劉傑教授は都合で来場できなかったが、提案は文章として寄せられ、司会者の桜美林大学李恩民教授によって代読された。内容は主に四つの部分からなり、(1)未来に向けての「東アジア学術共同体」の意味、(2)「東アジア学術共同体」の実験として、「日本研究」を設定することの意味、(3)アジアないし世界が共有できる「日本研究」とはどのようなものなのか、そして(4)東アジアの日本研究の仕組みをどのように構築していくのか、というものだった。   続いて、4人の指定報告者による報告が行なわれ、日本を除く東アジア地域の代表的な日本研究所の歴史や活動などの最新情報が紹介された。ソウル大学日本研究所の南基正副教授は、当研究所で展開中のHK企画研究の紹介を通じた企業との連携の実績や、次世代研究者の養成に力を入れていることを紹介した。復旦大学日本研究所の徐静波教授は、日本の総領事館や企業の支援を受けることは、レベルの高い日本研究を維持していく重要な前提であると語った。中国社会科学院日本研究所の張建立副研究員からは、中国一を誇る研究陣営、政府のシンクタンクの役割を十分果たす国家レベルの研究所の紹介があった。台湾大学の辻本雅史教授は、発足したばかりの台湾大学文学院日本研究センターを紹介し諸機関との連携を呼びかけた。   後半は北京大学准教授で早稲田大学孔子学院長を兼任している私の司会で始まり、6名の指定討論者からコメントがあった。中国社会科学院文学研究所の趙京華研究員は日本研究の厳しい現状を報告した上で、学術共同体という言葉遣いに疑問を投げかけた。学術共同体を目指すのではなく、東アジア各国の間における軽蔑感情を取り除くべく、問題意識の共有を提案した。また、他者を意識させかねないことを防ぐため、他分野の学者も討論に呼ぶべきだと提案した。北京大学外国語学院の王京副教授も、学術共同体は外部が必要なため派閥が生まれやすいと指摘した。また、統合されていない北京大学における日本研究の現状を例に挙げ、情報共有の大切さを訴えた。   韓国国民大学日本研究所の李元徳教授は学術共同体を目指す提案者の意見に賛同する一方、日中韓の間における独自の問題を指摘した。また衰退しつつある韓国の日本研究は、魅力をなくしつつある日本に起因することを慨嘆した。ジャーナリストの川崎剛氏は東アジアの概論の必要性を訴えた。SGRA今西淳子代表は、関口グローバル研究会として組織ではなく人の繋がりを心がけ、小さいながらも大きな組織の間を繋ぐ触媒的な存在でありたいと説明した。「学術共同体」については、中国大陸の学者の反対的意見を尊重し、使用を控えたほうがよいと語った。一方で、提案者劉傑教授の意図は既にある情報インフラをもっと活用できないかという観点からであると補足説明し、相互情報交換に力を入れる意向を明らかにした。また日本は魅力をなくしたとは言い切れないと指摘した。中国社会科学院文学研究所の董炳月研究員は、学術から出発して国家概念を超えた協力関係の構築を提案した。最後に台湾中央研究院の林泉忠副研究員は日本研究の厳しい現状の再確認を促し、一刻も早く苦境の脱出を図らなければならないと指摘した。   円卓会議にはアジアのほかの地域の学者も参加し、タイ、インドなどからの学者の発言もあった。話題は日本研究のみではなく、各大学の教育現場における新しい動向や悩みにまで及び、予定時刻を若干オーバーして有意義な意見交換を行った。今までの2回の議論を踏まえて、多くの参加者は、第3回アジア未来会議の場においても、引き続きこのようなセッションを設けてほしいと望んでいる。   ------------------------------- <孫建軍 Sun Jianjun> 1969年生まれ。1990年北京国際関係学院卒業、1993年北京日本学研究センター修士課程修了、2003年国際基督教大学にてPh.D.取得。北京語言大学講師、国際日本文化研究センター講師を経て、北京大学外国語学院日本言語文化系副教授。現在早稲田大学社会科学学術院客員准教授、早稲田大学孔子学院中国側院長を兼任中。専門は日本語学、近代日中語彙交流史。 -------------------------------   2014年10月15日配信
  • 2014.10.10

    第3回SGRAふくしまスタディツアー報告

    渥美国際交流財団/SGRAでは2012年から毎年、福島第一原発事故の被災地である福島県飯舘(いいたて)村でのスタディツアーを行ってきました。そのスタディツアーでの体験や考察をもとにしてSGRAワークショップ、SGRAフォーラム、SGRAカフェ、そしてバリ島で開催された「アジア未来会議」でのExhibition & Talk Session“Fukushima and its aftermath-Lesson from Man-made Disaster”などを開催してきました。今年も、10月17日から19日の3日間、SGRAふくしまスタディツアー《飯舘村、あれから3年》を実施しました。このレポートはツアーの記録報告です。 「SGRAふくしまスタディツアー」は、今年で3回目。参加者は渥美財団のラクーンメンバー、呼びかけに応えて参加した留学生、日本人学生、大学教授や社会人など16名。国籍も中国、台湾、グルジア、インドネシア、モンゴル、日本、年齢層も18歳から70歳代まで、まさに多様性を絵にかいたような多彩なメンバーであった。 17日(金)朝8時、メンバーたちのチョットした不安も乗せながら、バスは秋晴れの中を福島に向けて出発した。途中、福島駅で、今回の受入れをお願いしている「ふくしま再生の会」のメンバーと合流。「NPO法人ふくしま再生の会」(理事長田尾陽一さん)は、地元の農民とヴォランティア、科学者により構成されたNPO団体。2011年秋から、飯舘村の再生プロジェクトとして、住民自身による効率的な除染方法の研究開発や飯舘村に伝わる「マデイ(真手)」の考え方をもとにしたサステイナブル/エコロジカルな地域産業とコミュニティーの再生に取り組んでいる。 最初の訪問先は、福島市内の松川仮設住宅。ここでは飯舘村で被災した100名を超えるお年寄りが、未だに避難生活を続けている。入口付近には、簡単なスーパーやラーメン屋、集会所などが設けられ、それなりの生活環境は整えられているが、鋼板一枚の仮説のプレハブ住宅では冬の寒さはお年寄りにとっては厳しかろうと想像される。集会所で、8名の被災者のお話をうかがった。被災当時の状況や家族と離散して暮らさなければならない辛さなどが語られた一方で、被災から3年半を経た今では、この仮設住宅群の中での助け合いの生活は、それなりの心の安定と平和をもたらしてくれている、との話もあった。被災以前は大家族で子や孫に囲まれて暮らしてきたお年寄りが離散生活を強いられることは辛いだろうが、以前から孤立して生活していたお年寄りにとっては、集合住宅での助け合いの生活は、それなりの心の安定と平和をもたらしてくれているのかも知れない。 松川仮設住宅を後にして、バスは阿武隈高原飯舘村に向かった。一年ぶりに訪れた飯舘村は、昨年までとは一変した村になっていた。道路沿いに、農家の庭に、荒れ果てた田畑のあちこちに1トンもある黒いプラスティックの袋が山積みにされている。ああ、これが農家の周辺や田畑の土をはぎ取った「汚染土」の山なのだ。この「汚染土」はいつになったら撤去されるのだろうか。これからも増え続ける大量の「汚染土」の行き場は、まだ決まっていない。村役場や政府からの明確な答えもない。 飯舘村内を見学した後、ふくしま再生の会の活動拠点である霊山センターに到着した。このセンターで農民やヴォランティアの方々との2日間の短い共同生活が始まる。夕食は、私たちと地元の方々、ヴォランティアの方々との協働自炊である。地元の方から「この食材は全部スーパーで買ったもの。以前だったら、この時期は自分の田んぼでできた新米や、山で採れたキノコや栗、そしてイノシシまで使ったふるさとの料理を食べてもらえるのだけど、今は何もおもてなしができない。ごめんね…。」と言われた。返す言葉もない。辛いのは、我々ではなく、地元の方々なのだから。手作りの夕食を食べながら、飲みながらの語らいは、深夜まで続いた。 2日目。この日も、雲一つない快晴だった。黄や紅に色づき始めた山々が美しい。午前中、大久保地区のAさんの畑を訪問した。春に桜が咲き、花々に覆われたならば、まさに桃源郷になるであろう、と思わせるような山間の地だ。再生の会は、ここに住むAさんと共に花を中心とした栽培実験を行っている。「えっ、ここに住む住民?? 人が住んでいるのだろうか?」。Aさんは90歳を超える母親と共に、この大久保地区に住んでいる。以前Aさんは母親と共に、仮設住宅での避難生活をしていた。だが、ある夜、母親が「もうイヤだ。家に帰りたい」と叫び始めたことを切っ掛けにして、家に帰り「今までどおりの生活」に戻ることを決めたそうだ。むろん、帰還は禁じられていることを承知の上で…。これも、一つの選択なのだろう。 午後は、再生の会のさまざまな実験の拠点となっている、飯舘村佐須地区の菅野宗夫さんの田んぼでの、稲刈り作業である。稲刈り作業を始める前に、緊張が走った。あるメンバーから「この稲刈りは安全なのか?」「若者に危険な作業を強いることになるのではないか?」との質問が出されたのだ。田んぼは丁寧に除染され、昨年の収穫米や、今年の隣の田んぼでの収穫米でも、放射線濃度は基準値以下であった。このことから考えても、安全と言えるものの、刈り取りしようとしている稲は、実験段階の稲であることは間違いない。「安全との思い込み」や「安全に対する説明無し」では、他の人々の「安心」は得られない。この質問を受けた菅野宗夫さんの説明に納得したメンバーは穂先だけの稲刈りを行ったのだが、十分な説明をせずに稲刈りを行おうとしたことは、明らかにツアーのオーガナイザーである私たちの落ち度であった。当事者と他の人が感じる「安全」と「安心」の違い、これはこれからも飯舘村の再生の過程につきまとう大きな課題となるのだろう。 夕刻、河北新報の寺島英弥さんをお招きして、多くのスライド写真を見ながら、福島第一原発事故から今日までの被災地全体の状況の説明をうかがった。飯舘村とは異なり、津波と放射能被害のダブル被害を受けた沿岸部の状況、帰還に向けた地域ごと、ジェネレーションごとの「想い」の違い、3年半を経て住民の中に高まる疑心や生活に対する不安などが寺島さんの話から浮き彫りにされていった。 夜、宿舎の霊山センターに戻ると、仲間である大石ユイ子さんと農家の方々から大量のおでんと地元の野菜の差し入れが届いていた。だが、「チョッと待てよ。地元の野菜は大丈夫なの?」かすかな不安が心をよぎる。ちょうど再生の会の夕食の当番の方々が地域の農産品や植物の放射線量測定の専門家チームだったので、「この野菜は大丈夫なの?」と聞いてみた。「大丈夫ですよ。この野菜は飯舘村の野菜ではなく、相馬市の野菜で定期的に放射線量を計り、出荷しているもの。それに地元の人々は、私たち以上に放射能には敏感なので安全でないものは、絶対に食べませんし、持ってもきませんよ。」「でも、地元の人たちは、これからずっと、こうした不安や風評被害と向き合って行かなければならないのよね…。」稲刈りと同じ、「安全」と「安心」の問題には、これからもずっと、この地域が向き合って行かなければならないのだろう。 夕食の後、地元の若者の佐藤健太さんが訪れてくれた。佐藤健太さんは32歳。今は、福島市内に住みながら、飯舘村の若者の声を代弁しようと各地を飛び回っている。故郷への想いをふっきって、都会で生活を始めた20代、30代。いつかは帰りたいとの想いを持ちながら、京都の肉屋で修行を始めた若者、あるいは北海道の奥地で酪農を始めた若者のことなどなど、彼の話は印象的だった。 「当たり前のことだが、生まれ育ったふるさとへの想いは捨てることはできないし、オヤジの世代の苦しみも十分にわかっている。一方で、若者は多かれ少なかれ都会の生活を経験しているので、都会の生活には馴染みやすい」「帰るか、帰らないかを考えるには、自分たちの子供世代の20年先、30年先のことまでを見通さなければならない。そんなことができるだろうか?」「世間もお役所も(帰るか、帰らないかの判断を)急がさないでほしい。自分たちも悩んでいる、苦しんでいる。今は、仮の生活とは言いながらも、新しい生活を営むことに精いっぱいなのだから」。こうした彼との語らいの中で、今まで、私たちが話をうかがってきた50代、60代の方々、お年寄りとは異なる若い世代の苦悩を聞くことができた。 3日目。最終日の朝、私たちは菅野宗夫さんの牛舎の畑で始まった政府の除染作業を見に行った。自分たちでできる除染方法を開発し、昨年までは「除染は自分の手でやりたい」と言っていた宗夫さんは除染作業を見守りながらも、私たちに多くを語ろうとしなかった。宗夫さんの心の中では、言葉にならない想いが去来していたのかもしれない。 このツアーを終えた後、渥美財団とも関係の深い畑村洋太郎先生の「除染のゆくえ-畑村洋太郎と飯舘村の人々-」というドキュメンタリー番組がNHKで放映された。畑村先生と飯舘村の農民による「除染を早く、現実的に進めるための実証実験」を追ったドキュメンタリーである。この番組の中で畑村先生は、3年、30年、100年というタームを語り、3年が「コミュニティーが離散しないで元に戻れる限度」と述べている。 3年の限度が過ぎ、除染が終了し帰還できるまでにはさらに2~3年は必要だろうと言われている今日、「皆で一緒に」という言葉は力を失いつつある。これから先には、年寄りも、若者も、子供も、一人一人が置かれている状況を踏まえながら、現実を「見て」「感じて」「考えて」さらには「一人一人が、自分で判断しなければならない」という道のりが待ち受けている。これからの道のりの中で、被害者の心が萎えないことを祈るだけでなく、私たちが記憶を萎えさせないことこそが求められているのではないだろうか。 ふくしまツアーの写真 (文責:渥美財団理事 角田英一)
  • 2014.09.03

    第2回アジア未来会議報告

    2014年8月22日(金)~8月24日(日)、インドネシアのバリ島にて、第2回アジア未来会議が、17か国から380名の登録参加者を得て開催されました。総合テーマは「多様性と調和」。このテーマのもと、自然科学、社会科学、人文科学各分野のフォーラムが開催され、また、多くの研究論文の発表が行われ、国際的かつ学際的な議論が繰り広げられました。   アジア未来会議は、日本留学経験者や日本に関心のある若手・中堅の研究者が一堂に集まり、アジアの未来について語り合う場を提供することを目的としています。   8月22日(金)、バリ島サヌールのイナ・グランド・バリ・ビーチホテルの大会議場の前室には、午後のフォーラムで講演する戸津正勝先生(国士舘大学名誉教授)のコレクションから70点のバティック(インドネシアの伝統的なろうけつ染)、島田文雄先生(東京藝術大学)他による20点の染付陶器、そしてバロン(バリ島獅子舞の獅子)が展示され、会場が彩られました。   午前10時、開会式は4人の女性ダンサーによる華やかなバリの歓迎の踊りで始まり、明石康大会会長の開会宣言の後、バリ州副知事から歓迎の挨拶、鹿取克章在インドネシア日本大使から祝辞をいただきました。   引き続き、午前11時から、シンガポールのビラハリ・コーシカン無任所大使(元シンガポール外務次官)による「多様性と調和:グローバル構造変革期のASEANと東アジア」という基調講演がありました。「世界は大きな転換期を経験している。近代の国際システムは西欧によって形作られたが、この時代は終わろうとしている。誰にも未来は分らないし、何が西欧が支配したシステムに取って代わるのか分からない。」と始まった講演は、ほとんどがアジアの国からの参加者にとって大変示唆に富むものでした。   基調講演の後、奈良県宇陀郡曽爾村から招待した獅子舞の小演目が披露されました。その後、参加者はビーチを見渡すテラスで昼食をとり、午後2時から、招待講師による3つのフォーラムが開催されました。   社会科学フォーラム「中国台頭時代の東アジアの新秩序」では、中国、日本、台湾、韓国、フィリピン、ベトナム、タイ、インドネシアの研究者が、中国の台頭がそれぞれの国にどのように影響を及ぼしているか発表し、活発な議論を呼び起こしました。   人文科学フォーラム「アジアを繋ぐアート」では、日本の獅子舞とバリ島のバロンダンス、日本と中国を中心とした東アジアの陶磁器の技術、そしてインドネシアの服飾(バティック)を題材に、アジアに共通する基層文化とその現代的意義を考察しました。   自然科学フォーラム「環境リモートセンシング」は、第2回リモートセンシング用マイクロ衛星学会(SOMIRES 20)と同時開催で、アメリカ、インドネシア、マレーシア、台湾、韓国、日本からの研究者による報告が行われました。 フォーラムの講演一覧   午後6時からビーチに続くホテルの庭で開催された歓迎パーティーでは、夕食の後、今回の目玉イベントである日本の獅子舞とバリ島のバロンダンスの画期的な競演が実現し、400名の参加者を魅了しました。   8月23日(土)、参加者は全員、ウダヤナ大学に移動し、41の分科会セッションに分かれて178本の論文が発表されました。アジア未来会議は国際的かつ学際的なアプローチを目指しているので、各セッションは、発表者が投稿時に選んだサブテーマに基づいて調整され、必ずしも専門分野の集まりではありません。学術学会とは違った、多角的かつ活発な議論が展開されました。   各セッションでは、2名の座長の推薦により優秀発表賞が選ばれました。 優秀発表賞受賞者リスト   また、11本のポスターが掲示され、AFC学術委員会により3本の優秀ポスター賞が決定しました。 優秀ポスター賞の受賞者リスト   さらに、アジア未来会議では投稿された各分野の学術論文の中から優秀論文を選考して表彰します。優秀論文の審査・選考は会議開催に先立って行われ、2014年2月28日までに投稿された71本のフルペーパーが、延べ42名の審査員によって審査されました。査読者は、(1)論文のテーマが会議のテーマ「多様性と調和」と合っているか、(2)論旨に説得力があるか、(3) 従来の説の受け売りではなく、独自の新しいものがあるか、(4) 学際的かつ国際的なアプローチがあるか、という基準に基づき、9~10本の査読論文から2本を推薦しました。集計の結果、2人以上の審査員から推薦を受けた18本を優秀論文と決定しました。 優秀論文リスト   41分科会セッションと並行して、3つの特別セッションが開催されました。   円卓会議「これからの日本研究:東アジア学術共同体の夢に向かって」は、東京倶楽部の助成を受けて中国を中心に台湾や韓国の日本研究者を招待し、各国における日本研究の現状を確認した後、これから日本研究をどのように進めるべきかを検討しました。   CFHRSセミナー「ダイナミックな東アジアの未来のための韓国の先導的役割」は、韓国未来人力研究院が主催し、講義と学部生による研究発表が行われました。   SGRAカフェ「フクシマとその後:人災からの教訓」では、SGRAスタディツアーの参加者が撮影した写真展示及びドキュメンタリフィルムの上映と、談話セッションを行いました。   午後5時半にセッションが終了すると、参加者は全員バスでレストラン「香港ガーデン」に移動し、フェアウェルパーティーが開催されました。今西淳子AFC実行委員長の会議報告のあと、ケトゥ・スアスティカ ウダヤナ大学長による乾杯、2名の日本人舞踏家によるジャワのダンス、優秀賞の授賞式が行われました。授賞式では、優秀論文の著者18名が壇上に上がり、明石康大会委員長から賞状が授与されました。優秀発表賞41名と、優秀ポスター賞3名には、渥美伊都子渥美財団理事長が賞状を授与しました。最後に、北九州市立大学の漆原朗子副学長より、第3回アジア未来会議の発表がありました。   8月24日(日)参加者は、それぞれ、世界文化遺産ジャティルイの棚田観光、ウブドでの観光と買い物、ウルワツ寺院でのケチャックダンスとシーフードディナー、などを楽しみました。   第2 回アジア未来会議「多様性と調和」は、渥美国際交流財団(関口グローバル研究会(SGRA))主催、ウダヤナ大学(Post Graduate Program)共催で、文部科学省、在インドネシア日本大使館、東アジアASEAN経済研究センター(ERIA)の後援、韓国未来人力研究院、世界平和研究所、JAFSA、Global Voices from Japanの協力、国際交流基金アジアセンター、東芝国際交流財団、東京倶楽部からの助成、ガルーダ・インドネシア航空、東京海上インドネシア、インドネシア三菱商事、Airmas Asri、Hermitage、Taiyo Sinar、ISS、Securindo Packatama、大和証券、中外製薬、コクヨ、伊藤園、鹿島建設からの協賛をいただきました。とりわけ、鹿島現地法人のみなさんからは全面的なサポートをいただき、華やかな会議にすることができました。   運営にあたっては、元渥美奨学生を中心に実行委員会、学術委員会が組織され、SGRA運営委員も加わって、フォーラムの企画から、ホームページの維持管理、優秀賞の選考、当日の受付まであらゆる業務をお手伝いいただきました。また、招待講師を含む延べ82名の方に多様性に富んだセッションの座長をご快諾いただきました。   400名を超える参加者のみなさん、開催のためにご支援くださったみなさん、さまざまな面でボランティアでご協力くださったみなさんのおかげで、第2回アジア未来会議を成功裡に実施することができましたことを、心より感謝申し上げます。   アジア未来会議は2013年から始めた新しいプロジェクトで、10年間で5回の開催をめざしています。第3回アジア未来会議は、2016年9月29日から10月3日まで、北九州市で開催します。   皆様のご支援、ご協力、そして何よりもご参加をお待ちしています。   <関連資料>   第2回アジア未来会議写真   第2回アジア未来会議新聞記事(ジャカルタ新聞)   第2回アジア未来会議和文報告書(写真付き)   Asia Future Conference #2 Report (in English) with photos   第3回アジア未来会議チラシ   (文責:SGRA代表 今西淳子)
  • 2014.08.10

    ボルジギン・フスレ「第7回ウランバートル国際シンポジウム『総合研究――ハルハ河・ノモンハン戦争』報告」

    2014年は、ハルハ河・ノモンハン戦争後75年にあたる。これを記念して、モンゴルとロシアで、さまざまな記念行事やシンポジウムがおこなわれた。そのなか、モンゴル国立大学モンゴル研究所とモンゴルの歴史と文化研究会主催、渥美国際交流財団助成、在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、ハル・スルド モンゴル軍事史研究者連合会、モンゴル国立大学プレス・パブリッシング社後援の第7回ウランバートル国際シンポジウム「総合研究――ハルハ河・ノモンハン戦争」が8月9、10日にウランバートルで開催された。   謎に満ちたハルハ河・ノモンハン戦争は歴史上あまり知られていない局地戦であったにもかかわらず、20世紀における歴史的意義を帯びており、太平洋戦争の序曲であったと評価されている。1991年、東京におけるシンポジウムによって研究は飛躍的に進み、2009年のウランバートル・シンポジウム(SGRAとモンゴル国家文書管理総局、モンゴル科学アカデミー歴史研究所共催)ではさらに画期的な展開をみせた。しかし、国際的なコンテキストの視点からみると、これまでの研究は、伝統的な公式見解のくりかえしになることが多く、解明されていない問題が未だ多く残されている。立場や視点が異なるとしても、お互いの間を隔てている壁を乗りこえて、共有しうる史料に基づいて歴史の真相を検証・討論することは、歴史研究者に課せられた使命である。そのため、私たちは今回のシンポジウムを企画した。   本シンポジウムは、北東アジア地域史という枠組みのなかで、同地域をめぐる諸国の力関係、軍事秩序、地政学的特徴、ハルハ河・ノモンハン戦争の遠因、開戦および停戦にいたるまでのプロセス、その後の関係諸国の戦略などに焦点をあて、慎重な検討をおこないながら、総合的透視と把握をすることを目的とした。   私は8月3日にウランバートルに着いた。6月末に予約したのだが、希望日の便が取れなかった。今は、モンゴルの鉱山開発やモンゴルへの旅行などはたいへん人気があって、夏の便は3ヶ月以上前にとるべきだと言われているが、その通りだった。   日本と対照的に、モンゴルでは、新聞を読んでも、テレビのニュースを見ても、ハルハ河戦争勝利75周年と関係する報道が多く、街に出ても、「ハルハ河戦争勝利75周年記念」の幕が飾られており、国全体がお祝いムードになっていた。   8月8日の午前中に、モンゴル国立大学モンゴル研究所長J. バトイレードゥイ氏と打ち合わせをした際、急にTV2テレビ局から連絡があって、急遽車で同社に向かい、取材を受けた。同社はその日の夜と翌日の朝、2回も報道した。   9日午前、モンゴル・日本人材開発センター多目的室で第7回ウランバートル国際シンポジウムの開会式がおこなわれ、在モンゴル日本大使清水尊則氏、モンゴル国立大学長A. ガルトバヤル氏、国際モンゴル学会事務総長・モンゴル科学アカデミー会員D. トゥムルトゴー氏、モンゴル国立大学歴史学術院長P. デルゲルジャルガル氏が挨拶をした。   開会式の後、研究報告をおこなった。午前の会議では、P. デルゲルジャルガル氏が座長をつとめ、6本の論文が発表された。午後の会議では、モンゴル防衛研究所教授G. ミャグマルサンボー氏とモンゴル科学アカデミー歴史研究所教授O. バトサインハン氏が座長をつとめ、12本の論文が発表された。その後おこなったディスカッションでは、ウランバートル大学教授ダシダワー氏と私が座長をつとめた。   会議には、モンゴル、日本、中国、ロシア、ハンガリー、チェコ等の国からの研究者70人あまりが参加し、活発な議論が展開された。「最近、モンゴルの研究者は、あまりにも外国の研究者の主張に従い過ぎる」「モンゴル人研究者は独自の主張を持つべきだ」と、若手研究者の研究を批判する者がいれば、「未だ30年前の古い立場に立っている」と反論する研究者もいる。また、「モンゴル人の立場から見れば、ハルハ河戦争とはハルハとバルガの統一運動の一つの過程であった」「この統 一の運動を分断するため、ソ連と日本が同戦争をおこなった」という日本人の研究者のかんがえ方に対して、「モンゴルでは、だれもそう考えていない」と批判する声もあった。さらに、世界ハルハ河・ノモンハン戦争研究会を組織するという提案があり、全員の賛成を得た。ハルハ河・ノモンハン戦争の原因や結末、戦争の名称等をめぐって、各国の研究者のかんがえ方が大きく対立していることがしめされ、さまざまな課題はまだ残されている。   同日の夜、在モンゴル日本大使館で、同大使館と渥美国際交流財団共催の招待宴会がおこなわれ、清水大使と私が挨拶をし、一橋大学名誉教授田中克彦氏が乾杯の音頭をとった。参加者は歓談しながら、日本食を賞味した。   10日午前、参加者はジューコフ記念館を見学した。その後に行ったモンゴル軍事史博物館でも、各国の研究者の間では議論がつづき、また今後の学術交流などについても意見を交換した。午後からは、ウランバートル郊外のチンギスーン・フレーで、モンゴル国立大学モンゴル研究所主催の招待宴会がおこなわれた。   同シンポジウムについて、モンゴル国営通信社などモンゴルとロシアのテレビ局十数社が報道した。   当日の写真(フスレ撮影)   ---------------------------- <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。 ----------------------------     2014年10月8日配信
  • 2014.07.06

    金 兌希「第3回SGRAワークショップin蓼科『ひとを幸せにする科学技術とは』報告」

    渥美国際交流財団2014年度蓼科旅行・第3回SGRAワークショップin蓼科は、2014年7月4日(金)から6日(日)の週末に行われました。ワークショップでは、「『ひとを幸せにする科学技術』とは」をテーマに、講演やグループディスカッションなどが行われました。   7月4日の早朝、現役・元渥美奨学生らを中心とした約40人の参加者は新宿センタービルに集合し、貸切バスで蓼科高原チェルトの森へ向かいました。旅路の途中、SUWAガラスの里ではガラス工芸品の鑑賞を、諏訪大社上社本宮ではお参りをしました。渋滞に巻き込まれることもなく、予定通り16時過ぎにはチェルトの森にある蓼科フォーラムに到着しました。チェルトの森の自然は素晴らしく、空気がとても澄んでいて、自然に心と体が休まっていくのを感じました。   夕食後、オリエンテーションとアイスブレーキングが行われました。アイスブレーキングでは、それぞれの趣味や家族構成などの簡単な紹介から、自分のこれまでの人生のモチベーショングラフを作成し説明し合うなど、短いながらも密度の濃い交流時間を持ちました。普段の会話では話すことがあまりないような、それぞれの人生や価値観などについても垣間見ることができるような時間でした。   7月5日、朝から本格的なワークショップが開催されました。ワークショップは、大きく分けて、講演とグループディスカッションで構成されました。   最初に、立命館大学名誉教授のモンテ・カセム先生による講演、「次世代のダ・ヴィンチを目指せ―地球規模の諸問題を克服するための科学技術イノベーションに向けて―」が行われました。カセム先生は、専門も多岐に亘るだけでなく、大学や国連など、様々な領域で活躍されてきた経歴をお持ちで、講演内容にも多くのメッセージが含まれていました。その中でも、先生が強調されたのは、学際的なコミュニティーで行われる「共同」作業が生み出すイノベーションが持ち得る大きな可能性でした。先生は、そのような共同作業が生み出す、新たなものを創造していくエネルギーを、ルネサンスを築いたダ・ヴィンチに見たて、現代の諸問題を克服していくために有用に活用すべきだと力説されました。講演の中では、その実例として、カセム先生自身の京都とスリランカのお茶プロジェクトの取り組みについての紹介などがありました。さらに、そのようなイノベーションを達成するには、個々人の専門をしっかりと持つこと、そしてネットワーク、コミュニケーション等が重要であると説明されました。講義の後には、活発な質疑応答も行われ、講演に対する高い関心が窺われました。   午後のワークショップは、参加者を6つのグループに分けて進められました。最初に、いくつかの代表的な科学技術を象徴する製品の落札ゲームが行われました。各グループには、仮想のお金が与えられ、その中で自分たちが欲しいと思う製品に呼び値を付け、落札するというものです。その過程で、なぜその製品(科学技術)が重要であるのか、各グループで議論し考える時間が持てました。   次に行ったのは、グループディスカッションでした。全てのグループに、人が幸せになるためのイノベイティブな科学製品を考案するという課題が出されました。グループごとに人の幸せとは何なのか、その幸せを促進できる科学技術はどのようなものなのか、議論が行われ、模造紙に科学製品を描いてまとめる作業をしました。   7月6日の最終日には、各グループが考案した製品を発表する時間を持ちました。それぞれのチームから、とてもユニークなアイディア製品が紹介されました。具体的には、瞬時に言語に関係なくコミュニケーションを可能にするノートパッド、インターネットを利用した全世界医療ネットワークシステム、人型お助けロボット(オトモ)、健康管理から睡眠時間を効率的に調節できるなどの機能を持った多機能カプセルベッド(ダビンチベッド)、地域コミュニティー再生のための技術などが提案されました。各チームが考案した製品は、医療格差、介護、社会の分断化など、現代社会が直面している諸問題を反映し、それに対するユニークな解決策を提示していました。   各グル―プが発表を行った後は、エコ、利潤性、夢がある、の3つの基準をもとに、参加者全員による評価が行われました。その中で、総合的に最も高い評価を得たものが、コミュニティー再生のための科学技術を提案したグループでした。このグループは、希薄化されている地域コミュニティーの再生こそが人の幸せに繋がると考え、個人の利便性ばかり追求するのではなく、コミュニティーの再生に目を向けるべきだという主張を行いました。科学技術そのものよりも、地域コミュニティーの再生を謳ったグループが最も多くの支持を得たことは、とても興味深い結果でした。参加者の多くが、コミュニティーの喪失を現代における大きな問題点だと認識しているということがわかりました。   最後に、全員が一人ずつ感想を述べる時間を持ちました。参加者からは、多様な専門分野や背景を持った人々との議論が面白く、勉強になったという意見が多く挙がりました。個人が各々の専門をしっかりと持ちながら、学際的なコミュニティーの中で問題の解決に取り組むときこそイノベイティブなことができるという、カセム先生の講演を今一度考えさせられました。   ワークショップを終えた後は、ブッフェ形式の昼食をとり、帰路につきました。帰路の途中に、蓼科自由農園で買い物をし、予定通り19:00頃には新宿駅に着きました。   今回のワークショップは、全ての参加者が積極的に参加できるような細かなプログラムが用意されていたため、短時間で参加者同士の密接なコミュニケーションを図ることができました。また、蓼科チェルトの森の素晴らしい自然も参加者の心をより開放する一助となりました。今回のワークショップでできたコミュニティーやその経験は、今後の学際的な、そしてイノベイティブな活動を行うエネルギーへと繋がっていくことと思います。   ワークショップの写真   ------------------------------------ <金兌希(きむ・てひ)Taehee Kim> 政治過程論、政治意識論専攻。延世大学外交政治学科卒業、慶應義塾大学にて修士号を取得し、同大学後期博士課程在学中。2014年度渥美財団奨学生。政治システムや政治環境などの要因が市民の民主主義に対する意識、政治参加に与える影響について博士論文を執筆中 ------------------------------------     2014年9月24日配信
  • 2014.06.14

    梁 蘊嫻「第4回日台アジア未来フォーラム「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―文学・思想・言語―報告(その3)」

    2014年6月14日の会議は元智大学で開催された。開会式では、元智大学通識中心・劉阿栄主任が本学を代表して、ご来場の皆様を歓迎した。大衆教育基金会の簡明仁董事長もわざわざ駆けつけてくださった。簡董事長のご尊父は1920年代の農民運動家・簡吉氏である。簡董事長は、ご父君の事蹟の整理をきっかけに、台日の歴史研究に携わった。台湾と日本との思想の交流は早くから始まり、具体例として1920年から1930年までの間、台湾の社会運動の思潮は日本の学界からの影響によるものだとの、大変印象深いご挨拶だった。続いて、今西淳子渥美国際交流財団常務理事が、元智大学とご縁を結ぶことができて嬉しいこと、簡董事長の詳しい解説に感心したこと、そして、フォーラムの今後のテーマの一つとして、日台思想交流史を取り上げたいと述べられた。   フォーラムでは、川瀬健一先生が「戦後、台湾で上映された映画―民國34(1945)年~民國38(1949)年」という題目で講演された。1945年、第二次世界大戦が終わり、世界情勢が大きく変動したが、日本敗戦直後には台湾では多くの日本映画が上映されていた。1946年4月からは上映できなくなったが、その後も日本語の映画が1947年2月頃まで上映されていた。特に、1947年に起きた二・二八事件前後の映画上映状況、及びソ連映画(1946年4月~1948年7月まで)、中国共産党の映画(1948年7月~1949年末まで)の台湾での上映状況が詳しく紹介された。当時上映されたアメリカ映画は字幕が日本語だったという興味深い現象も紹介された。このことから、世界情勢や政策が急激に変わっても、文化はすぐに変えられるものではない事実が窺えるが、その一方、政策が文化に大きな影響を与えていることもよくわかる。   閉幕式では、元智大学の王佳煌副教務長が、「今回だけではなく、元智大学は今後ともフォーラムの開催に尽力したい」と挨拶され、元智大学応用外国語学科楊薇雲主任は、「人間は歴史から学んで未来を創る。そのため、未来フォーラムで歴史を語る川瀬先生の講演は、非常に考えさせられるものがあった」と、会議を締めくくった。   午後は、大渓保健植物厨房で食事をした。名前の通り、この厨房の料理は健康によい薬膳料理である。漢方薬の鶏スープ、枸杞そうめん、紅麹のご飯、磯巾着、木耳のエキスなど、珍しい料理が次々に出された。食事の後、陶磁器の産地・鶯歌へ向かい、台華窯という陶磁器の工房を参観した。美しい芸術品がたくさん展示されていた。続いて、鶯歌の古い商店街を散策。ここは時間をかけて探せば、掘出物がたくさん見つかる楽しい町である。皆、鶯歌を満喫した。   今回のフォーラムのプログラムはバラエティに富んでおり、充実した会議であった。多国籍(日本、台湾、韓国、スウェーデンなど)、かつ多領域の学者や専門家162名の参加を得て、大盛況であった。各領域の研究の交流、国際交流を促進し、また、学術研究を深め、広めることができ、大成功であった。   フォーラムを無事に開催することができたのは、数多くの団体が協力してくださったおかげである。特筆すべきは、台湾の政府機関・科技部からの助成をいただいたことで、これは台日の交流においては非常に有意義なことである。公益財団法人交流協会からも助成をいただき光栄であった。中鹿営造(股)からは今回も多大なるご支援をいただいた。そして、例年どおり、台湾日本人会にご協力いただき、多くの日系企業(ケミカルグラウト、全日本空輸(ANA)、台湾住友商事、みずほ銀行台北支店など)からの協賛をいただいた。学術団体では、台湾大学、台湾日本研究学会などから経験や資源を提供していただいた。また、財団法人大衆教育基金会、財団法人中日文教基金会から支援していただき、台湾の公益法人との交流が一歩前進したといえよう。ご支援、ご協力いただいた台日の各団体に心からの感謝を申し上げたい。   <関連リンク>   梁 蘊嫻「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―文学・思想・言語―(その1)」   梁 蘊嫻「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―文学・思想・言語―(その2)」   ----------------------------------- <梁蘊嫻(リョウ・ウンカン)Liang Yun-hsien> 2010年10月東京大学大学院総合文化研究科博士号取得。博士論文のテーマは「江戸文学における『三国志演義の受容』-義概念及び挿絵の世界を中心に―」である。現在、元智大学応用外国語学科の助理教授を務めている。 -----------------------------------     2014年9月17日配信
  • 2014.06.13

    梁 蘊嫻「第4回日台アジア未来フォーラム「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―文学・思想・言語―」報告(その2)」

    第4回日台アジア未来フォーラム報告(その1)   午後の研究発表は、「古典書籍としてのメディア」「メディアによる女性の表象」「メディアと言語学習」「メディアとイメージの形成」「文学作品としてのメディア」「メディアによる文化の伝播」という6つのセッションで行われた。   フォーラムに先立ち、世界中の研究者や専門家を対象に論文を公募した。応募数は予想より多く、大変な盛況であった。国籍から見ても、台湾、日本、韓国、スウェーデンなどがあって、まさにグローバルな会合であった。発表題目も古典研究から近現代研究まで、そしてオーソドックスな研究から実験的な研究までさまざまである。紙幅の都合上、すべての発表は紹介することができないが、いくつか例を挙げておこう。   (1)「日本古典籍のトランスナショナル―国立台湾大学図書館特蔵組の試み―」(亀井森・鹿児島大学准教授)は、地道な書誌調査で、デジタルでの越境ではなく古典籍のトランスナショナルという観点から文化の交流を考える。 (2)「草双紙を通って大衆化する異文化のエキゾチシズム」(康志賢・韓国全南大学校教授)は、草双紙を通して、江戸時代の異文化交流の実態を究明する。 (3)「なぜ傷ついた日本人は北へ向かうのか?-メディアが形成した東北日本のイメージと東日本大震災-」(山本陽史・山形大学教授)は、日本文化における東北地方のイメージの形成と変容を和歌・俳諧・小説・流行歌・映画・演劇・テレビなどの文学・芸術作品を題材にしつつ、東日本大震災を経験した現在、メディアが越境することによっていかに変化していくのかを研究する。 (4)「発信する崔承喜の「舞踊写真」、越境する日本帝国文化―戦前における崔承喜の「舞踊写真」を手がかりに―」(李賢晙・小樽商科大学准教授)は、崔承喜の舞踊写真が帝国文化を宣伝するものであると提示し、またこれらの写真の持つ意味合いを追究する。 (5)「The Documentary film in Imperial Japan, before the 1937 China Incident」(ノルドストロム・ヨハン・早稲田大学博士課程)は、日中戦争期、ドキュメンタリー映画がいかにプロパガンダの材料として使われていたかを論じる。 (6)「Ex-formation Seoul Tokyoにおける日韓の都市表現分析」(朴炫貞・映像作家)は、情報を伝えるinformationに対して、Ex-formationという概念を提出したデザイン教育論である。ソウルの学生はソウルを、東京の学生は東京をエクスフォメーションすることで、見慣れている自分が住む都市を改めてみることを試みた。 (7)「溝口健二『雨月物語』と上田秋成『雨月物語』の比較研究」(梁蘊嫻・元智大学助理教授)は、映画と文学のはざまを論じる。 (8)「漢字字形の知識と選択—台湾日本語学習者の場合―」(高田智和氏・日本国立国語研究所准教授)及び「漢字メディアと日本語学習」(林立萍氏・台湾大学准教授)は、東アジアに共通した漢字学習の問題を取り上げる。 (9)「日本映画の台湾輸出の実態と双方の交流活動について」(蔡宜靜・康寧大学准教授)は、日本と台湾の交流に着目する。   発表題目は以上のとおり、実にバラエティに富んでいた。それだけでなく、コメンテーターもさまざまな分野の専門家、たとえば、日本語文学文化専攻、建築学、政治思想学などの研究者が勢揃いした。各領域の専門家が活発に意見を交換し、実に学際的な会議であった。今回、従来の日本語文学会研究分野の枠組みを破って、メディアという共通テーマによって各分野の研究を繋げることができたのは、画期的な成果であるといえよう。   研究発表会の後、フォーラムの締めくくりとして座談会が行われた。今西淳子常務理事が座長を務め、講演者の3名の先生方(延広真治先生、横山詔一先生、佐藤卓己先生)と台湾大学の3名の先生方(陳明姿先生、徐興慶先生、辻本雅史先生)がパネリストとして出席した。   まず、今西理事が、フォーラムの全体について総括的なコメントをし、そして基調講演について感想を述べた。延広先生の講演については、寅さんが大好きな韓国人奨学生のエピソードを例に挙げながら、「男はつらいよ」にトランスナショナルな魅力があるのは、歴史のバックグランドや深さがあるからだと感想を述べた。また、横山詔一先生の講演については、今後、日本人や台湾人における異体字の好みをデーター処理していけば、面白い問題を発見できるかもしれないとコメントした。そして、佐藤卓己先生の講演については、ラジオの普及がきっかけで、「輿論」と「世論」の意味は変わっていったが、インターネットがますます発達した今日における「輿論」と「世論」の行方を観察していきたいと話した。   質疑応答の時間に、フロアから、中央研究員の副研究員・林泉忠氏から、「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流」というフォーラムを台湾で開催するに当たって、台湾の役割とは何か、という鋭い質問があった。この質問はより議論を活発にした。   台湾大学の辻本雅史先生は準備委員会の立場から、フォーラムの趣旨について語った。「メディア」を主題にすれば、いろいろな研究をフォローできるからこのテーマを薦めたという企画当初の状況を話した。しかしその一方、果たして発表者が全体のテーマをどれだけ意識してくれるのかと心配していたことも打明けた。結果的には、発表者が皆「メディア」を取り入れていることから、既存の学問領域、すなわち大学の学科に分類されるような枠を超えて、横断的に議論する場が徐々に作られていったことを実感したと述べた。最後に、林泉忠氏の質問に対しては、台湾はあらゆる近代史の問題にかかわっているため、「トランスナショナルな文化の伝播・交流」を考えるのに、絶好の位置にあると説明し、知を伝達する一つの拠点として、「メディアとしての台湾」というテーマは成り立つのではないかと先見の目も持って提案した。   陳明姿先生は、いかに異なった分野の研究者を集め、有効的に交流させるか、というのがこのフォーラムの目的であり、また、それによって、台湾の研究者と大学院生たちに新たな刺激を与えることが、台湾でシンポジウムを開催する意義になると指摘した。   「台湾ならでは」について、今西理事も、台湾の特徴といえば、まず日本語能力に感心する。これだけの規模のシンポジウムを日本語でできるというのは、台湾以外はない。日本はもっと台湾を大事にしなければならない。また、SGRAは学際的な研究を目指しているが、それを実現するのは非常に難しい。しかし、台湾大学の先生方はいつも一緒に真剣に考えてくださる。こうして応えてくださるというダイナミズムがまた台湾らしい、との感想を述べた。   最後に、徐興慶先生がこれまでの議論を次のように総括した。①若手研究者の育成立場から、19本の発表の中に院生の発表が4本あったというのは嬉しい。②20年間で241名の奨学生を育てた渥美財団は非常に先見の明がある。育成した奨学生たちの力添えがあったからこそ、去年タイのバンコクで開かれたアジア未来会議のような大規模の海外会合を開催することができた。また、若い研究者の課題を未来という大きなテーマで結び付けた渥美財団のネットワークができつつあることに感銘を受けている。③学際的な研究を推進する渥美財団の方針に同感であり、台湾大学でも人文科学と社会科学との対話を進めている。④この十数年間、台湾の特色ある日本研究を模索しながら考えてきたが、その成果として、これまで計14冊の『日本学叢書』を出版することができた。台湾でしか取り上げられない課題があるが、台湾はそういう議論の場を提供する役割がある。徐先生は、台湾の日本学研究への強い使命感を示して、座談会を締めくくった。   同日夜、台湾大学の近くにあるレストラン水源会館で懇親会が開催された。参加者60名を超える大盛況で、皆、美食と美禄を堪能しながら、歓談した。司会を務めた張桂娥さん(東呉大学助理教授)は、抜群のユーモアのセンスで、会場の雰囲気を一段と盛り上げた。その調子に乗って、山本陽史先生は「津軽海峡冬景色」を熱唱し、引き続き川瀬健一先生も台湾民謡「雨夜花」をハーモニカで演奏した。最後に、フォーラムの企画者である私が皆様に感謝の言葉を申し上げ、一日目のプログラムは円満に終了した。   ----------------------------------- <梁蘊嫻(リョウ・ウンカン)Liang Yun-hsien> 2010年10月東京大学大学院総合文化研究科博士号取得。博士論文のテーマは「江戸文学における『三国志演義の受容』-義概念及び挿絵の世界を中心に―」である。現在、元智大学応用外国語学科の助理教授を務めている。 -----------------------------------     2014年8月20日配信
  • 2014.03.12

    金 雄熙「第13回日韓アジア未来フォーラム『ポスト成長時代における日韓の課題と東アジア協力』報告」

    2014年2月15日(土)、高麗大学の現代自動車経営館で第13回日韓アジア未来フォーラムが開催された。今回は「ポスト成長時代における日韓の課題と東アジア協力」というテーマで行われたが、今後5年間のプロジェクトの初年度として、いくつかのテーマを総合的に検討した。   日本は、地震をはじめ自然災害への対策、鉄道システム、経済発展と環境負荷軽減及び省エネルギーの両立、少子高齢化への対処など、多くの分野において関連する経験や技術の蓄積、優位性を有している。一方、いまや日本以上に課題先進国といわれるようになった韓国の経験や悩みもまた、東アジア地域における将来の発展や地域協力の在り方に貴重な手掛かりを提供する。今回のフォーラムは、日本と韓国の経験やノウハウを生かした社会インフラシステムを、東アジア地域及び他国へ展開する場合、何をどのように展開できるか、そして東アジアにおける地域協力、平和と繁栄においてもつ意義は何なのかについて探ってみる場となった。   フォーラムでは、未来人力研究院理事長の李鎮奎教授による開会の挨拶と、今西淳子SGRA代表の挨拶に続き、4人の研究者による発表が行われた。基調講演で東京財団の染野憲治氏は、北東アジアの気候変動対策と大気汚染防止に向けて、今後のエネルギー計画の明確な将来像を描きにくい状況下において、日中韓の専門家、市民運動家は比較検討を通じて相互に客観的な理解を深め、適切な対応策を探ることが求められていると提言した。次に韓国国防大学校安全保障大学院の朴栄濬教授が、北極海をめぐって新しい協力の可能性が芽生えていることに注目し、北極海をめぐる関連諸国の政策を検討した上で、日中韓相互協力の可能性を検討した。そして北陸大学未来創造学部の李鋼哲教授は、北東アジアの多国間地域開発と物流拠点としての図們江地域開発が、近年どのように変貌しているのかについて報告を行った。最後の国民大学の李元徳教授は、日韓が協力して東アジア地域及び他国へ展開する場合、何をどのように展開できるか、そして新時代における日韓両国の協力が東アジアの平和と繁栄にもつ意義について持論を展開した。   コーヒー・ブレークを挟んで東京大学の木宮正史教授、韓国交通研究院北韓・東北亜交通研究室の安秉民室長、内山清行日本経済新聞ソウル支局長、李奇泰延世大学研究教授、李恩民桜美林大学リベラルアーツ学群教授らによる活発な討論が続いた。課題先進国日本、そして日本以上に課題や悩みを抱えている韓国が課題と悩みを共有しながら、これからいかにアジアへ国際公共財を提供していくか、これこそが課題ではないかとの意見が多かったように思われる。   特筆すべきは、2年前の第11回フォーラムも高麗大学LGポスコ経営館で行われたが、今回も同大学の現代自動車経営館で開催されたことである。高麗大学の経営学部だけで2つの立派な独立した建物をもっているわけであるが、とりわけ現代自動車経営館は李鎮奎理事長が学部長(兼経営専門大学院長)在任中に現代自動車からの寄付金で建てられたそうである。この点は、李先生が繰り返し強調されたことなので、この場を借りて改めて取り上げておく。「首都圏地方大学」(首都圏に所在しながらも地方大学のように経営環境がよくない大学のこと?)の教員の私からすると、うらやましいどころか唖然とするぐらいの施設である。「富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなる」という「富益富、貧益貧」が大学社会でも当てはまることを実感した。   私が学生の頃から、いや大昔から、高麗大学は民族精神に徹した大学というイメージが強かった。その「民族高大」で日本語のみでの学術会議が開催されたことも特筆すべきであろう。「民族高大」で日本語のみでのフォーラムを行っても全く違和感がない理由はいくつかあるように思われる。一つは今は高麗大学が「グローバル高大」を目指しているからであり、もう一つはもっぱらフォーラム運営上の予算節約のためとの説である。さらに主催側の戦略的な試みという解釈もできるが、この点については更なる検討が必要であろう。いずれにしても、私は高麗大学出身ではないので、高麗大学の宣伝になることはこのぐらいにしておこう。   この他にも今回のフォーラムは、いくつかの点で印象に残る会議であった。フォーラムに大学や研究機関の研究者のみならず、現場で日韓両国の課題や悩みを肌で感じるマスコミや政府関係者も加わり、多様な立場から立体的に検討することの持つ意義について実感できたことも評価すべき点ではないかと思われる。また、今回のフォーラムが非公開で行われたにもかかわらず、3名の方から問い合わせがあり、参加に至ったことは、これからのフォーラム運営に活力を与えると思われる。なお、今回は渥美理事長にもご参加いただき、フォーラム終了後懇親会が終わるまで長時間にわたってお付き合いいただいたことも力強い励ましとなった。公式乾杯酒の「春鹿」の「任務完了」、そして入り混じったラブショットも楽しいものであった。   これから「ポスト成長時代における日韓の課題と東アジア協力」について、実りのある日韓アジア未来フォーラムを進めていくためには、総論的な検討にとどまらず、各論において掘り下げた検討を重ねていかなければならない。次回のフォーラムの開催に当たっては、このような点に重きを置きつつ、研究者でもある自分の責務として重く受け止めつつ、着実に進めていきたい。最後に日韓アジア未来フォーラムがガバナンスの安定性、そして懇親会での乱れという本来の姿を取り戻したことを自ら祝いながら、第13回目のフォーラムが成功裏に終わるよう支援を惜しまなかった李先生と今西代表に改めて感謝の意を表したい。   当日の写真   -------------------------------- <金雄煕(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> 89年ソウル大学外交学科卒業。94年筑波大学大学院国際政治経済学研究科修士、98年博士。博士論文「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。99年より韓国電子通信研究員専任研究員。00年より韓国仁荷大学国際通商学部専任講師、06年より副教授、11年より教授。SGRA研究員。代表著作に、『東アジアにおける政策の移転と拡散』共著、社会評論、2012;『現代日本政治の理解』共著、韓国放送通信大学出版部、2013;「新しい東アジア物流ルート開発のための日本の国家戦略」『日本研究論叢』第34号、2011。最近は国際開発協力に興味をもっており、東アジアにおいて日韓が協力していかに国際公共財を提供するかについて研究を進めている。 --------------------------------     2014年3月12日配信