SGRAかわらばん

  • 2024.05.16

    エッセイ765:李貞善「世界遺産の時間は悠々と流れる」

    「皆さん、この中で世界遺産はどれでしょう。当ててみてください。」 2024年4月13日(土)、世界遺産検定マイスターを対象にした公式認定研修に参加した。日本のNPO法人世界遺産アカデミーが主催する検定試験である。   東京大学大学院の研究生として入学試験の準備をしていた2015年夏、研究と関連があると思い、真剣な気持ち半分、好奇心半分で世界遺産検定2級と3級資格を取得したのが発端であった。2017年には1級に合格。その勢いで、翌年は博士課程に進学するとともにマイスター試験にも挑戦した。それまで習得した理論的知識を土台に、世界遺産に関する時事的なニュースや最新の争点を中心に確認していく構成にした。大学院入試以降の久しぶりに受けた2時間の論文試験で、準備不足であった私は少し心配したが、幸いに合格できた。   研修を受けたのは、2019年以来博士論文執筆に取り組み始めたことに加え、2020年からの長いコロナ禍による中断があったからである。世界中の人々が類のない危機で苦しんでいる中、世界遺産へのアクセス自体が困難な時期もあった。文化遺産も、自然遺産も、複合遺産も人間とほとんど接触できない「アンタクト」(韓国の造語=UN+CONTACT)の時間を過ごした。立ち止まっているように感じられたあの4年間は、実は自然に順応しながらも危機と真正面から向き合う時間であった。   研修プログラムの内容は、プレゼンテーションスキルについての講義とグループワークだった。最初に講師がプレゼン方法や話すスキル、分かりやすく説明する方法などの講義を行った。その後、グループに分かれてプレゼン練習を繰り返した。4人が1つのグループになり、自己紹介の後、リーダーを選ぶように言われた。私のグループは男性3人と女性の私。リーダーを希望する者はなく、じゃんけんで勝った人がリーダーになることにした。今までじゃんけんで勝ったことはないので安心していたが、なぜかその日は優勝を勝ち取ったのは私で、リーダーになってしまった。   各グループは世界遺産検定の3級ガイダンスを聞いた後、講義の練習をした。秘密の封筒が配布され、中には世界遺産に関する知識のテーマが入っていた。3分程度でプレゼンができる分量のスライドも同封されていた。最後に各グループの代表が前に出て、3分にまとめた模擬講義を担当した。メンバー全員の指名により私が発表をすることになった。その後、講師によるフィードバックと意見交換が行われた。最後に参加者たちに公式認定証が交付され、ひとりずつ写真撮影して認定研修は終了した。これを以て、私は外国人としては初めての日本の世界遺産検定マイスターとともに認定講師になった。   研修を受けながら、これまで身につけてきた世界遺産に関する想念が頭をよぎった。それまでしばらくの間立ち止まっていたような私の世界遺産の時間が、この研修を機に再び流れ始めた。世界遺産とは、人類にとって「顕著な普遍的価値」を有する文化遺産や自然遺産、複合遺産などの不動産であり、1972年に成立した世界遺産条約に基づいて世界遺産リストに登録された物件である。「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」の構成資産として世界遺産として登録されている上野の国立西洋美術館のように、国境を超える「トランスバウンダリー・サイト」も少なくない。世界遺産は、登録前もその後も、国や自治体レベルの持続的な管理と保全、また必要に応じて適切な修復を要する。時間の経過による劣化や破壊などの変化への対応、つまり「時間とどう向き合っていくのか」が肝心なのである。   世界遺産公式講師になった私は、4月付けで東京大学大学院人文社会系研究科附属次世代人文学開発センターに特任助教として赴任した。9年前から私の日本留学生活を共にしてきた世界遺産は、研究者として成長させるとともにコロナ禍を乗り越えるためのレジリエンスを鍛えてくれた。ウィズコロナ禍であろうが、ポストコロナ禍であろうが、平和の時代であろうが、戦争中であろうが、どのご時世であっても変化へ対応していく世界遺産のように、自然に順応しながらも危機と真正面から向き合うことが重要であろう。これからも世界遺産と関わりながら研究を続けていきたい。世界遺産の時間も、私の時間も、そしてこの世の時間も悠々と流れている。   世界遺産アカデミーのインタビュー記事   <李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun> 東京大学大学院人文社会系研究科附属次世代人文学開発センターの特任助教。2021年度渥美奨学生として2023年2月に東京大学で博士号取得。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2022年国際軍史事学会・新進研究者賞等、様々な研究賞受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスター取得後、公式講師としても活動。     2024年5月16日配信  
  • 2024.05.09

    エッセイ764:モハッメド アキル シェッダーディ「外国人住民の参政権について」

    7年以上日本に住んでいる外国人として、私はこの国でいつも歓迎され、尊重されてきました。大学院で研究するために来日、その後大学で講師として働くようになりました。大人の人生の半分以上を日本で過ごし、日本国民と同じように税金や年金保険料、健康保険料を支払い、さまざまな形で社会に貢献しています。日本とその文化が大好きで、日本を第二の故郷と考えています。   しかし、一つだけ気になることがあります。それは、どの選挙にも投票する権利がないことです。自分の生活や地域に影響を与える政策や決定について、何の発言権も持っていないということです。コロナ禍で日本が半年間、外国人居住者を含めて国境を閉鎖したとき、外国人は政策決定において考慮されなかったと実感しました。日本国民と同じ程度に社会に貢献しているにもかかわらず、まだ二等市民と見なされているのだと感じました。投票権がないということは、自分のような外国人居住者にとって重要な問題を解決することができないし、私の利益を代表する指導者を選ぶことができないということです。   これは不公平であり、民主的ではないと思います。外国人住民は単なる訪問者や客ではありません、永続的または長期的にここに住む社会の一員です。外国人住民は権利と責任を持ち、コミュニティーにおいても代表となり、未来を形づくる政治プロセスに参加することができるべきです。   この意見は私だけのものではありません。多くの外国人住民が同じように投票権を求めています。多くの日本国民もこの考えを支持しており、多様性と包摂のメリットを認識しています。一部の地方自治体は外国人住民に地方選挙や住民投票での投票権を与えようと試みましたが、法的・政治的な障害に直面しました。現在、地方住民投票で一部の投票権を認めている自治体は1,718市町村(東京都区部を除く)のうち42しかありません。   例えば、東京の武蔵野市は2021年、外国人住民に地方選での投票権を認める条例案を提案しました。しかし、市議会は、「外国人に国家安全保障問題に関する発言権を与えると、日本の主権を損なう恐れがある」と主張する一部の保守派の反対により、この提案を否決しました。日本は労働力不足に対処するために今後ますます外国人労働者が必要な状況であるのに、このような反対は「同質的な国家」のイメージを強め、社会の多様性と活性化の議論をすること自体を抑圧してしまいます。   先日、統一地方選挙の運動期間中に、郵便箱に「外国人参政権に反対」ということを中心的なスローガンとして掲げた候補者の選挙チラシが届きました。候補者は、「外国人住民に投票権を与えることは、国益に反する可能性」があり、「日本の安全が危ぶまれる」と主張していました。しかし、この主張は根拠のない誤りです。まず、地方選挙や住民投票は、国家安全保障や外交政策ではなく、教育、医療、環境、交通、公共サービスなどの地域の問題に関するものです。これらは、国籍に関係なく、その地域に住むすべての人に影響する問題です。   外国人住民に地方選挙での投票権を認めることは、彼らに市民権や二重国籍を与えることを意味しません。外国人住民は引き続き日本の法律に従い、日本の価値観を尊重しなければなりません。彼らが元の国籍やアイデンティティーを失うことではありません。単に所属感や参加感という新しい次元を得るだけです。   また、外国人参政権を認めることは、日本国民よりも不公平な優位性や特権を与えることを意味しません。外国人住民は引き続き一定の基準や条件を満たさなければなりません。有効な在留資格を持ち、一定期間地域に居住し、有権者として登録すると、日本人有権者と同じ規則や手続きに従わなければなりません。   したがって、外国人住民に地方選挙での投票権を与えることは可能であり、望ましいことです。それは日本の民主主義と多様性を高めるとともに、社会的な結束と統合を促進し、相互理解と尊重を育み、市民的な参加と責任を奨励し、すべての人々の生活の質を向上させるでしょう。日本は今のところ外国人住民に参政権を与えず、二重国籍も認めない数少ない先進国ですが、外国人住民の地方政治への参加の価値を認めた他の国々のように、状況を変えるべき時が来ていると思います。   日本を愛し、その発展に貢献したいと思う外国人住民として、いつか自分の票を投じて自分の声を届けたいと願っています。この社会の真の一員として自分の投票権を行使できるようになることを望んでいます。   <モハッメド アキル シェッダーディ Mohammed Aqil CHEDDADI> モロッコ出身。モロッコ国立建築学校卒業。慶應義塾大学政策・メディア研究科環境デザイン・ガバナンス専攻修士号取得・博士課程在学中。同大学総合政策学部訪問講師。2022年渥美奨学生。     2024年5月9日配信
  • 2024.05.02

    エッセイ763:謝志海「釜山で東アジアの国際関係の歴史を考える」

    春休みに同僚の先生方と韓国・釜山へフィールド調査に行った。専門分野が違う5人がそれぞれの視点から釜山の町を観察して歩いたが、私にとっては自分の専門である国際関係の歴史について深く考える機会となった。   調査に行く前に、「国際市場で逢いましょう」という映画を観た。ほぼ実話に基づいた内容だという。朝鮮戦争で父親と妹と別れた主人公が、長男として母親を支え、兄弟の面倒を見ながら別れた家族を探し続ける話だった。おじいさんになっても、頑固に釜山の国際市場にある古い店を守り続けたのは、父親と別れた際にその店で再会しようと約束したからだ。   この家族に限らず、朝鮮戦争で離散を余儀なくされた人々は国際市場にある「40階段」というところで待ち合わせることを約束したという。今回はその映画の舞台となった釜山の国際市場を訪れ、実際その階段にも登ってみた。階段には家族を座って待つ銅像があった。   戦争によって家族が引き離されてしまうことが、歴史ではなく、現在も起きていることは非常に残念だ。先日テレビ番組で見たある家族の今を思い出す。ウクライナ人の女の子はロシアの侵攻の後、母親と一緒に来日し、日本の高校に通い、都内の大学に合格した。父親は祖国に残り戦争支援のために働いている。戦争により、家族にとっての日常が一瞬にして非日常的になるのは昔も今も同じだ。   釜山にある国連墓地も訪問した。朝鮮戦争に参戦した米軍をはじめとする国連軍の犠牲者を慰霊する場所だ。現地のパンフレットには、朝鮮半島の平和と自由を守るために戦ったと書いてあるが、中国と北朝鮮側から見たら、自分たちのほうが正義だと考えるだろう。実際、北朝鮮には中国志願軍の墓地もあり、昨年7月には朝鮮戦争休戦70周年を記念するため、金正恩総書記が訪問した。ロシアと中国の代表団も記念行事に参加。戦争の記憶は第二次世界大戦だけでなく、その後の朝鮮戦争をめぐっても参戦国の認識がかなり違うことを実感した。   近現代史博物館には日本植民地支配時代の韓国の歴史が紹介されていた。釜山は最初に支配された都市だった。中でも釜山の鉄道はなかなか興味深く、1900年代、日本の実業家で新一万円札の「顔」にもなる渋沢栄一らがソウルから釜山までの京釜鉄道を建設した。今回の調査とは関係なくたまたま読んでいた「鉄道と愛国」(吉岡桂子著、岩波書店、2023年7月)という本にも、まさに京釜鉄道はかつての植民地支配の道具でもあったと記されていたが、釜山の博物館でその歴史の痕跡を確かめることができた。   先述の映画では、韓国がベトナム戦争に巻き込まれていたことも描かれた。主人公は父親と約束した待ち合わせ場所の店を守るためのお金を稼ぐべく、ベトナム戦争の機械兵を志願して、現地で片足をけがしてしまった。韓国はベトナム戦争で米国に協力した。一方、北朝鮮は、北ベトナムを支援した。   ロシア研究の専門家によると、今回のロシア対ウクライナ戦争では、武器提供において北朝鮮V.S.韓国の構図が見えている。北朝鮮はロシアに武器支援をし、韓国が北大西洋条約機構(NATO)に輸出している武器は、ウクライナ支援に充てられている。戦争をめぐって、北と南の対立の構図は冷戦時代から変わっていない。   一緒に釜山へ行った日本人の先生が言うように、日本では戦争とは1945年で終わったものというイメージが強いが、実際には第二次世界大戦から時をあけずに朝鮮戦争が始まり、さらにベトナム戦争、そして今に至るまで、戦争は世界でひっきりなしに続いている。このことをもっとたくさんの人々に認識してもらいたい。幸いにも、今の東アジアは時に緊張はあれど戦争はなく、平和な状態が続いている。東アジアの平和を願いながら、ロシアとウクライナの戦争もガザでの中東戦争も一日も早く終わるように祈る。   <謝志海(しゃ・しかい)XIE_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師、准教授を経て、2023年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2024年5月2日配信
  • 2024.04.11

    エッセイ762:森崇人「真理の探究」

    私の研究は高エネルギー理論物理学、物性理論、量子情報理論の境界領域である。在学中は興味本位でこれら様々な分野から「量子もつれ」と呼ばれるミクロ特有の相関を調べていたため、博士論文の研究を一つの大きなストーリーにまとめるのが難しかった。そこで研究の原点に立ち戻る必要があった。このような振り返りは研究中にはあまりしないので、何を行ってきて、何を目指していたのか、そしてどこまで進んだのか再確認するには非常に有用であった。エッセイでは、私が何を目指して博士課程の間に研究をしたのか、そして在学中に感じたことを書き連ねたい。   研究目標は量子重力理論の解明である。量子重力というのは非常に微視的(量子的)なスケールで顕著になる重力の揺らぎや重ね合わせなどの量子効果を調べる分野で、その理論的枠組みを明らかにすることがゴールである。それにより、宇宙の誕生やブラックホール等に存在する時空の特異点(=これまでの理論が破綻する領域)を説明する理論構築につながると考えられている。このように重力が強く、その量子効果が無視できない領域では、我々が今持っている物理的理解・数学的手法が及ばないため、何か間接的な理解の仕方が必要となる。   そこで、近年はホログラフィー原理という対応を用いて、量子重力を、重力を含まない多自由度の量子系(例えば電子など)から理解する試みがなされている。私の研究ではその立場から、量子系の量子もつれなどの情報を調べることで、量子重力を理解しようとした。解析手法には、場の理論[高エネルギー理論物理]、テンソルネットワーク[物性理論]、一般相対性理論[重力理論]などの様々な分野の手法を援用した。このように分野を俯瞰しながら、ゆくゆくは情報理論の立場から量子重力を理解したいと考えている。   宇宙の誕生や時空の構成単位に迫る研究は理論物理の興味のみならず、哲学的にも意味があると信じている。古来より、人類は自身や宇宙の起源、存在に疑問を投げかけてきた。私の研究は、これらの問いに対して一つの答えを与えるものだと考えている。これまでの研究からの私の理解は以下である。   私たちが見ている世界、実存とは、実際のところ情報の集合体である。また、私たちが認識できるような世界というのは微視的情報が粗視化されたような解像度の低い世界(この構造を階層性と呼ぶ)で、理論的には一次元低い世界の情報の束として表現できる。従って、我々の世界や我々が行う観測という行為は一次元低いハードディスクのような記憶媒体、つまり情報源から、ホログラムのように情報を読み出す再生装置のようなものだと思われる。   では、私たちの上位存在である記憶媒体のことを我々は知り得るのだろうか。これは近年の量子コンピュータの発展とも無関係ではない。量子コンピュータ―は古典コンピュータ―より速いかもしれないと言われているが、果たして演算される入力と出力自体は量子性を認識できるのだろうか。我々が処理される情報のようなものであるなら、このような具体化はあながち間違いではないかもしれない。このように、理論物理は哲学とも深く結びついていて、自分とは何者か問いかけられる良い手法だと思う。   私が続けてきた学際的な研究は近年、急速に進んでいる。特に理論物理と情報理論の親和性は高く、これまでにない速度とレベルで研究交流がなされている。例えば、量子重力と量子情報や、物性理論と量子情報、非平衡熱力学と情報幾何学などがある。しかし、その一方で、どちらにも精通して分野を俯瞰しながら、新しい研究分野を創成することができるような成果はまだ少なく思える。もちろん一つの分野を極めて、そこからじわじわ境界領域を攻めていく方法は間違いではないし、むしろ強みがあった方が良い(自分はおろそかにしがちなので、この文章を書きながら自らに言い聞かせている)。   しかし、様々な分野を平等に攻めたからこそ、より根幹をなす普遍的な問題に気づけるのではないだろうか。そのような問題意識で量子重力・量子情報・物性理論・高エネルギー理論物理学の幅広い分野で研究を推し進めてきた。特に私の主な分野である量子重力分野に顕著だが、曖昧で弱い根拠の上に様々な論を組み立てるものがある。これ自体はインスピレーションの源泉にもなりうるし、実際多くの研究がなされた結果、元のアイデアがより厳密に示されたりするので、良い側面はある。   しかし、実際は驚くほど地に足をつけて議論できていないこともある。例えば、ある分野の研究対象Aと別の分野の研究対象Bの間に類似性がある。「A=B」とすればAかBのいずれかを調べることで両分野の進展につながる。しかし、「A=B」というのは仮定であり、それは検証されるべき前提条件である。残念ながらその緻密な検証作業がおろそかになっている側面は否めない。これは近年の競争原理の高まりによる論文至上主義(はやりの分野で、たくさん論文を書けば良い)の弊害だろうか。私もそのあおりを受けざるを得ないのだが、それでも地に足をつけながらバイアスを排除して真実を見落とさないように注意深く、じっくり研究していきたいと思っている。   これからは京都大学、そしてカナダのペリメータ理論物理学研究所で研究員として研究を続けていくことになるが、より一層様々な分野の人々と協力しながら真理の探究をしていきたい。   <森崇人(もり・たかと)MORI Takato> 2024年10月~:京都大学特定研究員(学振PD)、2024年6月~:ペリメータ理論物理学研究所研究員、2024年4月~9月:日本学術振興会特別研究員PD(京都大学基礎物理学研究所)、2023月3月:総合研究大学院大学高エネルギー加速器科学研究科素粒子原子核専攻5年一貫博士課程修了、2022年度渥美奨学生。     2024年4月11日配信
  • 2024.03.28

    エッセイ761:モハッラミプール・ザヘラ「文化の狭間に生きること」

    飛行機から降りると、カラッとした懐かしい空気が鼻を通る。閑散とした空港の荷物受取所に着いて辺りを見回すと、ガラス越しに手を振る父の姿が目に入った。その瞬間、ようやく故郷に帰ったという実感が湧いてきた。2022年の夏、3年半ぶりに出身地テヘランに一時帰国したのであった。日本に留学して9年が経つが、コロナ禍がやってくるまで、1年か1年半のペースで帰国していた。しかし、2020年2月に予約していたフライトがコロナの影響でキャンセルになり、それ以来日本から出られないでいた。   今回の帰国で印象に残っているのは、研究に必要な資料を入手しようと、テヘランのとある図書館を訪れた時の経験である。まず図書館に入って期限が切れていた利用証を更新し、ロッカー・ルームへ進んだが使い方が分からない。説明書きがあるはずだと思って探していたところ、突然横から聞こえた思いがけない声に驚いてしまった。   「初めてですか?」 「あ、はい…」 「あそこにある機械を使わないといけないですよ。一緒に行きましょう。やり方を教えますね」 「あ、ありがとうございます」   ロッカー・ルームにいた大学院生らしき女性に助けられた。どこにでも説明書きがあるのは、日本での常識だったと気付かされる。かばんをロッカーに入れて一息つき、検索用パソコンがあるホールに向かった。一つのパソコンを選び、検索しようとしたが、うまくいかない。周りを見渡していたところ、今度は少し離れているパソコンの前にいた女性に声をかけられた。   「使い方、大丈夫ですか」 「いや、あの…久しぶりに来たので、うまく検索できないのですが…」 「一緒にやりましょうか」 「え?いや…あの…あ…ありがとうございます」 「まずはここをクリックしてみてください」   結局その女性は、私が必要な雑誌を見つけて、利用申請するまで付き合ってくれた。その後、なんとか閲覧室にたどり着き、受付のおじさんに資料の受け取り方を尋ねたが、システムに問題があり、時間がかかるとのこと。仕方なく閲覧室にある20世紀初頭の新聞を広げて読みはじめ、時間が経つのを忘れる。受付のおじさんは待っている私を気にかけ、何度か話しかけてくれた。資料が用意された時には、1時間以上も過ぎていた。おじさんは、私を別の席に案内しこう言った。   「こんなにも待たせて申し訳ない。スマホで写真を撮るのは本当はだめだけど、今日は待たせたお詫びに、必要な個所の写真を撮ってもいいよ」 「え?…ありがとうございます」   お礼を言って、ポケットからスマホを取り出した。日本の図書館ではこれほど待たされたことはない。とはいえ、このように柔軟にルールを変更する対応を受けた記憶もない。   次の日は別の資料室に行って、資料を申し込んだ。すでにスキャンされた資料はUSBメモリに入れてくれるとのことだった。日本で使っているUSBメモリを担当者に渡したところ、彼はファイル名が漢字になっているのに気づいてこう言った。   「中国で勉強しているんですか。それとも日本ですか」 「日本です」 「本当に難しそうですね。もう全部読めるんですか」   会話は自然と数分間続いた。日本では調査先の図書館で、このような何気ない会話をする機会が少なかったことを思い出した。おそらく、図書館の担当者が研究者の個人的なファイルを目にしたとしても、それについて相手に質問することは考えられないだろう。   改めて振り返ると、日本で勉強し働くことを選択した自分は、文化の狭間に生きているように感じる。両国の文化を行き来しながらさまざまなコミュニケーションを重ね、その社会の規範に沿って「自然」に振る舞おうとするが、それが周りの人に「不自然」や「滑稽」に映る場合もある。時には、「自然」と「不自然」の境界線さえも曖昧になってくる。一時帰国をする時は、長年故郷を離れていて、もう常識が分からなくなってしまったような感覚を覚える日もあれば、一日も離れていなかったような、ずっとそこにいたかのような錯覚に陥る日もある。文化の狭間に生きることは、ぎこちなく不安定でありながらも、何度も発見を繰り返す機会を作ってくれている。   <モハッラミプール・ザヘラ Zahra MOHARRAMIPOUR> イラン出身。2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年7月、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化コース博士号取得。現在は、日本学術振興会外国人特別研究員(国立民族学博物館所属)。     2024年3月28日配信
  • 2024.03.21

    エッセイ760:尹在彦「東京の知られざる(?)基地問題」

    東京の西部、「三多摩」もしくは「多摩地区」と呼ばれる地域への第一印象は「異色」だった。2015年、最初に住み始めた小平市の風景は予想していた東京のそれとは違った。まず驚いたのは最寄り駅の線路が単線だったことだ。小平市を縦断する西武多摩湖線の風景は「郊外感」であふれていた。多摩地区出身の何人かの方から「都内に行く」と言われた時には違和感を覚えた。厳然たる「東京都内」なのに23区と呼び分けていたからだ。   私の生活圏である東京都立川市は近年「多摩地区の王者」とも呼ばれる。より田園風景の印象の強い八王子市からその座を譲り受けつつあるという。実際に、新しい商業施設の建設や商業ビルの建て替えがコロナ下でも盛んに進められた。人口は約20万人と、八王子市(約57万人)の方が圧倒的に上だが、交通の利便性や「都内」との距離、適度な自然と都会との調和という面で注目されている。そのためか、最近の立川市の平均地価は練馬区とほぼ変わらないという。   立川駅の北隣には広大な「国営昭和記念公園」がある。有料の庭園が有名で、バーベキューもできるため、地元だけでなく様々な地域から訪問する人が後を絶たない。花見シーズンや花火大会にはいつも混み合う。空から見下ろすと、公園はアスファルトで覆われた区域と隣接している。これは、この公園の特殊な歴史を物語るいわゆる「傷跡」でもある。形状からも推察できるように、これは滑走路の跡だ。今は陸上自衛隊立川駐屯地が位置されているが、かつては米軍の立川飛行場があり、その前には日本陸軍が同じ用途で使用していた。米軍の立川飛行場返還と共に、1983年開園したのが現在の昭和記念公園だ。それまで立川市一帯は「基地城下町」で、米軍基地拡張反対のための「砂川訴訟」(日米安保のあり方が問われる)も行われた。現在でも米兵向けの歓楽街の名残が一部地域に残っている。   昭和記念公園からもう少し北上すると、また広大な現役の滑走路が登場する。米空軍の横田基地だ。難読地名に入りそうな福生(ふっさ)市などに位置しており、基地周辺には米軍のための飲食店やバーなども散見される。この1年間、用事があって定期的にこの地域に足を運んだ。そのため、隣接している昭島市のカフェなどで時間を過ごすことが何回かあったが、偶然にも自分の記憶(トラウマ?)がよみがえる経験をさせられた。久々に飛行機(戦闘機)の爆音にさらされたのだ。おそらく、昭島に初めて来たであろうカフェのお客さんは繰り返される爆音に衝撃を受けたようだった。それもそのはず、会話が続かないため、ただ単に騒音が収まるまで待つしかない。   韓国空軍出身の私は兵役の2年間を飛行場の中で暮らした。宿舎から滑走路までは走ると10分もかからない。戦闘機の爆音は昼間だけでなく、場合によっては夕方まで続く。年に数回ある軍事演習時には特にひどくなる。大がかりな演習時には韓国軍だけでなく米軍も増派された。その大半は沖縄駐留米軍で「米韓安保と日米安保がこのようにつながっているんだ」と、実体験として理解できた瞬間でもあった。基地内には少数の米軍が駐屯しており、個人的には食べ物(とにかく安く食べ放題のアメリカンスタイルの料理が楽しめた)や図書館の利用など、お世話になったこともあった。しかし、騒音のせいで、基地周辺では苦情が絶えず住民訴訟も数回起こされた。   横田基地の騒音が気になり、昭島市のホームページを調べた。そこでは「横田基地」と「立川飛行場」の騒音や各種演習に関する情報が頻繁に発信されていた。事前に演習情報を知ったって、何か対策をとることはできない。残念ながらそれが経験からも分かる現実だ。墜落事故が相次ぐオスプレイに関する情報も載っていた。去年11月、屋久島沖に墜落した米軍オスプレイ機は横田基地所属だ。この地域住民にとって基地問題は他人事ではない。   発がん性が疑われる有機フッ素化合物(PFAS)問題は最近偶然知った。米軍基地から流出したPFASが河川に流れ込み水質汚染を起こす可能性が提起されている。ただし、まだ人体への影響は定かでないようだ。これまで沖縄でも問題になっていた。昨年、野党系国会議員が配布したチラシに多摩地区の水質汚染に関する情報が載っていた。東京新聞記事(2月3日)によると、立川市の防災井戸1か所で国の暫定基準値の9倍を超える値が市の調査から確認されたという。昨年9月の選挙で勝利した野党系の市長がPFAS問題に厳しい発言をしていたことも思い出した。その候補が市長に当選し独自調査に踏み切ったのだ。NHKニュース(2023年12月1月)では、多摩地区の住民を対象に行った専門家(京都大学大学院の原田浩二准教授)と市民団体の調査では、政府による他地域の調査結果より2.4倍の高い血中濃度が検出された。   このように、「都内」でも防衛政策に関しては地域による「二重構造」が存在しているのだ。沖縄ほどではないにせよ、同様の構図が東京でも続いている。2年間「暮らしていた」韓国の空軍基地は結局、住民の苦情や政治家の圧力により移転が決定された。現在は大邱(人口約240万人)の中心部からほど近い場所にあるが、2030年を目途に人口の少ない地域に完全に移転される。費用は1兆円以上に上ると見込まれる。それなりに思い出(?)のある場所だったが、やむを得ないと思った。もちろん、全ての基地問題が移転という方法で解決できるとは思わない。費用や地域間対立も相当なものになるはずだ。それでも基地問題に対する情報提供への積極姿勢やその透明性、住民とのコミュニケーションはある程度必要ではないだろうか。東京でも基地問題は現在進行形だ。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、東洋大学非常勤講師。2020年度渥美財団奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近は韓国のファクトチェック報道(NEWSTOF)にも携わっている。     2024年3月21日配信
  • 2024.03.07

    エッセイ759:謝志海「米大統領選で見る政治とエンターテインメント」

    米国では今年の11月に大統領選挙が行われる。4年に一度のこの時期が近づくと、米国にはまだ自由が残っているなと思う。国内だけを見ても、人種問題、移民問題、度々起こる銃乱射事件、物価上昇に伴う経済格差が引き起こす強盗など実に様々な問題を抱えているようにしか見えないが、なにが自由かというと、まず一つはやはり国民が直接、大統領候補に投票できること。同じく民主主義の日本でも、国民が総理大臣を選ぶということがない。大統領制と議院内閣制の根本的な違いだ。もう一つは、俳優などの著名人が公に民主、共和どちらの党を支持するか、はたまた候補者の誰を支持するのか自由に発言できる環境があることだ。   国民と政治、広い意味でエンターテインメント業界と政治の近さには、中国と日本でしか暮らしたことのない私は驚いてしまう。「国のトップを決める選挙に国民が口を挟めるとは!」という感じだ。   最近では世界ツアーで来日し、4日間東京ドームを満席にした歌手、テイラー・スウィフトに、来たる大統領選を巡る「陰謀論」まで勃発、その火はまだ消えていない(陰謀論についての説明はここでは割愛させていただきたい)。あのような華やかな歌姫と政治?なにが接点?と思うが、米国では真剣に信じている人々がたくさんいるのだから不思議だ。なぜこの様な若い歌手に陰謀論がつきまとうのかといえば、やはり米大統領選は国民が参加できるからではないか。   実のところ、バイデン大統領よりもトランプ前大統領よりもテイラー・スウィフトの方が幅広い世代の支持者(ファン)を集めている。彼女の「つぶやき」が民主党を応援するものとなると、「スウィフティーズ(ファンはこう呼ばれている)」に少なからず影響を及ぼす。前回の大統領選では、テイラーはバイデン氏支持を公言した。そして大統領選の前は「みんな(選挙のための)登録に行こう!」とツイッター(現X)で呼びかけた。彼女が政治に関心を持っているのは明白だ。ゆえにテイラーをアンチ・ヒーローとする人々が彼女を危険視して、とんでもない陰謀論をでっち上げてしまうのも無理はない。   日本で言うところの都市伝説レベルの陰謀論がテレビニュースで論じられてしまうのもまた、皮肉の意味を込めて言う自由だ。歌手や俳優も自由に自分がどの党を支持するのか発言でき、ファンに「投票に行こうよ!」と呼びかける。これはテイラーに始まったことではない。これまでも多くの有名人がしていることだ。そしてそれらの意見に影響されようがされまいが国民は自分の権利を行使すべく、投票所に行く。若者の投票率も高い。   今回の大統領選に関して、テイラーはまだ何も発言していない。今は世界ツアーの真っ最中で、春には新しいアルバムがリリースされることも発表され、今は自身の評判(Reputation)を上げることに忙しいことだろう。政治的発言だけでなく、彼女の一挙手一投足に世界中が目を離せない状況はしばらく続く。一人の歌手がこれほど政治に影響を及ぼすとは!一方で民主党、共和党には厳しい夏(Cruel Summer)が待ち構えている。   <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師、准教授を経て、2023年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2024年3月7日配信  
  • 2024.02.29

    エッセイ758:ナーヘド・アルメリ「シリア人の体重と健康への意識」

    健康に対する意識は近年、世界中で高まっている。科学や技術の進歩が健康の維持と意識の向上に大きな役割を果たしていることは言うまでもない。ただ、健康を巡る社会状況や意識は国によって異なる。健康と密接に関連する重要な要素「体重」の問題に対するシリア人、いや、アラブ諸国の人々の意識は低く、肥満でも体重には悩まないし、数値にもこだわらない。   家に体重計がない。人が行き来する大学の門の前や商店街などで、体重計を前に置いて椅子に座っているおじさんにお金を払い、洋服と靴のまま乗って自分の体重を知る。体重が50キロだろうが、60キロだろうが、80キロだろうが深く考えず悩まない。若い女子学生たちのグループが遊び感覚で大学前のおじさんの体重計を囲み順番に乗って、友達の体重の指数を見て、自分のを忘れたので確認しようとまた乗って、という楽しそうな体重比べの場面を見かけることもある。自分の体重を知らない人が多く、体重の話も別にタブーでもなく、わざわざ話題にするほどでもない。アラブの国に足を運べば、アラブの人は体重だけでなく、いかに自分の身体をデフォルトでネガティブに見ないかがよく分かる。しかし、残念ながらそういった体重への意識や無関心が、社会問題となっている過体重と肥満の因子、糖尿病など多くの非感染性疾患の有病率の増加に大きな役割を果たしている。   アラブ諸国では肥満率の増加が指摘されており、世界肥満観測所のデータによると、アラビア半島の国々を始め、ヨルダン、イラク、エジプトでの肥満率はほぼ3割で、これらの国々は糖尿病の人も多く、人口あたりの糖尿病罹患率が世界15位以内にランキングされている。シリアでの肥満率は上記の近隣諸国の肥満率には及ばないものの、2割5分を超える。実感として40~50代以降になると男女を問わずお腹が出ている人の割合が大きい。特に民族衣装を着ている人は身体全体がすっぽり覆われるため、シルエット的に目立ちにくいが、それでも時々、男性でも妊婦かと思うほどお腹がぽっこり出ている。シリアでは「お腹が出ていない男は家具のない家のようなものだ」という有名なことわざがあるくらいだ。   アラブ社会における肥満まん延の最大の原因が、カロリーが高いものの消費だ。シリアの食事には野菜や穀物が多く使われているが、調理過程で脂質や炭水化物が高いものに仕上げてしまう。昼食後に砂糖がたっぷりの紅茶を飲み、夕方になると糖質と脂質が高いデザートを食べたりする。オリーブオイルはコーランや聖書の中で祝福されたものとされているため、アラブ諸国の人は料理にたっぷりオリーブオイルをかけることが身体に良いことで、ごちそうだと考えている。自宅に食事に招待した時には、普段よりもたくさんオリーブオイルを加える。料理オイル、または野菜や牛のギー(バターオイル)より脂質が高い羊のギーを使ったデザートを用意する。   砂糖が入っていないお茶やジュースを出すことはあり得ない。1リットルのお湯に100グラムの砂糖を溶かし、お茶を入れる。5年前から続いている経済封鎖下のシリアの現状では砂糖の価格が徐々に上がり、今1キロが1万5千シリアポンドで、平均給与15万~20万シリアポンドの公務員にとって高価なので、食生活から徐々に砂糖の摂取量が減らされるのかと思ったが、逆に他の食料品を減らしたり、省いたりしても砂糖はやめられない。お酒を飲まない、経済封鎖でデザートやお菓子が高価すぎてなかなか買えないシリア人にとって、砂糖で飲み物を甘くすることがそれに代わる嗜好品なのかもしれない。   また、アラブ社会における運動不足は―いや、運動文化の欠如と言っても過言ではない―食生活に次ぐ肥満まん延の大きな原因だ。20年前からシリア、特に首都のダマスカスと近郊ではジム施設が増えた。施設は地下1階にあり、外が見えない、窓は地上の地面からはみ出している天井の高さに合うように壁の上部に設置されている。女性向けの1時間のエアロビクスクラスが1日に1回か2回あり、時間をずらした男性クラスのために種類も数も少ない筋トレマシンが置いてある。   ジム流行と並行して、テレビやインターネットの普及により、一般の人もスクリーン上で美しい女優やアーティストを見て、体重の問題に気づくようになった。さらに、ビデオクリップが広まり始めた時、夫は美しいスリムなレバノン人歌手を見て妻が太っていることに初めて気づき離婚したという事件もあった。スリムで美しい俳優や女優ばかりが出演するトルコのドラマが、アラビア語吹き替えでシリアでも流行し、ドラマの出演者に憧れ、体重を減らしたいと思うようになった若い女性や主婦が次々と現れた。だが、多くの女性には体重を減らすことについての知識が少なく、ジムに通えば1~2カ月でなりたい身体になれると思っており、その効果が得られないためにジムをやめてしまう。そこで、不健康な方法で食事をやめたり、空腹に耐えたり、専門家でない利益ばかりを目的とする販売業者からほとんど効果がない減量薬を無作為に選んで購入したりする。妥当な体重と健康状態は関連するものだと考えずに、ただ痩せて外見を変えたい。   3年余り前に帰国した後、数カ月ごとにジムを変えて通ってみたが、登録するたびに「細いからわざわざ時間かけて運動する必要はないよ」とどこのコーチにも言われた。一般の人だけでなく、ジムのコーチでも、運動は健康維持のためのものだというより、過剰な体重を落とす手段として考えている。月会費が高くなったので退会し、外で走りはじめたら、道を通る車の助手席やトラックの荷台に乗っている人に、笑われながら見えなくなるまで「1、2」とよく号令をかけられたりする。意地悪なことに慣れるまでは不愉快に思ったが、そのうち仕方がないことだと受け入れ無視できるようになった。   そもそもアラブ諸国では肥満が多くの病気の発症に関係しているという認識もあまりなく、肥満が外見問題に過ぎないと思われている。また、深刻な問題として考えられておらず、むしろ、年を取れば身体も衰え、肉体も横に成長し、病気する、それが当たり前のことだと思われている。   肥満で糖尿病になった40代の叔父や心血管疾患に苦しんでいる50代の旦那の友人に健康維持の話をすると、「我々にふりかかって来るものは、すべてアラー(イスラム教で万物を支配する唯一の神)が特に定め給うたものばかり。アラーこそ我々の守護者。アラーにこそ一切をお任せ申すべきだ」や「以前からある記録(アラーが定めたもの)に沿わない限り誰も長く生き続けないし、誰の命も短く切られることはない」などとコーランの教えが返ってきた。   そして、この二人だけでなく、病気している他のシリア人も薬を飲むのは基本的に辛くなるときに限ってだ。40歳を越えた女性は「もう年なので」と自分の身体のことを諦めている人が多い。妥当な体重または健康な状態を維持するために、好きな食事を制限したり筋肉を痛めて運動したりするのはばかばかしいことだ。どんなに努力しても、アラーが定めた日以外には死なない。むしろ、無理に努力しないで身体を巡ることに悩まないで、定められた人生のすべてをそのまま受け入れて生きるのが良くて幸せで元気という考えだ。   第三者の神アラーへの完全な依頼心が強く、主体性を持とうとしない。身体に関してコンプレックスを抱き悩む必要はなく、神にすべてを任せることが元気なのだ。それが精神的な健康の在り方の一つでもあると考えても良いかもしれない。長い時間をかけて内在化した考えからは簡単に抜け出せるものではなく、場所も生活スタイルも違えば価値観も違う。良い悪いも単純に判断できるものではない。しかし、「体重は単なる外見の問題だけではない。未病で健康な身体を守ろうと努力し様々な制限を設けることにも人生のまた別の幸せと楽しみ方がある」という考えがアラブ一般の人に広まっていく時が早く訪れてほしいと思う。   <ナーヘド・アルメリ Nahed ALMEREE> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。シリア出身。ダマスカス大学日本語学科卒業。2011年9月日本に留学。2013年4月筑波大学人文社会科学研究科に入学。2020年3月博士号取得。博士論文「大正期の童謡研究――金子みすゞの位置づけ」は優秀博士論文賞を受賞。2020年11月『金子みすゞの童謡を読む――西條八十と北原白秋の受容と展開』港の人から出版。2021年、第45回日本児童文学学会奨励賞受賞。現在、ダマスカス大学文学部日本語学科教員。       2024年2月29日配信  
  • 2024.02.23

    エッセイ757:朴峻喜「新しい研究と挑戦」

    日本に留学するとは夢にも思っていなかった。釜山国立大学博士課程の学生で、2018年春に埼玉大学に交換留学に来たことがきっかけとなった。日本に来てからは、自分の世界がひどく狭かったことに気づいて衝撃を受け、心身ともに不調な日が続き、腸炎にも苦しめられ、痩せてしまった。当初私の日本語は初歩的な水準で、解釈するのが毎日大変だった。日本で生活するのがとてもストレスだった。   幸いだったのは、留学先である埼玉大学が私にはとてもよい環境だったことだ。日本語が得意でなくても配慮してくれる研究会の雰囲気があり、私の専攻である労使関係で、日本国内で一番の専門家の先生方や多様な分野で活動している大学院生の同僚たちが私を支えてくれた。日本語ができないことが苦しかったりもしたが、一方では温かい雰囲気で研究でき、新しい未来も夢見ることができた。当時の夢は日本語が少しでもうまくできるようになること、労働と関連した博士論文を完成させること、その過程で査読付き論文を3本書くこと、そして、できれば就職もしてみることだった。   まだ信じられないが、この4年間は本当に耐えながら博士論文を書いた。大変だったが、3本の査読論文も掲載できた。運良くアカデミアに就職することもできた。努力した以上の良い結果が出て過分な状態で、これ以上望むことはないと思ったし、こうなればもう大変なことはないだろうと思っていた。   ところが博士論文を書き終えた後、目の前が閉ざされたように感じた。これから何を研究すればいいのか、どんな先生になればいいのか、元々のテーマを発展させていくべきなのか、それとも全く新しいテーマを探すべきなのか、学生たちと楽しく交流する先生になるべきなのか、それとも自分の研究に集中して著名な研究を行う先生になるべきなのか、悩ましい問題が出てきた。日本語は以前よりも上手になったとはいえ、相変らず満足できない。ミスをするとさらに恥ずかしく感じられた。   いつか人生で悩みがなくなる時があると思ったが、それは幻想だったようだ。仕方なくもう一度夢を考えざるを得なくなった。今は博士課程のような5~7年間やりたい研究ではなく、人生全体にわたる研究について考える時であると思った。どんな研究者になりたいのか、どんな人間になりたいのか、どんな言葉をどんな言い方で話す人になりたいのか、そしてそのためにはどのような計画と努力が必要なのか、長期的に考える必要性を感じるようになった。   今はまだ、何か社会に役立つ研究をしたい、そして労働研究において不平等問題を解決できる何らかの研究をしたい、という漠然とした考えしかない。もう一度、このような漠然とした考えを基に、博士課程の時のように研究体系全体を具体的に描いていかなければならないだろう。こういうことをやり直さなければならないと思うと、時に力が抜ける時もあるが、それでもやり遂げた時間を振り返ってみれば良い結論にたどり着くはずだと、少しの希望を持っている。そして、いつかこのような悩みを、同期奨学生だったラクーン同志たちと共に分かち合いたいと思っている。   <朴峻喜(パク・ジュンヒ)PARK Joon-hee> 2022年度渥美奨学生。2023年3月埼玉大学人文社会科学研究科で経済学博士号取得。現在、立教大学経済学部助教。労働経済や労使関係を研究。     2024年2月23日配信  
  • 2024.02.15

    エッセイ756:譚天陽「留学を通じて実現した夢」

    初めて日本に来たのは大学3年生の時です。大学の派遣留学プログラムを通し、鹿児島大学に留学することができました。   鹿児島大学では半年くらいの生活しか送りませんでしたが、とても印象深く、今でも忘れてはいません。その頃、初めての留学生のほとんどは日本語授業を中心に勉強していましたが、私は法学部の授業を積極的に取りました。そのおかげで、日本の法律はどのようなものなのかということに触れることができました。特に中国の法学部にはないゼミナールという授業形式に参加することで、グループワークや議論の大切さを初めて認識。そして、レポートの提出を重ねることによって、先生たちとの関係も深まりました。   帰国後、大学4年生になり卒業論文の執筆を始めました。日本と中国の法律の比較研究に先立ち、日本語論文の文献調査が必要でしたが、鹿児島大学でお世話になった先生から、貴重な情報を提供していただき先行文献を手に入れ、卒業論文を無事に完成することができました。母国では、一人の先生が担当する学生が多いため、丁寧な個人指導やゼミで議論してくれたり、帰国後もメールで親切に対応し調べてくれたりする先生はなかなかいません。   卒業論文を経験することで、さらに研究しようという意欲が生まれ、卒業後、日本へ再び留学することを決めました。研究生の半年間と修士課程の2年間を終え、修士論文が完成。日本文化をさらに理解し、研究を深めることができた2年半でした。学校でティーチングアシスタントなどを担当し、学会へ参加し、数々の学者の先生方と交流することで、日本の文化だけでなく、自分が目指すべき方向を見つけることができました。さらに奨学金を通じて財団の関係者及び先生、他大学の優秀な研究者と交流し、国際交流の大切さを認識することができました。感動と感謝の気持ちでいっぱいです。   留学生にとって、日本人と同様に学会へ参加し、懇親会などで先生たちと交流したり、ゼミで外国人でありながら後輩をサポートしたり、そして学校及び財団から経済的な支援を受けたりできたことはとても貴重でした。昨今、日本はたくさんの海外留学生を受け入れ、どの分野においても優秀な研究者が存在しています。自分も日本だけでなく各国から来日した優秀な研究者たちと深く交流することで、国際的な水準に達する研究を目指していきたいと思って、さらに博士後期課程に進学しました。   修士課程では、母国の中国と日本の比較研究だけだったのに対し、博士論文では世界の複数の国・地域での関連法制度を検討の材料にすることができました。さらに、海外の学会に参加して現地の学者と交流したり、学会のみならず、実務家の方とのつながりを深めたりすることで、博士論文だけでなく、人生の見方にも深く影響を与えてくれました。   修了後、私は日本の大学で研究を続ける予定です。この数年間を振り返ってみると、夢が次から次へと実現できました。学部時代は海外で学位を取得すること、修士課程の頃は研究者になることが夢で、博士後期課程では、これらの夢を実現することができました。今の夢といえば、自分の研究が世界に影響を与えることで、夢がかなうよう頑張っていきたい。   <譚天陽(たん・てんよう)TAN Tianyang> 早稲田大学比較法研究所助教。2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年3月一橋大学大学院法学研究科博士号(法学)取得。知的財産法(特に著作権法)の研究をしている。     2024年2月15日配信