SGRAかわらばん

  • エッセイ555:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2017年秋」

    日本・モンゴル外交関係樹立45周年記念事業の1つ――第10回ウランバートル国際シンポジウム「ユーラシアにおける日本とモンゴル」は、2017年8月26、27日に、モンゴル国立大学1号館円形ホールを会場として開催された。昭和女子大学国際文化研究所とモンゴル国立大学アジア研究学科の共催で、在モンゴル日本大使館、昭和女子大学、モンゴルの歴史と文化研究会、モンゴル大学院大学からご支援を頂いた。モンゴル、日本、中国、ロシア、カナダ、台湾などの国や地域からの90名余りの研究者が参加した。   日本とモンゴルの学術団体が共催するウランバートル国際シンポジウムは、2008年に発足してからこれまで9回おこなわれてきた。この9回のシンポジウムは、主催団体は何回もかわり、テーマもさまざまであるが、それぞれの特色があった。そのうちの数回のテーマは、日本とモンゴルの歴史や政治、経済、文化関係が中心となっていた。   一方、近現代ユーラシア地域の社会秩序の再編において、旧ソ連やアメリカ、イギリス、日本と中国はきわめて大きな役割を果たし、モンゴルも終始、独特の戦略的地位を占めてきた。冷戦後、「二大隣国中露のどちらにも偏らず、バランスのよい関係の構築と、日本や欧米といった第三の諸国との関係強化という多元的な対外政策を推進し、いかなる軍事同盟・連合にも加盟しない」ことは、モンゴルの対外政策の基本方針となっているが、2012年11月に、モンゴルは欧州安全保障協力機構(OSCE)に加盟した。より広い視野から、日モ関係をアプローチするという狙いがあって、わたしたちは、第10回ウランバートル国際シンポジウムのテーマを「ユーラシアにおける日本とモンゴル」とした。これは、日本・モンゴル外交関係樹立45周年にふさわしいテーマになっているのではないかと思う。   シンポジウムの日本での準備において、昭和女子大学国際文化研究所所員鈴木弘三氏、ウランバートル現地での準備において、モンゴル国立大学アジア研究学科長V. バトマー(V. Batmaa)や講師E.トグトン(E.Togtuun)、モンゴル国防大学国防科学研究所研究員L. バヤル(L. Bayar)諸氏の協力を得たことは、ここで特記しておきたい。これまでおこなった9回のウランバートル国際シンポジウムの内、ハルハ河・ノモンハン戦争をテーマとしたものは2回あり、私自身、同戦争や第2次世界大戦のアジアでの終結、日本人のモンゴル抑留の研究および現地調査において、多くのモンゴル軍事史研究者と知り合うことができ、協力を得た。今回のシンポジウムの開催においても、モンゴル国防大学国防科学研究所の関係者の協力を得た。また、今年、日本の防衛駐在官が初めてモンゴルに配置され、シンポジウム後の10月13日には、在モンゴル日本大使館において自衛隊記念日レセプションが開催された。モンゴルの地政学上の重要性が示されている。   8月25日の夜、在モンゴル日本大使高岡正人閣下は、昭和女子大学客員教授で、元外務省アジア太平洋局長、在中国、インド日本大使を歴任した谷野作太郎氏、北東アジア輸送回廊ネットワーク(NEANET)顧問、元在モンゴル日本大使花田麿公氏と私を大使館公邸に招いてくださった。食事をしながら、日モ関係や中国、ロシア、アメリカの影響力などについて歓談した。実は、昨年12月初め、在ロシア公使、在クロアチア特命全権大使などを歴任し、国際テロ対策・組織犯罪対策協力担当特命全権大使兼政府代表の井出敬二氏に招かれ、一橋大学名誉教授田中克彦先生と私は、高岡大使にお目にかかったことがある。今回、ウランバートルで招待され、嬉しかった。   8月26日午前中の開会式では、田中先生が開会の辞を述べ、モンゴル国立大学Ya.トムルバータル(Ya.Tumurbaatar)学長、高岡大使から挨拶と祝辞を頂いた。その後、一日半にわたり、研究報告がおこなわれた。今回のシンポジウムでは、招待報告12本に、公募報告18本から選ばれた9本(共同報告も含む)を加え、計21本の報告があった。   主な報告者は、以下の通りである。   谷野氏、花田氏、田中先生のほか、元在日本モンゴル大使フレルバータル(S. Khurelbaatar)、日本モンゴル学会会長、東京外国語大学名誉教授二木博史、ウランバートル大学教授D.ツェデブ(D. Tsedev)、内モンゴル大学教授チョイラルジャブ(Choiraljav)、モンゴル科学アカデミー教授O. バトサイハン(O. Batsaikhan)、台湾国立政治大学准教授藍美華(Lan Mei-hua)。   モンゴル国立大学アジア研究学科長V. バトマー(V. Batmaa)、同大学准教授B.ヒシグスフ(B. Khishigsukh)、講師B.オトゴンスレン(B.Otgonsuren)、ロシア科学アカデミー東洋学研究所日本研究センター長、主任研究員エレーナ・カタソノワ(Katasonova Elena)、モンゴル国防大学国防科学研究所研究員L. バヤル(L. Bayar)、フェリス女学院大学講師サミュエル・ギルダート(Samuel G. Gildart)。   東京外国語大学教授岡田和行、同大学客員教授G.ガルバヤル(G. Galbayar)、非常勤講師上村明、高知大学准教授湊邦生、モンゴル大学院大学教授Ts.プレブスレン(Ts. Purevsuren)、法政大学非常勤講師小林昭菜、在モンゴル日本国大使館専門調査員髙橋梢。   テーマとしては、主に歴史や政治、軍事、国際関係、文化という視点から、日本とモンゴルにおける歴史的であると同時に今日的であるできごとを取り込み、日モ関係、さらにはユーラシア地域の秩序をこれからどのように構築していくか等をめぐって、特色ある議論を展開した。報告の詳細は、別稿にゆずりたい。   27日昼の閉会式では、二木先生が今回のシンポジウムの成果をまとめ、残された課題を指摘し、閉会の辞を述べた。その後、シンポジウムの報告者は、ジューコフ記念館を見学してから、ウランバートル郊外のナイマン・シャラー・モンゴル軍キャンプを訪れた。青空のもとで、エメラルドグリーンの草原にトール川が曲がって流れており、白いゲルが点在し、軽い風のなか、数頭の馬や牛が草を食べながら、悠然と歩いている。見慣れたモンゴルの風景であるが、軍のキャンプなので、新鮮さが感じられる。みな、馬乳酒を堪能してから、馬に乗った。83才の田中先生もなんと馬に乗って走り、元気さを見せた。ナイマン・シャラー・キャンプを去って、さらにチンギス・ハーン騎馬像テーマパークを見学し、夕方ほぼ定刻通りにウランバートルに戻り、ナゴミ日本レストランで夕食をした。「午前中は知恵の満ちた議論、午後は夢のような大エクスカーション、夜は草原の都市で美味しい日本料理。これはなんと贅沢な旅だろう」と、ある参加者から感謝の言葉を頂いた。   本シンポジウムは日本・モンゴル外交関係樹立45周年記念事業の1つとして認定された。また同シンポジウムについては、モンゴル国の『ウドゥリーン・ソニン』や『オープン・ドア』、『ソヨンボ』、『オラーン・オドホン』紙、モンゴル国営放送局、TV5などにより報道された。   シンポジウムの写真   <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。     2017年12月14日配信
  • エッセイ554:リンジー・モリソン「遠く険しい復興への道」

    2017年9月15日~17日、SGRAふくしまスタディツアーに参加し、今年の3月に避難指示解除が下りたのちの飯舘村の様子を観察してきた。私にとって2度目の参加で、約1年半ぶりの訪問であった。天気がよく、コスモスやススキが風にたなびく美しい飯舘村の秋の景色は、復興の兆しを見せ始めていた。村中に車が走り、新しい小学校の工事が始まり、村の人々が元通りの暮らしに戻れるように一生懸命努力していた。村民は、復興の道を日々着実に歩んでいる。それでも、村は完全に復興したとは決して言えない。帰還者はわずかの400人(震災前の人口の約6~7%)だけで、そのほとんどが60歳以上で無職の高齢者である。昼間だと人口は約1000人まで増えると聞いたが、村が復興するのには、村に住み、村で働く人が必要なのだ。   最初の日は、高橋日出夫さんの温室を見せてもらった。高橋さんは最高級の花を育てている農家で、スタディツアーの時は色とりどりのトルコキキョウとアルストロメリアが満開だった。花の美しさに魅了された参加者が大いに盛り上がったことは一つの良い思い出となったが、一番印象深かったのは高橋さん自身の話であった。避難の6年間、高橋さんは福島市で農地を借りて野菜などを育てていた。「やっぱり農家は何かを育てていないと気が済まない」と気さくに話してくれた。避難指示解除が下りてから、高橋さんはいち早く飯舘村に帰ってきた。なぜなら、「自分の生まれた土地の景色がいい」と語った。ふるさとの空と星はまるで自分のもののようで、よその空にはどうしても馴染めない、ということだった。それだけ高橋さんはふるさとの飯舘村を愛し、自分の一部として認識している。人間と自然の共存と融合。それこそ農家の生き方、また世界観なのだろう。高橋さんは、マスコミが来るたびに村民たちから辛い話ばかり求めてくるが、「私は戻れてすごく楽しい」と明るく話していた。   高橋さんの話を聞いて安心した参加者は私だけではないだろう。でも、高橋さんのように思う人はそれほど多くないのもまた事実である。高橋さんは帰還した6~7%に含まれる1人だが、言うまでもなく高橋さんのような人は少数派のまた少数派だ。マジョリティーの93~94%は自分たちのふるさとについてどう思っているのか、その話を聞くことができないのでわからない。帰還する人と、帰還しない人の違いは何だろう。一つは年齢である。帰還しない村民の多くは若い人で、すでに都市部で新しい生活を始めている。スタディツアーの間、帰還者が何度も話したように、原発事故の一番大きな悲劇は放射能汚染よりも、家族がバラバラになってしまったことであろう。事故前からも飯舘村を脅かしていた少子高齢化と過疎化は、事故によってさらに拍車が掛かったのである。   日本の地方の過疎化は、ずいぶん前から懸念されている問題である。政府は過疎化を防止すべく、過疎地域の復興や雇用の増大に努めたり、大学生が都会に集まりすぎないように都市部の大学を規制したり、文化庁を京都に移転させたり、さまざまな対策を講じてきたが、ほとんど効果が見られない。人口はどんどん3大都市に集中する一方である。その意味では、高齢者ばかりになってしまった今の飯舘村は、日本の地方の行く末を暗示しているのかもしれない。   スタディツアーの2日目は明治時代に造られた校舎に集まり、村の長老である菅野永徳さんの話を聞いた。菅野さんの話によれば、飯舘村が直面している問題の中で、若い世代がいないことがもっとも深刻である。今、飯舘村が抱えている問題は科学技術や政治関連のことよりも、文化の問題だという。若い人たちは伝統的な生活を後にして、便利さを求めてどんどん都市部に流れていく。   上の世代、特に農家の人たちにとっては、こうした世代間の考え方のギャップには理解しがたいものがある。農家は先祖代々の土地を耕して守るのが生活基盤であり、また生きがいでもある。途切れずに続いてきた伝統の中に自分が位置づけられ、自分と家の存在意義がある。だから、代々守ってきた土地を耕す人がいなくなったら、それは土地が荒れるだけでなく、自分たちの存在意義が失われかねないことをも意味しているのだ。高橋さんのようにふるさとの空や星が自分のものだと思っている人たちにとって、何十年、何百年もの伝統と、ご先祖様が見守ってきたふるさとの山川が荒れていくことほど苦しいことはないだろう。そうした状況の中、村民は絶えず村の将来を考えて、心配している。次の世代に何を残すかが、今後の大きな課題らしい。   その古い校舎の中で、菅野さんは「これからどうすればいいのか」と訪問者に問いかけた。正直、私にはわからない。私は政治家でもアクティビストでもない。この問題はどうすれば止まるのか、そもそも止められる問題かどうかもわからない。私は日本人のふるさと観を研究する者でありながら、日本のふるさとの行き先が見えない。冷たい畳の上に立って、自分の無力さを痛感した。   それでも、私は来年も、その翌年も、そしてその次の年も、飯舘村に行きたいと思う。何もできないかもしれないが、村を見て、村民たちと話して、引き続き村人の声を自分のまわりに届けていきたい。1人でも多くの人が飯舘村の村民の思いに触れ、そこに足を運んでくれることを願って。   <リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison> 2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。   スタディツアーの報告     2017年12月7日配信  
  • エッセイ553:李鋼哲「決して忘れてはならない福島の『原発被害』」

    今回のSGRA福島スタディツアーは第6回であったが、私は5回も参加した(2回目は大学の講義と重なったため参加できなかった)。第1回は福島原発事故の翌年、2012年10月19~21日であった。   なぜ、私は5回も参加したのか?それも東京と違って500キロ以上離れた金沢から。まだ金沢―東京の北陸新幹線(2年前に開通)もない時から、5、6時間以上をかけて福島へ行ったのか。   第1回目はSGRA「構想アジア」研究チーム代表として責任を感じて参加したこと、そして自分の目で初めて見て体験した、日本で一番美しい村のひとつに指定された飯舘村の「原発被害」の惨状と、村民が如何にそれと戦うのかを確認し、その「までい精神」に学ぶために毎年福島へ行くのだと言ったら、読者に納得してもらえるのだろうか?そして、ふくしま再生の会の田尾陽一さんや飯舘村の菅野宗男さんとの出会いがあり、回を重ねてお会いして一緒に活動するうちに、なんか再生の会や飯舘村のみなさんが「親戚」みたいに感じられ(私は「情」に弱い人間である<笑>)、お会いすると嬉しくなり、里帰りした感覚になり、ツイツイ行きたくなるのである。5年前に私が書いたレポートの最後に、「福島よ、忘れさせない!」と誓ったからかも知れない。   今回のツアーは前4回と違って、今年3月の政府の「避難指示の解除」により、避難していた人々の一部が自分の家(先祖代々生きてきたふるさと)に帰ることができたので、その帰還実態をこの目で見て確認したかった。そして帰還した人々の喜びや残っている悲しさも感じ取りたかった。帰還事業の実態についてはほかの参加者も取り上げるだろうから、ここでは日本国民や日本国政府がこの震災被害とは違う「原発被害」にどう対応しているのかについて、私見を述べたい。   みなさん覚えているだろうか?東日本大震災が起こった年の流行語は「絆」だった。しかし、日本国民の中に「絆」は本当に生まれたのだろうか?いまでも福島の震災、原発被害を真剣に考えている人、それをもとに国の政治(選挙)にかかわる人々はどれぐらいいるのだろうか?「原発反対」運動で国会周辺デモが続いたことを覚えているだろうか?運動疲れで今はデモどころか、原発反対運動も下火になっているのではないか?今度の国政選挙でも2年前の国政選挙でも、原発を推進する自民党が圧勝する現象をどのように見るべきなのであろうか?もちろん、義捐金を贈った人、ボランティア活動に参加した人々は大勢いた。しかし、福島に行ったら危ない、福島産のコメや野菜、果物は避けておいた方がいいと、風評被害のために農産物があまり売れない状況は改善しているようには思えない。私は今度も福島産の梨を3箱買って東京や金沢の友人にお土産で渡し、もっと福島に関心を持つよう呼びかけた。しかし、日本全国でみれば、福島との「絆」は切れているのではないかと感じる。   一転政府の対策に目を向けると、2020年の東京オリンピックを念頭に、政府と政策批判能力に欠けているマスコミは一所懸命に「原発被害」を打ち消そうとしているのではないか?今の政権は国内で原発を推進する姿勢を保持するだけでなく、ベトナムやインドなどで原発建設を推進するという、時代に逆行する政策を実行しているのではないか?もちろん名目はアベノミクスの推進である。日本の技術をもってアジアの市場で金儲けをしたい、そして日本の強い経済を取り戻したいという理由だろう。これに対するマスコミの批判もあまり見られないのが現状である。また、政府復興庁が今年の3月に作成した『復興6年間の現状と課題』というレポートに、「2020年東京オリンピック・パラリンピックで、復興を成し遂げつつある姿を世界に発信できるよう〔復興五輪〕を推進」と書かれており、如何に復興が終息に近づいているかだけを強調している。そこには「原発被害」は一言も書かれていない。国民の目を逸らすのが目的であろう。   復興政策について、山下祐介・首都大学東京准教授は「誰も語ろうとしない東日本大震災〔復興政策〕の大失敗」という論評(講談社『現代ビジネス』インターネット版で次のように「復興の失敗」を厳しく批判している。   ・・・・・・・・・・・・・   しかもそこに、色々な体面や面子さえ働いている。とくに原発事故についてはその傾向が強いようだ。東京オリンピックの誘致にあたって、安倍首相が福島第一原発についてとくに触れたことはまだ多くの人の記憶に残っているはずだ。   「原発事故の日本」というイメージを早く払拭したいという海外に向けた体面が、帰還政策の根源にはありそうである。そこには、原発事故をいつまでも抱えていてはこの国の経済に悪影響が及びかねないという経済界の懸念もあるようだ。   また、海外に向けた体面とともに、国内における被災自治体の立場にも触れておくべきかもしれない。事故から5年が経ち、被災地ではこの復興を失敗だということは、面子としても難しい。とくに福島県が「福島の安全」をことさら強調し、例えば風評被害の阻止に専心するのも、どこかで「安全だ」と言わねばならない難しい立場があるからだ。そこに現に暮らしがある以上、「今は心配ない」「不安に考える必要はない」と強調するのはおかしなことではない。だがこの被害は実害であり、そのこともまた認識しているから、「イチエフは止まってはいない」「フクシマは終わっていない」「福島の現実を知ってくれ」という主張も同時に行われている。   しかしこれに対して暮らしの安全性を強調し、福島の生産物への風評被害撲滅をことさら運動することは、結果として被災地の安全性までも肯定することにつながり、政府の帰還政策を正当化して、帰還しない人々はその安全宣言に逆らっているのだという論理にまで行き着いてしまう。福島県や県民自身が、政府や東京電力の責任逃れを助長している面が否めない。   結局、復興と称して多額の金をつぎ込みながら、現地復興には何ら寄与せず、被害者を守ることにさえ失敗し、大規模な土木事業を再開して、公共事業国家に先祖返りしてしまった。   さらには、まさに原発事故が起きたことによって長らくの懸案であった放射性廃棄物の収容地が登場し、原発政策を整合的に動かしていく道筋がついに見えてきた――。原発事故が原発政策を肯定し、完結させる。そういう形にまで事態は展開しそうである。   被災地・被災者のために始まったはずの復興政策が、全く別の人々に恩恵を与える形で、当初の向きとはまったく違う方向へと早い時期に舵を切ってしまっている。   ・・・・・・・・・・・   以上、復興政策の失敗に対する批判を長文で引用したが、上記の復興庁のレポートを見てみると、復興政策の成果をアピールするのに一所懸命で、そこには「原発被害」については一言も触れていないことは真実を曲げることであり、国民を欺瞞しているとしか思えない。政府(中央政府と地方自治体)も国民も「原発被害」の教訓から何も学びとっていないのは情けないことである。このままでは「美しい日本」を目指すことができないであろう。   最後に、改めて「福島よ!忘れさせない!」という言葉で結びたい。(2017年10月30日)   <李鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程中退。東北アジア地域協力を専門に政策研究に従事し、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を中心に国際舞台で精力的に研究・交流活動に尽力している。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年4月、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。   ※スタディツアーの報告     2017年11月30日配信
  • エッセイ551:レティツィア・グアリーニ「『共苦』から新たな震災後文学が生まれる?―福島県南相馬市に移住した柳美里を中心にー」

      ・・・・・・ (中略)南相馬に転居した、もうひとつの動機は、「共苦」です。 東日本大震災以降、「絆」「がんばろう」「寄り添う」という言葉があふれ返りました。どれも同情や善意に根差した言葉ですが、同情や善意というのは、外側から差し伸べられるものなんですね。 苦しんでいる人の苦しみは、その人自身のもので、他者であるわたしに同じ苦しみを苦しむなんてできっこない。 けれど、その苦しみに向かって自分を開くことはできます。 (柳美里『人生にはやらなくていいことがある』より) ・・・・・・   東日本大震災を契機に様々な意味で日本文学が動いたといえるでしょう。3・11以降、「震災後文学」というカテゴリーが誕生し、原発問題、政権への批判、放射線による生物の変容、復旧や復興などのテーマに焦点を当てる作品が次々に現れました。「震災後文学」を論じる著書やその翻訳の数もまたおびただしいです。東日本大震災以降、日本現代文学が新たな方向へと動いたと言っても過言ではないでしょう。   また、その「動き」は、文学と様々な行動や運動の繋がりにおいても見ることができます。ここで3つの例をあげてみましょう。2012年4月に、早稲田文学をベースとしたチャリティ・プログラムのために書きおろされた短篇やそれに付随して行われた座談・対談などが収められている『早稲田文学 記録増刊 震災とフィクションの“距離”』が出版されました。その著書が英語をはじめ、中国語、韓国語、イタリア語などに訳され、世界中から東日本大震災のための寄付が集まりました。また、2012年10月に、文学者が発表する場を利用し、原発問題を伝え続ける必要性を強調する「脱原発社会をめざす文学者の会」が発足しました。さらに、2015年に日本外国特派員協会で「原発がない世界を実現するほかない。声を発し続けることが、自分にやれるかもしれない最後の仕事だ」と語ったノーベル賞作家の大江健三郎の言葉は海外でも大きな反響を呼びました。   東日本大震災をもって、もうひとつの意味においても日本文学が動いたと思われます。つまり、作家たちが移動したのです。福島第一原発の事故を機に避難をめぐる問題は福島県だけではなく、あらゆる地域で起こっていました。芥川賞作家金原ひとみをはじめ、放射能汚染を心配しているが故に東京から関西へ避難した作家たちも少なくありませんでした。柳美里もその一人でした。   インタビューで語っているように、柳美里は「子どもの安全を確保するためにできるだけ遠くへ避難させたい」という母親としての気持ちに動かされ、2011年3月16日に鎌倉から大阪へ向かいました。しかし一方、「今すぐ福島に行きたい」という物書きとしての気持ちもあったとか。同年の4月に鎌倉に戻った柳美里は、そこから地元の人々の話を聴くために福島県に通い始めました。そして、2015年4月に南相馬市へ移住することにしたのです。いったい何故その決心に至ったのでしょうか?   「住みたいけれど住めない」「住みたくないけど住むしかない」…原発事故とそれに伴う放射能汚染の問題が「住む」という問題に密接な関係を持っているのです。人によって故郷との絆が様々であり、その苦しみを理解するためにはそれぞれの人の声に耳を傾けるべきだ、と柳美里は主張しています。しかし、よそに住みながらその苦しみを聴いているうちに柳美里は違和感を覚え、地元の人々の痛苦を共感するためには、同じ土地を踏み同じ空気を吸わなければならないと覚りました。作者の言葉を借りると、「共苦」が必要だったのです。   では、その共苦から何が生まれるのでしょうか? 今まで書かれてきた「震災後文学」は、「書けない自分」あるいは「無力な自分」にフォーカスを当てた作品が多いです。しかし、柳美里はまた違う形で物語を作ろうとしていると思われます。2016年12月まで、臨時災害放送局・南相馬ひばりエフエム(南相馬災害エフエム)の「ふたりとひとり」というラジオ番組において、柳美里は450人の地元の人々を取材してきました。それらの物語については作者が以下のように語っています。   ・・・・・・ 外から聴いた声ではあるけれど、いったん身体に取り入れて何日か経つと、いきなり内から声を聴くことがあります。そして、彼、彼女の痛苦が身体のそこから湧き上がり、彼、彼女が体験した光景が自分の記憶であるかのように広がる― ・・・・・・   柳美里はエッセイやインタビューにおいて南相馬市における生活を語っているものの、フィクションという形で福島県の人々の物語はまだ綴っていません。が、「同情」や「善意」、つまり外側から差し伸べられるものを捨て、共に苦しむ道を選んだ作者は、地元の苦痛とともにその希望や笑顔をいつか物語化し世界へ伝えてくれることを大いに期待しています。   〇参照文献 柳美里『人生にはやらなくていいことがある』ベストセラーズ(2016年) 「福島県南相馬市に移住した柳美里さんインタビュー」『通販生活』https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/150908/ (参照2017-10-23)   <レティツィア・グアリーニ Letizia GUARINI> 2017年度渥美奨学生。イタリア出身。ナポリ東洋大学東洋言語文化科(修士)、お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科(修士)修了。現在お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科に在学し、「日本現代文学における父娘関係」をテーマに博士論文を執筆中。主な研究領域は戦後女性文学。     2017年11月16日配信  
  • エッセイ550:彭浩「東アジア『公共知』への接近」

      8月上旬、渥美国際交流財団の主催で、「国史たちの対話の可能性」というシリーズの第2回として、「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」をテーマとしたフォーラムが北九州市で開かれた。日・中・韓、モンゴル4ヶ国の歴史家が集まり、さまざまな側面から、モンゴル帝国史とりわけ東アジアへのインパクトについて広く議論した。私は、ひとりの歴史研究者でありながら、本プロジェクトの企画にも携わったので、所感も多くそして多岐にわたる。この感想文の執筆を機会に、簡単に整理したい。   まず、この会議は、単なる「蒙古襲来」というキーワードの国際研究集会ではなく、1つの話題、または1素材の検討を通じて、国民国家の歴史叙述と異なる視角から人類の歴史を描き、それを通じて国民国家史観の影響で硬直化されつつある歴史認識の間違いを訂正し、政治手段化した歴史認識の問題によって阻害されている国家間の関係、および国民間の関係を改善していく、という大きな問題意識を抱えていることを再び強調したい。   会議中何人かの参加者が言及した通り、実は、日中韓3者、またはその中の2者間の歴史をめぐる「対話」が近年さまざまな形で展開されている。なかには、よく知られている政府主導型のものもあれば、個別の歴史テーマ・研究手法、または史料の利用方法などをめぐる専門性の高いものもある。それぞれの方向性と目的は、必ずしも一致しているとは限らない。また、三谷博先生が指摘された通り、参加者の間で、仲良くなったかそれとも悪くなったかという点を考えると、民間レベルの「対話」の方が進みやすいと言わざるを得ない。   一方、民間レベルの研究集会は、個別のテーマの議論や専門的知識の深まりという点では成果が出やすい反面、人文研究者の「癖」、または「惰性」でもあるためか、興味のあるテーマの話に夢中になり、その話の社会的意義をあまりよく考えず、専門的な議論がどのように共通の歴史認識の促進に活かせるかという大事な点を、結果的に疎かにする傾向がある。また、資金面の問題もあり、研究補助金を得ながら共同研究を長く継続することが困難で、中途半端の形で終わってしまった「対話」も少なくない。   この問題点と関わってくるのが、劉傑先生が起草されたフォーラムの趣旨文の「知の共有空間」「知のプラットフォーム」というキーワードである。この「知」の意味は広くて、少なくとも「知恵」「知識」両者の意味を包摂している。専門的な研究を通じて信頼性の高い歴史「知識」を創出し、それを広く理解してもらうことで、国民国家の限界や歴史認識の問題を解決する「知恵」をめぐらすという真意がある。これについては、具体的な研究レベルの議論を進めていく際に、やはり忘れがちなので、ここで敢えて加筆した。   次に、会議中のいくつかの論点を踏まえて所感を述べる。1つは「モンゴル・インパクト」の評価についてであるが、1本目の四日市康博氏の報告では、モンゴル帝国の東アジア進出の全体像が分かりやすく描かれていた。ほかの報告者の具体的な議論にも現れたように、そのインパクトには、モンゴル的要素が中国を含む東アジア世界に広がっていく面もあれば、中国を支配して周辺へ勢力を拡大することで、一部の地域に中国化をもたらした面もあった。「モンゴル・インパクト」が立体的に描かれていたことを、非常に面白く感じた。   最近、「新清史」の議論のなかでも、清の支配者は、中華の皇帝であると同時に、多様な顔を持ち、地域と民族に対しては異なる支配の仕組みと論理を築いていたという歴史像が提示されている。清史と比べると、モンゴル帝国史の場合、モンゴル語の史料が限られている中、東アジアに関わる側面は、主に漢文の史料で記録されていて、また現存されている史料は漢文で書かれたものが圧倒的に多い。それで、ひとつの中華王朝である「元朝」のイメージが定着しやすいが、モンゴル人の主体性、またはモンゴル帝国の多元性は表に出にくくなる。近年、杉山正明先生たちの仕事で、豊かなモンゴル帝国史の歴史像が浮き彫りになり、今回の発表者の報告を聞いて、ますます感銘を持つようになった。   これとの関係で、劉先生が全体議論の時にまとめた諸論点の1つでもあるが、今回のテーマにあたる時代は、中国史におけるモンゴル人の支配と、モンゴル帝国の一部である中国への支配との二重性があり、これを「公共知」として語る時、どう扱うべきかという課題がある。さまざまな意見があるなか、従来のように、中国史の一時代として「元史」を取り上げる一方、それを超えて東アジアの文脈、またはユーラシアの文脈でどう見るべきかに関しても加筆する、という重層的な叙述手法が、葛兆光先生の発言で提示された。国民国家がさまざまな問題を抱えるにもかかわらず、すぐ解消する気配もないため、国民国家の史観を完全に廃棄するのは現実的とはいえない。むしろ、こうした重層的な歴史叙述を通じて、いままで見えてこなかった多次元の歴史像を教科書に組み込むことが、長い目でみれば、「公共知」の構築に役立つと思われる。   また、一次史料が乏しい状況に対して、モンゴル帝国史の研究者はどのように過去と対話して史実を探求してきたかという関心もあった。各報告から、編纂物の史料批判、非文字史料からの接近、人類社会の「常識」と歴史背景を踏まえた推論などの創意工夫が講じられてきたことがよく分かった。扱う時代や地域の異なる歴史家の対話を通じて、方法論について互い刺激しあうこともあり、それはまた別の意味で「公共知」へのアプローチに繋がるのであろう。   <彭浩(ほう・こう)Peng_Hao> 大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。専攻は日本近世史、東アジア国際貿易史。2012年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(文学博士)。日本学術振興会外国人特別研究員・東京大学史料編纂所特任研究員を経て現職。主な研究成果は、単著『近世日清通商関係史』(東京大学出版会、2015年)等。     2017年11月2日配信
  • エッセイ549:ナヒヤ「国史たちの対話の可能性」

    近年になって、民族主義的歴史観とそれによる歴史教育の弊害についての議論が激しくなっており、その代案として、地域史研究の視点からその歴史的流れを把握することが強調されつつある。言い換えれば、ネーションと民族単位ではなく、共通の文化的同質性をもつ一定の地域を一つの単位としてまとめることによって、これまで意識されてこなかった新たな歴史像があるのではないかと期待されている。   ここで浮かび上がる主要カテゴリーの一つが東アジアである。これに該当する地域はモンゴルを含む、中国、朝鮮半島の韓国・北朝鮮、日本などである。モンゴルを除けば、該当する国々は伝統的には海路を通じて結びついている地域であり、漢字文化圏という呼称が示すように、数千年にわたって文化的交流が活発であろ、文化的同質性を帯びている地域である。また、これらの地域の多くは13世紀から14世紀後半にかけて、モンゴルによって政治的に統合されたことがある。この期間の東アジア文化圏の文化的交流と融合は最も盛んで、その文化的影響は現在も引き続き残っていると考えるべきだろう。   高麗とモンゴルの出会いは、13世紀の初めころ、高麗側がモンゴルに貢物を献上することを約束したため、モンゴルからの使者が高麗を頻繁に訪れ、極めて横柄に法外な量の貢物を要求するようになった。そのような使者の代表格が、1221年から毎年のように貢物を受け取っては持ち帰る著古與という者であった。その著古與が1231年に貢物を受け取った帰路、鴨緑江を超えたところで死んでしまった。当時モンゴルでは、チンギス・カーンの後を継いだウゲデイが即位していたが、ウゲデイ・カーンはこの著古與の死の責任を高麗に問うて6回に亘って軍を送り込み、1259年、高麗はモンゴルに全面降伏する。   その後、済州(チェジュ)がモンゴルと出会う。済州は古くは耽羅国が成立していたが、高麗により合併。朝鮮半島と中国大陸や日本列島などをつなぐ中間的地点であり、好むと好まざるとにかかわらず、周辺地域との交流が盛んになる地政学的位置にある。一方、国際情勢が揺れ動く時には激しい変化を経験することもあった。   これまで、済州とモンゴルの最初の交流については、対立と葛藤の関係と見て、それが済州社会に与えた影響は無視するか、極小化しようとする立場を取ってきたと言える。これには、民族主義的立場を揚げる歴史観と共に、モンゴル帝国没落以後の長い歳月の間、漢族を中国支配の正統と見なし、他の種族は夷であると見る華夷論が広く深く受け継がれてきた影響が大きく作用している。しかし、最近になって、「翻って、国家と民族単位ではなく、済州の対外関係と済州の人々の生活と文化という観点から眺めてみた時、済州とモンゴルの最初の交流は済州地域のアイデンティティ形成に大きな影響を与えたのであり、これは今日でも見いだすことができる」という提案もある。例えば、済州にモンゴルから馬が持ち込まれて国営牧場が営まれていた。現在、韓国が国を挙げて保護に努めている「済州馬」は、済州島の在来種「果下馬」と北方から将来された外来種「胡馬」との混血種であり、モンゴル支配時代にモンゴル馬や西域馬とさらに混血し多品種化して残ったものだといわれている。   1265年、モンゴルのクビライ・カーンは、ある高麗人に、日本がかつては中国に使者を送って通好していたことを告げられ、翌1266年に高麗の元宗の所に使者を遣わした。その使者は2通の書簡を携えていた。1通は「日本国王」に通好を呼びかけるもの、もう1通はその使者を日本まで送り届けるよう元宗に命じるものであった。これに始まるクビライの数度の呼びかけに日本側が一切応じず、結果として日本遠征、日本で言うところの元寇あるいは蒙古襲来を引き起こすことになった。   2017年8月7日~9日に、歴史家は東アジアにおける「歴史和解」にどのような貢献ができるのかという趣旨で、「第2回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性:蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」円卓会議が北九州市で開催された。東アジア全体の視野で、モンゴルの高麗・日本侵略は、文化的には各国の自我認識を喚起し、政治的には中国中心の華夷秩序の変調を象徴するため、立場によってさまざまな歴史があることと、「国史」と東アジア国際関係史の接点に今まで意識されてこなかった新たな歴史像の確認が期待され、4か国の学者による議論も一段と熱が入った。   翌日、「蒙古襲来」遺跡見学コースで元寇資料館、箱崎宮、松原元寇防塁跡などを見学したが、ここで得られたものも大きかった。NPO法人志賀島歴史研究会の岡本顕実さんや筥崎宮宮司田村克喜さんの歴史的感覚の豊かさに驚かざるを得ない。箱崎宮の楼門には、元寇の折亀山上皇が書かれた「敵国降伏」の額が掲げられている。この4文字は、一般的には日本に攻め寄せてくる敵国を降伏させようというお祈りのように考えられる。ところが、「敵国降伏」というのは、敵国が我が国のすぐれた徳の力によって、おのずからに靡き、統一されるという「徳による王者の業なり」という。   自国史と他国史との関係をより構造的に理解するために、さまざまな歴史があることをまず確認する必要があろう。しかし、それではいつまでもばらばらであるから、その上で、異なる立場の研究者同士が対話を進めて共有できるものを模索する知的な空間の創造が求められている。   <娜荷芽(ナヒヤ)Naheya> 内蒙古大学・蒙古学学院蒙古歴史学学部助研究員。専攻は東アジア近現代史、モンゴル史。2012年東京大学大学院修了(歴史学博士)。武蔵大学、和光大学講師を経て現在に至る。主な著作:「近代内モンゴルにおける教育・文化政策研究」(博士論文、2012年)、「満洲国におけるモンゴル人中等教育――興安学院を事例に――」(『日本モンゴル学会紀要』第42号、2012年、3‐21頁)、「1930~40年代の内モンゴル東部におけるモンゴル人の活動」(『日本とモンゴル』第49巻第2号(130号)、2015年3月、108-119頁)等。       2017年10月27日配信
  • エッセイ特別号:「『蒙古襲来』という言葉をめぐって:国史たちの対話のための対話(葉文昌⇄三谷博)」

    SGRAエッセイ547(三谷博「東アジアにおける歴史対話の再開-北九州での『蒙古襲来』会議」)に関して、著者と読者の葉文昌さんとの興味深い「対話」がありましたのでご紹介します。   【葉→三谷】   エッセイを拝見しました。 大変クリアで科学的なアプローチで面白いと思いました。アナクロニズムも困ったものです。 また「国際会議に出て質問せえへんかったら、罰金やでー」も大変良いと思いました。 会議によっては現場からの質問がない、または受け付けないのもあり、澱んだ雰囲気になってしまうので。   一方で一つ気になった所があります。 タイトルが「蒙古襲来...」なのですが、「襲来」とは主観的な言葉であります。 宇宙人にでもなった第三者的な立場で歴史を表現するのが理想なので、「蒙古出兵」「蒙古進出」「蒙古侵略」(侵略は恨みの感情が入るので好ましくないが)にするべきではないでしょうか? なにか先生なりのお考えがあるのでしたら教えてください。 よろしくお願いいたします。   【三谷→葉】   はい。「蒙古襲来」は、日本の日本史教科書や学界で慣用される言葉です。「襲来」とは、ある土地から見て外部から別の集団が襲ってくるという意味です。歴史用語は、どの位置から見ても、どの主体から見ても「等価」というものは少なく、多少なりとも、特定の観点を内在させています。   代替用語としてご指摘の言葉にも、それぞれの観点が内在しています。 「蒙古出兵」・「蒙古進出」は、「出兵」や「進出」する蒙古の側からの視点で用いられ、それを受け止める側への想像力が欠けがちです。かつて世界史教科書の近代の部分で、「日本の進出」という用語が使われて、隣国から非難されたことがありますが、それはこのためです。 「蒙古侵略」は、侵略する蒙古と侵略される日本の両方を意識させ、後者の観点からの「侵略」への非難も含意します。「日本の中国侵略」という場合も同様です。   というわけで、人間社会を記述するときは、単一の観点から全体を表現することは難しく、理想的には複数の観点を同時に使うしかありません。   この度の「蒙古襲来」は専ら日本人の関心を引くために使ったもののようです。 タイトルの中でこれに続いている「グローバル化」は、まさに地球の外から見下ろす用語なので、主動者と被動者という関係への関心は薄くなります。   いかかでしょうか?   【葉→三谷】   ご回答大変ありがとうございました。 私の言葉に対する誤解かも知れませんが、私は「出兵」は「軍隊を出す」なので、事象の記述と思っております。(一方で「進出」は兵隊を送ったことをオブラートに包みすぎと思っています) 仮に「出兵」自体が片側の視点であるとしても、これをやめて、他の事象を表現する形容詞を使ったらいいのではと思っております。 歴史に、「特定の観点を内在させているもの」が許されるのであれば、歴史は二面性を持っているということになります。これは非科学的と思います。また、他国に対する主観的な表現も許されることになります。これはご指摘されたアナクロニズム(時代錯誤)とはそう変わらないです。 かたや自分の位置で物事を表す、かたや自分の時間で過去を表わす、だけの違いですので。 また「特定の観点を内在させている」こと自体が、アジアでの共通な歴史認識を不可能にしていると思います。 歴史教科書では、欧米の歴史や、本国の王道と外れた歴史に関しては、第三者的な表現となっています。 本国の歴史も、特定の観点を排除した、事象の表現に徹した、誰がどこで読んでも一様な、歴史教科書が良いのではないかと思っております。   以上、私の歴史記述に持つ理想でした。   【三谷→葉】   話が込み入ってきたので、一からやり直します。 社会を表現する言葉は、そのコンテキストが分かるように表現するのが「科学的」なのです。 自然科学では、一つのモノ、一つの現象に、一つの用語を対応させる慣行がありますが、それは何のためでしょう。それは、個々のモノ、個々の現象が、均質なものの一部で、かつ互いに干渉しないと仮定し、その間の関係を方程式で厳密に記述するためです。   翻って、社会の単位はそれぞれに異質で、かつ他との関係でのみ成り立っています。ここでは単純な方程式は成り立ちません。 人は自然科学的にはヒトの一部ですが、人Aと人Bを均質なもので互いに置き換え可能と考えることはできません。同じ条件下でも彼らは別の行動を取ることがしばしばです。 かつ、彼らは孤立した原子ではありません。生まれたときから家族に育てられ、生計も別の個人との関係なくしては成り立ちません。社会関係の中にあって初めて、生き続けられるのです。   鉄の粒が磁性を帯びて、互いに引きつけ合ったり、反発し合ったりすることがありますが、その振る舞いを理解するために個々の粒を調べる必要はありません。社会は違います。 社会を構成する個人は、そのため複数の名を与えられ、それぞれの名は特定の文脈のなかで使われます。 例えば、私の呼び名はいくつもあって、公的書類には「三谷 博」と記されますが、両親からは「ひろし」、幼友達には「ひろっちゃん」と呼ばれて育ち、学校の先生と同級生には「三谷君」、下の学年からは「三谷さん」と呼ばれ、社会に出てからはもっぱら「三谷さん」と呼ばれてきました。アメリカ人と友達になると「ヒロシ」と呼ばれるようになりましたが、今でもこれにはなじめません。日本の社会関係にあるべき、上下の関係と親しさの距離による使い分けの慣行からはみ出す用語法だからです。 つまり名前は社会関係を表現するためにあるのであって、これを「三谷博」の一つに固定されたら、どれほど居心地が悪いことでしょう。   これは日本に限られた現象ではないはずです。しかし、人類の近代には政府が税負担者を特定し、学校と試験の制度を管理するために、どの国でも名の一義性を強制してきました。このため、歴史教育の世界でも、一つの事象に正しい名は一つしかないという、現実に反する思い込みが広がっています。 日本の江戸時代には、人は複数の名を活用して生きていました。政府との関係では公式の名を名乗らされましたが、それ以外は管理の対象外で、世襲身分でがんじがらめの社会にあっても、お茶席に入り、茶名を名乗れば、互いの上下関係は消滅しました。俳句の俳名もそうです。学問の場合でも、学者たちは号を使い、身分差を越えた対話を楽しみました。つまり、名を使い分けることによって、当時の人々は場面ごとに異なる社会関係を生きていたのです。   国と国との関係も同じことで、名は当事者の関係を表現するために用いられます。社会関係を正確に、科学的に表現するには、当事者すべてを包み込みながら、それぞれの立場を表現できる言葉が必要で、ときには複数の言葉を併用せざるを得なくなるのです。   グローバル化のような、宇宙から見下ろしたような表現が可能になったのはスプートニク以後のことで、これを使った場合でも、地上にいる人間同士の関係を十分に表現できるわけではありません。無論、個々の町村、個々の府県、個々の国を超えた視野を人類が持てるようになったのは、人類始まって以来の画期的なことではありますが。   【葉→三谷】   詳しいご説明ありがとうございました。 人は均質ではなく、それぞれ複雑な考えを持つことから、 一つの事象に対して違った表現は可能であるとのことについて、先生のお考えはわかりました。 それだとアジアでそれぞれ独自の歴史記述が存在してまとまらないので、 シンプルで一様な表現にしましょうというのが私の考えでした。 お互い理解できない溝があるように感じています。 それはアジアの歴史の対話の難しさを物語っているようです。   私はグローバル化を今始まったことではなく、原始時代から絶えず続いていることと捉えています。 互いに独自文化を持っていた村落などの集合体が拡大によって他の集合体との接点を持ち(出兵もあり)、 より複雑な多様性を持ったまとまった集落を形成して行く過程がグローバル化と考えております。 直近の日本では、廃藩置県により地域の隔てがなくなり、かつテクノロジーによって文化などの伝達速度が速まった明治維新の頃と思います。 このため、私は今起こっているグローバル化を画期的とはとらえておりません。 国内の歴史でも、王道から外れた部分の歴史記述は、宇宙から地球を見下ろす表現となっております。 そのような記述を今のアジアに求めているのです。   昔攻めあっていたヨーロッパ各国の歴史は、今やEUという統一ユニットを形成しているので、 それぞれの国の歴史記述は、アジアにとって多いに参考できるのではないかと思います。 英仏の百年戦争はそれぞれどういう記述がなされているか、興味を持つ所です。 あるいは英国はEUと陸続きではないので、英国よりもEU大陸内が良いかも知れません。 今西さんの持つネットワークで、お願いしたいものです。   【三谷→葉】   返信が遅くなり、失礼いたしました。私も基本的には先生と同じ事実認識と理想を持っています。日本史をグローバルな視点から見直すことが私のライフワークです。   各国内部の視点を越える俯瞰視点が一つ見つかれば、それはありがたいことです。 しかし、私の知る限り、EUでのポーランドードイツ、フランス-ドイツが作製した共通教科書は、内容が表面的なものに留まったため、結局、使われなくなったようです。まして、東アジアでは、国の規模やそれぞれの直近の経験が大きく異なるため、一つの視点で書くのは無理があると思います。稀な例として、日中韓三国共通教材『新しい東アジアの近現代史』上・下、日本評論社、2012年がありますが、三国を同じ枠で書こうとしたために、一部にはかなりの無理が生じています。   というわけで、私は、いま可能なことは、各国それぞれに、同じ歴史事象を、国の内部からと第三者に分かるような視点(審級と哲学者は呼んでいます)と、二層を意識しつつ書くことくらいでないかと考えています。東アジアの外部の人が聴いても理解できるような言葉で語ると、自らが生まれながらに抱いている偏見に気づき、反省ができるようになり、歴史を距離を取って眺め、隣国の人とも冷静に語れるような態度が生まれるのではないかと期待しています。   【葉→三谷】   私の歴史に関する素人質問に時間をかけて真摯に向き合っていただき大変ありがとうございました。私も今週になって、ヨーロッパの歴史記述について調べた所、独仏共通歴史書があることがわかりました。両国はEUになってもなお、共通歴史書の作成には結局は失敗に終わったようで、難しさを感じます。       2017年10月ア19日配信    
  • エッセイ548:孫軍悦「歴史家の立脚点」

      「国史たちの対話の可能性―蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化―」と題するフォーラムが3日目を迎えると、議論も一段と熱が入った。専門的な応酬が飛び交うなか、本来、日、中、韓、モンゴルから一堂に会した歴史家たちの自由闊達な討論に喜ぶはずであったが、素人の私はなぜかある不安に駆られた。果たして、先生方が、このフォーラムが専門的な歴史学の国際シンポジウムとどこで、どのように違うとお考えなのか、そして「歴史家は歴史和解にどのような貢献ができるか」というフォーラムの趣旨と、ご自身の専門的な研究が、いかに内在的に結びついていると思われるのか、この2つの疑問を歴史家たち、とりわけ日本の研究者たちにぶつけたいと、率直に思った。   不安の理由は2つある。1つは、他国の史料を自由に駆使する歴史家たちの終始和やかな交流を、そのまま「国史的立場」の超越として捉えてよいのか、それとも単に現在についての歴史認識の問われない700年も前の出来事が話題の中心であったからか、という私の疑念が消えていないこと。もう1つは、蒙古襲来に関して全く無知であった私でさえも、2日間の会議でその大体の輪郭をつかむことができたぐらい、研究者たちの論文が実に素晴らしいものであっただけ、その優れた歴史研究に、<いま・ここ>に生きる歴史家自身の歴史性があまり感じられないことに、困惑を覚えたことである。   この疑念と困惑を抱えたまま、元寇史料館を見学した。史料館でボランティアで説明してくださったNPO法人志賀島歴史研究会の岡本顕実さんは、明治37年に建てられた元寇記念館を、日清戦争から敗戦までまっしぐらに突き進んだ日本軍国主義の起点に位置づけ、長崎原爆の被害者をこの記念館の犠牲者だと言い切った上で、改めてこの史料館の建てられた当初における役割と今日における歴史的意義の差異に注意を喚起する。明治37年の元寇記念館と戦後の元寇史料館だけでなく、8月9日にこの話をする自らの言説行為の歴史性をもはっきりと自覚しておられるこの方の歴史的感覚の豊かさに、私は驚かざるを得なかった。と同時に、何よりもまず史料の真偽に関心が向きがちな専門家と、なぜ、いまここで過去の出来事を語るかという理由から始めなければならぬ一般市民との、歴史に向き合う前提の違いを垣間見たような気がした。   むろん、歴史家が自己の現在における政治的立場や価値判断の基準を歴史研究に持ち込んではならないことはもはや常識である。ただ、それと、歴史を語る際に歴史家が自らの主体性乃至個性を没却すべきか否かとは、おのずと別問題だと私は思う。   丸山真男が思想史を書く難しさについて、このように述べている。「思想史を書く場合にはどんなに肌の合わない立場なり考え方でも、超越的に一刀両断するというわけに行かず、一度はその思想の内側に身を置いてそこからの展望をできるだけ忠実に観察し体得しなければならない。……その上思想史の叙述で大事なことは、さまざまの思想を内在的に把えながらしかもそこにおのずから自己の立脚点が浸透していなければならない事で、そうでないとすべてを「理解」しっぱなしの相対主義に陥って、本当の歴史的な位置づけが出来なくなってしまう。」   「自己の立脚点」がなくても歴史研究ができるのは、おそらく、学問の自律性と独立性をとりわけ強調しなければならない日本の近代史のなかで形成された、堅実な実証主義的学風を尊ぶ近代史学の一つの特質かもしれない。しかし、史学史における優れた研究業績が現実の歴史において案外みじめな役割しか果たせないこと、また、学問の世界に大きな足跡を残した歴史家の現実についての把握が意外に貧弱であることも、また歴史の教えるところであった。だからこそ、戦後、中世史家の石母田正が史料批判の実証的技術のレベルに留まるいわゆる「実証主義歴史学」の無目的、無思想、無性格を厳しく批判し、日清、日露戦争の時代に成立した東洋史学の西欧を凌駕する業績と、「その古代文化には同情と尊敬を、現在と将来にたいしては軽蔑と絶望を。この老大国の骨と肉をさまざまに刻み、解剖してみせた客観的で冷厳な『学問的』態度」との矛盾を鋭く衝いたのである。   いうまでもなく、丸山が主張しているのは、一旦自らの立場や考え方を棚上げして歴史の内部に沈潜し、徹底した実証的な研究によって甦らせた歴史像に、改めて自らの立場なり考え方にしたがって歴史的に位置付ける、ということではない。もし、歴史家の「立脚点」がその外部にあって、歴史を把握する際に棚上げできるものならば、その歴史叙述に意識的に反映させることができても、「おのずと浸透する」ことはないのではないか。私は、やはり、歴史家の確固たる「立脚点」は、歴史家の自ら生きる現実において、その人間の内部に形成されるものではないかと思う。専門的な学術的訓練のみならず、現在という歴史的な場において日々練磨していく、あらゆる事象をその内側に寄り添って歴史的に把握する方法と能力と感覚こそ、確固たる立脚点として、歴史家の個性と化して、過去の歴史への把握におのずと浸透していくのではないだろうか。   素人の考えではあるが、過去の出来事に埋没することなく、現実との緊張感のなかでしかと生きる歴史家だけが、ただ単に、苦労の多い学問的営為で獲得した歴史的知識を我々に手渡すのでなく、過去と現在との内在的連関の見える歴史の脈動をも伝えてくれるのではないか。ほとぼりの冷めた過去をあくまでも一つの研究対象として冷徹に解剖するよりも、なお現実の体温が感じられる、歴史への主体的認識のほうが、少なくとも、私には、はるかに信用できるのである。   1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が登場してから7年後の2004年に、かつてすべての中学の歴史教科書にあった「慰安婦」問題をめぐる記述が、ものの見事にすべての教科書から消えてしまった。それが2016年に「極左反日」教育のレッテルを張られ、批判の嵐に晒されながら、再び教科書に現れるまで、実に12年の歳月を要した。関東大震災における朝鮮人虐殺でさえも、政治家に「いろいろな歴史の書の中で述べられている」「さまざまな見方」の1つとされてしまう時代、もはや、歴史的事実を事実として認めさせるだけでも多大なエネルギーを費やさなければならなくなっている。この厳しい現実に直面する歴史家の辛苦は察するに余る。だからこそ、素人の私があえて、ないものねだりのような注文を申し上げる。なぜならば、<いま・ここ>に生きる歴史家の歴史叙述から、未来の歴史がすでに始まっているからである。   <孫軍悦(そん・ぐんえつ)☆Sun_Junyue> 2007年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部専任講師。専門分野は日本近現代文学、日中比較文学、翻訳論。     2017年9月28日配信  
  • エッセイ547:三谷博「東アジアにおける歴史対話の再開-北九州での『蒙古襲来』会議」

      「国史たちの対話」が始まった。第2回目だが、昨年は準備会だったので実質的には第1回である。東アジアには、国ごとに「国史」があり、その間には一見越えがたいほどの溝がある。これを架橋し、さらには何かを共有できるまで持って行けないか。これが「国史たちの対話」の意味である。渥美財団の元締め、今西淳子さんが命名してくださった。   今年から4回、東アジアの国際関係をめぐる歴史的事件を取り上げて、関係国の歴史家たちを招き、議論してゆく。今年のテーマはいわゆる元冦で、ここから次第に時代を下ってゆく計画である。   東アジアの各国すべてに関係する事件を取り上げるので、集まるのは主に国際関係の専門家である。しかし、我々はここに国内史の専門家も日本と韓国から招いた。普段は国際関係史やその背後の政治的意味に無関心な人々が、このワークショップの中でどう反応するか。こうした会議に意味を認めてくれるか否か。今回の「国史たちの対話」では、こうした点も大事な課題として設定した。そのためもあって、同時通訳を日-中、日-韓、さらに中-韓の間で用意した。遠い過去に関する専門用語が飛び交う通訳は大変だったはずであるが、概ねよく分かる通訳をしてくださった。深く感謝したい。   「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」というテーマは、東アジアの諸国民をとにかく対話のテーブルに着かせるために設定された。今世紀の初頭には数々の歴史共同研究が試みられたが、当時のように近代の問題を取り上げると、日本人が自動的に被告席に着くことになる。対等な対話が不可能になるだけでなく、領土問題が先鋭化している現在、テーブルに着こうとする日本人はほとんどいなくなっている。   これに対し、蒙古襲来という遠い過去は現在から心理的な距離をとりやすい。とくに東アジア3国の国民は、いま流行の表現をすればみな被害者である。高麗は厳しい統治下に置かれ、中国にはモンゴル王朝が生れ、日本は征服を免れたものの、防御にかなりの犠牲を払った。被害者同士だから対等な立場で冷静に議論ができる。ただし、この会議にはモンゴル人の歴史家を3人お招きした。しかし、彼らは加害者の子孫として扱われたわけではない。日本人はモンゴル人の横綱を当然のように受け入れていて、彼らと元冦を結びつけることはないし、今回の会議では韓国の研究者も何ら非難がましい言葉を語らなかった。   だからといって、この歴史対話が政治的磁場の外にあったわけではない。元朝は果たして大モンゴル・ウルスの一つなのか、中国王朝の一つなのか。モンゴル人民共和国と中国の内蒙古自治区から来たモンゴル民族、および漢民族、3つの出自を持つ歴史家たちの間で議論が行われたようである。筆者は十分に聞き取れなかったが、葛兆光さんは中国の専門家の中には二つの解釈が同時に成立すると考える人がいると指摘した。世界の歴史学界では、現在の国家的枠組みをそのまま過去に持ち込むアナクロニズム(時代の取違え)は厳しく批判されるが、東アジアの政府や世論は当然のようにそう行動することが多い。世界からの嘲りを自ら誘うのは賢明なことだろうか。   発表と議論の中には筆者にとって特に印象的なものが二三あった。一つは四日市康博さんの指摘で、クビライが日本に3度目の侵攻を準備しており、彼の死がその実行を妨げたこと、およびベトナムやジャワ(そんなに遠くまで!)が防戦に成功した後、直ちに元朝に朝貢を始めた事実である。モンゴルを撃退した後の日本は、交易は再開したが、外交的な配慮はしなかった。国際関係への不慣れとその背後にある日本の孤立性が思われたことであった。   他方、モンゴルに服属させられた後の高麗の姿も印象的であった。仮に日本も攻略されたとして、何が起きただろうか。天皇家が断絶した可能性もあるが、その一部が元朝に従属し、李命美さんが高麗について紹介したように、元朝の王女を妃に迎えるということもありえたかもしれない。この思考実験は日本史上の難問の一つである天皇制の理解にかなり寄与してくれるのではないかと感じた。   高麗については、趙阮さんの取上げた食文化の変化も興味深かった。高麗王朝の奉じていた仏教は肉食を禁じていたが、モンゴルの支配下でそれが定着したという。政治的支配が終っても、一旦変化した生活文化は持続する。歴史を長期的に見る場合、政治史以上に生活文化史は重要となると感じた。家族の構造や男女間の関係も社会構造の柱の一つであるが、これも征服を通じて変わることがあるのだろうか。朝鮮王朝の場合、19世紀初頭に至るまで子供は母の家で育てられた。では、モンゴルからの公女が産んだ子はどこで育てられたのだろうか。宮中か、外か、そもそもモンゴルでは夫と妻のどちらの家で子供を育てたのだろうか。こんな問いが次々に浮んできたことであった。   このように、この会議の諸発表は、東アジア全体の動きに注目すると、国際関係だけでなく、個別の国と社会をより深く理解する手掛りも示してくれた。会場に招いた日本と韓国の国内史の専門家はどう感じ取っただろうか。注意深く耳を傾けてくださったのは間違いないが、さらに進み、機を見て遠慮なく質問をしてくれたら、会議はもっとエクサイティングになったのではないかと思う。筆者は総括討論の最後になって、「国際会議に出て質問せえへんかったら、罰金やでー」というある先生の言葉を引用し、発言を促した。会議冒頭の挨拶の中で用意していたのだが、うっかり言及を忘れてしまったのが悔やまれてならない。招待者は、一旦口を開くとみな的確で興味深い指摘をした。次回からは、ぜひ最初から発言してほしいものである。   会議は全体で三日。二日目は朝から夕方までびっしりと発表が続き、筆者は総括討論の朝はかなりへばっていた。しかし、司会の劉傑さんは見事な交通整理の枠組を提示し、とりわけ韓国側の責任者趙珖先生は発表の一つ一つについて簡潔かつ的確にまとめ、討論の出発点を提供してくださった。お忙しい公務の時間を割いて駆けつけてくださってのことである。次回のソウルでの会議は、きっともっと楽しく、有意義なものになるに違いない。そう確信した。   <三谷博(みたに・ひろし)MITANI_Hiroshi> 1978年東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程を単位取得退学。東京大学文学部助手、学習院女子短期大学専任講師・助教授を経て、1988年東京大学教養学部助教授、その後東京大学大学院総合文化研究科教授などを歴任。現在、跡見学園女子大学教授、東京大学名誉教授。文学博士(東京大学)。専門分野は19世紀日本の政治外交史、東アジア地域史、ナショナリズム・民主化・革命の比較史、歴史学方法論。主な著作:『明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動』(山川出版社、1997年)、『明治維新を考える』(岩波書店、2012年)、『愛国・革命・民主』(筑摩書房、2013年)など。共著に『国境を越える歴史認識-日中対話の試み』(東京大学出版会、2006年)(劉傑・楊大慶と)など多数。   中国語版   韓国語版       2017年9月21日配信
  • エッセイ546:盧ジュウン「震災と情報」

    2011年3月の東日本大震災と2016年4月の熊本地震を直接的あるいは間接的に経験した人々の中には、震災による被害のみならず、震災時に飛び交った流言飛語について少しでも聞いたことがあると思う。特に、2011年の大震災は「風評被害」の例としてもよく知られている。福島原発事故に関する正確な情報が得られなかったことにその原因があった。また、そのときに多くの在日外国人が帰国し、それらの外国人を指す「フライ人」という新造語が出現したこともある。   「フライ人」とは、逃げるという否定的イメージが含まれ、都合の悪い時には友達になれない人という日本人からの視線が反映された当時の新造語である(※1)。彼らの出国には本国からの国外避難勧告、家族の心配などの様々な理由があったが、彼らの判断・行動に大きな影響を与えたのは震災にかかわる情報であり、当時、日本にいた外国人はそれぞれの様々な情報源があったと思われる。   震災時の流言が注目されるのは、流言には、人々を動かす、行動させる力があるからであろう。もっと正確にいうと、「流言の力」よりは「情報の力」として捉えた方がいい。当時は情報として人々に受け入れられたものが、事後の真相調査や判断によって流言として判明されるからである。震災に対する恐怖に襲われている上に、それを刺激する情報まで加えると、人々の行動は統制できなくなる。その代表的な例が1923年の関東大震災時における朝鮮人虐殺である。「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が放火した」などの流言飛語が広まり、自警団、軍隊、警察が6,000名以上の在日朝鮮人を虐殺した事件である。   当時、日本政府を含め、多くの日本民衆が朝鮮人に関して流された情報を信じた一方で、それらの情報に対抗した人々もいた。一つの例としては、鹿島家の人がいる。1840年に鹿島岩吉が創業し、1880年に鹿島組が創立され鹿島岩蔵が初代組長になったが、1923年当時、鹿島組の組長は1912年に就任した鹿島精一であった(1947年に社名を鹿島建設株式会社に改称)。この鹿島精一の義弟である鹿島龍蔵がその存在である。   鹿島龍蔵は鹿島家では「文化人」として文学界の人々と親しく付き合った人物として記憶されているようである。関東大震災を経験した彼は1923年9月1日より9月10日までの震災記録「天災日記」を書き残した。「天災日記」は1927年に『第二涸泉集』(鹿島組編輯部)に収録され、2008年に出版された武村雅之の『天災日記―鹿島龍蔵と関東大震災』(鹿島出版会)にもその原文が載せられている(「天災日記」が最初に掲載されたのは『鹿島組月報』1924年3月号だったという―武村雅之編著『天災日記―鹿島龍蔵と関東大震災』99頁)。   関東大震災当時、木挽町9丁目(現・銀座7丁目)にあった鹿島組本店と、深川区島田町9番地(現・江東区木場2丁目)にあった、渥美財団理事長の母親である鹿島卯女が住んでいた深川鹿島邸は被害を受けた。特に深川鹿島邸は火災の被害が大きかったという(※2)。一方、鹿島龍蔵の田端鹿島邸は震災の被害がなかったため、200名の避難民を家に受け入れたという。ところが9月2日の夜、朝鮮人に関する情報が田端鹿島邸にも入ってきて200名の避難民は騒ぎ出し始めた。この状況は危ないと判断した鹿島龍蔵は、避難民に向けて「即ち昨夜の火の様子と比較して、今夜のは話にならぬ程小且つ弱なる事、地震のゆりかえしは心配無い事、不逞鮮人(ママ)の暴挙等は歯牙にかくるに足らざる事」を大声で話した(『天災日記―鹿島龍蔵と関東大震災』35頁)。その結果、田端鹿島邸の避難民は落ち着くようになり、無事に夜を過ごしたという。狂気のように一方的に流された情報に対抗した情報の力として理解できるだろう。   鹿島龍蔵の「天災日記」は、内閣府の「災害教訓の継承に関する専門調査会」が2008年に出した報告書『1923関東大震災 第2編』に紹介されている。内閣府の中央防災会議においては、「災害教訓を計画的・体系的に整理のうえ、概ね10年程度にわたって整理し、教訓テキストを整備すること」を目的とする「災害教訓の継承に関する専門調査会」を2003年に設置し、その専門調査会は2009年まで『1923関東大震災 第1・2・3編』を出した。『1923関東大震災 第2編』の第4章第2節「殺傷事件の発生」には朝鮮人虐殺についてまとめており、政府の報告書として朝鮮人虐殺を取り上げた稀な資料である。しかし、内閣府防災情報ホームページで閲覧できたこれらの報告書が、最近ホームページから削除され問題となったことがある。   朝日新聞の2017年4月19日付記事は、最近「災害教訓の継承に関する専門調査会」が作った報告書『1923関東大震災 第1~3編』がホームページから削除されたことを伝えながら、この報告書の一部が朝鮮人虐殺を扱っているため、「内容的に批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をした」と担当者が説明したと報道した。だが、この掲載削除に対する非難があったからか、その翌日の報道をもって内閣府は「閲覧できない理由を『HPの刷新に伴うもの』とし、意図的な削除ではない」と説明した(『朝日新聞』2017年4月20日付)。その後、報告書が削除された理由を「技術的問題」のためとして説明した内閣府は(『朝日新聞』2017年4月20日付)、4月20日に報告書を再び掲載した(『朝日新聞』2017年4月21日付)。   私が確認した結果、この報告書が閲覧できた以前のURLは現在使えなくなった。報告書は新しいURLを以て公開されることとなったが、新たに閲覧できるようになったURLを以前のURLと比べてみると、変更は「1923-kantoDAISHINSAI」の部分が「1923_kanto_daishinsai」になったことだけであった。「技術的問題」には素人である私としては、ホームページの刷新やURLの変更という作業が数日の時間がかかることかはわからない。また、掲載削除に関する担当者の説明(4月19日付報道)は事実かどうかについても知られていないが、これらの新聞報道や内閣府の反応から、朝鮮人虐殺の歴史はまだ日本社会においては敏感なテーマであることがわかるだろう。震災と情報という観点からの教訓が得られる歴史として、落ち着いた雰囲気の中で一般的に朝鮮人虐殺について話し合える日が来るのを期待している。   ※1:“Flyjins are those foreigners who have fled Japan during the last week and who some Japanese people now view as merely fair-weather friends.” ※2:震災前の深川鹿島邸の写真が見られる鹿島卯女著の『深川の家』(鹿島出版会、1976)は渥美財団や日本国立国会図書館に所蔵されている。また、関東大震災と鹿島については鹿島建設のホームページに詳しい説明がある。   <盧ジュウン(ノ・ジュウン)NOH_Jooeun> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。韓国の延世大学大学院で歴史(東洋史)を専攻。2017年、東京大学大学院学際情報学府博士課程を満期退学。専門は関東大震災研究。現在、東京大学大学院学際情報学府大学院研究生。     2017年8月31日配信  
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