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  • エッセイ667:尹在彦「ミャンマー問題と韓国、そしてアジアの民主主義」

      韓国はこれまで、他国の民主主義の問題に深く関与してこなかった。1990年代以降においてようやく民主化したという認識より、国内事情が優先視された。他方で欧米、とりわけ米国による民主化支援への不信感も影響していた。韓国が権威主義体制に置かれていた時代、米国は冷戦体制を理由に韓国の民主化に後ろ向きだった。1970年代には朴正煕政権が自らの人権弾圧問題を覆い隠すため、米議会にお金をばらまく、いわゆる「コリア・ゲート」も発覚する。そのため、韓国では民主化が外部要因なしに「自生的」に成し遂げられたという認識が強い。   ただし、一つの例外があるとしたら、それはミャンマー問題だ。韓国は日本と共に難民問題に極めて消極的だ(2019年の難民認定率は両国ともに0.4%)と知られているが、毎年最も多く認定されているのはミャンマー国籍の人々だ。アウンサン・スーチー率いる国民民主連盟(NLD)の韓国支部も1997年に設立されている。同年に大統領に当選した金大中は、国際社会で軍事独裁政権に対抗したスーチーへの支持を呼び掛けていた。自伝で金大中はミャンマー問題への特別な関心を述べている。   このような背景から年初に勃発したミャンマー軍部のクーデターは、韓国政府にとって無視するわけにはいかない事案だった。デモ隊に対する軍人・警察の弾圧は、韓国のニュースにも盛んに取り上げられている。文在寅政権は3月以降、次々と行動に出ている。文在寅本人は3月6日「ミャンマー軍と警察の暴力的な鎮圧を糾弾し、アウンサン・スーチー国家顧問をはじめとした収監された人々の釈放を求める」とSNS上で訴えた。12日にはミャンマー軍部への軍事物資の禁輸措置を取り、政府開発援助(ODA)の見直しも示唆した。韓国政府のミャンマーに対するODA規模は約9000万ドル規模(2019年)で、これまでの抑制的対応から一転したとの評価も出ている。   韓国は中国の少数民族(ウイグル、チベット)や香港の問題に対しては発言を控えており、北朝鮮人権問題においても政権によって正反対の反応を示してきた。こういった事案は基本的な外交路線、即ち「国益」とも深く結びついており、単純に「人権・価値」だけで対処できる問題ではない。日本も米国との「安全保障協議委員会(2+2)」で中国を名指しで非難したものの、EUや米国の制裁には追随していない。中国の激しい反発や経済問題の影響もあると考えられる。   現地のミャンマーでは韓国政府の対応がそれなりに評価されているようだ。ツイッターやフェイスブック上で韓国政府や韓国人に支援を求めるコメントは少なくなく、ミャンマー人の韓国語の書き込みも多くみられる。   3月16日、日本のラジオ番組(「荻上チキSession」)に出演したミャンマー人留学生はあえて韓国に言及しながら、日本人の支援が必要だと切実に訴えた。しかし、残念ながら日本社会の反応は普段の反中感情と絡み合った中国問題に比べると生ぬるい。個人的に違和感を覚えたのは日本のニュースの伝え方だった。3月2日、NHKは「『申し訳ありません』在日ミャンマー人 コロナ禍のデモ」といったタイトルで「自粛中にも関わらずデモを行っていることへの申し訳なさ」を表現するミャンマー人の様子を伝えている。韓国でも在韓ミャンマー人のデモが展開されているが、同様のタイトルは見たことがない。日本ではコロナを理由にデモを禁じていない(韓国では人数制限がかかっている)。なのに、ラジオ番組に出演したミャンマー人留学生はネットニュースのコメント欄に数多くの非難(「デモをやるべきではない」など)が寄せられたことに衝撃を受けたという。   ヨーロッパのような国際人権機構はアジアに存在しない。さらに、アジアで民主主義国とされる国は少数にとどまっている。域内の人権問題に対し、アジアの民主主義国が一丸となり声を上げることは容易ではない。中国や北朝鮮の事例からも見られるように、安保や国益などが複雑に絡み合っている。よく知られている通り、天安門事件以降、中国への経済制裁を最初に解除した先進国は日本であり、経済や歴史問題への考慮があったと言われている。しかし、経済的側面を優先する民主化支援はそれほど効果的ではない。1990年代以降、日本が積極的に支援しているカンボジアでは、フン・セン首相が独裁政権を築いており、民主主義とは程遠い状況が続いている。ミャンマー問題においても「日本は軍部とのつながりがあり自制を求めている」などの報道は見かけるものの、実質的な措置はほとんどとられていない。   如何なる民主化支援もある程度は「内政干渉」を伴う。権威主義体制下ではコロナ禍を機に市民の動きを制限する動きも増えている。日本と韓国のような民主主義国家の役割は何だろうか、どんな役割を果たして協力できるか、非常に重要な課題だ。もちろん、現状では懐疑的にならざるを得ないが、アジアの悲惨な状況からするとそれなりに協力はできる分野だと思う。     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。     2021年4月15日配信
  • エッセイ666:尹在彦「ヴィクトリアピークの霧」

      1990年代までの韓国にとって、香港は文化の輸入が許された唯一のアジアの「先進地域」だった。韓国では長らく日本文化、特に映像コンテンツが禁止されていたため、香港を舞台にした様々な映画は憧れとして受け止められた。香港映画は旧正月やお盆の「引っ張りだこ」で、多くの韓国人を魅了した。イギリスの植民地ということもあってか、映画には多様な人種の人々が登場する。これもまた異国情緒を醸し出す要素だった。90年代を風靡した王家衛(監督)の映画は社会的なブームまで引き起こした。香港は民主化したばかりの韓国社会にとって「自由の象徴」でもあった。   韓国人の目線から見る現在の香港は複雑だ。香港は「帝国主義の被害地域」でありつつも、現在においては権威主義体制の激しい弾圧を受けている。韓国は歴史上、香港と同様の経験(植民地・独裁政権)をしており、そこから何とか抜け出した国である。そのため、私は香港に関して欧米系メディアの一方的な論調に比べれば中立的な話ができると思う。   香港は英国の帝国主義による植民地化で、中国では「百年国恥」の象徴として語られる(しかし、倉田徹・張イクマンによると香港が本土で注目され始めたのは90年代以降のことという(『香港』126頁)。宗主国(である)英国は、統治下の香港人に対しある程度の自由こそ与えたが、民主的な権利、即ち選挙権は80年代まで保障しようとしなかった。   1980年代に入り、英中間の返還交渉が進むにつれ、英国は急遽、新たな選挙制度を取り入れ始める。特に最後の総督、クリス・パッテンは返還日が近づく中で、無理をしてまで制度改革を推し進めた。やはりこれでは、英国の香港の民主主義に対する「本気度」が疑われても仕方ない。しかし、こういった側面は現状の香港問題を取り上げる中であまり注目されていない。特に欧米のメディアではそうである。返還交渉の結果、民主制度を50年間保障するとの取り決めに中国が合意したこと(一国両制)も重要であるが、英国に現状の問題への責任が全くないかといえばそうとは限らない。   1997年に香港が中国に返還されて以降、何度か大規模なデモが行われた。特に世界的に注目を浴びたのは2014年秋の雨傘運動だ。私は2013年と14年に取材のために香港を訪れた。13年には香港政治とは関係のない出張で、正直「暑い」という印象しかなかった。思っていたより英国色が薄いことも記憶には残った。   ところが、14年11月の出張では香港への見方も多少変わっていた。香港の若者問題をより詳しく知りたく、仕事とは直接的関係はなかったが若者の話を聞いてみた。気づかされたのは若者の経済的苦境だった。香港大学には現地人・本土人・留学生の3グループがあり、現地人学生の就職が最も厳しいという。広東語や英語だけではなかなか良い仕事にはありつけず、本土から来た優秀な学生たちが多国籍企業の本土進出の人材としてちやほやされているということだった。香港出身の若者たちにとって憧れの金融業への就職はまさに狭き門で、IT部門への就職は門戸が開かれているが、給料が非常に低かった。2010年代以降の若者を中心とした抵抗が、単純に政治問題でなく、経済問題が絡み合っていることを改めて実感した。   そういった若者たちの不満は解消されずむしろ膨らんでいった。それが2019年の法律改正の問題と相まって、中国政府に矛先が向かうようになったのだろう。これに対し中国政府は最初、トランプ(政権)との関係上、様子見の姿勢をとったが、コロナ禍の中で急速に規制を強めている。民主化運動の象徴とされた学生や起業家は次々と収監され、現在はほぼ芽が摘まれた状態だ。しかも、今年の全国人民代表大会(全人大)では「香港の代表者は愛国者に限る」といった法案が成立した。私は「国への愛し方」には様々なものがあり、人それぞれ違うと考える。そうした中で、香港では民主主義だけでなく、英統治下でもそれなりに守られていた自由が危うくなっている。世界的な支援の手が届かないコロナ時代は弾圧の格好の口実になっている。   韓国でも1980年代まで同様の理由で数多くの人(とりわけ大学生)が弾圧され、一部は国により殺害された。軍事政権は「内政干渉」を理由に、NGO等の介入を拒み続けていた。ただ、現在と構図が逆転している現象もあった。レーガン政権は全斗煥政権を認めていた。これに対し大学生らは米国大使館に対し「内政干渉(=独裁政権の認定)をやめろ」と叫ぶなど、反米運動を展開した。   香港に行くたびになぜか一度も欠かさずに登ったのが、夜景スポットのヴィクトリアピークだ。最後に訪れたのは2019年のことで、大規模デモの直前だった。しかし、霧があまりにもひどくて何も見えなかった。初めてのことで、まさに香港の未来を象徴するような光景だった。香港は中国だけでなく、アジアの民主主義の将来を占うカギを握っている。これからも香港をウォッチしなければならない。     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。     2021年4月8日配信
  • エッセイ665:フランコ・セレナ「私の『幸福の場』」

      日本に初めて足を踏み込んでから何年も経ったが、今でもその頃のことを忘れることができない。当時はホームステイしながら生活していた。出発前は楽しみで仕方なかったが、日本に住み着いてからすぐ様々な壁にぶつかって落ち込む日々が始まった。その気持ちの処理方法が分からなくて、ホームステイ先の寝室で眠りにつくと母国にいる夢を見ていたことを今でも鮮明に覚えている。長い年月が経過して、私は今も日本に住んでいる。初めて日本に来た私に会うことができれば、「慣れてくるものさ、なんとかなるよ」と励ましの言葉をかけてあげたい。それだけではない。何よりも一つの助言を与えたい。「これさえあればちょっと幸せだなと思える『幸福の場』を常に心の中に持っていたほうがいいよ」ということである。   日本文化と日本語に触れ始めたのは、小さい時から興味があったのではなく、単に家族に逆らうためだった。小学校の時から高校までは家族の期待に応えるためだけに勉学に励んでいて、学問に関してはこれを知りたいという好奇心がほとんどなく、学校の課題に漫然と取り組んでいた。反抗期というのは誰にでも訪れる。私の場合はそれが大学1年生の時だった。当時は家族の期待を押し切ってでも自分の意思を貫きたいという考えにとらわれていた。日本語と日本文化に関心がなかったにもかかわらず、家族の反対に耳を傾けることなく、大学で日本語と日本文化を勉強しようと決めた。しかし、ついに日本にやって来た時、日本のことを学ぶ動機が家族への反抗に過ぎず、日本の言葉と文化を学んできたのにその学習には心を込めたことがなかったことに気づいた。特に日本文化に対する理解を示そうとしても誤解されることがほとんどで、大学で学んできたことをむなしく感じていた。落胆して帰国することばかり考えていた。   その私を救ってくれたのは日本語の先生だった。先生は日本の伝統芸能の知識が豊富で、特に歌舞伎に精通していた。ある日、落ち込んでいる私を見て、歌舞伎を見てみないかと誘ってくれた。当時の私は何に対してもマイナス思考で、歌舞伎に対しては堅苦しい、分かりづらいという印象しかなく、わざわざ銀座まで歌舞伎を見に行くのは気が重かった。それでも断るのが得意でなかったので、不本位ながらその先生のお誘いを受けることになった。   歌舞伎座へ入った瞬間に、歌舞伎の世界は思っていたのとは別物だということに気づいた。公演の前に顧客が売店を見回ったり、演目の概要を読んだりしながらにぎやかにおしゃべりをしていた。なんか、楽しそうだなと薄々思い始めた。そして、公演が始まった。歌舞伎は動きが少なく、聞きなれていない日本語で延々と演技し続けるものかと思ったら、躍動感のある場面も多かった。動きは少なくてもそれぞれ美しく、少ないからこそ感情であふれている。気が付くと、歌舞伎役者の鍛錬された動きと美しい台詞に魅了されている私がいた。あっという間に5時間がたっていた。   公演が終わった時、ちょっとした幸福感に包まれていた。その時初めて、このように日常生活を忘れることができる「幸福の場」、歌舞伎がある日本をもっと理解したいと「心から」思った。私の日本の見方はがらりと変わった。多くの壁にぶつかって辛い思いをしても、自分だけの「幸福の場」があると何でも乗り越えられると思えるようになった。誤解されることがあっても、それをばねにしてどうやってこの誤解が解けるかに力を注ぐことにした。歌舞伎は私を救ったといっても過言ではない。   この経験から、昔の自分に会えばこんなことを言いたい。何かをやり始めるきっかけは様々な形で巡り合える。その中には、興味が湧いてきてつかんだきっかけもあれば、偶然に現れるきっかけもある。あるきかっけをつかめば人生の新たな道が開かれる。時には自分には合わない道を選ぶこともあるし、その道を必ず歩み続けなければいけないというわけでもない。それでも、「幸福の場」を見つけることができて、この道を歩み続けたいと思っているのであれば、間違った道ではないかもしれない。     <フランコ・セレナ Franco SERENA> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。イタリア共和国ベネト州出身。2015年度慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程(民事法学専攻)修了、2020年度慶應義塾大学院法学研究科後期博士課程(民事法学専攻)単位取得退学。2020年度より筑波大学社会・国際学群非常勤講師、2021年度より武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部専任講師。     2021年4月1日配信
  • エッセイ664:頼思妤「漂泊の狸」

      渥美国際交流財団のロゴの狸は、創始者の故渥美健夫鹿島建設会長が生前によく描いておられたものだそうです。   初めてこの狸のロゴを見た時、私は子供の頃に見たジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」をふと思い出しました。この映画は純粋さや素朴さがある一方不思議な現実味も帯びた作品で、物語の終盤では狸たちの一部が人間に化けて人として都会で生きていこうと努力する様子が描かれます。留学生として日本に来た時、私はちょうどフランスとアメリカへの訪問を終えたところでした。それぞれの国で非母語的な環境に身を置くと、だんだんと生活には慣れてはくるものの、なぜか時折そのままではいられないような気分になりがちです。映画はそんな自分に、「化ける」能力がある狸ですら異文化社会で苦労したのだから、普通の人間である私が短時間で次々と新しい環境に適応するには、頑張る以外に何もないのだという決意を思い出させてくれました。   台湾から日本に来た頃、私の台北の友人は「東京に行けるとは羨ましいよ。東京の人たちは謙虚で礼儀正しいからね」と言いました。それからパリに行く機会があった時、東京の友人は「パリに行けるとはいいね。ロマンチックで詩的なところだから」と言いました。そして、アメリカでは、知り合いの全員が「ボストンに行けるなんていいね。あそこの学生は明るくて自信がある上に、やる気がある」と言いました。皆、私が旅先で出会う新しい知り合いが本当にニュースやネット上で伝えられている通りなのか、興味津々なのです。もちろん彼らは単純にSNSなどで目にした記事を元に気楽に私に尋ねただけだったのかもしれません。   しかし、実際に私の日常生活で起こるのは報道やインターネットから伝わる様子とはまるで別のことばかりでした。友達との実際の会話は、政治などの大事件よりも身近な出来事、自分達の街での出来事、お互いの研究の内容が多く、ゆえにSNSのみを通じて外の世界を知ろうとしたり、知った気分になったりしてしまう現在の潮流に私はしばしば違和感を覚えました。インターネット上に現れる東京は私が知っている東京ではなく、パリやボストンもまた然り。とある地域について、とあるトピックだけに焦点をあてて議論していては、その土地に存在している他の多くの人々が抱える思いや考えをたやすく見逃してしまうのだと、最近特に強く感じます。   私たちは、それぞれがそれぞれの経験によって自我を形成し、その結果、多様な個人として生きています。人それぞれの経験の違いは、国や言語の違いよりも重要だと私は思っており、SNSから吸収した偏見を持っていては、外の世界で真の友情を育むことができないのです。何年にもわたる異国での旅と留学を、私はいくつもの「国」を見て来たというよりは、いくつもの国の「友」と心を通じ合わせてきたと表現したくなります。なぜなら、政策や経済の発展状況よりも、そこで暮らしている人々の思いやりと温もりこそが、最も深く私の記憶に刻まれていて、その数々が今の私を作り上げているからです。たくさんの土地を踏み、多様な文化を学び続けながら私が私でいられたのは、多くの人々に助けられ、恵まれていたからでした。   このような心境を経験したので、渥美財団の狸のロゴを見ると今は心に特別な親近感が湧いてきます。同期の渥美奨学生と交流し、事務局のみなさんが見守ってくださったおかげで、私は無事にこの一年間を自らの心を見つめながら、穏やかに過ごすことが出来ました。またこうした日々の中で、これまでに心に積もった数年分の研究上の知識や人生における知恵を整理することが出来ました。日本での留学を終えた今、いくつもの縁に導かれて東京に来たこと、私が最も落ち込んでいる時、私を信じてくれた人達、出会った全ての人に感謝しています。人生の全ての体験が、良くも悪くも私という小さな苗を成長させてくれました。与えられた栄養を頑張って吸収し、辛い経験は逆「増上縁」と化して、心を強く鍛えてくれました。   長かったり短かったりする別れを次々に経験していくのは留学生の常だと思います。昔はよく切ない気持ちになりましたが、今は、別れというものはその度に誰かが一歩前に進んだことを意味するのだから、喜んで祝福すべきだと思っています。現代社会において、頑張って生きている人(狸)達は、実は皆、自分の孤独な惑星を歩いているようなものです。没頭してひたすら歩いていると、ふとした瞬間に遠くにいる誰かが自分のことを思い出してくれていることに気がつくのです。その時、心に流れ込んでくる暖かさこそが、最も安堵に満ちた寂しさだと私は思います。   <頼思妤(ライ・スーユ)LAI Sihyu> 東京大学大学院文学博士。現職は台湾の中央研究院博士後研究員。日本学術振興会特別研究員(DC1)の経験あり。フランス高等研究実習院(EPHE)、ハーバード大学等での短期訪問研究の経験あり。朝日新聞、台北経済文化代表処等での勤務経験あり。     2021年3月25日配信
  • エッセイ663:陳昭「2020年の不完全的羅列」

      このエッセイは去年(2020年)3月に書くべきものであった。 延滞したのは不測の事態が次々と起こり、その対応に追われ、書く余裕がなかったからだと、自分にはそう言い聞かせていた。しかし本当は「振り返るのが辛くて逃げていたから何も書けなかったのかもしれない」という気持ちも心のどこかにある。   目の前に起こっている予想外の現実には「臨機応変でいなければならない」と理性では分かっているつもりだった。しかし、そこにある現実があまりに予想外なゆえに、たとえ対処するために行動したとしても、リアリティとして受けとめるところまでは心が付いていけなかった。「嘘だろう」と思いつつも、拒絶不可能な実態に振り回されてばっかりだった。   こうした、現状への対応と現実の消化との間に乖離が生じてしまう1年であった。いまだに収束が見えない新コロナウイルス感染症の拡大において、こういう気持ちになるのは、決して私一人ではないだろう。   この1年の出来事を鳥瞰的通時的に記録できるなら、どんなに壮大なフィルムになるだろう。また、異なる国の政治体制と予防対策の関係、人種や社会慣習が持つ影響力など、このフィルムを見るフィルターも様々。しかし、コロナ禍の真ん中に生きる一人として、なにか書こうとすれば、やはり身を以て経験していた虫観的な世界になる。   2020年2月、中国は全面封鎖。予定していた中国への一時帰国の中止を余儀なくされた。3月には住んでいた寮の入居期間が切れ、残りの留学ビザは5月まで。もともとは帰国してしばらく中国で就活でもするつもりだったので、日本ではすぐに新しい住まいを構えなくてもいいと思っていた。そこから慌てて部屋探しを始めた。学校の近く、外国人可の物件に絞って探していたが、2ヶ月しかないビザが問題となった。更新予定と説明しても難色を示す大家さんが多い。   その中、今になっても思い出すと引っかかることがある。築40年も超えた物件だが、間取りはよくて広めだったのでさっそく申し込もうとした。申請して2日目になってから、仲介さんからの電話があって、大家さんは外国人がやはりだめだと断られてしまった。いろいろと聞いているうちに、大家さんはご高齢で、どうもコロナで中国人に貸すのは不安があるらしい。渡航歴がないとはいえ、付き合いも中国人が多いだろうから不安だそうだ。仕方がないと諦めたその夜、寮に帰ったら、事務室の方から武漢差別やコロナ差別について寮生を対象に調査依頼が都から来たと話を聞いた。幸い日本ではヨーロッパほど差別が深刻にならなかった。また、面白いことに「東大生はだめ」と電話で断わられた物件もあった。お爺さんぽい声だった。どうも駒場近辺の高齢の大家さんたちは「コロナ」と「東大生」が苦手だそうだ。   2020月3月、駆け足で引っ越しを終えた。疲労の重なりと季節の変わり目で体調を崩してしまった。風邪症状に半端ない倦怠感が伴った。手先が腫れているような、感覚が鈍くなる感じ。下痢と咳は症状発覚から3日目で出て、軽い症状が続いたが一週間以内には消えていた。38度超える熱は一晩だけで、ほとんど37.0度~37.3度の間であった。当時PCR検査は37.5度以上の熱で3日続くのが条件であったため、検査を受けることができず、自宅で外出を自粛していた。当初日本ではコロナ感染に対してまだ意識が低かったが、渥美財団の方々と相談の上、奨学金を受けた年度末に行われる研究報告会は資料提出のみとなった。発症から10日目ぐらいでほとんどの症状は消えた。倦怠感が繰り返し出てはいたけど、2週間目になるとそれも治った。   2020月4月、自分の体調はよくなったが、日本の感染状況は悪化する一方だ。さらに、浴室で転んでしまった。後頭部を床にぶつけないようにバランスを取ろうとして足を極度に伸ばした際、膝の軟骨を傷つけてしまった。受診したところまず静養だと言われたが、1ヶ月経っても回復せず、足を伸ばすこともできなくなった。外出どころか、トイレへ行くのにも苦労する日々だ。今まで味わったことのない無力感。家族がそばにいない孤独感。「どこにも行けない、ここに閉じ込められているのだ」と、トイレの回数を減らすために水すら飲むのを控えてしまうたびにそう思う。支えになってくれたのは近所に住む研究室の仲間や友人だ。食材の調達やごみ出し、体調不良の時は中国の家族から送ってきた漢方の薬を玄関の前に届けてくれるなど、お世話になってばかりだった。   予定していた就活が頓挫し、「悪年」とでも言いたくなる不運が続き、収入がないのにアルバイト再開の目途も立たないままの日々。引っ越しの出費、オ-バードクターの学費免除が困難、予想外の治療費など、諸々の事情で経済的に非常に困難な状況に陥っていた。その中、渥美財団から届いた新型コロナ緊急支援金の連絡は本当に「雪中送炭(雪中に炭を送る)」だった。生活基盤を整えるのに大変ありがたい支援金だった。そして、大変な時期に温かいメールや電話で見守ってくださった事務局の方々、本当にありがとうございます!   2020年5月、別の病院で膝を再び検査した。静養中は足をぜんぜん伸ばしていないので、筋肉が著しく弱ってしまっていた。MRI検査で膝軟骨の損傷は手術なしの治療方針が決められ、6月からはリハビリが開始。キーボードで「リハビリ」を打つだけで、当時の激痛の記憶が蘇り「痛い」と感じるほど、痛かった。痛くて出た涙は「滴」ではなく、滴が繋がる「線」でもない。「面」なのだ。中国語では「涙流満面(顔じゅう涙まみれ)」と「汗流満面(顔じゅう汗まみれ)」という言葉がそれぞれあるが、リハビリはその合体だ。涙か汗か分からない、顔中が万遍なく塩味のある液体で濡れているから。   夏になると、リハビリもだいぶ楽になり、ようやく研究にも少しずつ復帰できるようになった。2020年1月、フィリピンで開催された第5回アジア未来会議で発表した時に平山昇先生からいただいたコメントに触発され、投稿する論文のアイデアが生まれた。2020年の後半は延滞してきた仕事をこなしながら充実した日々を過ごせた。足も普段歩く分には問題ないまでに回復して、気分転換のためによく散歩をしている。電線や線路、それに坂と低い住宅地。すべてが日本の日常風景を象徴する要素だ。会えない日はもうすこし続くと思うが、せめて身近にあるささやかな美しさを楽しみたい。   最後に、もし去年の経験から何かを教わったかと聞かれれば、それは「泣くは恥だが役に立つ」ということ。今まではどこか強がって何ができるかに拘っていたのかもしれないと気づかされた1年であった。できない事やできない時は当然ある。その「リアリティ」を受けとめるのも大事だと思うようになった。それこそ「リアル」の人生だ。今まであたりまえのように分かっていたつもりだったこの道理は、あたりまえでない個々の経験があるからだと、少し分かるようになったかもしれない。   あっ、言い忘れたことがある。「泣くは恥だが役に立つ」は確かだが、そのときは、柔らかめのティッシュの方がいい。あと、ティッシュは甘いのは知っている?満面の涙を拭いた時にたまたま口に入ったことで知った。個人的な経験だと、保湿ローション入りのタイプが最も甘い。これを読んでティッシュを舐めたくなる方は、どうぞご遠慮なく。   <陳昭(ちん・しょう)CHEN Zhao> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。東京大学大学院総合文化研究科文化人類学コース博士課程。2014年同コース修士卒業。都市環境デザイン、景観生成、テクノロジーと社会について研究中。     2021年3月18日配信
  • エッセイ662:李鋼哲「台湾、新型コロナ禍の中の優等生(その2)」

      その台湾は一体どのような「国」なのか?その歴史から見てみよう。 台湾は台湾本島とその周辺諸島により構成され、面積は約3.6万平方キロメートル、日本九州地方の面積(約4.4万平方キロメートル)より小さい島で、人口約2360万人(2019年)。亜熱帯や熱帯地域であるため、年中気温は高く、熱帯植物や果物など物産が豊富な「宝島」である。   そもそも台湾という「国」は歴史的にも現在も存在しない。現在の正式名称は「中華民国」(Republic_of_China=ROC)であり、1912年に中国で発生した辛亥革命により建国、アジア最初の共和国である。1949年に国共内戦で共産党軍に敗れた政府軍の国民党は、台湾に逃げて現政権を続けており、その為、実際に中国は「2つの国」が併存することになった。   歴史的に、中国の『三国志・呉志』、『隋書・流求伝』などに台湾を記録したことがあり、元代(モンゴル帝国時代)に台湾・澎湖諸島に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属されたという。その後16世紀にポルトガル航海士が台湾島を発見し、「フォルモサ」(ポルトガル語:Formosa、福爾摩沙「美しい島」)と呼んでいたという。17世紀における大航海時代にはオランダ(1624-62)の植民地となっていたが、中国では東北(旧満州)の満州族が大清国を建国、後ほど明朝を破って政権を取ると、それに抵抗して戦っていた明朝の鄭成功将軍とその軍隊が清朝軍に追われ1661年に台湾に渡り、オランダ軍と戦い追放し、同島初の政治的実体の「東寧王国」を設立、統治していた。   しかし、清は1683年に鄭王国を破り台湾島を併合し、約210年間統治していたが、1895年に日清戦争に勝った日本が清朝との間に「下関条約」を締結、台湾を日本領に編入の上、台湾総督府を設置し50年間統治。清朝統治期間には大陸福建省中心に漢人が大量に流入し、原住民は徐々に漢人と同化し、現在の「台湾人」になったので、中台は同文同種同民族と言ってもいいだろう。   第二次世界大戦が終わる頃、中華民国(総統は蒋介石)は1945年8月に日本の敗戦で同盟国の合意のもと台湾を接収し、台湾省として自国領に編入した(「台湾光復」)。中華民国は戦勝国であったため国連創設時に常任理事国になり、1949年に台湾に移転してもその地位は維持していたが、1971年に大陸中華人民共和国が中華民国に取って代わり国連入りし常任理事国になると、台湾は国連を脱退し、国際社会では台湾を中国の一部として認め国交を断絶し、中国との国交正常化が進めてられてきた。因みに日本は1972年9月に中国と国交を樹立、中華民国との国交を断絶したたが、「財団法人交流協会(現公益財団法人日本台湾交流協会)」を設立して台湾との交流を維持している。2020年10月現在、中華民国と国交を維持している国はわずか15カ国で、いずれも中南米など小国、欧州はバチカンのみ。   1975年に蒋介石総統が死去すると息子蒋経国が政権を引き継ぎ、1987年に戒厳令を解禁(大陸と準戦争状態の終結)したが、1988年に蒋経国が死去すると、李登輝副大統領(本省人)が後を継ぎ大統領に。1990年代に民主化運動のうねりのなか、李総統は民主化を進め、1996年に初めての民主選挙を行い、民選大統領となった。2000年には「民主進歩党(本省人中心)」が初めて国民党を破り政権交代が行われ、その後2008年に国民党が再び選挙に勝ち与党になっていたが、2016年の選挙では民進党の蔡英文氏が初の女性大統領となり、昨年1月には第2期大統領に再選され現在に至っている。   台湾では民主化とともに、民衆のアイデンティティが徐々に「中国人」から「台湾人」に変わりつつある。1992年の国立政治大学の世論調査では、自分は「台湾人」と答えた人は住民の17.6%、「中国人」との答えは25.5%、「台湾人かつ中国人」との答えは46.4%だったが、2020年の同調査では、その答えはそれぞれ67%、2.4%、27.5%に大きく変わった。大陸出身者中心の国民党はその数や影響力が徐々に低下し、本省人の意識や勢力が急上昇している。   民進党は独立志向が強く、「独立」と「統一」問題を巡って、大陸と確執が続いている。国民党政権の時は「ひとつの中国」政策を重視するが、民進党政権の時はそれを認めない政策、または曖昧な政策を取っている。それに対して中国政府は、2005年に「反国家分裂法」を成立させ、台湾が「独立」を宣言したら武力行使を辞さないと、政治的・軍事的脅威を与えており、「独立」を強く牽制している。このような状況の中で、台湾では「現状維持」政策を貫いている。   一方、1990年代に台湾が大陸と交流を再開してから、両岸関係は急速に接近している。2008年12月には中台間の定期直航便が就航し、中国大陸住民の台湾観光や三通が解禁。2010年の中台トップ会談では、「両岸経済協力枠組協議」(ECFA)を締結、実質的にはFTAが結ばれている。いまや台湾の輸出額の約4割が中国大陸向けで、進出台湾企業は約10万社(2020年1-11月までの台湾対外投資の47.6%は大陸)、大陸在住の台湾人は約100万人、年間往来者数は約500万人(2019年)を超え、台湾の国際結婚の配偶者も40万人のうち26万人が大陸妹だという。   台湾経済の過度な大陸依存は「大陸に飲み込まれる」リスクを高めるだけではなく、大陸政府当局により政治的に利用される危険性も高めている。中国は台湾に対する「統一戦線」工作にこのような状況を利用するだけではなく、台湾に対する圧力にも活用している。例えば、2019年7月31日に中国文化観光省は8月から中国国内47都市から台湾への個人旅行を一時的に停止すると発表、台湾側から見れば明らかに圧力である。   また今年2月26日に、中国政府は台湾からのパイナップルの輸入を3月1日から停止すると発表、検疫で有害生物を何度も検出したためと説明。台湾ではメディアで大騒ぎになり、当局は政治的な圧力と反発している。台湾のパイナップル年間生産量の約1割が輸出、大陸向けがその95%のため、実際台湾農家への影響は必ずしも決定的とは言えない。台湾ではパイナップルの国内市場での販売拡大や他の海外市場を模索しているという。しかし台湾では、このように大陸からの圧力がある度に大陸政権への不満と「台湾人意識」の高揚が繰り返され、大陸への遠心力が働くのではなかろうか。台湾にとっては、如何に大陸への過度な経済依存度を低下させるのかが大きな課題である。   近年は米中関係の悪化に伴い、両岸関係は常に緊張状態が続いている。米国は大陸中国が台湾を「飲み込む」ことを許さず、「台湾関係法」をもとに、毎年台湾に大量の武器を提供(販売)しているが、最近では防衛的な武器から攻撃的な武器までも大量に売っているという(2020年度の武器販売は345億ドル)。トランプ政権以来米国は台湾との関係を急速に強化しているが、バイデン民主党政権になってもその政策基調は変わらない。   中国人の大量流入と国民党が中国の文化(大量の文物等)を台湾に持ち込み、中国の正当政府としての統治基盤を造ったため、台湾には中国の伝統文化が根深く浸透し、中国式建築や中華料理、服装などが普及し、「本場の中国伝統文化を体験したかったら台湾に行った方が」とまで言われている。   台湾人は日本に親近感を持つ人が多く、台湾では「哈日族」と言われる。ある台湾出身の学者の話を借りると、その理由は「台湾人からすれば、長い間外部勢力に侵略や支配されてきた経験から、大陸から来た支配者よりは、日本統治時代がましだった」という認識がその根底にあるようだ。近年、台湾から日本への旅行客は大幅増加し、2019年度の訪日客は489万人、中国と韓国に次いで3番目であり、台湾の5人にひとりが毎年日本旅行を楽しんでいることになる。私が住んでいる石川県も親台湾的な雰囲気が強く、小松空港から台北までは毎日直行便が運行しているが、それも不足して毎日2便に増やすという話が出ているほどである。   ※本エッセイは、東アジア共同体評議会のe-論壇 百家争鳴に投稿されたものを、著者の許可を得て再掲します。     英語版はこちら     ※前編(李鋼哲「台湾、新型コロナ禍の中の優等生(その1)」)は下記リンクよりお読みいただけます。 エッセイ661:李鋼哲「台湾、新型コロナ禍の中の優等生(その1)」     <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 中国延辺朝鮮族自治州生まれの朝鮮族。1985年中央民族大学(中国)哲学科卒業後、中共北京市委党校大学院で共産党研究、その後中華全国総工会傘下の中国労働関係大学で専任講師。1991年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、2006年より北陸大学教授。2020年10月、一般社団法人東北亜未来構想研究所を有志たちと創設、所長に就任。日中韓+朝露蒙など東北アジアを檜舞台に研究・交流活動を行う。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。     2021年3月11日配信
  • エッセイ661:李鋼哲「台湾、新型コロナ禍の中の優等生(その1)」

      新型コロナ禍のため、今年8月に開催を予定していたアジア未来会議(AFC)は次年度に延期せざるをえなくなった。ところで、台湾の新型コロナ感染の状況はどうなのか?台湾は一体どんなところなのか?知りたい方が大勢いると思って、このエッセイを執筆することにした。   筆者は台湾に2回訪れたことがある。1回目は2000年8月、東アジア総合研究所が主催する国際シンポジウムを台北で開催。筆者はアルバイトで事務局長を務めていた。当時は中国籍だったので、台湾に行くには厳しい制限があり、1ヶ月前に申請したビザが下りるか下りないのか全く見当がつかずに待っていたが、幸い出発3日前に下りた。国際会議は無事に終了、翌日は新竹工業都市に見学に行ったが、強い台風にあってほとんど見学できずに戻ってきた。3日目は日本からの参加者(故金森久雄・日本経済研究センター顧問をはじめ著名な先生ら)一行約30名は李登輝元総統のオフィスを訪れ、2時間くらい歓談したのが一番印象に残る。   その後、2016年3月に、高雄市にある文藻外語大学に招待されてワンアジア財団の講義を行った。この時は日本国籍になっていたので、ビザも要らず、小松空港から台北の桃園国際空港までの直行便を利用。家族同伴の5日間の日程で、高雄と台北をゆっくり見学できた。高雄港を見学した時「高雄」という地名の由来を教えてもらった。日本統治時代には「打狗」(タコウ、犬を打つ)という町だったが、その読み方が日本人には「たかお」と聞こえたので、「高雄」に変更したという。台北では国父記念館を訪れ、「中華民国」の歴史と国父孫文についていろいろ勉強になった。   話を本題に戻して、台湾のコロナ禍事情はどうなんだろう?コロナ禍対策で世界一番優等生だということはニュースなどでも知られているが、その実態はどうなのか? 台湾の感染者は累計でわずか909人、死者は8人だという。 1月30日の日本経済新聞によると、台湾の衛生福利部(厚生省に相当)中央感染症指揮センターは、30日の発表で新型コロナウイルスに感染して80代の女性が29日に死亡したことを明らかにしたが、死者が出るのは2020年5月以来、約8カ月ぶりという。   台湾は、新型コロナの感染拡大を長く抑えていたが、2021年1月に入って台湾北部の桃園市の病院で院内感染によるクラスター(感染者集団)が発生した。新型コロナの治療を担当した医師や看護師、その家族が次々と感染し、これまでに19人の感染が確認されている。死亡した80代の女性もこのうちのひとりだった。台湾では、2月10日から16日まで春節の大型連休で帰省など人の往来が増える時期と重なっていたため当局の警戒感は一段と強まった。   台湾では如何にしてコロナ禍に対応したのかについては、エッセイの字数の制限で紹介できないので、台湾の方に続編をお願いしたい。   ところで、コロナ禍の中で台湾経済はどうなっているのか? 最近筆者はYouTubeを通じて、台湾の諸事情および台湾から見た国際関係、とりわけ米中両大国に挟まれた台湾の対外関係について猛勉強した。もちろん、「東アジア経済論」講義でも台湾と中国大陸との関係について講義するために資料をたくさん調べている。   まず、台湾経済はコロナ禍の中で世界での優等生ということを特筆すべき。日本のメディアでは、世界のほとんどの国でマイナス成長というコロナ禍の中、中国の2020年の経済成長率は前年比2.3%(この数字は本当なのか?と疑うが)であると大々的に報道されてはいるが、その他の国に関する報道は少ない。   実は、台湾のGDP成長率は2.98%であり、台湾では30年ぶりに大陸の成長率を上回ったという。ちなみにベトナムのGDP成長率は2.91%で2位、「4匹の小龍」と言われるシンガポール、韓国、香港などがマイナス成長の中で独り勝ちである。株価は急上昇し歴史的な記録を更新、台湾ドルも急上昇し、経済は30年ぶりの活気を取り戻したという。   その要因は、米中貿易摩擦により多くの台湾企業が大陸から戻ってきて、米国や東南アジアに投資が大幅に増えたこと、華為技術(ファーウェイ)に対する経済制裁のなかで、台湾の電子機器や部品への世界からの注文が増えていること、海外旅行していた台湾人が国内旅行に切り替えたので、海外に流れていたお金が台湾内部で流通したこと、などがある。   台湾からの海外旅行者(アウト・バンド)は2019年に1,800万人、人口わずか2,360万人の8割に達し、世界で最高のレベルだろう。そして従来約8,000億台湾ドル(約2.5兆日本円)に上った年間外貨流出が、昨年は国内旅行者延べ約2.1億人の資金が国内で回り、経済成長に貢献したという。2021年の経済成長が今の勢いで伸びれば、1人当たりGDPは初めて3万ドル台(2011年に2万ドル台突破?)に乗るだろうと予測され、先進国に並ぶ。   台湾は新型コロナ禍の対応により世界で立派な「優等生」になり、経済成長でも模範を示している。本来ならば世界保健機関(WHO)などでその経験を世界に活用すべきであると思うが、複雑で不条理な国際政治に振り回され、国連や国際社会から十分注目されないのは誠に残念なことである。(続く)     ※本エッセイは、東アジア共同体評議会のe-論壇 百家争鳴に投稿されたものを、著者の許可を得て再掲します。     英語版はこちら     <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 中国延辺朝鮮族自治州生まれの朝鮮族。1985年中央民族大学(中国)哲学科卒業後、中共北京市委党校大学院で共産党研究、その後中華全国総工会傘下の中国労働関係大学で専任講師。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年より北陸大学教授。2020年10月、一般社団法人東北亜未来構想研究所を有志たちと創設、所長に就任。日中韓+朝露蒙など東北アジアを檜の舞台に研究・交流活動を行う。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。     2021年3月4日配信
  • エッセイ660:唐睿「私の就職活動」

    2019年4月、私は博士課程の最後の1年を迎えました。博士論文の審査に向けて準備を始めるとともに、卒業後のことも考えなければならなくなりました。それまではまじめに勉強と研究をすれば良かったのですが、今後のことについて考えたことが少なく、明確な目標も持っていなかったため、迷っていました。博士を取得した学生にとっては卒業後大学で「ポスドク」をやって、数年後助教か講師になって、一生懸命研究成果を上げて教授への昇進に向けて頑張るというシナリオが一番有り得そうな道です。20年間頑張れば、私もいつか教授になれるかもしれません。   しかし、現実問題として、今の中国も日本も大学教員採用の競争は非常に激しくなっています。特に中国の大学で理工学系の教員職に応募する場合『Nature』『Science』系の論文を持っていないと、良い大学で助教以上の職に採用されるのはとても難しいです。研究は非常に面白いことですが、科研費が足りないことと、テニュア(終身雇用)取得まで定期的に論文を出さないと首になることを常に心配しながら研究するのは好きではないため、民間企業に就職することを決めました。   しかし、どの国で就職するか、どのような企業に応募するかについて新たな悩みが出てきました。国に関して特にこだわりはありませんが、どの国の企業に応募してもそれぞれの問題があります。日本では、私の研究テーマ「光集積回路」に関連する業務がある企業は非常に少ないです。そして、多くの日本企業はエントリーの締め切りが3月中で、2019年3月末に米国留学を終えて日本に帰ってきた私は、すでに日本での就職活動のタイミングを逃していました。残る選択肢は博士課程の学生を通年採用しているわずか一部の企業だけでした。   米国では研究テーマと関連性の高い企業が多いですが、私は米国の大学の学位を持っていないため、卒業後すぐには米国で勤務できません。就労ビザを取れない可能性も高いし、取れたとしても勤務が始まるまで時間がかかるため、面接のチャンスももらえない可能性が高いです。   中国に帰る選択肢もありますが、正直近年の中国の通信とIT企業にはあまり就職したくないです。中国の通信とIT業界にはブラック企業が非常に多く、社会問題になっているからです。2019年に中国のIT企業の社員から「996,ICU」という有名な言葉が作られました。朝9時から夜9時まで週6日の労働を続けていくと、いつか病院の集中治療室(ICU)に運ばれるという意味です。ほとんどの中国IT企業では、こういった996労働が暗黙のルールになっています。明らかに中国の労働法に違反するものですが、政府が積極的に企業の違法行為を取り締まる気配は見られません。その理由は、中国の経済成長はITと通信企業に大きく依存し、残業を制限すると中国の経済成長に大きく影響するからだと思っています。   さまざまな問題があると言っても行動しなければならないので、とりあえず米国と中国、日本の企業にたくさん応募しました。最初に応募したのはたまたま見つけたAIチップを開発している日本のベンチャー企業です。やっていることが面白く、持っている技術も凄そうなので、ホームページに新卒の募集が出されていないにも関わらず、むりやりに応募して数回の面接を受けてから内定をもらいました。中国の企業には5社応募し、3社から内定をもらいました。一番驚いたのは、博士過程の研究と関連性の高い米国企業に10社以上応募しましたが、ほとんど電話面接の機会も与えてくれなかったことです。唯一面接のチャンスと内定をくれたのは、米国留学時にお世話になった先生がコンサルタントとして勤めているベンチャー企業でした。米国の学位を持っていない人にとって、就職活動をする際にコネクションがどれほど大事かを実感しました。   内定の中には、大手企業とベンチャー企業が両方ありました。大手企業に入れば安定した生活が過ごせるかもしれませんが、私は安定した生活よりも仕事のやりがいと面白さを重視しています。給料なども総合的に考えた結果、やはり量子コンピュータを開発している米国のベンチャー企業が一番魅力的だと思い、その企業の内定を受諾しました。   私の就職活動は終わりましたが、人生についていろいろ考えさせられました。もちろん不安はありますが、今後は新しい目標を立てて頑張っていきたいと思います。   追記: 残念ながら米国就労ビザの抽選に落ちました。2020年に米国に行くのは無理なので、とりあえず中国に帰って就職しました。深圳にあるディスプレイメーカーです。6月末に中国に帰る予定でしたが、コロナウイルス感染症の防疫のため予約した便が2回キャンセルされて、8月9日にやっと帰国できました。専用ホテルで2週間の隔離と帰省を経て、9月から深圳で仕事を始めました。ちょうど今「996」の部署で研修しているので、その大変さを痛感しています。サステナブルな働き方ではないので、この部署は毎年仕事を辞める人がたくさんいます。中国でも働き方改革がいつか必須となると考えています。     英語版はこちら     <唐睿(たん・るい)TANG Rui> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。中国安徽省出身。2013年南京航空航天大学情報工学専攻学士課程卒業、2015年(日本)東北大学通信工学専攻修士課程修了、2020年東京大学電気系工学専攻博士課程修了。現在中国深圳市の企業でディスプレイの開発に携わる。     2021年2月11日配信  
  • エッセイ659:金弘渊「アカデミアからインダストリーへ」

      私は博士課程で基礎生物学の研究をしていた。主にチョウの色素の合成と紋様形成のメカニズムについて、研究生から修士、さらに博士まで6年間研究してきた。博士2年生の頃、将来の進路を真剣に考えはじめた。単純に研究室の先輩たちの進路を参考にしてみると、自分の業績で大学に残れるものであるかを懸念し始めた。研究室で1日を過ごして疲れてようやく家についてから、もし、自分がこのまま社会に出て仕事に就くと、何かできるだろうかと自分に聞いてみた。   答えはすぐには出てこなかった。そもそも社会経験が少ない院生の自分に対し、社会はどのような人材を求めているかがわからなかった。製造販売業のような自分の日常生活に近い業界は、実際に商品を使用したり、売買をしたりするので、製品を設計、製造、販売する人が必要であることをイメージしやすいが、モノを作らない業界(例えばIT、保険、コンサルティングなど)についてはよく知らなかった。   自己勉強のつもりもあるので、「業界地図」などの就職ガイドを購読し、ネットで新卒向けの業界説明サイトから、まず各業界に関わる基礎知識と特徴及び規模などを調査した。その結果、自分の専門にぴったり合う業界はないけれど、逆に色々試すことができると考えた。   2ヶ月後、当時の考えは甘かったと振り返った。その2ヶ月間、新卒で就職する学部生たちと一緒にリクルートスーツを着て、企業の説明会に参加するために東京に行って、履歴書の提出とウェブテストを受けて面接まで行った。一般的な企業においては、博士の学生は必要とされていないと感じた。自分が考えた理由として、その1つは新卒の博士は年齢的に30歳に近く、かつ現場の実務経験がないから、実務的に働けるまでトレーニングに必要なコストが高いということ。   例えば、商品の研究開発職に応募した同じ30代の候補者が3人いたとして、Aさんは大卒で8年の業界経験と現場での開発経験があり、課長代理と同等の管理能力が認められる;Bさんは修士卒で社会人歴6年、その内4年は日本の本社で勤務した後、2年間ドイツの支社に出向し、ビジネスレベルの英語力がある;Cさんは博士の新卒で、在学期間の成績が優秀で、良い論文も数本発表した。もし自分が人事担当だったら、短期間で商品の研究開発をするため、候補者が会社に入ってから、会社に価値が提供できるようになるまでの時間を計算し、又その期間内に生じる全ての人件費(給料、トレーニング費)を合算し、即戦力があるAかBのどちらかを選ぶと思う。社会に出たら、仕事の経験が学歴より重要だと認識した。   もちろん自分は大卒の学生と一緒に入社し、同じ仕事をすることが自分にとっても、会社にとってももったいないと考えて、新卒博士向けの職務にもたくさん応募した。そもそも博士向けのポジションは少なかったから、自分の研究から離れる業界にも応募してみた。企業は応募者の過去の研究業績より研究分野を重視すると感じた。特に自分の研究は生物の基礎研究で、医学的若しくは薬学的な研究ではなく、会社にとって最優先の人選ではないと言われた。   自分では、生物研究と医学的な基礎研究は、研究対象の違いに過ぎないと認識しており、数ヶ月の勉強さえあれば、同様の仕事ができない訳がないと考えていた。でもそれは違うらしくて、面接がうまくいったにもかかわらず、最終面接に落ちたケースは少なくなかった。その理由はいまだにわかってない。就活は面接が終わった時点で会社との連絡が不可能になり、フィードバックなどがほとんどもらえない状態だ。自分が後から考えた理由の1つは、日本の企業は、例えば海外の市場の進出のためというような特別な戦略上の必要がなければ、外国人の社員は特に必要ないということだ。それ以外は多分、「ご縁」しか考えられない。   1年間で2回も就職活動を経験し疲れた。最後の結論としては、特に国全体の経済が厳しい時には、求職者が受動的に会社側の要望に応じることが多いということだった。去年の年末(編者注:2019年末)に新しい仕事に就くことできた。それはコロナ禍で就職が大変になる前の不幸中の幸いだった。     英語版はこちら     <金弘渊(きん・こうえん)JIN Hongyuan> 渥美国際財団2019年度奨学生。中国杭州出身。2019年東京大学大学院新領域創成科学研究科で先端生命科学を専攻し博士号(生命科学)を取得。専門は進化発生学、遺伝学。現在大阪で医薬品の臨床開発に携わる。     2021年2月4日配信
  • エッセイ658:李鋼哲「言論の自由とマスコミ統制・自粛・忖度」

      最近、新型コロナ禍の中で言論の自由とマスコミ統制問題がクローズアップされている。   共同通信によると、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は2020年4月21日、2020年の世界各国の報道自由度ランキングを発表した。対象の180カ国・地域のうち、日本は前年から1つ順位を上げ66位となったが、メディアの編集方針が経済的利益に左右されると改めて指摘された、と報道された。新型コロナウイルスの大流行に絡み、オルバン政権が強権的な姿勢を強めるハンガリーは順位を2つ下げ89位。情報統制を敷く中国は177位のままだった。感染者はいないと主張する北朝鮮は179位から再び最下位へ1つ落ちた。1位は4年連続ノルウェーで、フィンランド、デンマークがそれに続く。米国の順位は48位から45位に上がったという。   以上のランキングと関連して言論の自由が各国でどのように保証されているのか、または統制されているのか、筆者の関心はそこにある。   そもそも、現代のほとんどの国家では憲法により「言論の自由」が保証されている。自由度が一番低い共産党の独裁国家である北朝鮮や中国でも憲法では「言論の自由」や「出版の自由」、「集会の自由」などが保証されているはずだが、実態は甚だ「違憲」状態ではないだろうか?しかし、権力が憲法を踏みにじることができる権力構造の国であるため、「違憲状態」をチェックできるはずがない。   だからといって民主主義諸国ではどうであろうか?日本は先進国であり民主主義国とは言え「言論の自由」が保証されているとは言い切れない。筆者はゼミ生に課題を出して日本の「報道の自由度」を調べさせた結果、66番目であることが分かった。ただし、調べる前に何人かの学生からは「先生、ランキングは後ろから数えた方が早いんじゃないですか?」と冗談めいて言ってきたので、ちょっとびっくりした。普段は新聞をあまり読んでいない若い学生でさえそう感じるのだから。   最近、コロナ禍に関する情報に対しても民衆からの疑心暗鬼の声が聞こえる。ある事件をきっかけに筆者はそのような不信感には裏付けがあると確信した。   先月、北陸大学の隣の金沢大学(国立大学)の准教授がコロナ禍で死亡したと、本大学の職員から立ち話で聞いた。「えー、そんなこともあるの?」とびっくりし、すぐインターネットで調べてみたら、このような記事が見つかった。42歳の若い教員で、11月中旬ころに体調を崩し病院でインフルエンザと診断され、薬をもらって自宅療養していた。熱は多少下がったが治らなかったので、保健所に2回電話をしてPCR検査を希望したが、医師の診断なしでは検査を受けられないと、同じ回答を得たという。単身赴任だったので、奥さんがSNSで連絡しても返事がなく、大学の職員に連絡して確認を依頼したところ、死亡していることが見つかった。もともと喘息があったが、死亡後のPCR検査で新型コロナと判定されたという。   このような事件は重要な報道の種になるはずだ。ところが、新聞にもテレビにもほとんど報道されず、事件発生10日後に北陸中日新聞に次のような短い記事が載っただけであった。 ———- 【2020年12月5日:北陸中日新聞】 インフルエンザとの同時流行に備え、石川県内では先月、新型コロナウイルスと双方の検査に対応できる指定医療機関が180カ所まで拡充されていた。先月26日の死亡確認後に新型コロナ感染が分かった金沢大准教授の高橋広夫さん=享年42=は、整備されたはずの新たな体制の中で、検査を受けられなかった。 ———- 全国的には同じ系列の東京新聞に掲載されているものの、これだけでは、地元の多くの人にさえ知らされていない。大きく報道されなかったのは大学側の隠蔽なのか、行政側の忖度なのか、その裏のことは知るすべがない。このような事件はマスコミが取り上げ、行政側に対して責任を追及するのが民主主義国家のメディアではなかろうか?同じような隠し事や過小報告が他の地域にもあるのではないか?知り合いの有識者たちの話を聞くと、政府が意図的に隠しているのではないかと疑心暗鬼だ。報道の自由が制限されているのか、あるいはメディア側が自粛や忖度をしているのか、それとも両方なのか?報道の自由度ランキングが66番目の実態が実証できる一つの事例である。   では、報道の自由度が45番目のアメリカはどうだろうか?今度の大統領選挙を通じて、筆者の民主主義に対する信奉は完全に崩れてしまった。筆者は多言語の優位を生かして、今度の選挙戦に深い関心を持ってYouTubeなどに頼り、台湾のメディア、韓国のメディア、アメリカの華人系メディアなどを通じて、一般の主流メディアでは取り上げていない「裏の情報」を毎日のように目の当たりにして、選挙過程の実態が客観的に報道されていないことにがっかりした。   結論的に言うとアメリカの民主主義はもう崩壊している。なぜなら主流メディアは真実の一面しか報道しないからだ。「不正選挙」で「権力がもぎ取られている」ことには目をつむっており、エスタブリッシュメント勢力がアメリカ憲法や民主主義を踏みにじっていることについては、ほとんど報道されていない。SNSやネットメディアは政治的に主張が違う人々のメディアへのアクセスを封殺、ツイッターがトランプ大統領を封殺したのが典型的で、世界最大の民主主義国家の大統領がメディアの自主判断によって発言が封印されるという前代未聞の事態が発生しているのだ。ツイッターだけではない、FACEBOOKなど他の主流ソーシャルメディアは、自分たちの判断基準(ファクトチェック)に則って国民の声を封殺しており、これは国家権力ではないメディアの言語道断であろう。メディアが偏向の報道しかしないとき、国民は政治判断の材料としての真実を手にすることができず、そうなったら民主主義の実行手段である選挙の公正性・公平性はゆがんでしまい、民主主義はもはや崩壊したと言っても過言ではないだろう。   公正、公平に真実を国民に知らせる使命を背負っているはずのメディア(筆者の価値判断基準で)が中立性を失い、政治に介入する時、公正、公平、自由な報道はもはや望めないのではないか?筆者が信奉し追求してきた民主主義の価値観、哲学や理念はもはや心の中で崩れていくような気がしてたまらない。筆者は今後独裁政権を批判する根拠を失いかねない。   独裁政権でメディアが厳しくコントロールされていることは誰もがわかっている事実だ。しかし、民主主義国家では言論統制は「論外」だと思われる民衆が多いのではないか?いずれも国民が真実を知る権利を奪われている点では「五十歩百歩」ではなかろうか?独裁国家の「リーダー」や「知性人」は今度のアメリカ選挙戦を見て、民主主義総本山の米国をあざ笑っている。「ほら、やはり民主主義も偽善ではないか?言論の自由も嘘ではないか?」、「やはり我々の体制が優越だ」と。かれらは新型コロナ禍への対応についても「制度的優越性」を強調する。   だからと言って、言論の自由を無慈悲に弾圧する独裁政権が自分たちを正当化できるとは到底思えない。いつかは国民から見捨てられるに違いない。かの国は主権在民の「人民共和国」であり、封建王朝ではないのだから。かつて「無産階級(プロレタリア)の独裁」を掲げて百姓のために造った政権は、今や「有産階級(ブルジョア)とエリート階級の独裁」に変質したように思われてならない。   どこの国でも、いつの時代でも、国民の民意をくみ取り真に国民のための政治を行わない政権は、安定して長続きすることができないと筆者は考えている。中国の古典にも「水能載舟、亦能覆舟」《荀子哀公》という名言がある。その意味は、為政者は船の如く、民は水の如し;水は船を乗せて安全に航行することもできるが、船を倒して沈没させることもできる。為政者に対する戒めの諺である。     英語版はこちら     <李鋼哲(り・こうてつ)LI Kotetsu> 中国延辺朝鮮族自治州生まれの朝鮮族。1985年中央民族大学(中国)哲学科卒業後、中共北京市委党校大学院で共産党研究、その後中華全国総工会傘下の中国労働関係大学で専任講師。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程単位修得済み中退後、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年より北陸大学教授。2020年10月、一般社団法人東北亜未来構想研究所を有志たちと創設、所長に就任。日中韓+朝露蒙など東北アジアを檜の舞台に研究・交流活動を行う。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。     2021年1月28日配信
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