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  • エッセイ568:マグダレナ・コウオジェイ「アウシュビッツ強制収容所博物館を訪ねた1日」

    去年の9月に3週間ポーランドに帰った。親孝行と言うか、毎年必ず1回は実家に帰るようにしている。そして、去年はちょっと特別で1人の日本人の友達を連れて帰った。そうすると、ポーランドの観光でもしようという話になるのは当然であろう。ポーランドに来る多くの外国人がアウシュビッツ強制収容所博物館を訪ねる。私の実家は、そこから車で約1時間の距離なので近い。私自身は既に4回見学している。中学の時に1回、大学生の時に3回で、毎回外国人の友達を連れて行く。英語にはダーク・ツーリズム(dark_tourism)という言い方があって、まさに「暗い観光」といえるのかもしれない。人間は残酷で暗いものに引かれるということであろう。   晴れの日も、吹雪の日も、年中無休で開いているアウシュビッツ強制収容所博物館。昼間は混雑しているので自由に見学することができず、グループごとに行動しなければならない。そしてグループごとに博物館の社員であるガイドがつく。今回は日本人の友達と一緒だから、初めて日本語のガイドがついて見学することになった。中谷剛さん。ポーランド滞在30年近く、ガイドの仕事も20年以上のベテランである。   5回目の見学だからどういう話が出てくるのかだいたいわかる私が、あの有名な「労働は人間を自由にする(Arbei_macht_frei)」という入り口の門を通ると、泣きたくてたまらなくなる。どうして人間が他の人間にあんな残酷なことをさせたのか、そういう単純な気持ちで悲しかった。しかし、戦争も暴力も体験していない私が見学したと言っても、本当の残酷さはいくらも想像できないことで、センチメンタルな気持ちに過ぎなかったのかもしれない。   中谷さんは、早口でどんどん話が進む。グループは12-13人ぐらいで、私以外はみんな日本人であろうという人たち。強制収容所の歴史、組織、囚人の生活、監視人のことなどを聞き取ろうとしている。表面上、強制収容所はとても近代的な性格を持っていた。レンガの建物が並び、幼稚園もあり、囚人は給料ももらっていた(実際は、一切お金は使えない状態だったが)。ガス室での死、収容所での飢餓。囚人を使った医学的な実験。囚人が反対運動を起こさないために、囚人の間で階層制度を作り、囚人同士お互いに連帯や同情を持たせないように、囚人が囚人を監視するシステムなど。ヨーロッパの20世紀の歴史、反ユダヤ主義の歴史、ドイツと日本帝国のつながり、長崎に住んだことがありアウシュビッツで殺され、聖人になった神父マキシミリアン・コルベの話。   そして、中谷さんの話が知らないうちに現在にまで広がる。私たちにまで広がる。あの医学実験は、私たちのためになったのでは?当時のドイツ企業が強制労働を使い、それが今の経済成長に繋がっているのでは?もちろん仮定に過ぎない話だが、自分にとってのアウシュビッツの存在が、少しずつ大きく、リアルに見えてくる。また、当時の人たちは、ユダヤ人に対してある固定観念を持っていたから、強制収容所にユダヤ人を入れやすかったと言えるが、現在生きる私たちは誰に対してどういう固定観念を持っているのだろう?ヨーロッパでの難民の話、日本での部落民や少数民族の話。ドイツと日本でのヘイトスピーチに関わる法律とそれに関わる問題。   参加者はみんな少しずつうなずきを控え、さらなる沈黙に陥る。他人の歴史が自分のもののように見え、居心地が悪い。被害者、加害者という単純な枠があるにも関わらず、自分がどこに所属しているのか、自分は「いい人」と思っていたのが本当なのか、あの強制収容所を作った固定観念だって今も生きているのではないか、などと考えさせられる。   中谷さんは、「Aが正しいBがだめだ」と言うような単純な答えは出さない。日本人だからこそ、そういう話がしやすいのかもしれない。アウシュビッツ博物館を訪ねるユダヤ人とポーランド人(ロマ(中東欧に居住する移動型民族)や同性愛者も含む)は、そんなニュアンスがあって複雑なストーリーを聞きたくないかもしれない。加害者は加害者、被害者は被害者だろう。   2時間が経って、アウシュビッツを出て、近くにあるビルケナウという支部の強制収容所に向かう。その時に、中谷さんと初めて雑談し挨拶をする。中谷さんがびっくりして「あら、僕は今日初めてポーランド人にガイドをした、申し訳ない」というようなことを言う。謙遜の言葉かもしれない。あるいは、相手によって語れる歴史ってだいぶ違ってくるということであろう。考えさせられることばかり。次の世代にどうやって歴史を伝えるかと真剣に考えている中谷さん。   今回のポーランド旅行で1番刺激になった1日は歴史と現在を繋ぐ中谷さんの話を聞いた日だった。天気は晴れ、ビルケナウの芝生はまだ青かった。   <マグダレナ・コウオジェイ Kolodziej, Magdalena> 2017年度渥美奨学生。2018年デューク大学Art,_Art_History_Visual_Studies博士号取得。8月からデューク大学でポスドク非常勤講師として1年間日本美術史を教える。専門は、東アジアの近代美術史。     2018年5月17日配信
  • エッセイ567:宋 晗「役に立つか立たないか」

      3月で学位を取得することになる。研究職のパイが小さくなっているなかで、すんなり就職が決まった自分は、大変幸運である。8年間在籍していた研究室からはなれるのは、やはりなんとしても名残惜しいもので、いままでの苦労も美しい過去のように思えてきた。もっとも過去はいつでも美しいのであるから、役に立たない感傷である。   役に立たないというと、世間では文学研究がまず想起されるようだ。まるで「役に立たない」が文学研究の枕詞かのようである。近年、この文学無用論はますます勢いを強めているが、率直にいって、文学の価値を分かりたくない人にとって文学研究は何の役にも立たない。無論、「役に立たない」というフレーズをどんなシチュエーションで、誰が誰に向けていったのかによって、反論は幾通りか存在するのであるが、つまらないと感じてしまったが最後、そこに執着する必要はないわけで、他のレクリエーションを楽しめばよろしい。文学研究のなかでも古典文学研究はいつ役に立つのか特にイメージしづらいようで、私などもファッションでやってるんだろうと何回かいわれたことがあった。だからこそ文学に堪能でない御仁は適当にシェイクスピアを文学無用論の槍玉に挙げるようであるが、とんと話の種にならない平安朝漢文学を専門とする私などにとってみれば、槍玉に挙げられるだけでもシェイクスピアは古典文学の顔なのだと思い、羨ましいかぎりである。   くやしまぎれにいうと、平安朝漢文学は平安時代では非常に役に立っていた。現代でいえば小説・テレビドラマ・ポップソングをあわせたハイカルチャーだったわけであるから、とても面白い文芸だったようである。いや、面白い文芸だったと断言しよう。だからこそ天神様の菅原道真は屈指の漢詩人としてふんぞり返っていたし(現存する作品を読めば自信家だったことが容易に想像される)、紫式部に「若紫はどこにいますか」ととぼけた質問をしたという藤原公任も、和歌を詠じて藤原道長に褒められたときは「いやはや、漢詩を作ったらもっと評価されたでありましょうな」などとうそぶいたのである。   平安朝由来の漢詩は近世に至っても儀礼的にではあるにせよ宮中では作られ続けられたのだが、つまり漢詩文は教養として、コミュニケーションのツールとしてつぶしが効いたのである。漢詩が作れなくても、名作名句を覚えておけば他人から一目置かれるので、今の新卒社員が日経新聞を社会常識として読むようなものである。読めばたちどころに儲けの種になるかはわからないが、読まなければ馬鹿にされるのである。近頃の若者は無学だ向上心がないだなどと陰口をたたかれるかもしれないのである。   つまりどういうことかというと、私は漢文学を研究することで、役に立つものはいつか役に立たなくなることが結論として得られたのだ。盛者必衰のなんとやらで、いまを時めく分野もいつかは無用になる時が来るのだろう。それでも、アクチュアルなコンテンツとしての魅力が色褪せてしまっても、文学が古典として後世に享受されるのは、一体どういうことだろうか。それはいわゆる人間の普遍の真理が古典に潜んでいるからに他ならない。自分がこれまでの人生で思い悩み、悟ったものはすべてはるか昔から伝えられてきた古典に書いてある。普段は文学を馬鹿にする人が、ひとたび外国人を前にするとむやみやたらに古典文学をふりかざす場面を、私は日本と中国で何度となく見てきた。結局、誰もが古典にこそ文化の精華が宿っていると認識しているのである。他国に向けて自国の特徴をアピールするときに古典文学はまだ役に立っているのである。   そうであるならば、分業体制が高度に発達した現代において、古典文学を解読できる専門家を育成することも大事なのではないだろうか。文学研究とは知のインフラのようなものである。そして私自身に立ち戻れば、研究は私の役に立っているのである。このような所見を、日本留学を通じて得られたことは非常に幸運なことといわねばならない。   <宋晗(そう・かん)Song_Kang> 2017年度渥美奨学生。2018年東京大学大学院人文社会系研究科博士号取得(文学)。現在、フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科助教。専門は平安朝漢文学を中心とする日中比較文学研究。     2018年5月10日配信
  • エッセイ566:ジッリォ「私の日蓮(2):日蓮の多面性」

    ◆エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮(2):日蓮の多面性」   数年前から鎌倉期の日蓮(1222~1282)の「写本遺文」(真蹟非現存、真偽未決、殆どが15世紀から文献として始めて歴史に登場)という資料を研究する機会をいただいている。その際に日蓮遺文の思想史的研究について色々思うことがあったので、この度はエッセイの形で発表させていただきたい。   日蓮遺文における特定の思想の全体像を、思想史の観点から明らかにしようとするとき、3つの問題に慎重にならなけなければならない。1つは日蓮の多面性である。2つ目は「思想史的研究」と「宗教的注釈」との違いである。3つ目はどのような主体性を前提に日蓮遺文の思想史的研究を行うべきかという問題である。「研究者の主体性」の価値を繰り返し強調している日蓮学者では現在、元早稲田大学教授の花野充道先生の存在が特に目立っている。筆者の場合はひとまず、「キリスト教の文化から仏教学研究へ」と、「生まれ育ちの文化環境から受け継いだ思想的なカテゴリーを乗り越えて」という道のりなので、今日蓮に対して存在するあらゆる伝統・解釈・カテゴリー・研究方法などを日本でひと通り学び、他方解体し乗り超えていこうとする主体性に必然的になっている。   日蓮の多面性について   日蓮は臨機応変で、多面的な思想の持ち主であり、同類のテーマに関しても、時と場と人によって異類の視点を展開してゆき、遺文に見られる数々の思想は、多くの文献の中でばらばらになっており、情緒的で非体系的な形で説かれることがある。また、佐渡流罪(1271~1274)を契機に「法華行者」としての自己認識が増し、彼の中で大きな変化も起きる。一言で言えば、日蓮はこういうテーマについてこう考えていたと思えば、そうでもないと述べる文献が真蹟の中でも出てくる可能性が常にある。   例えば、羅什訳『法華経』「如来寿量品第十六」所伝の「久遠実成」の釈尊はこの娑婆世界の一切衆生の主師親にして本尊とすべしと述べる遺文は数多いのだが、「我等が己心所具」の釈尊を述べる遺文もある。他に、日蓮が己自身に対して主師親の三徳を授ける遺文があり、末法時代において釈尊ほどの仏よりも法華行者と称せられる日蓮とその弟子たちのほうが大事であり、供養に値すると述べられる遺文も見られる。さらに、『法華経』はそのまま釈尊の身体・力・命であるという「経仏同一説」が述べられる遺文があるが、『法華経』を「師」とし、仏を「弟子」とする遺文も見られる。   要するに、諸宗派と各教団はどれも、ある程度まとまった思想体系を紹介しているが、宗教思想史を見てみれば、それを立てるとき、宗祖の何かを選び、何かを無視し捨てなければならない。「体系」というものは、合理性を最重要と考え、経験の世界に何らかのコントロールを厳格に定めようとして始めて成立するものだからである。だが、日蓮ほどの多面性は日本仏教史のなかでも特殊な事例であり、簡単にコントロールできるものではない。ある意味で、諸宗派と各教団の思想体系や日蓮を首尾一貫した解釈に閉じ込めようとする試みは、どれも一つ残さず彼の実際のあり方から逸する要素を必然的に含んでしまう。そのときはむしろ、日蓮をより柔軟に受け止められる自由な思想史的研究の価値が明らかになってくるのではないかと考えている。   問題は、日蓮をどのような存在として考え、それを前提に彼の遺文をどのように扱うかである。この点で、「思想史的研究」と「宗教的注釈」との違いを考える必要性が出てくる。(つづく)   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。博士論文を修正中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2018年5月3日配信
  • エッセイ565:孫軍悦「この国の指導者、なんとかせなあかんと思うけど、ちゃうか?」

    就活、婚活、妊活、保活、習活、終活……活きることに忙殺される時代で、私も久しく世間に眼を向ける余裕がなかった。   1歳の息子を保育園へ送る朝、国会議員が駅前で演説をしていた。改札を出て、信号を待ち、道路を渡った約2分のあいだ、彼は延々と天気の話をしていた。息子は、街頭演説があるたびに身を乗り出して熱心に聴いていた。でも、息子よ、今は天気の話だ、お前の未来の話ではないのだ。   保育園から出て喫茶店に入った。授業を準備するために魯迅の『阿Q正伝』を開いた。が、隣のおばちゃんが話しかけてきた。   「何してんの?お勉強?えらいなあ。今の時代は勉強せなあかんな。おばちゃんの娘も言っとったわ、英語があかんから、昇進できへんって。娘はもう40やけど、東京で一人暮らししてんねん。こないだ、娘は指が痛いから病院へ行ってん、先生は何の病気かわからへんから、とりあえず薬を出してくれはったんやけどな、家に戻ったら失神して倒れたんや。おかしいやろ。おばちゃんも、大きい病院へ精密検査でも受けてきいやって言ってるけどな、仕事が忙しいからいけへんって。こないだ、こたつに入って寝てたら、焦げくさい匂いがしたって、新しいのをこうたらええのに。近くにホームセンターあるんやろうか。おばちゃん心配やけど、でもいかへん。いったらじゃまになる。   あんた結婚してんの?あ、そう、子供もいてはるの?ご両親は?あ、そう、中国からきてるの。おばちゃんは偏見もってへんで。昔働いてたところにも中国人の子何人もおったわ。みんなええ子やった。中国もいま大変やなあ。あれ、なんちゅうの?あたりや?あれほんまにかわいそうやわ。自分から車にぶつけていくなんて。あれは、国の指導者なんとかせなあかんと思うわ。ちゃうか。日本には、こんなかわいそうなことはないわ。」   私は何か言おうとしたが、何も言えなかった。間抜けな愛想笑いをしただけだった。おばちゃんの言っていることは誠に正しい。魯迅はロシア語訳「阿Q正伝」の序文に、次のようなことを書いた。人と人との間に築かれた高い壁のせいで、われわれはいま他人の肉体的苦痛だけでなく、精神的苦痛でさえも感じられなくされてしまった。小説が出版された後、「病的だと思う者、滑稽だという者、風刺だと考える者、あるいは冷嘲だと受け止めた者もいて、自分でさえも、本当は心の中に恐ろしい氷塊が蔵されているのではないかと疑ってしまうほどだ。」「ただ黙って生き、萎れ、枯死していく」沈黙の国民の魂に、たとえいかなる固陋があったとしても、魯迅は単に諷刺、冷笑するために書いたわけではなかった。   止まっている車にわざとぶつかっていくあたりやの男性の滑稽な姿も、傷つけられたと嘘を付いて賠償金を迫り、無辜の少年を自殺に追い込んだ老婆の不誠実さも、現代中国の国民の魂にほかならない。それに同情の念が微塵もなく、道徳的退廃ばかりを嘆き、国の指導者の責任に思い至るどころか、むしろ国家のために弁解めいた言葉を無意識のうちに探している私の心にも、やはりいつのまにか、恐ろしい氷塊が蔵されたのではないか。   だが、おばちゃんよ、病院へ行く暇もなく働き詰めた娘さんが独りで焦げ臭いこたつに潜り気を失うなんて、この国の指導者もなんとかせなきゃあかんと思うけど、ちゃうか。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んできたこの国の国民もその国の国民もあの国の国民も、もはや「国家」という高い壁を越え、他者の肉体的、精神的苦痛――それは紛れもなく自らの苦しみの鏡像に他ならないにもかかわらず――を思いやる余裕が持てなくなった。一度旋風が吹き荒れれば、赤でもグリーンでも熱狂する。このような現実ほど危機的な状況はあるだろうか。   喫茶店を後にして松屋に入った。一人の南アジア系の女性店員が水を注いでくれた。インド映画に出てくる女優のような大きな瞳だ。ある少年が食券を買い間違えたことを説明すると、彼女は首をかしげながら厨房に入った。5分ほど経つと、白髪のおじいさんが出て来て再び事情を聴いて厨房に入った。さらに5分経って、少年に小銭を握らせ、食券を買いなおすよう求めた。そういえば、この頃足繁く通った日高屋にも、日本人どころか、中国人の店員すらまだ一度も見ていない。大半東南アジア系の男性が中華鍋を振るっている。ここは、国籍も民族も性別も年齢も関係なく、低賃金の労働者と低所得の消費者が集う世界だ。グローバル時代の労働市場と消費市場には、中国人の作る毒餃子を日本人が食する、日本人の創る商品を中国人がボイコットできる、という阿呆な空想は通用しない。私がテレビ番組のプロデューサーなら、彼ら、彼女たちにマイクをむけたい。YOU、何をしに日本に来たの?YOU、日本に住み続けた理由は?YOU、どうして悠々自適の老後を楽しまず、こんなところで働いているの?YOU?YOU?YOU?   粒らの瞳の女性店員が作ったキムチチゲを平らげたとき、少年はまだお茶を啜りながら静かに待っていた。   コンビニに寄ると、名札に「リウ」とある青年が手早く商品の陳列をしている。時給820円、819円の最低賃金より一円高い。東大赤門前の瀬佐味亭のラーメンは一杯800円。税抜き価格なら、彼が1時間荷卸し、レジ打ち、声掛けしても、セサミンたっぷりのラーメン一杯が食べられないということだ。彼の納めた税金の一部は、沖縄県民の怒号のなかでオスプレイの配備に使われ、原発反対の住民の不安をよそに東電の事故処理に潰えてしまう。160円の交通代を節約するために一駅も二駅も歩く人は、1兆6000億の五輪開催費となると、訳が分からなくなる。滝川クリステルさんにもう一度やってほしい。「お・も・て・な・し」、「もっ・た・い・な・い」と。   年の瀬の北風は骨に沁みる。今夜雨が降りそうだ。明朝あの国会議員はまた駅前で天気の話をするだろう。彼に一言伝えてもらいたい。この国の指導者、いや、この世界の指導者たち、なんとかせなあかんと思うけど、ちゃうか。 (2016年12月初稿、2018年3月改稿)   <孫軍悦(そん・ぐんえつ)☆Sun_Junyue> 2007年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部専任講師。専門分野は日本近現代文学、日中比較文学、翻訳論。     2018年4月19日配信
  • エッセイ564:沈雨香「サンティアゴ巡礼の道、800㎞の道のり」

    (私の日本留学シリーズ#18)   カミノ・デ・サンティアゴ(Camino_de_Santiago、スペイン巡礼の道)は、フランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポル(Saint_Jean_Pied_de_Port)からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago_de_Compostela)までの800㎞の道である。1000年以上の歴史があるとされているこの道は、元々は聖ヤコブのゆかりの聖地を巡礼する宗教的なものだったのだが、今日は様々な目的の人々がそれぞれの思いを背負い、道に立っている。この道を歩く人は巡礼者と呼ばれ、800㎞を一か月ほどかけてひたすら歩く。私は2013年、今までの自分を振り返り、これから自分が歩む方向を考えるためこの道の上に立った。   当時私は修士2年で、博士進学と今後の自分の進路について、色々頭を悩ませていた時期であった。そもそも私は歩くことが大好きで、普段から何かを考える時はよく散歩をしていたので、1か月間、非現実的な環境で、ひたすら歩きながら考え事ができる贅沢な時間に大きな魅力を感じた。それがわざわざ遠いスペインまで行き、800㎞を歩く苦労を買った理由である。結果的に、巡礼の道はかけがえのない思い出として私の人生に大きな影響を及ぼした。美しい景色、今も良き友達である巡礼者仲間を含め、当時の記憶は2018年の今も色あせず、焼き付けられたかのように鮮明なものである。そして、この800㎞があったからこそ、私は博士課程に進学し、博士論文が書けていると言っても過言ではない。   とはいえサンティアゴまでの道のりは辛いものであった。ただただ歩くだけだったのに、それを毎日8時間ほど繰り返すと、両足には大きな水ぶくれがあちこちにできで、圧迫され続けた小指の爪は黒く変色し、結局剥がれてしまった。生活用品、着替え、水、寝袋など長期の旅に必要な物を詰め込んだ12㎏のバックパックをずっと背負っていた肩も、腰も、ひざも足首も痛み、終盤には鎮痛剤を飲まないと痛くて歩けないほどであった。大変だろうとは思っていたものの、私の想像をはるかに超えるつらさだった。あまりのつらさに、「私何やってるんだろう。なんでこんなつらい思いしているんだろう。やめようかな。早く終わらないかな。私にはもう無理かな。」と何度つまずいて、何度思ったことか。   しかし、実際私の選択肢に諦めは無く、当然のことながら、サンティアゴに着くには毎日黙々と約25㎞を重ねることしかない。最後は「もうこんなつらい思いをしたのだから、絶対サンティアゴ行ってやる!行ってこのつらさの先に何があるかこの目で見てやる!サンティアゴがこんな苦労する価値があるものだったのか確かめてやる!」との思いで歩き続けた。そして、32日目、到底着けそうになかった目的地、サンティアゴについに到着した。しかし、サンティアゴそのものに私は何も感じられなかった。そう、サンティアゴそのものには意味があるわけではない。そして気づいた。大事なのは過程、私が毎日いろんな思いで苦しみながら歩いた一歩一歩、歩きながら感じた事、考えた事、出会った人々そして交わした会話、共にした時間。私が800㎞を歩いた意味はその過程を経ることであった。大事なのは目的とその結果そのものではなく、そこまでたどり着く道のりにあること、その過程であることを痛感した瞬間であった。   そして、2018年の私はまたとてもとてもつらい道の上に立っている。ただただ自分の頭にあるものを文字にしていく作業の繰り返しが、この上なく苦しくてつらい。「私何やってるんだろう。なんでこんなつらい思いをしているんだろう。やめようかな。早く終わらないかな。私にはもう無理かな。」と何度つまずいて、何度思っているか。しかし、今はただただ一字一字を書いていくしかないこと、それが重なって博士論文という目的地に着けること、そしてこの過程が何よりも大事であること、この道のりそのものが大きな意味をなしていることをわかっている。だから、今日もまたパソコンに向かう。   <沈雨香(シン・ウヒャン)Sim_Woohyang> 2017年度渥美奨学生。2008年来日。早稲田大学教育学部卒業後、同大学教育学研究科で修士課程修了。現在は博士課程に在籍し博士論文を執筆しながら、早稲田大学教育・総合科学学術院の助手に着任。専門は教育社会学。中東の湾岸諸国における高等教育の研究を主に、近年の日本社会における大学のグローバル化とグローバル人材に関する研究など、高等教育をテーマにした研究をしている。     2018年4月5日配信
  • エッセイ563:カバ・メレキ「不思議なアイデンティティ問題―悩み相談か日記かわからない私事の話―」

      アイデンティティの問題から書き出したら、何だか人文社会学の研究者が「米国におけるアフリカ系移民」とか、最近でいう「トルコのシリア人移民問題における子供たちのトルコ語教育」のような内容が期待されるような気がする。   そうではなく、長期日本滞在者の帰国後のアイデンティティの問題が気になるのである。渥美国際交流財団、つまり我々が言う「渥美の家族」の中には、博士課程の数年ほどの時間を日本で過ごした者もいれば、もっと長く日本に居た者もいる。私の日本滞在は13年に及んだ。大学が終わって文部科学省の奨学金の受験を経て日本に行ってみたら日本の文化と人がとても好きになり勉強しながらずっと日本に居た。研究生や大学院は9年間、そして育児は2年間、その後仕事体験2年未満といったような流れで、学者の生活、社会人の生活、仕事体験、あれもこれも全部日本で体験した。女性の身なら良くわかる結婚、出産や育児体験までも同じ。そのような体験を経て自国愛とも言うべき理由と親の面倒を見たいという責任感の混じりあったところで帰国を決心した。人はどうせ体力よりも気持ちで動くから。帰国後はトルコ中部カッパドキアの大学の日本語日本文学専攻科で教え始めた。   ずっと日本語のみだった日常会話、人々の間のほど良い距離感と尊敬しあう態度、ゴミのない道、ウォシュレット便座まで、そして仕事に本当に忠実な態度からお好み焼きや湯豆腐まで私の日本の生活の中で大好きだった物事が急にどこかへ消えた。ここトルコはここなりにゆっくりした生活で子供の時間も取れるし、勤務時間もさほど厳しくはなく余裕がある。大学の先生というものはトルコならかなり楽で「カッコイイ」仕事だ。親もとても喜び、まだ一人しかない孫の顔を頻繁に見て、その成長を見守ることができて本当に嬉しそう。   しかし、楽な仕事をしても何か喪失感のような、電車の中で書いたばかりの論文とか何かを忘れ物した時のような、または何か「ありがとう」と書くときに最後の「う」を打ち忘れたような気がしてしまう。私の忘れ物は何だろう。   日本にいた時にも色々と問題を抱えることはどの外国人にもあった。何もなくても品川の「入国管理局」にいってビザの更新がある、東京だと建物ばかりで土も空も見えない、それに外国人だからいつもこの土地の人間ではないという帰属感の不在、ゴミの分別は8種類もありペットボトルのキャップとラベルを外して出すとか、詳細にこだわらなければならない生活上のやり取りも多かった。ただ、我々「日本のクレオール」はそれにはもう慣れていたのが問題である。「慣れ」が一番恐ろしいと言われる。自分の国にいてもその生活のリズムに「慣れない」ということはやはり苦になる時がある。   そんな日本が懐かしくなっていたある日突然、日本にいる友達から花見の写真が送られてきたら涙が勝手に出てきたのが自分ながら驚きと孤独感を感じさせた。   ある日カッパドキアに来た日本人の親子が迷子になっていたので道案内をした。結局自宅に呼びご飯も一緒に食べた。そのお母さんと日本語で話せて不思議な気持ちが胸に一杯入ってきた。私は何者なのか。トルコ人であれば、こう感じるトルコ人はそんなにいるのか。最初から日本人でもない。母国語、身体から国籍や目の色まで大分違う。自分は周りのトルコ人に「日本人化した」トルコ人として見られる。私の行動パターンは一般的なトルコ人とは何だか違うと言われたことも数回あった。日本人から見ればドナルド・キーンが日本国籍を取っても日本語が大好きな「アメリカ人の身体」として目に映るような気がする。人間の気持ちがその額とか体のどこかに文字とかで表記されるような身体の仕組みがあったら、ドナルド・キーンの自己意識がすぐに分かることができたような気がする。もしかしたら一つ以上の文化が一人の人間の中に共存することが本当に可能なのかもしれない。   私と同じような気持を胸の中で一杯感じている「渥美」の誰かがいるかも知れない。また今度新年会か軽井沢で会いたいと思う。その日までお互い、日本文学とトルコ文学における西洋化の問題を比較して考察したり、自国のどこかの雑誌に論文を投稿したり、アイデンティティの問題を考えたり、国境というものの必要性があるのかどうかについて考えたりなどをして頑張りたい。   <カバ・メレキ KABA_Melek> 渥美国際交流財団2009年度奨学生。トルコ共和国ネヴシェル・ハジュ・ベクタシュ・ヴェリ大学東洋言語東洋文学部助教授。2011年11月筑波大学人文社会研究科文芸言語専攻の博士号(文学)取得。白百合女子大学、獨協大学、文京学院大学、早稲田大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート講師を経て2016年10月より現職。     2018年3月29日配信
  • エッセイ562:太田美行「標準服あれこれ」

    既にあちこちで報じられた東京都中央区立泰明小学校の標準服問題である。事の経緯は昨年11月に校長が新しい標準服を導入しようと父母向けのお知らせを出したことに始まり、同校が区立小学校であること、その標準服を一式揃えるのに8万円以上かかること、アルマーニ監修のデザインであること等から、是非をめぐって批判の嵐が吹き荒れた。大方は成長の著しい小学校生活6年の間に一着ではとても足りるはずがないにも関わらず標準服一式に8万円もかかるのは父母への負担が大き過ぎる、またアルマーニという高級ブランド服を子供の、それも公立校の標準服とするのはおかしいとの声が大半だ。まとめてみると高価格による経済的負担、高級ブランド、公立校であることが主たる論点だ。私の考えも大方の意見とほぼ同様なので、ここではやや違った角度から、校長が父母に宛てた通知と記者会見での発言に焦点を当てて論じてみたい。   問題認識は、「泰明小学校を選択してくださり、本校の教育方針に得心をしてくださり、そして、本校でお子様が自負をもって学んでくれたらと、期待なさって本校を選択されたのだと思うのですが、どうも、その意識と学校側の思いのすれ違いを感じ」生徒の「日常の振る舞い、言葉遣い、学校社会という集団の中での生活の仕方」などに思案に暮れるような態度があるという。そこで「泰明の標準服を身に付けているという潜在意識が、学校集団への同一性を育み、この集団がよい集団であって欲しい、よりよい自分であるためによい集団にしなければならない、というスクールアイデンティティーに昇華していくのだと考え」て、新しい標準服の導入を決めたそうだ。   まず「その意識と学校側の思いのすれ違い」を感じるような問題を起こしていたのが「泰明小学校を選択した」親の子供、つまり学区外から来た生徒に限ることなのか、その点が明確になっていない。泰明小学校は特認校なので学区外からの生徒を受け入れている。公立校である「泰明小学校を選択」するのは学区外の親であり、学区内の親は「選択」して子供を通学させているのではない。それにも関わらず校長は「泰明小学校を選択してくださり、本校の教育方針に得心をしてくださり」としており、この点を取り違えている。   次にアルマーニという高級ブランドについて、朝日新聞(2月16日)の報道によるとバーバリー、シャネル、エルメスにも打診したそうだ。同報道に打診されたすべてのブランド名が挙げられているかは不明だが、もし上記ブランドがすべてであるとしたら、そこにはやはり選択肢として不自然さを感じざるを得ない。後に三越と松屋にも打診したことがわかったもののあまり感想に変化はなかった。校長は、銀座には世界に名だたるブランドショップが立ち並び、泰明小学校もまた地域のトラディッショナル・ブランドである、また国際色の強い土地にある小学校としてきちんと装う大切さを感じることで国際感覚の醸成に繋がることをもって理由としているのだが、私にはこれを納得することができない。   銀座に海外ブランドの旗艦店が立ち並ぶようになったのはここ10年程度のことである。それ以前にもあったが銀座はやはり日本の老舗をはじめとする店舗が軒を連ねる場であり、そうした店が銀座という街を作り上げてきた。それなのにいわば新参者である海外ブランドを銀座ブランドとして採用する理由がどこにあるのか。「学校と子供らと、街が一体化する」ことを目指すなら、銀座にある(それこそ「銀座」を作り上げてきた)他の子供服店でもいいはずだ。そしてあまりにも当たり前のことだが国際感覚は海外ブランドの服を着ることで身につくものではない。そんな薄っぺらなものでないことは言うまでもないことだ。   疑問はさらに続く。今年2月9日の記者会見の場で記者からアルマーニの標準服を着られない子供たちにいじめが生じないかとの趣旨の質問に、校長は「そうしたことがないように学校で指導していく」といっている。しかしそもそも新標準服を導入しようとした理由が「思案に暮れるような」生徒の態度にあるのだから指導力が十分に及んでいないことは明らかで校長自身が認めていることだ。そのような中で見てすぐにわかる「経済力の差」をどのように乗り越えていくというのか。矛盾も甚だしい。   「(基本的な一式なら)本校保護者であれば何とか出せる」というが、公立校だ。どんな一等地でも経済的に貧しい、また何らかの事情がある人のいる可能性を十分に考慮する必要がある。この春入学予定の60人のうち2月中旬時点で48人は新標準服の入金を済ませたという。逆に言えば12人は入金していないということだ。必ずしも経済的な理由とは限らないものの2割に当たる生徒は新標準服を着ない可能性が高く、学校側はこの生徒たちの立場をどう守るのだろうか。   制服あるいは標準服の持つ意味を考えれば、その役割の一つに華美への一定の歯止めをかけることもあるだろう。個人的な話だが私の通学していた幼稚園では、通園時には制服を、園内ではスモックを着ていた。スモックにアップリケや刺繍をしている子もいたが、本来してはいけないことになっていた。その理由は「様々な事情でそうした事ができない家庭もあるため」である。それがあまり守られていなかったのは残念だが、理念として配慮があったことは評価できる。お洒落に気を遣うようになる女子高校生あたりになるとこうした配慮はさらに重要になってくる。有名私立女子高に通っていた友人によると、修学旅行の時に空港の荷物受け取りのベルトコンベアで出てくるバッグはブランドものばかり、その中でもランクがあり、ルイ・ヴィトンやエルメス級でない生徒は、受け取りの時に恥ずかしさのあまり顔が上げられないらしい。この話がどこまで真実かはわからない。だがこの話が示唆していることは明らかだ。入学式の時から子供を俯かせるのだろうか。   こうした世界や価値観が公立の小学校、しかも「顔を上げて生きていきなさい」と語るべき教師により入ってくる。そのことに違和感を覚えない人がいたら教えて欲しい。   このエッセイは2月上旬に書いたものだが、その後私は子供を俯かせるのではないかという自分の心配が杞憂だったことを知る。3月20日のTOKYO_MXの報道によると新入学予定だった7人が辞退した。私学への進学希望が4人、あとの3人は「泰明小学校の教育方針」などが理由という。残りは全員新標準服の購入手続きを済ませている。どうやら学校は子供を俯かせる以前に去らせてしまったようだ。   <太田美行(おおた・みゆき)Ota_Miyuki> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語・国際理解教育、製造販売、経営・事業戦略コンサルティングなどを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。     2018年3月22日配信
  • エッセイ561:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮:日蓮研究に至った背景について」

    始まりは日本語の学生という立場であった。イタリア語と日本語との言語学上の違いはなぜどこから生じているのかと自問し始めると、「言語の背景」という、より奥深いものを意識するようになった。「言語」は言葉だけではない。その背景には人々の心理及びその特殊性を形成してきた思想的な要素も含まれている。日本の思想的なところもある程度把握しておかないと、いくら単語を頭に詰め込んでも深い理解には至らず、日本語の良いスピーカーにもなれないのではないかと考えた。   同時に、20世紀後半の西洋文化の危機というシナリオもあった。神様によって創造されたこの地上の世界を好き勝手に操作することは決して許されないと考えるキリスト教の倫理観と、世界の全てを操作可能にした科学との不毛なぶつかり合いと、ある時点から大学のみに引きこもってしまった哲学思想は、科学技術が毎日私たちに与える種々の課題に対してうまく対応できなくなり、行き詰っていた。   我が哲学の師匠・元ヴェネツィア大学教授のウンベルト・ガリンベルティ先生が仰るには、西洋文明は基本的に3つの倫理体系を経験してきた。   (1)キリスト教の倫理体系である。それを前提に、西洋の法制の全体が作り上げられた。「意志の倫理」と呼ばれよう。判断や審判は「人の個人的な内面性」の中で行われる。行動を引き起こしてしまったのがどの様な「意志」だったのかによって人々は判断され、審判される。意志があって罪を犯したのか、意志がなくても犯してしまったのか、前から意志があって犯したのか、それによって犯行の重さが量られ、処置が施される。しかし、「技術の時代」では「意志」ばかりを探っても全く無意味になる。フェルミ博士が原子爆弾を発明した時、どの様な「意志」を持っていたのかはあまり重要ではない。重要なのは、原子爆弾の発明が歴史にどの様な結果をもたらしたかであろう。   (2)次は「カントの倫理」(世俗の倫理)である。「人間を手段としてではなく、目的として扱うべきである」という命題に要約できる。人間以外のものなら、すべて手段として扱ってもかまわない。カントの倫理も、地球が大きく見え、資源も多く、人々が少なかったときには機能していたかもしれない。しかし、人が多く、地球が狭くなり、資源が少なくなってしまった今はどうか。人間を目的として扱い、人間以外はすべて手段として扱ってもよいのだろうか。空気や水など、今はただの手段なのか、保護すべき目的にもなっているのではないか。   (3)最後に、マックス・ウェーバーの倫理(責任と結果の倫理)である。「人間行動はその裏にあった意志の観点からではなく、その結果の観点から判断されるべきである」と言う。だが、「但し、これは予測可能な結果に限る」と続く。科学と技術は最初から「見つけよう」と決めた結果を前提に進んでいくわけではない。科学技術が発見するものは、様々な作業過程の偶然な結果なのである。その結果は最初から予測されていたとは限らない。例えば、クローンは最初から目指されていた結果ではなかった。ある作業過程の中から偶然に出てきたものである。研究の成果は基本的に予測不能である。   以上のように、「技術の時代」では、今までに西洋で知られている倫理は全く無能のような状態である。そこで、倫理を立て直す必要性も出てくるが、「不変」と思われる原理を基盤にして築こうとしても無意味であろう。自然は不変(操作不能)だと思われていた時代は、「不変な原理」のようなものが機能していたのであろう。だが、それは自然に対して人間がほぼ無力だった時代の話である。   自然は、もはや、ギリシア人とキリスト教徒たちが考えていたような不変な地平ではなく、科学技術の力によって、全面的に操作可能なものとなったではないか。要するに、自然はもう「背景」ではない。「度量」でもない。基準でもなくなった。ハイデッガーが言ったように、我々が自然に対して持つ視線も、功利主義的なものとなった。川を見れば電力と見て、森を見れば木材と見て、地面を見れば地下資源と見ている。不変な地平から全面的に使用可能で操作可能なものへと変わった今の自然を「度量」や「背景」にしながら倫理を築くことは、もう不可能になっているということである。   ガリンベルティ先生は、私たち現代人(西洋人)が今持っている基準は、何一つ必要でなく、「技術の時代」という新しい背景に対応するに当たって、役に立たなくなってしまったものばかりである、と指摘される。筆者が西洋以外の思想に関心を向け始めたきっかけである。新しい考え方が入り、普段ない視点も持たなければ、今の世界の多くを形作ってきた西洋文明は行き詰ったままで、それに代われるものもいつまで経っても出て来ない。   そこで、日本や東アジアの文化と思想であれば、根源的に違う新鮮な視点を私たちの世界に提供できるのではないかと思った。宗教でありながら巨大な思想体系も備えるものとしては、仏教の存在が一番目立っていた。だが、まず原文を通して考究できなければ、ヨーロッパ語族と現代思想の狭い範囲に縛られたままである。そこで、母校トリノ大学で「東アジアの宗教と思想」というセミナーに通い、多くの資料へのアクセスを可能にしてくれる日本での留学も強く望み始めた。   仏教の「聖典」を学ぶ時、資料を原文で読み、「今」という時代と「自分」という言語的及び文化的なアイデンティティーを相対化し乗り越えることで、聖典が作られた元の背景と人々の世界観にまで遡り入り込んでみるしかない。筆者は日本語の学生としての当然の選択で、「日本の仏教」を選んだ。だが、奈良期と平安期の資料(漢訳経典への注釈書等)は解読しづらい。鎌倉期以降の資料はより読みやすく、同時代の仏教は最も「日本らしい」とも言われていた。   中でも親鸞・道元・日蓮の3人の存在が目立った。当時の感覚では、親鸞(浄土門)は筆者の精神性の基盤であるキリスト教に近くわりと受け入れやすいと感じたため、逆に魅力をあまり感じられなかった。道元にはアプローチによって西洋哲学に似通った理屈っぽさを感じ、禅学の研究も海外ではすでに盛んであると聞いていた。残るのは、ただ一人であった。海外では研究がまだ少ない、首尾一貫とした構成に非常に纏めづらい、数多くの著作を残しているという、日蓮の多面的な思想と、ヨーロッパでは珍しいその数々の発想があった。これなら、生まれ育ちの文化環境から受け継いだアイデンティティーをうまく相対化し乗り越えられるのではないかと思った。   それ以来、筆者にとっての日蓮は、ヨーロッパ人としての自分を根源的に違う世界観へと導き、日蓮を宗祖とする既成の教団とその伝統的な解釈をも超えたところでの自由な研究によって、新しい視点を多く提供でき、また、思想的に行き詰った西洋世界にも影響を与えることのできる非常に有効的な手段に思える。これは、現在の日蓮研究において筆者個人のアプローチになっている。   今後の日蓮研究のお役に立てることを願いつつ 東京、2017年3月23日   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。博士論文を修正中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。       2018年3月15日配信  
  • エッセイ560:李志炯「30代、愛、結婚について」

      今年、自分の年齢が30代後半に入ることに気づき、少し驚いた。卒業したばかりで正式な会社員になったこともないままこの年齢に向かうなんて、ちょっと恥ずかしい気持ちもあった。だが、やりたい勉強に集中している人にはよくあることではないかと自分を慰めた。一方、仕事は歳をとっても自分が頑張れば何とかなる気がしたが、結婚は歳も重要であるため、自分が頑張っても望む結果を手に入れることは難しい気がした。だが、日本の厚生労働省(平成28年度人口動態統計特殊報告・婚姻に関する統計)の公開資料で年々平均婚姻年齢が上がっているのを見て、私はそんなに遅れていないともう一度自分を慰めた。   一方、30代は心理的、生理的に大きく変化する時期なので、これが結婚に及ぼす影響についても考えるようになった。心理的な問題としては、以前は考えていなかった経済的な側面、愛の持続性、私生活の確保なども考慮するようになり、これらを基に合理的な結婚とは何かについて考えるようになった。生理的な問題としては、主に出産のことを考えるようになった。さまざまな媒体で医学技術の進歩により40代でも健康な赤ちゃんを産めると言われているが、まだ高齢出産のリスクは大きいだろう。私は同年代の異性との結婚を望んでいるため、出産も結構気になるようになった。以前は結婚すれば出産は当たり前だと思っていたが、今は環境によって様々なのだと思っている自分に気づき、少し驚いた。   これらのことを考えると結婚について強迫観念が生じるようで、頭が痛くなる。そして、いつも結婚に対する考えは一周回って以下の質問に帰結する。   「結婚とは何か?」   日本の民法上では婚姻と表現されており、広辞苑では婚姻の定義として、「結婚すること」とした上で、「夫婦間の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子が嫡出子として認められる関係」とある。学術的には結婚は配偶関係の締結を指し、婚姻は配偶関係の締結のほか、配偶関係の状態をも含めた概念として用いられている(文化人類学事典、1987年)。たしかに婚姻が結婚より上位概念のようだが、現代社会では結婚を婚姻と同様な概念として考えているようだ。   これらの定義をみると、性的結合が社会的経済的結合より重要であると感じられる。一般的に性的結合は愛を基盤にする行為であるため、結婚において愛が占める割合は最も大きいと考えられる。筆者も愛が最も重要であると思うが、その愛が結婚生活の中でどれだけ維持できるのかが気になる。「愛は900日の旋風であります」という言葉がある。アメリカのコーネル大学の研究によると、愛の寿命は平均18ヶ月~30ヶ月であることを明らかにした。愛に落ちると脳の大脳基底核に位置する神経核である尾状核が活性化されるので、愛の妙薬と称するドーパミンが増加し、さらなる幸福感を感じるという。   また、他の研究では、フェニルエチルアミンやオキシトシンやエンドルフィンなどが愛を長く維持できるようにしてくれると論じられている。しかし、時間が経つとこれらは減少し、その代わりに理性的判断を行う大脳皮質の活動が増加するため、この視点から相手に対する見方に変化が現れる。そのため、愛の寿命が終わる前に子供を産んで男女間の愛が家族に対する愛に代わる必要があるという意見を示す進化心理学研究者も多数いる。   たぶん、多くの人は男女間の愛を家族に対する愛にうまく入れ替えていると思う。それで、男女関係としての愛は少し減るかもしれないが、それでも配偶者を愛し、自分の子供を愛することで自分の家庭をうまく維持していると思う。しかし、結婚により相手の人が恋愛の対象から家族(配偶者)に変わることに乖離を感じ、その入れ替えに失敗する人もいる。特に、人によっては結婚後にも結婚前と同様に配偶者からの男女間の愛を求めるが、相手との愛の相違によって男女間の愛を諦める場合もある。それで、ドーパミンやフェニルエチルアミンやオキシトシンなどが抑制され、愛の寿命がさらに短くなる場合もある。   こうなると結婚生活の意味や家族の意味や自分の存在についてもう一度深く考えることにならざるをえないと思う。この考えの方向性によって結婚生活が大きく変化するだろう。考えの方向性に基づく行動パターンはさまざまであるが、メディアでよく出てくるのが不倫の話である。また、配偶者に内緒で通帳を作り、財産を備蓄し、いつでも離婚できるような状態を保っている人の話も聞く。これを手伝う専門弁護士まで現れている。さらに、男性の間では定年退職で離婚されることを恐れている人も増加している。   このようなニュースと接するたびに現代社会で生きている既婚者たちは結婚して本当に幸せだと思っているのか疑問になる。また、どんな気持ちで生活しているのかも気になる。まだ愛は残っているのかも気になる。歳をとるほど結婚について慎重になる中、このようなニュースに接するとますます結婚に対する漠然的な不安が増加する。このようなニュースが結婚生活を代弁するものではないことは認識しているが、万が一のことまで考えるようになった今の年齢では看過できない部分もある。   平均婚姻年齢が上昇している現代社会における筆者のような年齢の未婚者は、結婚についてどのように考えればよいだろうか。   <李 志炯(イ・ジヒョン)Lee Ji-Hyeong> 2007年、啓明大学(韓国)産業デザイン科卒業。2007年6月来日。2012年、千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻修士課程修了。2011年~2013年、千葉大学発ベンチャー企業BBStoneデザイン心理学研究所研究員。2017年、千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻博士課程修了。工学博士。2018年、第一工業大学建築デザイン学科助教。韓国室内建築技士・日本ユニバーサルデザイン検定の資格を保有。       2018年3月8日配信
  • エッセイ559:李暉「博士論文を書く日々のはなし」

    (私の日本留学シリーズ#16)     「人はプレッシャーがあって前へ進むものだ」と誰かが言った言葉がある。もうすぐ30代が終わるアラフォー圏にいる自分は、もうプレッシャーでもどうにもならない年だと勝手に思い込んでいた。しかし、博士論文を書く最後の3か月、私はもう一度、プレッシャーの魔法で走っていたのだ。   今年の2月に入り、中国の旧正月も終わって、私にとって新しい1年が始まった。5月に博士論文の初稿を提出しなければならない。すでに締切りまで残り3か月を切っていた。予備審査も通ったし、論文に書きたいこともおおよそ決まっていて、残るは自分の考えを文字で表すことだけだと自分を安心させながらも、文字を増やしていくことは気が重い作業で、また1週間ほどいろんな口実を作って博士論文の原稿を開こうとしなかった。これではだめだと、頭の中の理性が厳しく言った。まず、指導教官のアポを取って、それをもっと近い締切りにしておこうと自分に大プレッシャーをかけた。   論文の進捗状況を2回に分けて先生に説明するアポを無事に取り、「よし!」と気合いが入った。家のことを主人と義理の母に任せて、私は論文に取り組むため東京へ出かけた。毎日大学の研究室に通い、少しずつ論文の文章を足していくように進んでいった。毎日進展があり、焦りが減り、軌道に乗るようになった。先生との1回目の相談の日がすぐにやってきて、内心ドキドキしながら会いに行ったが、自分の論点がほぼ通ったので、一安心だと嬉しく思った。すでに半月ほど家を出ていたので、少し休憩も兼ねて私は奈良の家へ帰省した。   駅の改札口で主人と3才の息子がすでに待っていた。「お~、ママ!ここだよ!!」と遠くから息子の声が聞こえて、喜んで飛び跳ねる息子が見えてきた。「ただいま」と息子が相変わらずの間違った挨拶をしたので、家族3人で笑った。家に向かう車のなかで、息子は私の胸に寄りかかって眠った。「ママと一緒にいると、すぐ眠れるんだ」と主人は感心したが、息子の安らいだ寝顔を見て、私は少し淋しく思った。2、3日したら、また別れるのだ。   上京の日。朝、保育園に息子を送った。小さな体が自分にくっついていて、どうしても部屋に入ろうとしなかった。自分を掴む手を無理矢理離して先生に渡した。そして、車に乗る前に振りかえると、部屋の窓側に涙をぼろぼろ流す息子が立っていた。「バイバイ」と私はなるべくいつものように笑顔で言った。「ママ、待って!ママ、待って!」、その言葉を繰り返しながら息子が窓から窓へ、去っていく自分の車を追いかけた。   大学で論文に打ち込む日々が続いた。「奈良に帰って作業できないか」と主人から連絡があった。息子の夜泣きがひどくて、主人も疲れた様子。その後、奈良の家にこもって論文を書くことにしたが、やはりペースダウンになった。少しでも時間を稼ぐために、息子は義理の母に連れていってもらい、週末はおばあちゃんの家で過ごさせることにした。ある日、息子を保育園へ送る車のなかで、「ママ、僕はもう一回おばあちゃんちに行くから、もう仕事を終わらせて!」と息子に言われた。私は言葉が出なかった。バックミラーに息子の真剣な顔が映っていた。彼はすべての事情を分かっていたのだ。   いよいよ5月に入り、論文の提出に向かってラストスパートをかける時期になった。ゴールデンウィークは、最終的な一頑張りだけど、保育園が休みだ。いまとなっては上京する準備さえ時間のロスだ。週末より長い期間だけど、やはりおばあちゃんの家に行ってもらうしかない。ただこの3か月間に数多くの別れを重ねてきて、自分も見送る勇気がなくなり、すべておばあちゃんに任せた。息子が出かける日、義理の母が保育園に迎えに行った。私は家の2階に隠れて、いない振りをする約束だった。母が保育園の荷物を玄関に置いてさりげなく「いってきます」と言って、2階にいる私に合図をし、カチャンと扉を閉めた音がした。私は表側の部屋に行って、窓から見送った。息子は母とバスに乗ることを楽しそうに話していたが、なぜかものすごく淋しく見えた。「ママも頑張るんだ」とバス停へ消えてゆく2人の後ろ姿を見送って私は決心した。   計画には常に予定外のことが起こるというが、緊急事態が発生した。義理の父が脳出血で倒れたと義理の弟から連絡が入った。少し混乱した私に「まず、今晩は論文の作業を続けて様子をみよう」と主人が話してくれた。私は何も言えなかった。論文の完成を頑張るしかないんだと自分に言い聞かせた。幸いなことに、義理の父の脳出血の手術は成功し、出血も収まったようだ。   今日は論文提出の締切日。私は予定通り上京し論文を提出した。論文提出の手続きを済ませ、鞄には論文の初稿一本を入れて、私は折り返す新幹線に乗った。義理の両親に見せたい!!、長く放置していた息子を抱きしめたい!!と、私はいま主人の実家へ向かう新幹線の中。(2015年6月記)   <李暉(り・ほい)Li_Hui> 2014年度渥美奨学生。2015年9月、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻より博士号取得。現在、奈良文化財研究所の客員研究員として在籍。研究分野は、建築史、特に大工道具及び大工技術。       2018年3月1日配信  
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