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2012.05.23
2012年4月26日にフィリピン大学で開催された第14回日比共有型成長セミナーは、今まで13回マニラで開催してきた同セミナーにとって歴史的転換期だったと言っても過言ではない。
セミナーは午前9時半から、同月2度目のマニラ訪問の今西淳子SGRA代表とフィリピン大学労働・産業連携学部(SOLAIR)のサレ学部長の開会式で始まり、午後6時の参加証明書の贈呈式で終わった。
今回のマニラ・セミナーのテーマは「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」というものであった。この格差は「効率」を重視しすぎた結果であって、「公平」や「環境」を犠牲にしがちになっているという考えが根本にある。
開会式の後、参加者は建築学と社会科学との2つのパラレル・セッションに分かれた。建築学は「持続可能な環境と防災」というテーマで、社会科学は「水資源管理と農業・貧困」というテーマで進められた。セミナーに参加した2名の日本人である今西代表と中西徹先生は、偶然にも、原子力エネルギーがいかに日本社会の問題になっているかについて言及した。僕は、最後に都会・農村の貧困問題について発表し、両者を分けて考えないほうがいいではないかと提案した。
たくさんの方々のご支援のおかげで、今回は、これまでのセミナーを大きく上回る成果を得ることができた。成果の一つは、参加者の人数(84人が登録)と分野の広さである。従来は、発表者が2~3人だったが、今回のセミナーでは、公募による23本もの発表があった。
発表要旨のリスト
また、従来のセミナーでは、経済学者の発表が中心だったが、今回の発表テーマは経済学だけでなく、建築学、工学、農学、経営学という広い分野に亘り、発表者のバックグランドも大学、政府、市民団体という広い社会構成組織をカバーした。因みに、SGRAの一部助成を受けて、この発表者の中から13名が来年の3月に上海で開催される第一回アジア未来会議(AFC)の自然科学と社会科学シンポジウムに参加することになった。ほかに自費参加する人も数人いるようである。日本の仲介により、フィリピンと中国の友好関係に更に貢献できればと思う。
第14回マニラ・セミナーの実績のもう一つは、セミナー企画委員会の拡大であった。従来セミナーの企画はSGRAフィリピンが行っていたが、今回から発表者や参加者自らの企画への参加が実現しつつある。それはSGRAの学際的・国際的という方針への賛同はもちろん、フィリピンにおけるSGRAの活動の基本的な目標である共有型成長、さらには「Eの三乗(Efficiency x Equity x Environment =sustainable shared growth)」がより多くの人々から賛同を得たからである。「Eの三乗」を日本語に訳すと、「3K(効率・公平・環境)」であり、環境的にも持続可能な共有型成長を意味する。
企画委員会で、この「Eの三乗」をフィリピン語にもすべきだという意見を受けて、「KKK(Kahusayan(効率)、Katarungan (公平)、Kalikasan(環境))」と呼ぶことにした。フィリピン人にとって「KKK」はフィリピン革命に関連する深い意味がある。それは、19世紀のフィリピンでスペインからの独立を目指してアンドレス・ボニファシオらによって結成されたカティプナン(タガログ語:Katipunan)という秘密組織のことである。カティプナンという名前はタガログ語の正式名称「Kataastaasang Kagalanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会の意)の短縮形であるが、「KKK」というシンボルマークでも知られる。その「KKK」を掲げたSGRAセミナーを通じて、企画委員たちの心には「フィリピンを変えよう」という使命感が燃えているようである。
このSGRAフィリピンの使命に、フィリピン大学SOLAIRが賛同してくださり、セミナーの前日、今西代表とサレ学部長によって、MEMORANDUM OF AGREEMENT(提携書)が調印された。これからも、このような形でセミナーを開催していく予定である。
5月5日、第14回セミナーの反省会をフィリピン大学で開催し、第15回セミナーをいかにより良いものにするかについて話し合った。企画委員全員が、これからKnowledge Management Center(知識管理センター)を実現すべきだという意見をもっていた。それを受けて、SOLAIRから場所を提供してもいいというありがたいお話もあったが、最初は、仮想的(VIRTUAL)に始めたほうがいいということで合意した。そのために、第14回セミナーで活躍した渥美財団のサーバーを拠点として、今後も更に活動を活発化していきたい。マニラ・セミナーで生産されている知識をSGRAのフィリピンの活動にもっと利用していくために、きちんと知識を管理すべきであるということである。その一環として、第14回セミナーの発表に基づいて、ディスカッション・ペーパーという一般向けの論文を集めて、最終的にオンラインで公開する英文のSGRAレポートとしてまとめようという動きが始まっている。そのためにフェイスブックにも議論の場を設けた。この知識管理センターをいかに実現するか議論中である。
次の第15回マニラ・セミナーでは、(建設業界を含む)製造業と持続可能な共有型成長というテーマに戻り、第14回セミナーと同様、発表者を公募する予定である。今までは企業からの参加が少なかったが、次回からは企画委員の協力を得て、もっと広い範囲に呼びかけたい。これもSGRAがめざす「多様性のなかの調和」という理念に沿ったものだと思う。
第14回セミナーの写真集
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。フィリピン大学の労働・産業連携大学院シニア講師。
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2012.05.16
「金 正恩による『脱中国属国化の賭け』」
(原文は『明報』(20012年4月2日付)、および中国のブログ「鳳凰網(ifeng.com)」に掲載。朱琳訳)
金正日の逝去から3ヶ月経ったが、若い「金三世」が「金氏王朝」を無事に継承できるのか、国際社会が北朝鮮の成り行きを注目している中、金正恩が人工衛星と称する「光明星3号」(ミサイル搭載)の打ち上げを強行した。その知らせに接した米・日・韓は驚きを隠せず、直ちに緊迫状態に入った。一方、中国も深い憂慮の意を表している。
ところで、金正恩の今回の行動はどう読むべきなのか。それはまさに「一石三鳥」の策略と言えよう。まず、対内的には、父親の「先軍政治」の路線を継承する意志を示し、自らの統治能力および正当性をアピールすること、そして対外的には、今回の発射を来たる6カ国会談などにおいてアメリカとの交渉のカードにすること。さらに、金正恩は今回の行動によって北朝鮮に対する中国の影響力を低下させようとする狙いがあると筆者は見ている。
周知にように、中国と北朝鮮はかねてから特殊な関係にある。60年前に両国は、朝鮮戦争の戦場における血みどろの戦いのなかで比類ない「兄弟の絆」を築きあげた。金正日の時代に両国の関係はつかず離れずであったが、1961年に締結された同盟関係並みの「中朝友好協力互助条約」はいまだに破棄されていない。金二世の末期、一年に三度も北京を密かに訪問し、若い金三世への支持を求めたことは、あたかもかつての「華夷秩序」の現代版のようである。少し前の琉球やベトナムと同じく、日清戦争の前、朝鮮は中国という「天朝上国」の属国であり、朝鮮国王が交代するたびに必ず中国皇帝からの「冊封」を受け、統治の正当性を獲得していた。
しかし、周知の通り、金正日の時代から、北朝鮮はもはや中国の言うことを聞かなくなってきた。だが、北朝鮮の崩壊は中国の利益にならないことを北京はよく知っている。そのために、この見かけ倒しの隣国を支えるしかない。その一環として、今年の2月下旬から、中国は北朝鮮に対し6億人民元に上る援助を始めた。しかも、今回の援助はいままで行なわれてきた融資や双方の物質交換と異なり、完全な無償援助で、「中国の対朝鮮支援における『史上最大規模の無償経済援助』だ」と言われているのである。しかし、金三世は金二世と同じく、北朝鮮に対する中国の政策が急変しないことをよく知っており、「裏切り」という危険な賭けをし続けている。
今回、北朝鮮が急進的に衛星発射を強行したのは、明らかに中国という「後見国」に対して、目に物見せようとしている。しかし、金三世による「脱中国属国化」の試みが果たして成功するかは、この危険な賭けに関わる各国の力関係次第である。ただし、金正恩が一歩間違えれば、北朝鮮は永遠に元に戻れない局面に陥る恐れが十分あることは間違いない。
「金 正恩の『暴走』を中国の責任にすべきか?」
(原文は『明報』(20012年4月16日付)および中国のブログ「鳳凰網(ifeng.com)」に掲載。朱琳訳)
相変わらず、北朝鮮は国際社会からの圧力を無視し、ミサイルを発射した。
相変わらず、アメリカ主導の国連は急いで北朝鮮に制裁をかける決議案を練っている。
また、予想どおり、相変わらず、中国が安保理で賛成票を投じなかった結果、国連の制裁案は通らなかった。これこそ北朝鮮が「暴走」するたびに繰り返される国際社会の反応のパターンなのである。
金正日時代から金正恩時代へ、常識はずれと言っても過言ではない北朝鮮は、過去20数年の間、国際社会を震撼させる事件を次々と起こした。かつてのラングーン事件、大韓航空機爆破事件、日本人拉致事件から、まだ記憶に新しい核実験、韓国哨戒艦沈没事件、延坪島(ヨンビョンド)砲撃事件まで、数多くあった。朝鮮の「暴走」は20数年間繰り返されているが、問題はなぜ国際社会はそれを阻止することができなかったのかということである。
アメリカ、日本、韓国を含む西側諸国では、その原因を北朝鮮に対する影響力を保持しながら、その暴走を容認する中国の姿勢に帰する声が、かねてから指摘されている。しかし、国際社会は平和と正義を追求する一方、各国がそれぞれの国家利益を追求することも許容している。中国にとって、北朝鮮は米日韓三国軍事同盟を牽制する緩衝地帯であるため、言うことを聞かない北朝鮮ではあるが戦争さえ起こさなければ、金氏王朝のままで中国の国家利益に合致するのである。
国際社会が各国の国家利益追求を許容するのは、主権概念の確立と深くかかわっている。今日、我々が認識している国際社会は、17世紀のヨーロッパに起源を持ち、個々の主権国家からなっている。主権概念の基本精神は、すべての主権国が外国からの干渉を受けないという権利を尊重し、自らの国家利益を追求することを認めている。主権干渉の排除という原則のもとで、たとえ某国の独裁政権が自国の民衆を虐殺したとしても、この国の権力者は、国連によるPKOの派遣と駐在を含め、他国からの干渉を拒否することができる。これこそ第二次世界大戦後国際組織が大いに発展したにもかかわらず、あちこちで発生した暴力や悲劇などに対して、国際社会がなかなか阻止する良策が採れなかったことの主要な原因なのである。1970年代のポル・ポト政権下のカンボジア大虐殺も近年のスーダンの悲劇もそうであった。
一方で、20世紀、とりわけ第二次世界大戦後の発展を経て、今日、主権概念はすでにボトルネック状態に入っている。周知のように、「主権」を発明したヨーロッパはすでに「脱主権国家」のEU時代に突入し、パスポートなしの渡航をはじめ主権を一部棚上げにすることが実現している。グローバル化が進む今、国をまたがる平和共存、国際社会の共通利益、そして普遍的価値観を共有することが新しい時代に求められている。こうした過渡期において、国家の暴走や国際正義を無視しもっぱら国家利益を追求する行為などが受ける圧力も、日に日に増加しているに違いないだろう。
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<林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員。
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2012年5月16日配信
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2012.05.09
昨年9 月に「国の基本を脅かす食の安全問題はいつ治まるのか」というエッセイを発信した。近年、経済発展が進むにつれて、中国の食の安全問題が一気に噴き出したことを述べた。だが、今年の春節があけて間もなく、さらに驚くべきことが露わになった。食の安全から医薬品の安全問題への拡大である。
事件の源は、中国の中央テレビ(CCTV)「夜間ニュース」のキャスターである趙普氏による4月9日午前11時に書き出されたマイクロブログ(微博)の情報である。その内容は、「ジャーナリスト達のショートメッセージに従って、ソリッドタイプのヨーグルトとゼリーを食べないでください。特に子ども達は要注意。恐ろしい材料が使われています。詳細は省略。」というものだった。
実は、ソリッドタイプのヨーグルトとゼリーの生産に使われているゼラチンの原料を、2012年3月15日に中央テレビの「消費者権益の友」という番組で暴露する予定だった。このテレビ番組は、1991年3月15日に、中央テレビ経済部のプロデューサー達が消費者参加型の中継番組として打ち出したもので、以来毎年3月15日にライブ番組を放映して、中国消費者の権益保護、地位改善、消費者国際団体との協力などに大きく貢献した。しかし、1年に1日だけでは、効果がほとんど上がらないので、中央テレビは2003年から「週刊品質レポート」という番組をスタートしたのである。
ところが、今年の3月15日、上記の番組は放映されなかった。その理由は明らかにされていない。しかし、趙氏のマイクロブログの内容は、中国社会全体のゼラチンへの関心を呼び起こしたのである。
4月15日、中央テレビの「週刊品質レポート」は、「カプセルに潜められた秘密」をテーマとし、違法メーカーによる薬用カプセルの違法製造を暴露した。このテーマはジャーナリスト達が半年間に渡って河北省、江西省、浙江省にある数多くの薬用カプセル関連メーカーに行った取材に基づき、報道されたものである。それによると、河北省衡水市阜城県にある河北学洋ゼラチンプロトン工場、江西省弋陽県にある亀峰ゼラチン有限公司などは、廃棄する皮革スクラップを処理して工業用ゼラチンを生産し、浙江省紹興新昌県にある卓康カプセル有限公司と華星カプセル工場などに売り出していた。浙江省紹興新昌県は中国屈指のカプセルの生産地であり、数十社の薬用カプセル会社が集積し、年間千億粒を生産している。その生産量は中国薬用カプセル全体の1/3を占めている。そして、浙江省のメーカーは工業用ゼラチンを使って薬用カプセルを生産した。その後、作りだされた薬用カプセルは薬品会社へ流入し、最終的に患者のお腹に入るというプロセスチェーンである。
では、なぜ工業用ゼラチンを使った薬用カプセルは違法なのか。どのような危害を人間に与えるのかを見てみよう。
まず、工場で皮革を生産加工する時、皮革を柔らかく且つ滑らかに加工するためにクロミウム(Cr)が含まれたタニングエージェント(Tanning Agents)を使わなければならない。従って、このようなプロセスを経た薬用カプセルは危険なものになりやすい。というのは、クロミウムの使用量が国の基準値を常にオーバーするからである。これまで、クロミウムによる中毒報道は一件もないが、クロミウムが人間の気管、消化器官、皮膚及び粘膜に吸収されると、人間へ慢性毒害をもたらし、癌になる可能性が高くなる。
次に、法律の観点からみると、「食用ゼラチン業界基準」に「食用ゼラチンの生産に皮革工場でカットされたスクラップの利用は厳禁である」という規定が明確に定められている。しかし、河北省や江西省のメーカーは、皮革のスクラップを使って生産された工業用ゼラチンを秘密ルートで食用ゼラチンとして浙江省新昌県のメーカーへ販売し、それが薬用カプセルに使われた。法律違反を承知の上で、利益追求のために行った人間の狂った振る舞いは、消費者を震撼とさせる。
さらに、2010年版の「中国薬典」には、「カプセル及びカプセル加工に使われる原料であるゼラチンには、重メタルであるクロミウムの使用量が2mg/kgを超えないこと」と明確に規定されている。ジャーナリスト達が卓康カプセル有限公司と華星カプセル廠からサンプリングしたゼラチンと薬用カプセルを中国検査検疫科学研究院の総合検査センターへ送検したところ、基準値の20倍以上のクロミウム使用量が検出された。
国の基準値:2mg/kg
浙江省卓康カプセル有限公司
工業用ゼラチン(薬用カプセルの原料)中のクロミウム含有量:103.64 mg/kg
薬用カプセル中のクロミウム含有量:93.34 mg/kg
浙江省華星カプセル工場
工業用ゼラチン(薬用カプセルの原料)中のクロミウム含有量:62.43mg/kg
薬用カプセル中のクロミウム含有量:42.19mg/kg
中央テレビの報道の翌日、このニュースはインターネットメディアを通じてたちまち国中に広がり、最大の関心事となった。中国各地方の食品医薬監督局はカプセル薬品をすぐさまに検査した。1回目に公布されたリストでは、すべてクロミウム含有量が国の基準値をオーバーしている。
青海省格拉丹東薬業有限公司(脳康泰1108204):39.064mg/kg
青海省格拉丹東薬業有限公司(愈傷霊1008205):3.46mg/kg
長春海外製薬集団有限公司(盆炎浄20110201):15.22mg/kg
長春海外製薬集団有限公司(蒼耳子鼻炎20110903):17.65mg/kg
長春海外製薬集団有限公司(通便霊20100601):37.26mg/kg
丹東市通遠薬業有限公司(人工牛黄甲硝唑20111203):10.48mg/kg
吉林省輝南天宇薬業(股)有限公司(抗病毒091102): 3.54 mg/kg
四川蜀中製薬(股)有限公司(阿莫西林 120101):2.69 mg/kg
四川蜀中製薬(股)有限公司(諾弗沙星0911012):3.58 mg/kg
修正薬業集団(股)有限公司(羚羊感冒100901): 4.44mg/kg
通化金馬薬業集団(股)有限公司(清熱通20111007):87.57mg/kg
通化盛和薬業(股)有限公司(胃康霊111003):51.45mg/kg
通化頤生薬業(股)有限公司(炎立消110601):181.54mg/kg
法律違反と社会からの反響を考慮して、中国公安部はいち速く河北省、浙江省、江西省、山東省などの公安支局に指示して介入調査をした。現在まで、犯罪容疑者53名を逮捕、工業用ゼラチンとカプセルメーカー10社を閉鎖し、関連工業用ゼラチンを230トン余り押収した。
事件の報道後、各種メディアと関連する政府部門が迅速に対処したことは、リスクマネジメント上、非常によいことである。しかし、このようなことは8年前に既に露見していた。地方政府やローカル企業はなぜ徹底的な対策を打てず、見て見ぬふりをして、違法行為を容認し、ついに大きな事件となってしまったのか。河北省の地方政府関係者(8年前の幹部)へのインタビューでは、一向に恥じることなく、未だに口実だらけで自分の功績(偽物造りの防止)のみを謳っている。
事件の報道後、世論は一斉に政府系の監督局を叱責した。果たしてこれは監督だけの問題なのか。法律がたとえ明確に規定され、鋭い剣のように人間の頭上に掲げられていても、狂った人間は眼を瞑って剣を避けて通るか、剣をごみのように足下に踏みつけるか、さまざまな隙間をぬって、テーブルの下で堂々と取引を行っている。いくら監督機能が強化されても、違法行為の目的が潜んでいる限り、犯罪をなくすことは不可能である。勿論、監督機能の強化も必須であるが、法律の機能を果たす以外に、良心的に義務と責任を履行する良き市民となる道徳が国民一人一人に要求されている。中国の医食の安全問題を治めるためには、メディアや政府、他人への批判ではなく、自分自身の責任と義務を考えることが必要だと感じている。
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<趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)★ZHAO Changxiang>
2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。専門分野はイノベーションとアントレプレナーシップ、コーポレートストラテジー。SGRA研究員
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2012年5月9日配信
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2012.05.02
2012年3月上旬からおよそ3週間をかけて、中国黒龍江省を中心とする危機言語のフィールド調査と、内モンゴルの通遼市を含む学校教育およびバイリンガル教育の実態についての調査を行った。今回の調査を通じて、筆者は中国の多数の地域において現在実行されている教育の在り方について疑問を持ち始めた。特に出稼ぎ労働者の子供たち――「帰郷」生徒と田舎(“郷・村”)で暮らしている児童たち――の教育問題である。
農民工は、都市を建設する主要な労働力として、建設業、サービス業などの多分野にわたって中国の都市化に大きく貢献している。しかしながら、このシステムは、彼らの言語や文化を変化させるだけでなく、個人的、家庭的、あるいは社会的に大きな犠牲を強いている。というのは、多くの人が単身赴任、あるいは夫婦2人とも出稼ぎ労働者として大都市へ長・短期的に移住し、多くの子供たちが親と離れて暮らさざるをえないためである。
迅速な経済発展を遂げている中国では、子供の教育や安全の面において、さまざまな問題が起きていることを、いくつかの事例を通して皆様とともに考えてみたい。
【事例1】夫婦ともに出稼ぎ労働者として大都市に来て、経済的にある程度安定すると、子供たちを呼んで学校に通わせる事が多い。しかし、大学受験が近づくと、子供たちは必ず戸籍がある故郷に戻り、そこで大学を受験しなければならない。というのは中国では、戸籍制度があるため、日本のように移住地を長期居住地としてすぐに登録することができず、戸籍がない移住者は「市民」としての待遇を受けられないからである。大学を受験する子供たちは両親と再び別れて故郷へ戻ることになり、「人人平等」の社会であると教えられてきたのに「なんで」という疑問を抱く。黒龍江省泰来県のある中学校を見学した時、「単身」で帰郷した子供たちに出会った。教師によると、この学校では、多言語教育を行っているが、帰郷した生徒たちはある科目をまったく学んでいないため大変だという。学習環境、人間環境が変わるのみでなく、授業にさえついていけなくなる問題が生じ、子供たちにとって大きな負担となっている。
【事例2】泰来県の県庁所在地で行った学校教育の調査では、「留守児童」について、学校の先生に事例を話してもらった。この学校は経済的に恵まれていないので、パソコンが数台しかなく、寄宿している児童・生徒にネットサービスを提供できる環境はなかった。農民工の子供たちの問題に関心を寄せ、「献愛心」(愛を注ぐ)活動をしている団体がこの事情を知り、パソコンとビデオカメラ付きの機器を2台ずつ送ってくれた。そして、彼らがこの学校を視察に来た際、「留守児童」を遠く離れている両親と会話させてくれた。その際、「留守児童」は両親の姿を見てずっと泣いていたという。この学校には、このような「留守児童」が大勢いて、その教育をすべて学校に頼るしかないという。
一方、数年前から中国では都市化政策に伴い、大規模学校併合が実行され、今はさらに加速されている。本来「村」にあった学校が廃校になったため、「郷村」の児童たちが両親や育った環境から離れ、学校あるいは他人の家に寄宿する現象が多く見られるようになった。
このような教育の良いところもたくさんある。「人」を集中させ、条件が良い「現代化」された学校で教育を受けさせることは、児童・生徒にとって「倒れそうな校舎、設備が遅れている」学校で学ばせるより恵まれていると言える。また資源の節約という視点からみても物的・人的資源の節約に繋がり、合理的であるように思われる。
しかし、その欠点も少なくはない。多人数クラスの子供たちの個性教育問題、寄宿管理・「寮母」の質の問題、学校移転によって教育を受ける基本権利を失う子供が出てくる問題、児童・生徒の安全管理の問題などである。
【事例3】2009年の調査によると、黒龍江省肇源県における3つのモンゴル族郷には、それぞれ1つの学校しかない。即ち、6~7校以上あった村の小学校をすべて「郷」(中国の県より下位の行政単位)政府の所在地に集中させ、そこに高い「ビル」を建て、教育を集中して、授業を行っていた。「田舎」からきた子供たちの多くは学校で寄宿していた(写真参照)。
【事例4】ドルブットモンゴル族自治県の調査で行ったある中学校には400人近くの生徒がいて、校舎も立派で、校庭も広い(写真参照)。しかし、校長の話によると、来年から県庁所在地に移転しなければならないという。それは県庁所在地に「学府城」を建設するため、即ち、学校を一地域に集中するためだという。なお、県庁所在地はここから100キロ近くも離れているところにある。それにも関わらず、移転の運命から逃れることができなかった。ある先生は、子供は寄宿させ、自分は週何回か通うしかないと言っていた。
【事例5】内モンゴル通遼市で調査した小学校では、1クラスの生徒数が66人で、教室をびっしり埋め尽くしていた(写真参照)。66人の子供を一つの教室に座らせるのは、優れた教育環境とは到底言えない。わずか40分の授業で個々の児童の習得度さえ確認できない状況である。その中の一部の児童のみが名札を付けていた。不思議に思って聞いてみたところ、それは他の地区からきた寄宿児童であった。自宅が学校のある地区にある児童は1クラスに2、3人しかいないという。調査を終えて学校を出る時、名札を付けた児童たち20~30人を、1人の女性(「寮母」)が整列させて寄宿舎へ歩きだしていた。教師たちから聞いたところ、この児童たちの寄宿条件は良好とは言えないという。
【事例6】学校の移転(あるいは廃校)により、教育を受ける基本権利を失う子供たちが出てきている。ドルブットモンゴル族自治県、肇源県、泰来県などにおいては、農村にある多くの学校が廃校されたため、十何キロも離れている学校に行かなければならない。経済的にそれほど余裕がない家庭が子供を学校に送り出すことを断念せざるを得ないことも発生している。義務教育とは言え、寄宿生として、宿泊費や食事代などを払うことで、家庭にかなりの負担をかけることになるからである。
それでは、出稼ぎの父母とともに都会へ「留学」した子供たちの教育条件はどうだろう。日本では想像しにくいことが中国で最近頻繁に起きている。例えば、云南網(網易)によると、本来19人乗りのバスが70人も乗せたために、ドアが開かなくなった。やむを得ず、小学生たちはバスの窓から飛び降りている(写真参照)。これらの小学生は雲南省蒙自市に出稼ぎ労働者としてきた農民たちの子供たちで、「外来の人」であるため、定員に空きのない近隣の小学校には入学できず、郊外にある小学校に通わせているという。
また、昨年11月に中国甘粛省で発生したスクールバスの事故を覚えている方もいるだろう。9人乗りのワゴン車を改造し、座席を取り外して幼稚園児64人を詰め込んだバスが事故を起こした。運転手は制限速度オーバーで逆走してトラックと衝突した結果、21人が死亡した。
その後もスクールバスの事故が怖いほど続出した。事態を重く見た温家宝首相は「スクールバス安全条例」の制定を指示した。しかし、それが現場でどこまで実行されているのか疑問である。というのは、事故がまた続々と発生しているからである。2012年4月4日には、山西省運城市にある中学のスクールバスが火災に遭い燃え尽きた。幸い、運転手が生徒たちを安全に避難させることができた(写真参照)。
以上、学校教育におけるいくつかの問題について事例を通してみてきた。 子供の教育について、「親の背を見て育つ」という日本のことわざを思い出していただきたい。子供は親の影響を受けやすく、親からの日々の教育を受けて育つ。インタビューを受けた先生の1人は、「教師や寮母などは、子供たちが育つ環境に「厳しい人」ばかり」であるという。子供は、「親」、「自宅」というリラックスできる環境を失い、まだ自己管理もできていない状態で親から遠く離れて、これで本当によいのだろうか。そもそも、国、そして「大人」が子供の人権を考えているかどうか、尊重しているかどうか、という問題が根底にあると思う。生徒・児童たちの教育や安全は大丈夫なのか、将来の社会問題にならないのか――さまざまな疑問が筆者の頭からなかなか離れない。
関連する写真を覧ください。
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<包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。現在東京外国語大学AA研研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。危機に瀕している言語、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。
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2012年5月2日配信
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2012.03.28
出だしからいきなり質問ですが、さあお答えください。『清朝の皇帝の名との組み合わせとして正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ』。
1.南京条約 - 康熙帝 2.南京条約 - 雍正帝
3.キャフタ条約 - 康熙帝 4.キャフタ条約 - 雍正帝
答えられましたか。正解は④です。正解の方、おめでとうございます。僕はダメでした。まあ、答えに出ていた二人の皇帝はともに清朝初期の名君だったので、19世紀に結ばれた南京条約とはおそらく関係ないのだろうと確信はありましたが、どちらがキャフタ条約を結んだのかはきれいさっぱり忘れてしまいました。僕だけでなく、周りの日本人の友人や、僕が今大学で教えている現役の大学生でさえ、同じ質問に正しく答えられた人は誰一人としていませんでした。逆に、「キャフタ条約って何?」、「康熙?雍正?どう読むの?誰でしたっけ?」と聞く人が多かったのです。実は、この質問は今年2012年度の大学入試センター試験の『世界史』の問題の一つです。つまり、今年の1月に大学進学を目指していて、試験科目として『世界史』を選んだ数万人もの日本の大学受験生が全員この質問に答えなければならなかったのです。何かおかしくないですか。
前から思っていたのですが、日本の試験問題というのは、とりわけ『世界史』や『日本史』のような事実や事件の積み重ねに関する科目の問題では、いつどこで誰が何をしたかというWhen-Where-Who-Whatのような質問がなんと多いことでしょう。反対に「なぜ?Why?」「どのように?How?」と、受験生たちに自分の考え方を書かせる質問は稀です。冒頭の問題を例に取ると、なぜその時代に雍正帝がキャフタ条約を結んだのか、その条約がどのようにアジアや世界の情勢に影響を与えたのか、そもそもなぜキャフタなのか、と質問したほうが、文科省がいつも唱えている「考える力」が育つのではないでしょうか。「キャフタ条約というと…?はい!雍正帝!」というような答え方では、まるでテレビの早押しクイズ番組に出てくるような、知っているか知らないかを聞くだけという程度の質問になってしまいます。早押しクイズ番組で問われているのは、たくさんの知識や単語をひたすら忍耐強く頭に詰め込んで暗記する力と、決められた時間内に誰よりもスピーディーにその覚えた知識を吐き出す力です。それらの力を、大学への入学を決める第一関門である入試センター試験の基準として使うようでは、日本はいったいどのような大学生を育てたいのかと考えてしまいます。
暗記力を否定するつもりはさらさらありませんが、あのアインシュタインも言ったように「本で調べられるものを、いちいち覚えておく必要などありません」。しかも、今の時代では調べる手段は本に限りません。例のキャフタ条約の問題を友人や教え子たちにぶつけたとき、ほとんどの人はすぐその場で掌中の携帯でググって、ものの20秒以内に正解にたどり着きました。調べればすぐにわかるようなことを、知っているか知らないかというだけで点数や合否が決まってしまう入試なんて、何か悲しくないですか。そんな試験で自分の将来が左右されるなんて、僕は絶対いやですね。
しかも日本の大学入試センター試験は全問マークシート方式の選択問題ですから、受験者の「考える力」と「学ぶ力」を測るということはより至難の業となりましょう。シンガポールでは、多肢選択による試験の出題は中学校でもほんの一部でしかありません。特に『数学』については、正解だけを求めさせる問題なんてほとんどありません。なぜなら、『数学』では正解よりもそこにたどり着く思考回路が重んじられているからです。たとえ最後の最後に回答が間違っていても、そこまでの思考ステップがちゃんと数式として書かれていればそれなりの点数がもらえます。おっちょこちょいでケアレスミスが多かった僕もそれでかなり救われました。逆に、回答が合っていても思考ステップが間違っていればゼロ点になるのです。そこで評価される力は、日本の大学入試センター試験のとは次元を異にするものであることがわかりますね。『英語』にしても然りです。近年でこそリスニング・テストも大学入試センター試験に導入されましたが、まだまだ受け身です。一番不思議なのが、『英語』の試験問題には英単語の発音やアクセントを紙面で問う問題もあるということです。イギリス英語とアメリカ英語とでは、発音もアクセントも変わるというのに、です。このような問題を解くために恐らく受験者たちの中には、英単語ごとにそれぞれの発音やアクセントを教科書通りにひたすら覚える人が多いのでしょうね。普段ろくに英語を使って話したりもしないというのに、です。何か虚しくないですか。
記述式の問題と違って、解答を選択肢から選んで解答用紙の番号を塗りつぶすだけのマークシート方式は、採点もコンピュータで行われるので非常にスピーディーで楽であることは重々わかっています。特に近年ではほとんどの大学が入試センター試験を利用しており、その受験者の数が50万人を超えていることを考えれば、効率性の高いマークシート方式を使いたくなるのもわかります。でもね、シンガポールの高校生が受けるイギリスのGCE ‘A’ Levelという大学入学資格試験でも、英連邦の国々の受験生の数を入れれば50万人どころではないのに、マークシートはほとんど使いません。記述式の問題が多いため、採点に大変時間がかかり、一般に成績発表まで2、3ヵ月も待たなければなりません。そこに費やされる労力と時間とコストは膨大なものになりますが、それでもそれだけの価値はあると僕は思います。速ければいいというものではないのです、人生における多くのことは。また、言うまでもなく試験による評価のあり方次第で、教え方も学び方も変わってくるのは当然でしょう。正解だけを答えさせるマークシートによる評価では、当然正解だけを求める人間が多く育ちます。英単語の発音やアクセントを紙面上だけで問う問題では、全部正解だとしてもただの「ペーパースピーカー」に過ぎません。無論、日本の大学の中には、とりわけ選抜度の高い大学ではGCE ‘A’
Level並みの入試問題を設ける大学もあります。しかしその数は非常に少なく、またほとんどが二次試験であるため、受験できる人数も限られます。おまけに、このような難関大学の多くも入試センター試験の成績を「足切り」として使うことから、日本の教育のあり方を方向づけるのはやはり第一関門である大学入試センター試験であることは疑いありません。「考える力」を育むはずのゆとり教育が日本でうまくいかなかったのも、大学への入学試験制度のあり方を変えなかったためであると僕は信じて疑いません。
最後に、アインシュタインの名言をもう一つ。「学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ」と。試験のあり方にも正解はありませんが、試験でどのような「力」を問うべきなのかについて、この言葉が何かの考える糧になれれば幸いです。
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<シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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2012年3月28日配信
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2011.12.28
私はこの世に生をうけて30数年間、実に多くの師に恵まれたが、その最初の師はやはり父であった。父は中国の受難の時代である「文革」(文化大革命)に、自らも迫害を受けたにもかかわらず、私に正直という美徳を伝え、人間としての教育を授けてくれた。
父は高校時代に西安でその時代の潮流である「革命思想」に目覚め、延安に入り込み、中国革命に身を投じた。そのため、祖父は国民党の兵隊に逮捕されたが、革命勝利のため、わが家は「革命幹部の家」となり、辺鄙な故郷で英雄としてもてはやされた。解放後、父は中央政府核工業部に直属していた地質調査局に勤め、次官の直前まで昇格していた。しかし、そんな父を「文革」という人為的な災難が襲ったのであった。1966~1976年の「文革」では、管理職に就いていた人達は、上は国家主席の劉少奇から、下は農村の村長まで、ほとんど例外なく、「階級の敵」の嫌疑をかけられて、民衆の攻撃の対象となった。父もこれを免れることができず、「歴史的反革命分子」という罪名をつけられた。そして一切の権利を剥奪され、一時期監禁さえもされたのである。重病のため実家に送還された後は、監視つき強制労働を課せられることになった。その時、私たち家族も都市から追い出されて、父と一緒に山西省の農村で不自由な生活を10年間も強いられることとなった。その時、誰もが、私たちをどなりつけ、説教し、あれこれ命令した。私も自己批判や思想報告を書かされたり、罰として道路を掃除させられたりしたことが何回あったか数え切れない。私たちは、誰かが自分に援助の手を差し伸べてくれるのを心から熱望したが、人々はわが身も危うい状態で、他人を顧みるゆとりなどなかった。こんな苦境の中で私を支えてくれたのはやはり父であった。
父は自分には恥ずべき何事もないと確信し、「民衆が私を理解してくれる日が必ず来る」と信じていた。しかし、当時の実情では、父親が政治問題を抱えていれば、子供たちの進学や教育は非常に不利だった。1970年、私はすでに9才になっていたが、まだ小学校に入っていなかった。というのは「歴史的反革命分子」の息子だという理由から、私は公民としての教育を受ける権利をも剥奪されたからである。私は入学を拒否された日のことを今なお忘れることができない。父は激しく憤り、監視の幹部に叫んだ。「すべて私に打ちかかってくるがいい。あらゆる災いが全部やってくるがいい。しかし、子供たちには累を及ぼすな」と。子供たちが正常な教育も受けられないという実情に直面した父は、母と共に兄弟の今後の行く末を案じて、どんなひどい暮らしであっても、子供たちにぜひ良い教育を受けさせようと決心した。そして、ある日の夜、父は家族全員を集めて私たちに語った。「君たちがお父さんのことを信じているのなら、今から学問をしっかり身につけ、将来は国家への貢献を通じてお父さんの潔白を証明してくれ」と。翌日から、父は毎晩、農場より戻ってから私たち4人兄弟を相手に塾のように授業を始めた。その後、6年間、父は昼間にどんな侮辱を受けようとも、相変わらず教え続けた。その最初の頃は、村には電気がまだついていなかったが、私たちは石油ランプの光の下で学校必修科目以外に、禁じられていた『論語』、『孟子』など古典書をも通読した。「文革」後、父の名誉は回復された。また、大学受験制度が復活すると、父の授業により得られた基礎学力のお陰で、私たち兄弟は次々と大学に合格した。
「文革」とは中華民族の災難であったが、私たち一家もその辛酸を共にした。当時、もし、父の教えがなかったなら、不合理な苦境に追いやられた私は、この人生最大の難関を乗り越えることができなかったかもしれない。それゆえ、私はいつも人生の最初の師である父のことを思い出す。人間社会の平和と幸福のために、そして苦労をした父の期待に答えるために、私はぜひとも日本での研究を成功させたいと願っている。
(著者の了承を得て、渥美財団1995年度年報より転載)
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<李恩民(り・えんみん)Li Enmin>
1961年中国山西省生まれ。1996年南開大学にて歴史学博士号取得。1999年一橋大学にて博士(社会学)の学位取得。南開大学歴史学系専任講師などを経て現在桜美林大学リベラルアーツ学群教授、SGRA研究員。専門は日中関係史、中国近現代史、現代中国論。
著書に『中日民間経済外交』(人民出版社1997 年)、大平正芳記念賞受賞作『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房2001年)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』(御茶の水書房2005年)など。共著に『歴史と和解』(黒沢文貴・イアン・ニッシュ編、東京大学出版会2011年)、『中国内陸における農村変革と地域社会』(三谷孝編、御茶の水書房2011年)など多数ある。
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2011年12月28日配信
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2011.12.21
35年前のことを思いおこせば、私はちょうど小学1年生で、父の転勤で、インドネシアの西部ジャワ県バンドン市内から中部ジャワ県ソロ市内のインドネシア最大の空軍教育訓練駐屯地の敷地内の団地に引っ越しました。中部ジャワの方言、習慣などにまだなれていなかったころ、よくまわりの軍関係者の子供達からいじめを受けました。インドネシアでは、軍の団地に住んでいる子供たちは乱暴者が多くて「Anak Kolong(寝台の下の子:蘭印時代に駐屯地の兵舎で生まれ寝台の下に寝かされて育った兵隊の子)」というあだ名がついているほどです。そのため、学校の勉強が出来なかったし、成績もいつもビリで、学校へ行くことすら嫌いになりました。父の仕事の関係で、空軍基地の団地の中に住まなければなりませんでしたので、不良の子どもたちとの接触を避けられませんでした。
まさに、様々な悪条件が揃っていました。そのため、私は、親の知らないうちに悪い子になってしまいました。小学3年生になった時、親と一緒に校長先生に呼び出されて、成績の悪さなどを注意されました。そのとき、本当に怖くて、親の顔を見ることができませんでした。複雑な気持ちでいっぱいのまま、一緒に学校から帰る途中、緑豆のお粥店に寄りました。母はやさしく私の顔を見、父も、身体が震えていた私に、甘いお粥を食べさせてくれました。
翌日、父はなかなか取れなかった休暇をとって、よく空軍学校の訓練生たちと一緒に歩き回る田舎へ私をつれて行きました。突然、父は一軒の民家に寄って、私をその民家のご主人と子供たちに紹介しました。民家の裏にはたくさんのアヒルがいたので、やっとその主人がアヒル飼いであることがわかりました。
その日から休日になると、すぐこの民家に遊びに行くようになりました。アヒル飼いの子どもと仲良くなり、よく一緒に田んぼや川などで泥にまみれるまでいっぱい遊びました。そのころから、私は自然に関心を持つようになり、人間と自然が調和したところがこんなに美しいと思うようになり、現在もよく頭に思い浮かべています。
そのとき不思議に思ったことは、この仲良しになった子は、自然の中でよく遊んでいたと聞いていたのに、いつも学校の成績が1番で、その田舎で最優秀の学生だったことでした。そして、これをきっかけに、私は悪夢から目が醒めたように、このアヒル飼いの子に負けたくないという気持ちになり、勉強に力を絞って、今まで親をよく困らせた分を取り戻そうと決心しました。
それから1年後、私の学校の成績はビリから1番になり、親、校長、町の人々を驚かせました。父がこの知らせを聞いたとき、私の目には信じられないほど喜んでいました。母の目からも嬉し涙がぽろぽろ流れました。そして、父はこの通知書を当時なかなか買えなかったフレームに入れて自分の部屋に飾りました。
その父は、私が、子どものころからの海外に留学したいという夢まで実現できたことを一番嬉しく感じてくれています。あのアヒル飼いの子と出会わなかったら、きっとこんな人生は送れなかったと思います。今でも帰国するといつもこの子に会いに行っています。この子から自然の良さを勉強させてもらったおかげで、大学に進学してからレーダで自然をモニタリングする研究に興味を持つようになりました。また、現在、次世代地球環境診断用の小型衛星をはじめ、無人航空機、合成開口レーダなどの開発をしています。
自然の中の様々な動植物の種類と生活もあの子が教えてくれたものです。アヒル飼いの子は私のヒーローで、いつも心の底に大切にしています。
(渥美財団1995年度年報より転載、著者により一部加筆)
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Josaphat Tetuko Sri Sumantyo (ヨサフアット テトオコ・スリ スマンテイヨ)
インドネシア出身。1995年金沢大学工学部電気・情報工学科卒業 1997年同工学研究科電気・情報工学修士。その後インドネシア科学技術庁技術応用評価庁(研究員)、インドネシア国軍陸軍教育・訓練院(研究員)、バンドン工科大学工学部電気工学科(非常勤講師・研究員)勤務。2000年千葉大学環境リモートセンシング研究センター(リサーチアシスタント)、千葉大学大学院(自然科学研究科人工システム科学専攻)、2002年博士号を取得。2002年千葉大学電子光情報基盤技術研究センター ベンチャー・ビジネス・ラボラトリ 講師、2005年-現在千葉大学環境リモートセンシング研究センター 准教授(専任教員)の他に、バンドン工科大学、インドネシア大学、ウダヤナ大学などの客員教授。研究分野:マイクロ波リモートセンシング、小型衛星、無人航空機、合成開口レーダなどの開発。
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2011年12月21日配信
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2011.12.14
私は、去年の十月に博士号を取得して、今年の八月から大学の教員になった。研究の道を歩んでいるのは、間違いなく私の父からの影響によるものである。
父は地元の百貨店(百貨店といっても、今から見ると、大きな雑貨屋のようなものだ)の六男として生れた。若いときは血気盛んで、喧嘩ばかりする不良少年であったが、結婚して子供が生まれたら、すっかり責任感の強い父親に変わった。
父は、怒り出すと、いつも「三字経」(人を罵る乱暴な言葉)を連発するが、子供に対してはとてもやさしかった。いまでもはっきりと覚えているのは、幼いころ、寝る前に、必ず私に腹巻をしてくれたことである。大きな温かい手は、幼かった私にこの上ない安心感を与えてくれたのである。大人になった私は、よく「素直ですね」と褒められるが、このような性格は、幼少時からやさしい父の下で安心して育ってきた結果だと確信している。
スポーツが得意な父は、放課後いつも私たち兄弟三人を連れてバスケットボールや野球などをしに行った。投げられたボールを受け損なって顔に当たってしまった時に、父は「プレーするときは、集中しろ」「相手に隙を与えるな」「取れなかったのは全力を尽くしていない証拠だ」と厳しく叱って、少しも同情してくれなかった。私は、スポーツは一向に上手にならなかったが、何事も集中してやらなければならないということは覚えた。運動した後、私たちは必ず行きつけの店へアイスティーを飲みに行ったが、父は一気に飲み干してから、「コラ、まだ飲み終わっていないか」と女の子の私にまで言う。私はある意味で男の子として育てられていたのである。
高校を卒業したら、すぐに運転免許を取ったが、父はよく路上運転に同伴してくれた。しかし「初心者だから、ゆっくり運転しなさい」と言うのではなく、「追い越すなら、早く決断しなさい。事故はためらったときに起こるんだ」と教えた。また、父親は時々格闘技を兄と弟に教えていた。「人と喧嘩するな」と言わずに、「人と喧嘩することになったら、いかにして勝つかを考えろ」と教えた。このように、父親は、伝統に反する教育法で私たちを訓練していたのである。
父は手先がとても器用で、工芸品の製作、彫刻などが得意であり、植物の栽培にも興味があった。私は、このようなところはまったく親から受け継いでいないが、読書の習慣は父から強い影響を受けた。
よく檳榔(台湾で労働者がよく噛むヤシ科の実)を噛んでいた父は、労働者の豪快さがある一方、本を読むのが好きであった。父はよく本を薦めてくれたが、一番印象に残ったのは、1970年代の有名な散文家・王鼎鈞の『開放的人生』である。この本から得るものは多かったように思うが、その具体的な内容はもう覚えていない。このエッセイを書くために、あらためてこの本を読み直した。「鶏口?牛後?」という散文を読んで、記憶がよみがえった。「わが子よ!将来何をやっても、その業界でもっとも優れて、傑出した人になりなさい。たとえ、道端で豆乳を売ることになっても、一番よい豆乳屋になりなさい」という一文がある。確かに父がこの文章を読ませてくれたのを覚えている。「一番になりなさい」は私の遺伝子の一部になったのである。小学校入学のときにも、クラスで最年少の私に、「努力によって未熟さを補うことができるよ」と何度も言い聞かせた。そのためか、私はコツコツと頑張る性格が形成されるようになった。
父は、不幸でありながら離婚できずにいる女性をたくさん見ていたせいか、「台所から出なさい」と繰り返し言っていた。お金を稼ぐ能力があれば、男性に振り回されないで済む、また、その能力を身につけさせるのは教育だと彼は考えていた。教育で運命を変える、という福沢諭吉に似たような考え方なのである。小学校時代、父は、夜の7時半から9時までの間を勉強時間と定め、国語、数学から社会まで、すべての科目を自ら教えてくれた。苦手な算数の時間、いつも怒られて泣いていた。9時を過ぎても、父の講義がなかなか終わらないので、目を擦りながら、一生懸命に眠気を覚まそうしたことを、いまでもよく思い出す。あの頃のデスクライトは電球だったので、異常に熱を発していて、夏になるとひどく暑かった。こうして、勉強に付き合ってもらったおかげで、本来平凡な私が、クラスの中でいつもトップの位置を占めることができた。
台湾では、「猪没肥去肥到狗」(豚を育てるつもりだったが、犬のほうが肥えることになってしまった)ということわざがある。これは、男尊女卑の旧社会でよく聞かれることわざであり、男性より女性のほうが大成したという意味である。父はむしろそれを望んでいたようだ。私は博士号を取って大学で教鞭を取るようになった。まさに、彼が期待していたとおり、自立した女性になった。父はきっと天国で喜んでくれているに違いない。いまでも、「一番になりなさい」「人より倍以上努力するんだ」という誡めが聞こえてきそうである。
「おとうさん、これからもコツコツ頑張っていくから、どうか見守っていてください」。
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<梁 蘊嫻(りょう・うんけん)☆ Liang Yunhsien>
台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程終了。現在は台湾の元智大学応用外国語学科の助理教授。
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2011年12月14日配信
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2011.12.07
オソオセヨ(어서오세요; お帰りなさい) 金浦空港の入国審査台の職員さんは、私の1年ぶりの帰国事実を確認し、温かく迎えてくれた。 コマプスムニダ(고맙습니다; ありがとうございます) 私は彼の挨拶に呼応し、入国場に向かった。
ようやく、私は、韓国に戻った事実に「半分くらい」気づいた。それは私が乗ってきた飛行機の乗客のほとんどが日本人だったせいかも知れないが、それよりは、私がまだ海の向こうに名残をのこして来たからだと思う。 ちょうど1年前の2010年9月25日、私は金浦空港を出発し、羽田空港に到着した。 韓国にいる頃から相当な方向音痴だった私は、「殺人的」な東京電鉄路線図を見た瞬間凍りついた。 (次の日、日本で初めて買った本は、東京近郊路線図が含まれた東京23区の地図だった)浅草のホテルに辿り着いた私は、ビールと勘違いして買った鮮やかなデザインの発泡酒を飲みながら、これから始まる1年の留学生活の緊張を和らげた。 日々の生活において若干の間違いもあったがなんとなく慣れて、目標とした1年間の勉強を始めた。東京大学日本史中世史専攻の外国人研究生として、親切な同僚達からの援助を受けながら勉強した。
思うに、それは今までの自分の人生最高の幸運の一つであったと思う。私はそこで歴史研究の基本中の基本とも言える、史料に対する真剣さを切実に学び、私の研究と精神が一層も二層も成長しうる契機になった。 私の研究分野は「壬辰戦争(1592~1598)」である。日本では文禄・慶長の役、または豊臣秀吉の朝鮮侵略と呼んでいる。もちろん、この時代を研究するのにも基本は史料である。史料を軽んじ、または偏狭な史料ばかり見ていたら、「正しい」研究はできない。私は当時の韓国(朝鮮)と中国(明)、そして日本の、三国の史料を全部見て、それらを利用して研究を進める、という意欲を(思いとして)持っていた。 当時の韓国と中国の史料は、ある程度把握し終わった状態で、これを基にして、いくつかの論文を発表した。しかし、日本の史料にはまだ接していない状態だった。私は日本史料に対する基礎知識がない状態だったのだ。 日本で(広い意味で)歴史史料と言えば、大概、古文書(こもんじょ)、史料、記録に分けられる。古文書はだいたい書状(手紙)類で、史料は編纂、または編集された歴史史料類、そして記録は日記類を意味するとみればいい。この各分野については、各々体系的な研究がなされている。東洋の記録文化と自国の独特な記録伝統をいかして、長い間研究が蓄積されて来たのである。
一方、初心者も接近できるように入門書も多く存在しており、このような親切で便利な接近性も羨ましかった。 私が主にみなければならなかったのは古文書だった。参戦した日本の武将がお互いに、または豊臣秀吉との間で取り交わした当時の生々しい手紙である。韓国(朝鮮)と中国(明)には「実録」という立派な公式史料があり、朝鮮と明の間で送受信された外交文書も多数存在するが、これらの史料はあくまでも公的に編纂された史料で、また精製された史料なので、現場の生々しさを盛り込むには限界があると思う。 韓国(朝鮮)と中国(明)の史料の中には、現場で活動していた武将の実態が含められた手紙類は極めて少ない。日本には現在、そのような手紙類が数えきれないほど多く残っており、大体、原本がそのまま残っている。もちろん、活字化され、研究者が接するのに便利になっている場合も多い。 日本の中世史学界(戦国時代を含む)では、この古文書を研究の基盤にしている。古文書を解読し、利用できる能力がなければ、中世史の研究は不可能である。三国が取り組んだ「壬辰戦争」を研究する私にとってもこの古文書の壁を乗り越えなければならなかった。
東京大学の場合、学部三年生になると先輩達と直接原文史料に接しながら解読の練習を始める。ゼミの発表や卒業論文の執筆も史料が基になる。このような基本的な訓練を受けてから大学院に入ることになっている。基本を徹底した後、即ち、武器の使用方法を学んでから戦場に投入されるということである。 私にとっては、日本の古文書に接することは初めてと言ってもいい位だったので、基本も身に着けないまま1年の間に成果を出して戻るというのは、とても欲ばりだったのだ。そのような情けない者をよく引っ張って、親切に教えてくれたチューターには感謝するばかりである。チューターと共に文書を読みながら、またひとりで概説書を読み、関連の研究書を読みながら、少しずつ、文字が、内容が見えるようになった。人の助けがなくでも、ひとりで少し古文書を解読できるようになった瞬間は、えもいわれぬ嬉しさだった。
例えば、戦争初期、朝鮮の民兵(義兵)の反撃と兵糧不足に悩んだ加藤清正が国元に送った51ヶ条の書状 (1593年8月8日 加藤喜左衛門・下川又左衛門宛 加藤清正書状;下川文書)からは、彼の危機感と共に私たちが知ることができなかった彼の細心な性格を覗き見ることができる。51ヶ条(実際は50ヶ条)という長い条項につれて、細部的な品目の指定と、命令を十分に遂行できなかった家臣に対する細かい叱責は、よく知られた大胆な清正のイメージとは違う彼の一面であり、また、いつも勝利したという「常勝」イメージとは違って、朝鮮の反撃に結構悩まされていたことも分かる。 同じく戦勝初期、毛利輝元が自分の妻に伝えた内容には、朝鮮の面白おかしい風景を詳しく描いているが(1592年5月26日 宍戸覚隆宛 毛利輝元書状;厳島文書)、これは自分を心配している妻を笑わせ、安心させようとする優しい思いであろう。またこの描写を通じて、当時の朝鮮の風景も想像できる。 これらの文書を、ただ面白おかしい歴史史料として一笑に付してはいけない。悲壮な戦闘、英雄の誕生等々のようなストーリの裏にはこのような人間の日常事、赤裸々な憤慨、危機感、生々しい人間事が広がっているのである。私はこれらを取り出して、三国の史料を比較しながら、この戦争を再構成するのを目標としている。
留学生活において、微妙な文化差からのストレスとか、自らの勉強の中で感じられる限界、そして、ホームシックがなかったかと言ったら、それは嘘だろう。その時、私を支えてくれたのは、すでに多くの友人はご存知だと思うが、「男はつらいよ」、寅さんだった。近くにあった寅さんの故郷、柴又に偶然に寄ってから、強い印象を受けて観始めた「男はつらいよ」の、全作品を観破すべく今も挑戦中である。故郷から離れた多くの人々の友達、寅さんに癒されながら、私は「つらい時」をのり越えた。
その影響もあったかも知れないが、私は一人旅を楽しむようになった。近郊日帰りは旅行とは言えないかも知れないが、日本では一人旅の文化(?) が発達しており、その上、公共交通としてバスよりは列車を好む私には、何処に行くにも至近まで列車が運行しているのが便利だった。朝早く、郊外に向かう、人のいない電車に乗り、窓のそとで変わる風景を見ながら自由を感じた。 事前調査が間違っていて、実際に着いたところにはあまり見物するものがないこともあったが、今考えてみれば私は往復の旅程自体をも楽しんでいたかも知れない。愛くるしい古い列車に乗って、歳月の振動と音を体で感じながら何処かに向かう瞬間々々、幸福を感じていたのだと思う。 美味しい食べ物!
今、日本では韓国料理が大人気だし、私自身も韓国に戻って来てから今日で一週間、食べたかった韓国料理を思う存分食べているが(もはや体重1キロ増加)、日本で食べた日本料理は韓国で食べるそれとは違う旨味があった。私は特に、すしと焼鳥のファンになってしまった。伝統のあるすし屋のすしではなく、イトーヨーカドーで売っているすしも、回転すし屋で走っているすしも私には美味しかった。焼鳥もまた普通の屋台で焼いている一串70~100円のその焼鳥が好きだった。種類の多様さと職人精神が入ったような、微妙な炭の香り。今もその匂いを思い出せる。 日本留学中、私の日常の中で最高の幸福の一つは、一人家で美味しい日本ビールとすし、または焼鳥を並べて食べる瞬間だった。
出国の前日、住んでいた家の契約が24日までだったので、仕方なく大井町のホテルに泊まった。 何度か頭の中で計画していた「日本での最後の晩餐」は早めに諦め(一人でいい店に行った経験がない)、駅前の屋台の焼鳥(ねぎま2本とレバー2本)と百貨店地下食品館の50%割引のすし、そしてサントリ-プレミアムモルツ500ミリ缶を買ってホテルの部屋に座った。 京浜東北線の轟音を聞きながら、東京湾と離着陸する飛行機の光を目に焼け付けながら、私は一年中食べた料理の中で一番美味しい「晩餐」を楽しんだ。
「さようなら」 外国人登録証を返却すると、羽田空港出国審査台の職員さんが別れの挨拶をしてくれた。 ごめんなさい。私はあなたの温かい挨拶にお返事できませんでした。この場を借りて、お返事したいと思います。 皆さんに申し上げたい御礼でもあります。 さようなら。ありがとうございました。
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<キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae>
韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。
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2011年12月7日配信
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2011.11.30
第42 回SGRAフォーラムは北九州大学等との共催で、2011年10月29日に早稲田大学で開催された。僕は、通訳のお手伝いと最後のパネルディスカッションの進行を担当した。ここでは、最後のディスカッションの内容をご紹介したい。
今回のフォーラムの中心課題は、アジア諸国において、環境を守りながらも、高度成長を支えるためのエネルギーをいかに確保するかということであった。そのため、エネルギー効率を向上させることが、発表者の皆さんに共通の論点となった。エネルギー効率が向上すれば、エネルギー供給の調整も可能になり、環境に対する負荷も軽減できる。
ところで、エネルギー分野では、3EといえばEnergy Security(エネルギー保証)、Economic Growth(経済成長)、Environmental Protection(環境保全)というキーワードが使われているらしい。僕が開発経済学の分野で唱えている、別の3Eについては、マニラ・レポート2010年春をご参照いただきたい。
これだけエネルギー効率が重要な論点となったので、フォーラムの前に、120ヶ国のエネルギー効率(=GDPを総合エネルギー消費で割る)と一人当たりGDPのグラフを準備した。
エネルギー効率は、貧しい諸国と豊かな諸国との間の差を平均的に扱うことができない。効率性を向上するための色々な面白い事例が発表に取り上げられた。タイのKritsanawonghong氏とオーストラリアのIreland氏は、建物や電気製品の環境評価という市場メカニズムを利用した省エネルギーについて発表した。このようなメカニズムを実際に導入したことによって、使用者の環境認識が高まり、エネルギー効率化に繋がった。しかし、市場中心と言っても、そのシステムを設置したり広く普及したりするためには政府が大きな役割を果たしている。
市場といえば、エネルギー資源や電力の正しい価格設定が重要である。フィリピンのBalbarona氏は、フィリピンの電力価格は最近、アジア第一位だった日本の電気代を抜いたことを報告。送電会社はすべてのコストを消費者に回す方針であるし、近隣国と違い、フィリピン政府は電力料金に補助金を出さないようにしていると説明した。そのために、Gilles氏が担当したマニラのあるビルの1日の電力消費をバランスのとれたものにするプロジェクトのように、フィリピンではあらゆる省エネルギーの動きが自然に行われてきたという。オーストラリアの石炭は政府が補助しているので皆が過剰に消費しているとIreland氏が付け加えた。
次に、低コストと低所得(=貧しい人々)の観点の重要性を訴えた、エネルギー効率の向上のためのいくつかの方法が報告された。インドネシアのParamita氏は都会の最適密度を取り上げた。効率性向上のために、あらゆる資源を都会に集中させるべきだという考えがあるが、都会の最適密度を超えるとスラムなどが深刻な問題となり、逆に効率を低下させるばかりだと考えてもいいだろう。Faisal氏は、インドネシアも例外ではなく、中央集中型の都市開発を進めてきたが、むしろ逆都市化<REVERSED URBANIZATION>をすべきだと主張した。ちなみに、昨年開催されたSGRAと北九州大学の最初の共同フォーラムで、僕はこの現象を農村化<RURALIZATION>と呼んだ。都会の問題を農村と分けて考えるべきではない。更に、フィリピンのDe Asis氏は、貨物コンテナやペット・ボトルを利用した建築の分野におけるリサイクル事業を紹介した。フィリピンでは大規模な風力発電(東南アジアでは初)や大手モール・チェーンの節水というエコ事業が行われているが、膨大なコストがかかる。果たしてこのような技術はフィリピンのような発展途上国にとって妥当かどうか疑問が残る。リサイクル建築も農村から始まったそうである。Ireland氏は、この都会と農村の格差はオーストラリアや日本のような先進国でも重要な問題であると指摘した。
エネルギー効率向上のために取り上げられたもう一つの方法は再生エネルギーの開発である。無限にあるエネルギー源に頼っているので、石油や石炭やウランなどと違い、再生エネルギーは資源コストが高くなる恐れが殆どない。むしろ、技術の進歩により、コストが下がる可能性が十分にある。「中長期的にみれば、再生エネルギーは原子力に取って替わるのか」という問いに対して、インドのIyadurai氏とフィリピンのBalbarona氏は、以前に建設された原子力発電所は使用禁止になった。今後も依然として原発に対する国民の反対は強いであろう。それ故に、両国では再生エネルギーの開発が推進されていると述べた。タイでも原子力発電所の建設が検討されたが、国民はずっと反対しているとKritsanawonghong氏がつけ加えた。といっても、原発が全くなくなることはないと強調した参加者もいた。
このように、エネルギー効率の向上についてアジア各国の事例を検討したが、一歩下がって、東アジア地域の観点から検討を進めるという意図で、フォーラムの最後に、僕は、発表者の皆さんにある日本の構想を紹介した。この数十年間、日本は説得力のある東アジア戦略をなかなか出せなかっただけに、これから紹介する構想が大変意義のあるものだと僕は見ている。それは、フジテレビのPRIME NEWS LIVEという番組で初めて聞いた構想であり、「アジア太平洋電力網(エネルギー版TPP)」と称されている。
この構想の背景には、東日本大震災に起因する不安定な電力供給の状況があるようである。構想を提案したのは、今年5月に創設された日本創成会議であり、元岩手県知事である増田寛也氏が座長として勤めている。
この構想が取り組んでいる課題には、エネルギー安全保障に加えて、産業の国際競争力の向上や持続可能性がある。その目標は再生エネルギー立国の実現とされている。この構想は大変野心的な構想であるが、東アジアとオセアニアをバランスよく統合し、日本の長年の閉塞感の打開策にもなりうると期待している。僕はこれを地域レベルの共有型成長と呼ぶが、その概念の源は日本から習った雁行形態発展にほかならない。この十数年間日本の企業の進出先が特定の国に集中する傾向があり、本来日本が進めてきた分散型に反するもので、僕はとてもがっかりし、数年前から警鐘を鳴らしてきた。グローバル化や気候変動による危機がいくら起こっても、誰もそこから学ぼうともしないように見えた。
今度の構想において、日本、フィリピン、インドネシアという東アジアの三つの列島国(多島国)を結んで、送電線が南方向に島から島へ渡って行き、西側のASEANパワーグリッドの姉妹送電網と合流する姿は実に美しく僕の目に写る。それはやっと日本から日本らしい東アジア戦略が出てきたからだと思う。
※フィリピン大学から、3名の大学院生を招聘してくださった北九州大学の黒木荘一郎教授と高偉俊教授に心からお礼を申し上げたい。
※中上英俊先生と高口洋人先生が基調講演で、長期的な観点かつ伝統を重んじるエネルギー政策の必要性を訴えていただいたことに感謝したい。
English Translation
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。
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2011年11月30日配信