SGRAエッセイ

  • 2014.02.19

    エッセイ399:金 崇培「日韓関係のナショナリズムに関する一試論」

    日本と韓国の葛藤と摩擦は、21世紀に始まった問題ではない。20世紀の戦争と植民地の遺産が常に燻り続けていたものであり、それは現在でも突如として出現し、国家間に緊張状態をもたらす。国家を形成する主権、領土、国民の三要素はまるで共鳴するかのようにナショナリズム/民族主義を発動させる。特に領土問題はその領土の実質的な規模に関わらずナショナリズムを派生させ、この情緒的でありながらも強力な感情にも似た現象は歴史認識問題と重なり合い、過去から現在までを貫通する一つの認識を形成する。   ナショナリズムを煽り助長することは、瞬間的で容易であるが、問題を冷静に対処し和解の方向に導くには長期的な時間と共に知識や知恵、そして行動を要する。領土問題に関しては様々な意見や主張があると思われるが、それに関連する日韓関係のナショナリズムを巨視的に見る次の三点もまた考慮しなければならない。   第一に市場経済と民主主義。日本と韓国の共通項として市場経済と民主主義が挙げられてきた。両国の市場経済はグローバリズムと直結しており、特に資本と人は簡単に国境を越える。しかし、これらの移動は異文化との接触という新しい世界観の創出だけを意味するのではない。既にヨーロッパでも見られるように他者の流入によって自国で雇用機会を喪失した者は移民や異なった民族・人種に対して排他的、規制的思想と行動をとる傾向もある。グローバリズムに伴う資本と人の移動は一方で国家独自のアイデンティティを喪失しないようナショナリズムをより強固にする側面を持っている。   また、日本と韓国は異なる民主主義の歴史がある。戦後日本はアメリカの7年にわたる間接統治により、上からの民主主義を導入した。一方韓国は国内の独裁政治に対して、下からの民主主義の要求があった。民主主義が共通な価値であると安易に考えず、その形成過程の相違から両国のナショナリズムの本質を把握しなければならない。民主主義国家は互いに戦争をしないというテーゼが注目されてはいるが、民主主義国家からも独裁者は誕生し、国民も熱狂するという事例もまた歴史が示している。   第二に地域共同体。内在的に不安要素を残す東アジアに、EUのような東アジア共同体を形成しようとする努力が行われており、これが国民国家のナショナリズムの障壁を取り除くかもしれない。しかし、ヨーロッパは比較的類似した生活様態や文化、言語、宗教を有し、独自のアイデンティティや規範を見出しやすい基盤があった。EUの双璧であるフランスとドイツは、過去何百年において何度も戦争をしては和解してきた。両国を含めたヨーロッパの平和体制は戦争によって崩壊したが、その都度新しい国家間条約や平和条約によって平和体制を作り上げ、国境線を確定する作業も繰り返されてきた。EUの起源はそのような歴史と共に第二次世界大戦後にもドイツによって多大な損害を被ったにも関わらず、フランスがドイツに手を差し伸べて始まった。当時の東アジアの状況を考えるとフランスになりえる国はなかったであろう。   アメリカと共にG2の一角を担う中国の存在が東アジアはもちろん世界にもたらす影響は計り知れない。中国と地政学的に隣接している日本と韓国はより慎重な外交をする力が問われる。それは8千万人もの共産党員を有している現実の中国を直視しながら、その中国をも含めた共通する価値規範の模索が先決であろう。すでに日本と韓国、中国は共に高度な経済的依存の中にある。しかしこの関係がこのまま持続すればいいが、政治的確執によるナショナリズムはこの経済的依存さえも呑み込み、経済力という武器によって、その領域でも軋轢が生じる危険性をはらんでいる。 第三に帝国主義と植民地、そして国際法。戦争と平和の反復は過去の歴史に対する記憶と経験として学習され、今のヨーロッパを作り上げてきた。東アジアはこのような過程を経ずに19世紀に西洋の衝撃によって近代西欧国際法体制を受容、または編入された。文明国を自負していた西欧諸国は東アジアに国際法を適用した。当時の国際法には、いうまでもなく、帝国主義と植民地の問題に関連する法規範と意図が付随されていた。人類は戦争と平和とは何であるかを長い歴史の中で問い続けてきたが、帝国主義と植民地に対する認識の変化は比較的最近である。1910年代後半にアメリカ大統領であったウィルソンが主張した国際連盟(League of Nations)は植民地支配を受けている人々の民族自決を反映させず、国際連盟規約の前文にあるように、国際連盟に参加できた諸国家の平等を理念とした。その国際連盟の理念を一部継承しながら1940年代半ばに発足した国際連合(United Nations)は憲章で平和を掲げたが、国際連盟規約にあった委任統治の変容である信託統治を採用し、帝国主義と植民地に対する解決策や清算を提唱しなかった。国際連合の下では1960年に「植民地諸国、諸国民に対する独立付与に関する宣言」を採択することで、植民地支配を受けている人々の独立の要求を是認した。この時期はひとつの転換期ではあったが、60年代以降も植民地を海外領土として保持する国もある。   1905年の竹島/独島に関連した国際法や、アジア・太平洋戦争を終結させた1951年のサンフランシスコ平和条約もまた帝国主義時代の潮流からは自由ではなかった。ナショナリズムを呼び起こす日韓の領土問題は二国間の問題でありながらも同時に帝国主義と植民地、そして国際法とは何であったのかを想起させるものであり、その世界史的な脈絡での帝国主義の残骸が今現在のグローバル社会において、どこにどのような形態で拡散しているのか追究すべきであろう。   衝突するナショナリズムに対して、簡単に解決策を述べることはできない。外交力と市民力という二つの柱を中心に段階的な改善策が求められる。以前から提唱されてきたように、引き続き東アジア共同体の構築、政府間での対話、市民レベルでの交流、学術的交流など多様な外交政策と交流が同時進行されなければならないであろう。政治家であれ、学者であれ、またはそのような職業に属していない者であっても、ある国を背景にして生まれた一人の人間であるならば、社会的責任と同様にナショナリズムを有していても不思議ではない。問題はナショナリズム自体でなくナショナリズムの方向性である。両国の主張と立場を理解しながら発するメッセージや行為は、時に第三者的立場として追いやられ、両国のナショナリズムの批判対象となる。それにも関わらず閉鎖的なナショナリズムに巻き込まれずに開かれたナショナリズムを保つためには、他者を排除せずにその存在を認識し、自分の思考を整理する「主義」を養うしかない。   -------------------- <金崇培 (キム・スウンベ)  KIM Soongbae> 政治学専攻。関西学院大学法学部法律学科卒。韓国の延世大学政治学科にて修士号取得。博士課程修了。現在博士論文執筆中。2011年度に慶應義塾大学へ訪問研究員として滞在。研究分野は国際政治史。特に日韓関係史、帝国史、反共史について研究。 在日韓国人三世。 --------------------   *本稿は、2012年9月12日にSGRAかわらばん432号で配信したものを、著者の了解を得て再送します。     2014年2月19日配信    
  • 2014.02.12

    エッセイ398:小林聡明「尖閣海域を再び「生活の海」にするために-沖縄と向きあう」

    今、東アジアがきな臭い。その一つが、尖閣諸島をめぐる領有権問題であることには言を俟たない。2012年9月、野田政権は尖閣諸島を構成する魚釣島、南小島、北小島の国有化方針を固めた。これら3島は、1932年まで日本政府が所有し、その後、民間人に払い下げられた。「尖閣国有化」は、ふたたび民間から政府へと所有権を移転させるものであった。だが、中国は、現状変更を目的とする「領土化」とみなし、激しく反発した。以後、日中関係は急速に冷却化し、日中国交正常化以来、最悪の状態に陥っている。現在、日中双方は、尖閣の領有権をめぐって、激しい神経戦/宣伝戦を繰り広げると同時に、海上では、日中のにらみ合いが続いている。尖閣海域は、物理的な衝突可能性も孕んだ緊張の海となっている。   もともと尖閣の海は、海洋資源の豊かな平和な海であった。1960年代まで、尖閣海域では、沖縄・八重山の漁民や台湾・宜蘭県蘇澳の漁民たちによるマグロやカツオ漁などが行われ、両漁民の交流も盛んに行われていた。また、彼らは魚釣島などで、アホウドリの卵や羽毛を採取していた。尖閣海域は、緊張の海とはほど遠い沖縄・台湾漁民たちにとって生活の海となっていたのである。   1960年代末、ECAFE(アジア極東経済委員会)が尖閣周辺海域における石油埋蔵の可能性を明らかにするや、尖閣の海は、にわかに波立つことになる。70年12月、中国は、新華社通信を通じて、尖閣諸島に対する領有権を対外的に初めて主張した。これに続いて71年6月、台湾外交部も尖閣諸島の領有権を公式に主張した。それまで地元の人々だけが関心をむけていた「生活の海」は、一転して、国家がせめぎ合う「対立の海」へと変化した。重要なことは、ECAFEの報告が、尖閣諸島に対して、中国や台湾だけでなく、日本の関心も呼び起こしたことである。折しも沖縄の本土復帰が確実となり、尖閣諸島に対する日本本土の関心は益々高まっていった。そこには、沖縄と日本本土との経済一体化を基本的前提とする「沖縄開発計画」の推進が目標としてたたみ込まれていた。1950年から沖縄の研究者らを中心として、尖閣諸島の生物学・植物学的調査がたびたび実施されていた。沖縄の研究者らによる尖閣調査に、本土側が参加するようになったことは、尖閣諸島に対する本土の関心の高まりを如実に示していた。   ECAFE報告に加え、沖縄と日本本土との「合同」の尖閣調査が実施された1969年から70年にかけて、沖縄では、「尖閣列島の石油資源は沖縄のもの」「県民の資源を守ろう」という声が日増しに強まっていった。そこには領有権を主張する中国や台湾だけでなく、本土側に対する警戒感も含まれていた。「沖縄開発計画」の名の下に、尖閣海域の石油資源が、沖縄には利益をもたらさず、本土側の利益にされてしまうのではないかという不安と懸念が、沖縄で広がっていた。尖閣問題の登場は、日本・中国・台湾の間での緊張関係だけでなく、沖縄から日本本土への不信感も呼び起こした。   こうした不信感は、いまや完全に一掃されたと言えるだろうか。2013年4月に締結された日台漁業協定は、尖閣問題を打開する一つの方法であった。だが、それは事実上、沖縄漁民に大幅な譲歩を迫るものであった。にもかかわらず、沖縄の頭越しに東京と台北で交渉がまとめらたことに、沖縄市民の間では不満が渦巻いている。本土への不信感は、普天間移設や辺野古移転などの基地問題などにおいても、しばしば姿をあらわす。尖閣問題が浮上したときに見られた沖縄から本土への不信感は、形を変えながら、重奏低音のように、現在も継続しているように思われる。   こうした点を念頭に置くならば、「尖閣問題」を克服するためには、日中関係、日台関係だけでなく、本土と沖縄との関係も考えていかなければならない。尖閣の海は、いまはもう地元の人々が、近づくことすらできない世界でも有数の「危険な海」となってしまった。私は、本土の人間の一人として、尖閣を再び「生活の海」にするために、中国や台湾との対話をすすめるだけでなく、沖縄と向き合い、これまでの数百年にわたる本土と沖縄との関係を考えることが、何よりも重要であると思っている。   ----------------------------------------------------------   <小林聡明(こばやし・そうめい) Somei Kobayashi> 一橋大学社会学部卒業。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。ソウル大学や米シンクタンクなどで研究を行ったのち、現在、慶煕大学哲学科International Scholar. 専攻は、東アジア冷戦史/メディア史、朝鮮半島地域研究。単著に『在日朝鮮人のメディア空間』、主な共著に『原子力と冷戦』『日米同盟論』などがある。日本マス・コミュニケーション学会優秀論文賞(2010年)。 ----------------------------------------------------------     2014年2月12日配信
  • 2014.01.31

    エッセイ397: 沼田貞昭「特定秘密保護法制定の教訓」

    最近の北朝鮮、尖閣諸島をめぐる緊張の高まり、あるいはアルジェリア人質事件など、日本の安全保障環境が厳しさを増している中で、2012年に民主党政権下で秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議において検討されていた機密保全法制が、自民党安倍政権の下で昨年12月特定秘密保護法として成立に至った。   筆者は、わが国の安全に対する様々な脅威が存在する中での日米同盟の運用の実務にかかわっていた経験を通じて、国家公務員法の守秘義務や1954年の日米相互防衛援助協定に伴う特別防衛秘密、2010年の改正自衛隊法による防衛秘密などのわが国の機密保護法制は、他の先進国に比べて十分に整備されておらず、同盟国であるアメリカを始めとする関係国が重要な機密情報(インテリジェンス)を日本に流すことを躊躇する原因となっていると感じて来た。この背景には、インテリジェンスについてのアレルギーと言うか、戦前の日本を連想して諜報、スパイと言った暗いイメージを伴うものとして忌み嫌う国民感情があり、インテリジェンスは国家安全保障のために存在するいわば「必要悪」であるとの意識がなかなか浸透してこなかったとの事情がある。   今回の法案について、「基本的人権である表現の自由を侵し、言論を封鎖し、日本を軍国主義国に持って行く危険性がある。治安維持法の悪夢を再現させないためにも、この法案は廃案とすべきである。」と言った非現実的な極論があった一方、「国ひいては国民の利益、安全を守るためには必要。特に敵性外国に国の秘密情報が漏れてしまうようでは、ひいては国民全体が不利益を被ることになる」と言った声もあった。世論の反応について、マスコミの調査とネットの調査の間には大きな乖離が見られた。たとえば、朝日新聞社が2013年11月30日~12月1日に実施した全国緊急世論調査(電話)では、法案に賛成が25%で、反対の50%が上回ったが、12月6日~12月16日にYahooが行った調査では、法案が成立して良かった45.7%、成立して良かったが手続きは良くなかった12.3%、そそもこの法案に反対38.5%と賛成が反対を上回っており、この背景にはマスコミ不信があると見られる。法案提出以来採択に至るまでの国内論議を振り返ってみると、取材の自由・国民の知る権利の侵害、不当な処罰・逮捕勾留のおそれと言った点についての一部マスコミの誇張された報道もあり、全体としてバランスの取れた議論が不足していた。   この問題は一般国民には馴染みが薄く、筆者自身、法案の条文、概要、自民党のQ&Aなどを読んでみて、しばらく目にしていなかった法律用語などが沢山並んでいて、素直に頭に入ってこない点がいくつかあった。以下、筆者なりに本件法案のポイントを整理してみると次のようなことかと思う。   1.本法によって保全される特定秘密の範囲は、わが国の安全保障(国の存立に関わる外部からの侵略などに対して国家および国民の安全を保障すること)にとって重要な情報に限定されている。たとえば、防衛に関するものでは、自衛隊が収集した画像情報、誘導弾の対処目標性能、外交に関しては北朝鮮による核・ミサイル・拉致問題に関するやり取り、公電に用いる暗号、スパイなどの特定有害活動に関しては、外国の情報機関から秘密の保全を前提に提供を受けた大量破壊兵器関連物質の不正取引に関する情報、情報収集活動の情報源、テロ防止に関しては、外国の情報機関から秘密の保全を前提に提供を受けた国際テロ組織関係者の動向、情報収集活動の情報源などが法律の別表に具体的に列挙されている。いずれも、これが漏洩された場合には、わが国の安全保障に著しい支障を与える秘密であることは明らかである。   2.そもそも秘密を漏らす恐れがないと「適正評価」によって認められた者(行政機関の職員および委託を受ける民間の職員)のみが特定秘密を取り扱う業務を行うことが認められる。「適正評価」と言うとやや耳慣れないが、秘密漏洩の程度を総合的に評価し、取り扱う適性を判断するセキュリティ・クリアランスを意味し、これは欧米諸国などでは既に導入されている。また、民間企業においても企業秘密を守る観点から同様の判断が必要とされよう。   3.さらに、処罰範囲は最小限に抑えられている。罰則の対象となるのは、上記の適正評価を経て特定秘密を取り扱う業務を行う者が知るに至った特定秘密を洩らした場合であり、最長10年までの懲役ないし罰金刑が課される。特定秘密を取り扱う立場にない者が特定秘密を取得する行為に対する処罰は、人を欺く、暴行、脅迫、施設への侵入、不正アクセスなどの犯罪行為や犯罪に至らないまでも社会通念上是認できない行為を取得の手段とするものに限られている。例えば、外国情報機関等に協力し、特定秘密を敢えて入手したような例外的な場合を除き、特定秘密を取り扱う公務員等以外の人が本法律により処罰対象となることはない。「オスプレイが飛んでいるのを撮って友達に送ったら懲役5年」と言った報道があったが、これは明らかに処罰の対象にはならない。   4.本法は、国民の知る権利や取材の自由との関係で種々の問題を提起しているが、政府当局の立場は次の2点に要約されよう。   (1)情報公開法により具体化されている国民の知る権利を害するものではない。(本法の特別秘密は、国の安全、外交等の分野の秘密情報の中で特に秘匿性が高いものであることから、そもそも情報公開法の下で開示されない情報と解される。)   (2)正当な取材活動は処罰対象とならない。 (取材の手段・方法が刑罰法令に触れる場合や社会観念上是認できない態様のものである場合には刑罰の対象となる反面、正当な取材活動は処罰対象とならないことは最高裁の判例上確立している。)       他方、政府当局とマスコミ、市民団体等との間で国民の知る権利や取材の自由との関係で緊張関係が存在することは事実であり、本法に基本的には賛成している一部のマスコミも、公務員が懲役10年と言う厳罰を恐れて報道機関の取材に対して萎縮するのではないかと言った懸念を表明している。   5.本法立法の経緯から、次の教訓を学ぶことが必要である。   (1)安全保障ないし機密保持のプロの世界では当然の常識になっていることであっても、一般国民の理解を得るためには、丁寧に意を尽くした説明が必要である。民主党政権下のねじれ国会における「決められない政治」から脱却して、「決める政治」を示そうとした安倍政権の本法国会審議に臨んだ姿勢は、性急さが目立ち、結果として本法の内容についてはいささか消化不良のまま審議が終わってしまったとの感は否めない。   (2)本法成立の後、安倍内閣への支持率が10%程下がったことは、政府の「奢り」ないし「強引さ」に対する国民の反発を示しており、今後の国会運営等について注意を促す黄信号とも考えられる。   (3)本法の運用を一たび誤れば、国民の重要な権利利益を侵害する恐れがあるので、政府としては十分に注意して運用して行く必要がある。特に、秘密指定が恣意的に拡大されるのではないかとの懸念に応えるべく、特定秘密指定等の運用基準について、有識者会議で十分論議を尽くし、特定秘密の指定及びその解除並びに適性評価を国民の納得の行くように進めて行く努力が求められている。   -------------------------- <沼田 貞昭(ぬまた さだあき) NUMATA Sadaaki> 東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。 1966年外務省入省。1978-82年在米大使館。1984-85年北米局安全保障課長。1994−1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998−2000年外務報道官。2000−2002年パキスタン大使。2005−2007年カナダ大使。2007−2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長。 --------------------------     2014年1月29日配信
  • 2014.01.22

    エッセイ396:マックス・マキト「マニラ・レポート2013年冬:フィリピンで戦いを繰り広げる日本」

    3.11の直後、SGRAかわらばんにエッセイを書く機会があった。日本が今まで経験したことがない震災の中で必死に戦う日本の国民、そして、応援にやってきた地球市民たちの姿に、僕はとても感動したので、この危機は、今までに日本が世界へ提示した独自の理念を改めて見直す良い機会でもあると書いた。この「見直し」は、失われた数十年のように、日本の良いところまで批判的に扱う「抜本的改革」ではない。むしろ、あのとき僕の心に響いたのは、日本は守るべきところを見直して、それを更に活かしていくことができるということであった。日本が守るべきところとは、平和憲法、非核三原則、そして僕の研究対象でもある共有型成長である。これらを更に活かせば、震災に素早く、かつ効果的に対応できる自衛隊、原発ゼロを含む非核三原則、そして、海外にも展開する共有型成長という見直しができると思ったのである。   しかしながら、今、上記3つの見直しについて、日本国内では、まるで紛争勃発の様相である。そして、この戦いは海外にも展開しようとしていて、フィリピンにおいても、戦いが繰り広げてられている。   2013年11月7日にフィリピンを襲った世界最大と言われるスーパー台風30号は、甚大な被害を及ぼし、今も復興に向けて努力中である。多くの国の支援をいただいて感謝で一杯だ。日本からも、史上最大規模の自衛隊を被災地に派遣していただいた。この台風で一番被害を蒙ったレイテ島は、第二次世界大戦で日本軍に侵略された時に、マッカーサー将軍が、フィリピンに「私は必ず戻ってくる」と約束し、その約束を果たすために、大規模な連合国軍が上陸した島でもある。その島に、日本の国民を守る自衛隊が、フィリピン人を助けるために、こんなに大勢やってくることは、以前は誰も想像しなかったであろう。海外援助の透明さを確保するために、フィリピン政府がこの台風をきっかけに作成したウェブサイト(Foreign Aid Transparency Hub、2013年12月20日アクセス)によると、現在、この台風による被災地の支援に対して、日本は最大援助国の3カ国の内に入っている。イギリスが最大援助国で9600万米ドルを、日本は2番目で7400万米ドルを、米国が3番目で6200万米ドルを公約している。3.11からまだまだ復興中の日本からの寛大な援助は特に有り難い。東日本大震災の時のフィリピンからの支援に対する「お返し」ということもあるらしい。   フィリピンには、およそ30年前に国民の反対運動によって建設中止になった原子力発電所がある。中止になったのだから、その建物は劣化して殆ど売却されたか、或いは売却できなかったので設備は錆びついて敷地は草がボウボウだろうと、僕は想像していた。しかし、昨年10月にSGRAの福島スタディツアーに行った後に、フィリピンにおける原発をめぐる最近の議論を調べてみたら、驚いたことに、その原発は新築並みの状態に維持するために、フィリピン政府がメンテナンス予算を数十年にわたって組み続けていたことがわかった。理論的には、核燃料を投入するだけで、稼働可能のようである。福島スタディツアーの最後の日、ふくしま再生の会の皆さんに、「せっかくこのような体験をさせていただいたので、皆さんの力を借りて、フィリピンが永遠に原発ゼロの国になるように、微力ながらもSGRAフィリピンは頑張りたい」と申し上げた。その後、更に調べたところ、福島の高校生達が、一昨年、稼働中止中のフィリピンの原発を訪問したことがわかった。高校生達は、「こんなに綺麗な自然に恵まれたフィリピンで原発を稼働させるべきではない」というコメントを発表していた。日本の失われた数十年間の影響で、様々な問題を抱えている、そして、これから原発という「遺産」の担い手になる日本の若者が、このようにしっかりとした意見を述べたのは、あっぱれである。   僕の専門の共有型成長の面においても、日系企業の進出のおかげで、フィリピンにも共有型成長のDNAが伝えられている。SGRAかわらばんの読者の皆さんは既にご存知の方が多いと思うが、日本は高度成長期に、GDPは増加しながらも貧富の格差が縮まるという「東アジアの奇跡」を実現した。残念ながら、フィリピンはこの奇跡を経験できなかったが、僕の調査では、日系企業が進出しているフィリピンの経済特区やそこに立地する企業群、そして、それぞれの企業、というあらゆるレベルで、共有型成長が根付いていることが確認できた。   フィリピンにとって、共有型成長は夢のようなものである。東南アジア諸国と比べても、フィリピンの一人当たりのGDPは低く、貧困の格差は依然として大きな問題である。日本が実現可能と示したこの共有型成長についての私の研究は、SGRA設立時から継続して行い、たくさんの方から支持をいただいている。当初は、「グローバル化の中の日本の独自性」チームにおいてこの研究を進めさせていただいた。僕は、この共有型成長は(グローバル資本主義経済とは違う)日本の独自性に支えられていたと信じている。僕は日本から学んだことを伝えるべく、2004年から平均年2回、フィリピンでSGRAマニラセミナーを実施している。第17回日比共有型成長セミナーを2月11日(火)にフィリピン大学で開催するので、ご興味がある方はプログラムをご参照ください。   しかし、これで3つの戦いが終わったと考えたら大間違い。   温暖化により、気候変動がこれからも続き、益々大きな被害が想定外のところで起きる可能性がある。自衛隊のような、体系的な、しかも命がけの任務に対応できる組織がこれからも必要になる。ただ、東アジアでは政治外交の緊迫状況が高まり、自衛隊結成の基本理念である日本国憲法を改正する可能性までが浮上してきた。フィリピンもこの緊迫状況のど真ん中にいる。   福島で原発の問題が発生したあとでも、世界のいくつかの国々で原発建設が止まらない。フィリピンでも大物達が、再び原発を立ち上げようとしている。建設中止に至るまで、あれだけ膨大な借金や長引いた停電時代のコストを、フィリピン国民が払ったにもかかわらず、である。   そして、フィリピンにおける共有型成長は依然としてラマンチャの男の夢である。格差がなかなか改善できない。それに、いわゆる「中所得の罠」に陥っている。他の東南アジア諸国と比べて、日本の投資家にとってそれほど人気のない国である。国内においても、海外においても、成長が実現されても、それが全国民に共有されていない現状である。   この3つの戦いは結びついている。共有型成長が実現できていない国では、自然災害の被害が深刻で、そこからの立ち直りが遅い。国民の大半は構造が貧弱な住宅に住み、社会的インフラは乏しい。立ち直るための設備や貯金なども殆どない。共有型成長が実現できない国であるがゆえに、甘い誘惑でパッケージされた原発に弱い。いくら国民がNOと思っていても決断をする連中が便益をもらえば、原発が建設されたというケースがよく見られる。2月11日のセミナーでは、これらの課題を議論する。その上で、行動が起こればと思う。   英語版はこちら   -------------------------- <マックス・マキト  Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表、フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------     2014年1月22日配信
  • 2013.12.25

    エッセイ395:今西淳子「SGRAより感謝をこめて」

    2006年9月から始めたSGRAかわらばんが、おかげさまで500号になりました。ここまで続けられましたのも、1600名を超える読者の皆様、SGRAや渥美国際交流財団をご支援いただいている皆様のおかげと、心より感謝申し上げます。今年は、渥美財団の設立20周年でもありますので、あらためて活動を紹介させていただきます。   1993年に父、渥美健夫鹿島建設名誉会長が亡くなり、遺志をついで家族で小さな留学生奨学財団を設立しました。当初より多国籍で知的なネットワークを作りたいという希望があり、日本の大学院に在籍して博士論文を執筆中の留学生を対象に奨学支援を始めました。ちょうど同時期から始まったインターネットの普及のおかげもあり、まもなく、想定以上に素晴らしい、優秀で意欲的な外国人研究者のネットワークができあがり、これを活かしたプロジェクトをするために、2000年7月に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立しました。関口というのは、渥美財団事務局のある場所の名前で、関口からグローバルに発信していこうということで名づけられました。   SGRAは、渥美財団の奨学生に限らず、世界各国から渡日し長い留学生活を経て日本の大学院から博士号を取得した知日派外国人研究者が中心となって活動しています。学会のような特定の専門家ではなく広く社会一般を対象に、日本語を公用語として、グローバル化に関わる様々な問題をテーマに、日本国内および海外にてフォーラムやセミナーを開催し、日本と諸外国の相互理解の増進を図っています。国際的であること、学際的であること、そして日本で研究した高学歴の研究者のネットワークであることが、SGRAの特長です。   SGRAは専門や興味に基づいて自主的に結成された知日派外国人研究者(留学生、元留学生)による7つの研究チーム(①グローバル化と地球市民、②構想アジア、③環境とエネルギー、④ITと教育、⑤宗教と現代社会、⑥東アジアの安全保障と世界平和、⑦東アジアの人材育成)が担当して企画から携わり、日本国内でフォーラム、ワークショップ、スタディツアー、カフェ(小規模な講演会)等を開催しています。さらに5か所の海外拠点(中国、韓国、フィリピン、モンゴル、台湾)において、帰国留学生が中心となって現地の機関と共同で、各地で毎年1回以上フォーラム等を開催しています。   講演録はレポートとして発行し(発行部数800部)関係者や支援者の他、国内の各大学留学生センターや、海外の日本研究所等に配布しています。レポートのいくつかは英語、中国語、韓国語にも翻訳して発行ています。活動の詳細はどうぞホームページでご覧ください。 http://www.aisf.or.jp/sgra/   SGRA設立以来13年間で国内フォーラムを45回、海外拠点におけるフォーラムやシンポジウムを44回開催し、レポートを65冊発行しました。また、さらに多くの方々にSGRAの活動を知っていただくために、2006年9月よりメールマガジン「SGRAかわらばん」を発行し、世界各地の知日派外国人研究者の声(日本語エッセイ)とSGRAフォーラム等の案内を毎週水曜日に無料配信しています。   アジア未来会議は、このような活動の集大成として、2013年3月のバンコク会議を皮切りに始めたSGRAの新事業です。日本に留学し現在世界各地の大学等で教鞭をとっている方々、その指導を受けた若手研究者の皆さん、研究所や企業等で研究や活動を続けている方々、日本の大学院で研究を続けている留学生(研究者)の皆さん、そして国際交流に関心のある日本の研究者の方々に、交流・発表の場を提供して「アジアの未来」について議論していただくことによって、知日派外国人研究者のネットワークの強化を図ることを目的としています。グローバル化が進む現代においては、社会のあらゆる次元において、物事を多面的に検討することが必要となっていますから、アジア未来会議では、自然科学、社会科学、人文科学を包括する広範なテーマを設定することによって、専門学会とは違った国際的かつ学際的なアプローチを試みています。   第2回アジア未来会議は、2014年8月22日(金)~24日(日)に、インドネシアのバリ島で開催します。テーマは「多様性と調和」です。インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちています。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一(Bhinneka Tunggal Ika)」というスローガンです。さらに、アジア未来会議の発表者は、平和、グローバル化、環境、持続性、成長、公平、人権、健康、幸福、文化、コミュニケーション、イノベーション等のサブテーマとも関連づけることを推奨されます。自然科学、社会科学、人文科学を超えた、学際的な議論が期待されています。現在、発表論文、ポスター発表、作品展示を追加募集中です。締め切りは2月28日です。   第2回アジア未来会議では、一日目に開会式・基調講演と3つのフォーラムおよび作品展示を、二日目に円卓会議と200を超える論文発表による分科会およびポスター発表、三日目には見学会を行います。参加人数は、基調講演が 500人~800人、分科会は300~400人を見込んでいます。並行開催する 3つのフォーラムのテーマは、「環境リモートセンシング」、「中国台頭時代の東アジアの新秩序」、「アジアを繋ぐアート」です。さらに、円卓会議「これからの日本研究」と「ポスト成長時代における日本の未来を考える」、および自主企画「SGRA福島レポート」などを企画中です。   アジア未来会議は、オブザーバー参加も大歓迎です。フォーラム「アジアを繋ぐアート」では、舞踊、陶器、服飾についての研究報告と同時に展示や公演も予定されています。特に、バリ島のバロンダンスと奈良県無形文化財に指定されている曽爾村の獅子舞の同時上演は、自信をもってお薦めします!   オブザーバー参加ご希望の方も、どうぞオンライン登録してください。   現在、政治情勢の悪化が心配されるアジアですが、どのような時でも、一番大事なのは、人と人との交流、あるいは、あちら側の人をも理解しようとする想像力と包容力を持つことだと思います。SGRAは極めてささやかな活動ではありますが、少しでも国境を超えてお互いの立場を配慮するお手伝いができたら嬉しいと思っています。   毎週SGRAかわらばんを読んでくださる皆さんに心から感謝申し上げ、今後ともご支援いただきますよう、お願い申し上げます。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ) IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(公財)渥美国際交流財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、(公社)CISV日本協会理事。 ------------------------------------------     2013年12月18日配信
  • 2013.12.05

    エッセイ394:李 鋼哲「日本の大学教育、これで大丈夫?」

    最近の『日経ビジネス』インターネット版に下記のような記事が掲載された。 「厳しくも暖かい早稲田大学の熱血教授、カワン・スタント」、サブタイトルとして「『教育機関』としての大学を考える」。   その記事は次のように始まる。 「名優リチャード・ジェンキンスが主演し、2009年に公開された映画「扉を叩く人」。彼が演じたのは、気力を失った大学教授だった。毎年同じ講義をひたすら続け、シラバスは表紙の「年度の数字だけ」を変える。その大学教授が1人の青年との出会いをきっかけに、情熱を取り戻していくヒューマン・ドラマだ。日本の大学でも、このような光景は多々見られる。教育改革が叫ばれて久しいが、日本の大学のレベルの凋落は深刻な問題と言えよう。世界の大学ランキングを見ると、東京大学ですらトップ20には入れていないのが現状だ。」   その続きは、教育に情熱を注ぐカワン・スタント教授の事跡を紹介している。それを読んで筆者も全く同感だし、深い感銘を受けた。   実は、スタント教授とは昨年8月末に中国の延吉でお会いした。氏は日本の「華人教授会議」の故郷訪問団の一員として延吉を訪問していて、延辺大学副学長の招待晩餐会の時に私の隣の席だったので初対面の挨拶をしながらいろいろなお話しをすることができた。私は訪問団には入っていなかったが、延吉市政府の広報大使を任命されて、一足先に延吉入りし、教授会の依頼を受けて、彼ら一行の延辺での訪問、および北朝鮮の羅津・先鋒経済貿易地帯訪問の手配をしていた。   スタント教授の名刺を見てびっくりした。なんと日本と米国で4つの博士学位をとっているではないか。それも工学、医学、薬学、そして教育学という幅広い異分野の学位を!何という天才だろうと思った。また米国の2つの学会でFellow賞をとったという。氏は、自分はなぜ4つの博士学位を取ったのかについて私に語ってくれた。その勉学の精神に私は心を打たれた。自分なりに一所懸命勉強に頑張ったと今まで思っていたのに、彼に比べると足下にも及ばないと、恥ずかしささえ感じた。スタント教授は「心を育てる教育や感動教育」を実施し、カワン・スタント・メソッドも開発しているという。彼の事跡は「早稲田大学研究者紹介」にも掲載されている。   それはともかく、本題に戻りたい。 その早稲田大学の商学部に私の息子が昨年入学した。おめでたいことで、周りの人々から祝福を受け、親としてもこれでひと安心した。ところが、入学してから2ヶ月くらい経って、息子は「大学を辞めてアメリカのカレッジに入って一からやり直したい」と言ってきた。「何言っているんだ。早稲田は日本では入りたくても入れない人がたくさんいるんだよ」。「授業がつまらないし、刺激がない」と息子は言う。「でも早稲田の学歴は日本では大変役立つのでは?」と私が言ったら、「自分にとってはここで勉強するのは時間の無駄になる」と息子は言い張る。実は「国際教養学部の授業が面白いから、転学部したい」と言っていたが、申請時期を逸したので実現できなかった。もし国際教養学部のスタント教授のような方に出会えたら、彼の考え方はちょっと変わったかも知れない。   その後、周りの方々と相談しても、私と同じような考え方だった。しかし、息子の考え方は変わらない。そして、今年の8月には自費でアメリカ各地を1ヶ月くらい回って、いろんな大学に潜り込んで講義を聴いたり、友達と交流したりしてきた。「アメリカの大学は日本より百倍楽しいよ」と。これが息子の結論だった。親としては反論する余地はなくなったが、しかし、一からやり直すことは「世間的な」親としては同意できない。結局、息子は妥協して大学を辞めるのではなく、交換留学にチャレンジすることにした。その後に次のステップを考えようと。   私はアメリカの大学が全て良いとは思わないが、しかし、「百聞は一見に如かず」で、息子が自分で体験してみて判断したことだから、それを信じたい。アメリカの大学教授は如何に競争の中で教育開発に情熱を注ぐのか、ということはよく聞く話である。   そして日本の大学に目を転じると、確かに大学の教育に大きな問題があることを改めて感じる。私も日本の大学院で10年くらい勉強したが、「やむを得ない選択だった」と言わざるを得ない。魅力ある講義が少なすぎると感じたことは一回だけではない。もちろん、中国でも同じで、大学に入ったからには将来のために勉強せざるを得ないだけのことだった。   最近、2012年の世界大学ランキングを調べて見てびっくりした。東大がやっと27位にランキングされ、早稲田と慶應はなんと351~400位にランキングされている(2013年の発表では2つの大学は400位圏から外されたという)。20位まではほとんど米国、英国の大学である。アジアでこそ、東大は1位を保っているが、早稲田と慶應は54位と57位。その代わりに台湾、韓国、シンガポール、香港(かつての「4匹の龍」)の大学、そして中国などの大学がランキングを上げている。これが現在の日本とアジア、そして世界の教育状況の変化である。   もちろん、日本の大学がまだある程度の底力があることは否定しないが、人々の観念のなかの東大、早慶が日本やアジアでトップ・レベルであるという考え方はもう古いのではないか。リクルート進学総研所長・小林浩氏(早稲田出身)も、「早稲田大学は関東ではまだイメージが高いが、関西では東大の滑り止め程度のイメージである」と言い切る。実は息子も東大の滑り止め。知名度は高いが実力が衰えているのが実情だろう。   それでは、なぜ日本の大学教育はここまで低落しているのか。理由はさまざまあるだろう。「今の学生は駄目だ、勉強しない」と、20数年前に日本に来てから良く聞く話だ。もちろん、時代が変わり、環境が変わると若者も変わるだろう。生活満足度が高いからハングリー精神がなくなり、勉強しない若者が増えているのも事実であろう。   しかし、若者のせいにするだけでは、日本の教育は変わらないと思う。変化する環境と時代に相応しい教育体制と教育方法を見つけることが大学としての責務ではないだろうか。そのためのイノベーションを積極的に進めるべきではないだろうか。   日本の大学教育に問題があるとしたら、学生のやる気が弱くなったのも確かであるが、根底には「先生が駄目である」と私は言いたい。有名な大学では、先生は教育より研究にかなり力を入れていると言われている。つまり教育能力の開発、授業法の開発や工夫にはそれほどエネルギーを注いでいないと思われる。私の知っている地方の私立大学では「研究より教育を重視しろ」、「愛情と情熱をもって教育しろ」と絶えず言われているが、実際の教育現場ではその通りにならないそうだ。だからといって教員が研究に熱心かといえば、必ずしもそうでもなさそうである。学生の定員割れが深刻であるが、それへの危機感を持って真面目に教育に従事しているとは思えない。   ビジネス・コンサルをしているある友人が、「日本の大学教員は腐っている」、「だから自分は大学の先生になる道を選ばなかった」と話してくれたことがある。私も「なるほど」と頷いた。だからと言って私自身どれくらい優れた教育をしているだろうかと問えば、恥ずかしながらスタント教授に比べると足下にも及ばない。   それでは、なぜ「大学教員は腐っている」のかを考えなければならない。私の浅見では、その根底には日本社会の組織風土に問題があると思っている。毎日「改革」とか叫びながらも、保守的で、古臭くて、既得権益者の利益だけが守られているのが、大学も含めた日本の多くの組織ではないだろうか。日本国の政治家や官僚、巨大企業などにも似たような現象が起きているのではないか。「改革」、「イノベーション」、「維新」というきれいごとの言葉は良く使われているが、それが既得権益に触れるとき、何も進まない。   大学の教員や経営者もある意味では既得権益者であり、自分たちの利益を犯してまで改革をしたいとは思わないだろう。いくつの大学で、競争システムやインセンティブ・システムが制度的に整備されているのだろうか。頑張っても頑張らなくても評価や待遇はあまり変わらないし(その面では「社会主義」と言われる)、頑張っている人が逆に足を引っ張られることもある。   最近のOECD諸国の「知力調査」では日本がトップにランキングされているが、大学の教育レベルは下がる一方であることは何を物語っているのだろうか。日本の大学教育は本当に大丈夫なのだろうか。   --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------     2013年12月4日配信
  • 2013.12.03

    エッセイ437:謝 志海「忍びよる子供の貧困」

    最近新聞等、メディアの見出しで時々目にする「子供の貧困」。どこの子供の貧困を意味するのかと思えば、日本だった。これは信じられないことだ。日本の子供はみんなゲーム機を持ち、小学生のうちからスマートフォンを持っている子もたくさんいる。もちろん身なりも貧困とは到底信じられない。   日本経済新聞の記事を読み進めてみると、厚生労働省がまとめた国民生活基礎調査で、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合を示す「子供の貧困率」が、2012年に16.3%と過去最高を更新したという。前回の2009年の調査から0.6ポイント悪化している。なるほど、数字ではっきりと現れているのだ。子供は労働しておらず、収入が無いので、親の所得からの算出方法となる。同省は子供の貧困率上昇の理由として母子世帯が増えていることを指摘している。女性は派遣社員や、非正規雇用として働いている人が多いので、世帯収入が低くなるのも必然とも言える。世帯収入で子供の貧困を測るなら、正社員で終身雇用の父を持つ子供、またはその父親と仕事をしている母(共働き)を持つ子供との世帯収入の差は格別に大きいだろう。正直なところ、個人的視点だが日本の子供のイメージは、先述の通り物に恵まれ、親はお受験のために塾や習い事に惜しみなくお金を掛けていると思っていた。私は、貧困率の上昇もさることながら、この収入格差が気になってきた。収入格差によって、様々なチャンスに恵まれる子とそうでない子の差が拡大されることは、今後の日本に何か悪い影響をもたらすのではないかと。   親の所得はそれぞれ違えど、子供達は格差無く教育を受けるチャンスがあれば良いのではないだろうか?日本は、塾通いが主流になっている。生活が苦しい家庭は塾の月謝を捻出出来ず、子供に学習習慣を身につけさせることすらできないのか?そもそも何故日本の子供は塾に通うのだろうか。一番は受験対策だろうが、もう一つは学校の教育力が落ちているからということだ。信じがたい事実だが、OECDの調査によると、日本政府支出の教育に占める支出は32カ国中31位である。学校教育が十分でないなら日本の子供の塾通いはしばらく続きそうだ。このまま子供たちが親の所得格差に翻弄され続けたら、どのような日本になるのだろう?   親の貧困環境が子供の貧困に深く影響していることを、アメリカの著名な経済学者であり、コロンビア大学地球研究所長(The Earth Institute)のジェフリー サックス氏(Jeffrey Sachs)は、以前より多くの面から問題視しており、アメリカでは貧困の状況が世代を超えて伝染していて、この連鎖を断ち切るべきとしている。彼の論文によると、アメリカでは、離婚家庭に限らず、無職、病気はたまた投獄されている親の子供が貧しい地区に住み、教育レベルが低い学校に通うという貧困に閉じ込められたサイクルの中にいる。そしてそのような環境下で育った子は最終的に貧しい大人、すなわちスキルも無くまともな職につけないような大人になってしまうという負の連鎖が続く。このような貧困状態の子供の増加は国の経済成長をも鈍らすと警鐘を鳴らす。サックス氏が更に強調するのは、これは物質的に豊かであるアメリカで起こっていることだ。先進国日本でもこの負の連鎖は有り得ない話では無いのではなかろうか。   手遅れになる前に、子供の貧困とその連鎖を食い止めるには?その解決策もサックス氏が教えてくれる。彼が昨年発表した論文「苦しむ子供たち、苦しむ国」では子供たちに平等の機会を与える事を徹底すべく、公的資金を投資すべき、としている。日本には「子ども手当」があるが、うまく機能しているのだろうか?次回の調査で日本の子供の貧困率が下がることを期待する。   英語版エッセイはこちら   -------------------------------- <謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 --------------------------------   2013年12月3日配信
  • 2013.11.21

    エッセイ393:韓 玲姫「国境を超えて」

    歩いて2分ほどのところに国境がある。中国と朝鮮の国境線―鴨緑江である。幼いころよく川辺で洗濯をしていた母の隣で、川の向こうにいる人にまで声が届くかなあと、大きな声を出してみたり、手を振ってみたりした。また、川が凍結する冬には、川の真ん中まで歩いてみたり、氷にぽつんと空いた穴を囲んで黙々と洗濯している(中国と朝鮮の)人達の姿をわざわざ覗きにいったりしたことを、今も鮮明に覚えている。ということもあって、私にとって国境は程遠いものではなかった。いや、むしろ身近で親しいものだった。   そのような国境が私の心で変化し始めたのは、来日して韓国系の企業に就職してからだった。そもそも、子供の時に住んでいた町は朝鮮族が16%で、大半が漢民族であったこともあって、小学校の時から家と学校では朝鮮語、外では中国語と二つの言語を使い分けてきた。たまに近所の意地悪い男の子にからかわれたこともかすかに覚えてはいるが、それよりも彼らと楽しく過ごした記憶のほうが今も懐かしく思われる。当時の私にとって朝鮮族の人も、漢民族の人も一様だった。だって、私達は同じ中国の同じ場所に住んでいるのだから。私達は同じ中国語を話す中国人なんだ。私達は産みの違う母親から生まれた兄弟なんだ。という認識だったかもしれない。   一方で、中国語と朝鮮語のバイリンガルに、日本語ができるという語学能力が決め手となって、私は念願だった日本での就職を果たした。生れて初めて中国の朝鮮族として少し優越感を感じる瞬間だった。韓国にある親会社と日本支社、日本にある得意先、そして中国、海外にある取引先を連携する橋渡し役は、なかなかやりがいのあるものだった。そして、かつて地理の授業で必死に覚えていた一本一本の国境線が少しずつ心の中から薄まっていった。   しかし、ある出来事で私は自分のアイデンティティについて疑問を持つようになった。それは韓国人の駐在員と外回りの際は必ずと言っていいほど「韓国人の○○です。」と紹介してもらうことだった。「実は中国人ですが…」と喉まで出かかった言葉を飲み込み、笑顔でごまかすが、なんだかすっきりしない気分になる。自分のルーツを辿ってみると、確かに祖父の世代に朝鮮半島から中国に渡ってきたゆえに、韓国・朝鮮人の血が流れているには違いない。だが、中国で生まれた3世として、朝鮮族の学校に通ったとは言え、中国教育と漢民族の影響を多く受けながら育ってきた私には、韓国人のことをあまりにも知らなさすぎた。はっきり言って、今の韓国社会についてはまったく門外漢なのだ。来日までに私のアイデンティティは韓国・朝鮮人という認識よりも、朝鮮語が話せる中国人という意識のほうがもっと強かった。   同じようなことが繰り返され、私は次第に彼らの目に映った自分は韓国語が話せる中国人ではなく、かつて中国に住んでいた同じ民族であることに気付いた。彼らは同じ韓国人として私を受け入れてくれた。今振り返ってみると、30年も異なる世界で離れて暮らしてきた私を、快く受け入れてくれた彼らに心より感謝したい。しかし、当時の私には正直何とも言えない不思議な気分だった。そして、「私はいったい何者?」、「私のこれまでのアイデンティティはなんだったの?」と、初めて心の中に葛藤が生じた。   幼いころ、川一つ挟んでまったく違和感を覚えず暮らしてきた身近で親しい「国境」が、なぜか疎遠になったように感じた。いや、まるで小説の中の世界のように私から遠ざかっていくようだった。いつの間にか私の心の中にはひそかに国境線が引かれていたのである。とはいうものの、それが自分のルーツを考え直す契機となり、その後韓国社会について調べたり、韓国のエンターテインメントを通して韓国の文化や歴史を理解したり、かつて心の中から遠ざかっていった「国境」に少しでも近づけようとした。   その後、自分のアイデンティティとは関係なく、私は日本語教育を目指して筑波大学の博士後期課程に入った。いつからかはわからないが、名前を言っただけで「韓国人?」と聞かれる時が多くなった。昔だったら「いえ、中国人です。」ときっぱり否定したかもしれない。だって、パスポートの国籍にはっきり「中国」と書かれているのだから。しかし、今は「う~ん、宇宙人です。」と冗談交じりで返すことが多い。まあ~、中国人でも韓国人でもいいや。私はわたしだから。私は国境を超えて生きているから。このような考えはかつて国籍に縛られていた私を気楽にさせる。   今年の10月から東京で日本語講師として勤めることになった。そもそも日本での日本語講師といえば、日本語母語話者がほとんどであるようだ。そのためなのか。応募した学校の中には、模擬授業の時に「先生~わかりません」と、何度も何度も質問を投げてきた生徒役の審査員がいた。いじわるなのか、まじめなのか、教職経験を持つ私にはなかなか理解しがたい。   グローバル化が進んでいる現在において、「日本語教育は日本人が教えるもの」という固定観念を捨て切れず、未だに一本の線で分断しようとする現場の考え方に正直戸惑う時も多々ある。そのような気風があふれる現場で、冷たい風当たりを感じながら、この道を歩き続ける魅力があるのかと思うと、ちょっと虚しい気分になってしまう。しかし、いつかは国境を超えて世界でつながっていく日本語教育の可能性を信じて、願って、私は今日も、明日も一歩一歩、歩み続けたい。   --------------------------------------- <韓玲姫(カン レイキ) Lingji Han> 中国吉林出身。延辺大学日本語学部卒業後、延辺大学外国言語学及応用言語学研究科にて文学修士号取得。延辺大学の日本語講師を経て来日。日本の貿易会社で7年間勤務後、2013年3月に筑波大学で学術博士号取得。現在東京で日本語講師非常勤、中国語講師非常勤を務める。研究分野は比較文化、日本語教育、中国語教育。 ---------------------------------------     2013年11月20日配信
  • 2013.11.13

    エッセイ392:金キョンテ「あまちゃんと韓国」

    2013年はまだ終っていないが、今年最高にヒットしたドラマといったら間違いなく「あまちゃん」であろう。「あまちゃん」はNHK朝のドラマで、2013年4月1日から2013年9月28日まで全156話が放送され、毎回最高視聴率20%を上回る記録を残したという。日本の友達から「あまちゃんすごく面白いよ」といわれ、半信半疑で見てみたが、本当に面白かった!   東北地方の仮想都市、北三陸市を舞台として東京の女子高生アキが、母の春子と一緒に母の実家に行き、祖母の夏と会い、海女である彼女の影響を受けて海女になる決心をする。一方、北三陸には、東京に行ってアイドルになることを夢見ている足立ユイという同じ年の少女がいて、二人は友達になる。二人は各々地元のアイドル的な存在になって人気を集めることになる。その後、アキは東京に行きアイドルになるため努力するが、ユイは事情によって地元に残ることになる。私が見たのはここまでで、後は東日本大震災以後二人が北三陸にもどって復興のために頑張る話が描かれているという。   脚本家、宮藤官九郎特有の、漫才を彷彿させるテンポの速い台詞、本物の女子高生を連れてきたような純粋なイメージのアキ(能年玲奈)、小泉今日子、宮本信子など、ベテラン俳優の熟練した演技、1984年と現在を行き来する絶妙な演出、日本の「メインカルチャー」だけではなく、サブカルチャーの要素を巧みに盛り込んだ奇抜さ。普段ドラマをあまり見ない私だが、自分でも知らぬうちにこのドラマに夢中になり、数十編を見てしまった。(1回に15分だけだが)   私がこのドラマを好きになった理由は (たぶん、このドラマが人気になった重要な要素の一つだと思うが) このドラマがとても優しくて、暖かいというところにある。久しぶりに登場した人情味の溢れるドラマだった。最近のドラマや映画は、残酷さを強調する刺激的なものが多い。もちろん世の中は厳しい面があり、我々はそのなかで生きていかなければいけない。そのようなストーリーや表現が描かれているのも、また人間の生き方を映すのであろう。しかし、毎回そのような場面だけを見ていたらたまらない。   世の中の別の一面、暖かい世の中を見たいし、癒されたい。「あまちゃん」は、私たちに足りなかったその部分を満たしてくれたのではないだろうか。寅さん好きな私としては、本当に満足できるドラマだった。(「男はつらいよ」シリーズに、あけみ役で出演する美保純さんがドラマでは海女の美寿々さんとして出演したので嬉しかった) 最近、不倫と出生の秘密を素材にしたドラマが流行っている韓国で、このようなドラマが放映されたら逆に人気を得るのではないかと思っている。   さて、韓国では日本ドラマはあまり人気がない。地上波テレビでは放送されていないし、ケーブルテレビでは放送されてはいるが視聴率は高くない。韓国で日本ドラマはマニア層だけに人気があるといっても過言ではない。   それなのに、「あまちゃん」というドラマが最近、韓国で言及され始めた。ニュースにも登場した。しかし、「あまちゃん」が人口に膾炙しているのは、ドラマが面白いからではない。ドラマの人気に影響を受け、日本(三重県)で、海女漁を国連教育科学文化機関 (ユネスコ)の無形文化遺産に登録させようとする動きに危機感を感じたからである。   世界の中で現在、海女漁をしているところは韓国と日本だけ (これはドラマの中でも海女美寿々の台詞を通じて言及される) 。韓国では彼女たちを海女(해녀, ヘニョ)と呼ぶ。海女は韓国のほぼ全国の海辺で活動している。海辺の近くで育った私も海女さんたちがうにをとるのを見たことがある。今も実家に行けば彼女たちを見ることができる。   韓国で海女といえば、 濟州島(チェジュド)がいちばん有名で、いま活動している海女の人数も多い。濟州では海女漁のユネスコ無形文化遺産への登録を目標としていたが、日本で、「あまちゃん」ブームで海女が全国民的な注目を浴びることになり、ユネスコ無形文化遺産登録にも積極的に動きはじめたので、危機を感じたのである。単独登録になると、類似なものの登録は難しくなる。すなわち、韓国か日本のどちらかが先に登録されたら、他の国は登録できない。 一時期は共同登録を検討していたようだが、今のところは足踏みの状態らしい。   2002年ワールドカップ誘致競争を思い出したら、思い過ごしだろうか。度を超す競争はどちらかひとつの 犠牲につながる。両国が必死になる必要がある分野かどうかよく分からない。今のところで最善の「解決案」は共同登録しかないと思うが、競争が好きな人たちは「共同」を嫌がる。こうして登録の問題は政治的な問題になってしまった。   さて、考えておきたいのは、果たして我々が今まで海女に関してどのくらいの関心をもっていたのかということだ。彼女たちが採ったうにとサザエをおいしく食べながらも、それを採った彼女たちのことを考えたことがあるだろうか。日本も同じだろう。「あまちゃん」が人気を得る前に、日本の海女の生活を知っていた人は多くなかったと思う。私も彼女たちをそばで見ながらも彼女たちの暮らしについて興味を持ったことはない。しかし、このような「作られた」「急造された」興味が彼女たちの生活を潤沢にし、海女という文化的な伝統を維持できる道につながる。皮肉な現実である。 そりゃ「あまちゃん」のなかの北三陸市だって、アキとユイの地元アイドル活動で観光業を復興させたのですから。   歴史問題で相変わらず韓国と日本の間は騒々しい。海女で戦う必要があるのだろうか。海女は世界のなかで韓国と日本にしかいない。日本と韓国の普通の人々が海辺に円座して、お互いに話し合いながら、両国の海女さんが採って来る甘いうにを食べるのはどうでしょうか。あ、うにをだれが多く採るかで競争することならいいかもしれない。   -------------------------------------- <キム キョンテ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専攻。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------   2013年11月13日配信
  • 2013.10.30

    エッセイ391:フリック・ウルリッヒ「ドイツから見える日本」

    日本留学を終え9月にドイツに帰国した後、ドイツから日本がどのように見えるかについてのエッセイを依頼された。日本滞在中は、ドイツ語によるメディアに触れる機会がとても限られていたため、ドイツで日本がどのように報道されているかを知ることは難しかった。また、ドイツを離れている間に、メディアが伝える日本のイメージに変化が起きたかどうかもあまり詳しくは分からない。それゆえ、これから述べることは、あくまでも私の主観的かつ個人的な意見として受け取って頂きたい。   ドイツ人が日本をどう見るかと言えば、まず日本の「遠さ」を取り上げなくてならないだろう。ドイツ人にとって、日本はおそらく非常に遠い存在である。日本人の間では、ドイツと日本は、第二次世界大戦中に同盟関係であったという意識が今でも割と存在しているようだ。しかし、ドイツ人の間では、そのことは忘れ去られたことではないものの、当時の歴史はとても暗い歴史であるため、三国同盟などに関連する事柄をことさら取り上げることはまずない。それゆえ、日本とドイツが歴史的につながっているという意識がドイツ人の間で低いのは当然である。   もちろん、日本製の車や電化製品は、ドイツでも日常生活に欠かすことができないものになっている。そのため、日本はテクノロジーがとても発達している国というイメージが強い。1970年代、ソ連で製作された『ソラリス』というSF映画は、日本が撮影の場所になっていたことを思い出す。テクノロジーの発達や、日常生活の機械化などの面から見て、ドイツにおける日本のイメージは、もしかすると今でも少しSF的な色彩を持っているかもしれない。日本と聞いて、ドイツ人が普通に思い浮かべる風景はおそらく世界遺産として選ばれた富士山よりも、新宿や六本木のような高層ビルが乱立する場所であり、それは先に取り上げたSFのような日本のイメージをさらに強化するのである。   残念なことに、ドイツのメディアにおける日本についての報道はきわめて偏っているというしかない。日本は変わった趣味を持つ国であり、日本が登場するニュース以外、メディアが取り上げるのはあくまで日本の変わった部分である。そのようなイメージを多くのドイツ人が持っている。私自身はこのような日本の描き方に強い反感を抱いているが、この種の偏った国の描き方はおそらくお互い様だろう。例えば、数年前、日本のある航空会社が東京からミュンヘンへの直行便を始めた時に、延々と続く飲み会のイメージでドイツを売り込もうとしていた。ドイツもビールとソーセージだけではなく、複雑な文化を持っている。日本もドイツも相手が持っている一方的なイメージに対して文句は言えないだろう。文化に関心を持つ人にとっては、日本仏教の禅や石庭といったものが日本のイメージになっている。総じて言えば、日本製のテクノロジーに日常的に触れているとはいえ、日本はドイツ人にとって遠い存在であり、ドイツ人が持っているぼんやりとした日本のイメージには矛盾点が多い。   しかし、日本についてのイメージでは、最近、悲しい点が一つ増えた。それは福島の原発事故である。東京が2020年のオリンピックの会場に選ばれた際、日本はドイツから遠く、ドイツではニュースにすらならなかったのではないかと聞かれた。しかし、スポーツに情熱を傾けるドイツでは、そのようなことはあるはずがない。そして、ドイツでは東京オリンピックに関連して福島が話題になった。   まず、なぜドイツ人がそれほど福島にこだわっているかについて述べなくてはならない。鉄のカーテンの西側では、ドイツはおそらく一番直接にチェルノブイリ原発事故の影響を受けた国の一つだろう。私の子供時代までさかのぼるが、私も「雲」が通った時の屋外活動の自粛や汚染のため砂遊びが禁止されたことなどを体験した。私の世代以上のドイツ人は皆このような経験と記憶を持っている。25年以上たっているものの、今でも放射能汚染が基準を超えているため、キノコの採集や狩の獲物の消費が禁止されている場所もある。このような経験をもとに、ドイツでは強い反原発運動が形成され、それは反原発文学のような文化活動にまで発展している。その代表的な存在は後に映画化された『雲』(日本語訳で『みえない雲』)という小説である。学校で読んだ人も多く、知らない人は殆どいないと思う。ドイツ語では、『雲』ほど原発事故への恐怖を表現する言葉はおそらくないだろう。   私自身もドイツ人として当初から、日本政府及び日本人の事故への対応の甘さに強い違和感を持ち、そしてそれは今でも続いている。オリンピック会場の選出の件に限らず、日本について語る時には福島が話題にされることが多い。日本についてのニュースでは、福島についてのものが著しく多い。遠いゆえに、日本国内の事情はそれほど注目されないが、福島において新たな問題が起きた場合、ドイツのメディアはそれにきわめて敏感であり、すぐに反応する。このような現象は決してドイツに限らないと思う。福島の原発事故は日本国内のみならず、様々な意味でグローバルな問題でもある。日本政府が「日本を取り戻す」というスローガンをいくら掲げても、まず原発事故の問題を速やかに解決し、国際社会の信用を取り戻さない限り、おそらく取り戻せるものは一つもないだろう。   ------------------------------------------- <フリック・ウルリッヒ Ulrich Flick> ドイツ・ハイデルベルク大学東アジア研究センター博士課程。2001年、中国研究と日本研究を専攻としてハイデルベルク大学修士課程へ入学。北京及び東京留学を経て、2009年修士課程を卒業。同年、博士課程へ入学。2010年後期より2013前期まで早稲田大学外国人研究員。 ------------------------------------------     2013年10月30日配信